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日本語読本 尋常科用 巻六 [布哇教育会第1期]
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≪目録 p000≫
目録
第一課 教育ニ關スル勅語 一
第二課 蜜蜂{みつばち} 三
第三課 分業 六
第四課 風 十
第五課 大阪{おほさか} 十二
第六課 徳川|家康{いへやす} 十六
第七課 コロンブスのアメリカ發見 二十
第八課 立志 二十七
第九課 神戸{かうべ}と岡山 三十
第十課 瀬戸{せと}内海 三十四
第十一課 徳川將軍 三十八
第十二課 野球と蹴球{しうきう} 四十
第十三課 理想の體格 四十三
第十四課 合衆國の太平洋沿岸地方 (一) 四十七
第十五課 合衆國の太平洋沿岸地方 (二) 五十一
第十六課 太平洋上ノ樂園 五十五
第十七課 主婦の務 五十七
第十八課 新井{あらゐ}白石 六十二
第十九課 春夏秋冬 六十五
第二十課 ワシントン 六十九
第二十一課 ホノルルの名所 七十四
第二十二課 布哇{はわい}の一年 七十八
第二十三課 四國巡り (一) 八十二
第二十四課 四國巡り (二) 八十五
第二十五課 寛政{かんせい}の三奇人 八十八
第二十六課 りんかーん 九十一
第二十七課 家庭 九十七
第二十八課 館府{きやんぷ}の美化 百
第二十九課 鎌倉{かまくら} 百四
第三十課 關孝和 百八
第三十一課 開國始末 百九
第三十二課 廣島と山口 百十二
第三十三課 日本の女子 百十六
第三十四課 少年|鼓手{こしゆ} 百二十
第三十五課 スエズ運河とバナマ運河 百二十四
第三十六課 時間 百二十八
第三十七課 招待状 百三十二
第三十八課 燈臺守 百三十六
第三十九課 關門|海峽{かいきよう} 百三十七
第四十課 明治の大御世 百四十一
第四十一課 公事ト私事 百四十五
第四十二課 福岡と熊本 百四十七
第四十三課 日本の農業 百五十一
第四十四課 臺灣だより 百五十四
第四十五課 辻音樂 百五十九
第四十六課 鹿兒島{かごしま}と長崎{ながさき} 百六十三
第四十七課 紡績{ボウセキ} 百六十六
第四十八課 協同 百七十
第四十九課 明治二十七八年戰役 百七十三
第五十課 米國と布哇{はわい} 百七十六
第五十一課 日本と布哇{はわい} 百八十
第五十二課 日本人渡布の由來 百八十二
第五十三課 眞珠灣{しんじゆわん} 百八十六
第五十四課 セシル、ローヅ 百八十九
第五十五課 樺太{からふと}だより 百九十五
第五十六課 貿易 百九十九
第五十七課 獨立閣を觀る 二百二
第五十八課 我は海の子 二百五
第五十九課 艦上の威仁{たけひと}親王 二百九
第六十課 銀行の話 二百十四
第六十一課 ニューヨークの森村組 二百十六
第六十二課 米國の人種別 二百二十一
第六十三課 善良ナル市民 二百二十四
第六十四課 明治三十七八年戰役 二百二十八
第六十五課 日本海海戰 二百三十一
第六十六課 京城 二百三十八
第六十七課 明治天皇御製 二百四十一
第六十八課 大國民の品格 二百四十四
≪p001≫
日本語讀本卷六
第一課 教育ニ關スル勅語
朕{チン}惟{オモ}フニ我カ皇祖皇宗國ヲ肇{ハシ}ムルコト宏遠{コウエン}ニ徳ヲ樹
ツルコト深厚{シンコウ}ナリ我カ臣民|克{ヨ}ク忠ニ克ク孝ニ|億兆{オクチヨウ}心
ヲ一ニシテ世々|厥{ソ}ノ美ヲ濟{ナ}セルハ此レ我カ國體ノ精
|華{カ}ニシテ教育ノ淵{エン}源|亦{マタ}實ニ此ニ存ス爾{ナンチ}臣民父母ニ孝
ニ兄弟ニ友ニ夫婦相和シ朋{ホウ}友相信シ恭儉{キヨウケン}|己{オノ}レヲ持{チ}シ
博{ハク}愛|衆{シウ}ニ及ホシ學ヲ修{ヲサ}メ業ヲ習ヒ以テ智能{チノウ}ヲ啓發シ
徳器ヲ成就{シヨウシユ}シ進テ公益ヲ廣メ世務ヲ開キ常{ツネ}ニ國憲{コクケン}ヲ
≪p002≫
重シ國法ニ遵{シタカ}ヒ一|旦緩{タンカン}急アレハ義勇公ニ奉シ以テ天
|壤{シヨウ}無|窮{キウ}ノ皇運ヲ扶翼{フヨク}スヘシ是{カク}ノ如キハ獨{ヒト}リ朕カ忠良
ノ臣民タルノミナラス又{マタ}以テ爾祖先ノ遺{イ}風ヲ顯彰{ケンシヨウ}ス
ルニ足ラン
斯{コ}ノ道ハ實ニ我カ皇祖皇宗ノ遺|訓{クン}ニシテ子孫臣民ノ
倶{トモ}ニ遵{シユン}守スヘキ所之ヲ古今ニ通シテ謬{アヤマ}ラス之ヲ中外
ニ施{ホトコ}シテ悖{モト}ラス朕爾臣民ト倶ニ拳{ケン}々服|膺{ヨウ}シテ咸{ミナ}其徳
ヲ一ニセンコトヲ庶幾{コヒネカ}フ
明治二十三年十月三十日
御名{キヨメイ} 御璽{キヨシ}
≪p003≫
第二課 蜜蜂{みつばち}
蜜蜂には雄{お}蜂・雌{め}蜂・働{はたらき}蜂の三種あり、相集りて共同の生
活をいとなむ。
一群の中、もつとも多きは働蜂にして、内に居ては幼蟲
を育て、巣{す}を造り、外に出でては食
物を集め、外敵を防ぐ等、内外一切
の仕事に當る。春夏花盛りの候、外
役の蜂は山野を飛びめぐりて、出
でては歸り、歸りては出で、寸時も
休むことなし。巣の入口に立番せ
≪p004≫
る強き働蜂は一々其の出入をしらべて、蜜を持歸らざ
るものあれば、内に入ることをゆるさず、強ひて入らん
とすれば、立ちどころに之をさし殺す。かくの如く一群
共同して、蜜を貯ふるが故に、秋冬の節に入りても、食物
に不足することなし。
雌蜂は一群の中たゞ一匹あり。即ち其の群の女王なり。
女王の務は卵を産むにあり。氣候の暖なる間は、たえず
産卵するが故に、一群の數次第に増加す。其の數餘りに
増加すれば、女王は新しく生れたる雌蜂に其の位をゆ
づり、元の臣下をひきゐて、別の場處にうつる。蜜蜂を養
≪p005≫
ふもの、此の機會を見はからひて、箱・樽{たる}等を都合よき處
に置けば、分れたる一群は其の中に集る。かくして次第
に其の群の數を増加することを得るなり。
雄蜂の數は、春の頃には一群の總{そう}數の四十分の一より
三十分の一に達すれども、少しもはたらかずして坐食
するのみなれば、秋の頃に至れば、皆働蜂にさし殺され
て、一匹も殘らず。
働峰は體の後方に針{はり}を有す。これ其の武器にして、外敵
の攻來るにあへば、たゞちに出でて戰ふ。花の少き時、ま
たは雨ふり續きて蜜を集め難き時には、一群の蜂は他
≪p006≫
の蜂の巣に攻めよせて蜜をうばはんとし、こゝに花々
しき蜂合戰の起ることも珍らしからず。
第三課 分業
一箱ノマツチモ、造ル手數ハナカ〳〵複雜ナモノデ、大
勢ノ人ガ手分シテ造ルノデアル。材木ヲ機械ニカケテ
軸{ジク}木ヲコシラヘル者、軸木ヲ火ニカワカス者、カワイタ
軸木ノ先ヘ藥品ヲ附ケール者、ソレヲ温室デカワカス者、
ソロヘテ箱ニ入レル者、十箱ヅツ集メテ紙ニツヽム者、
皆ソレ〴〵ニチガフ。此ノ樣ニ大勢ノ人ガ手分ヲシテ、
別々ノ仕事ヲスルコトヲ分業トイフ。
≪p007≫
同ジ人數デ同ジ時間ニ物ヲ製造スルノニ、全體ノ人ガ
同ジ仕事ヲスルヨリモ、分業デスル方ガ品物ノ出來バ
エガ良クテ、製造高モハルカニ多イ。手數ノカヽツタマ
ツチノ價ノ安イノモ、分業法ニヨツテ製造スルカラデ
アル。若シ一人ノ手デ製造スルナラバ、一ツヽミ五仙位
ニ賣ツテハ、トテモ引合フモノデナイ。
人ハ其ノ身體・才能ナドニヨツテ、仕事ニ適不適ガアル。
分業法ニヨルト、人々ガ其ノモツトモ適シタ仕事ヲス
ルコトニナル。其ノ上、毎日同ジ仕事ヲクリカヘスカラ、
誰モ早ク其ノ仕事ニ熟{ジユク}達スル。シタガツテ良イ品物ガ
≪p008≫
出來テ、製造高モ多クナル。
分業法ニヨラズ、一人デ種々ノ仕事ヲスルコトニナル
ト、仕事ノ變ル度毎ニ、居ル場處ヲ變ヘ、器具ヲ取換ヘナ
ケレバナラナイカラ、ムダニ時間ヲツヒヤス。分業法ニ
ヨツテ、一人デ一種ノ仕事ニバカリカヽルコトニナル
ト、ソンナ手數ガハブケテ、徒ニ時間ヲツヒヤスコトガ
ナイ。
分業ニヨツテ一ツノ仕事ニバカリカヽツテ居ルト、自
然ソレニ精神ヲコラスコトニナルカラ、其ノ仕事ニ適
スル器具ノ改良ヤ發明ヲスルコトモアル。
≪p009≫
此ノ樣ニ分業ハ大キナ利益ノアルモノデアルガ、コヽ
ニ注意シナケレバナラナイノハ共同一致トイフコト
デアル。分業デスル仕事ハ皆全體ノ一部分デアルカラ、
ソレ〴〵ノ仕事ヲスル者ニ、共同一致ノ考ガ無ケレバ、
分業ノ目的ハ達セラレナイ。タトヘバ時計ヲ造ルノニ、
其ノ各部分ヲ造ル人々ガメイ〳〵勝手ナ形ヲ造ツタ
ナラ、ソレヲ完全ナ時計ニクミ立テルコトハ出來ナイ。
セツカク骨ヲヲツテモ、其ノ仕事ハ何ニモナラナイ。
文明ノ進歩スルニシタガヒ、分業ハ益發達シテ、今日デ
ハドンナ品物ヲ製造スルニモ、分業法ニヨラナイコト
≪p010≫
ハホトンドナイ。國家全體カライツテモ、農夫ノ田畑ヲ
耕シ、大工ノ家屋ヲ作リ、商人ノ物品ヲ賣買シ、役人ノ事
務ヲ取リアツカフ等ハ、皆分業ニ外ナラヌノデアル。
第四課 風
一、風よ風、そもいづちよりいづちふく。
草の上、やぶの中、
岡を過ぎ、谷を過ぎ、
鹿{しか}も通はぬ奧山こえて。
二、風よ風、そもいづちよりいづちふく。
池の上、森の中、
≪p011≫
村を過ぎ、里を過ぎ、
鳥も通はぬ荒海こえて。
三、夜はふけぬ、燈火消してねに行けば、
なくがごと、むせぶがごと、
戸をたゝき、窓をうつ。
風やうらやむ、我が此のふしど。
四、夜は明けぬ。とく起出でて園見れば、
草はふし、木はたふれ、
花は散り、實は落ちぬ。
風や荒れけん、夜すがらこゝに。
≪p012≫
第五課 大阪{おほさか}
大阪は日本第二の大都會で、人口は百五十萬。商工業の
盛なことは東京以上であります。東京のように大きな
役所も無いし、奈良{なら}・京都のように名所・舊跡も多くは有
りません。したがつて遊覽の場處といふよりも、活動の
場處といふ風で、東西南北の四區に活動の氣が滿ちて
ゐます。市内にはいたる處に堀があり、橋がある。堀には
無數の小蒸{こじよう}氣・荷物船が上下して居り、橋の上を往來す
る車馬は朝夕たえたことがありません。市の内外には
たくさんの工場があつて、其の煙突{えんとつ}からはき出す煙が
≪p013≫
空をおほうて、まつ黒に見えます。
北區では梅田の停車{ていしや}場を出て、南へ少
し行つた處に、有名な取引所のある堂
島や、中の島公園などがあります。園内に
は豐臣秀吉{とよとみひでよし}をまつた豐國{とよくに}神社や、圖書
|館{かん}・公會堂などがあります。天滿宮へも
近う御座います。
天神橋といふ橋を渡つて、東區に入る
と、有名な大阪の城跡があります。昔本
丸の一部であつた白い城|壁{へき}が今でも
≪p014≫
殘つて、高く城の堀の上にそびえてゐます。城の石|垣{がき}の
石の大きいのには誰でもおどろかされます。
市の中部には、商賣の取引の中心地になつてゐる北濱
や、もつともにぎやかな心齋{しんさい}橋通などがあります。心齋
橋の西には四つ橋といつて、堀と堀が十の字になつた
處に、四つの橋が井げたのようにかゝつてゐる處があ
ります。大阪らしい景色です。
南區に入ると、道頓{どうとん}堀・千日前といふ處があります。活動
|寫眞{しやしん}・劇場{しばゐ}・寄席{よせ}・見せ物小屋などが、ぎつしりならんで、お
し合ひ、へし合ふ群衆が、あらゆる音とあらゆる色のみ
≪p015≫
なぎる中を、潮のように入亂れてゐます。其の東方にあ
る生國魂{いくたま}神社は市中第一の大社で、そこの高臺へ上る
と、市中が目の下に集り、大阪|灣{わん}から淡路{あはぢ}の島まで見え
ます。それから南へ行くと、名高い四天王寺があります。
こゝには美しい五重|塔{とう}があります。寺の裏手は櫻・はぎ
などを植ゑつけた小公園になつてゐて、遊歩の客がた
えません。
大阪が如何に商工業活動の中心であるかは、港口へ行
くと、よく分ります。川口から港へかけて、大小和洋形の
船は日々何百となく出入して居ります。此等は内地は
≪p016≫
もちろん、朝鮮{ちようせん}・支那{しな}・印度等へ航行する船です。
第六課 徳川|家康{いへやす}
足利{あしかゞ}將軍家の滅びたる後は、織田{おだ}氏・豐臣{とよとみ}氏相ついで天
下の政權をにぎりしが、いづれも源氏にあらざるを以
て將軍とならず。秀吉{ひでよし}の薨{こう}後に至り、徳川家康征|夷{い}大將
軍に任ぜられ、幕府{ばくふ}を江戸{えど}即ち今の東京に開けり。
家康は三河{みかは}の人にして、吉野{よしの}朝の忠臣|新田義貞{につたよしさだ}の子孫
と傳へらる。幼より明敏、早く父をうしなひ、六歳の時よ
り、數年間織田氏に人質{ひとじち}となり、後久しく今川|義元{よしもと}のも
とにとゞめられ、つぶさに辛酸{しんさん}をなめたり。義元|桶狹間{をけはざま}
≪p017≫
に敗死せし後、信長{のぶなが}に與{くみ}して其の領地を廣め、信長薨じ
て、秀吉の勢盛なるや、信長の子|信雄{のぶかつ}を助けて秀吉と戰
ひ、つひに秀吉をして和議を
むすばしめ、大いに其の威名
をあげたり。秀吉の關東を定
むるや、家康軍に從ひて功あ
り、伊豆{いづ}・相模{さがみ}・武藏{むさし}・上總{かづさ}・下總{しもふさ}・上
野{かうづけ}等の地を得て、武藏の江戸
にうつれり。
家康は秀吉の遺{い}命によりて、
≪p018≫
前田|利家{としいへ}等と共に秀吉の子|秀頼{ひでより}をもり立てしが、幾ば
くもなくして利家卒し、家康の威權ひとり盛大なりき。
秀吉の家臣石田|三成{みつなり}等は此の形勢を見て、豐臣氏に不
利ならんことをうれへ、毛利輝元{もうりてるもと}・上杉景勝{うへすぎかげかつ}等の諸大名
を語らひ、家康をのぞかんとはかり、景勝先づ兵を擧げ、
家康が征伐に向ひたるを見て、三成は西方より之に應
ぜり。然るに豐臣氏の家臣中、加藤|清正{きよまさ}・福島|正則{まさのり}以下、か
ねて三成と相善からざるものは、かへつて家康に與し、
天下の形勢二つに分れ、東西兩軍大いに美濃{みの}の關が原に
戰へり。
≪p019≫
關が原大戰の結果{けつか}は東軍の大捷に終り、豐臣氏に從ひし
諸大名も、家康部下の將士と相ならびて、徳川氏に從ひ
附くに至り、天下の實權は全く家康の手に歸せり。家康
が征夷大將軍となりしは、此の大戰の後三年なり。
豐臣秀頼も今は一大名たるに過ぎざりしがなほ父の
威望と富力とを受けて、金城鐵|壁{ぺき}の稱ある大阪{おほさか}城に在
り。家康は其の職を子|秀忠{ひでたゞ}にゆづりて後もひそかに之
をのぞかん心あり。後數年、兵を擧げて大阪城をかこみ、
一度和をむすびて其の堀を埋めしめ、翌年ふたゝび戰
を開きて、全く之をおとしいれたり。秀頼自殺して、豐臣
≪p020≫
氏こゝに滅びぬ。
家康は心を政事に用ひ、學問をすゝめ、制度の改善を行
ひしかば、人民皆其の治を喜び、徳川時代二百七十年間
太平の基{もとゐ}を開けり。
第七課 コロンブスのアメリカ發見
四百年以前までは東半球の人は全く西半球を知らざ
りき。始めて西半球の陸地を發見したるはイタリヤ人
コロンブスにして、彼をして其の志を成さしめたるは
イスパニヤの皇后{こうごう}イサベラなりき。
當時イタリヤは貿易の中心地にして、印度地方の産物
≪p021≫
はベニス・ゼノア等の港より盛にヨーロッパへ輸入せり。
然るに印度との交通は長日月を要し、途中の困難も少
からざれば、便利なる航路を開かんことはヨーロッパ人
一同の希望なりき。ゼノアに生れて幼時より海事を好
み、十四歳の時よりすでに航海業に從事せるコロンブ
スは、もつとも熱心に之を考へたり。
コロンブスは初より世界は球形なりと信じ、ヨーロッパ
の西海岸より西へ向つて進まば、印度の東海岸に出づ
べしとの意見を有せり。たま〳〵元の忽必烈{ふびらい}に仕へた
るイタリヤの大旅行家マルコ、ポーロの日本に關する
≪p022≫
記事を讀み、ポーロの旅行記によりて製したる地圖を
得て思へらく、若しヨーロッパより西へ向つて進まば、印
度に達する前、日本または支那{しな}に出づるならんと。アジ
ヤの東端はヨーロッパの西端に近しと信じ、地球を餘り
に小さく見たるコロンブスの誤{あやまり}は、此の大發見を成さ
しむる基{もとゐ}となりしなり。
コロンブスはポルトガルに客遊中、熱心に此の事をと
なへたりしが、何人も一笑に附してかへりみるものな
かりき。轉じてイスパニヤに居ること多年、つひに皇后
イサベラの知る所となり、其の保|護{ご}の下に、此の大|探檢{たんけん}
≪p023≫
を行ふこ
とを得た
り。
一千四百
九十二年
八月三日
の朝、今日はコロンブスが遠征隊出發
の日なりとて、イスパニヤのパロス港
には、早朝より見物人の山を築けり。一行一百二十人、三
|隻{せき}の小艦に分乘して、次第に朝|霧{ぎり}の中にかくれ行くを
≪p024≫
見送りて、皆其の前途をあやぶまざるなし。
パロスを出帆して七日目に、アフリカの北西岸に近き
カナリヤ島に着し、九月六日さらに西に向つて航行せ
り。これより先は人の未だ航行せしことなき大洋なれ
ば、乘りくみの人々も次第に不安の念を生ぜり。かくて
日數は重れども、陸地のかげだに見えず、空にたゞよふ
雲を見ては山かとうたがへるも、幾度なるを知らず。船
員は力おち、氣くじけ、失望の餘り、コロンブスを海にな
げ入れんとはかるに至れり。然れどもコロンブスの決
心は動かざること山の如く、船員も其の勇氣に感じて、
≪p025≫
命令に服せざるを得ざりき。
十月十一日、川に生ずる水草流れより、果實の附きたる
枝の波のまに〳〵浮べるを見たり。人々始めて陸地の
近きを知り、其の夜は一同うれしさに眠ること能はず。
十時頃はるかに一點の燈火とおぼしきものを認めし
が、朝の二時頃「陸」「陸」「陸」とさけぶものあり。「いづこぞ。」
「見よ、かしこに。」といふ聲かまびすしく、人々は喜びて、手
のまひ、足のふむ所を知らず。
明け行くまゝに見渡せば、前面の一島、草木青々として、
花さき、鳥さへづり、土人とおぼしきもの、おどろき顔に
≪p026≫
此の新來の客をながめて立てり。船員は皆喜びて、コロ
ンブスを取りかこみ、これまでの不明をわびぬ。
一千四百九十二年十月十二日、コロンブスは深紅の禮
服を着し、イスパニヤの國|旗{き}を持し、深き喜を目の光に
浮べて、第一に上陸し、此のイスパニヤの新領地をサン
サルバドルと命名せり。これ今の西印度諸島の一なり。
かくてコロンブスの報告のためにイスパニヤに歸航
するや、パロス港の群集は出帆の日に數倍し、前に一行
の運命をあやぶみし者も、始めてコロンブスの先見の
明に服し、皇后もまたコロンブスを引見して、あつく其
≪p027≫
の功を賞せり。
其の後コロンブスは數回の航海を試みしが、一千四百
九十八年第三回の航海において、始めてアメリカ大陸
に上陸するに至れり。コロンブスの發見時代は日本の
戰國時代に當れり。
第八課 立志
人ガ此ノ世ニ生レタカラニハ、自分ノ歩イタ足跡ヲ何
カ此ノ世ニ殘サナケレバナラヌ。サウデナイト、人ト生
レタカヒハナイ。
何ノ考モナシニ着手シテハ、ドンナ事ニモ成功ハ見ラ
≪p028≫
レナイ。人ニハソレ〴〵ノ天分トイフモノガアル。自分
ノ得意不得意トイフコトガアル。ソレ故、人ハ自分ニ適
當シタ道ヲエランデ、其ノ方ヘ進マナケレバナラヌ。自
分ノ天分ヲワスレテ、一時ノ利|慾{ヨク}ヤ情念ノタメニ、自分
