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浦里時次郎明烏後の正夢 二編上
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凡例
1.本文の行移りは原本にしたがった。
2.頁移りは、その丁の表および裏の冒頭において、丁数・表裏を括弧書きで示した。また、挿絵の丁には$を付した。
3.仮名は現行の平仮名・片仮名を用いた。
4.仮名のうち、平仮名・片仮名の区別の困難なものは、現行の平仮名に統一した。ただし、形容詞・副詞・感動詞・終助詞・促音・撥音・長音・引用のト等に用いられる片仮名については、原表記で示した場合がある。 〔例〕安イ、モシ、「ハイそれは」ト、意気だヨ、面白くツて、死ンで、それじやア
5.漢字は現行の字体によることを原則としたが、次のものについては原表記に近似の字体を用い、区別した。「云/言」「开/其」「㒵/貌」「匕/匙」「吊/弔」「咡/囁」「哥/歌」「壳/殻」「帒/袋」「无/無」「楳/梅」「皈/帰」「艸/草」「計/斗」「弐/二」「餘/余」
6.繰り返し符号は次のように統一した。ただし、漢字1文字の繰り返しは原本の表記にしたがい、「〻」と「々」を区別して示した。
平仮名1文字の繰り返し 〔例〕またゝく、たゞ
片仮名1文字の繰り返し 〔例〕アヽ
複数文字の繰り返し 〔例〕つら〳〵、ひと〴〵
7.「さ」「つ」「ツ」に付く半濁点符は「さ゜」「つ゜」「ツ゜」として示した。
8.Unicodeで表現できない文字は〓を用いた。
9.句点は原本の位置に付すことを原則としたが、文末に補った場合がある。
10.合字は〔 〕で囲んで示した。 〔例〕殊{〔こと〕}に、なに〔ごと〕、かねて〔より〕
11.傍記・振り仮名は{ }で囲んで示した。 〔例〕人生{じんせい}
12.左側の傍記・振り仮名の場合は、冒頭に#を付けた。 〔例〕めへにち{#毎日}
13.傍記・振り仮名が付く位置の紛らわしい場合、文字列の始まりに|を付けた。 〔例〕十六|歳{さい}
14.原本に会話を示す鉤括弧が付いていない場合も、これを補い示した。また庵点は〽で示した。
15.原本にある話者名は【 】で示した。 〔例〕【はる】
16.割注・角書および長音符「引」「合」は[ ]で囲んで示した。
17.不明字は■で示した。
18.原本の表記に関する注記は*で行末に記入した。 〔例〕〓{たど}りて*〓は「漂+りっとう」
19.花押は〈花押〉、印は〈印〉として示した。
20.画中文字の開始位置に〈画中〉、広告の開始位置に〈広告〉と記入した。
本文の修正
1.翻字本文を修正した場合には、修正履歴を末尾に示す。
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(1オ)
明烏第二編序
更科日記{さらしなにき}に。あすた川{かは}とかきのせしは。
隅田川{すみだがは}の渡{わた}し舟{ぶね}。花{はな}の東{あづま}のうき雲{くも}に。
心{こゝろ}をのせし|四ツ手駕籠{よつでかご}と語{かた}りし。新内{しんない}
ぶしの一曲{いつきよく}を。合作{がつさく}なしたる三冊{みまき}の中本{とぢぶみ}。
時代{じだい}と世話{せわ}と人情{にんぜう}に。無常{むじやう}を観{くわん}ずる善悪{ぜんあく}
邪正{じやしやう}。爰{こゝ}にあらはす時次郎{ときじらう}か。身{み}は勘当{かんどう}の
(1ウ)
しのびごま。其{その}合方{あひかた}に浦里{うらさと}が。はしらと
たのむかひなくて。蛤町{はまぐりちやう}の袖{そで}の雨{あめ}。|ねを{根緒}だに
たてぬ泣落{なきおと}し。水調子{みづてうし}の憂{うき}事{こと}も。平次{へいじ}
が船{ふね}の継棹{つぎさほ}に。呼吸{こきふ}の間{ま}ほど調度{てうど}能{よ}く。網
曳{あびき}の糸{いと}の二上{にあが}りに見合{みあは}す顔{かほ}の調子笛{てうしふえ}。あ
はすお先{さ}きは姫公{ひめぎみ}に七種{なゝぐさ}ふます綴列{ぎやうれつ}の。
梅ケ谷{うめがや}つぢも|こあふみ{古近江}の。禿{かぶろ}のみど
(2オ)
り寒声{かんごえ}に向{むか}ふの人{ひと}を呼糸{よびいと}や。かせをかけ
たる三味線{さみせん}は。カノ荒川{あらかは}のかん違{ちが}ひ。ひく手{て}を
取{とつ}て擲出{なげいだ}す。蝶五郎{てふごろう}が意気地{いきぢ}の|面罵
壮{めりはり}ふしおとしの流行{りうかう}を穿{うがち}て伊逹{だて}に浮
世{うきよ}を送{おく}り三重{さんぢう}うれひじりの段{だん}ぎりは
貞婦{ていふ}於照{おてる}が心{こゝろ}のかみごま。かけてぞ
たのむ明烏{あけがらす}後{のち}の正夢{まさゆめ}後篇{こうへん}は鶴賀{つるが}
(2ウ)
若狭{わかさ}が正本{せいほん}を写{うつ}す|書冊舗{ふみや}の板
元{はんもと}にかはりて。
琴通舎英賀誌
$(3ノ5オ)
風{かぜ}は其{その}名{な}の香{にほひ}を飛{とば}し雨{あめ}は姿{すがた}の柳{やなぎ}を櫛{くし}けつる
筥{はこ}せこの節{せつ}なるや懐中{くわいちう}鏡{かゞみ}の裏里{うらさと}に縁{ゑん}の
あるとは天下一|金心{きんしん}鉄婦{てつふ}の文字入{もじいり}鹿子{かのこ}寔{ま〔こと〕}に
掛{かけ}てもお願{ねが}ひあそばしまし
かゝる烈操{れつさう}の質{しつ}と
ならん〔こと〕を。
(3ノ5ウ)
明烏後正夢巻之四
江戸 南仙笑楚満人 滝亭鯉丈 合作
第七回
かゝる時{とき}何{なに}を待乳{まつち}の夕嵐{ゆふあらし}雨{あめ}と浪{なみ}とを簑笠{みのかさ}に。うけて
とり艉{かぢ}面{おも}かぢに。操{あやつる}艪{ろ}かひみなれ棹{さほ}。なれし業{わざ}とて
手ばしこく。風{かぜ}立{たつ}浪{なみ}の濁{にごり}しを。よき汐間{しほあい}と宮戸川{みやとがは}。舟{ふね}を
うかべて網{あみ}引提{ひきさけ}。たゞよふ片{かた}辺は津田堤{つだつゝみ}。手馴{てなれ}し投網{とあみ}
(6オ)
こゝろのまゝに。縄{なは}を手繰{たぐり}て打{うち}いるゝ。とたんに舟{ふね}の胴{どう}の間{ま}へ。
どふとひゞいてとびいる女{おんな}。これはと驚{おどろ}く網引{あびき}の男{おとこ}。堤{つゝみ}の上{うへ}ニ
はあはてる人影{ひとかげ}。彼{かの}舟人{ふなびと}は心{こゝろ}きゝて。其{その}風情{ふぜい}をや察{さつ}しけん。片
手{かたて}に投網{とあみ}手操{たぐり}よせ。片手{かたて}に女{をんな}を抱{いだき}留{とめ}。耳{みゝ}に口{くち}よせさゝやき
