梅暦余興春色辰巳園 巻十二
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凡例
1.本文の行移りは原本にしたがった。
2.頁移りは、その丁の表および裏の冒頭において、丁数・表裏を括弧書きで示した。また、挿絵の丁には$を付した。
3.仮名は現行の平仮名・片仮名を用いた。
4.仮名のうち、平仮名・片仮名の区別の困難なものは、現行の平仮名に統一した。ただし、形容詞・副詞・感動詞・終助詞・促音・撥音・長音・引用のト等に用いられる片仮名については、原表記で示した場合がある。 〔例〕安イ、モシ、「ハイそれは」ト、意気だヨ、面白くツて、死ンで、それじやア
5.漢字は現行の字体によることを原則としたが、次のものについては原表記に近似の字体を用い、区別した。「云/言」「开/其」「㒵/貌」「匕/匙」「吊/弔」「咡/囁」「哥/歌」「壳/殻」「帒/袋」「无/無」「楳/梅」「皈/帰」「艸/草」「計/斗」「弐/二」「餘/余」
6.繰り返し符号は次のように統一した。ただし、漢字1文字の繰り返しは原本の表記にしたがい、「〻」と「々」を区別して示した。
平仮名1文字の繰り返し 〔例〕またゝく、たゞ
片仮名1文字の繰り返し 〔例〕アヽ
複数文字の繰り返し 〔例〕つら〳〵、ひと〴〵
7.「さ」「つ」「ツ」に付く半濁点符は「さ゜」「つ゜」「ツ゜」として示した。
8.Unicodeで表現できない文字は〓を用いた。
9.句点は原本の位置に付すことを原則としたが、文末に補った場合がある。
10.合字は〔 〕で囲んで示した。 〔例〕殊{〔こと〕}に、なに〔ごと〕、かねて〔より〕
11.傍記・振り仮名は{ }で囲んで示した。 〔例〕人生{じんせい}
12.左側の傍記・振り仮名の場合は、冒頭に#を付けた。 〔例〕めへにち{#毎日}
13.傍記・振り仮名が付く位置の紛らわしい場合、文字列の始まりに|を付けた。 〔例〕十六|歳{さい}
14.原本に会話を示す鉤括弧が付いていない場合も、これを補い示した。また庵点は〽で示した。
15.原本にある話者名は【 】で示した。 〔例〕【はる】
16.割注・角書および長音符「引」「合」は[ ]で囲んで示した。
17.不明字は■で示した。
18.原本の表記に関する注記は*で行末に記入した。 〔例〕〓{たど}りて*〓は「漂+りっとう」
19.花押は〈花押〉、印は〈印〉として示した。
20.画中文字の開始位置に〈画中〉、広告の開始位置に〈広告〉と記入した。
本文の修正
1.翻字本文を修正した場合には、修正履歴を末尾に示す。
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(1オ)
[梅暦餘興]春色{しゆんしよく}辰巳{たつみ}の園{その}巻之十二
江戸 狂訓亭主人著
第十一条
やゝ有{あつ}て【米】「モウ〳〵其様{そん}な悲{かな}しいことをお言{いひ}でない。おまへ
の気{き}をなぐさめやうと思つて来{き}た私{わちき}まで泣{ない}てばかり居{ゐ}ちや
いけないはネ。」ト鼻紙{はながみ}で涙{なみだ}をふき上田{うへだ}にあらで土佐小{とさこ}の紙{かみ}を四五枚{しごまい}
とつて仇吉{あだきち}が手{て}にわたし【米】「サアマア涙{なみだ}をおふきヨ。いつそ眼{め}のまわりが
腫{はれ}たヨ。ヨウモウお泣{なき}でない。是{これ}から気{き}をかへて二人{ふたり}でおもいれのろけばな
(1ウ)
しでもしよふはネ。」仇吉{あだきち}も完爾{につこり}泣{なき}わらひ嬉{うれ}しそうに起直{おきなを}る。此{この}うち
甚吉{ぢんきち}が言付{いひつけ}し商人{あきんど}よりいろ〳〵の物{もの}をもち来{きた}り酒肴等{さけさかなとう}も来{きた}りし
かば隣{となり}の子{こ}どもに裏{うら}の内義{かみさん}を頼{たの}んで呼寄{よびよせ}飯{めし}ごしらへ勝手元{かつてもと}を
してもらひ日{ひ}もくれければ油{あぶら}その外{ほか}の小買物{こがひもの}不残{のこらず}行{ゆき}とゞきて後{のち}
内義{かみさん}は戸〆{とじまり}をなしいとまを告{つぐ}れば米八{よねはち}は小仁朱{こにしゆ}を一ツ紙{かみ}にひねつて
礼{れい}を言{いつ}てかへし跡{あと}には亦{また}さし向{むか}ひ【米】「仇{あだ}さんチツト三味{さみ}せんでも出{だ}そう
じやアないか。騒{そう}〴〵しくつてわるからうかねへ。」【仇】「ナアニよひヨ。どうぞ弾{ひい}て
