日本語史研究用テキストデータ集

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浮世新形恋の花染うきよしんがた こいのはなぞめ

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初編中

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浮世新形恋の花染 初編中

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凡例
1.本文の行移りは原本にしたがった。
2.頁移りは、その丁の表および裏の冒頭において、丁数・表裏を括弧書きで示した。また、挿絵の丁には$を付した。
3.仮名は現行の平仮名・片仮名を用いた。
4.仮名のうち、平仮名・片仮名の区別の困難なものは、現行の平仮名に統一した。ただし、形容詞・副詞・感動詞・終助詞・促音・撥音・長音・引用のト等に用いられる片仮名については、原表記で示した場合がある。 〔例〕安イ、モシ、「ハイそれは」ト、意気だヨ、面白くツて、死ンで、それじやア
5.漢字は現行の字体によることを原則としたが、次のものについては原表記に近似の字体を用い、区別した。「云/言」「开/其」「㒵/貌」「匕/匙」「吊/弔」「咡/囁」「哥/歌」「壳/殻」「帒/袋」「无/無」「楳/梅」「皈/帰」「艸/草」「計/斗」「弐/二」「餘/余」
6.繰り返し符号は次のように統一した。ただし、漢字1文字の繰り返しは原本の表記にしたがい、「〻」と「々」を区別して示した。
 平仮名1文字の繰り返し 〔例〕またゝく、たゞ
 片仮名1文字の繰り返し 〔例〕アヽ
 複数文字の繰り返し 〔例〕つら〳〵、ひと〴〵
7.「さ」「つ」「ツ」に付く半濁点符は「さ゜」「つ゜」「ツ゜」として示した。
8.Unicodeで表現できない文字は〓を用いた。
9.句点は原本の位置に付すことを原則としたが、文末に補った場合がある。
10.合字は〔 〕で囲んで示した。 〔例〕殊{〔こと〕}に、なに〔ごと〕、かねて〔より〕
11.傍記・振り仮名は{ }で囲んで示した。 〔例〕人生{じんせい}
12.左側の傍記・振り仮名の場合は、冒頭に#を付けた。 〔例〕めへにち{#毎日}
13.傍記・振り仮名が付く位置の紛らわしい場合、文字列の始まりに|を付けた。 〔例〕十六|歳{さい}
14.原本に会話を示す鉤括弧が付いていない場合も、これを補い示した。また庵点は〽で示した。
15.原本にある話者名は【 】で示した。 〔例〕【はる】
16.割注・角書および長音符「引」「合」は[ ]で囲んで示した。
17.不明字は■で示した。
18.原本の表記に関する注記は*で行末に記入した。 〔例〕〓{たど}りて*〓は「漂+りっとう」
19.花押は〈花押〉、印は〈印〉として示した。
20.画中文字の開始位置に〈画中〉、広告の開始位置に〈広告〉と記入した。

本文の修正
1.翻字本文を修正した場合には、修正履歴を末尾に示す。
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$(口1オ)
○作者口上
京ばし銀座二丁め角坂本氏
にてせいほうのおしろい
仙女香びやうぶの内なる
むすめもつねに用ひゝなん
でもかほのくすりには外に
るいなし相かはらず
御評ばん〳〵
附■小児司命丸
これは水戸御免にて
うりひろめ小児おかん
大人くわくらんのびやう
の妙やく
作者方ニ
とり次
おき
申候

$(口1ウ)
婬婦{いんふ}奸夫{かんふ}
心{こゝろ}を合{あは}して
伝{でん}兵へを陥{おとし}
いれんと
はかる
たみ弥
〈画中〉〓福*〓は「逆卍」

$(口2オ)
色ぎぬ

$(口2ウ)

(1オ)
[浮世{うきよ}新形{しんがた}]恋{こひ}の花曽女{はなぞめ}初編{しよへん}中
東都 松亭金水編次
第二回
偖{さて}も当下{そのとき}茶屋{ちやや}の男{をとこ}「ヘヱみなさま御浄水{おちやうづ}に入{いら}ツしやい
ませんか。今度{こんど}は浄瑠理{じやうるり}でござりますから。幕{まく}はチト長{なが}
ふござりませう。」【妙】「アイ参{まい}らふヨ。色絹{いろぎぬ}はどうだ。」【色】「吾儕{わたし}も
参{まい}りませう。サアみんな来{き}なゝ。」ト立{たち}あがる。【妙】「ヲヤ夫{それ}じやア
折{せつ}かくお招{まね}き申て。源作{げんさく}さまをお独{ひとり}にいたしては。」【源】「イヤ

