日本語史研究用テキストデータ集

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浦里時次郎明烏後の正夢うらざとときじろう あけがらすのちのまさゆめ

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五編上

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浦里時次郎明烏後の正夢 五編上

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凡例
1.本文の行移りは原本にしたがった。
2.頁移りは、その丁の表および裏の冒頭において、丁数・表裏を括弧書きで示した。また、挿絵の丁には$を付した。
3.仮名は現行の平仮名・片仮名を用いた。
4.仮名のうち、平仮名・片仮名の区別の困難なものは、現行の平仮名に統一した。ただし、形容詞・副詞・感動詞・終助詞・促音・撥音・長音・引用のト等に用いられる片仮名については、原表記で示した場合がある。 〔例〕安イ、モシ、「ハイそれは」ト、意気だヨ、面白くツて、死ンで、それじやア
5.漢字は現行の字体によることを原則としたが、次のものについては原表記に近似の字体を用い、区別した。「云/言」「开/其」「㒵/貌」「匕/匙」「吊/弔」「咡/囁」「哥/歌」「壳/殻」「帒/袋」「无/無」「楳/梅」「皈/帰」「艸/草」「計/斗」「弐/二」「餘/余」
6.繰り返し符号は次のように統一した。ただし、漢字1文字の繰り返しは原本の表記にしたがい、「〻」と「々」を区別して示した。
 平仮名1文字の繰り返し 〔例〕またゝく、たゞ
 片仮名1文字の繰り返し 〔例〕アヽ
 複数文字の繰り返し 〔例〕つら〳〵、ひと〴〵
7.「さ」「つ」「ツ」に付く半濁点符は「さ゜」「つ゜」「ツ゜」として示した。
8.Unicodeで表現できない文字は〓を用いた。
9.句点は原本の位置に付すことを原則としたが、文末に補った場合がある。
10.合字は〔 〕で囲んで示した。 〔例〕殊{〔こと〕}に、なに〔ごと〕、かねて〔より〕
11.傍記・振り仮名は{ }で囲んで示した。 〔例〕人生{じんせい}
12.左側の傍記・振り仮名の場合は、冒頭に#を付けた。 〔例〕めへにち{#毎日}
13.傍記・振り仮名が付く位置の紛らわしい場合、文字列の始まりに|を付けた。 〔例〕十六|歳{さい}
14.原本に会話を示す鉤括弧が付いていない場合も、これを補い示した。また庵点は〽で示した。
15.原本にある話者名は【 】で示した。 〔例〕【はる】
16.割注・角書および長音符「引」「合」は[ ]で囲んで示した。
17.不明字は■で示した。
18.原本の表記に関する注記は*で行末に記入した。 〔例〕〓{たど}りて*〓は「漂+りっとう」
19.花押は〈花押〉、印は〈印〉として示した。
20.画中文字の開始位置に〈画中〉、広告の開始位置に〈広告〉と記入した。

本文の修正
1.翻字本文を修正した場合には、修正履歴を末尾に示す。
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(1オ)
明鴉後正夢
題娯萹〈印〉
あけから
すごにちの
はなし
よみきり
狂訓亭為永大人著述
寝覚迺繰言
全十五冊

$(1ウ)
浦里{うらさと}
時次郎{ときじろう}
おまつ
おてる

$(2オ)
篠塚老女{しのづかばゞ}
新古今
さらぬたに秋のたひ寝は
かなしきに松にふく也
とこのやま風

(2ウ)
[浦里{うらざと}時次郎{ときじらう}]明烏{あけがらす}後正夢{のちのまさゆめ}巻之十三
江戸 [南仙笑楚満人 滝亭鯉丈] 合作
廿二回
国{くに}みだれて忠臣{ちうしん}顕{あら}はれ。家{いゑ}なやんで孝子{こうし}出{い}づと故人{こじん}の詞{〔こと〕ば}
宣{むべ}なる哉{かな}。さても上総{かづさ}の五井村{ごゐむら}なる彼{かの}正太郎は酷吏{こくり}松戸{まつど}
郡藤治{ぐんとうじ}が毒手{どくしゆ}の為{ため}に捕{とら}われし。父{ちゝ}正右エ門{せうゑもん}をすくはんと。
闇{やみ}にまぎれて代官{だいくわん}が邸{やしき}の辺りへ忍{しの}びよるに。はや更過{ふけすぐ}る

(3オ)
鐘{かね}の音{ね}も。諸行無常{しよぎやうむじやう}とひゞくさへ。我{わが}身{み}にうけていとゞ猶{なを}
ふるふ足元{あしもと}ふみしめて。塀{へい}の外面{そとも}にたゝずみて内{うち}の様子{ようす}を
うかゞへり。[折{をり}しもうちには仲間{ちうげん}ども台所{だいどころ}により集{あつま}り。主人{しゆじん}のざんそういゝながら酒{さけ}くみかわしていたりしが。中{なか}に一人{ひとり}の若{わか}き男{おとこ}新参者{しんざんもの}とて
よふすしらねば可介{べくすけ}といふおとなにむかひ]【八内】「コレ可介{べくすけ}わしはお主{ぬし}に聞{きゝ}たい事{〔こと〕}がある。
といつて外{ほか}の事{〔こと〕}でもない。アノ先達{さきだつ}てからお下屋敷{しもやしき}へおし
こめておかつしやる。若{わか}い女{をんな}。アリヤまア何{なに}をわるい事{〔こと〕}をした
とがで可愛{かあい}そふにあのよふに攻{せめ}らるゝ事{〔こと〕}じやの。」【可介】「ムヽ
われはまだ此{この}間{あいだ}来{き}たゆゑ。委{くわ}しい訳{わけ}はしるまいが。アノ女{をんな}は

