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梅暦余興春色辰巳園うめごよみよきょうしゅんしょくたつみのその

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巻五

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梅暦余興春色辰巳園 巻五

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凡例
1.本文の行移りは原本にしたがった。
2.頁移りは、その丁の表および裏の冒頭において、丁数・表裏を括弧書きで示した。また、挿絵の丁には$を付した。
3.仮名は現行の平仮名・片仮名を用いた。
4.仮名のうち、平仮名・片仮名の区別の困難なものは、現行の平仮名に統一した。ただし、形容詞・副詞・感動詞・終助詞・促音・撥音・長音・引用のト等に用いられる片仮名については、原表記で示した場合がある。 〔例〕安イ、モシ、「ハイそれは」ト、意気だヨ、面白くツて、死ンで、それじやア
5.漢字は現行の字体によることを原則としたが、次のものについては原表記に近似の字体を用い、区別した。「云/言」「开/其」「㒵/貌」「匕/匙」「吊/弔」「咡/囁」「哥/歌」「壳/殻」「帒/袋」「无/無」「楳/梅」「皈/帰」「艸/草」「計/斗」「弐/二」「餘/余」
6.繰り返し符号は次のように統一した。ただし、漢字1文字の繰り返しは原本の表記にしたがい、「〻」と「々」を区別して示した。
 平仮名1文字の繰り返し 〔例〕またゝく、たゞ
 片仮名1文字の繰り返し 〔例〕アヽ
 複数文字の繰り返し 〔例〕つら〳〵、ひと〴〵
7.「さ」「つ」「ツ」に付く半濁点符は「さ゜」「つ゜」「ツ゜」として示した。
8.Unicodeで表現できない文字は〓を用いた。
9.句点は原本の位置に付すことを原則としたが、文末に補った場合がある。
10.合字は〔 〕で囲んで示した。 〔例〕殊{〔こと〕}に、なに〔ごと〕、かねて〔より〕
11.傍記・振り仮名は{ }で囲んで示した。 〔例〕人生{じんせい}
12.左側の傍記・振り仮名の場合は、冒頭に#を付けた。 〔例〕めへにち{#毎日}
13.傍記・振り仮名が付く位置の紛らわしい場合、文字列の始まりに|を付けた。 〔例〕十六|歳{さい}
14.原本に会話を示す鉤括弧が付いていない場合も、これを補い示した。また庵点は〽で示した。
15.原本にある話者名は【 】で示した。 〔例〕【はる】
16.割注・角書および長音符「引」「合」は[ ]で囲んで示した。
17.不明字は■で示した。
18.原本の表記に関する注記は*で行末に記入した。 〔例〕〓{たど}りて*〓は「漂+りっとう」
19.花押は〈花押〉、印は〈印〉として示した。
20.画中文字の開始位置に〈画中〉、広告の開始位置に〈広告〉と記入した。

本文の修正
1.翻字本文を修正した場合には、修正履歴を末尾に示す。
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$(1オ)
[天保四巳年九月九日]奉納[清元延津賀 為永喜久 同津奈]
奉納[桜川善孝 同由次郎 歌川国直]
やゝ春の霞の色のとりもちは
百度参りの文のかよひ路
[二月初午]大願成就[梅よし内仲]
[天保五午年二月初午]柾稲荷大明神[肴丁玉よし]

(1ウ)
[梅暦{うめごよみ}餘興{よきやう}]春色{しゆんしよく}辰巳園{たつみのその}巻の五
江戸 狂訓亭主人著
第八回
同{おな}じ唄女{げいしや}の果{はて}なれど歳{とし}増吉{ますきち}が程{ほど}もよく過{すぎ}にし世事{せじ}の
噂{うわさ}さへさぞ取廻{とりまは}しも他{ひと}よりは増{まさ}りし〔こと〕に有{あり}つらんと思{おも}ひ
やられてゆかしけれ。折{をり}からお増{ます}が表{おもて}の格子{こうし}しづかにあけて
一人{ひとり}の男{をとこ}【男】「ハイ御免{ごめん}なさいまし。お増{ます}さんのお宅{やど}は此宅{こちら}でござ
いますかへ。」【増】「アイどなただへ。」ト中{なか}じきりをあける。【男】「ハイわたくしは