聞{きか}しておくれな。しかし糸{いと}がどふなつているか知{し}れないヨ。」ト床{とこ}を出{で}るを
(2オ)
米八{よねはち}は押{おし}とゞめ【米】「アレサそふしてお出{いで}ヨ。私{わちき}が出{だ}すから何処{どこ}に有{ある}から
とそふお言{いひ}な。」ト[をしへにしたかひはこより三味{さみ}せんを出し]【米】「ヲヤ久{ひさ}しくお出{だ}しであるまいのに
よく皮{かは}がたるまないねへ。」ト[糸{いと}はこよりいとをいだしそれ〳〵の糸をのこらすかけ直してうしをあはして]【米】「
近所{きんしよ}で何{なん}とか思{おも}やアしまひかネ。病人{びやうにん}の側{わつ}で来{き}て三味{しやみ}せんを
ひくやつもねへなんぞと。」【仇】「ナニ近所{きんしよ}だツても唄妓{げいしや}の宅{うち}だから
煩{わづら}つて居{ゐ}たとつて三味線{さみせん}はひくと思ふのさ。」【米】「トマアこしつけ
ておくのか。アノちよつとお聞{きゝ}ヨ。此間{こないだ}堀{ほり}のお津賀{つが}さん所{とこ}で兼{かね}さん
と可造{かぞう}さんとドヽ一{いつ}をこしらへたり俳諧{はいかい}をしたりして居{ゐ}たッけ
(2ウ)
がネ其{その}中{うち}可造{かぞう}さんが斯{かう}言{いふ}ドヽ一{いつ}を弾{うたつ}たヨ。私{わちき}やアモウおかしくツて
ならなんだは。」【仇】「ヲヤそふかへ。はやく弾{ひい}てお聞{きか}せな。」【米】「コウサマアこう
ぎにいゝといふのじやアないがおかしいからヨ。」
【■ヽ一】〽町役{ちやうやく}する身{み}のはかなさつらさ。」【○詞】「ヲヤ大屋{おほや}さん此間{こないた}は。」
△「こないだじやアねへ。おめへマア店{たな}ちんはどうする三月{みつき}たまツ
で居{ゐ}るぜ。」【○】「ヘヱイヱなか〳〵麁略{そりやく}にはいたしませんが誠{ま〔こと〕}に*「たまツで」の濁点ママ
此{この}間{あいだ}は不都合{ふつがう}でござります。どふぞ来{らい}月まて。」【浄るり清元のおそめ久松】〽あれまた
あんな無理{むり}いふてそんなそのよないひわけを。」【トヽ一】〽どふ
(3オ)
してまた地主{ぢぬし}へいはれうか。」
【仇】「ヲホヽヽヽヽ。誠{ま〔こと〕}に皮肉{ひにく}な唄{うた}だねへ。」【米】「ドヽ一{いつ}はやけに此様{こん}なのがい■*「■」は「ゝ」の欠損か
じやアないか。」ト三味線{しやみせん}をしたにおき燗{かん}をかけた燗徳利{かんどくり}を出{だ}して
袴{はかま}にいれ【米】「すこし呑{のん}でおみな。薬{くすり}さし合{あふ}かへ。」【仇】「ナニお医者{いしや}
さまが少{すこ}し呑{のむ}方{ほう}がいゝとお言{いひ}たけれどなか〳〵呑{のむ}気{き}はなかツたが
今夜{こんや}はおまへのお蔭{かげ}で大{たい}そうに気持{きもち}がよいから呑{のん}で見{み}たひヨ。」
【米】「それじやア私{わちき}もうれしいねへ。サアおあかり。」トつゐでやり「お医者{いしや}さま
は何所{どこ}だへ。」【仇】「アノお玉{たま}が池{いけ}の谷{たに}玄桂{げんけい}さんといふおゐしやさまだヨ。」
$(3ウ)
$(4オ)
(4ウ)
【米】「ヲヤ〳〵それじやア丹{たん}さんのお屋しきの御殿{ごてん}へお出なさるお方{かた}だヨ。」トた
がひにやさしきその風情{ふぜい}いかなる前世{ぜんぜ}の因縁{いんえん}にてかく睦{むつ}ましくなり
しやらん。それ聖人{せいじん}のをしえに信{しん}あれば四海{しかい}は不残{のこらず}兄弟{きやうだい}なりとまた
聖徳太子{せうとく■■し}の書{かゝ}れし史{ふみ}に一河{いつか}の流{なが}れをくみ一|樹{じゆ}の蔭{かげ}にやすむも
みな〳〵此|世{よ}ばかりの縁{えん}でなく前{さき}の世{よ}よりの約束{やくそく}ぞと教{をしへ}給ひし
事を思{おも}へば仮{かり}そめに心{こゝろ}やすくなりし人も深{ふか}き縁{えに}しのありけりと
おもひていさゝか腹{はら}たゝしき事ありとても我{われ}とわが心{こゝろ}を諫{いさ}めて
堪忍{かんにん}し一生{いつせう}和合{なかよく}まじはるこそ誠{ま〔こと〕}の人{ひと}と賞{ほめ}らるべし。かくて米{よね}八
(5オ)
仇吉{あだきち}は泣{なき}つ笑{わら}ひつ夜{よ}とともにかたり明{あか}せし過越方{すぎこしかた}そも仇吉{あだきち}か
