浦里時次郎明烏後の正夢 初編中
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凡例
1.本文の行移りは原本にしたがった。
2.頁移りは、その丁の表および裏の冒頭において、丁数・表裏を括弧書きで示した。また、挿絵の丁には$を付した。
3.仮名は現行の平仮名・片仮名を用いた。
4.仮名のうち、平仮名・片仮名の区別の困難なものは、現行の平仮名に統一した。ただし、形容詞・副詞・感動詞・終助詞・促音・撥音・長音・引用のト等に用いられる片仮名については、原表記で示した場合がある。 〔例〕安イ、モシ、「ハイそれは」ト、意気だヨ、面白くツて、死ンで、それじやア
5.漢字は現行の字体によることを原則としたが、次のものについては原表記に近似の字体を用い、区別した。「云/言」「开/其」「㒵/貌」「匕/匙」「吊/弔」「咡/囁」「哥/歌」「壳/殻」「帒/袋」「无/無」「楳/梅」「皈/帰」「艸/草」「計/斗」「弐/二」「餘/余」
6.繰り返し符号は次のように統一した。ただし、漢字1文字の繰り返しは原本の表記にしたがい、「〻」と「々」を区別して示した。
平仮名1文字の繰り返し 〔例〕またゝく、たゞ
片仮名1文字の繰り返し 〔例〕アヽ
複数文字の繰り返し 〔例〕つら〳〵、ひと〴〵
7.「さ」「つ」「ツ」に付く半濁点符は「さ゜」「つ゜」「ツ゜」として示した。
8.Unicodeで表現できない文字は〓を用いた。
9.句点は原本の位置に付すことを原則としたが、文末に補った場合がある。
10.合字は〔 〕で囲んで示した。 〔例〕殊{〔こと〕}に、なに〔ごと〕、かねて〔より〕
11.傍記・振り仮名は{ }で囲んで示した。 〔例〕人生{じんせい}
12.左側の傍記・振り仮名の場合は、冒頭に#を付けた。 〔例〕めへにち{#毎日}
13.傍記・振り仮名が付く位置の紛らわしい場合、文字列の始まりに|を付けた。 〔例〕十六|歳{さい}
14.原本に会話を示す鉤括弧が付いていない場合も、これを補い示した。また庵点は〽で示した。
15.原本にある話者名は【 】で示した。 〔例〕【はる】
16.割注・角書および長音符「引」「合」は[ ]で囲んで示した。
17.不明字は■で示した。
18.原本の表記に関する注記は*で行末に記入した。 〔例〕〓{たど}りて*〓は「漂+りっとう」
19.花押は〈花押〉、印は〈印〉として示した。
20.画中文字の開始位置に〈画中〉、広告の開始位置に〈広告〉と記入した。
本文の修正
1.翻字本文を修正した場合には、修正履歴を末尾に示す。
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(1オ)
明烏{あけがらす}後正夢{のちのまさゆめ}二之巻
第三回{だいさんくわい}
子{こ}故{ゆへ}の闇{やみ}に迷{まよ}ふ身{み}の。とぼ〴〵来{きた}る門{かど}の口{くち}。障子
越{せうじごし}から【正】「申{まうし}。チト物{もの}が尋{たづね}とうござります。此{この}辺{へん}に
時次郎殿{ときじろうどの}といふ人{ひと}がいらるゝげなが。御{ご}ぞんじなら
おしへなされて|下タ{くだ}さりまし。」と。いふ声{こへ}もれて障子{せうじ}
のうち【時】「アヽコレ〳〵お里{さと}。ありやたしか女房{にようぼう}照{てる}が
実親{じつおや}正右衛門殿{しやうゑもんどの}。どふして爰{こゝ}と知{し}られたやら。どの
(1ウ)
つらさけてあわりよふぞ。そなたをしられぬがさい
わひ。よいよふにいふてくりや。早{はや}う〳〵。」といひさして
納戸{なんど}のうちへひそみ入{い}る。跡{あと}にお里{さと}はうろ〳〵と
なにとあいさつせん方{かた}も。涙{なみだ}先{さき}たつ女気{おんなぎ}のとゞ
ろくむねを押{おし}しづめ。障子{せうじ}を明{あけ}て【里】「ハイ其{その}。時
次郎{ときじろう}さんとやらいふお人{ひと}は。ヱヽアノ二三|歳{ねん}イヤ二三|日{にち}
以前{いぜん}。どこへやら引越{ひきこし}ていかれまして。留守{るす}でござり
ますげな。見{み}申{まう}せば遠方{ゑんほう}のお方{かた}らしい。〔こと〕にお年
(2オ)
寄{としより}のさぞお草臥{くたびれ}なさんしたでござんせう。マア〳〵
お上{あが}りなさんして。ゆるりとお休{やす}みなさんせ。」と。いふも
しどなき里{さと}なまり。さすが正直{せうじき}正右衛門{せうゑもん}と。異名{いみやう}
を取{とり}しかた親父{おやぢ}の。かすむ眼{め}にさへそれと見{み}て
