日本語史研究用テキストデータ集

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浦里時次郎明烏後の正夢うらざとときじろう あけがらすのちのまさゆめ

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初編下

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浦里時次郎明烏後の正夢 初編下

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凡例
1.本文の行移りは原本にしたがった。
2.頁移りは、その丁の表および裏の冒頭において、丁数・表裏を括弧書きで示した。また、挿絵の丁には$を付した。
3.仮名は現行の平仮名・片仮名を用いた。
4.仮名のうち、平仮名・片仮名の区別の困難なものは、現行の平仮名に統一した。ただし、形容詞・副詞・感動詞・終助詞・促音・撥音・長音・引用のト等に用いられる片仮名については、原表記で示した場合がある。 〔例〕安イ、モシ、「ハイそれは」ト、意気だヨ、面白くツて、死ンで、それじやア
5.漢字は現行の字体によることを原則としたが、次のものについては原表記に近似の字体を用い、区別した。「云/言」「开/其」「㒵/貌」「匕/匙」「吊/弔」「咡/囁」「哥/歌」「壳/殻」「帒/袋」「无/無」「楳/梅」「皈/帰」「艸/草」「計/斗」「弐/二」「餘/余」
6.繰り返し符号は次のように統一した。ただし、漢字1文字の繰り返しは原本の表記にしたがい、「〻」と「々」を区別して示した。
 平仮名1文字の繰り返し 〔例〕またゝく、たゞ
 片仮名1文字の繰り返し 〔例〕アヽ
 複数文字の繰り返し 〔例〕つら〳〵、ひと〴〵
7.「さ」「つ」「ツ」に付く半濁点符は「さ゜」「つ゜」「ツ゜」として示した。
8.Unicodeで表現できない文字は〓を用いた。
9.句点は原本の位置に付すことを原則としたが、文末に補った場合がある。
10.合字は〔 〕で囲んで示した。 〔例〕殊{〔こと〕}に、なに〔ごと〕、かねて〔より〕
11.傍記・振り仮名は{ }で囲んで示した。 〔例〕人生{じんせい}
12.左側の傍記・振り仮名の場合は、冒頭に#を付けた。 〔例〕めへにち{#毎日}
13.傍記・振り仮名が付く位置の紛らわしい場合、文字列の始まりに|を付けた。 〔例〕十六|歳{さい}
14.原本に会話を示す鉤括弧が付いていない場合も、これを補い示した。また庵点は〽で示した。
15.原本にある話者名は【 】で示した。 〔例〕【はる】
16.割注・角書および長音符「引」「合」は[ ]で囲んで示した。
17.不明字は■で示した。
18.原本の表記に関する注記は*で行末に記入した。 〔例〕〓{たど}りて*〓は「漂+りっとう」
19.花押は〈花押〉、印は〈印〉として示した。
20.画中文字の開始位置に〈画中〉、広告の開始位置に〈広告〉と記入した。

本文の修正
1.翻字本文を修正した場合には、修正履歴を末尾に示す。
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$(1オ)
春日屋

(1ウ)
明烏{あけからす}後正夢{のちのまさゆめ}三の巻
第{だい}五|回{くわい}
春霞{はるがすみ}ひくやひさしの。ながのれん紅{あかね}さすてふ春日屋{かすがや}の。
文字{もじ}もめで度{たき}角{かど}屋|敷{しき}。いりくる人{ひと}と出{で}る人は。出家{しゆけ}侍{さむらひ}
諸商人{しよあきんど}百万石{ひやくまんごく}へ御用達{ごようたし}。且{また}按摩{けんぴき}の入替{いれかへ}もの。質{しち}両
替{りやうがへ}の賑{にぎ}はしさ。見世{みせ}の並{ならび}の脇土蔵{わきぐら}は。間{ま}口二|間{けん}に奥行{おくゆき}
三|間{げん}。二|重鉢巻{ぢうはちまき}小蛇腹{こぢやばら}つき。つまとけたとの。両窓{りやうまど}は
本{ほん}三|重{ぢう}の手{て}を尽{つく}し。磨立{みがきたて}たる惣黒{そうぐろ}に。春{はる}といふ字{じ}の*「春」に丸囲

(2オ)
鼻{はな}ぶかは。端{はな}をならべて|二タ戸前{ふたとまへ}所{ところ}久{ひさ}しき分限帳{ぶげんてう}。指{ゆひ}
を折{をら}るゝ地主株{ぢぬしかぶ}。此{この}家{や}に古{ふる}き番頭{ばんとう}全六{ぜんろく}。われこそ
当家{とうけ}の支配人{しはいにん}と。いわぬばかりの忽体{もつたい}ぶり若手代{わかてだい}*「忽体{もつたい}」(ママ)
をねめまはし。【全】「コリヤ蚊{か}七どの一昨日{おとゝひ}いゝつけた円塚{まるづか}さま
の利銀{りぎん}の掛合{かけあい}。まだ埓{らち}を明{あけ}さつしやらぬか。のらくら
せずと。片付{かたづけ}さつしやれ。上{かみ}をまなぶ下トやら。大旦那{おほだんな}は
大旦那{おほだんな}で。御隠居{ごいんぎよ}さまに進込{すゝめこま}れ。さきもしれぬ後生
願{ごしやうねがい}。朝事参{あさじまいり}の御寄{おより}のと。ひよこすか〳〵出歩行{であるかれ}て。仏{ほとけ}

(2ウ)
なぶりの。日間{ひま}ついやし。若旦那{わかだんな}は鬼{おに}の留守{るす}にせん
たくじやと。悪所{あくしよ}ぐるひの末終{あげく}には女郎{ぢよろう}をつれて行
方{ゆきがた}しれず。詰{つま}る所{ところ}は番頭{ばんとう}めいわく。物置土蔵{ものおきぐら}の壁{かべ}
のよふに。どこもかしこも穴{あな}だらけ。若旦那{わかだんな}をおとり
にして。外{ほか}にも大分{だいぶ}鼠穴{ねづみあな}。引{ひけ}みちのある事{こと}きこへて
いる。チト気{き}をつけてもらひたひ。コリヤ〳〵小僧{こぞう}ヨ。コレ丁松{てふまつ}
われも多葉粉{たばこ}ぼん。よひかげんにせい。といふて又{また}灰吹{はいふき}
あけ|残ス{のこす}ナ。それしまふたら奥{おく}へ行{いつ}て。おひゞにそふいふ

