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梅暦余興春色辰巳園うめごよみよきょうしゅんしょくたつみのその

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巻二

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梅暦余興春色辰巳園 巻二

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凡例
1.本文の行移りは原本にしたがった。
2.頁移りは、その丁の表および裏の冒頭において、丁数・表裏を括弧書きで示した。また、挿絵の丁には$を付した。
3.仮名は現行の平仮名・片仮名を用いた。
4.仮名のうち、平仮名・片仮名の区別の困難なものは、現行の平仮名に統一した。ただし、形容詞・副詞・感動詞・終助詞・促音・撥音・長音・引用のト等に用いられる片仮名については、原表記で示した場合がある。 〔例〕安イ、モシ、「ハイそれは」ト、意気だヨ、面白くツて、死ンで、それじやア
5.漢字は現行の字体によることを原則としたが、次のものについては原表記に近似の字体を用い、区別した。「云/言」「开/其」「㒵/貌」「匕/匙」「吊/弔」「咡/囁」「哥/歌」「壳/殻」「帒/袋」「无/無」「楳/梅」「皈/帰」「艸/草」「計/斗」「弐/二」「餘/余」
6.繰り返し符号は次のように統一した。ただし、漢字1文字の繰り返しは原本の表記にしたがい、「〻」と「々」を区別して示した。
 平仮名1文字の繰り返し 〔例〕またゝく、たゞ
 片仮名1文字の繰り返し 〔例〕アヽ
 複数文字の繰り返し 〔例〕つら〳〵、ひと〴〵
7.「さ」「つ」「ツ」に付く半濁点符は「さ゜」「つ゜」「ツ゜」として示した。
8.Unicodeで表現できない文字は〓を用いた。
9.句点は原本の位置に付すことを原則としたが、文末に補った場合がある。
10.合字は〔 〕で囲んで示した。 〔例〕殊{〔こと〕}に、なに〔ごと〕、かねて〔より〕
11.傍記・振り仮名は{ }で囲んで示した。 〔例〕人生{じんせい}
12.左側の傍記・振り仮名の場合は、冒頭に#を付けた。 〔例〕めへにち{#毎日}
13.傍記・振り仮名が付く位置の紛らわしい場合、文字列の始まりに|を付けた。 〔例〕十六|歳{さい}
14.原本に会話を示す鉤括弧が付いていない場合も、これを補い示した。また庵点は〽で示した。
15.原本にある話者名は【 】で示した。 〔例〕【はる】
16.割注・角書および長音符「引」「合」は[ ]で囲んで示した。
17.不明字は■で示した。
18.原本の表記に関する注記は*で行末に記入した。 〔例〕〓{たど}りて*〓は「漂+りっとう」
19.花押は〈花押〉、印は〈印〉として示した。
20.画中文字の開始位置に〈画中〉、広告の開始位置に〈広告〉と記入した。

本文の修正
1.翻字本文を修正した場合には、修正履歴を末尾に示す。
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(1オ)
[梅暦{うめごよみ}餘興{よきやう}]春色{しゆんしよく}辰巳園{たつみのその}巻之二
江戸 狂訓亭主人著
第三回
[京風{かみがた}うた]〽みつの車{くるま}にのりの道{みち}夕顔{ゆふがほ}の宿{やど}の破車{やれぐるま}あらはづかしや
我{わが}姿{すがた}梓{あづさ}の弓{ゆみ}のうらはづにあらはれ出{いて}し俤{おもかげ}はむかしわすれぬ
とりなりをアレあれを見よ蝶{てふ}は菜種{なたね}。なたねは蝶{てふ}のつがひ離{はなれ}ぬ
妹背{いもせ}の中{なか}を見{み}るに嫉{ねた}まし亦{また}うらやましわれは磯辺{いそべ}の友{とも}なし
千鳥{ちどり}。」【仇吉】「ヲヤありやア何所{どこ}だの。いゝ声{こゑ}だヨ。」【増吉】「ありやア