ニ適シナイ道ヲエランダナラ、キツト失敗ヲ招クモノ
デアル。
シカシ一度決心シテ自分ノ進ムベキ道ヲ定メタナラ、
タトヒドンナ事ガアツテモ、其ノ志ヲ變ヘテハナラヌ。
「人ノ一生ハ重荷ヲ負ウテ、遠キ路ヲ行ク如シ。」トイフ言
ガアル。其ノ遠イ路ヲ行ク間ニハ、高イ山、ケハシイ坂、荒
≪p029≫
イ海、早イ流ガアル。或ハ目ニモ見エヌ小石ニツマヅク
コトモアレバ、時ナラヌ風雨ノタメニ時間ノオクレル
コトモアル。ソレヲ物トモセズニ進ンデコソ、始メテ目
的地ヘモ達スルコトガ出來ルノデアル。勇氣ト意志ガ
大切デアル。「七轉八起。」トイフ語ガアルヨウニ、七度轉ン
ダラ、八度起上ルダケノ勇氣ガ、誰ニモ大切デアル。昔|大
椿{ダイチン}トイフ人ハ、長イ間豆バカリ食ベナガラ、讀書ヲ續ケ
テ勉強シタ。熊澤蕃山{クマザハバンザン}ハ三日ノ間師ノ門ニ立ツテ、弟子
ニナリタイト願ツタ。此等ハ一通リノ例ニ過ギナイ。東
西ノ歴史ヲ讀メバ、多クノ英|傑{ケツ}・學者・實務家ガ勇氣ト忍
≪p030≫
耐ヲ以テ、其ノ志ス所ニ進ンダ話ハ數ヘ切レヌ程多イ。」
此ノ世ニ生レタカラニハ、國家ノタメニ、人類ノタメニ、
何カ自分ノ仕事ヲ殘シテ死ニタイモノデアル。
第九課 神戸{かうべ}と岡山
東海道線の鐵道は神戸が終點である。神戸は明治以前
は横濱と同樣、さびしい一漁村に過ぎなかつたが、瀬戸{せと}
内海にのぞんで、關西地方の門戸たる位置を占め、其の
上日本一の商業都市たる大阪{おほさか}を後にひかへてゐるの
で、開港以來急激な發達をとげて、今では横濱をしのぐ
程の大通商港となつた。地勢は後に山を負うてゐるの
≪p031≫
で、市街はだん〳〵上りになつてゐる。山手の通から見
下すと、煙突{えんとつ}の煙の黒く立上る間から、大小のほばしら
が林のように群り立つて、廣い港を埋めてゐるのが見
える。市中を歩いて見ると、銀行・會社や貨物|倉庫{そうこ}などの
大きな建物が無數に立ちならんで、如何にも貿易港ら
しい感じを與へる。工業もなか〳〵盛で、大工場の煙突
がいたる處に立つてゐる。中にもまつちの生産がもつ
とも多く、年|額{がく}一千萬圓に及んで、全國の總{そう}産出額の三
分の二以上を占めてゐる。
停車{ていしや}場の北に當つて、楠木正成{くすのきまさしげ}をまつつた湊川{みなとがは}神社が
≪p032≫
ある。こゝに參拜して、徳川|光圀{みつくに}
の「嗚呼{あゝ}忠臣|楠子之{なんしの}墓」と書いて
建てた墓の前に忠臣の英|靈{れい}を
とぶらひ、やがて山陽線の汽車
に乘つて岡山に向ふ。
汽車は瀬戸内海にそうて西へ
西へと進んで行く。源平の昔を
しのばせる一の谷のあたりも
過ぎ、和歌に名高い須磨{すま}・明石{あかし}も
送りむかへる。海のあなたの淡
≪p033≫
路{あはぢ}島は白砂・青松の濱|邊{べ}を前景にして、手に取るように
見える。白鷺{はくろ}城といふ美しい城のある姫路{ひめぢ}を後にして、
間もなく岡山に着く。
神戸から岡山に來て見ると、感じが
まるでちがふ。前者のあくまで動的
でいそがしさうなのに對して、後者
は靜かに落ちついてゐる。しかし全
く眠つてゐるといふ風でもない。機
械|紡績{ぼうせき}業などもなか〳〵盛である
し、花筵{むしろ}や麥稈眞田{ばくかんさなだ}を多く産出する。
≪p034≫
此の地方で出來る花筵の産額は全國の四分の三近く
を占めてゐる位である。市内には有名な後樂園がある。
水戸{みと}の偕樂{かいらく}園、金澤{かなざは}の兼六{けんろく}園と共に日本の三公園と稱
せられてゐるもので林石池泉の配置に、日本式造庭法
の粹を盡してゐる。旭{あさひ}川の清流をへだてて、岡山城の天
守|閣{かく}を望んだ景色も面白い。
第十課 瀬戸{せと}内海
日本本土の西、近く九州{きうしう}と相接せんとする處、下關|海峽{かいきよう}
あり。四國の西には佐田岬{さだのみさき}長くつき出で、九州にせまり
て豐豫{ほうよ}海峽をなす。淡路{あはぢ}島の北方、本土と相望む處、明石{あかし}
≪p035≫
海峽となり、四國に近き處、鳴門{なると}海峽となる。此の四海峽
に包まれたる細長き内海を瀬戸内海といふ。
瀬戸内海には、いたる處に岬あり、灣{わん}あり、大小の島々八
百を數ふ。船の其の間を行く時、島かと見れば岬なり。岬
かと見れば島なり。一島未だ去らざるに、一島さらにあ
らはれ、水路極るが如くにして、また開く。かくして島轉
じ、海めぐりて、其の盡くる所を知らず。
春は島山かすみに包まれて眠るが如く、夏は山海皆緑
にして目さむるばかりあざやかなり。秋の山は紅葉の
錦{にしき}を織り、冬の木は白雪の綿{わた}を重ぬ。兩岸及び島々、見渡
≪p036≫
すかぎり田園よく開けて、毛
氈{もうせん}をしけるが如く、白壁の民
家其の間に點在す。
海の靜かなることはかゞみ
の如く、朝日・夕日を負ひて、島
がくれ行く白帆のかげもの
どかなり。月の光のさゞ波に
くだけ、いさり火の波間に浮
きしづむ夜景も一しほのお
もむきあり。
≪p037≫
瀬戸内海には高松・多度津{たどつ}・高
濱・三田尻{みたじり}・宇品{うじな}・尾道・宇野{うの}等の
港あり、汽船の通航たえず、遠
く近く煙の空にたなびくを
見る。
内海にそへる陸地及び島々
には名勝の地少からず。中に
も嚴島{いつくしま}は古より日本三景の
一に數へられ、屋島・壇浦{だんのうら}は源
平の古戰場として名高し。日
≪p038≫
本に遊べる外國人は瀬戸内海の風景を賞して、世界海
上の大公園なりといへり。
第十一課 徳川將軍
家康{いへやす}を初代として、徳川將軍は十五代まで續けり。三代
將軍|家光{いへみつ}の代に至りて、幕府{ばくふ}の勢いよ〳〵盛なり。之よ
り以前、ポルトガル人・イスパニヤ人等の日本に渡來す
るものあり、ジェスイット宗の教師等之と共に來りて、其の
宗門をひろめ、之を信仰するものやうやく多し。秀吉{ひでよし}・家
康以來之を禁ぜしが、家光の時に至りて、其の徒|九州{きうしう}島
原に亂をなせしかば、此の亂の終りし後は、全く此の宗
≪p039≫
門を信ずることを禁じ、海外との交通をも止めたり。大
船を造ることを禁ぜしも此の時にて、其の後はオラン
ダ人のみ年々|長崎{ながさき}に來りて、貿易することをゆるされ
たり。
家光の後、五代將軍|綱吉{つなよし}・八代將軍|吉宗{よしむね}の如き英主出で、
學問を奬め、産業を起せしかば、學者續出し、諸國の物産
も次第に増加し、人民皆太平を樂しめり。然れどもおご
りにはしり、文弱に流るゝの風はやうやく社會にひろ
がれり。
十二代將軍|家慶{いへよし}の時、即ち孝明天皇の嘉永{かえい}六年、アメリ
≪p040≫
カ合衆國の使節ペリーは船艦四|隻{せき}をひきゐて、相模{さがみ}國
|浦賀{うらが}に來れり。太平の夢{ゆの}はこゝに破られたり。或は幕府
の無力をあざけり、將軍の名の空稱に過ぎざるを笑ひ、
或は皇室の衰微{び}をいきどほり、一擧外人を追ひはらふ
べしとさけび、國論大いにさわがし。孝明天皇崩じて、明
治天皇即位し給ふに及び、十五代將軍|慶喜{よしのぶ}は時勢の變
遷をさつし、政權を朝廷にかへし奉りて、徳川幕府こゝ
に滅びぬ。
第十二課 野球と蹴球{しうきう}
米國にては運動・競技の盛なること、世界にたぐひなく、
≪p041≫
四時おほむね其の時節を代表する競技ありて、學校の
時間終りたる後は、全校の人皆之に從ふ。中にも野球と
蹴球とはもつとも盛にして、此の技に長ずるものは少
年・青年間の英|雄{いう}とあがめられ、校風・學風の消長また此
の競技の盛衰に關するが如き有樣なり。
今此の兩競技を見るに、野球は肩{かた}の強きを尊び、蹴球は
腰{こし}のかたきをよしとす。前者は身長の高きをきらはず、
後者は體重の重きをいとはず。されど意氣の壯なるこ
と、耳目の敏捷なること、脚力の強健なることは、兩者に
共通する主要の點なりとす。
≪p042≫
然れども兩競技に通じて、なほ大切なる一事あり。そは
チームウオァクなり。如何に其の技に熟{じゆく}達せる強健なる
選手{せんしゆ}を得たりとするも、萬一チームウオァクにおいて不
十分ならんか、百戰して一勝をも望み難かるべし。チー
ムウオァクとは野球にては九人、蹴球にては十一人が、マ
ネーヂャ若しくはキャプテンの命令に從ひ、共力同心、相助
けて其の目的をなし遂{と}ぐる事にして、全員一團、合して
一人の如く活動するを理想とするなり。
チームウオァクは競技團體において必要なるのみなら
ず、一家一國皆之を必要となす。即ち一家は家族のチー
≪p043≫
ムウオァクによりて榮ゆべく、一國は國民のチームウオァ
クによりて強かるべし。先年ウィルソン氏は其の大統領
就任式に當り、ことに米國人にチームウオァクの必要あ
るを説かれたりき。共和國はあたかも一野球團の如く、
一蹴球團の如し。野球・蹴球が學生に此の意義を知らし
め、共同作業の精神を養成することを得ば、其の功はな
はだ大なりといふべし。
第十三課 理想の體格
イタリヤにモンテソリーといへる婦人あり。多數の人
の寫眞{しやしん}を集めて複合寫眞を作り、之によりて人の理想
≪p044≫
的體格圖を作れり。モンテソリー思へらく、「あづちにつ
きて矢の集る處を見るに、矢のもつとも多く集る處は、
的にもつとも近き處なり。それと同じく、多數人の體格
の一致する所は、ほゞ人の體格の標準{ひようじゆん}たることを得べ
し。」と。かくて調製し
得たる體格圖は即
ち上圖の如く、頭・頸{くび}・
胸{むね}・腹・手・足等身體の
各部が、過不及なく
發達せるものなり。
≪p045≫
今之を數字によりて説明せんに、全身長を一〇〇とす
れば、頭と頸と胴{どう}とを合せて五二、脚部の長さ四八にし
て、頭は一〇、頸と胴とは合せて四二の割合{わりあひ}を成す。胸圍{きようい}
は五〇とす。身體各部の發達若し此の體格圖の割合に
一致せざる時は、其の人の體格には何等かの缺點ある
べしといふなり。
モンテソリーが體格圖を作りたる目的は、之を標準と
して兒童の體格を調べ、若し體格の上に何等かの缺點
あれば、體育をすゝめて其の發達を遂{と}げしめんとする
に在り。此の教育法は大いに世人の感賞する所となれ
≪p046≫
り。
我等は學業にはげみて、精神の發達を希ふべきのみな
らず、つねに運動を重んじて、強健なる身體を作らざる
べからず。古き語にも「強健なる精神は強健なる身體に
宿る。」と言へり。身體の發育の不十分なる人は、精神にお
いても十分なる發達を望み得べからず。
精神の健不健はまた面|貌{ぼう}の上にもあらはるゝことあ
り。上圖は英國の學者サア、フラ
ンシス、ガルトンの調製せるも
のにして、病人及び罪{ざい}人の複合
≪p047≫
寫眞なり。氣力衰へたるものの
弱々しきさまと、心術正しから
ざるものの險{けん}惡なるさまとは、
一見して思ひ半に過ぐるものあらん。
第十四課 合衆國の太平洋沿岸地方 (一)
合衆國中太平洋に面して居るのは、ワシントン・オレゴ
ン・カリフォルニヤの三州で、これを太平洋沿岸地方とい
ふ。此の地方には、ほゞ海岸線に平行して、カスケード・シ
ーラ、ネバダの二大山|脈{みやく}があり、山脈中には幾多の高峯
が千古の白雪をいたゞいてそびえてゐる。山脈の東は
≪p048≫
一帶の高原で、西は廣大な低地である。低地と太平洋の
間には低い海岸山脈が横たはつてゐる。
天候は北と南でちがふばかりでなく、大山脈の西と東
≪p049≫
ではよほど變つてゐる。西部は四時を通じて氣候の變
ることが少いが、東部は夏と冬で寒暑の差がはげしい。
雨は北方に多くて、南方に少い。西部地方の主な産業は
農業である。低地では小|麥{むぎ}がよく出來て、山のふもとで
は葡萄{ぶどう}其の他の果實がよく實のる。山の斜{しや}面や、雨の少
い地方では、牧畜{ぼくちく}ことに羊を飼ふことが盛に行はれて
ゐる。東部地方でもコロンビヤ川に沿うた低地からは
小麥・大麥・ホップなどを多く産出する。コロンビヤ川の下
流や、ピューゼットの入江{いりえ}では鮭{さけ}の漁業が盛である。
森林の富は全合衆國の第一で、ワシントン・オレゴン二
≪p050≫
州の西部地方は、いたる處よくしげつたアメリカ杉{すぎ}や、
ドーグラス樅{もみ}などでおほはれてゐる。ピューゼットの入江
附近には世界第一の木挽工場{そうみる}がある。
鑛{こう}山業はカリフォルニヤ州がもつとも盛である。シーラ、
ネバダ山脈の西の斜面には廣大な金鑛があつて、世界
中もつとも豐富な金産地の一になつてゐる。川からと
れる砂金もあるが、大部分は岩石中の鑛脈からとるの
である。此の地方から出る水銀も世界産出高の大部分
を占めてゐる。南カリフォルニヤの油田からはたくさん
な石油が出るし、ワシントン州の北部から出る石炭の
≪p051≫
産出高もすこぶる大きなものである。
第十五課 合衆國の太平洋沿岸地方 (二)
太平洋沿岸地方は區|域{いき}の大きい割合{わりあひ}に人口が少い。全
體で紐育{にゆーよーく}一市にも及ばない位である。住民の約五分の
一は外國人で、其の中|英吉利{いぎりす}人・獨逸{どいつ}人・伊太利{いたりや}人及び支
那{しな}人が大部分を占めて居る。交通機關には沿海航路の
汽船の外に、大山脈以西の低地を南北に貫いた鐵道も
あり、大陸横|斷{だん}鐵道の本線や、接續線も通つてゐる。海岸
山脈は北部ではピューゼットの入江とコロンビヤ川中央
部ではサンフランシスコ灣{わん}で、中斷されてゐて、此等の
≪p052≫
切目には安全な港がある。
都市の主なものを擧げれば、ワシントン州にはシヤト
ルがある。北方商業の中心地で、ピューゼットの入江にのぞ
み、亞細亞{あじや}諸國やアラスカ地方と盛に取引が行はれて
ゐる。其の少し南にはタコマの良港がある。首府のオリ
ンピヤはピューゼットの入江の盡頭にある。オレゴン州に
入ると、コロンビヤ川の支流、ウィラメット川に沿うて、ポー
トランドがある。木材・麥粉{むぎこ}・獸肉|鑵詰{かんづめ}などの産地で、太平
洋との間を汽船で上下することが出來る。コロンビヤ
川の川口のアストリヤは鮭の漁業と鮭肉鑵詰製造業
≪p053≫
の中心地で、また多くの木材を
外國に輸出する。首府のサレム
には大きな羊毛工場と製|粉{ふん}所
がある。カリフォルニヤ州にはサ
ンフランシスコ灣と太平洋と
の間の半島に、サンフランシス
コ港がある。元は西班牙{いすばにや}から來
た傳道者によつて開かれた町
であるが、カリフォルニヤの金鑛
が發見されて、諸方から續々移
≪p054≫
住者が入りこんで來たのと、陸地でかこまれた一大|湖{こ}
水のような灣の中に良い港があるので、ずん〴〵發達
して、今では太平洋沿岸地方中第一の都會になつた。海
上貿易は日本・支那{しな}・濠太利{おーすとらりや}及び太平洋諸島との間に盛
に行はれ、歐羅巴{よーろつぱ}諸國や合衆國の東海岸との間にも取
引がある。しかし此の地の最も重大な交易は陸路大陸
横斷鐵道によつて行はれるものである。此の地はまた
製造業の方面でもカリフォルニヤ州の主なる中心にな
つてゐて、砂糖{さとう}の精製、獸肉鑵詰・機械及び衣類の製造、印
刷等が盛である。對岸にあるオークランドは、バークレ
≪p055≫
ーやアラメダと共にサンフランシスコの附|屬{ぞく}市たる
觀がある。首府のサクラメントはサンフランシスコの
東北にあつて、豐かな耕地の中に包まれてゐる。サンジョ
ーズ・フレスノ・スダックトン等は皆主要な商業地である。
南カリフォルニヤのロスアンゼルスはサンペトロを前
港として、此の地方の商業の中心になつてゐる。豐富な
果物を生産する地方にはパサデナがあり、さらに南に
下ると、メキシコの國|境{きよう}近くにサンヂャゴの良港がある。
第十六課 太平洋上ノ樂園
人往々布哇{ハワイ}ヲサシテ太平洋上ノ樂園トイヘリ。其ノ意
≪p056≫
義如何。氣候ノ温和ナル、山川ノ美麗ナル、生活ノ安易ナ
ル、イヅレモ樂園ノ名ニ負カザレドモ、其ノ意義ハサラ
ニ之ヨリモ深キモノアリ。
布哇ノ住民中ニハ各國ヨリ移住シ來レルモノ多シ。米
國人・日本人ハ言フニ及バズ、歐羅巴{ヨーローツパ}各國ノ人アリ、支那{シナ}
人アリ、フィリッピン人アリ、布哇土人アリ。各種ノ民族相隣
シテ、平和ノ生活ヲイトナミ、其ノ職業ニオイテコソタ
ガヒニ競爭スレ。極メテ温和ニ、極メテ親密ニ、何等ノ疑{ギ}
念ナク、何等ノ紛{フン}爭ナク、各其ノ生ヲ樂シメルハ、コレ我
ガ布哇以外ニハ容易ニ見ルヲ得ザル有樣ナラズヤ。米
≪p057≫
國ノ一新聞記者、カツテ言ヘラク、「今ヤ太平洋上ノ文明
ハ世界ノ上ニ新シキ光ヲアラハシ來レリ。コヽニハ正
義ト平和トアルノミ。」ト。
諸子ハ此ノ樂園ニ生レ、此ノ樂園ニ學ビ、此ノ樂園ニ成
長セントス。ヨロシク其ノ幸福ヲ感謝シ、ヨク學ビ、ヨク
力メテ、益其ノ名ヲシテ其ノ實アラシムベキナリ。
第十七課 主婦の務
出入口に、はき物を置亂したる家には、盜人のうかゞふ
こと多しといへり。出入口の混{こん}雜せる程なれば、一事が
萬事、すべて家内に不始末の事多きか故なるべし。座敷{ざしき}
≪p058≫
より臺所に至るまで、諸道具の置場處を一定し、前後左
右一々次第よくならべて、ふたをすべき物はふたをし、
錠{じよう}を下すべき處には錠を下し、急ぎの場合にも混雜な
く、暗き時にも手さぐりにて用を足し得る樣に、きまり
よくとゝのへ置くは主婦たる者の務なり。
家内のよくとゝのひたる家は日々のふき掃除{そうじ}も行き
とゞきたるものなり。およそ家内の掃除は座敷・居間・臺
所のみならず、便所のすみより下駄{げた}箱の奧までも注意
せざるべからず。食器・衣服すべての物を清|潔{けつ}にするこ
とは衞{えい}生上にも必要なる事なり。
≪p059≫
戸締{とじまり}の用心よりも火の用心は一そう大切なり。煙草の
すひがらより大火事を引起せしこと、其の例數ふるに
いとまあらず。主婦は眠に就く前、竈{かまど}の下までもよく檢{けん}
査して、戸締をなすと共に火の用心をわすれざる樣に
すべし。
一家中に病人なき程仕合なる事なし。つねに衞生上の
注意をおこたらずして、何人も病にをかされぬ樣にす
べし。四時寒暑の變り目にはとりわけ衣服・飲食に氣を
附くべし。病氣にかぎらず、何事にても少しの不注意は
大いなる禍{わざはひ}を招く。若し家内に傳染{でんせん}病等にかゝるもの
≪p060≫
あらば、近處へ對しても申しわけなく、世間へ對しても
相すまぬ次第ならずや。
主婦は幼兒を育て上ぐる大任あり。男子は外に出でて
不在勝のものなれば、幼兒は母の感化を受くること最
も多し。「其の母によりて其の子をさつせよ。」といへるが
如く、子供のしつけにつきては、主婦たる人の任務最も
重し。
主婦はつねに家庭和樂の中心となりて、家内一同を樂
しましむべし。家内能く和合して、心にわだかまりなく
むつまじくうちそろひて夕の膳{ぜん}に向ふ時は、一日の困
≪p061≫
苦はわすれられて、さらに明日の活動を思ふべし。
日々のくらしは「入るを計つて出づるを制す。」を第一義
とす。家の收入を基{もとゐ}として、あらかじめ其の支出を定め、
衣服・飲食の費用皆其の上に出でざる樣にすべし。また
不時の出費のため、多少の用意をなし置くを必要とす。