(3オ)
てナ。おてるさんの御薬{おくすり}。容体書{よふたいかき}が出来{てき}たなら。玄伯様{げんぱくさま}へ
もつて行{ゆけ}。薬{くすり}調合{てうがう}する間{あいだ}に。左官{さくわん}の鉄右衛門{てつゑもん}を呼{よん}で
こひ。あの男{おとこ}もむかしから前年{あと}へとしをとるかしらん。
わかい元気{げんき}でむだ口{くち}ばかりいゝおるじや。コリヤ丁松{てうまつ}また
観物{みせもの}をかわかしておるな。此{この}夷講{えびすかう}に竹次郎{たけじらう}は角{すみ}を
いれるぞ。我{わ}が方{ほう}が古参{こさん}でおひこされてすむか。瀬戸{せと}
もの細工{ざいく}の関羽{くわんう}の様{よう}に形体{なり}ばかり大{おほ}キクて。用{やく}にたゝぬ
奴{やつ}ではある。」ト。小言{こゞと}たら〴〵御納戸茶{おなんどちや}の羽織{はおり}引{ひき}かけ

(3ウ)
全六{ぜんろく}は。出入屋鋪{でいりやしき}の掛合{かけあい}を鼻{はな}にかけてぞ出{いで}て行{ゆく}。折
節{をりふし}抱{かゝへ}の蝶五郎{てふごろう}四季着{しきせ}の半天{はんてん}かわ羽折{ばをり}青島{めくらじま}の股引{もゝひき}
にも。たるみを見{み}せぬいさみはだ。ならび床{どこ}の勘六{かんろく}が油{あぶら}
つけずの水{みづ}がみは。組合中{くみあいぢう}の頭取{とうどり}といわねどしらるゝなり
かたち。のれんをくゞりて【蝶】「ヘイ|こんちやア{#今日は}。」【蚊】「ヲイ蝶公{てふかう}此比{このごろ}は
お見{み}かぎりダノ。」【蝶】「かわへそふに。|きのふ{#昨日}|一チ日{いちんち}こねへ斗{ばか}りで
ございやす。おとゝひは青物{あをもの}のはんじもので。|いちんち{#終日}苦{く}
ろうしやしたツけ。」【蚊】「ホンニそふだつけ。なんだかいち日{にち}来{こ}ねへ

(4オ)
と。久{ひさ}しくあわねへよふだ。」【蝶】「わたしやア女{おんな}ばかりかと思{おも}つたら。
男{をとこ}もやつぱりこいしがりやす。アヽ色男{いろおとこ}はうるせへぞ。」
【蚊七】「この男{おとこ}も屎{ふん}しのわりい。来{く}るとたれるからこまるぜ。」
【蝶】「イヤ奥{おく}でもサゾこがれてござるたろう。鳥渡{ちよつと}顔{かほ}を出{だ}シ
やせう。」ト。ずつと通{とふ}り「ヘイお袋様{ふくろさま}御機{ごき}げんよう。|こんちやア{#今日は}
おかみさまはどちらへ。」【祖母妙貞】「ヲイよくござつた。寺参{てらまいり}に行{ゆく}とつて。
儀七{ぎしち}を連{つれ}て行{いき}ました。」【蝶】「へイそれはおさみしうござり
ませう。」【妙】「何おれがさみしいよりお照{てる}がなんだか又{また}塩梅{あんばい}が

(4ウ)
わるそふな顔{かほ}つき。貴{き}さまチツトむだ口{くち}でもいつてふさが
せぬ様{よう}にして下{く}だせへ。」【蝶】「ヘイかしこまりました。アヽ
どふもこまつた御病気{ごびやうき}だぞ。どりやお見舞{みまい}申{まう}さう。」と。
いゝつゝお照{てる}が部屋{へや}の口{くち}。そつとのぞひて【蝶】「ヘイ蝶五郎{てふころう}で
ござゐます。|こんちやア{#今日は}お|あんべゑ{#塩梅}はどうでござゐます。御膳{ごぜん}
はちつともあがりましたかへ。」【照】「ヲヽ蝶五郎{てふごろう}どんか。たび〴〵
おかたじけ。屏風{べうぶ}をそつちへ明{あけ}て。ちつとはなしな。」【蝶】「ヱヽ
それがよふござります。」と。屏風{べうぶ}をぐつとひろげながら

(5オ)
「こふマア建{たて}こめてお出{いで}なさるから猶{なほ}ふさぎますは。ヤレ〳〵
夜{よ}が|明ケ{あけ}たよふだ。」【てる】「やつぱり御膳{ごぜん}がすゝまない故{ゆへ}たべまい
といふておばアさんに大きにしかられせう事{〔こと〕}なしに
すこしたべたらそれがつかへて今日{けふ}は一トしほふさぎ
がつよく涙{なみだ}ばかり出{で}て。」【蝶】「アヽモシさりとは御|了簡{りやうけん}がわりう
ござります。あなたの病気{びやうき}も気{き}から出{で}た病{やまひ}とやら。夫{それ}
にマア先{さき}のさきまでくよ〳〵と案{あん}じつゞけてござる様子{やうす}。
こふ申たら又{また}蝶五郎{てふごらう}めがいつもの事{〔こと〕}とうるさくも

$(5ウ)
おひゞ

$(6オ)
蝶五郎
おてる

(6ウ)
思{おぼ}しめそうが親父{おやぢ}の代{だい}からお店{たな}の御恩{ごをん}受{うけ}て育{そだ}ツた
わたしだものわるい事{こた}ア申{まうし}やせん。マア何事{なに〔ごと〕}も命{いのち}|有ツ{あつ}て
のものだね。」[少シ小声になり]「彼{か}の一件{いつけん}は私{わたくし}が呑込{のみこん}でおりますから
さつぱりとわすれてお出{いで}なさいまし。|こねへだ{#此間}おつしやり
|付ケ{つけ}の通{とほ}りきのふ恋ヶ窪{こいがくぼ}の掛合{かけあい}もすつぱりかたづけ
若旦那{わかだんな}の方{かた}へめへりまして身受{みうけ}の証文{せうもん}をお|渡シ{わたし}申{まうし}
おめへさんの御深切{ごしんせつ}もくわしくお|噺シ{はなし}申{まうし}たら。」【てる】「女{をんな}のさし
出{で}たいらぬ事{〔こと〕}とお腹{はら}を立{たち}はなさらなんだか。」【蝶】「何{なに}サ

