日本語史研究用テキストデータ集

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浦里時次郎明烏後の正夢うらざとときじろう あけがらすのちのまさゆめ

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三編上

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浦里時次郎明烏後の正夢 三編上

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凡例
1.本文の行移りは原本にしたがった。
2.頁移りは、その丁の表および裏の冒頭において、丁数・表裏を括弧書きで示した。また、挿絵の丁には$を付した。
3.仮名は現行の平仮名・片仮名を用いた。
4.仮名のうち、平仮名・片仮名の区別の困難なものは、現行の平仮名に統一した。ただし、形容詞・副詞・感動詞・終助詞・促音・撥音・長音・引用のト等に用いられる片仮名については、原表記で示した場合がある。 〔例〕安イ、モシ、「ハイそれは」ト、意気だヨ、面白くツて、死ンで、それじやア
5.漢字は現行の字体によることを原則としたが、次のものについては原表記に近似の字体を用い、区別した。「云/言」「开/其」「㒵/貌」「匕/匙」「吊/弔」「咡/囁」「哥/歌」「壳/殻」「帒/袋」「无/無」「楳/梅」「皈/帰」「艸/草」「計/斗」「弐/二」「餘/余」
6.繰り返し符号は次のように統一した。ただし、漢字1文字の繰り返しは原本の表記にしたがい、「〻」と「々」を区別して示した。
 平仮名1文字の繰り返し 〔例〕またゝく、たゞ
 片仮名1文字の繰り返し 〔例〕アヽ
 複数文字の繰り返し 〔例〕つら〳〵、ひと〴〵
7.「さ」「つ」「ツ」に付く半濁点符は「さ゜」「つ゜」「ツ゜」として示した。
8.Unicodeで表現できない文字は〓を用いた。
9.句点は原本の位置に付すことを原則としたが、文末に補った場合がある。
10.合字は〔 〕で囲んで示した。 〔例〕殊{〔こと〕}に、なに〔ごと〕、かねて〔より〕
11.傍記・振り仮名は{ }で囲んで示した。 〔例〕人生{じんせい}
12.左側の傍記・振り仮名の場合は、冒頭に#を付けた。 〔例〕めへにち{#毎日}
13.傍記・振り仮名が付く位置の紛らわしい場合、文字列の始まりに|を付けた。 〔例〕十六|歳{さい}
14.原本に会話を示す鉤括弧が付いていない場合も、これを補い示した。また庵点は〽で示した。
15.原本にある話者名は【 】で示した。 〔例〕【はる】
16.割注・角書および長音符「引」「合」は[ ]で囲んで示した。
17.不明字は■で示した。
18.原本の表記に関する注記は*で行末に記入した。 〔例〕〓{たど}りて*〓は「漂+りっとう」
19.花押は〈花押〉、印は〈印〉として示した。
20.画中文字の開始位置に〈画中〉、広告の開始位置に〈広告〉と記入した。

本文の修正
1.翻字本文を修正した場合には、修正履歴を末尾に示す。
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(1オ)
新年{しんねん}売出{うりいた}しの|書名{ほんのな}
教草{をしへぐさ}女房{にようばう}かた気{ぎ}[山東京山著 歌川豊国画][都合廿五編揃 此内部分目録の如く五種{いついろ}の読切あり]
〔絵本〕絵本逆櫓松[六冊] 松蔭艸紙[五] 雲井物語[五] 長我部*〔 〕の記号は原本ママ
物語[五] 嵐山故郷錦[五] 大経師宗像暦[七] 敵討綴の錦[五]
高旌列伝 天一坊五十三次[十] 犬猫奇談[六] 景清外伝[十五]
〔粋書〕[鈴木主水]あやめ草[四揃] 連理の梅[五揃] 心意気[四揃]*〔 〕の記号は原本ママ
小栗綱手車 艶{つや}くらべ[六揃] 重五良小金の花[四揃] 濡小
袖[五揃] 明烏{あけがらす}後の正夢{まさゆめ}[七揃] 同後譚寝覚の繰言[五揃]
貧福軍記[三揃] 同太平記[前後] 朧月夜[六揃]
此外|馬琴{ばきん}京伝{きやうてん}鐘鳴{かねなり}の著書は勿論あらゆる名家の戯
作{けさく}もの且{かつ}従来{これまで}の軍談{ゑほん}|小説稗史{くさぞうし}|人情本{すいしよ}の類|他板{よそ}
の品{もの}まで広く蒐集{とりよせ}有之候間猶又|御愛顧{ごひいき}を賜{たま}
はん〔こと〕を伏而{ふして}希{ねが}ひ上{あげ}升{ます}。

大阪心斎橋通北久宝寺町
前川源七郎
和漢洋書籍処

(1ウ)
[浦里時次郎]明烏{あけがらす}後正夢{のちのまさゆめ}巻之七
江戸[南仙笑楚満人 滝亭鯉丈]合作
かぞいろを問{とふ}人{ひと}あらば朝夕{あさゆふ}の。露{つゆ}とこたへよなでしこの。花{はな}さへ
いつかうつろいて。冬枯{ふゆがれ}ちかき秋{あき}の野{の}に。哀{あは}れ薄{すゝき}の穂綿{ほわた}まで。
今朝{けさ}はみだれてもの思{おも}ふ。心{こゝろ}づくしや親〻{おや〳〵}の慈悲{ぢひ}はかわらぬ
憂{うき}ことも。浮世{うきよ}の義理{ぎり}に余所{よそ}〳〵しく。泣{なか}ぬ顔{かほ}するくるしさの
胸{むね}を晴{はら}しにむかふ島{じま}。人目{ひとめ}関屋{せきや}のさとちかく。たづねて

