日本語史研究用テキストデータ集

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浮世新形恋の花染うきよしんがた こいのはなぞめ

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初編下

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浮世新形恋の花染 初編下

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凡例
1.本文の行移りは原本にしたがった。
2.頁移りは、その丁の表および裏の冒頭において、丁数・表裏を括弧書きで示した。また、挿絵の丁には$を付した。
3.仮名は現行の平仮名・片仮名を用いた。
4.仮名のうち、平仮名・片仮名の区別の困難なものは、現行の平仮名に統一した。ただし、形容詞・副詞・感動詞・終助詞・促音・撥音・長音・引用のト等に用いられる片仮名については、原表記で示した場合がある。 〔例〕安イ、モシ、「ハイそれは」ト、意気だヨ、面白くツて、死ンで、それじやア
5.漢字は現行の字体によることを原則としたが、次のものについては原表記に近似の字体を用い、区別した。「云/言」「开/其」「㒵/貌」「匕/匙」「吊/弔」「咡/囁」「哥/歌」「壳/殻」「帒/袋」「无/無」「楳/梅」「皈/帰」「艸/草」「計/斗」「弐/二」「餘/余」
6.繰り返し符号は次のように統一した。ただし、漢字1文字の繰り返しは原本の表記にしたがい、「〻」と「々」を区別して示した。
 平仮名1文字の繰り返し 〔例〕またゝく、たゞ
 片仮名1文字の繰り返し 〔例〕アヽ
 複数文字の繰り返し 〔例〕つら〳〵、ひと〴〵
7.「さ」「つ」「ツ」に付く半濁点符は「さ゜」「つ゜」「ツ゜」として示した。
8.Unicodeで表現できない文字は〓を用いた。
9.句点は原本の位置に付すことを原則としたが、文末に補った場合がある。
10.合字は〔 〕で囲んで示した。 〔例〕殊{〔こと〕}に、なに〔ごと〕、かねて〔より〕
11.傍記・振り仮名は{ }で囲んで示した。 〔例〕人生{じんせい}
12.左側の傍記・振り仮名の場合は、冒頭に#を付けた。 〔例〕めへにち{#毎日}
13.傍記・振り仮名が付く位置の紛らわしい場合、文字列の始まりに|を付けた。 〔例〕十六|歳{さい}
14.原本に会話を示す鉤括弧が付いていない場合も、これを補い示した。また庵点は〽で示した。
15.原本にある話者名は【 】で示した。 〔例〕【はる】
16.割注・角書および長音符「引」「合」は[ ]で囲んで示した。
17.不明字は■で示した。
18.原本の表記に関する注記は*で行末に記入した。 〔例〕〓{たど}りて*〓は「漂+りっとう」
19.花押は〈花押〉、印は〈印〉として示した。
20.画中文字の開始位置に〈画中〉、広告の開始位置に〈広告〉と記入した。

本文の修正
1.翻字本文を修正した場合には、修正履歴を末尾に示す。
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$(口1オ)
御貸さしき 粂川


$(口1ウ)
花ゆう
でん兵へ

$(口2オ)
おしゆん
粂川{くめがは}の楼上{らうしやう}
に伝{でん}兵へ計{はか}
らずおしゆん
に再会{さいくわい}す

$(口2ウ)

(1オ)
[浮世{うきよ}新形{しんがた}]恋{こひ}の花曽女{はなぞめ}初編下
東都 松亭金水編次
第三回
八街{やちまた}に往{ゆき}かふ人{ひと}も跡{と}だえざる。その賑{にぎは}ひぞ三国一{さんごくいち}と。
名{な}に聞{きこ}へたる花水橋{はなみづばし}。表{おもて}は二間{にけん}の惣{そう}がうし。紺{こん}の暖簾{のれん}
に三桝{みます}やと。白{しろ}く抜{ぬき}しは滝本{たきもと}の。猩〻翁{せう〴〵おう}の真蹟{しんせき}を。
そのまゝ此処{こゝ}に模{うつ}しとり。東呉万里{とうごばんり}の船{ふね}を止{とゞ}むと
柱{はしら}かくしの竹{たけ}の簾{れん}。根府川石{ねぶかはいし}の沓脱{くつぬぎ}も。いと風流{ふうりう}