とり【正】「ハヽア成程{なるほど}〳〵引越{ひきこし}ましたでござろう。
時次郎{ときじろう}とは名{な}のみにて時{とき}をうしのふ日陰{ひがけ}の身{み}
爰{こゝ}に三日{みつか}かしこに四日{よつか}。いつか世{よ}に出{で}んたよりもなく
アヽさぞなんぎしておりませう。またわしがたづね
(2ウ)
歩行{あるく}を知{し}ツても。成{なる}ほどあわれまい〳〵。尤{もつとも}じや
道理{どうり}でござる。したが人{ひと}にこそよれ此{この}親父{おやぢ}に。あん
まり義理{ぎり}だては水{みづ}くさひはへ〳〵。イヤしかし
みづ知らぬお人{ひと}に此{この}様{やう}にわけもない事{〔こと〕}いふて。此{この}
親父{おやぢ}めは気{き}でも違{ちが}ふておるかと。おもわしやろうか
年{とし}よればたしなんでも愚知{ぐち}になります。むねに餘{あま}る
うらみ。イヤ思{をも}ひの数{かづ}〳〵。一寸{ちよつと}逢{あ}ふたお人{ひと}でも。しん
切{せつ}にいふてくださる衆{しゆ}には。はなしても心ゆかせ。袖{そで}
(3オ)
ふりおうも縁{ゑん}とやら。お借{かり}申{まうし}たゑんのはし。足休{あしやす}メ
やら気安{きやす}メやら。かひつまんでの身{み}の上{うへ}ばなし。|聞カ{きか}
しやつてくださりまし。|一ツ体{いつたい}わしは上総{かつさ}のもの
正右衛門{せうゑもん}といふ百性{ひやくしやう}でござりますが。二人{ふたり}持{もつ}た子ども
のうち。惣領{そうりやう}めは居跡{ゐせき}に直{なを}し。妹{いまうと}は江戸{ゑと}の親類{しんるい}
春日屋{かすかや}由兵衛{よしへい}といふものゝ忰{せかれ}。時次郎{ときじろう}へめあわせ
するとて。|九ツ{こゝのつ}のとし此{この}江戸{ゑど}へよこしましたか。振
分髪{ふりわけかみ}のぐわんぜもなく。兄弟{きやうだい}やらめうとやらわけ
(3ウ)
も知らず。それは〳〵中{なか}ようそだち合{あい}ました
が。もう年{とし}ごろにもなつた故{ゆへ}あらためて婚{こん}れい
させうといふ事{〔こと〕}ゆへ。わしも早速{さつそく}江戸{ゑと}へ出{で}て。二人{ふた}リが
了簡{れうけん}も聞{きゝ}たれば。たがひによろこんで婚礼{こんれい}しました
故。やれうれしや〳〵。是{これ}からは又{また}。初孫{ういまご}の顔{かほ}見{み}るが
たのしみと思{おも}へば。地頭様{ぢとうさま}の御用{ごよう}て江戸{ゑと}へ出{で}るもとん
とくげんにも思{をも}ひましなんだが。どふした事{〔こと〕}やら
おとゝしの。春時分{はるじぶん}から悪摩{あくま}が。イヤあくせうな心{こゝろ}
(4オ)
になりおつたか。夜{よ}る昼{ひる}となく傾城{けいせい}ぐるい。由兵衛殿{よしべいどの}
もやかましういわるれど。若{わか}イ者{もの}には有{あり}うち。また
出入屋鋪{でいりやしき}の権門{けんもん}も有{あ}る事{〔こと〕}。娘{むすめ}にもいひつけて。
かならずりんきしやんなと。内〻{ない〳〵}尻{しり}もぬぐうて
やりましたが。どういふすまぬ義理{ぎり}になつたやら。
その馴染{なれそめ}た傾城{けいせい}を連{つれ}て曲輪{くるわ}を欠落{かけおち}。その
沙汰{さた}を聞{きく}とひとしく。ものがたい由兵衛殿{よしべいどの}。たつた
ひとりの子{こ}なれども。先祖代〻{せんぞだい〳〵}受次{うけつい}だ。春日屋{かすがや}の
(4ウ)
家{いゑ}にはかへられぬと。久離{きうり}切{きつ}て勘当{かんどう}と。聞{きい}て
びつくり。アヽ是非{ぜひ}もない。それに付{つ}ケてもふびんな
は娘{むすめ}の照{てる}。とほうにくれてないてばつかり。サゾ愚
知{ぐち}もいゝたかろうがしうとの手前{てまへ}。ぢつとこらへて
ふたりの親{おや}へ。孝行{かう〳〵}つくして居{ゐ}おるゆへ。アヽ我{わが}子{こ}な
がらもよふしんぼうしをる。それでこそ正右衛門{せうゑもん}が
娘{むすめ}じやと。婆〻{ばゞ}とふたりでほめて居{ゐ}ましたが。
跡{あと}の月{つき}の|初メ{はじめ}ツ方{かた}から。とけぬ思{おも}ひのかず〴〵が
(5オ)
つもりにつもるおと雪{ゆき}の。雪{ゆき}当{あた}りからぶら〴〵と。
日増{ひまし}におもる立病{たちやみ}も。床{とこ}についたときひてより。
婆〻{ばゞ}めは国{くに}に有{あ}るにもあられず。わしも一{い}ツ
所{しよ}に出{で}て来{き}まして。こりや他人{たにん}にはチト聞{きゝ}づらい