(7オ)
おめへおはら立{たち}どころか証文{しやうもん}をおめに|掛ケ{かけ}たらびツくり
なさつてコレ蝶五郎{てふごろう}おりりやモウなんにもいわぬ。こんな
ふらちな者{もの}があゝいふ女房{にようぼう}を持{も}つて是{これ}ほとにまで
苦労{くろう}をさせるとはほんにめうりがおそろしい。唯{たゞ}かんにん
してくれろといつてくれ。礼{れい}をいふのもめんぼくねへ。しかし
文{ふみ}てもやりてへが此{この}通{とほ}り眼{め}が。」【てる】「ナニお眼{め}でもわるいのか。」【蝶】「ヱ。イヱ
なアにちつと斗{ばか}りのぼせ眼{め}でござりやせう。三里{さんり}でもすへ
ると直{なほ}りやす。」【てる】「フウそれではすこしはおうれしそふであつたか。」

(7ウ)
【蝶】「イヤサうれしそふぐらいかこつちの方{ほう}へ向{むか}ツて手{て}を合{あはせ}て
おがみなさりやした。」ト聞{きひ}テにつこりおもやせし頬{ほう}にも
窪{くぼ}む両靨{りやうえくぼ}は百日{ひやくにち}ぶりの笑顔{えがほ}なり。おりから下女{けじよ}【おひゞ】「ハイお
薬{くすり}が出来{でき}ました。今日{けう}は又{また}お加減{かげん}がちがひましたそふで
ございます。」【蝶】「おひゞどん。」【ひゞ】「ヱ。」【蝶】「いつもお若{わかい}の。」【ひゞ】「ヲヤ〳〵|古イ{ふるい}事{〔こと〕}
をいゝなさるねへ。」【蝶】「あんまり古{ふる}いからいつもお若{わかい}といふのよ。
おほかた今年{ことし}も重歳{ちやうねん}だろう。全六{ぜんろく}さんといふ色男{いろおとこ}を
捨{すて}てどこへ行{ゆ}かれるものか。」【ひゞ】「ヱヽよしておくれ。なんぼ私{わたくし}の

(8オ)
やうな|もん{#者}でもあんなひげツ面{つら}のこんぜうわるをなんに
するものか。ホンニ全六{ぜんろく}さんのおかみ様{さま}になるものは。」【蝶】「小言{こゞと}ト
仕事{し〔こと〕}でやせつこけるだろうよ。」【てる】「ナニサあのよふナ者{もの}は女
房{にようぼう}をば可愛{かあい}がるものサ。」【蝶】「モシかわいがられては猶{なほ}こてへられ
やすめへ。しつツこそふな顔色{がんしよく}だねへ。」【てる】「そのひつツこいのが
おひゞがのそみサ。」【ひゞ】「ヲヤいかなあなたまでそんな事{〔こと〕}を
おつしやる。ホヽヽヽヽヽ。わたくしはなんにものぞみはないが替{かは}リ目{め}
替{かは}リ目{め}に芝居{しばゐ}を見{み}せてくれる亭主{ていしゆ}が持{もち}とうござり

(8ウ)
ます。」【蝶】「ほんにしばやといへば今度{こんど}実五郎{じつごらう}は大当{おほあた}リで
ござります。早{はや}くよくおなりなさつておいでなさいまし。」
【てる】「フウ何{なに}をするへ。」【蝶】「ヱヽ[引]一ノ谷{いちのたに}。ヱヽ何{なに}とかやらいふ時代狂言{じだいきやうげん}
で二番目{にばんめ}が七変化{しちへんげ}サ。」【ひゞ】「ヱヽ[引]モウ見{み}たいのふ。」【蝶】「びつくり
させるぜ。そんねへに力{ちから}を入{い}れていわずとわかる事{〔こと〕}た。」【てる】「熊
谷{くまがへ}は実五郎{じつごらう}か。」【蝶】「左様{さよう}サ。いゝは知{し}れた事{〔こと〕}だが物語{ものがたり}はびつ
くりでごぜへやす。コレサおひゞどん御隠居様{ごいんきよさま}がよばツしやるは。」
【ひゞ】「ハアイ。いつそ跡{あと}が聞{きゝ}たいのう。」【蝶】「そふ跡引上戸{あとひきじやうご}だから全

(9オ)
六{ぜんろく}さんがうるさがるのだ。」【ひゞ】「ハイ左様{さやう}サ。此{この}口{くち}わるが。ヨウク全六{ぜんろく}
さん〳〵と。ほんに〳〵腹{はら}がたツて。」ト。蝶五郎{てふごろう}が脊中{せなか}をどう
づき。心残{こゝろのこ}して出{いで}て行{ゆく}。【蝶】「この女{をんな}ア。」ト追{おふ}真似{まね}をして居直{ゐなほ}リ。
「モシお照様{てるさん}一ノ谷{いちのたに}の狂言{きやうげん}では。熊ヶ谷{くまがへ}といふやつは。ばかもの
でございやすねへ。」【てる】「そりや又{また}ナゼ。」【蝶】「ナゼとおつしやるけれど
敦盛{あつもり}を殺{ころ}シたぶんにして。我{わが}子{こ}の小次郎{こじろう}が首{くび}をきる
といふも。あんまり手軽{てがる}い仕様{しよう}じやアござりませんか。なん
ぼてめへの子{こ}だとつて。大根{だいこ}や芋{いも}じやア。|有ル{ある}めへし。たとへ

(9ウ)
嚊{かゝ}アの|しゞん{#主人}の子{こ}にもしろ。軍{いくさ}となつてはからむやみだア。
先{さき}をころさねへとこつちが殺{ころ}されよふといふ中{なか}だもの。敦盛{あつもり}
をころしたとつて。誰{だ}が何{なに}といふものが。なんぼたていれだとつ
て我{わが}子{こ}を殺{ころ}シてあまつせへ。出世{しゆつせ}でもする事{〔こと〕}か。仕舞{しまい}には
鎧{よろい}の下{した}へ袈紗衣{けさころも}を着{き}て。兜{かぶと}を取{と}ると坊主{ぼうず}に|なつてる{#成居}といふ
すじだが。ばか〳〵しいの行留{いきどま}リじやアござりやせんか。」【お照】「あれは寔{ま〔こと〕}
にほつきしての。剃髪{ていはつ}で有{あら}ふわサ。殊{〔こと〕}に一子{いつし}出家{しゆつけ}すれば。九族{きうぞく}
天{てん}に生{しやうず}るとやらいふて。出家{しゆつけ}するはきつい功徳{くどく}になるといふ事{〔こと〕}。」