(1ウ)
の鄽{みせ}がゝり。これなん三{み}ますや三八{さんはち}といふ。こゝで名{な}
うての伊達男{だてをとこ}。かゝへの唄女{げいしや}多{おほ}きが中{なか}に。此{この}ほど計{はか}
らず抱{かゝ}へたる。お俊{しゆん}は標致{きりやう}のよきのみならず。芸{げい}さへ
人{ひと}に勝{すぐ}れつゝ。弘{ひろ}めなしたる其{その}日{ひ}より。院{ざしき}の絶間{たへま}なき
のみか。祝義{しうぎ}の数{かず}も重{かさ}なれば。三八{さんはち}はこれぞ。よき。揺
銭樹{かねのなるき}を得{え}にけりと。心{こゝろ}の内{うち}に歓{よろこ}びて。外{ほか}の者{もの}より
よく痛{いた}はり。出這入{ではいり}にさへ心{こゝろ}をつけて。衣裳{いしやう}も見{み}ぐるし
からぬやう。何{なに}から何まで外{ほか}ならず。世話{せわ}するほどに

(2オ)
日{ひ}にそひて。益〻{ます〳〵}流行{はやり}たりにけり。かくてお俊{しゆん}はこの
間{あいだ}。図{はか}らずも粂川{くめがは}にて。福住{ふくずみ}やの伝{でん}兵へに。再会{さいくわい}
なして身{み}のうへをも。語{かた}らまほしと思ひしかど。相
客{あいきやく}の手{て}まへをかね。いはず語{かた}らず帰{かへ}りしが。薄〻{うす〳〵}
聞{きけ}ば今{いま}ははや。色絹{いろぎぬ}と祝言{しうげん}なし。中睦{なかむつ}ましく暮{くら}
すよし。人{ひと}の心{こゝろ}と秋{あき}の空{そら}。かはる習{ならひ}といひながら。あれ
ほどまでに色絹{いろぎぬ}を。嫌{きら}ひしかども夫婦{ふうふ}となり。朝{あさ}に
夕{ゆふ}なに身{み}にそひて。枕{まくら}ならべし床{とこ}のうち。いとし可愛{かわい}

(2ウ)
の言{〔こと〕}の葉{は}は。なくとも互{たがい}に憎{にく}からず。睦{むつ}みかたるも
女夫中{めをとなか}。アヽ物{もの}〔ごと〕は案{あん}じまいもの。されどアノおり
伝{でん}兵へさんが。いふに随{したが}ひ婬戯{みだら}な〔こと〕を。したらばそふ
も納{おさ}まるまい。此{この}身{み}とても岩木{いわき}にあらず。艶{やさ}しい
心{こゝろ}に絆{ほだ}されて。ツイ肌{はだ}をゆるしたら。大{おほ}きな騒{さは}ぎに
なつたであらふ。いろ〳〵世話{せわ}にもなつたうへ。家出{いへで}
をして伯母{おば}さんにも。苦労{くらう}かけたは恩{おん}を知{し}らぬ。やう
にはあれど斯{かう}なつては。結句{けつく}此{この}身{み}のあかりもたつ。

(3オ)
さは去{さり}ながら伝{でん}兵へさん。男振{をとこぶり}なら心{こゝろ}なら。何{なに}一{ひと}ツと
して不足{ふそく}ない。お方{かた}がマアあれほどに。情{なさけ}と実{じつ}と義理{ぎり}
づめに。いはしやんすのを張{はり}とほし。既{すで}に死{し}なふと覚語{かくご}
まで。した身{み}も業{ごう}の滅{きへ}やらで。浮川竹{うきかはたけ}の契情{けいせい}に。劣{おと}
る此{この}身{み}の浮苦労{うきくらう}。これも矢張{やつぱり}恩{おん}のある。アノ伯
母{おば}さんのお家{いへ}が大事{だいじ}と。思ふた計{ばか}りで斯{かう}なつた。
心{こゝろ}はいつか届{とゞ}くであらふト独{ひとり}くよ〳〵物{もの}思ふ。折{おり}から
入梅{つゆ}の癖{くせ}として。軒{のき}に音{おと}せぬ雨{あめ}のあし。行{ゆき}かふ人{ひと}

