日本語史研究用テキストデータ集

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春色梅児与美しゅんしょくうめごよみ

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巻五

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春色梅児与美 巻五

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凡例
1.本文の行移りは原本にしたがった。
2.頁移りは、その丁の表および裏の冒頭において、丁数・表裏を括弧書きで示した。また、挿絵の丁には$を付した。
3.仮名は現行の平仮名・片仮名を用いた。
4.仮名のうち、平仮名・片仮名の区別の困難なものは、現行の平仮名に統一した。ただし、形容詞・副詞・感動詞・終助詞・促音・撥音・長音・引用のト等に用いられる片仮名については、原表記で示した場合がある。 〔例〕安イ、モシ、「ハイそれは」ト、意気だヨ、面白くツて、死ンで、それじやア
5.漢字は現行の字体によることを原則としたが、次のものについては原表記に近似の字体を用い、区別した。「云/言」「开/其」「㒵/貌」「匕/匙」「吊/弔」「咡/囁」「哥/歌」「壳/殻」「帒/袋」「无/無」「楳/梅」「皈/帰」「艸/草」「計/斗」「弐/二」「餘/余」
6.繰り返し符号は次のように統一した。ただし、漢字1文字の繰り返しは原本の表記にしたがい、「〻」と「々」を区別して示した。
 平仮名1文字の繰り返し 〔例〕またゝく、たゞ
 片仮名1文字の繰り返し 〔例〕アヽ
 複数文字の繰り返し 〔例〕つら〳〵、ひと〴〵
7.「さ」「つ」「ツ」に付く半濁点符は「さ゜」「つ゜」「ツ゜」として示した。
8.Unicodeで表現できない文字は〓を用いた。
9.句点は原本の位置に付すことを原則としたが、文末に補った場合がある。
10.合字は〔 〕で囲んで示した。 〔例〕殊{〔こと〕}に、なに〔ごと〕、かねて〔より〕
11.傍記・振り仮名は{ }で囲んで示した。 〔例〕人生{じんせい}
12.左側の傍記・振り仮名の場合は、冒頭に#を付けた。 〔例〕めへにち{#毎日}
13.傍記・振り仮名が付く位置の紛らわしい場合、文字列の始まりに|を付けた。 〔例〕十六|歳{さい}
14.原本に会話を示す鉤括弧が付いていない場合も、これを補い示した。また庵点は〽で示した。
15.原本にある話者名は【 】で示した。 〔例〕【はる】
16.割注・角書および長音符「引」「合」は[ ]で囲んで示した。
17.不明字は■で示した。
18.原本の表記に関する注記は*で行末に記入した。 〔例〕〓{たど}りて*〓は「漂+りっとう」
19.花押は〈花押〉、印は〈印〉として示した。
20.画中文字の開始位置に〈画中〉、広告の開始位置に〈広告〉と記入した。

本文の修正
1.翻字本文を修正した場合には、修正履歴を末尾に示す。
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(1オ)
春色{しゆんしよく}梅児誉美{うめこよみ}巻の五
江戸 狂訓亭主人作
第九齣
ことゝはん心{こゝろ}とも見ぬ憂{うき}中{なか}にまさる恨{うらみ}をたへ忍{しの}びつゝそれ
にも似{に}たる心{こゝろ}かな。お長{てう}は独{ひとり}くよ〳〵と姉{あね}のお由{よし}が留守{るす}の
宿{やと}に思ひわびたる恋{こひ}の欲{よく}まゝにならねばなをさらに
恋慕{れんぼ}の情{ぜう}のいやまさる男{をとこ}のうへと米八{よねはち}が我形{わがまゝ}らしき
有形{ありさま}も元{もと}はといへば金{かね}ゆへにいはゞ古主{こしゆう}の此{この}身{み}までない