事{〔こと〕}なれど。子{こ}の可愛{かあい}さに心{こゝろ}もくもり。コレおてるヨ。
時次郎{ときじらう}斗{ばか}りが男{おとこ}ではないぞ。みさほを|立テ{たて}る
女房{にようぼう}をふり捨{すて}。あまつさへ両親{りやうしん}にも難義{なんぎ}のかゝる
事{こと}もかへりみず。曲輪{くるわ}の女郎{じよろう}を連{つれ}て欠落{かけおち}する
(5ウ)
様{よう}な。人外{にんぐわい}な聟{むご}を持{もた}せたはおれがあやまりじや。
是{これ}からは在所{ざいしよ}へ連{つれ}て行{いつ}て。れつきとしたりつばな
聟{むこ}を取{とつ}て見{み}せる。かならず心{こゝろ}をせまくもたず。
早{はや}く本腹{ほんふく}する様{よう}にしやれと。はげみを付{つけ}るも
子{こ}の可愛{かあい}サ。それに引{ひき}かへ娘{むす}めは。コレとゝさんその
様{よう}ナどふよくな事{〔こと〕}いふてくださんすな。縁{ゑん}で〔こそ〕あれ
江戸{ゑど}と上総{かづさ}。へだちし中{なか}を夫婦{ふうふ}となる。よく〳〵
深{ふか}イ縁者{ゑんじや}のちなみ。親{おや}とおやとのとく心{しん}で。結{むすん}だ
(6オ)
縁{ゑん}は神々様{かみ〳〵さま}のお引合{ひきあわせ}。それをマア我{わが}まゝらしく。
おつとの身持{みもち}がわるひとて。聟{むこ}とるの|縁付ケ{えんづけ}のと。
モウ〳〵けがらわしい事{〔こと〕}聞{きゝ}とむないと。夜着{よぎ}引{ひき}
かむつてあいさつもしませぬ。いへばいふほど病{やまひ}の
上塗{うはぬり}。アヽ道{みち}ならぬいけんするも。可|愛{あい}サ故{ゆえ}。まゝよ。
たとへこがれ死{じに}するとも。みさほをたてぬく娘{むすめ}が
心底{しんてい}。是非{ぜひ}におよびませぬ。是{これ}を思へば幼{おさな}イ時{とき}。貞
女両夫{ていぢよりやうふ}にま見{み}へずなぞと。いらぬ聞取学問{きゝとりがくもん}を
(6ウ)
片言{かた〔こと〕}ましりにおしへたが。今{いま}ではかへつて後悔{こうくはい}します。」と。
ほろりと涙{なみだ}|一ト雫{ひとしづく}。お里{さと}はむねに立{た}ツなみの汲{くみ}わけかぬる
浮世{うきよ}の義理{ぎり}。やう〳〵涙{な■だ}をおし拭{ぬぐ}ひ。「なるほど段{たん}〴〵のお
咄{はな}しを聞{きゝ}ましては。見{み}すしらずのお方{かた}なれと。おまへさん
がたのお心{こゝろ}づかひ。おてるさんとやらの御|深切{しんせつ}。はじめて聞{きい}た
わたしさへ。つらいやら悲{かなし}ひやら。他事{ひと〔ごと〕}のようにはぞんじ
ませぬ。定{さだ}めておてるさんとやらもおまへさんも其{その}女郎{ちよろう}こ
そ身{み}の敵{かたき}にくひやつ。斬{きり}さいなんても厭{あき}たらぬ。と思召{おぼしめし}も
$(7オ)
有{あり}ましやうが。女郎衆{ぢよろうしゆ}と
ても始{はじ}めから。さだまる
内室{おかた}の有ぞとは。知{し}
らずしられぬ仇{あだ}
枕{まくら}。仮寝{かりね}のゆめも
むすぼれし。其{その}かけ
〔こと〕の数{かず}〳〵が。つもり
〳〵て晦日{つごもり}の。月{つき}に譬{たとへ}し
〈画中〉正右衛門
うら里
(7ウ)
|信実{まごゝろ}をうちあけらるゝ其{その}人{ひと}は。果報{くはほう}拙{つたな}き〔こと〕わざを思{おも}へ
ば愛{いと}しい。おん方{かた}の為{ため}には悪{あし}きとおもふほど。猶{なを}いやまさる
恋{こひ}の癖{くせ}。一ト夜{よ}逢{あは}ねばこひしうて逢{あへ}ばわかれが。」【正】「アヽモシ
浦里{うらざと}どのではない。しらぬ女中{ぢよちう}さん。発明{はつめい}そふなお方{かた}じや
と。思ふに差{たが}わぬ言葉{〔こと〕ば}のはし〴〵。時次郎が馴染{なれそめ}の女子{をなご}
も逢{あふ}てはなしを。しましたら昔気質{むかしかたき}の野夫{やぼ}な身{み}で
思{おも}ひ過{すご}しをするやうな事{〔こと〕}ばかりでも。ござりますまひ
と推量{すいりやう}した故{ゆへ}。よう〳〵と尋{たづ}ねて来{き}たるかひもなく。
(8オ)
時次郎が引越{ひきこし}たと承{うけたまは}りての長ばなし。モシ時次郎がこの
辺{へん}へ。見へる〔こと〕でもごさつたなら。正右エ門といふ老父{おやぢ}が来て。
伝言したといふて聞せて下さりまし。いかゐお世話{せわ}に成
ました。」といひつゝ立て暇{いとま}ごひ。心のこして帰{かへ}り行{ゆ}く。跡{あと}に
お里{さと}は胸{むね}せまり見かへる納戸の溜息{ためいき}は。病の床{とこ}に時次郎
