日本語史研究用テキストデータ集

> English 

梅暦余興春色辰巳園うめごよみよきょうしゅんしょくたつみのその

クリエイティブ・コモンズ・ライセンス

巻八

縦横切り替え ダウンロード

梅暦余興春色辰巳園 巻八

----------------------------------------------------------------------------------
凡例
1.本文の行移りは原本にしたがった。
2.頁移りは、その丁の表および裏の冒頭において、丁数・表裏を括弧書きで示した。また、挿絵の丁には$を付した。
3.仮名は現行の平仮名・片仮名を用いた。
4.仮名のうち、平仮名・片仮名の区別の困難なものは、現行の平仮名に統一した。ただし、形容詞・副詞・感動詞・終助詞・促音・撥音・長音・引用のト等に用いられる片仮名については、原表記で示した場合がある。 〔例〕安イ、モシ、「ハイそれは」ト、意気だヨ、面白くツて、死ンで、それじやア
5.漢字は現行の字体によることを原則としたが、次のものについては原表記に近似の字体を用い、区別した。「云/言」「开/其」「㒵/貌」「匕/匙」「吊/弔」「咡/囁」「哥/歌」「壳/殻」「帒/袋」「无/無」「楳/梅」「皈/帰」「艸/草」「計/斗」「弐/二」「餘/余」
6.繰り返し符号は次のように統一した。ただし、漢字1文字の繰り返しは原本の表記にしたがい、「〻」と「々」を区別して示した。
 平仮名1文字の繰り返し 〔例〕またゝく、たゞ
 片仮名1文字の繰り返し 〔例〕アヽ
 複数文字の繰り返し 〔例〕つら〳〵、ひと〴〵
7.「さ」「つ」「ツ」に付く半濁点符は「さ゜」「つ゜」「ツ゜」として示した。
8.Unicodeで表現できない文字は〓を用いた。
9.句点は原本の位置に付すことを原則としたが、文末に補った場合がある。
10.合字は〔 〕で囲んで示した。 〔例〕殊{〔こと〕}に、なに〔ごと〕、かねて〔より〕
11.傍記・振り仮名は{ }で囲んで示した。 〔例〕人生{じんせい}
12.左側の傍記・振り仮名の場合は、冒頭に#を付けた。 〔例〕めへにち{#毎日}
13.傍記・振り仮名が付く位置の紛らわしい場合、文字列の始まりに|を付けた。 〔例〕十六|歳{さい}
14.原本に会話を示す鉤括弧が付いていない場合も、これを補い示した。また庵点は〽で示した。
15.原本にある話者名は【 】で示した。 〔例〕【はる】
16.割注・角書および長音符「引」「合」は[ ]で囲んで示した。
17.不明字は■で示した。
18.原本の表記に関する注記は*で行末に記入した。 〔例〕〓{たど}りて*〓は「漂+りっとう」
19.花押は〈花押〉、印は〈印〉として示した。
20.画中文字の開始位置に〈画中〉、広告の開始位置に〈広告〉と記入した。

本文の修正
1.翻字本文を修正した場合には、修正履歴を末尾に示す。
----------------------------------------------------------------------------------


(1オ)
[梅暦余興]春色{しゆんしよく}辰巳園{たつみのその}巻の八
江戸 狂訓亭主人著
第三条
[宮園{みやその}ぶし上略]〽きいて小{こ}ひなが胸{むね}いたみ。癪{しやく}と涙{なみだ}をおししづめ不粋{ぶすい}
なこなんぢや有{ある}まいし色里{いろざと}の諸{しよ}わけをば知{し}らぬ野暮{やぼ}でもある
まいし無理{むり}言{いひ}かけて気{き}もせさせおまへの心{こゝろ}がすむかいな。口舌{くぜつ}
するのが楽{たのし}みか無理{むり}は男{をとこ}のつねなれどいひわけするは女子{をなご}
だけ。[中略]【米八】「あの子{こ}はいつでもよく情出{せいだ}してさらふよのウ。アヽ