(2オ)
此所{こゝ}に来{く}る人{ひと}は。彼{かの}時次郎が実父{じつのおや}春日屋{かすがやの}由{よし}兵衛なり。
我{わが}行{ゆく}方{かた}に先歩{さきだち}し。同{おな}じ年齢{ころ}なる老人{らうじん}を。跡{あと}より追付{おいつき}
由{よし}兵衛は【由】「コレ〳〵卒示{そつじ}ながら其方{それ}へござるは。正右衛門殿{しやうゑもんどの}では
ござらぬか。」ト[きゝてうしろをふりかへり]【正】「ヤア由{よし}兵衛どのか。これは〳〵。」【由】「これは
亦{また}珍敷{めづらしい}所{ところ}でお目{め}にかゝりました。今度{こんど}は陸地{くが}をお出{いで}と
見へるが。此{この}庵崎辺{いほざきへん}へは何御用{なにごよう}で。」【正】「サアイヤ成程{なるほど}此度{こんど}も船{ふね}
でと存{ぞんじ}たが。彼{かの}二ツ八月{につばちぐわつ}とやら昔{むかし}から船路{ふなぢ}にいやがる時分{じぶん}がら。
難風{なんぶう}でもあつてはと。老妻{ばゝアどの}はじめ世継{せがれ}めも案{あんじ}ますゆへ幸{さいわ}ひ。

(2ウ)
成田{なりた}さまへも参詣{さんけい}ながら。岡{をか}を参{まい}つたが。昨夜{さくや}行徳泊{ぎやうとくどまり}で
ぶらり〳〵と来{き}まして。まだ餘{あま}り早{はや}イ故{ゆへ}チトヱヽ[引]国元{くにもと}で入魂{じゆこん}にした
人{ひと}が。此{この}辺{へん}に|住居{いられる}といふ事を聞{きゝ}ましたから。序{ついで}ながら尋{たづね}よふかと存{ぞんじ}
て。」【由】「ハヽアそれはさぞお草臥{くたびれ}であらふ。まづわしどもへ着{つか}しやつて。
ゆるりとお尋{たづね}なされば能{よい}事{〔こと〕}サ。」【正】「ハヽヽヽヽイヤさしてくたびれも
いたさぬゆへ。時{とき}におまへはまた何方{どちら}へ。」【由】「ヤわたくしはヱヽイヤ何{なん}で
ござる。ヲヽそれ〳〵。この迎島{むかひじま}の弘法大師{こうぼうだいし}さまは。とりわけ御利
益{ごりやく}もあり。殊{〔こと〕}に女人成仏{によにんじやうぶつ}の御誓願{ごせいぐわん}とあることゆへ。ごぞんじの

(3オ)
とふりお崎{さき}めも非業{ひごう}の往生{わうじやう}。せめては来世{らいせ}を助{たすけ}たく。幸{さいわい}
今日{けふ}は浅草辺{あさくさへん}へ用事{ようじ}もあれば。ついでながらでは
ござるが。参詣{さんけい}いたそふとぞんじて。イヤ何事{なに〔ごと〕}も置{おひ}て。お照{てる}も
だん〳〵|容体吉{みなをしまし}て。一両日{いちりやうにち}は食事{しよくじ}もそろ〳〵喰{いけ}て
まいる様子{ようす}。あの分{ぶん}ではどふやら。取止{とりとめ}た様{よう}に思われます。」
【正】「ハアそれはまづ耳悦{みゝより}な〔こと〕承{うけたまわつ}てあんどいたします。嗚
呼{ああ}永{なが}〳〵の御厄介{ごやつかひ}気{き}の毒{どく}千万{せんばん}な。」【由】「イヤまづあの
茶屋{ちやや}で一{いつ}ぷくたべましやう。爰{こゝ}は餘{あんま}り路辺{みちなか}じや。」

(3ウ)
【正】「成程{なるほど}さよふいたしましやう。」とあぢな所{どころ}であいやけ同士{どし}。
互{たがひ}の胸{むね}に一物{いちもつ}を堤{つゝみ}の茶{ちや}屋が腰床{こしかけ}に。しばしとてこそ休{やす}ら
ひぬ。【由】「イヤ此{この}土手{どて}も春{はる}さきは。殊{〔こと〕}なふ群集{くんじゆ}しますが。今{いま}は
はや人足{ひとあし}もちらりほらり。しかし霜枯{しもがれ}の景色{けしき}もまた。閑
清{かんせい}でどふもいへぬではござらぬか。」【正】「なるほど〳〵。したがこのうそ
淋{さみ}しひ野辺{のら}を景色{けしき}と見るは。御当地{ごとうち}の衆{しゆう}のこと。わし
どもは明暮{あけくれ}見つけた田{た}や畑{はたけ}。珍{めづら}しうもござらぬてハヽヽヽヽヽヽ。
とはいふものゝこの隅田川{すみだがは}は。何{なに}もしらぬ田舎{いなか}ものにも。

