日本語史研究用テキストデータ集

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春色梅児与美しゅんしょくうめごよみ

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巻六

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春色梅児与美 巻六

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凡例
1.本文の行移りは原本にしたがった。
2.頁移りは、その丁の表および裏の冒頭において、丁数・表裏を括弧書きで示した。また、挿絵の丁には$を付した。
3.仮名は現行の平仮名・片仮名を用いた。
4.仮名のうち、平仮名・片仮名の区別の困難なものは、現行の平仮名に統一した。ただし、形容詞・副詞・感動詞・終助詞・促音・撥音・長音・引用のト等に用いられる片仮名については、原表記で示した場合がある。 〔例〕安イ、モシ、「ハイそれは」ト、意気だヨ、面白くツて、死ンで、それじやア
5.漢字は現行の字体によることを原則としたが、次のものについては原表記に近似の字体を用い、区別した。「云/言」「开/其」「㒵/貌」「匕/匙」「吊/弔」「咡/囁」「哥/歌」「壳/殻」「帒/袋」「无/無」「楳/梅」「皈/帰」「艸/草」「計/斗」「弐/二」「餘/余」
6.繰り返し符号は次のように統一した。ただし、漢字1文字の繰り返しは原本の表記にしたがい、「〻」と「々」を区別して示した。
 平仮名1文字の繰り返し 〔例〕またゝく、たゞ
 片仮名1文字の繰り返し 〔例〕アヽ
 複数文字の繰り返し 〔例〕つら〳〵、ひと〴〵
7.「さ」「つ」「ツ」に付く半濁点符は「さ゜」「つ゜」「ツ゜」として示した。
8.Unicodeで表現できない文字は〓を用いた。
9.句点は原本の位置に付すことを原則としたが、文末に補った場合がある。
10.合字は〔 〕で囲んで示した。 〔例〕殊{〔こと〕}に、なに〔ごと〕、かねて〔より〕
11.傍記・振り仮名は{ }で囲んで示した。 〔例〕人生{じんせい}
12.左側の傍記・振り仮名の場合は、冒頭に#を付けた。 〔例〕めへにち{#毎日}
13.傍記・振り仮名が付く位置の紛らわしい場合、文字列の始まりに|を付けた。 〔例〕十六|歳{さい}
14.原本に会話を示す鉤括弧が付いていない場合も、これを補い示した。また庵点は〽で示した。
15.原本にある話者名は【 】で示した。 〔例〕【はる】
16.割注・角書および長音符「引」「合」は[ ]で囲んで示した。
17.不明字は■で示した。
18.原本の表記に関する注記は*で行末に記入した。 〔例〕〓{たど}りて*〓は「漂+りっとう」
19.花押は〈花押〉、印は〈印〉として示した。
20.画中文字の開始位置に〈画中〉、広告の開始位置に〈広告〉と記入した。

本文の修正
1.翻字本文を修正した場合には、修正履歴を末尾に示す。
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(1オ)
春色{しゆんしよく}梅児誉美{うめごよみ}巻の六
江戸 狂訓亭主人作
第十一齣
鳥{とり}一羽{いちは}濡{ぬれ}て出{いで}けり朝桜{あさゞくら}露{つゆ}を含{ふくみ}し此糸{このいと}は客{きやく}をおくり
て朝{あさ}まだき霧屋{きりや}が家{いへ}にやすらひし表二階{おもてにかい}の迎酒{むかいざけ}とり
ちらしたる皿{さら}小鉢{さはち}下{した}へ持{もち}ゆくその跡{あと}にかの婦多川{ふたがは}の米
八{よねはち}が心{こゝろ}に思はぬ恋衣{こひごろも}恩{おん}に着{き}せるにあらねども胸{むね}にあた
つて此糸{このいと}が【この】「モシヱ米八{よねはち}さん知{し}つての通{とふ}り私{わちき}が自{じ}まんで

