日本語史研究用テキストデータ集

> English 

浮世新形恋の花染うきよしんがた こいのはなぞめ

クリエイティブ・コモンズ・ライセンス

三編上

縦横切り替え ダウンロード

浮世新形恋の花染 三編上

----------------------------------------------------------------------------------
凡例
1.本文の行移りは原本にしたがった。
2.頁移りは、その丁の表および裏の冒頭において、丁数・表裏を括弧書きで示した。また、挿絵の丁には$を付した。
3.仮名は現行の平仮名・片仮名を用いた。
4.仮名のうち、平仮名・片仮名の区別の困難なものは、現行の平仮名に統一した。ただし、形容詞・副詞・感動詞・終助詞・促音・撥音・長音・引用のト等に用いられる片仮名については、原表記で示した場合がある。 〔例〕安イ、モシ、「ハイそれは」ト、意気だヨ、面白くツて、死ンで、それじやア
5.漢字は現行の字体によることを原則としたが、次のものについては原表記に近似の字体を用い、区別した。「云/言」「开/其」「㒵/貌」「匕/匙」「吊/弔」「咡/囁」「哥/歌」「壳/殻」「帒/袋」「无/無」「楳/梅」「皈/帰」「艸/草」「計/斗」「弐/二」「餘/余」
6.繰り返し符号は次のように統一した。ただし、漢字1文字の繰り返しは原本の表記にしたがい、「〻」と「々」を区別して示した。
 平仮名1文字の繰り返し 〔例〕またゝく、たゞ
 片仮名1文字の繰り返し 〔例〕アヽ
 複数文字の繰り返し 〔例〕つら〳〵、ひと〴〵
7.「さ」「つ」「ツ」に付く半濁点符は「さ゜」「つ゜」「ツ゜」として示した。
8.Unicodeで表現できない文字は〓を用いた。
9.句点は原本の位置に付すことを原則としたが、文末に補った場合がある。
10.合字は〔 〕で囲んで示した。 〔例〕殊{〔こと〕}に、なに〔ごと〕、かねて〔より〕
11.傍記・振り仮名は{ }で囲んで示した。 〔例〕人生{じんせい}
12.左側の傍記・振り仮名の場合は、冒頭に#を付けた。 〔例〕めへにち{#毎日}
13.傍記・振り仮名が付く位置の紛らわしい場合、文字列の始まりに|を付けた。 〔例〕十六|歳{さい}
14.原本に会話を示す鉤括弧が付いていない場合も、これを補い示した。また庵点は〽で示した。
15.原本にある話者名は【 】で示した。 〔例〕【はる】
16.割注・角書および長音符「引」「合」は[ ]で囲んで示した。
17.不明字は■で示した。
18.原本の表記に関する注記は*で行末に記入した。 〔例〕〓{たど}りて*〓は「漂+りっとう」
19.花押は〈花押〉、印は〈印〉として示した。
20.画中文字の開始位置に〈画中〉、広告の開始位置に〈広告〉と記入した。

本文の修正
1.翻字本文を修正した場合には、修正履歴を末尾に示す。
----------------------------------------------------------------------------------


(口1オ)
夫{それ}汗牛充棟{かんぎうじうとう}の小説{しやうせつ}。みな以{もつ}て
勧懲{くはんちやう}の意{ゐ}を専{もはら}とすといへ共。時好{じこう}に
随{したが}ひ世俗{せぞく}に媚{こび}て。やゝ婬蕩{いんとう}の媒{なかだち}と。
なるべき物{もの}も少{すく}なからず。去{さり}とて余{あま}り
堅{かた}くるしふ。なりては子供{こども}の機{き}にかな
わず。作者{さくしや}の用心{ようじん}こゝにあり。作者{さくしや}の用心

(口1ウ)
こゝにあり。爰{こゝ}に於俊{おしゆん}と伝兵衛{でんべゑ}が。
事蹟{じせき}を編{つゞ}る物{もの}がたりも。世{よ}には
沢{さは}なるものなれど。今{いま}外伝{ぐわいでん}を綴{つゞ}り
合{あは}し。三編{さんへん}をもて彼是{ひし}団円{だんゑん}す。爰{こゝ}
に至{いた}りて善{ぜん}と悪{あく}と。正{たゞ}しきと邪{よこしま}と。
始{はじ}めて差別{けぢめ}を見{み}るに至{いた}る。是{これ}より

(口2オ)
嚮{さき}に|婬戯{たはれ}たる。赴{おもむき}ありしは例{れい}の
作者{さくしや}が時好{じかう}に媚{こぶ}るの僻{へき}なりと。許{ゆる}し
給へと端書{はしがき}に。聊{いさゝか}責{せめ}を塞{ふさ}ぐのみ。
癸巳の季秋の日
松亭主人題