嬉{うれ}しさは何{なに}にたとえん方{かた}もなし。是{これ}よりして後{のち}米八{よねはち}が五日{いつか}に一
度{いちど}七日{なぬか}に一度{いちど}問来{とひきた}りその間{あいた}使{つかひ}にて口{くち}にあふべき見まひ物{もの}誠
心{せいしん}つくす看病{かんびやう}にさばかり重{おも}き大病{たいびやう}も漸〻{ぜん〳〵}に快気{こゝろよく}今{いま}は髪{かみ}ゆひ
湯{ゆ}にもいりそろ〳〵みがく身{み}だしなみ久{ひさ}しく日の目{め}も見{み}さりしゆゑ
たゞさへしろき仇吉{あだきち}が物{もの}すごきほど美{うつく}しく病{やみ}あがりとてたよ〳〵と
雨{あめ}の柳{やなぎ}の露{つゆ}ふくむうるはし過{すぎ}て気味{きみ}わろし。此頃{このごろ}やう〳〵丹次郎{たんじらう}
も旅{たび}よりかへりて米八{よねはち}が始終{しぢう}のはなしを聞{きく}につけ不便{ふびん}とおもへど
(5ウ)
義理{きり}として仇吉方{あたきちかた}へ見舞{みまは}んとはいはれもせねば其{その}儘{まゝ}に打{うち}すて
おかんと思ひしが米八{よねはち}はりんきなくぜひ〳〵行{ゆき}てもらはねばたがひに打
解{うちとけ}かたらひして姉妹{けうだい}同前{どうせん}とちかひたる仇吉{あだきち}がおもはく恥{はづ}かしければ
これまでの事は兎{と}もかくも是{これ}からすゑはどふあつても見継{みつい}でやら
ねばならぬわけ亦{また}仇吉{あたきち}が心根{こゝろね}も察{さつ}して見れば哀{あわ}れにて見捨{みすて}
られずと頼{たの}みければ丹次郎{たんしらう}も心{こゝろ}の底{そこ}はあんじ煩{わづ}らふ事なれば幸{さいわ}ひ
として家{いへ}を出{いで}半年{はんとし}ぶりにて仇吉{あだきち}が方{かた}へたづねて来{きた}りしが土産物{みやけもの}
さへ米八{よねはち}が持{もた}せてよこせし品〻{しな〳〵}を仇吉{あだきち}が前{まへ}へいだし【丹】「誠{ま〔こと〕}にひさ
(6オ)
しくこねへうちに大きな目{め}に逢{あつ}たのふ。それでもよくそんなに
起{おき}るやうになつたつけの。」トいへどもいつにかはりたる仇吉が其{その}風情{ふぜい}
はや涙{なみだ}ぐむ女{おん}の情{じやう}【仇】「生{いき}ておまへに逢{あは}れやうとは思{おも}はなんだが
米八さんのおかげで命{いのち}をたすかりましたは。」ト膝{ひざ}へ涙{なみだ}をはら〳〵〳〵。
【丹】「なぜ泣{なく}のだ。おれが不沙汰{ぶさた}をして居{ゐ}たゆへ心{こゝろ}よからぬ米{よね}八に
見継{みつが}れたのか悔{くや}しいか。もしそうなればおれが留守中{るすちう}米{よね}八がほう
からよこした金{かね}たけはおれが内証{ないせう}でおめへにやるから外{ほか}でこしらへた
つもりで米{よね}八に返{かへ}しねへな。」【仇】「イヽヱそりやア成程{なるほど}金{かね}は外{ほか}でこし
(6ウ)
らへて段{だん}〻にも米八{よねはち}さんにかへすけれど米{よね}八さんの恩{おん}はわすれないヨ。
たとへおまへと愛想{あいそ}づかしが出来{でき}ても米{よね}さんとは縁{えん}をつなひで
信切{しんせつ}をつくしますは。」【丹】「その心で居{ゐ}てくれりやアおれも是{これ}から
浮薄{うはき}でなくイヤこのマア土産{みやげ}ものをそツちへ片付{かたづけ}ねへ。これでも米{よね}
八があれのこれのとおめへに嬉{うれ}しがらせるつもりで撰{ゑり}わけてよこ
したのだ。」【仇】「どふすれは米さんのやうに気{き}がもたれるだらう。」ト泣{ない}
て居{いる}る折{おり}から来{き}がけに丹次郎{たんぢろう}が此宅{こゝ}へと誂{あつら}へおきたりし酒{さけ}に肴{さかな}*「居{いる}る」の「る」は衍字
に蒲焼{かばやき}の岡持{おかもち}裏口{うらぐち}よりはこびいれる。【仇】「ヲヤ〳〵大そうにいろ
(7オ)
〳〵とおよしならいゝ。」【丹】「なぜたま〳〵来たからゆるりと呑{のん}でもいゝじやア
ねへか。それともさしでもあるなら直{すぐ}に帰{かへ}らう。」【仇】「アヽどうぞそう
しておくれな。」トいへば丹次郎は直{ぢき}に顔色{かほいろ}かはり【丹】「ドレそんなら
達者{たつしや}で居な。」ト立{たつ}をひきとめ【仇】「アヽモシ丹さん。」ト繻{じゆ}半のそでを*「ト立{たつ}を」の「を」の右に縦棒
かみしめ涙{なみだ}をこぼして【仇】「さしといつては外{ほか}にはないヨ。義理{ぎり}の