(4オ)
さすが名所{めいしよ}と見へまする。」【由】「いかさま。此{この}川{かは}は都{みやこ}のお方{かた}も
浦山{うらやま}しう思{おも}はるゝとの事。またアレ水鳥{みつとり}が沢山{たくさん}おりま
する其{その}中{なか}に。都鳥{みやこどり}といふが有{ある}そうなが。とれがどれ
やらわしらには一向{いつかふ}わからぬ事じやが。すべて此川に
住{す}めばたとへかもめでもなんでも。マヽ都鳥じやげな。イヤ
それについてわしが一句{いつく}致{いた}した事{〔こと〕}がござるテ。ヱヽ「あれ
ならばあれにしておけ都鳥{みやこどり}」サ。ハヽヽヽヽ。何{なん}にしろ水鳥{みづとり}と
いふものは雌雄{しゆふ}そろふて。むつましいものでござるナ。」

$(4ウ)
んじちや
美所

$(5オ)

(5ウ)
【正】「イヤ〳〵。そりや水鳥{みつとり}にかぎつた事でもござるまい。目{め}に
こそ見へぬ虫{むし}けらでも。親子{おやこ}夫婦{ふうふ}の情愛{ぜうあい}程{ほど}深{ふか}い物{もの}は
御座るまいテ。アヽ是{これ}を思{おも}へば世{よ}の中{なか}には。鳥類{てうるい}にも乙{おと}ツた。」
【由】「身{み}の上{うへ}といふはわしが事。最初{せん}の嚊{かゝ}めに分{わか}れて
から。独{ひと}り寝{ね}の閨{ねや}淋{さび}しく。漸々{よふ〳〵}入{い}れた後添{のちぞい}にまで。
ひがうのわかれをするといふ薄命{はくめい}な身{み}の上。推量{すいりやう}して
くだされ。」【正】「成程{なるほど}そりや御尤{ごもつとも}な事。さりながらわしは
仕合{しあわせ}と。はじめての女房{にようぼう}といふは。不変{やつぱり}今{いま}の|老婆

(6オ)
殿{ばゝアどの}ゆへ夫婦{ふうふ}わかれの思ひは知{し}らねど。推量{すいりよう}にもしれ
て有{ある}。若気{わかけ}の至{いた}りに。風等{ふと}わかれひきする事もあれ
ど暫時{しばし}程{ほど}がたつて見るとサ。彼{か}の元木{もとき}に増{まさ}る梢{うらき}無{なし}と
やら死{し}に離{わかれ}なりや。是非{ぜひ}もなけれど。」【由】「イヤ〳〵それは
御|了簡違{りやうけんちがひ}。ハテ若{わか}い身そらなりやなんで力が落{おち}よふ
ぞ。|離別{わかれ}たらわかれた形{な}リ。又よい女房{にようぼう}も亭主{ていしゆ}も
もてるではござらぬか。折々{おり〳〵}は替{かわ}るも珍{めづ}らしうてよい
物。」【正】「フムそふ思ふて見れば。気{き}は楽{らく}なもの。しかし親子{おやこ}は

(6ウ)
格別{かくべつ}の事。他人{たにん}と佗人の合{あは}せ物なれど。親{おや}にもかくす
事{〔こと〕}打明ケ{うちあけ}て咄{はな}し逢{あ}ふは。夫婦{ふうふ}の中。是{これ}程{ほど}深{ふか}い物は御
座るまい。それをマア着類{きるい}か諸道具{しよだうぐ}の様{よふ}に新{あた}らしい
のがよいとは。ちとお言葉{ことば}が違{ちが}ひましよ。それも今いふ通{とふ}り。
死{し}にわかれなりや。せう事もなけれど。あの雄{おん}鳥も一{い}ツ
たんはあじなお鳥のはごに掛{かゝ}り。借金{しやつきん}のもちが身うちに
くるまつて。身|詰{づま}りとなりし故{ゆへ}。心ならずも家出{いへで}は
したれどほのかに聞{き}けば。今ははやそのお鳥めも

(7オ)
何処{どこ}へやら飛{と}んでいつたとやら。又身うちにくるまつた
もちも。誰{たれ}やら油{あぶら}てよつく洗{あら}ツてやつたそうな。
殊{〔こと〕}に久〻{ひさ〴〵}の流浪{るろう}でうんぜうは仕抜{しぬい}たであろふ。」
【由】「アヽイヤ正右衛門殿あじな所{ところ}へ廻{まは}り気{ぎ}かはぞんぜぬか。
またしても不埓者{どらもの}の壁訴詔{かべそしよふ}。置{おい}てくだされ。マヅ
何{なに}か扨{さて}置て早{はや}い事{〔こと〕}は。身上が大|事{じ}でこさる。」ト
[ことばずくなにいひちらし]「アヽわしが内も寡{やもめ}沢山{だくさん}で困{こま}ります
わいハヽヽヽ。イヤどふぞ相応{そふあふ}の婆{ばゝ}アがあらば。壱人リ

(7ウ)
見付てくだされ。兎角{とかく}朝夕{てふせき}が不自由{ふじゆう}。アヽ是{これ}モウ十
五六|歳{ねん}も若{わか}くは。外{ほか}から入れば彼是{かれこれ}物入もかゝる故{ゆへ}。幸{さいわい}
お照{てる}も寡{やもめ}の事なりや。内〻ですむ事を。」ト[とつてもつかぬあいさつに正右衛門はたまりかね]
【正】「これ由兵衛どの。アノお照はわしが娘{むすめ}イヤサ正右衛門が娘
人の子でござるぞ。譬{たと}へこなたが拾五年はおろか。さつちう{#三十}
歳{ねん}若{わか}くとも。一ツたん時{とき}次郎が妻{つま}となり。其又|舅{しうと}に枕{まくら}
かわす様{やう}な娘じやと思ふか。畜生{ちくせう}ではナヽ。無{ない}わへ。それ程{ほど}のこな
たとは知{し}らず。可愛{かあい}そふにお照めはナ。我{わ}が病気{びよふき}の事は少{すこ}シ