(口2ウ)
白藤{しらふぢ}民弥{たみや}
唄女{げいしや}阿俊{おしゆん}
拾遺十九
しのびつゝ
よるこそ
きしを
から衣

(口3オ)
人や見むとは
思はざり
しを
猿廻{さるまは}し
与次郎{よじらう}

(口3ウ)
福住{ふくずみ}
伝兵衛{でんべゑ}

(口4オ)
暗神明
濫之
明王者
正之
善悪

応報
白藤{しらふぢ}源作{げんさく}

(口4ウ)
[古今{ここん}珍説{ちんせつ}]柾{まさき}の嘉通良{かつら}[中本初編全三冊]*以下、広告
松亭金水作柳川重信画
これは世{よ}にありふれたる中本{ちうほん}の赴向{しゆこう}に縡{〔こと〕}かはり専{もは}ら
仁義{じんぎ}釈教{しやくけう}を旨{むね}として人情{にんじやう}世熊{せいたい}を詳{つまびらか}にし
色情{しきぜう}に溺{おぼ}るゝをいましめ義{ぎ}に勇{いさむ}を讃{ほめ}て頗{すこぶ}る
童男{どうなん}稚女{ちぢよ}のために勧善懲悪{くはんぜんちやうあく}の理{〔こと〕はり}濃{こまやか}ならしむ
作者{さくしや}の苦心{くしん}尤{もつとも}切{せつ}なり近日{きんじつ}出板仕候間相替らず御求
御覧可被下候且二編三編引つゞき聊置滞{ちたい}なく差出し申候
美艶仙女香[御かほのくすりおしろい][精法ます〳〵念を入諸国へ売弘申候不相替御求可被下候]
黒油美玄香[御しらがそめくすり][京橋銀座二丁目角坂本氏製]*以上、広告

(1オ)
[浮世{うきよ}新形{しんがた}]恋{こひ}の花曽女{はなぞめ}第三編巻之上
江戸 松亭金水編次
第七回
かゝる処{ところ}に表{おもて}より。与次郎{よじらう}どのは内にかと。の。声{こゑ}諸共{もろとも}に潜{くゞ}
り戸{ど}を。瓦落{ぐはらり}とひきあけ入{いり}来{く}。る両個{ふたり}。ものをもいはず白
藤{しらふぢ}民弥{たみや}が。右{みぎ}の腕{かいな}を丁{てう}と把{と}り。
「見{み}かけに似合{にあは}ぬ大光棍{おゝがたり}*原本に括弧なし
め。サア〳〵二人{ふたり}とも出{で}て失{うせ}おれ。」トいひさま表{おもて}へつき出{いだ}す。残{のこ}る
一個{ひとり}が色絹{いろぎぬ}をも。ともに表{おもて}へ搔{かい}やりて。ぴつしやり立切{たてき}る

(1ウ)
門{かど}の戸{と}に。うちもたれたる白藤{しらふぢ}が「ヲイこゝあけて下{くだ}せへ。
光棍{かたり}などゝいはれては。武士{ぶし}の一分{いちぶん}が立{たゝ}ねへは。」ト詈{のゝし}る声{こゑ}
を耳{みゝ}にもかけず「アヽやかましい素浪人{すらうにん}。まだ彼{かれ}これと
唇{くちびる}を動{うご}かすなら目{め}に物{もの}見{み}せうか。用{よう}があるなら一
昨日{おとつい}来{こ}い。」トいひ捨{すて}ておくに入{い}る。民弥{たみや}も固{もと}よりわる
だくみ。彼等{かれら}両個{ふたり}が身{み}のとりまはし。中{なか}〳〵|膂力{ちから}およ
ばずと。思ふものから「色絹{いろぎぬ}来{き}やれ。」と。二人{ふたり}つれだち急{いそ}*原本に括弧なし
ぎゆく。与次{よじ}郎はあと見送{みおく}り【与】「ヲヽよい所{ところ}へ寸八{すんはち}どの

(2オ)
門太{もんだ}どのもお揃{そろ}ひで。来{き}てくれたばツかりで。おりや
災難{さいなん}を逃{のが}れたぞへ。勿論{もちろん}あんなぐわた光{みつ}が。耳{みゝ}く
ぢりをひねくつたとて。何{なん}の怖{こわ}くもない訳{わけ}じやが。兇
身{あいて}になるだけ此方{こつち}の損{そん}。イヤモウ〳〵僅{わづか}ばかりの。後生
心{ごしやうごゝろ}をしたゆへ。とんだ光棍{かたり}にあはふとした。」トいへば門
太{もんた}はうち笑{わら}ひつ【門】「あんな奴{やつ}は以後{いご}の見せしめ。女{をんな}も男{をとこ}
も筋骨{すぢほね}を。引{ひき}ぬいてくれやうかと。思つたけれどノウ
寸八{すんはち}。この三人は大事{だいじ}の体{からだ}。いはゞ小事{せうじ}に抱{かゝは}つて。身{み}を

(2ウ)
過{あや}まつては済{すま}ねへから。マア〳〵直{すな}ほに追払{おつはらつ}た。つまる処{ところ}
はあいつらか。僥倖{しあはせ}といふものだ。」【寸八】「そうさ〳〵。おら逹{たち}が
懸{かけ}かめへのねへ体{からだ}なら。生{いか}しちやア通{とふ}さねへ。ときに
門太{もんた}そりやアいゝが。彼{かの}事{〔こと〕}をソレ与次郎子{よじらうし}に。」【門】「ムヽ〳〵夫{それ}
が肝心{かんじん}〳〵。さて与次郎どん二人{ふたり}して。来{き}たのはほかの
訳{わけ}でもないが。兼{かね}て尋{たづ}ねる雲竜丸{うんりようまる}の。往方{ゆくゑ}をすつ
かり聞出{きゝだ}したから。」【与】「ナニ〳〵剣{つるぎ}の在家{ありか}がしれたと。」【寸】「
しれてはゐるが肝心{かんじん}の。持主{もちぬし}めが往方{ゆくゑ}しれず。とは