柵{しがらみ}情{なさけ}の綱{つな}で囲{かこ}つた主{ぬ}は米八さん。おまへをこゝへ少{すこ}しのうちも
止{と}めては済{すま}ぬ。人|情{じやう}づく腹{はら}をたゝずに機嫌{きげん}よく。」【丹】「突出{つきだ}されて
くれろといふのか。」【仇】「アレどふしたらよからうのふ。」トしばらく泣{なき}
(7ウ)
倒{たを}れ【仇】「丹さんマア下に居て私{わちき}が心のくるしみを聞{きい}ておくれよ。
ヨウ丹さん。」トいふ折節{おりから}に入|相{あい}の鐘{かね}にちりくる花ならでいつしか
降{ふり}つむ春の雪{ゆき}風{かぜ}にやぶれし椽頬{えんがは}の障子{せうじ}よりしている雪吹{ふゞき}
【丹】「ヲヤ雪{ゆき}が降{ふつ}てきたそうだ。」【仇】「ヱ。ドレ。」トしやうじを明{あけ}。「ほんにマア
大そうに降{ふつ}て来たヨ。寒{さむ}いからマア燗{かん}をあつくして一ツおあがり
な。」ト酒をあたゝめる。【丹】「旦那{だんな}かお客{きやく}が来たら逃出{にげだ}そう。マア
それまではづるくやらかせ。」トいへば仇吉{あ゜たきち}は丹次郎を白眼{にらみ}つけ*「仇吉{あ゜たきち}」の半濁点ママ
【仇】「丹さん私{わちき}があかりをつけるから表{おもて}の戸や二|階{かい}をよくしめて
(8オ)
おくれ。最{もう}何も出る用{よう}も|這入{はいる}用{よう}もないからすぐにかき錠{がね}もか
けてしまつておくれな。」【丹】「ばかアいひねへ。宵{よひ}からしめられる
ものか。そしておらア直{ぢき}に帰{かへ}らア。」【仇】「ナニかへすものか。」【丹】「今{いま}早{はや}く
かへれと言{いつ}たじやアないか。」【仇】「そうは言たけれど日{ひ}はくれるし
此様{こんな}に雪{ゆき}は降{ふる}しどうして帰されるものかネ。ひよつと途中{とちう}
で怪我{けが}でもして御覧{ごらん}な第一{だいゝち}米八{よねはつ}さんへ私{わちき}がすまないといふ
ばかりか私{わちき}も苦労{くらう}になるからおとまりヨ。」【丹】「イヤ〳〵帰{かへ}る〳〵。」ト
いひながら諸方{しよほう}の戸{と}をしめる。仇吉{あだきち}はあかりをつけて酒肴{さけさかな}をなら
(8ウ)
べ。「ホイ今日{けふ}は甲子{きのへね}だつけ大黒{だいこく}さまへお灯明{とうめう}をあげるのを
忘{わす}れた。」ト火{ひ}をうちつける。【丹】「ナニきのえ子{ね}だと甲子{きの■ね}に逢{あふ}と
縁{えん}がふかくなるといふぜ。」【仇】「そんな事を思{おも}ふやうたとたのしみ
だけれど何{なん}に付{つけ}ても悲{かな}しくなるよ。」トいふ後{うしろ}から丹次郎は
ちよいと抱{だき}つく。【仇】「アレおよしヨ。猶{なを}もの思{おも}ひだはネ。」【丹】「そんなら
よそうか。酒{さけ}はどうだ。」【仇】「アヽモウ丁度{てうど}燗{かん}が出来{でき}たヨ。」ト是{これ}より
しばらく盃{さかづき}ごとありて丹次郎{たんじらう}は雨戸{あまど}をあけ【丹】「ヲヤ〳〵大
変{たいへん}につもつたぜこりやアおゐねへ。」【仇】「寝{ね}るにやアしづかで
(9オ)
よひけれど一人{ひとり}一人{〴〵}に寝{ね}ると寒{さむ}いからいけないねへ。」【丹】「ナゼ一同{いつしよ}
に寝{ね}るのはいやか。」【仇】「ナニいやじやアないけれどそうしてはどふ
もマア米八{よねはつ}さんへ対{たい}して。」【丹】「いゝかげんにじらしねへな。それとも
久{ひさ}しく来{こ}ねへうち深{ふか}くやくそくでも出来{でき}たなら無理{むり}に不寝{ねず}
ともいゝ。」【仇】「そんな気{き}なら此様{こんな}に泣{なき}はしないはね。」【丹】「ヱヽべらぼう
めへ。米八{よねはち}だつてまんざら野夫{やぼ}をいふものか。」【仇】「サアそれだから
猶{なを}のこと。」【丹】「合{あつ}てわるかア手めへはかまはず寝{ね}てしまへ。おらア
道中{どうちう}で手めへの事を夢{ゆめ}に見てたのしみにして帰{かへ}つて来{き}たのだ
(9ウ)
からどふしてもやめられねへ。」【仇】「後生{ごしやう}だから嬉{うれ}しがらせずに
思{おも}ひきらしておくれヨ。アレサ風{かぜ}をひくはねうたゝ寝{ね}をおしでな
い。サア床{とこ}をとつてあげるから。」ト夜具{やぐ}を出{だ}して丹次郎{たんじらう}を寝{ね}かし
別{べつ}に床{とこ}をとつて仇吉{あだきち}ははなれて寝{ね}る。【丹】「コレサ仇吉{あだきち}最{もう}いゝか