(8オ)
もかまわず神仏{かみほとけ}へ願{ぐはん}がけするのも。どふぞ時次郎が勘当{かんだう}
免{ゆる}して貰{もらい}たサ。翌日{あす}死ぬ事も思わずに。こなた衆{しう}の機嫌{きげん}
気{き}づまをうかゞつて居{ゐ}おるがふびん故{ゆへ}。時次郎が身に尻{しり}
みやさへなけりや。帰参{きさん}させる気にもなろうと思ふた故。
娘{むすめ}と内〻{ない〳〵}いゝ合{あわせ}連{つれ}てのいた女郎{じよろう}の身|受{うけ}も。さらりと
片付ケ{かたつけ}そこでわしがいふもどうやらと。種々{しゆ〴〵}人を替{かへ}手を
尽{つく}して詫{わび}すれど聞{きゝ}入られず。夫{それ}といふもお崎殿{さきとの}に。万事{ばんじ}
掻{かき}まはされてござる故と。おさき殿|斗{ばか}り|にく{#悪}う思ふて居{い}たは

(8ウ)
此方のひがごと。矢張{やつぱり}こなたの強欲{ごふよく}から。掛替{かけがへ}もない独{ひとり}
の息子{むすこ}。よくも思ひ切{き}られたことじや。其{その}身代{しんだい}が大事〳〵も
聞{きゝ}あきましたは。コレ口が腐{くさ}れいふまいと思へどナ。あんまり
親子{おやこ}の情{ぜう}の薄{うす}い人|故{ゆへ}。一ト通{ひととを}りいつて聞{きか}せませう。まづ時
次郎が放埓{どら}に成{なり}おつてから。お照{てる}が内〻{ない〳〵}の無心{むしん}が数度{たび〳〵}。たひ
かさなつて家出{いへで}しおる前{まへ}には。地頭所{じとうしよ}へ納{おさめ}る金が弐百両。」
[すこし小声にて]「コリヤ他人{たにん}づくでいおふなりや。盗{ぬす}まれたのじやぞへ。
其{その}上{うへ}に。彼{か}の浦里{うらざと}とやらが身|受{うけ}迄{まて}にはナ。先祖{せんぞ}から相続{つたわつ}

(9オ)
た大切{たいせつ}な田地{でんし}拾反{じつたん}六{ろく}セ拾二丁{しうにてう}といふもの。手ばなしこそ
せね。隠居料{いんきよりやう}の内{うち}ヲ。質入{しちいれ}しましたはへ。コレ貴様{きさま}の目から
はさぞばか〳〵しう見へませうがの。おりや又|子{こ}が可愛{かあゆい}は
子{こ}が。其{その}子{こ}に添{そは}せた時次郎が事{〔こと〕}でさへ。身上{しんせう}の曲{ひづ}みは
思はぬに。現在{げんざい}壱人{ひとり}の子{こ}が女郎{ぢよろう}を連{つ}て逃{にけ}たとて。わづかナ*「連{つ}て」(ママ)
尻{しり}をぬぐふが魘{こは}さに。うろたへて勘当{かんどう}。ヘンなんのこつ
ちや。盗人{ぬすびと}に追銭{おいせん}の身請{みうけ}するもな。迚{とて}もたすかるまいと思ふ
お照{てる}ゆへ。」[少シうるみし声にて]「せめて三日なりと元{もと}の夫婦{ふうふ}にして。痩衰{やせおとろへ}

(9ウ)
たあの顔{かほ}で。莞{につこり}笑{わらう}のを。一{ひ}ト目見て殺{ころ}したさ。あれ程
したう時次郎が手で。末後{まつご}の水{みづ}をのませたら。未来{みらい}の
迷{まよひ}も。少しはうすかろうと思ふての事。おりや死{しん}で仕舞{しまう}
娘{むすめ}でさへ。金{かね}を入れるはなんとも思やせぬのに。ぴん〳〵
達者{たつしや}で死に水{しにみづ}も貰{もらを}ふといふ独{ひと}の息子{むすこ}を金づくで捨{すて}
さつしやるが。いやサ二本{にほん}{#二百両}や三本{さんほん}{#三百両}遣{つか}ふたとて。分銅{ふんどう}の下{さが}る
身上{しんせう}じや有{あ}るまい。マヽそれ程|金{かね}がほしいのかへ。夫ほど
金{かね}が。昔{むかし}からつき合{おふ}たがそれほどの剛欲人{こふよくじん}とも思{おも}はなん

(10オ)
だがヱヽもふ何{なに}もいふまい。無益{だめ}な事{〔こと〕}じや。しかし今{いま}迄{ゝで}顔色{かほ}
へも出{だ}さぬ事。斯う{こう}云{いゝ}はらうからは。以来{いらい}は義絶{ぎぜつ}。是{これ}から
直{すぐ}にお照{てる}を連{つれ}て在所{ざいしよ}へ行{ゆ}く。たとへこがれ死{じ}にさせる
とて。とゞ。どふするものか。約束{やくそく}づくじや。最{も}う〳〵今{いま}の一言{いちごん}
聞{きい}たりや。春日屋{かすがや}の家{うち}へ半日{はんにち}も置{おく}事{〔こと〕}はいやじや。」ト
[呑{のみ}かけた煙草{たばこ}の煙{けむ}も胸{むね}の雲{くも}立{たち}かゝつてぞ灰吹{はいふき}へあたりちらした煙管筒{きせるづゝ}突{つき}つめてこそ見へにける]【由】「是は又きつい御立服{ごりつぷく}
今{いま}の様{よふ}にいふたもほんの座興{ざきよふ}。」【正】「イヤ〳〵座興{ざきよう}も品{しな}に寄{より}
ますは。もふなんといわれても取{とり}あわぬ。アヽ是{これ}。なろう〔こと〕なりや