(3ウ)
此{この}邑{むら}の正{せう}太郎といふ者{もの}の女房{にようぼう}。子{こ}もあるそふじやがアノ通{とを}り
田舎{いなか}にまれな美{うつく}しい産{うま}れゆゑ。村{むら}一{いち}ばんの評判女{ひやうばんおんな}。おらが
お旦那{だんな}軍藤治{ぐんとうじ}さまは。顔{かほ}に似合{にあは}ぬゑらい女好{をんなずき}じやによつて。
アノおくみめに首{くび}ツ丈{た}ケ惚{ほれ}こんで。人{ひと}を頼{たの}んで文{ふみ}を送{をく}つて
いろ〳〵と口説{くどか}しやつたが。アノ女{をんな}はかたい姓{うまれ}で。一向{いつこう}に云{いふ}事{〔こと〕}を
きかぬゆゑ。一番色事師{いちばんいろ〔ごと〕し}をひつくり返{かへ}ツて悪形{あくがた}と出{で}かけ
いつぞや道陸神{どうろくじん}の祭{まつ}りの晩{ばん}。引{ひ}ツぱらつてつれかへり。
それから下屋敷{したやしき}へ入{い}れおいて色〻{いろ〳〵}攻{せめ}さいなんで。心{こゝろ}に順{したが}は

(4オ)
そふといふ工{たくみ}じやが。なか〳〵アノ女{をんな}は貞女{ていぢよ}とやらで。お旦那{だんな}の云{いふ}
事{〔こと〕}を聞{き}かぬによつて。今{いま}にあゝして攻{せめ}られるよ。」【八内】「ハテ
扨{さて}それはかわいそふな事{〔こと〕}だ。またお旦那{だんな}の顔色{がんしよく}ではアノ
女{をんな}が承知{せうち}せぬも尤{もつとも}かへ。面{つら}といへばつら。面中{つらぢう}が髭{ひげ}だらけで。
髭{ひげ}の中{なか}からつらを少{すこ}しばかり出{だ}していさつしやるから。あれ
は髭面{ひげづら}ではなくて面{つら}ツ髭{ひげ}といふのだ。ハヽヽヽヽヽ。そしてまだ聞{き}き
たいは。此{この}屋敷{やしき}にとらへられて居{い}る。アノ爺{ぢい}さまは何{なん}じやの。」
【可】「聞{き}きやれ。アノおやぢは今{いま}咄{はな}した正{せう}太郎が親{おや}の庄{せう}右衛門と

(4ウ)
いふもので。おくみが為{ため}には舅{しうと}じやによつて。アノ親仁{おやぢ}をかせ
にしておんなを口説{くどき}おとそふといふ旦那{たんな}の工{たくみ}よ。ナントおらが
旦那{だんな}はわるい人{ひと}ではないか。」【八】「いかさまナアお旦那などは千
葉家{ちちば}の御威勢{ごゐせい}で金銀{きん〴〵}は沢山{たくさん}なり。どのよふな女{をんな}でも自*「千葉家{ちちば}」(ママ)
由自在{じゆうじざい}になるに。いとしぼなげに老年{としより}まで。帯{おび}や布子{ぬのこ}で
はあるめへし。質{しち}にとるなどゝはいやはや丈{たけ}のしれぬ悪人{あくにん}
ではあるぞ。夫{それ}でも人{ひと}の事{〔こと〕}をば何{なん}のかのとめくじら立{たつ}て
呵{しか}りちらし。人{ひと}づかいのわるいくせに。口{くち}くひ物{もの}はろくではなし。

(5オ)
とんだ所{ところ}へ奉公{ほうこう}に来{き}たことだ。早{はや}くいゝ口{くち}を見{み}つけて爰{こゝ}の
屋{や}しきをば。おさらばにせずはなるまい。」【可】「それがよい〳〵。
長{なが}くこんな所{とこ}にいよふものなら。どんな目{め}にあわふもし
れぬ。おれももふ今年{ことし}ぎりで。来年{らいねん}はとこぞいゝ所{とこ}へ奉公{ほうこう}
しよふ。」ト[咄{はな}すそばにゐたる角内{かくない}といふ仲間{ちうげん}のどをくび〳〵して]【角内】「コレ〳〵八内{はちない}それはいゝが
盃{さかづき}はどふするのだ。ぼうふりが涌{わき}そふだ。ちつとまわさねへ
か。」【八】「ヲイ〳〵そふだつけ。あんまり咄{はなし}に実{み}がいつて盃{さかづき}を
まはす事{〔こと〕}をさつぱり忘{わす}れてしまふやつさ。それさすぞ。」

(5ウ)
【角】「ヲツト有{あ}る〳〵。此{この}にしんの煮付{につけ}はべらぼふに味{うま}く
煮{に}た。そつちの竹{たけ}の皮{かわ}はなんだ。」【可】「これは天麩羅{てんぶら}よ。」【角】「そ
いつは気{き}がきいて居{ゐ}るな。ちつとくだつし。イヤこれも味{うま}い
うまい。」ト[よねんなく酒{さけ}にのまるゝ下部{しもべ}ども。まわるにしたがひべそつくり。すゝり上{あげ}るは泣上戸{なきじやうご}の彼{か}のしんざんの八内がなみだごゑにて]
【八】「可介{べくすけ}どのアノまアうそざみしいお下屋敷{しもやしき}へおしこめら
れて。毎日{まいにち}毎晩{まいばん}せめさいなまるゝ女中{ぢよちう}の心{こゝろ}の中{うち}はどふで
有{あら}ふ。おらがお旦那{たんな}もお旦那{だんな}。女{をんな}ひでりはしめへしかわいそふ
に子{こ}まである夫婦中{ふうふなか}を引{ひき}さいて。何{なん}ぼ口説{くどか}かしやつ*「口説{くどか}か」(ママ)

(6オ)
てもどふしてまア得心{とくしん}されるものか。ほんに思{おも}ひ出{だ}せば
三年以前{さんねんいぜん}。嚊{かゝ}アのおなべめに死{しな}れた時{とき}にやア。ともに冥土{めいど}
とやらへ。一{い}ツ所{しよ}にいかふと思{おも}つたが。近所隣{きんじよとなり}の人達{ひとたち}に異見{ゐけん}
いわれて漸〻{やう〳〵}とおもひとゞまつたが。それからといふものは。
もふかせぐはり合{あい}も何{な}にもなくなつて。世{よ}の中{なか}があじき
なく。酒{さけ}ばつかりのんで居{ゐ}てあげくのはてにやア女郎買{ぢようろかい}
と出{で}かけて。とふ〳〵身上{しんしやう}しまつて。それから中間奉公{ちうげんぼうこう}に
出{で}たのよ。ほんにおれが女房{にようぼう}を賞{ほめ}るのじやアねへが。アノ

