日本語史研究用テキストデータ集

> English 

梅暦余興春色辰巳園うめごよみよきょうしゅんしょくたつみのその

クリエイティブ・コモンズ・ライセンス

巻一

縦横切り替え ダウンロード

梅暦余興春色辰巳園 巻一

----------------------------------------------------------------------------------
凡例
1.本文の行移りは原本にしたがった。
2.頁移りは、その丁の表および裏の冒頭において、丁数・表裏を括弧書きで示した。また、挿絵の丁には$を付した。
3.仮名は現行の平仮名・片仮名を用いた。
4.仮名のうち、平仮名・片仮名の区別の困難なものは、現行の平仮名に統一した。ただし、形容詞・副詞・感動詞・終助詞・促音・撥音・長音・引用のト等に用いられる片仮名については、原表記で示した場合がある。 〔例〕安イ、モシ、「ハイそれは」ト、意気だヨ、面白くツて、死ンで、それじやア
5.漢字は現行の字体によることを原則としたが、次のものについては原表記に近似の字体を用い、区別した。「云/言」「开/其」「㒵/貌」「匕/匙」「吊/弔」「咡/囁」「哥/歌」「壳/殻」「帒/袋」「无/無」「楳/梅」「皈/帰」「艸/草」「計/斗」「弐/二」「餘/余」
6.繰り返し符号は次のように統一した。ただし、漢字1文字の繰り返しは原本の表記にしたがい、「〻」と「々」を区別して示した。
 平仮名1文字の繰り返し 〔例〕またゝく、たゞ
 片仮名1文字の繰り返し 〔例〕アヽ
 複数文字の繰り返し 〔例〕つら〳〵、ひと〴〵
7.「さ」「つ」「ツ」に付く半濁点符は「さ゜」「つ゜」「ツ゜」として示した。
8.Unicodeで表現できない文字は〓を用いた。
9.句点は原本の位置に付すことを原則としたが、文末に補った場合がある。
10.合字は〔 〕で囲んで示した。 〔例〕殊{〔こと〕}に、なに〔ごと〕、かねて〔より〕
11.傍記・振り仮名は{ }で囲んで示した。 〔例〕人生{じんせい}
12.左側の傍記・振り仮名の場合は、冒頭に#を付けた。 〔例〕めへにち{#毎日}
13.傍記・振り仮名が付く位置の紛らわしい場合、文字列の始まりに|を付けた。 〔例〕十六|歳{さい}
14.原本に会話を示す鉤括弧が付いていない場合も、これを補い示した。また庵点は〽で示した。
15.原本にある話者名は【 】で示した。 〔例〕【はる】
16.割注・角書および長音符「引」「合」は[ ]で囲んで示した。
17.不明字は■で示した。
18.原本の表記に関する注記は*で行末に記入した。 〔例〕〓{たど}りて*〓は「漂+りっとう」
19.花押は〈花押〉、印は〈印〉として示した。
20.画中文字の開始位置に〈画中〉、広告の開始位置に〈広告〉と記入した。

本文の修正
1.翻字本文を修正した場合には、修正履歴を末尾に示す。
----------------------------------------------------------------------------------


(口1オ)
[梅暦{うめこよみ}餘興{よきやう}]春色{しゆんしよく}辰巳園{たつみのその}序{じよ}
黄帝{くわうてい}は暦{こよみ}の本家{ほんけ}本元{ほんだな}にして。是{これ}より
義氏{ぎし}和氏{くわし}と云{いふ}二人{ふたり}の番頭{ばんとう}。命{めい}を受{うけ}て猶{なほ}
暦{れき}を改{あらた}む。帝舜{ていじゆん}是{これ}にのつて亦{また}糶売{せりうり}取
次{とりつぎ}を多{おほ}くなし。既{すで}にして本朝{ほんてう}に出見世{でみせ}出{いで}て
より。貞観{ぢやうくわん}の始{はじめ}。大春日{おほかすが}真野麻呂{まのまろ}。又{また}天徳{てんとく}年

(口1ウ)
中{ねんぢう}司暦博士{しれきはかせ}。賀茂{かもの}保憲{やすのり}といふ問屋達{とんやたち}。広{ひろ}
く伝{つた}へて暦{れき}なる〔こと〕久{ひさ}し。こゝに狂訓亭{きやうくんてい}の
主人{あるじ}。先{さき}に梅暦{うめごよみ}の匂{にほ}ひよきを世{よ}にひろめ。成{なる}
事{〔こと〕}四編{しへん}にして筆{ふで}を止{とむ}。夫{それ}彼{かれ}は。天地陰陽{てんちいんやう}。変
易交易{へんゑきかうゑき}。順逆相剋{じゆんぎやくさうこく}。吉凶得失{きつけうとくしつ}の大仕掛{おほじかけ}に
して。天下{てんか}の重宝{ちやうほう}又{また}是{これ}にならぶ物{もの}なし。是{これ}は