(10ウ)
こなたの手{て}からなりと。離縁状{りゑんじやう}取{とつ}て行{ゆき}たいが。途中{とちう}の事。
儘{まゝ}よ。もし入用{いりよう}なりや其{その}時{とき}取{とり}ましよ。ヘン。いやともいわれまい。
アヽしかし去{さ}リ状{じやう}が入用{いりよう}なりや目出{めで}たいが。とても。」ト[いゝさしてなみたぐみ]
「ヱヽ何{なに}も彼{か}もおれが因果{いんぐは}じや。今日{けふ}こそいやあふは云{いは}せぬ。
首{くび}へ縄{なわ}をつけてなりと。引{ひゐ}て行{ゆく}。」ト[立出{たちいで}れば。茶やの老婆{ばゝア}も気{き}の毒{どく}がほ。取{とり}なす言{〔こと〕}も口{くち}なしの色{いろ}の出{で}
はなをあいそふに]【ばゝ】「ハイもふおひとつ。お茶{ちや}を。」ト[いわれてもやらはら立の八ツ当{あた}り]【正】「イヤモウ
茶{ちや}もいやでござる。」ト[いゝ捨{すて}て元{もと}来{き}しみちへかへりゆく]【由】「コレ〳〵正右衛門|殿{どの}
そりやあんまり短気{たんき}じや。何{なに}はともあれ。わしが帰{かへ}る

(11オ)
まで待{まつ}て居{ゐ}てくだされ。委細{いさい}の訳{わけ}は今夜{こよい}寛{ゆる}〳〵
はなしましよ。」ト[声{こ■}かけられて正右衛門も。又|取直{とりなを}す了簡{りやうけん}にしばしたゆとう足元{あしもと}も跡{あと}へひかれぬ云掛{いゝがゝ}り顧{みかへ}りもせず帰{かへ}り行]
第十四回
秋{あき}たけぬ。いかなる色{いろ}と吹{ふく}風{かぜ}も。身{み}にしみ〴〵とこし方{かた}を。
思{おも}ひすごしも杉{すぎ}の戸{と}に。音{おと}のふものは松風{まつかぜ}の。外{ほか}は
通{かよ}はぬ蓬生{よもぎう}を。彼{か}の時次郎{ときじらう}が隠家{かくれが}と。聞定{きゝさだ}めたる門{かど}
の口{くち}。案内{あんない}しては面倒{めんどう}とずつと|這入{はい}れば時{とき}次郎|思{おも}ひ
がけなき父{ちゝ}の顔{かほ}。夢{ゆめ}かとばかり当惑顔{とふわくがほ}【時二郎】「ヤアおとつさま

(11ウ)
どふして爰{こゝ}へは。」【由】「ヲヽびつくりであろう。
おのれは〳〵。マア
爰{こゝ}へこい。下{した}にいろ。コリヤイ。家出{いへで}した其{その}時{とき}が。一生{いつせう}の別{わか}レ
じやと。おりや心底{しんそこ}思ひきつたなれどナ。月日{つきひ}のたつに
したがい。少{すこ}しは腹立{はらたち}もうすうなつたが。今{いま}又{また}おのれが
顔{かほ}久{ひさ}しぶりで見たりや。又{また}腹{はら}がたつて〳〵。ナヽ涙{なみた}が出{で}て。
モヽ。物{もの}がいへぬわへ。物{もの}が。」【時】「イヤもふ段〻{だん〳〵}の不埓{ふらち}いまさら
くゆれどかへらぬふ孝{こう}お詑{わび}申{もふす}言葉{〔こと〕ば}もござりませぬ。
去{さり}ながら。すこやかなお顔{かほ}を見まして。おうれしうござり

(12オ)
ます。」【由】「ヲヽおのれが不孝{ふこう}なまなこにも。親{おや}の達者{たつしや}なを
見りや。嬉{うれ}しいか。につくいやつめが。|先達而中{せんだつてぢう}噂{うわさ}を聞{きけ}
ば。眼{め}を煩{わづらい}おつて。むづかしかつたそふなが。そりやそふ有{あり}
そうなもの。いわづとしれた親{おや}の罰{ばち}じや。よい世界{せかい}の
見せしめ。多分{おほかた}目{め}くらになりおろふ。よい気味{きみ}じやと
思ふて居{ゐ}たが。今{いま}見{み}りや全快{ぜんくわい}の様子{よふす}。まつたく是{これ}は
荒井村{あらゐむら}の薬師{やくし}さまのおかげ。おのれが様{よふ}なふ孝{こう}もの
にも。お願{ねが}ひもふせば御利益{ごりやく}の有{あ}るといふもみんな親{おや}の

$(12ウ)

(12ウ)
慈悲{じひ}。イヤ仏{ほとけ}の慈悲{じひ}じやは。
アヽ今{いま}にはじめぬ御利生{ごりせう}有
難{ありがた}い事{〔こと〕}。しかしおりや願掛{ぐわんがけ}は
せぬぞ。なにおれが。につくい
やつめ。してマアどの面{つら}さげて
おれが前{まへ}へ。マヽ今日{けふ}はおれが
方{はう}から来{き}た故{ゆへ}。ゆるして
やるが。以来{いらい}おれが眼{め}に掛{かゝ}ると