がその心根{こゝろね}もいかならんと。思ひまはせば正右エ門の|不問語{とはずかたり}
は縁{ゑん}切{きつ}て。もらひたけれど夫{それ}ぞとも。言{いは}ぬこゝろを察
せずは。苦{く}界にありし女子{おなご}には。似合{にあは}ぬ不粋{ふすい}とさげしま
(8ウ)
れうとはいへ。今更{いまさら}次良さんにわかれてながらへ居られうぞ。
思ひ切らねば愛{いと}しひ人の。為{ため}にならぬとしりながら。明{あき}ら
められぬ陰果{いんぐは}づくと。思案{しあん}にふさがる胸{むな}さきの。癪{しやく}を押{おさ}へて
浦里は【里】「おまつやお松{まつ}。」と呼{よぶ}声{こゑ}に。納戸{なんど}のうちより時次郎
【時】「イマお松は今{いま}裏口{うらぐち}から薬{くすり}取{とり}に遣{や}りました。何{なん}ぞ用か。」といふ
声{こゑ}も。曇{くも}りがちなる空{そら}の色{いろ}。花{はな}のためとや春の雨{あめ}。茅{かや}が軒
端{のきば}の板{いた}びさしへ。おとなふほどに降出{ふりいだ}せば傘{からかさ}を取出{とりいだ}し【里】「薬
とりならツイそこなれど。此{この}大降{おほぶり}ではこまりイしやう。チヨツト
$(9オ)
迎{むか}ひに行{ゆき}ます。」と柴戸{しばど}を開{ひら}く門{かど}の口{くち}。五十歳程{ごじうばかり}の
けんどん婆〻{ばゝ}。途中{みち}で傭{やと}ひし辻駕{つぢかご}を後{あと}につらせ
て来{き}かゝりしが【婆〻】「ヤレ〳〵つよひ降{ふり}ではある。コレマア
駕籠屋{かごや}さんチト雨止{あまやみ}を待{まち}なせへ。畠{はたけ}て聞{きい}たはたし
かに此所{こゝ}じや。」と。言{いひ}つゝ見合{みあは}すかほと顔{かほ}【里】「ヲヤ
おまへはかゝさん。」【婆】「ヲヽ浦里{うらざと}か。おのれはマア
悪{にく}いやつめ。」とむしりつきこづき廻{まは}して
上{あが}り口{ぐち}。お里{さと}をとつて引居{ひきすへ}つゝ「コレ〳〵駕籠
$(9ウ)
屋{かごや}さん気{き}をつけて呉{くん}なせへ。女{あま}ばかりなら
気{き}づかひないが時{とき}次郎といふ悪者{わるもの}が。付{つい}
て居{ゐ}るから由断{ゆだん}はならねへ。老体{としより}と
あなどつて。どんな事を仕{し}おるもしれ
ぬ。」と。わめきちらせば時次郎もやう〳〵
|一ト間{ひとま}をさぐり出{いで}て【時】「コレハ〳〵お里{さと}がかゝさん。
よくマア尋{たづね}てござられた。」【婆】「アイモシ〳〵よく尋{たづね}て
来{き}たエ。コレあんまりわる落着{おちつき}に。おちつきなさ
$(10オ)
んな。よくの悪{わる}くのと途方{とほう}もねへ。金{かね}と女{たま}とを
引{ひき}かへても女{たま}がそれりやア親判{おやはん}の掛{かゝ}りは
遁{のが}れぬ。篠塚婆々{しのづかばゝ}。取{とり}あげねへとは言{いは}れぬ
しぎ。山名屋{やまなや}からも親元{おやもと}でしらねへとは言{いは}
せぬと。毎日{まいにち}〳〵|六ツ{むづ}かしやが出{で}つ|這入ツ{へゝつ}の大{おほ}
こんざつ。あげくの果{はて}は出入場{でいりば}の産婦{さんぷ}の臨月{りんげつ}
腹帯{はらおび}のと。呼{よび}に来{く}るにも行{ゆく}事{〔こと〕}ならず百日{ひやくにち}近
く家業{しやうばい}おやすみ。老体{としよつ}た親{おや}を路頭{ろとう}にまよは
$(10ウ)
せ。こちの人{ひと}だのもしへだのと。ぬかせば同{おな}じく野
郎{やろう}どのも。亭主{ていしゆ}ぶつてお里{さと}だのかゝさんだのと
あんまりしねへ。しこなしぶり。其方{そなた}のような
いくぢなしを。聟{むこ}や息子{むすこ}にするくれへなら。首{くび}で
も縊{くゝつ}て死{し}ぬがまし。是{これ}からおさとを連{つれ}て往{い}て。じ
ぎりにせにやア此方{こつち}の寂滅{じやくめつ}。ヲイ駕籠屋{かごや}さん。」と呼
入{よびい}るれば。直{すぐ}につり込{こむ}|四ツ手駕籠{よつでかご}。篠塚婆〻{しのづかばゝ}は耳{みゝ}に口{くち}。
「ヲツト合点{がてん}。」とうなづく駕{かご}かき。目配{めまぜ}をさとる棒組{ぼうぐみ}が泣{なき}
(11オ)
居るお里を引抱{ひつかゝへ}駕籠{かご}へのせるを浦里{うらさと}は【里】「アレマア無体{むたい}な
コレかゝさんおまへもあんまりどうよくな。アヽモシ次郎さん
どうぞしよふはござんせぬか。」と。言をいはせず篠{しの}塚|婆
