日本語史研究用テキストデータ集

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浮世新形恋の花染うきよしんがた こいのはなぞめ

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二編下

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浮世新形恋の花染 二編下

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凡例
1.本文の行移りは原本にしたがった。
2.頁移りは、その丁の表および裏の冒頭において、丁数・表裏を括弧書きで示した。また、挿絵の丁には$を付した。
3.仮名は現行の平仮名・片仮名を用いた。
4.仮名のうち、平仮名・片仮名の区別の困難なものは、現行の平仮名に統一した。ただし、形容詞・副詞・感動詞・終助詞・促音・撥音・長音・引用のト等に用いられる片仮名については、原表記で示した場合がある。 〔例〕安イ、モシ、「ハイそれは」ト、意気だヨ、面白くツて、死ンで、それじやア
5.漢字は現行の字体によることを原則としたが、次のものについては原表記に近似の字体を用い、区別した。「云/言」「开/其」「㒵/貌」「匕/匙」「吊/弔」「咡/囁」「哥/歌」「壳/殻」「帒/袋」「无/無」「楳/梅」「皈/帰」「艸/草」「計/斗」「弐/二」「餘/余」
6.繰り返し符号は次のように統一した。ただし、漢字1文字の繰り返しは原本の表記にしたがい、「〻」と「々」を区別して示した。
 平仮名1文字の繰り返し 〔例〕またゝく、たゞ
 片仮名1文字の繰り返し 〔例〕アヽ
 複数文字の繰り返し 〔例〕つら〳〵、ひと〴〵
7.「さ」「つ」「ツ」に付く半濁点符は「さ゜」「つ゜」「ツ゜」として示した。
8.Unicodeで表現できない文字は〓を用いた。
9.句点は原本の位置に付すことを原則としたが、文末に補った場合がある。
10.合字は〔 〕で囲んで示した。 〔例〕殊{〔こと〕}に、なに〔ごと〕、かねて〔より〕
11.傍記・振り仮名は{ }で囲んで示した。 〔例〕人生{じんせい}
12.左側の傍記・振り仮名の場合は、冒頭に#を付けた。 〔例〕めへにち{#毎日}
13.傍記・振り仮名が付く位置の紛らわしい場合、文字列の始まりに|を付けた。 〔例〕十六|歳{さい}
14.原本に会話を示す鉤括弧が付いていない場合も、これを補い示した。また庵点は〽で示した。
15.原本にある話者名は【 】で示した。 〔例〕【はる】
16.割注・角書および長音符「引」「合」は[ ]で囲んで示した。
17.不明字は■で示した。
18.原本の表記に関する注記は*で行末に記入した。 〔例〕〓{たど}りて*〓は「漂+りっとう」
19.花押は〈花押〉、印は〈印〉として示した。
20.画中文字の開始位置に〈画中〉、広告の開始位置に〈広告〉と記入した。

本文の修正
1.翻字本文を修正した場合には、修正履歴を末尾に示す。
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(1オ)
[浮世{うきよ}新形{しんがた}]恋{こひ}の花曽女{はなぞめ}二編{にへん}巻之下
江戸 松亭金水編次
第六回
しのゝめのほがら〳〵と明{あけ}ゆけば。己{おの}がきぬ〳〵なるぞわびしき
と故人{こじん}の詠哥{ゑいか}も今{いま}こゝに。思ひぞ出{いづ}る伝{でん}兵へと。おしゆんが今
宵{こよひ}新{にい}まくら。つもる思ひの睦言{むつ〔ごと〕}も。まだ尽{つき}なくに明方{あけがた}の
別{わかれ}をおしみわれぞまづ。鶏{とり}よりさきに啼{なき}かこつ。涙{なみだ}の玉{たま}か
軒{のき}をうつ。雨{あめ}さへ頻{しき}りなりけるに。門{かど}の戸{と}あけて衝{つ}と

(1ウ)
はいる。主{あるじ}三枡{みます}や三八は。火鉢{ひばち}のまへにどつかと坐{ざ}せば。下女{げぢよ}
は嚮{さき}より起出{おきいで}て。烟草{たばこ}の火{ひ}をとりさし出{いだ}す。【三八】「アヽゆふべは
是非{ぜひ}帰{かへ}らふと思つたに。ツイ遅{おそ}く成{なつ}て帰{かへ}りそびれた。さぞ
淋{さみ}しかつたらう。」と。いふ声{こゑ}聞{きゝ}つけ一間{ひとま}より。おつるは寝{ね}まきの
姿{すがた}にて立{たち}いで【つる】「旦那{だんな}おはやう。」【三】「ヲイ〳〵ゆふべはどうだつたな。
お俊{しゆん}は何処{どこ}にゐる。」ト問{とは}れて了得{さすが}うぢ〳〵と【つる】「アノ二階{にかい}の。」【三】「ナニ
二階{にかい}だ。おれが留守{るす}は猶{なを}の事。皆{みんな}一所{いつしよ}に寝{ね}ればいゝのに。そして
ソレ己{おれ}がかねて言{いつ}ておく事。手{て}めへも呑込{のみこん}で居{い}るじやアねへか。