(1ウ)
裏{うら}の家{うち}へ逗留{とうりう}に来{き}てゐる娘{むすめ}だヨ。そりやアそうとおめへ
二階{にかい}へ行{いか}ねへかナ。」【仇】「アヽ。」ト立{たち}かゝりて何{なに}か増吉{ますきち}が耳{みゝ}にさゝ
やく。【増】「ウヽしようち〳〵。さふか米八{よねはつ}さ゜んのかそうか。おいらア
はじめて見たヨ。いゝ男{をとこ}だの。」ト仇吉{あだきち}が背中{せなか}を一ツたゝく。【仇】「いゝヨ
たんと遊{あす}びなヨ。そりやアいゝがそのわけだからの。」【増】「いゝよ今{いま}
におつかアが帰{けへ}るとおめへの宅{うち}までそういつてやるからいゝやア
な。早{はや}く二かいへ行{いき}ねへヨ。」【仇】「おたのみだヨ。」トいひながら二かいへ
上{あが}り【仇】「丹{たん}さん。」【丹】「なんだ。」【仇】「ナゼマアそんなにふさいでゐるの

(2オ)
だへ。」ト側{そば}へすはり摺寄{すりよつ}て丹次郎{たんじらう}が手{て}をとらへ【仇】「外{ほか}じやア
ないがネおまへにそう言{いつ}て置{おか}なくつちやアならねへ〔こと〕が有{ある}
から悪止{わるどめ}をしたんだアネ。毎度{いつでも}そんなに無理{むり}やアいはなひ
はネ。」【丹】「それだからこゝの宅{うち}へ来{き}たからいゝじやアねへか。それ
がわりいと云{いつ}たか。」【仇】「わりいといやアしねへが気{き}のすまねへ顔{かほ}
をしてゐるからサ。」【丹】「よくいろ〳〵な〔こと〕をいふぜ。そしてマア
何{なに}をいふ〔こと〕があるのだ。」【仇】「なアに外{ほか}のこつちやアないがネ私{わたい}が
日{ひ}ごろいふ〔こと〕だがそれに亦{また}おまへも聞{きい}て知{し}つてお出{いで}だ

(2ウ)
ろうが〔こと〕によれば米八{よねはつ}さ゜んには勝{かた}れめへけれど少{すこ}しは意気
地{いきち}らしい〔こと〕もいはなければならねへ〔こと〕が有からそれをお
まへに極{きめ}ておいて私{わたい}がなんぼ離{はな}れねへ心{こゝろ}で達入{たていれ}を云{いつ}た所{ところ}が
おまへの了簡{りやうけん}がおぼつかねへと私{わたい}はモウ死{し}んでも生{いき}てもゐら
れねへほど外聞{げへぶん}のわりい身のうへになるからどうぞ丹{たん}さん
私{わたい}のやうなはかないもんでもわりいものにみこまれたとあき
らめてはなれる心{こゝろ}になつておくれでないヨ。ヱ。ヱ。丹{たん}さん。」ト男{をとこ}
の顔{かほ}を見{み}て泪{なみだ}をホロリと膝{ひざ}のうへ思{おも}ひこんではなか〳〵に案{あん}じ

(3オ)
過{すご}して胸{むね}せまる女心{をんなごゝろ}ぞ哀{あは}れなり。【丹】「なんだそれをそんなに
たいそうらしくいふのか。死{し}ぬの生{いき}るのといふほどな〔こと〕もある
めへ。」【仇】「ヲヤそれじやア丹{たん}さん私{わたい}がこんなに気{き}をもむのをお
まへは当座{たうざ}のなぐさみで今{いま}にも風{かぜ}のもやうによつて直{ぢき}にも
わかれる了簡{りやうけん}かへ。」【丹】「ナニそうじやアねへがあんまりおめへが気{き}
をもむからヨ。」【仇】「いつそ気{き}をもんで死{しに}でもしたらよかろうと
思{おも}ふヨ。」【丹】「なんのつまらねへ。そりやアいゝがおらアこゝの宅{うち}は知{し}ら
ねへ内{うち}だがこうしてゐてもいゝか。」【仇】「よくなくツておまへをこゝへ

(3ウ)
いれるものかネ。おまへは知{し}らねへはづサ。今{いま}じやアモウ只{たゞ}の宅{うち}だ
ものを。お案{あん}じでないヨ。おまへの逢{あつ}てわりい人{ひと}は来{き}やアしな
いヨ。それよりか今{いま}のわけだから急度{きつと}こゝろを定{さだ}めておくれヨ。」
【丹】「そんなにおれを極{きめ}たといつておめへの身{み}をかんげへて見ねへ。
あんまり極{き}め過{すぎ}たらこまるだろうぜ。」【仇】「ヲヤなぜへ。おかしい〔こと〕
をお言{いひ}だねへ。」【丹】「なぜといつて先達{さきたつ}てあらまし聞{きい}たおめへの
身{み}のうへ。たとへどういふわけにしてもおれが一生{いつしやう}女房{にようばう}に持{もた}ふ
なんぞといふ〔こと〕はならねへ義理{ぎり}と知{し}りながらついした〔こと〕から