〳〵{ばゝば}支{さゝ}へ止{とゞめ}る時次郎を。とつて突退{つきの}け大|声{ごゑ}に「娘を盗{ぬす}んだ*「婆〳〵{ばゝば}」(ママ)
ばかりじやない。千葉家{ちばけ}の重宝{ちやうほう}菅家{かんけ}の一軸{いちぢく}とかいふ
宝物{たからもの}。春日屋{かずがや}で紛失{ふんじつ}した。大|略{かた}これも。時次郎が仕{し}業
であらふと。出入{でいり}屋|敷{しき}の厳{きび}しひ御詮義{ごせんぎ}。つゐでに在
家{ありか}を訴人{そにん}の御{ご}ほうび。ヨツポド運{うん}が直て来{き}た。駕籠{かご}の
$(11ウ)
衆{しゆ}しつかりたのみます。」
と。お里{さと}をねぢ込{こむ}駕籠{かご}
のうち。いとま乞{ごひ}さへ涙{なみだ}の
の雨{あめ}。しのつく〔ごと〕きよこ*「涙{なみだ}のの」の「の」は衍字
しぶき。横紙{よこがみ}やぶりの
我{が}|むしや{#無者}婆〻{ばゝ}。裳裾{もすそ}
をかゞげて高{たか}ばしより。
駕籠{かご}に引{ひつ}そふ田畝道{たんぼみち}。
$(12オ)
蹴{け}あぐる泥{どろ}の飛
花{ひくは}。落葉{らくよふ}。小田{をだ}の。
蛙{かはず}も音{ね}をなかぬ。
まだ春{はる}わかき。
迎{むか}ひじま。なを
ふりしきる雨{あめ}
のあし。津田堤{つだつゝみ}へ
と。はせさりける。
$(12ウ)
$(13オ)
浦里
〈画中〉〓*〓は「ひとやね+当」
(13ウ)
右{みぎ}浦里{うらざと}が船中{せんちう}に落入{おちいり}候|絵{ゑ}の説{わけ}は第七回目{だいしちくわいめ}にしるし
御覧{こらん}ニ入候。児女{じぢよ}たち本文{ほんもん}になきをあやしみ給ふな。
|昔唄芳原大全{はやりこうたよしはらたいぜん} 完五冊 南仙笑楚満人作。
[小糸佐七]|〓紫房糸{あげまきむすびゆかりのふさいと} 全三冊 [そま人さく うた川国直画]。*〓は総角結びの絵
[花暦]八笑人第二編 隅田川の花筏{はないかだ} 全二冊 [滝亭鯉丈作 渓斎英泉画]。
[大山道中]|栗毛後駿足{くりげのしりうま}第三編二冊 [りう亭鯉丈さく うた川国直画]。
右の絵草紙諸所より出板いたし候。
(14オ)
第四回{だいしくわい}
武蔵{むさし}とは武器{ぶき}の納{おさ}まる名{な}にしあふ。諸国{しよこく}の武家{ぶけ}の集{あつま}リて。
建続{たてつゞき}たる居屋鋪{ゐやしき}へ。出入{でい}る職人{しよくにん}諸商人{しよあきうど}|連レ{つれ}て町売卸店{まち〳〵おろしたな}。*「諸商人{しよあきうど}」の「うど」は一部欠損
軒{のき}をならべし四里四方{よりよほう}。黄金{こがね}散{ちり}しく繁花{はんくわ}の土地{とち}。水{みづ}に
合{あい}たる江戸前{ゑどまへ}の。大蒲焼{おほかばやき}と鐘木屋{しゆもくや}が。筆勢{ひつい}を見世{みせ}の腰
障子{こししやうじ}。さらりとあけて【全六】「ヲイあまり大{おほ}きうない所{ところ}を早{はや}く
頼{たのみ}ます。サア儀七様{ぎしちさま}二階{にかい}にしませう。」【女ぼうおすじ】「ヲヤ全六{ぜんろく}さん
是{これ}はおそろいで。マアお二階{にかい}へ。コレおくしや。サアお多葉粉
(14ウ)
盆{たばこぼん}。」【全】「今日{けう}は炭{すみ}の銭{ぜに}別{べつ}に出{だ}スからきへぬ火{ひ}を頼{たのみ}ます。」
【すじ】「またそんなわる口{くち}斗{ばか}り。」【下女おくし】「よふいらつしやりました。ヘイこち
らへいらつしやいまし。」ト。先{さき}へ立{たち}二階{にかい}へ上{あが}ル。【全】「|あつちや{#彼方}の|すま
ほ{#角ノ方}がよかろ。此{この}つい|立テ{たて}をこふやつてよし〳〵是{これ}でお客{きやく}の
差合{さしあい}なしじや。」【くし】「御酒{こしゆ}にいたしませうか。御膳{ごぜん}に。」【全】「両方{りやうほう}
両方{りやうほう}。コレ一ト雨{ひとあめ}〳〵にうつくしうなるそよ。ヱヽうまそふな
尻{しり}ナア。」【くし】「アレモウいとうござります。全六{ぜんろく}さんのうれしがらせ
も久{ひさ}しいものサ。」トいゝ捨{すて}階子{はしご}ヲおりて行{いく}。【全六】「爰{こゝ}の内{うち}は
(15オ)
下女{げじよ}までが江戸前{ゑどまへ}でけつかる。ハヽヽヽヽ。」【義七】「時{とき}に全六{ぜんろく}さん
お噺{はなし}といふは。」【全】「マア〳〵ゑゝわいノ。今日{けふ}は|帳合イ{てうあい}も日間{ひま}
じやによつて。ちよつぴり命{いのち}のせんたくじや。コレおまへ
此{この}比{ごろ}は何{なん}じややら。いろつやもようなひし。そして