(1ウ)
がしろにするその風情{ふぜい}。また丹次郎{たんじらう}も米八{よねはち}が見継{みつぎ}に月日{つきひ}
を送{おく}るゆへいふにいはれぬ中{なか}ぞとは口{くち}に告{つげ}ねど心{こゝろ}には又{また}
捨{すて}られぬ時宜{しぎ}なりと思へばどうぞ其{その}身{み}より丹次郎{たんじらう}
を活業{みつぎ}たく思案{しあん}にくれたる門口{かどぐち}へ見なれぬ
若者{わかもの}二三人{にさんにん}
【三人】「アイごめんなせへ。ヲヤ姉{あね}さんは留守{るす}かへ。」【長】「ハイ今日{こんち}はチト遠
方{ゑんほう}へまいりまして在{をり}ませんが何{なん}ぞごようでございますか。」
【三人】「さよふサ外{ほか}でもないがこゝの姉御{あねご}は女達{をんなだて}でいろ〳〵人{ひと}の
世話{せわ}をしなさるがひよつと此{この}節{せつ}おたづね者{もの}の丹次郎{たんじらう}を

(2オ)
かくまつてあるもしれねへ尋{たづ}ねてこいと代官所{だいくはんしよ}から
厳{きび}しい御詮義{ごせんぎ}。たとへ此{この}宅{うち}におかねへでも何処{どこ}か近所{きんじよ}に
かくしておき姉御{あねご}が見継{みつぐ}に相違{さうい}ないと聞{きい}ておいらが捕手{とりて}
の役目{やくめ}。しかしおいら達{たち}がいひ付{つけ}られたはこゝの仕合{しあはせ}。たとへ
縄目{なはめ}におよんでも又{また}言{いひ}わけの仕{し}やうも有{ある}。ノウお娘{むす}姉{あね}さん
は留守{るす}でもおめへが丹{たん}さんの在家{ありか}をば知{し}つて居{ゐ}るだらうノ。」
【長】「イヱ〳〵どうして姉{あね}さんも私{わちき}もその様{やう}なお方{かた}は。」【三人】「ナニ知{し}らねへ
事があるものか。しかもおめへはその丹{たん}さんといひなづけて別{わかれ}

(2ウ)
れ〳〵になつたのが又{また}此{この}節{ごろ}途中{とちう}で出合{であつ}ていろ〳〵咄{はな}しを*「別{わかれ}れ」の「れ」は衍字
した事まで知{し}れてゐるぜ。」【長】「イヽヱどういたして。」【三人】「イヽヱどふ
して知{し}らねへと強諚{がうぢやう}いやア是非{ぜひ}がねへ。そのかはいらしいおめ
へでもしばつておいてもいはせるヨ。」【長】「それでも私{わちき}は。」【三人】「弥{いよ〳〵}
かくしやア斯{かう}すると三人{さんにん}一度{いちど}に立{たち}かゝりお長{てう}を引{ひき}すへこゑ
あらゝげ。」【三人】「ヤイこの女{あま}アふさ〳〵しい。そのうつくしいしやツ
面{つら}でまじ〳〵と虚{うそ}をぬかすか。サアはやく丹次{たんじ}がゆくゑ
いはねへと斯{かう}だぞ。」と雪{ゆき}より白{しろ}き手{て}をとらへ捻返{ねぢかへ}さ

(3オ)
れて口惜{くちおし}涙{なみだ}【長】「アアレどうぞ堪忍{かんに}して下{くだ}さいまし。」
【三人】「そんなら丹次郎{たんじらう}が在家{ありか}をいふか。」【長】「イヱ〳〵何{なん}と
おいひなさつても丹{たん}さんとやらの在家{ありか}はぞんじません。
アヽいた。どふぞおゆるしなさつてくださいまし。」【三人】「たとへほへ
面{づら}さらしても男{をとこ}の在家{ありか}をいはねへければかわいそうだが
手{て}めへも同罪{どうざい}。お役人{やくにん}さまがお出{いで}があればさぞこわからう
と思ふから情心{なさけごゝろ}でおいら達{たち}がやさしく聞{きけ}ば情{ぜう}強{こは}くしら
ぬといやアしかたがねへ。是{これ}からお代官{だいくはん}さまへ引{ひき}ずつて行{いつ}て