(3ウ)
もいつのまに。霎時{しばし}絶{たへ}ける門{かど}の口{くち}。瓦落{ぐはらり}とあけて
入来{いりく}る人{ひと}あり。此{この}家{や}の小{こ}ぢよく立出{たちいで}て【小】「ハイどつち
から。」トいひつゝ見れば年{とし}の頃{ころ}四十{よそじ}あまりの女{をんな}にて。丁稚{でつち}
に負{おは}す袱{ふろしき}も。㒵{かほ}も忽地{たちまち}紅更紗{べにざらさ}。【女】「こゝは三枡{みます}や
でござりますか。」【小】「ハイどつちから。」【女】「こゝのうちにアノ
お俊{しゆん}といふ唄女{げいしや}が居{を}るそうだ。鳥渡{ちよつと}逢{あい}たくつて
参{まい}つたよ。今{いま}おしゆんは内{うち}に居{ゐ}るかね。」【小】「ハイ仕{し}まひを
して居{ゐ}なはいます。」【女】「そんなら其処{そこ}へ往{いき}ませう。」ト

(4オ)
何か容子{よふす}はわからねど。急立{せきたつ}たるその風俗{■■ぞく}。小{こ}ぢよく
は先へ駈入{かけいつ}て。おしゆんに斯と低語{さゝやけ}ば。おしゆんは女
の風俗を。聞よりハツト胸{むね}轟{とゞろ}き。若もそれかと振{ふり}
むく所へ。はやいり来る以前{いぜん}の女。㒵{かほ}見{み}合して【女】「これ
おしゆん。」【しゆん】「そうおつしやるはアノ伯母{おば}さん。どうしてこゝへ。」
【たへ】「ヘンどうしてもない物だ。ヱヽこゝな性{せう}わるめ。」トいひさま
傍に在合{ありあふ}たる。長き煙管{きせる}を搔とつて。発矢〻〻{はつし〳〵}と
二ツ三ツうたれて櫛も笄{かうがい}も。ばら〳〵〳〵とおち散{ち}れば

(4ウ)
おしゆんは此方へ身を俊巡{しさり}【しゆん】「アレおばさんお腹{はら}の立のは*「俊巡{しさり}」(ママ)
無理でないが。是にはだん〳〵わけのある〔こと〕。マア〳〵静{しづか}
にして下{くだ}さい。傍輩{はうばい}衆も彼処{あすこ}に居ます。おまへの様
に訳{わけ}もなく。人を打{ぶつ}たり擲{たゝい}たり。あんまりな。」トいはせ
もあへず【たへ】「ヱヽ押{おし}のつよい女{あま}めだぞよ。餘{あんま}りとは何が
あんまり。手めへのやうな畜生{ちくせう}に。何を言{いつ}てもわかるまい
が。一ト{ひと}通りはいはにやアならぬ。現在{げんざい}わたしが血を分{わけ}た
姪{めい}だと思へば娘も同{どう}やう。親父{おやぢ}や慈母{おふくろ}が死{し}んでの后

(5オ)
引とつてから此かたはホンニ〳〵大概{たいがい}な所の。お娘さまでも
出来{でき}ねへほどに犢鼻褌{ふんどし}から足袋{たび}まへだれ。袖ぐちの
切{き}れたのも。見ツともねへと月に二三|度{ど}。かけかへたり奥{おく}
口したり。気に気をつけて畜{かつ}ておいて。仏{ほとけ}のめへの義
|理{り}もあり。一二年のうち相応{そうおう}な。所へ縁{えん}を組してやらふ
と。荒{あら}イ風にもあてねへやうに。おしゆんや〳〵とかわい
がれば。い気になつてコレなんだ。まだ此お尻{■り}が温たまる*「い気に」(ママ)
か。温{あつ}たまらねへに色|恋{こひ}だ。モウ〳〵呆{あき}れけへりますぜ。夫

(5ウ)
のみならず家出{いへで}をして。人にはさんざ気を揉せ僅{わづか}か*「僅{わづか}か」の「か」は衍字
十町{じつてう}か二十町の。所にかくれてしらん㒵{かほ}。男へばかり内
通{ないつう}して。雨{あめ}のみや風のみや。何かに付て呼{よび}よせて。じやら
け廻{まは}ツてフンおたのしみだノウ。しかしコレおしゆんよく聞{きゝ}なせへ。
おめへの方の心がら。どうでも斯でもするがいゝが。たゞ難義{なんぎ}
なは吾儕{わたし}一人。なぜといふのに伝兵へから。逐一{ちくいち}きいたで
あらうが。まづ色絹{いろぎぬ}とも娵合{とりあは}して。是から吾儕も楽{らく}
になつて。お談義{だんぎ}参りや親{しん}るいへ。泊り歩行{あるき}も優〻{ゆう〳〵}と