つ。網{あみ}を引上{ひきあげ}しぼりしまゝ。|一ト声{ひとこへ}わつと音{おと}たてゝ。そこりし
浪間{なみま}へうち込{こめ}ば。ぱつとたつたる水{みづ}けむり。南無阿弥陀仏{なむあみだぶつ}と
いふまぐれ。土手{どて}のうへには篠塚婆{しのつかばゝ}。駕{かご}かきもろとも大声{おほごへ}|上ケ{あげ}|助ケ
舟{たすけふね}ヤア[引]イたすけ舟{ふね}と。呼{よぶ}声{こへ}跡{あと}にきゝなして。乗{のり}きる早緒{はやを}手練{しゆれん}
(6ウ)
の早業{はやわざ}かねて覚悟{かくご}の浦里{うらざと}も。さすが命{いのち}のおしてるや。難波{なには}に
あらぬよしあしの。わかたぬまでも時次郎{ときじらう}に。今{いま}一度{ひとたび}の逢{あ}ふ〔こと〕
を。心{こゝろ}に誓{ちかひ}て気{き}をしづめ。流{ながれ}にまかす流{ながれ}の身{み}。実{げ}に川竹{かはたけ}のうき
しづみ。うきを花{はな}なる物語{ものがたり}そのみづぐきの隅田川{すみだがは}浪{なみ}にさかふて
彼{かの}舟{ふね}は。いづくともなく漕{こぎ}去{さり}ける。[そも〳〵浦里をたすけし網引の男はなにものぞ。これかまくらの婦多川に小舟を持て海川に漁り
する業をしてまたなき〔こと〕ゝ蛤町夫婦かせぎの漁師にてあこぎの清次郎といふものなりけり。このほどつゞくしけ日より今日夕汐に一ト網とのり出したるみやと川おもはず舟に落入女かいほうなして
つれかへりいちぶしゞうをたづぬれば山名屋の浦里とて人もしりたる全盛のみかくわしくきけばおさなき時わかれて年経し妹ゆへたがひになのる兄弟のうれしきににてあわれむべし。兄弟他人のはじ
まりとか〔こと〕わざにたがわず妹にかわる兄が悪心由断のならぬはよくの世の中いわしの網にくじらのかゝりし心地して掘出したる金のつるとだましすかしてかくまひける。此所のおもむきは前編
(7オ)
二の巻の絵に御覧ニ入おき申候]それはさておきこゝに亦{また}。在{ざい}鎌倉{かまくら}の諸大名{しよだいみやう}。多{おほ}かる
中{なか}にとりわけて。光{ひか}り照{てり}そふ月星{つきほし}の。紋{もん}もまばゆき千葉館{ちばやかた}。
武家{ぶけ}の行儀{ぎやうぎ}の式作法{しきさほう}。折目{をりめ}正敷{たゞしき}小加佐原{をがさはら}。表{おもて}と奥{おく}の御
鈴{おすゞ}の間{ま}。その傍{かたはら}の小坐敷{こざしき}に。出仕{しゆつし}をとげし奥附{おくづき}の賄役人{まかなひやくにん}荒
川氏{あらかはうぢ}。此方{こなた}は中老{ちうろう}梅ケ谷{うめがや}とて。色香{いろか}もやさしき利発{りはつ}もの。
淵右衛門{ふちゑもん}はしかつべ顔{がほ}【淵】「御上{おかみ}にも御機嫌{ごきげん}よふ。お手前{てまへ}さま
も御堅勝{ごけんしやう}。」と。朝夕{てうせき}しれた武家{ぶけ}気質{かたぎ}も。遠{とう}くて近{ちか}き男女{なんによ}の
中{なか}。ひざすり寄{よれ}ば梅ケ谷{うめがや}も。そらさぬ会釈{ゑしやく}淵右衛門{ふちゑもん}【淵】「わけて
(7ウ)
当年{とうねん}は残暑{ざんしよ}もつよく。拙者{せつしや}などは独身{ひとりみ}ゆへ。何{なに}かにつけて不自
由{ふじゆう}がち。秋{あき}の夜永{よなが}のしのぎがたさ。御推量{ごすいれう}下{くだ}され。お手前{てまへ}
なぞは二見氏{ふたみうぢ}の頼{たのみ}ゆへ。取分{とりわけ}御別懇{ごべつこん}にぞんずれど。兎角{とかく}
縁遠{ゑんとを}く。出雲{いづも}の社{やしろ}の片便{かただよ}りを恨{うらみ}申。」と。あぢに仕懸{しかけ}の花
角力{はなずまう}。梅ケ谷{うめがや}はわざと受流{うけなが}して【梅】「あなたなぞは定{さだめ}て。お物
好{ものずき}もこざりまして。御内室{ごないしつ}お持{もち}遊{あそ}ばすにも。まづお里{さと}からして
御相応{ごさうをう}。御器量{ごきりやう}は元{もと}より。御年齢{ごねんれい}から御取廻{おとりまは}しの御吟味{ごぎんみ}で。どれ
も御心{おこゝろ}に叶{かな}わぬのでござりましやう。」【淵】「イヤ〳〵全{まつた}く女子{おなご}は
(8オ)
氏{うぢ}なふて。玉{たま}の腰元{こしもと}御側衆{おそばしう}。多{おほ}かる中{なか}に只{たゞ}一人{ひとり}。兎角{とかく}さ縁{ゑん}で
ござるから。鼻{はな}の前{さき}に拙者{せつしや}がどふぞとぞんじても。かの片便{かただより}
の赤縄社{いづものやしろ}で。得心{とくしん}せられねば。叶{かな}はぬ事と見へます。」と。すり
より見{み}れどものがたき。御殿{ごてん}の他見{ひとみ}繁{しげ}ければ。もぢ〳〵しながら
【淵右衛門】「イヤナニものでござる。折{をり}を見合{みあはせ}お手まへにサ。」ト。すりよる片
屋{かたや}は手取{てとり}の梅ケ谷{うめがや}。爰{こゝ}ぞととまる土俵{どひやう}ぎは【梅】「ヘヱ此{この}間{あいだ}お頼{たのみ}申
ました織入{をりいれ}の縫紋{ぬいもん}。いつでも大事{だいじ}ござりませぬ。」【淵】「サア〳〵その
義{ぎ}はそのぎ。外{ほか}に亦{また}。」と。あたり見廻{みまは}し梅ケ谷{うめがや}に。抱{いだき}つかんとする
(8ウ)
危{あやう}さを。刎{はね}るは上手{じやうづ}の口車{くちぐるま}【梅】「イヱもふ御用{ごよう}多{おほ}のあなたへ。
さま〴〵な誂{あつらへ}ものを御頼{おたのみ}申まして。」【淵】「イヤ〳〵お手{て}まへの御
用{ごよう}。なんなりと承{うけたまは}る気{き}。御遠慮{ごゑんりよ}は他人{たにん}がましい。それゆへにサア
どふぞ折{をり}を見合{みあはせ}。」と。またもむそふの腹{はら}や■■のせん工{たくみ}のしつこさ*汚損箇所「■■」は「ぐら」か
に。困{こま}り入{いつ}たる折{をり}こそあれ。狭山{さやま}滝本{たきもと}長尾{なが■}とて。御殿{ごてん}に名{な}うての*汚損箇所「■」は「を」か
才発者{さいはつもの}。兼{かね}て和合{なかよき}梅ケ谷{むめがや}が。難義{なんぎ}と見るより。三人の女中{ぢよちう}は
はやくも言合{いひあは}せ。淵右衛門{ふちゑもん}が後{うしろ}から。「梅ケ谷{うめがや}さま召{めし}ます。」と。
いわれておどろく淵右衛門{ふちゑもん}。滝本{たきもと}狭山{さやま}口{くち}〴〵に。「淵右衛門{ふちゑもん}さま折{をり}を
(9オ)
見{み}て。」【長尾】「梅ケ谷{うめがや}さまへ何{なに}を御頼{おたのみ}なされます。」と。きめつけられて