(1ウ)
愚智{ぐち}やいやみは願{ぐはん}がけをしたよりひどい禁物{きんもつ}と心{こゝろ}に誓{ちかつ}
ておりイしたがマアあんまりじやアありイすめへか。そりやア成{なる}
ほど藤{とう}さんは男心{をとこごゝろ}のいたづらに何{なん}とか言{いひ}もなんしたらうが
譬{たとへ}どういふわけにしろ私{わちき}がおまへに達引{たてひき}でこれまでに
した信切{しんせつ}を斯{こう}いふしぎになりイしてはあんまりじやア有{あり}イ
せんか。」【よね】「おいらんヱそりやアモウ何{なん}と恨{うらみ}をおつしやりまし
ても少{すこ}しも無理{むり}とはぞんじません。今{いま}さら私{わちき}がどのやうに
申ても取拵{とりこしら}へた言訳{いひわけ}らしいと思し召{めし}でもありませう

(2オ)
けれどさら〳〵そうした訳{わけ}じやアありませんヨ。」【この】「ナニサそりやア
モウ初{はじ}めからして表{おもて}むき㒵{かほ}を踏{ふま}れる合点{がつてん}で世話{せわ}をして
上{あげ}ヱしたのが私{わちき}のあやまりでざますから。」【よね】「そふお言{いひ}なはい
ましては誠{ま〔こと〕}に私{わちき}が済{すみ}ません。実{じつ}に夕阝{ゆふべ}藤{とう}さんのお供{とも}をし
て爰{こゝ}まで参{まい}つて藤{とう}さんはおいらんの所{とこ}へお出{いで}だとは言{いは}
ずとしれた事でありますから内所{ないしよ}へ遠慮{ゑんりよ}な私{わちき}が身{み}。
おいらんヱは下{した}へ頼{たの}んで言伝{〔こと〕づて}を申て堀{ほり}
の舟宿{ふなやど}で延津賀{のぶつが}
さんに逢{あひ}まして浜{はま}の宿{しゆく}へ泊{とま}ツて今朝{けさ}藤{とう}さんのお迎{むか}ひ

(2ウ)
がてらおいらんにもお目{め}にかゝらうと思つてこゝへ参{まい}ツた
ら藤{とう}さんはゆふべ余所{よそ}へお出{いで}で今{いま}モウ帰{かへ}ツておしまひだ
といはれて私{わちき}もビツクラしてどうせうかと思つておりま
したんでございますものを。」【この】「そりやア茶屋衆{ちややし}となれあツた
日にやア何{なん}とでも言{いひ}なまし。」ト[すこしくやしきおもいれ涙ぐむ]【よね】「その恨{うらみ}は中{なか}〳〵に
無理{むり}とは思ひませんけれとまた私{わちき}が身{み}のくやしさは
どのやうだと思しめす。始{はじ}めは実{じつ}に藤{とう}さんのお影{かげ}で身儘{みまゝ}
に他所行{たしよいき}も遠慮{ゑんりよ}のないと丹{たん}さんを見繾{みづく}はおいらんおまへ

(3オ)
さんのいふにいはれぬ御信切{ごしんせつ}。その嬉{うれ}しさに引{ひき}かへてアノ
徃{いき}わたつた藤{とう}さんが女{をんな}にことを掻{かい}たやうに日〻{ひゞ}の座敷{ざしき}
を茶{ちや}や舟宿{ふなやど}宅{うち}はかはれどお客{きやく}は藤{とう}さん。尤{もつとも}あゝいふお方{かた}
だから義理{ぎり}と恩{おん}との二道{ふたみち}を情{なさけ}で塞{ふさ}ぐ恋{こひ}の責{せめ}。動{うご}きの
とれぬさし向{むか}ひ。手詰{てづめ}の出合{であい}をいろ〳〵と断{〔こと〕はり}いふも藤{とう}さん
へは吾{わが}まゝらしく思はれてもおいらんへの道{みち}をたて泣{ない}つ
口説{くどい}つ言{いひ}ぬければまた舟宿{ふなやど}の亭主{おぢ}さんや相衆{あいし}の芸者
衆{げいしやし}人伝{ひとづて}に手{て}をかへ品{しな}をかへながらモウ是{これ}ぎりて腹{はら}を立{たつ}て