(口2オ)
男女{だんぢよ}の婬楽{いんらく}を誡{いまし}むるのをしへにして。勧善懲
悪{くわんぜんちやうあく}の世話狂言{せわきやうげん}也。されや世{よ}の見物{けんぶつ}是{これ}をあかず
めでけるものから。書房{はんもと}の欲心{よくしん}其{その}かくはしきに
現{うつゝ}をぬかし。今{いま}一花{ひとはな}咲{さか}せんと。頓{とみ}にそが餘興{よきやう}を
需{もとむ}る事{〔こと〕}切{せつ}なれは。ふり捨{すて}がたき梅{うめ}が香{か}の。
匂{にほ}ひも深{ふか}き川{かは}の世界{せかい}。題而{なづけて}春色{しゆんしよく}辰巳園{たつみのその}と云{いふ}。

(口2ウ)
よくその穴{あな}をさぐる〔こと〕。川太郎{かはたらう}も終{つひ}に及{およ}ばず。
嗚呼{ああ}趣向{しゆかう}のいきなるや。意気張{いきはり}強{つよ}き恋路{こひぢ}の
たてひき。かけ引{ひき}のよき筆{ふで}のあやに。釣出{つりいだ}したる
三筋{みすぢ}の糸{いと}。互{たがひ}の胸{むね}に忍{しのび}ごま。ばち利生{りしやう}ある撥
皮{ばちかは}の。厚{あつ}き意{こゝろ}の仇競{あだくらべ}ねじめはあぢな一調子{いつてうし}。変{かはつ}
たすぢは新工夫{しんくふう}。すいと甘{あま}きを味{あぢ}はふた。作者{さくしや}が

(口3オ)
料理{りやうり}即席即案{そくせきそくあん}。ぐつとひねつた献立{こんだて}の。
うまみを味{あぢ}はひ給ふたなら。亦{また}二{に}の全部{ぜんぶ}を
待{まち}たまへと爾云。
于時{ときに}天保{てんほ}四巳{よつといふとし}春{はる}狂訓亭{きやうくんてい}にかはつて|述之{これをのぶる}。
三亭春馬

$(口3ウ)
あとをつけ
くちをかけたる時鳥{ほとゝぎす}
思{おも}ひ辰巳{たつみ}に
あくまでもきく
金竜山人
〈画中〉[三国一]富士の白酒

$(口4オ)
〈画中〉[仙女香美玄香]坂本氏
〈画中〉三国一あまざけ

$(口4ウ)

$(口5オ)

$(口5ウ)
わたつ海の
波にもぬれぬ
浮島は
松に
こゝろを
寄て
たのまん

(1オ)
[梅暦{うめごよみ}餘興{よきやう}]春色{しゆんしよく}辰巳園{たつみのその}巻之一
江戸 狂訓亭主人著
第一回
〽それも鳴{なく}音{ね}の鴬{うぐひす}も梅{うめ}に三{み}うらの小紫{こむらさき}粋{すい}なゆかりと
われなから我{わが}つま琴{ごと}とかきならす思{おも}ひのたけの尺八{しやくはち}もれん
ぼながしは権八{ごんはち}が。」ト[うたふとなりの浄{じやう}るりはてうしもこゑも清元{きよもと}のたかねをいれしつれびきは十二|呂律{りよりつ}の調{とゝの}ひし]その十
|二軒{にけん}の会席{くわいせき}に小池{こいけ}と呼{よば}れし一ト構{ひとかまへ}世事{せじ}で丸{まろ}めてうは
きな中{なか}に実意{じつい}を見世{みせ}のかゝりさへ直{すぐ}な柱{はしら}も杉皮附{すぎかはつき}つくろは

(1ウ)
ねどもおのづから土地{とち}に合{あひ}たる洒落造{しやれづくり}如在内所{ぢよさいないしよ}の咄{はな}し合{あひ}
また呑直{のみなほ}して意気{いき}にする客{きやく}の絶間{たえま}もなかりしが今日{けふ}も
尾花{をばな}か梅{うめ}からか此家{こゝ}にしばらく酒{さか}もりも程{ほど}よく呑{のみ}て帰{かへ}り
たる跡{あと}に残{のこ}りし女妓{はおり}の中{なか}に何{なに}かもつれて亦{また}残{のこ}る彼{かの}梅
暦{うめごよみ}にて看官{ごけんぶつ}のおなじみなりける米八{よねはち}仇吉{あだきち}善悪{ぜんあく}わからぬ
さしむかひたがひに酔{よひ}て仇吉{あだきち}は二階{にかい}ざしきの中窓{ちうまど}から庭{には}を
覗{のぞ}きて【仇】「ヲヤお熊{くま}さんちよつとお出{いで}な。はなしがあるから。」
[この小池{こいけ}の娘{むすめ}おくま二階{にかい}のかたへ見{み}かへる。ごぞんじのあいきやうもの仇吉{あだきち}にむかひてわらひながら手{て}のひらへよの字{じ}をゆびでかいて見せかほをふくらして見せる。是はたしかに