(6ウ)
よふな面容{きりやう}のよくて艶{やさ}しい女{をんな}といふものが又{また}と有{あ}るものか。
死別{しにわか}れでさへかなしくつて〳〵。其{その}当座{とうざ}は毎日{まいにち}〳〵泣{ない}て
ばつかりゐたのに。まして人{ひと}に連{つれ}て行{いか}れて見{み}やれ。どんなに
かなしかろふと思{おも}へば我{わが}身{み}につまされて。その正{せう}太郎
どのとやらがいとしぼくて涙{なみだ}がこぼれてならぬ。ホヲイ〳〵。」
ト[すゝり上{あげ}て泣{なく}顔{かほ}を笑上戸{わらいじやうご}の可介はうちながめてふきいだし]【可】「イヤこりや大笑{おゝわらい}だ。ハヽヽヽ。何{なん}の
人{ひと}の事{〔こと〕}どふならふとかもふ事{〔こと〕}が有{あ}るものか。われが其{その}様{よふ}に
涙{なみだ}こぼして泣{ない}たとて。むこふで何{なん}とおもふものか。アレ〳〵〳〵

(7オ)
なくは〳〵。ハヽヽヽヽヽ。イヤきたないつらをしてほへる。ハヽヽヽヽヽ。
ソレ〳〵涙{なみだ}と水鼻{みづゝぱな}とが一{い}ツ所{しよ}になつて盃{さかづき}の中{なか}へはいるは。ハヽヽヽヽヽヽヽ。
それをまたしらずに角内{かくない}がのみおつたは。イヤこりや大
笑{おゝわらい}だ。フヽハヽフヽハヽヽヽヽ。」ト笑{わら}へば角内{かくない}むつとして【角】「何{なん}だナゼ
おれにそんなきたない物{もの}を呑{のま}せおつた。コレ八内おぬしは
何{なん}の意趣意恨{ゐしゆゐこん}があつて。水{みづ}ツぱなと涙{なみだ}を一{い}ツ所{しよ}にして酒{さけ}
の中{なか}へ入{い}れて。おれにのませた。可介{べくすけ}も又{また}可介{べくすけ}だ。夫{それ}を傍{そば}て
見{み}て居{ゐ}てしらせず呑{のん}だ跡{あと}でわらつてゐるとは頼{たの}もしげの

$(7ウ)

$(8オ)

(8ウ)
ない男{おとこ}だ。コリヤ此{この}ぶんではすまぬぞ〳〵。」【可】「ハヽヽヽイヤ此{この}男{おとこ}も
大{たい}そうな事{〔こと〕}をいふ。済{すま}ぬといふてどふならふ。これ式{しき}のことに
目{め}を大{おゝ}きくして。ハヽヽヽヽ何{なに}腹{はら}をたつ事{〔こと〕}がハヽヽヽヽあるものか。
こりや大笑{おゝわらい}だハヽヽヽヽ。」【八】「手前達{てめへたち}は何{なに}をそんなに笑{わら}ツたり
腹{はら}を立{たつ}たりする。此{この}かなしい中{なか}に何{なに}をはらを立{たつ}事{〔こと〕}がある
ものか。アノ女中{ぢよちう}の心{こゝろ}のうちを思{おも}ひやられて。ホヲイ〳〵。」【角】「ヤイ
まだほへるか。不吉{ふきつ}な男{おとこ}だ。すまぬぞ〳〵。」ト[腹立{はらたつ}なかに泣{なく}もあり笑{わら}ふもあるぞ
おかしけれ。実{げ}に酒{さけ}をして狂薬{きやうやく}ともきちがい水{みづ}とも名{な}づくるは。かゝる事{〔こと〕}ゆゑ云{いふ}ならん。はや酔{ゑい}たおれて下{しも}阝どもいびきの声{こゑ}のみゝかしましく。夜{よ}はしん〳〵と更渡{ふけわた}る。かくて

(9オ)
外面{そとも}に彳{たゝずみ}しかの正太郎|寂寞{せきばく}と人音たへしをうかゞひて。時分{じぶん}はよしと塀{へい}をのりこへ台{だい}所の家根{やね}にだん〳〵よぢのぼりかなたこなたとみまはすに。下{しも}べどもが引{ひき}まどを
しむることを忘{わす}れしにや。あけはなしてぞありければ。天のあたへとよろこびて。此引|窓{まど}の綱{つな}をたより。したへおりんとしたりしに。いかゞはしけんつなきれて下にありし井の
中{うち}へずでんどうと落{おち}ければ此|物音{ものおと}に八内は目をさましつゝおきあがり]【八内】「ヤア〳〵可介{べくすけ}何だか大{たい}そうな
音{おと}がしたが。たしか井戸{ゐど}のなかへ何{なに}かおちたよふだ。」【可】「それは
大事{おゝ〔ごと〕}だ〳〵。あかりを付{つけ}て中{なか}を見ろ。盗人{どろぼう}だろう。引{ひき}ずり
出{だ}してぶち殺{ころ}せ〳〵。」【角】「ヤア引窓{ひきまど}が明{あい}て居{ゐ}るは。引窓
から井戸{ゐど}のなかへ人がおちたのだ。ハテナア宵{よい}には星{ほし}だら
けで。人の降{ふり}そふな日和{ひより}ではなかつたが。」【可】「何{なに}を馬鹿{ばか}をぬかす。