(2オ)
何{なん}にしろ早{はや}く行{いつ}て起{おこ}して来{こ}いヨ。」【つる】「かねておまへがいひつけの
お俊{しゆん}さんが身{み}のうへに。若{もし}もの事が有{あつ}てはと。夫{それ}は大{たい}てい気{き}を
つけて。それとはなしに異見{ゐけん}もしたり。いろ〳〵にして今日{けふ}此頃{このごろ}は
悪{わる}い了簡{れうけん}の根{ね}を切{きり}ました。あんじる事はございませんよ。」【三】「
夫{それ}でもどふも油断{ゆだん}がならねへ。マア〳〵早{はや}く往{いつ}て見ろ。」ト心{こゝろ}
つがひはその始{はじ}め。捨{すて}に出{いで}たるおしゆんが命{いのち}を。救{すく}ふてこゝへ*「つがひ」の濁点ママ
つれて来{き}て。納得{なつとく}さして唄女{うたひめ}の。業{わざ}はさしても女気{をんなぎ}の。せま
きは世上{せじやう}のならひにて。万{まん}に一{ひと}ツも過{あやまち}の。ありては救{すく}ひし甲斐{かひ}

(2ウ)
もなしと。思ふものから斯{かく}までに。心{こゝろ}を配{くば}るものなるべし。おつるは
主人{しゆじん}の帰{かへ}らぬさきに。まづ伝{でん}兵へを帰{かへ}さんと。思ひの外{ほか}に三八が。早
帰{はやがへ}りさへ胸{むね}につかへ。おしゆんをこゝへ伴{とも}なはゞ。伝{でん}兵へが身{み}の進退{しんたい}を
いかゞはせんと疵{きづ}もつ足{あし}の。すゝみかぬれど是非{ぜひ}なくも。二階{にかい}へ往{ゆき}
て一間{ひととま}をあけ。屛風{びやうぶ}のそとより音{おと}なへば。アイと答{いら}へてかほ
つき出{だ}すお俊{しゆん}が耳{みゝ}に口{くち}をよせ。箇様〻〻{かう〳〵}と低語{さゝやく}に【しゆん】「アイサ
今{いま}帰{かへ}ると言{いつ}て。支度{したく}をした所{ところ}へ。どふやら旦那{だんな}が帰{かへ}りのやうす。
ハテどふしたらと二人{ふたり}して。色〻{いろ〳〵}思按{しあん}をして居{ゐ}る所{ところ}。」【つる】「生憎{あやにく}

(3オ)
旦那{だんな}のはや帰{がへ}り。アヽどふも仕方{しかた}がねへ。マア〳〵おめへ下{した}へ往{いき}なヨ。
うぢ〳〵手間{てま}を取{とつ}て居{ゐ}て。旦那{だんな}がこゝへ来{き}て見りやア。尚〻{なを〳〵}
間{ま}が悪{わる}いはな。今{いま}にソレ湯{ゆ}に往{いく}だらふ。その間{ま}にチヨイと伝{でん}
兵へさんを。お帰{かへ}し申しやア理屈{りくつ}はねへはな。」【しゆん】「そんならお
まへいゝやうに。」【つる】「オツト承知{せうち}だ。サア早{はや}く。」トいふうちにはや三八は
堪{こら}へかねてや踏落〻〻{どし〳〵}と。上{あが}る二階{にかい}の音{おと}聞{きこ}へて。おつるが後{うしろ}に
すつと立{たつ}【つる】「ヱヽおまへさんもせわしない。マア其処{そこ}にお出{いで}なはいヨ。
サアおしゆんさん早{はや}く起{おき}な。」ト気色{けしき}を見せぬ気顛{きてん}のおつる。

(3ウ)
おしゆんはハツト打{うち}さはぐ。胸{むね}をしづめて立出{たちいづ}れば【三】「ヲヽおしゆん
目{め}が覚{さめ}たか。イヤ何{なに}も此{この}やうに。遽{あはたゝ}しく起{おこ}すでもねへが。急{きう}に咄{はな}
さにやアならぬわけが有{あつ}ての事だ。何{なに}も案{あん}じる事でもねへ。
マア〳〵下{した}にゐなせへ。おつるこゝへ烟草盆{たばこぼん}を持{もつ}て来{き}て呉{くん}なせへ。」
ト障子{せうじ}の外{そと}に座{ざ}をしむれば。内{うち}には伝兵へ蒲団{ふとん}のうへに
起{おき}なほりつゝ今{いま}さらに。身{み}も動{うご}かされず息{いき}をのみ。それが容{よふ}
子を聞{きゝ}ゐるに。おしゆんは其処{そこ}に居{すは}りても。一間{ひとま}のうちの
気{き}にかゝり。夕立雨{ゆふだちあめ}に路{みち}行{ゆく}人{ひと}の。足{あし}をはやめる心地{こゝち}して

(4オ)
三八が㒵{かほ}うち守{まも}れば。おつるは下{した}より烟草{たばこ}ぼん。烟管{きせる}も
ともに持来{もちきた}り。主人{しゆじん}のまへに閣{さしおく}にぞ。三八はゆう〳〵と
たばこくゆらし【三】「サア咄{はな}しといふは外{ほか}でもないが。一体{いつたい}そなたが
大川{おほかは}へ。身{み}を投{なげ}やうとした所{ところ}へ。通{とほ}り懸{かゝ}ツてヤレふ便{びん}な。若{わか}イ
女の強死{むりじに}は。多{おほ}くは色{いろ}の縺{もつ}れ合{あい}か。左{さ}なければ継母{まゝはゝ}がつ
らくするとかいふ事から。可惜{あたら}命{いのち}を捨{すて}るもある。何{なん}にもしろ
此{この}場{ば}を救{すく}つて。訳{わけ}を逐一{ちくいち}聞{きい}て見て。佐{たす}かる筋{すぢ}なら佐{たす}けうと
無理{むり}に其方{そなた}を連{つれ}て来{き}て。容子{よふす}をきけば。箇様〻〻{かう〳〵}と。福