淵右衛門{ふちゑもん}【淵】「イヤサ何{なに}なに。」とばかりに口{くち}ごもり。顔{かほ}は赤{あか}めどない
智恵{ちゑ}の底{そこ}をふるひて「サア何{なに}お姫{ひめ}さまへ伺{うかゞ}ひ申たい義{ぎ}を。」【滝本】「ヱヽ
そりや。此{この}間{あいだ}仰出{おゝせいだ}されました。お月見{つきみ}の御趣向{ごしゆかう}。」【淵】「サアその
義{ぎ}もござれど。夫{それ}より以前{いぜん}チト。野辺{のへん}なぞへ御慰{おなぐさみ}の御歩行{ごほかう}
を。お進{すゝめ}申|上{あげ}よふとぞんずるは。かの角田川{すみだがは}の迎島{むかうじま}に。秋{あき}の七
草{なゝくさ}を趣向{しゆこう}いたしたげにごさる。」と。前〻年{とうから}流行{はやる}菊宇{きくう}が庭{には}を。
今年{ことし}始{はじめ}ての〔ごと〕く聞出{きゝいだ}したるおかしさを。心{こゝろ}のうちに笑{わら}へども。
(9ウ)
詠{ながめ}はあかぬ秋{あき}の花園{はなぞの}。途中{とちう}は屋形{やかた}の舟遊{ふなあそ}びと。顔{かほ}見合{みあは}する
三人{さんにん}の。心{こゝろ}をさとりて梅ケ谷{うめがや}は【梅】「それは能{よい}御心{おこゝろ}が付{つき}ました。
滝本{たきもと}さんお二人{ふたり}さん。御供{おとも}がおいやでもあるまひね。」【長尾滝本さやま】「
どふいたして〳〵。梅ケ谷{うめがや}さまお上{かみ}へおすゝめ遊{あそ}ばしませ。」【梅】「さよふ
ならみなさまも御いつしよに。」【三人】「すぐに御前{ごぜん}へ上{あが}りませう。」
【滝本】淵右衛門{ふちゑもん}さまよふ御気{おき}が付{つき}ましたナア。」【淵】「イヤもふあまり。
世間{せけん}で噂{うはさ}いたしますゆへ。」【梅】「菊宇{きくう}が庭{には}は広{ひろ}イ事でござり
ますネ。」【淵】「ハアいづれも方{がた}御{ご}ぞんじかな。」【さやま】「おまへさんもマア十
(10オ)
|年程{ねんほど}前{あと}〻から流行{はやり}ます新梅{しんむめ}やしき。」【淵】「ハアさよふかな。
ごぜんよろしう。」【梅】「折角{せつかく}の思召付{おぼしめしつき}伺{うかゞ}ひましたらさぞ御
機嫌{ごきげん}。」【滝本】「てうど御髪{おぐし}も遊{あそ}ばして。」【長尾】「今日{こんにち}などは日和{ひより}も
よし。」【梅】「淵右衛門{ふちゑもん}出{で}かしたと。御褒美{ごほうび}の御返事{おへんじ}申ませう。」【淵】「
夫{それ}は大慶{たいけい}。何分{なんぶん}宜{よろしく}おとりなし。」【長滝狭三人】「サア梅ケ谷{うめがや}さま。御前{ごぜん}へ
お上{あが}りなされませ。」と。鶉{うづら}の立{たち}し跡{あと}ひつそり。ちやんとうち
だすお時斗{とけい}も胸{むね}にこたゆる淵右衛門{ふちゑもん}。御前{ごぜん}の首尾{しゆび}は兎{と}も
角{かく}も。此{この}場{ばの}不首尾{ぶしゆび}とつおいつ。賄方{まかないかた}の不承知{ふしやうち}を案{あん}じて
$(10ウ)
浦里
$(11オ)
清次
(11ウ)
御殿{ごてん}をさがりける。[此|御館{おやかた}のお中老{ちうろう}かの梅ケ谷{うめがや}ときこへしは浦里{うらさと}が行合{ゆきあい}姉妹|義理{ぎり}ある姉{あね}としるしたるお松が母の身{み}の上{うへ}
なり。死{し}ぬる覚悟{かくご}の書置{かきおき}して家出{いへで}しながら今こゝにながらへくらすそのゆへは二世を三|世{せ}といゝかはし子までなしたるわがおつと神崎{かんざき}甚{じん}三郎といひしもの千葉{ちば}どの
の家中{かちう}なりしが鎌倉{かまくら}在番{ざいばん}あけて本国|因幡{いなば}へ立別{たちわか}れ発足{ほつそく}の折{をり}からお梅を倶{とも}につれざるは在番{ざいばん}中のしのびづま一トたび古郷へおもむきて国元{くにもと}両
親{ふたをや}に告{つげ}て迎{むか}ひを越{こ}すべき約束{やくそく}なりしが不幸{ふこう}なるかな甚三郎国にかへると間もなく傍輩{ほうばい}のねたみにて人しれずやみうちにあい横死{わうし}せしとの噂{うはさ}
風{かぜ}のたよりにきく斗{ばか}り。月日はたてど甚三郎方よりとひおとづれもあらざればまいにち日にちのものあんじ母はなにあふしのづかばゞ甚三郎より
つけとゞけたへてしのちはあさゆふにくらひつぶすの居喰{ゐぐひ}だのとせけんかまはずどなりちらして悪口{あつこう}せらるゝ口おしさ。かどわかされし身なれどもおさなひ
時からそだでられ親といふ字{じ}のおもければむりなこゞともそのまゝにきゝながしてすますれば人なみ〳〵に成長{せいてう}した恩{をん}をわすれて年寄{としより}のことばを*「そだでられ」の濁点ママ
茶{ちや}にしてきかぬのとふすべられたるそのかなしさ。うひもつらひも身ひとつにあたるのみかは東西{とうざい}もしらぬお松をつめりあげうるさいがきだのほへるのと
(12オ)
いわるゝつらさふびんさに母のまへをばいゝくろめ里親{さとおや}の方へたのみやり心のうちに片時もわすれぬおつとの|仇敵{かたき}実{じつ}否を正してむくはんと思ふ心にひきかへてしの
づかばゝはあちこちと口をたづねてお梅をば銭ある人にかこはせんともくろむやうすを見るよりも浦里方へお松が行末{ゆくすへ}くわしくたのむ死出{しで}のたびかへらぬ
むかしとおもひきり母{はゝ}と妹{いもと}をいつわりしもおつとの敵{かたき}をうたんため千葉家{ちばけ}にたよりをもとめしが二見{ふたみ}重{ちう}右衛門といふ家中の女房お汐{しほ}といふはお梅{むめ}が手
習{てならひ}傍輩{ほうばい}なりしゆへこれをたのみてゆきければおさなゝじみのやさしくもお梅をいとこといゝたてゝ千葉家{ちばけ}のお末奉公{すへほうかう}にさしいだせしがきりやうといゝ手跡{しゆせき}と
いひおめづ場{ば}うてぬとりまはしことに手跡{しゆせき}は御家流{おいへりう}指南{しなん}をしてもはづかしからずと姫君{ひめぎみ}の御祐筆{ごゆうひつ}にとりたてられ一二年の程{ほど}に出世{しゆつせ}して今は中老|梅{うめ}が谷{や}
と出頭{しつとう}ならぶかたもなし。かく奉公{ほうこう}のそのうちもおくにのやうす甚三郎がうたれし時のありさまをきゝいださんとおもての役人中{やくにんぢう}をはじめとして勤番衆{きんばんしゆう}のうわさ
ばなしもうかとはきかぬ心のみさほ。かゝる貞女{ていじよ}としらずお梅が人になれやすくあいきやうあるをおのが身にひきくらべたるうはきもの折{をり}にふれてたわふれ〔ごと〕
いひよるものもおほかりしが中にも荒川{あらかは}淵{ふち}右衛門とて二百|石{こく}の知行{ちぎやう}を取{とり}奥附
