日本語史研究用テキストデータ集

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浮世新形恋の花染うきよしんがた こいのはなぞめ

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二編上

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浮世新形恋の花染 二編上

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凡例
1.本文の行移りは原本にしたがった。
2.頁移りは、その丁の表および裏の冒頭において、丁数・表裏を括弧書きで示した。また、挿絵の丁には$を付した。
3.仮名は現行の平仮名・片仮名を用いた。
4.仮名のうち、平仮名・片仮名の区別の困難なものは、現行の平仮名に統一した。ただし、形容詞・副詞・感動詞・終助詞・促音・撥音・長音・引用のト等に用いられる片仮名については、原表記で示した場合がある。 〔例〕安イ、モシ、「ハイそれは」ト、意気だヨ、面白くツて、死ンで、それじやア
5.漢字は現行の字体によることを原則としたが、次のものについては原表記に近似の字体を用い、区別した。「云/言」「开/其」「㒵/貌」「匕/匙」「吊/弔」「咡/囁」「哥/歌」「壳/殻」「帒/袋」「无/無」「楳/梅」「皈/帰」「艸/草」「計/斗」「弐/二」「餘/余」
6.繰り返し符号は次のように統一した。ただし、漢字1文字の繰り返しは原本の表記にしたがい、「〻」と「々」を区別して示した。
 平仮名1文字の繰り返し 〔例〕またゝく、たゞ
 片仮名1文字の繰り返し 〔例〕アヽ
 複数文字の繰り返し 〔例〕つら〳〵、ひと〴〵
7.「さ」「つ」「ツ」に付く半濁点符は「さ゜」「つ゜」「ツ゜」として示した。
8.Unicodeで表現できない文字は〓を用いた。
9.句点は原本の位置に付すことを原則としたが、文末に補った場合がある。
10.合字は〔 〕で囲んで示した。 〔例〕殊{〔こと〕}に、なに〔ごと〕、かねて〔より〕
11.傍記・振り仮名は{ }で囲んで示した。 〔例〕人生{じんせい}
12.左側の傍記・振り仮名の場合は、冒頭に#を付けた。 〔例〕めへにち{#毎日}
13.傍記・振り仮名が付く位置の紛らわしい場合、文字列の始まりに|を付けた。 〔例〕十六|歳{さい}
14.原本に会話を示す鉤括弧が付いていない場合も、これを補い示した。また庵点は〽で示した。
15.原本にある話者名は【 】で示した。 〔例〕【はる】
16.割注・角書および長音符「引」「合」は[ ]で囲んで示した。
17.不明字は■で示した。
18.原本の表記に関する注記は*で行末に記入した。 〔例〕〓{たど}りて*〓は「漂+りっとう」
19.花押は〈花押〉、印は〈印〉として示した。
20.画中文字の開始位置に〈画中〉、広告の開始位置に〈広告〉と記入した。

本文の修正
1.翻字本文を修正した場合には、修正履歴を末尾に示す。
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(口1オ)
恋{こひ}の花曽女{はなぞめ}二編{にへん}叙{じよ}
友{とも}なる松亭{しやうてい}ぬしの著述{つゞり}
せる。恋{こひ}の花染{はなぞめ}といへ
るは。おもむき新奇{しんき}妙按{みやうあん}
にして。能{よく}婦女子{ふぢよし}の心{こゝろ}をさとして。

(口1ウ)
はた勧善{くはんぜん}の一助{いちぢよ}となす。
むかし人{ひと}の住太夫{すみたいふ}が。堀川辺{ほりかはへん}
と謳{うたひ}しも。其{その}流行{りうかう}のながれ来{き}て。
春風{はるかぜ}なびく柳橋{やなぎばし}。心{こゝろ}にもなき
切文{きれぶみ}は。注文{ちうもん}多{おほ}く売{うれ}きれる。

(口2オ)
これぞ板元{ふみや}が幸{さち}にぞと。
おのれもはしを
述{のぶ}る事とはなりぬ。
癸巳の初春。
珍奇楼主人。

$(口2ウ)
小松
しら紙に
待夜も
かゝむ
ほとゝきす
唄女{けいしや}お霍{つる}

$(口3オ)
おしゆん

$(口3ウ)
野に
けかる



あり

わらび
柳河

$(口4オ)
福住{ふくすみ}伝兵衛{でんべゑ}
いさかひの
果て
くれけり
五月雨
琴雅

$(口4ウ)
一峨画
身の
ほとは
爰も
団扇の
深み哉
右 松の花

(1オ)
[浮世{うきよ}新形{しんかた}]恋{こひ}の花曽女{はなぞめ}二編{にへん}巻之上
江戸 松亭金水編次
第四回
狂者{きやうしや}東{ひがし}に走{はし}れば逐{おふ}者{もの}も東{ひがし}に走{はし}る。東{ひがし}に走{はし}る事はすな
はちおなじけれど。東{ひがし}に走{はし}る所以{ゆゑん}は異{〔こと〕}なりと。淮南子{ゑなんじ}に載{のし}
たりけん。かの伝{でん}兵へはとし若{わか}けれど。心{こゝろ}ざまは怜悧{さかし}くて。物{もの}の
善悪{あやめ}もわきまへたる。身{み}にありながら狂乱{きやうらん}の。人{ひと}にひとしき
色絹等{いろぎぬら}が。あさき心{こゝろ}の巧{たく}みより。有情{わけ}だにもなき濡衣{ぬれぎぬ}を。