(6オ)
しよふと思ふに伝{でん}兵へに斯{こう}いふ大{おほ}きな虫{むし}がつき。逃{にげ}
かくれても逢{あひ}とほし。現在{げんざい}伯母{おば}や従弟女{いとこ}まで人で
なしに扱{あつ}かはれ。此{この}節{せつ}|家宅{うち}はもめ反{かへ}つて。夜{よ}の目{め}も
陸〻{ろく〳〵}寝{ね}られはしません。アノ児{こ}[色ぎぬが事なり]も大きに苦労{くらう}し
て伝兵へにも夫{それ}とはなしに。遠{とふ}まはしの異見{いけん}をも。した
そうだが。ナニ馬{うま}の耳{みゝ}にお念仏{ねんぶつ}おめへ斗{ばか}りを可愛{かわい}がつて
色絹{いろきぬ}にはかまひつけず。他人{たにん}に劣{おと}たとり扱{あつか}ひ。娵合{とりあは}し*「劣{おと}た」(ママ)
ても三月越{みつきごし}。ツイに一度{いちど}夫婦{ふうふ}らしい。事もないとのアノ

$(6ウ)
おしゆん

$(7オ)
おたゑ
讒言{ざんげん}を信{しん}
じて於{お}たゑ
阿俊{おしゆん}に
迫{せま}る

(7ウ)
児{こ}がなげき。連配{つれそふ}良人{おつと}に嫌{きら}はれて。生{いき}て居{い}る気{き}は
ないけれど。親{おや}に先立{さきだつ}は不幸{ふこう}とやらどふぞ吾儕{わたし}を
尼{あま}にして。松葉{まつば}が谷{やつ}へ送{おくつ}て下{くだ}され。跡{あと}へはアノお俊{しゆん}さんを
いれ。伝{でん}兵へさんと夫婦{ふうふ}にしたら。|家宅{うち}もしつ゜くり
納{おさま}りませう。おしゆんさんとてまんざらな。他人{たにん}といふ
でもないものを。どうぞそうして穏{おだやか}に。済{すむ}事{〔こと〕}ならば
済{すま}せたい。吾儕が苦労{くらう}は仕{し}かたもないが。年{とし}を取{とつ}た
おまへの心配{しんはい}。傍{そば}に見て居{い}る吾儕{わたし}がつらいと。いふて

(8オ)
一人は良人{おつと}の事。仕{し}やうもやうもございませんから。
是非{せひ}〳〵吾儕{わたし}は尼{あま}にしてと。既{すんで}の事に刺刀{かみそり}で。髷{まげ}を
すツかりやらうとしたを。マア〳〵待{まつ}てと漸{よふや}くとめて。ムヽ
そう思ふは尤{もつとも}だが。伝{てん}兵へは養子{ようし}の事。其方{そなた}はこゝで
生{うま}れた人。殊{〔こと〕}にはたつた一|粒{つぶ}もの。どうして尼法師{あまほうし}に
されませう。何れわたしが伝兵へに。篤{とつ}くり異{い}けん
した上で。おしゆんが事を思ひきり。中よふ連配{つれそふ}了簡{れうけん}
なら。夫{それ}ほどな事はなし。若{もし}も狐{きつね}がはなれかね。吾

(8ウ)
儕{わたし}が異見{いけん}を用ひずは。親{おや}はなけれど叔父御{おぢこ}の方{ほう}へ。
返{かへ}して外{ほか}の聟{むこ}をとるに。何のむづかしい事はない。然{しか}し
ながら伝兵へも。幼稚{ちいさい}ときから手にかけて。色ぎぬと
同{とう}やうに。育{そだて}た中ならまんざらな。他人{たにん}とも思はれず。
出シ引をするのも否{いや}だが。得心{とくしん}せねば是非{ぜひ}がない。マア〳〵
篤{とつ}くり異見{いけん}して。その上での了簡{れうけん}と腹{はら}をきめて
伝兵へに。斯〻{かう〳〵}いふ噂{うはさ}がある。それゆへ|家宅{うち}も納{おさま}らず。
迷惑{めいわく}するのは吾儕{わたし}一人{ひとり}。どうぞ爰{こゝ}を勘弁{かんべん}して。お俊{しゆん}