役{おくづきやく}人わが好色{かうしよく}の心よりお梅が人をそらさぬをうぬぼれかゞみにうつし取{とり}をり〳〵
(12ウ)
是をくどきける。○すべてこの巻{まき}は前編{ぜんへん}にいわざることをおもひのほかにときいだせばこのふみをよむおさなたちさきにあらはす三冊をおほかたおぼへておわすとも
ふたゝびこゝにてらしたまはゞゆへよしはやくわかるべし。こはわが筆{ふで}のおろかにしておさなたちにとけがたからんと心をもちひて申になん]。
第八回
秋{あき}の野{の}に咲{さき}たる花{はな}を指{ゆび}をりて。かきかぞふれば七種{なゝくさ}のはな。
万葉{まんよう}の園{その}詩経{しきやう}の園{その}。部類{ぶるい}を分{わ}けし野{の}の錦{にしき}。四季{しき}の詠{ながめ}の
他国{たこく}にハまたあるまじき津田堤{つだつゝみ}。宮戸川{みやとがは}に舟{ふね}をうかべて。
うちやゆかしき紫{むらさき}の。幕{まく}にもかゞやく月{つき}とほし。舟縁{ふなべり}の毛氈{もうせん}は
浪{なみ}に映{ゑい}じてうつくしく。船{ふね}なればこそ凉{すゞみ}かなと。宝晋斎{ほうしんさい}の吟{ぎん}も
(13オ)
おもひやる。千葉家{ちばけ}の奥{おく}の|一ト群{ひとむれ}は。白浪{しらなみ}やたゞよふ水{みづ}に影{かげ}
見へてと。御側{おそば}小姓{こせう}に連引{つれびき}は。おめず場{ば}うてぬ町芸者{まちけいしや}
家形{やかたの}水棹{みさほ}しづやかに。陸{くが}にも引{ひく}やひき綱{づな}の。其{その}緒{を}につゞく
供舟{ともぶね}に。着替{きかへ}と見へて町芸者{まちげいしや}【豊駒】「ヲヤあやまるの。」と捨{すて}
ぜりふ。簾{すだれ}おろして河水{かはみづ}の化粧{けしやう}。また凉{すゞ}しくもいさぎよし。
初勤番{はつきんばん}の荒川{あらかは}は。只{たゞ}きよろ〳〵と目移{めうつり}して。いづれあやめと
引|風邪{かぜ}に。かさなる〓{くさめ}二ツ三ツ。今朝{けさ}より袴{はかま}ためつけて。膝{ひざ}も*〓は「口(偏)+壷」
くづさぬ窮屈{きうくつ}さ。ものごとなれし梅{うめ}が谷{や}は。気{き}の毒{どく}そふに
(13ウ)
詞{〔こと〕ば}をかけ【梅】「ヲヽ荒川{あらかは}さま今朝{けさ}程{ほど}より。まだ御挨拶{ごあいさつ}も申ませぬ。
昨日{さくじつ}あなたのお進{すゝ}めゆへ。私共{わたくしども}も難有{ありがた}ひ御遊山{ごゆさん}のお供{とも}御嬉{おうれ}
しふ存{ぞんじ}まする。これはしたり狭山{さやま}長尾{ながを}。おまへがたもきのふの浮{う}
かれ|仲ケ間{なかま}。荒川{あらかは}さまへ御盃{おさかづき}を。」といわれて【女中三人】「へヱ。」と三人
めまぜして。うつとしやとはおもへども。ほろ酔{ゑい}機嫌{きげん}の会釈{ゑしやく}も
よく【狭山】「ほんにそふでござりました。憚{はゞか}りながら持合{もちあはせ}ました。
わたくしが盃{さかづき}おきらひかも存{ぞんじ}ませぬが。夫{それ}へ参{さん}じませうか。
なろうならこれへ御出{おいで}くだされませ。」【淵】「これは〳〵恐{おそ}れ多{おほ}ひ。
(14オ)
御前{ごぜん}へはいかゞ。是{これ}にて頂戴{てうだい}。」【狭山】「アヽイヱ〳〵そふお嫌{きら}ひなされば
折角{せつかく}わたくしが思{おも}ひざし。浜{はま}むら屋{や}が揚巻{あげまき}じやござり
ませぬが。ノウ長尾{ながを}。」【長尾】「ヲヽ|夫レ{それ}狭山{さやま}の女{をんな}が立{たつ}まい〳〵。」【淵】「これは
迷惑{めいわく}。さやふござらば御免{ごめん}を得{え}まして。」と。のそ〳〵御前{ごぜん}へ這{は}ひ
出{いづ}るを【滝本】「アレ長尾{ながを}ちよつと御覧{ごらん}。ソレアノ何{なに}。源太{げんだ}左衛門とやら
の。ソレ恋女房{こいにようぼう}の官太夫{くわんだゆふ}。」【長尾】「ヲヽ。ほんにその儘{まゝ}。アリヤ|元ト{もと}友
蔵{ともざう}と申ました。」【淵】「ヘヱ一昨年{いつさくねん}出府{しゆつぷ}致{いた}した。源太{げんだ}左衛門ナ。」
【狭山】「何{なに}さあなたが芝居{しばゐ}の立者{たてもの}に。よふ似{に}てお出{いで}なされます。」
(14ウ)
【淵】「ハア立{たて}ものとは。」トがてんのゆかぬ顔色{がんしよく}を。二人{ふたり}の芸者{げいしや}口{くち}を揃{そろ}へ
【芸者】「イヱもしおまさんを成田屋{なりたや}か音羽{おとは}やに。よふ似{に}てじやと
おつしやるのでござります。」【淵】「これは〳〵。ヱヽ成{なる}ほど。工藤{くどう}左衛門{さゑもん}
祐経{すけつね}に成{な}りおつた。」【げいしや】「ハイさやうさ。おまへさん団十郎{だんじうらう}御{ご}ぞんじ
でございますかへ。」【淵】「されば〴〵。成田{なりた}の開帳{かいてう}ども縁起{ゑんぎ}うけ
たまはつた。」【梅が】「ほんに三升{さんぜう}は日参{につさん}致{いた}しましたそふでござり
ます。」【淵】「イヤ三升{さんぜう}は知{し}らぬが。市川{いちかは}団{だん}十郎|国方{くにかた}でも承{うけたまは}り及{をよ}ん
でおる〔こと〕。」ゝまじめの挨拶{あいさつ}。姫君{ひめぎみ}もにつ〔こと〕笑顔{ゑがほ}の嬋娟{せんけん}たる。月{つき}の
(15オ)
黛{まゆずみ}つやゝかなる。雲{くも}ゐの花{はな}には手{て}もとゞかず。きのふほのかに梅{うめ}が
谷{や}に。あたりほとりを取{とり}ちがへて。側{そば}に居{ゐ}ならぶ御局{おつぼね}の。五十
才{いそじ}を越{こ}へし岩浪殿{いわなみどの}の。膝{ひざ}をしたゝか抓{つめ}りしかば【岩浪】「ヲイタヽヽヽヽヽヽ。
これは淵{ふち}右衛門さま。私{わたくし}をどふなされまする。」と。手{て}を払{はら}はれて
恟{びつく}りと。しよげられもせす【淵】「イヤ船虫{ふなむし}めがお膝{ひざ}へ。」【みな〳〵】「ヱヽ
きみのわるひ。」と女中{ぢよちう}のこらず惣{そふ}だちの。笑{わら}ひも半分{はんぶん}その
心{こゝろ}知{し}りたる。狭山{さやま}なが尾{を}の三人は。梅ケ谷{うめがや}と顔{かほ}見合せ【狭】「イエもし
あれは淵{ふち}右衛門が。わたくしどもを威{おど}そふとて。ほんに憎{にく}やの。」
(15ウ)
【滝本】「ヨイ〳〵。これから淵{ふち}右衛門を召{めし}ます時{とき}。船虫{ふなむし}と御意{ぎよい}遊{あそ}ばせ。」