(1ウ)
乾{ほし}なんものと縡{〔こと〕}わけを。いふにもたらぬ母{はゝ}おやの愚痴{ぐち}は世
間{せけん}のならひなる。当下{そのとき}襖{ふすま}をおしあけて。出来{いでく}るは別人{べつじん}ならず。
刀{かたな}片手{かたて}に引{ひつ}さげて。徐〻{しづ〳〵}座{ざ}に著{つく}白藤{しらふぢ}源作{げんさく}「コレおたゑどの
ヤイ伝{でん}兵へどの。先刻{せんこく}よりこれへ参{まい}つて。うけ給はれば何{なに}とやら。
アノおしゆんとの有情{わけ}のありなし。兎{と}やかくいふて母御{はゝご}をつれ。
おしゆんにあふて女子{をなご}を相手{あいて}に。勝{かつ}てもさのみ功{こう}にもなるまい。
負{まけ}て見たらばひよんなもの。しかし互{たがい}に覚{おぼ}へのない。奇麗{きれい}な
身{み}がらをおしゆんめが。きれ文{ぶみ}書{かい}たも可笑{おかし}なわけじやが。其処{そこ}が

(2オ)
ノウおふくろ。ハテゑへはサ。伝{でん}兵へどのがおしゆんとは。有情{わけ}がない
といふのが証拠{せうこ}。何{なん}にもかまふ事はない。伝{でん}兵へどのも此{この}席{せき}で
立派{りつぱ}にわけがないといふたら。男{をとこ}らしふこのすゑ〴〵。お俊{しゆん}が
方{ほう}は見むきもせまい。色{いろ}ぎぬは天下{てんか}はれて。誰{たれ}はゞからぬ
女房{にようぼ}の〔こと〕。かはゆがつて水性{うはき}をせずは。それで何{なん}と浪{なみ}
かぜなく。親子{おやこ}夫婦{ふうふ}の間{あいだ}がら。睦{むつ}ましく行{ゆく}は必定{ひつぢやう}。それ
をかれこれ争{あら}そふて。母御{はゝご}をつれて身{み}の明証{あかり}を。立{たて}
に往{ゆか}ふといはるゝのが。いはゞ矢張{やつはり}水{みづ}くさい。他人行義{たにんぎやうぎ}と

(2ウ)
いふものじや。其処{そこ}がなんぼ発明{はつめい}でも。まだ〳〵年{とし}のわかい
所{とこ}。サア〳〵こゝの一埓{いちらつ}は。吾儕{わし}が貰{もら}ふた。ヤレお袋{ふくろ}。まだ気{き}が
はれぬか。済{すま}ぬのかへ。サア〳〵わつさり酒{さけ}でも飲{のん}で愚痴{ぐち}な
はなしは西{にし}の海{うみ}へ。さらりとやつて仕{し}まふがよい。」と。あたり障{さは}
らぬ捌{さば}き方{かた}。伝{でん}兵へも今{いま}さらに。デモ。倶〻{とも〳〵}といはれもせず
【でん】「母{はゝ}や色{いろ}ぎぬが心{こゝろ}さへ。とけますれば私{わたくし}におきましては。
少{すこ}しも言分{いひぶん}ござりませぬ。くれ〴〵も申すとほり。一向{いつかう}訳{わけ}
のない〔こと〕ゆへ。是{これ}から見むかふ道理{どうり}もなし。」【源】「ヲ丶〳〵其{その}口上{こうぢやう}が

(3オ)
何よりたしか。お袋{ふくろ}なり色{いろ}ぎぬなり。まだ其上にも愚
痴{ぐち}をいはふか。序{ついで}ながら色ぎぬをも。一寸{ちよつと}呼で言{いふ}てきか
そふ。ハヽヽヽ。夫{それ}といふが。余{あん}まりおまへ男{をとこ}がよいから。畢竟{ひつきやう}はやか
ましい。吾儕{わし}がやうなものならば。かまひ人{て}がなふて気楽{きらく}
なものサ。ハヽヽヽ。」トやがて色{いろ}ぎぬをうち招{まね}き。此{この}よし具{つぶさ}に言{いひ}
聞{きか}し。「サアこれからは伝{でん}兵へどのと。何{なん}でも中{なか}よふしたがよい。
若{わか}い夫婦{ふうふ}は日中{ひるなか}でも。箪笥{たんす}の鐶{くはん}がぐわた〳〵と。鳴{な}らい
ではノウおふくろ。中{なか}がよいとはいはれぬぞへ。アハヽヽヽ。ヱヽなんと。

(3ウ)
お袋{ふくろ}畢竟{ひつきやう}親{おや}のやくめなら。子{こ}の居{を}るまへで馬鹿{ばか}も
いはれず。渋柿{しぶかき}くふて抹香{まつかう}嘗{なめ}たといふやうな㒵{かほ}をして。
ゐるやうなものゝ何{なに}もこれ。木{き}の股{また}から生{うま}れはせまいし。粋{すい}
も情{なさけ}も若{わか}い者{もの}より。場員{ばかず}をふんだ功{こう}のもの。サアそろ〳〵と
日{ひ}もくれかゝる。水{みづ}いらずのこの一座{いちざ}で。一{ひと}ツ飲{のん}で若夫婦{わかふうふ}を。
はやく寝{ね}さすがマア何{なに}より。ノウお袋{ふくろ}。在{あり}あいの肴{さかな}で一{ひと}ツ。サア
サア。」としきりに捌{さば}く白藤{しらふぢ}が意{い}にしたがひて母{はゝ}おやが。
指揮{さしづ}にもち出{だ}すひろ蓋{ぶた}に。ならべし肴{さかな}も在合{ありあい}の。ひたし