(3オ)
いふ物{もの}のちかいうちには。たしかに手{て}に入{い}るに違{ちかひ}は
ねへ。」【与】「シテその剣{つるき}の持主{もちぬし}は。」【門】「ヲヽサ福住{ふくすみ}伝{てん}兵へといふ。」
【与】「ヤヽなに福住{ふくすみ}伝{てん}兵へとな。今{いま}突出{つきた}した女{をんな}めはその
伝{てん}兵への結号{いひなつけ}だか。伝{てん}兵へに。嫌{きら}はれて。それゆへ男{をとこ}
をこしらへて。にけた処{ところ}か路用{ろよう}をとられ。仕方{しかた}かねへ
と此{この}間{あいた}身{み}のうへ噺{はな}しを具{つふさ}にしたか。そんならあいつ
を捕{とら}めへて。」【両人】「イヤ〳〵アノ女{をんな}を捕{とら}めへても。伝{てん}兵へが往
方{ゆくゑ}はしれねへ。畢竟{ひつきやう}われ〳〵か男伊達{をとこたて}の。仲間{なかま}へ

(3ウ)
入{いつ}てあばれ歩行{あるく}も。元{もと}はといへば剣{つるき}の僉議{せんき}をし
たいといふから起{おこ}つた事。それとはしらすチトわけ
あつて。観音{くわんおん}の並木{なみき}で伝{てん}兵へめを。打{ふつ}しめやうとした
所{ところ}かなか〳〵手強{てこわ}い働{はたら}きで終{つい}に金三{きんさ}は命{いのち}を把{と}られ
そのとき俄{にはか}にふり出{た}す夕立{ゆふたち}。ハテ怪{あや}しいと思つたれど
伝{てん}兵へめは逃{にけ}てしまひ。詮事{せう〔こと〕}なしに福住{ふくすみ}やへかけ
合{あつ}ても埒{らち}あかず。それから箇様{かう〳〵}といふ理屈{りくつ}て白藤{しらふち}
の源作{けんさく}といふ浪人{らうにん}から。斯{こう}いふ書付{かきつけ}まで取て置

(4オ)
たが何{なに}をいふにも伝{でん}兵へめは。それから後{のち}の往方{ゆくゑ}が
しれず。しかし剣{つるぎ}の盗人{ぬすひと}が。伝{でん}兵へといふわけではねへ。
源作{けんさく}めが。仕{し}わざと見へれば。一穿鑿{ひとせんさく}と思つたけ
れど。肝心{かんしん}の宝{たから}がなくては。穿鑿{せんさく}しても埓{らち}あかすと
伝{でん}兵へめを捕{とら}へたうへで。どの道{みち}にもなる事と。しら
ぬふりで白藤{しらふち}めを。騙{だま}し課{おほ}せて取{とつ}た一札{いつさつ}。これ
せへあればノウ与次{よじ}どん。宝{たから}詮義{せんぎ}のみちは明{あい}た。近{ちか}い
うちにはしれやせうサ。おめへもその気{き}で伝{てん}兵へと

(4ウ)
いふ奴{やつ}を嗅{かぎ}つけたら。如在{ぢよさい}なく仕課{しおほ}なせへ。」【与次】「夫{それ}は
ちかごろお骨{ほね}おり。おれもいろ〳〵気{き}に気をつけて
飴売{あめうり}とまで身{み}を窶{やつ}して。探{さが}せどしれぬ宝{たから}の
往方{ゆくゑ}。マア〳〵何{なん}にしろお働{はたら}き。前{まへ}いわゐに一杯{いつはい}やらふ。」ト
鼠{ねづみ}いらずの戸{と}をあけて。とり出{いだ}したる燗徳利{かんどくり}。【与次】「ヤア〳〵
久{ひさ}しく酒{さけ}も飲{のま}ねへ証拠{せうこ}は。酒瓶{とつくり}てよくしれる。蜘{くも}
めがべつたり巣{す}をかけおつた。コレ寸八{すんは}若{わか}やくに酒{さけ}買{かつ}
て来{き}てくだせへ。裡{うら}の煮染{にしめ}やを覗{のぞい}て見てくれ。ちよつ