(1ウ)
しかしむかしからして男{をとこ}といふものはむりをいふに極{きま}つて
ゐるものかしらん。」トいふは米八{よねはち}丹次郎{たんじらう}かのごぞんじの中
裏{なかうら}にさし向{むか}ひなる口舌{くぜつ}のなかば丹次郎{たんじらう}が言分{いひぶん}を聞{きゝ}
はたしたる跡{あと}と見{み}えまじめになつて米八{よねはち}が【米】「そりやア
どうもしかたがないのサ。おまへのおいひの通{とほ}りだが色{いろ}なら
色{いろ}らしくなんぼ私{わちき}のやうな見{み}る蔭{かげ}もねへものだつても
マア丹{たん}さん。」ト[くやしそうにちからをいれ]「よふく考{かんが}へて見{み}ておくれな。一番{いつち}初
手{しよて}はどうしたつけ。それからどうしてこれまでにした

(2オ)
どのくれへつらひ思{おも}ひをしたといふ〔こと〕までとつくりと考{かんげ}
へて見{み}たうへでわちきが無理{むり}か仇吉{あだきつ}さ゜んが尤{もつとも}か。」トいひかけ
しが少{すこ}し落付{おちつい}たやうす胸{むね}をさすつて【米】「トいふのもやつ
ぱり此方{こつち}が無理{むり}かへ。これほど苦労{くらう}くげんをした者{もの}に
またも此{この}心労{おもひ}をさせても向{むか}ふに勝{かち}を取{と}らせる了簡{りやうけん}に
なつた人{ひと}の心{こゝろ}だもの。事{〔こと〕}をわけていへばいふほど結句{けつく}にく
しみを掛{かけ}られたがるやうなものだ。実正{ほんとう}に私{わちき}ほどはかない
ものはまたと有{あり}はしまい。唐琴{から〔こと〕}やの宅{うち}に居{ゐ}てからいろ〳〵

(2ウ)
と苦労{くらう}して此糸{このいと}さんの情{なさけ}一ツでやう〳〵住替{すみけへ}に出{で}てから
このかた[めにいつはいなみだをうかめ]是{これ}ツぱかりもほつといふ息{いき}をついた〔こと〕も
なくいやらしいが今日{けふ}が日{ひ}まであすこ爰{こゝ}の客人{きやくじん}に地金{ぢがね}で
逢{あつ}た〔こと〕はなし。骸{からだ}一ツを此{この}人{ひと}より[丹次郎が〔こと〕なり]外{ほか}にはどんな〔こと〕が
あつても穢{きた}なくしめへと心{こゝろ}ひとつで起請{きしやう}を書{かい}て錠{ぢやう}をお
ろした胸{むね}の中{うち}が気{き}はづかしいやらくやしいやら此{この}七場所{なゝばしよ}
の唄妓衆{はおりし}も多{おほ}い中{なか}でお客{きやく}とらずに人並{ひとなみ}に端手{はで}な達引{たてひき}
その外{ほか}も藤{とう}さんといふお客{きやく}があるから出来{でき}るはづたとくる

(3オ)
しい噂{うわさ}をもし丹{たん}さんが聞{きい}たならわるく思{おも}ひはしまひかと苦
労{くらう}したのも自惚{うぬぼれ}から。その苦{く}をやう〳〵切抜{きりぬけ}てアヽうれ
しいと思{おも}へばまた此様{こん}な〔こと〕でやつぱり泣{なく}やうな〔こと〕が出来{でき}る
といふはマアどういふ因果{いんぐわ}な骸{からだ}だろう。これから思{おも}へば仇吉{あだきつ}
さ゜んはうらやましいほどはらが立{たつ}ヨ。幸{かう}さんといふ立派{りつぱ}なお
客{きやく}を取{と}つてゐても丹{たん}さんはまた別者{べつもの}にして間夫{まぶ}は唄妓{げいしや}
のうさはらしと楽{たのし}んでゐられる骸{からだ}をまた輪{わ}をかけて
かわゆがつてたのしませて遣{や}る男{をとこ}の心{こゝろ}はおいらと違{ちが}つて