兎{と}に角{かく}ふさぐ様子{やうす}じや。おてるさんのやうにわづろう
てはならぬぞや。おまへなんと思{おも}ふてかしらん。若
旦那{わかだんな}が勘当{かんどう}となつたりや。差詰{さしつめ}跡目{あとめ}はだれじやろふ
と思ひなさる。天{てん}にも地{ち}にもかけ替{がへ}のなひ。時次郎{ときじらう}さん
(15ウ)
を久離{きうり}切{き}りや。血筋{ちすじ}といふたらおまへ斗{ばか}りじや。げんざい
お|ゑ{#家}さんの甥{おい}じやもの。居跡{ゐせき}にしたとて一家{いつけ}|一チ門{いちもん}
シヤツとも云人{いゝて}はないぞへ。其{その}マア大切{たいせつ}ない身{み}を持{もち}ながら
ぐつ〳〵として煩{わつろう}てよいものか。チト折〻{をり〳〵}|おなぎ{#鰻}でも|くて{#喰}
げん気{き}|付ケ{つけ}なはれ。ハテ蚊七等{かしちら}がやうに小{こ}ばしけにはし
ける奴{やつ}なりやわしやこないには。よふいわん。おまへは又{また}あん
まり律儀{りちぎ}過{すぎ}るじや。イヤ本誠{ほんま}に今{いま}大切{たいせつ}な身{み}じやぞへ。」
【儀七】「ハイ〳〵有{あり}がたうござります。そのやうに深切{しんせつ}にいつて
(16オ)
下{くだ}さるゆへ有様{ありやう}に申{まうし}ませうが。此{この}せつ私{わたくし}が心労{しんろう}ト申{まうす}は
おまへのすいりやうの通{とほ}り。若旦那{わかだんな}の|帳付キ{てふつき}の日{ひ}叔
母{おば}のいふには是{これ}から所帯{しよたい}はおのしのもの。|少シ{すこし}ほとぼりが
抜{ぬけ}たならちつとも早{はや}く居跡弘{ゐせきひろめ}をし。おてるもそなた
の女房{にようぼう}になるはいやだといふならば是も同{おな}しく追出{おいだ}シて。
おれにもおぬしも気{き}に|入ツ{いつ}たりつぱな嫁{よめ}を|取ツ{とつ}て
遣{や}ると。」【全】「ヲツト皆{みな}までのたまうな。わしも春日屋{かすがや}の支配
人{しはいにん}。気{き}がつかいでよいものか。じやによつて大切{たいせつ}な身{み}じや
(16ウ)
ないかいな。」ト[はなしのうち蒲焼{かはやき}酒飯{さけめし}も出{いで}始終{しじゆう}喰{くい}のみしながら]【義七】「モシ全六{ぜんろく}さんモウ是{これ}からは
わしが身{み}を引{ひく}より外{ほか}に思案{しあん}はない。」【全】「ヤヽナゼニ〳〵。」【義】「マア
考{かんが}へともごろうじろ。現在{げんざい}わたしが叔母{おば}なれど。あんまり
心{こゝろ}がはづかしい。なさぬ中{なか}の時次郎{ときじろう}さんを追出{おひた}して。
甥{おい}のわたしへ家{か}とくさせそれで世間{せけん}が済{すみ}ませうか。大
事{だいじ}の叔母{おば}がわし故{ゆへ}に後脂{うしろゆび}さゝれると思{おも}へばなんのあの*「後脂{うしろゆび}」(ママ)
家{いへ}に。ちつとものぞみはござりませぬ。たゞわたくしの願{ねがひ}
には。若旦那{わかだんな}の勘当{かんどう}も元{もと}はといへば女郎買{ぢようろかい}。連{つれ}て逃{にげ}たは
(17オ)
あやまりなれど。是{これ}とても売物買物{うりものかいもの}。身{み}の代{しろ}さへつく
のへば唯{たれ}はゞからぬこつちのもの。其{その}女{おんな}を|手{て}かけ{#妾}におき。
とつくり御{ご}いけん申{まうし}たなら。アノはつめいな若旦那{わかだんな}。身
持{みもち}の直{なを}るはぜうのもの。お照{てる}さんの御病気{ごびようき}も若旦那{わかだんな}
の勘当{かんどう}から。御帰参{ごきさん}さへかなうなら。御本腹{ごほんぷく}はしれた
事{〔こと〕}。りんきねたみの心{こゝろ}のあるおてるさんでもござりませぬ。
さすれば叔母{おば}が悪念{あくねん}も。わたくしが身{み}を引{ひく}上{うへ}は。さらりと
消{きへ}て八方{はつぽう}が。丸{まる}く納{おさ}まるその手段{しゆだん}は五拾{ごぢう}か百{ひやく}の端金{はしたがね}。
(17ウ)
。モシわづかの臨時{りんし}があつたとてひづみも見{み}へぬアノしんせう。
わたしは翌日{あす}にも身{み}を引{ひく}もの。どふぞおまへの御工風{ごくふう}で
若旦那{わかだんな}の御帰参{ごきさん}を偏{ひとへ}におたのみ申{まうし}ます。」ト。聞{きひ}て暫{しばら}く
全六{ぜんろく}はもくねんとして居{ゐ}たりしが。はづんでポント打{うつ}横手{よこて}