(4オ)
ものまで恭〻{うや〳〵}しく。丼鉢{どんぶりばち}に盛{もり}たてたり。白藤{しらふぢ}盞{さかづき}かい取
て。「サア〳〵お袋{ふくろ}おまへから伝{でん}兵へどのへ酌{さす}がよい。アヽめでたい〳〵。
雨{あめ}降{ふつ}て地{ぢ}かたまる。喩{たと}への通{とほ}り。是{これ}からは双方{さうほう}の大安堵{おほあんど}。
サア伝{でん}兵へどのモウ一ツ。ハテサテ。今宵{こよひ}は酔{よふ}ても能{いゝ}はな。アヽしかし
あんまり強{しい}たら。色{いろ}ぎぬに怨{うら}まれうか。サア色ぎぬもモウ
一ツ飲{のみ}な。」【色】「アイモウわたくしは酔{よい}ましてこんなに赤{あか}くなりまし
たヨ。」【源】「イヤ夫婦{ふうふ}とも酒{さけ}がきらひで。これも一{ひと}ツ安堵{あんど}のうち
だ。サアそんなら二人{ふたり}ながら爰{こゝ}にかまはずお休{やす}みなせへ。ドレ〳〵

(4ウ)
わしが媒妁{なかうど}しよう。」ト二人{ふたり}が手{て}をとり一間{ひとま}なる。臥房{ふしど}の内{うち}
へともなひて。女子{をなご}どもを呼立{よびたて}つゝ。俄{にはか}に蒲団{ふとん}をしき
伸{のべ}させ。矢庭{やには}に伝{でん}兵へ色{いろ}ぎぬを。一所{いつしよ}におしいれ夜着{よぎ}
うちかけ【源】「何{なん}にもいはずにしつぽりと。中{なか}ようして寝{ね}な
せへヨ。」ト一盃{いつはい}きげんのむだ口{くち}に。襖{ふすま}はたりと立切{たてきつ}て。こなた
の座{ざ}しきへ来{きた}りつゝ。「サアこれからは見てもなし。おまへと吾
儕{わたし}との御しうげん。この娵御寮{よめごりよう}は手{て}とりのしれもの。むこ
どのは協{かな}はぬ。」ト綢繆{しなだれ}かゝれば【たへ】「ヲヽこわらしい。この聟{むこ}

(5オ)
さまに引{ひつ}かゝつて霜月{しもつき}あたりのかへり花{はな}。さかりの
みぢかい身のうへで余計{よけい}な苦労{くらう}をいたします。」ト互{たかい}に
つきぬ睦言{むつ〔こと〕}喞言{か〔こと〕}。はては雨{あめ}とやなりぬらん伝{てん}兵へは
白藤{しらふぢ}が。しこなしふりの捌{さはき}をは。心にくしと思へとも今
さらこれを頼抵{あらかふ}も大人{おとな}しからすと思ふゆへ。彼{かれ}にまか
して色{いろ}きぬと枕{まくら}ならべし床{とこ}のうち。つく〴〵思ひめぐ
らすに心根{こゝろね}あしき色きぬなれば。今まで枕{まくら}を倶{とも}に
せす。夫婦{ふうふ}は名{な}のみなりけるが。それを怨{うら}みてさま〴〵と

(5ウ)
ある事なき事|母{はゝ}に告{つげ}。人になき名{な}を立{たて}さすも。思へは
この身を慈{いと}しがり強面{つれな}けれとも生涯{せうがい}を。つれそふ良
人{おつと}とおもへばなるべし。われも此{この}家{いへ}の養子{ようし}となり。この
女{をんな}をもて妻{つま}となすのも前{さき}の世{よ}からの契{ちぎ}りならんに
心{こゝろ}のうちさへ覚束{おぼつか}なきおしゆんを思ふて親〻{おや〳〵}の。ゆる
せし渾家{つま}をすてん事これもまた義{ぎ}にそむき。孝{かう}
にも悖{もと}るわざなれば。今より実{ま〔こと〕}の夫婦{ふうふ}とならんと
思ふ物{もの}から言葉{〔こと〕は}をやはらげ【でん】「コウ色{いろ}きぬ此方{こつち}を向{むき}な。

(6オ)
今{いま}までとても何{なに}もおれが。養子{ようし}の身{み}ぶんで家{いヘ}の娘{むすめ}を。
きらふといふ筋{すぢ}は固来{もとより}なし。いやだといふわけではないが。
何{なに}かおかしな間違{まちがい}で。互{たがい}に気{き}まづいやうになり。大{おほ}きに苦
労{くらう}をさせたが。実{じつ}は根{ね}も葉{は}もないわけだから。そう思
つてくんなさい。そしてアノおしゆんが事は些{ちつ}ともあんじな
さんな。決{けつ}してそういふ訳{わけ}じやアないから。サア気{き}を直{なを}して
こちらをむきな。」ト甘{あま}き言葉{〔こと〕ば}は色{いろ}ぎぬが。心{こゝろ}にしみて
嬉{うれ}しくも。思ふ物{もの}から人{ひと}しれず。民弥{たみや}と契{ちぎ}りし婬奔{いたづら}より。この