(3ウ)
呼{よん}ではくれなさるめへと思ふ翌日{あくるひ}翌夜{あくるばん}勿体{もつたい}ないほど
信切{しんせつ}にいはれて看{み}てもツイちよつと返事{へんじ}の出来{でき}る訳{わけ}
ではなし。いつも私{わちき}が突{つき}かゝり愛相{あいそ}づかしの茶{ちや}
わんざけ
色気{いろけ}も恋{こひ}もさめはてる。ふて寝{ね}のようじで二度{にど}三度{さんど}
断{〔こと〕は}りいへば見廻{みまひ}に来{き}たと部{へ}やへまで心{こゝろ}づかひの土産物{みやげもの}
自{じ}まへ出居衆{でゐし}の私{わちき}だけ。抱{かゝ}への子供{こども}のまへもありすげ
なくすれば己惚{おのぼれ}が増長{ぞうてう}すると蔭言{かげ〔ごと〕}をいはれる胸{むね}の
くるしさも初{はじめ}をいへば丹{たん}さんの貧苦{ひんく}をみつぐおいらんの

(4オ)
情{なさけ}を仇{あだ}でかへすまい。どうぞすへ〴〵おいらんへ御恩{ごおん}がへしの
出来{でき}るやうと偸伽山{ゆがさん}への月参{つきまい}り。妙見{めうけん}さまへ千扁{せんべん}の
おだいもくいふその口{くち}で浮{うい}た調子{ちやうし}の騒唄{さはぎうた}を弾{ひい}ても
おいらんおまはんのお心{こゝろ}いきは日に幾{いく}たびいはない事
はありませんヨ。どふぞ今{いま}までのやうにひゐきにして
おくんなさいヨ。」ト[いひながらしんじつあらはすなみだの目もと]【この】「かんにんなんし
あやまりイした。まさかそうとは思つても此{この}頃{ごろ}さつぱり
藤{とう}さんの足{あし}は遠{とふ}し便{たよ}りはなし。うたがひイしたがそん

(4ウ)
ならばおめへに心{こゝろ}が移{うつゝ}たゆへ。ソリヤ藤{とう}さんの癖{くせ}ざんす。
諸事{しよじ}に如在{ぢよさい}のない人{ひと}ざますが風{ふ}と心{こゝろ}がうつるといふ
と其処{そこ}へ一図{いちづ}にこる気{き}になるのが藤{とう}さんの持{もち}まへ。夫{それ}
でおツすゆへ私{わちき}もマア。」ト言{いつ}て跡{あと}をいはず。思ふに此{この}
おいらん発明{はつめい}ゆへ藤{とう}兵への世話{せわ}にはなれどいまだ極
意{ごくい}のまぶとはせざるものか。【よね】「モシヱ。」ト[おいらの耳に口]【この糸】「ヲヤそふ
ざますか。それじやア半{はん}さんの事をかへ。」【よね】「アイサどうして
聞{きゝ}イしたか。」【この】「それざますからにくふざんすトはいへ手前{てまへ}

(5オ)
がつてゆへにつこり笑{わら}ふ。」【よね】「誠{ま〔こと〕}に小蜜{こみづ}な所{とこ}へ気{き}がつかツ
しやるからモウいけないと言{いつ}ちやア有{あり}ませんよ。あれで。」
【この】「あれでモウちつとおふやうだと惚{ほれ}なんすか。」【よね】「イヽヱ否{いや}で
ありますヨ。」トいふ折{おり}から此糸{このいと}が新造{しんぞう}いと花{はな}はいきせきと
二階{にかい}へ来{きた}り。何{なに}か紙{かみ}に書{かき}し物{もの}をいだし【花】「今{いま}お針{はり}さんがお
いらんにあげてくれろとよこしイした。」トみくじをいだす。
おいらんはうろたへて披{ひら}きながら【この】「ヲヤこりやアいつものとは
違{ちが}イスね。」【花】「妙見{めうけん}さんのざますとサ。」【よね】「ドレおみせなさい

