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梅暦余興春色辰巳園 巻七
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凡例
1.本文の行移りは原本にしたがった。
2.頁移りは、その丁の表および裏の冒頭において、丁数・表裏を括弧書きで示した。また、挿絵の丁には$を付した。
3.仮名は現行の平仮名・片仮名を用いた。
4.仮名のうち、平仮名・片仮名の区別の困難なものは、現行の平仮名に統一した。ただし、形容詞・副詞・感動詞・終助詞・促音・撥音・長音・引用のト等に用いられる片仮名については、原表記で示した場合がある。 〔例〕安イ、モシ、「ハイそれは」ト、意気だヨ、面白くツて、死ンで、それじやア
5.漢字は現行の字体によることを原則としたが、次のものについては原表記に近似の字体を用い、区別した。「云/言」「开/其」「㒵/貌」「匕/匙」「吊/弔」「咡/囁」「哥/歌」「壳/殻」「帒/袋」「无/無」「楳/梅」「皈/帰」「艸/草」「計/斗」「弐/二」「餘/余」
6.繰り返し符号は次のように統一した。ただし、漢字1文字の繰り返しは原本の表記にしたがい、「〻」と「々」を区別して示した。
平仮名1文字の繰り返し 〔例〕またゝく、たゞ
片仮名1文字の繰り返し 〔例〕アヽ
複数文字の繰り返し 〔例〕つら〳〵、ひと〴〵
7.「さ」「つ」「ツ」に付く半濁点符は「さ゜」「つ゜」「ツ゜」として示した。
8.Unicodeで表現できない文字は〓を用いた。
9.句点は原本の位置に付すことを原則としたが、文末に補った場合がある。
10.合字は〔 〕で囲んで示した。 〔例〕殊{〔こと〕}に、なに〔ごと〕、かねて〔より〕
11.傍記・振り仮名は{ }で囲んで示した。 〔例〕人生{じんせい}
12.左側の傍記・振り仮名の場合は、冒頭に#を付けた。 〔例〕めへにち{#毎日}
13.傍記・振り仮名が付く位置の紛らわしい場合、文字列の始まりに|を付けた。 〔例〕十六|歳{さい}
14.原本に会話を示す鉤括弧が付いていない場合も、これを補い示した。また庵点は〽で示した。
15.原本にある話者名は【 】で示した。 〔例〕【はる】
16.割注・角書および長音符「引」「合」は[ ]で囲んで示した。
17.不明字は■で示した。
18.原本の表記に関する注記は*で行末に記入した。 〔例〕〓{たど}りて*〓は「漂+りっとう」
19.花押は〈花押〉、印は〈印〉として示した。
20.画中文字の開始位置に〈画中〉、広告の開始位置に〈広告〉と記入した。
本文の修正
1.翻字本文を修正した場合には、修正履歴を末尾に示す。
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(口1オ)
辰巳{たつみ}の園{その}第三編序
良弼{りやうひつ}の名将{めいしやう}義貞{よしさだ}も勾当内侍{かうたうのないし}に惑{まど}ひて
婬行{いんかう}のそしりあり。仏弟子{ぶつでし}の難陀{なんだ}も美
女{びぢよ}に春心{しゆんしん}の過所{あやまち}あり。されは凡下{ぼんげ}の愛
情{あいじやう}は迷海{めいかい}の深{ふか}きに溺{おぼ}れ恋{こひ}の山路{やまぢ}の
木{こ}の根{ね}に斃{たふ}れて猶{なほ}春草{しゆんさう}の離〻{りゝ}たるを思{おも}ふ。
佗{ひと}の異見{いけん}や教訓{きやうくん}で思{おも}ひきらるゝものならば
(口1ウ)
親兄弟{おやきやうだい}の勝手{かつて}によくとも亦{また}其{その}道{みち}の不
人情{ふにんじやう}出来{でき}た情人{いろ}ならどこまでも捨{すて}ぬが
実意{じつい}捨{すて}られぬが縁{えん}の橋間{はしま}や桟橋{さんばし}に
もやひし舟{ふね}の仮枕{かりまくら}もすゑを通{とほ}し矢{や}切{き}れぬ
木場{きば}たがひにはなれぬ仲町{なかちやう}と噂{うわさ}も嬉{うれ}しき春{はる}の
梅{うめ}秋{あき}の尾花{をはな}も詠{なが}めに倦{あか}ぬ其{その}全盛{ぜんせい}を聞書{きゝがき}
して長{なが}く続{つゞ}きし梅暦{うめごよみ}枝{えだ}から得他{えだ}の辰
(口2オ)
巳{たつみ}の園{その}穿{うがち}といふにはあらねども遠{とほ}く望{のぞみ}し
富士{ふし}が根{ね}の雪{ゆき}より白{しろ}き唄女{はおり}の肌{はだへ}ちよつくり
内所{ないしよ}のおもはくもまんざらでなき筆{ふで}の綾{あや}