(3ウ)
苦労{くらう}のねへだけ愚智{ぐち}がなくツて世帯{しよてへ}じみずにおもしろか
ろうし手{て}のある〔こと〕は客取{きやくとり}だと評判{ひやうばん}の仇吉{あだきつ}さ゜んだものを
アヽ無理{むり}はねへ〳〵。」トすこし邪見{じやけん}な振{ふり}【米】「アヽ[引]ムヽ。」ト
[ためいきをついて]「なが口上{こうじやう}でごたいくつだろう。あんまりしやべつて
口{くち}が酢{す}くなつた。」トいひながら火鉢{ひばち}の側{そば}へ行{ゆき}て鉄瓶{てつびん}の湯{ゆ}
をついでひと口{くち}のみ横{よこ}にころりと倒{たふ}れて寝{ね}る。丹次郎{たんじらう}は
始終{しじう}だんまりで米八{よねはち}がいふ〔こと〕を聞{きい}てだん〳〵と考{かんが}へ見{み}
ればそのいふ〔こと〕にひとつも無理{むり}はなし。前〻{せん〴〵}からの〔こと〕を

(4オ)
おもひいだせばまたかわいそうにもなりわが身{み}ゆゑには
つらひ思{おも}ひをいくたびとなく気{き}をもませ其{その}うへ色女{いろ}の
くらうまでさせてはいかに女房{にようばう}の米八{よねはち}でも義理{ぎり}がわるい
と心{こゝろ}の底{そこ}にかんがへれば考{かんが}へるほど不{ふ}びんになりわが身の
いたづらを改{あらた}めやうぞと心{こゝろ}を取直{とりなほ}して見{み}ても今{いま}さらに
また仇吉{あだきち}も捨{すて}られぬ義理{ぎり}もありといふて此{この}儘{まゝ}にして
置{おい}てはあゝいふ一途{いちづ}な気性{きしやう}の米八{よねはち}どんな〔こと〕をしやうも
しれずトいろ〳〵と思案{しあん}をしてゐる。同{おな}じ思{おも}ひは米八{よねはち}が

(4ウ)
いろ〳〵の〔こと〕をいふてそれなりに寝転{ねころ}んではゐれど
あまりはしたなく言過{いひすご}して丹次郎{たんじらう}が実正{ほんとう}に腹{はら}を立{たち}
はしまひか何{なん}ともいはずだんまりでばかりゐるのは合点{がつてん}
がゆかずと考{かんが}へて居{ゐ}る。凡{およそ}男女{なんによ}のなからひほど世{よ}に楽{たのし}み
なる〔こと〕はなけれどたがひに凝{こ}れば愚痴{ぐち}になり腹{はら}の立{たつ}
〔こと〕悲{かな}しい〔こと〕が絶{たえ}ぬならひの多{おほ}くして末{すゑ}とげがたきもの
なれどはじめよりして誠{ま〔こと〕}を正{たゞ}し逢{あは}ばなか〳〵浮薄{うはき}な
〔こと〕はあらずしてま〔こと〕はかはらぬ夫婦{ふうふ}の情{じやう}添{そひ}とげられぬ〔こと〕

(5オ)
やはあらん。今{いま}や浮世{うきよ}の婦女子{ふぢよし}を見{み}るに浮薄{うはき}にして誠{ま〔こと〕}なく
いたづら男{をとこ}にそゝのかされて逃{にげ}かくれするかとおもへば今日{けふ}
はたちまち心{こゝろ}かはりてその男{をとこ}を見{み}もかへらずさらばあやまちを
あらたむるかと頼{たの}もしくおもふに左{さ}にはあらずして欲{よく}に迷{まよ}ひ
情{なさけ}にひかれその日{ひ}〳〵に変{かは}りゆく不義{ふぎ}不実{ふじつ}の〔こと〕のみ也。
嗚呼{ああ}かなしいかな此{この}類{たぐ}ひは不残{みな}その親{おや}の所為{わざ}にして
及{およ}ばぬ願{ねが}ひを娘{むすめ}にも見{み}ならはすればおのづから身{み}を穢{けがす}を
恥{はぢ}とせず貞女{ていぢよ}両夫{りやうふ}にまみえずとをしえはあれどなか〳〵に

$(5ウ)