$(6ウ)

$(7オ)
蛇くふと
聞はおそろし
きじの声

(7ウ)
手柏{てがしは}の二表{ふたおもて}。アイと回答{いらへ}もなりかねて。霎時{しばし}はものもいは
ざりしが。佶{きつ}と心{こゝろ}に思案{しあん}して「ヲホヽヽヽヽ。」トうち笑{わら}ひ【色】「何{なに}か
わたしか婬奔{いたづら}ものか。なんぞのやうにおつしやつて。強面{つれなく}ばツ
かりなさつたのを。お怨{うら}み申すといふではないが。是{これ}も全{まつた}く
おしゆんさんのあるゆへかと。女心{をんなごゝろ}の仂{はし}たなく。思ひましたも
勿体{もつたい}ない。かんにんしてくださいまし。たとへ此{この}家{いへ}で生{うま}れた
ものでも。良人{おつと}にしたがふは女{をんな}のならひ。そのお言葉{〔こと〕ば}が真実{ほんとう}
なら。誠{ま〔こと〕}にうれしふございます。」トいひつゝ㒵{かほ}をおしかくす。

(8オ)
岩木{いはき}ならねば伝{でん}兵へも了得{さすが}ふびんのいやまさり。思はず
傍{そは}へよりそへば色{いろ}きぬは暴{あはたゝ}しく「アイタヽヽヽヽ。」トおきあがり
胸{むね}をおさへて苦痛{くつう}の体{てい}。伝{でん}兵へおどろき起{おき}なほり【伝】「
ヤヽどうした。癪{しやく}でも痛{いた}いか。もの中{あた}りでもしたのか。」ト介
抱{かいほう}すれば色ぎぬは。ます〳〵苦痛{くつう}の体{てい}にして薬{くすり}よ水{みづ}
よといふほどに母{はゝ}のおたゑも聞{きゝ}つけて「コノ児{こ}は持病{ぢびやう}に
癪{しやく}もありこの頃{ころ}よりの心{こゝろ}つかひでさし込{こん}だものであろ。」ト
さま〴〵にいたはるにぞ暫時{しばらく}ありてやう〳〵と痛{いた}みはさりし

(8ウ)
やうすなれとも心地{こゝち}あしとてその翌{あした}も枕{まくら}もあげす
臥{ふし}ており。さても色{いろ}きぬは人目をしのびきのふよりの始
終{はしめおは}り事も具{つふさ}にかい認{したゝ}めて心しりたる下女{げぢよ}をもて民
弥{たみや}が方へをくりしかは民弥{たみや}はすくさまおしひらきたん〳〵と
読{よみ}くたすに伝{でん}兵へが事おしゆんに仮仛{かこつけ}。おひ出{だ}さんと思ひ
のほか箇様〻〻{かやう〳〵}のわけになり源作{けんさく}さまのはからひにて
延引{のつぴき}ならぬ妹脊{いもせ}の床{とこ}こゝろおれてや伝{でん}兵へも既{すで}に夫婦{ふうふ}
の真{ま〔こと〕}の道{みち}をなさんとするに否{いな}みかたくさりとておん身と

(9オ)
かくまでに。契{ちぎ}りしものを今さらに親{おや}のゆるせし男{をとこ}
でも何とて肌{はだ}を穢{けが}されふと思ひ付{つい}たる暴{にはか}の病{やまひ}
癪{しやく}にことよせやう〳〵と。おん身に操{みさほ}をたてまいらす。
さりとていつまで詐{いつは}りのやまひをなして居{を}らるへき。
それとはしらで母{はゝ}はじめ伝{てん}兵へさへもうちおとろき。医
師{し}よ薬{くすり}と申すなれば作病{つくりやま}ひもやかてこそ顕{あら}はれなめ
とおもふなり。何とぞ一ツの計{はかり〔ごと〕}をまうけてこゝの災{わざは}ひ
を穰{はら}はせ給へ。とかきたりけり。民{たみ}弥{や}つく〳〵これを*「穰」(ママ)

(9ウ)
見て眉{まゆ}に皺{しは}よせいかゞはせんとしばし十方{とほう}にくれけるが
昔{むかし}の人のいふ事あり。蜂蠆{はうたい}懐{ふところ}にいるときはすなはち衣{ころも}を
脱{ぬぐ}といへり。渠{かれ}かくまでに実{じつ}をたてわれを慕{した}ふの深切{しんせつ}
なるわれまたこれを捨{すて}かたし。互{たがい}に枕{まくら}はかはさずとも
伝{でん}兵へといふ良人{おつと}あるは。固来{もとより}しやうちの婬奔{いたづら}〔ごと〕既{すで}に
蜜夫{みつふ}のつみはのがれず。毒{どく}をくらはゞ皿{さら}まで舐{ねぶ}れ。そう
じや〳〵と思案{しあん}をさだめ。やがて一通{いつゝう}の返事{へんじ}を認{したゝ}め。潜{ひそか}に
これをおくりけり。色{いろ}ぎぬはまちわびて。とる手も遅{をそ}