(4オ)
日{ひ}にまして実{じつ}を尽{つく}してくれるから自由{じゆう}になるなら米八{よねはち}が
外{ほか}に浮薄{うわき}な〔こと〕でもあつたらそれを節{ふし}にと思{おも}つて見{み}たり
亦{また}おめへの身{み}をかんがへればなか〳〵そうしたわけにもなら
ずよしやおめへはそうしてもさせてはすまぬ浮世{うきよ}のならひ儘{まゝ}に
ならぬといふうちにもはじめからして今日{けふ}か翌日{あした}切{き}れて
しまふといふ〔こと〕がたがひに知{し}れた二人{ふたり}が中{なか}とは神〻{かみ〴〵}さんも
お知{し}りなさるめへと宅{うち}で壱人{ひとり}で思{おも}ひ出{だ}して泣{ない}て居{ゐ}る時{とき}がある
よ。」ト聞{きい}てしばらく仇吉{あだきち}はものさへいはずしやくり上{あげ}さしこむ

$(4ウ)

$(5オ)

(5ウ)
癪{しやく}に歯{は}を喰{くひ}しばりこらへかねたる女{をんな}の情{じやう}思{おも}はずむせるなみだ
ごゑ。【仇】「私{わたい}がいはふと思{おも}ふ〔こと〕をおまへに今{いま}さらいはれてはいふ
もおかしいわけだけれど正直{しやうじき}私{わたい}も時〻{とき〴〵}は思案{しあん}にあぐむ
おもひすごし今{いま}は斯{かう}して中{なか}よくしても始終{しじう}そはれる訳{わけ}
にもならずどうぞすべよく別{わか}れたら此{この}もの思{おも}ひはあるまい
かとおもつて見{み}たりいや〳〵〳〵どうでうつくしく別{わか}れる
といふは出来{でき}ないわたしが胸{むね}腹{はら}でも立{たつ}て別{わか}れたらいつ
そあきらめにもならふかと思{おも}ふ矢{や}さきへ似{に}た人{ひと}の声{こゑ}がして

(6オ)
さへ思{おも}ひ出{だ}す心{こゝろ}がたへねへ今日{けふ}このごろ。兄弟分{けうだいぶん}とか親分{おやぶん}
とかなつたところがなほの〔こと〕じれつたからうと来年{らいねん}の〔こと〕
か今年{〔こと〕し}か知{し}らないが今{いま}ツから後{のち}の〔こと〕までかんがへるとし
み〴〵死{しに}たくなるけれどよくもわるくもおつかアに育{そだて}ら
れたる恩{おん}はあり手{て}まへ勝手{がつて}をしたならばおまへのためにも
わるからうしとほんに何{なに}かをかんがへるとかなしくつてなら
ないヨ。」ト取{とり}すがりたる仇吉{あだきち}が実意{じつい}を聞{き}けば丹次郎{たんじらう}も有{ある}
にあられぬもの思{おも}ひ心{こゝろ}のそこには米八{よねはち}もまたなか〳〵に

(6ウ)
捨{すて}られずと途方{とはう}にくれし男泣{をとこなき}しばらく二人{ふたり}はさし
うつむき溜息{ためいき}をつくばかりなり。折{をり}から下{した}より増吉{ますきち}が
登{のぼ}る階子{はしご}の中段{ちうだん}にて【増】「仇{あだ}さんサア煮花{にばな}が出来{でき}たヨ。」ト
いひながらしづかに上{あが}り二人{ふたり}を見{み}て「ヲヤどうしたんだへ。其
様{そんな}にふさいでからに両方{りやうはう}がだんまりかへ。」ト[いひなから丹次郎にむかひ]「モシヱ
初{はつ}にお目{め}にかゝつてまだおなじみもねへわたいがぶしつけ
らしいわけだけれど仇吉{あだきつ}さ゜んも一方{ひとかた}ならねへ苦労{くらう}な様
子{やうす}くはしくわけはしらないけれどおまへも米八{よねはつ}さ゜んといふ