$(13オ)

(13オ)
ゆるさぬぞ。何{なに}一{ひと}ツ不足{ふそく}もなく
育{そだち}おつて。今{いま}では此{この}荒茅家{あばらや}
の住居{すまゐ}。心{こゝろ}がらとはいゝながら。
朝夕{あさゆふ}の煙{けむ}りもたへ〴〵の様子{よふす}。
こりや己{おのれ}が罪{つみ}己{おのれ}を責{せめ}るのじや。
心労{しんろふ}しおると見へて其{その}マア。頬
骨{はうぼね}がはつて目{め}の大{おほ}きうなつた
事{〔こと〕}はい。なさけないやつじやぞ。

(13ウ)
おりやモウにくふて〳〵。片時{かたとき}もわすりやせぬわへ。じやが勘
当{かんどう}してから彼是{かれこれ}三歳越{さんねんごし}。どふして口過{くちすぎ}してゐおつたか。米{こめ}の
なる木{き}はどのよふなものか。金銭{きんせん}は土蔵{どぞう}から涌{わく}ものと心得{こゝろえ}て
居{ゐ}おつた身{み}。今{いま}こそ思ひ当{あた}りおつたであらう。それに引{ひき}かへ
お照{てる}はナ。不人情{ふにんじやう}なおのれを大切{たいせつ}がつて。勘当{かんだう}の気病{きびやう}が
重{おも}ツて。死{し}ぬ斗{ばか}りの大病{たいびやう}。一{ひ}トかたならぬ重縁{じうえん}の娵{よめ}。それに
若後家{わかごけ}たてさせて。おのれが死{し}にでもした事か。あんまり
達者{たつしや}過{すぎ}ての大{おほ}どら。剰{あまつさ}へ外{ほか}の女{おんな}に心{こゝろ}をうつし。真実{しんじつ}な女

(14オ)
房{にようほう}を捨{すて}。ほんに〳〵まつウい心いき。おりや親{おや}の身{み}でさへ。あいそ
がつきて。にくうて〳〵。おのれがにくい程{ほど}アノお照{てる}が可愛{かわ}ゆふ
て。なさけなくて。不便{ふびん}で〳〵ならぬわへ。イヤもふ百万{ひやくまん}いふ
ても役{やく}にたゝぬ。マヅ今日{けふ}おれが来{き}たは。ちと頼{たのみ}たい事{〔こと〕}が
あつてじやが。親{おや}を親{おや}とも思{おも}わぬ根生{こんぜう}からは。聞入{きゝい}れはある
まいナ。」【時】「是はまた勿体{もつたい}ない。たとへ身{み}に及{およ}ばぬ事なりと。
命{いのち}の限{かぎ}り今{いま}まで不孝{ふこう}のお詫{わび}にも。」【由】「何事{なに〔ごと〕}成{なり}とそむ
かぬじやナ。」【時】「どふいたしまして。」【由】「ムヽ承知{せうち}なりりや先{まづ}安

(14ウ)
堵{あんど}じや。外{ほか}でもないがどふぞお照{てる}を。女房{にようぼう}にしてやつて
くれろよ。」「ヱヽあのおてるを。」「ヲヽサいやか。」「イヱ〳〵。」「得心{とくしん}するか。」
「とくしんの段{だん}ではござりませぬが。重〻{じう〳〵}不埓{ふらち}なわたくしへ
あいそもつきず。深切{しんせつ}を尽{つく}して呉{くれ}ます。アノお照{てる}。なんで
否哉{いなや}を申ませう。去{さり}ながら今更{いまさら}女房{にようぼう}ともお照{てる}とも。呼
捨{よびずて}にもされぬ仕合{しあわせ}。殊{〔こと〕}に今ではわけあつて。お里{さと}にも離{はな}れ
てやもめの身{み}。物不足代{ことかけしろ}の様{よふ}に思われ。あんまりこつちの勝
手{かつて}斗{はかり}。」【由】「サヽ其{その}独身{ひとりみ}が此方{こつち}の便{たのみ}。今{いま}われがいふは人情{にんぜう}の

(15オ)
一ト通{ひととを}り。当{あた}り前{まへ}の事{こと}。我{わ}■勝手{かつて}には人情{にんせう}を闕{かき}。人事{ひと〔ごと〕}
には人情立{にんぜうだて}。アヽそりや通{とほ}らぬ〳〵。たとへ様{よふ}もない。おのれ
邪{じや}見なおのれじやもの。譬{たと}へこがれ死{し}にさせればとて。
二人{ふたり}揃{そろ}ふて居{お}る所{とこ}へ。アノ内端{うちば}ナお照{てる}を渡{わた}さりやうか。いらぬ
儀理{ぎり}だていわづとも。勘弁{かんべん}して。女房{によふぼう}にして。やつてくれ。おれ。
はもふあいつが可愛{かあい}そふで。いぢらしうて。どふも斯{こ}ふも
こたへられたもんじやないわへ。あれが〔こと〕いゝ出{だ}すと。我{われ}
不知{しらず}なみだが出て。」ト[手{て}の甲{こふ}にて目をすり]「それに又。いとしいはお袋{ふくろ}