(10オ)
しとひらき見るに計{はか}りし事の齟齬{くひちかひ}。のかれぬわけと
なりたるもみな是{これ}二人{ふたり}か因縁{いんえん}の悪{わろ}きゆへかと思ふ
なればかねておん身と忍{しの}ひあふねものがたりの睦
言{むつ〔ごと〕}にも若{もし}そふ事のならぬときは命{いのち}を捨{すて}ても離{はな}
れはせじと契{ちぎ}りし〔こと〕の真事{ま〔こと〕}ならば。はや此うへは
伝{でん}兵へを人しれずうしなふより。外{ほか}はなし。万一{まんいち}縡{〔こと〕}の顕{あら}
はれたらば二人{ふたり}一所{いつしよ}に罪{つみ}におち冥土{めいど}へゆきて夫婦{ふうふ}と
ならん。われは覚語{かくこ}を究{きは}めたり。幸{さいわ}ひ砒霜{ひさう}といふ毒薬{どくやく}

(10ウ)
われ懇{ねんごろ}なる人の方に。あるをばかねて聞{きゝ}おきたれば
翌{あす}はもらひて送{をく}るべし。心{こゝろ}をしづめて人しれず計{はか}り給へ。
といひ越{こし}ければ色{いろ}ぎぬこれを読{よみ}をはり。了得{さすが}女子{をなご}の
胸{むね}わく〳〵と手さきも震{ふる}ふ思ひなれば。外{ほか}に計{はか}らふ
沈吟{しあん}もかなとむねおししづめ枕方{まくらべ}にありあふ烟管{きせる}
おつ取{とつ}て額{ひたい}に杖{つえ}のしあんの最中{さいちう}人の気影{けわい}におど
ろきて文{ふみ}をば矢庭{やには}にね所{どこ}の下{した}へおし隠{かく}しつゝ右{と}視{み}
れば障子{せうじ}をあけて入{い}りくる伝{でん}兵へ「どうだ些{ちつ}とも能{いゝ}

(11オ)
かへ。ヲヽそれでもでへぶ㒵{かほ}つきがいゝやうだ。アヽゆふべは
モウ恟{びつく}りして。二{ふた}ツとない肝{きも}を潰{つぶ}したぞ。先刻{さつき}アノ寒{かん}
ざらしの団子{だんご}をよこしたツけが。膳{たべ}られたか。ヱヽコレ色{いろ}
ぎぬどうしたのだ。」トいへど答{こたへ}も内証{ないしよ}の計較{もくろみ}。むねに
つかへて声{こゑ}も出{で}ず。良人{おつと}の㒵{かほ}を見るさへに。たゞ恐{おそ}ろしく
おぼへつゝ。物{もの}をもいはで後{うしろ}むき。夜著{よぎ}ひきかつぎふし
ければ。伝{でん}兵へは微笑{ほうゑみ}つゝ「これはしたり。どふも気{き}むづ
かしいかノ。どれ〳〵そんなら往{いき}ませう。マアずいぶん大事{だいじ}

(11ウ)
にしな。」ト口{くち}にはいへど心{こゝろ}には。成{なる}ほど女子{によし}と小人{しやうじん}とは。
やしなひがたしと書物{しよもつ}にあるが。チツト甘{あま}い〔こと〕ばをかける
と。直{ぢき}つけ揚{あが}るが女{をんな}のくせ。アヽ斯{かう}はなりたくないト快{こゝろ}よ
からず立{たち}あがる。折{おり}から見つける蒲団{ふとん}の下{した}。何{なに}やら粲然{ちらり}と
薄紅梅{うすこうばい}。二枚{にまい}がさねの半切{はんきり}は。さてもゆかしととりあげて
見れば男{をとこ}の手跡{しゆせき}にて。細{こま}かく書{かき}しふみなれば。仔細{しさい}
ぞあらんと懐{ふところ}に。手{て}ばやくいれてたち出{いづ}れど。色{いろ}ぎぬは
うしろをむき。夜著{よぎ}引{ひき}かつぎ居{ゐ}たりしかば。神{かみ}ならぬ身{み}の

(12オ)
梦{ゆめ}にもしらず。伝{でん}兵へは子舎{へや}にゆき。|四辺{あたり}を建{たて}こめ始{はじ}め
より。だん〳〵と読下{よみくた}すに。手蹟{しゆせき}はさらに見おぼへなけれ
ど。計{はか}りし事のくひちがひしなど。命{いのち}をすてゝも配{そは}んと
あり。また伝{でん}兵へを人{ひと}しれずうしなふべしと書{かき}たる文体{ぶんてい}。
きのふや今日{けふ}の婬奔{いたづら}ならじ。何{なん}にもせよ此{この}ふみのわが
手{て}にいりしは皇天{てんとう}の。佐{たす}け給ふかありがたしと。おしいたゞき
てまき納{をさ}め深{ふか}く隠{かく}しておきにけり。とはしらずして色{いろ}
ぎぬは。起{おき}あがりつゝ蒲団{ふとん}のしたへ。手{て}をさしいれて文{ふみ}を

(12ウ)
探{さぐ}れど。手{て}にあたらねば訝{いぶ}かりつ。正{まさ}しくこゝへおきたるもの
をと。やかてふとんを引{ひき}かへし。見れども文{ふみ}のあらされば。頻{しきり}
におどろき心{こゝろ}周章{あはて}て。したに敷{しき}たるしき紙{がみ}まで。震{ふる}へ
どさらに見へざれば。いよ〳〵心{こゝろ}悩乱{なうらん}して。伝{でん}兵へより外{ほか}今{いま}の
間{ま}に。此処{こゝ}へ来{きた}りし人{ひと}はなし。然{さ}すれば大事{だいじ}の一つうをば
伝{でん}兵へに拾{ひろ}はれたり。かくては少{すこ}しも猶予{ゆうよ}ならずと。思へば
いとゞ気{き}もわく〳〵と。狂気{きやうき}の〔ごと〕くに悶{もだ}へつゝ。兎{と}せんかく
せんとたゞひとり。胸{むね}を痛{いた}むるたそがれどき。裡口{うらぐち}より

