日本語史研究用テキストデータ集

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浮世新形恋の花染うきよしんがた こいのはなぞめ

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初編上

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浮世新形恋の花染 初編上

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凡例
1.本文の行移りは原本にしたがった。
2.頁移りは、その丁の表および裏の冒頭において、丁数・表裏を括弧書きで示した。また、挿絵の丁には$を付した。
3.仮名は現行の平仮名・片仮名を用いた。
4.仮名のうち、平仮名・片仮名の区別の困難なものは、現行の平仮名に統一した。ただし、形容詞・副詞・感動詞・終助詞・促音・撥音・長音・引用のト等に用いられる片仮名については、原表記で示した場合がある。 〔例〕安イ、モシ、「ハイそれは」ト、意気だヨ、面白くツて、死ンで、それじやア
5.漢字は現行の字体によることを原則としたが、次のものについては原表記に近似の字体を用い、区別した。「云/言」「开/其」「㒵/貌」「匕/匙」「吊/弔」「咡/囁」「哥/歌」「壳/殻」「帒/袋」「无/無」「楳/梅」「皈/帰」「艸/草」「計/斗」「弐/二」「餘/余」
6.繰り返し符号は次のように統一した。ただし、漢字1文字の繰り返しは原本の表記にしたがい、「〻」と「々」を区別して示した。
 平仮名1文字の繰り返し 〔例〕またゝく、たゞ
 片仮名1文字の繰り返し 〔例〕アヽ
 複数文字の繰り返し 〔例〕つら〳〵、ひと〴〵
7.「さ」「つ」「ツ」に付く半濁点符は「さ゜」「つ゜」「ツ゜」として示した。
8.Unicodeで表現できない文字は〓を用いた。
9.句点は原本の位置に付すことを原則としたが、文末に補った場合がある。
10.合字は〔 〕で囲んで示した。 〔例〕殊{〔こと〕}に、なに〔ごと〕、かねて〔より〕
11.傍記・振り仮名は{ }で囲んで示した。 〔例〕人生{じんせい}
12.左側の傍記・振り仮名の場合は、冒頭に#を付けた。 〔例〕めへにち{#毎日}
13.傍記・振り仮名が付く位置の紛らわしい場合、文字列の始まりに|を付けた。 〔例〕十六|歳{さい}
14.原本に会話を示す鉤括弧が付いていない場合も、これを補い示した。また庵点は〽で示した。
15.原本にある話者名は【 】で示した。 〔例〕【はる】
16.割注・角書および長音符「引」「合」は[ ]で囲んで示した。
17.不明字は■で示した。
18.原本の表記に関する注記は*で行末に記入した。 〔例〕〓{たど}りて*〓は「漂+りっとう」
19.花押は〈花押〉、印は〈印〉として示した。
20.画中文字の開始位置に〈画中〉、広告の開始位置に〈広告〉と記入した。

本文の修正
1.翻字本文を修正した場合には、修正履歴を末尾に示す。
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(口1オ)
花曽女自叙
さてもめでたき君{きみ}が代{よ}に。
住{すめ}る民{たみ}とておだやかに。送{おく}る月
日{つきひ}のありがたさ。いよ〳〵文辞{ぶんぢ}の隆{さかん}
にして。牛{うし}うつ童{わらべ}汐{しほ}くむ蜑{あま}も。
詩{し}作{つく}り哥{うた}よむ事をしれば。況{いわん}や

(口1ウ)
日〻{ひび}に新{あらた}にして。また日〻{ひゞ〳〵}に新{あらた}
なる。繁栄{はんゑい}の地{ち}は大都会{たいとくわい}。二千
人{にせんにん}でも目明{めあき}ばかり。されば当時{とうじ}は
文{ふみ}作{つく}る。奴{やっこ}もなか〳〵看官{ごけんぶつ}の。眼{め}
を慰{なぐ}むるは最{もっとも}難{かた}かり。それを承
知{しやうち}で盲蛇{めくらへび}。物{もの}に怖{おぢ}ざる痩我慢{やせがまん}。

(口2オ)
たゞ一日{いちにち}の戯場{けじやう}に換{かえ}て。見{み}給ふ
女児{ひめ}たちあらむには。こよなき
幸{さち}に侍{はべ}るといふ。
あめたもつ三とせのはつ春。
松亭金水誌。

$(口2ウ)
○福住屋{ふくずみや}の
後家{ごけ}
阿妙{おたへ}
逢見ては
心ひとつを

$(口3オ)
河嶌の
水の
流れて
たえじ
とぞ
おもふ
○白藤{しらふぢ}源作{げんさく}

$(口3ウ)
燕は
みな
おや子
かな
夫婦かな
岱青
○福住屋{ふくずみや}の女児{むすめ}
色絹{いろぎぬ}

$(口4オ)
○福住屋{ふくずみや}の養子{ようし}
伝兵衛{でんべゑ}

$(口4ウ)