身分不相當の活計は産を破り、家を亡す基なり。おごり
に流るゝは易く、おごりより儉約に進むは難し。
儉約は大切なる美徳なれども、人情にそむき、義理に外
れても、費用ををしむはいやしむべき事なり。身分相當
の附合は家を保つ上にも必要なり。親類はもとより、世
≪p062≫
間なみの交を外さず、慈{じ}善の事業にも應分の資を出す
べく、公共の事業にも出費ををしむべからず。
第十八課 新井{あらゐ}白石
新井白石は徳川時代の有名なる學者なり。三歳にして
字を知り、十三歳の頃、主君に侍して、其の書状を認むる
に、ほとんど老成人の如くなりきといふ。白石の父、事を
以て任をやむるに及び、家貧しきことはなはだし。然れ
ども苦學やまず。江戸{えど}の富人|河村瑞軒{かはむらずいけん}其の才學を愛し、
孫女を以て之に妻せんとし、其の子をして白石に説か
しめ、かつ三千兩の金を與へて、其の勉學の資とせんと
≪p063≫
いふ。白石辭して言ふよう、「我聞く、昔|澤{さは}のほとりに小|蛇{だ}
あり。人其の腮{あご}をきずつく。後大|龍{りよう}の此のあたりに死す
るものあり。これ即ち前にきずつける小蛇にして、其の
傷{きず}一尺に餘れりと。今大人の孫女を以て我に與へんと
するは、小蛇をそこなふなり。
他日家を起す時、其の傷小な
らんや。」と。つひにがへんせず。
後|木下順庵{きのしたじゆんあん}の門に入りて學
ぶ。
加賀侯{かがこう}かつて順庵に就きて、
≪p064≫
其の子弟の學識ある者を求む。順庵白石をすゝむ。座に
同門の岡島達あり、母の加賀に在るを以て、白石のまね
かるゝをうらやむが如し。白石之をさつし、達をすゝめ
て、自ら其の任を辭せり。人其の友人にあつきを稱す。
三十七歳の時、召されて徳川|家宣{いへのぶ}の侍讀となれり。五代
將軍|綱吉{つなよし}|薨{こう}じて子無く、家宣入りて、六代の將軍となる
に及び、殿中に出仕し、事毎に意見を問はれ、建白する所
用ひられざるなし。從五位下に叙{じよ}せられ、筑後守{ちくごのかみ}に任ぜ
らる。學術を以て此の榮爵{しやく}を受けたるは、時人の異數と
せる所なり。
≪p065≫
白石あらはす所の書三百餘種、多方面にわたりて、いづ
れも識見の非凡{ひぼん}なるものあり。中にも藩翰譜{はんかんぷ}は全部十
三卷、家宣の命によりて作りしものにして、七月筆を起
して、十月に至りて成る。其の敏才想ふべし。自家の傳記
を記せしものに、折焚柴{をりたくしば}の記あり。行文流麗を以て聞ゆ。
第十九課 春夏秋冬
一
空もかすみて 遠山の
櫻花さく 永き日に
さへづる鳥の 聲聞けば、
≪p066≫
春の喜 はてもなし。
柳{やなぎ}の緑 なの花の
あや織る野べに 旅ねして、
くもりもはてず てりもせぬ
月を見るこそ うれしけれ。
二
ほとゝぎす鳴く 森かげに
卯の花白く さき出づる
夏の朝の ながめこそ
春にも増して 風情あれ。
≪p067≫
晝の暑さを 行水に
流して、庭の 夕凉、
いさゝ小川の 水の面を
ほたる飛ぶこそ うれしけれ。
三
いつか夏去り、秋來ぬと、
目にはさやかに 見えねども、
風の音にも 靜けさの
こもりて、秋は 物さびし。
萩{はぎ}のうねりに 散る露を
≪p068≫
命とたのみ 鳴く蟲の
聲もふけ行く 夜半の窓、
書を讀むこそ うれしけれ。
四
林まばらに 葉は落ちて、
寒げに見ゆる 鳥の宿、
裏の大川 水あせて、
橋の脚いと 高きかな。
雪降積る 家の外、
ゐろりにそだを をりくべて、
≪p069≫
親はらからの 永き夜を
語り合ふこそ うれしけれ。
第二十課 ワシントン
ジョージ、ワシントンは一千七百三十二年にバージニヤ
州のポープス、クリームに生れた。父はオーガスチンと
いつて、有福な生活をしてゐた人であつた。ワシントン
が幼い時に、父から手をのをもらつたうれしさに、父の
櫻の木を伐りたふした話は誰も皆知つてゐるであら
う。
學生時代のワシントンは熱心な勉強家で、すぐれた運
≪p070≫
動家であつた。さうしてつねに一方の首領として、友人
から仰がれてゐた。彼の學校生活は十六歳の前に終を
告げた。其の年父に別れたのである。彼は十九歳の年少
で、大|佐{さ}といふ榮職に上つた。其の頃|佛蘭西{ふらんす}人がオハイ
オ川の岸に城を築いて、占領の用意に取りかゝつてゐ
た。ワシントンは知事の命を受けて、遠征の途に就いた
が、中途で軍職を退いて、二十七歳の時|結婚{けつこん}して、和平な
生活を樂しんでゐた。
一千七百六十四年、英國政府が殖民地への課税を決議
した一事が、殖民地住民の激怒を買つて、やかましい問
≪p071≫
題{だい}となつた時、ワシントンはバージニヤの議會におい
て、全院を壓{あつ}する程な大|辯{べん}舌をふるつて全院を動かし
た。英國政府は此の大勢を見て、課税が殖民地の反感を
買ふことの餘りに大きいのをおそれて、茶ばかりに課
税して、一時殖民地の氣勢を靜めようとしたが、時局は
進んで、一千七百七十五年四月十九日の明方、英兵と殖
民地義勇兵の間に一大|衝突{しようとつ}が起つた。
國民大會は回を重ねた。義勇兵は多く集つた。ワシント
ンは擧げられて聯合軍總司令官{れんごうぐんそうしれいかん}の職に就いた。殖民地
の人民は彼等の生命をすてて、自由のために戰つた。正
≪p072≫
義の向ふ所、何者も
敵することは出來
ぬ。米軍は連戰連捷
した。開戰後八年、一
千七百八十三年四
月十九日に平和の回復を見た。功を遂{と}げた彼は委任權
を返して田園に歸つた。
しかし當時の事情は永く彼を其のまゝには置かなか
つた。建國の事務を處理し、獨{どく}立の實功を擧げるために、
彼は一千七百八十九年、えらばれて光榮たぐひなき第
≪p073≫
一回の大統領に就任した。米國が今日ある所以は彼に
負ふ所がはなはだ多い。
一千七百九十九年、一世の英|雄{いう}ワシントンは其の地上
の生活を終へた。大統領アダムスは次のような追|悼{とう}の
辭をのべた。
「彼は逝{ゆ}けり。國歩困難の時、彼を失へるは國家の一大
|損{そん}失といはざるべからず。國民の悲悼はあたかも父
をいたむが如し。此の場合に泣かざるものは合衆國
民にあらず。されど神に謝せよ。彼は今世を去りたれ
ども、其の人格の光榮は今後永く米國の天にかゞや
≪p074≫
くなるべし。ワシントンは今なほ地上に生きたり。彼
の感化は千萬年の後といへども、我等の子孫を支配
することうたがひなし。」
と。合衆國の父として、地球が其の形を保つかぎり、彼の
名は永遠のものであらう。
第二十一課 ホノルルの名所
ホノルル市の附近には風光の優れた處が少くない。南
方のワイキキの海岸にはカピオラニ公園がある。ワイ
キキ公園と稱へられるもので、布哇{はわい}で一番の公園で、園
内には公共テニスコートや、諸學校の運動場に當てら
≪p075≫
れる廣場などがある。公園の後方にはダイヤモンドヘッ
ドが鋸{のこぎり}の齒{は}のようにそびえて居り、マノア谷からカイ
ムキの岡もながめられる。前面はすぐに遠淺の海で、そ
こには公衆海水浴場の設がある。其の近くにある音樂
堂のかたはらに水族|館{かん}がある。規模{きぼ}は大きくないが、布
哇の近海でなければ見られない樣々な珍らしい魚類
が集めてあるので、世界的價値のあるものとして、旅客
は必ず見物することになつてゐる。
市外東南端の一地方はカイムキといつて、近年住宅地
として開けた處である。土地が高くて、居ながら四方の
≪p076≫
ながめがきく。大海を一目の中に收めて、布哇特有とも
いふべき夕ばえの美觀をほしいまゝにすることが出
來る。
市の東方プナホウから左へまがると、山が兩がはから
せまつて來て、谷間の村落がある。これがマノア谷であ
る。木が少くて明るい。谷の淺い處には多くの住宅が立
ちならんでゐる。谷ぞこには小さな小川があつて、其の
あたりに住むものは農|牧{ぼく}生活をいとなんでゐる。此の
谷はホノルル名物の虹{にじ}の出る處として有名である。朝
夕はもちろん、夜でも虹が出ることがある。月夜にあら
≪p077≫
はれる夜の虹の美觀は、とても他國では見られない光
景である。
市の中央道路ヌアヌ街を北へ北へと一直線に進んで、
オアフ島を貫通する山|脈{みやく}の一部を横切る處が、いはゆ
るヌアヌパリである。狹{せま}い土地ではあるが、前後兩面に
太平洋をながめる景色と、絶{ぜつ}壁の下の深谷がカメハメ
ハ大王の敵軍を破つた古戰場で、ホノルル一の名所と
なつてゐる詩歌{しか}の好材料になつてゐるヘイヤ時雨{しぐれ}、谷
間からふき上げる風のために上方に走る瀑{たき}の奇觀も
此の處の名物である。
≪p078≫
市の西端には布哇の富人サミエル、デーモン氏の一大
庭園がある。園内には熱帶植物の粹を集めてあるばか
りでなく、多大の費用を以て造り上げた日本式の庭園
や家屋もある。デーモン氏は此の庭園を公開して、何人
も自由に出入し得るようにして居るから、公園のよう
になつて居る。これもホノルル名所の一つである。
第二十二課 布哇{はわい}の一年
一月一日の祝日は日本も米國も共通である。此の日ホ
ノルルの總領事|館{かん}では遙{よう}拜式がある。二月は十一日の
紀元節がすむと、十日たつてワシントン祭である。一月・
≪p079≫
二月は日本では最も寒い時節で、山も野も雪で埋るこ
とが多いが、布哇は雨|期{き}で、秋植ゑつけた稻が此の頃實
のる。
三月から四月にかけて雨期はとくにすんでも、雨が時
時降る。降るかと思ふと晴れ、晴れたかと思ふと降る。美
しい夜の虹{にじ}がよく出る三月の末、日本の春季皇靈{しゆんきこうれい}祭の
日が、彼岸{ひがん}の中日で、本願寺別院や淨土{じようど}宗開教院などで
は、彼岸會が行はれる。年によつてちがふが、此の月から
四月の初までの間に復活祭の日がある。此の前後公立
學校は休みである。野球の試合{しあひ}始は大てい四月の一日
≪p080≫
にする。四月は日本では櫻の花のさく時節である。布哇
でもパパイヤやキャベの花がさき始める。五月の一日は
メーデー、第二の日曜日は母の日である。五日には日本
人の家に鯉{こひ}のふきながしが立つ。招魂{しようこん}祭は同じ月の三
十日。
六月十一日はカメハメハ大王の祭日で、キング街の銅
像は花|環{わ}でかざられる。米國の學校の卒業式のある月
である。ピンクシャワーの花が美しい。
七月の三十日は明治天皇祭。
八月三十一日は天長節であるが、御祝は十月三十一日
≪p081≫
の祝|賀{が}日にある。パパイヤ・パイナップル・マンゴ・オヒヤな
ど、色々な果物が盛に市場にあらはれる。
八月から十月までは砂糖會社で砂糖の製造にいそが
しい。九月・十月が砂糖|黍{きび}の植ゑつけ時である。
十月三十一日は天長節祝賀日で、在留日本人は祝|宴{えん}を
開いて、萬歳をとなへる。
十一月五日は選擧{せんきよ}日で、總選擧は四年目毎にある。此の
月の第三木曜日がアボアデーで、二十日過、日本の新嘗{にひなめ}
祭に少し後れて、感謝祭が行はれる、十一月は砂糖黍の
穗{ほ}の出そろふ頃である。
≪p082≫
十二月の中頃から砂糖製造が始つて、耕地はにぎやか
である。二十五日はクリスマス、三十一日の年こしには
汽|笛{てき}の音がやかましい。
第二十三課 四國巡り (一)
四國は讃岐{さぬき}・阿波{あは}・土佐{とさ}・伊豫{いよ}の四國をふくめる大島にし
て、東は本土に對し、西は九州へ向ひ、北は瀬戸{せと}内海の南
岸をなし、南は太平洋の海波を受く。鐵道の布設尚少き
を以て、巡遊は多く船によらざるべからず。
岡山の南方|宇野{うの}より連|絡{らく}汽船に乘りて、讃岐の高松に
向ふ。瀬戸内海の風光、身を一大畫圖の中に置くが如し。
≪p083≫
高松は四國の一大|波止場{はとば}ともいふべく、海に近く玉藻{たまも}
城あり、白壁波を壓{あつ}して立てり。市の南方なる栗林{りつりん}公園
は林泉の美を以て名あり。東方屋
島に遊びて、源平二氏決戰の跡を
とへば、岩うつ波も古を語る心地
す。高松より電車に乘りて、支度{しど}寺
にまうで、それより東方の海岸に
沿ひて阿波國に入る。津田{つだ}・鶴羽{つるは}の
あたり、白砂一帶、松林の緑こまや
かにして、淡路{あはぢ}の島山|夢{ゆめ}の如く淡
≪p084≫
し。阿波の北端と淡路島との間は有名なる鳴門海峽{なるとかいきよう}な
り。内海より南下する潮流と、南海より北下する潮流と、
こゝに相會して、海水の大動亂を來し、大|渦{うづ}を卷き、岩に
激して、いはゆる鳴門の壯觀を成す。渦の大なるものは
直|徑{けい}一町に達し、小なるものも十數間を下らず。相合ひ、
相分れて、怒潮の聲數里の外に聞ゆ。鳴門より南に進ん
で徳島に至る。四國第一の都會にして、附近に名勝多し。
徳島線の鐵道は此の地より吉野{よしの}川に沿ひて、一直線に
西走し、讃岐・伊豫の國|境{きよう}に近き池田町に至る。此の間四
十餘|哩{まいる}、山谷間の風景大いに見るべきものあり。池田よ
≪p085≫
り吉野川の上流に沿ひて南に向へば、土佐國に入る。土
佐は四國南部の大半を占むる大國なれども、未だ鐵道
を有せず。高知市は南方土佐|灣{わん}に近く、浦戸{うらと}の入江{いりえ}にの
ぞめり。徳島より舟行一日にして達すべし。
第二十四課 四國巡り (二)
徳島よりふたゝび高松
にかへり、西方白峯神社
に參拜す。地は保元の昔
崇徳{すとく}天皇の遷流せられ
給ひし處。
≪p086≫
濱千鳥あとは都にかよへども、
身は松山に音をのみぞなく。
の御製を想ふもの、誰かなみだなきを得んや。讃岐鐵道
は高松より丸亀{まるがめ}・多度津{たどつ}等を經、西南に走りて伊豫國に
至る。多度津は内海航路の要港にして、附近に有名なる
神社・佛|閣{かく}少からず。先づ善通寺を觀、それより琴平{ことひら}に行
きて金刀比羅{ことひら}宮に參る。金刀比羅宮は象頭山の中腹に
在り。衆人の崇{すう}敬極めてあつく、參拜者の多きこと伊勢{いせ}
神宮に次ぐといふ。ことに海の神として、漁夫・船頭等の
信仰盛なり。數千級の石|段{だん}を上れば、神殿・拜殿・社務所等
≪p087≫
あり。皆近時の改築にかゝり、
壯麗を極む。山上讃岐の平野
を觀望すべし。
多度津より便船に乘りて内
海に浮ぶ。大小の島々右にあ
らはれ、左にかくれて、應接に
いとまなし。燧灘{ひうちなだ}を過ぎ、伊豫
の北端をめぐりて、高濱に上
陸す。私設の鐵道あり。乘りて
松山に遊ぶ。市の中央に城山
≪p088≫
あり。高さ數百尺、山のいたゞきに白壁の天守閣を見る。
東方半里、有名なる道後温泉に至る。日本最古の温泉と
して知られ、浴客つねに群集し、旅館浴場をめぐりて多
し。一浴して旅のつかれをやすめ、こゝに四國の旅を終
へて、明日は海路廣島に向はんとす。
第二十五課 寛政{かんせい}の三奇人
武家政治が起つて以來、幾多の治亂|興廢{こうはい}があつたが、建
武中|興{こう}の時の外は、政權はつねに武家の手に在つたの
で、人民はいつしかそれになれて、將軍あるを知つて、朝
廷あるを知らぬものが多かつた。
≪p089≫
徳川|家康{いへやす}が天下を一統して、學問を奬めた結果、昔から
の歴史を學んで、日本の國體といふことが、だん〳〵と
人の注意をひくようになり、徳川|光圀{みつくに}が大日本史をこ
しらへて、尊皇の大義を知らしめてから、次第に朝廷の
尊いいはれを知るものが多くなつた。一方には國學が
起つて、日本の古い書物を讀み、漢{かん}學者が支那{しな}を尊んで
日本を輕く見る風を攻撃して、日本の美しい國體は世
界に類が無いといふ事を論ずるようになつた。西洋の
事情も分るようになつてから、此の論は益々盛になつた。
徳川|幕府{ばくふ}が學問を盛にした結果は、人々に尊皇心を起
≪p090≫
させ、また外國に對しては國民の愛國心をはげまし、忠
君愛國の思想が一般にひろがるようになつた。それと
同時に徳川幕府の運命はいよ〳〵あやふくなつたの
である。
寛政年間に蒲生君平{がまふくんぺい}といふ人があつた。日本の諸國を
巡遊して、歴代山|陵{りよう}の荒廢したのをなげいて、幕府に建
議して之をつくろはせようとした。同じ頃の人で高山
|彦九郎{ひこくろう}といふ人は、幕府の威權が盛で朝廷の衰|微{び}して
ゐるのをなげいて、京都の三|條{じようの大橋の上にひざまづ
いて、御所を拜んだことがある。また林|子平{しへい}といふ人は
≪p091≫
外國の事情を調べて、海國兵談といふ書物を書いて、日
本の兵備の大切な事を説いた。世に之を寛政の三奇人
といつたが、皆當時の思想が産み出した人物であつた。
第二十六課 りんかーん
亞米利加{アメリカ}合衆國第十六次ノ大統領あぶらはむ、りんか
ーんハけんたっきー州ノ片田舎{カタヰナカ}ニ生レタル人ナリ。父ハ
とーます、りんかーんトテ、初ハ大工ナリシガ、後少シノ
土地ヲ得テ農業ニ從事セリ。りんかーんハ父ニ從ツテ
おはいお州ニ移リ、後マタいりのいす州ニ移リシガ、お
はいお州ニアリシ頃、母ハ早ク失セヌ。學校教育ヲ受ケ
≪p092≫
シハ十七歳マデナリシガ、幼少ヨリ讀書ヲ好ミシカバ、
得ルニシタガヒテ讀ミフケレリトゾ。繼母{マヽハヽ}ハ温良ナル
婦人ニテ、りんかーん等ヲ愛スルコト實子ニ異ナラズ、
りんかーんガ人格ト徳行トハ此ノ母ノ教養ニ負フ所
多カリシナリ。
或時ハ渡守{ワタシモリ}トナリ、或時ハ義勇兵
トナリ、或時ハ測量{ソクリヨウ}師トナリ、或時
ハ商賣人トナリ、或時ハ郵便ノ役
人トナルナド、青年時代ノ變化多
カリシ生活中、りんかーんノ最モ
≪p093≫
喜ビシハ辯{べん}論ノ術ト法|律{リツ}ノ學問トニテ、暇{イトマ}ヲ得ル毎ニ
心ヲヒソメテ之ヲ學ベリ。一千八百三十四年ニハ州會
議員ニ選バレ、一千八百三十七年ニハ辯護士{ベンゴシ}トナリシ
ガ、其ノ高尚ナル人格ト熱誠アル辯論トハ、次第ニ世人
ノ認ムル所トナリ、一千八百六十年ノ大統領選擧ニ當
リテ、ツヒニ異例ノ大多數ヲ以テ之ニ當選スルニ至レ
リ。
之ヨリ先、黒人ノ奴隷{ドレイ}ヲ解放{カイホウ}スルノ可否如何ニ關シテ、
北部諸州ト南部諸州トノ間ニ爭議アリ、タガヒニ相下
ラズ、南部諸州ハ合衆國ノ同|盟{メイ}ヲハナレントスルノ勢
≪p094≫
ヲ示セリ。
りんかーんハ正義ノ觀念ヨリ、モトヨリ解放ヲ可トセ
ルモノ、今や選バレテ大統領トナリテ、此ノ難局ニ當ラ
ントス。
一千八百六十一年四月、其ノ就任式ニオケルりんかー
んノ演{エン}説ハ米國建國ノ由來ヨリ説起シテ、國家分|裂{レツ}ノ
不合理ナルヲノベシガ、南部諸州ハイヨ〳〵之ニ平カ
ナラズ、ヒソカニ兵ヲ動カシテ、ちゃーれすとんノさむさ
ー堡{フオルト}ヲオソフニ及ビ、彼ノ南北戰爭ハ開始セラルヽニ
至リヌ。此ノ戰爭ノ終局ヲ見ルマデ、前後四年ノ久シキ
≪p095≫
ニワタリ、りんかーんハツネニ其ノ正義ノ觀念ヲ以テ
終始シ、内諸政ヲトヽノヘテ、百般ノ事業ヲオコシ、外列
國ニ對シテ、少シモ國威ヲ落スコトナク、アツパレ大政
治家トシテノ技|倆{リヨウ}ヲ示セリ。彼ノ一千八百六十三年ニ
發布シタル奴隷解放令ハ、一千七百七十六年ノ獨立宣
言{ドクリツセンゲン}ト共ニ米國歴史ニオケル二大事|件{ケン}トモ稱スベシ。一
千八百六十五年フタヽビ選バレテ大統領ノ職ニ就キ