【淵】「イヤこれは又{また}御情{おなさけ}ない。じたい岩浪殿{いわなみどの}が。あまり僧山{ぎやうさん}に仰{おふせ}*「僧山{ぎやうさん}」(ママ)
られたゆへ。」【岩浪】「夫でもおまへ花香{はなが}もないわたくしへ。なんと
思召{おぼしめし}て。」ト。いくつになつてもわすれぬは此{この}みち。したゝるき
目{め}もとに流石{さすが}の淵{ふち}右衛門。きのふより二{に}はいの手盛{てもり}にあた
まをかき【淵】「イヤ仰{おふせ}られナ。船虫{ふなむし}さへ。御膝{おひざ}をねらひまする。」
【長尾】「そりやこそ船虫{ふなむし}。」【女三人】「イヨ船虫{ふなむし}さま〳〵。」と。云{いふ}程{ほど}のこと
わらひの種{たね}。女中{ぢよちう}を相手{あいて}に持{もて}あましたる酒機嫌{さけきげん}クツ〳〵ゲラ〳〵
(16オ)
どよみの声{こへ}姦{かまびす}しく。取楫{とりかぢ}の音{おと}浪{なみ}の音{おと}。ほどなく家形{やかた}は|美
女栗{みめぐり}の|揚リ場{あがりば}へ着{つき}ければ。衣紋{ゑもん}繕{つくろ}ひ帯{をび}を直{なほ}し。陸{くが}にも待{まち}し
御先供{おさきども}。羽織袴{はをりはかま}の侍{さむらひ}五六|人{にん}二行{にぎやう}にならび。あゆみ静{しづか}に|御守
刀{おんさんぼう}御文庫{おぶんこ}を捧{さゝげ}し。振袖{ふりそで}のお小姓{こせう}十四五|歳{さい}を撰{ゑら}び。皆{みな}一様{いちよう}の
青傘{あをがさ}に。御手曳{おてひき}まゐらせ津田堤{つだつゝみ}に。群{む}れ行{ゆく}白鷺{しらさぎ}の練{ねり}の帽
子{ぼうし}折目高{をりめだか}に。先追{さきを}ふ声{こへ}も和{やわ}らかなる。かたよれ〳〵も構{かま}はぬ子供{こども}
のぐわんぜなき。六{む}ツ七{なゝ}ツ十ヲばかりなるが。弟{おと}の子|肌{はだ}に負{お}ひ
たるも見へて。【○里の子】「土器{かわらけ}なげさつしやい。」【△里の子】「おらがの買{か}つてくれ
(16ウ)
さつしやい。」と附{つき}歩行{あるく}。中{なか}に花形村{はながたむら}のお松{まつ}は。浦里{うらざと}に別{わか}れて
後{のち}時次郎{ときじらう}が眼病{がんびやう}手{て}一{ひと}ツに介抱{かいほう}して。けふも此{この}堤{つゝみ}に手{て}づくねの
土器{かわらけ}。蜜柑籠{みかんかご}に入{い}れて。子供{こども}と先{さき}を争{あらそ}ふて売{う}るさま。神{かみ}なら
ぬ身{み}は夫{それ}ぞとも。知{し}らで纒{まと}わる|梅が谷{うめがや}が袖{そで}の下{した}。ふつと見かはす
面{おも}ざしの。我{わが}俤に似{に}たれど思ひがけぬ。形{な}りもそぼろの田舎育{いなかそだち}
よもやと心{こゝろ}つかばこそ。お松{まつ}はもとより母{はゝ}ぞとも。うろおぼへの
うへに美〻{びゝ}しき同勢{どうせい}。只{たゞ}商{あきな}ひを仕負{しまけ}じと。先{さき}へゆきぬけ跡{あと}に
|付キ{つき}。友{とも}に染{そま}りしべい詞{〔こと〕ば}。【お松】「サア〳〵買{か}つてくれさつしやい。おらが
(17オ)
投{なげ}て見せますべい。」【□里の子】「ナアニおらが上手{じやうづ}に投{なげ}るはノシ。」と。囀{さへづ}り
立{たつ}る里雀{さとすゞめ}。上〻{うへ〳〵}は一{ひと}しほ鄙{ひな}めづらしく。投{なげ}よと御意{ぎよい}に有{ある}限{かぎ}り
の子供{こども}。そこら呼立{よびたて}我{われ}一{いち}と。川面{かはづら}にちらす土器{かはらけ}の。手練{てぎは}は
実{げ}にも手{て}に入{いり}たる業{わざ}にて。蝶鳥{てふとり}なんどの飛{とび}こふ〔ごと〕く。舞{ま}ひ
上{あが}り舞{ま}ひ下{さが}り。三室{みむろ}の紅葉{もみぢ}吉野{よしの}の花{はな}。吹雪{ふぶき}に散{ち}らす
風情{ふぜい}なるを。御機嫌{ごきげん}殊{〔こと〕}にうるはしければ淵{ふち}右衛門|爰{こゝ}ぞと例{れい}
のさし出者{でもの}にて【淵】「まて〳〵子供等{こどもら}。拙者{せつしや}ども先年{せんねん}上京{じやうきやう}の
砌{みぎ}り。愛宕山{あたごさん}の土器{かはらけ}ちらした事{〔こと〕}。われ達{たち}に劣{おと}らぬ。こゝへ
(17ウ)
くせ〳〵。」と。土器{かわらけ}四五|枚{まい}とつて投{なげ}けれど。色{いろ}も風情{ふぜい}もあらば
こそ。どぶり〳〵と水{みづ}へのみ落{おち}て。不手際{ふてぎは}なるもまた一興{いつきやう}
にや。姫君{ひめぎみ}を始{はじ}め数多{あまた}の女中{ぢよちう}袖{そで}覆{おほ}ひて笑{わら}ひ【みな〳〵】「イヨ
舟虫{ふなむし}さま〳〵。見事{み〔ごと〕}〳〵。」とそやし立{たつ}るに。手盛{ても}り三{さん}ばい手
持{てもち}なく。にがりきつて腹{はら}は立{たて}ども。御前{ごぜん}なれば詮方{せんかた}なく。
里{さと}の子供{こども}は訳{わけ}知{し}ねらど。【○△□】「舟虫{ふなむし}さま投{なげ}さつし。もつとなげ
さつしやい。」と。突付{つきつけ}売{うり}にいとゞせき立{たち}。【淵】「おのいら慮外{りよくわい}ナ{な}しつ
こいがきめら。片{かた}よれ〳〵。」とにらみ付{つけ}られ。「そりやこそおこつた。
(18オ)
船虫{ふなむし}どのがおこつた〳〵。」と。手{て}をたゝきわつと逃{にげ}ちるをしほにて。
暫{しば}しは爰{こゝ}に御小休{おこやすみ}石{いし}の御前{ごぜん}の隣{となり}なる。兼{かね}てもふけの
宗福寺{そうふくじ}へぞ入らせられける。しばらくありて門{もん}ぜん
さわがしく。今{いま}の土器売{かわらけうり}の子供等{こどもら}。何{なに}か争{あらそ}ふ様子{ようす}にて
【○里の子】「イヤおれがのじや。」【△里の子】「夫{それ}でも見付{みつけ}たはおれじや。」【□里の子】「ハテ無理{むり}いやる
な。拾{ひろ}ひぬしはおれじや。」と。掴合{つかみあは}ぬ斗{ばか}りに角{つの}め立{だつ}。中{なか}にお
松{まつ}もまじり【お松】「コレ〳〵そのやふに云{い}はぬものじや。誰{た}が拾{ひろ}ふ
てもコリヤ慥{たしか}に今{いま}のお姫{ひめ}さまのじや。此{この}お寺{てら}にござるほどに
(18ウ)
ちやつと戻{もど}して上{あ}ゲますがよい。」と。いふをもきかず争{あらそ}ひ〳〵
お松{まつ}は寺中{じちう}へ走{はし}り入{い}り。玄関{げんくは}へ来{き}て【お松】「これのお方{かた}。誰{たれ}ぞ出{で}
さつしやりませ。お姫{ひめ}さまの簪{かんざし}。子供{こども}が拾{ひろ}ふて争{あらそ}ひおり