(2オ)
寺町{てらまち}の者{もん}でございますが昨晩{さくばん}このお手紙{てがみ}をたのまれまし
たがあまりおそくなりましたゆゑお届{とゞ}け申ましなんだ。今
日{こんち}もまた急{きう}な用{よう}にたのまれましたゆゑ大{おほ}きにおそなはり
ました。」ト[ふみをさしいだす]【増】「アイ。」トとつて。「ハイおほきに
御苦労{ごくらう}でございました。チツトお待{まち}。」ト仇吉{あだきち}に渡{わた}す。仇吉{あだきち}は
取{とつ}て完爾{につこり}うれしそうに笑{わら}ひ|這入口{はいりくち}へ向{むか}ひ【仇】「アノおまへ急{きう}
な用{よう}にたのまれたとはやつぱり此{この}人{ひと}にかへ。」【男】「イヽヱナニ外{ほか}さまで
ございます。」【仇】「ウムよし〳〵。」ト安堵{あんど}の様子{やうす}。これも何{なに}か米

(2ウ)
八{よねはち}が用{よう}かと思{おも}ひ気{き}にかゝりて頼{たの}みし用{よう}まで聞{きゝ}しこの
くらゐ気{き}にかけてもらひなば男{をとこ}のたましいはうか〳〵となりて
何事{なに〔ごと〕}も手{て}に付{つか}ぬ〔こと〕なるべし。彼{かの}男{をとこ}は外{ほか}の手紙{てがみ}二三本{にさんぼん}撰{えり}
わけながら【男】「さやうならよろしうございますかネ。お返事{へんじ}で
も届{とゞ}けますのではございませんか。」[増吉はかんざしでつむりをかきながらかほをしかめ]【増】「ナアニ
これはたしかに請取{うけとつ}たといつておくんなせへ。アヽそして使代{つかひだい}はヱ。」
[これ素人{しろうと}は気{き}のつかぬところかゝるばしよがらとすいしたまへ]【男】「イヽヱモウおもらひ申ました。ハイ左様{さやう}
なら。」【増】「アイ。」○仇吉{あだきち}は上{うへ}にぐる〳〵とくるみし文{ふみ}を取{とつ}て増吉{ますきち}へ

(3オ)
渡{わた}す。【増】「ヲヤごてへねへなこつた。かはいらしい手{て}だのう。」トよみかゝる。
仇吉{あだきち}はかきのけて【仇】「増{ます}さんマアそれよりか此文{こつち}からさきへよもふ。」
【増】「ナニおいらの処{とこ}へ来{き}たのだから私{わたい}はこれをよむは。」【仇】「アレサマア。」
【増】「イヤもう手{て}めへ勝手{かつて}な子{こ}だぞ。左様{さやう}ならおめへの方{ほう}へ来{き}た
文{ふみ}からさきへ拝見{はいけん}か。」ト一所{いつしよ}に寄添{よりそひ}仇吉{あだきち}が持{もち}し文{ふみ}をさし覗{のぞ}く。
【仇】「なんだか気{き}になる様{やう}なじれつてへやうだ。」トいひながらあけてよむ。

(3ウ)
舌代
ついちよつとやうす
きく間も
なつかしききのふけふ
こんな
ゑにしがからにもとやぼな
たとへもぐちといふよはみに
ひかされ

(4オ)
気ざをしようちのあくひつ
文だん御ゆるし
あれかし
【仇】「ちよつとマア見{み}な。どうしたんだろう。」ト[につこりとわらひうれしきおもいれ]【増】「
ヲヽ〳〵眼{め}も何{なに}もかまはなくなつたの。日頂{につてう}さまよりありがた
からう。」ト背中{せなか}をちよいトつめる。【仇】「アいたい。」ト[わらひながら又よみかゝる]
御目もじより
ふたひはたてど