(10オ)
【蝶】「モシ〳〵其{その}御了簡{ごれうけん}がわるふござりやすぜ。あれはてふど船幽
霊{ふなゆうれい}が柄杓{ひしやく}をほしがるやうナもんで。坊主{ほうず}の方{ほう}へ引摺込{ひきずりこま}うといふ
|仏説方便虚言{うそつぱちのいゝぐさ}でございやす。寺{てら}の蘭間{らんま}や天井{てんじやう}に彫{ほつ}
たり画{かい}たり|製{して}あるから。大略{おほかた}天人{てんにん}と云{いふ}者{もの}は和尚{おしやう}の親類{しんるい}|一
族党{でゑへ}を集{あつめ}たのだろふ。なんぞと早{はや}がつてんのお先{さき}ものが。そんな
〔こと〕をいゝ出{だ}しやす。わたくしアなんにもしらねへけれど。|めへど{#前年}私{わたくし}の
親父{おやぢ}が|わけへ{#若イ}時分{じぶん}。ヱヽ日蓮{にちれん}とかいふ坊様{ぼうさま}のお袋{ふくろ}が地{ぢ}ごくへ
おつこちて。それをどふかいふりくつで其{その}坊様{ぼうさま}が見付出{みつけだ}して。

(10ウ)
ひどく気{き}をもんで師匠{しせう}にそふだんしだら。施我鬼{せがき}といふ
事{〔こと〕}をすると。赦免{しやめん}がかなふといつて本所{ほんじよう}の五百羅漢{ごひやくらかん}で。*「そふだんしだら」(ママ)
其{その}時{とき}初{はじめ}て法界{ほうかい}のせがきが始{はじま}ツたといふ事{〔こと〕}でごぜへやす。
勿論{もちろん}そのおかげでお袋{ふくろ}は丸{まる}で出やしたそふたが。こいらア
うそでねへ咄{はな}しでげんぜへ其{その}時{とき}おやじなんぞもめへりました。
そふだ。それごろふじろ。子{こ}が坊主{ぼうず}になつてもおふくろは地{ぢ}
ごくへ行{いく}事{〔こと〕}が有{あ}るものを。どふして親類{しんるい}縁者{ゑんじや}まで。天
人{てんにん}どころか。天井{てんぜう}へ生{うま}れて。猫{ねこ}にでもとられて仕舞{しまい}やすは。」

(11オ)
【照】「ホヽヽヽヽ。そういへば其{その}|様ナ{ような}ものなれど。しかし煩悩即菩
提{ぼんのふそくぼだい}とやらいへど。放{はな}れがたない人情{にんぜう}をすてるはつらいか■
しいが。こりかたまつての発心{ほつしん}でも有{あら}うか。それも仏{ほとけ}の
お道引{みちびき}。アヽ浦山{うらやま}しい蓮生法師{れんせうほつし}。」【蝶】「モシ〳〵そふいつて
見{み}ると此{この}有{あり}がたい神国{しんこく}へ生{うま}れて。見た事{〔こと〕}もねへ唐{から}天
竺{てんぢく}。もつとわからぬ後{のち}の世{よ}の事{〔こと〕}。|併シ{しかし}〓{となり}の甚太味噌{じんだみそ}*〓は「人(偏)+粦」
無{なき}物{もの}ねだりは人情{にんぜう}でごぜへやすけれど。論{ろん}より証拠{せうこ}
此{この}国{くに}の大先祖{おほせんぞ}。大神宮様{だいじんぐうさま}は坊主天窓{ぼうずあたま}で拝{おが}ム〔こと〕は出来{でき}

(11ウ)
ませんぜ。其{その}筈{はづ}でも有{あり}やせう。神{かみ}は人{ひと}のふへるを喜{よろこ}び。
仏{ほとけ}は又{また}へるやうな事{〔こと〕}斗{ばか}りすゝめたがるから。反{そり}は合{あ}ハねへ
筈{はづ}でごぜへやす。マヅ遠{とほ}イ先祖{せんぞ}はさて置{おい}て今{いま}有{あ}ル親{おや}
のこゝろに|成ツ{なつ}てごろうじやし。這{は}へば立{た}テ。たてば歩行{あるけ}
と丹情{たんせい}して。漸{よふ〳〵}の事{〔こと〕}で人尺{ひとじやく}にし。それから嫁{よめ}に遣{や}る
とか。聟{むこ}を取{と}るとかして。ヤレうれしや是{これ}から初孫{ういまご}の顔{かほ}
見{み}るがたのしみと。我{わ}が年{とし}の寄{よ}る事は気{き}もつかず。先{さき}から
先{さき}をいそぐのは。子{こ}の可愛{かあい}〳〵にくツたくして居{ゐ}るから

(12オ)
の事{〔こと〕}でごぜへやすぜ。サア其{その}子{こ}に子{こ}が出来{でき}。彦{ひこ}が出来{でき}。
まづ親{おや}の血筋{ちすじ}もたやさず。神国{しんこく}のお国役{くにやく}も済{すむ}と言{いふ}
もの。また熊ヶ谷{くまがへ}の様{やう}に発気{ほつき}したの。あきらめたのと。
若{わか}イ身{み}そらでぐつすりと。坊主{ぼうず}になれば|死ン{しん}だも同前{どふぜん}。
どふぞころすめへ〳〵と。神{かみ}や仏{ほとけ}へ願{くはん}かけて。其所{そこ}の薬{くすり}
彼所{かしこ}の医者{いしや}と。気違{きちがひ}の様{やう}に気{き}をもんでござります。
御両親{こりやうしん}のおなげきはどのよふで有{あら}うと思{おぼ}し召{めす}ヱ。ヱ譬{たと}へ
生{いき}ながら仏{ほとけ}にならつしやるまでも。なんで嬉{うれ}しうござり