(4ウ)
住{ふくずみ}やの一埓{いちらつ}から。伝{でん}兵へどのゝ一件{いつけん}まで。聞{きい}て見りやア何{なに}も是{これ}
命{いのち}を捨{すて}るがものもないと。異見{いけん}に異見を加{くは}へた上{うへ}。悪{わる}いやう
にも計{はか}らふまいと。すゝめて唄女{げいしや}をさしておくも。わが田{た}へ水{みづ}を
引{ひか}うといふ。慾{よく}ばかりでしたでもない。その風聞{ふうぶん}が何{なん}となく
聞{きこ}へて見たら伝{でん}兵へどのも。いよ〳〵慕{した}ふ志{こゝろざし}が。ある物{もの}ならば
尋{たづ}ねてござらう。叔母御{おばご}の宅{うち}に居{ゐ}ればこそ。義理{ぎり}の張{はり}
のと面倒{めんどう}な。かういふ身{み}になつて見りやア。懸{かけ}構{かまひ}はない訳{わけ}と
思つたゆへに唄女{げいしや}をも。さしておいたといふ訳{わけ}だが。こゝに一ツ

(5オ)
難義{なんぎ}ができたて。昨日{きのふ}花会{はなくわい}の崩{くづ}れから。郭里{くるは}へ往{いか}ふと
大勢{おほぜい}づれ。並木{なみき}を通{とほ}る火{ひ}ともし頃{ごろ}。ソレ喧嘩{けんくは}よと大騒{おほさは}ぎ
駈{かけ}よつて容子{よふす}を見れば。凶身{あいて}は凶児{わるもの}の金三{きんざ}が一群{ひとむれ}。さきの人
は伝{でん}兵へどの。まだ近付{ちかづき}にはならねへが。薄〻{うす〳〵}㒵{かほ}はしつてゐる。
是{これ}はひよんなと見るうちに。伝{でん}兵へとのは脇差{わきざし}を。引{ひき}ぬいて金
三{きんざ}めを。何{なん}の苦{く}もなく一{ひと}ゑぐり。其{その}まゝ何処{どこ}へか逃{にげ}さしツたか
跡{あと}で金三{きんざ}が子分{こぶん}子方{こかた}。あいては福住屋{ふくずみ}伝{てん}兵へだ。人殺{ひところし}をおつかけ
ろと。立{たち}さはいだが人込{ひとごみ}で。伝{でん}兵へどのは危{あやふ}い場所{ばしよ}を。逃{にげ}伸{のび}ら

(5ウ)
れた容子{よふす}なれど。定{たし}かに夫{それ}と名{な}をしられちやア。否応{いやおう}な
らぬ人殺{ひとごろし}。ハテサテ気{き}の毒{どく}千万{せんばん}な。どういふ訳{わけ}かしらねへが
よく〳〵な事なりやこそ。金三{きんざ}めを手{て}に懸{かけ}られたらう。
そなたが是{これ}を聞{きい}たなら。歎{なげ}くであらう可愛{かわい}そうにと
思つたら一足{ひとあし}も。すゝまれなんだが連{つれ}もあり。直{ぢき}に引{ひき}かへす
事もならず。昨夜{きのふ}は郭里{くるは}で夜{よ}をあかし。連{つれ}をおいて暗{くら}イ
うちに帰{かへ}つて来たも。そのわけをそなたに咄{はな}して聞{きか}せ
たさ。夫{それ}に就{つい}ちやア伝{でん}兵へどのも。なか〳〵宅{うち}にやアござる

(6オ)
めへ。何処{どこ}にか隠{かく}れて居{ゐ}さつしやらうが。どふぞこれ
こゝへでも尋{たづ}ねてござりやア。及{およ}ばずながら倶〻{とも〴〵}相譚{さうだん}の
仕方{しかた}もあるが。ハテ困{こま}つたものだ。」ト手{て}を叉{こまぬき}て思按㒵{しあんがほ}。お俊{しゆん}は
いまだ伝{でん}兵へより。此{この}事{〔こと〕}をば聞{きか}ぬゆへ。さてはそうかとい
とゞなを。打{うち}さはぎたる胸{むね}のうち【しゆん】「そんならアノ伝兵へ
さんは。人殺{ひとごろ}しをさしやつてかへ。」ト只管{ひたすら}呆{あき}れてお隺{つる}が㒵{かほ}。見{み}
れば此方{こなた}も見つめる㒵{かほ}。わつと計{ばか}りに泪{なき}伏{ふ}せば【三】「コレサ〳〵
泣{なか}ずといゝはサ。伝{でん}兵へどのが殺{ころ}されたといふではなし。」

$(6ウ)