(13オ)
忍{しの}びいり。窓{まど}におとなふ白藤{しらふぢ}民弥{たみや}。それと見るより色{いろ}
ぎぬは。とび立{たつ}ばかりに㒵{かほ}さし出{だ}し。言葉{〔こと〕ば}せはしく
箇様〻〻{かう〳〵}と。文{ふみ}の見へざるよしをかたれば。民弥{たみや}も倶{とも}に
恟{びつ}くりし。斯{かく}なるうへは是非{ぜひ}もなし。今宵{こよひ}すぐさま
立退{たちのく}べし。それに付{つけ}ても路用{ろよう}が肝心{かんじん}【色】「夫{それ}は吾儕{わたし}が
むねにある。今日{けふ}母{おツか}さんの留守{るす}こそ僥倖{さいわい}。簞笥{たんす}の鎰{かぎ}は
こゝにあり。」【民】「そんならはやく支度{したく}しや。」「アイ合点{がつてん}。」と納
戸{なんど}にいり。盗{ぬす}み出{だ}したる二十|両{りよう}。腹{はら}に括{くゝ}して裾{すそ}引{ひき}あげ。

(13ウ)
雀{すゞめ}いろどき過{すぎ}ゆけば。四面{あたり}はくらき〓{たんぼ}みち。二人{ふたり}手{て}と*〓は「田(偏)+甫」
手を引{ひき}あふて。何方{いづく}ともなくたち出{いで}けり。かゝる所{ところ}へたち
かへる。母{はゝ}のおたゑは色{いろ}ぎぬが。子舎{へや}の戸{と}あけて【たへ】「色絹{いろぎぬ}
どうだ。少{すこ}しはよいか。」トいへど答{いらへ}もなきまゝに。また塞{ふさい}でか
と枕方{まくらべ}へ。たちより見{み}ればこゝにはをらず。女{をんな}どもをよび
よせて。尋{たづ}ねにけれど誰{たれ}もしらず。さても訝{いぶ}かし伝{でん}兵へ
が。子舎{へや}に居{ゐ}るかと尋{たづ}ぬれど。これさへしらずといふに
より。厠{かはや}をはじめ所〻{しよ〳〵}方〻{ほう〴〵}。探{さが}せど影{かげ}もあらしふく。峰{みね}の

(14オ)
木{こ}の葉{は}と往方{ゆくへ}さへ。定{さだ}かならねばこはいかにと。母{はゝ}は狂気{きやうき}
の〔ごと〕くになつて。四方{しほう}に人{ひと}を走{はし}らせつゝ。心{こゝろ}あたりの隈〻{くま〴〵}は
残{のこ}るかたなく尋{たづ}ぬれど。さらに往方{ゆくへ}はしれざりき。かゝり
にければ伝{でん}兵へは。蜜書{みつしよ}をわれに拾{ひろ}はれて。分解{いひわけ}なさに
家出{いへで}なせしに。うたがひなけれど此{この}事{〔こと〕}を。明〻地{あからさま}にいふ時{とき}
は。また騒動{そうどう}の端{はし}なれば。いかにもして色{いろ}ぎぬを。たづね
出{いだ}してそのうへに。人{ひと}しれず異見{いけん}も加{くわ}へ。時宜{しぎ}によりて
は思ふ男{をとこ}に。配{そは}する事もわが胸{むね}ひとつと。思へばこれを

(14ウ)
人{ひと}には漏{もら}さず。心{こゝろ}におさめて色{いろ}ぎぬが。往方{ゆくへ}を日〻{ひゞ}に
たづねけり。かくてそれより今日{けふ}とくらし。明日{あす}とあかして
半月{はんつき}余{あま}りは。過{すご}しにけれど曽{かつ}てしれず。ある日|伝{でん}兵へは
長谷{はせ}の観音{くはんおん}。こは坂東{ばんどう}第四{だいし}の札所{ふだしよ}。霊現{れいげん}新{あらた}の御仏{みほとけ}
なれば。日{ひ}〔ごと〕の参詣{さんけい}引{ひき}もきらず。途{と}わたる蟻{あり}のごとく
にて。貴賤{きせん}群集{くんじゆ}の霊場{れいぢやう}なれば。人{ひと}だちおほきその
中{なか}には。もし手{て}がゝりのあらんかと。深笠{ふかがさ}に面{おもて}をかくし。
群集{くんじゆ}の人{ひと}に目{め}をくばり。しづ〳〵と歩{あゆ}みゆくに。観音堂{くはんおんどう}