$(5ウ)

$(6オ)

$(6ウ)
ヨ。」ト手{て}にとりて「ヲヤ二十|四番{よばん}でありますネ。」
〈画中〉二十四番
天天天人地
西有白虎霊{にしにびやくこのれいあり}
是{これ}即{すなはち}悪神{あくじんの}形{かたち}
家中{かちう}不安穏{あんおんならず}
万事{ばんじ}何{なにを}以{もつて}寧{やすからん}
にしの方{かた}にある人{ひと}があくにん
ならずとも身{み}のためにあし
き也
それについてかんなんをする
事あらん。おもひあきらめて
用心{ようじん}しつゝしむべし

【この糸】「ヲヤこゝから絵岸{ゑぎし}は何方{どつち}に当{あた}りイすネ。」【よネ】「てうど西{にし}*以下本文
にあたりますだらふ。」【花】「それじやア半{はん}さんがおいらんの

(7オ)
ために。」【この】「アレサしづかになんし。」【よね】「おいらんへ何{なん}ぞ此{この}節{せつ}苦
労{くらう}になさいます事が有{あり}ますのかへ。」【この】「ナニ今{いま}始{はじ}まつた
苦労{くらう}じやアありイせんが私{わちき}やアこんなおみくじは嫌{きら}ひ
ざます。今{いま}はたとへわるくツても末{すへ}には嬉{うれ}しいとか思ひが
とゞくとかなら楽{たのしみ}にもなりイすけれど何{なん}だか是{これ}じやア
わかりイせん。悪人{あくにん}ではなくツても身{み}のためにわるいと
いつてあきらめられるくらゐなら気{き}を揉{もむ}ものは有{あり}イ
せん。」【花】「そうざますからおみくじはおよしなましと申イ

(7ウ)
したに。」【よね】「おいらんヱ凶{きよ}は吉{きち}にかへると申ます。かならず
お気{き}におかけなさいますなヱ。」トいへどおいらん此糸{このいと}は胸{むね}
にあたりて思ひいる恋{こひ}の山路{やまぢ}やいばらの行手{ゆくで}浮川竹{うきかはたけ}のながれの身{み}。そも傾城{けいせい}の種{たね}といふて別{べつ}に蒔{まき}たる
畑{はた}もなし。みな親{おや}か兄弟{きやうだい}のために苦界{くがい}の年{ねん}のうち
色{いろ}を商{あきな}ひ色{いろ}をつゝしみ用心{ようじん}しても月{つき}と日の永{なが}い勤{つと}
めに短夜{みぢかよ}の鐘{かね}もかぞへて暁{あかつき}を待{まつ}夜{よ}もあればなが
き夜{よ}の鶏{とり}の音{こへ}恨{うら}む床{とこ}のうち九分{くぶ}のくるしみ一分{いちぶ}の

(8オ)
楽{たのし}みそれさへ男{をとこ}の気{き}によりて尽{つく}せし情{じやう}をあだに
するやからも多{おほ}くあるなれば哀{あは}れといふもおろか
なる。嗟{あゝ}傾城{けいせい}に実{ま〔こと〕}なしとは板橋{はんきやう}雑記{ざつき}の情{じやう}にわた
らず。女郎{ぢよろう}の終身{しうしん}はとりきまらずしてたとへ三十才{みそぢ}
の上{うへ}はこすともたゞあどけなく花{はな}やかにわけのない
のが花{はな}にして折〻{おり〳〵}の風情{ふぜい}あるが真{しん}の契情{けいせい}のこゝろに
して素人{しろうと}の操{みさほ}を守{まも}ると日を同{おな}じふしていふべからず。
必竟{ひつきやう}このすへ此糸{このいと}が憂身{うきみ}の果{はて}はいかならん。そは第