げんにしてくんねヘ。」ト無理{むり}に起{おこ}して一{ひと}ツ夜着{よぎ}むぐりこん
だる凡悩{ぼんのう}のまだ去{さり}やらぬ好{すい}た同志{どし}。これよりまたも深{ふか}くなり
義理{ぎり}も意気地{いきぢ}もしりながら思ひきられぬ仇吉{あだきち}の風情{ふせい}はくはし
く承知{せうち}していれどもさらに米八{よねはち}はねたむ心{こゝろ}のあらずして
(10オ)
時節{とき〴〵}たづねて仇{あだ}吉と和合{なかよき}まゝにお蝶{てう}をも伴{ともな}ひつれて一夜二夜
三|曲{きよく}などの連弾{おはせもの}三|姉妹{けうだい}ともいふ〔ごと〕く常{つね}に行{ゆき}かひなしけるが
仇吉は勝手{かつて}に座{ざ}しきをつとめ丹{たん}次郎の仕送{しをくり}にて何不足{なにふそく}
なくくらす中{うち}終{つい}に丹次郎の種{たね}をやどし米八へ対{たい}し面目{めんぼく}
なくや思{おも}ひけん丹次郎へ一|封{ふう}の文をおくり婦多{ふた}川の家{いへ}を
そのまゝに捨{すて}おきつゝ風{ふ}と立退{たちのき}て行方{ゆくゑ}しれずになりけれ
ば丹次郎はいふに及{およ}ばず米八お蝶|等{ら}は実{ま〔こと〕}の姉妹{けうだい}の思ひを
なせし人。よしやさなくとも信切{しんせつ}なる生質{うまれつき}の二人なれば八|方{ほう}
(10ウ)
に人を出しこれをたづねさせまた加持祈祷{かぢきとう}と神仏{しんぶつ}に祈
念{きねん}してさがしけれどもそよとの風の便{たよ}りもなく漸{しだい}に月日を
過{すご}せしかば今はこの世{よ}に亡{なき}人とあきらめるにはあらねども彼{かの}
丹{たん}次郎へ送{おく}りし文に懐䏕{くわいにん}を恥{はぢ}て身を隠{かく}す趣{おもむ}きを書{かき}
多分{たぶん}世を捨{すて}る文章{ぶんしやう}なりけるゆへ家出{いへで}なしたるその日をば命{めい}
日と定{さだ}め追善回向{ついせんゑかう}怠{おこた}りなく跡{あと}念{ねん}ごろに吊{とふら}ひけるも近日{ちかごろ}
仇{あだ}吉の行状{みもち}正{たゞ}しければ他{ほか}心にて亡命{かけおち}せしにあらざること
明{あき}らかなれば殊{ま〔こと〕}に不便{ふびん}とおもひけり。
(11オ)
第十二条
後{ご}五百|歳{さい}広専流布{くはうせんるふ}の誓{ちか}ひにもれぬ繁昌{はんじやう}は実{けに}も尊{とうと}き法{のり}の
場{には}伊気加美{いげがみ}とかや称{きこ}へたる御寺{みてら}へ貴賎群集{きせんくんじゆ}する十月中の二日
の夜より終夜{よすがら}参詣{さんけい}ひきも切{き}らず数{す}万の中に米八お蝶{てう}もかねて
信心{しん〴〵}なりければ今宵{こよひ}の籠{こもり}を心がけてさそひ合せし女|連{づれ}はかの
千葉{ちば}に住{すむ}小梅のお由[藤兵へが女房なり]山の手に住{すむ}唐琴{から〔こと〕}屋の此糸[今は半次郎といふもの
内|室{かた}となり]女ばかりはいかゞなり。さりとて下女や家来{けらい}をつれるも亦{また}気{き}づま
りにて楽{たのし}みならずと後生{ごしやう}は付たり保養{ほよう}の心|無拠{よんどころ}なく藤兵へは
(11ウ)
このさいりやうに頼{たの}まれて万{よろづ}の世話{せわ}をなしけるがお蝶{てう}が腹{はら}に出生{しゆつせう}せ
し八十{やそ}八といふ男の子|今{こ}年三才になりけるを乳母{うば}に抱{いだ}かせ伴{ともな}ひしは
これ米八が作略{さりやく}にてお蝶は年もゆかざればかわゆがるのみいくぢはなし。
米八も子は持{もた}ざれど子|凡悩{ぼんのう}にてありけるゆへ八十八を秘蔵{ひそう}にする〔こと〕
いはんかたなく元来{もとより}発明{はつめい}なるお蝶が願{ねが}ひにて米といふ字を名{な}に付{つけ}
んと丹次郎と相談{さうだん}して八十八とは号{なづけ}しなり。八十八の字を一ツによせれ
は米といふ字{じ}によまるゝと思ひ付たる名なりけり。かくのことくにお蝶
がすればまた米八も身にかへて八十八をいとをしむことふかく今日
(12オ)
もこれをば連{つれ}たるなり。さればお蝶{てう}と米八{よねはち}はいとむつましくもの
語{がたり}をなしつゝ行{ゆく}にも三年{みとせ}|以前{さき}に失{うせ}たる人{ひと}を思ひ出{だ}して【米】「ネヘお
蝶{てう}さん斯{かう}して大勢{おゝぜい}であるくにも仇吉{あだきつ}さんの事を思ふと誠{ま〔こと〕}に