(3ウ)
おもいれ責{せめ}て白伏{はくぜう}させる。とはいふものゝ夫{それ}も金{かね}づく。丹
次郎{たんじらう}が落度{おちど}といふは畠山{はたけやま}さまの金{かね}の一|件{〔こと〕}。千五百|両{りやう}と
いふ大金{たいきん}ながらこゝで少{すこ}しも才覚{さいかく}すりやア日延{ひのべ}もでき
めへ物{もの}でもねへ。それが出来{でき}ねへ日になりやア丹次郎{たんじらう}は
衒{かたり}の頭人{とうにん}。しかし丹次郎{たんじらう}が身{み}を大切{たいせつ}に思つて金{かね}の工面{くめん}を
しよふといふ人{ひと}はめつ゜たに有{あり}もしめへ。イヤこんな事はいらざる
お世話{せわ}だ。サア〳〵しらざアしかたがねへ。お代官所{だいくはんしよ}で言{いひ}わけしや
れ。」と無斬{むざん}やお長{てう}をいましめて引立{ひきたて}んとする表{おもて}の方{かた}丹次

(4オ)
郎{たんじらう}に縄{なは}をかけ村{むら}の役人{やくにん}附{つき}そへば所{ところ}の目明{めあか}し二三人ンお由{よし}が
宅{うち}の容子{よふす}を見て【目】「ヲイ〳〵モウ頭人{とうにん}が此{この}通{とふ}りしれたから枝葉{えだは}
の者{もの}は追{おつ}ての御沙汰{ごさた}。その女{をんな}はマア宅{うち}へあづけてサア〳〵来{き}やれ。」
といふ声{こゑ}にお長{てう}は泪{なみだ}の目{め}をはらひ見れば哀{あは}れや丹次郎{たんじらう}
はわれさへ見{み}にくきいましめの縄{なは}もうらめし憂事{うき〔こと〕}の斯{かう}
重{かさ}なりて来{く}るものかと胸{むね}くるしくも恥{はづ}かしき㒵{かほ}さしいるゝ懐{ふところ}
の泪{なみだ}にしめる道{みち}もせやお長{てう}は思はずはしりいですがりなげ
くを押隔{おしへだて}【目】「これ〳〵姉{あね}へどうしたもんだ。とが人{にん}の側{そば}へづか

(4ウ)
〳〵。と寄{よつ}たらば己{おの}れも同罪{どうざい}。」と踏{ふみ}かへされて倒{たほ}るゝお長{てう}。その
間{ま}に村{むら}の人{ひと}〴〵は丹次郎{たんじらう}を引立{ひきたて}ゆく。お長{てう}はやう〳〵起{おき}あがり
【長】「アレマア待{まつ}ておくんなさいヨ[引]丹次郎{たんじらう}さん丹{たん}さアん[引]。」と声{こゑ}張{はり}
あげる一生懸命{いつせうけんめい}姉{あね}のお由{よし}が声{こゑ}として【由】「コレサ〳〵お長{てう}さんコレ
お長{てう}ぼうやこれさ夢{ゆめ}を見たのか目{め}を覚{さま}しな。たいそうひ
どくうなされる。ノウお長{てう}さんや。」と呼起{よびおこ}され目覚{めさめ}てみれば
一{ひと}ツ夜着{よぎ}。姉{あね}と添寝{そひね}の真夜中{まよなか}にて身{み}は冷汗{ひやあせ}の気味{きみ}わ
るさ。【長】「ヲヤ姉{ねへ}さん堪忍{かんに}してくださいまし。大{おほ}きな声{こゑ}でも

(5オ)
しましたかへ。」【由】「アヽ大{おほ}きな声{こゑ}で丹次郎{たんじらう}さん丹{たん}さアん[引]
と二度{にど}ばかりいふので私{わたし}も目{め}がさめたヨ。」【長】「ヱヽ。」ト[びつくりはづかしく]
「ヲヤおかしい虚{うそ}ばつかり。」と口{くち}にはいへど胸{むな}さはぎ動気{どうき}は未{いま}だ
おさまらず。【由】「ナニおかしいわけもないはネへ。ふしぎな縁{えん}で兄
弟{きやうだい}となつて斯{かう}して一ツ寝{ひとつね}もわたしは誠{ま〔こと〕}の妹{いもふと}だと思へば朝
夕{あさゆふ}遠慮{ゑんりよ}せず無理{むり}を言{いつ}たりわが儘{まゝ}もおまへに隔{へだ}てぬ心{こゝろ}
から。それにおまへは隠{かく}しだて。ナゼうちあけては咄{はな}さぬのだへ。」
【長】「ヲヤ何{なに}をへ。」【由】「何{なに}をとは恨{うら}みだよ。今{いま}おまへが寝言{ね〔ごと〕}に言{いつ}た