(2オ)
仇吉{あたきち}丹次郎{たんじらう}がわけをこのほどはよね八が知{し}つてはらをたちゐるだろうといふしうちなるべし]【くま】「今{いま}まゐるヨ。」ト云{いひ}ながら
勝手{かつて}の者{もの}に何{なに}か用事{ようじ}を言付{いひつけ}て居{ゐ}る。仇吉{あだきち}は元{もと}の座{ざ}に
行{ゆき}おとなしく小声{ここゑ}にて【仇】「米八{よねはつ}さんちよつとはゞかりながら
上{あげ}ませう。」[よね八はきこえぬやうすなり]【仇】「モシ米{よね}さんいやかへ。おいやかへ。」[よね八は気{き}がついたといふやうす]
【米】「ヲヤわたい{私}かへちツと。」[仇吉ははなであしらひ]【仇】「フン私{わたい}かへどころか。最前{さつき}から
猪口{ちよく}のやり所{どころ}もねへやうにはゞかりながらのおそれいるのと下{した}
から出{で}りやアおそろしい高{たけ}へ唄妓衆{げいしやし}だのはおりさんだのが聞{きい}
てあきれらア。」【米】「ヲヤそうかヱ。私{わた}やア此方{こつち}にちツと考{かんが}へる

(2ウ)
〔こと〕が有{あつ}たからきがつかなんだ。サアいたゞこう。」ト[ちよくをとる。仇吉はその手をお
さへて]【仇】「コレサ米八{よねはつ}さ゜ん他{ひと}が盃{さかつき}をさすのに考{かんげ}へる〔こと〕があるから
のまれねへなんぞとぶしつけながらよくそれで押勤{おしてへ}の
なるほど違{ちが}つたもんだ。」【米】「ヲヤ仇吉{あだきつ}さん呑{のま}れねへとは云{い}やア
しねへヨ。」【仇】「そうよのう気{き}かつかなんだのか。猶{なほ}わりいの。いツ
そまだ呑{のま}れねへといふほうが罪{つみ}がなからうヨ。」トいはれて米
八{よねはち}もさげすむやうなる口調{こうせき}にて前髪{まへがみ}を掻{かき}ながら顔{かほ}を皺{しか}
めて笄{かんざし}を落{おと}し【米】「よくいろ〳〵なふしをつけるの。面倒{めんどう}な

(3オ)
酒{さけ}ならばよそうヨ。」ト[だんまりでしらぬかほ也]仇吉{あたきち}はすこし大きな声{こゑ}にて
【仇】「コウ米八{よねはつ}さ゜んおつな〔こと〕をいふの。此方{こつち}から下派{したは}に付{つい}て
はゞかりだのなんのとくどくいふやうだが腹{はら}さんざものをいは
してふしをつけるもおかしいじやアねへか。清元{きよもと}の新手{しんて}じやア
有{ある}めへしおつに節{ふし}をつける人{ひと}はたつた一人{ひとり}だよ。しかしおめへは
知{し}るめへ七場所{なゝばしよ}の内{うち}じやアねへがの。」【米】「モウいゝやアな。いゝかげに*「いゝかげに」は「いいかげん」の誤字か
にしねへな。おとなしく請{うけ}てゝやりやアなんだなおもしろくも
ねへ。おめへにやアいふ〔こと〕が沢山{■んと}あるが此方{こつち}やア勘弁{かんべん}して居{ゐ}て*「■」は「ど」の部分欠損

(3ウ)
やるのだ。」ト聞{きい}てもとより仇吉{あだきち}も胸{むね}におぼえのけんくわの
序{じよ}びらきひざを直{なほ}して近{ちか}くより【仇】「ヲヤなんだへ。いふ〔こと〕が
有{ある}なら聞{きい}てやらアな。サア聞{きか}ふ。なんだへ。」【米】「マアしづかにし
ておめへの心{こゝろ}にきいてみな。」【仇】「こりやアわからねへぞ。いふ〔こと〕
が有{ある}といふからきこふといへばまたおめへの心{こゝろ}に聞{きい}てみろと。
わからねへの行止{いきどま}りだノ。サアなんだ云{いひ}ねへな。」【米】「聞{きか}すと知{し}
れた私{わたい}が亭主{ていしゆ}サ。」【仇】「ムヽおめへの亭主{ていし}がどうした死{しん}だら
香奠{かうてん}でも上{あげ}ようかへ。」【米】「そうよまんざら他人{たにん}でもねへ

(4オ)
中{なか}だから香奠{かうでん}までにも気{き}がつくの。」【仇】「アヽ仲間好{なかまよしみ}だ
からヨ。」ト[ちやかしてゐる]【米】「仲間{なかま}のよしみもねへもんだ。あんまり人{ひと}を
踏{ふみ}つけにしなさんなヨ。そしてマア他人{ひと}にこけだと後指{うしろゆび}を
さゝれるのがお気の毒{どく}だ。知{し}つての通{とほ}り私{わたい}と丹{たん}さんの中{なか}は
たれ知{し}らねへ者{もの}はねへからいくらおめへがはねばたきをしたつ
ても丹{たん}さんはマア私{わたい}に見代{みけへ}る鳥{とり}はねへと思{おも}つて居{ゐ}るヨ。お
気{き}の毒{どく}だが。」トいはれてぐつと仇吉{あたきち}も上{あが}る眼{め}じりに反{そる}唇{くちびる}
せき立{たつ}胸{むね}をせかぬふり。【仇】「モウいゝかへもつとしやべんねへな。あん