隣家{となり}あるきの梅{うめ}が香{か}ならで|路方{ほど}へだた
りし金竜山下{きんりうさんか}辰巳{こゝ}よりはるかに〓{さる}の花押{いんしやう}*〓は花押
浅草{あさくさ}に居{ゐ}て婦嘉川{ふかがは}の世界{せかい}はすこしおし
強{づよ}な二人船頭{ふたりせんどう}|汐先南{あげみなみ}骨{ほね}を折{をつ}ても乗切{のつきれ}ぬ
(口2ウ)
新地{しんち}の端{はな}の鼻元思案{はなもとじあん}と笑{わら}ふは廓外{おかばしよ}
岡目{をかめ}のわる口{くち}狂訓亭{きやうくんてい}の野暮{やぼ}な気{き}で能{よく}も
綴{つゝ}りし辰巳{たつみ}の三編{さんべん}推量{あてずつほう}の一条{ひとくだり}もまぐれあた
りでさしをつく自惚{うぬぼれ}|未可通{はんか}の娼客{すがた}はおろか
地獄{ぢごく}の沙汰{さた}も|作料{かね}次第{しだい}で着{かく}が戯作{げさく}の活業{なりはひ}
なれど桜川{さくらがは}とか寿楽{じゆらく}とか其{その}名{な}があれは
その人{ひと}のおかげで趣向{しゆかう}もする様{やう}によみ給ふのは
(口3オ)
素人{しろうと}分別{りやうけん}近来{ちかごろ}門人{でし}さへ用{つかは}ぬ春水{しゆんすゐ}功拙{こうせつ}ともに
筆一本{ふでいつほん}たゞし此{この}書{しよ}の脇艪{わきろ}といふは清元{きよもと}延津賀{のぶつが}の
校合{きやうがふ}のみ。外{ほか}には河岸{かし}も突{つか}ざるよしをいふも以
来{いらい}の為永{ためなが}と頼{たの}みに依{よつ}てをこがましくも
序文{じよぶん}のやうなる〔こと〕をしるすは
乙未の春
如月
富が岡連の
一松舎竹里述
$(口3ウ)
丹次郎
$(口4オ)
雨露に
うたるれは
こそ
もみぢ葉の
にしきをかざる
秋はあり
けり
文亭主人吟
よね八
$(口4ウ)
続{つゞき}さはぎの唱歌{せうか}に曰{いはく}
〽春{はる}はことさら辰巳{たつみ}のけしき松{まつ}をかざりし家根舟{やねぶね}に二人船頭{ふたりせんど}で
あがる客{きやく}。[詞]「お客{きやく}だヨ。おつれ申な。」「アイ。」ト返事{へんじ}もさとなまり。芸者{げいしや}
女郎{ぢよらう}が口{くち}くせにごゆるりなどゝすてことば八まん鐘{がね}もうはのそら寝{ね}ぐら
はなれぬ明烏{あけがらす}。「そんなら二{に}の卯{う}はきつとだヨウ[引]。」
身にそはぬ
春のこゝろと
こゝろして
$(口5オ)
見てさへ花に
さそはれに
けり
文亭主人
「お岩{いは}さん
ちよつと
おきゝよアレサ
てへげへだの」
$(口5ウ)
(1オ)
[梅暦{うめこよみ}餘興{よきやう}]春色{しゆんしよく}辰巳園{たつみのその}巻の七
江戸 狂訓亭主人著
第一条
【丹】「ヲヤお米{よね}か何処{どこ}へ行{いつ}たのだ。」【米】「私{わちき}よりおまへは何{なに}しに爰{こゝ}の
宅{うち}から出{で}たのだへ。」トいひながら無理{むり}に脱{ぬが}せし羽織{はおり}を取{とつ}て彼{かの}
料理{りやうり}やの軒下{のきした}の泥水{ぬかるみ}へ投込{なげこみ}て駒下駄{こまげた}で踏{ふみ}すゑる。【丹】「コレ
この女{をんな}ア気{き}が違{ちが}つたか。」ト丹次郎{たんじらう}も気色{けしき}をかへて米八{よねはち}を
引{ひき}とらへ料理茶屋{りやうりちやや}の下座敷{したざしき}へ連行{つれゆき}て引{ひき}すゑる。【米】「サア
(1ウ)
羽折{はおり}を泥{どろ}だらけにしたがわるかアどうでもしておくれ。
私{わちき}は顔{かほ}へなすられた泥{どろ}から見{み}れば仇吉{あだきつ}さ゜んのこせへて着{き}
せた羽織{はおり}ぐらゐを泥{どろ}にしたとてうまらないは。」【丹】「ナニあの
羽織{はおり}が仇吉{あだきち}のこせへてよこした羽織{はおり}だと。コウわるずいも程{ほど}
があらア。今{いま}の羽折{はおり}は三孝{さんかう}が下谷{したや}の旦那{だんな}にもらつた羽折{はおり}
だが今日{けふ}行{いく}処{とこ}の旦那{だんな}へはすこし遠慮{ゑんりよ}な紋所{もんどこ}だから取
替{とりかへ}て借{かし}てくれろと先刻{さつき}|途中{みち}で取替{とりかへ}て着{き}たのだア。
何{なん}とも三孝{さんかう}に言{いひ}わけがねへ。」【米】「言{いひ}わけがなくは私{わちき}が三孝{さんかう}
(2オ)
さんに逢{あつ}てあやまるからそのまへにおまへは三孝{さんかう}さんに