$(7オ)
妓亭{げいしやや}の主{あるじ}
義{ぎ}を立{たて}

伝{でん}兵への
危急{ききう}を
すくふ

(7ウ)
【しゆん】「夫{それ}でもおまへ人殺{ひとごろ}しは。解死人{げしにん}とやらになるといふ。」【三】「ヲヽサ
其処{そこ}だて。浮〻{うか〳〵}して捕{とら}へられたらそふもならうが。まづ〳〵
暫{しばら}く身{み}を隠{かく}し。時{とき}が立{たて}ばまたどふとも。其処{そこ}には工夫{くふう}の仕
方{しかた}があるて。モシナア。こゝへ伝{でん}兵へどのが尋{たつ}ねてござつて。是{これ}この
四畳{よぢやう}のうちにかくれてゞもござるといふ訳{わけ}だと。いゝ了簡{りようけん}が
あるけれど。」ト聞{きい}ておしゆんは㒵{かほ}ふりあげ。いつそ打{うち}あけ
これ爰{こゝ}にと。いはんとせしが胸{むね}をし沈{しづ}め【しゆん】「どふぞ旦那{だんな}
おまはんの。よい智恵{ちゑ}かしてアノお方{かた}が。佐{たす}かる事なら佐

(8オ)
けたい。マアどふすれば此{この}難{なん}が。佐{たす}かりますへ。」ト泪{なみだ}ながらに
膝{ひざ}すりよすれば。三八はお隺{つる}が㒵{かほ}を。じろりと見て【三】「
工夫{くふう}といふは外{ほか}でもない。どふせこゝらは繁花{はんくは}な所{ところ}で人
目{ひとめ}もおほくなか〳〵に。舎蔵{かくまふ}などゝいふ〔こと〕は。思ひも付{つか}ぬ事
ながら。暫{しばら}くのうち身{み}を隠{かく}すに。屈竟{くつきやう}な所{ところ}といふは。忍{しのぶ}が
岡{おか}の片{かた}ほとり。簗架{やなか}といふ所{ところ}に。おれが兄弟{きやうだい}同{とう}やうにする
男{をとこ}がある。其処{そこ}へ往{い}て隠{かく}れたら。仲〻{なか〳〵}しれる事ではないが。
何{なに}をいふにも伝{でん}兵へどのに。逢{あは}にやアどふも相譚{さうだん}も。なら

(8ウ)
ねへといふやうなもの。シタガ。おしゆんよく聞{きゝ}な。手{て}めへをかう
して無理{むり}無体{むたい}に。こんな商売{せうばい}をさせておくも。それほど
までに互{たがい}に思ふ。胸{むね}もいつしか晴{はら}してやりたサ。おれも色〻{いろ〳〵}
気{き}を揉{もん}だが。不慮{ふりよ}な事の出来{でき}たといふが。いはゞ手{て}めへ
の不運{ふうん}といふもの。翌{あす}にもあれ伝{でん}兵へどのゝ。身{み}に難渋{なんぢふ}の
かゝつたと。聞{きい}たらよもや生{いき}ても居{い}めへ。とはいふものゝ当人{たうにん}に
逢{あひ}もせずに命{いのち}を捨{すて}ても。掾{えん}の下{した}の|膂力持{ちからもち}。また死{し}ぬば
かりを貞女{ていぢよ}ともいはねへサ。死{し}は一旦{いつたん}にして易{やす}く。生{せい}は百

(9オ)
慮{ひやくりよ}のうちに全{まつた}しで。死{し}ぬのはいつでも出来{でき}るから。甲斐{かひ}ない
女{をんな}の疲腕{やせうで}でも。いとしい男{をとこ}が生死{せうし}の堺{さかい}を。佐{たす}ける工夫{くふう}が肝
心{かんじん}だらう。ノウおつるそふじやアないか。」【つる】「それは至{し}ごく尤{もつとも}たがお
しゆんさんも私{わたし}どもとおなじ事で。何{なに}をどふしてよい事か。ノウ
おしゆんさんお先{さき}真暗{まつくら}。」【しゆん】「マアどふしたら旦那{だんな}さん。伝{でん}兵へさん
を救{すく}はれませう。」【三】「まづさし当{あた}つて身{み}を隠{かく}すより。外{ほか}にやア
工夫{くふう}も有{ある}めへサ。勿論{もちろん}アノ人も福住{ふくずみ}やには居{い}なさるめへが
まだ〳〵漸〻{よう〳〵}ゆふべの事。所詮{しよせん}旅{たび}他国{たこく}へ出{で}る事じやアなし

(9ウ)
何{なん}でも此処等{こゝら}の界間{かいわい}に。うろ〳〵として居{い}なさらうと。マア〳〵
おれが勘{かん}つけたが。若{もし}そふならば手{て}めへ今{いま}から。居所{ゐどこ}を尋{たづ}ねて
男{をとこ}に逢{あつ}て。さきの胸{むね}をも聞{きい}て見て。簗架{やなか}へ逃{にげ}こむ積{つもり}
なら。おれが手簡{てがみ}を付{つけ}てやらうサ。アヽしかし夫{それ}も面倒{めんどう}だ。
そして些{ちつと}もはや手{で}廻{まは}しがいゝ。今{いま}すぐに手簡{てがみ}をやらう。夫{それ}
をもつて伝{でん}兵へどのゝ。居所{ゐどこ}を尋{たづ}ねて譚合{だんかう}して。手{て}めへも一
所{いつしよ}に往{いく}がいゝ。サアその上{うへ}では手{て}めへの働{はたら}きで。一年{いちねん}なり
半{はん}としなり。伝{でん}兵へどのを育{はごく}まにやアならねへ。其処{そこ}は手{て}

