研究の概要
「農耕/言語拡散仮説(Farming/Language Dispersal Hypothesis)」とは、農耕と言語が相伴って伝播したという仮説です。この仮説はピーター・ベルウッド(Peter Bellwood)やコリン・レンフルー(Colin Renfrew)らによって提唱されました。代表的な研究として、Renfrew(1987)やDiamond & Bellwood(2003)、そしてベルウッドとレンフルー共編の論文集(Bellwood & Renfrew 2002)があります。Bellwood(2004)のFirst Farmers: The Origins of Agricultural Societiesは佐藤洋一郎・長田俊樹両氏による日本語訳が出版されています(佐藤・長田監訳2008)。
これまで、オーストロネシア語族やインド・ヨーロッパ語族、アフリカ大陸のバントゥー諸語、北米大陸のユート・アステック語族についてはこの仮説の検証が進んでいます。一方、東アジア・太平洋地域については近年になってようやく研究がはじまりました。例えば、Hudson(1999)によるこの仮説を日本列島の民族形成に当てはめて検証した研究や、日本列島への潅漑稲作農業の広がりに関してこの仮説に言及した宮本(2009)などがあります。最近の研究では、Fiskesjö & Hsing(2011)が東・東南・南アジア地域における稲作の拡散と語族の伝播との関係について検証しています。
しかし、これらの研究は依然として初期段階にあり、人類・植物遺伝学、考古学、そして言語学の研究者の協力の下、詳細な研究が俟たれます。更に東アジアのような地域は、一つの言語地域内(たとえば日本列島内)における言語・方言の拡散と農耕技術・農作物の伝播との関係を検証するために、この「農耕/言語同時伝播仮説」が小さい範囲内でどの程度適用されるのかという問題をも提起してくれます。
また、植物遺伝学の分野では、出土遺物に対するDNA分析(DNA考古学)やプラントオパール分析などの分野横断型の手法の開発が進んでいます。しかし、そこから得られる仮説と、人類集団の移動などの人類学上あるいは言語学上の仮説とのすり合わせはまだ不十分です。
本プロジェクトは、国立国語研究所・総合地球環境学研究所を中心に、国内外の研究者を集め、日本列島およびアジア・太平洋地域における農耕と言語の伝播の相関関係を検討しようとするものです。本プロジェクトは、人間文化研究機構によって採択された3年間の「準備研究」プロジェクトです。具体的な研究活動として、最初の2年半のうちに、国内の研究者を中心とした研究会の開催、海外の研究者を交えた国際シンポジウムの開催、国際誌での論文発表を予定しています。また、言語学者・日本語学者、植物・人間遺伝子学者、考古学者、人類学者、歴史学者との共同研究として、これらの分野間の知的交流を促すことも本プロジェクトの目標のひとつです。
研究の概要
本プロジェクトは、言語学・遺伝子学・考古学・人類学・歴史学にまたがる学際的共同研究です。従来の「農耕/言語拡散仮説」に関する研究とは以下の2点で大きく異なります。
1. 未研究の語族・地域についての検証
これまでにも仮説の検証がされている南アジア・東南アジア地域(オーストロネシア語族)に加え、この仮説の観点による研究が少ない東北アジア地域(ツングース諸語、韓国/朝鮮語、日本語、アイヌ語)の研究を進めます。
2. 語族のレベルより歴史的に浅いレベルでの検証
日本語の方言間にみられる言語学的特徴と農耕関係の語彙、農耕技術・農作物等の分布に相関がみられるかどうかを検証します。たとえば、琉球語(琉球諸方言)と本土諸方言との間には、言語の違いに匹敵する違いがありますが、その一方でアクセントや語彙、その他の点では琉球語と南九州方言との間には多くの共通点がみられます。
プロジェクトリーダー
John Whitman (国立国語研究所 言語対照研究系 教授)