ます。」といふに。ヲツト心得{こゝろえ}富田{とみた}与三{よさう}左衛門とて。奥附{おくづき}の御諚口{おじやうぐち}を
守{まも}る。年{とし}の比{ころ}六十|余{あま}りの卒忽{そこつ}親仁{おやぢ}。刀{かたな}提{さげ}て馳出{はせいで}【与】「欲内〻〻{よくない〳〵}。
御道銭{おみちせん}の貫緡{かんざし}何{なに}とがな致{いたし}おつた。」【欲内】「イヤ土器売{かわらけうり}の子供{こども}に。
先程{さきほど}価{あたひ}を遣{つか}はしまして。銭{ぜに}はこれに首{くび}にかけて居{をり}まする。」
【与三】「夫{それ}にまた貫緡{かんざし}とは。何{なに}ちふ事{〔こと〕}を申おるか。」と。きよろ〳〵する内{うち}
(19オ)
門前{もんぜん}の子供{こども}争{あらそ}ひ来{く}るを見れば【与三】「げにもコリヤお姫{ひめ}さまのお
飾{かざ}り。然{しか}も御毒除{おどくよけ}に御国方{おくにかた}から進{しん}ぜられた。一角{いつかく}に珊瑚{ざんご}の
赤玉{あかだま}の入{いれ}てある物{もの}を。」と。子供{こども}が持{もつ}たるを|取上ケ{とりあげ}。【与三】「されど
おのいらむさい手であつかいおつたを。むざと御用{ごよう}にも立まい
事{〔こと〕}であらず。」と。思案{しあん}に落{おち}ぬうち。此{この}事{〔こと〕}にて梅ケ谷{うめがや}を先{さき}に。
長尾{ながを}狭山{さやま}滝本{たきもと}の三人|走{はし}り出{い}で来{き}て。【三人】「与三{よさう}左衛門|殿{どの}成程{なるほど}
其{その}品{しな}は。お落{おと}し遊{あそ}ばしましたなれど。貞操院様{ていそうゐんさま}より
進{しん}ぜられまして。お失{うしな}ひ遊{あそ}ばしては成{なり}ませぬのでござり
(19ウ)
ます。」【与三】「左様ござらば子供等{こどもら}に褒美{ほうび}遣{つか}はすでござろふ。」
と[ふところより黄{き}らしやのかみいれとりいだしこまかね一ツづゝかわらけうりの子供につかわしければ里の子供はよろこびてざゝめきわたり立かへる]
中にお松{まつ}は手{て}にとらず【松】「イヽヱわたしは拾{ひろ}ひは致{いた}しませぬ。
お姫{ひめ}さまのでありませうと。おしらせ申た斗{ばか}りてござり
ます。」と[じたひをなせば与三右衛門]【与三】「ハテ扨{さて}今{いま}の一群{ひとむれ}なれば。そちも辞宜{じぎ}
する事{〔こと〕}はなひ。貰{もら}ふておけ。」とありければ【お松】「イヱ〳〵人{ひと}さまの
物{もの}|白紙{かみ}一まひでも。筋{すじ}なひ事に宅{うち}へ持{もつ}て戻{もど}るなと。姉{あね}さん
がよふ言付{いひつけ}てございます。」と[言つゝかへるやさしさをみるよりさすが女中たちあわれとお松をよびとめて]
(20オ)
【さやま】「コレそなたの名{な}はなんといふ。」【お松】「アイお松{まつ}と申ます。」【長尾】「そふして
そなたの宅{うち}はこの近{ちか}くかや。」【お松】「イヱ〳〵花形村{はながたむら}といふて。半道{はんみち}
も隔{へだて}ております。」【滝本】「フムウ其{その}様{やう}に遠{とを}イ所{とこ}からよふまア。爰{こゝ}へ
一人{ひとり}で商{あきな}ひに来{き}やるのふ。」【与三】「イヤモシ氏{うぢ}より育{そだち}と申ますが。
見あげましたる女子{むすめ}の有様{ありさま}。シテ年{とし}はいくつじやぞ。」【お松】「十一
に成{なり}ます。」【与三】「ナニわづか十一才じや。ハテマア。」【さやま】「そふしてまア田舎{いなか}
に似合{にあは}ぬ。水際{みづぎは}のたつた奇麗{きれい}な生{うま}れ。此{この}子{こ}はともあれ
父{とゝ}さんや母{かゝ}さんが。よふ手{て}ばなして商{あきな}ひに出{だ}す〔こと〕ぞ。なふ
(20ウ)
その子{こ}ヤ。宅{うち}がこひしふなりヤせぬか。」と。問{と}はれておもはず
涙{なみだ}ぐむ。おさな心{ごゝろ}を汲{くみ}とつて。哀{あは}れをそふる袖袂{そでたもと}。松{まつ}に
しぐれも染{そめ}やせん。折{をり}から中老{ちうらう}梅ケ谷{うめがや}は。淵右衛門にとらへ
られ。よふ〳〵はづして逃出{にけいづ}る。後{うしろ}の方{かた}より【淵右衛門】「コリヤ梅ケ谷{うめがや}
どの手{て}がわるい。お待{まち}なされ。」と呼留{よびとめ}られ。式台{しきだい}までは下{お}り
兼{かね}て。鷹{たか}を絵{ゑがき}し衝立{ついたて}の影{かげ}に危{あやう}き山鳥の。姿{すがた}に増る
梅ケ谷{うめがや}は。行義{ぎやうぎ}くづさず正座{かしこまり}【梅】「淵{ふち}右衛門さまなんでござり
ます。今日{こんにち}は大切{たいせつ}な御供{おとも}。もふ御酒{ごしゆ}はおひかへなされませ。」
(21オ)
【淵】「イヤサ〳〵達{たつ}てとは申さぬ。ちよつと只{たゞ}お口{くち}を。そへられて
ほしひから。」【梅】「モシあなたのお相手{あいて}にはお豊{とよ}お菊{きく}の美{うつく}しイ
のがおりますぞへ。」【淵】「何{なに}さ〳〵。芸者供{げいしやども}望{のぞみ}はござらぬ。と
申てお役{やく}がらのお手前{てまへ}へ。無礼{ぶれい}はけして仕{つかまつ}らぬ。」と。ゑこぢ
に居{すは}るなまゑひの。酒{さけ}のかほりをうちあほぐ。扇{あふぎ}の富士{ふじ}
や厂金{かりがね}の。天庭{ひたい}も清{きよ}し秋草{あきくさ}の。縫{ぬひ}の模様{もよう}に鹿{か}の子{こ}入{いり}。
金糸{きんし}の色{いろ}も口紅{くちべに}の。艶{つや}にはぢらふ|美容顔{きりやうよし}。実{げ}に淵{ふち}
右衛門が見る眼{め}には。れんぼの情{じやう}ぞまさるらん。此方{こなた}は
(21ウ)
お松{まつ}が涙{なみだ}ごへ【お松】「よふ問{と}ふて下{くだ}さいます。母{かゝ}さんはわたしが
幼{ちいさい}時{とき}書置{かきおき}を残{のこ}して宅{うち}を出{で}て。とふから逢{あひ}も見もせねど。
此{この}世{よ}に生{いき}てはゐやしやんすまひ。もしながらへてござんす
なら。まめでくらすかかわらぬかと。とひおとづれもあらふ
のに。その〔こと〕なひは死{し}なしやんした。事であらふと姉{あね}さん
が。常〻{つね〴〵}いふてゞござりました。その姉{あね}さんに可愛{かあい}がられ
て。育{そだて}られたもはやむかし。その姉{あね}さんも此{この}春{はる}。」と[いゝつゝうるむ眼になみだ
しばしことばもないじやくり長尾ははやくもすゐりやうして]【長尾】「その姉{あね}さんにも。死{しに}わかれたといふ