(1ウ)
身{み}どもゝ御一所{ごいつしよ}に参{まい}らふ。外{ほか}に少{すこ}し用事{ようじ}もござるから。」【たへ】「
そんなら入{いら}ツしやい。チト気{き}をかへて二階{にかい}で一{ひと}ツ給{たべ}ませう。」【源】「
イヤ酒{さけ}はモウ十分{じうぶん}じや。ゲヱ。」トいひつゝどろ〳〵と階子{はしご}を下{お}り
て茶{ちや}やへゆけば。お妙{たへ}は直{すぐ}にいひつけて。又{また}酒肴{さけさかな}をとり出{だ}
させ。二階{にかい}ざしきではじめる酒事{さゝ〔ごと〕}。色絹{いろぎぬ}はじめ女{をんな}どもゝ。㒵{かほ}を
直{なを}し衣紋{えもん}をつくり。ざゝめきわたつて座{ざ}につけど。おしゆんは
独{ひとり}何処{どこ}やらが。継子{まゝこ}めきて心{こゝろ}さへ。浮〻{うき〳〵}せねば人〻{ひと〴〵}の。跡{あと}に
居{すは}りて塞{ふさい}でゐるを。源作{げんさく}は手{て}を把{とつ}て【源】「コリヤおまへは何{なに}を

(2オ)
塞{ふさ}いでお出{いで}るぞへ。チトこゝへ来{き}て御酒{ごしゆ}が否{いや}なら〓{さかな}でも。*〓は「肴(偏)+攵」
荒{あら}しなさい。」ト引{ひつ}ぱれば【しゆん】「ハイありがたふござります。私{わたくし}は
モウ何{なに}も欲{ほし}くはございません。」【源】「ハテサテそれはきつい事。
ハヽア聞{きこ}へた此方{こつち}には。モウ音羽屋{おとはや}が居{を}らぬから。夫{それ}でじやらふ。」
【しゆん】「ヲホヽヽ。イヱなに。」トいふを聞{きゝ}つけお妙{たへ}が渋{しぶ}つら【妙】「ナニおか
まいなさんな。音羽屋{おとはや}より京枡{きやうます}やより。内{うち}にチツト思ひ遺{のこ}
した事でもありませうからサ。」トいふはおしゆんに伝{でん}兵へが
事{〔こと〕}の意{こゝろ}を夫{それ}ぞとは。いはねど当{あて}る言葉{〔こと〕ば}の端{はし}に。お俊{しゆん}は

(2ウ)
胸{むね}にきツくりすれど。そらさぬ㒵{かほ}にほゝ笑{ゑみ}て【しゆん】「ヲヤおば
さんは否{いや}な〔こと〕を。」【妙】「マア〳〵いゝのサ。さア此方{こつち}へ来{き}て。みンなと咄{はなし}
でもして居{ゐ}なせへ。」【下女】「おしゆんさん是{これ}をお上{あが}りなさいまし。」
【しゆん】「アイありがたふ。」トいへど何{なに}やら手持{てもち}なく。さりとて物{もの}を言{いは}
ざれば。味{あぢ}な所{ところ}へ引{ひき}からむ。伯母{おば}が心を汲{くみ}かねて。笑{え}みを造{つくる}
も世事心{せじごゝろ}。【しゆん】「色絹{いろぎぬ}さんあなたは誰{だれ}が御{ご}ひゐきでござ
いますヱ。」【色】「私{わたし}はさして贔屓{ひいき}といふはありません。何{なん}でも
芸{げい}のいゝのがよいヨ。おまへは。」【しゆん】「私{わたくし}もそうでございます。」【色】「

(3オ)
それでもおまへこそ誰{だれ}か好{すい}た役者{やくしや}がありませう。」【しゆん】「
イヽヱ何{なに}好{すい}たなんぞといふはございませんが。何{なん}でも此方{こつち}
では芝翫{しくはん}と関三{せきさん}がいツちよふございますネ。アノだんまりの
所{とこ}で。ソレ雷{かみなり}さまか何{なに}かゞドンと申すと。芝翫{しくはん}と関三{せきさん}が
肝{きも}をつぶして居{すは}りますが。あすこがよふございますねへ。アノ
音{おと}では誠{ま〔こと〕}に恟{びつく}りいたしましたは。」トいふを聞{きい}て色{いろ}ぎぬが
かねてお俊{しゆん}に事{〔こと〕}あらば恥{はぢ}かゝせんと思ふ折{おり}。僥倖{さいわい}なりと
|四辺{あたり}を見{み}て。ヲホヽヽヽヽ。とうちわらひ【色】「ヲヤおまへはよく

(3ウ)
芝翫{しくはん}だの関三{せきさん}だのと。役者{やくしや}の名{な}を御存{ごぞんじ}だねへ。アヽしれた。
アノ絵草紙{ゑざうし}で御覧{ごらん}だネ。どうりだ。そうでなけりやアど
れが誰{だれ}だか知{し}んなさらふ筈{はづ}がない。なぜといふのに日外{いつぞや}
から。芝居{しばい}の咄{はな}しが出{で}るたびに。私{わたくし}はモウお恥{はづ}かしいが。少{ちい}さい
ときにかゝさんと見たまゝで。十年{じうねん}ばかり芝居{しばゐ}は覗{のぞ}いた
事もない。此{この}ごろ斯{かう}して伯母{おば}さんの。お世話{せわ}になつて居{を}
ればこそ。ゆき丈{たけ}の揃{そろ}つた着物{きもの}もきられますト。しみ〴〵
おいひだツけが。ヱヽだんまりが能{よい}の。子別{こわか}れがいゝのと。ホンニ