シ時ハ、南軍ノ力スデニ盡キテ、米國ノ分裂ハ全ク救ハ
レタリシナリ。
りんかーんハ政治家トシテ能ク國難ヲ處理セシノミ
≪p096≫
ナラズ、ツネニ高遠ナル道徳ヲ説キテ國民ヲミチビキ、
其ノ向フ所ヲ知ラシメタリ。わしんとんガ米國ノ父タ
リ、自由ノ建設者タリトセバ、りんかーんハ實ニ米國同
盟ノ維{イ}持者タリ、人類ノタメノ救|濟{サイ}者タリトイフベシ。
りんかーんノ功業ハ南北戰爭ノ終止ト共ニ、アマネク
全國民ニ歎賞セラレシガ、意外ニモ奴隷|非{ヒ}解放論者タ
リシ一狂漢{キヨウカン}ノタメニ暗殺セラレタリ。國民ノ哀悼{アイトウ}ハ言
語ニ絶{ゼツ}シ、世界ノ帝王・市民皆悼辭ヲ送リテ、偉{イ}人ノ死ヲ
悲シミタリ。コレ實ニ一千八百六十五年四月ノ事ナリ
キ。
≪p097≫
第二十七課 家庭
家庭は我々の休養所であり、慰安所である。たとひ貧し
い生活をしてゐても、家族がたがひに助け合つて、中よ
くくらして居れば、人の知らない和樂を味はふことが
出來る。多くの財産を貯へ、多くの召使をつかつて、豐か
なくらしをしてゐる者でも、夫婦中が惡かつたり、兄弟
の爭がたえなかつたりして、家庭が圓滿に治らなかつ
たら、とても幸福な人生は送られない。
圓滿な家庭といふのは、うまい食物が食ひたいだけ食
へることでも無ければ、美しい着物が着たい程着られ
≪p098≫
ることでも無い。一家の者が相より相助けて、各其の職
務を盡し、いつも睛れやかな心持でくらしてゐること
である。それ故家庭の圓滿を保つには、家族の間に愛と
敬がなければならない。即ち弱い者、年下の者は、強い者、
年上の者を敬つて、これにたより、強い者、年上の者は、弱
い者、年下の者を愛して、保|護{ご}することが必要である。各
自分の職分を知つて、まちがひなくそれを果すように
しなければならない。
女子は内に在つて家事にたづさはるのが、其の本來の
務であるから、家庭のためには大きな責任を持つてゐ
≪p099≫
るものと言はなければならぬ。夫が終日外へ出てはた
らいて、夕方につかれたからだを運んで歸つて來ても、
妻はむかへにも出なければ、其のつかれをいたはり慰
めようともしなかつたり、子供がそばで泣いてゐるの
もかまはないで、自分の事ばかりしてゐるといふ風で
は、家庭の平和が得られるものでない。家庭が面白くな
いと、勢氣が荒くなつたり、仕事に身が入らなくなつた
りする。さうしてそれが家族の不和を一そう大きくす
るもとにもなる。それ故女子は家庭のうまく治るのも
治らないのも、皆自分次第だと思つて、朝夕其の務を盡
≪p100≫
し、其の責任を全うするように心がけなければならぬ。
第二十八課 館府{きやんぷ}の美化
日本から布哇{はわい}に來て、すぐ目に着くのは、日本のゐなか
と布哇の耕地の間に、よほど相違のあることです。日本
のゐなかにはずいぶんきたない家もあるが、どんなき
たない家でも、きたないながらに庭があつて、色々の草
木が植ゑてあり、家の中には、つまらない品でも、かけ物
の一つ位はかけてあつて、どことなしに家らしい氣分
があります。ところが布哇の館府は近頃大分改つては
來ましたが、中にはまだ家らしい氣分のとぼしいのが
≪p101≫
多い樣です。せつかく周圍に空地があつても、草や木を
植ゑて美化するといふこともなく、家屋はたゞねる處、
雨露をしのぐ處といふ考でゐる者もあるようです。
むやみに家をかざり立てたり、りつばな庭をこしらへ
たりするのは、よい事ではありませんし、それは金が無
ければ出來ない事です。けれども日本のゐなかの家の
ように、家らしく住み心地よくするのは、何もむづかし
い事ではなく、しようと思へば、誰にでも出來ることだ
らうと思ひます。
今まで耕地の人々が此の事に注意しなかつたのは、多
≪p102≫
分自分等は日本から出かせぎに來た者で、何時歸るか
分らないといふ考に支配されてゐたからでせう。しか
し布哇で生れて、布哇で育つた諸君にとつては、耕地は
其の生れた處で、館府は其の育つた家であるから、もう
少し意を用ひて、自分達の周圍を美化するように力め
るのが至當だらうと思ひます。
試に樹を植ゑて御覽なさい。花を植ゑて御覽なさい。家
の中に額{がく}をつるしたり、花を活けたりして御覽なさい。
諸君の館府はちよつとのほねをりで、見ちがへるよう
に奇麗になり、住み心地もよくなるであらうと思ひま
≪p103≫
す。居は氣を移すと言つて、周圍が殺風景だと、勢心持も
殺風景になります。自分の居る處が假{かり}の宿だといふ氣
がしてゐる間は、とても心に落ちつきを得るわけに行
きません。また自分の住んで居る土地を愛する心が無
ければ、永久的の事業などは何一つ出來るものではあ
りません。愛郷心は自分の家を愛する心から始り、家を
愛する心は諸君の館府を住み心地よくすることによ
つて養成助長されるのです。かう考へて來ると、耕地の
館府を美化するといふことは、諸君にとつてなか〳〵
大切な意味のあることではありますまいか。
≪p104≫
第二十九課 鎌倉{かまくら}
鎌倉は七
百年の昔、
源|頼朝{よりとも}の
幕府{ばくふ}を開
きし地な
り。
白砂一路、七里が濱を傳ひて鎌倉に入
らんとすれば、稻村が崎{さき}あり。建武の昔、
新田義貞{につたよしさだ}が北條{ほうじよう}高時を攻むるに當り、
≪p105≫
太刀を海中になげ入れて、干潮をいの
りし處なり。
これより極樂寺坂を越ゆれば、程なく
長谷{はせ}觀音に至る。觀音堂より數町、露坐
の大佛あり。高さ五丈餘、慈{じ}悲圓滿の
相好、人をして敬仰の念を生ぜ
しむ。
由比{ゆひ}が濱を右に見
て、雪の下を過ぐれ
ば、鶴岡八幡{つるがをかはちまん}宮に出
≪p106≫
づ。源氏の氏神として、源|頼義{よりよし}の
建立せしものといふ。石|段{だん}の下
に一老木あり。太さ五かゝへに
も餘りぬべし。別當|公曉{くぎよう}が實朝{さねとも}
を殺さんとしてかくれ居たる
は、此の樹のかげなりしなり。靜
御前のたもとをひるがへして、「しづやしづ、しづのをだ
まきくりかへし、」と歌ひつゝ、昔をしのびて、別れし人を
したひしも此の社前なり。
歩を轉じて頼朝の墓をたづね、さらに鎌倉宮にまうで、
≪p107≫
こゝにまつれる護良{もりなが}親王の御事業をしのび奉る。英資
一世に類なかりし親王が、事志と違ひ、無念にも毒{どく}手に
たふれ給ひし御うらみの程、そも如何ばかりなりけん。
建長・圓覺の寺々、昔ながらの面目を留め、松風の音|颯{さつ}々
として、古を語るが如し。
興亡七百年の歴史は皆|夢{ゆめ}の
如し。當年の繁華{はんか}、今いづくに
かある。
夏草やつはものどもの
ゆめの跡。
≪p108≫
第三十課 關孝和
徳川時代には學問・技術が大いに興つて、各方面に著名
な人が出たが、今からおよそ二百八十年前に生れた關
孝和は、數學の大家として、世界の數學發達史にのせら
るべき人である。
孝和は子供の時から數學が好きで、高原|吉種{よしたね}といふ人
に就いて研究{けんきう}したが、深く研究を重ねた結果、今日西洋
の數學で微{び}分・積分といふ高等數學の理法を、自分の獨
力で發見した。此の發見が西洋の大理學者ニュートンの
發見とほとんど同時代であつたのは、實に珍らしい事
≪p109≫
と言はなければならぬ。孝和はまた楕圓{だえん}の面積を簡{かん}易
に計算する方法をも考へ出したが、これは西洋の數學
にも無いことで、世界の數學者の歎稱した所である。
時の人は孝和のことを算|聖{せい}といつた。孝和のような算
聖の出たことは徳川時代の譽{ほまれ}であり、日本帝國の誇{ほこり}で
ある。
第三十一課 開國始末
ぺりーノ浦賀{ウラガ}ニ入リテ、好ヲ修メ、貿易ヲ開カンコトヲ
求メシ時、徳川|幕府{バクフ}ハ如何ニ之ヲ答フベキカヲ知ラザ
リキ。ヨリテ回答ノ期{キ}ヲノバシテ、ぺりーヲ歸ラシメ、事
≪p110≫
ノ由ヲ朝廷ニ奏{ソウ}上シ、諸大名ヲシテ、之ニ對スル意見ヲ
言ハシメタリ。然ルニ衆説區々ニシテ一定セズ、幕府ノ
方針モ容易ニ決セザル中、將軍|家慶{イヘヨシ}|薨{コウ}ジ、家定職ヲ襲{ツ}ギ、
早クモ翌安政元年トナレリ。ぺりーハ約ノ如クフタヽ
ビ來リテ、返答ヲウナガセシカバ、幕府ハヤムコトヲ得
ズ、合衆國船艦ノタメニ、下田・函館{ハコダテ}ノ二港ヲ開クコトヲ
約シ、ツイテ英吉利{イギリス}・露西亞{ロシヤ}・和蘭{オランダ}ノ三國トモ、ホヾ同樣ナ
ル和親條約ヲ結ビタリ。サレド通商ノ事ハ尚之ヲ許サ
ザリキ。
越エテ一年、合衆國ノ總領事はりす來朝シ、説クニ世界
≪p111≫
ノ大勢ト、開國ノ必要トヲ以テシ、通商貿易ヲスヽメテ、
之ヲウナガスコト切ナリ。幕府始メテ開港ノ議ヲ決シ、
勅許ヲ請ヒ奉ラントス。孝明天皇深ク國家ノ前途ヲウ
レヘ給ヒ、容易ニ許シ給ハズ、サラニ諸大名ノ議ヲ經テ、
上奏スベシトノ御|沙汰{サタ}アリキ。
安政五年はりすノウナガスコトイヨ〳〵急ナルニ及
ビ、幕府ハ勅許ヲ待タズシテ、合衆國トノ通商條約ヲ結
ビ、サラニ神奈川{カナガハ}・兵庫{ヒヨウゴ}・長崎{ナガサキ}・新潟{ニヒガタ}ノ四港ヲモ開キテ、貿易
場トナスベキ事ヲモ約シ、和蘭・佛蘭西{フランス}・露西亞・英吉利ノ
四國ニモ同ジク之ヲ約セリ。幕府ノ處置ニ不平ナルモ
≪p112≫
ノ、コヽニオイテ皆大老|井伊直弼{ヰイナホスケ}ノ罪{ツミ}ヲ責メ、翌年三月
直弼ハ江戸{エド}櫻田門外ニ要撃セラレテ死セリ。
幕府ノ威望ハ全ク衰ヘテ、尊皇論ノ優勢ヲ支ヘ得ベク
モアラズ。幕府滅ビテ王政古ニ復ルニ及ビ、明治天皇ハ
時勢ニ察{サツ}シテ、開國ノ方針ヲ定メ給ヒ、西洋ノ文明ヲ容
レテ、政治ヲ一新シ給ヒシカバ、國運日ニ進ミテ、ツヒニ
今日ノ大日本帝國ヲ成セリ。
第三十二課 廣島と山口
四國の高濱から宇品{うじな}通ひの汽船に乘つて、廣島へ向つ
た。隱戸{おんど}の瀬戸{せと}を過ぎると、右手の方に黒煙が立上つて、
≪p113≫
海陸を包んでゐるすさまじい光景が見える。呉{くれ}軍港で
ある。海軍兵學校のある江田島{えたじま}を左に見て、湖{こ}水の樣な
靜かな海を尚も北へ進むと、間もなく船は宇品の港に
着いた。宇品と廣島の間には電車も通つてゐる。明治二
十七八年・三十七八年の兩役には兵站基點{へいたんきてん}として、兵士
も軍用品も皆此處から出て行つたのである。
廣島は太田川の三角|洲{しう}の上に出來た町で、感じが大阪{おほさか}
ににてゐる。市中に水と橋の多い點もさうであるし、町
の有樣や、店の具合なども大阪風である。たゞ大阪の樣
に平野の背景が無くて、海に面した南の外は三方皆山
≪p114≫
である。山には松が多い。山と山
の間をぬつて北の方から流れ
て來る太田川は、市内に入つて
七つに分れてゐる。橋の上に立
つて見ると、魚のおよいでゐる
のがはつきり分る位、水が奇麗
だ。川にはあちらこちらにボー
トなどが浮んでゐる。海岸に出
ると、嚴島{いつくしま}が手に取る樣に見え
る。
≪p115≫
廣島から山口へ行く間には、錦帶{きんたい}橋で名高い岩國や、製
塩業の盛な三田尻{みたじり}などがある。
山口は海岸から北にそれて、山間の平地に出來た都會
である。廣島が大阪ににてゐる樣
に、此の地は京都ににてゐる。四方
に山のめぐつてゐる有樣や、市區
のきちんとしてゐる點など、あた
かも小京都の觀がある。昔大内氏
の城のあつた處は亀山{かめやま}公園とい
ふ公園になつてゐて、そこに上る
≪p116≫
と、町を一目に見渡すことが出來る。こい緑色の生氣に
富んだ山々の景色もすて難いながめである。
山口|縣{けん}下からは米が多く出る。防長{ぼうちよう}米といはれてゐる
のがそれである。
第三十三課 日本の女子
上毛野形名{かみつけぬのかたな}、蝦夷{えぞ}を討ちて利あらず、兵皆四散せしかば、
夜に乘じて城をすててのがれんどす。形名の妻、夫をは
げまして、「良人獨り身を全うして、祖先以來の勇名をは
づかしめ給ふか。」と、自ら劒を帶び、侍女數人と弓を取り
て盛に弦{つる}を鳴らせり。敵之を聞きて、城中兵尚多からん
≪p117≫
と思ひ、其の夜圍みを解きて去れり。
新田義貞{につたよしさだ}、尊良{たかなが}親王を奉じて越前{えちぜん}國|金崎{かながさき}の城に在りし
時、瓜生保{うりふたもつ}其の弟|義鑑{ぎかん}等と共に杣山{そまやま}に旗{はた}あげして、義貞
に應ず。足利{あしかゞ}氏の大兵來り攻め、城つひに落ち、保・義鑑共
に戰死す。保の母は一時に二子を失ひて悲歎にしづむ
ならんと思ひの外、「二子の君のために戰死せるは家門
の譽{ほまれ}なり。尚三子あれば、さらに再擧を圖るべし。」とて、少
しも悲しむ色を見せざりき。
此等の人々は皆非常の大事にあひて、心を取亂さず、能
く其の處すべき道に處したる我が國婦人の實例にし
≪p118≫
て、其の志操のかたきは男子にも勝れり。
孝女|房{ふさ}が幼き身を以て能く父母に事へたる、稻生恆軒{いなふこうけん}
の妻の常に祖先の祭に心を盡したる、松下|禪尼{ぜんに}の儉約
をまもりたる、鈴木今右衞門{すゞきいまえもん}の妻の慈{じ}善を行ひたる、皆
後世女子の手本とすべき徳行なり。かの山内一豐{やまうちかつとよ}の妻
が貧苦に居て、夫の一大事をわすれざりしは、戰|陣{じん}の間
に良人の名|譽{よ}を全うせる形名の妻と其の徳を同じう
すとやいはん。楠木正行{くすのきまさつら}の母が正行をいましめ、高千穗{たかちほ}
艦乘りくみ水兵の母が其の子を叱{しか}りしが如きは、保の
母と同じく、忠義のためには恩愛をわするゝ眞心{まごゝろ}より
≪p119≫
出でたり。
およそ婦人の道は夫を助けて家政を治め、子に教へて
家名をあげしむるに在り。此の心は何處如何なる場合
にもわするべからず。人世には思はぬ不幸、おどろくべ
き事變の何時起り來らずともかぎらず。平時において
常に之に處するの道を心得置かずば、時にのぞみて心
亂れ、氣まどひて、見苦しき行をなすことあるべし。外温
和愛敬の徳をまもりて、内確然たる志操を持し、如何な
る事變にあひても、自若として其の常を失はざるは日
本女子の美徳なり。
≪p120≫
第三十四課 少年|鼓手{こしゆ}
フランス軍がアルブス山を越えて、イタリヤへ攻入つ
た時は冬の半で、山も谷も雪に埋められて、風は身を切
るように寒かつた。
隊中にピエールといふ年の頃十三四ばかりの少年鼓
手があつた。眞先{まつさき}に立つて、太鼓をうちながら、かひ〴〵
しく進んで行く。ふと山の頂の方にすさまじい物音が
聞え始めたと思ふと、山のような雪なだれがなだれて
來た。むざんや、かの勇ましい少年鼓手はたちまち谷ぞ
こへはき落された。
≪p121≫
「ピエールよ、少年鼓手よ。」と聲をそろへて呼んだが、何の
答もない。靜かな山の中に流れる水の音が遠く聞える
ばかり。しばらくするど、谷ぞこの方で太鼓の音がかす
かに聞える。耳をそばだてて聞けば、進軍の調である。ピ
エールがうついつもの太鼓に違ひない。さては生きて
ゐるのか。あの勇ましい少年を殺してはならぬ。どうか
して助ける工夫はあるまいかと、兵士等は皆氣をもん
でゐる。
深さは幾百丈とも知れない谷ぞこ、谷へ下りる細道も
雪や氷にとざされて、全く知れない。太鼓の音はだんだ
≪p122≫
んに低くかすかになる。おくれゝばこゞえて死ぬであ
らう。兵士等は氣をあせるのみで、何の工夫もつかぬ。
此の時「自分が行かう。」とさけんだ人を誰かと見れば、將
軍マクドナールである。マクドナールは此の隊の隊長
で、突貫{とつかん}將軍といふあだ名をもつた勇將である。兵士等
はおどろいた。將軍は上着をぬぎすてて、はや谷へ下り
ようとする。兵士等はあわてて、「將軍の命は我々千萬人
の命よりも貴い。ピエールは我々に御任せ下さい。」と言
つて引止める。將軍はどうしてもきかぬ。
「兵士は皆我が子も同樣である。我が子の死ぬのを見て、
≪p123≫
父が命ををしむ理由はない。大砲のつなをくゝりつけ
て、早く自分を谷へ下せ。早くせぬと、ピエールが死んで
しまふ。」と、叱{しか}るようにいふので、兵士は止むを得ず、其の
命令に從つた。
將軍が谷へ下りた時には、もう太鼓の音は聞えぬ。聲を
かぎりに「ピエー
ルよ、ピエールよ。」
と呼びながら、方
方をたづねて、や
うやうさがし當
≪p124≫
てた時は、少年の息はたえ〴〵である。手早く帶を解い
て、ピエールの體にくゝりつけて合圖をすると、兵士等
は力を合せて二人を引上げた。
將軍の愛情と勇氣によつて、軍中の花が助かつたので、
全軍一同に喜の聲をあげた、アルプスの山もふるふば
かりに。
第三十五課 スエズ運河とパナマ運河
スエズ運河とパナマ運河は世界の二大運河である。
スエズ運河は紅海と地中海の間をへだててゐる地峽{ちきよう}
を掘りわつたもので、南はスエズ灣{わん}から北はポートサ
≪p125≫
イド港まで、四つの天然|湖{こ}を連ねて、長さ約九十|哩{まいる}、幅{はゞ}が
百尺、深さが三十三尺ある。此の運河の開通しなかつた
前は、東西の交通がはなはだ不便
で、歐羅巴{よーろつぱ}から印度地方に行く船
は、皆|亞弗利加{あふりか}の南端を遠まはり
しなければならなかつた。此の運
河が出來て、紅海と地中海の水路
が通ずるようになつてからは、大
西洋・印度洋間の航程が大きにち
ぢめられて、歐羅巴と亞細亞{あじや}の交
≪p126≫
通が非常に便利になつた。此の運河の完成したのは一
千八百六十九年で、主としてフェルヂナン、ド、レセッ。プスと
いふ佛蘭西{ふらんす}人の力によつて成しとげられたのである。」
パナマ運河は北|亞米利加{あめりか}と南亞米利加の中間にある
パナマ地峽を掘りわつたものである。地圖を開いて見
れば分る通り、此の地峽は大西洋と太平洋の間に細長
い堤{てい}防を築いたように横たはつて、兩者の水の相通ず
るのをさまたげてゐた。之が無かつたら、東西の交通が
どんなに便利になるだらうかといふことは、誰の頭に
も浮んで來る考である。果然、一千八百七十八年に此の
≪p127≫
地峽を掘りわる計畫が佛蘭西|組合{くみあひ}の手によつてくは
だてられた。さて多くの經費をかけたが、一向はかどら
ず、一千九百四年に至つて、不完成
のまゝ合衆國に賣渡されること
になつた。それから合衆國政府は
其の工事を急いで、つひに十年の
後、其の完成を見るに至つたので
ある。此の運河はパナマ地峽中最
も土地の低い處を選んで造つた
もので、南パナマ市と北コロン市
≪p128≫
が其の兩端の口をしめて居る。長さ約五十哩、幅は底{そこ}の
處で二百尺、深さは四十五尺あつて、どんな巨大な船艦
でも自由に通過することが出來る。此の運河の出來た
ために、歐羅巴諸國ならびに亞米利加東海岸と、亞細亞
諸國ならびに亞米利加西海岸との交通が非常に便利
になつたのはもちろん、合衆國の國防上に加へられた
利益も極めて大きなものである。
第三十六課 時間
人生七十年ト見レバ、時間ニシテ六十萬時間ナリ。其ノ
内|寢{シン}食・談話・遊|戲{ギ}・病氣等ノタメニ費ス時間ハ三分ノ二
≪p129≫
ヲ占メ、修學及ビ業務ニ用フル時間ハ二十萬時間ヲ越
エザルベシ。身ヲ立テ、父母ヲアラハスモ、産ヲ破リ、祖先
ヲハヅカシムルモ、功業ヲ成シ、公益ヲ廣ムルモ、マタハ