(22オ)
よふな事{〔こと〕}かひナ。」【お松】「イヱ〳〵わたしが留守{るす}にこわい祖母{ばゝ}さんが
来{き}て。何処{どこ}へか連{つれ}て行{ゆき}ました。」と。わつと泣出{なきだ}す一声{ひとこへ}に。
一座{いちざ}もしめるもらひ泣{なき}。衝立{ついたて}ごしに梅ケ谷{むめがや}は。胸{むね}に
あたりの人目{ひとめ}せく。心覚{こゝろおぼへ}は花街{さと}言葉{ことば}。もしや廓{くるわ}の浦里{うらざと}
に。頼{たのみ}しわが子{こ}にあらざるか。ことに最前{さいぜん}余所{よそ}ながら。鏡{かゞみ}
にうつす我{わが}俤{おもかげ}に。似{に}たこそたがわぬ娘{むすめ}ぞと。思へどさすが
淵{ふち}右衛門が。見{み}る眼{め}もあれば悲{かな}しくも。涙{なみだ}をよそへまぎらして
【梅が谷】「モシあれをお聞{きゝ}なされませ。ほんに女{おなご}と申ますものは|幼年
$(22ウ)
ふちゑもん
たきもと
長尾
$(23オ)
さやま
梅ケ谷
お松
(23ウ)
時{ちいさいとき}からいろ〳〵と。苦労{くろう}をいたしますわいナ。」ト。泣{なく}目{め}を隠{かく}す笑{わら}ひ
顔{がほ}。淵{ふち}右衛門は酒機嫌{さけきげん}。玄関{げんくは}の方{かた}をじろりと見やり【淵右衛門】「イヤ
もふ下主{げす}の小児{こども}めは。さま〴〵なよまひ事。泣{ない}ておどすは衒{かたり}で
ござる。」【女中三人】「ヱヽモシかわいそふに。」【淵】「イヤ〳〵おてまへがた何{なに}も御存{ごぞん}ジ
なひからじや。拙者{せつしや}などは毎度{たび〳〵}此{この}手{て}に課{あふ}て。蜆{しゞみ}を買{かふ}て遣{つか}はした
事{〔こと〕}もござつた。近{ちか}ひ証拠{しやうこ}は富田氏{とみたうぢ}失{うしな}ひ遊{あそ}ばした御簪{おかざり}を此{この}
賤女{がきめ}が訴{うつた}へ出{で}たとな。」【与三】「さればでござる。年{とし}はゆかねど正直{せうじき}な
娘{むすめ}。」【淵】「イヤサその正直{せうじき}大{おほ}きな偽{いつは}り。慥{たしか}にそやつめが盗{ぬすみ}おつて。
(24オ)
他{ほか}の子供{こども}に見咎{みとがめ}られ。しやうことなさに落{おと}してあつたと。
訴{うつた}へ出{で}たは拵{こしらへ}ごと。余人{よじん}は格別{かくべつ}此{この}淵{ふち}右衛門。まづその手{て}をはたべ
申さぬ。」と。さも憎{にく}さ気{げ}にねめつくれば[としはゆかねどかしこきお松口おし涙のかほあげて]【お松】「コレ
お侍{さむらい}さま。さもしひ盗{ぬすみ}をするくらゐなら。御褒美{ごほうび}の金{かね}を貰{もら}ひ
ます。」【与三】「いかさまナ。こりや荒川殿{あらかはどの}の悪推{わるずい}と申もの。残{のこり}の子供{こども}は
御褒美{ごほうび}じやと。銀{かね}をいたゞきかへりしに。此{この}娘{むすめ}めは辞退{じたい}して。」
【淵】「サヽそれが手{て}でござる。」【さやま】「イヱもし憚{はゞかり}ながら。子供{こども}になんの深{ふか}イ
工{たく}ミ。」【淵】「親{おや}がおしへます。コリヤヤイ。わが親{おや}めは定{さだめ}て楊梅瘡{ようばいそう}で。
(24ウ)
鼻{はな}でも落{おち}て挊{かせぎ}が出来{でき}ぬか。子{こ}に働{はたら}かせる不性者{ぶしやうもの}。然{しか}しけふは
われも不仕合{ふしあはせ}。アヽうまひ仕事{し〔ごと〕}を。しそこなひおつたなア。」ト
[きくにきかれぬ悪口{あくこう}をきひてくやしき梅がやはいふもさらなりのこりの女中与三右衛門も余りなるくはごんをはらにすへかねて]【与三】「コリヤ荒川{あらかは}どの
いちがいに物{もの}をいわるゝな。たとへば此{この}女子{おなご}がかたりにもせよ。
褒美{ほうび}をもらわぬ心{こゝろ}の清{きよ}さ。衒{かたり}でござらはのこりの子供{こども}へ。褒
美{ほうび}を遣{つか}はしたるは拙者{せつしや}が不念{ぶねん}。コリヤ娘{むすめ}大事{だいじ}なひ。御褒美{ごほうび}貰{もら}ふ
てはやふゆけ。そりや遣{つか}はすぞ。」と差出{さしだ}す銀{かね}を。お松{まつ}は見{み}もやらず
【お松】「ヱヽ口{くち}おしふござゐます。それ貰{もら}ふたら猶{なを}の事{〔こと〕}。かたりのうたがひ
(25オ)
かゝります。わたしや姉{あね}さんの詞{〔こと〕ば}をよふくおぼへて居{ゐ}る。そんな
お|あし{銭}はいりませぬ。眼{め}を煩{わづら}ふてござる時{とき}次郎さんに。薬{くすり}
を買{か}つて上{あげ}ることさへ出来{でき}ぬのを。土器{かはらけ}をこしらへて。お|あし{銭}の
足{たし}にいたします。」と。しやくり歎{なげ}けば梅ケ谷{うめがや}も。嘸{さぞ}と心{こゝろ}の忍{しの}び
泣{なき}。あたりの袖{そで}も乾{ほし}あへぬ。貰{もら}ひ涙{なみだ}の露雫{つゆしづく}かゝる哀{あわれ}を余所{よそ}に
吹{ふく}嵐{あらし}。荒川{あらかは}淵{ふち}右衛門は言懸{いゝがゝ}りなる酒機嫌{さけきげん}。【淵】「そりやこそ
見おれいわぬ〔こと〕か。貧{ひん}の盗人{ぬすびと}うたがひなし。白状{はくじやう}させん。」とたち
かゝる。後{うしろ}の方{かた}より声{こへ}かけて。襠{うちかけ}さばきしとやかに。さすが大家{たいけ}の
(25ウ)
老女役{らうぢよやく}。とはねどそれと岩浪{いわなみ}は【岩】「淵{ふち}右衛門さまさりとては。
ぐわんぜなひ子供{こども}になんの御咎{おとが}め。」【淵】「アイヤ此{この}|小娘{わちよ}め衒{かたり}でござる。」
【岩浪】「これはしたり。たとへ夫{それ}がじやうにもせよ。御屋敷{おやしき}とは違{ちが}ひ
まする。御遊山{ごゆさん}の所{ところ}でとやかふと。殊{〔こと〕}には尊{たうと}ひ寺道場{てらどうじやう}。無理非
道{むりひどう}なサことならずとも。千葉{ちば}の御家{おいゑ}のお名{な}が出{で}ます。姫君{ひめぎみ}さま
の御立腹{おむづかり}。梅{うめ}が谷{や}さまサア皆{みな}さんも御前{ごぜん}へ。淵{ふち}右衛門さまマア御
座敷{おざしき}へ。」【淵】「イザまづおさきへ。」[折からいでくるおこしもと]【側女{こしもと}】「淵{ふち}右衛門さま召{めし}ます
サア召{めし}ます。」と呼立{よびたつ}る。玄関{げんくは}にお松{まつ}は只{たゞ}一人{ひと}り。泣{なく}子{こ}と地頭{ぢとう}と
(26オ)
つぶやきて。しぶ〴〵此{この}場{ば}を淵{ふち}右衛門。立上{たちあが}らんとする折{をり}から。