逢{あつ}て仇吉{あだきつ}さんがこしらへてよこして着{き}た処{とこ}を米八{よねはち}が見{み}て
泥{どろ}の中{なか}へ踏込{ふみこん}だから三孝{さんかう}さん預{あづか}つたのだといつていぢめる
つもりにしかけたからそのつもりにしてくれろといつて
お置{おき}な。しかし三孝{さんかう}さんが実正{ほんとう}に旦那{だんな}にこせへてもらつた
のならば近所{そこら}あたりに隠{かく}れて居{ゐ}てこの仕打{しうち}を見{み}て居た
ならばさぞくやしかろう。腹{はら}がたとふが。」【丹】「コウ〳〵米八{よねはち}マアお
めへはどうしたのだ。なるほどおれも今{いま}まではすこしぐれへの
(2ウ)
浮気{うはき}な沙汰{さた}をされた〔こと〕もあるだろう。何{なに}もそんなに着{き}
た衣類{きもの}ぐれへな〔こと〕まで其様{そんねへ}に顔{かほ}に筋{すぢ}を出{だ}して腹{はら}を立{たつ}
〔こと〕はねへじやアねへか。それほど愛相{あいそ}がつかしたくはどうも
気{き}の毒{どく}だからいつそ思{おも}ひきつて切{き}れやうはな。」トいはれて
ぐつと米八{よねはち}がせき立{たつ}胸{むね}をおししづめ今{いま}丹次郎{たんじらう}がこの一
|言{ごん}いよ〳〵爰{こゝ}に仇吉{あだきち}が隠{かく}れて居{ゐ}るに極{きは}まつたりと思{おも}へば
心{こゝろ}に計{はかり〔こと〕}わざと色気{いろけ}と笑{わら}ひをふくみさもしたゝるく寄{よ}り
添{そひ}て【米】「そういふ〔こと〕ならば私{わちき}があやまるから堪忍{かんにん}おし。」ト
(3オ)
丹次郎{たんじらう}をひきよせ手{て}をとりて見{み}かへる此方{こなた}の中{なか}じきりは
いつしか障子{しやうじ}を立{たて}きりて茶屋{ちやや}の内所{ないしよ}の客{きやく}と見{み}え男
女{なんによ}の声{こゑ}のいりまじりかしがましくこそ聞{きこ}えけり。また仇
吉{あだきち}は二階{にかい}より下{を}りかゝりしが米八{よねはち}の姿{すがた}を見{み}るより裏{うら}
ばしごおりて表{おもて}をさしのぞく其{その}四畳半{よでうはん}へ丹次郎{たんじらう}と
米八{よねはち}がつかみ合{あは}ざるばかりにて入{い}り来{きた}りしゆゑ今{いま}さらに
前後{あとさき}案{あん}じて彳聞{たちぎ}けば彼{かの}米八{よねはち}が中音{ちうおん}にて他{よそ}へきかせる
下心{したごゝろ}それと知{し}らずに立聞{たちきけ}ばさもうち解{とけ}た風情{ふぜい}にて【米】「誠{ま〔こと〕}に
(3ウ)
どうすれば此様{こんな}に惚{ほれ}るもんだろうねへ。私{わちき}アもう〳〵
どうも座敷{ざしき}に出{で}て居{ゐ}ても風{ふい}と思{おも}ひ出{だ}すと逢{あひ}たくつて〳〵
立{たち}きれない時{とき}があるよ。私{わちき}が此様{こんな}に迷{まよ}つて居{ゐ}たらさぞ他{ひと}が
蔭{かげ}でわらつて居{ゐ}るだろうけれどおまへもまた私{わちき}をかはい
がるやうに他人{たにん}をかはいがる気{き}づかひはないと思{おも}ふと妬心{やきもち}をやく
わけもないが和合{なかのいゝ}時{とき}の〔こと〕をおもふとツイ他人{たにん}には指{ゆび}をさゝ
せるもいやだ。どうぞいつでも斯{かう}して居{ゐ}たいと思{おも}ふと誠{ま〔こと〕}に
気{き}はづかしい〔こと〕もわすれて夢中{むちう}になるヨ。アアレサくす
$(4オ)
あだ吉
ぐつたいヨ。アレ。」【丹】「コウ〳〵米八{よねはち}*以下本文
おめへどうぞしたか。」【米】「どうも
しないがだれか
覗{のぞ}きはし
まいかネ
$(4ウ)
米八{よねはち}が即計{そくけい}仇吉{あだきち}が
こゝろをはげ
ます
よね八
$(5オ)
丹次郎
(5ウ)
しかしくやしいほど私{わちき}やア迷{まよ}つたヨ。仇吉{あだきつ}さ゜んも此様{こんな}にかわ
いがつておやりか。」トいひながら丹次郎{たんじらう}にしがみついたる姫蔦{ひめつた}
の白{しろ}き衿元{えりもと}掛香{かけかう}の梅{うめ}が香{か}かほる米八{よねはち}が色{いろ}をふくみし
その姿{すがた}また仇吉{あだきち}のおよばざる笑顔{ゑかほ}愛敬{あいきやう}千金{せんきん}の価{あたひ}も
実{じつ}にをしからぬ風情{ふぜい}に男{をとこ}も仇吉{あだきち}が帰{かへ}り行{ゆき}しかまだ爰{こゝ}に