(7オ)
ものが有{ある}と知{し}りつゝ斯{かう}いふわけになつて見{み}れば仇{あだ}さんはいふ
におよばずたれしも覚{おぼえ}のある〔こと〕だがほんに命{いのち}も捨{すて}る気{き}
になるのが意地{いぢ}づく色{いろ}の道{みち}。たま〳〵斯{かう}して逢{あふ}時{とき}には恨{うら}み
つらみは余所{よそ}にしてたがひに嬉{うれ}しい顔{かほ}をしてたのしむが
いゝじやアねへかへ。そりやア前後{あとさき}いろ〳〵とかんがへだてをして
見{み}たり取越苦労{とつこしぐらう}をする日{ひ}には気色{きしよく}をわるくするばかりで
ま〔こと〕につまらねへわけだはね。斯{かう}いふわたしも今{いま}までに小
春{こはる}紙治{かみぢ}のお綱{つな}じやアねへが面白{おもしろ}い〔こと〕はでな〔こと〕わけのあり

(7ウ)
たけ。」気{き}をもんでも縁{ゑん}といふ字{じ}の出来{でき}不出来{ふでき}て望{のぞみ}の*「たけ。」の閉括弧は原本ママ
通{とほ}りになりはしないがせめて結{むす}んで居{ゐ}る中{うち}はその日{ひ}を和合{なかよく}
くらすのが第一{だいゝち}の〔こと〕だと思{おも}ふヨ。余{あんま}り何角{なにか}を案{あん}じすごして
気{き}をいためるはそんだはネ。ヲヤ心{こゝろ}なくお邪广{じやま}をした。仇{あだ}さん
チツト浮{うき}ねへな。そんなにふたりが涙{なみた}ぐんでふさいで居{ゐ}たとて
はじまらねへヨ。いゝころお客{きやく}の機嫌{きげん}を取{とる}につらいくやしい
目{め}をするも蔭{かげ}で完爾{につこり}する〔こと〕が有{ある}のでつゞく唄妓{げいしや}の命{いのち}
気{き}をはつきりと持{もち}ねへヨ。」トさすがその身{み}も苦労人{くらうにん}色{いろ}の

(8オ)
諸分{しよわけ}をくみわけて異見{いけん}も手{て}がるく口軽{くちがる}にいひつゝ下{おり}て
行{ゆく}増吉{ますきち}。跡{あと}には二人{ふたり}が顔{かほ}見合{みあは}せ【仇】「ま〔こと〕に増吉{ますきつ}さ゜んは嬉{うれ}
しいヨ。」【丹】「ほんに信切{しんせつ}な人{ひと}だのう。イヤそれはそうとおらア
斯{かう}しちやアゐられねへ。」ト立{たつ}を引{ひき}とめ仇吉{あだきち}は【仇】「アレサ丹{たん}
さんマアお待{まち}な。そんなにうろたへて帰{かへ}らずといゝはネ。まだ
はなしがあるからもうちつとお出{いで}ヨ。」【丹】「それでも宅{うち}へ客{きやく}を
待{また}しておいたからヨ。」【仇】「うそをおつきな。何{なに}お客{きやく}が有{ある}ものか。
米八{よねはつ}さ゜んが待{まつ}ばかりだヨ。」【丹】「なんのめづらしくもねへ。米八{よねはち}に

(8ウ)
かまふものか。」【仇】「ムヽウさましてたんとおあがりな。」【丹】「コウおめへも
素人{しろうと}じみた。よしねへな。その甚介{ぢんすけ}は此方{こつち}もあるがそこは
我慢{がまん}でおいらアいはねへ。」【仇】「ヲヤ私{わたい}はいはれるおぼえはない
よ。有{ある}ならおいひサア聞{きか}ふ。何{なに}を私{わたい}がやきもちをやかれるやう
な仕{し}うちをしたへ。」【丹】「また直{ぢき}にじれこむヨ。かんしやくをおこ
すと身{み}の毒{どく}だア。」【仇】「そのかんしやくもだがわざだへ。かわいそふ
だとお思{おも}ひな。」【丹】「おもふどころかこの頃{ごろ}は夢{ゆめ}もおめへの事{〔こと〕}
ばかりだ。」【仇】「アレサちやかしておくれでない。他{ひと}の気{き}も知{し}らねへで