(15オ)
の傍{かたはら}に。人{ひと}おほく群{むらが}りたち。いやがうへに込{こみ}あひて。吾{われ}こそ
さきへ進{すゝ}まんと。首{くび}をのべ足{あし}を爪{つま}だて見物{けんぶつ}するを伝{でん}兵へ
は。何事{なに〔ごと〕}ぞと立{たち}よりて。人{ひと}のうしろに徨{たゝ}ずみつゝ。覗{のぞ}きみる
に猿{さる}をまはして。飴{あめ}を商{あきな}ふ雄士{をとこ}なり。三十{みそじ}ばかりに見へた
るが。うしろの方{かた}には編笠{あみがさ}眉深{まぶか}に。覆面{ふくめん}したればかほ
形{かたち}こそ定{さだ}かにしれね。まだ年{とし}わかき女子{をなご}なり。やがて三
味{さみ}せんかいとりて。ジヤジヤン〳〵。と弾{ひき}いだせば。男{をとこ}はいとゞし
はがれたる声{こゑ}はり立{たて}て「サア〳〵子供{こども}しゆお買{かい}なさい〳〵。

$(15ウ)
観音{くはんおん}の
境内{けいだい}に
与二郎
猿{さる}を
まはして
飴{あめ}を
鬻{う}る
岩{いは}に花{はな}
さるのもの
おもふ
ところなり

$(16オ)
伝{でん}兵へ

(16ウ)
この鎌{かま}くらは申におよばず。西{にし}は九{きう}しう肥{ひ}ぜんのながさき。
東{ひがし}はおう州{しう}蝦夷{ゑぞ}松{まつ}まへ。津軽{つがる}がつぼう外{そと}がはま。南{みなみ}は紀{き}
しう和哥{わか}のうら。北{きた}はゑちごの出雲{いづも}ざき。沖{おき}に見ゆるが佐
渡{さど}がしま。」[うた]〽来{こ}いといふたとて往{ゆか}りよかさどへ。佐渡{さど}は
四十九|里{り}なみのうへ。〽ジヤジヤ〳〵ジヤン〳〵〳〵。「かほどに名{な}たかき猿{さる}
まはしの。与次郎{よじろ}が飴{あめ}は名{な}だい〳〵。サア〳〵飴{あめ}の売人{かいて}があれば
猿{さる}きやうげんをさしませう。モシ姉{あね}さん。はやりうたじや〳〵。」
「コレ〳〵〳〵おさるどの。こちやかまはぬを踊{をど}ツたり〳〵。」[うた]〽おまへを

(17オ)
まち〳〵蟵{かや}のそと。蚊{か}にくはれ。七{なゝ}ツのかねのなるまでも
コチヤかまやせぬ〳〵。「アハヽヽヽヽ。ヲヽよく出来{でき}た〳〵。コレ猿{さる}どの
あめをくれいとおつしやる。サア持{もつ}て往{いつ}たり〳〵。」ト声{こゑ}もおかし
き与次郎{よじろう}が唄{うた}。よく手{て}なれたる猿踊{さるおど}り。人〻{ひと〴〵}奇妙〻〻{きめう〳〵}
といふて。往{ゆく}もあれば来{く}るもあり。そのなかに伝{でん}兵へは踊{をど}る
猿{さる}には目{め}をかけず。この猿{さる}まはしが伴{とも}なふ女{をんな}。㒵{かほ}は見へね
ど二言{ふた〔こと〕}三言{み〔こと〕}。いひし言葉{〔こと〕ば}の色{いろ}ぎぬが。声音{こはね}に似{に}た
れば訝{いぶ}かしみ。しばし徨{たゝず}みありけれど。世{よ}を忍{しの}ぶ身{み}か笠{かさ}

(17ウ)
さへとらず何{なに}さま怪{あや}しと思へども。問{とひ}よるべき方術{てだて}もな
ければ。右{と}さま左{かう}さま思ひつゝ。見れば見るほど身{み}のこなしも。
色{いろ}きぬによく似{に}たり。いよ〳〵不審{ふしん}に思ひつゝ。この猿廻{さるまは}しが
帰{かへ}りを着{つけ}て家{いへ}に至{いた}らばかの女子{をなご}の。㒵{かほ}も定{さだ}かにわかる
べし。間違{まちがふ}たらそれまでよと。沈吟{しあん}さだめてその|四辺{あたり}を。ふらり〳〵と躇躊{たちもとふる}。まつほどこそあれ西山{にしやま}に。かたふく日
かげと諸{もろ}ともに。人〻{ひと〴〵}も散乱{さんらん}し。みなその家路{いへぢ}へおもむけは
猿{さる}まはしは敷延{しきのべ}たる。莚{むしろ}たゝみて荷{に}をかたづけ。やをら脊負{せおひ}

(18オ)
て小猿{こざる}をば。肩{かた}にうちのせ女{をんな}を将{い}て。この所{ところ}をたちさる
にぞ。伝{でん}兵へは半町{はんてう}ばかり。跡{あと}にさがりて猿{さる}まはしが。かた
げし竿{さほ}に輪{わ}のつきたるを。目{め}あてに跡{あと}よりつけてゆく。
並木{なみき}のほとりも往来{わうらい}の。たえ間{ま}なければ伝{でん}兵へは彼{かの}
さるまはしを見うしなはじと。往{ゆく}ほどこそあれ向{むか}ふより。
対{つい}の衣裳{いしやう}に日和{ひより}下駄{げた}。大道{だいどう}せましと競{きそ}ひ来{く}る。男{をとこ}
に磤{はた}とゆきあたれば。恟{びつ}くりとして跡じさりし【伝】「これは〳〵
ぶちやうほう。真{まつ}ぴら御用捨{ごようしや}くださりまし。」トいへば男{をとこ}は頰{ほう}