$(5ウ)
およし
お長

$(6オ)
春亭南鶯
春雨に
つばさ
しほるゝ
蝶の


(6ウ)
丹{たん}さんとは中{なか}の郷{ごう}に当時{とうじ}日影{ひかげ}の身{み}のうへで幽{かすか}にくらす
侘居{わびずまゐ}。それも女{をんな}の仕送{しおく}りではかない容子{よふす}。その中{なか}でまた此{この}
頃{ごろ}はまとまつた金{かね}がなければ畠山{はたけやま}の宝{たから}の一|件{〔こと〕}でむづか
しいわけになるとの事だそうだ。いらぬお世話{せわ}のやうなれ
ど人{ひと}の難義{なんぎ}を身{み}にかへて助{たすけ}たいのが私{わたし}の心願{しんぐはん}。とはいふ
ものゝ金{かね}づくは思ふに任{まか}せぬ浮世{うきよ}の常{つね}。わたしはとうから
知{し}つて居{い}る。他{よそ}の事とは思はれまい。その丹{たん}さんのさしかゝる
苦労{くらう}をすくふが操{みさほ}とやら心{こゝろ}の誠{ま〔こと〕}の顕{あら}はし所{どころ}。おまへも

(7オ)
思案{しあん}のつけどきじやアないかねへ。」ト[いはれてお長はおろ〳〵なみだ]【長】「わたしは
しらぬそのおはなし。丹{たん}さんの身{み}の難義{なんぎ}とはそんなら今{いま}
のが正夢{まさゆめ}で。」ト[是より今見しゆめのはなしをする]【由】「そうして見ればちつとも
早{はや}く金{かね}をこしらへる都合{つがう}が肝心{かんじん}。ヱヽじれツてへものだノウ。」
【長】「姉{ねへ}さん私{わちき}が身{み}をどうぞして。」【由】「それじやア私{わたし}が鬼兵へ{きへゑ}と
やらおまへの宅{うち}の後見{こうけん}に立派{りつぱ}につがつた口上{こうじやう}がたゝねへ
わけになるけれどおまへの思ふ人{ひと}のためと言{いつ}て肌身{はだみ}を汚{けが}
すやうな勤{つとめ}をさしては女達{をんなだて}と他{ひと}にいはれた私{わたし}が外聞{ぐわいぶん}。

(7ウ)
マア〳〵翌{あした}夜{よ}が明{あけ}たらまた能{いゝ}智恵{ちゑ}も出{で}るだらう。しかし
私{わたし}も丹{たん}さんの話{はなし}は噂{うはさ}に聞{きい}たゆへ何{なに}かの容子{よふす}はおまへが直{ぢき}
にたづねて来{き}たがよからう。」といはれてお長{てう}は嬉{うれ}しきも
亦{また}案{あん}じいる男{をとこ}の身{み}のうへ思ひ過{すご}してくよ〳〵と寝{ね}られぬ
耳{みゝ}に暁{あかつき}の鐘{かね}もかぞへて待{まち}あかす恋{こひ}と意気地{いきぢ}に迫{せま}り
ては粋{すい}な小梅{こうめ}の名{な}にも似{に}ず胸{むね}の煙{けふり}は瓦{かはら}焼{やく}竃{かまど}に増{まさ}る
朝霧{あさぎり}におきて勝手{かつて}へたち出{いづ}る折{おり}から聞{きこ}ゆる朝勤{あさづと}めは
本中寺{ほんちうじ}の寿量品{じゆりやうぼん}。お長{てう}は夫{おつと}と思ひこむ丹次郎{たんじらう}が無

(8オ)
事{ぶじ}そくさい寿{いのち}ながゝれ末{すへ}ながく二人{ふたり}一所{いつしよ}と量{はかる}なる品{しな}
こそかはれ世{よ}の中{なか}の人{ひと}さま〴〵の物{もの}あんじ察{さつ}し心{ごゝろ}のある
人{ひと}は哀{あは}れとしれど欲{よく}にのみふける匹婦{ひつふ}の情{じやう}なしには
実{ま〔こと〕}の恋{こひ}の要{かなめ}はしれまじ。嗟{あゝ}人情{にんじやう}を推{おし}はかれば人間{にんげん}万
事{ばんじ}中庸{ちうよう}のほどよくするはかたくもあるかな。
○一{いち}りんの梅{うめ}に雪{ゆき}ふるじれつたさ [清もと]延津賀。
○うらゝかな春{はる}をかぞへん雪{ゆき}の梅{うめ} [珍奇楼]小松。
第十齣