$(6オ)
多満人
梅か香や
つい
門さし


直り

(6ウ)
それはかなはぬ世{よ}の中{なか}なれば縁{えん}にまかしてかはりゆく枕{まくら}の
数{かず}は是非{ぜひ}なくとも欲{よく}にまどひて世{よ}をうらやみ錦{にしき}をまと
はんその為{ため}に心{こゝろ}をけがす〔こと〕なかれ。いつも作者{さくしや}が筆癖{ふでくせ}な
がら身{み}にはつゞれをまとふとも心{こゝろ}のいさぎよからん娘{むすめ}は
これ千金{せんきん}の美人{びじん}といふべし。かゝる異見{いけん}はさておいて彼{かの}丹次
郎{たんじらう}は風{ふ}と立{たつ}て押入{おしいれ}の戸{と}を明{あ}け抱巻{かいまき}を出{だ}して米八{よねはち}が裾{すそ}の
方{ほう}からそつとかけてやり又{また}火鉢{ひばち}の側{そば}へ行{いつ}て炭{すみ}を続{つ}ぎ燗
銅壺{かんどうこ}の蓋{ふた}をとつて見{み}てそとへ出{いで}てゆく。米八{よねはち}は始終{しじう}丹次

(7オ)
郎{たんじらう}がどういふ仕{し}うちをするかと思{おも}へば寝{ね}もやらすかんがへて
ばかりゐるところに丹次郎{たんじらう}が今{いま}|小夜着{かいまき}をかけてくれ表{おもて}の方{かた}へ
出行{いでゆき}しはどういふ心{こゝろ}かとまた案{あん}じられ取{と}つ置{おい}つ思案{しあん}を
してゐるうち丹次郎{たんじらう}は帰{かへ}つて来{く}る。つゞいて跡{あと}より酒屋{さかや}の
子僧{こぞう}【子】「ハイ持{もつ}てまゐりました。」【丹】「ヲイ〳〵すぐにもつて
来{き}たな。こいつア有{あり}がたい。其処{そこ}へおいてくんな。」トいひながら丼
鉢{どんふりばち}を火{ひ}ばちの際{きは}へもつて来{き}て玉子{たまこ}をこわして入{いれ}ておき
唐銅{からかね}の平鍋{ひらなべ}へ鉄瓶{てつびん}の湯{ゆ}をすこしいれて鰹節{かつぶし}をたんと

(7ウ)
かいて入{い}れ火{ひ}ばちへかけ陶器{せともの}の燗{かん}でうしへ今{いま}もつて来{き}た
酒{さけ}をうつし燗{かん}どうこの湯{ゆ}をかはいらしい猪口{ちょこ}で二三ばい
残{のこ}しててうしをつけ玉子{たまご}を鍋{なべ}の中{なか}へ落{おと}しそのほか小道
具{こどうぐ}をよろしくならべ【丹】「ヲイ〳〵米八{よねはち}コウ米八{よねはち}ヲヤ寝入{ねい}つた
のか。」ト[そつとゆすぶりおこし]「およね〳〵これさうたゝ寝{ね}しちやアわり
いぜ。風{かぜ}をひかアな。サア〳〵かんができすぎるヨ。起{おき}て一口{ひとくち}呑{のみ}
ねへ。いつもの玉子{たまご}のたゝつこみといふやつをちよいとやらかし
た。」[この玉子の〔こと〕をいつこく玉子ともいふ]「ヲヽ〳〵とほつた〳〵。」[かんがとほつたといふ〔こと〕なり]トいひながら

(8オ)
てうしを出{だ}して〓{はかま}の中{なか}へ入{い}れ長足{ちやうあし}の大{おほ}きな膳{ぜん}のうへに*〓ははかまの絵
いろ〳〵こまかなる瀬戸物{せともの}をならべ立{たて}る。また|小夜着{かいまき}の中{うち}
には米八{よねはち}が丹次郎{たんじらう}のしうちをつく〴〵見ればたゞかなしく
腹{はら}のたつまゝ言過{いひすぎ}て元{もと}は主人{しゆじん}でありしものもつたい
ないと気{き}がつけばさすがに今{いま}は気{き}のどくになり何{なん}と云{いつ}たら
よかろうやらと急{きう}には起{おき}もあがられず殊{〔こと〕}に丹次郎{たんじらう}が
心{こゝろ}にもわるい〔こと〕をしたと思{おも}へばこそあのやうに心{こゝろ}つかひを
してきげんを取{とつ}てくれるかとおもへばまた女気{をんなぎ}の張{はり}弱{よは}く