(18ウ)
ふくらし「なんだ。御用捨{ごようしや}も推{おし}がおもいは。見ればおひらの長
芋{ながいも}か精霊{せうれう}だなの白茄子{しろなすび}。顔{かほ}ばツかりは真白{まつしろ}でも。やくに立{たゝ}
ずの素町人{すてうにん}。つきあたつたはなんぞおれに。言{いひ}ぶんあつての
事だらう。コノお女郎{ぢようろ}の金{きん}三郎は。鎌{かま}くらぢうには三{み}ツ児{ご}で
も。しらぬものなき男伊逹{をとこだて}。見そくなつたか青二{あをに}さいめ。」ト
いひさまにぎる挙{こぶし}をふりあげ。打{うた}んとすれば身{み}をひねり
【でん】「イヤ何{なに}もおまへがたに怨{うら}みも恩{おん}もないわたし。言{いひ}ふんの
あらふ道理{どうり}もなし。全{まつた}く麁相{そゝう}でござります。どふぞ了簡{れうけん}

(19オ)
してくだされ。」【男】「ヱヽべらぼうめへ。誤{あやま}りせへすれば何{なに}をしても
すむと思ふか。八百八町{はつぴやくやてう}にかくれのない。コノお女郎{ぢようろ}が手{て}めへ
たちに。こめられちやア男{をとこ}がたゝねへ。ウヌどうするか見て
居{ゐ}をれ。」ト尻{しり}をくるりと引{ひき}からげれば。後{うしろ}にしたがふ男逹{をとこだて}
の。陜者等{きおいら}は三四人{さんよにん}。異口同音{みなくち〴〵}に「モシおやかたこんな奴{やつ}は大
道{だいどう}へ引{ひき}ずり倒{たふ}してぶちすへて。大川{おほかは}へ〓{ざんぶり}と。やつて仕廻{しまふ}が*〓は「水(冠)+入」
よふごぜへす。」トこしにさしたる尺八{しやくはち}を。手〻{てゞ}にふりあげ
打{うつ}てかゝる。こは理{り}ふじんと伝{でん}兵へは。身{み}をひねりかいくゞり。

(19ウ)
防{ふせ}げどさきは多勢{たせい}なり。おりかさなつて打{うち}かゝるにぞ。
伝{でん}兵へ今{いま}は手術{てだて}つき。腰{こし}に帯{おび}たる小{こ}わきざし。晃{ひら}りと
ぬいてさし翳{かざ}せば。お女郎{ぢようろ}の金{きん}三郎は。呵〻{から〳〵}と打{うち}わらひ
【金】「ハヽヽヽヽ。ヤアこの野郎{やらう}め。耳{みゝ}くぢりをひねくりまはして。どふ
するのだへ。おれをきる気{き}か。切{きる}ならきれ。サア何所{どこ}からきる。
己{おの}れらに切{き}られるのは。西瓜{すいくは}か冬瓜{どうぐは}かすなむらの。柬埔
塞{かぼちや}よりほかにやアねへ。」ト口{くち}から出{で}しだい悪口{あくこう}し。尻{しり}をまく
りて伝{でん}兵へが。目{め}のさきへつき付{つき}れば。伝{でん}兵へこらへず

(20オ)
金{きん}三郎が。わきばらぐざと突貫{つきつらぬ}けば。灸所{きうしよ}のいたでに
たまりえず。嗟{あつ}と叫{さけ}びてたをれ伏{ふ}す。ヤレ人{ひと}ごろしと口〻{くち〴〵}に。
罵{のゝし}るこゑに諸方{しよほう}より。集{あつ}まる人{ひと}は山{やま}をなす。伝{でん}兵へは一
|時{じ}の怒{いか}りに。金{きん}三郎に疵{て}をおはし。有漏{うろ}〻〻して捕{とら}はれなば。
身{み}の一大事{いちだいじ}と思ひつゝ。血刀{ちがたな}はやくさやに納{をさ}め。囂〻{がや〳〵}と立{たち}
さはぐ。人{ひと}の間{あいだ}をくゞりぬけ。柳河岸{やなぎがし}のこなたなる。午頭天
王{ごづてんわう}を祭{まつ}りたる。社{やしろ}のほとりへ来{き}にければ。暴{にはか}にふりくるむら
雨{さめ}の。篠{しの}を束{つか}ねて突{つく}〔ごと〕きに。往来{ゆきゝ}の人{ひと}さへ途絶{とだへ}たり。

(20ウ)
これ幸{さいわ}ひと裡{うら}みち伝{づた}ひ。喘〻{あへぎ〳〵}ぞ走{はし}りける。
因{ちなみ}にいふ。お女郎{ぢようろ}の金{きん}三郎といふは。其{その}ころ名{な}うての凶児{わるもの}
にて。男伊逹{をとこだて}の頭{かしら}と呼{よば}れ。この近辺{きんへん}に威{い}を震{ふる}へり。
今{いま}僅{わづか}の事により。斯{かく}の〔ごと〕くの騒{さわ}ぎにおよぶは。これにも
一ツの以{ゆへ}ある事也。なを末〻{すへ〴〵}の巻{まき}に解{とく}べし。
恋の花染二編巻之上終


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底本:東京大学文学部国語研究室蔵本(A4:0089:2)
翻字担当者:矢澤由紀、成田みずき、銭谷真人
更新履歴:
2017年7月26日公開

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