うつて替{か}へたるもくさんに。猶{なほ}|一ト{ひと}しほの深切顔{しんせつがほ}【全】「ヤモお
まへの心{こゝろ}いき聞{きひ}て。さすがのわしも我{が}が折{を}れた。自他{われひと}主
人{しゆじん}は大切{たいせつ}と。思{おも}ふは知{し}れて有{あ}るけれど。我{わ}が身{み}捨{すて}ての
深切{しんせつ}は。コレヤお出入{でいり}がたの御用{ごよう}から小僧{こざう}どもの寝小便{ねしようべん}迄{まで}
(18オ)
引受{ひきうけ}て居{ゐ}る支配人{しはいにん}。此{この}全六{ぜんろく}も及{およ}ばぬ〳〵。トヽモかんしん
しました。成程{なるほど}おまへのいわんす通{とほ}り斗{はか}らひましよ。して
又{また}おまへの家出{いへで}も留{とめ}はせん。じやトいふておまへの身分{みぶん}。つき
たほしにや|よふ{#中〻}しません。随分{ずいぶん}たち行{ゆき}の|でけ{#出来}る様{よう}に仕
様{しよう}があります。トいふわけはマアこうじや。明日{あす}お前{まへ}に|一ト
包{ひとつゝみ}わたしますは。マヽなんじやろとウントいゝなはれ。そこで
おまへは其{その}金{かね}を持{もつ}て欠落{かけおち}じや。マヽ聞{きゝ}なはれや。今{いま}まで
お前{まへ}にもかくして有{あ}るが。若旦那{わかだんな}の有家{ありか}といふは上総{かづさ}の
$(18ウ)
全六
$(19オ)
〈画中〉大蒲焼
〈画中〉■里発行
〈画中〉大吉利市
(19ウ)
五井{ごゐ}。お照{てる}さんの里{さと}じや。是{これ}へおまへ尋{たづね}てござるじや。そリヤ
所書{ところがき}はくわしうして上{あげ}るは。そこで若旦那{わかだんな}におめに掛{かゝ}リ
まづ五十金{ごじつきん}おわたし申{まうし}彼{か}の傾城{けいせい}どのゝ身受{みうけ}するじや。
のこりはおまへが浪人中{らうにんぢう}のまかないじや。さて又{また}こつちは
そ知{し}らぬ顔{かほ}で勘当{かんだう}のわび。尻{しり}みやもない若旦那{わかだんな}と
なつた日{ひ}にや。モウうんぜうもさしやつたで有{あら}うと。わび
さへかなつて帰参{きさん}がすめばそれからがおまへの身{み}の上{うへ}。
一{い}ツたんふとゞきと思{おも}われたも若旦那{わかだんな}から。金{かね}のしまつ
(20オ)
委{くは}しくお侘{わび}してもらへば。おまへの今{いま}の深切{しんせつ}が其{その}時{とき}パツト
わかるでないか。夫{それ}までおまへが悪人{あくにん}になつてもらはにや。
なさけない其{その}金{かね}の出処{でどころ}がないじや。といふて旦那{だんな}から
出{だ}して貰{もら}ふといふ事{〔こと〕}には。しつての通{とほ}りの訳{わけ}じやもの。めん
鶏{どり}すゝめて雄鶏{をんどり}も時次郎{ときじらう}が事{〔こと〕}とては四文{しもん}もならぬ
と。いふはひつじやう。昔{むかし}から貞女{ていじよ}を捨{すて}て貞女{ていじよ}をたて。忠
儀{ちうぎ}をすてゝ忠儀{ちうぎ}をたてし。ためしは源平盛衰記{げんぺいせいすいき}に。」【義】「全
六{ぜんろく}さん呑込{のみこみ}ました。長田{おさだ}におさ〳〵おとるとも叔母{おば}へ孝行{かう〳〵}
(20ウ)
主人{しゆじん}へ忠義{ちうぎ}。|二タ道{ふたみち}かけた儀七{ぎしち}が義心{ぎしん}鬼{おに}とも蛇{じや}ともなり
ませう。」【全】「かんしんじや〳〵。そんなら翌日{あす}の朝飯{あさめし}過{すぎ}。こつそり
〓{テキ}をわたしますは。それから彼{か}の一軸{いちゝく}の事{〔こと〕}に付{つき}心当{こゝろあた}リが*〓は小判の絵
ありますゆえ聞合{きゝかはせ}にやりますと。工合{ぐあい}よふ内方{うちかた}を出{だ}す
工面{くめん}じや。ヱヽカそこでまた其{その}形{な}リで旅{たび}は|でけぬ{#不出来}さかい
わしが入魂{じゆこん}が地獄谷{ぢごくだに}に。篠塚{しのづか}はゞといふて取揚{とりあげ}が有{あ}る
じや。手紙{てがみ}そへてやるさかい其{その}日{ひ}はそこに落付{おちつひ}てすつぱり
仕度{したく}拵{こしらへ}て|あさつて{#明後日}の朝{あさ}|ほのくらい{#未明}に出立{しゆつたつ}じや。跡{あと}はわしが
(21オ)
呑込{のみこん}でおるさかい。|夜明ケ{よあけ}てからさわぎ出{だ}シ追手{おつて}かける
も方角{ほうがく}ちがい。ヱヽカじやによつて随{ずい}ぶん心{こゝろ}しづかに
コレ欠落{かけおち}じやのふてそろ〳〵と歩行落{あゆみおち}じや。ハヽヽヽヽヽヽ。」