何事ヲモ成シ得ズシテ一生ヲ終フルモ、タヾ此ノ二十
萬時間ヲ利用スルトセザルトニアリ。
百歳ノ長命ヲ保チテ、一生ヲ坐食ニ費ス者アリ。二三十
歳ノ短命ニシテ美名ヲ萬世ニ留ムル者アリ。人生ノ長
短ハ事業ノ大小ヲ以テハカルベク、年|齢{レイ}ノ多少ヲ以テ
ハカルベカラズ。之ヲ思ヘバ、寸時モ徒ニ過スベカラズ。」
我等ノ周圍ニハ讀ムベキ書多ク、學ブベキ物多ク、成ス
≪p130≫
ベキ事カギリナシ。時間ノ貴キヲ知レル者ハ無事ニ苦
シムコトナシ。然レドモ人ノ勢力ニハカギリアリ。活動
スルノミニテ休養スルコトナケレバ、心身イツカ勞レ
テ、ツヒニハ活動ニタヘザルニ至ル。「ヨク勉メ、マタヨク
遊ブ。」ハヨク時間ヲ利用スル所以ナリ。
業務ニ從事スル間ハ熱心ニ之ヲ行ヒテ、他事ニ心ヲ勞
スベカラズ。事スデニ過ギテ、思フモ益ナキ事ニ心ヲ勞
スルハ、時間ヲ徒費スルコトハナハダシ。ナシタル事ニ
過ナク、後悔スルコトナキ者ハ幸福ニシテ賢キ人ナリ。
若シ過アラバ、深ク之ヲ悔イテ、其ノ過ヲ再ビセザラン
≪p131≫
コトヲチカフベシ。思ヒテモ返ラヌコトヲクヨ〳〵ト
心配スルハ、愚{オロカ}ナル人ノスル事ナリ。
人ヲ訪{ホウ}問スル時ハ業務ヲサマタゲザル時間ヲ選ビ、用
事終レバ直チニ去ルベク、人ヨリ訪問ヲ受クル時ハ直
チニ出デテ應接スベシ。決シテ人ト約束セル時日ヲ違
フベカラズ。コトニ集會ノ時間ハ正シクマモルベシ。一
人ノ後ルヽタメニ多人數ヲシテ貴重ノ時間ヲ空費セ
シムレバナリ。例ヘバ六十人ノ集會ニ其ノ中ノ一人若
シ十分ヲ後ルトセバ、六十人ノ時間ノ損失ハ合シテ十
時間トナルベシ。「時ハ金ナリ。」トイフ古言アレドモ、今日
≪p132≫
ノ如ク通信・交通ノ機關發達シ、社會ノ活動敏活ナル時
代ニアリテハ、時間ハ金錢ヨリモ貴シ。他人ヲシテ時間
ヲ損失セシムルハ其ノ罪{ツミ}金錢ヲ損失セシムルヨリモ
重シ。
第三十七課 招待状
其の一
拜啓、老父事本年滿六十歳に相達し候に
つき、來る七月二日の誕{たん}生日を以て、親族
一同うち集ひ、心ばかりの祝|宴{えん}相開き、御
心安き方々御招待致し度と存じ候間、同
≪p133≫
日午後五時御入來下され候はば、光榮の
至に存じ候。先は御案内まで此の如くに
御座候。
其の二
拜啓、來る十五日は亡母七回|忌{き}に相當り
候につき、午後三時西念寺において法會
相いとなみ度候間、御多用中恐れ入り候
へども、御參列成し下され候はば、有り難
く存じ奉り候。敬白。
其の三
≪p134≫
拜啓、益御健勝賀し奉り候。來る六月三十
日(土曜日)午後二時より公會堂新築落成
式擧行致し候間、御光臨の榮をたまはり
度、此段御案内申し上候。敬具。
追て用意の都合もこれ有り候間、御來
會下され候はば、御手數ながら來る二
十八日までに日本人會内櫻井賢太郎
へ御一報下され度候。
其の四
拜啓、いよ〳〵御清福賀し奉り候。さて今
≪p135≫
回春山徳郎氏渡米の途次、當地へ上陸せ
られ候につき、御引合せかた〴〵晩餐{ばんさん}差
上げ度候間、御多用中恐れ入り候へども、
來る十七日午後七時望月|倶樂部{くらぶ}へ御光
來の榮を得度、此段御案内申し上候。敬具。
其の五
拜啓、益御清榮の段賀し奉り候。さて來る
七月十八日(月曜日)午前十時本校|講{こう}堂に
おいて、第五回卒業證書ならびに修業證
書授與式擧行仕り度候間、御來臨下され
≪p136≫
度、御案内申し上候。敬白。
第三十八課 燈臺守
水と空 たゞ一つなる
大海の はなれ小島に、
波の音 風を友なる
我こそは 燈臺守よ。
白き鳥 朝のねざめに
鳴きかはし おとなひ來れど、
魚の群 夕の波に
光りつゝ 飛ぶを見れど、
≪p137≫
たづね來る 人も無ければ、
さびしさは かぎりもなしや。
海の日の しづむを見れば、
身ひとりの うらみ長し。
八重の潮 誰か越え來て、
此のうれへ 慰むべしや。
人の聲 夢{ゆめ}のまくらに
うつゝにも 聞え來るよ。
第三十九課 關門|海峽{かいきよう}
本土の西端と九州の一角と相近づきて、瀬戸{せと}内海の西
≪p138≫
口を成す處、これ即ち下關海峽、一名關門海峽なり。北岸
に下關港あり。對岸の門司{もじ}港と相へだたることわづか
に數町、天與の形勢によりて、交通上・軍事上の重要地點
を占む。市街は後に山を負ひて、前は
直ちに海なり。東方に古戰場たる壇
浦{だんのうら}あり。此の浦に異樣の蟹{かに}あり、甲の
皺{しわ}人面に似て、怒れるが如し。平家蟹
といふ。また魚あり、形|鯛{たひ}に似て、白き
斑{まだら}あり。小{こ}平家といふ。平家の亡|靈{れい}、男
は化して蟹となり、女は變じて魚と
≪p139≫
なれりと言傳ふ。げに日本の戰史中、最も花々しくして
あはれ深きは、源平の戰に過ぐるはなし。幼年の天子空
しく海中の藻屑{もくず}とならせ給ひしより、星{ほし}移り、物變りて、
こゝに七百年、ひとり山光水色のみ昔のまゝなり。赤間
宮は安徳天皇をまつれる神社にして、境内{けいだい}に平家一門
の墓あり。山に上れば、眼界廣く開けて、近く九州の山々
をながめ、遠く四國の連峯を望む。眼下には瀬戸内海の
靜波はこゝに盡きて、外洋の大波、岩に當つてさわぐ。
下關より連|絡{らく}船に乘り、十五分にして門司に達す。門司
は九州の門戸ともいふべき地。昔は一漁村に過ぎざり
≪p140≫
しが、三十年の短日月の間におどろくべき發達を遂げ、
今は貿易港として、はるかに下關をしのぐに至れり。
門司の西方三里、小倉市あり。關門海峽西口の南端に位
し、明治以前には九州諸大名が東上
の船場として繁{はん}榮せしが、門司港の
開けてより、其の繁華をうばはれ、今
はたゞ小倉織の産地、師團の所在地
として知らる。九州の東海岸に沿へ
る鐵道は、此の地より分れて南方に
走れり。
≪p141≫
第四十課 明治の大御世
明治年間に日本が長足の進歩をなせしは、世界歴史に
も空前の事として、歐{おう}米人の歎賞する所なり。
明治天皇即位の初、正殿に御し、神明にちかひ、群臣を召
して、新政の方針を宣し給へり。其の文にいはく、
一 廣ク會議ヲ興シ萬機公論ニ決スヘシ
一 上下心ヲ一ニシテ盛ニ經綸{ケイリン}ヲ行フヘシ
一 官武一途|庶{シヨ}民ニ至ル迄{マテ}各其志ヲ遂ケ人心ヲシ
テ倦{ウ}マサラシメンコトヲ要ス
一 舊來ノ陋習{ロウシウ}ヲ破リ天地ノ公道ニ基{モトツ}クヘシ
≪p142≫
一 智{チ}識ヲ世界ニ求メ大ニ皇|基{キ}ヲ振{シン}起スヘシ
と。之を五箇條の御|誓文{せいもん}といふ。大政の基{もとゐ}こゝに定まれ
り。ついで江戸{えど}を東京と稱し、天皇こゝに幸して、萬機を
みそなはせり。
天皇勵精、内外諸般の政事を一新し給ひ、明治五年には
學制を布きて、全國に不學の民なからしめよと仰せ給
ひ、明治六年には徴{ちよう}兵令の發布ありて、全國皆兵の制度
を定め給ふ。かくて教育・軍事はもとより、商業・工業・農業
も皆其の面目を一新して、國運の盛なる、朝日の豐さか
上るが如き勢あり。明治十四年には九年の後、國會を開
≪p143≫
設すべき事を約し給ひ、二十二年|憲法{けんぽう}を發布せさせ、翌
二十三年始めて第一帝國議會の開會を見たり。忠君愛
國の大義を明かにせる教育勅語を下し給ひしも此の
年なり。
明治二十七八年には支
那{しな}との戰役ありて、連戰
連捷、臺灣{たいわん}と澎湖{ほうこ}島とは
日本の版{はん}圖に入り、明治
三十七八年には露西亞{ろしや}
との戰役の後、樺太{からふと}の南
≪p144≫
部は同じく日本の領有に歸せしが、此の戰役の結果、朝
鮮{ちようせん}は日本國に併{へい}合せらるゝに至れり。
徳川|幕府{ばくふ}の末、諸外國と結びし條約は日本に不利なる
もの多かりしが、明治の御世、條約改正も行はれて、今や
日本は全く歐米諸國と對等の地位に在り。世界最強國
の一として、東洋の主權者たる觀あり。これ皆皇室の御
稜威{みいつ}と國民|努{ど}力の致す所なり。
明治四十五年明治天皇のにはかに崩御ありしは、世界
各國民ひとしくをしみ奉る所なりき。今の天皇陛下、至
仁至|聖{せい}、先帝の遺{い}志をつぎて、益内外の政事に勵み給ふ。
≪p145≫
日本帝國の將來の發達はさらに一そう著しきものあ
るべし。
第四十一課 公事ト私事
私事ハ輕ク、公事ハ重シ。古語ニ「私事ヲ以テ公事ヲステ
ズ。」トイヘリ。昔|藤堂高虎{トウドウタカトラ}ノ加藤嘉明{カトウヨシアキラ}ト不和ナリシ頃、會
津{アヒヅ}ノ城主|蒲生忠郷{ガマフタヾサト}死セリ。會津ハ東北重要ノ地ニシテ、
一日モ守ナカルベカラズ。將軍|家光{イヘミツ}、高虎ノ武名ヲ重ン
ジテ、之ニ封ゼントス。高虎「年老イテ其ノ任ニアラズ。」ト
テ之ヲ否ム。家光「サラバ誰カ然ルベキ。」トイフ。「嘉明ニ如
ク者ハアラジ。」ト答フ。家光アヤシミテ、「汝多年嘉明ト相
≪p146≫
善カラズト聞ク。今之ヲスヽムルハ如何ニ。」ト。高虎答ヘ
テ、「某{ソレガシ}ノ嘉明ト相惡ムハ私ノ小事ナリ。コレハ公ノ大事
ナリ。何ゾ私事ヲ以テ公事ヲ害センヤ。」トイフ。家光大イ
ニ感ジテ其ノ言ニ從ヒ、嘉明ヲ擧ゲテ會津ニ封ゼリ。嘉
明後此ノ事ヲ聞キテ大イニハヂ、高虎ト水魚ノ交ヲナ
スニ至レリトゾ。
明治三十七八年ノ戰役ニ、乃木{ノギ}將軍ハ第三軍ヲヒキヰ
テ旅順口{リヨジユンコウ}ヲ攻圍シ、遂ニ之ヲオトシイレシガ、其ノ二子
從ヒテ軍ニ在リ。兄|保典{ヤススケ}ハ金州城外ニ戰死シ、弟|勝典{カツスケ}ハ
二百三高地ニオイテ命ヲ落セリ。然レドモ將軍ハ其ノ
≪p147≫
死ヲ知ラザルモノノ如シ。人ノ來リテ追悼{ツイトウ}ノ辭ヲノブ
ル者アレバ、答ヘテイハク、「攻圍數月、陛下ノ赤子ヲ失フ
コト無數ナリ。何ヲ以テ陛下及ビ天下ニ謝セン。」トテ、一
言モ其ノ二子ノ死ニ及バズ。聽ク者將軍ノ心事ヲ想ヒ
テ、其ノ志ニ感ゼザルハナカリキ。
第四十二課 福岡と熊本
汽車|門司{もじ}を發し、海岸に沿ひて西に走れば、車窓の右に
筑{ちく}豐諸地より産する石炭の山積するを見る。汽車運び
來り、汽船運び去りて盡きず。人をして九州の富を想は
しむ。砂白く松青き企救{きく}の濱を過ぎ、小倉の市街を後に
≪p148≫
して行けば、線路の右に當りて一大工場あり、無數の煙
突{えんとつ}林立して、黒煙天をおほへるを見る。これ有名なる八
幡{やはた}の製鐵所にして、廣さ六十五萬|坪{つぼ}、製品及び材料を運
ぶために設けたる鐵道長さ六十|哩{まいる}を出で、一年の製鐵
高二十萬|噸{とん}を越ゆといふ。香椎{かしひ}・箱崎{はこざき}を過ぐれば、千代の
松原あり、眼に入るもの、こと〴〵く赤松にして、千|態{たい}萬
樣の風致喜ぶべく、後龜山{ごかめやま}天皇と高僧|日蓮{にちれん}との銅像ま
た車窓のながめに入る。松原の盡くる處やがて博多{はかた}の
停車{ていしや}場なり。
博多はもと那珂{なか}川をへだてて福岡と相對せしが、今は
≪p149≫
合して福岡市と呼ばるゝに至れり。
古は那大津{なのおほつ}と稱して、支那{しな}貿易の市
場たり。地|太宰府{だざいふ}に近く、要|衝{しよう}に當れ
るを以て、此處に守|護{ご}職を置きて、外
敵に備へたりき。徳川將軍の世にも、
九州の首|腦{のう}たる觀あり。今や十萬の
人口を有し九、州第二の都會なり。
福岡より南走して熊本にいたる。途中|大牟田{おほむだ}の附近に
三池炭田あり。日本第一の炭田にして、面積約四千萬坪、
一年の産額百六十萬噸に及ぶ。
≪p150≫
熊本は肥後平野の間に在り。西北に金峯火山の諸峯そ
びえ立てり。加藤|清正{きよまさ}此處に封ぜられて、城を茶臼{ちやうす}山に
築きしより繁{はん}榮し、漸次盛大なる都會となれり。人口七
萬を有し、米|穀{こく}の集散はなはだ盛なり。有名なる熊本城
は市の中央に在り、岡により、川を
帶び、久しく天下の名城と稱せら
れしが、明治十年西南の役の時、兵
火に焼かれて、全く舊觀を失ふに
至れり。守將谷|干城{たてき}、かたく守るこ
と五十餘日、遂に能く賊軍を防ぎ
≪p151≫
止むることを得たりき。市外の出水{いづみ}村に成趣{せいしゆ}園あり、林
泉の美、岡山の後樂園に匹敵せり。
第四十三課 日本の農業
日本は氣候温に、地味肥え、極めて耕種に適し、米・麥{むぎ}の栽
培{さいばい}は最も早く開けたり。古來|瑞穗{みづほ}の國の名ある所以な
り。
現今日本の耕作地は朝鮮{ちようせん}・臺灣{たいわん}及び樺太{からふと}をのぞきて、五
百七十萬町歩を越ゆ。作物は米・麥{むぎ}其の大部分を占めて、
米の作付{さくづけ}段別はおよそ三百萬町歩、其の收|穫{かく}は年々お
よそ五千五百萬石にして、麥の作付段別はおよそ百八
≪p152≫
十萬町歩、其の收穫は年々およそ二千三百萬石なり。日
本の米は品|質{しつ}優良にして、其の味最も美なり。
養|蠶{さん}もまた早くより開けて、今尚益々盛なり。繭{まゆ}の取入高
は年々増加して近年四百萬石を越え、生絲は輸出品の
首位を占めて、其の價額一億五千萬圓以上に出づ。茶も
盛に栽培せられ、輸出價額は一千五百萬圓に上る。
日本の農業中最も開けざるは牧畜{ぼくちく}の業なり。これ日本
の氣候・風土の牧畜に適せざるにあらず、四面皆海にし
て、魚類の供給ゆたかに、鳥獸の肉を食すること少く、衣
服の原料も綿{わた}・麻{あさ}・生絲に仰ぎて、家畜の毛に求むること
≪p153≫
少かりしによる。
日本の農業は、決して現状を以て滿足すべきにあらず。
耕地の面積廣大なるが如くなれども、總面積の約一割
五分に過ぎず。西洋諸國の耕地が其の總面積の二割よ
六割に及べるにくらぶれば、尚大いに荒地を開き、美田
を増すの必要あり。
世には農業を以ていやしき職業の如く思ふものなき
にあらず。これ大なる誤解なり。農業は我等が生活に必
要なる材料を作り出す所以にして、國家一日もこれな
かるべからず。農業に從事するものは多く野外にあり
≪p154≫
て、清潔{けつ}なる空氣を呼吸し、筋{きん}肉を勞するが故に、身體常
に健全なり。「農は人の職業中最も健全、最も高貴にして、
また最も有益なるものなり。」といへるワシントンの名
言味はふべきにあらずや。
第四十四課 臺灣だより
一別以來御變りもこれ無く候や。當地に
てはすでに二番稻の刈入{かりいれ}も終り候へど
も、まだ單衣{ひとへ}の時節に御座候。御地も御同
樣の事と存じ候。當地の進歩は聞きしに
もまさりて、目ざましきばかりに御座候。
≪p155≫
當臺北の如きは近年市區も改り、總督府
を始め、學校・病院・博{はく}物館等の壯大なる建
物は、日本の内地にてもまれなる程に御
≪p156≫
座候。教育の發達も著しく、理蕃{りばん}事業も一
段落を告げ候由。臺灣神社に參拜して、そ
ぞろに當年を想ひ起し候。
本島産物の重なるものは、御承知の米・砂
糖・茶・樟腦{しようのう}・金・木材等にて、樟腦は世界産出
高の八割以上を占むる由に御座候最も
發達せるは製糖業にて、南部地方にては
製糖會社の大煙突{えんとつ}處々に高くそびえ居
り候。茶は主として北部に産し候。其の中
重なるものは烏龍{うーろん}茶と包種{ほうしゆ}茶とにて、烏
≪p157≫
龍茶は歐{おう}米に、包種茶は南洋に、盛に輸出
致し居り候。米田は全耕地の二分の一を
占め居り候。耕作に水牛を使用する樣珍
らしく候。
中部の山林には樟{くす}・檜{ひのき}・松・杉{すぎ}・樫{かし}・椎{しひ}等おびた
だしく、阿里{あり}山の森林には世界無二の檜
材を産し、一本にて千五十尺乄の材積を
得るものもこれ有り候由に候。榕樹{ようじゆ}もい
たる處に見受け申し候。竹にも周圍三尺
以上のものこれ有り候。竹をくみ合せて
≪p158≫
船を造り、また幼竹を原料として紙を製
造致し居り候。
臺南は南部の大都會にて、附近に名所・古
跡多く、北白川宮|薨去{こうきよ}の處も、御病|床{しよう}其の
他當時のまゝにて保存相成り居り候。
全島の人口は三百五十萬と申し候。其の
中日本内地人は十四萬、蕃人は十三萬程
と申す事に候。總督府にて出版相成り候
臺灣植物繪葉書御目にかけ候。草々。
十月二十日 徳太郎
≪p159≫
壯吉樣
第四十五課 辻音樂
頭には雪をいたゞき、身にはつゞれをまとひ、やせ衰へ
た體を義足に支へて、路ばたにバイオリンをひいてゐ
る老人の辻音樂師がある。處は墺地利{おーすとりや}の首府|維也納{ういえな}の
大公園、今日はにぎやかな祭日である。
忠實な犬は古|帽子{ぼうし}をくはへて、あはれな主人のかたは
らに待つてゐる。見る物の多い今日の祭日に、時代後れ
の下手な音樂を聽く者は一人もない。日はすでに西へ
かたむいて、祭見物の人々は段々歸り始める。帽子の中
≪p160≫
にはまだ一文の錢もない。老人は夕日を望み、帽子の内
をながめては、幾度かため息をついて居る。
木の下に立つて、つく〴〵と此の樣子を見てゐた一人
の紳士があつた。づか〳〵と走りよつて、ちよつと貸し
給へ。」と言ひながら、其のバイオリンを取つてひき始め
た。弓が一度絲にふれると、天上の音樂の樣な美しい音
がわき出した。老人は、どうしてあのバイオリンから、あ
んな音が出るのかと、不思議さうに紳士の手つきをま
もつてゐた。
聽衆は四方から集つて來て、見るうちに人の山を築い
≪p161≫
た。重くしづんだ調に、暗い〳〵海のそこへ引きこまれ
るような氣がするかと思ふと、輕く浮立つた調子に、野
越え、山越え、ふわり〳〵と春がすみのあなたへ連れて
行かれるような心持になる。人々は皆音樂に心をうば
はれてゐる。
やゝあつて紳士はしばらく手を止めると、聽衆は錢を
つかんで、爭つて老人のさゝげた帽子の中へ投入れる。
銅貨といはず、金銀貨といはず、雨の降るように手當り
次第に投げこむ。またゝく中に帽子に一ぱいになつた。
老人は之を袋{ふくろ}に移して、再び帽子を差出す。見る間にま
≪p162≫
たあふれるばかり。
紳士はさらに墺地利の國歌をひき始めた。幾千の聽衆
は帽子をぬいで相和して歌つた。歌が終ると、紳士はバ
イオリンを老人に渡して、目禮して何處へか行つた。日
ははやくれて、燈火の光が點々として、こゝかしこにか
がやいてゐるとは、今の今まで誰一人も氣附かなかつ
た。
かの情深い紳士は誰であつたか、老人も知らぬ、聽衆も
知らぬ。一同はたゞ神の仕業とのみ思つた。佛蘭西{ふらんす}のバ
イオリンの名手アレキサンドル、ブーシェーであつたと
≪p163≫
は後になつて分つた。
第四十六課 鹿兒島{かごしま}と長崎{ながさき}
熊本を後にして車窓より左方を望めば、群峯天をさせ
るが中に、一山の盛に煙を噴{ふ}くものあるを見る。これ阿
蘇{あそ}火山なり。進んで八代驛{やつしろえき}を過ぐれば、鐵路|球磨{くま}川の谷
に沿ひて走り、勝景目を新にするの感あり。やがて汽車
急|傾斜{けいしや}の山|嶽{がく}を螺旋{らせん}状にめぐりて上る。矢嶽{やたけ}のトンネ
ルを出づれば、霧島{きりしま}の諸峯波の如く連り、眞幸平{まさきだひら}の平野
遠く開けて、景致雄大なり。汽車はこれより急|勾配{こうばい}の線
路を下りて、國分{こくぶ}より西にをれて鹿兒島に至る。
≪p164≫
鹿兒島は鹿兒島灣頭に在りて、後に城山を負ひ、前に櫻
島をひかへ、天然の風景に富めり。市街は西南の役の兵
火のために一時破|壊{かい}せられしが、漸次回復して、再び舊