(4ウ)
まりいろ〳〵な〔こと〕をいつておめへの恥{はぢ}を多分{たんと}かきな。自惚{うぬぼれ}
のねへものはねへといふがおめへのやうに其様{そう}行止{いきどま}つてゐりやア
何{なに}も気{き}のもめる〔こと〕も有{ある}めへ。マア第一{だいゝち}おいらなら手前{てめへ}の
夫{てへし}を他{ひと}にとられるといふもあんまり智恵{ちゑ}のねへはなしだ。
しかしおめへ達{たち}の亭主{てへし}を他{ひと}がなんとか思{おも}つてやつたら有{あり}
がてへ〔こと〕だと思{おも}つて居{ゐ}ててうどよかろうのに。」トすました
顔{かほ}にて「かわいそうにおめへもまだ洗{あら}ふて見{み}たき沖{おき}の
水{みづ}だの。」【米】「なるほどおめへも余程{よつぽど}世話役{せわやき}だの。妙正{めうしやう}さまの

(5オ)
坊{ばう}さんじやア有{ある}めへし念{ねん}をいれてお加持{かぢ}をするの。清
元{きよもと}の節{ふし}づけからうぬぼれの御異見{ごいけん}まで沢山{たくさん}聴聞{ちやうもん}
いたしましたがマアよくつもつてお見ヨ。私{わたい}だつてもどう
やらこうやら此処{こゝ}の土地{とち}では少{すこ}しは他人{ひと}も知{し}つてくれて
居{ゐ}るのに丹次郎{たんじらう}が〔こと〕を此所{あそこ}彼所{こゝ}でいはれたり笑{わら}は
れたりしてもちつとやそツとの〔こと〕をやかましいと心{こゝろ}です
ましてしらねへ顔{かほ}をして居{ゐ}るのもおめへなり私{わたい}なり斯{かう}
いふ活業{しやうばい}してゐるからにやアちツとやそツとのちよい色{いろ}

$(5ウ)
米八
仇吉
おくま
〈画中〉即席御料理 御かし坐敷 こいけ

$(6オ)
日々繁昌十二軒
是四季寛活壮観
楼上美人笑語声
名酒泉不尽小池*訓点を省略した
二代
十返舎一九

吞直{のみなほ}す客{きやく}は小池{こいけ}の庖丁{ほうてう}に
さけも肴{さかな}もみんなよし〳〵
清元延津賀

(6ウ)
ぐれへはあたりめへなわけだはネ。それだけれどおめへの
やうにちよいとした〔こと〕にも何{なに}か突{つゝ}かゝつて見たがつたり
出合{であひ}せへすりやア気障{きざ}を言{いつ}たりするもんだからどうも
三度{さんど}に一度{いちど}は此方{こつち}も心持{こゝろもち}のわりい〔こと〕だらけだろうじ
やアねへか。何{なに}も私{わたい}が通人{とほりもの}かゝつた〔こと〕をいふ〔こと〕もねへが此{この}末{すゑ}
ともに仇吉{あだきつ}さ゜ん止{よし}ておくれと無理{むり}はいはねへからずいぶん
穏便{おんびん}におたのみだヨ。」【仇】「ムヽなるほど粋{すい}とやら通人{とほりもの}とやらいふ
人{ひと}はおめへの事{〔こと〕}だろうヨノウ。よせと云{いふ}のじやアねへ穏便{おんびん}に

(7オ)
してくれろとへ。おつな福清{ふくせい}だの。[これはみなさま浄るりにてごぞんじのかしく六三の福清をいふ也]
そしてマア一体{いつてへ}何{なに}を穏便{おんびん}にするのだへ。そりやア私{わたい}にいふ
のかだれにいふのだへ。おめへどうした大造{たいそう}酔{よつ}たの。こゝは十二|軒{けん}
の小池{こいけ}だヨ。桜川{さくらがは}の善孝{ちやん}でも来{き}てもらはふか。[これはこの家{や}の桜川{さくらがは}由{よし}次郎が縁{えん}
あれば善孝{せんかう}に来{き}てもらはんといふなるべし]チツト気{き}をたしかに持{もち}なヨ。丹次郎{たんじらう}だの亭
主{ていし}だのと何{なん}だかおめへ気でもふれて居{ゐ}るやうだぜ。逢橋{あふはし}の
毘沙門天{びしやもんさま}へ日参{につさん}でもして御利益{ごりやく}をお願{ねが}ひ申な。」
これは此{この}頃{ころ}逢{あふ}はしなる何{なに}がし公{こう}の御中屋敷{おんなかやしき}に

(7ウ)
勧請{くわんしやう}あらせられし毘沙門天{びしやもんでん}の御事{おん〔こと〕}にて霊
験{れいげん}あらたなる〔こと〕かくれなく婦多川{ふたがは}一同{いつとう}に尊信{そんしん}せ
るよし。依{よつ}てかくはいふなるべし。
【仇】「まだわかいに気{き}の毒{どく}な。」トあくまで手{て}つよく仇吉{あだきち}が酒{さけ}
のきげんで突{つき}かゝる言葉{〔こと〕ば}を聞{きい}て米八{よねはち}もぐつとせき込{こむ}恋{こひ}
の仇{あだ}その仇吉{あだきち}が㒵{かほ}を見{み}る顔{かほ}にもちるや紅楓葉{もみぢば}の青{あを}かりし
より思{おも}ひ染{そめ}辛苦万苦{しんくまんく}のその中{なか}に見継{みつぐ}男{をとこ}をねとられし
と思{おも}ふ心{こゝろ}は素人{しろうと}もそれしやもかはらぬ女{をんな}の情{じやう}くやし涙{なみだ}の