篠{しの}つくごとき夕立{ゆふだち}の雨{あめ}一トしきり降出{ふりいで}て。筑波{つくば}の方{かた}に雷{かみなり}
の音{おと}。すさまじく聞{きこ}ゆれば。あわてまどひて一群{ひとむれ}に。御前{ごぜん}へ
こそは馳{はし}り行{ゆく}。跡{あと}にお松{まつ}は袖笠{そでがさ}も。雨{あめ}をしのぐにいとせまき。
袂{たもと}を猶{なを}もしぼりつゝ。帰{かへ}りもやらず気{き}がゝりは。宅{うち}に残{のこ}せし
時{とき}次郎。目病{めやみ}の独{ひと}りいかならんと。案{あん}じてこそは至{いた}りける。
[さても中老{ちうらう}梅{うめ}が谷{や}は家出してより七八年|浦里{うらざと}かたへとひおとづれおもてむきにはなさゞれども二見{ふたみ}重{ぢゆう}左衛門にたのみてそれとはなしにたよりをきゝ心ばかりのつけとゞけ浦里
かたにはしらねどもこのとしごろのよしあしも娘おまつがかぶろのみどりとよばるゝことも梅がやがかたにはおふかたつたへきゝしが浦里がくるはをかけおちのときおまつも
(26ウ)
ともにつれゆきてゆくへしれずときこへしよりあんじわづらふばかりにてさらにたよりもしれざりしがせんこくおまつか〔こと〕のはに時次郎といゝたりしはたしかにいもと浦
里が深きわけある男ぞとすゐりやうしたるおもむきなり。これよりのちのしうたんに梅がやはよく浦里が方の〔こと〕をしり浦さとが方にはお松時次郎梅がやが〔こと〕をしら
ず。これは梅{うめ}がやの心にたいもふあればぎりもなさけもうちすてゝこれまでたよりをせざりしなり。それよく心えてよみたまはずはお梅はふじつの人となるへし]。さても
お松{まつ}は玄関{げんくわん}の。雨落際{あまおちぎは}にしよんぼりと。雨{あめ}と涙{なみだ}にぬれぎぬの。
衒{かたり}の名{な}さへ口惜{くちおし}と。空{そら}をながめて彳{たゝず}む後{うしろ}。いつの程{ほど}にか梅ケ谷{うめがや}は
【梅】「お松{まつ}そこにか。嬉{うれ}しやまだ戻{もど}らずか。」と。近寄{ちかよる}人{ひと}は血{ち}を分{わけ}し。
産{うみ}の母{はゝ}ともしらずして【お松】「ヱヽモシどふしてわたしが名{な}を。」
【梅】「しらいでならふかわしが娘{むすめ}。浦里{うらざと}は義理{ぎり}あるわたしが妹{いもおと}
(27オ)
じやわいの。」【お松】「ヱヽそんならおまへは此{この}書置{かきおき}の。」と。守袋{まもりぶくろ}のひも
といて。出{だ}そふとするを梅{うめ}が谷{や}は【梅】「アヽこれ夫{それ}見{み}いでも母{はゝ}じや
わいの。子{こ}じやわいなふ。」と取{とり}すがり。「いかい苦労{くらう}をさすことぞ。
そふして妹{いもと}の浦里{うらざと}を。こわい祖母{ばゝ}さんがといやつたは。今{いま}に直{なを}
らぬ母さんの欲心{よくしん}。時{とき}次郎とやら云{いふ}人{ひと}は。定{さだめ}て噂{うはさ}に聞及{きゝおよ}ん
だ。五年{ごねん}この方{かた}妹{いもうと}が深{ふか}ふ言{いひ}かわした。大事{だいじ}の人{ひと}であろうなふ。」
【お松】「サア夫{それ}ゆへに廓{くるは}を出{で}て。わたしもともに花形{はながた}といふ村{むら}に。」
【梅】「ヲヽよふそなたはそのお人{ひと}を。大切{たいせつ}に介抱{かいほう}しやる。コレ是{これ}はの
(27ウ)
お姫{ひめ}さまのお菓子{くわし}。最前{さいぜん}の御{ご}ほうび。戴{いたゞい}ても大事{だいじ}なひ
程{ほど}に。シタガコレこのお菓子{くはし}を。必{かならず}人{ひと}に見せやるな。定{さだ}めし朝夕{あさゆふ}
不自由{ふじゆう}な。足{たし}にしやゝ。」と鼻紙{はながみ}に包{つゝみ}て渡{わた}す山吹{やまぶき}の。金{こがね}の数{かづ}や
限{かぎり}なき。親{おや}の思{をも}ひのやるせなき。お松{まつ}は涙{なみだ}に受取{うけとり}ながら【お松】「モシ
おまへがほんの母{かゝ}さんなら。どふぞ戻{もど}つて下{くだ}さりませ。ゑよふこそ
出来{でき}ませぬが。春{はる}は嫁菜{よめな}や田芹{たぜり}を摘{つみ}。常{つね}には爰{こゝ}の堤{つゝみ}へ
来{き}て。土器{かわらけ}を買{かつ}て貰{もらつ}て。みん事{ごと}母{はゝ}さま養{やしな}ひます。御奉公{ごほうこう}を
やめて戻{もど}つて下{くだ}さひまし。わたし独{ひとり}で力{ちから}なひ。母{かゝ}さん恋{こひ}しふ
(28オ)
ございます。」と。取{とり}すがる子{こ}より猶{なを}一{いち}ばいはりさく胸{むね}をなで
おろし。撫{なで}おろして顔{かほ}打{うち}まもり【梅】「ヲヽおとなしひ〔こと〕よふ言{い}
やつた。母{はゝ}もいつしよに暮{くらし}たけれど。元{もと}のおこりは祖母{ばゝ}さんの
どふよく。邪見{じやけん}といふて親{おや}を恨{うらむ}は不孝{ふこう}の罪{つみ}。わたしがかふした
御奉公{ごほうこう}に出{で}たのはナ。いろ〳〵訳{わけ}のある〔こと〕じや。必{かならず}ともに恨{うら}む
なや。末{すへ}〴〵訳{わけ}も知{し}れること。そなたの為{ため}にはとゝさんの。」と。
言{いは}んとせしがあたり見廻{みまは}し。「御奉公{ごほうこう}の身{み}の上{うへ}は人{ひと}の聞{きこ}えも
ある程{ほど}に。母{はゝ}じやといやるな。はやふ戻{もど}りや。」【お松】「アイアイ。」とは
(28ウ)
いへど後髪{うしろがみ}。空{そら}は晴{は}れてもはれやらぬ。親子{おやこ}涙{なみだ}のわかち
なき。折{をり}からお立{たち}を告{つぐる}声{こへ}。宗福寺{そうふくじの}鐘{かね}鳥{とり}ならで。飽{あか}ぬ
名残{なごり}の中{なか}を裂{さく}。淵{ふち}右衛門はどす声{ごへ}に。お立{たち}〳〵と呼{よば}はれば。
詮方{せんかた}涙{なみだ}泣顔{なきがほ}を。直{なほ}す化粧{けしやう}の畳紅{たとうべに}。お松{まつ}は袖{そで}を顔{かほ}に当{あて}
みすぼらしげな後{うしろ}かげ。見やる眼元{めもと}に白粉{おしろい}も。とけて流{なが}るゝ
隅田川{すみだかは}。母{はゝ}は御前{ごぜん}へ子{こ}は門前{もんぜん}へ。わかれゆくこそいたましけれ。
明烏{あけがらす}後正夢{のちのまさゆめ}四之巻畢
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底本:東京大学文学部国語研究室蔵本(4L:95:2)
翻字担当者:金美眞、成田みずき、矢澤由紀、銭谷真人
更新履歴:
2017年7月26日公開