$(口5オ)
人在定中
聞蟋蟀
鶴曽
棲処
掛〓猴*〓は「けものへん+弥」
○町芸者{まちげいしや}
於俊{おしゆん}
○猿廻{さるまはし}与次郎{よじらう}

$(口5ウ)
文晁筆

(1オ)
[浮世{うきよ}新形{しんがた}]恋{こひ}の花曽女{はなぞめ}初編{しよへん}上
東都 松亭金水編次
発端{ほつたん}
鴛鴦{をし}の衾{ふすま}を重{かさ}ぬるとも。たゞ是{これ}露命{ろめい}の消{きへ}ざる間{あいだ}。亀
鶴{きくはく}の契{ちぎ}りも身体{しんたい}の。全{まつた}きうちと博識人{ものしるひと}の。書{かき}おかれたる
筆{ふで}の跡{あと}。いと実{ま〔こと〕}なる事{〔こと〕}ながら。人我{にんが}生涯{せうがい}忘{わす}れがたく。捨{すつ}るに
難{かた}きは情欲{じやうよく}と。貪欲{どんよく}の二{ふた}ツのみ。されば此{この}二{ふた}ツを慎{つゝし}み。聖{ひじり}の
掟{おきて}に背{そむ}かずは。是{これ}ぞ誠{ま〔こと〕}の人{ひと}たるべし。或{ある}僧{そう}五戒{ごかい}を持{たもち}たり

(1ウ)
しに。飲酒{おんじゆ}の戒{かい}を忘{わす}れしより。偸盗{ちうとう}女犯{ぢよぼん}の戒{かい}を犯{おか}せり。
情欲{じやうよく}をだに慎{つゝ}しむときは。貪欲{どんよく}自{おのづ}ら止{やみ}ぬべし。さはれ老{おい}ては*「自{おのづ}ら」(ママ)
戒{いまし}むる〔こと〕。得{う}るにありとの金言{きんげん}あれば。兎{と}にかくこゝの二{ふた}ツの
欲{よく}は。捨{すて}がたき物{もの}にこそ。されば婦女子{ふぢよし}の伽冊子{とぎぞうし}だも。作
者{さくしや}が心{こゝろ}を用{もち}ゆる〔こと〕。都{すべ}てはこゝに止{とゞ}まるなり。紫式部{むらさきしきぶ}が
源氏{げんじ}だも。いと戯{たは}れたるさまにして。実{じつ}は痴情{ちじやう}を戒{いまし}め
たる。そを心{こゝろ}して閲{けみ}せずは。作者{さくしや}の本意{ほんい}を失{うし}なふべし。
こゝに鎌倉{かまくら}馬場町{ばゝまち}に。福住屋{ふくずみや}伝介{でんすけ}といふ人{ひと}あり。その

(2オ)
家{いへ}代〻{だい〳〵}豊{ゆたか}にして。その妻{つま}阿妙{おたへ}といひけるが。二人{ふたり}が中{なか}に
女児{むすめ}を儲{まうけ}。名{な}を色絹{いろぎぬ}と号{なづけ}つゝ。寵愛{ちやうあい}して育{そだて}けるに。色
絹{いろぎぬ}六歳{むつつ}の秋{あき}の頃{ころ}伝助{でんすけ}は辞世{みまがり}つ。跡{あと}を続{つぐ}べき男児{をのごゝ}*「男児{をのごゝ}」(ママ)
なければ。親{した}しき人〻{ひと〳〵}うち集会{つどへ}。後家{ごけ}の阿妙{おたへ}も
漸{よふや}くに。三十{みそじ}ばかりの若孀{わかやもめ}。独寝{ひとりね}せんも便{たつき}なければ。
然{さ}るべき人を撰{ゑら}み。入夫{にうふ}となして色絹{いろぎぬ}が。成長{ひとゝなる}を〓{まち}*〓は「ぎょうにんべん+矣」
ねかしと。いふ人{ひと}あれど後家{ごけ}阿妙{おたへ}は。夫{おつと}に別{わか}れし哀{かなし}
みに。この事を承引{うけひか}ず。色絹{いろぎぬ}に妻合{めあは}すべき。年頃{としごろ}の

(2ウ)
養子{ようし}して。その身{み}は生涯{せうがい}操{みさほ}を立{たて}んと。その詞{〔こと〕ば}さへ黙
止{もだし}がたく。僥倖{さいわい}伝助{でんすけ}が世{よ}にあるとき。いと懇{ねんごろ}に交{まじは}り
たる。石上{いしがみ}何某{なにがし}も世{よ}を去{さ}りて。孤{みなしご}たりし伝{でん}兵へは。年{とし}
さへ丁度{てうど}十歳{じつさい}にて。かの色絹{いろぎぬ}には似{に}つかはしとて。既{すで}
に相譚{さうだん}整{とゝの}ひつ。阿妙{おたへ}が手元{てもと}へ引{ひき}とりて。末{すへ}は女夫{めをと}
となる身{み}だも。幼稚{いとけな}ければ兄{あに}といひ。妹{いもと}と呼{よ}びて
年月{としつき}を。明{あか}し暮{くら}すに光陰{くはういん}の。はやすぎ易{やす}き隙{ひま}の駒{こま}。
足{あし}にまかせて行{ゆく}ほどに。たゞ一昔{ひとむかし}は夢{ゆめ}の間{ま}や。既{すで}に色