(8オ)
せぐりくる無念{むねん}をつゝむぞせつなけれ。
第二回
偽{いつはり}と思{おも}ひながらも今さらにたがま〔こと〕をか我{われ}はたのまん。
これは仇{あだ}なる男{をとこ}などの深{ふか}くも愛{あい}せずさすがに捨{すて}もやら
ぬを相{あい}たのみたる女{をんな}の心{こゝろ}をよみたるなるべし。それには
あらで米八{よねはち}が常{つね}さへぱち〳〵としたる眠{め}をまたつりあげ
し見脈{けんみやく}にて額{ひたい}に青{あを}く筋{すぢ}はだしてもさすが利発{りはつ}な
女{をんな}ゆゑウントこたへて落{おち}ついたものいひ【米】「ヲヤそうかへ

(8ウ)
わりい〔こと〕をいつたツけの。仇{あだ}さん堪忍{かんにん}してくんなよ。なる程{ほど}
婦多川{ふたがは}の水{みづ}のしみた唄妓衆{げいしやし}はまた格別{かくべつ}ちがつたもん
だのう。」トにつこりわらひ落{おち}つきはらつて居{ゐ}る。仇吉{あだきち}は
ごうはらそうに【仇】「どうもよくそうすまして他{ひと}をさげ
すんでゐられるの。なんだか知{し}らねへが其{その}おんびんのわけを
聞{きか}せなゝヨウ。コレサ。」【米】「モウおめへも余程{よつほど}たけ〴〵しいのう。
いゝはな其様{そう}おめへのやうに強情{がうじやう}なら証古{いゝもの}を見{み}せやう
からそれで何{なん}とでも云{いひ}なヨ。」ト[いつたばかりでだまつてゐる]此{この}時{とき}さすが仇

(9オ)
吉{あだきち}も女心{をんなごゝろ}にギツクリと思{おも}ひまはせば過{すぎ}しころ彼{かの}中裏{なかうら}に
て米八{よねはち}と出合{であひ}がしらの其{その}節{とき}に丹次郎{たんじらう}が方{かた}へ落{おと}し
たる笄{かんざし}の〔こと〕を気{き}がつきしがまたつく〴〵と考{かんが}へるに
それを証古{しようこ}になせばとて云抜{いひぬけ}ならぬ事{〔こと〕}もなし。また
丹次郎{たんじらう}と私{わたし}とはなるほど恋情{いろ}サと云{いつ}たところがしれて
わるいといふは世話{せわ}になつてゐる旦{だん}ばかり。是{これ}もむづかしい
〔こと〕はなけれど兎角{とかく}丹次郎{たんじらう}にほれた心{こゝろ}のよはみからあん
まりたんと言{いひ}つのりてもしまた丹次郎{たんじらう}にさげすまれんも

(9ウ)
はづかしとさすが歌妓{げいしや}のやさしさは恋意{いろ}を活業{あきなふ}女{をんな}の情{じやう}
思{おも}ひなやみて口{く}ごもればまた米八{よねはち}も心{こゝろ}に一物{いちもつ}こゝで去頃{いつぞや}
拾{ひろ}ひ置{おき}し笄{かんざし}を出{だ}してまづ一番{いちばん}はへこましても此
所{ここ}でばかりはおもしろからず。またこれぎりになりもせ
まじせけばせくほど恋{こひ}の意地{いぢ}仇吉{あだきち}ばかりをせいたりと
て男{をとこ}のこゝろをとりきめずは益{ゑき}なき〔こと〕ゝ気{き}がつけばまた
|時節{おり}をはかりて手{て}をきらせん。まづそれまでは捨{すて}ておき今
までの〔ごと〕くあやつりてこの後{のち}丹次郎{たんじらう}をもよく〳〵談{だん}じて

(10オ)
しゆだんもあるべしと心意{こゝろ〴〵}の二人{ふたり}の手取{てとり}呼吸{こきう}をはかる
取組{とりくみ}も余情{たんと}惚{ほれ}たが負{まけ}になる色{いろ}の土俵{どひやう}のせきと関{せき}四十
八手{ししうはつて}はまだな〔こと〕新手{しんて}をもつてお客{きやく}をば投{なげ}もからみも
するなれどたがひに惚{ほれ}ては素人{しろうと}にもおとる唄妓{げいしや}の実競{じつくらべ}
いづれおとらぬ仇吉{あたきち}米八{よねはち}女房{にようぼ}気{き}どりの一文字{いちもんじ}に無理{むり}
な横綱{よこつな}横恋慕{よこれんぼ}恋{こひ}の行事{ぎやうじ}の団扇{うちわ}さへかたやにどふも
あげかねし作者{さくしや}が筆{ふで}の勝負附{しようぶづけ}しばらくこゝにあづか
れば[仇米]双方{さうはう}ともにしばし無言{だんまり}。○折{をり}から階子{はしご}をどん〳〵*「[仇米]」の上に開き括弧