かはひそうでならないヨ。」【長】「アヽネヘ此うちへ仇吉{あたきつ}さんも一伴{いつしよ}に来{き}たら
さぞ嬉{うれ}しがるだらうにとふもかわひそうだねへ。」トはなしながらにゆく
道{みち}もたゞさへおそき女の足{あし}はや生髪{いけがみ}へ来りしころは黄昏{たそがれ}にぞなり
にける。[お由{よし}此|糸{いと}藤{とう}兵へ等{ら}もとも〴〵にはなしながらゆく事としるべし]さしもに広{ひろ}き境内{けいだい}にあつまりきたる
講中{かうぢう}の群{むれ}をなす〔こと〕幾{いく}千万いとさはがしきその中にこう〳〵とせし
$(12ウ)
$(13オ)
(13ウ)
山門{さんもん}は千尋{ちひろ}の梢{こずえ}をはるかにこして夕日{ゆふひ}に照{てり}をそえたりけり。藤兵
衛{とうべゑ}はまづ休息{きうそく}すべき茶屋{ちやや}を見{み}たてゝためらふ折{おり}しも山内{さんない}俄{にはか}に物{もの}
さはがしく崩{くづ}れ立{たつ}たる人{ひと}なだれ東西南北{とうざいなんぼく}いり乱{みだ}れて女{をんな}子{こ}どもの
泣叫{なきさけ}ぶ声{こゑ}のしきりに聞{きこ}へしが彼{かの}八十八{やそはち}をいだきし乳母{うば}は田舎{いなか}もの
にてありけるゆへ弁{わき}まへもなく逃出{にげだ}して藤兵衛等{とうべゑら}にはぐれけり。そも
此{この}さはぎは何事{なに〔ごと〕}ぞと思ふにはじめは講中{かうぢう}の仲間喧嘩{なかまげんくは}が枝{えだ}のさ
きて大喧嘩{おほげんくは}とはなりしとぞ。その紛{まぎ}れに盗賊{とうぞく}などの所為{わざ}にある
らん刃物{はもの}をふりて男女{なんによ}をおどせば酒乱{しゆらん}せし癖人{くせびと}の乱{みだ}れあるきて
(14オ)
こんさつし惣{そう}くづれとはなりしなり。此{この}まぎれに彼{かの}乳母{うば}は逃{にげ}ゆく
人{ひと}に突倒{つきたふ}され終{つゐ}に八十八{やそはち}を見うしなひそうどうは程{ほど}なくおさまり
けれどもおさまりかねし乳母{うば}の役{やく}またお蝶{てう}米八{よねはち}その外{ほか}もしれぬと
いふては済{すま}ぬ事{〔こと〕}といふは常体{つねてい}お蝶{てう}か歎{なげ}き米八{よねはち}は殊{〔こと〕}さらに狂気{きやうき}
のごとく足{あし}ずりして山内{さんない}はいふに及{およ}ばず裏門{うらもん}の外{そと}表門{おもてもん}の畑道{はたみち}まで
さがせどもそれかと思ふ物{もの}もなく乳母{うば}は前後{せんご}を欠{かけ}あるき同{おな}じく
泣{ない}てたづねあるくのみ途方{とほう}にくれて詮方{せんかた}なく今{いま}はなか〳〵夜中{よなか}
には知れまじきかと打{うち}よりて涙{なみだ}ながらに相談{さうだん}の時{とき}しも誰{たれ}やら声〻{こゑ〴〵}
(14ウ)
に迷子{まひご}だ〳〵トいふを聞{きく}より欠出{かけだ}す米八{よねはち}迷子{まひご}といふを若{もし}それか
と立寄{たちより}見{み}れば紛{まぎ}れもあらね八十八{やそはち}なれば抱{だい}て居{ゐ}たる人{ひと}にむかひ
【米】「これはモウ有{あり}がたふぞんじます。ツイ先刻{さつき}のさはぎではぐれまして
誠{ま〔こと〕}にたづねあぐみました。サア母{おつかあ}へお出{いで}。」トさもうれしそうに抱{いだ}きとる。
[おてうの〔こと〕を八十八にはあねといはせ米八の〔こと〕を母といひならはせし也]迷子{まひご}の世話{せわ}せし人々{ひと〴〵}もおのがさま〴〵わかれ
ゆく。お蝶{てう}と乳母{うば}も付{つき}そひてまづ安堵{あんど}ぞと思ふうち小児{しやうに}は亦{また}も
泣{なき}いだし我{われ}を抱{だい}たる米八{よねはち}を見{み}てふしぎそうにあたりをきよろ〳〵
見{み}まはし【小児】「母人{おつかさん}さんへ行{いかふ}ヨウ。おツかさんヤア[引]。」トしきりになけば*「母人{おつかさん}さん」の「さん」は衍字か
(15オ)
乳{ち}をふくめ菓子{くはし}をあたへてなぐさむれどなか〳〵泣{なき}やむ気{け}しき
なければ虫{むし}でも出{で}てはなるまじと藤兵衛{とうべゑ}がさしづに門前{もんぜん}なる
茶屋{ちやや}に宿{やど}をかり支度{したく}などなしながらよく〳〵見{み}るにこの小児{しやうに}
八十八{やそはち}の㒵{かほ}にたがはねども衣{い}るいは八十八{やそはち}の衣類{いるい}にあらず。されども