(8ウ)
何{なん}にもいはず泣{ない}て居{ゐ}る。【丹】「サア〳〵玉子{たまご}ももうにゑたア。
ヲイおよね。」トいひながら抱巻{かいまき}の衿{ゑり}をもつて引{ひき}おこす。
米八{よねはち}は一{いつ}へん釜{かま}でゆでたといふ顔{かほ}。まぶちははれて前髪{まへかみ}は
しだらなくさがるのをきれいな細{ほそ}い手{て}でちよいと上{うへ}へなでゝ
抱巻{かいまき}を取{とつ}て引{ひつ}かけしだらのない帯{おび}を取{とつ}てほうり出{だ}し
細帯{ほそおび}の儘{まゝ}かいまきを羽{は}をつてすはる。【丹】「おめへ今朝{けさ}の
儘{まんま}の着類{きもの}だろう。しはになるぜ。ちよいと着替{きかへ}ればいゝ。」【米】「
ナニよいヨ。」トいひながらわるがみを出{だ}して涙{なみだ}をふく。【丹】「なんだ

(9オ)
まだそんな顔{かほ}をしてゐるのか。モウいゝじやアねへか。」[米八ははなをつまらせてなみだ
ごへ]【米】「丹{たん}さんはゞかりながらやうじ箱{ばこ}を取{とつ}ておくれな。」
【丹】「ハイ〳〵。」ト取{とつ}て出{だ}す。【米】「ハイはゞかり。」ト取{と}つてずつと
立{たつ}て椽側{ゑんがは}へやうじをつかひに出{で}る。丹次郎{たんじらう}は最前{さいぜん}のてうし
の酒{さけ}を丼{どんぶり}へあけてあとをよく洗{あら}ひまた酒{さけ}をいれて
どうこへ入{い}れる。[下戸{げこ}のしらざるこのしまつさくしやもとより餅{もち}ぐみなり。なんとこゝろをもちゆるにあらずや]この時{とき}
米八{よねはち}はやうじをつかつてしまつて火{ひ}ばちの際{きは}へすはる。
【丹】「サア〳〵てうどいゝ。前{せん}のがとほりすぎたからまた今{いま}燗{かん}を

(9ウ)
かけた。」トいひながらどうこよりいだす。米八{よねはち}はにつこり
として【米】「こりやアもうごちそうだねへ。」【丹】「イヱもう
何{なに}もございません。」トわらひながらいふ。【米】「サアひとつたべ
やう。」トてうしをとる。
これより酒事{さゝ〔ごと〕}の中{うち}もすべていやみなせりふ
あり。ずいぶんともに行{ゆき}わたりたる米八{よねはち}なれどさすが
女{をんな}の情{じやう}なればとけてもつれて思{おも}ひ出{だ}すりんきの言葉{〔こと〕ば}は
くどけれど此{この}道{みち}の|好女好男{いろたち}はかならず推{すい}し給ふならん。

(10オ)
第四条
【丹】「ドレおれがついでやろう。」【米】「なアによいヨ。またおまへに
ついでもらつて呑{の}むところを仇吉{あだきつ}さんが見{み}てどなりこま
れでもするとあたり近所{きんじよ}へ外聞{ぐわいぶん}がわりい。」【丹】「これさ米八{よねはち}
おめへがそういふとついまたおれも請{うけ}こたへをしねへじやア
ならなくならアな。そうすりやア今{いま}のやうに向{むか}ふへ勝{かち}を
とらせるのなんのと心{こゝろ}にもねへ〔こと〕までおめへにいはれるしか
先刻{さつき}のやうにおれがつよい〔こと〕をいつたのは心にはねへ〔こと〕だ

(10ウ)
けれどおれが方{ほう}でつよくでもいはねへといつまでもはて
しがつかねへからだアな。おれもわりいとおもへばこそおめへに
羽折{はをり}をはがれて泥水{ぬかるみ}へいれられて蹴{け}たり踏{ふん}だりされ
て見{み}れば羽織{はおり}はをしくはねへけれどまんざら外聞{くわいぶん}がよろ
しくはねへはな。それでも手{て}めへが腹{はら}を立{たつ}たは無理{むり}で
ねへとおれが心{こゝろ}で気{き}の毒{どく}だと思{おも}へばくだらねへ〔こと〕でもし
て手{て}めへの機嫌{きけん}を直{なほ}させやうとおもつて居{ゐ}るのにまだ
そんな〔こと〕ばかりいつて其様{そう}おめへおれをこまらせたと

