日本語史研究用テキストデータ集

> English 

梅暦余興春色辰巳園うめごよみよきょうしゅんしょくたつみのその

クリエイティブ・コモンズ・ライセンス

巻十一

縦横切り替え ダウンロード

梅暦余興春色辰巳園 巻十一

----------------------------------------------------------------------------------
凡例
1.本文の行移りは原本にしたがった。
2.頁移りは、その丁の表および裏の冒頭において、丁数・表裏を括弧書きで示した。また、挿絵の丁には$を付した。
3.仮名は現行の平仮名・片仮名を用いた。
4.仮名のうち、平仮名・片仮名の区別の困難なものは、現行の平仮名に統一した。ただし、形容詞・副詞・感動詞・終助詞・促音・撥音・長音・引用のト等に用いられる片仮名については、原表記で示した場合がある。 〔例〕安イ、モシ、「ハイそれは」ト、意気だヨ、面白くツて、死ンで、それじやア
5.漢字は現行の字体によることを原則としたが、次のものについては原表記に近似の字体を用い、区別した。「云/言」「开/其」「㒵/貌」「匕/匙」「吊/弔」「咡/囁」「哥/歌」「壳/殻」「帒/袋」「无/無」「楳/梅」「皈/帰」「艸/草」「計/斗」「弐/二」「餘/余」
6.繰り返し符号は次のように統一した。ただし、漢字1文字の繰り返しは原本の表記にしたがい、「〻」と「々」を区別して示した。
 平仮名1文字の繰り返し 〔例〕またゝく、たゞ
 片仮名1文字の繰り返し 〔例〕アヽ
 複数文字の繰り返し 〔例〕つら〳〵、ひと〴〵
7.「さ」「つ」「ツ」に付く半濁点符は「さ゜」「つ゜」「ツ゜」として示した。
8.Unicodeで表現できない文字は〓を用いた。
9.句点は原本の位置に付すことを原則としたが、文末に補った場合がある。
10.合字は〔 〕で囲んで示した。 〔例〕殊{〔こと〕}に、なに〔ごと〕、かねて〔より〕
11.傍記・振り仮名は{ }で囲んで示した。 〔例〕人生{じんせい}
12.左側の傍記・振り仮名の場合は、冒頭に#を付けた。 〔例〕めへにち{#毎日}
13.傍記・振り仮名が付く位置の紛らわしい場合、文字列の始まりに|を付けた。 〔例〕十六|歳{さい}
14.原本に会話を示す鉤括弧が付いていない場合も、これを補い示した。また庵点は〽で示した。
15.原本にある話者名は【 】で示した。 〔例〕【はる】
16.割注・角書および長音符「引」「合」は[ ]で囲んで示した。
17.不明字は■で示した。
18.原本の表記に関する注記は*で行末に記入した。 〔例〕〓{たど}りて*〓は「漂+りっとう」
19.花押は〈花押〉、印は〈印〉として示した。
20.画中文字の開始位置に〈画中〉、広告の開始位置に〈広告〉と記入した。

本文の修正
1.翻字本文を修正した場合には、修正履歴を末尾に示す。
----------------------------------------------------------------------------------


(1オ)
[梅暦餘興]春色{しゆんしよく}辰巳園{たつみその}巻の拾一
江戸 狂訓亭主人著
第九条
同{おな}じ流{なが}れの川竹{かはたけ}も北{きた}の世界{せかい}の山谷堀{さんやぼり}舟宿{ふなやど}多{おほ}きその中に
名も高橋屋{たかはしや}と聞{きこ}へたる家{いへ}の内義{ないぎ}にお染{そめ}とて女{をんな}ながらも意{い}
地つよく情{なさけ}も深{ふか}き信切者{しんせつもの}。妹{いもと}となせし延津賀{のぶつが}の頼によつて
手軽{てがる}くもわか桟{さん}ばしより乗出{のりだ}してこゝに小舟{こぶね}は和哥町{わかてう}の河岸
よりあがりて仇吉{あだきち}が家{いへ}をたづねて病気{びやうき}ともしらねば表{おもて}の格{かう}