(8ウ)
【丹】「ヲヤお長{てう}かどうして来{き}た。大{たい}そう早{はや}く来{き}たノウ。おいら
は今{いま}おきた斗{ばか}りだ。何処{どこ}へ行{いく}といつてそんなに早{はや}く出{で}
て来{き}たのだヱ。」[お長はむねをさすりながら丹次郎がそばへすはり]【長】「誠{ま〔こと〕}にモウ〳〵どんなに
いそいで来{き}ましたらふ。アヽ切{せつ}ない。」【丹】「なぜそんなにいそいで
来{き}た。」【長】「なぜといつて私{わちき}はモウおまへさんの㒵{かほ}を見ない内{うち}
はどふも苦労{くらう}で悲{かな}しくツてなりましなんだヨ。」【丹】「何{なに}がその
やうに気{き}になるのだノウ。」【長】「なにがといつて私{わちき}はマアゆふべ誠{ま〔こと〕}
にモウいやなこわい夢{ゆめ}を見たから気{き}になつて〳〵そのうへ

(9オ)
姉{ねへ}さんが何処{どこ}でかおまへの身{み}の事を聞{きい}てお話{はなし}だから
今朝{けさ}夜{よ}の明{あけ}るのが待{まち}どうで有{あり}ましたヨ。」【丹】「またこの子{こ}は
おかしい事をいふヨ。夢{ゆめ}を見たといふぐらいでそんなに驚散{ぎやうさん}に
さわぐ者{もの}があるものか。」【長】「イヽヱ夢{ゆめ}ばかりじやアないヨ。おまへ
さんなんだか苦労{くらう}な事が有{ある}じやアありませんか。」【丹】「そうさ
そふだけれど何{なに}も其{その}やうに案{あん}じる事はないヨ。」【長】「それでも
私{わちき}は聞{きゝ}ました物{もの}を。」【丹】「マア何{なん}にしても火{ひ}を拵{こしら}へやう。」【長】「ヲヤ
ほんに寒{さむ}くツて淋{さみ}しいと思つたら火{ひ}がないのだネへ。私{わちき}が火{ひ}を

(9ウ)
こしらへますヨ。」ト立{たち}あがりたづねて出{いだ}す火打箱{ひうちばこ}。それさへ
袋{ふくろ}のがま穂{ほ}くちいぢりまはして笑{わら}ひだし【長】「ヲヤ兄{にい}さんおつ
なほくちだネへ。私{わちき}にやアどうもつきそうもないヨ。」【丹】「どれ〳〵
おれが打付{うちつけ}やう。火{ひ}を焚付{たきつけ}るのはおめへも米八{よねはち}も下手{へた}だ。」【長】「米八{よねはち}
さんは兄{にい}さんの宅{うち}の勝手{かつて}がしれてお出{いで}だらうが私{わちき}にやア知{し}
れないものを馬鹿{ばか}だから。」ト[すこしすねる。是よね八といわれたがモウ気にかゝるやうすなり]【丹】「また
すねるヨ。何{なに}米八{よねはち}がおめへにかなふ物{もの}か。何{なん}でも角{か}でもおめへ
の方{ほう}がおいらは能{いゝ}と思つて居{ゐ}らアな。」ト[よう〳〵火をたきつける。お長は火ばちへすみをついで火を

(10オ)
おこしどびんをかけ]【長】「兄{にい}さんほんとうにお金{かね}のいる事が有{ある}じやア有{あり}
ませんか。」【丹】「そうさちツとこまつて居{ゐ}るけれど何{なに}どうか
なるだらうヨ。」【長】「イヽヱそれでもむづかしいといふ事だから私{わちき}は
覚語{かくご}をして居{い}ますヨ。そして今{いま}マアいくらあるといゝのだネへ。」
【丹】「ヱマアこゝで五十両{ごじうりやう}あると月{つき}を少{すこ}し延{のば}されるけれどどふ
もそうはいかないからせめて三十|両{りやう}ほしいがどうしたか米八{よねはち}も
さつぱり来{こ}ねへから。」【長】「米八{よねはち}さんでなくツても私{わちき}が姉{ねへ}さんにそふ
いつて拵{こしら}へますヨ。」【丹】「ナニどうしてそんな事が。」【長】「サア夫{それ}だから