(3オ)
絹{いろぎぬ}は十六|才{さい}。伝{でん}兵へは廿才{はたち}となりぬ。しかるに女児{むすめ}色
絹{いろぎぬ}は。疱瘡{もがさ}の重{おも}きのみならず。目鼻立{めはなだち}さへ人並{ひとなみ}に。
勝{まさ}りて醜{みにく}きそのうへに。心{こゝろ}は殊{〔こと〕}に頑{かたくな}にて。人{ひと}を妬{ねた}む
の心{こゝろ}ふかく。されども二八{にはち}の処女{をとめ}なれば。はや生心{なまごゝろ}の附{つき}
しにより。伝{でん}兵へがいと艶{やさ}しき。男{をとこ}ぶりと心根{こゝろね}を。恋{こひ}
したひて婚礼{こんれい}を。せまく欲{ほし}さに母{はゝ}おやへ。かくる〔こと〕ばの
謎〻{なぞ〳〵}や。折{おり}にふれては伝{でん}兵へに。戯{たはふ}れかゝれる事さへ
あれど。伝{でん}兵へは色絹{いろぎぬ}が。頑{かたくな}なる心{こゝろ}をきらひ。且{かつ}は姿{すがた}

(3オ)
の醜{みにく}きを。忌{いみ}て強面{つれなく}会釈{あしらひ}しかば。色絹{いろぎぬ}いよ〳〵心{こゝろ}悶{もだ}
へて。やるせなきまで思ひけり。こゝに阿妙{おたへ}が姪{めい}なりける。
お俊{しゆん}といへる処女{をとめ}あり。この年{とし}十八|才{さい}になりけるが。引{ひき}
つゞきて父母{ふぼ}を失{うし}なひ。只{たゞ}独{ひとり}なる兄{あに}さへも。身{み}の放蕩{ほうとう}
に往方{ゆくへ}しれず。便方{たつき}なき身{み}となりしかば。先頃{さいつころ}より
引{ひき}とりて。阿妙{おたへ}が傍{そば}で針線{はりし〔ごと〕}。また色絹{いろぎぬ}が伽{とぎ}ともな
しつ。婢{はしため}の〔ごと〕く仕{つか}ひけるに。色絹{いろぎぬ}とは繹{〔こと〕}かはり。標致{きりやう}め
でたきのみならず。心{こゝろ}だてさへ怜悧{さかし}くて。色絹{いろぎぬ}に競{くら}ぶ

(4オ)
れば。桜{さくら}が本{もと}に茨{いばら}を植{うへ}。月{つき}に甲{こう}乾{ほ}す泥亀{どろがめ}と。似{にて}
もつかざる景勢{ありさま}に。了得{さすが}若気{わかげ}の伝{でん}兵へが。たゞ人
しれず彼{かれ}こそはと。思ふも縁{えん}の緒{いとぐち}や。后{のち}の|説話{はなし}は如
何{いか}になるらん。これ此{この}冊子{さうし}の発端{ほつたん}なり。
第一回
あら玉{たま}の年{とし}たちかへる春{はる}の日{ひ}や。障子{せうじ}に移{うつ}る梅{うめ}が枝{え}
の香{か}ほりゆかしく軒{のき}ちかみ。今{いま}を初音{はつね}と片言{かた〔こと〕}の。いとゞやさ
しき鶯{うぐひす}が。来{き}なく声{こゑ}さへ長閑{のどけ}きに。手{て}まりの音{おと}や筑

(4ウ)
波根{つくばね}の一トご二タごと処女子{をとめこ}が。はやす拍子{ひやうし}もおもし
ろき。気{き}さへ心{こゝろ}もいさみ立{たつ}。中にお俊{しゆん}はたゞひとり。小
子舎{こべや}のうちに閉籠{とぢこも}り。風{かぜ}の心地{こゝち}と乱{みだ}れ髪{がみ}。化粧{けわい}
さへせで在{あり}ながら。素㒵{すがほ}めでたき夏{なつ}の富士{ふじ}。目{め}もと
にこぼす愛敬{あいきやう}に。露{つゆ}の情{なさけ}も深見草{ふかみぐさ}。花檀{くはだん}に散{ちり}
しく風情{ふぜい}なり。かゝる所{ところ}へ椽側{えんがは}の。障子{せうじ}をそつと押{おし}
ひらき。入来{いりく}る人を誰{たれ}ぞと見れば。別人{べつじん}ならぬこの
家{や}の伝{でん}兵へ。右{みぎ}に薬{くすり}の茶碗{ちゃわん}をもち【伝】「お俊{しゆん}さんどう

(5オ)
だへ。些{ちつと}もいゝか。色絹{いろぎぬ}をはじめ女{をんな}どもゝ。みんな現{うつゝ}をぬか
してヤレ歌{うた}かるたをとるの。羽根{はね}を築{つく}のと言{いつ}て居{ゐ}る
のに。おめへばかり此{この}子舎{へや}に只{たゞ}独{ひと}りで。さぞ淋{さみ}しからう。
塩排{あんばい}がよくはそろ〳〵彼方{そつち}のほうへ出{で}て見な。皆{みんな}の騒{さわ}ぐ
のを見ても少{すこ}しは気{き}が晴{はれ}やう。全体{ぜんたい}お医者{いしや}にかけて
やりてへが。お袋{ふくろ}がいふにやア。正月はつ〴〵しく薬{くすり}三昧{さんまい}も気
がねへ。マア〳〵二三日容子{よふす}を見てからにせうといふから。夫{それ}
を達{たつ}てともいはれず。仕方{しかた}がねへが。是{これ}は先刻{さつき}吾儕{わたし}*「吾儕{わたし}」の下に「が」が欠落か