(4ウ)
【仇】「ヲヤどうしたんだの。今朝{けさ}の文{ふみ}は。」トすこしかんがへる。【増】「ヱ
待{まち}なヨ。ウム斯{かう}だ〳〵。此方{こつち}から頼{たの}んで遣{や}つた文{ふみ}は今朝{けさ}
こりやア此方{こつち}の文{ふみ}の行{いか}ねへ中{うち}に出{で}た文{ふみ}で早{はや}くだろうヨ。
ゆふべおそくなつたからかけ違{ちが}つたんだ。」【仇】「ムヽ〳〵そうだろふの。
マア後{あと}をよんで見{み}やう。」「ヱヽトおんめもじより二日{ふたひ}はたてど
もはやじがねをあらはし
てか
なんのたよりもおとづれも
なふ

(5オ)
きのふじやうしんじへ
参{まゐ}り候へども
かげだにみせぬ
こゝろなさ
日{につ}てうさまへ日さんも
やまの神{かみ}へは
極内{ごくない}〳〵をしらぬ顔{かほ}か
しつてかしらぬか

$(5ウ)
花{はな}の枝{えだ}
手{た}をれば袖{そで}に
春{はる}の雨{あめ}
[アサクサ]
宮戸川
鉄女

$(6オ)

(6ウ)
そうしたものじやア
あるめへ。かしく。
よふじ より上。
トよみて二|三度{さんど}くりかへしまだよみたらぬ心{こゝろ}なり。【仇】「ヲヤ
〳〵ゑんぎのわりいノウ。」【増】「ナゼゑんぎがわりい。」【仇】「それだつ*「それだつ」(ママ)

(7オ)
めで度{たく}も書{かき}もしねへで。」【増】「何{なに}また男{をとこ}がそんな〔こと〕を書{かく}もん{#物}
かな。しかしのろけるも無理{むり}もねへのう。」【仇】「アヽもう何{なん}だかじれツ
てへ。」【増】「それだがどうも真実{ほんとう}に惚{ほれ}てもにくゝねへ■{ひと}よの。一{ひとつ}と*「■」は「人」の欠損か
して抜目{ぬけめ}のねへ若{わか}い人{ひと}にやアめづらしいヨ。ヲヤそりやアそう
とくらくなつたの。もう二人{ふたり}ながら帰{けへ}りそうなもんだ。ちよいト
マア付{つけ}やう。」トあんどうをいだす。【増】「仇{あだ}さんおめ■はまぼしか*「■」は「へ」の欠損か
ろう。少{すこ}し斯{かう}いふあんばいに置{おか}ふの。」【仇】「アヽナニそんなじやア
ないヨ。今日{けふ}はよつぽど能{よい}ヨ。いつも日{ひ}のくれる時分{じぶん}になると

(7ウ)
しきりに痛{いた}くなるがけふはそんなでねへからもふよかろうヨ。」
【増】「そうかそんならいゝがあんまり呑過{のみすぎ}てわるくなるとお
めへの母御{おつかア}が。あんなに。頼{たの}んで行{いつ}たから案{あん}じてゐるだろうと
思{おも}つてヨ。そしてお茶漬{ちやづけ}にしようじやアねへか。おめへもあん
まりお飯{まんま}をたべねへでゐるからわりいヨ。」【仇】「アヽたべやうヨ。何{なに}お
まんまはうまいはネ。気色{あんばい}のわりいのでないから毎時{いつでも}たんと
食{たべ}るけれど酒{さけ}を呑{のむ}とどうもいやだヨ。それでもういつでも
母人{おつかア}と喧嘩{けんくわ}をするは。」【増】「どんな者{もの}でも酒{さけ}を呑{のん}ではいやな

(8オ)
もんだヨ。その方{はう}が多{おほ}いヨ。」トいふうち表{おもて}の障子{しやうじ}を明{あけ}入来{いりく}
るものは仇吉{あだきち}が母{はゝ}【母】「ハイ御免{ごめん}なさい。増吉{ますきつ}さ゜ん今日{こんち}やア。一
日{いちんち}お世話{せわ}さまでございました。母御{おつか}さんは。」トいひながらあがる。
【増】「ヲヤ仇{あだ}さん母御{おつかア}が来{き}なすつたヨ。」トいひ亦{また}仇吉{あだきち}の母{はゝ}に向{むか}ひ
【増】「母御{おつかア}おまへお帰{かへ}りな。此方{こつち}からいゝ時分{じぶん}にやア送{おく}らして
あげるはねへ。今日{けふ}は大{おほ}きにいゝそうでネ今{いま}まで此所{こゝ}でちつ
とづゝ|酒盛{やつて}あすんでゐましたヨ。」ト多葉粉{たばこ}を吸付{すいつけ}て出{だ}す。
【仇】「おまへ母人{おつかア}迎{むけ}へに来{き}たのか。」【母】「アヽちよつと帰{けへ}んな。」【仇】「ナゼ。」