(10ウ)
とお熊{くま}は手{て}すりにつかまつて【くま】「米{よね}さん仇{あだ}さん。」【米】「ヲヤおくま
さんたいそう長居{ながゐ}をしたネヱ。」【くま】「長居{ながゐ}はいゝがねマアどう
したのだネおめへさんがたア何{なに}を先刻{さつき}からくず〳〵いつて
ゐるのだへ。由{よし}さんがあんな気{き}だから米八{よねはつ}さ゜んと仇吉{あだきつ}さ゜んは
どうかしはしないかと苦労{くらう}にするから私{わちき}が何{なに}どうもし
ないが二人{ふたり}ながら酔倒{よひたを}れて居{ゐ}なはいますと云{いつ}ておいたがネ。
おめへさんがたが云合{いひやふ}の喧嘩{けんくわ}をおしだのといふと直{ぢき}に人が
噂{うわさ}をして何{なに}かにつけて邪广{じやま}になるはネ。モウ能{いゝ}かげんにして

(11オ)
両方{りやうはう}が堪忍{かんにん}おしよ。」【米】「ま〔こと〕に有{あり}がたふ。ナアニわけもねへ
〔こと〕だはね。」【仇】「おくまさんありがたふ。」トいふうち下より女{をんな}の
声{こゑ}【女】「おくまさん〳〵ちよつとお出{いで}なはいまし。」【くま】「アイヨ
なんだへ。」【女】「アノてうちんやの又{また}さん処{とこ}の何{なに}がお出{いで}なはいま
した。」【くま】「何{なに}がとはなんのこつた。お哥{うた}さんがお出{いで}のか。」【女】「ハイ。」
【くま】「もの覚{おぼ}えのわりいと言{いつ}ちやアねへ。今{いま}まゐるからお茶{ちや}で
もあげなヨ。」【女】「ハイ。」[折からまたも下よりして桜川由次郎がこゑにて]【由】「ヲイ〳〵仇{あだ}吉
さ゜ん母御{おつかア}が迎{むか}ひに来{き}たヨ。」【くま】「ヲヤ仇吉{あだきつ}さ゜んおつかアが来{き}

(11ウ)
たとサ。」【仇】「ヲヤそうかへ。それじやア行{いこ}ふ。」トいひながらお熊{くま}と
一所{いつしよ}に下{した}へおりてあいさつそこ〳〵に帰{かへ}り行{ゆく}。米八{よねはち}はしづか
におりて雪隠{てうづば}へはいる。それより仇吉{あだきち}が帰{かへ}りし跡{あと}へ米八{よねはち}は
出来{いできた}り【米】「ま〔こと〕にモウ酔{よつ}て〳〵いゝこゝろもちに寝{ね}てし
まつたヨ。お熊{くま}さん有{あり}がたふ。」[おくまはわらひながら]【くま】「仇{あだ}さんも酒{さけ}のうへが
わりいかねへ。」【米】「ナアニそうでもないのサ。」【由】「笑{わら}ひながら
何{なに}を喧嘩{けんくわ}をするのだ。打捨{うつちやつ}て置{おき}ねへナ。高{たか}くとまつて。」
[よね八はにつこりわらひ]【米】「ヲヤ由{よし}さん何{なん}ぞお聞{きゝ}か。堪忍{かんにん}おしヨ。寝{ね}て居{ゐ}た

(12オ)
気{き}だがねへ。」【由】「違{ちげ}へねへ。夢{ゆめ}にでもけんくわをしたろう。」【米】「寝
言{ね〔ごと〕}が由{よし}さん耳{みゝ}へきこえたかヱ。しかし私等{わたいら}アいとゞせへいけ
ねへのに高{たか}くとまつてお見{み}な。猶{なほ}いけやアしねへはネ。」【由】「能{いゝ}よ
おれが肩{かた}をいれらアな。」【米】「ヲヤうれしいねへ。」トいふ折{をり}から
客{きやく}を帰{かへ}してお熊{くま}も米八{よねはち}が側{そば}へ居{すは}る。【由】「お哥{うた}さんは何{なに}しに
来{き}た。」【くま】「ナニ何{なん}でもないが只{たゞ}ちよいと寄{よつ}たのサ。」【由】「米{よね}さんの
処{とこ}へ相模屋{さかみや}のはなしはしたかのう。」【米】「アヽ福田屋{ふくたや}中島{なかじま}
屋|丸本{まるもと}外{ほか}四間{しけん}のも聞{きゝ}ましたヨ。」[これはごぞんじの家{うち}の事。なんのはなしかそれは作者{さくしや}もしらず]