(5ウ)
内証{ないせう}で買{かつ}て来{き}た葛根湯{かつこんとう}。今{いま}お袋{ふくろ}が湯{ゆ}に往{いつ}た
留守{るす}に煎{せん}じておいた。マア是{これ}を飲{のん}で何{なん}そ温{あつ}たかな
物{もの}でも給{たべ}なせへ。風{かぜ}は百病{ひやくやく}の長{ちやう}とやら風ほど怖{こわ}い
ものはねへ。サア醒{さめ}るから早{はや}く飲{のみ}な。」ト出{だ}すをおしゆんは
おし戴{いたゞ}き【しゆん】「ハイ有{あり}がたふございます。ナニ差{さし}たる事も
ございませんが。頭痛{づつう}がいたしてなりませんから。斯{かう}して
居{をり}ます。モウ翌{あす}はよくなりませう。しかし貴君{あなた}のお艶{やさ}
しさお心{こゝろ}づかひを遊{あそ}ばしてお薬{くすり}を下{くだ}さいます。御恩{ごおん}は

(6オ)
実{しつ}に忘{わす}れません。」【伝】「なんのおめへ御|恩{おん}所{どころ}か。病{びやう}人に薬{くすり}
を飲{のま}せるのは当{あた}りめへだ。全{ぜん}てへ色|絹{ぎぬ}が世話{せわ}をし
て遣{やつ}ていゝ筋{すし}だけれど。知つてる通{とほ}り形{なり}ばかり
大きくツて。一向な女児{おほこ}さの。しかしフウ此{この}ごろは。剛
気{ごうぎ}に色気{いろけ}が出たぜ。アノ面{つら}で色気{いろけ}が出られちやア
おそれる。」【しゆん】「あんまりそうでもございますまい。色絹{いろきぬ}
さんはおまへさんにどんなに惚{ほ}れてお出なさいませう。
みんなと寄合{よりあい}ますと。貴君{あなた}のお噂{うはさ}ばかり。それに

(6ウ)
お侍女{こしもと}の。おすゞどんやお鮫{さめ}どんか。色〻{いろ〳〵}に嬲{なぶ}るもんだ
から。なをの事|嬉{うれ}しがつてお出なさいますヨ。モウ大かた
ちか〴〵に御|祝言{しうけん}もございませう。可愛{かあい}がつておあげ
なさいまし。」【伝】「コウおめへも情{なさけ}ねへものだぜ。マア〳〵面{つら}の
善悪{よしあし}はさておいた所が。根性{こんじやう}の陸{ろく}でなし。おらアモウ
ふつ〳〵否{いや}だぜ。斯{こう}いふと養子{ようし}の身{み}ぶんで。吾{わか}まゝら
しいがアノ女を嫁{かゝあ}にするより。こゝの|家宅{うち}を出て翌{あす}
が日|青菜{あをな}小|菜{な}を売{うつ}ても。心に済{すん}だ女を女房{にようぼう}に

(7オ)
する方{ほう}がいゝヨ。」【しゆん】「それはおまへさん嘘{うそ}でございます。
どんないゝ標致{きりやう}のおかみさんをお持{もち}なすツたつても。朝{あさ}ばん
苦労{くらう}が多{おほ}くては。いゝ事もございますまい。私{わたくし}なんぞは
良人{ていし}を持ますなら。㒵{かほ}はなんでも悪{わる}いほどがよし。
金{かね}が沢山{たくさん}あつて。気{き}のいゝ人を持{もち}たふこざいます。」【伝】「夫{それ}
じやアおいらなんぞは向{むか}ねへの。トいふととうか己惚{うぬぼれ}のやう
だがそうじやアねへ。まづ第一{だいゝち}おめへの望{のぞ}みの金がねへ
から。」【しゆん】「たとへよいと思ひましたとてどう致{いた}しませう。

$(7ウ)
〈画中〉稲葉仲女筆

$(8オ)
おしゆん
でん兵へ
於俊{おしゆん}が子
舎{へや}に伝兵
衛{でんべゑ}情{じやう}を
のぶる

(8ウ)
主{ぬし}あるお方{かた}を。」【伝】「ヲツト主〻と言{いつ}て呉{くん}なさんな。気持{きもち}が
わりい。ソレ薬{くすり}がこぼれるはな。早{はや}く飲{のん}でしまいな。」【しゆん】「ヲヤ
ツイお噺{はな}しに気をとられて。御深切{ごしんせつ}を無{む}にいたしました。
御|免{めん}あそばせ。」トかの薬を飲{のみ}しまひ【しゆん】「アヽ有{あり}がたふ
ございます。サア貴君{あなた}もモウ彼方{あつち}へいらツしやいまし。若{もし}
また色絹{いろぎぬ}さんが見つけなさると。彼是{かれこれ}とおつしやるから
否{いや}でございます。」【伝】「何{なん}と言{いつ}たとて構{かま}ふものか。抱{だかつ}て
寝{ね}てゞも居{ゐ}はしめへし。」【しゆん】「夫{それ}はそうても。女{をんな}同士{どうし}はそう