(8ウ)
「なぜといつてあんまり朝{あさ}から日{ひ}のくれるまで増{ます}さん処{とこ}でも
てへ〳〵お世話{せわ}さまだアな。そしてのちよいと帰{けへ}つてくんな。」ト
何{なに}か用{よう}ありそうにいふ。【増】「母人{おつか}さん私{わたい}の処{とこ}じやア昼夜{ちうや}お出{いで}
でもかまやアしないヨ。マアお心{こゝろ}づけへなしにもう少〻{ちつと}あそばして
お置{おき}な。」【仇】「いつでもおまへ此方{こつち}へ来{き}て遊{あそ}んでゐるから今日{けふ}に
限{かぎ}つた事{こつ}ちやアないのに。」【母】「ナニそりやアいゝがの帰{けへ}らなくツちやア
ならねへ〔こと〕が出来{でき}たからヨ又{また}来{く}るがいゝはな。ネヱお増{ます}さん。」【増】「
さやう。そんなら仇{あだ}さん行{いつ}て来{き}なゝ。母御{おつかア}があんなにいふから。

(9オ)
そしての。」ト仇吉{あだきち}が耳{みゝ}に口{くち}を寄{よ}せ何{なに}かひそ〳〵とさゝやきて
【増】「ヨヨそうしなナ。」【仇】「そうさのうそんなら帰{かへ}ろうか。」【増】「
いまそしてお夜食{やしよく}にしようと思{おも}つて居{ゐ}た処{ところ}さ。」【母】「そう
かへそれはモウ。そして母御{おつか}さんは何処{どこ}へ。」【増】「ナニ先刻{さアつき}じやうせん
寺{じ}へ行{いき}ましたがまだ帰{けへ}つて来{き}ませんはネ。」トいふ折{をり}から増
吉{ますきち}が母親{はゝおや}は奴{やつこ}と[小ぢよくのことなり]二人{ふたり}帰{かへ}つて来{く}る。【増の母】「ヲヽ〳〵大{おほ}きに
おそくなつた〳〵。」ト|家内{うち}へ|這入{はい}る。【増】「ま〔こと〕におそくなつた
ねへ。何処{どこ}へ寄{よ}つて居{ゐ}たんだ。そして奴{やつこ}は一同{いつしよ}に行{いつ}たのか。」

(9ウ)
【奴小】「ナニ一処{いつしよ}にいきやアしませんが今{いま}其所{そこ}て逢{あつ}たから一処{いつしよ}
に帰{けへ}つて来{き}ました。今日{けふ}はもう大勢{おほぜい}で〳〵もう〳〵
待{まつ}て〳〵ま〔こと〕に〳〵。」【増】「もういゝ〳〵やかましい子{こ}だヨ。」
【仇の母】「おつかアおけへんなすつたネ。今日{けふ}はもう|早朝{あさつ}からあの子{こ}
がお世話{せわ}さまに。」【増の母】「ヲヤよくお出{いで}なすつた。今朝{けさ}お出なすつた
そうだがおめにかゝらなんだツけねへ。それでも仇{あだ}さんも
大{おほ}きに今日{けふ}はいゝそうでございますヨ。」【仇の母】「さやうでござい
ますそうで大{おほ}きに有{あり}がたふございます。奴{やつこ}さん稽古{けいこ}か。よく

(10オ)
情{せい}をおだしだの。」【小】「ハイ。」【増】「私{わたい}の処{とこ}の奴{やつこ}は人{ひと}さんが来{き}な
すつてもしらねへ顔{かほ}をしてゐてどうもならねへヨ。」【仇の母】「
ナアニみんなそうでございますヨ。サア行{いこ}ふの。」【仇】「アヽ。」トだん
まりやう〳〵に立{たつ}て【仇】「それじやア増{ます}さん今{いま}の〔こと〕を急度{きつと}
だヨ。」【増】「ムヽ承知{しようち}〳〵。」【増の母】「ヲヤなぜお帰{けへ}りだ。」【仇の母】「有{あり}がたふすこし
又{また}宅{うち}に。」【増の母】「そうかへそれじやア又{また}お出{いで}ヨ。」【増】「仇{あ}の字{じ}そんならそふ
するヨ。」【くれ六ツのかね】「ゴウン〳〵。
第九回