(4オ)
モウ聞{きい}た風{ふう}だね。よくそんな事がいはれるねへ。丁度{てうど}アノ
不断{ふだん}来{く}るお捨{すて}老婆{ばゝあ}が。吾儕{わたし}も昔{むかし}は銭金{ぜにかね}に。不自由{ふじゆう}
のない身{み}のうへで。高麗屋{かうらいや}が若{わか}ざかりに。中車{ちうしや}とやら
いふ其{その}時分{じぶん}に。評判{ひやうばん}の役者{やくしや}と。二人{ふたり}を買{かつ}て遊{あそ}んだ事は
度〻{たび〳〵}だの。ヤレ大磯{おゝいそ}の俄{にはか}には。男芸者{をとこげいしや}ばかり三十|人{にん}連{つれ}
て。仲{なか}の町{てう}で大騒{おゝさは}ぎをしたら。人{ひと}が山{やま}のやうに立{たつ}て。ホンニ〳〵
浮名{うきな}を流{なが}した物{もの}だのと。問{と}はず語{がた}りにいふ人{ひと}より。聞人{きゝて}
が結句{けつく}はづかしい。気{き}の毒{どく}らしい嘘{うそ}ばなし。矢張{やつぱり}それと

(4ウ)
おんなし事で。お臍{へそ}でお茶{ちや}を沸{わか}すとやらだ。」ト処女{をとめ}に
似{に}げなき悪口雑言{あくこうぞうごん}。さすがお俊{しゆん}もこの席{せき}には。源作{げんさく}
はじめ茶{ちや}やの女子{をなご}も。なみ居{ゐ}る満座{まんざ}のその中{なか}なれば。赫{くはつ}
と|逆上{のぼせ}て赧{あか}らむ㒵{かほ}。胸{むね}もわく〳〵今{いま}ははや。堪{こら}へがたしと小膝{こひざ}
をすゝめ。いはんとせしが俟{まて}しばし。たとへ貧{まづ}しく暮{くら}しても。爺{とゝ}
さまや母{かゝ}さまの。息才{たつしや}で在{おは}す時{とき}とちがひ。広{ひろ}イ世界{せかい}に
便{たよ}るべき。方{かた}としいへば伯母{おば}ひとり。夫{それ}の女児{むすめ}と諍{あらそ}はゞ。此{この}座{ざ}の
理非{りひ}は偖{さて}おきて。始終{しじう}の身{み}だめも悪{あし}かりなん。世{よ}に両親{ふたおや}

(5オ)
のなきものほど。果敢{はか}なく悔{くや}しき者{もの}はなしと。思へばいとゞ
胸{むね}せまり。不覚{すゞろ}に堰来{せきく}る泪{なみだ}をば。人{ひと}に見せじと嚙切{かみしむ}る。
歯{は}の根{ね}もゆらぐ玉{たま}の緒{を}も。とり止{とめ}がたき思ひにて。心{こゝろ}に
泣{なく}こそ不便{ふびん}なれ。折{おり}から下{した}よりトン〳〵と。階子{はしご}せはしく
登{のぼ}りくる。下女{げぢよ}は彼処{かしこ}に手{て}をつかへ【下女】「ハイモウ幕{まく}が明{あき}まし
た。」ト聞{きい}て色絹{いろぎぬ}侍女{こしもと}ども。いざとて立{たて}ば源作{げんさく}と。お妙{たへ}は
いまだ酒宴{しゆゑん}のさいちう【たへ】「そんなら皆{みんな}行{いつ}たがよい。私{わたし}
どもは跡{あと}から往{ゆく}。」と。いふにいそ〳〵打{うち}つれて。桟敷{さじき}へ行{ゆけ}ば

(5ウ)
身骨{みほね}さへ。よはる心{こゝろ}をとり直{なを}し。お俊{しゆん}も跡{あと}よりゆきにける。
残{のこ}るは源作{げんさく}お妙{たへ}の二人{ふたり}。酌{さし}つ押{おさ}へつ飲{のむ}ほどに。はや十二
|分{ぶん}の酔{ゑひ}ごゝろ。源作{げんさく}はお妙{たへ}が手{て}をとり【源】「モシ川柳点{せんりうでん}と*「モシ」の「シ」は部分欠損か
やらに「石塔{せきとう}の赤{あか}い信女{しんによ}がまた孕{はら}み。」トいふがござるが。夫{それ}と
ちがふておまへなどは。イヤハヤずんと手堅{てがた}イ物{もの}じやな。しかしはや
アノ後家{ごけは}は。ひもじそうだと知{し}らぬ奴{やつ}といふがあれば。油*「後家{ごけは}」の「は」は衍字
断{ゆだん}はならぬ。アヽこの指{ゆび}のやさしい事。身{み}どものと競{くら}べては。
杉箸{すぎばし}と火吹竹{ひふきだけ}でござる。ハヽヽヽ。」【妙】「イヤモウだん〳〵年{とし}が寄{よつ}て