(8ウ)
三編{だいさんへん}のはじめに解{とく}べし。
看官{みるひと}藤兵衛{とうべゑ}此糸{このいと}が事によりていまだ批評{ひへう}
をする〔こと〕なかれ。作者{さくしや}胸中{きやうちう}に奇境{きゝやう}をまうけ
てまさりおとらぬ気〻{きゞ}をならべ「米八{よねはち}「お蝶{てう}「此糸{このいと}が実情{じつぜう}を三幅対{さんふくつい}としいさゝか新奇{しんき}の手
段{しゆだん}あり。発市{はつし}の日をまたせ給へとねがふのみ。
第十二齣
八重{やゑ}といふ工手間{くでま}に遅{おそ}し梅{うめ}の花{はな}ひらくる時{とき}はあり

(9オ)
ながらまだ春風{はるかぜ}のさそはずや。お長{てう}はこひのはつごゝろ
知{し}つてかなしき今日{けふ}の身{み}はかの丹次郎{たんじらう}がために
と奉公{ほうこう}に出{いで}御屋敷{おんやしき}へ召{めさ}るゝ浄瑠理語{ぢやうるりかたり}となり其{その}名{な}も
竹蝶吉{たけてうきち}と呼{よび}かへて月待{つきまち}日待{ひまち}に招{まね}かるゝ娘{むすめ}の浄{ぢやう}
るり多{おほ}きなかそも宮芝万{みやしば}が丹誠{たんせい}に仕{し}あげし
芸{げい}の間{ま}ほどよく延{のび}た嶋田{しまだ}の黒髪{くろかみ}をきつて男{をとこ}に
対情{しんぢう}が今{いま}幸{さい}わいな若衆髷{わかしゆまげ}化粧{みじまい}をした美{うつく}しさ。
二階{にかい}の窓{まど}にたゞひとり今宵{こよひ}よばれしお客{きやく}の好{このみ}

(9ウ)
出{で}もの浚{さら}ふて一心{いつしん}に
上るり〽
ナヲ〳〵姉様わしは切れいでも死ねば成ラぬ事が有ヤア
そりやなぜにさればいの此中きた時だん〳〵の咄し。や
るせも金故ひんゆへと聞たときの其かなしさど
ふぞと思ふ心からわしや此金はぬすんできたの
じやはいの。くるとしんじよと思ふたが親方の物ちり
一ツ本ンそまつにすなとの御ゐけん。どふもやらふとゑいはで

(10オ)
見せびらかしてゐました。たつた一人リの姉様何ぼ程かう
〳〵にしてもしあきはなけれど丁稚{でつち}の内はじゆうにな
らず。ぬすんでなりとくを助けあとでは直{すぐ}に身をなげ
てさいごはおばせの野中の井戸。わしやきしなにノ
死る所迄みてきたわいのとすがり付キしやくり
上ケたる有様に小梅は身も世もあらればこそ。其
やさしい心ざし聞ケば聞クほどなを悲しい。二タ親に別{わかれ}て
よりそなたもわしもなん行{ぎやう}く行。[わが躬にくらべかたりゐる]

(10ウ)
此{この}家{や}の主{あるじ}は老女{らうぢよ}にてお阿{くま}といへる毒婦{どくふ}なり。元{もと}は
お長{てう}が実{じつ}の親{おや}唐琴屋{から〔こと〕や}の二階{にかい}につとめし遣手{やりて}
なりしが強欲{ごうよく}非道{ひどう}の曲{くせ}ものにてわづかの金{かね}
より利{り}をかさね今{いま}はかまくら雪{ゆき}の下{した}寮坊{りやうぼう}まち
とかいへるに借宅{しやくたく}して音曲{おんぎよく}の子供{こども}をかゝへ渡世{とせい}
とせしが此{この}せつ其{その}者{もの}のたぐひみなそれ〳〵に暇{いとま}を
とりてこのお蝶{てう}を二十五|両{りよう}にてかゝへ諸家{しよけ}へ立{たち}
いらせて祝義{しうぎ}をもらはせ活業{なりわい}とはいたすなり