(12ウ)
ませう。仏{ほとけ}なぶりも神{かみ}いぢりも。親{おや}になげきをかけろとは
よもや教{をしへ}は有{あり}ますめへ。モシあんまりふげへねへ。イヤ熊ヶ谷{くまがへ}
に親{おや}はござりましなんだ。そして若ク{わかく}もなかつたつけ。ハヽヽヽ。
。あんまり噺{はなし}に実{み}が入{い}ツて。大{おほ}きに泡{あは}ア喰{くい}やした。」【てる】「コレ
蝶五郎{てふごらう}どん今{いま}にはじめぬ真実{しんじつ}のいけん。ちつとも
悪{わる}うは聞{きゝ}ませぬ。捨{すて}る神{かみ}有{あ}ればたすけるそなた。真実{しんじつ}
うれしいぞへ。」【蝶】「ナンノおめへさん其{その}様{よう}にあらたまつた事{〔こと〕}おつ
しやる事{こた}ア。ござりやせん。なんぼ私等{わしら}がよふなもんでも。

(13オ)
ちつとは人間{にんげん}の気{き}を受{うけ}て生{うま}れたもの。此{この}お店{たな}ていびつ
たれをしながら。おめへさんも若旦那{わかだんな}も供達{ともだち}のやふに
思{おも}ツて育{そだち}やしたもの。大旦那方{おほだんながた}はじめおめへさん方{がた}を
麁末{そまつ}に思{おも}つてすむものぢやアござりやせん。只今{たゞいま}申{まうし}た
熊ヶ谷{くまがへ}の事{〔こと〕}を。異見{いけん}とお聞{きゝ}なさるからは。わたくしの
すいりやうに違{たが}わぬお心{こゝろ}ダネ。此{この}頃{ごろ}お見世{みせ}のうわさには。
少{すこ}しお|あんべヱ{#塩梅}がよくなると。江ノ島{ゑのしま}鎌倉{かまくら}へお出{いで}なさる
との事{〔こと〕}。ちつト己惚{うぬぼれ}かは知{し}らねへが。そんならお供{とも}は是非{ぜひ}

(13ウ)
わたくしと。心{こゝろ}だのしみして居{ゐ}ても。今{いま}になんの御沙
汰{ごさた}もなし。いろ〳〵と考{かんがへ}やした所{ところ}が平日{へいじつ}お達者{たつしや}の時{とき}で
さへ出{で}ぎらいのおめへさん。殊{〔こと〕}に此{この}節{せつ}御病気{ごびやうき}は闇{くれ}へ所{ところ}へ
引{ひ}ツ込{こん}で居{ゐ}たいと斗{ばか}り思{をぼ}し召{めす}。お照様{てるさま}からお|ねげへ{#願}で
江ノ島{ゑのしま}鎌倉{かまくら}。ハテナ江ノ島{ゑのしま}はいゝが鎌倉{かまくら}が気{き}にくわねへはヱ。
若旦那{わかだんな}の今度{こんど}のしだらみさほを|立テ{たて}ぬく御心{おこゝろ}から。
うるせへ娑|娑{ば}と見{み}かぎつて。一筋{いちづ}に後生{ごせう}を松ヶ岡{まつがおか}。御{ご}
ひゐきのわたくしを連{つれ}ておいでなさらぬも。あとで

(14オ)
迷惑{めいわく}させめへ為{ため}と。ふつと心{こゝろ}へうかんだら。身受{みうけ}の事{〔こと〕}や
何{なに}や彼{か}を。思{おも}ひ合{あわ}せる事{〔こと〕}ばかり。モシそりやアあんまりで
ございますぜ。|百{いつそく}願{ねがつ}て十{と}ヲかなうとやら。御病気{ごびようき}も
其{その}通{とほ}り石{いし}にかぶり付{つい}ても。よくなろふと思{おも}つてさへ。埓{らち}
のあかぬは薬{くすり}の廻{まは}り。それにマアちつとも早{はや}く死{し}に
たいの。もしよくなつたら坊主{ぼうず}に成{な}るのと思{おも}つて
斗{ばか}りござるもの。どふして薬{くすり}も廻{まは}りませう。およばづ
ながらもこけの一心{いつしん}。成田様{なりたさま}へ三年願酒{さんねんぐわんしゆ}。此{この}比{ごろ}七日{なぬか}の

(14ウ)
火{ひ}の物{もの}だちも。今日{けふ}が丁度{てうど}けちぐわん故{ゆへ}。翌日{あす}は成田{なりた}へ
めへるつもり。若旦那{わかだんな}の御帰参{ごきさん}あなたの御病気{ごびようき}。どふぞ
元{も■}の通{とほ}り若旦那{わかだんな}さん若{わか}おかみさんと。いつて出|這入{でへいり}してへ*「■」は「と」の部分欠損か
ばつかり。モシきれツ端{ぱし}のわたしらせへ是{これ}程{ほど}までに苦労{くらう}
しやすに。かんじんのおめへさんがあんまりふげへねへお心{こゝろ}
でごぜへます。|きのふ{#昨日}恋{こい}が窪{くぼ}もさらりと|方付ケ{かたづけ}。お
|二人リ{ふたり}に御{ご}あんどさせうと。|七ツ{なゝつ}下{さが}リに漸々{よう〳〵}と|尋当ツ{たづねあたつ}
た花形村{はながたむら}。若旦那{わかだんな}の隠家{かくれが}へ|一ト足{ひとあし}|ちげへ{#違}て浦里{うらざと}が。親{おや}

(15オ)
の篠塚婆{しのつかばゝ}アとやら。身受{みうけ}の済{すん}だを知{し}らぬ顔{かほ}。くるわの掛{かゝ}リ
を笠{かさ}に着{き}て。手{て}ごめに乗{のせ}て|四ツ手駕{よつでかご}。あとけちらして
たつた今{いま}と。若旦那{わかだんな}のお言葉{〔こと〕ば}を半分{はんぶん}聞{きい}て|引返シ{ひつかへし}。堤{つゝみ}
づたへに二三町{にさんてう}。おつかけては見{み}ましたが。身受{みうけ}した上{うへ}からは
いつでも玉{たま}はこつちのもの。なろふ事{〔こと〕}なら是{これ}幸{さいは}い身受{みうけ}の
金{かね}はそんにしても。女{おんな}の手{て}さへ|切レ{きれ}たなら。お侘{わび}も一{ひと}しほ
早{はや}かろうと。前{さき}へ|一ト足{ひとあし}跡{あと}へ|一ト足{ひとあし}。」【照】「ヤヽそれでは浦{うら}ざと
さんは母親{はゝおや}が|引分ケ{ひきわけ}て連{つれ}ていつたとか。ヱヽ。こつちで