忍{しの}び居{ゐ}るかもうちわすれ【丹】「おめへばかり惚{ほれ}たやうに恩{おん}に
かける〔こと〕もねへ。此方{こつち}も迷{まよ}つて気抜{きぬけ}のやうにどうぞはやく
引込{ひつこん}で二人{ふたり}が同道{いつしよ}に堀{ほり}の内{うち}さまへでも参{まゐ}るやうにしてへと
(6オ)
思{おも}つて見{み}たりその時{とき}は眉毛{まみへ}を落{おと}して丸髷{まるまげ}に結{いつ}てさぞ
秀美{いき}な年増{としま}になるだろうと思{おも}ふと今{いま}ツから楽{たの}しみだは。」
【米】「イヱ〳〵仲町{なかてう}を引{ひい}ても元服{げんぶく}はしないヨ。」【丹】「なぜ〳〵。
また他処{わき}へ出{で}て浮気{うはき}をする気{き}か。」【米】「何{なに}がくやしくつて
引込{ひつこん}だくれへでまた出{で}るものか。」【丹】「そんならなぜ|島田髪{しまだ}で
居{ゐ}やうといふのだ。」【米】「それだつてもおまへが新造{しんざう}が好{すき}だ
ものを島田{しまだ}でゐたらはやく見捨{みすて}もしめへかとはかない
〔こと〕まで思{おも}つてサ。」【丹】「ナニつまらねへ〔こと〕を言{いへ}はア。おいらは
(6ウ)
またはやく元服{げんぶく}でもしたら少{すこ}しは他{ひと}の目{め}につくのが
止{や}んで気{き}がやすまるかとおもつてゐらア。」【米】「ハイ〳〵おぼし
めしは有{あり}がたいがマアいゝかげんに聞{きい}てをりませう。それはそう
と二三日の中{うち}に山谷{ほり}まで同道{いつしよ}に行{いつ}ておくれな。」【丹】「延津
賀{のぶつが}さんの宅{とこ}か。」【米】「アヽ|吉原{てう}へ行{いつ}て此糸{このいと}さんにも逢{あひ}たし。
いろ〳〵用{よう}が有{ある}から。」【丹】「また少{すこ}し幼年{をさな}なじみの色{いろ}の顔{かほ}
も見{み}たし。」【米】「おまへじやアあるまいし。」ト跡{あと}はしばらく言葉{〔こと〕ば}
途切{とぎ}れて【米】「ナニヱ。」【丹】「気{き}がかはつていゝといふ〔こと〕ヨ。」【米】「おふざけで
(7オ)
ない。アアレお待{まち}ヨ。」トあくまで和合{なかよき}二人{ふたり}の様子{やうす}立聞{たちぎゝ}したる
仇吉{あだきち}がせきにせいたる羽折{はをり}の始末{しまつ}こらへかねては胸{むね}の火{ひ}のぱつ
ともへたつほむらより髪{かみ}のかざりの鼈甲{べつかう}も十二の角{つの}と振
立{ふりたて}て欠入{かけい}る勢{いきほ}ひ。丹次郎{たんじらう}はさすが二人{ふたり}に面目{めんぼく}なく表{おもて}のかたへ
逃出{にげだ}して前後{あとさき}思案{しあん}の付{つ}かざるは是{これ}ぞ恋路{こひぢ}のならひにて他
見{おかめ}の評論{ひやうろん}あるべからず。さて米八{よねはち}は眼{め}のふちをほんのりとせし
上気{じやうき}の顔{かほ}びんのほつれも仇吉{あだきち}が目{め}にはさはりししどけなさ。
歯{は}を喰{くひ}しばりてずつかりと膝{ひざ}付合{つきあは}して腹立声{はらたちごゑ}【仇】「モシ米八{よねはつ}
(7ウ)
さ゜ん今{いま}ちよつとうけたまはつたが私{わちき}が紋{もん}の付{つい}た羽折{はをり}がお気{き}に
さはつて泥{どろ}に踏込{ふみこん}でまだ倦{あき}たらねへでだいぶ丹{たん}さんに洗{あらひ}
だてをしなさるがどうでもつれて兎{と}や角{かく}ともめたあげくは
丹{たん}さんがいつもしみ〴〵離{はな}れがたない兼言{かね〔こと〕}のつもる仇吉{あだきち}
丹次郎{たんじらう}と命{いのち}をかけた二人{ふたり}が中{なか}お気{き}のどくだが米八{よねはつ}さ゜んどう
でおまへはない縁{ゑん}だとおもひきつて丹{たん}さんは私{わちき}におくれな。」
[米八はせゝらわらひ]【米】「御念{こねん}の入{いつ}たごあいさつだがマアよしにしませうよ。
他{ひと}の亭主{ていし}を盗{ぬす}んで置{おい}て知{し}れた時{とき}にはもらはふとはなるほど
(8オ)
おまへはいゝむしだ。旦那{だんな}や座敷{ざしき}で食傷{しよくせう}する時{とき}もあらうに
盗{ぬす}み喰{ぐひ}までこせつかずともいゝじやアないかへ。」【仇】「ヲヤ米八{よねはつ}
さん私{わちき}が何{なに}を盗{ぬす}んだへ。めつたな〔こと〕をおいひでない。丹{たん}さんは
おまへの亭主{ていし}か知{し}らねへが私{わちき}はおまへを丹{たん}さんの内室{おかみ}さんだと