(9オ)
が事は思ひ切て下さらぬか。いはゞおしゆんは畜生{ちくせう}
同ぜん。その畜生{ちくせう}に引かゝれば。矢張そなたも畜生{ちくせう}仲{なか}
間。それよりふつ゜つり思ひきり。性根{せうね}をいれかへ真
実な人に。なつてわたしや色ぎぬに。安堵{あんど}しさして
養{やし}なつて。くれる気はないかいの。世間{せけん}の人の親心{おやごゝろ}。
子の可愛{かわゆ}くない者はない。色ぎぬがさま〴〵と。歎{なげ}く
たンびに吾儕{わたし}がむね。マアどんなだらうと思ひなさる。
今は其方も家督の身。この家{いへ}を寝{ね}かそうと。起

(9ウ)
そうと其方{そなた}の胸{むね}。たつ゜た一ツにある事だと。現在
聟{むこ}の伝{でん}兵へに。手{て}をさげぬ斗りにして。いふた所{ところ}がアノ
野郎{やらう}めが。しら〴〵しい面{つら}の憎{にく}さ。これは〳〵怪{け}しからぬ
事をおつしやります。先頃おしゆんが家出{いへで}いたして。
その后終に㒵をさへ。見た事もござりませぬ。況{まし}て
そういふ有情{わけ}などは。神〻かけてござりませんから。
些ともおあんじ遊ばすな。ト立|転{ころ}ばしにいひぬけ
おる。憎{にく}さもにくいが聟姑{むこしうとめ}と。喧嘩{けんくわ}をしても始{はじ}ま

(10オ)
らないから。和{やわ}らにうけてムヽそういやるなら。其{その}事{〔こと〕}に
嘘{うそ}もあるまい。偽{いつわり}もあるまいなれと色絹{いろぎぬ}と。兼て
夫婦{ふうふ}にするつもりで。養子{ようし}にした其方{そなた}の〔こと〕。女児{むすめ}
もよふ〳〵年頃{としごろ}に。なつた故{ゆへ}に娵合{とりあわ}して。モウかれ是{これ}
三月越{みつきごし}。親{おや}の口からいひ憎{にく}イ。口諚{こうぢやう}なれど色絹{いろぎぬ}
とは。終{つい}に一所寝{いつしよね}もしないとやら。夫{それ}にはてつ゜きり
訳{わけ}があらふ。標致{きりよう}の悪{わる}いが気{き}にいらぬか。外{ほか}に狐{きつね}が
付{つい}てるか。二ツの内にちがひはないが。それではおまへ

(10ウ)
済{すむ}めへぜと。問詰{とひつめ}られてもたゞうぢ〳〵と。分{わか}らぬ
挨拶{あいさつ}ばかりして。小{こ}じれツたくツてならねへから。おめへ
に逢{あつ}て聞{きい}て見やうと。漸{よふや}くたづねて来{き}たわたし。
禀{うけ}た恩{おん}をも仇{あだ}にして。逃出{にげだ}したは仕{し}かたもない。とは
いふ物{もの}のほんとうなら。其処{そこ}の道理{どうり}も糺{たゞ}したうへ。
此処{こゝ}の御亭主{ごていしゆ}にかけ合{あつ}て。誰{たが}口{くち}いれで欠落者{かけおちもの}を。
抱{かゝ}へさしつたと此方{こつち}から。かゝるのだけれどコノ伯母{おば}を。
壁{かべ}にして出{で}た其方{そなた}の事。是{これ}からどうでもするが

(11オ)
いゝ。構{かま}はねへけりやア気{き}も揉{もめ}ねへが。まづさし当{あた}つて
わたしが迷惑{めいわく}。どうだおしゆん伝{でん}兵へを。ふつ゜つりぱつ
たり思ひ切{きつ}て下{くだ}せへな。」ト|四辺{あたり}をにらみ畳{たゝみ}をたゝき。
口より泡{あは}を吹出{ふきだ}して。さも憎{にく}ていに詈{のゝし}りける。此{この}うち
おしゆんは言葉{〔こと〕ば}もなく。さし俯{うつむい}て居{ゐ}たりしが。始終{しじう}を
聞{きい}て恟{びつく}りし【しゆん】「なるほど御恩{ごおん}になりましたを。仇{あだ}に
いたして出{で}ましたは。私{わたし}が重〻{ぢう〳〵}わるいけれど。それには
少{すこ}し訳{わけ}もあり。実{じつ}は死{し}ぬ気{き}で出ましたのを。こゝの