(15ウ)
身受{みうけ}した上{うへ}は。親御{おやご}へなんぎはかゝりもしまひ。なぜに其{その}
|様ナ{ような}じやけんな事{〔こと〕}。それでは是{これ}から若旦那{わかだんな}が。さぞ御
不自由{ごふじゆう}なさるで有{あら}う。コレ蝶五郎{てふこらう}どん。取{とり}もどして上{あげ}る
思案{しあん}はない〔こと〕か。マア其{その}様{よう}に落付{おちつ}いて居{ゐ}ずと。親元{おやもと}へ
早{はや}ふいつて。」【蝶】「アヽモシ〳〵そふ気{き}をおもみなさつてはなり
ません。お有家{ありか}が知{し}れた上{うへ}は。あゝしては置{おき}申ませぬ。
マア落付{おちつい}て。おいでなさりまし。おふ方{かた}そんな〔こと〕だろう
と思{おも}つて。此{この}はなしはひけへて居{ゐ}やした。それではやつぱり浦

(16オ)
里{うらさと}さんとそわせておいて。おめへさんどふなさる御了簡{こりやうけん}だへ。」
【照】「思ひ逢{あ}ふたおふたりさん是{これ}もやつぱり前世{ぜんせ}の果縁{やくそく}。しかし
夫婦{ふうふ}は二世{にせ}とやら。此{この}世{よ}でそわぬ其{その}|替リ{かはり}みらいはかならず
ふうふにと。御気{ごき}げんのよひをりを見{み}てどふぞお願{ねがい}申{まうし}
てたも。そればつかりがたのしみ。」と。跡{あと}は涙{なみだ}に口{くち}ごもる。異見{いけん}
につよき蝶五郎{てふごろう}も。お照{てる}が胸{むね}の奥底{おくそこ}を聞{きひ}て取{とり}なす
伺{ことば}もなく。共{とも}に涙{なみだ}にむせかへる。折{をり}ふし下女{げじよ}が案内{あんない}に。連{つれ}て*「伺{ことば}」(ママ)
入来{いりく}る藪井{やぶゐ}啓庵{けいあん}。附添{つきそう}老母{ろうぼ}はあんじ顔{がほ}。|二タ人{ふたり}はハツト

(16ウ)
そしらぬ顔{かほ}。尽{つき}ぬはなしは胸{むね}と胸{むね}。【蝶】「おひゞどん。釜{かま}の下{した}
がいぶるじやアねへか。」と涙{なみだ}まぎらせ出{いで}て行{ゆく}。
第六回{だいろくくわい}
行{ゆく}空{そら}の道{みち}もあやなきぬば玉{たま}の。闇{やみ}をたどりて地獄谷{ぢごくたに}。篠
塚婆〻{しのづかばゝ}が宅{いへ}を出{で}て。途中{みち}に地獄{ぢごく}のありぞとも。しらねど
虫{むし}が知{し}らせてか。心細{こゝろぼそ}くも春日屋{かすがや}の。手代{てだい}儀七{ぎしち}は忠{ちう}と孝{かう}。うき
世{よ}の義理{ぎり}を建川通{たてかはどほ}り。真立{まつすぐ}に降{ふる}春雨{はるさめ}も悪人等{わるものども}がよこ
しぶき。ふつてわいたる後{うしろ}からひらりときらめく刃{やいば}の光{ひかり}。コハ

(17オ)
時{とき}ならぬ稲妻{いなづま}かと。見返{みかへ}るひまも情{なさけ}なや。ばつさりあびる
|一ト太刀{ひとたち}の。深手{ふかで}にウン[引]ト反返{そりかへ}る。声{こへ}を目当{めあて}に全六{ぜんろく}もさし
あたつたる傘{からかさ}を。たゝみかけてのめつた打{うち}[いゝあわせたるわる者泥蔵]【ドロ】「ヲイ
最早{もふ}いゝ〳〵。コレサ|ばんツ{#番頭}さん能{いゝ}トいふのに。アヽいてへ。おれ
だよ〳〵。」[トいふに気のつく番頭全六]【全】「ハア最早{もう}死{ごね}たか。弱{もろい}奴{やつ}ナア。」【ドロ】「ソレ口{くち}へ手{て}を
遣{やつ}て見{み}ねへ。ソリヤ息{いき}は|止タ{とまつた}ろふ。」【全】「ヲヽ能{ヱヽ}〳〵。|あんじよふ{#味宜}いた〳〵。
サア是{これ}から彼{かの}咽{あぎと}の玉{たま}じや。へヽ与一兵衛{よいちべゝ}のぎゑん祝{いわ}ふて島{しま}の
財布{さいふ}へ入{いれ}て渡{わたし}た筈{はづ}じや。ヤヽコリヤ財布{さいふ}には|ぜん{#銭}ばかりじや。

(17ウ)
ハヽア胴巻{どふまき}へなど入{いれ}おつたか。ヤア胴{どふ}まきも無{ない}わへ。コレおまへ方{がた}も
さぐつて見{み}て|下ダン{くだん}せ。」[トいわれてわるものドロ蔵トビ助両人が]「わたしらも先刻{さつき}
から。たもとや衿{ゑり}をしごひて看{み}たが。綿{わた}のかたまりも見{み}へ
ねへぜ。」【全】「ヱヽ純{どん}くさい。是{これ}ほどしんどい仕業{しわざ}して。そないナ〔こと〕*「純{どん}くさい」(ママ)
じやあかんわいの。そこら不残{のこらず}尋{たづね}て|下ダン{くだん}せ。しかも包金{つゝみがね}
出{た}すが工合{ぐあい}がわるかつたゆへ。歩判{ぶばん}で百両{ひやくりやう}渡{わた}シたに相違{さうい}は
ない。コレ〳〵ゆもじなどさぐつて見{み}さんせ。」【トビ】「如才{じよさい}はねへ。ふん
どしをさぐつてゐる所{ところ}だ。アヽ有{あり}はあるが。」【全】「あつたか〳〵。」【トビ】「金{きん}が