(9ウ)
なんでも盗人{ぬすびと}にちがひはねへ。引あげてぶちころせ〳〵。」ト
わめく声{こへ}の奥{おく}の間へもれ聞{きこ}へてや軍藤治{ぐんとうじ}。おつとり刀{がたな}に
立出{たちいで}て【軍】「ヤイ〳〵下阝{しもべ}どもそふ〴〵しい何事{なに〔ごと〕}じや。」【可】「ネイ〳〵
かやうでござります。引{ひき}まどから人間{にんげん}が。井戸{ゐど}の中{なか}へ落{おち}ま
した。」【軍】「ナニ引まどよりしのびこんだ曲者{くせもの}が井戸へおちた。
大方{おゝかた}そやつ盗賊{とうぞく}で有{あら}ふ。ひきずり上{あげ}て吟味{ぎんみ}いたせ。」「かしこ
まつた。」と中間{ちうげん}ども。釣瓶{つるべ}を下{さぐ}れば正太郎。せんかたなくも
濡{ぬれ}しよぼたれ。上{うへ}へあがればしもべども。松戸{まつど}が前{まへ}に引居{ひきすゆ}れば。

(10オ)
軍藤治{ぐんとうじ}はうち見やり【軍】「ヤヽ何者{なにもの}にやとおもひしに我{われ}は
正太郎めだな。イヤおのれは〳〵ふとい奴{やつ}だな。虫{むし}もふみ
ころさぬ慈悲深{じひぶか}い。此|代官{だいくわん}の軍藤次を。よく鎌倉{かまくら}へうつ
たへに出{で}たな。それに今頃{いまごろ}立戻{たちもど}つて身どもか屋敷{やしき}へ夜{よ}ル
夜中{よなか}。忍{しの}びこんだは何でも曲事{くせ〔ごと〕}。寝首{ねくび}をかこふと思{おも}つてか。
但{たゞ}しは盗{ぬす}みをひろぐのか。」トはつたとにらめば正太郎「ヱヽ
口{くち}おしやおのれ軍藤次め。女房{にようぼう}といひ親人{おやびと}まで。汝{なんぢ}がかたに
とりことなし。よくも憂目{うきめ}にあわしたな。今宵{こよひ}妻子{さいし}に

(10ウ)
暇乞{いとまごひ}と。かまくらよりも立戻{たちもど}り。よふすを聞{きい}て捨{すて}おかれず
親父{おやぢ}さまをすくはんと。忍{しの}びこんだる此{この}屋敷{やしき}。折能{をりよ}く明{あけ}て
有{あ}つた引{ひき}まど。これ幸{さいわい}と手{て}にあたる。つなをたよりておりん
とせしに。運{うん}のきわめか綱{つな}きれて。井戸{ゐど}のなかへおちたれば
やみ〳〵うぬらにとらわれしか。ヱヽ残念{ざんねん}やとても己{おのれ}にとら
るゝ命{いのち}。ころさば殺{ころ}せ生{いき}かはり死{しに}かわり恨{うらみ}をなさいでおく
べきか。」ト歯{は}がみをなしてのゝしれば。軍藤次{ぐんとうじ}はせゝらわらひ
【軍】「ひかれものゝ小唄{こうた}とやら。生{いき}ていてさへ叶{かな}わぬおのれ。何で

(11オ)
死{しん}ではがたつものか。どふでくたばるうぬが命{いのち}。黄泉{よみぢ}の
さわりにならぬよふ。おれが工{たく}みの一{い}チ〳〵をいつて聞{き}かす
よツく聞{き}け。いかにも我{われ}がいふ通{とを}り。うぬが女房{にようぼ}のアノおくみ。
美{うつく}しいゆゑ此{この}軍藤次{ぐんとうじ}。足駄{あしだ}をはゐて首{くび}ツたけ。人{ひと}を頼{たのん}で
口説{くどい}ても。四{し}の五{ご}のぬかしてめんどうゆゑ。いつぞや祭{まつり}のどさ
くさまぎれ。引{ひき}はらツて身{み}が別荘{べつそう}へおいたれば。口説落{くどきおと}して
お妾{てかけ}さま。ちん〳〵鴨{かも}の睦{むつま}しいを。草葉{くさば}の蔭{かげ}から見{み}やアがれ。」
ト[あくまで嘲哢{てうらう}する〔ごと〕にたゞ正太郎はむねんのはがみ。かゝる所{ところ}へ別荘{べつそう}よりあはたゞしくこよひおくみが宵{よい}のうち逃出せしをしらずして夜中{よなか}にいたりて

(11ウ)
番{ばん}の人{ひと}〴〵おくみがおらぬを見{み}つけしゆへ早速{さつそく}こゝへしらせしなり。これを聞より軍藤次{ぐんとうじ}はます〳〵いかりの顔色{がんしよく}にて]【軍】「さては女{をんな}が逃
出{にげだ}せしも。やつぱりこやつがしわざならん。汝{うぬ}をころした
其{その}上{うへ}で。アノおくみめを引{ひつ}とらへ。有無{うむ}をいわせず手{て}に入{いれ}る。
まづそれ迄{まで}は下阝{しもべ}ども。そやつを親父{おやぢ}を入{い}れおきし。木部
屋{きべや}へつなひでにがさぬよふ。心{こゝろ}を付{つけ}よ。」と云捨{いゝすて}てこそ入{いり}にける。
廿三回
不便{ふびん}やな罪{つみ}なき罪{つみ}に正{せう}太郎。見{み}る目{め}いぶせきしばり縄{なは}。
仕置{しおき}の場所{ばしよ}へ引{ひか}れ来{く}る。羊{ひつじ}の歩{あゆ}みはかどらぬ。哀{あはれ}も余所{よそ}に