(9オ)
も参{まい}りません。殊{〔こと〕}に私{わたくし}は便{たよ}りのすくない身のうへで。
こゝのおばさんや色絹{いろぎぬ}さんに。悪{わる}く思はれては一生|困{こま}
りますから。」【伝】「おめへの標致{きりよう}で誰{た}がかまはねへでも困る
事はねへのさ。マア〳〵何も。そう。きよと〳〵する事{〔こと〕}はねへ。ドレ
頭痛{づつう}でも揉{もん}であげやう。」トお俊{しゆん}が額{ひたい}へ手をあて揉{もん}で
やる。【しゆん】「アレ勿体{もつたい}ない。およし遊{あそ}ばせ。罰{ばち}があたります。まア
夫{それ}より早{はや}く彼方{あつち}へいらツしやいヨ。」【伝】「ナニいゝといふにさ。コウ
お俊{しゆん}さんおめへは如才{ぢよせへ}もなくツて。おれが斯{こう}いろ〳〵苦

(9ウ)
労{くらう}して影{かげ}になり日向{ひなた}になり。世話{せわ}といふも可笑{おかし}らし
いが。おめへの事なら身に引{ひつ}かけて。彼是{かれこれ}するのを。おめへ
何と思ふか知らねへが。些{ちつと}は可愛{かあい}そうだとか。不便{ふびん}だとか
思つてくれてもいゝじやアねへか。」トいひながら左{ひだ}りの手に
て襟元{ゑりもと}をおさへ引よせる。【しゆん】「アレわるい事をなされます。
モウ雑{しやう}だんはおよし遊{あそ}ばせ。」ト伝兵へが手をふりはなし
【しゆん】「ま〔こと〕に貴君{あなた}のおぼし召{めし}。何ぼ足{たら}はぬ私{わたくし}でも。何し
に仇{あだ}に思ひませう。身にしみ〴〵と嬉{うれ}しくて。心の裡{うち}

(10オ)
では拝{おが}んで居{をり}ます。なぜ夫{それ}ならば平生〻〻{つね〴〵}から。いふ事|聞{きか}
ぬとおツしやいませうが。なんぼ物をぞんじませぬ女子の
身でも。此やうに厚{あつ}イお世話{せわ}になりながら。色絹{いろぎぬ}さんと
いふ立派{りつぱ}なお方が。あるを現在{げんざい}しりながら。どうマア貴
君{あなた}と私{わたくし}と。婬戯{みだら}な〔こと〕がなりませう。あなたは男{をとこ}のお
身のうへ。ほんのお慰{なぐさみ}でございませうが。私は女子の身人
に浮名{うきな}を立られては。一生{いつせう}の疵{きず}ばかりか。恩{おん}を仇{あだ}で報{むく}ふ
道理{どうり}。夫{それ}ゆへにこそ私も。儘{まゝ}になるなら一夜{ひとよ}でも。あな

(10ウ)
たのお伽{とぎ}をしたいものと。思ふ心を吾{われ}とわが。心で呵{しかつ}て
をりまする。必{かな}らず悪{あし}くおぼしめさず。是{これ}ばツかりはお
許{ゆる}し遊{あそ}ばせ。今|飲{の}む薬{くすり}が毒{どく}となれ。否{いや}だといふの
ではございません。親{おや}兄弟{きやうたい}もない私。どうぞ夫{それ}ほど私
を。御|贔屓{ひゐき}に思{おぼ}し召{めし}ますなら。妹{いもと}とおぼしめしお見
|捨{すて}なく。お願{ねが}ひ申ます。たとへ貴君{あなた}とどのやうに。言{いひ}
かはしたとて配{そふ}事も。なりませぬはしれた事。そう
して見れば物思ひの。種{たね}をまくやうなもの。」トいふを

(11オ)
聞{きい}て伝{でん}兵へは。膝{ひざ}をすゝめ小声{こゞゑ}になり【伝】「なるほどお
めへが心{こゝろ}いき。操{みさほ}を守{まも}る女の鏡{かゞみ}。そうせへ往{ゆけ}ば五|分{ふ}
五厘{ごりん}も間違{まちげへ}はないけれど。其処{そこ}が凡夫{ぼんぶ}の浅{あさ}まし
さに。好{すい}た人の面{かほ}を見ると。ツイ煩悩{ぼんのう}がおこりたがる。
しかしおめへ今の口諚{こうぢやう}。どうで配{そふ}事{〔こと〕}もならねへからと
いふが。配{そふ}事{〔こと〕}がなりやアどうするへ。」【しゆん】「夫{それ}はマアその
時{とき}の事。」【伝】「イヤその時{とき}の事じやアねへ。吾儕{わたし}のやうな
野郎{やらう}でも。いゝと思つておめへせへ。夫婦{ふうふ}になつてくれる