(18オ)
|二ツ{ふたつ}に銭{ぜに}が四百{しひやく}程{ほど}ぶらさがつてゐるばかりだ。」【全】「ヱヽなのこつ
ちやあほらしい。|くツちやイどこ{#口合処}じやない。大変{たいへん}じや〳〵。」ト。
狂気{けうき}の〔ごと〕く尋{たヅぬ}る全六{ぜんろく}。飛助{とびすけ}泥蔵{どろざう}諸{もろ}ともに儀七{ぎしち}が帯{をび}まで
引解{ひきほどき}見{み}れども更{さら}に見{み}へざれば。三人{さんにん}死骸{しがい}へより添{そい}て【全】「コリヤ
どふじや。」【トビ】「あきれてものがいわれねへ。」【ドロ】「くそ骨{ほね}を折{をつ}てなん
のこつた。」【全】「いやまたんせ。どふもコリヤ合点{がつてん}がゆかぬ。あやしい。」
【泥飛二人】「なぜ〴〵。」【全】「なぜといふて。みす〳〵此者{これ}が持{もつ}てゐた金{かね}
に|相違{ちがい}はないに。尋{たづね}るものはこの三人{さんにん}。それに無{ない}といふは尋{たづね}る

(18ウ)
風情{ふり}でおまへ方{がた}が。着腹{ちやくぶく}じやナ。」【泥】「ナニ〳〵我等{おいら}が|取た{とつた}アトワ
何{なん}の|こつ{#事}た。そんな。うしろぐれへ業{〔こと〕}をする泥蔵{どろぞう}じやアねへぞ。」
【全】「イヤ余{あま}り後ロ{うしろ}あかるい仕業{しごと}でもないての。けれどもマヽ腹{はら}たて
てはわるい。たれしも心{こゝろ}の替{かわ}るは金{かね}づく。|ヱヽ{#能}はこふしましよ。
一体{いつたい}やくそくはわしが五十両。跡{あと}五十両を婆〻{ばゝ}アとおまへ方{がた}ト
三人{さんにん}へ割分{わつぷ}する筈{はづ}じやが。ハテかふなつたら是非{ぜひ}がない。二十五
両ツヽ|四ツ{よつ}に|わき{#可分}よ。すりや甲乙{かうおつ}なしのわけまへじや。」【トビ】「コウ〳〵
それじやアどふでも。おいらが|のん{#取}だと思ふのか。あんまり馬

(19オ)
鹿{ばか}〴〵しいせんぎた。」【ドロ】「イヤ飛助{とびすけ}まちヤ。そういやア此方{こつち}もその
通{とほ}り。全六{ぜんろく}さんおめへがあやしい。おいらにさんざ手斧{てうな}うちを
させて後{あと}でおめへが小刀細工{こがたなざいく}。そふうまくはさせめへは。いけツ不届{ぷてへ}。」
【全】「なんで〴〵。コレいけぷとひの。かわ細{ほそい}のといふ全六{ぜんろく}じやなひぞ。そな
ひな悪根性{わるこんじやう}の有{ある}者{もの}なりや。大切{たいせつ}な身代{しんだい}の支配{しはい}させては
おかぬわい。|太イ{ふとい}といふたら羽折{はをり}の紐{ひも}さへきらひじや。」【ドロ】「その正直{しやうじき}
な番頭{ばんとう}さんが。今夜{こんや}の始末{しまつ}はどふいふ物{もん}だ。」【全】「ムヽコリヤほんの出
来心{できごゝろ}じや。後{あと}にも前{さき}にもこれが初{はじめ}て。じやによつて不勝手{ふかつて}じや。

(19ウ)
そこでおまへ方{がた}に。|ゑゝ{#宜}よふにされるは。」【ドロ】「このべら棒{ぼう}めヱ。
どふいへばかふいふと。すなほにださねへことばづめ。サア飛助{とびすけ}
こいつもばらしてふんだくろう。」【トビ】「ヲツト合点{がつてん}。」ト[左右から立かゝられて]【全】「アヽコヽヽヽヽ
そりやあんまり。たん気{き}じや〳〵。わけ付{つけ}う〳〵。マヽ下{した}に居{ゐゝ}ナ。た
かゞ斯{かう}じや。兎角{とかく}おまへ方{がた}は私{わし}が巻上{まきあげ}たと思{おも}ふている。私{わし}は
亦{また}|二人リ{ふたり}の衆{しゆ}を疑{うたがふ}て斗{ばか}りをるさかい。論{ろん}がひない。じやといふて
斯{がう}疑心{ぎしん}の起{おこつ}ている中{なか}で。互{たがい}に帯{おび}解{とひ}て見{み}せた所{ところ}が死人{しにん}じや*「斯{がう}」の濁点ママ
なし。闇{くらがり}の事{〔こと〕}じやもの。どないにも隠{かく}せばかくせますは。ゑゝか

(20オ)
そこで亦{また}此|様成{ないな}所{とこ}に長居{ながゐ}して。人|眼{め}にかゝツたりや。台
座{だいざ}後光{ごかう}仕舞{しまふ}拴義{せんぎ}じや。まつ何{なん}じやろと三人|揃{そろふ}て地獄*「拴義{せんぎ}」(ママ)
谷{ぢごくだに}まで行{い}て。ハテ面々{めん〳〵}の身晴{みばれ}じやゆもじまてふるうて
|為見{みしよ}。それでうたがひははれよふでないか。」【ドロ】「そふして無{なひ}
時{とき}は婆{ばゝ}アもやつぱりうたがつて。三人|仕組{しくん}だ狂言{きやうけん}と思ふ
だろふ。」【全】「そりやそないナ物{もん}じやが。マヽ遣{やつ}て見なされ。此三人
の中{うち}。どつちからか出{で}るじやろ。」【ドロ】「成{なる}ほど斯{かう}互{たがい}にうたぐつて
見ると。棒組{ぼうぐみ}の其方{てめへ}まで。しろ箒木{ぼうき}も鬼{おに}に見へるぜ。」【トビ】「なぞ