(11オ)
いつてどうも仕{し}かたが有{ある}めへじやアねへか。それともにおれ
の方{ほう}から気{き}のどくなら身{み}を引{ひ}けといはぬばかりでいじ
めるのか。」【米】「何{なに}おまへをいぢめるものか。それだけの罪{つみ}がある
からおまへもいはれるのだろうじやアないかへ。」ト猪口{ちよく}の
酒{さけ}をのみほして下{した}に置{おき}「そしてまた詮方{しやう}がないとお言{いひ}
だが仇吉{あだきつ}さ゜んと切{き}れてせへしまひなさりやア何{なに}もいさくさ
はねへわけだアネ。」【丹】「サアそれだからいろ〳〵とおれも男{をとこ}が
手{て}を付{つい}てあやまらねへばかりにしてゐるじやアねへかナ。

(11ウ)
わが身{み}ながら考{かんが}へるとあんまり働{はたら}きがねへよのう。男{をとこ}らし
くもねへ。壱人前{いちにんめへ}の野郎{やらう}ならたとへ女房{にようぼう}があろうが何{なに}が
あろうが妾{めかけ}てかけはあたりめへ色{いろ}は幾人{いくたり}したとつても此方{こつち}
のはたらきしでへ。それにひきかへおいらなんざア久{ひさ}しい跡{あと}
からしておめへの厄界{やつかい}何{なに}ひとつしおいた〔こと〕もなく斯{かう}して
世話{せわ}になつてゐてどのつらさげて斯{かう}いふ〔こと〕になつたかと思{おも}ふ
と実正{ほんとう}におれが心{こゝろ}にあいそがつきていつその〔こと〕に何{なに}も訳{わけ}
はねへおれひとり坊主{ばうす}にでもなつてしまやア双方{さうはう}静{しづか}に

(12オ)
納{をさま}りも付{つく}しもつとも左様{さう}いふとおかしいがお長{てう}もおれじやア
ずいぶん苦労{くらう}しねへでもなしあいつの前{まへ}へもわけてよしまた
一ツには先立{さきだゝ}しつた唐琴{から〔こと〕}やの義理{ぎり}ある両親{りやうしん}へ第一番{だいゝちばん}の言訳{いひわけ}
だからおれ一人{ひとり}この世{よ}を捨{すて}てしめへさへすりやアいさくさはいら
ねへといふものだ。只{たゞ}一途{いちづ}にきれてしまへばいゝといふけれど
おめへもおれじやアいろ〳〵と苦労{くらう}くげんしてくれて色{いろ}の
達入{たてい}れ情{なさけ}の出入{でいり}引{ひか}ぬこゝろのおめへだから何{なに}もかも呑{のみ}こんで
ゐるだろうから切{き}れるきれぬのいりわけも承知{しやうち}のうへの

$(12ウ)

$(13オ)
春水門人
春雅
うくひすの
ないて
口舌も

うつ


(13ウ)
難題{なんだい}を立{たて}る日{ひ}になりやア今{いま}のとほりよ。それより外{ほか}に
智恵{ちゑ}のねへ一疋前{いつぴきめへ}無{ねへ}おいらだからいひわけのしやうは
ねへ。」トおもひつめたる丹次郎{たんじらう}が顔{かほ}じつと見{み}つめて米八{よねはち}は
眼{め}にもつ涙{なみだ}はら〳〵〳〵鼻紙{はながみ}で顔{かほ}をふいて【米】「丹{たん}さん
堪忍{かんにん}しておくれよ。それじやアなるほど私{わちき}があくまで
わるいのサ。何{なに}もおまへに難題{なんだい}をいつてこまらせるのいじ
めるのとそういふわけじやアあるまいじやアないかへ。
かういつたつてもおまへもまたそれほどまでに私{わちき}の前{めへ}へ