(11ウ)
気{き}なら。先刻{さつき}もいふ通{とほ}り。気{き}の合ねへ女を女房{にようほ}にして
ゐるより。ナニ畦{あせ}をゆくも田をゆくも一ツ〔こと〕。こゝの家{うち}を
おめへと二個{ふたり}。とび出しても配遂{そひとげ}やうさ。」【しゆん】「夫だから
私{わたく}が。滅多{めつた}な事は出来{でき}ませぬ。恩{おん}を仇{あだ}でかへすとは。*「私{わたく}」(ママ)
其処{そこ}を申すのでございます。こゝの所をお聞{きゝ}わけ。
貴君{あなた}はどふぞ色絹{いろぎぬ}さんと。」【伝】「アヽモウ〳〵ようごぜへす。
しかし面白{おもしろ}くもねへ愚痴{ぐち}ばなし。猶{なを}お気{き}分に障{さはつ}
たらう。堪忍{かんに}しておくんなせへ。」ト弱気{わかげ}にむつ゜と急{せき}

(12オ)
立{たつ}て。障子{せうじ}さらりと己{おの}が子舎{へや}へ。足おとあらくたち
かへる。折{おり}から色絹{いろぎぬ}庭下駄{にはげだ}を。脱すてゝいり来る悪女
の化粧{けわい}その癖{くせ}にお江戸に名高き仙女香|偖{さて}もぬつ
たりさしかざる。櫛{くし}笄{かうがい}も紛{まか}ひなし。伽羅{きやら}に梅香{ばいか}の油
の香{か}。対丈{ついたけ}繻伴{しゆばん}の緋鹿子{ひがのこ}も。燃出{もえで}るばかりに粧{よそほ}ひ
かざり。伝{でん}兵へが側{そば}にある。中本を取{とつ}て【色】「アヽこりやア
沈魚伝{ちんきよでん}だネ。この本にある翠{みどり}といふ女児{むすめ}の事がいつそ
可愛{かあい}そうで哀{あは}れでございますねへ。何の堅{かた}くるしい事

(12ウ)
を言{いつ}て居{ゐ}ずと。コレこの金次郎{きんしらう}といふ男{をとこ}とどうかす
ればいゝに。昔{むかし}の人は斯{かう}でありましたかねへ。」【伝】「女といふ
ものは操{みさほ}を守{まも}るが大切{たいせつ}さ。是{これ}も昔有た事か。ない
事かしらないが。金翹伝{きんきやうでん}といふ小説{しやうせつ}ものを。和{やわ}らかく
した本{ほん}さ。諸事{しよじ}女{をんな}といふ者{もの}は。此{この}位{くらい}な心{こゝろ}がけてなくツ
ては往{いか}ねへ。男女{なんによ}は七歳{しちさい}にして席{せき}を同じうせずと
いふ事がある。よしんば親〻{おや〳〵}が結号{いひなつけ}をしておいた中{なか}
にもしろ祝言{しうげん}の盞{さかづき}をしないうちは。馴〻{なれ〳〵}しく側{そば}へ

(13オ)
寄{よつ}たり何{なに}かする物{もの}じやアねへ。」【色】「ヲヤ御免{ごめん}なさい。しかし
私{わたくし}はおつな性{せう}で。嫌{きら}はれゝば嫌はれるほど。その人が
善ツて側{そば}へよづて見たふこざいますものを。そんなら*「よづて」(ママ)
何処{どこの}か人も女か一人で寝{ね}て居{ゐ}る所{ところ}へ往{いつ}て。なんだか
こそ〳〵と咄{はな}しをなさらねへがよふございます。」【伝】「ナニ
おれか。己{おれ}が何処の女{をんな}の所{とこ}へ。」【色】「ナアニ貴君{あなた}ではござい
ません。何処{どこ}のか人がさ。」【伝】「何{なん}だか可笑{おかし}な事をいふの人
|聞{ぎゝ}のわりい。モウ〳〵そんな辟{ひが}みをいひなさんな。」【色】「ハイ申

(13ウ)
ますまい。貴君{あなた}の御無理は御尤{ごもっとも}だから。」【伝】「コウおめへ
そう腹{はら}を立{たつ}物{もん}じやアねへ。畢竟{ひつきやう}はおめへの為{ため}を思ふ
からいふのだ。ナニ是が他人{たにん}で見なせへ。陰{かげ}で悪{わる}くいへ
ばといつて。目の前{めへ}でいふ人{ひと}はねへはさ。」【色】「誠{ま〔こと〕}に貴君
の御深切{ごしんせつ}は。有がたふございます。」トいとゞふくれし頰{ほう}
ふくらし。畳{たゝみ}ざはりも荒〻{あら〳〵}しく。出ゆく跡を伝{でん}兵へは見
おくりて両手を組{くみ}。思ひありげに俯{さしうつふ}く。かゝる処へいり
来{く}るお妙{たへ}。「アイ今{いま}帰{かヘ}りました。」【伝】「ヘヱお早ふござり