時の盛を見るに至れり。城山に上りて望めば、鹿兒島灣
内波靜かにして一大|湖{こ}水の如く、輕く浮べる白帆のさ
ま、鏡中の物を見るに
似たり。櫻島の山頂常
に白煙のたなびける
も面白し。
鹿兒島より便船に乘
≪p165≫
りて、薩摩{さつま}の先端をめぐり、一直線に北上して長崎に至
る。長崎は昔|西班牙{いすぱにや}・葡萄牙{ぼるとがる}の商船、始めて來りて貿易を
開きしより、久しく外國交通の
門戸たり、西洋の文物皆此の地
を經て日本に入れり。されば外
人の筆多く此の地の事を記し、
日本を知りて長崎の名を知ら
ぬものなし。今は人口約十六萬、
九州第一の都會たり。されど外
國貿易は近時|門司{もじ}の發達につ
≪p166≫
れて、やゝ衰運に向へりといふ。
長崎の風光は鹿兒島に似て、さらに優麗なるものあり。
山は海をいだいて其の三面をめぐり、灣内かつて風波
の荒るゝことなし。大小の島々此の間に點在して、三十
六灣、二十四橋の勝景、行くにしたがひて觀を改む。「庭園
の如き港。」といふ名の空しからざるを知るべし。
第四十七課 紡績{ボウセキ}
日本ノ機械工業中、最モ盛ナルハ紡績業ニシテ、コトニ
綿花{メンカ}紡績其ノ大部ヲ占ム、年々二億圓ノ綿花ヲ輸入シ
テ、綿絲マタハ綿布トシ、内國ノ所用ヲミタシテ、尚海外
≪p167≫
ニ輸出スルモノ一億圓以上ニ出ヅ。
紡績工場ニ入リテ見レバ、蒸氣{ジヨウ}機關ノ力ニヨリテ自動
スル機械、幾臺トナク立チナラビテ廻轉シ、ワヅカノ人
力ヲマチテ、精確ニ種々ノ作業ヲナセリ。
先ヅ綿花ヲ俵{タワラ}ヨリ出シテホグシ、土砂其ノ他ノ雜物ヲ
去リ、鐵|棒{ボウ}ニマキテ、長サ四
尺バカリ、直|徑{ケイ}尺餘ノ筵{ムシロ}綿
トス。此ノ作業ノ間、綿花ノ
細片四方ニ飛散シテ、吹雪{フヾキ}ノ風ニクルフガ如ク、機械ノ
前ニ立テバ全身タチマチ白シ。
≪p168≫
スデニ筵綿トナレバ梳綿{ソメン}機ニカケ、梳綿機ニハ細小ノ
針金ニテ作レルぶらっしノ仕カケアリテ、筵綿ヲ引キノ
バシナガラ細カキ雜物ヲ去ル。アタカモ人ノ頭|髮{ハツ}ヲク
シケヅルニ似タリ。
梳綿機ヨリ出ヅル綿花ハ眞白雪ノ如ク、四尺程ノ幅{ハヾ}ト
ナリテ進ム。其ノ樣れーすノ流レ行クガ如シ。此ノ流ハ
自ラ集メラレテ、親|指{ユビ}程ノ篠{シノ}形トナリテ鐵|管{カン}ノ中ニ入
ル。
スデニ鐵管ニ滿ツレバ、コレヲ練篠{レンジヨウ}機ト稱スル機械ニ
カケテ、或ハ合シ、或ハノバシ、マタサラニ他ノ機械ニ移
≪p169≫
シ、イヨ〳〵ノバシテ、イヨ〳〵
細クシ、次第ニヨリヲカケテ絲
ノ形ニ近ヅカシム。サテ最後ニ
精紡機ニ移シテ、適當ノ太サト
ナシテ、サラニヨリヲカケ、ツム
ニ卷取ラシム。工女ハ常ニ其ノ
前ニ立チ、タエズ絲ニ目ヲ注ギ
テ、切ルレバ直チニ之ヲツナグ。
熟達セル者ハ一分間ニヨク十
數本ノ絲ヲツナグトイフ。
≪p170≫
昔ノ絲車ニテツムグ時ハ一本ノツムニ一人ヲ要スベ
キニ、今ハワヅカニ六七人ノ工女ニテ、能ク二千本ノツ
ムヲ扱フコトヲ得。加フルニ彼ノ蠟燭{ロウソク}ノ心トスル太キ
絲、蜘蛛{クモ}ノイノ如キ細キ絲、細大意ノマヽニシテ、手ツム
ギノ如ク不ソロヒトナルコトナシ。
第四十八課 協同
或目的ノモトニ、多クノ人ノ心ヲ合セ力ヲ一ニスルヲ
協同トイフ。我等人類ハ居ルニ家アリ、住ムニ國アリ、働
クニ社會アリテ、常ニ他人ト共ニ生活スルモノナレバ、
何事ヲナスニモ協同ノ精神ヲ必要トスルコト多シ。コ
≪p171≫
トニ公衆ノ衞{エイ}生ヲ保全シ、實業ノ發達ヲ圖リ、風|俗{ゾク}ノ改
良ヲウナガス等、スベテ公益ノタメニスル事業ニオイ
テハ、人々ヨク協力同心シテ相助クルニアラザレバ、其
ノ目的ヲ達スルコト能ハズ。見ヨ、衞生上ニオイテワヅ
カニ一人ノ不心得ナル者アルガタメニ、恐ルベキ傳|染{セン}
病ノ流行ヲ來シ、商業上ニオイテワヅカニ一人ノ不正
直ナル者アルガタメニ、國民全體ノ信用ヲキズツクル
ガ如キコトアルヲ。サレバ公ノタメニハ私ヲスツル決
心アルヲ要ス。細小ナル私利・私|慾{ヨク}ノタメニ、社會公衆ノ
利益・平安ヲ破ラントスルガ如キハ、惡ミテモ餘リアル
≪p172≫
コトニアラズヤ。
「五|指{シ}ノ交ル〴〵彈{ハジ}クハ一手ノ搏{ウ}ツニ如カズ。」トイフ格
言アリ。衆人協同ノ効果多クシテ力強キコトハ、此ノ格
言ノ教フルトコロノ如シ。然レドモ若シ之ヲ惡目的ノ
タメニ用ヒンカ、往々ニシテ恐ルベキ結果ヲ來スコト
アルベシ。正當ノ理由ナキニ戰爭ヲ起シ、故ナクシテ同
盟罷業{ドウメイヒギヨウ}ヲクハダツルガ如キ皆コレナリ。サレバ他人ト
協同スルニ當リテハ、先ヅ其ノ目的ノ正シキカ否カヲ
考ヘ、然ル後ニ去就ヲ決セザルベカラズ。何等ノ考モナ
ク、徒ニ衆人ノ意ヲムカフルガ如キハ、決シテホムベキ
≪p173≫
コトニモアラズ。
第四十九課 明治二十七八年戰役
明治年間の二大戰役はいづれも其の源を朝鮮{ちようせん}に發せ
り。朝鮮には早くより政|派{は}の爭ありて、其の一派は支那{しな}
に頼りて事を成さんとし、やゝもすれば日本を輕んず
る擧動あり。明治十五年に朝鮮暴徒の日本公使館を焼
きし事件ありし後、十七年にも再び日本公使館を燒く
の暴擧あり。日本政府は朝鮮政府に嚴談して、其の罪{つみ}を
謝せしめしが、將來の事變を防がんため、日本は此の時
支那と約して、朝鮮に出兵せん日には、兩國協議の上に
≪p174≫
てなすべしと定めたり。
明治二十七年に至り、朝鮮にはまたも暴徒の亂をなす
ありて、其の勢はなはだ盛なりき。こゝにおいて支那は
屬{ぞく}國の難を救ふと稱して、兵を朝鮮に送れり。これ明か
に日本との條約を破れるなり。よりて日本も公使館及
び居留民を保|護{ご}せんがため、朝鮮に出兵せり。
日本軍艦の豐島沖{ほうとうおき}を通過するや、支那の軍艦は無法に
も之に砲撃を加へしかば、日本の軍艦は應戰して之を
破り、日本陸軍もまた支那兵と成歡驛{せいかんえき}に砲火を交ふる
に至れり。
≪p175≫
八月明治天皇宣戰の詔{みことのり}を下し給ふ。これより日本軍は
平壤{へいじよう}・黄海・旅順口{りよじゆんこう}・威海衞{いかいえい}・田庄臺{でんしようだい}等、海陸いたる處に大捷
を得、大擧してまさに北京{ぺきん}を衝{つ}かんとする勢を示せり。
支那は此の形勢を見て大いに恐れ、李鴻章{りこうしよう}を全權大臣
として和を日本に請はしむ。日本政府は伊藤博文{いとうひろふみ}・陸奥
宗光{むつむねみつ}をして下關に談|判{ぱん}せしめ、遂に支那をして朝鮮の
獨立國たることを確認せしめ、遼東{りようとう}半島・臺灣及び澎湖{ほうこ}
島を日本に與ふること、貿易場を各地に開くこと、償{しよう}金
二億|兩{てーる}を出すことを約せしめて、和を結べり。時に明治
二十八年四月なり。然るに露西亞{ろしや}・獨逸{どいつ}・佛蘭西{ふらんす}の三國は
≪p176≫
日本が遼東半島を領有するは東洋永遠の平和に害あ
りとし、之を支那に還附{かんぶ}せんことを勸{かん}告せり。日本は遂
に之を容れ、其の代償として、さらに三千萬兩を受け、こ
こに始めて事變の終局を見たり。
第五十課 米國と布哇{はわい}
米國人にして布哇に來り、實|際{さい}の勢力と地方とを占め
得たるは宣教師の團體を以て其の始となすべし。今よ
りおよそ一百年以前、ボストンを出發せる宣教師の一
團は、傳道の目的を以て布哇島に上陸せり。時はカメハ
メハ大王の治世なりき。後カメハメハ第二世のホノル
≪p177≫
ルに遷るに及び、彼等もまたオアフ島に移り、熱心に布
教に従事して、王族より始めて、漸次其の化を遠近に及
せり。ついでまた六名の宣教師も渡來して之を助け、教
育の事業にも盡力せしかば、はては教育の實權をも其
の手中に收むるに至り、やがて政治上・經|濟{ざい}上の勢力も
左右する事となり、外交上の事件においても、王朝の顧{こ}
問たる地位を占むるに至れり。
布哇の王朝はこれより漸く多事となれり。王族中には
外人の勢力を快しとせず、しば〳〵内亂を起して之を
追はんとくはだつるものを生ぜり。米國政府は其の都
≪p178≫
度戰船を派{は}して暴徒をしづめ、之が損害要|償{しよう}を強請せ
しかば、義憤の擧は徒に米國の勢力を増長せしむるの
結果となり、米國の威力は次第に布哇王國の上に重き
を加ふるに至れり。
然れども當時の米國政府は未だ海外に版圖を求むる
の意志なかりしが、英國は之に反して、つとに布哇に着
目して、機會ある毎に問|題{だい}を大にして、其の利權をうば
はんとせり。かくて英國との外交問題は、常に英國軍艦
の派|遣{けん}によりておびやかされしかば、布哇王朝はいつ
しか心を米國にかたむけ、其の助を得んとせり。宣教師
≪p179≫
の團體を中心とせる米國人の勢力はかくして王廷の
間に樹立せられたりき。
一千八百四十年布哇政府をして憲法{けんぽう}發布を斷{だん}行せし
めたるも、同じく四十二年に王國の獨立を世界に承認
せしめたるも、皆米人勢力の致す所にして、四十九年に
は米國との通商條約成り、六十四年新憲法の發布あり
て、布哇政府の實權は全く米人の手中に在り。國王もま
た議會に選擧せらるゝ事となりて、王朝はわづかに其
の名稱を存せるのみ。女王リーオカラニ位に即くに及
びて、憲法を廃止して專政{せんせい}政府の昔に返さんとせし一
≪p180≫
擧は、かへつて王朝の滅亡を早め、一千八百九十四年、一
たん共和國となりて、サンフォードドール大統領となり
しが、九十八年には遂に米布合|併{へい}の談合成れり。米國に
ては大統領マッキンレーが統治の時代にして、カメハメ
ハ大王の崩後八十年、星條旗{せいじようき}は布哇諸島の上にひるが
へる事となれり。
第五十一課 日本と布哇{はわい}
日本と米國が相接した初は、いふまでもなく水師|提督{ていとく}
ペリーが四|隻{せき}の船艦をひきゐて渡來し、通商貿易を請
うた時に始る。此の事は日本歴史上の大事件であつて、
≪p181≫
日本の開國は源を此の時に發してゐる。安政元年、日本
は米國のために下田・函館{はこだて}二港を開くことにして、和親
條約を結んだが、同じく三年には米國の總領事ハリス
が來て、世界の大勢を説いてやまなかつたので、幕府{ばくふ}は
遂に通商條約を結び、さらに四港を開いた。此の安政條
約|批准{ひじゆん}のために幕府の使が米國に渡航する中途、布哇
に寄航してカメハメハ四世に謁見した。ついで明治元
年には布哇の總領事バンリードが移民の事に就いて、
四年には米國の公使デロングが布哇王の委任を受け
て、其の特命全權公使として、七箇條の修好通商條約を
≪p182≫
結んだ。公式に日布關|係{けい}の生じたのは此の時を初とす
る。
明治十四年にはカラカウア王が世界遊覽の途次、日本
に立寄つた。十八年以後には一時事情のために中絶し
てゐた移民の渡航がまた續いて行はれた。ついで在留
日本人は布哇の國法に從ふことになり、新に移民條約
が結ばれた。さて二十四年に米布合|併{へい}條約が結ばれ、二
十六年には憲法{けんぽう}が出來て、共和政府が組織{そしき}されたので、
それと同時に日布協約も自然と消滅したのである。
第五十二課 日本人渡布の由來
≪p183≫
布哇{はわい}の記録によると、天保年間から嘉永{かえい}年間にわたつ
て、日本の漁夫が難船にあひ、米國の船に救はれて、布哇
に上陸した者が少くなかつた。其の頃日本は嚴重な鎖{さ}
國主義を保持してゐた時であるから、米國はいふまで
もなく、布哇との交通も全然なかつたのである。記録で
見ると、最も古い漂流{ひようりう}者のあつたのは天保三年十二月
のことであつた。天保十二年には土佐{とさ}の中濱萬次郎等
が難船を助けられて、此の地に上陸した。萬次郎は其の
後米國へ渡つて勉學し、數年の後日本に歸つた。嘉永六
年にペリーが浦賀{うらが}に着いた時、通|辯{べん}の任に當つたのが
≪p184≫
此の萬次郎であつた。
日本が米國を始め、諸外國と通商するようになつて、明
治元年(一千八百六十八年)六月に英船シオト號{ごう}は百四
十八名の日本人を布哇に上陸させたこれは其の頃横
濱に居た布哇領事バンリードが日本と契{けい}約して、三年
間の勞動を約して渡布させたものであつた。しかし此
等の勞動者中には品性の良くない者があつたので、布
哇人の非難を受けて、日本移民は再び布哇に入れては
ならぬといふ議論まで起るようになつた。
けれども布哇製糖業の發展はどうしても外國の移民
≪p185≫
を必要とした。其のために一時南洋ギルバート島人や
支那{しな}人が移入されたが、南洋人は勞動に適しない、し支
那人は外の理由から移入禁止となつた。
そこで再び日本移民を呼ぶこととなり、布哇政府は日
本政府と移民條約を結んだ。かくて一千八百八十五年
に九百五十六名の日本人が來島した。此の計畫は一千
八百九十四年まで續いて、日本人の布哇に上陸した數
は前後合せて二萬九千三十二人の多數に達してゐる。
上記のものは官約移民ともいふべきものであるが、一
千八百九十四年以後は個人經|營{えい}の移民會社の手によ
≪p186≫
ることになり、六七の會社によつて、一千九百年米布合
|併{へい}の出來たまでには四萬二百人の來島者があつた。
一千九百年に米布合併が出來てからは自由渡航とな
り、一千九百八年までには三萬六千餘人の來島者を見
た。しかし布哇在住者が段々渡米するようになつたの
で、米國政府は一千九百八年に至つて、普{ふ}通移民の來布
を制|限{げん}することにした。それ以來在島者の肉身關|係{けい}以
外のものは渡布することが許されなくなつた。
第五十三課 眞珠灣{しんじゆわん}
布哇{はわい}群島は火山の噴{ふん}出作用によりて成れるものにし
≪p187≫
て、山|脈{みやく}より海岸に至る傾斜{けいしや}はげしく、かつは海中に珊
瑚礁{さんごしよう}多きが故に、天然の良港少く、わづかにオアフにお
けるホノルル、マウイにおけるラハイナ、カウアイにお
けるワイメヤ、ハワイにおけるナポポ等の三四を數ふ
るに過ぎず。此等の諸港とても、通常の船舶の出入に足
るのみにして、巨艦を容るゝ軍港たるにたへず。修理造
營を加へて一大軍港たらしめ得べきもの、たゞオアフ
の西海岸アイエヤ・ワイパフ・エワの三耕地にはさまれ
たるポール、ハーボアあるのみ。
米國政府は布哇を以て太平洋上のモルタ島たらしめ
≪p188≫
んとする意向を有しダイヤモ
ンドヘッドを要|塞{さい}として、續々守
備兵を増|派{は}すると共に、ポール、
ハーボアの修理にも永年心を
くだけり。さきに巨額の費用を
支出して、乾船渠{かんどつく}を造營中なり
しが、土地崩|壊{かい}のために中止せ
り。其の後しば〳〵技師をして
實地の調査に當らしめたる結
果、いよ〳〵一大軍港を設置す
≪p189≫
ることとし、今すでに其の工事中にして、一千九百十八
年六月を以て完成期とせり。
ポール、ハーボアはもと土人の安住地として知られ、十
數年前までは、敗殘の民こゝかしこに小屋を結びたる
處なりしが風波靜かに、景色麗しきの故を以て、近時富
人紳商の別宅を營むもの多く、また昔時の觀をとゞめ
ず。されど軍港成るの日はさらに面目を一新して、潜航
艇{せんこうてい}・水雷{すいらい}艇・驅逐{くらく}艦・砲艦・海防艦・巡洋艦・巡洋戰艦・戰艦等の
出入來往するの壯觀を呈するに至らん。
第五十四課 セシルローヅ
≪p190≫
英國の人セシル、ジョン、ローヅは殖民地の經營者として、
其の祖國のために偉{い}大な勳{くん}功を樹てた傑{けつ}物である。一
千八百五十三年、一ビショップの子と生れ、行く〳〵は宗
教事業に從事するはずであつたが、病身であつたため、
十六歳の時、養生かた〴〵亞弗利加{あふりか}のナタルへ行つた。
そこには兄が居つたのである。ローヅはこゝで金剛{こんごう}石
の採{さい}掘に從事して、次第に其の富を殖したが、此の病氣
がちな一青年は、やがて殖民地の經營を以て自己の天
職と確信し、あくまで故國のために盡さうと決心の臍{ほぞ}
をかためた。
≪p191≫
先づ自己の教育を完うしようと、ローヅは英國へ歸つ
てオクスフォード大學へ入つたが、休|暇{か}には必ず利弗亞
加へもどつつて來て、半年は學問、半年は事業といふ異
樣な生活を送つたのである。一千八百七十三年、病は再
び重くなつて、今後六箇月はむづかしからうとまで醫
者{いしや}
には言はれたが、亞弗利加へ歸つて後は、また次第に
健|康{こう}を取りもどした。
ローヅが政治的生活は一千八百八十一年ケープ、タウ
ンの議員となつたのが發端で、一千八百八十四年には
其の内閣に入り、九十年から九十六年にかけては總理
≪p192≫
の職に居つた。此の間ローヅは常に英國の勢力を聯{れん}合
殖民地の上に發展せしめる事に盡力したが、一方殖民
地のためにも、其の利益を増し、其の幸福を進めること
に怠らなかつた。
總理となつた一年前に、南亞會社設立の特權を得て、其
の專{せん}務となつた事は、英國殖民事業の大成功であつて、
總理となつてからは、常に同會社を指導{しどう}して居つたの
である。一千八百八十八年英國のためにリンポポの北
方の領地を得たこともローヅの一成功で、其の地はロ
ーヅの名にちなんで、ローデシヤの名を以て呼ばれて
≪p193≫
居る。
ローヅが一生の事業は亞弗利加殖民地全體を英國利
權の下に置かうといふのであつて、其の第一歩として、
北の方エジプトのカイロから南ケープタウンまで、亞
弗利加|縦{じう}貫鐵道の布設を計畫して、之に着手したので
ある。
ローヅは多大な資産を積み得たが、其の資産は國家的
事業のためにはをし氣もなく散ぜられたのである。一
千九百二年ローヅの死後、オクスフォード大學に寄附し
た奬學資金の如き、如何にもよくローヅの人物をしの
≪p194≫
ばせるものである。
ローヅ奬學資金を受け得る學生の資格としては、およ
そ左の條件が必要である。
第一 學業に優秀であること。
第二 フートボール・クリケットの如き遊技の達人で
あること。
第三 信義あり、勇氣あり、義務の觀念にかたく、義|俠{きよう}
の精神に富んで居る人格であること。
第四 將來公共事業を成すの人物であることが、す
でに學生生活において證明されたもの。
≪p195≫
第五十五課 樺太{からふと}だより
御別れ申してよりはや一年、君は暖國に、
小生は寒地に、無事に新年をむかへ候は
御同慶の至に御座候。先日の御手紙にて
御近情を承知致し、御なつかしく存じ候。
御聞及の通り、當地の寒氣はまた別段に
て、地面は三尺の下までこほり、海岸も氷
はりつめ候事とて、一月より三月まで三
月の間は航路ほとんどとぢ、西海岸の眞
岡{まのをか}港と亞庭{あには}灣の大泊{おほとまり}とのみ、内地との交
≪p196≫
通を保ち居り候。
樺太にて最も有望なるは漁業にて、鰊{にしん}と
鱒{ます}との漁利は殊に多く、鮭{さけ}・鱈{たら}も少からず
候。鰊の主産地は西
海岸にて、春夏の頃
産卵の爲、鰊の群を
なして海岸近く寄
せ來る時は、海水皆
白く、たもにてすく
ひ得る程にて、實に
≪p197≫
面白き事に御座候。多來加{たらいか}灣頭に小さき
海豹{かいひよう}島あり、夏より秋にかけて、こゝに集