(11オ)
けり。[この金{かね}は丹{たん}次郎が方{かた}へおくりしとぞ]お長{てう}は以前{いぜん}つかひたるやり手{て}を
母{はゝ}とかしづきてその内証{ないせう}は主人{しゆじん}とおそれ朝夕{あさゆふ}
口{くち}ぎたなく呵{しか}らるゝ口惜{くちおし}さ。手詰{てづめ}の金{かね}とはいひ
ながら抱{かゝ}へらるゝおりからにそれぞと心{こゝろ}づかざりし
ゆへわが家{や}のやり手{て}としらずしてそのめしつかひ
同{どう}ぜんになりにし運{うん}の拙{つた}なさを日夜{にちや}に歎{なげ}く
もしのび泣{なき}あはれはかなき世{よ}の中{なか}なり。お阿老
女{くまばばア}はいかつがましく階子{はしご}の段{だん}をたゝきながら【くま】「コレサ

(11ウ)
〳〵蝶吉{てうきち}〳〵ヱヽイつんぼうめコウお蝶{てう}。」[やう〳〵きゝつけしよふすにて]
【長】「およびかへ。」【くま】「いゝかげんに空耳{そらみゝ}をはしらかせヱ
つんぼうめヱ。」【長】「ヲヤさつぱり知{し}れましなんだは。」【くま】
「モウ九{こゝの}ツが鳴{なつ}たアナ。いゝかげんにして支度{したく}をしねへ
か。馬鹿{ばか}〳〵しい。」【長】「それでも今日{けふ}の出{で}ものは私{わちき}
が語{かた}りつけねへものだからよく浚{さら}つて行{いか}ないと
こまるものヲ。」【くま】「ヱヽいはねへ事か口{くち}がかゝらねへ
でゐるときはさらへ〳〵といふのにうち〴〵して

(12オ)
居{い}やアがつてお屋{や}しきへ出{で}るとか座{ざ}しきがある
とかいふと足元{あしもと}から鳥{とり}の立{たつ}たやうにさはぎやア
がらア。何{なん}でもおれを馬鹿{ばか}にしてゐるからだア。
仮{かり}にも親{おや}だぞ。あんまり口{くち}返答{へんとう}をしたりわが
儘{まゝ}がしたくはしてへやうに何{なに}もかもいわれねへ
さんだんをするがいゝ。どうで手{て}めへの芸{げい}ぐら
いで二十{にじう}の三十{さんじう}のといふ金{かね}の利合{りあい}もとれるものか。
それだから左文太{さぶんだ}さまが。」トいひかけてはしごを

(12ウ)
あがりお長{てう}が側{そば}にすはり【くま】「コウよく聞{きゝ}な。古鳥{ふるとり}
左文太{さぶんだ}さまは大{たい}そうに御内福{ごないふく}だといふ事は
万長{まんてう}でも聞{きい}たじやアねへか。そういふ金{かね}もちが世
話{せわ}をしてやらうといはツしやるのを今{いま}もつて返
事{へんじ}もせず。ヲヤなんだモウ泪{なみだ}ぐんで居{い}るのか。何{なに}が
かなしい。何{なに}がくやしいのだ。不吉{ふきつ}な。」【長】「イヽヱ今{いま}まで
浚{さら}つて居{ゐ}た長吉{てうきち}殺{ころ}しの所{とこ}があはれだからツイ
泪{なみだ}が出{で}たんであります。」【くま】「フウ[引]手{て}めへで語{かたつ}て