(14オ)
ました。」【妙】「アノ児{こ}はこゝには居{ゐ}ないかへ。」【伝】「ハイ今{いま}まで居{をり}まし
たが。大方{おほ}かた庭{には}へでも出{で}ましたらう。」【妙】「フムそうか。」と伝{でん}兵へ
が向{むか}ふへすはり。傍{そば}なる烟草盆{たばこぼん}を引{ひき}よせて。くゆらす
烟草二三ぶく【妙】「アヽさつぱりした。寒{さむ}いときは湯{ゆ}がいゝノウ。」
【伝】「マアその当座{とうざ}はしのぎますね。丁度{てうど}今|煮{に}ばなを
かけた所{ところ}。さア一{いつ}ぱい上{あが}りまし。」【妙】「アイそれは御馳走{ごちそう}。」ト茶{ちや}
わんを手{て}にとり「藪{やぶ}から棒{ぼう}を出{だ}したとやら。今{いま}いふのも
異{ゐ}な物{もの}だが。今{いま}も湯{ゆ}やで余所{よそ}の人が咄{はな}すをきけば

(14ウ)
近所{きんじよ}だそうだが。内{うち}の娘へ養子{ようし}をして。まだ互{たがい}に年{とし}
もゆかず何{なに}やかで。祝言{しうげん}もさせずにおいた其{その}うちに。
養子どのが侍女{こしもと}へ手をつけて。ツイお腹{なか}を大{おほ}きくした
つさ。それで其処{そこ}の内{うち}がもめかへつて。正月{せうぐはつ}しまから
その養子を。出{だ}すの引のと大混雑{おほこんさつ}だと。いふ咄{はなし}を
聞{きい}て来{き}たが。人|事{〔ごと〕}とは思はれぬ。おまへは一体{いつたい}律義{りちぎ}な
生{うま}れ。仲{なか}〳〵そういふ事{〔こと〕}はないが。弱{わか}いうちはいろ〳〵に。
心{こゝろ}もかはり易{やす}いもの。いつ゜そ障{さは}りのない中{うち}に。色絹{いろぎぬ}と

(15オ)
娵合{とりあは}して。吾儕{わたし}もどうぞ安堵{あんど}したい。アノ児{こ}も去年{きよねん}
の暮{くれ}までは。まだ一向{いつこう}孩児{ねゝさん}だツけが。一{ひと}ツ年{とし}を拾{ひろ}つた
せへか。大夫{たいぶ}鰭{ひれ}がついたやうだ。正五九{しやうごく}月は忌{いむ}ものだと
いふけれど。何{なに}も是{これ}が今{いま}新規{しんき}にするではなし。かねて
始終{ししう}は一ツにする積{つも}りで貰{もら}つたおまへの事。近{ちか}いうち
に日のよいとき。鉄漿{かね}でも付{つけ}させ内祝言{ないしうげん}をさせよふ
と思ひます。おまへもそう思つて居{ゐ}なせへ。尤{もつとも}あんな
不標致{ふきりよう}ものでどうか気{き}にも入{いる}まいし。気の毒{どく}らしい

$(15ウ)
いろぎぬ
おしゆん

$(16オ)
げん作
おたゑ
色絹{いろぎぬ}
酒楼{しゆろう}に
於俊{おしゆん}を
譏{そし}る

(16ウ)
やうだが。何{なに}をいふにも一粒{ひとつぶ}もの。其処{そこ}はおめへ不肖{ふせう}して
一生{いつせう}世話{せわ}をして遣{やつ}ておくれ。」トいはれて伝{でん}兵へ心{こゝろ}に
おどろき。霎時{しばし}沈吟{しあん}しほゝ笑{ゑみ}て【伝】「それはモウあり
がたい思{おぼ}し召{めし}ではござりますが。色絹{いろぎぬ}とても此年{ことし}で十六
と申すもの。女児{むすめ}ざかりにも参{まい}らぬほどて鉄漿{かね}つけ
させるも可愛{かあい}そう。早{はや}く子供{こども}でも出来{でき}ますと。年{とし}
もゆかいで窶{やつ}れるばかり。まだ遅{おそ}くはござりません。私{わたくし}
とても下女婢{げちよはした}に。手足{てあし}をつけておまへさまの。御苦労{ごくらう}に

(17オ)
なりますやうな事はござりませんから。夫{それ}は些{ちつと}もお案{あんじ}
なく。マア〳〵最{も}そつと先{さき}へよつての。事がよろしふござり
ます。」と。辞退{ぢたい}の詞{〔こと〕ば}に母{はゝ}おやも。そんならそうと何気{なにげ}
なく。伸{のば}して睦月{むつき}も過{すぎ}にけり。かくて此{この}〔こと〕誰{たれ}いふとなく
色絹{いろぎぬ}が耳{みゝ}にいり。偖{さて}こそ伝{でん}兵へ推量{すいりやう}にたがはず。お
俊{しゆん}に心{こゝろ}を通{かよ}はすものから。この祝言{しうげん}をきらひしか。と
思へばいよ〳〵妬{ねた}ましく。夫{それ}より后{のち}は尚{なを}さらに。お俊{しゆん}に
つらくあたりつゝ。在{ある}事{〔こと〕}無{ない}事{〔こと〕}悪{あし}さまに。母{はゝ}のお妙{たへ}に

