(前略)まず、英語がどうして世界語になったかを老えてみましょう。そしてフランス語がどうしてその位置から転落しかかっているかも。これは、それぞれの言語を使っている国の勢力の消長ということももちろん前に書いたように関係があります。けれどもそれだけでなく、英語の方は、それを母語としない人たちの、それぞれの母語によるゆがみを割りに心豊かに受け入れているのに対して、フランス語はその純一性を尊ぶ心情からそのゆがみをあまり快く受け入れない、というところにも理由があるのではないか、と最近思いはじめました。本当のところはよく知りませんが、何かこういう差があるように思うのです。事実でなければ、この第二の理由の方は撤回してもかまいません。
言うまでもなく、日本語なり英語なりを外国語として学ぶ者の最終到達目標、あるいは理想は、それを母語とする者と同じようlに操ることができるようになる、ということです。これまで否定するつもりはありません。しかし、そこまで到達できるのはそんなに多い数ではありませんし、その多くの到達できない人たちにとって、自然言語を学ぶのには労多くして、時間も少なからず損だ、と思うのです。
英語か世界語となった理由は、印欧語の中では非常に変化を受けて面倒な曲用・活用が少なくなっているところにもあると思います。覚えやすくなったわけです。いくつも世に出た人工世界語の中に「屈折なきラテン語」という名のものがあつたのを見てもこのことはわかります。この点では日本語もわたしはやさしいと思っていますから、英語とそれほどの差はないでしょう。
このように考えていくには、鈴木孝夫氏のいう English というものの考え方を援用するのがいいと思います。つまり、いわば「簡約日本語」の創出です。日本語を世界の日本語にするためには、これしか道はないのではないでしょうか。
どうして日本語を世界の日本語にする必要があるか、と言う人もいるでしょう。しかしそうなったら大変便利ではないでしょうか。たとえば、日本語を国連の公用語の一つとします。いま日本はその負担する分担金の大きさに比例しただけの国連職員を送り出していませんし、また高級職員も出していません。大きな障害は言語だと思います。国連の公用語になったら、すべての会議に日本語の同時適訳がつき、すべての公式印刷物には日本語版も出ます。いまは金さえ出せば何でも買える世の中です。エコノミック・アニマル振りを発揮して、金を出してでも、公用語の一つとして日本語を買おうという意見があります。金で買った先例は、オイルダラーを使ってのアラビア語があります。買いたければ、ドイツもドイツ語を買ったらよろしい。いままで日本が出した国連の職員や、代表が必ずしも悪いとは言いませんが、もしそうなったら、人物・識見だけで代表を選ぶことができるのです。これは日本にとって大きな国益になる、というわけです。
こういう手段で日本語を世界の日本語にすることは可能だと思いますが、このほかに、やはり多くの人に日本語を学ばせ、底辺を拡げておかなければならないと思います。ほうっておいても、経済力の伸張に伴い、日本語を学びたい人が増えてはきていますが、習ったときやさしいが上にもやさしい言語としておく必要があるでしょう。その入門の少なくとも初期の段階で学ぶのが「簡約日本語」です。言語習得の其の目的であるべきことにはそれから引きずり込めばいいのです。
「簡約日本語」は音声については簡約にすることは必要ないかと思います。もう音声は十分にやさしいからです。そしてまた、ここをあまりくずしてしまうと、日本人の日本語と相通関係がなくなってしまうかもしれないからです。これがなくては、世界の日本語を考えるメリットがなくなります。ただし、英語国民が、インド人がthをtやdと発音しても理解できる、といったような馴れの訓練をする必要があるでしょう。つまり、何国人特有のゆがみを修正しながら聞き取る、という練習です。この意味では日本人も国際化する必要はあると思います。
「簡約日本語」の文法はどうあるべきでしょうか。基本的な活用その他は日本人の日本語に対して、そう大きな変更はあるべきではないでしょう。「です・ます」体だけを教えることになりましょう。前に書いた「美しいです」はもちろん「簡約日本語」には入っています。「見れる」「見れ」も調査の結果では入れてもいいかもしれません。しかし、もっとも大きな点は敬語をどうするかです。わたしは先に、敬語がなくなれば日本語でなくなるとしました。しかしそれは日本人の日本語の場合です。わたしは、「簡約日本語」自身にも幾段階かあっていいと考えていますが、少なくとも初期の段階では、ていねい表現としての「です・ます」だけで、その他の敬語はカットして差支えないと思います。いまはたしかに、女性語や敬語がなかったりすると味気ない思いはしますが、ここに「簡約日本語」が成立すれば、それはそういうものだ、と悟るようになるに違いありません。そうでなくても外人の日本語に寛容なのが日本人です。日本語習得のために一番むずかしい部分の一つが敬語ですから、これをカットすれば大変楽になるはずです。しかし、少なくとも、実は、日本人の日本語にはこのような敬語のシステムがあるのだ、ということを知識としてだけは吹き込んでおく必要があります。でないと、彼らは、自分たちの習っている言語が、日本人の日本語と同じものだと誤解しているかもしれません。女性語も割愛ということになりましょう。
「簡約日本語」を作る上での難関は語彙にあるかと思います。普通の伝統的な並べ方、音声・語彙・文法の順をここで狂わせたのはこの理由によります。前にⅥ章で書いたように、英語のBasic Englishの語彙に対応するようなものは日本語では考えにくいのです。「簡約日本語」の場合、当然語彙についても簡約化がなければなりませんが、Ⅸ章で述べた基礎語彙のようなものが、学習目的分野別にあるべきだと思います。
ことばと文字とは別物だ、というのがわたしの立場ではありますが、そうは言っても、文字からもことばは影響を受けるものです。ですから、一つは、各段階ごとにいくつかの漢字を決めて、その漢字でできる漢語を授けることを考えてもいいでしょう。日本語では多くの文化語は漢語ですから、漢語を嫌っていたのでは、文化的なことが伝達できなくなるだけでなく、受容することもできなくなるでしょう。また、ローマ字だけで日本語教育するのでは、漢語も漢字か意味を示すという大切な役目を持っているのをみすみす放棄しながら教えることになると思います。やはり、わたしは日本語教育はローマ字だけではダメだと考えているのです。こういう点で「簡約日本語」の語彙はそれほど簡約にならないかもしれません。幾分でも簡約に、ということを考えると、どうしても上に述べた学習目的別ということが唯一の遺だろうか、と思います。
以上のような簡約日本語はいわば人工的なものです。これは、わたしがこれからの日本語は自然に任せるべきだ、と述べたことや、自然な日常の日本語の研究から日本語教育は出発すべきだ、と言ったことと矛盾するかもしれません。けれども、後者については、やはり簡約日本語を作るためには、このような基礎的な知識がなければならないでしょう。前者については、やはりそう思いますが、このような簡約日本語があれば、その影響は自然の日本人の日本語の方にも及ぶと思います。そしてその影響は自然のものだということになります。ということになれば、自然に任せる、とは言うものの、この簡約日本語の作り方によっては、何かここに人間の意志的な力を加えることができるのではないでしょうか。これは一つの夢物語であるかもしれません。(後略)
引用元:野元菊雄『日本人と日本語』pp.210‐215,筑摩書房,1978