(10オ)
めへの胸{むね}にあらうサ。そんなら二人{ふたり}を恃{たの}みの手簡{てがみ}。一筆{ひとふで}書{かい}て
やりませう。」と。硯{すゞり}とりよせさら〳〵と。認{したゝ}めおはりてお俊{しゆん}に
わたし【三】「所書{ところがき}は委{くは}しくしてある。猿{さる}まはしの与次郎{よじろう}と。聞{きけ}ば
直{ぢき}にしれるはへ。偖{さて}その上{うへ}で時{とき}過{すぎ}りやア。おれが年来{ねんらい}懇
志{こんし}にする。役人衆{やくにんし}へ頼{たの}みをかけて。どふかかうか伝{でん}兵へどの
を。無難{ぶなん}におさめる工夫{くふう}もあるから。マア夫{それ}までの当座{とうざ}し
のぎ。ナ。よしか。心得{こゝろえ}たか。サア〳〵早{はや}く准備{したく}して。男{をとこ}の居所{ゐどこ}を
尋{たづ}ねるが肝心{かんじん}だ。若{もし}も近所{きんじよ}で逢{あつ}たにもしろ。モウおれに

(10ウ)
礼{れい}の何{なん}のと。義理{ぎり}だてして出這入{ではいり}するなヨ。人{ひと}の目面{めつら}にかゝれば
よくねへ。サア〳〵早{はや}く尋{たづ}ねに出{で}たり。是{これ}せへいへば外{ほか}に用{よう}なし。アヽ
おれも胙夜{ゆふべ}から。大{おほ}きに気{き}を揉{もん}だ。ドレ〳〵下{した}へ往{いつ}て休{やす}みやせう。」
ト階子{はしご}はた〳〵下{お}りてゆく。うしろ影{かげ}を見おくるおしゆん。手{て}を
あはしてふし拝{おが}み。「ヱヽありがたい。かたじけない。御恩{ごおん}はわすれおき
ませぬ。」ト礼{れい}の〔こと〕ばも口{くち}のうち。折{おり}から㒵{かほ}を突{つき}だす伝{でん}兵へ「ヤア
おつるさんおしゆんぼう。今{いま}のはなしを聞{きい}たなら。さぞ恐{おそろ}しくおも
はふが。訳{わけ}もわからぬ途中{とちう}の狼藉{らうぜき}。やむ事を得{え}ずその始末{しまつ}

(11オ)
昨夜{ゆふベ}もいつそうち明{あけ}て。はなそふとは思つたが。イヤ〳〵女と言{いふ}
ものは。心{こゝろ}の陜{せま}いものなるに。そのやうな事いふたなら。どふなる
事と歎{なげ}くであらう。とそれが不便{ふびん}ではなしはせなんだ。
夫{それ}に付{つけ}ても此処{ここ}の主{あるじ}。三八どのが義心{ぎしん}の情{なさけ}。かたじけない
ともうれしいとも。詞{〔こと〕ば}に礼{れい}は尽{つく}されず。聞{きく}たび〔ごと〕に泣{ない}て
ゐた。何{なに}は兎{と}もあれ折角{せつかく}の。志{こゝろざし}を捨{すて}られず。マア〳〵ひとまづ
簗架{やなか}へゆき。与二郎{よじろう}とやらを恃{たの}んで見やう。しかしおしゆんは世{よ}の
中{なか}に。懸構{かけかま}いない身{み}のうへ。この罪人{つみんど}の伝{でん}兵へと。倶〻{とも〴〵}苦{く}らう

(11ウ)
せずとの事。マアおればかり簗架{やなか}へいかふヨ。」【しゆん】「ヱヽおまへもまだそん
な。邪慳{じやけん}な事をおいひだネ。今{いま}も旦那{だんな}があれほどに。いひな
すつたを聞{きい}てゞあらふ。たとへ梁架{やなか}へ往{いつ}たとて。好自由{すきじゆう}に
出{で}あるきのなる体{からだ}ではあるまいし。独{ひとり}でどふするつもりだへ。
大{おほ}かたわたしを出{だ}しぬいて。簗架{やなか}へいかずに死{し}なふといふ。了
簡{れうけん}でゝもありませうが。死{し}ぬなら吾儕{わたし}を手{て}にかけて。そふ
して死{し}んでくださんせ。」ト声{こゑ}を呑{のむ}なる忍{しの}び泣{なき}。側{そば}に見{み}かねて
小膝{こひざ}をすゝめ。お隺{つる}も泪{なみだ}の声{こゑ}を低{ひそ}め「そりやアお俊{しゆん}さん

(12オ)
が尤{もつとも}だ。憂{うい}もつらいも世{よ}の中{なか}の。男{をとこ}にしたがふ女{をんな}のならひ
苦労{くらう}はおろか命{いのち}でもと。思ふが誠{ま〔こと〕}の深実{しんじつ}づく。伝{でん}兵へ
さんそこ聞{きゝ}わけて。簗架{やなか}へお出{いで}の了簡{れうけん}なら。コノ子{こ}も一所{いつしよ}に。」
【伝】「おれとてもそふしたいが。一人身{ひとりみ}でさへ行{ゆく}さきの。しれねへ
所{ところ}を女をつれては。みす〳〵二人{ふたり}が難義{なんぎ}になるゆへ。」【つる】「では
あらうとも是{これ}ほどまでに。実{ま〔こと〕}をつくすコノ子{こ}の心{こゝろ}も。些{ちつと}
はわけておやんなさい。」ト喞{かこつ}二人{ふたり}が言{〔こと〕}の葉{は}も。無理{むり}ならねばや
伝{でん}兵へも。今{いま}は思按{しあん}に呉羽鳥{くれはどり}。別{わか}れもおしや鴛鴦{をしどり}の。離{はな}れ