(10ウ)
私{わちき}の身{み}をどふでもする気{き}で来{き}たんでありますヨ。そうだけ
れどおまへに自由{じゆう}にあはれないとかなしいからどふぞして別{わか}れ
て居{ゐ}ても時節{ときおり}㒵{かほ}の見{み}られる所{とこ}へ行{いき}たいヨ。」【丹】「ナゼどこへ
徃気{いくき}だ。」【長】「どこぞへ私{わちき}があづけられてお金{かね}をこしらへて
あげるヨ。」【丹】「ナニ〳〵そりやアとんだ事だ。かわいそうにどうしておめへ
にそんな事がさせられるものか。」【長】「それでもどうでもしてお
金{かね}をこしらへないとおまへがどふかされるといふものウ。私{わちき}は死{しん}
でも能{よい}よ。」ト[いひながらこどもごゝろのあとやさき。かくごしてもかなしくなり]【長】「兄{にい}さん。」ト[いひつゝひざにとりついておも

$(11オ)

(11ウ)
はずわつとなきいだす]【丹】「これさマア泣{なき}なさんなヨ。サア〳〵㒵{かほ}をふきな。」と抱{だき}
よせれば嬉{うれ}しそふにより添{そ}ひ【長】「お兄{あにい}さんヱ。」【丹】「ヱ。」【長】「あのネ
あのウどふぞ早{はや}く斯{こう}して居{ゐ}て何{なに}かの用{よう}をしてあげたり
夜{よる}も淋{さみ}しくないやうにしてお咄{はな}しをいたすやうにして。」【丹】「それ
からどふするのだへ。」【長】「一所{いつしよ}に居{ゐ}たいと申す事サ。」【丹】「そして
どふするのだ。」【長】「おかしいねへそれでよいじやアないかへ。」【丹】「おいら
は一所{いつしよ}に居{ゐ}るばかりじやア否{いや}。」【長】「なぜへ米八{よねはち}さんでなくツては
わるいのかヱ。」【丹】「ナニあいつにかまふ物{もの}か。」【長】「ヲヤうそばツかり。大{たい}

(12オ)
そうお中{なか}がよいくせににくらしい。」ト白眼{にらめ}る。[さてこのむすめのりんきしてにらめるといふはなか〳〵
たやすき事にはあらず。しんじつのこゝろから精{せい}一ぱいのやきもち也]【丹】「ナニ別段{べつたん}に中{なか}のいゝといふわけは
ねへが彼是{かれこれ}世話{せわ}をしてくれるからわりい㒵{かほ}もされないはナ。」
【長】「わりいお㒵{かほ}どころかいつかもうなぎやの二階{にかい}でおまへさん
が米八{よねはち}さんの㒵{かほ}をおみなさるお㒵{かほ}と言{いつ}たらそのかはいら
しい目{め}に愛敬{あいきやう}らしい風{ふう}をして喰{くひ}ついて上{あげ}たいよふに見へま
したものウ。」【丹】「つまらねへ事をいふ。おめへこそ一日{いちんち}ましに美{うつくし}く
娘{むすめ}ざかりになるから今{いま}においらがやうな貧乏人{びんぼうにん}は突出{つきた}す

(12ウ)
だらふ。」ト[いふときどびんの湯がにゑたちチイ[引]フウ[引]]【長】「アレ兄{にい}さんいやだよ。髪{かみ}が
よごれるはね。いけないヨ。」[こんなときでもかみをきにするは娘のくせ也]【丹】「ホイ〳〵堪忍{かんに}しな。
なんならおいらが結直{ゆひなを}してやらう。」【長】「アヽサア結{いつ}ておくれ。サア〳〵。」
ト[わらひながらあまへるすがたかはゆらしくもいろふかし]【丹】「サア結{いつ}てやらう。糸鬢奴{いとびんやつこ}かくり〳〵
坊主{ぼうず}にするか疱豆{ほうそう}をモウ一{いつ}ぺんさせるか何{なん}でもチツト㒵{かほ}
かたちに申分をこせへねへけりやア人{ひと}が惚{ほ}れてうるさいばか
りか由断{ゆだん}がならねへ。」【長】「よいヨ兄{にい}さんそんな事をいつて
だまかしておくのだヨ。」【丹】「ナニほんとうに気{き}がもめるからさ。」