(9オ)
ま〔こと〕に憎{にく}いヨ。」【丹】「にくいばかりは地金{ぢかね}だろう。」ト[いへばたちまち気{け}しきをかへしがみ
ついて身をふるはし]【仇】「丹{たん}さんそりやアあんまりだヨ。外{ほか}に男{をとこ}もねへ様{やう}
に他人{ひと}に笑{わら}はれそしられてもまた米八{よねはつ}さ゜んににくまれ
てもおまへ一人{ひとり}に情{なさけ}をかけてもらへばすむとあきらめて
今{いま}まで他{ひと}には上手{じやうず}もつかはずいつこく者{もの}でとほしたのが
世間{せけん}を兼{かね}る気{き}になつてなんだかかたみがせまいやうにこれ
ほどつくす私{わたい}が実{じつ}がおまへには知{し}れないのかへ。ヱヽくやしい。」ト
喰{くひ}つく。【丹】「アイタヽヽヽヽヽこれさ〳〵堪忍{かんにん}しねへナ。おへねへ気違{きちげへ}だア。」

(9ウ)
【仇】「アヽ私{わたい}は気違{きちが}ひサ。いやがるものを無理{むり}やりに色{いろ}にすると
いふ了簡{りやうけん}はマアほん気{き}なさたじやアないのさ。サア乱心{きちがひ}を直{なほ}し
ておくれサア〳〵。」ト[丹次郎をこづきまはす]【丹】「もう〳〵おれがわるい。堪
忍{かんにん}しな。」ト[わらふ]【仇】「ナニおかしいものか。それよりやア今{いま}の〔こと〕を急
度{きつと}だヨ。」【丹】「きつとでなくツてサ。急度{きつと}でなかアどうする。」【仇】「ヱ。どう
するへ。斯{かう}するは。」【丹】「ヱヽあぶねへかんざして目を突{つく}はな。」ト[いふをりしも増吉が声{こゑ}にて]
「仇{あだ}さん母人{おつかア}をおめへの宅{うち}へやつたからゆつくりと遊{あそ}びなよ。」
[二かいにてはすこし間{あいだ}をおいてあだ吉がこゑ]【仇】「アイヨありがたふ。」

(10オ)
第四回
八軒{はちけん}かぞへしその中{なか}にこゝは何屋{なにや}か知{し}らねども化粧部屋{みじまひべや}の
其{その}風情{ふぜい}立聞{たちぎゝ}すれば正{まさ}に是{これ}いづれも仇{あだ}なる五六人{ごろくにん}其{その}品〻{しな〴〵}
の座住居{ゐずまゐ}は六哥仙{ろつかせん}めく唄妓{げいしや}の気儘{きまゝ}[△□○〓〓〓]掛合{かけあひ}の心{こゝろ}にて*〓は上から△▽を縦に繋げた記号、○を二つ=で繋げた記号、六芒星
よみたまふべし。【□】「てへげへにしてはやく行{いき}ねへ。又{また}ばゞアがどな
るぜへ。」【△】「それだつてなんだか着衣{きもの}の着塩梅{きあんべゑ}がわるくツて。
そしてなんだかじれつたくツて〳〵。」【□】「こまるだゞつ子{こ}だぜ。すツ
かり脱{ぬい}でしまつてほんとうに着直{きなほ}しねへな。ハヽヽヽヽ。」【○】「わりい

(10ウ)
癖{くせ}だぜ。いつでも〳〵出{で}る先{さき}へ立{たつ}とじれてるぜ。おいらアきつい
嫌{きれ}へヨ。マア第一{だいゝち}ゑんぎがわりいやアな。ドレ〳〵おばさんが起{おき}て
直{なほ}してやろう。やれ〳〵せわのやけるあまツてうだぞ。」【〓】「そ*〓は○を二つ=で繋げた記号
りやアいゝがおいらの今日{けふ}の髪{かみ}はたいそう根{ね}が上{あが}つたやう
だの。」【〓】「そうよのうドレそうでもねへがムヽちつとあがつた。そ*〓は六芒星
してつとがちつとつまつたからヨわるかアねへ。」【〓】「よくも有めへ。*〓は○を二つ=で繋げた記号
イヨお嬢{ぢやう}さんやつとお気{き}がすんだの。サア〳〵はやく行{いつ}て沢
山{たんと}よくばんねへ。」【○】「それどうだどうもおいらでなくツちやア