(12オ)
諸見{しよけん}物「コレ杢兵衛{もくべゑ}よ聞{き}きやれ。アノ正{せう}太郎は正直正路{せうじきせうろ}な
生{うま}れじやか。おくみといふ美{うつく}しい女房{にようぼう}ゆゑにアノよふな
無実{むじつ}の罪{つみ}にあふて御仕置{おしおき}になるぞや。おぬしもうちの
山{やま}の神{かみ}の事{〔こと〕}を。ヤレだづらだのお多福{たふく}だのと不足{ふそく}をいふ
が。決{けつ}してモウ向後{きやうこう}アノよふな〔こと〕いわぬがよい。お主{ぬし}やおれが
よふな|三平二満{おたふく}の女房{にようぼう}をもつて居{い}れば息才延命{そくさいゑんめい}。うつ
くしい女房{にようぼう}をかならず持{もた}ふと思{おも}はぬがよいぞや。」【杢】「ヲヽ
それ〳〵しかしまたアノ代官{だいくわん}どのがアノ顔{つら}でお組{くみ}どのを

(12ウ)
しめよふとは野良猫{のらねこ}が廿日鼠{はつかねづみ}をねらふよふなもの。にやん
と皆{みな}の衆そふでは有{あ}るまいか。」と。どよめく声{こゑ}に役人等{やくにんら}
とふれ〳〵と追立{おつたて}られ。むら〳〵ばつと浜千鳥{はまちどり}。しばしは
辺{ほと}りへよらざりける。かゝる群集{くんじゆ}の其{その}中{なか}をおし分{わけ}きたる
女房{にようぼう}おくみ。太郎吉{たろきち}が手{て}を引{ひき}ながら。それと見{み}るよりかけ
付{つけ}て【おくみ】「ノウ浅間{あさま}しやこちの人{ひと}。」とよらんとするを役人{やくにん}に
へだてられて詮方{せんかた}なく「ヱヽ情{なさけ}なやなんとせう。母{はゝ}さま
には死{しに}わかれ。おまへにわかれて太郎吉{たろきち}をば誰{たれ}を力{ちから}に

(13オ)
育{そだて}ませう。殺{ころ}さでかなはぬ事{〔こと〕}ならばわたしを殺{ころ}してこち
の人{ひと}を。どふぞ助{たす}けて下{くだ}さりませ。コレもふしそこにいるお代
官{だいくはん}の軍藤次{ぐんとうじ}さま。あなたのこれまでおつしやつたこと聞{きゝ}
いれませねば私{わたくし}をば。さぞ強面{つれない}ともにくしとも思{おぼ}し召{めさ}ふが。
どふぞお慈悲{じひ}にこちの人{ひと}の命{いのち}を助{たす}けて下{くだ}さりませ。申
コレ手{て}を合{あは}せて拝{おがみ}ます。ヱヽこちの人{ひと}おまへもおまへ。有{あら}ふ
事{〔こと〕}かあるまい事{〔こと〕}か。盗人{ぬすびと}じやの何{なん}のかのと。悪名{あくみやう}つけられ
殺{ころ}されては死{しん}だ跡{あと}まで恥{はぢ}の恥{はぢ}身{み}に覚{おぼ}へない事{〔こと〕}なら。なぜに

(13ウ)
言訳{いゝわけ}なされませぬ。コレ太郎吉{たろきち}よ。そなたもともにあそ
こにゐる仇{あだ}いやらしい意地{いぢ}の悪{わる}いお役人さまにおわびを
申て爺{とゝ}さまの。縄目{なはめ}を赦{ゆる}してもらやいの。」と。教{をし}へに何{なん}の
ぐわんせなき。稚{おさな}ながらも父親{てゝおや}の。此{この}ありさまを見{み}るよりも
【太郎吉】「コレ申|殿〔さま〕{とのさま}。どふぞ爺{とゝ}さまを。堪忍{かんにん}して下さりませ。
しばらいでならぬ事{〔こと〕}なら。此{この}ぼんをしばるなりとぶつなり
と勝手{かつて}にさしやれて爺{とゝ}さまをば。どふぞ赦{ゆる}して下{くだ}さり
ませ。爺{とゝ}さまがしばられると。嚊〔さま〕{かゝさま}が泣{なか}しやるから

(14オ)
ぼんもかなしうてなりませぬ。祖母{ばゞ}さまは|仏〔さま〕{のゝさま}とやらに
ならしやるし。爺{とゝ}さまが内{うち}にいねば。わしやかなしうてなり
ませぬ。見{み}ればあのように両方{りやうはう}の手〻{てゝ}をしばられていや
しやるが。あれでは飯{まゝ}を喰{く}ふ事{〔こと〕}もなるまいと思{おも}へば一{いち}ばい
かなしい。コレ嚊{かゝ}さまこりやどふぞしよふはないかの。」ト子
供心{こどもごゝろ}におろ〳〵と母{はゝ}にとりつき泣{な}くありさま。地獄{ぢごく}の
責{せめ}を此{この}世{よ}から。見{み}に集{あつま}りし見物{けんぶつ}も。|道理{〔こと〕わり}せめて一同{いちどう}に涙{なみだ}
に袖{そで}をしぼりけり。かゝるあはれも軍藤次{ぐんとうじ}は空{そら}吹{ふく}かぜと

(14ウ)
流{なが}し目{め}に。お組{くみ}が顔{かほ}をうちながめ【軍】「人{ひと}我{われ}につらければ。
我{われ}また人{ひと}につらしとやら。昔{むかし}の人{ひと}の譬{たと}へのとをり。ヤイ女郎{めらう}め
どうじや。今{いま}こそ思{おも}ひ当{あたつ}たか。現在{げんざい}夫{おつと}がアノざまがかなし
いか口{くち}おしいか。そふで有{あら}ふ〳〵。何{なん}じやあなたのおつしやつた事{〔こと〕}を
聞{きか}なんだ。そりや何{なに}をぬかす。アヽ聞{きこ}へた。我{われ}は夫{おつと}が此{この}さま
になつたで急{きう}にとりのぼせて気{き}が違{ちが}ふたと見{み}へるはへ。
コレよふ聞{き}ケよ。身{み}どもはな。千葉殿{ちばどの}の御目鏡{おめかね}をもつて
此{この}村〻{むら〳〵}を司{つかさ}とる代官{だいくわん}だぞよ。うぬら如{〔ごと〕}き土{つち}ぽぜりの女