(14オ)
気{き}の毒{どく}だと思{おも}つてくれる心{こゝろ}ならたとへ気{き}やすめにも
おまへの口{くち}からおれがわるかつた切{き}れてしまふから案{あんじ}る
なとたつた一口{ひとくち}言{いつ}てきかしてくれるがいゝじやアないかへ。
たとへそうおいひだつて私{わちき}の方{ほう}でもそれをまたさき
ぐりもしはしまひじやアないかへ。もつとも私{わちき}も羽折{はおり}を
あんなにしたのはわるくもあつたろうしおまへに外
聞{ぐわいぶん}もかゝせたろうがそれはもう〳〵あくまでも私{わたい}の
わるい〔こと〕にもしろ私{わちき}とおまへが対{さし}でゐる処{とこ}へ踏{ふみ}こんで

(14ウ)
来{き}たればこそこんなそう〴〵しいわけになつたろうじ
やアないかへ。斯{かう}いふとわるいけれど私{わちき}とおまへと対{さし}でゐる
かげを見てもはらの立{たつ}のを我慢{がまん}してかげでおまへに
恨{うら}みをいへばといつてそこが色{いろ}のかなしさにはすこしは
引{ひけ}を取{と}る〔こと〕が有{あ}るので義理{ぎり}といはふじやアないかへ。
そのかはりにはおまへに亦{また}一{いつ}ぺいかはいがられる達入{たてい}れじやア
あるまいか。私{わちき}と仇吉{あだきつ}さ゜んとあつち此方{こつち}ならおまへもそん
なに愚智{ぐち}をいつてわたいにこまらせるやうな〔こと〕もいひ

(15オ)
なはるめへ。そうよきれてしまふといつて恋{こひ}の諸訳{しよわけ}も
達入{たてい}れも。もちやくちやにしてそう〳〵に切{きれ}てしまつて
女房{にようばう}の仇吉{あだきつ}さ゜んに心{こゝろ}の中{うち}を休{やす}めさしておやりだろう
が何{なに}をいふにも私{わちき}がやうなぐうたらな行{いき}とゞかねへものだ
からしかたがないはネ。また私{わちき}の方{ほう}が色{いろ}ならば初手{てんき}に色{いろ}と
名{な}も付{つき}もしまひ。マアともかくも丹{たん}さんだん〳〵私{わちき}がわる
かつたどうぞ堪忍{かんにん}しておくれよ。そりやアもう私{わちき}もあゝ
言出{いひだ}して千代元{ちよもと}の[仇吉と出合{であひ}しりやうり屋の〔こと〕ゝしるべし]|家内{うち}まで騒{さはが}して

(15ウ)
見ればこの儘{まゝ}じみ〳〵と消{きえ}てしまふやうには土地{とち}がら
だけにならないからネ。丹{たん}さんどうぞ斯{かう}しておくれな。これ
からは私{わたい}もモウすこしも気障{きざ}はいふめへからどうぞこの
近所{きんじよ}の宅{うち}や又{また}こゝの宅{うち}へ呼{よん}だり今{いま}まで行{いつ}た内{うち}へ行{いく}
〔こと〕はよしておくれな。|諸方{ほう〴〵}へ顔出{かほだ}しもならねへと思{おも}ふ程{ほど}
残念{ざんねん}だから。トいつておまへだつても私{わちき}がこんなにしたから
切{き}れたといはれちやアなるほど男{をとこ}も立{たつ}まいからまるで
きれておくれとはいはないよ。また私{わちき}も是{これ}ほど苦労{くらう}して

(16オ)
いゝやうにされるといはれるも悔{くや}しいからどうぞ丹{たん}さん聞{きゝ}
わけてこの〔こと〕ばかりは承知{せうち}しておくれな。おもひやりのねへ
やうによしておしまひとはいはないかはりに急度{きつと}そうし
ておくれよ。私{わちき}もまた願{ぐわん}がけをしてももうこの〔こと〕をいふ
まいから。しかしおまへばかりひたすら頼{たの}んだといてはたに
しやくりては多{おほ}し仇吉{あだきつ}さ゜んが承知{しやうち}しねへ〔こと〕はおまへの
心{こゝろ}にも詮方{しかた}も有{ある}まいけれどハテそこがおまへのかはいがる
人{ひと}の〔こと〕だからどうでもなろうじやアないかへ。聞{きゝ}わけてさへ