一度{いちど}でも引合{ひきあは}せられた〔こと〕もなしひろめをしたと沙汰{さた}
もきかずこの頃{ごろ}までは何{なんに}もしらず二人{ふたり}で落合{おちあふ}おざしきの
跡{あと}ではおまへに丹{たん}さんの〔こと〕もはなしてのろけやうとおもつた
時{とき}があつたくらゐそのゝちだん〳〵妬心{ぢんすけ}をおまへがおこす口{くち}
(8ウ)
ぶりからやう〳〵気{き}のつく私{わちき}がうつかり。勝手{かつて}をいへば私{わちき}の
色{いろ}をおまへに取{とら}れてゐた様{やう}なものだと思{おも}ふが惚{ほれ}てゐるふせうに
了簡{れうけん}してしまふから此{この}後{ゝち}丹{たん}さんは私{わちき}一人{ひとり}でかはいがるヨ。」
そも〳〵米八{よねはち}が丹次郎{たんしらう}にしつぶかくなせしは仇吉{あだきち}に気{き}
をもませて意趣{いしゆ}をかへすはかり〔こと〕。今{いま}また仇吉{あだきち}が丹次
郎{たんじらう}とさも深{ふか}くちぎり合{あふ}〔こと〕を口{くち}にいだして恥{はづ}かしと
おもはぬはこれまた米八{よねはち}に心{こゝろ}をせかする手{て}くだなり。なほ
その争{あらそ}ひの埒{らち}あかぬは色{いろ}をあきなふ全盛{ぜんせい}の互{たがひ}にはした
(9オ)
なしと思{おも}はれじと用心{ようじん}するゆゑかくの〔ごと〕し。
【米】「そりやアおかたじけ。どうぞ沢山{たんと}かわいがつて遣{やつ}ておくれと
いひたいがマアよそうヨ。どうて男{をとこ}の名聞{めうもん}だから色{いろ}も恋{こひ}もする
ほどの男{をとこ}でなけりやア私{わちき}もまた惚{ほれ}て苦労{くらう}はしないから
まんざら止{やめ}ろといふやうな野暮{やぼ}をいふ気{き}はないけれどおめへ
のやうに遠慮{ゑんりよ}なくつらあてがましくされて見ちやアなんぼ
弱気{うちき}な温厚{うんのろ}でも。」【仇】「コウ〳〵米八{よねはつ}さんそのつらあてがわか
らねへヨ。私{わちき}のほうでこそ丹{たん}さんはおれがものだとおめへの仕{し}うち
(9ウ)
是{これ}見{み}てくれろといふやうな〔こと〕がいくらもあつたけれどだん
〴〵様子{やうす}をきいて見りやア私{わちき}よりかは前{さき}へ色{いろ}になつた
そうだし丹{たん}さんだつてもおめへを捨{すて}ちやアすこし義理{ぎり}が
わりいとかいふやうなはなしを近{ちか}ごろきいたからアヽわりい
〔こと〕をしたほかに男{をとこ}も無{ねへ}様{やう}にと思{おも}つて見{み}てもこの道{みち}はもめる
|毎度{たんび}に深{ふか}くもなり意地{いぢ}にもなつて丹{たん}さんも私{わつち}を恋{した}つて
日{ひ}に一二度{いちにと}顔{かほ}でも見{み}ねへその晩{ばん}はろく〳〵寝{ね}ねへで案{あん}じてゐる
といはれて見{み}れば此方{こつち}もねこそぎ身{み}をいれて苦労{くらう}をする
(10オ)
気{き}の二人{ふたり}が中{なか}と言{いつ}たらおめへは猶{なほ}の〔こと〕上気{あつく}なるでも有{ある}だろう
が。」【米】「コウ仇{あだ}さんそうふて〴〵しく出{で}かけた日{ひ}にやア世間{せけん}も
渡{わた}るに気楽{きらく}なものだがそんな人情{にんじやう}しらずには口{くち}をきくのはむ
だなわけだ。こはい女{をんな}もあるもんだ。」ト言{いひ}はなして立上{たちあが}れば
仇吉{あだきち}も憤然{やつき}となり米八{よねはち}が|衣裾{すそ}をとらへて引止{ひきとめ}る。折{をり}から
隣家{となり}で踊{をど}りの地哥{ぢうた}稽古{けいこ}と見{み}えて足拍子{あしびやうし}
〽とめた。〽はなせ。
○とめてよいのは朝{あさ}の雪{ゆき}。
(10ウ)
第二条
腹立{はらたち}まぎれに立出{たちいづ}る帯背{おびせ}をとつて仇吉{あだきち}がうしろの方{かた}へ
引手{ひくて}をば二足{ふたあし}三足{みあし}小戻{こもど}りし払{はら}ふ手前{てさき}は米八{よねはち}がさそくの
はづみするどくしてよろめく仇吉{あだきち}爪{つま}づく米八{よねはち}たかひに落{おと}す
簪{かんざし}は火入{ひいれ}にあたつて二本{にほん}ともをれても折{を}れぬりんきの角{つの}
あらそふ風情{ふせい}を先刻{せんこく}より知{し}つてはゐれどその中{なか}へ|仲人{はいり}
かねつゝ料理{りやうり}やの夫婦{ふうふ}は気{き}をもむばかりなり。此方{こなた}の二人{ふたり}は