(15オ)
房{にようぼう}に何{なに}をいわふぞ。今{いま}遇{あ}ふが始{はじめ}てだぞ。にくいの可愛{かあいゝ}のと
何{なに}私{わたくし}の意趣意恨{ゐしゆゐこん}で成敗{せいばい}をしようか。是{これ}なる汝{うぬ}が夫{をつと}
正{せう}太郎とやらはナ。夕阝{ゆふべ}深更{しんこう}におよんで予{よ}が屋敷{やしき}の引
窓{ひきまど}から忍{しの}びこんだは。定{さだ}めし水呑百姓{みづのみびやくせう}の喰{くら}ふことが
ならぬゆゑ。貧{ひん}の盗{ぬすみ}の出来心で忍びこんだ物{もの}で有{あら}ふ
が悪{わる}い事{〔こと〕}はしまいもの。天|道{とう}さまは見|通{とを}し忽{たちまち}伐{ばち}が当{あた}
つたとみへて引まどの綱{つな}が切{き}れて。下にあつた井戸{ゐど}の中へ
真逆{まつさか}さま。ぬれ鼠{ねづみ}のよふな形{なり}で上{あが}ツた時{とき}は何{なん}ぼ惚{ほれ}ている

$(15ウ)

$(16オ)

(16ウ)
汝{うぬ}でさへ見{み}たらば直{じき}に愛相{あいそう}をつかすで有{あら}ふと思{おも}ふ程{ほど}な
ぶざまな形{な}り。じたい汝|等{ら}親子{おやこ}のやつら。怪{あや}しい奴{やつ}と思つた
ゆゑ正{せう}右衛門めは先達{さきだつ}て。召捕{めしとり}おゐて吟味{ぎんみ}さい中{ちう}そこへ
うか〳〵うせるとは。飛{とん}で火{ひ}に入{い}る夏{なつ}の虫{むし}不便{ふびん}な事{〔こと〕}だが
しかたがねへ。自業自得{じごうじとく}とあきらめて念仏{ねんぶつ}唱{とな}へて地獄{ぢごく}
へでも勝手{かつて}にうせろ。ヤイそこな女|夫{おつと}が成敗{せいばい}にあふて
死{しん}でしもふたといふて。必{かならず}〳〵気{き}をおとして。一{い}ツ所{しよ}に死{しな}ふ
などゝいふ不了簡{ふりやうけん}を起{おこ}すな。女寡{をんなやもめ}には花{はな}が咲{さく}と世話{せわ}を

(17オ)
するものはその方が心次第{こゝろしだい}で幾人{いくら}もあるぞ。ナ合点{がてん}か。」ト傍
若無人{ばうじやくぶじん}の詞{〔こと〕ば}のはし〴〵聞{きく}毎事{〔こと〕〴〵}に正太郎は。怒{いか}りにたへねど
詮{せん}すべなく【正】「コレ女房{にようぼう}必{かならず}ともにもふ泣{な}きやるな。此正太郎
幼少{ようせう}より邪{よこしま}非道{ひどう}の事{〔こと〕}とては夢{ゆめ}さらせねど。いかなる過去{くわこ}の
業因{ごうゐん}にて。する事{〔こと〕}なす事{〔こと〕}いすかのはし。と齟齬{くひちがい}。かく恥{はづ}かし
めをうくるとは。神仏{かみほとけ}にも見放{みはな}されたる我{わが}身{み}の上{うへ}。迚{とて}もかく
ても命{いのち}をとらるゝ今{いま}となり。さら〳〵此{この}身{み}は惜{を}しからねど
鎌倉{かまくら}にては村人等{むらびとら}。けふや翌{あす}やと我{わが}かへるを指折{ゆびおり}かぞへて

(17ウ)
待{まつ}で有{あら}ふ。そなたはどふぞ生{いき}ながらへ鎌倉{かまくら}へ行{ゆき}此{この}始終{しじう}を
五四郎どのへ伝{つた}へてくれ。云残{いゝのこ}したい事あれど。人目{ひとめ}の繁{しげ}き
此{この}場所{ばしよ}ゆへ。はやく〳〵。」とせき立{たつ}れば。おくみはいとゝ生体{せうたい}なく
【くみ】「いかに気{き}づよい女でも。目前{もくぜん}夫{をつと}の成敗{せいばい}に。あふを見捨{みすて}て
帰{かへ}られふ。とてもかなはぬ命{いのち}なら。此太郎吉を手にかけて。
私{わたし}もともに自害{じがい}して。三途{さんづ}の川や剣{つるぎ}の山。那落{ならく}の底{そこ}の底
までも。親子{おやこ}三人|手{て}に手をとり。行{ゆく}が私{わたし}が本望{ほんもふ}ぞや。とは
いへ爰{こゝ}に刃物{はもの}はなし。コリヤまア何{なん}とした物{もの}で有{あら}ふぞ。」と。

(18オ)
又も不覚{ふかく}にとりみだす。松戸はこれらを耳{みゝ}にもかけず
【軍】「ヤア〳〵未練{みれん}な泣顔{ほへづら}時刻{じこく}がうつる。とく〳〵。」とせり
立{たて}られて役人は。後{うしろ}へまはりひらめかす。白刃{しらは}の光{ひか}りは電光
石火{でんくわうせつくわ}。既{すで}にかうよと見へにける。かゝる危{あやふ}き其{その}所{ところ}へ遥{はるか}あなたの
方よりも。爰{こゝ}へ来{く}るよと覚{おぼ}しき同勢{どうぜい}。遠目{とふめ}にそれと見る
よりも。「アレとゞめよ。」と馬上{ばしやう}の武士{ものゝふ}。声をかくれば近従{きんじゆ}の侍{さむらい}。
走{はし}り来{きた}つて松戸に向{むか}ひ。「鎌倉{かまくら}どのゝ内意によつて。諸国{しよこく}の
地頭代官{ぢとうだいくわん}が。邪正{じやせう}を正{たゞ}さん其為に。秩父{ちゝぶ}の重忠{しげたゞ}むかふたり。