(16ウ)
おくれなら今夜{こんや}にもおまへが仇吉{あだきつ}さ゜んに逢{あひ}にいつて
よく〳〵〔こと〕をわけて私{わちき}の頼{たの}みを言{いつ}て聞{きか}して。」ト[いひかけてなみだごゑ。
なみだをふいてうるみしこゑのおもいれあり]「そしてせつかくこしらへて着{き}せてお遣{や}りの
羽折{はをり}をばあんなにした言訳{いひわけ}をよふくいつてあやまつて
おくれな。それで承知{しやうち}してさへおくれなら今{いま}のとほりしかし
またてひじよヲごひをするのじやアないが増吉{ますきつ}さ゜んの宅{うち}や
千代元{ちよもと}へちよつとでも行{いつ}ておくれだトついまたわたしも
だまつてゐられなくなるといつて何{なに}も私{わちき}がさはいだぐらゐ

(17オ)
仇吉{あだきつ}さ゜んやおまへにやアこはい〔こと〕もおかしい〔こと〕もあるまい
けれどそこが私{わたい}のおたのみだから私{わちき}のやうなものでも今{いま}
までの好身{よしみ}に顔{かほ}を立{たて}さしておくれな。ヱモシ丹{たん}さん
お願{ねが}ひだヨ。」ト和合{やはら}に出{で}たる利発{りはつ}の米八{よねはち}丹次郎{たんじらう}がいふ
べき〔こと〕も右{みぎ}をいつて左{ひだ}りへ釘{くぎ}もぐつと一本{いつほん}抜差{ぬきさし}なら
ぬ当座{たうざ}の理詰{りづめ}に丹次郎{たんじらう}はあげ足{あし}のとりばもなく心{こゝろ}の
中{うち}では仇吉{あだきち}もにくゝはなけれどまた米八{よねはち}が言{いひ}まはしを
聞{きい}て見{み}ればなぜこんなに利口{りこう}に生{うま}れてうつくしい中{うち}に

(17ウ)
よはみがあつてまたあるまじき女{をんな}なりと心{こゝろ}のうちでは
賞{ほめ}てゐれどわざと手{て}がるく【丹】「なにもそんなにきゝ
わけるのきゝわけめへのあやまるのといふわけもあるめへ
じやアねへか。いゝやアな米八{よねはち}案{あん}じる〔こと〕はねへ。手{て}めへの気{き}の
すむやうに近{ちか}いうちにやアおれがするからなんにもいふ
〔こと〕はねへ案{あん}じなさんな。マアだまつて見てゐねへ。気{き}の
やすまるやうにしてやるよ。」【米】「アイ。」トいつたばかり酒{さけ}を呑{のん}で
ゐるこゝろの中{うち}ではしかし丹次郎{たんじらう}があんまりさば〳〵と

(18オ)
したあいさつゆゑどういふこゝろであゝいふか延津賀{のぶつが}が
いひし事{〔こと〕}もぎつくり胸{むね}にあたつて見{み}ればどつちへ
も団扇{うちは}はあがらずおもひも付{つ}かねへところへ団扇{うちは}があ
がる〔こと〕もあらんといひし〔こと〕今{いま}さらおもへばお長{てう}といふ
こぶもありもしまたひよつと外{ほか}にもあやしい〔こと〕でも
あるやそれならばあのやうにいひもせずいはれもせぬにと
いろ〳〵にさきぐりをしてとつおいつあんじて見{み}ればなか
〳〵に油断{ゆだん}のならぬ〔こと〕ぞかし。まづともかくも和{やは}らかに

(18ウ)
機嫌{きげん}をなほしておだやかに何{なに}くはぬ顔{かほ}に日{ひ}をすごし
そのうちひそかに気{き}をつけて見{み}るにしかずと心{こゝろ}ひとつ
に請{うけ}こたへやう〳〵思案{しあん}を定{さだ}めても兎{と}に角{かく}涙{なみだ}はとゞま
らず気{き}より病{やまひ}のさし起{おこ}る癪{しやく}をおさへてゐたりける。
白砂{しろたへ}の妹{いも}が衣{ころも}に梅{うめ}の花{はな}
いろをも香{か}をもわきぞかねつる
[梅暦余興]春色辰巳園巻の八終


----------------------------------------------------------------------------------
底本:国立国語研究所蔵本(W99/Ta81、1001142221)
翻字担当者:矢澤由紀、洪晟準、島田遼、藤本灯
更新履歴:
2017年3月28日公開

ページのトップへ戻る