(15ウ)
妙貞{めうてい}さま。親{おや}さへ見|限{かぎ}ツた己{おのれ}おれど。孫{まご}といふ物{も}ナあの様{やう}
にもかあいゝものか。勘当{かんどう}してからは力{ちから}を落{おと}さしつて。
あれ程{ほど}の仏{ほとけ}いぢりも。月{つき}に一{い}チ度{ど}の寺参{てらまへ}りさへさつ
しやらず。明{あけ}ても暮{くれ}ても。おのれが〔こと〕斗{ばか}り。しつかりとも
いゝ出{だ}さねどナ。雨{あめ}が降{ふる}は。雪{ゆき}がふるは。イヤ薄着{うすぎ}して。寒気{かんき}
を引込{ひきこみ}おろう。アヽ壱人{ひとり}斗{ばかり}の孫{まご}を。手元{てもと}へ置{おく}事{〔こと〕}もならぬ
といふ。おれが様{よふ}ないんぐわなものはない。アヽ長生{なかいき}は後生{ごせう}
のさまたげ。どふぞ早{はや}く死{し}にたい〳〵。とモウ箸{はし}の|上ケ{あげ}

(16オ)
おろしにいんぐわだて。どふやらおれが|気{きづい}で勘当{かんどう}した
様{よふ}に思{おも}われて。なんの中{なか}でも気{き}の毒{どく}で〳〵。たまらぬ
わへ。おりやまた親{おや}が大切{たいせつ}じや。百年{ひやくねん}も二百年{にひやくねん}も達者{たつしや}で
置{おき}たいと思{おも}ふ。独{ひとり}のお袋{ふくろ}が。死{し}にたい〳〵といわれるくるし
さ。コリヤヤイ。おのれ故{ゆへ}にナ。よい年{とし}をしたおれにまで。
不孝{ふかう}させるぞよ。一家中{いつけなか}にはひたすらおれが強欲非
道{ごうよくひどう}とにくまるれどナ。おれじやとて子供{こども}に替{かへ}ル金銭{きんせん}何{なん}
でおしむ物{もの}かいヤい。勘当{かんどう}してどふぞ行衛{ゆくへ}不知{しれづ}になれ

(16ウ)
かしと思ふもナ。やつぱりおのれが可愛{かあい}さゆへ。其{その}訳{わけ}はナ
千葉家{ちばけ}よりおあづかりの菅公{かんこう}の一軸{いちゞく}。是とてもお預{あづけ}と。
りつぱにはいわれぬ時宜{しぎ}。と云{いふ}は御家老{ごかろう}大膳様{だいぜんさま}から。内〻{ない〳〵}
じやとて。荒川様{あらかはさま}の御取次{おとりつぎ}で。三百両の質{しち}。おれにも相
談{そうだん}なく全六{ぜんろく}めが。ちやんと預{あづか}りおつて。二三日{にさんにち}過{すぎ}てそふ言{いゝ}
おるゆへ。聞てびつくり。お大名{だいめう}の宝物|質{しち}に取{とつ}て済{すむ}事か。
勿論{もちろん}重役方{じうやくがた}の御連印{ごれんいん}とでもいふ事か。なんぼ大膳様{だいぜんさま}が
先殿様{せんとのさま}の弟子{おとゝご}じやとて。当時{とふじ}は御家老{ごかろふ}御同役{ごとふやく}も多{おふ}く

(17オ)
有{ある}に。一存{いちぞん}で御内々{ごない〳〵}と有{あ}るからは。マヽわるふいや盗物{ぬすみもの}同前{どうぜん}
三百両|捨{すて}た上{うへ}。どの様{やう}なおとがめがあろふもしれぬと。
虫{むし}がしつたかおりやモウ。苦になつて夜{よ}の目{め}も合{あは}なん
だ。全六{ぜんろく}にいへば。万事{ばんじ}荒川{あらかは}さまが呑込{のみこん}でござる。ちつとも
案{あん}じはないと。大丈夫{だいじやうぶ}に落付{おちつい}て居{ゐ}おるゆへ。|不心成{こゝろならず}も其
|儘{まゝ}に置{おい}たりや。己{おのれ}が家出{いへで}した日{ひ}から紛失{ふんじつ}。夫{それ}故{ゆへ}一軸{いちゞく}の
盗人{ぬすびと}は。わが身{み}にうたがひがかゝるまい事か。二三日{にさんにち}たつと
荒川様{あらかはさま}が請戻{うけもどし}にござつて|大六ツ敷{おほむづかし}。したがみす〳〵

$(17ウ)

(18オ)
親{おや}の首{くび}へ縄{なは}の付{つく}事{〔こと〕}。それをわきまへぬ程{ほど}の己{おのれ}でもない
事はおりや承知{せうち}していれど。内{うち}から火{ひ}を出{だ}す全六{ぜんろく}め。時次
郎が持出{もちだ}したといゝ触{ふら}し。針{はり}を棒{ぼう}にいゝなす様子{やうす}。万事{ばんじ}
怪{あや}しいそぶりをば。知{しり}つゝ虎{とら}の放飼{はなしがひ}。此奴{きやつ}に心{こゝろ}を寛{ゆる}させ
て。詮義{せんぎ}の手筋{てすじ}を引出{ひきだ}そふと。目{め}を付{つけ}て居{ゐ}る其{その}うちに。
しん身{み}と思{おも}ふ儀七{ぎしち}まで。帳場{てうば}を百両|明ケ{あけ}て亡命{かけおち}。もつ
ちやくつさの其{その}中{なか}で。お照{てる}が病気{びやうき}は九死一生{きうしいつせう}。其{その}壱{ひと}ツ
さへ取詰{とりつめ}て。今{いま}はのきわにお崎{さき}が自害{じがい}。イヤもふ|春日