(5オ)
ぴり口{くち}とり大平{おゝひら}とはいくめへの。」【門太】「それよりかあの
横丁{よこてう}の天麩羅{てんふら}。」【寸八】「ナニ〳〵おれが赴向{しゆかう}がありやす。マア
徳利{とくり}と皿{さら}をかしな。」ト男所帯{おとこしよたい}は跡{あと}さきに。気{き}がね
もいらず水{みづ}いらす。やがて酒〓{さけさかな}をとゝのへて。三ン人|酔{ゑひ}*〓は「肴(偏)+攵」
をつくすおり。表{おもて}の方{かた}に人音{ひとおと}して。「モシちとお頼{たのみ}*原本に括弧なし
申ます。」と。いふ声{こゑ}聞{きゝ}つけ与次{よじ}郎が「なんだ若{わけ}ヱ女{をんな}の
声{こゑ}だの。またゆすりにでも逢{あひ}はしねへか。」【門太】「女{をんな}とあ
らば何{なん}でもいゝ。明{あけ}ていれねへ。」【寸八】「どれ〳〵おれが往{いつ}

(5ウ)
て見{み}やう。ハイおまへは何処{どこ}からへ。」トいはれて此方{こなた}は面{おも}
はゆげに「ハイわたくしは与次{よじ}郎さんにチトお頼{たのみ}申たい
事があつて参{さん}じましたが。お宿{やど}においでなさります
かへ。」【寸八】「ヱヽ内{うち}に居{ゐ}ます。ヲイ与次{よじ}さんちよつと来{き}ねへ。」ト
呼{よば}れて与次{よじ}郎にじり出{だ}し【与次】「アイ何処{どこ}から来{き}なす
つた。」【女】「ハイあなたが与次{よじ}郎さんか。この手簡{てがみ}を御覧{ごらう}じ
て。」ト出{だ}すをうけとり【与次】「ナニ〳〵花水橋{はなみづばし}の三八{さんはち}より。ホヽヲ
珍{めづ}らしい人{ひと}から手簡{てがみ}が来{き}た。ムヽ」ト少{すこ}しわけあつて

(6オ)
この二人{ふたり}をしばらくの内{うち}。おん舎蔵{かくまひ}おき下{くだ}さるべく候。
わけはちか〴〵御目{おめ}にかゝり。御はなし申べく候。
「ハヽア女中{ぢよちう}
さんこの二人{ふたり}とかいてあるが。おめへとそしてまだ外{ほか}に。」*原本に括弧なし
【女】「ハイ連{つれ}は男{をとこ}でござりますが。少{すこ}し道{みち}に用{よう}があつて
跡{あと}からまいります。」【与次】「何{なん}だか訳{わけ}はしりやせんが。三八|親
方{おやかた}よりたのみなら。何{なに}も仔細{しさい}ねへ。サア此方{こつち}へおあがりな
せへ。今日{けふ}は仲間{なかま}の衆{しゆ}が来{き}やして。みんなモウ生酔{なまゑひ}さ。」【女】「
それはおたのしみでございます。さやうなら御免{ごめん}な

$(6ウ)

$(7オ)

(7ウ)
はい。」ト居{すは}れば与次{よじ}郎|居{い}なほりて「其処{そこ}で二人{ふたり}と言{いひ}
なさるが夫婦{ふうふ}かへ。」【女】「ハイマアそんなもので。」【与次】「ムヽそんな
ものか。それで分{わか}りやした。よくある点{てん}だ。」トいふを聞{きい}て
寸八{すんはち}門太{もんた}「花水橋{はなみづばし}のいきな所{とこ}から二人連{ふたりづれ}で此{この}嶌{しま}へ
ながれ込{こむ}とは。ヱ。モシありがてへわけ合{あい}だね。チト何{なに}かお
土産{みやげ}でもありそうなものだ。わつちらがやうな野郎{やらう}
同士{どし}で。しがなく酒{さけ}を呑{のん}で居{ゐ}るものゝめへも有{あり}やす
ぜ。」【女】「イヱ何{なに}。そんなおかしらしい訳{わけ}ではございませんヨ。」

(8オ)
「イヤそふでもありやすめへ。」【与次】「ときにおめへの名{な}は
何{なん}といひなさる。」【女】「ハイ私{わたくし}はしゆんと申ます。」【与次】「フム
おしゆんさんか。ハテ花水橋{はなみづばし}の抱{かゝ}へに。おしゆんといふ
流行子{はやりこ}が有{あつ}たつけがおらア㒵{かほ}をしらねへ。おめへじやア
ねへかへ。」トいはれておしゆんは赤報{はなしろみ}【しゆん】「ハイ。」トいつた
ばかり。【与次】「ハヽアそうか。イヤ何{なん}にもしろ訳{わけ}も緩{ゆる}りと聞{きゝ}や
せうが。マア差当{さしあた}つて。ちよつとお間{あい}だ。」【しゆん】「ハイありが
たふ。」ト猪口{ちよく}をうけるに。与次郎{よじろ}が酌{しやく}の強{つよ}ければ。酒{さけ}は

(8ウ)
溢{あふ}れてはら〳〵と。手{て}へかゝれば懐{ふところ}を。さぐりてお俊{しゆん}
がとり出{いだ}す。鏡付{かゞみつき}の鼻紙{はながみ}いれ。紙{かみ}を引出{ひきだ}すその
はづみに。はらりと落{おち}たる割笄{わりかうがい}。与次{よじ}郎|目{め}ばやく
とりあげて【与次】「この笄にはおぼへある。どうして是を。」ト
問{と}はれては。こなたも不審{ふしん}に㒵{かほ}うち守{まも}り【しゆん】「是{これ}
はちつと訳{わけ}のある品{しな}。それを覚{おぼ}へのある品{しな}と。おつ
しやるおまへは星月{ほしづき}さまの。御家中{ごかちう}で天野{あまの}。」トいふ
を与次{よじ}郎が。引{ひき}とつて小{こ}ひざをすゝめ【与次】「ヲヽ天野