(6オ)
いけません。身形{みなり}にも構{かま}はず。何{なん}でも御酒{ごしゆ}さへ給{たべ}れば。何{なに}
より保養{ほよう}。」【源】「酒{さけ}は飲{のん}でも飲{のま}いても。肝心{かんじん}な事がなく
ては。人間{にんげん}もつまらぬものじや。」【妙】「イヱモウ夫{それ}は思ひ切{きり}ました。」
【源】「また思ひ出{だ}してはどうじやらうな。」ト綢繆{しなだれ}かゝれば酔
心{ゑひごゝろ}。今{いま}まで操{みさほ}を守{まも}る身{み}もこゝに於{おい}て忽地{たちまち}に。婬心{みだれごゝろ}を発
動{おこし}つゝ【妙】「アレ人{ひと}が見ると悪{わる}ふございます。」【源】「モウ斯{かう}なツては
誰{たが}見{み}やうが。」トいひつゝ其処{そこ}へそのまゝに。肘{ひぢ}を枕{まくら}の睦言{むつ〔ごと〕}に。
かはるまいぞの操言{くり〔こと〕}も。萎{すが}るゝ花{はな}のかへり咲{ざき}。終{つい}に其{その}日{ひ}も

(6ウ)
暮{くれ}にけり。かくてそれより後家{ごけ}お妙{たへ}は。源作{げんさく}が事|忘{わす}れ
かねて。年甲斐{としがひ}もなく紅白粉{べにお■■■}に。粧{よそほ}ひ装{かざ}りて其処{そこ}此処{こゝ}*「べにお■■■」は「べにおしろい」の欠損か
と。出{いで}歩行{あるき}つゝ折{おり}を得{え}て。彼{かの}源作{げんさく}に情{じやう}を通{かよ}はし。其{その}所為{しよゐ}
狂気{きやうき}の人に似{に}たり。伝{でん}兵へも平生{つね}ならぬ。お妙が容子{よふす}半{なかば}は
推{すい}して。よからぬ事と思ひながら。又{また}心中{しんちう}にも一物{いちもつ}あり。殊{〔こと〕}
には差{さし}つけ是{これ}彼{かれ}と。いふも憚{はゞかり}ありぬれば。しらず㒵{がほ}
して居{ゐ}たりしが。たゞ恋{こひ}しきはお俊{しゆん}が容色{ようしよく}。心{こゝろ}ばへさへ
恃母{たのも}しと。思へばいとゞやるせなくて。人なきおりはさま〳〵に

(7オ)
口説{くどけ}どもたゞ前{まへ}の〔ごと〕く。会釈{あしらひ}て強面{つれな}ければ。独{ひとり}心を
苦{くる}しめつゝ。物{もの}思ふ身の恋路{こひぢ}の暗{やみ}。それに引かへ色絹{いろぎぬ}は
男ほしさの仇{あだ}心。〔こと〕に此{この}ほど源作{げんさく}と。母{はゝ}がそぶりも
薄〻{うす〳〵}に。見|聞{きく}ものからいとゞしく。誰{たれ}はゞからぬ吾{わが}夫{つま}と
称{とな}ゆる男ありながら。たゞひとり寝{ね}のわびしさに。つく〴〵
物{もの}を思へばや。恋{こひ}し男に嫌{きら}はるゝも。此処{こゝ}におしゆんがある
故{ゆへ}なり。おしゆんは吾{われ}より標致{きりよう}よく。色{いろ}生{なま}白き美女{みやびめ}
なれば。心をよする男も男。先頃{いつぞや}よりして鵠恩{かうおん}を。うけ

$(7ウ)
伝兵へ{でんべゑ}を怨{うら}
みて色絹{いろぎぬ}
母{はゝ}に偽{いつは}り
歎{なげ}く
おたへ

$(8オ)
色ぎぬ
でん兵へ

(8ウ)
たる身をば忘{わす}れはて。男を寝{ね}とる女子の憎{にく}さ。人に
思ひのありやなしや。見よ〳〵后{のち}に吾{わが}無念{むねん}。やはかはらさで
おくべきと。かの頑{かたくな}なる心より。定{たしか}に夫{それ}とも見とゞけず
たゞ推量{おしはかり}にお俊{しゆん}を妬{ねた}み。且{かつ}伝{でん}兵へを恨{うら}みつゝ鬱〻{うつ〳〵}と
して暮{くら}しけるが。思ひ裡{うち}にあるときは。其{その}色{いろ}面{おもて}に彰{あら}は
るゝ。譬{たとへ}にもれぬ色絹{いろぎぬ}が。色艶{いろつや}さへ平生{つね}ならで。お俊{しゆん}
を見る眼{め}のおそろしく。何かにつけて言葉{〔こと〕ば}づかひも
荒〻{あら〳〵}しくなりければ。おしゆんは怜悧{さかしき}心のうちに。是{これ}ぞ