(18ウ)
屋{かすがや}の断絶{だんぜつ}。時節{じせつ}到来{とうらい}と。そりやあきらめては居{ゐ}れど。
苦{く}になるは己{おのれ}が事{〔こと〕}。風聞{ふうぶん}に知{し}れた此{この}隠家{かくれが}。今{いま}にも千葉
家{ちばけ}から。取方{とりかた}のくるは必定{ひつでう}。むしつのつみをいゝひらくまで。
其{その}マアひげすな体{からだ}が。つゞく事じやないわい。サそれを
除{よけ}るは逃{にげ}るに手{て}なし。じやといふて遠国{えんごく}へ行{ゆく}事{〔こと〕}はよして
くれ。今{いま}までは一刻{いつこく}も早{はや}く。一軸{いちゞく}の詮義{せんぎ}仕出{しだ}して。勘当{かんどう}
ゆるしたく。此{この}節{せつ}は隠居{ゐんきよ}どのとお照{てる}には。内〻{ない〳〵}打明{うちあけ}て置{おい}た
なれど。昨日{きのふ}またお屋敷{やしき}へ呼{よば}れ。荒川様{あらかはさま}の仰{おふせ}には。明日{めうにち}

(19オ)
迄{まで}に。急度{きつと}一軸{いちゞく}を持参{じさん}致{いた}せ。さもなくは明後日{めうごにち}よりは手代{てだい}
の全六{ぜんろく}へ。右{みぎ}の詮義{せんぎ}申|付{つけ}ん。兎角{とかく}如様{かやう}のふつゞか成{なる}事{〔こと〕}出来{しゆつたい}
いたすも。其{その}方{ほう}老衰{ろうすい}故{ゆへ}と見へる。さすれば当家{とうけ}大切{たいせつ}の
御用向{ごようむき}もおぼつかなし。将又{はたまた}紛失{ふんしつ}の一軸{いちゞく}も。忰{せかれ}時次郎
持参{ぢさん}致{いた}せし由{よし}。親子{おやこ}の愛{あい}に引{ひか}れ。詮義{せんぎ}もゆるかせと
見へるゆへ。此{この}方{ほう}にて召捕{めしとらへ}急度{きつと}詮義{せんき}いたすべし。当家{とうけ}
へは筋目{すじめ}正{たゞ}しき春日屋{かすがや}ゆへ。格別{かくべつ}の御憐愍{ごれんみん}をもつて。暫{しばら}く
咎{とがめ}の沙汰{さた}におよばづ。其{その}方{ほう}事{〔こと〕}は蟄居{ちつきよ}申|付{つけ}るとの事{〔こと〕}。万

(19ウ)
事{ばんじ}全六{ぜんろく}びゐきの荒川様{あらかはさま}。すつぱりはまつた目算{もくさん}と。知レ{しれ}
ては有{あ}れど泣{なく}子{こ}と地頭{ぢとう}。又|其{その}内{うち}には能{よい}思案{しあん}もあろう
なれども。不便{ふびん}なはお照{てる}。あぶないものはこの隠家{かくれが}。一ト{ひと}まづ
爰{こゝ}を引払{ひきはらひ}。上総{かづさ}にしばらく身{み}を忍{しの}び。おてるにそふて
やつてくれ。」【時】「有{あり}がたい御慈悲{おじひ}のお言葉{〔こと〕ば}。そむきますでは
ござりませんが。段〻{だん〳〵}ふ埓{らち}のわたくし。今更{いまさら}正右衛門様に
お目{め}にかゝるも。」【由】「イヤ〳〵そりや大事{だいじ}ない。今日{けふ}よい折柄{をりから}
三{み}めぐりて正右衛門どのに逢{あふ}て。わざと腹{はら}たゝつしやる

(20オ)
様{やう}にいふたりや。アノ正直{せうぢき}いちづの人ゆへ。真{ま}つ黒{くろ}になつて。今
からお照{てる}を連{つ}れて。在所{ざいしよ}へ帰{かへ}るといつて内{うち}へいかれたが。
願{ねが}ふに倖{さいわい}。今比{いまごろ}はさぞもんちやく最中{さいちう}であろう。全六{ぜんろく}
めには真言{ま〔こと〕}の義絶{ぎせつ}と思わせて。上総{かづさ}へたゝりの行{ゆか}ぬ
工|面{めん}。万事{ばんじ}の訳{わけ}は手|紙{がみ}で委{くは}しういふてやる故{ゆへ}。翌日{あす}
にも爰{こゝ}を引{ひき}はらつてくれろ。ドシ硯箱{すゞりばこ}を。」ト懐{ふところ}の紙{かみ}
取出{とりいだ}し。正右衛門への頼{たのみ}の状{じやう}。表{おもて}は立派{りつば}に見ゆれども。
しんは泣寄|夜{よる}の鶴{つる}。こ故{ゆへ}に迷{まよ}ふ心から。筆の歩行{あゆみ}も

(20ウ)
後{あと}や先{さき}。呉〻{くれ〴〵}頼{たの}む忰{せがれ}事。かへす〴〵も御{おん}たのみ。ひた
すら頼と重言{ちうごん}の。かさなる胸{むね}の恩愛{おんあい}に。不具{ふぐ}も以{い}
上も謹言{きんげん}も。さらに止度{とめど}はなかりける。
明烏{あけがらす}後正夢{のちのまさゆめ}三編上終


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底本:東京大学文学部国語研究室蔵本(4L:95:3)
翻字担当者:洪晟準、矢澤由紀、島田遼、銭谷真人
更新履歴:
2017年7月26日公開

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