(9オ)
与次右衛門{よじゑもん}とはおれが事。そんならそなたは。」【しゆん】「おまへ
の妹{いもと}幼稚名{おさなな}しんでございます。」ト名乗{なの}れば不測{ふしぎ}や
同胞{はらから}がおもはずこゝに再会{さいくわい}を人{ひと}〴〵奇異{きい}の思ひ
をなす。【与次】「シテまたそなたはどうした事で。唄女{げいしや}に
なつて居{ゐ}やつたぞ。」【しゆん】「アイそのわけは斯{かう}でござんす。
少{ちい}さいときにおまへに捨{すて}られ。両親{りやうしん}もない悲{かな}しさ
には。何処{どこ}へ便{たよ}らふしまもないが。おとゝさんの妹御{いもとご}で
身{み}もちが悪{わる}くて勘当{かんどう}同{どう}やう。常{つね}には出入{でいり}もない

(9ウ)
伯母{おば}さん。聞{きけ}ば馬場町{ばゝまち}に片付{かたづい}てと。いふを宛{あて}どに
たづねてゆき。手足{てあし}伸{のば}して貰{もら}ふたも。みな伯母{おば}さん
の恩{おん}になり。」【与次】「その伯母御{おばご}とはおたゑの事か。」【しゆん】「
アイそうでございます。」【与次】「ハヽア馬場町{ばゝまち}に縁付{えんづい}て居{い}
たか。出入{でいり}がないからさつぱり知{し}らずだ。よく其処{そこ}へ
とは気{き}が付{つい}た。おれには仲{なか}〳〵ましだはへ。それから。」
【しゆん】「それから後{のち}はかういふわけ。」ト伝{でん}兵へが一埓{いちらつ}から
既{すで}に死{し}なふと思ひしより。三八に佐{たす}けられ。唄女{げいしや}と

(10オ)
なりし一伍一什{いちぶしじう}。また色絹{いろぎぬ}が奸計{かんけい}にて。箇様〻〻{かやう〳〵}
といふ事まで。かたりにけれど伝{てん}兵へは。人{ひと}を殺{ころ}せし
罪{つみ}もあり。世{よ}をしのぶ身{み}の一大事{いちだいじ}と。思へばそれと倶
倶{ともども}に来{きた}れるよしはいはすして。不図{ふと}した事で伝次
郎{でんじらう}と。いへる男{をとこ}といひかはし。花水橋{はなみづばし}にもいられぬ
わけ。それゆへこゝへ尋{たづ}ねて来{きた}り。その伝{でん}次郎もおし
つけに。迹{あと}よりまいる筈{はづ}なりと。偽{いつわり}いふも良人{おつと}が大
事{だいじ}と。思ひ込{こん}だる真心{まこゝろ}なり。聞{きい}て与次{よじ}郎は恟{ひつ}くりし

(10ウ)
「ハヽアそふか。ハテのふ。」ト霎時{しばし}ことはもなかりしが【与次】「親{おや}
もない一{ひと}人の妹{いもと}を。遺{のこ}しておれが家出{いへて}した。訳{わけ}は頓{やんが}て
直{ぢき}わかる。今{いま}はどふも噺{はな}されぬはへ。マア何{なん}にしろ互{たがい}
に無事{ぶじ}で。懁{めぐ}り合{あつ}たも。神{かみ}さまや仏{ほとけ}さまのおかけで
あろ。ヱヽハ〳〵泣{なく}な〳〵。イヤモ女{をんな}といふものは。嬉{うれ}しいにつけ
悲{かな}しいにつけ。兎{と}かく泪{なみだ}が出{で}ると見へる。そんなら
手{て}まへが惚{ほれ}あふた。伝{でん}次郎とやらも来{く}るであろ。おれ
も屋{や}しきへ帰参{きさん}するは。且{しはら}くのうちじやほどに。帰

(11オ)
参{きさん}さへした事なら。おれが身{み}の功{こう}に換{か}へても。伝次
郎{でんじらう}とやらを取立{とりたて}て。手{て}まへは御新造{ごしんぞ}さまにして
やらう。心{こゝろ}丈夫{じやうぶ}に居{ゐ}たがよい。」と了得{さすが}血肉{ちにく}を分{わけ}たり
し。同胞{はらから}はまた格別{かくべつ}に。噺{はな}す咄{はな}しも隔{へだて}なし。傍{そば}に
聞{きゝ}居{い}る寸八{すんはち}門太{もんた}「ハヽアそりやア頓{とん}だ事だ。割笄{わりかうがい}や
印籠{いんろう}で。兄弟{きやうだい}の名乗{なのり}をするやつは。よく中本{ちうほん}や草{くさ}
ざうしに有{ある}やつだが。なるほどそんな印{しるし}でもなくツ
ちやア。稚{ちい}せへときに別{わか}れた兄弟{きやうだい}なんぞは。なか〳〵