今更{いまさら}にはしたないとは知{し}りながら止{とま}りかねたる胸{むね}と胸{むね}手{て}と
(11オ)
手{て}をとらへてはてしなき折{をり}から障子{しやうじ}の外{そと}よりして此処{こゝ}へ
かけこみ二人{ふたり}が中{なか}へ割{わつ}て入{い}りたる一人{ひとり}の女{をんな}三人{さんにん}顔{かほ}を見合{みあはせ}て
【仇米両人】「延津賀{のぶつが}さん。」【津】「アイ仇吉{あだきつ}さ゜ん米八{よねはつ}さ゜ん出過{ですき}る女{をんな}と
お思{おも}ひだろうがマアこの喧嘩{けんくわ}はわたしにおくれな。ハテ野暮{やぼ}
らしいといふではないが色{いろ}も香{か}もあるおふたりがてんでに花{はな}
をちらすやうなしうちはいやな〔こと〕じやアないか。米八{よねはつ}さ゜んとは
初手{しよて}からなじみ仇吉{あだきつ}さ゜んはお増{ます}さんのお宅{うち}で此間{こないだ}おちか
づきになつて間{あいだ}もないけれと東西{とうざい}ともに勝負{かちまけ}をつけては
(11ウ)
すまぬ関{せき}と関|他見{ひとめ}の関もはゞかりも捨{すて}て地金{ぢがね}の喧嘩{けんくわ}
だからいらざるお世話{せわ}とおいひだろうが元{もと}をたゞして見{み}る時{とき}は
始終{しじう}さばけて相談{さうだん}つくに解{とけ}てはなしをしない日{ひ}には肝腎{かんじん}
の男{をとこ}の意地{いぢ}どつちへしても義理{ぎり}かわりいと気{き}が付{つい}た時{とき}は
右{みぎ}も左{ひだ}りも止{やめ}て思案{しあん}をしないければならないやうになろう
じやアないかへ。そうして見{み}るとおもひもよらねへ処{とこ}へ団扇{うちは}が
あがる〔こと〕があるまいともいはれずか。何{なん}にしてもおたがひに縁{ゑん}
の有{ある}のを誠{ま〔こと〕}として堪忍{かんにん}するのが色{いろ}のたのしみどうで恋
(12オ)
路{こひぢ}といふものは邪广{じやま}や他見{ひとめ}の遠慮{ゑんりよ}があつて男{をとこ}も女{をんな}も気{き}を
もんで苦労{くらう}をするが身{み}の楽{たのし}み。自由{じゆう}になると沢山{たくさん}そうになつ
ておのづと愛相{あいそ}づかしの出来{でき}るがいくらもあるならひ。いづれ
にしても今日{けふ}はマアわたしにあづけてお帰{かへ}りヨ。どうぞそう
しておくれヨ。」ト右{みぎ}と左{ひだ}りを見{み}かへれば女{をんな}の性{しやう}の常{つね}として
涙{なみだ}にじみし|花紅楓{はなもみぢ}。鳴呼{あゝ}丹次郎{たんじらう}はあやかりものかな。やゝし
ばらくして【仇米】「せつかくおまへの御信切{ごしんせつ}だから。」【延】「とくしんして
おくれかへ。」【米】「マアともかくも私{わちき}はおまへの言葉{〔こと〕ば}をたつて。」【仇】「愚
$(12ウ)
千代元{ちよもと}の二階{にかい}に
延津賀{のぶつが}両女{りやうぢよ}を
訓{さと}す
よね八
延つが
$(13オ)
あだ吉
(13ウ)
智{ぐち}な育{そだ}ちの私{わちき}だから心{こゝろ}はどうも解{とけ}ないが延津賀{のぶつが}さんの
ごあいさつにめんじて。」【延】「いやみをいはずにマアお聞{きゝ}ヨ。アノ訥
升{とつしやう}がした苅萱{かるかや}の狂言{きやうげん}ネ。女心{をんなごゝろ}のねたみから男{をとこ}に家{いへ}を捨{すて}
させて石堂丸{いしどうまる}の身{み}の難義{なんぎ}生者必滅{しやうじやひつめつ}会者定離{ゑしやぢやうり}とやら。
仏{ほとけ}さまのをしえではあろうけれどめん〳〵苦労{くらう}をする処{ところ}は
今日{こんにち}どうぞ安{やす}らかにくらしてときたま楽{たの}しみに色{いろ}も恋{こひ}も
するがよいじやアないかへ。手前勝手{てまへがつて}なやうだけれど腹{はら}を立{たつ}
たり喧嘩{けんくわ}をしたりとりこし苦労{ぐらう}した日{ひ}には寿命{じゆみやう}が縮{ちゞ}
(14オ)
まるばつかりで座{ざ}しきの邪广{じやま}にもなろうじやアないか。マア何{なん}
にしても米八{よねはつ}さ゜んおまへは先{さき}へお帰{かへ}りヨ。こんな〔こと〕が世間{せけん}へぱツと
知{し}れでもするとよくないはネ。」【米】「そんなら今日{けふ}はおまへの言
葉{〔こと〕ば}にしたがひますがあんまり私{わちき}が気{き}がいゝから年中{ねんぢう}他{ひと}に
ふみつけられてらちあかずだといはれますヨ。」【仇】「あんまりそふ