(13オ)
【長】「イヽヱうそだよ。其{その}証古{せうこ}には私{わちき}にはさツぱりかまつて
おくれでないものを。」[すべてお長がものいひあまへてすねる心もちにてよみ給ふべし]【丹】「どれ〳〵サア
是{これ}からうるさい程{ほど}かまつて上{あげ}やう。逃{にげ}るときかないヨ。」ト引寄{ひきよせ}
て横抱{よこだき}膝{ひざ}のうへにのせ【丹】「サアお長{てう}や乳{ちゝ}飲{のん}で寝{ねん}ねしな
ヨ。」ト[わらひながら]㒵{かほ}と㒵【長】「アレくすぐツたいヨ。」といふ声{こゑ}も忍{しの}ぶ
は色{いろ}の本調子{ほんてうし}さわりといふは禁句{きんく}にてしばし音{ね}じめの
折{おり}こそあれ。破戸{やぶれど}ぐはらりと押{おし}あけて入来{いりく}る二人{ふたり}の破
落戸{わるもの}づくり。是{これ}はと驚{おどろ}く丹次郎{たんじらう}お長{てう}はゆふべの夢{ゆめ}に

(13ウ)
見{み}しその風俗{ふうぞく}の人{ひと}〴〵に似{に}たりと思へばおそろしくふる
へてわきへかしこまる。時{とき}に二人{ふたり}は丹次郎{たんじらう}が右{みぎ}と左{ひだり}へどつか
と座{ざ}し[●わるものゝ▲〔こと〕ば印]【●】「おたづね者{もの}の丹次郎{たんじらう}。」【▲】「サアじんぜうに
なはかゝれといつちやアそこが可笑{おかし}くねへ。」【●】「そふよ盗人{どろぼう}と
いふじやアなし形{てい}よくいへばマア貸借{かしかり}。」【▲】「ていわるくいやアマア
かたり。」【丹】「アイヤモシお二人{ふたり}ともにおかしなお言葉{〔こと〕ば}何{なに}ゆへに其{その}
やうな。」【●】「何{なに}ゆへとは押{おし}がつゑへ。畠山{はたけやま}さまの宝{たから}ものを引{ひき}ずり
込{こん}で梶原家{かぢはらけ}へ売{うり}つけて金{かね}は残{のこ}らずおめへが巻{まき}あげ世

(14オ)
間{せけん}は分散{ぶんさん}ひろぐといひたて。」【▲】「婦多川{ふたがは}の妓者{けいしや}を囲{かこ}ツて
味{うま}イたのしみ。宅{うち}にやアこんなかわいらしい不塩{ぶゑん}の娘{むすめ}をひき
ずり込{こん}で。」【●】「朝{あさ}ツぱらから千話{ちわ}ぐるひはあんまり押{おし}がおも
たからう。」【▲】「へゝ色男{いろをとこ}には何{なに}がなるツ。」【●】「かたりにやア丹{たん}次郎が
なるツ。」【丹】「イヤモシこれはけしからぬ。」【▲】「とうがらしが隠居{いんきよ}する
と古{ふる}イせりふもおかしくねへノ。」【●】「縄{なは}かゝるのが否{いや}ならば。」【▲】「黄{き}
色{いろ}イものをおめへの名代{めうだい}金{かね}がなけりやアそこいらに。」【●】「おかる
もどきの代{しろ}ものが。」【▲】「ほんにナアしかしまさかにそうもなる