(11ウ)
しれねえのふ。ハテ珍{めづ}らしい。ホンニ噓{うそ}のやうだ。イヤなんに
しろマア恭喜{めでたい}〳〵。ときにモウ日{ひ}がくれるかの。どれお暇{いとま}
にしやせう。」【与次】「マアいゝじやアねへか。」「イヤ〳〵まだ色{いろ}〳〵用{よう}
がある。そんならまた近{ちか}いうちに。そして彼{かの}一件{いつけん}はぬか
りなく。」【与次】「百{ひやく}も承知{せうち}さ。」【二人】「ハイそんならば。」ト出{いで}てゆく。
おしゆんは其処{そこ}に喰{くひ}ちらせし。皿鉢{さらはち}を片{かた}づければ。与{よ}
次郎は先刻{せんこく}より。いたく酔{ゑひ}てや肘{ひぢ}まくら。足{あし}ふみ伸{のば}し
高{たか}いびき。おしゆんは其処{そこ}此処{こゝ}見まはして「ヲヽマア男

(12オ)
所帯{をとこしよたい}といつて。いくぢのなさ。いつ香〻{かう〳〵}を洗{あら}つた
桶{おけ}だか。糠{ぬか}がとつさり。ヱヽ穢{きた}ねへ。釜{かま}にもこれおまん
まが半分{はんぶん}移{うつし}かけてあるし。それはそうと闇{くら}くなつ
たが行灯{あんどう}が何処{とこ}だかしらん。」トひとり語{ごと}して押入{おしいれ}の
角{すみ}よりひき出{だ}す行灯{あんどう}へ。火{ひ}は移{うつ}しても油{あぶら}なし。下
土器{したがはらけ}をそとしたみ。指{ゆび}は小鬢{こびん}へぬりつけて。其処{そこ}ら
を仕{し}まふおりこそあれ。人{ひと}の気影{けわい}はたしかにそれと
見れば表{おもて}に徨{たゝ}ずむ人{ひと}かげ。声{こゑ}をひそめて「伝{でん}兵へ

(12ウ)
さんか。」「ヲイおしゆんか。」ト闇{くら}まぎれ。おしゆんは表{おもて}へ
たち出{いで}て。伝{でん}兵へが耳{みゝ}に口{くち}【しゆん】「おもひも寄{よ}らずこゝの
うちは。昔{むかし}わかれた吾儕{わたし}の兄{あに}さん。他人{たにん}の宅{うち}より心{こゝろ}
づかひを。しない斗{ばか}りもかすりだか。案{あん}じられるはお
まへの身{み}の上{うへ}。在{あり}のまゝにはいはれぬから。伝次{でんじ}郎といふ
人{ひと}と。ちと有情{わけ}あつてといふておいた。兄{あに}さんじやとて
ひさしく別{わか}れ。気{き}も心{こゝろ}もしれないから。油断{ゆだん}はなら
ぬ今{いま}の世{よ}の中{なか}。おまへも矢張{やつぱり}そのつもりで。マア当

(13オ)
分{とうぶん}は伝{でん}次郎さんと。名{な}を替{かへ}てお出{いで}なはいヨ。」【伝】「ムヽよし
〳〵。何{なん}でもいゝ。しかしこゝが兄貴{あにき}の宅{うち}とは。ハテ不測{ふしぎ}な
事だなア。してその兄貴{あにき}は。」【しゆん】「今{いま}友{とも}だちと酒{さけ}を飲{のん}
で。大酔{おゝよい}で寝{ね}て居{ゐ}るはね。誠{ま〔こと〕}にちやうどよかつたヨ。
ひよつとそうはない。おまヘは正直{せうぢき}もんだから。何{なに}も
かも在{あり}のまゝに。噺{はな}されちやア口{くち}がちがふし。ホンニ頓{とう}
からいひ合{あは}しておくとよかつたと。今{いま}まで大{おほ}きに気{き}
を遣{つか}つたはね。」【伝】「ばかアいひねへ。おれだツても先{さき}の

(13ウ)
容子{ようす}次第{しだい}で口{くち}を利{きく}はな。」【しゆん】「そうさ。おまへさんはお
利口{りこう}だからそふだらうが。私{わちき}の身{み}になつちやア。苦労{くらう}
だツたといふ事さ。おかアしな。」トつめる。【伝】「これサ痛{いて}へはな。
そこ所{どころ}じやアねへ。」【しゆん】「なぜへ。モウこゝへ来{く}りやアいゝじやア
ありませんか。そうして居{い}る内{うち}にやア。花水橋{はなみづばし}の親方{おやかた}
が引{ひき}うけて。どうでもしてやらうといふ物{もの}を。」【伝】「マア〳〵いゝ
はさ。何{なん}にしろ内{うち}へ這入{はい}らふ。」ト二人{ふたり}は手{て}をとり内{うち}にいる。
おしゆんは与次{よじ}郎を揺起{ゆりおこ}し。かくとかたれば与次{よじ}郎は