(11オ)
いけめへが。」[わらひながら]【△】「ハイ〳〵有難{ありがた}ふございます。彼方{あなた}此方{こなた}のお
情{なさけ}でたすかります。」ト[いひながらぐつとつまをとつてちよこ〳〵とかけだし行]【○】「いよう[引]ツヽテレ〳〵。」
【〓】「またはじまつたヨそう〴〵しい。そりやアいゝがおいらアわす*〓は○を二つ=で繋げた記号
れた〔こと〕をしたぜ。」【○】「なによう。」【〓】「妙正{めうしやう}さまのおみくじをどつか{何処}*〓は○を二つ=で繋げた記号
わすれたヨ。ヲヤ〳〵じれつてへのう。」【□】「またか〳〵。せつかく
そう〴〵しいのを出{だ}して遣{や}つたら直{ぢつき}に跡{あと}へかはりが出来{でき}たヨ。
のう寅次{とらじ}さん。」【○】「そうよ〳〵どうも子供{こども}はうるさくつて
ならねへぜ。おみくじが見えねへのヤレ着物{きもの}がすべつたのと。」

(11ウ)
【〓】「ヲイ〳〵琴次{ことじ}〳〵お言葉{〔こと〕ば}の鼠{ねずみ}だが着{き}ものがすべつたと*〓は六芒星
はおかしいネ。」【○】「そうかねまたお言葉{〔こと〕ば}の狸{たのき}だが。」【〓】「イヤもう*〓は△▽を縦に繋げた記号
そう〴〵しいぞ。お〔こと〕ばの鼠{ねずみ}だの狸{たぬき}だのとけだ物{もの}やのやう
だのう。」【〓】「何{なに}サ肥後{ひご}の熊本{くまもと}だものウ。衆人{みんな}そのはづだア*〓は○を二つ=で繋げた記号
な。人{ひと}は勿体{もつたい}ねへものをなくしたといつて気{き}をもんで居{ゐ}る
ものをあのくれへなもんだア。」【○】「太{た}の字{じ}も余程{よつぽど}愚智{ぐち}ツ
ぽくなつたの。老婦{としより}やアどうもやかましいぜ。なくなツたら又{また}
取{とり}にやんねへな。妙正{めうしやう}さまが京都{かみがた}へでも行{いつ}てしまやアしめへし

(12オ)
たかゞ遠{とほ}くなつて多賀町{たがてう}だアな。」【□】「それともしれねへぜ。今
年{ことし}やア中登{なかのぼ}りだそうだぜ。」【〓】「又{また}〳〵同{おんな}じやうに口{くち}を出{だ}*〓は○を二つ=で繋げた記号
すヨ。それでものおみくじやアみねへでもいゝが今夜{こんや}のむじんの
吉凶{きつきやう}だアな。」ト[いはれてみな〳〵こゝろづきてん〴〵に居なほり]「ヲヤ〳〵そうだツけわすれ
きツてゐた。おいらも一ツ見{み}てもらはふ。」【〓】「それ見{み}たがいゝ。もう*〓は○を二つ=で繋げた記号
一{いつ}へん取{とり}にやろうか。いや〳〵しかしもう妙正{めうしやう}さまはよそう。
縁起{ゑんぎ}がわりい。森羅殿{ゑんまどう}ばしへやろう。」【○】「それよりやア和哥町{わかちやう}へ
やんねへな。」【〓】「そうよのう。おらア無尽{むじん}がとれるとマア何{なに}はとも*〓は六芒星

$(12ウ)

$(13オ)

(13ウ)
あれ東屋{あづまや}の方{はう}は少{ちつと}も入{い}れて置{おか}ねへと亦{また}面倒{めんどう}だは。」【□】「勘
定{かんぢやう}のいゝ〔こと〕ばかり云{いつ}てゐるぜ。大造{たいそう}とれるから左様{さう}だろうヨ。」
【〓】「マアちよいとさう云{いつ}たものヨ。取{とつ}たらおごろうヨのう。」【○】「お*〓は六芒星
てへ〳〵さまではございません。」【□】「なぞとやつたも気恥{きはづ}かしい
じやアねへがマアめの字{じ}にしてへの。」【〓】「なんぞ見せにやんねへな。*〓は○を二つ=で繋げた記号
老父{ぢゞい}が来{こ}ねへと不自由{ふじゆう}だの。」【〓】「めの字{じ}といへば梅吉{うめきつ}さ゜んの処{とこ}へ*〓は六芒星
さつぱり尋{たづ}ねてやらねへの。」【○】「そうよどうしたんだの。」【□】「あん
まり呑過{のみすぎ}るからだアな。」【〓】「呑{のみ}すぎて煩{わづ}らやアおいら達{たち}もお仲*〓は○を二つ=で繋げた記号