(12ウ)
がたなき丁番{てうつが}ひ。二枚{にまい}屛風{びやうぶ}に身をかくす。宿{やど}もながらの
鵜飼舟{うかいぶね}。篝火{かゞりび}ならで諸共{もろとも}に。胸{むね}のみ焦{こが}れ焦{こが}しつゝ。かり
寝{ね}の宿{やど}の楼{たかどの}に。露{つゆ}の情{なさけ}も後{のち}終{つひ}に。渕瀬{ふちせ}とならんもの
おもひ。あはれ果敢{はか}なき身{み}のはてと。手を叉{こまぬき}て居{い}たり
しが。かくてあるべき身{み}にもあらずと。心{こゝろ}を心でとりなをし
かへす〳〵も女子{をなご}を将{ゐ}て。往{ゆく}は便{びん}なく思へども。しゐて残{のこ}さば渠{かれ}
もまた。悪{あ}しき心{こゝろ}の出{いで}もやせんと。思ふものから其{その}意{い}にまかせ
おつるに厚{あつ}く礼{れい}をのべ。世{よ}に立{たち}いづる事あらば。その時{とき}深{ふか}く

(13オ)
謝{しや}すべしと。いとま乞{ごひ}つゝ三枡{みます}やの。脊口{うらぐち}よりして立{たち}いづる。
おしゆんは今{いま}さら同胞{はらから}にも。まして中{なか}よき傍輩{ほうばい}の。おつる
に別{わか}るゝ胸{むね}くるしさ。そんなら逹者{たつしや}でおまめでと。いふも
泪{なみだ}のはてしなき。心{こゝろ}残{のこ}して出{いで}てゆく。這説{このはなしは}休題{しばらくおく}。こゝに
猿廻{さるまは}しの与次郎{よじろう}は。昨日{きのふ}よりの雨降{あめふり}にて。商売{せうばい}にも出{いで}がたく。
手飼{てがひ}の猿{さる}にものをしへんと。此{この}ほどこの家{や}に食客{かゝりうと}の。女子{をなご}
に三弦{さみせん}ひかせつゝ。うたふ小唄{こうた}もだみ声{ごゑ}に。踊{をど}りを仕{し}こむ
をりこそあれ「与次郎{よじろう}とはこゝなるよ。」ト音{おと}なふ声ともろ共{とも}

$(13ウ)
武{む}さしのに
ありといふなる
逃水{にげみづ}のにげ
かくれても
世をすぐさ
ばや

(14オ)
に門{かど}の格子戸{かうしど}ひきあけて。入来るものは旅{たび}の侍{さふらひ}。年齢{としごろ}二十四五
なるべきが。茶柄{ちやづか}の大小{だいしやう}閂{かんぬき}ざし。もゝ引{ひき}脚半{きやはん}に身軽{みがる}の打扮{でたち}。奥{おく}
のやうすをうかゞひしが。物{もの}をもいはず衝{つ}と通{とふ}り。|四辺{あたり}に眼{まなこ}を
くばりつゝ。肘{ひぢ}うち張{はつ}て与次郎{よじろう}と。かの女子{をなこ}とが間{あはひ}に座{ざ}す。女子{をなご}
は見るより三弦{さみせん}かいやり「ヲヤおまへよく知{し}れたネ。わちきやアいつ゜そ苦労{くらう}になつて。」ト半{なかば}いはせず白眼{にらみ}つけ【男】「ヤアべら〳〵と
囂{かし}ましい。だまれ〳〵。」と叱{しか}りつけ。与次郎{よじろう}が㒵{かほ}うち守{まも}り「其{その}許{もと}が
与次郎{よじろう}とかいふ。此{この}家{や}の主{あるじ}の猿{さる}まはしか。」【与二】「ヘイ〳〵さやうでござり

(14ウ)
ます。シテおまへさまはこの女中{ぢよちう}の。」トいはせもあへず声{こゑ}はり
あげ「不知{ふち}案内{あんない}の旅人{りよじん}とあなとり。貯{たくは}への金子{きんす}のみならず
女房{にようほう}までをうばひさり。ぬく〳〵としてこの所{ところ}に。かくれ
て何{なに}か心地{こゝち}よげに。三弦{さみせん}などを弾{ひき}ならし。たのしんでゐる
面{つら}のにくさ。其{その}許{もと}ばかりか女房{にようぼう}の。色絹{いろぎぬ}までが不敵{ふてき}の
くせもの。人{ひと}はしるまい〳〵と。思ふであらうが天{てん}の網{あみ}。めぐり逢{あつ}
たはわいらが不運{ふうん}だ。刀{かたな}の手{て}まへ捨{すて}おかれず。天下{てんか}の掟{おきて}の
二ツ胴{ふたつどう}。くはんねんひろげ。」ト白眼{ねめ}つければ。与次郎{よじろう}は聞{きゝ}もあへず