(14オ)
伝{でん}兵へに挨拶{あいさつ}し。おしゆんが兄{あに}なるよしもかたり。心{こゝろ}
おきなく逗留{とうりう}して。時節{しせつ}を待{まつ}て居{を}るべしと。いふ
に此方{こなた}も会釈{ゑしやく}して。花水橋{はなみづばし}の片{かた}ほとりに。住居{すまゐ}する
町人{てうにん}にて。名{な}は伝{でん}次郎といふよしを。名乗{なのり}てしばしの
食客{かゝりうと}。一日{ひとひ}二日{ふたひ}と過{すご}しけり。案下某生再説{それはさておき}白藤{しらふぢ}民弥{たみや}は
心{こゝろ}の計較{もくろみ}齟齬{くひちがい}て。寸八{すんはち}門太{もんた}に追{おい}はらはれ。色絹{いろきぬ}が
手{て}をとりて。此{この}家{や}をばたち出{いで}たれど。何処{いづく}をさして
往{ゆく}べき宛{あて}なし。殊{〔こと〕}に路用{ろよう}は残{のこ}りなく。護摩{ごま}の灰{はい}

(14ウ)
に奪{うば}はれて。たゞ一銭{いつせん}の貯{たくは}へなく。持{たの}みといへば身{み}*「持{たの}み」(ママ)
に著{つき}し大小{だいせう}合羽{かつぱ}のその外{ほか}には。活代{うりしろ}なすべき物{もの}
さへなければ。心{こゝろ}のうちにとつおいつ。さま〴〵思按{しあん}を
めぐらしつゝ。彼方{かなた}此方{こなた}と呻吟{さまよふ}うちに。その日も全{まつた}
く暮{くれ}けれど。宿{やど}を借{かる}にも一文{いちもん}なし。詮方{せんかた}なくて見{み}
まはせば。破{やぶ}れ果{はて}たる辻堂{つぢどう}あり。夜{よ}の明{あけ}たらば思
按{しあん}もあるべし。まづ〳〵今宵{こよひ}はこの辻堂{つぢどう}にと。いふ
を色絹{いろきぬ}頭振{かぶり}をふり【色】「ヱヽまアおまへとしたことが

(15オ)
私{わち}きやアこんな所{とこ}へ寝{ね}るのはいやだヨ。そう言{いつ}ちやア
可笑{おかし}らしいが。私{わち}きやア今{いま}まで和{やわ}らかな夜著{よぎ}蒲
団{ふとん}で育{そたつ}つたものだが。おまへと斯{かう}いふわけになつて
宅{うち}にも居{ゐ}られない義理{ぎり}になり詮事{せう〔こと〕}なしに宅{うち}を
出{で}るときにも。あらふ事かあるまい事か親{おや}の大
事{たいし}に仕廻{しまつ}ておく。金{かね}を二十両|盗{ぬす}み出{た}して。おまへに
そつくりわたしたも。こんな難義{なんぎ}がしたくなさゆへ。
夫{それ}をば人{ひと}に取{と}られてしまひ。そしてアノ猿{さる}まはしに

$(15ウ)

$(16オ)

(16ウ)
わたしを久{ひさ}しく預{あつ}けておき。マアそれもいゝが今日{けふ}の
やうに。痛{いた}くもない腹{はら}を探{さぐ}つて。ヤレ怪{あや}しいの蜜夫{まをとこ}だの
と。よくマアどの㒵{かほ}で。そんな事がいはれるねへ。そし
てあけくに突出{つきだ}されて。路用{ろよう}がないから此{この}辻堂{つちどう}へ
今夜{こんや}は寝{ね}やうと。誠{ま〔こと〕}に〳〵呆{あき}れかへつて私{わちき}は物{もの}か
いはれません。」【民弥】「イヤそりやア手{て}めへか尤{もつとも}。みんな
おれが悪{わる}いから。斯{かう}いふ始末{しまつ}になり行{いつ}のだが今更{いまさ}*「今更{いまさ}」(ママ)
それを百万{ひやくまん}だら。言{いつ}たとて返{かへ}らねへはさ。アノ猿{さる}

(17オ)
まはしに難題{なんだい}を。いひかけたといふわけも。元{もと}はと
いへば済{すま}ねへわけだが。ハテサ切取{きりどり}強盗{ごうどう}せへ。武士{ぶし}の
ならひといふじやアねへか。光棍{かたり}ぐれへはおろかな事
だ。猿廻{さるまは}しめも形容{なり}に似{に}あはず。小金{こがね}を持{もつ}て居{ゐ}る
やうすは。見ておいたから斯{かう}もしたら。大{だい}なり小{しやう}なり
わけ合{あい}が。つくだらうかと計較{もくろん}だも。苦{くる}しまぎれ
の悪法{あくほう}だは。それを手{て}めへが愚鈍{こけ}正直{しやうぢき}に。イヱ決{けつ}
してそんな事はござりませんの。ヤレ義理{ぎり}がすまぬ