(13オ)
手{て}めへでかなしいのか。どふぞ聞人{きゝて}がその半{はん}ぶん
情{じやう}のうつるやうならいゝが広場{ひろば}へ出{だ}して押{おし}あは
したらだぐわしをくれる連{れん}も出来{でき}めへ。少{すこ}し
小長{こなが}くかたられたら聞人{きゝて}は欠{あく}びで涙{なみだ}だらう。
まだしも目鼻{めはな}だちがまんぞくで色{いろ}の白{しろ}い
がお仕{し}あはせ。それゆへ彼是{かれこれ}人{ひと}さまがたまにやア
言{いつ}てもくださるのだ。芸{げい}で立派{りつぱ}な身形{みなり}は出来{でき}
ねへとサ。かういふのもおめへの為{ため}だ。何{なん}の今{いま}どき

$(13ウ)
竹蝶吉{たけてうきち}御屋敷{おんやしき}へ
召さるゝ図

$(14オ)

(14ウ)
十人{じうにん}なみで旦那{だんな}の二人{ふたり}や三人{さんにん}ぐらいとらねへ
たわけがあるものか。」【長】「ずいぶんお客{きやく}を大切{たいせつ}に
勤{つと}めて浄璃理{ぢやうるり}を精{せい}出{だ}しませうがどふぞ旦那{だんな}
をとるの左文太{さぶんだ}さまのお世話{せわ}になるのといふ
事は堪忍{かんに}しておくんなさいヨ。」【くま】「いんにやそう
いやア此方{こつち}も意地{いぢ}だ。手{て}めへ勝手{がつて}を言{いは}しちやア
おかねへ。コレ浄{ぢやう}るりを語{かた}り候ウぐらゐで三十|両{りやう}
からの金{かね}を出{だ}すものがあらふと思ふか。まさかの時{とき}

(15オ)
の用心{ようじん}に受取{うけとつ}てある二枚{にまい}の証文{せうもん}。旦那{だんな}がいや
なら恋{こひ}が窪{くぼ}の郭{くるわ}へやつて年一{ねんいつ}ぱい生{うま}れ故
郷{こきやう}のなじみの中{なか}で苦界{くがい}をするも亦{また}よからう。
旦那{だんな}はいやだもふさ〳〵しい。」【女】「アレサ母{かゝ}さんモウ
よいわね。出{で}がけにおまへが小言{こごと}をおいひだと
気{き}にかゝつておざしきの機嫌{ぎげん}もとりにくいヨ。」【くま】
「口{くち}ごうしやな。とりにくゝは往{いか}ずといゝヨ。ヨウ小
言{こごと}をいふと済{すま}した㒵{かほ}で居{ゐ}るが大{おほ}かた其方{そつち}の腹{はら}

(15ウ)
の中{なか}ぢやア元{もと}主人{しゆじん}だといふ気{き}だらうがそりやア
なるほど六七|年{ねん}いぜんにたしか一|年{ねん}ほどよんど
ころなく頼{たの}まれて唐琴{から〔こと〕}やの女郎衆{ぢようろし}の世話{せわ}ア
して居{い}た時{とき}も有{あつ}たが何{なに}も奉公人{ほうこうにん}ときまつて
勤{つと}めて居{ゐ}やアしねへ゜ヨ。へゝ何{なに}すぎた昔{むかし}がこわい
ものか。」【長】「ナニ私{わちき}がそんな事を思つて居{ゐ}やアし
ませんヨ。」ト口{くち}にはいへど心{こゝろ}には無念{むねん}といふも
あまりあるお阿{くま}が雑言{ぞうごん}娘気{むすめぎ}に迫{せま}るなみだの

(16オ)
はら〳〵〳〵。折{おり}から表{おもて}の格子戸{かうしど}あけ武家{ぶけ}の使{つかひ}と
見へたる男{をとこ}「ハイチトおたのみ申ます。梶原{かぢはら}のやしき
から参{まい}りました。蝶吉{てうきち}さんの迎{むか}ひでござります。」【くま】「ハイ〳〵これはモウ大{おほ}きに御苦労{ごくらう}さま。サアヨ蝶吉{てうきち}
はやく支度{したく}をしねへか。マアお茶{ちや}でもあげませう。
今日{けふ}はお客{きやく}さまは大{おほ}ぜいでござりますか。」
【使】「ヱイお客{きやく}より芸者衆{げいしやしゆ}の方{ほう}が沢山{たくさん}でござり
ます。桜川{さくらがは}善好{ぜんこう}桜川{さくらがは}新好{しんこう}湯又{ゆまた}話家{はなしか}では