(11ウ)
旦那{だんな}が情{なさけ}により。命{いのち}も助{たす}かり此{この}やうに。花美{はで}な衣
裳{きもの}を着{き}くるんで。上表{うはべ}は楽{らく}なやうに見へても。内証{ないしよ}の
苦患{くげん}はいふにいはれず。是{これ}も矢張{やつぱり}恩{おん}を仇{あだ}に。した
報{むく}ひかと明{あき}らめて。居{をり}ますほどのわたしが心どうし
てマア伝兵へさんと。そんないやらしい事が有{あり}ますものか。
一ツ所{ところ}に居{い}た時{とき}さへ。まじめで暮{くら}した吾儕{わたし}の事。況{まし}て
家出{いへで}をした后{のち}は。おめにかゝつた事もなし。」【たへ】「ヲツトそう
はいひなさんな。活業{せうばい}がらの口巧者{くちごうしや}に。つへこべ言{いつて}も

(12オ)
そうは参らん。まづ第一|伯母{おば}の家を。欠落{かけおち}したはどふ
いふわけ。殊{〔こと〕}に死{し}なふと覚語{かくご}して。出ましたとは何の
事だ。吾儕{わたし}の仕{し}やうが気にいらぬのかへ。」【しゆん】「イヽヱ。」【たへ】「外に
情郎{いろをとこ}ても有たのかへ。」【しゆん】「イヽヱ。」【たへ】「そんなら夫は何ゆへだ。
伝兵へといひ合し。おめへをさきへ立退{たちのか}し。知{し}らぬ㒵{かほ}で
楽しむ積{つも}りだ。こゝの亭主{ていし}がどのやうな。情の|ふけ{深}い
人にもしろ。請人なしの奉公人を。抱{かゝ}へる筈{はづ}もあり
ますめへ。みんなおめへと伝兵へが。心を合した匕加減{さぢかげん}。

(12ウ)
シタガそりやア是非{ぜひ}がない。今までの事は取て捨{すて}て。是
から后{のち}は伝兵へに。逢ますめへといふ書付{かきつけ}を。一{ひと}ふで
書{かい}て貰{もら}ひませう。夫せへあれば吾儕{わたし}も安堵{あんど}だ。それ
でもおめへ方|二人{ふたり}が中。切{き}れかねるなら仕方{しかた}がない。アノ
伝兵へをば西の海。梵天国{ぼんでんごく}へさアらりと。追払{おひはら}ふ分の
事さ。サア切文{きれぶみ}をちよつと一筆。書て呉{くん}な。」ト在{あり}あふ硯
突つけられて十方{とほう}にくれ【しゆん】「実に覚へのある〔こと〕なら。
私ゆへにおまへさんも。色〳〵苦労{くらう}をなはるとのこと

(13オ)
何の否{いや}とは申ませう。なれども此方{こつち}に覚へなく。ナニ
切文を書ませう。」【たへ】「まだこの女{あま}めは彼{かれ}是と。言{いひ}わけ
ばかり。ヱ丶めんどうな。そんなら御亭主{ごていし}にかけ合て。二人
|一所{いつしよ}に索からげ。知県{だいくはん}所へ引ずりだし。白イか黒{くろ}イか分
やせう。」ト立{たつ}をおしとめ【しゆん】「ヱヽおまへも滅{めつ}そうな。何を
証拠{せうこ}に公家{おほやけ}沙汰。」【たへ】「盗人|猛〻{たけ〴〵}しいとはおぬしの事よ。
証拠のなんのと伯母に向{むか}つて。ヱヽ殺{ころ}しても飽{あき}たらぬ。」ト
怒{いか}りの面色{めんしよく}如夜刃{によやしや}の真相{しんそう}。吼{たけ}り狂へば傍輩{ほうばい}唄女{けいしや}も

(13ウ)
訳{わけ}は何とも分らねど。驚{おどろ}きおそれてこそ〳〵と。潜{ひそみ}
かくるゝばかりなり。かくてお俊{しゆん}が心のうち。つら〳〵是を
思ひ量{はか}るに。身に覚なき濡{ぬれ}衣を。着るはつや〳〵厭は
ねど。この切文を書ときは。虚言は忽地{たちまち}実言{ま〔こと〕}となり
咎{とが}なき人に罪{つみ}を負{おは}する。道理なれども若{もし}書{かゝ}ずは
伯母が勢{いきほ}ひ鎮めがたく。公家沙汰にするときは。伝兵へ
はじめ恥{はぢ}のかきあげ。これは定{たし}かに色絹が。良人{おつと}と恃む
伝兵へどのに。嫌{きら}はれたる悔{くや}しまぎれ。此身のうへを聞出