(17ウ)
のと吼面{ほへづら}かわいていひ訳{わけ}は。却{かへつ}て此方{こつち}の妨{さまたげ}だア。
それだから見{み}ろ一文{いちもん}なしで。有漏〻〻{うろ〳〵}まごつく是{これ}
もまた心{こゝろ}がらなら身{み}は賤{いや}しけれだ。サア〳〵むづかしい
事をいはずと。可愛{かあい}がつたりがられた中{なか}だ。この辻
堂{つぢどう}で一睡{いつすい}の。ゆめを結{むす}ぶも風流{ふうりう}だらうぜ。」【色】「いや
〳〵否{いや}でございます。おまへのやうな働{はたら}きのない
人{ひと}に。喰付{くつつい}たがわたしの因果{いんぐは}だ。そりやアどふも仕
方{しかた}がない。怖{こわ}いゆめを見たと思つてこれからモウ

(18オ)
明{あき}らめます。お気{き}のどくだがどうぞ私{わちき}の宅{うち}へ。送{おく}り
とゞけておくんなさい。なんぼ母子{おやこ}の中{なか}だといつ
ても。阿容〻〻{おめ〳〵}かへられるわけではないが。乞食{こじき}を
するよりまだ増{まし}だ。サア送{おく}つて往{いつ}ておくれ。」ト民
弥{たみや}が袖{そで}を引{ひき}きとらへ。矢庭{やには}にあとへ引戻{ひきもど}す。【民】「
これさまア静{しづか}にしろへ。手{て}めへの心{こゝろ}が換{かわつ}たわけ
なら。望{のぞ}みどふりに送{おく}り返{かへ}すは。ずんどお易{やす}い御
用{ごよう}だがナ。これしきの事でヤレ否{いや}だの。別{わか}れるのと

(18ウ)
いふくらゐなら。先{せん}から内{うち}を出{で}ねへがいゝ。そしてこゝ
から道{みち}も遠{とほ}し。とても今夜{こんや}は往{いか}れねへ。」【色】「何{なん}
でもかでも送{おく}つておくれヨ。つれ出{だ}したのもおまへ
だから。送{おく}り帰{かへ}すもおまへに持{たの}むのサ。往{いか}れるの往{いか}*「持{たの}む」(ママ)
れねへのと何{なに}もそんなに。むづかしくいひなさる事
はあるめへ。モウ斯{かう}いひ出{だ}しちやア些{ちつ}との間{ま}でも。お
まへの側{そば}に居{ゐ}るのかいやだよ。余{あん}まり働{はたらき}のない
木偶{でく}じやアないか。」ト口{くち}から出次第{でしだい}悪口{あくこう}雑言{ぞうごん}。民

(19オ)
弥{たみや}も心{こゝろ}に一物{いちもつ}あり。これ幸{さいわ}ひとせき立{たち}て。色絹{いろぎぬ}
が髻{たぶさ}をつかみ【民】「いはせておけばべら〳〵と。口{くち}やか
ましい女{をんな}めだな。おれも手{て}めへに引{ひつ}かゝつて。心{こゝろ}に
もねへ苦労{くらう}をするはへ。宅{うち}に居{ゐ}りやア白藤{しらふぢ}さまの
弟御{をとゝご}と。人{ひと}にもいはれ高枕{たかまくら}で寝{ね}て居るのだ。
難義{なんぎ}をするは互{たがい}の事だ。否{いや}なら此方{こつち}も矢{や}ツ張{ぱり}
いやだぞ。これから内{うち}へ帰{かへ}るなら。勝手{かつて}しでへに帰{かへ}
りやアがれ。そのかはりには犢鼻褌{ふんどし}まで。引{ひつ}たく

(19ウ)
つて民弥{たみや}さまが。路用{ろよう}の足{た}しにせにやアならぬ。」ト
いひさま帯{おび}をさら〳〵〳〵。上著{うはぎ}下著{したぎ}も諸{もろ}ともに
脱{ぬが}せて小脇{こわき}に抱{かゝ}へこみ【民】「サアこれで手{て}めへの勝
手{かつて}に。何処{どこ}へでも失{う}しやがれ。ぐるむき裸{はだか}にして
もいゝか。繻伴{じゆばん}ばかりはこれまでの。好身{よしみ}と思つて*「繻伴」(ママ)
くれてやるは。」ト眼{め}をいからして詈{のゝし}れば。色絹{いろきぬ}周章{あはて}
泣{なき}さけび。民弥{たみや}が袖{そで}にとりついて。「ヱヽ情{なさけ}ない鬼{おに}*原本に括弧なし
よ蛇{じや}よ。かへせ戻{もど}せ。」と身{み}をあせれど。了得{さすが}女{をんな}の

(20オ)
甲斐{かひ}なさに。突飛{つきとば}され刎倒{はねたほ}され。あれよ〳〵と
一生懸命{いつせうけんめい}。さけべど泣{な}けど聞{きゝ}いれず。如法{によほう}闇夜{あんや}の
くらまぎれ。民弥{たみや}は袖{そで}をふりはらひ。何方{いづく}ともなく
立退{たちのき}けり。
恋の花染三編上之巻終


----------------------------------------------------------------------------------
底本:東京大学文学部国語研究室蔵本(A4:0089:3)
翻字担当者:成田みずき、島田遼、銭谷真人
更新履歴:
2017年7月26日公開

ページのトップへ戻る