(15オ)
呵〻{から〳〵}とうちわらひ【与二】「ヤヽこゝなお侍{さふらひ}は。身{み}におぼへもない罪{つみ}
難題{なんだい}。けしからぬ衒{かたり}じやぞへ。アノ何{なん}でそのやうに。腹{はら}立{たて}てい
はつしやる。全体{ぜんたい}ならばイヤ大{おほ}きに。世話{せわ}で有{あつ}たと一{いち}ごんの
礼{れい}をいふてよい所{ところ}。」【侍】「盗人{ぬすびと}不義{ふぎ}の罪人{ざいにん}に。礼{れい}いふ馬鹿{ばか}が
世{よ}にあるか。わいらは乱心{らんしん}してゐるの。」ト詰{つめ}よる㒵{かほ}を与次郎{よじろう}が
見つめてまたもうちわらひ【与二】「おまへこそ年{とし}に似ず。老耄{らうのう}
してござると見へる。但{たゞ}しは路銀{ろぎん}を盗{ぬす}まれて。血{ち}まよふてご
ざるのか。マア〳〵わしがいふ事を。気{き}を静{しづ}めて聞{きか}ツしやれ。先頃{いつぞや}

(15ウ)
武州{ぶしう}の鵠巣{こうのす}でおまへ方{がた}と相宿{あいやど}して。となり座敷{ざしき}へ泊{とま}つ
たは。わしに相違{さうい}はなけれども。その夜{よ}おまへの懐{ふところ}を。さが
して路銀{ろぎん}を盗{ぬす}んだは。ナニわしが仕{し}わざであらふか。皇天{てんとう}
さまもそりやごぞんじ。また其{その}やうに疑{うたが}ふなら。なぜその
ときに捨{すて}おかしつた。またこの女中{ぢよちう}をつれてきて。五日{いつか}なり
十日{とをか}なり。不用{ふよう}な人{ひと}におがみ𣇃{づき}の。飯{まゝ}をくはせて舎蔵{かくまひ}おく
のは。アノときおまへは路銀{ろぎん}を盗んだ。護摩{ごま}の灰{はい}のゆくゑを
たづね。何{なん}でも金{かね}をとり戻{もど}す。然{さ}なければ男{をとこ}がたゝぬ。貴{き}

(16オ)
さまのしつた訳{わけ}ではなけれど。となり座{ざ}しきへ泊{とまつ}た不肖{ふせう}に
わしが帰{かへつ}て来{く}るまでは。此処{ここ}に居{い}て女房{にようぼ}色{いろ}ぎぬが。世話{せわ}
してくれいとたのみゆへ。偖{さて}めいわくとは思つたれど。昼頃{ひるごろ}までには
是非{ぜひ}かへると。達{たつ}ての頼{たの}みに詮事{せう〔こと〕}なく。この女{をんな}をあづかつて
待{まて}どくらせどおまへは帰{かへ}らず。とふ〳〵その夜{よ}も鵠巣{こうのす}に。逗留{とうりう}
して俟{まて}ども帰{かへ}らず。コリヤ馬鹿{ばか}〳〵しいはなしだと宿{やど}の亭主{ていしゆ}に
この女中{ぢよちう}を。たのんで置{おい}てわし一人{ひとり}。出立{しゆつたつ}せうといふた所{ところ}が
亭主{ていしゆ}は一{いち}ゑん承知{せうち}せず。立{たつ}なら一所{いつしよ}に立{たゝ}ツしやい。居{ゐ}るなら

(16ウ)
一所{いつしよ}にゐさつしやい。女中{ぢよちう}ばかりは預{あづ}からぬと。断{〔こと〕は}りいふも無理{むり}
もなく。またこの女中がいはれるにも。良人{おつと}がいふには盗人{ぬすびと}の。往
方{ゆくゑ}はしれてもしれいでも。昼{ひる}ごろまでには是非{ぜひ}かへる。それ
までとなりの猿廻{さるまは}しに。特{たの}んだほどに俟{まつ}てゐやれと。呉〻{くれ〴〵}
いふてゞ有{あつ}たれど。一夜{ひとよ}明{あけ}てもかへらぬは。どふした事か訳{わけ}が
わからず。西{にし}も東{ひがし}もしらない旅路{たびぢ}で。おまへにまでもすて
られては。路銀{ろぎん}はなくす乞食{こじき}より。外{ほか}に仕{し}やうはない
ほどに。不便{ふびん}と思ふて鎌倉{かまくら}へ。つれて戻{もどつ}てくださりまし。

$(17オ)
女{をんな}を〓{おとり}に*〓は「匚(構)+鳥」
してわるもの
与二郎を
ゆする

(17ウ)
わたしも一体{いつたい}かまくら生{うま}れ。親{おや}はかなりに暮{くら}すもの。良人{おつと}と
いふも内証{ないせう}は。這般〻〻{かう〳〵}した訳{わけ}により。二人{ふたり}家出{いへで}をした身{み}の上{うへ}
路銀{ろぎん}といふも母{はゝ}さまの。金{かね}を盗{ぬす}んで持出{もちだ}した。二十|両{りやう}のその
内{うち}を二両{にりよう}つかつて十八|両{りよう}。人{ひと}にとられて仕廻{しまふ}といふも。わたし
等{ら}二人が淫奔{いたづら}を。誡{いま}しめ給ふ神仏{かみほとけ}の。おんはからひかと思
ひますと。一伍一什{いちぶしじう}のながばなし。わしは欠{あく}びが出{で}たけれど。泪{なみだ}を
なかして懺悔{さんげ}の後悔{こうくわい}。きけばきくとて気{き}のどくさ。アヽそん
ならヱヽわいの。連{つれ}てもどつてしんぜうが。しかしアノ民弥{たみや}どのが