(12ウ)
【由】「そうかなんだか面倒{めんどう}だのう。」【米】「アヽねへ。ヲヤまたわたいは
此処{こゝ}へすはりこんで居{ゐ}る気{き}だそうだ。ドレ行{いこ}ふ。」ト立上{たちあが}る。
【由】「また急{いそ}いで帰{けへ}つて亭主{てへしゆ}をかはいがるヨ。」【米】「ヲヤ〳〵啌{うそ}
ばつかり。何{なに}そんなものが有{ある}ものかねへお熊{くま}さん。」ト顔{かほ}を見
合{みあは}せにつこりわらひちよいと手{て}がるくつまをとり門{もん}の
わきから勝手{かつて}へもあいきやうをいふ。【米】「どなたもおつかひ
たて申ました。」【由】「ごうぎと時代{じだい}なせりふだの。」【米】「アヽお屋{や}
しきものだからネ。ハイ左様{さやう}なら。」ト帰{かへ}りゆく。吹{ふき}すさむ風{かぜ}な

(13オ)
恨{うらみ}そ花{はな}の春{はる}紅葉{もみぢ}の残{のこ}る秋{あき}あらばこそト古人{こじん}の名歌{めいか}妙{めう}
なるかな。月{つき}に村雲{むらくも}花{はな}に風{かぜ}思{おも}ひ思{おも}ふた其{その}中{なか}を水{みづ}さすあ
れば欲徳{よくとく}にツイ引{ひか}さるゝ事{〔こと〕}もあり。また付人{つきひと}のあをり
から元木{もとき}を捨{すつ}る心{こゝろ}にもあらで浮薄{うはき}な色事{いろ〔ごと〕}も終{つひ}にもつ
れて恩{おん}と義理{ぎり}わすれて横{よこ}に行{ゆく}も有{あり}。真{しん}そこほれた心{こゝろ}
からたがひに深{ふか}くうたがひすぎてわづかな口舌{くぜつ}が元{もと}となり死{し}
ね死{し}なふとの約束{やくそく}を今日{けふ}は見{み}かへて増花{ますはな}の。盛{さか}りを見{み}する
つらにくさに仇敵{あだかたき}の思{おも}ひをする中{なか}もはじめに結{むす}んだる

(13ウ)
誠{ま〔こと〕}の縁{ゑん}はきれやらで互{たが}ひに別{わか}れて月{つき}と日{ひ}の立{たつ}にしたがひ
男女{なんによ}とも亦{また}うとまるゝ後{のち}の色{いろ}。あるときは有{あり}のすさみにつら
かりしなくてぞ今{いま}は人{ひと}の恋{こひ}しきと。過{すぎ}たる〔こと〕を両方{りやうはう}が思{おも}ひ
出{いた}して立帰{たちかへ}る俗{ぞく}にいわゆる腐縁{くされゑん}。はなれぬ縁{ゑん}とは親兄
弟{おやきやうだい}も当人{そのみ}も知{し}らぬ再会{さいくわい}あればたとへせかれて遠{とほ}くなり
亦{また}は不義{ふぎ}なる行{おこな}ひのありて他人{たにん}の方{かた}へゆくともみなこれ
其{その}身{み}の心{こゝろ}から出{いづ}るにあらず何事{なに〔こと〕}も満{みつ}ればかくる世{よ}の
ならひ逢{あふ}て別{わか}れてわかれて逢{あ}ふて中{なか}たゆるとも縁{ゑん}

(14オ)
あればまたちぎり合{あふ}時{とき}ありて定{さだ}めがたきが恋{こひ}の道{みち}。たゞ何
事{なに〔こと〕}もあらそはぬ風{かぜ}の柳{やなぎ}のしなやかに相麁{あいそ}つかしを云{いひ}かけたらば。
偽{いつはり}とおもはでたれもちきりけめ
かはるならひの世{よ}こそつらけれ
と無常{むじやう}を感{かん}して争{あらそ}はず他{ひと}も恨{うら}まず月日{つきひ}がたてば捨{すて}
たを悔{くや}み捨{すて}られたが身{み}の仕合{しあは}せとなるもありとは云{いふ}ものゝ
万{よろづ}の事{〔こと〕}不足{ふそく}を思{おも}ふて元{もと}をわすれ不義{ふぎ}の道{みち}へ入{い}る時{とき}は
一旦{いつたん}栄{さか}えを見{み}するとも末{すゑ}は後悔{こうくわい}うたがひなし。たとへ浮気{うはき}な

$(14ウ)
夕霞
上略
紙にうつせばうつくしき花のかゞ
みの顔とかほ合せて見ても合
かぬる口舌した夜の髪じやとて
ほどけてゐるが目にたつかたゝ
ぬかたつかうら千鳥下略

$(15オ)

(15ウ)
活業{よわたり}にもおよばぬ欲{よく}の願{ねが}ひから他{ひと}にたばかられぬ用心{ようじん}
して只{たゞ}其{その}時{とき}の〔こと〕を思{おも}ひ親兄弟{おやきやうだい}の強欲{がうよく}にひかれて不
実{ふじつ}をする〔こと〕なかれといらざる筆{ふで}のついでにしるして姫{ひめ}との
達{たち}に異見{いけん}をするも作者{さくしや}が癖{くせ}の老婆心{らうばしん}嗚呼{あゝ}われながら
老込{おいこみ}なりけり。それはさておきこゝにまた所{ところ}はいづれかわすれし
かど畳{たゝみ}や横町{よこちやう}か稲荷横町{いなりよこちやう}の辺{ほと}りになん日{ひ}くれてやう〳〵
人顔{ひとがほ}のわかる頃{ころ}出会{であひ}がしらの男{をとこ}とげいしや「ヲヤ。」トたかひ
に立{たち}とまる。これ仇吉{あだきち}と丹次郎{たんじらう}。【仇】「マアちよつと爰{こゝ}へ寄{よつ}て