(18ウ)
その罪人{つみんど}の刑伐{けいばつ}は。しばらく御待{おんまち}あられよ。」と。いわれて
恟{びつく}り軍藤二{ぐんとうじ}。疵{きづ}もつあしの気味{きみ}わるく。忽{たちまち}土{つち}にひれふして
【軍】「コハ思ひよらざる重忠公{しげたゞこう}の御入国{ごにうこく}。とくよりそれと知{し}る
ならば。御出迎{おんでむか}ひおもいたすべきに。知{し}らぬ事とて不礼{ぶれい}の段{だん}。
真平{まつ゜ひら}御免{ごめん}くださるべし。」と。追従{ついしやう}たら〴〵相演{あいのぶ}れば。重忠{しげたゞ}急{きう}*「真平{まつ゜ひら}」の半濁点位置(ママ)
に馬{むま}より下{お}りて礼{れい}を返{かへ}し【重】「何{なに}は扨置{さておき}早速{さつそく}うけ給はらん。
是{これ}に引すへられし罪人{つみんど}は。何所{いづく}いかなる者にして。いかやうなる
科{とが}をおかせしとて。かくは罪{つみ}ない給ふやらん。其{その}故由{ゆゑよし}を聞{き}かま

(19オ)
ほし。」と。なじりとはれて軍藤二{ぐんとうじ}「イヤ此{この}者{もの}は当村{とうむら}の百姓{ひやくせう}正
右衛門が悴{せがれ}正太郎と申|者{もの}。いつたい親子{おやこ}ともに横道{わうどう}もの故
|先達{さきだつ}て親{おや}正右衛門|義{ぎ}は拙者方{せつしやかた}へ召捕置{めしとりおき}まして吟味最
中{ぎんみさいちう}の所。まつたこれなる正太郎。昨夜{さくや}深更{しんかう}におよび拙者{せつしや}が
邸{やしき}へ忍{しの}びいりましたるは。全{まつた}くきやつ盗賊{とうぞく}とぞんじ早速{さつそく}
からめとつて打首{うちくび}の刑罪{けいざい}に行{おこな}わんとぞんずるところで
ござる。」ト詞{〔こと〕ば}に重忠{しげたゞ}頭{かうべ}をかたむけ【重】「スリヤ此者がアノ正太郎
でござるナ。シテ此者には昨夜中{さくやちう}貴殿{きでん}の邸{たち}へ盗賊{とうぞく}に入{いり}し

(19ウ)
とな。」【軍】「いかにも。」【重】「ハテナアシテ又{また}貴{き}でんには此者に何{なに}を
お取{と}られなされたナ。」【軍】「イヤ只{たゞ}忍{しの}びこんだる斗{ばかり}の所をとらへ
たれは。未{いまた}何{なん}にもとられはいたしませぬ。」【重】「ムヽそふでござ
ろふ。イヤ何{なに}軍藤二{ぐんとうじ}どの。灯台{とうだい}元{もと}闇{くらし}とやら。是{これ}にも増{ま}したる
大賊{だいぞく}が。ツイ目{め}の前{まへ}に壱人{いちにん}ござるが。ナントこれをば成敗{せいばい}は
なされぬかな。」【軍】「ムヽ大賊{だいぞく}がござるとはそりや何{いづれ}に。」【重】「ヤア
だまり召{めさ}れい松戸{まつど}どの。その大賊{だいぞく}とは貴殿{きでん}の事。」【軍】「何{なに}某{それがし}
が盗人{ぬすびと}と。」【重】「ヤア人の妻{つま}をかすめとり。無実{むじつ}の罪{つみ}に夫{おつと}を殺{ころ}し

(20オ)
己{おの}か恋路{こいち}をかなへんと。横{よこ}しま非道{ひどう}の軍藤二そこ一寸{いつすん}も動{うごく}
まいぞ。小子{やつがれ}きのふ此{この}国{くに}へ入{い}るより早{はや}く家{いへ}の子等{こら}を。四方{しはう}へ
廻{まは}して国中{こくちう}の異変{ゐへん}をうかゞひ聞{き}かする所{ところ}。ゆふべこれなる
村{むら}はづれ。田家{でんか}の辺{ほと}りに徘徊{はいくわい}なす。あやしき曲者{くせもの}引{ひつ}とらへ
吟味{ぎんみ}なせしに此{この}辺{へん}の。あぶれ者{もの}と聞{きこ}へたる。附目{つけめ}の同六{どうろく}いか
さまの佐伊八{さいはち}とか呼{よ}ぶ博徒{ばくと}とやら。夕阝{よべ}よりいたく拷問{ごうもん}せ
しに。其{その}身{み}は勿論{もちろん}汝{なんぢ}が悪事{あくじ}。一〻{いち〳〵}白状{はくぜう}いたせしぞ。」と聞{き}いて
俄{にはか}に軍藤二。面色{めんしよく}土{つち}の〔ごと〕くに変{へん}じ。わな〳〵ふるへて居{ゐ}たり

(20ウ)
ける。重忠{しげたゞ}急{きう}に座{ざ}を立{たつ}て。正太郎がいましめを解{と}きすて
【重】「あかき所{ところ}に王法{わうぼう}あり。闇{くら}き所に神明{しんめい}あり。当時{とうじ}右幕下{うばつか}
頼朝公{よりともこう}仁政{じんせい}四海{しかい}にあふるゝといへども。猶{なを}いたらざる隈{くま}も
あらんかと。蜜{ひそか}に我{われ}に命{めい}じ給ひ。諸国{しよこく}を順見{じゆんけん}さすること
全{まつた}く所の国司代官{こくしだいくわん}。非義{ひぎ}の行{おこな}ひあるならはこれを正{たゞせ}と
蜜〻{みつ〳〵}の御錠{ごちやう}。それゆゑ罷{まか}り越{こし}たる某{それがし}は。直{なを}きをあげて
曲{まが}るを正{たゞ}す今度{こんど}の役目{やくめ}。先達而{せんだつて}其{その}方等{はうら}とともに松戸{まつど}が
非分{ひぶん}の一〻{いち〳〵}訴{うつた}へ出{いで}し其{その}中{なか}に。五四郎{ごしらう}といへる者|汝{なんぢ}にかはりて