【義】「のみこみました。そんならわたしやア全{ぜん}さん。こふして
居{ゐ}るも疵{きづ}持{もつ}足{あし}。ちつとも早{はや}く帰{かへ}りませう。」【全】「なるほど
それもそうかひノ。わしも跡{あと}からすぐと行{ゆき}ます。」【義】「そん
ならいよ〳〵翌日{あす}の朝{あさ}。地獄谷{ぢごくだに}の手紙{てがみ}まで。かならず。」
【全】「ハアテよふごぜへスア。高麗屋{かうらいや}でけつかる。ハヽヽヽヽ。」ト。高笑{たかわら}ひ。
(21ウ)
儀七{ぎしち}はいそぎ帰{かへ}リ行{ゆく}。跡{あと}見{み}おくりて全六{ぜんろく}が。思{おも}わず
長{なが}く出{だ}す舌{した}は。下{くだ}リ敵{かたき}と知{し}られけり。【全】「イヤホンニ先達{さきだつ}て時次
郎{ときじらう}めに|くらは{#喰}そうと。うゐ事{〔こと〕}で手{て}に入{い}れた此{この}毒薬{どくやく}。
それにもおよばずきやつめは勘当{かんだう}。これから邪广{じやま}は
儀七{ぎしち}めゆへ。今日{けう}くらわせて片付{かたづけ}うと。思{おも}ふに違{たがひ}し
義七{ぎしち}が心底{しんてい}。これも同{おな}じく自滅{じめつ}の心{こゝろ}。する〔こと〕なす事{〔こと〕}
思{をも}ふまゝ。あんまり手段{しゆだん}がむま過{すぎ}て。よくの上{う}はぬり。
百両{ひやくりやう}の。金{かね}を|持タ{もた}せて欠落{かけおち}させ。篠塚{しのづか}ばゝにのみ
(22オ)
こませ。時{とき}をちがへて夜深{よふけ}にたゝせ。おれも儀七{ぎしち}が追
手{おつて}といゝ|立テ{たて}。其{その}刻{ころ}内{うち}から出合{であい}がしら。婆{ばゝ}アが|中カ間{なかま}
の悪物{わるもの}と調子{てふし}合{あわ}せてばつさりと。やつて百両{ひやくりやう}〆{しめ}こ
の兎{うさぎ}。五十両{ごじうりやう}づヽ山{やま}わけに首尾{しゆび}よくいつた祝酒{いわいざけ}。もつれ
がゝりのねぢ上戸{じやうご}|一ト捻{ひとひね}りづヽこの毒薬{どくやく}。今{いま}迄{ゝで}
ためした犬{いぬ}ねこの。よふにぐる〳〵二三|返{べん}。廻{まは}るどく
気{き}は婆{ばゝ}アまで。まくらならべてこの世{よ}のいとま。
あとで後ロ{うしろ}の見{み}られぬ工風{くふう}。そのうへ金{かね}は巻{まき}もどし。
(22ウ)
丸{まる}くまとまる百両{ひやくりやう}は。フンコウト。マヽそりや何{なん}に遣{つか}ふて
も。てうほうなやつじや。ヘヽそれはさて置{おき}サ爰{こゝ}に
又{また}サ。春日屋{かすがや}のしんだいは。時次郎{ときじらう}といゝ儀七{きしち}まで
血筋{ちすじ}の|種切レ{たねぎれ}した上{うへ}は。千葉家{ちばけ}の預{あづが}リ菅家{くわんけ}の
一軸{いちゞく}ふんじつしたも由{よし}兵へが老衰{ろうすい}ゆへといゝ立{たて}て。千
葉家{ちばけ}の荒川{あらかは}淵右衛門{ふちゑもん}と調子{てふし}ヲ合{あわせ}。旦那{だんな}は押込{おしこめ}
無理隠居{むりいんきよ}。てつぺん付{づけ}に家{か}とくは全六{ぜんろく}。ヘヽ本腹{ほんふく}次第{しだい}
お照{てる}と祝言{しうげん}。フヽ大望成就{たいもうじやうじゆ}またゝくうち。」ト。我{われ}を
(23オ)
失念{わすれ}て手拍子{てびやうし}を。奇妙{きみやう}。奇妙{きみやう}と|打ツ{うつ}音{おと}に。「アイ。」
と下女{げじよ}が返言{へんじ}さへ心{こゝろ}爰{こゝ}にあらざれば|聞ケ{きけ}どもきこへ
ず独{ひと}リ言{〔ごと〕}。「イヨ春日屋{かすがや}の若旦那{わかだんな}。ヘヽ。|味イ{うまい}。|味イ{うまい}。」
[トうなづく。うしろいつのまにかは。下女おくし]「モシ其{その}様{よう}においしいかへ。」【全】「ヱヽ。」トびつくり
振返{ふりかへ}り。「アヽ能{いゝ}魚{うを}をつかうナア。」〓{チヨン}。*〓は拍子木の絵
廻{まは}る舞台{ぶたい}は正面{しやうめん}三間{さんげん}。かざりつけは三{さん}の巻{まき}に|記ス{しるす}。
これより五回目{ごくわいめ}春日屋{かすがや}の段{だん}はじまり。
明烏{あけがらす}後正夢{のちのまさゆめ}二の巻尾
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底本:東京大学文学部国語研究室蔵本(4L:95:1)
翻字担当者:洪晟準、梁誠允、島田遼、矢澤由紀、銭谷真人
更新履歴:
2017年7月26日公開