(16オ)
おくれなねへ。そんなにおまへのやうに内義{かみ}さんをこわがる〔こと〕も
ねへ。」【丹】「何{なに}さそうじやアねへが今{いま}内{うち}へおれが客{きやく}をまたして
来{き}たからヨ。」[作者{さくしや}曰{いはく}米八は丹次郎が宅{うち}にはゐず福田屋{ふくたや}にゐれどもをり〳〵行{いつ}て居れば内義{ないき}のやうにいふとしるべし]【仇】「アレサマア
それだからちよつとだはネ。」トある家{いへ}のしやうじをそつと明{あけ}て
【仇】「増吉{ますきつ}さ゜ん。」[宅{うち}より女のこゑにて]【増】「ヲイだれだ。」【仇】「おれだヨ。おめへひとりか。」
【増】「ムヽおれ一人{ひとり}だ。だれも居{ゐ}ねへ。|這入{へゑん}ねへな。」【仇】「サアおはいりヨ。」ト
いへども丹次郎{たんじらう}はだまつて居{ゐ}る。|家内{うち}より出{で}て来{く}るは年令{としのころ}
二十六七このごろまで出{で}て居{ゐ}たといふやうす。眉毛{まみへ}は落{おと}し

(16ウ)
たれど兎角{とかく}気儘{きまゝ}にしてくらすがいゝといふ塩梅{あんばい}。きれいに
歯{は}をはがして桜川{さくらがは}善孝{ぜんかう}が所{ところ}で取次{とりつぐ}丁子車{てうじくるま}といふ歯
磨{はみがき}をやうじ箱{ばこ}へ入{い}れながら表{おもて}を見{み}る。今日{けふ}髪{かみ}を洗{あら}つたと
見{み}えちよいと結{むす}んだのが後{うしろ}へひつくり帰{かへ}り根{ね}を新藁{しんわら}で結{むす}
び島{しま}ちりめんの棒{ぼう}じまの広袖{ひろそで}博多{はかた}の男帯{をとこおび}をしだら
もなくぐる〳〵と巻{まき}仇吉{あだきち}とは極{ごく}心{こゝろ}やすき様子{やうす}なり。丹次
郎{たんじらう}を見{み}て【増】「ヲヤなんだナ。もしこつちへお|這入{へゑん}なせへな。」【仇】「
サアおあがり。」トずいと奥{おく}へはいる。丹次郎{たんじらう}もつゝいて|這入{はい}る。

(17オ)
【仇】「ヲヤくらいあんどんだ。」ト火鉢{ひばち}の側{そば}へすはる。丹次郎{たんじらう}立{たつ}て
ゐる。【仇】「丹{たん}さんおすはりな。なんだねへ。」【増】「モシおすはんないま
しな。しかし仇{あだ}さん兎{と}も角{かく}も二階{にかい}へ行{いき}ねへ。ひよつとまた
うかれ仲間{なかま}が押込{おしこ}むといけねへから。」【仇】「なアにそうしちやア
ゐねへとヨ強情{がうじやう}でいけねへやアな。」【増】「マアいゝやアな。おめへが
そんな〔こと〕を言{いつ}てゐるからだ。サア私{わたい}と一処{いつしよ}にお出{いで}なせへヨ。アノ
子{こ}にかまはずサ。」[仇吉はたばこをのんでよこをむいて居る]増吉{ますきち}は先{さき}に立{たち}丹次郎{たんじらう}が
手{て}を取{とつ}て二階{にかい}へ行ながら下{した}を見{み}て【増】「仇{あ}の字{じ}我儘{がまん}を

(17ウ)
するの。」ト笑{わら}ひながらはしごを上{あが}る。色{いろ}の世界{せかい}のならひ
とてはじめて逢{あひ}し増吉{ますきち}が男{をとこ}をこなす取{とり}まはし垢抜{あかぬけ}し
たるそれしやの風情{ふせい}。それ婦多川{ふたがは}の水{みつ}たるや清{すむ}も濁{にご}る
も日{ひ}に幾度{いくど}色{いろ}の出汐{でしほ}に乗込{のりこむ}あればまた引汐{ひきしほ}の思案{しあん}
有{あり}。にじる程{ほど}猶{なほ}深{ふか}くなる。さてさま〴〵の水{みつ}加減{かげん}は生洲{いけす}の
魚{うを}をやしなふとやいはん。
[梅暦餘興]春色辰巳園巻之一終


----------------------------------------------------------------------------------
底本:国立国語研究所蔵本(W99/Ta81、1001142387)
翻字担当者:林禔映、矢澤由紀、島田遼、藤本灯
更新履歴:
2017年3月28日公開

ページのトップへ戻る