国立国語研究所設置を求める声
第二次世界大戦の敗戦とその後の占領期は、大きな転機となります。「国民生活の能率の向上と文化の進展のため,国語の合理化が必要である」という認識が強まり,国語に関する科学的総合的な研究を行う機関の設置が,強く望まれるようになりました。
まず,昭和21(1946)年9月21日の第11回国語審議会総会では「国語審議会は,国語国字問題の重要性にかんがみ,大規模の基礎的調査機関を設けて,その根本的解決をはかられんことを望む。」という建議を採択し,文部大臣に提出しました。
そして,昭和22(1947)年8月に開かれた第1回国会に「国語国字問題の研究機関設置に関する請願」(※1)が提出されました。この請願は参議院で11月26日,続いて衆議院で12月9日に採択されました。
※1「国語国字問題の研究機関設置に関する請願」の提出者に名を連ねたのは以下の人々です
- 安藤正次(「国民の国語運動連盟」世話人)
- 安倍能成(国語審議会会長)
- 古垣鉄郎(日本放送協会専務理事)
- 石井満(日本出版協会会長)
- 伊藤正徳(日本新聞協会理事長)
- 野沢隆一(日本印刷協会理事長)
国立国語研究所と山本有三
ここで強調しなければならない人に,作家で参議院議員の山本有三がいます。
山本はもともと国語への関心が強く,戦時中から国立の国語研究機関が必要であることを主張してきました。戦後間もなくの昭和20(1945)年12月には,長沼直兄・安藤正次を誘って,東京都三鷹市の自宅に私設の「三鷹国語研究所」を開くほどでした。この研究所は,程なく山本邸が占領軍に接収されたため閉鎖されましたが,山本は昭和22(1947)年には国語研究所の設置を目指して参議院議員に立候補し当選,請願提出当時の参議院文化委員長として,国立国語研究所の設立に尽力しました。
研究所設立後も,評議員を務めたり,三鷹の自宅を研究所分室に提供したりと,国立国語研究所には大変に縁の深い人です。