(10ウ)
敵{てき}にして強{こは}くなければ味方{みかた}に頼{し}て頼母{たのも}しからず。此方{こつち}が
惚{ほれ}れば佗{ひと}も惚{ほれ}てさてじれツたき恋{こひ}の癖{くせ}。そも米八{よねはち}は日〻{ひゞ}
夜〻{やゝ}に繁昌{はんじやう}いはん方{かた}もなく全盛{ぜんせい}な程{ほど}気苦労{きぐらう}は絶{たえ}ぬ
浮世{うきよ}の義理{ぎり}はりに茶屋{ちやや}船宿{ふなやど}はいふに及{およ}ばず何{なに}やら角{か}
やらの附{つけ}とゞけ仕掛文庫{しかけぶんこ}も四季{とき〳〵}に心{こゝろ}にかゝる伊達衣裳{だていしやう}
はじめから用心{ようじん}して後日{こんど}の時{とき}には此{この}色{いろ}を斯{かう}直{なほ}したら又{また}
一晴{ひとはれ}これは小紋{こもん}を斯{かう}置{おい}てと胸工{むなだく}みしてかゝつても思{おも}ひの
外{ほか}の油{あぶら}じみ酒{さけ}のよごれに光{つや}なしも光{ひか}る旦那{だんな}をこゝろ当{あて}

(11オ)
それもはづれてまごつくは素人{しろと}の知{し}らぬ表向{おもてむき}びつくりする
ほど立派{りつぱ}にして押出{おしだ}す初手{しよて}のとり掛{かゝ}り金{かね}も貸{かそ}ふし
身儘{みまゝ}にもなるとさばけた談合{だんかふ}をうまくはまりし親馬鹿{おやばか}
の二枚証文{にまいしようもん}両方{りやうほう}とも役{やく}にたてるは主{しゆう}ばかり雑用出衆{ざふようでいしゆ}で居{ゐ}
てさへも忽{たちま}ちつもる借金{しやくきん}の山{やま}びらきにでもなつたらばまた一
盛{ひとさか}りよかろうかと思{おも}ふやからも有{ある}なるべし。そも突出{つきだ}したら
能{いゝ}鳥{とり}が直{ぢき}に掛{かゝ}つて嬉{うれ}しやと思{おも}へば引色{ひきいろ}くわせ者{もの}茶屋{ちやや}
船宿{ふなやど}も当座{とうざ}の利徳{はな}に化{ばか}された風{ふり}で宿{やど}なしをも取持{とりもつ}

(11ウ)
当時{たうじ}の不人情{ふにんじやう}見{み}るにつけ聞{き}くにつけいやな〔こと〕ゝは思{おも}へども馴{なれ}
てはさすが捨{すて}られぬ男{をとこ}の為{ため}の浮苦労{うきくらう}それがこうじて此頃{このごろ}は
胸{むね}の痞{つかへ}や癪{しやく}といふ禁句{きんく}の類{たぐ}ひはいとはねどさし込{こむ}他{ひと}のしや
くりをば口{くち}で気{け}なして心{こゝろ}ではもしやと思{おも}ふ女気{をんなぎ}のあるがならひを
ましてまた仇吉{あだきち}といふ増花{ますはな}のありと知{し}つてもはしたなく
いはれぬ株{かぶ}になりおほせ今{いま}ではどうか我{われ}と我{わが}心{こゝろ}をしかるたし
なみにいとゞ思{おも}ひのます鏡{かゞみ}いつにかはつてめづらしく寄場{よせば}に
一人{ひとり}手枕{たまくら}の耳{みゝ}に聞{きこ}ゆる清元{きよもと}のけいこもおのが身{み}にぞしむ恋{こひ}の