(14オ)
間{なかま}だが呑{のむ}ばかりでもあるめへよ。しかし酒{さけ}が達者{たつしや}になつた
のは米八{よねはつ}さ゜んだのう。」【○】「そうよおいらアよつほど呑{の}む気{き}
だがどうして叶{かな}はねへは。」【□】「呑{のん}でもまたあのくれへとほつた
子{こ}はねへぜのう。」【〓】「実正{ほんとう}にあの子{こ}なんぞが気{き}のとほつたと*〓は○を二つ=で繋げた記号
いふのだろうヨ。」【○】「そりやアそうと仇{あ}の字{じ}のわけはどふした
ろう。」【□】「そうヨよく米{よ}の字{じ}がだまつてゐるの。」【〓】「ナニ此間{こないだ}小*〓は○を二つ=で繋げた記号
池{こいけ}の二階{にかい}でやかましくいつたそうだよ。」【〓】「なんぼ米八{よねはつ}ざん*〓は六芒星、「米八{よねはつ}ざん」の濁点ママ
があゝいふ気{き}でも少{ちつと}は言{いつ}たろうヨ。」【○】「それだけれどどうも

(14ウ)
是{これ}ばつかりやアふせぎやうがねへのう。」【□】「仇{あ}の字{じ}だつて
もまた大略{てへげへ}にしちやア外聞{げへぶん}がわりいから達入{たていれ}とか横
引{よこひき}とかやらかさねへじやアなるめへよ。」【○】「そうかのとんだもの
をやらかすの。おいらアキウ[引]と一盃{いつぺゑ}やらかしてへの。」トいふ
時{とき}しも未時{やつ}の鐘{かね}ボウン[引]〳〵。そも寄合{よりあひ}し
此{この}模様{もやう}さも気{き}さんしなやうなれどその身{み}になつて
見るときは辛気{しんき}心苦{しんく}の会所{くわいしよ}にてなか〳〵たやすき
くらしにあらず。逢{あふ}さ離{きる}さの物{もの}おもひ義理{ぎり}のしがらみ

(15オ)
身{み}の衣裳{しが}く春{はる}の初日{はつひ}の出立{でたち}から蝶{てふ}飛{とぶ}頃{ころ}の待{まち}かね
て着替{きかへ}は文庫{ぶんこ}に落着{おちつか}ず袷小袖{あはせこそで}に夏衣裳{なついしやう}やるせ
なきまで光艶{きら}かざる中{なか}に一人{ひとり}はじみられず負{まけ}ぬ気性{きしやう}
は癪{しやく}となり亦{また}借金{しやくきん}となりゆきて結{むす}ぶ年季{ねんき}に切{き}れる
客{きやく}せかれる間夫{いろ}をやう〳〵に離{はな}れぬ末{すゑ}は身{み}のつまり金{かね}
のなる木{き}もあるやうに迷{まよ}ひてわからぬ欲{よく}の道{みち}ゆけども〳〵
本街道{ほんかいだう}へ出{で}るにでられぬなんぎとなるべし。凡{およそ}世{よ}に住{すむ}
娘御達{むすめごたち}|分限{ぶん}に過{すぎ}たる美服{びふく}を好{この}まず其{その}ほど〳〵を慎{つゝし}

(15ウ)
みて恩{おん}と情{なさけ}をこゝろにかけよ。およばぬ願{ねが}ひに上{うへ}を見{み}て
不実{ふじつ}の人{ひと}となる〔こと〕なかれ。よしやたま〳〵不人情{ふにんじやう}にて
一旦{いつたん}栄{さか}ゆる者{もの}ありとも永{なが}き月日{つきひ}のその中{うち}には思{おも}ひの
外{ほか}に零落{れいらく}して後悔{こうくわい}する〔こと〕うたがひなし。わけて美人{びじん}
はわが色香{いろか}にわれとほこりて慢心{まんしん}し彼{かの}山鳥{やまどり}のわが
姿{すがた}にほれて水死{すゐし}をするに等{ひと}しく日毎{ひ〔ごと〕}にうつす鏡台{きやうだい}
はおろの鏡{かゞみ}のおろかなる心{こゝろ}をてらしてうわきをつゝしみ
不貞{ふてい}の女{をんな}となるまじと思{おも}ひてさへも親兄弟{おやきやうだい}のために