る膃肭獸{をつとせい}は數千頭にも達することこれ
有り候。漁業に次ぎて有望なるは農業と
林業とにて、農産物の種類は北海道と大
差なく、大|麥{むぎ}・小麥・燕麥{からすむぎ}・裸麥{はだかむぎ}・菜種・麻{あさ}・馬鈴薯{じやがたらいも}・
豌豆{えんどう}等多く、また牧畜{ぼくちく}にも適し候。森林は
日本内地はもとより北海道にも見るこ
とを得ざる程の廣大なる天然林にして、
椴松{とゞまつ}・蝦夷松{えぞまつ}・落葉松{からまつ}・白樺{しらかば}等一面に生ひし
≪p198≫
げり居り候。石炭|層{そう}も各處にありて、ほと
んど無盡藏にて、將來すこぶる有望に御
座候。
ロシヤが早くより經營に力を用ひたる
は主として五十度以北に候。五十度以南
日本帝國の領土となりしより、諸種の事
業追々成功致し候へども、新領土の事に
候へば、今後着手すべき事も多々これ有
り候。住めば都とやら、此の寒地も今はは
や生れ故郷の心地致し候。拜具。
≪p199≫
一月二十日 清 藏
宗一樣
第五十六課 貿易
外國トノ交通少カリシ時代ニハ、商業トイヘバホトン
ド内地ニ限ラレシガ、東西ノ交通盛ナル今日ニオイテ
ハ、商業ハ世界ヲ相手トシテノ商業トナレリ。
我等ハ世界ノ市場ヨリ如何ナル物品ヲモ買ヒ得ルガ
如ク、世界ノ各國ハ皆我ガ商品ノ市場トシテ、全世界ノ
人ハ皆我ガ商賣ノ花客ナリ。
内國ノ商業モ、海外ノ貿易モ、有無相通ズルノ理法ニモ
≪p200≫
トヅケルハ相同ジク、需{ジユ}要供給ノ如何ニヨリテ物價ノ
高下スルモ相同ジ。故ニ商人ハ常ニ全世界ニオケル物
價ノ高低ニ注意シ、需要供給ノ實情ニ精通スルヲ要ス。
人種・風|俗{ゾク}ノ異ナルニヨリテ、其ノ好ミモ同ジカラズ。同
一國民ノ好ミニモ時々ノ變遷アリ。故ニ商業ニ從事ス
ルモノハ常ニ花客ノ好ム所ヲ考へ、流行ノオモムク所
ヲ察セザルベカラズ。
商人ノ第一ニ重ンズベキハ信用ナリ。商人ニシテ信用
ヲ失フトキハ、其ノ極終ニ破産ヲマヌカレズ。見本ト現
物トヲ異ニシ、約定ノ期限ヲ違へ、商品ノ品|質{シツ}ヲ下スガ
≪p201≫
如キ、皆信用ヲ害スル所以ナリ。信用ノ基{モトヰ}ハ正直ニ在リ。
故ニイハク、正直ハ最善ノ商略ナリ。ト。
廣告ハ商業發展ノ有力ナル手段ナリ。近年各國商人皆
爭ヒテ其ノ方法ヲ講{コウ}ジ、廣告ノ爲ニハ多額ノ費ヲ意ト
セズ。米國商人ガ新聞其ノ他ノ印刷物ニヨリテ廣告ニ
費ス金額ハ、一箇年實ニ十二億圓ノ多キニ達ストイフ。
然レドモ不正當ナル手段・廣告ヲ以テ、其ノ商業ヲ盛ナ
ラシメントスルガ如キハ、正直ナル商人ノ爲スベキ事
ニアラズ。
富國ト強兵トハ相待ツテ始メテ國家ノ盛大ヲ致ス。海
≪p202≫
外貿易ノ發展ヲ圖リ、大イニ國富ヲ増殖スルハ商人ノ
國家ニ對スル義務ナリ。商人ハ軍人ノ戰場ニ立ツト同
ジク、常ニ報國ノ精神ヲ以テ、平和ノ戰爭ニ從事スベシ。
第五十七課 獨立閣を觀る
亞米利加{あめりか}合衆國の旅行中、最も興味深かりしはフィラデ
ルフィヤの獨立閣を觀し事なりき。
時は秋の末、沿道の紅葉|錦{にしき}の如く美しきを、行く〳〵汽
車の窓よりながめて、同市の廣小路|停車{ていしや}場に着きたる
は日尚高き午後三時の頃なり。大理石と花崗{かこう}石とにて
築き上げたる市役所の壯大なる建築を見上げて、にぎ
≪p203≫
はしきマーケット街の混{こん}雜を東の方へ分け行けば、第六
街に出づ。之を南へ折れて一町、音に聞きし獨立閣はあ
るなり。
美々しく立ちならべる高屋の間に、質素{しつそ}なる煉瓦{れんが}造の
低き建物は、先づ懐{かい}舊の念を深うせしむ。正面の戸を排
して進めば、左右各一室。右なるは昔の法廷なりし室に
て、當時用ひし幾十脚の椅子{いす}も其のまゝなり。左なるは
即ち一千七百七十六年六月四日、亞米利加殖民地が英
本國に對して、自由獨立を宣言せし一室にして、獨立宣
言書の署名に用ひたるテーブルを始として、一切の用
≪p204≫
具は昔のまゝに保存せ
らる。東の壁には宣言書
の寫しをかゝげ、ワシン
トン以下、之に署名せし
名士の肖{しよう}像、一々壁間に
かゝげられて、生けるが
如き風|姿{し}、當年の意氣を
語らんとするに似たり。
次なる小さき一室に、有
名なる自由の鐘{かね}あり。獨
≪p205≫
立宣言の後、うち鳴らされたる此の鐘の音こそ、全國に
響き渡りて、自由の反響をふるひ起せしなれ。此の鐘損
處ありて、今は硝子張{がらすばり}の箱の中に保存せらる。米國市民
に取りては、此の上なき記念物なるべし。
靜かなる室内に米國建國の昔をしのび、其の發達の歴
史を回想すれば、感|慨{がい}自ら無限にして、日のかたむくを
も知らず。再び戸外に出づれば、東西の街頭、車馬の往來
織るが如し。
第五十八課 我は海の子
一
≪p206≫
我は海の子、白波の
さわぐいそべの岩かげに
煙たなびくとまやこそ
我がなつかしきすみかなれ。
二
生れてしほに浴して、
波を子守の歌と聞き、
千里寄せくる海の氣を
吸ひてわらべとなりにけり。
三
≪p207≫
高く鼻つくいその香に
不斷{ふだん}の花のかをりあり。
なぎさの椰子{やし}に吹く風を
いみじき樂と我は聞く。
四
丈餘のろかい操りて、
行手定めぬ波まくら、
百ひろ・千ひろ海のそこ、
遊びなれたる庭廣し。
五
≪p208≫
幾年こゝにきたへたる
鐵よりかたきかひなあり。
吹く塩風に黒みたる
はだは赤銅さながらに。
六
波にたゞよふ氷山も、
來らば來れ、恐れんや、
海卷上〴〵るたつまきも、
起らば起れ、驚かじ。
七
≪p209≫
いで、大船を乘出して、
我は拾はん、海の富。
いで、荒波をおし分けて、
我は求めん、海の幸{さち}。
第五十九課 艦上の威仁{たけひと}親王
明治十二年の秋、有栖川{ありすがは}宮威仁親王は實地練習の爲、海
軍少|尉補{いほ}の資格にて、英國|支那{しな}艦隊の旗{き}艦アイアンヂュ
ークに乘組み給へり。これ日本皇族が外國軍艦に召し
て、親しく修業遊ばされし始にして、名にしおふ海軍國
の艦隊のことなれば、規律{きりつ}の嚴重なること言ふばかり
≪p210≫
なかりき。
或時アイアンヂュークは他艦と共に香港{ほんこん}に碇泊{ていはく}せり。た
またま同港を通過せる官人某氏、久々にて親王の尊容
を拜せばやと、急ぎ端舟に乘じ、雨中同艦に行きて、來意
を告ぐれば、艦長クリーブランド大|佐{さ}は快く某氏をむ
かへて、「殿下はたゞ今御勤務中
なれば、しばし待たるべし。若し
まれ艦内一覽の御望もあらば、
案内致させん。」と言ふ。某氏其の
好意を謝し、一將校に案内せら
≪p211≫
れて、艦内をそここゝと巡覽し、遂に上甲板に出でたり。」
をりしも風さへ加りて暴雨なゝめに飛ぶ中に、全身し
とゝにぬれながら、パンツ高くまくりて、白々とす足を
現し、嚴かに雨中に直立せる人あり。雨衣の頭巾{づきん}目深な
れば、面は見えざれども、副直勤務中の少年士官とは手
にしせる望遠鏡にても知られたり。案内の將校そと某
氏に語りて、「風雨にさらされつゝ職務に當る彼の少年
士官こそ殿下にましますなれ。」と言ふ。某氏はうち驚き、
餘りの御いたはしさに、思はず走り寄りて、「殿下、殿下。」と
申し上げしに、親王は端然直立せられたるまゝ、一言の
≪p212≫
御答もなし。某氏始めて御勤務中の御身に對して、言葉
をかけ奉りし輕卒のふるまひをさとり、一禮して艦長
室に歸り、交代の時の來るを待てり。其の間某氏は萬感
こも〴〵起りて、落つるなみだを止めあへざりき。
程もあらせず、親王は司{し}令長官クート中將と共に艦長
室に入らせ給ふ。某氏の親王に對する御|挨拶{あいさつ}終るや、中
將やがて某氏に向ひて、「貴下は今雨中に立てる最も尊
敬すべき貴紳を見給ひしならん。貴下の感想如何を知
らず。たゞ願はくは、我を以て貴紳を待つの禮を知らざ
るものとなすことなかれ。我が殿下を他の將校と同樣
≪p213≫
に、時に或は下人すら難しとする職務にも服せしめ奉
る所以は、殿下をして將來有爲の武將たらしめ奉らん
が爲のみ。我は殿下の教|導{どう}を委任せられたる英國の名
|譽{よ}の爲、あくまで其の成功を期し奉らざるべからす。我
が最も感喜にたへざるは、殿下が學術に優れ給ふのみ
ならず、如何に困難なる職務に當らせ給ふ時も、つゆい
とはせ給ふ御氣色なきことにして、我は殿下の例を引
きて、部下をいましむるを常とせり。」と。
某氏は今さらに英國海軍の規律の嚴重なると、親王の
御職務に御勵精なるとに感じ入り、深く司令長官以下
≪p214≫
の好意を謝し、親王に御|暇{いとま}申し上げ、名殘をしげにアイ
アンヂュークを辭せり。
第六十課 銀行の話
世の中には金錢を所有して、之を利用したいと思ふ者
がある。事業を經營する爲に、資金の入用な者がある。銀
行はかういふ人々の間に立つて、其の資金の貸借の世
話をするものである。銀行事業が發達すると、遊金が減
じて、資金が多くなるので、産業の發達をうながすこと
になる。
銀行には貯|蓄{ちく}銀行・普{ふ}通銀行・特殊銀行の三種がある。貯
≪p215≫
蓄銀行は國民の間に勤儉貯蓄の美風を養ふのが目的
で、わづかな資金を安全に預つて利殖するものである。
普通銀行は預金、手形の割引、貸附等の業務を營むもの
で、多くの銀行はこれである。特殊銀行といふのは、それ
ぞれ特別な目的で設立されたもので、其の目的によつ
て種類もまた一様ではない。其の二三を次に述べる。
第一は全國の金|融{いう}の中央機關として、一般の金の貸借
の程度を便利にし、政府の委|託{たく}を受けて、國|庫{こ}の出納{すいとう}に
關する事務をつかさどり、或は正貨と引換へることの
出來る銀行|券{けん}を發行するものである。日本の日本銀行
≪p216≫
の如きものは、これに屬{ぞく}するものである。
第二のものは、農工業の改良進歩を助ける爲に、其の資
本を供給する目的のものである。農工業の改良進歩は
一朝一夕で出來るものではない。したがつて普通銀行
の短期貸附では、農工業者に不便であるから、此の種の
銀行は長期の貸附を爲すのである。
此の外に新領土の事業を經營する爲に資本を貸附け
る銀行もあるし、また外國貿易の便利の爲に外國との
爲替{かはせ}の取引をする銀行もある。
第六十一課 ニューヨークの森村組
≪p217≫
日本の貿易商會として、廣く外人の間に知られて居る
森村組は、森村|市左衞門{いちざえもん}の計畫經營する所である。明治
の初年、市左衞門は、日本當時の金貨(小判{こばん})が横濱外商の
手によつて、數限りもなく外國へ送り出されるのを見
て、これではならぬと奮發{ふんぱつ}したのが、彼が貿易に志した
動機である。さて其の企を父母兄弟等に語つた處、末弟
の豐が決心の色を面に現して、之より英語を勉強し、卒
業の後は外國へ行つて、萬事兄上の仰の通り、商業に從
事しようと言つた。豐は其の時わづかに十三歳の一少
年であつた。
≪p218≫
豐が苦學數年間の困難は一通りでなかつた。さうして
七年の後、アメリカへ渡つて、ニューヨークに落着いて、初
は小さな日本雜貨店を出した。それは明治九年の事で
ある。其の以後の經營の苦心も尋常一樣ではない。時間
をよく守つたこと、仕事に勤勉であつたこと、店員をよ
く督勵したこと等、成功の要|素{そ}は皆備はつて居つたの
で、店の信用が年々に増したと同時に、事業は日に繁{はん}榮
に向つた。豐の細かな注意と市左衞門の廣い度|量{りよう}は相
助けて、此の貿易事業を盛大ならしめたのである。豐は
明治三十二年七月に死んだが、森村組の事業は益發展
≪p219≫
して、開店から四十年後の今日、資本は二百五十萬圓、一
年の賣上高は一千萬圓に近く、使用人は日本人五十人、
米國人百二十人に及んで居る。特に注意すべきことは、
米國人の使用人中、或は三十年、或は二十五年、或は二十
年等、永年の勤續者が非常に多い事である。
商賣は信用が第一である。市左衞門が日本品を輸出す
るに就いて、如何に其の商品に注意したかは、小楊枝{こようじ}を
送り出す時も、一々箱を開いて、一本々々檢査して見た
といふ事でも分る。森村組の信用が日に高まつて來た
のも無理ではない。或時森村組の支配人村井某が、フィラ
≪p220≫
デルフィヤのデパートメントストアへ行つた所、そこの
賣子か村井を見て、「森村組はまことに仕合な店です。客
はいつでもあなたの店の品ばかり選つて買つて行き
ます。」と言つたさうである。森村組の賣品が米人の信用
を得て居ることは、此の話でも知れる。
森村組の精神として、市左衞門が書記したものの中に、
「私利ヲ樂シマズ、一身ヲ犧牲{ギセイ}トシ、後世國民ノ發達ヲ樂
ミトス。」「至誠ヲ心トシ、信實ヲ旨トシ、約束ヲ違ヘザル
ベシ。」「天ノ道ヲ信ズベシ。天ハ人ノ爲ニ萬物ヲ經營シ、
寸時モ休ム時ナシ。などの語がある。
≪p221≫
森村組が多年の功業を思召したのであらう。大正四年
十一月今上天皇陛下が即位式を行はせられた時、市左
衞門は華{か}族に列せられて、男|爵{しやく}を授けられた。
第六十二課 米國の人種別
學者の説によると、今日世界に存在する文明國の國民
はいづれも十五種以下の異種族の血が混じて居ると
のことである。しかし古い歴史を持つてゐて、しかも外
國との交通がさまて頻繁{ひんぱん}でなかつたような國では、國
民の面に一定の型{かた}が出來てゐて、容易に他國民と混同
するようなことが無い。たとへば日本人と支那{しな}人とは
≪p222≫
近似した人種ではあるが、似てゐるうちに自ら違つた
特色があつて、これは日本人、これは支那人と一見して
區別が出來る。ところが國が新しく、外國との交通が頻
繁で、其の國民の多くが諸外國からの移住民であるよ
うな場合には、きはだつて違つた顔のものが、隣同志で
くらしてゐることも少くない。布哇{はわい}なども其の一例で
あるが、もつと大きい處では布哇の本國の合衆國がさ
うである。
米國の國民は最初は英吉利{いぎりす}人をもとにして、之に少し
ばかりの佛蘭西{ふらんす}人と西班牙{いすぱにや}人と亞米利加{あめりか}印度人が加
≪p223≫
つてゐたに過ぎなかつたが、天産が豐富で、領|域{いき}の廣い
割合に人間が少く、國土の開|拓{たく}に多大の人力を必要と
した所から、種々の人種、種々の國民が、勞動者として八
方から潮のように入りこんで來て、今では色々の顔色
をしたものが、雜然として雜居することになつた。
統計學者の報告によると、純粹の米國人は佛蘭西國民
と同樣、至つて出生|率{りつ}が低く、ほとんど増加を示してゐ
ない。然るに合衆國の總人口は最近五六十年間に三倍
以上も殖えて居る。これは皆他國民・異人種の移住して
來た結果である。此等の移住民中最も多數を占めて居
≪p224≫
るのは獨逸{どいつ}人と伊太利{いたりや}人で、西班牙人・葡萄牙{ぽるとがる}人も可な
りたくさん居る。其の他|諾威{のーるうえー}人・瑞典{すうえーでん}人も居る。波蘭{ぽーらんど}人・露
西亞{ろしや}人も居る。黒人は無論たくさん居る。居ないといふ
國民・人種はほとんど一つも無い位である。日本人や支
那人もずん〳〵増加して居つたが、排|斥{せき}法案や、紳士協
約などの結果、支那人・日本人は容易に入國が出來ない
ことになり、布哇から轉航することさへ許さないよう
になつた。
第六十三課 善良ナル市民
諸子ノ父祖ハ遠ク祖國ヲハナレテ布哇{ハワイ}ニ來レリ。多數
≪p225≫
ノ諸子ハ布哇ニ出生シ、布哇|縣{ケン}ノ公立學校ニ教育セラ
レ、將來米國市民タルベキ特權ヲ有セントス。米國市民
トシテノ權利ヲ有セル諸子ハ、必ズ善良ナル米國臣民
トシテ世ニ立タザルベカラズ。コレ諸子ノ父祖ト父祖
ノ屬スル日本國トガ、ヒトシク希望スル所ニシテ、カツ
世界ニ對シテ、其ノ誇{ホコリ}トスル所ナリ。
米國ノ市民中ニハ其ノ祖先ノ英國ヨリ來レルモノ、佛
國ヨリ來レルモノ、獨逸{ドイツ}ヨリ來レルモノ、其ノ他|露西亞{ロシヤ}・
伊太利{イタリヤ}・西班牙{イスパニヤ}・葡萄牙{ポルトガル}等ヨリ來レルモノアリ。此等白人
種ノ外、支那{シナ}人アリ、黒人アリ、雜然トシテ各人種ノ同一
≪p226≫
星條旗{セイジヨウキ}ノ下ニ生活ヲ營ムハ、ナホ諸子ノ學校ニオイテ、
各國人ト共ニ相親シミテ學校生活ヲナスガ如シ。
諸子ハ諸子ノ學校ヲ以テ、他ノ學校ヨリモ總ベテノ點
ニオイテ優リタランコトヲ望ムガ如ク、將來ノ米國市
民トシテハ、米國ノ進歩發達ヲ理想トシテ、アクマデ其
ノ國ノ爲ニ盡ス覺悟{カクゴ}アルベシ。國ノ榮ユルモ衰フルモ、
皆其ノ國民ノ心ガケ如何ニ在リ。諸子ハ常ニ正義ノ觀
念ノ上ニ立チテ、公明正大、其ノ國家ノ爲ニ善良ナル市
民タランコトヲ期セヨ。
日本國ノ祖先以來ノ歴史ハ、日本國民ノ優良ナル特|質{シツ}
≪p227≫
ヲ示セリ。幾多ノ美シキ史上ノ實話ヲ學ビ、現今ノ日本
國ノ發達ヲ知レル諸子ハ、他人種ノ間ニ立チテ競爭ス
ルニアタリテモ、優良ナル日本國民ノ子孫タル自信ヲ
失フコト無カルベシ。日本民族ノ長所ヲワスレズ、其ノ
美徳ヲ保チテ、サスガハ日本民族|系{ケイ}ノ米國市民ナリト、
米國各人種ノ間ニ尊重セラレンコトヲ期セヨ。コレ諸
子ガ米國ニ盡ス所以ニシテ、同時ニ其ノ父祖ノ國ニ報
ユル所以ナリ。
諸子ヨ、將來米國市民タルベキ諸子ヨ。決シテ父祖ノ名
ヲ汚スコトナカレ。父祖ノ國ノ名ヲ辱ムルコトナカレ。
≪p228≫
第六十四課 明治三十七八年戰役
日本が東洋の平和を保全せんことを希ふは一日の故
にあらず。二十七八年戰役の後、遼東{りようとう}半島を支那{しな}に還付{かんぶ}
せしも之が爲なり。然るに露西亞{ろしや}は、明治三十三年、支那
兵の滿|洲{しう}に在りし露西亞人を襲{おそ}ひし機會に乘じ、滿洲
を占領し、尚進みて朝鮮{ちようせん}をも威|壓{あつ}せん勢ありき。朝鮮は
日本と一衣帶水をへだつるのみにて、朝鮮の安危は日
本の安危に關すること大なるを以て、日本はしば〳〵
露西亞に交|渉{しよう}せしが、言を左右に託{たく}して回答を延引す
るのみならず、かへりて滿洲に在る兵員を増加し、日本
≪p229≫
をおびやかさんとする色を示せり。
こゝにおいて、日本はやむなく三十七年二月、國交|斷{だん}絶
の由を露西亞に通知し、同月十日、宣戰の大詔下れり。
日本陸海軍の精|鋭{えい}は戰ふ毎に必ず勝てり。其の聯{れん}合艦
隊は海軍大將東郷平八郎を司{し}令長官として、しば〳〵
旅順口{りよじゆんこう}の敵艦隊を破り、東洋の海上權をにぎりしが、陸
軍は陸軍大將大山|巖{いはほ}を總|指揮{しき}官として、一軍は朝鮮よ
り敵を追撃して、滿洲の野に轉戰し、しきりに敵を北方
に追ひ、別軍は旅順の要|塞{さい}を攻めて之を落し、更に北進
して滿洲軍に合し、三十八年二月の末より三月十日に
≪p230≫
われる奉天大會戰の後、大いに之を破り、敵兵四萬を虜{とりこ}
にせり。
かゝる間に敵は三十八|隻{せき}より成る大艦隊を東洋に回
航せしめしが、東郷大將は之を日本海にむかへ撃ちて、
全滅せしめたり。
合衆國大統領ルーズベルトは日本海海戰の後、日本及
び露西亞に講{こう}和を勸{かん}告せしかば、兩國之に應じて、日本
は外務大臣小村|壽太郎{じゆたろう}・特命全權公使高平小五郎を、露
西亞はウヰッテ及びローゼンを全權委員として、合衆國