(12オ)
安名{やすな}が物狂{ものぐる}ひ。○深山桜{みやまざくら}
○上略
〽アレあれをいまみやのらいさんおふが筆{ふで}すさみ土人
形{つちにんぎやう}のいろ娘{むすめ}〽たかねのはなやをる〔こと〕も泣{ない}た顔{かほ}せず
はら立{たて}ず〽りんきもせねばおとなしふアラうつゝなの
妹背中{いもせなか}[合]ぬしはわすれてござんせう。しかも去
年{きよねん}の桜時{さくらどき}植{うゑ}て初日{しよにち}の初会{しよくわい}から逢{あふ}ての後{のち}は一日{いちにち}
もたより聞{きか}ねば気{き}もすまずうつら〳〵と夜{よ}をあかし

(12ウ)
〽ひる寝{ね}ぬほどに思{おも}ひつめたまにあふ夜{よ}のうれし
さに[合]さゝ〔ごと〕やめてかたる夜{よ}はいつもよりもツイ明{あけ}やすく[下略]
【米】「アヽなんだかふさいで来{き}た。恥{はづ}かしいと思{おも}つてもツイ妬心{ぢんすけ}を
する気{き}になるが。」ト独言{ひとり〔ごと〕}いふうしろの方{かた}いつの間{ま}にやら新子{しんこ}の
お房{ふさ}ちいさな声{こゑ}で【ふさ】「米八{よねはつ}さ゜ん。」【米】「アヽびつくりした。房{ふさ}さん
か。ヲヤおめへもうちつと先刻{さつき}小池{こいけ}へ出{で}て行{いつ}たじやアねへか。」【ふさ】「アヽ
直{ぢき}に帰{か■}つたヨ。」【米】「ナゼどうしたんだ。」【ふさ】「ナニお客{きやく}じやアないものを。」
ト涙{なみだ}ぐむ。【米】「ムヽ此間{こないだ}はなしたわけの人かへ。」【ふさ】「アヽ。」【米】「それでも

(13オ)
マアよくたづねて来{き}たのう。しかしおめへは歳{とし}のいかねへ了簡{れうけん}
からかはいゝと思{おも}つて見{み}たり他人{はた}がいろ〳〵わるく言{いつ}たりしや
くつたりすると否{いや}にもなつたりしてもまた恋{した}ふ気{き}になるの
も定{さだ}まりはないやうだけれどだん〳〵此間{こないだ}中{うち}のはなしでは
欲{よく}で今{いま}まで一処{いつしよ}になつて居{ゐ}たわけでもなしはじめを言{いへ}ば
信切{しんせつ}にかわいがられたうれしさにツイ深{ふか}くなつたといふわけ
じやアないかへ。尤{もつとも}おめへも是{これ}までは他{ひと}のそしりも親{おや}たちの
気{き}がねも長{なが}く辛防{しんぼう}してゐたから向{むか}ふも義理{ぎり}のわりい

(13ウ)
仕打{しうち}が此方{こつち}に有{あつ}たとてひどく憎{にく}みもしめへけれど他{ひと}は
兎角{とかく}に其{その}元{もと}をわすれてしまふといけないヨ。私{わたい}なんぞも
此方{こつち}へ来{き}て他並{ひとなみ}に。といつてはうぬぼれだがどうやら斯{かう}やら
こうして居{ゐ}れば世話{せわ}をしようの色{いろ}になれのといふ人{ひと}が有{ある}
けれど其所{そこ}を押切{おしきる}義理{ぎり}と意地{いぢ}とう〳〵我儘{がまん}を仕遂{しとげ}
たら今{いま}じやアそれと札{ふだ}が付{つい}て勤{つと}めよくなつたから案{あん}じる
わけのものじやアないヨ。おめへなんぞは親{おや}たちが此方{こつち}へ出{で}れば
能{いゝ}旦那{だんな}が五人{ごにん}も三人{さんにん}も直{ぢき}に出来{でき}て親兄弟{おやきやうだい}もそのおかけて