$(20ウ)
しの塚

$(21オ)
蝶五郎

(21ウ)
とすまして居{ゐ}て。またぐらへでもはさんじやア居{ゐ}ねへか。」【ドロ】「べら棒{ぼう}
めへそれ見{み}ろへ。」【トビ】「ト言{いふ}時{とき}は上{うへ}へ引上{ひきあげ}。また有{ある}時{とき}は脊中{せなか}へ廻{まは}し。」
【ドロ】「やかましいわへべらぼふめへ。そんなら行{いく}べヱ。モウ夜明{よあけ}に|近イ{ちかい}ぜ。」【トビ】「サア
番頭{ばんつ}さん。」【全】「ヲヽ行{いき}は。いくけれどマア待{まち}イ。泥蔵{どろしう}の言{いふ}通{とほ}り成程{なるほど}しゆ
ろ箒木{ぼうき}も鬼{おに}じや。トヽモ疑心{ぎしん}でやるせがない。まづ斯{かう}じや三人{さんにん}揃{そろふ}
て|行キ{いき}ヤ何{なに}も理屈{りくつ}はないぞへ。ヱヽナ。サヽそれに理屈{りくつ}が大有{おほあり}じや。
イヤ悪{わる}う聞ちや宜{よふ}ない。面々{めん〳〵}の身{み}はれじやさかい自他{われひと}ともの事{〔こと〕}
じや。マヅ私{わし}が懐中{ふところ}にぬくとめて居{ゐる}にしなされ。三人{さんにん}別〻{べつ〳〵}に

(22オ)
歩行{あるく}中{うち}には。能{よい}折{をり}を見て草中{くさのなか}か。芥溜{ちりため}の内とかへポイト投{なげ}て
置{おい}て後{あと}から廻{まは}ツて〆るといふ手も有{ある}じや。」【トビ】「いかさまナ。」【ドロ】「そん
なら斯{かう}為{する}がいゝ。三人|並{ならん}で中{なか}の者{もの}の懐中{ふところ}で両方{りやうほう}の人の手
と手を握{にぎ}るは。よしかそこで中の者は両方{りやうほう}の懐{ふところ}へ手を入{いれ}て
右{みぎ}と左{ひだり}の手を握{にぎつ}て行{いけ}ば。あいた手は一本{いつぽん}も無{ねへ}ぜ。これでは大
丈夫{だいじやうぶ}だろふ。」【全】「ヤアヽ出来{でけ}た〳〵。妙案{みやうあん}〳〵。サヽちつとも早{はやう}。サヽ私{わし}
中{なか}へ|這入{はいつ}サア手を入{いれ}なはれ。ヲヽ冷{ちへたい}手ナア。それ私{わし}が手を入{い}れる
ぞ。ヲヽ冷{ちめたい}懐{ふところ}ナア。斯{かう}冷{ひへ}て居{ゐ}るから此|方{ほう}疑心{ぎしん}じや。」ト他{ひと}を疑{うたが}ひ

(22ウ)
うたがわれ三人|並{ならぶ}猿智恵{さるちゑ}は欲{よく}にくらみし眼{め}も見ざる。訳{わけ}も
聞{きか}ざる悪事{あくじ}をば互{たがひ}に難{かた}くいわざると。内懐{うちふところ}に握{にき}る手も。〆{しめ}
くゝりなき安敵{やすかたき}いそひでこそは行|過{すぐ}る。跡{あと}にむざんは手|代{だい}の。
義七{ぎしち}悪者{わるもの}どもの毒手{どくしゆ}に掛{かゝ}り。思{おも}ひがけずも砂村{すなむら}のすなに
まぶれてはかなき最期{さいご}。降{ふる}は涙{なみだ}か春雨{はるさめ}も猶{なを}ふりしきる朝
嵐{あさあらし}。風{かぜ}かあらぬか竹藪{たかやぶ}の。立枯{たちがれ}の竹{たけ}二三|本{ぼん}。めり〳〵〳〵とおし
わけて。折{をれ}たる腰{こし}を伸{のばし}〳〵。現{あらはれ}出たる篠塚婆{しのつかばゝ}ア振乱{ふりみだし}たる
九十九髪{つくもがみ}。掻上{かきあげ}ながらさぐりよる。手さきへ当{あた}る儀七{きしち}が死骸{しかい}

(23オ)
|仕掛ケ{しかけ}置{おひ}たる左右{さゆう}の脚半{きやはん}紐{ひも}を解々{とく〳〵}引放{ひきはな}し。ずつしり重{おも}
き手{て}ごたへに。微笑{につこり}恵{ゑみ}を懐{ふところ}へ入{い}れる脚半{きやはん}は五十両。まだ百両{いつそく}
結{つば}まらぬ。かねて期{ごし}たる管笠{すげがさ}の其{その}笠当{かさあて}を心当{こゝろあて}。おきまど
わせるうたてさよト。心{こゝろ}いらちて居{ゐ}る眼前{めさき}に。あり〳〵見{み}ゆる三
度笠{さんどがさ}。心嬉{こゝろうれ}しく取上{とりあげ}て手早{てばや}く引切{ひききる}笠当{かさあて}も。夕阝{ゆふべ}夜延{よなべ}の
針仕業{はりし〔ごと〕}言{いゝ}くろめつゝ縫{ぬい}くるみし。脚半{きやはん}と共{とも}におしいたゞく。折
節{をりから}鳶{とびの}蝶{てふ}五郎。成田詣{なりたもふで}の鹿島立{かしまだち}来懸{きかゝ}る途{みち}にあやしき人影{ひとかげ}。
合点{がてん}のゆかぬとてうちんの明{あかり}を囲{かこう}片袖{かたそで}も。狭{せま}き小路{こうぢ}のぬかり

(23ウ)
水{みづ}うつる火影{ほかげ}に気{き}のつく婆{ばゝ}ア。携{たづさへ}持{もち}しゑな切{きり}を[産{さん}婦の具{ぐ}なり]
てうちん目当{めあて}にばつさりト。うてばひゞいて暁{あかつき}の鐘{かね}も哀{あはれ}や
生死{いきしに}を。しばしは爰{こゝ}にさかさい川{がは}。浪{なみ}よりしらむ明烏{あけがらす}|後ノ{のちの}
正夢{まさゆめ}さめてなを。尽{つき}せぬ巻{まき}の物語{ものがたり}は近日{きんじつ}出板{しゆつぱん}仕{つかまつり}|候{#そろ}。
明烏{あけがらす}後正夢{のちのまさゆめ}三の巻尾
二代目南仙笑楚満人 台下滝亭鯉丈 合作
歌川国直画
涌泉堂板


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底本:東京大学文学部国語研究室蔵本(4L:95:1)
翻字担当者:梁誠允、島田遼、矢澤由紀、銭谷真人
更新履歴:
2017年7月26日公開

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