(16オ)
苦{くるし}み不義{ふぎ}不実{ふじつ}といはれる時節{はめ}もあるものなればかへす
がへすも娘御達{むすめごたち}の身{み}にはつゞれを着{き}たまふとも心{こゝろ}に錦{にしき}の
はれ小袖{こそで}操{みさほ}の衣{きぬ}の継〻{はぎ〳〵}は肩身{かたみ}も広{ひろ}しと思{おも}ひ定{さだ}
めて正{たゞ}しからざる行{おこな}ひは親御{おやご}が欲{よく}ゆゑゆるすともかならず
迷{まよ}ひて道{みち}ならぬ方{かた}へは足{あし}をいれたまふなと悪{にく}まれ口{ぐち}に娘{ひめ}
たちへ異見{いけん}はいつも作者{さくしや}が癖{くせ}狂訓亭{きやうくんてい}が老婆心{らうばしん}なんと
子供衆{こどもしゆ}合点{がてん}か〳〵。
其{その}名{な}噂{うわさ}も与志町{よしちやう}にさゝやかなりし仮住居{かりずまゐ}内{うち}にきこゆる

(16ウ)
三味線{さみせん}は絶{たえ}て久{ひさ}しき流行{りうかう}の昔{むかし}をこゝに宮園節{みやぞのぶし}
〽梅川{うめがは}もせきくる泪{なみだ}[チン]今{いま}こなさんのそのやうな憂
身{うきみ}はたれがさすぞいな。あぢな一座{いちざ}の付合{つきあひ}に思{おも}はれ
染{そめ}ておもひそめ。いとし痞{つかえ}にかあいが癪{しやく}。逢{あひ}たいが
色{いろ}。見{み}たいが病{やま}ひ。恋{こひ}しい顔{かほ}が薬{くすり}より。按摩{あんま}さんより。
灸{やいと}より。気合{きあひ}が能{よふ}なりや。わるうなる。お袋{ふくろ}さんの御機
嫌{ごきけん}がそこねて見{み}えぬあすの日{ひ}を文{ふみ}で繰出{くりだ}し口舌{くぜつ}で留{とめ}
【米八】「今日{けふ}はマアこゝまでにして置{おき}ませう。あした又{また}逢橋{あふはし}の

(17オ)
毘沙門{びしやもん}さまへ参{まゐ}るから丁度{ちやうど}今時分{いまじぶん}来{き}ますヨ。どうぞその
時分{じぶん}お宅{うち}だといゝねへ。」【宮その喜代八】「ほんに明日{あした}は寅{とら}の日{ひ}だの。浅
草{あさくさ}へ行{ゆく}やくそくが有{ある}けれどおめへの来{く}るまでまとふヨ。」【米】「ヲヤ
そうかへ嬉{うれ}しいねへ。」【喜】「うれしいほどの〔こと〕もあるめへが捨{すた}り
きつた宮園{みやぞの}ぶしをならつてくれるがうれしさにだれに
でもおしへる気{き}だがどうも請取{のみこみ}の能{いゝ}人{ひと}はすけねへには
こまる。おめへはどうも感心{かんしん}だヨ。」【米】「ヲヤどうせう一番{いちばん}私{わたい}
が覚{おぼ}えがわるいからお気{き}のどくでなりませんは。」【喜】「ナニ〳〵

(17ウ)
どうしておれがこの歳{とし}になるまでおめへのやうな器用{きよう}
な弟子{でし}はとつた〔こと〕はねへ。」トいふをりからげいしや二三人{にさんにん}
おもてからこゑをかける。【○□△】「米{よね}さん[引]米八{よねはつ}さ゜ん。」【米】「ヲヤ〳〵
どうして知{し}れたヱ。」【みな〳〵】「たの字{じ}に聞{きい}たが今{いま}ツからチヨイと
覗{のぞ}くつもりだは。おめへも行{いき}なゝ。」【米】「ヲヤそうか有{あり}がたふ。」ト喜
代八{きよはち}にいとまごひして立出{たちいで}る。
[梅暦餘興]春色辰巳園巻之二終


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底本:国立国語研究所蔵本(W99/Ta81、1001142387)
翻字担当者:成田みずき、矢澤由紀、島田遼、藤本灯
更新履歴:
2017年3月28日公開

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