(14オ)
浮{うか}みあがるつもりでよこしもしたろうけれどそりやア
なるほど素人{しろうと}の娘{むすめ}で居{ゐ}るとはわけも違{ちが}つて盛{さか}りの時{とき}は
十{じう}や二十の金{かね}はなんのといふやうになるのも土地{とち}がら玉{たま}の
輿{こし}にのるのはいくらもあるけれど恩{おん}をわすれて出世{しゆつせ}して
死{し}ぬまで繁昌{はんじやう}する人は芸者{げいしや}にかぎらず女郎衆{ぢようろじゆ}でも又{また}
素人{しろうと}でもありはしないヨ。今{いま}新地{しんち}へ行{いつ}て居{ゐ}る欲次{よくじ}さんを見{み}
な。おめへは知{し}るめへがまへ方{かた}は此方{こつち}へ出{で}て居{ゐ}てばり〳〵といは
せたそうだが大{たい}そういゝ人に請出{うけだ}されて仕合{しあは}せな人{ひと}だと

$(14ウ)
米八

$(15オ)
おふさ
この娘{むすめ}おふさが〔こと〕は永代談語{ゑいだいだんご}と
いふ梅{うめ}ごよみの拾遺{しうゐ}にしるす
初{はつ}はなのさかぬ
まへより春{はる}の雨{あめ}
ふさ女

(15ウ)
其{その}時分{じぶん}婦多川中{ふたがはぢう}がうらやましがつたそうだけれどあの
子{こ}の親{おや}が欲次{よくじ}さんのまだからツきりいけねへ時{とき}から世話{せわ}をし
た人{ひと}を突出{つきだ}してそれから此方{こつち}へ出{だ}したそうだがそのばちか
して一たんは立身{りつしん}しても忽{たちま}ちに他{ひと}の思{おも}ひでだん〳〵に歳{とし}を
とるほどつまらなくなつてまたしかたなくしん地{ち}へ出{で}て昔{むかし}の
蔭{かげ}のねへばかりかわりい病気{びやうき}も有{ある}やうな噂{うわさ}を聞{きい}たがモウ〳〵〳〵
凡{およそ}女{をんな}は罪{つみ}深{ふか}いといふうちにも女郎{ぢようろ}唄妓{げいしや}の身{み}のうへほど冥
利{みやうり}のわりいものはないヨ。といつて活業{しやうばい}づくだからうそも手{て}

(16オ)
くだもない日{ひ}には座敷{ざしき}もお客{きやく}もないわけだから是非{ぜひ}啌{うそ}も
つき義理{ぎり}もかく仕{し}うちも時〻{とき〴〵}あるけれど長{なが}い間{あいだ}世話{せわ}になつ
たり久{ひさ}しく思{おも}ひおもはれた人{ひと}を慾{よく}ゆゑ突出{つきだ}してふり向{むい}て
見{み}るもいやだといふやうにせへしねへければ始終{しじう}出世{しゆつせ}も出来{でき}る
もんだと異見{いけん}を言{いつ}てくれた人{ひと}が有{あつ}たツけ。それからだん〳〵
気{き}をつけて永{なが}い目{め}で見{み}て居{ゐ}るとま〔こと〕にそれに違{ちが}ひないヨ。
おめへなんぞも来{き}た日{ひ}から私{わたい}を便{たよ}りにしなさるからおよばずな
がら此{この}やうな異見{いけん}もへだてぬ心{こゝろ}からかならず腹{はら}をおたちで

(16ウ)
ないヨ。そして何{なん}と云{いつ}てお帰{かへ}しだ。」【ふさ】「ナニまた四五日の中{うち}に来{く}
ると言て元気{げんき}のねへ顔{かほ}をして直{ぢき}に帰{かへ}るからマアお出{いで}なと
いつたらナニ永居{ながゐ}をすると猶{なほ}もの思{おも}ひだ。あんまり何角{なにか}を気
兼{きがね}をして煩{わづら}ふなヨト云{いつ}た切{きり}帰{かへ}つて行{いき}ましたは。」トすこし
ふさぐ。【米】「そうか今度{こんど}来{き}たらおいらに知{し}らせな。おめへの義理{ぎり}
も立{たち}先{さき}の人{ひと}の胸{むね}も落着{おちつく}やうに談{だん}じてやる〔こと〕が有{ある}ヨ。」ト生{うま}
れ付{つい}たる米八{よねはち}が芸妓{げいしや}にまれな信切{しんせつ}もの歳下{としした}なればお房{ふさ}
をも妹{いもと}と思{おも}ひ遠慮{ゑんりよ}なく異見{いけん}の風情{ふぜい}頼母{たのも}しけれ。[このお房{ふさ}といふ新子{しんこ}の