(14オ)
し。母{はゝ}に讒言{ざんけん}なしたるものなり。畢竟{ひつきやう}伯母{おば}御の家{いへ}大事{だいじ}
と。思へばこそあれ身を慎{つゝし}み。心|細{ほそ}くも住{すみ}なれし。家{いへ}を
出たる身なるもの。世{よ}になき物{もの}とはかねての覚語{かくご}。今
さら何をか厭{いと}ふべき。伯母{おば}の望{のそみ}にまかしつゝ。元{もと}より有
情{わけ}なき伝{てん}兵へとのへ。切文{きれぶみ}書{かい}て渡{わた}してやり。その男{をとこ}への
いひわけには。コウ〳〵すべしと胸{むね}のうち。沈吟{しあん}の臍{ほぞ}を堅{かた}
めつゝ。忽地{たちまち}完爾{につこ}とうち笑{わら}ひ【しゆん】「モシおばさんいろ〳〵と。
申してお腹{はら}を立せたのも。実{じつ}はといへば気{き}の毒{どく}さに。

$(14ウ)
いろぎぬ
でん兵へ
〈画中〉貞斎画

$(15オ)
おたへ
源さく
切文{きれぶみ}を
もて
おたへ
伝{でん}兵へを
詰{なじ}る

(15ウ)
彼{かれ}の是{これ}のと申したが。実{しつ}はわたしと伝{てん}兵へさんの。中は頓{とう}
から出|来{き}てゐて。悪{わる}い事とはしりながら。思ひきら
れぬ身の因果{いんぐは}。堪忍{かんに}して下はいまし。モウ〳〵ふつ゜つり
思ひきり。是{これ}から㒵{かほ}も見ますまい。お望{のぞ}み通{とふ}り切
文を。サア〳〵書{かい}てあげませう。其{その}かはりには此{この}すへ〴〵。
伝{でん}兵へさんの身の上に。障{さは}らぬやうにおねがひ。」ト聞{きい}て
おたへも面{おもて}を和{やわ}らげ【たへ】「そう物事{もの〔こと〕}がわかつたうへは。
何の障{さは}りがあるものかネ。証拠{せうこ}の何のとむづかしく。おめへ

(16オ)
がいへば此方{こつち}も意地{いぢ}づく。ツイ〳〵心も荒{あら}だつ訳{わけ}。そう
おとなしくするものに。なんぼ吾儕{わたし}が鬼{おに}でも蛇{じや}でも。
突{つき}かゝられる物{もの}ではない。其{その}文{ふみ}書{かい}て貰{もらつ}たうへ。また
伝{でん}兵へにも異見{いけん}して。いよ〳〵二人が切{き}れるなら。可愛{かわい}
娘{むすめ}に配{そは}せる伝兵へ。憎{にく}からふ訳{わけ}がない。其処{そこ}は些{ちつ}とも
案{あん}じなさんな。」ト言葉{〔こと〕ば}和{やは}らぐおたへが㒵{かほ}。見ればお
もへば情{なさけ}なや。兎{う}の毛{け}におきし露{つゆ}ばかりも。覚{おぼ}への
なきをあり㒵に。書{かく}も浮世{うきよ}の義理{ぎり}づくめ。まゝに

(16ウ)
なるなら此{この}文{ふみ}を。書ずに死{し}ぬが誠{ま〔こと〕}の道{みち}と。おもひ
まはせど一寸も。延引{のつぴき}ならぬこの場{ば}の思議{しぎ}。麻耳{しび}るゝ
手さきやう〳〵に。抓{つま}みて摺{する}や見る石の。面{おもて}にながす
墨{すみ}と紙。白イ黒イは天照{あまてら}す。神{かみ}のしりてやおはす
らんと。不覚{すゞろ}に胸{むね}に堰来{せききた}る。泪{なみだ}飲込{のみこみ}〳〵て。やがて染{そめ}
なす筆{ふで}のさき。今宵{こよひ}にせまる命毛{いのちげ}も。倶{とも}にきれ
なん思ひにて。漸{よふや}くに書{かき}しまひ。渡{わた}せばおたへは披{ひら}
き見て。独{ひとり}点頭{うなづき}そこ〳〵に。暇{いとま}を告{つげ}て立かへり。一間{ひとま}