$(14ウ)
本由ノ二郎

$(15オ)
おてう
朝{あさ}
霜{しも}

まだ解{とけ}
やらぬ
縄{なわ}手{て}
みち

(15ウ)
めへ。」【●】「サア代官所{だいくはんしよ}へ引{ひき}ずらうか。」ト[丹次郎が手をとればおてうはかなしくわけいりて]
【長】「アノお金{かね}がいくらあると丹{たん}さんを堪忍{かんに}する事が出来{でき}
ますヱ。」【●】「ヲヽお娘{むす}が仲人{ちうにん}か。そんなら二人{ふたり}が見退{みのが}して此{この}場{ば}
はすます。其{その}かわり小判{こばん}でざつと五十両{ごじうりやう}。」【▲】「かわりにお
娘{むす}が一二|年{ねん}おいらんになりやア直{ぢき}に内済{ないさい}。」【丹】「イヱ〳〵此{この}子{こ}
は義理{ぎり}ある妹{いもと}どうしてその様{やう}な事{〔こと〕}が。」【●】「できざア直{すぐ}に
代官所{だいくはんしよ}へ。」【▲】「ヱヽめんどうだふんじばれ。」ト[ふところよりなはとりいだせばお長はなきだし]【長】
「マア〳〵どふぞお待{まち}なさツて下{くだ}さいまし。丹{たん}さんのかわりに

(16オ)
わたしが身{み}をどうともしてお金{かね}をとつて内{ない}さいと
やらにして。」【●】「ヤレ〳〵いゝ子{こ}だ。信切{しんせつ}ものだ。そんならおめへの
心{こゝろ}にめんじて。」ト[おてうが手をとる。おもての方ふかあみがさのさむらひ一人]【侍】「丹次郎{たんじらう}はゆるしても
ゆるされぬはゆすりの悪漢{わるもの}其処{そこ}動{うご}くな。」ト[うちにいる。わるもの二人はうろ〳〵
とたつを引すへたゝきつけ]【侍】「ヤイ盗人{ぬすびと}ども丹次郎{たんじらう}やこの娘{むすめ}をなんとする。」
【●】「ヱイ。」【▲】「サア畠山{はたけやま}の宝{たから}の一件{いつけん}。」【侍】「詮義{せんぎ}いたすは誉田{ほんだ}の次
郎{じらう}この近常{ちかつね}が人{ひと}には頼{たの}まぬ。」【●】「ヱイそんならあなたは
畠山{はたけやま}の。」【侍】「家中{かちう}としらぬたわけ者{もの}。」ト[あみがさをとればびつくりし]【▲】

(16ウ)
「ヱヽイヤほかに詮義{せんぎ}の丹次郎{たんじらう}。」【侍】「あやしい身形{みなり}で人{ひと}の
詮{せん}さく。その方{ほう}どもはいづれの御家来{ごけらい}。吹貫{ふきぬき}温袍{どてら}に
三尺帯{さんじやくおび}見れば丸腰{まるごし}五分{ごふ}月代{さかやき}ハテ珍{めづ}らしい御家風{ごかふう}
だナ。早{はや}く目通{めどふ}りを退{しりぞ}かずはゆるしおかぬ。」ト[てつぼねの扇子{あふぎ}をとつて
なぎたつれば二人はそとへにげいだし]【▲●】「がたみつやアイ。」と[あくたいをついてにげゆく其跡にて]【侍】「ヤイ
丹次郎{たんじらう}其{その}方{ほう}まつたく存{ぞん}ぜずとも手代{てだい}がすへたる印
形{いんぎやう}は謀判{ばうはん}なりともそちが身{み}のうへのがれぬ落度{おちど}去{さり}
ながら右{みぎ}の金子{きんす}を年〻{とし〴〵}に割付{わりつけ}上納{じやうなふ}いたすならば

(17オ)
格別{かくべつ}の慈悲{ぢひ}をもつて済{すま}しくれんと同役{どうやく}の相{そう}だん。
よつて内金{うちきん}二十|両{りやう}明後日{めうごにち}まで金役所{かねやくしよ}まで持{ぢ}さん
いたせ。迷惑{めいわく}ならんが金高{きんだか}の百分一{ひやくぶいち}にもたらざる
上納{じやうなふ}有{あり}がたいとぞんじませイ。さらば。」と計{ばか}り〔こと〕ば数{かず}
いはぬはいふに弥増{いやまさ}る大家{たいけ}の藩中{はんちう}役柄{やくがら}の人{ひと}とし
見{み}へてゆかしけれ。
春色{しゆんしよく}梅児誉美{うめごよみ}五了


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底本:国立国語研究所蔵本(W99/Ta81、1001142288)
翻字担当者:金美眞、洪晟準、成田みずき、銭谷真人
更新履歴:
2017年4月5日公開

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