(17オ)
伝{でん}は永代談語{ゑいたいだんご}といふ中本六冊|近日{きんじつ}出板{しゆつはん}いたし候。辰巳{たつみ}の園{その}の拾遺{しふゐ}也]折{をり}から帰{かへ}る政吉{まさきち}が浮{うい}た調子{てうし}の咳{せき}
ばらひ【政】「ヱヘンムヽ。」【米】「政{ま}の字{じ}かふさがつて居{ゐ}るヨ。」【政】「ヲヤ〳〵こゝも
差合{さし}かふけへきな。」【ふさ】「政吉{まさきつ}さ゜んお帰{かへ}りか。」【政】「ヲイ〳〵おいらの
娘{むすめ}か。よくおとなしく待{まつ}て居{ゐ}たの。ドレ〳〵お土産{みや}をやろうの。」
ト笑{わら}ひながら鼻紙{はながみ}へ書{かい}たドヾ一{どゞいつ}をお房{ふさ}に見{み}せる。【ふさ】「ヲヤ〳〵有
難{ありがた}ふ。」ト明{あけ}てよむ。
〽なまじ。ていよく|離別{わかれ}ただけに日柄{ひがら}立{たつ}ほどおもひ出{だ}す。
【ふさ】「ヲヤ〳〵沢山{たんと}書{かい}て有{ある}ねへ。後{あと}で楽{たの}しみによまふや。」【米】「ヲイ〳〵

(17ウ)
政{ま}の字{じ}〳〵今{いま}帰{けへ}つて来{き}た人相{にんさう}を当{あて}て見{み}せやうか。」
【政】「ムヽ〳〵当{あて}て見{み}な〳〵。すつかり当{あた}るとおごるぜ。」【米】「ドレ。」
ト起{おき}あがり【米】「知{し}れた〳〵。びつくりしなさんなヨ。ヱヽトまづ
色{いろ}でなし通例{ひととほり}でなし少{すこ}し不足{ふそく}はあるがまんざらでなし
と。」ト云{いひ}ながら政吉{まさきち}の顔{かほ}を見{み}る。【政】「はやくいひなゝ。」【米】「アレサせはし
ねへ。左様{そう}人相{にんさう}がわかるものかな。」トにつこり笑{わら}ひ【米】「コウ連{つれ}から
先{さき}へいふぜ。栄蔵{ゑいざう}さんト[これおぎ江栄蔵なり]八蔵{はちざう}さんだろう。」[この八蔵といふは滝亭鯉丈なり]*「鯉丈」は部分欠損
【政】「ヱ。」トびつくり。【米】「どうだ一番{いちばん}ギツクリだろう。コウ噂{うわさ}で

(18オ)
聞{きい}たが源{げん}さんは男{をとこ}ぶりから見{み}ると万事{ばんじ}の行渡{いきわた}りは百{ひやく}
だんも能{いゝ}ぜ。欲{よく}じやアねへが大事{でへじ}にしな。しかし如才{ぢよせへ}も有{ある}めへ。」
【政】「どうして知{し}つて居{ゐ}る。」【米】「ヘンそりやアはゞかりながら米
八{よねはつ}さ゜んだヨ。」トいふ時{とき}しも表{おもて}のかた呼流{よびなが}し行{ゆく}占者{うらないしや}【占】「当卦{とうけ}
本卦{ほんけ}のうらなひ失物{うせもの}待人{まちびと}願望{ねがひのぞみ}男女{なんによ}一代{いちだい}の吉凶{きつけう}。」【米】「ヲヤ
おいらもあれに出{で}やうか。」【政】「ちげへねへ。丹次郎{たんじらう}といふ色
情{しきじやう}を慎{つゝし}むべしか。」【三人】「ハヽヽヽヽヽ。」*「{しきじやう}」の「う」は部分欠損
[梅暦餘興]春色辰巳園巻の五終


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底本:国立国語研究所蔵本(W99/Ta81、1001142239)
翻字担当者:島田遼、洪晟準、矢澤由紀、藤本灯
更新履歴:
2017年3月28日公開

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