(9オ)
定{たし}かに伝兵へ刀称{どの}と。有情{わけ}ありとなん思ひとりて。
かくは強面{つれなく}なすものならん。便{たよ}りと思ふ伯母{おば}御前{ごぜ}は。
平生{つね}にかはりて身持{みもち}放埓{ほうらつ}。従弟女{いとこ}どちさへ仲{なか}〳〵に。他{た}
人に劣{おと}るつれなさよ。情深{なさけふか}きは伝兵へどの。とはいへ*「情深{なさけふか}きは伝」の部分は不鮮明
是{これ}は義理{ぎり}ある中。殊{〔こと〕}に此{この}ほどさま〴〵と。信実{しんじつ}あら
はす詞{〔こと〕ば}の数〻{かず〳〵}。そを一点{つゆ}ばかりも承引{うけひか}ねば。定{さだ}めて
よくは思ふまじ。されば此{この}身{み}は天地{てんち}の間{あいだ}に。身{み}を舎{やどす}べき
樹下{このもと}なし。それに就{つい}ても爺{とゝ}さまや。母{かゝ}さまの事|明{あけ}

(9ウ)
くれに。忘{わす}るゝ隙{ひま}は夏木立{なつこたち}。春{はる}におくれてひとり咲{さく}。
深山{みやま}のさくら誰{たれ}ありて。見る人だにもなき物{もの}を。いつ
まで此{この}世{よ}にながらへん。十八年の春秋は。誠{ま〔こと〕}に夢{ゆめ}か
幻{まぼろし}か。さうじや〳〵と只{たゞ}独{ひとり}。思ひに迫{せま}り父母{ちゝはゝ}の。位牌{ゐはい}とり
出{だ}し人しれぬ。泪{なみだ}の声{こゑ}の称名{せうめう}も。哀{あは}れいやます夕{ゆふ}ま
ぐれ。裡口{うらぐち}より忍{しの}び出{いで}。往方{ゆくゑ}もしらすなりにけり。やがて
人〻お俊{しゆん}が見へぬに。驚{おどろ}き周章{あはて}て東西{とうざい}へ。人を走{はし}らし索{たづ}
ねにけれど。さらに往方{ゆくへ}のしれざれば。今さらに詮{せん}かた

(10オ)
なく。お妙{たへ}はこれを案{あん}じはせで。そうした者とは一点{つゆ}■*「■」は「し」の欠損か
らず。しとやかな性質{うまれつき}と。思ふて油断{ゆだん}をしたのが誤{あや}
まり。定{さだ}めて彼奴{きやつ}め色男を。拵{こしら}へ居{おつ}たにちがひない。
ふとい女{あま}めと悪{あく}口に。色絹{いろぎぬ}得{え}たりと口をそろへ。見
かけに似{に}合ぬ悪性{あくせう}もの。此方{こつち}で按{あん}じるやうではなく。さ■
今ごろは好{すい}た人と。楽{たのし}んで居{ゐ}るだらうト口汚{きた}なくも
詈{のゝし}りける。その中に伝{てん}兵へは。頭挿{かざし}の花をちらしたる。心地{こゝち}
に本意{ほゐ}なく思へども。また熟{つく〴〵}と思ひかへせば。吾{われ}日こ■

(10ウ)
心をつくし。情{なさけ}をくわへいろ〳〵口説{くどけ}と聞{きゝ}入ず。彼{かれ}の是{これ}のと
口|賢{さか}しく。いひしは全{まつた}く嘘言{そら〔ごと〕}にて。外{ほか}に深{ふか}くもいひか■
せし。情郎{おもふをとこ}のあるゆへならん。夫{それ}とはしらず鼻毛{はなげ}伸{のば}し■
情{なさけ}をかけし悔{くや}しさよと。恨{うら}みながらもかの女|平生〻■{つね〴〵}
よりして心|操{ばへ}の。正{たゞ}しき事はよく知つたり。此ほどよりして
色絹{いろぎぬ}が。万{よろづ}につけて口|汚{きた}なく。詈{のゝし}り挑{いど}むも度〻{たび〳〵}なれ
ば。かくては此{この}家{や}に住{とゞまり}がたしと。処女{をとめ}心の一筋{ひとすぢ}に。家出{いへで}を
なしたる物{もの}にやあらん。もし遮莫{さもあらば}不便{ふびん}のものと。右{と}さま

(11オ)
左{かう}さま思ひ佗{わび}。気{き}も鬱〻{うつ〳〵}と楽{たのし}まず。兎{と}かくしてすぎ
ゆくに。色絹{いろぎぬ}ます〳〵伝{でん}兵へに。戯{たは}るゝ事の屢{しば〳〵}なれど。
伝{でん}兵へさらに承引{うけひか}ねば。忍{しの}びかねつゝ母親{はゝおや}に。うちつけて
祝言{しうげん}は。いつにかせさせ給ふぞと。思ひ切{きつ}て問{とふ}ほどに。お
妙{たへ}はその身{み}の上{うへ}も思ひ。且{かつ}伝{でん}兵へが予{かね}てより。おしゆん
に心{こゝろ}ありげなるに。|彼奴{しやつ}逐電{ちくてん}をなしたれば。若{もし}伝兵へ
の気{き}がそれなば。面倒{めんどう}なりと思ひはかり。やがて伝兵へを
うち招{まね}き先頃{いつぞや}娘{むすめ}と祝言{しうけん}せよと。いへば遅{おそ}くもあらぬ