家{いへ}の定紋{ちやうもん}の重{かさ}ね桔梗{きゝやう}を付{つけ}たるはふしぎといふもあまりあり。
乳母{うば}は小用{てうづ}をやりてのち着用{きものゝ}前{まへ}を直{なほ}しながら【うば】「ヲヤ〳〵こ
りやアお坊{ぼう}さんではございません。そうだ。」【米】「何{なに}へ。」【うば】「これ御覧{ごらうじ}ませ。
女{をんな}のお子{こ}でございます。」【みな〳〵】「ヱ女{をんな}の子{こ}だとヱ。それはマア。」ト弥{いよ〳〵}あきれ
(15ウ)
て㒵{かほ}見{み}あはせ溜息{ためいき}をつくばかりなりしがやゝあつて藤兵衛{とうべゑ}は
【藤】「マア〳〵今夜{こんや}は此{この}子{こ}を八十{やそ}さんだと思つて夜{よ}を明{あか}すがいゝ。夜{よ}が
あけたらば詮方{しかた}もあらう。殊{〔こと〕}に私{わたし}が胸{むね}に少{すこ}し考{かんが}へ付{つい}た事{〔こと〕}もある
から。」ト其{その}夜{よ}はこゝに明{あか}しつゝ翌朝{よくてう}御堂{みどう}へ参詣{さんけい}するにかの小児{しやうに}は
いつしかなじみて米八{よねはち}の手{て}をはなれぬに付{つけ}ても八十八{やそはち}か事|案{あん}じられ
てお蝶{てう}が心{こゝろ}を察{さつ}しつゝくよ〳〵と気{き}の毒{どく}がればお蝶{てう}はまた米八{よねはち}をなぐ
さめながら小児{しやうに}にむかひ【長】「坊{ぼう}の名{な}はなんといふへ。いゝ子{こ}だネヘ。」トいへば
かわゆきことばにて【小】「およねといひます。」【長】「ヱお米{よね}さんといふ
(16オ)
名{な}かへ。」【小】「アイ。」[おてうは米八にむかひて]【長】「姉{ねへ}さんこの子{こ}はおまへとおなじ名だヨ。
マアどうした事だらうねヘ。」トふしぎを立{たつ}る折{をり}しもあれ五十才{いそじ}に
ちかき夫婦{ふうふ}のもの向{むか}ふの方{かた}より来{きた}りしが米八{よねはち}の抱{いだ}きたる子{こ}
を見つけ【老人】「ヤレ〳〵〳〵これはマアさぞ御厄介{ごやくかい}でございましたらう。何
方{どなた}さまか存{ぞん}じませぬがありがたうございます。私{わたくし}どもが案{あんじ}ました
とは違{ちが}つて誠{ま〔こと〕}にあなたがたの御厄介{ごやくかい}になればこれが仕合{しあはせ}で
ございます。サア〳〵お米{よね}や伯父{おぢ}の所{とこ}へ来{き}な。」ト老人夫婦{らうじんふうふ}が手{て}を
出{だ}せば老女{らうぢよ}の手{て}にぞ抱{いだ}かれける。此{この}とき藤兵衛{とうべゑ}は八十八{やそはち}のこと
(16ウ)
を老人{らうじん}にはなせば老父{としより}も手{て}を打{うつ}ておどろき【老人】「さやうならば
御安心{ごあんしん}なされまし。其{その}お子{こ}は只今{たゞいま}後{あと}から此{この}子{こ}の母親{はゝおや}私{わたくし}どもの
為{ため}には姪{めい}でございますがおしつけこゝへ連{つれ}てまいりますと申した
ばかりではわかりますまい。昨夜{さくや}この子{こ}の母{はゝ}が此{この}子{こ}をつれて四名
川大町{しながはだいまち}の宅{たく}を出{で}てこゝへ参詣{さんけい}いたしまして喧嘩{けんくは}のまぎれに
この子{こ}を見失{みうしな}ひましてやう〳〵群集{くんじゆ}の中{なか}からあなた方{がた}のお子{こ}*「お子{こ}」の「こ」は不鮮明
とは知{し}らず寸分{すんぶん}此{この}子{こ}の㒵{かほ}に違{ちが}ひませぬゆへ泣{なく}のをすかして連帰{つれかへ}る
道{みち}よりすや〳〵寝{ね}いりましたゆへその儘{まゝ}床{とこ}に寝{ね}かしま■■■*「■■■」は「したに」の欠損か
(17オ)
今朝{けさ}暁方{あけがた}に目を覚{さま}して母人{おつか}さんが居{ゐ}ないと言{いつ}て泣{なく}のみ
ならず着物{きもの}の紋{もん}はおなじ事でも染色{そめいろ}はちがひますゆゑ
それからさはぎ出{だ}してよく〳〵見れば男{をとこ}の子{こ}家内中{やうちぢう}が狐{きつね}
にでもばかされたかと胆{きも}をつぶしましたが姪{めい}も少{すこ}し気{き}の
付{つい}た事があつて私{わたくし}どもを先{さき}へよこしてたしかに似{に}た㒵{かほ}の
子{こ}ゆへ間違{まちがつ}たのだらうと雲{くも}をつかむやうな事をあてにこゝ
まで参{まい}りました。しかしこれもお祖師{そし}さまの御かげで他所{よそ}へ