(18オ)
戻{もど}つたらばひよんなものトいふていつまで俟{まつ}てもゐられず
置手紙{おきてがみ}をして出{で}かけうと。縡{〔こと〕}のあらましかい付{つけ}て。所{ところ}は簗
架{やなか}の何処{どこ}其処{そこ}と。わしが名所{なところ}くわしふ書{かい}て。宿{やど}の亭主{ていしゆ}に
たのみおき。それより後{のち}は毎日{まいにち}〳〵。尋{たづ}ねてござるか〳〵と
心{こゝろ}まちにしてゐる与次郎{よじろう}。この女中{ぢよちう}とてもかわいゝ男{をとこ}。どうし
た事かと寝{ね}ても起{おき}ても。おまへを待{まつ}てござつたを。ヤレ盗人{ぬすびと}
じやの蜜夫{まをとこ}じやのと。途方{とほう}もない無理{むり}なんだい。サア〳〵女{をんな}を
わたすほどに。何処{どこ}へなりと勝手{かつて}にゆかしやれ。ヤレ〳〵是{これ}で

(18ウ)
楽〻{らく〳〵}した。」ト民弥{たみや}が膝{ひざ}へ色{いろ}ぎぬを。衝{つ}と突{つき}つけて与次郎は
烟草{たばこ}かいとりくゆらせば。民弥は吶〻{ぐど〳〵}鳴{なり}やまず。白眼{にらみ}つめて
柄{つか}に手をかけ。膝たて直{なほ}すを色ぎぬは。傍{そば}に見る目{め}の
気{き}のどくさに。民弥が膝にとりついて【色】「おまへもマア嗜{たしな}
ましやんせ。恃{たの}むときは恃んでおいて。今{いま}さらそんな無理{むり}過
言{くわごん}。なにを証拠{しやうこ}に与次郎さんと。わたしが不義{ふぎ}だの蜜夫だの
と。いはしやんすかしらないが。それは〳〵今日{けふ}が日{ひ}まで。深切{しんせつ}に
して世話{せわ}こそは。してくだされたがいやらしい。事と言{いふ}ては塵{ちり}

(19オ)
ほども。おぼへのない二人{ふたり}が身{み}のうへ。おまへのやうにいはしやつ
ては。わたしが身{み}が立{たち}ませぬ。モウ〳〵そんな疑{うた}ぐりの。心{こゝろ}をやめて今{いま}
までの。礼{れい}いふてわたしも倶〻{とも〴〵}。つれて往{い}てくださりませ。」ト
いふをうち消{け}し叱{しか}りつけ【民】「口{くち}は横{よこ}に裂{さけ}たりとも。さやうの
せりふでたゞ通{とふ}す民弥{たみや}と思ふか虚空{うつけ}ものめ。見れば外{ほか}
には人{ひと}もなき。さし向{むか}ひの男{をとこ}と女{をんな}。わけがないとて無{ない}にせうか。
サア有{あり}やうに首状{はくじやう}せい。二人{ふたり}かさねて四{よ}ツにするは。ずんど古風{こふう}な
野夫{やぼ}がする〔こと〕。口{くち}ではいつてもこの民弥。そう非道{ひどう}にも

(19ウ)
計{はか}らふまい。首代{くびだい}といふ法{ほう}もあり。何{なに}もその様{よ}にびく〳〵と。する
事はない。コレ与次郎{よじ}。色{いろ}ぎぬめも実{じつ}をぬかせ。若{もし}またいはずは
是非{ぜひ}がない。刀{かたな}さす身{み}のこれも意地{いぢ}づく。可惜{あつたら}命{いのち}をすてる
であらう。」ト口に任{まか}して威{おど}しつ賺{すか}しつ。いどむ心{こゝろ}に一物{いちもつ}あり。貯{たくはへ}
つきたる身のうへなれば。夫{それ}を手{て}にして与次郎より金{かね}を貪{むさぼ}り
とらんとする。巧{たく}みと疾{とく}よりおしはかる。与次郎は些{ちつ}とも臆{おく}せず
【与二】「ヲヽ砍{きる}なりと突{つく}なりと。こなさんの勝手{かつて}しだい。しかし与次郎
も手が二{に}ほん。足{あし}さへ二ほん揃{そろ}つた人間{にんげん}。そふ甘{うま}くもゆきます

(20オ)
めへ。」とおち付{つき}はらツて見へければ。民弥{たみや}はいとゞせき立{たつ}て
既{すで}に刀{かたな}をぬきかけつゝ。眼{まなこ}を睜{みはつ}て立{たつ}たりけり。是{これ}より与{よ}
次郎|如何{いか}にかする。第三編{だいさんへん}を満尾{まんび}として。縡{〔こと〕}をつぶさに
分解{ときわく}べし。
恋の花染二編巻の下終


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底本:東京大学文学部国語研究室蔵本(A4:0089:2)
翻字担当者:矢澤由紀、成田みずき、銭谷真人
更新履歴:
2017年7月26日公開

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