(11ウ)
とて。辞退{ぢたい}の言葉{〔こと〕ば}に今日{けふ}までは。伸{のば}しおきしがいつ
までか。斯{かく}てあるべき事にもあらず。這回{こたび}は是非{ぜひ}ともに
祝言{しうげん}せよといふほどに。今{いま}は否{いな}むに詞{〔こと〕ば}なく。兎{と}も角{かく}
もと申すにより。吉日{きちにち}良辰{りようしん}をゑらみつゝ。形{かた}の〔ごと〕く色
絹と。婚礼{こんれい}の儀式{ぎしき}を済{すま}せけり。かゝりにけれど伝{でん}兵へは。
その日よりして心地{こゝち}あしと。言立{いひたて}て色絹{いろぎぬ}とは添{そひ}ぶし
せず。さりとて昼{ひる}は何気{なにげ}なく。平生{つね}の〔ごと〕くに会釈{あしらひ}け
れば。お妙{たへ}はそれとも気{き}が付{つか}ず。今{いま}までは年{とし}わかき

(12オ)
色絹{いろぎぬ}だにも独寝{ひとりね}をするものを。母{はゝ}の身{み}として情
郎{おもふをとこ}と枕{まくら}を並{なら}べて寝{ね}るは何{なに}やら。気{き}の毒{どく}らしさに
憚{はゞか}りしも。今{いま}ははや彼等{かれら}も夜毎{よ〔ごと〕}二人して寝る身{み}と
なれば心易{こゝろやす}しと。己{おの}が勝手{かつて}に理{り}をつけて。折〻{おり〳〵}は源
作{げんさく}を。まねきて吾{わが}家{や}へ泊{とま}らせつ。誰{たれ}に会釈{ゑしやく}も泣喞{なきかこち}
果{はて}は人目{ひとめ}も恥{はぢ}ずして。只管{ひたすら}夫婦{ふうふ}のさまにも似{に}たり。有
加{かゝり}にければ源作{げんさく}か。弟{おとゝ}民弥{たみや}といふ者{もの}も。此{この}ほどよりして此
|家{や}にいり込{こみ}。夜昼{よるひる}となき酒{さか}もりの。相手{あいて}となりておくる

(12ウ)
ほどに色絹{いろぎぬ}元{もと}より|婬戯{たはれ}たる。心のあれど伝{でん}兵へが。底
意{そこゐ}はしらね祝言{しうげん}を。してさへ枕{まくら}かはさぬを。いよ〳〵怒{うら}み憤{いき}
どふる。折{おり}からなるにこの民弥{たみや}は年{とし}さへ廿{はたち}を四{よ}ツ五{いつ}ツ。越{こへ}へに*「越{こへ}へに」の「へ」は衍字か
けれども色|白{しろ}く。賤{いや}しからざる風俗{ふうぞく}に。思ひ焦{こが}るゝ心{こゝろ}の程{ほど}
民弥もいまだ妻{つま}もなく兇身{あいて}欲{ほし}さの戯{たはふ}れに。容貌{すがたかたち}は
醜{みにく}くとも画{ゑがき}し餅{もち}では腹{はら}ふくれず。空腹{ひもじい}ときの麁{まづ}食な*「麁{まづ}食な」(ママ)
しと。ツイ小{こ}あたりが始{はじ}めにて。なぶツちや否{いや}との捨{すて}ぜりふ
真{しん}に惚{ほれ}たの言{いひ}ぐさに。春{はる}の淡雪{あはゆき}とけやすく。恥{はづ}かはし

(13オ)
くも下紐{したひも}の。関{せき}はゆるせど忍{しの}ぶ身{み}は。まゝにならぬを喞{かこち}
ぐさ折{おり}よく今日は伝{でん}兵へも。用向{ようむき}ありとて出{いで}ゆけばお
妙{たへ}は源作{げんさく}もろともに物参{ものまい}りすと名{な}をつけて。何処{どこ}へか
奢{おごり}に出{で}かける跡{あと}。それともしらで僥倖{さいわい}にぶら〳〵遊{あそ}び
にいり来{く}る民弥{たみや}。それと見るより色絹{いろぎぬ}は斯{かう}いふ首
尾{しゆび}はとうち歓{よろこ}び。いそ〳〵として小座敷{こざしき}へ民弥を伴{とも}なひ
此ほどの積{つも}る思ひの物{もの}がたり。雲雨{うんう}の情{じやう}を運{はこ}ばせつ民
弥が膝{ひざ}にうちもたれ【色】「ふとした事で此{この}やうに深{ふか}く

(13ウ)
なツてもアノおまへはわたしを一生{いつせう}連配{つれそふ}ておくんなさる気{き}は
あるまいネ。」ト聞{きい}て民弥{たみや}は完爾{につこり}と「配{そふ}気{き}があるのねへの
と言{いつ}ておめへには伝{でん}兵へさんといふ立派{りつぱ}な。」【色】「アレサおまへ
も疑{うた}ぐり深{ぶか}イ。なるほどそれは祝言{しうげん}の。盞{さかづき}をばしたけれ
ど。ツイに一|度{ど}おまへのやうに。艶{やさ}しくしてくれはせず
何{なん}の良人{ていし}と思ひませう。そんな否{いや}みをいはずとも。いや
なら否としらでおツしやい。」【民】「ナニ否といふがあるものか。
たとへ一所寝{いつしよね}はしないにもしろ表立{おもてだて}ば蜜夫{まをとこ}で。おめへも