(17オ)
のうちに伝{でん}兵へが。物{もの}読居{よみい}たるを荒{あら}らかに。呼{よび}よせ
て頰{ほう}ふくらし【たへ】「コレおまへおしゆんとは。一向{いつこう}有情{わけ}は
ござりません。勿論{もちろん}当時{とうじ}は何処{どこ}に居{を}るか。しらんと
昨日{きのふ}言{いひ}なすつたが。実{じつ}にそうかへ。」【伝】「ナニ嘘{うそ}を申し
ませう。」【たへ】「フム慥{たしか}な証拠{せうこ}があるがどうだへ。」【伝】「証拠
は何{なに}か存{ぞん}じませんが。私{わたくし}におきましては。」【たへ】「おしゆんの
居所{ゐどこ}を知{し}らぬのじやの。」【伝】「ハイ。」【たへ】「ヱゝこゝな強諚{ごうぢやう}男。
吾儕{わたし}を女と侮{あな}どつて。馬鹿{ばか}にしてもそう甘{うま}くは

(17ウ)
往{ゆき}ませんぞ。サアその証拠{せうこ}を見せましやう。」ト懐{ふところ}より
してとり出{だ}す切文{きれぶみ}【たへ】「コレ見なせへ。伝{でん}兵へさまへしゆん
とある。この手跡{しゆせき}にはおぼへがあらふ。」トいひさまさらり
とうち披{ひら}き「是{これ}まで深{ふか}くいひかはせし。二人がなかも
伯母{おば}さまの。御難{ごなん}義とあるにかへがたく。私{わたくし}はふつつり
と思ひ切{きり}まいらせ候。おまへさまも私をば。世{よ}になき
者{もの}と思しめし。御あきらめ下{くだ}されかし。何事{なに〔ごと〕}もみな
時節{じせつ}にて候まゝ。必{かな}らず〳〵悪{あし}からず思し召{めし}下され

(18オ)
べく候。申しわけはアノ世にて細{こま}〴〵申〔まいらせ候〕かしく。」「サア何と
この文{ふみ}は。まんざらしらぬといはれますまい。」トいはれ
て訝かる伝兵へが。眉に八字の皺{しわ}をよせ【伝】「ドレマア
お見せなさりまし。兎にも角{かく}にも合点{がてん}のゆかぬ。」
ト出{だ}す手を丁とうちはらひ【たへ】「ヱヽこの人はこれを
取て。引裂{ひつさい}て仕廻{しまふ}積りか。ソウはゆかぬ。コレ伝兵へ。お
しゆんが方はこの通り。吾儕も猜|異見{いけん}もしたり。小言{こゞと}
もいふてとり極{き}めた。サア是からはおまへの胸{むね}だ。よく

(18ウ)
考{かん}がへて挨拶{あいさつ}しな。」トいはれても尚{なを}不審{ふしん}ははれず
【伝】「どふも合点{がてん}がまいりませぬ。有情{わけ}ない事をその
やうに。お俊が書ふ道理{どうり}もなし。」【たへ】「そんなら吾儕か
拵{こしら}へ事と。親に楯を築{つく}気{き}かへ。」【伝】「全{まつ}たくそうでは
ござりませんが。」【たへ】「そうでなけりやア思ひきるとか
切られないとか男らしく。ずツかりと言{いひ}なさい。」【伝】「
申したいにも実{じつ}以{もつ}て。身に覚へません事なれば。」【たへ】「
ハテサテおまへも㒵{かほ}に似あはぬ。この場になつてその

(19オ)
言諚{いひぢやう}を。通{とふ}そうとても通{とう}されふか。」【伝】「通{とふ}すとふ
さぬは偖{さて}おいて。実{じつ}におしゆんが書{かい}たのなら。それには
仔細{しさい}がござりませう。私{わたくし}も念{ねん}ばらし。どうぞすぐさま
おしゆんが住所{ぢうしよ}へ。おつれなされて下{くだ}さらば。三ツ鉄輪{みつがなわ}
でその訳{わけ}を。」ト立{たち}あがるおり。ヤレ待{また}れよと。声{こゑ}かけ
出{いづ}るは何人{なにびと}ぞ。二編{にへん}にいたりて委{くわし}く解{とく}べし。
恋{こひ}の花染{はなぞめ}初編{しよべん}下終


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底本:東京大学文学部国語研究室蔵本(A4:0089:1)
翻字担当者:島田遼、矢澤由紀、銭谷真人
更新履歴:
2017年7月26日公開

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