でもありますめへ。男{をとこ}の着{き}てゐる羽折{はをり}さへ泥水{ぬかるみ}へふみつけ
ながら。」【米】「顔{かほ}をふみつけるより罪{つみ}が軽{かる}いヨ。」【延】「コレサ米{よね}さんどう
したもんだな。仇吉{あだきつ}さ゜んマアだまつておいでヨ。サア米{よね}さんおかへり
(14ウ)
といふのに情{じやう}かこはいねへ。」【米】「アイそんなら万事{ばんじ}おねがひだヨ。」
【延】「ムヽヨ承知{しやうち}だヨ。両方{りやうはう}ともに立{たて}をやまを下手{へた}に番附{ばんづけ}へ出{だ}
して見{み}な御看官{ごけんぶつ}が合点{がつてん}しねへはな。仇吉{あだきつ}さ゜んなりおまへ
なりひけをとらせるさばきはしないヨ。マアお帰{かへ}り。」トせり立{たて}られ
心残{こゝろのこ}して仇吉{あだきち}へは只{たゞ}会釈{ゑしやく}してかへりゆく。跡{あと}には茶屋{ちやや}の女
房{にようばう}が米八{よねはち}を送{おく}り出{いで}また奥{おく}ざしきへ顔{かほ}を出{だ}し延津賀{のぶつが}に向{むか}ひ
【女】「姉{ねへ}さん大{おほ}きに有{あり}がたふ。」【延】「大{おほ}きに有{あり}がたふじやアねへヨ。こんな
時{とき}ははやく其処{そこ}へ出{で}て何{なん}とか角{か}とか別{わけ}をつけるのが茶{ちや}や舟宿
(15オ)
衆{ふなやどし}の役{やく}だはネ。いかに年{とし}がわかいといつて夫婦{ふたり}ながらどうせう〳〵
とばかりいつてゐる〔こと〕もねへ。」【女】「それでも私{わちき}は丹{たん}さんが米八{よねはつ}さ゜ん
につらまつた時{とき}ははつと思{おも}ひましたは。」【延】「何{なん}のびつくりする〔こと〕が
あるものか。たかゞ妬心{やきもち}喧嘩{げんくわ}だア色{いろ}をしたとつて跡{あと}のへるもん
じやアあるめへし。しかし仇{あだ}さんにやア丹{たん}さんも余程{よつほど}吸{すひ}とられ
たろうノ。」【仇】「ヲヤ大{おほ}ちがひま〔こと〕にそんな〔こと〕はないヨ。たゞ気{き}をもむ
ばかりだはネ。」【延】「気{き}をもみツくらではどつちかといふと米{よね}さんが
余慶{よけい}だはネ。」【仇】「ムヽ竹蝶吉{たけてうきち}とかいふ子{こ}の〔こと〕かへ。そりやアほんの小僧{こぞう}
(15ウ)
じやアありませんか。」【延】「どうして〳〵歳{とし}はいかないけれどどん
なに如才{ぢよさい}のない子{こ}だろうといふと私{わたし}がけしかけるやうだがモウ〳〵
おとなしい顔{かほ}をして居{ゐ}て男{をとこ}を嬉{うれ}しがらせる大名人{だいめいじん}。その癖{くせ}
丹{たん}さん一人{ひとり}をあてにして少{すこ}しも実正{ほんとう}の色{いろ}はしないヨ。」【仇】「ヲヤ
油断{ゆだん}のならねへ。又{また}一ツ気障{きざ}がふへた。いめへましい丹{たん}さんだのう。
いつそ思{おも}ひきつて切{き}れやうか。」【延】「サア〳〵はやく切{きれ}ておしまひ。」【仇】「
イヤ〳〵どうもそうはならない。くやしいねへ。」【延】「それお見{み}な。何{なん}に
しても私{わたし}と同道{いつしよ}に増吉{ますきつ}さ゜ん宅{とこ}までお出{いで}な。今日{けふ}はどふしたか
(16オ)
奴{やつこ}を出稽古{でげいこ}の処{とこ}までよこさねへから聞{きゝ}ながら行{いつ}てお増{ます}さんの
智恵{ちゑ}もかりてマア何{なん}とか済{すま}しかたをしずはなるまい。誠{ま〔こと〕}にいやな
役{やく}だねへ。」【仇】「堪忍{かんにん}おしな。其{その}かはりもしも此{この}事{〔こと〕}が。」【延】「成就{じやうじゆ}し
たらばお礼参{れいまゐ}りは二人連{ふたりづれ}か。チツト油濃{あぶらツこい}の。」【仇】「何{なに}サそうじやアない
よ。おまへに急度{きつと}恩{おん}をかへすといふ〔こと〕サ。」【延】「マア兎{と}も角{かく}も出{で}かけ
やうじやアねへか。それとも丹印{たんじるし}でつかれて歩行{あるけ}ずはおいらの
肩{かた}へでもつかまつてあゆびナ。」【仇】「いやだヨお津賀{つが}さんふけへきな。」【延】「いゝ
じやアねへか。そういつても実{じつ}にいやだヨ。ならば何{なに}も喧嘩{けんくわ}をする
(16ウ)
わけもあるめへ。」【仇】「それだツてもせつかく私{わちき}がこせへた羽折{はをり}を泥
水{ぬかるみ}へふみこんで。」【延】「ナニ〳〵今{いま}妹{いもふと}が[これはこのりやうりやの女房をさしていふなり]すぐに洗張{あらひはり}