(17ウ)
讒言{ざんげん}すれば。初{はじ}め不便{ふびん}と思ひつゝ。引{ひき}とりおきて后〻{のち〳〵}
は。然{さ}るべき方{かた}へ縁付{えんづけ}やらんと。思ひし事も裡表{うらおもて}。血肉{ちにく}
をわけたる姪{めい}ながら。底{そこ}の冷{つめ}たき心{こゝろ}となり。初{はじ}めには似{に}も
つかで。非道{ひどう}の事の多{おほ}けれど。お俊{しゆん}は是{これ}を一点{つゆ}ばかりも。
恨{うら}むるさまもあらずして。強面{つれなき}伯母{おば}に仕{つか}はれて。一両
月{いちりやうげつ}を経{ふ}るほどに。弥生月{いやおひづき}の初{はじ}めとなれば。春狂言{はるきやうげん}の
大入{おゝいり}も。耳{みゝ}を貫{つら}ぬく評判{ひやうばん}に。今日{けふ}こそ芝居{しばゐ}見物{けんぶつ}と。
色絹{いろぎぬ}母子{おやこ}は花{はな}やかに。粧{よそほ}ひ立{たつ}てお俊{しゆん}を伴{ともな}ひ。行{ゆか}んと

(18オ)
いふほどに。元来{もとより}おしゆんは食客{かゝりうと}。貧{まづ}しき身にて衣裳{いしやう}
さへ。晴着{はれぎ}とかざる物{もの}もなく。心{こゝろ}の裡{うち}はすゝまねど。留守
居{るすゐ}は伝兵へ独{ひとり}なるに。往{ゆか}ずは悪{わろ}く譊{さと}られんと。思へば
辞{ぢ}する事{〔こと〕}もならず。七ツ下{さが}りの嶌{しま}ちりめん。山のほつ
れし小柳の。鯨帯{くじらおび}さへたゞ一筋{ひとすぢ}。たしなみおきしを取出{とりいだ}し。
見るも果敢{はか}なき身のまはり。お妙{たへ}母子{おやこ}にくらべては。
下女にもおとる風俗{ふうぞく}にて。妼婢女{こしもとはした}にうち交{まじ}り。やがて芝居{しばゐ}
へ至{いた}りつゝ。東の桟敷{さじき}二間{にけん}をぬき。朝{あさ}より持{もち}こむすひ物{もの}

(18ウ)
さし味{み}。菓子{くはし}に羊羹{ようかん}鯛{たい}の鮨{すし}。そのほか煮染{にしめ}大{おほ}ひら甘
煮{うまに}桟{さ}じき隘{せま}しと推{おし}ならべ。お妙{たへ}は茶{ちや}やの男を兇身{あいて}に。
酌{さし}つおさへつ飲{のむ}ほどに。酒がまはればまはらぬ舌{した}。隣{とな}り■
敷{■じき}を覗{のぞ}きこむ。折{おり}から此方の桟{さ}じきより。衝{つ}とさし
覗{のぞ}く一人の侍{さふらひ}「ヤア是は〳〵。先刻{せんこく}から。よふ似{に}た人じや■
思ふたら。似{に}た所か正銘{せうめい}のお妙{たへ}どの。イヤ賑{にぎ}やかな芝■{しば■}■
物{■■ぶつ}。わし等{ら}が方{ほう}は御覧{ごらう}じろ。箇様{かやう}にしがない酒盛{さかもり}。」ト■
いはれて怐{びつく}りお妙{たへ}はふりむき【妙】「ヲヤどなたかと■{ぞ■}■

(19オ)
たら。貴君{あなた}は白藤{しらふぢ}源作{げんさく}さま。誠{ま〔こと〕}にお見それ申まし
た。チトこゝへいらツしやい。モシサア〳〵。」ト手を出{だ}して。かの源
作{げんさく}が袖{そで}をひく。【源】「ドレ〳〵それへ参{まい}りませう。ハヽアお女児{むす}も
お出{いで}じやな。イヤこれは女{たぼ}ぞろひ。チト恥{はづ}かしいナア。若{わか}イ女中
の側{そば}もよいが。マア〳〵年よりは年より仲間{なかま}。わしはおまへ
の側にしませう。」【妙】「さやうさ。あいらは狂言{きやうけん}に現{うつゝ}を抜{ぬか}
して居{をり}ますから。サア〳〵あなたと私は。お燗{かん}のよいが
何より楽{たのし}み。持{もち}あはせをあげませう。」【源】「しからばお辞

(19ウ)
宜{ぢき}は却{かへつ}て不礼{ぶれい}か。ヲトヽヽヽヽござります。コウなみ〳〵と請{うけ}
た所は。」【妙】「ハイお肴{さかな}を。アレサおあきなさいまし。お手が汚{よこ}
れます。」【源】「そんなら御免{ごめん}。」ト了得{さすが}は武士{ぶし}。堅{かた}くるしくも
挨拶{あいさつ}して。霎時{しはし}酒{しゆ}ゑんを催{もよ}ふすうち。舞台{ぶたい}はチヨン〳〵
拍子木{ひやうしぎ}の。「イヨなりこま」トかける声{こゑ}。幕{まく}を引{ひく}おと。ツ。
ツヽヽヽヽヽ[引]。
恋{こひ}の花染{はなぞめ}初編{しよへん}上終


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底本:東京大学文学部国語研究室蔵本(A4:0089:1)
翻字担当者:島田遼、矢澤由紀、銭谷真人
更新履歴:
2017年7月26日公開

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