(16ウ)
竜調{りうてう}に柳橋{りうきやう}清元{きよもと}では志津太夫{しまたいふ}に寿女太
夫{すめたいふ}延津賀{のぶつが}踊{をど}りでは西川{にしがは}扇蔵{せんぞう}義太夫{ぎだいふ}は
此方{こつち}のお蝶{てう}さんに小{こ}でん。何{なん}でもマア大{おほ}さわぎ
さネ。」【くま】「ヲヤ〳〵そりやアマアおもしろからうね。」【使】「イヤ〳〵
まだあるはへ。おらが旦那{だんな}の御{ご}ひいきの婦多川{ふたがは}
の米八{よねはち}梅次{うめじ}。」トいふおりからお蝶{てう}はしたくして二階{にかい}
よりおりきたり。これを聞{きい}て【長】「ヲヤ米八{よねはち}さんとやら
もお出{いで}だとかへ。」【くま】「マアそんな事をきくより

(17オ)
わすれものでもねへやうにしろ。さやうならモシ
どうぞお願{ねが}ひ申ます。モウ〳〵余所{よそ}の子共{こども}と
違{ちが}つて気{き}が付{つか}ねへでこまり切{きり}ます。」【使】「ナニサおツ母{かア}そう
言{いひ}なさんな。娘{むすめ}子共{こども}のでき過{すぎ}たはわりい。おぼこな方{ほう}が
かわいらしくツてよふござります。サア参{まい}りやせうネ。」【長】「ハイ
いつて参{まい}ります。」【使】「ハイさやうなら。イヤどうで今日{けふ}は昼
夜{ちうや}になりますヨ。」【くま】「ヘイそれは有{あり}がたふ。お蝶{てう}気{き}をつけねへヨ。」
【長】「アイ」と出立{いでたつ}風俗{ふうぞく}は梅我{くめさ}にまさる愛敬㒵{あいけうがほ}上着{うはぎ}ははで

(17ウ)
な嶋七子{しまなゝこ}上羽{あげは}の蝶{てう}の菅縫紋{すがぬひもん}下着{したぎ}は鼠地紫{ねずみぢむらさき}に大{おほ}
きく染{そめ}し丁子菱{てうじびし}嬬伴{じゆばん}の衿{ゑり}は白綾{しらあや}に朱紅{しゆべに}で書画{しよぐわ}
の印{いん}づくし。袖{そで}は緋鹿子帯{ひがのこおび}はまた黒{くろ}びろうどに紅{ひ}の山{やま}まゆ
のくじら仕立{したて}しかも目{め}にたつ三升{さんしやう}格子{がうし}。〓〓〓{しくはんつなぎ}の腰帯{こしおび}は *〓〓〓は芝翫繋の模様の再現
おなんど白茶{しらちや}の金{きん}まうる。勿論{もちろん}巾{はゞ}は一寸三分|五分{ごぶ}でも透{すか}ぬ流
行{りうこう}に野郎{やらう}びんなる若衆髷{わかしゆわげ}。げに羨{うらやま}しき姿{すがた}なれどもお蝶{てう}が
身{み}にはつゞれにも劣{おと}る心{こゝろ}で楽{たのし}まぬ。是{これ}も浮世{うきよ}かまゝならぬ座
敷{ざしき}へこそは出{いで}にけれ。
春色{しゆんしよく}梅児誉美{うめごよみ}六了


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底本:国立国語研究所蔵本(W99/Ta81、1001142288)
翻字担当者:金美眞、洪晟準、成田みずき、銭谷真人
更新履歴:
2017年4月5日公開

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