のポーツマスに會合して、同年九月、遂に平和條約を結
≪p231≫
ぶに至れり。其の結果、露西亞は日本が朝鮮に對して政
治上・軍事上の利益を保有することを承認し、樺太{からふと}の南
半を日本に割き、露西亞が占領せる關東州の利權も一
切日本の手に移せり。
第六十五課 日本海海戰
露國が連敗の勢を回復せん爲、本國における海軍のほ
とんど全勢力を擧げて組織せる太平洋第二・第三艦隊
は、朝鮮海峽{ちようせんかいきよう}を經てウラヂオストックに向はんとす。我が
海軍は初より敵を近海にむかへ撃つの計を定め、全力
を朝鮮海峽に集中せしが、遂に之と會して、世界史上空
≪p232≫
前なる大海戰となれり。
明治三十八年五月二十七日午前四時四十五分、哨{しよう}艦|信
濃{しなの}丸は「敵艦見ゆ。」と報告す。東郷司令長官は直ちに全軍
に出動を命じ、先づ小軍艦をして敵艦隊を沖島{おきのしま}附近に
さそひ寄せしむ。
「皇國の興廢此の一戰にあり。各員一|層{そう}|奮勵{ふんれい}|努力{どりよく}せよ。」と
の信|號旗{ごうき}が戰|闘{とう}旗と共に我が旗艦三笠にかゝげられ
しは午後一時五十五分にして、東郷司令長官は三笠以
下六|隻{せき}の主戰艦隊をひきゐて、上村艦隊と共に先頭に
ある敵の主力に當り、片岡{かたおか}・出羽{では}・瓜生{うりふ}・東郷(少將)の諸隊は
≪p233≫
敵の後尾をつく。
敵の先頭部隊は直ちに砲火を開始せしが、我は之に應
ぜず、距離{きより}六千メートルに近づきて始めて應戰し、はげ
しく敵を砲撃せしかば、敵の艦列たちまち亂れ、早くも
戰列をはなるゝものあり。
風さけび、海怒りて、波は山の如くなれども、熟練なる我
が砲手は物ともせず、うち出す砲|彈{だん}よく命中して、敵艦
續す火災を起し、火煙海をおほひて敵を包み、午後二時
四十五分の頃ほひ、勝敗の數はすでに定まれり。敵はか
なはじと、にはかに路を變へてのがれ去らんとす。我は
≪p234≫
急に其の前路をさへぎりて攻撃
せしかば、敵の諸艦皆多大の損害
を受け、續いて我が驅逐{くちく}隊より二
回の水雷{すいらい}攻撃を受けて、敵の兩旗
艦は遂に沈|没{ぼつ}し、其の他にも相つ
いで沈没せるもの多し。夜に入り
て、我が驅逐隊・水雷|艇{てい}隊は砲火を
くゞつて敵艦にせまり、無二無三
に攻撃せしかば、敵艦隊は四分五
|裂{れつ}の有樣となれり。
≪p235≫
明くれば二十八日、天よく晴れて
海波靜かなり。我が艦隊は東郷司
令長官の命により、欝陵{うつりよう}島附近に
集りて敵を待ちしが、東方に當り
て、はるかに數條の黒煙を見る。よ
りて主戰艦隊及び巡洋艦隊は東
方に向つて、其の進路をふさぎ、片
岡・瓜生・東郷の諸隊は其の退路を
絶ちて、午前十時十五分全く敵を
包圍せり。敵今はのがれぬところ
≪p236≫
と覺悟{かくご}したりけん、ネボガトフ少將はにはかに戰艦ニ
コライ一世以下の四隻を擧げて、其の部下と共に降服
せり。
敵の司令長官ロジェストウェンスキー中將は昨日の戰闘
に傷を負ひ、部下と共に一驅逐艦に移りしが、我が驅逐
艦の漣{さゞなみ}・陽炎{かげろふ}の二隻に追撃せられ、遂に捕へらるゝに至
れり。
此の兩日の戰に、敵艦の大部分は我が艦隊の爲に、或は
撃沈せられ、或は捕|獲{かく}せられて、三十八隻の中にげおほ
せたるは巡洋艦以下數隻のみ。敵の死傷及び捕虜{ほりよ}は司
≪p237≫
令長官以下一萬六百餘人。我が軍の死傷はなはだ少く、
沈没したるものわづかに水雷艇三隻に止れり。
東郷司令長官此の戰状を報告し、其の後に附加してい
はく、
「我ガ聯{レン}合艦隊ガ克{ヨ}ク勝ヲ制シテ前記ノ如キ奇|績{セキ}ヲ
收メ得タルモノハ、一ニ天皇陛下ノ御稜威{ミイツ}ノ致ス所
ニシテ、固{モト}ヨリ人爲ノ能クスベキニアラズ。殊ニ我ガ
軍ノ損失・死傷ノ僅{キン}少ナリシハ歴代神|靈{レイ}ノ加|護{ゴ}ニ依{ヨ}
ルモノト信仰スルノ外ナク、嚮{サキ}ニ敵ニ對シ勇進|敢{カン}戰
シタル麾下{キカ}將卒モ皆此ノ成果ヲ見タルニ及ンデ、唯
≪p238≫
唯{タヾタヾ}感激ノ極、言フ所ヲ知ラザルモノノ如シ。」
と。勝報上聞に達するや、司令長官に賜{たま}へる勅語の中に、
「朕ハ汝等ノ忠|烈{レツ}ニ依リ祖宗ノ神靈ニ對フルヲ得ル
ヲ懌{ヨロコ}ブ。」
と仰せられたり。將卒之を聞きて感泣せざるはなかり
き。
第六十六課 京城
京城は朝鮮{ちようせん}總督府の所在地である。北に北|岳{がく}を負ひ、南
に南山をひかへ、小さい川が西から東へ市中を貫いて
流れて居る。四方は城壁に圍まれて、八つの城門がある。
≪p239≫
最も大きいのが南大門と東大門である。戸數は七萬、人
口は約三十萬あつて、其の中の五萬六千人は日本内地
の人である。内地人の住家は南の
方に多く、朝鮮人の住家は北の方
に多い。總督府は南山の倭城臺{わじようだい}に
ある。
市中を歩いて第一に目につくの
は、家の低くて小さい事である。冬
になると寒さが甚だしいので、家
の構{こう}造は主として寒氣を防ぐ樣
≪p240≫
に出來てゐる。オンドルといつて、床{ゆか}下に土石を盛り、數
條のみぞを造つて、一方の口から火をたいて室内を温
める仕かけになつてゐる。家が大きいと温りにくいか
ら、成るべく低く小さくする樣になつたのである。
第二に目につくのは白い着物である。男はゆるやかな
股引{もゝひき}をはき、胴衣{どうぎ}を着けて、其の上に長い上着を着てゐ
るが、上着と股引は皆白地である。女は短い上着を着て、
西洋婦人の用ひる樣なゆるやかな袴{はかま}を着けてゐる。
婦人は大てい室内にばかりゐて、來客に會ふことも、外
出することもめつたにない。たま〳〵外出する時は、う
≪p241≫
ちかけの樣なものをかぶつて、目ばかり出してゐる。上
流の婦人になると、四方をしめた輿{こし}に乘つて、外からは
全く見えない樣にする。
朝鮮が日本に併{へい}合して、此の地に總督府が置かれてか
ら、もう十年近くなる。さうして萬事が日本化されて行
つてゐるから、此の樣な變つた風|俗{ぞく}も遠からず見られ
なくなつてしまふであらう。
第六十七課 明治天皇御製
淺緑すみ渡りたる大空の
廣きをおのが心ともがな。
≪p242≫
積りてははらふが難くなりぬべし、
ちりばかりなることと思へど。
心ある人のいさめの言の葉は
やまひなき身の藥なりけり。
四方の海皆はらからと思ふ世に
など波風の立ちさわぐらん。
波風の靜かなる日も船人は
かぢに心をゆるさざらなん。
年々におもひやれども、山水を
くみて遊ばん夏なかりけり。
≪p243≫
しづが屋ののきばに高く積上げし
新わらしろくしも降りにけり。
器にはしたがひながらいはほをも
とほすは水のちからなりけり。
とるさをの心ながくもこぎ寄せん、
あし間の小舟さはりありとも。
思ふ事貫かん世を待つほどの
月日は長きものにぞありける。
目に見えぬ神の心に通ふこそ
人の心のまことなりけれ。
≪p244≫
古の書見る度に思ふかな、
おのが治むる國は如何にと。
第六十八課 大國民の品格
世界強國の國民たる名|譽{よ}を負ふものは、國民としても
之に相應する品格を備へざるへからず。
國民は個人の集合より成るものなれば、國民の品格と
いふも各個人の品格の外に出でず。國民各自の行爲を
つゝしみ、品格を重んずるは即ち國民の品格を高むる
所以なりといへども、殊に他國人の注意を引くものは
社會の公徳及び國民の度量なりとす。
≪p245≫
公徳とは公衆の衞{えい}生を重んじ、社會の規律{きりつ}を尊び、公共
の物品を大切にする等、總べて衆人の利害を考へて、其
の行爲をつゝしむ徳義をいふ。市街・道路を不|潔{けつ}にし、學
校其の他公共の建築物を汚し、公園の樹木を折取るが
如きは、公徳の低きを示して、大國民の品格を傷つくる
ものなり。
道を行くにも、舟・車に乘るにも、旅館に宿るにも、自ら公
衆に對する禮義あり。衆人群集の場處にて他人をおし
のけ、汽車・汽船等の中にて我獨り廣き場處を占領し、旅
館にて夜おそく高聲を發して、他人の安眠をさまたぐ
≪p246≫
るが如きは、文明國民の爲すべきことにあらず。老人・長
者の爲に道をゆづり、幼者・不具者の爲に席を與ふるが
如きは、個人としても、國民としても、其の心の奧ゆかし
きを感ぜずや。
汽車・汽船・電車等の交通機關、博{はく}物館・圖書館等の營造物
に在りては、敏速と規律とを尊ぶものなれば、之に必要
なる諸種の規則{きそく}あり。若し公衆の間に、規則を守り、規律
を重んずる心乏しき時は、此等文明の利器も其の運用
を全くすること能はず。英國にては停車{ていしや}場に手荷物を
預くるに合|札{ふだ}を要せず、旅客は下車して各自に荷物を
≪p247≫
受取るに、間違の起れることほとんど無し。獨逸{どいつ}にては
圖書館の書物を借受くるに、一枚の葉書にて申しこめ
ば直ちに送り來る。之を返すにも其の期日を違ふる者
絶えてなしといふ。
人種・宗教・風|俗{ぞく}の如何を問はず、いはゆる四海兄弟の精
神を以て、ひとしく他人を親愛するは大國民の度量な
り。國力我に劣れる國民を見て、やゝもすれば輕|侮{ぶ}の念
を以て之をむかへ、甚だしきは之と交るを喜ばざるが
如きは、かへつて度量の狹{せま}く、品格の低きを示すものな
り。
≪p248≫
日本語讀本卷六終
≪附 p001≫
新出漢字表
乏。件 企 似 例 侍 修 個 備 傷 儉。兒。共 具。再。
制 割。劣 効 勞 勤 働 勵。包。化。匹。協。卯 危。可
吉 否 呈 吸 吹 周 呼 嚴。困 圍 團。堀 塩 壁。奇
奧 奬。委。宅 守 宣 害 容 寄 密 富 察。封 尋。尚。
就。展 屬。州。巨。己。常。干。廢。延 廻。式。復。必 忍
怠 性 恐 悔 想 慰 慶 憤。才 扱 投 折 招 捕 捷
授 排 掘 接 損 操。敏。易。更 最。朕 期。未 束 某
格 條 樹 檢。歎。殊 殖。段。永 汚 沈 河 沿 泣 混
減 漸 潮 激 濱 灣。災 熟 營。爲。片 版。特。獨。珍
≪附 p002≫
現。甚。甲 留 略 異。盜。眠 督。示 禁。秀 移 税 稻。
窓。童 端 競。筆 箇 算。糖。純 紳 組 結 絶 經 練
總。缺。署。耐。聽。育 肥 背 能 脚。臨。與 興。般 舶。
荒 著 藏。衆。複。設 許 詔 誠 誤 請 論 謁 證 識
議。豐。財 責 貴 貸 貿 費 賀 賊 頼。越。辭。辱。辻
速 遂 違 遷 選。量。針 録 鏡。閣。降 限 陛 隣。雄
雜。靜。非。響。頂 預 額。飼 館。驚。
讀替漢字表
四方。九。主。事。亡 交 京。任 伐 休 似 低 住 何處
例 保 修 備 備 傷 優 優。公 共。再。前 割。力 助
≪附 p003≫
務 勞 勵。包。匹。卒。占。卵。及。否 吸 味 呼 喜 器
嚴。圍 圖 圖。埋 塩 壁。壯。奬。好 好 妻。守 守 完
定 容 寄 富。對。小路 尚。就。屋。岩 峯。差。布 布
希 常。幼 幼。廣。引 弱 強。形。待 徒 復。必 志 快
怒 思 悔 情 惡 想 慰。戸。招 持 捕 授 掘 操。支。
救。新。早 明 易 易 暑 暖 暗。書 最 會。望。板 林
果 森 樹 樹。止 此 此處 歩。殊 殖。毛。永 池 治
沿 泣 浴 消 深 温 温 滿 漸 潮 潮。然 營 燈火。
爲 爲。獨 現。甲 留 異。發。百。盡。直 直 眠 眼。短。
石 砂。移 稱。窓。答。米。紅 終 組 絶 結 經 總 織
≪附 p004≫
續。羊 群。老。耳 聲 聽。育 能 能 脚。自。致。與 興
興。舌。舟。若 荒 荒 萬 著。蟲。解。計 計 記 設 許
認 認 説 請。谷。豐 豐。負 貫 責 貯 貴 費 賢。赤。
走。轉。追 連 遂 過 違 違 遷 選 選。郷。針。防 附。
限。集。靜。面。響。頂 預 頭。風情。養 養。香。
熟語表
教育1 勅語1 共同2 外役2 寸時2 産卵2 坐食2 分業3
複雜3 才能3 一致3 文明3 家屋3 遊覽5 活動5 本丸5
中心地5 群衆5 遊歩5 航行5 明敏6 敗死6 和議6 威=
權6 形勢6 大捷6 威望6 制度6 改善6 貿易7 長日月7
≪附 p005≫
困難7 海事7 球形7 客遊7 遠征隊7 早朝7 前途7 失=
望7 不明7 深紅7 命名7 群集7 先見7 引見7 立志8
天分8 適當8 情念8 意志8 七轉八起8 實務家8 忍耐8
終點9 一漁村9 門戸9 急激9 地勢9 參拜9 動的9 林=
石9 池泉9 配置9 水路10 點在10 通航10 古戰場10 續出11
文弱11 社會11 使節11 空稱11 國論11 時勢11 變遷11 競技12
校風12 學風12 消長12 盛衰12 意氣12 敏捷12 強健12 主要12
共力同心12 理想12 就任式12 意氣12 養成12 複合13 過不=
及13 缺點13 兒童13 感賞13 發育13 心術13 沿岸14 海岸線14
平行14 千古14 豐富14 交通機關15 沿海航路15 接續線15
≪附 p006≫
盡頭15 支流15 傳道者15 移住民15 精製15 對岸15 温和16
美麗19 安易16 民族16 平和16 親密16 容易16 正義16 成長16
不始末17 大任17 不在勝17 感化17 家庭17 和樂17 和合71
困苦17 支出17 費用17 身分不相當17 活計17 儉約17 美徳17
義理17 附合17 應分17 老成人18 苦學18 才學18 學識18 同=
門18 侍讀18 建白18 異數18 多方面18 識見18 敏才18 傳記18
行文18 流麗18 風情19 行水19 有福20 首領20 榮職20 占領20
殖民地20 課税20 決議20 激怒20 全院20 反感20 氣勢20 時=
局20 連戰連捷20 回復20 委任權20 事情20 實功20 光榮20
國歩困難20 人格20 世界的價値21 住宅地21 特有21 村落21
≪附 p007≫
一直線21 貫通21 好材料21 奇觀21 熱帶植物21 公開21 紀=
元節22 卒業式22 天長節22 市場22 在留22 布設23 一大畫
圖23 林泉23 決戰23 潮流23 大動亂23 怒潮23 舟行28 御製24
要港24 中腹24 改築24 觀望24 應接24 私設24 奇人25 武家=
政治25 治亂25 結果25 國體25 尊皇25 大義25 愛國心25 忠=
君愛國25 思想25 荒廢25 建議25 威權25 兵備25 温良26 教=
養26 義勇兵26 高尚26 熱誠26 異例26 可否26 爭議26 觀念26
難局26 不合理26 終局26 國威26 高遠26 道徳26 建設者26
功業26 歎賞26 暗殺26 休養27 慰安27 和樂27 財産27 召使27
圓滿27 責任27 美化28 相違28 氣分28 周圍28 空地28 至當28
≪附 p008≫
殺風景28 永久的28 愛郷心28 助長28 干潮29 露坐29 相好29
敬仰29 氏神27 英資29 興亡29 著名30 理法30 獨力30 計算30
歎稱30 回答31 衆説區々31 方針31 和親條約31 來朝31 勅=
許31 要撃31 優勢31 光景32 軍用品32 背景32 製塩業32 市=
區32 生氣32 四散33 良人33 悲歎33 家門33 再擧33 非常33
實例33 志操33 家政33 事變33 平時33 確然33 自若33 合圖34
愛情34 運河35 航程35 果然35 計畫35 經費35 巨大35 國防35
修學36 長命36 短命36 美名36 利用36 徒費36 後悔36 約束36
集會36 貴重36 空費36 損失36 敏活36 招待36 法會37 參列37
敬白37 健勝37 落成式37 光臨37 敬具37 清福37 途次37 清=
≪附 p009≫
榮37 授與式37 天與39 異樣39 戰史39 山光水色39 眼界39
連峯39 靜波39 長足40 空前40 正殿40 群臣40 萬機40 勵精40
學制40 國運40 領有40 對等40 主權者40 崩御40 陛下40 公=
事41 私事41 重要41 山積42 林立42 風致42 産額42 漸次42
舊觀42 匹敵42 耕種43 現今43 優良43 首位43 現状43 誤解43
野外43 健全43 高貴43 一別以來44 二番稻44 世界無二44
出版44 義足45 祭見物45 紳士45 不思議45 聽衆45 調子45
國歌45 目禮45 群峯46 景致46 雄大46 山頂46 文物46 衰運46
優麗46 所用47 廻轉47 精確47 雜物47 細片47 細小47 熟達47
協同48 公衆48 保全48 協力同心48 不心得48 流行48 不正=
≪附 p010≫
直48 格言48 去就48 擧動49 事件49 暴擧49 嚴談49 協議49
暴徒49 居留民49 無法49 應戰49 宣戰49 全權大臣49 獨立=
國49 確認49 永遠49 地歩50 治世50 布教50 盡力50 内亂50
都度50 強請50 義憤50 版圖50 利權50 樹立50 廢止50 寄航51
謁見51 公式51 中絶51 消滅51 記録52 嚴重52 保持52 通商52
勞動52 品性52 非難52 發展52 個人52 自由渡航52 船舶53
巨艦53 修理53 造營53 意向53 巨額53 安住地53 敗殘53 紳=
商53 別宅53 經營者54 祖國54 天職54 確信54 故國54 發端54
特權54 總理54 資産54 奬學資金54 優秀54 公共事業54 同=
慶55 近情55 有望55 天然林55 無盡藏55 花客56 精通56 破=
≪附 p011≫
産56 約定56 最善56 商略56 手段56 富國56 強兵56 増殖56
報國56 興味57 沿道57 法廷57 署名57 反響57 記念物57 回=
想57 街頭57 實地練習59 尊容59 來意59 好意59 巡覽59 副=
直勤務59 端然59 輕卒59 交代59 萬感59 貴紳59 感想59 有=
爲59 感喜59 遊金60 利殖60 手形60 特別60 正貨60 貿易商=
會61 動機61 雜貨店61 尋常一樣61 督勵61 勤續者61 檢査61
至誠61 異種族62 混同62 近似62 特色62 隣同志62 天産62
雜然62 統計62 純綷62 協約62 轉航62 市民63 特權63 公明=
正大63 優良63 自信63 長所63 一衣帶水64 安危64 延引64
大詔64 海上權64 大會戰64 連敗65 組織65 集中65 皇國65
≪附 p012≫
興廢65 主戰艦隊65 先頭65 後尾65 艦列65 熟練65 砲手65
包圍65 戰状65 上聞65 感泣65 所在地66 戸數66 來客66 上=
流66 品格68 行爲68 度量68 安眠68 不具者68 營造物68 敏=
速68 利器68 運用68 四海兄弟68
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底本:筑波大学附属図書館蔵本(810.7-H45-6 10014023661)
底本の出版年:大正6[1917]年3月25日印刷、大正6[1917]年3月28日発行
入力校正担当者:高田智和、堤智昭
更新履歴:
2022年8月30日公開