行{ゆか}ずに知{し}れやすいやうになつたのでございませう。」トかたるも
(17ウ)
聞{きく}もふしぎにてたどる所{ところ}へ八十八{やそはち}を背中{せなか}におひし一人{ひとり}の女{をんな}|喘
息{いきせき}来{きた}るは仇吉{あだきち}なり。米八{よねはち}お蝶{てう}は夢{ゆめ}かとばかり欠出{かけだ}して右
左{みぎひだ}りよりすがりつき【米】「仇吉{あだきち}さんかへ。」【長】「八十{やそ}ぼうかへ。」【仇】「ヱヽ米{よね}
さんにお蝶{てう}さんお米{よね}ぼうも一伴{いつしよ}にかへ。」トこゝに寄合{よりあふ}八九|人{にん}しば
らくあきれて居{ゐ}たりける。わけて仇吉{あだきち}米八{よねはち}お蝶{てう}の三人{さんにん}は途
中{みちなか}といふさへわすれつゝ手{て}に手をとつて泣{なき}かなしみければ
藤兵衛{とうべゑ}と仇吉{あだきち}の伯父{おぢ}はいろ〳〵にすかしなだめまづ五六
てうの駕籠{かご}をやとひて女連{をんなづれ}を不残{のこらず}乗{の}せまづ何となく
(18オ)
仇吉{あだきち}が宅{うち}へと至{いた}りけるがそも婦多川{ふたがは}を立退{たちのき}て伯父{おぢ}夫婦{ふうふ}
の世話{せわ}となり伯父{おぢ}も繁花{はんくは}の地{ち}をはなれて四名川{しながは}の
大町{だいまち}にかくれすみ女{をんな}の子{こ}どもに三味線{さみせん}を指南{をしえ}て活業{たつき}と
なし丹次郎{たんじらう}の種{たね}を出産{うみおと}しその名{な}をお米{よね}となづけしも
米八{よねはち}が実意{じつゐ}わすれぬ為{ため}になせしとぞ。是等{これら}の事{〔こと〕}を聞{きく}
につけ三年{みとせ}此{この}方{かた}の心{こゝろ}づくしを推{おし}はかりまた仇吉も米八
お蝶{てう}の信切{しんせつ}追善回向{ついぜんゑかう}の事などを聞{きい}て身{み}に染{しみ}わたる
思{おも}ひをなせり。かくて藤兵衛{とうへゑ}は伯父{おぢ}夫婦{ふうふ}に仇吉のことを
(18ウ)
改{あらた}めて頼{たの}みおき其{その}夜{よ}は四名川{しながは}の宿{やど}へ仇吉{あだきち}をも伴{ともな}ひ
て賑{にぎ}はしく酒{さけ}くみあそびさゞめき悦{よろこ}ぶその中{なか}にも米八{よねはち}
お蝶{てう}は世{よ}にのぞみの|満足{たりし}こゝちして嬉{うれ}しさたとへるに
ものなし。さて翌日{よくじつ}は仇吉を大町{だいまち}へ送{おく}りいづれも宅{たく}へ帰{かへ}
りしが藤兵衛{とうべゑ}は仇吉のめづらしき節義{せつぎ}八十八{やそはち}お米{よね}と二
人{ふたり}の㒵{かほ}の似{に}たりし事これ丹次郎の種{たね}に相違{さうゐ}なく腹{はら}は
かはれども丹次郎{たんじらう}の㒵{かほ}に似{に}たる子{こ}どもゆへふしぎの再会{さいくわい}
も出来{でき}たりとて終{つひ}に丹次郎にすゝめて近{ちか}き所{ところ}へ仇吉
(19オ)
親子{おやこ}伯父{おぢ}夫婦{ふうふ}をも引{ひき}うつらせ米八{よねはち}お蝶{てう}は朝夕{あさゆふ}に往
来{ゆきき}してながく楽{たの}しみさかへけるとぞ。
この一回{いつくわい}は梅暦{うめごよみ}辰巳{たつみ}の園{その}両編{りやうへん}二十四巻目{にじうよまきめ}の大{おほ}づめ
なればなを三冊{さんさつ}にもなるべきを販元{はんもと}は看官{ごけんぶつ}の長
幕{ながまく}に倦{あき}給はん事をおそれ是非{ぜひ}を不論{ろんぜず}書縮{かきちゞ}めよ
とのもとめに応{おう}じ凡{およそ}略{りやく}して筆{ふで}を止{とゞ}めやうやくに
満尾{まんび}せり。これを察{さつ}して|女児童幼{ひめとのたち}の愛翫{あいぐはん}を願{ねが}ふのみ。
[梅暦餘興]春色辰巳の園巻之十二了
(19ウ)
〈広告〉戯作者 狂訓亭主人
絵師 柳烟亭国直
[辰巳拾遺{たつみしうゐ}]栄代談語{ゑいたいだんご}全六冊 同作同画 近日出版
おさん茂平の物がたり
[花野名所{はなのめいしよ}]懐中暦{くわいちうごよみ}全六冊 狂訓亭主人著 為永十奇之 第一書
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底本:国立国語研究所蔵本(W99/Ta81、1001142213)
翻字担当者:金美眞、島田遼、矢澤由紀、藤本灯
更新履歴:
2017年3月28日公開