(14オ)
わたしも科人{とがにん}だ。それを承知{せうち}でする色事{いろ〔ごと〕}。実{じつ}の
事{こと}たがこの胸{むね}を割{わつ}て見せてへヨ。逃{にげ}かくれてもおめへ
と一生{いつせう}。夫婦{ふうふ}になつて暮{くら}されるなら。どんな憂目{うきめ}も
厭{いと}やアしねへ。」ト聞{きい}て色絹{いろぎぬ}真㒵{まがほ}になり【色】「そりやア
おまへほんとうにかへ。」【民】「しれた事さ。」【色】「そんならお
まへどうかしてアノ伝{でん}兵へを逐出{おひだ}して。」【民】「そうせへなりやア
本目{ほんめ}だが何{なに}をいふにも伝兵へさんは。表立{おもてだつ}てこゝの養子{ようし}。
逐出{おひだ}すと言{いつ}て直{すぐ}すなほにやアいくめへ。」【色】「モシそれが

(14ウ)
むづかしかア殺{ころ}して。」トいふを民弥{たみや}は色絹{いろぎぬ}が口を押{おさ}へ|四辺{あたり}
見{み}まはし【民】「これサ滅多{めつた}な事を言{いひ}なさんな。譬{たとへ}にせへ
壁{かへ}に耳{みゝ}。マア〳〵それも餘{あんま}りだ。夫{それ}より一ツ伝{でん}兵へさんを
逐出{おひだ}す工面{くめん}が。ヲヽそれ〳〵。」ト色ぎぬが襟{ゑり}へ手{て}をかけグツと
引{ひき}よせ耳{みゝ}に口|何{なに}かしばらく私語{さゝやけ}ば。しきりに点頭{うなづく}色
絹{いろぎぬ}が「ヲヤそうかへ。どふして夫をお聞{きゝ}だへ。」【民】「そりやアお
めへ蛇{じや}の道{みち}はへびかしるといふ所{ところ}だ。其処{そこ}を一ばん本
真{ほんま}らしく。お袋{ふくろ}に談{だん}じねへ。」【色】「アイ其処はわたしがいゝ

(15オ)
よふに。おツかアにいひませう。何{なん}ぼ憎{にく}イと思つても。殺{ころ}
すのはまんざら罪{つみ}だ。そうして此処{こゝ}を逐出{おひだ}して。」【民】「
あとは吾儕{わたし}の兄公{あにき}に吹{ふつ}こみ。お袋{ふくろ}に承知{せうち}させ。」【色】「二{ふ}
人かうして毎日{まいにち}毎晩{まいばん}。」【民】「誰{たれ}はゞからぬ女夫{めをと}づれ。何と
どふた。」【色】「どうぞ首尾{しゆび}よくやりたいねへ。」【民】「其処{そこ}は
おめへの胸{むね}しだいさ。」ト此{この}とき両個{ふたり}が譚合{だんかう}は。ひそ〳〵
として作者{さくしや}に聞{きこ}へず。アヽ何の事かしらん。○かゝる事
ありとはしらで伝{でん}兵へは。既{すで}に色絹{いろきぬ}と祝言{しうげん}は。したりと

$(15ウ)
〈画中〉御貸座敷 粂川

$(16オ)

(16ウ)
いへど心{こゝろ}のうちに。一物{いちもつ}あれば枕{まくら}をかはさず。去{さり}とて
強面{むごく}も会釈{あしらは}ず。月日{つきひ}をおくるそのうちにも。おしゆんが
往方{ゆくへ}気{き}にかゝり。女心の一筋{ひとすぢ}に。よるべなき身{み}を喞{かこち}つゝ。
命{いのち}を捨{すて}に出たるかと。思へばいとゞ胸{むね}せまり。万の事{〔こと〕}
も手につかで。たゞ其{その}事{〔こと〕}の案{あん}じられ。より〳〵に尋{たづ}ね
ても。神{かみ}ならぬ身{み}の在家{ありか}さへ。程近{ほどちか}けれど知{し}りがたく。
思ひくらして春{はる}も過{すぎ}。夏{なつ}の半{なかば}の五月雨{さみだれ}の。晴間{はれま}見合{みあは}せ
友{とも}だちの。花遊{くはゆう}といへるを誘{さそ}ひ合{あは}せ。こゝは名{な}におふ花{はな}