やへもたしてやつたがしみも疵{きず}もなしにきれいになるとヨ。よしや
ならねへといつて金{かね}をかけりやアまた出来{でき}るもんだからいとひも
しめへが折角{せつかく}こしらへて着{き}せてのろけやうといふ所{ところ}を泥{どろ}へ入{いれ}
られたからそこがくやしかろうと思{おも}つてはやく直{なほ}しにやつた
から米{よ}の字{じ}はしらずか。そりやアマア堪忍{かんにん}してサア同道{いつしよ}においでな
サア〳〵。」ト引立{ひつたて}られて仇吉{あだきち}はやう〳〵に立上{たちあが}り四ツ{よつ}に折{を}れた
(17オ)
かんざしを一ツに寄{よ}せ【仇】「コレお見{み}今{いま}折{を}れたかんざしのこの紋{もん}をお
見{み}。米八{よねはつ}さ゜んのも私{わちき}のも同{おな}じやうに丹{たん}さんの紋{もん}だヨ。」【延】「二人{ふたり}ながら
何{なん}でそんなにのろくなつたろう。おいらはまたそら程{ほど}いゝともおも
はねへが。イヤそれよりかそのかんざしも二本{にほん}ながらおいらに
まかせて置{おき}な。」ト紙{かみ}に包{つゝ}んで懐中{くわいちう}し胸{むね}におさめしこの
喧嘩{けんくわ}まだこれなりに済{すま}ざるを知{し}れども中{なか}へわけいりて
月日{つきひ}をさきへ延津賀{のぶつが}がさしあたりたる当座{たうざ}の作略{さりやく}猶{なほ}又{また}
仇吉{あだきち}米八{よねはち}が再度{さいど}の出合{であひ}大喧嘩{おほげんくわ}はつゞく巻{まき}にてよみたまへ。
(17ウ)
そも〳〵延津賀{のぶつが}といふものがこゝへ出{いで}しは山谷{さんや}より
婦多川{ふたがは}へ出{で}げいこにて弟子中{でしうち}六斎{ろくさい}の順番{じゆんばん}にて
より〳〵稽古{けいこ}の宅{たく}は違{たが}へり。此{この}りやうやも妹分{いもとぶん}にて*「りやうや」は「りやうりや」の脱字か
通{か■}ひ稽古{げいこ}の弟子中{でしうち}なり。*「■」は「よ」の部分欠損か
さても仇吉{あだきち}延津賀{のぶつが}は彼{かの}料理屋{りやうりや}をうちつれて出{いて}てお増{ます}が
方{かた}へ行{ゆく}。向{むか}ふの方より桜川{さくらがは}の由{よし}と寿楽{じゆらく}と二人連{ふたりづれ}【仇】「ヲヤ由{よし}
さん寿楽{じゆらく}さん何日{いつ}お帰{かへ}りだへ。」【由】「きのふ日{ひ}がくれてかへりや
したがイヤ仇吉{あだきつ}さ゜んに寿楽{じゆらく}がこんど出来{でき}た色{いろ}のはなしを
(18オ)
しねへじやアならねへ。」【仇】「ヲヤそうかへ。土産{みやげ}をさきへよこしておい
て一ト晩{ばん}のろけばなしにおいでな。」【寿】「聞人{きゝて}をたんと集{あつ}めて
おいてくんな。」【由】「すこし怪談{くわいだん}めへたはなしだから。」【仇】「田舎{ゐなか}で出
来{でき}た色{いろ}〔ごと〕ならいづれ猟人{かりうど}の娘{むすめ}かへ。」【由】「あたらずといへども遠{とほ}から
ず。」【延】「近{ちか}いとわたしも聞{きゝ}にいくけれど。」【仇】「よしかお津賀{つが}
さんきかない方{ほう}が仕合{しあは}せだヨ。」【由】「ちがひなし〳〵。」【寿】「サア〳〵
でへぶ風{かぜ}のわりい請{うけ}だ。行{いこ}ふ〳〵。」【仇】「ハイさやうならまた
後{のち}ほど。」【由寿】「そんなら後{のち}にヨ。ヲイ〳〵米{よ}の字{じ}によろ
(18ウ)
しく。」【仇】「しらないヨ。」
[梅暦餘興]春色辰巳園巻の七終
〈広告〉[温泉{とうぢ}土産{みやげ}]箱根草{はこねぐさ}[前後四冊][このさうしはとうぢのこつけいにていとおかしきものがたりなり]滝亭鯉丈著
[奇跡{きせき}旧観{きうくわん}]墨水日記{ぼくすゐにつき}中形三冊 [英一之著 教訓亭校 渓斎英泉画]
この日記{につき}は英一之{はなぶさいつし}が年来{としごろ}の丹誠{たんせい}に予{よ}が麁漏{そろう}の考{かうがへ}を加{くは}へ浅草
寺{あさくさでら}より竹{たけ}の塚{つか}松戸{まつど}より小梅{こうめ}にをはるの紀行{きかう}にていとこまやかなる
名所図絵{めいしよづゑ}なり。
教訓亭主人撰
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底本:国立国語研究所蔵本(W99/Ta81、1001142221)
翻字担当者:島田遼、洪晟準、矢澤由紀、藤本灯
更新履歴:
2017年3月28日公開