(21オ)
某{それがし}が社参{しやさん}の路次{ろじ}に待{まち}うけ訴出{うつたへいで}し其{その}おもむき。皆{みな}〔こと〕〴〵く
理{り}に当{あた}りて打捨{うちすて}おかれぬ生民{たみくさ}の〓{なげ}きに遥〻{はる〴〵}此{この}国{くに}まで。*〓は「歎(冠)+心」
まかりこしたる某{それがし}が夕阝{ゆふべ}とらへし悪漢{わるもの}が。白地{あからさま}なる白状{はくぜう}にて。
其{その}方{はう}親子{おやこ}が罪{つみ}なきこと。重忠{しげたゞ}とくより承知{せうち}せり。汝{なんぢ}は勿論{もちろん}
親{おや}諸{もろ}とも命{いのち}を助{たす}けてつかはす間{あいだ}。かならず案{あん}ずる事{〔こと〕}なかれ。
汝{なんぢ}はいまだ若年{じやくねん}ながら村人{むらびと}どもが此{この}年頃{としごろ}。しへたげられし
うつふんを。はらさん物{もの}と妻子{つまこ}を捨{すて}命{めい}を軽{かろ}んじ鎌倉{かまくら}へ
訴出{うつたへいで}しは。身妙{しんびやう}の段{だん}これ一{ひと}ツ。まつた故郷{こきやう}へ立{たち}かへる。ゆふべに

(21ウ)
およんで父{ちゝ}が身{み}の捕{とりこ}となりしと聞{きく}よりも。すくい出{だ}さんと
代官{だいくわん}が屋{や}しきへ独{ひと}りしのびいる。雄〻{をゝ}しき大和魂{やまとだましゐ}は武士{ぶし}も
およばぬ胆心猛烈{たんしんもうれつ}。感{かん}ずるにあまりあるこれ二{ふた}ツ。又{また}女房{にようぼう}の
お組{くみ}とやらん。松戸{まつど}が非道{ひどう}の横恋慕{よこれんぼ}に。苦節{くせつ}をまもりて
操{みさほ}をやぶらぬ。孝{こう}といひ貞{てい}といひ。此{この}夫{をつと}にして此{この}妻{つま}あり。宜{よろ}
しく竹帛{ちくはく}にとゞめおきて。其{その}勲{いさおし}を賞{しやう}ぜんか。それに付{つけ}ても
不便{ふびん}なるは。正{せう}太郎が母{はゝ}とやら。憂{うき}に得{え}たへず自殺{じさつ}して。
黄泉{よみぢ}の人{ひと}となつたるよし。重忠{しげたゞ}爰{こゝ}へ来{く}る事{〔こと〕}の今{いま}一日{ひとひ}だに

(22オ)
早{はや}からば。かれに自殺{じさつ}はさせまじきに。千金{せんきん}にだもかへがだき
人{ひと}の命{いのち}をうしなはせし。我{わが}罪{つみ}尤{もつとも}かろからず。まつた松戸{まつど}は
此{この}年頃{としごろ}。村民{そんみん}どもをしへたげし。それにも飽{あか}で主{ぬし}ある他{ひと}の
妻{つま}を奪{うば}ひ。其{その}夫{おつと}をさへ殺{ころ}さんとまではかりし姦悪{かんあく}。殆{ほとん}ど
にくむに絶{た}へたる非道{ひどう}。とく鎌倉{かまくら}へ引{ひい}たるうへ。重{おも}き罪科{ざいくわ}に
行{おこな}ふべし。」と。残{のこ}るかたなき仁恵{じんけい}に。喜{よろこ}びあふぞかぎりなし。
○かくて正{せう}右衛門|親子{おやこ}は重忠{しげたゞ}が仁心{じんしん}にてあやうき
命{いのち}をたすかり村長{むらおさ}を命{めい}ぜられ。此{この}度{たび}の恩賞{おんしやう}として

(22ウ)
帯刀{たいとう}をゆるされしかば。喜{よろこ}ぶ事{〔こと〕}大方{おゝかた}なく。それに
付{つけ}ても母{はゝ}の横死{わうし}をかなしみ。多{おゝ}くの僧{そう}に供養{くよう}なし。
仏事{ぶつじ}をねんごろにとむらひ。正{せう}右衛門は剃髪{ていはつ}なし。正
念{せうねん}と改{あらた}め。近{ちか}き辺{ほと}りに庵{いほり}をむすび。行{おこな}ひすまして
八十|余歳{よさい}の上寿{じやうじゆ}をたもち。目出度{めでたく}大往生{だいわうじやう}をとげ
たりけり。又{また}松戸{まつど}軍藤二{くんとうじ}悪漢{わるもの}同六{どうろく}佐伊八等{さいはちら}は鎌倉{かまくら}
由井{ゆゐ}が浜{はま}にて重{おも}き刑{けい}におこなはれ。正太郎に代{かは}りて
重忠{しげたゞ}へ訴出{うつたへいで}し五四{ごし}郎にも数{かづ}のほうびを給はり国中{こくちう}

(23オ)
夜{よる}戸{と}ざゝす村民{そんみん}みな正太郎が善行{ぜんかう}をみならひ信{ま〔こと〕}
をもつて交{まじは}りければ。一邑{ひとむら}大{おゝ}いにおさまりて。目出度{めでたき}
祥{さが}のみ打{うち}つゞきぬ。正太郎お組{くみ}太郎吉等{たろきちら}が事{〔こと〕}。この
末{すゑ}に噺{はな}しなしとしるべし。
[浦里{うらざと}時次郎{ときじらう}]明烏{あけがらす}後正夢{のちのまさゆめ}巻之十三了


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底本:東京大学文学部国語研究室蔵本(4L:95:5)
翻字担当者:矢澤由紀、金美眞、島田遼、銭谷真人
更新履歴:
2017年7月26日公開

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