(17オ)
水|橋{ばし}。軒{のき}をならべし料理{りやうり}やの。粂川{くめがは}といふ楼{たかどの}にて。酒{さけ}
くみかはすも憂{うさ}はらし。【花遊】「コウ伝{でん}さん此{この}ごろ聞{きけ}ば。おめへ
も色〻{いろ〳〵}塞{ふさい}でばかり居{ゐ}るとの事。野郎{やらう}同士{どし}の酒{さか}もりも。
あんまり可笑{おかしく}ありますめへ。チツトふざけちやアどうだへ。」
【伝】「ずいぶんいゝネ。吾儕{わたし}どもと差{ちが}つておめへなんぞは。定{さだ}
めて心|易{やす}イ女子{たぼ}が。この辺{へん}にやア沢山{たくさん}だらふ。御意{ぎよい}に叶{かな}
つたのをお呼{よび}なせへ。」【花】「イヤとんとないのサ。コウ姉{あね}へ唄女{げいしや}を
一人{ひとり}呼{よん}で呉{くん}ねへ。誰{だれ}でもいゝ。」【下女】「ハイそれでもおまへさん

(17ウ)
おなじみの。」【花】「ナニねへよ。」【下女】「嘘{うそ}ばツかり。アノお袖{そで}さんにでも。」
【花】「イヤありやア御免{ごめん}だ〳〵。外{ほか}に誰{だれ}ぞ。」【下女】「そんならアノ此{この}間{あいだ}
出ました。アノ何とか申ましたツけ。アノ子{こ}にいたしませうか。」
【花】「ムヽその。アノ子がよからふ。」【女】「よウ〳〵雑談{じやうだん}をおツしやるヨ。」
ト階{はし}子ぱた〳〵下{お}りてゆく。程{ほど}もあらせず表{おもて}のかた「ハイ
今日は。どふかお天気{てんき}になればよふございますねへ。ヲヤ
おかみさんモウ有{あり}がたふ。」【女房】「モウお出か早{はや}かつたノウ。サア
お上{あが}り。お客{きやく}は窓{まど}のほうの二|軒{けん}め。」【げい】「ハイ。」トいひながら

(18オ)
階{はし}子をあがり。座敷{ざしき}のくち。互{たがい}に見合す㒵{かほ}とかほ。「
ヲヤあなたは伝{でん}兵へさま。」【伝】「ヤアおしゆんさんか。」ト互{たがい}に呆{あき}
れ。しばし言葉{〔こと〕ば}もなかりけり。【花】「コウ伝{でん}兵へさん。成{なる}ほど
隅{すみ}にやアおかれねへ。何かコウ稚馴染{をさななじみ}といふ勘{かん}たがどふ
だ。」【伝】「マア〳〵そんな理屈{りくつ}さ。コウお俊{しゆん}さんマア此方{こつち}へ来
ねへ。そういふと嘘{うそ}らしいが。何処{どこ}にどうして居{ゐ}るかと
思つて。忘{わす}れる隙{ひま}はございやせん。おめへに逢{あつ}ていろ〳〵と
言{いひ}てへ事|聞{きゝ}てへの事もあるが。マア〳〵そりやアあとの

(18ウ)
事ヨ。サア持{もち}あはせを一ツあげやう。」【しゆん】「ハイありがたう。
嘘{うそ}にもおまへさんがそうおツしやつて下{くだ}はいますは
実{じつ}に有{あり}がたふ。」トいひながら花遊{くはゆう}が㒵{かほ}をじろりとみる。
【花】「何か有がてへわけだの。三弦{しやみせん}も何もいゝから。伝{でん}さんと
しつぽり咄{はな}しねへ。おらア耳{みゝ}に筌{せん}をかつて居{ゐ}やう。」【しゆん】「
ヲヤばからしい。そんな訳{わけ}じやアございません。ナニ幼{ちい}さいときに
一|所{しよ}に遊{あす}んだり何かして。夫{それ}から久{ひさ}しくおめにかゝりま
せんから。たゞ懐{なつ}かしいので。決{けつ}していやらしい訳{わけ}ではござ

(19オ)
いません。」【花】「ナニどんな訳{わけ}があらふともいゝはさ。」【伝】「ナニ
実{じつ}に有情{わけ}なしさ。サアおしゆんさんお盞{さかづき}はどうだ。」
【しゆん】「ヲヤツイ忘{わす}れたもないものでございますねへ。こひ
しいお方{かた}にお目{め}にかゝつて。商売{せうばい}が未熟{みじゆく}になりますは。
ハイあなた。」ト花遊{くはゆう}にさす。【花】「これはとんだ目{め}に遭{あふ}
ものだ。何{なん}でも今夜{こんや}は伝{でん}さんに。しつかり奢{おご}らせねへ
けりやアならねへ。」【伝】「アイいくらでも奢{おご}りやせう。」ト是{これ}
より次第{しだい}に乱酒{らんしゆ}となる。その中{うち}にも伝{でん}兵へは。お俊{しゆん}が

(19ウ)
うへを細{こま}やかに。聞{きゝ}たけれども花遊{くはゆう}が手{て}まへ。おしゆんも
同{おな}し思ひにて。互{たがい}に問{とは}ず問{とは}れもせず。その日は別{わか}
れかへりける。
恋{こひ}の花染{はなぞめ}初編{しよへん}中終


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底本:東京大学文学部国語研究室蔵本(A4:0089:1)
翻字担当者:島田遼、矢澤由紀、銭谷真人
更新履歴:
2017年7月26日公開

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