(1ウ)
子戸明【染】「ハイチツト御免{ごめん}なさいまし。仇吉{あだきち}さんの御宅{おうち}は此方
かへ。」トいへども宅{うち}には仇吉{あたきち}が声さへ弱{よは}る大病{たいびやう}のなか〳〵返事{へんじ}
もあらざればしばらくしてもこたえなし。お染{そめ}はさすか不
|遠慮{ゑんりよ}と思ひながらも詮方{せんかた}なく障子{せうじ}をあけてさし覗{のぞ}き
【染】「どなたもお留守{るす}かへ。」ト言ながら奥{おく}の方{かた}を見れば床{とこ}に伏{ふし}
たる女{をんな}の様子{やうす}それと察{さつ}して上にあがり【染】「御免{ごめん}なさいト。モシ
仇吉{あだきち}さんとはおまへかへ。」トいはれてやう〳〵仇吉{あたきち}が重{おも}き枕{まくら}をすこし
あげ【仇】「ヲヤお出{いで}なさいまし。さつぱりぞんじませなんだ。」ト

(2オ)
いひつゝお染{そめ}が㒵見れど見なれぬ人{ひと}ゆゑすこし考{かんがへ}る。お
染{そめ}はそれと心付{こゝろづき}【染】「はじめて参{まい}つてなれ〳〵しいとお思{おも}ひ
だらうが私{わたし}やア堀{ほり}の延津賀{のぶつが}が姉{あね}で有{あり}ますよ。」【仇】「ヲヤ。」ト
すこしおきかへる。【染】「アレサそふしてお出{いで}ヨ。誠{ま〔こと〕}にたいそう塩
梅{あんばい}かわるいのだネヘ。」【仇】「ハイモウ〳〵久{ひさ}しく斯{かう}して居{をり}ますから
こまりきります。」トいひながら片手{かたて}をついて【仇】「マヅはじ
めておめに。」【染】「ハイお心{こゝろ}やすく。お津賀{つが}もよろしく。トキニマア
どうしてそんなにおなりだへ。此様{こん}なことゝは知らず。アノ子が

(2ウ)
此頃中{このごろうち}おまへの事を夢{ゆめ}に見て何{なん}だか気{き}になるから行て様
子を見て来{き}たいと言{いつ}ているが手まへでもひさしくすぐれ
ずに居{ゐ}てやう〳〵起{おき}ると毎日{まいにち}〳〵月{つき}ざらひだの床開{ゆかびらき}だの
名弘{なびろめ}だのトすこしも日間{ひま}がないゆへどうぞ私{わたし}が|他所行{でたついで}に
おたづね申てくれろといふゆへ今日{けふ}は此方{こつち}の弁天{べんてん}さまへお参{まいり}
申ながら参{まい}つたがそしてマア看病{かんびやう}は母御{おつかア}でもしなさるのかヘ。」
トいはれて仇吉{あだきち}は泣{なき}ながら母{はゝ}の死去{なくなり}しより親類{しんるい}も病人{びやうにん}
のみにて来{きた}らず日に二三度{にさんど}近所{きんしよ}隣家{となり}の者{もの}が来{きた}りて薬{くすり}の世

(3オ)
|話{わ}などしてくれる事|哀{あは}れに不自由{ふじゆう}のことをくわしく
はなしければお染{そめ}も不便{ふびん}と涙{なみだ}を催{もよふ}しける。
因{ちなみ}にいふ彼{かの}増吉{ますきち}など居{ゐ}たらんには仇吉{あだきち}を介抱{かいほう}すべき
信切者{しんせつもの}なれどこれも今{いま}は嫁入{よめいり}して芝崎{しばさき}の方{かた}へ母{はゝ}
もろともにいたりしゆへ問来{とひく}る事{〔こと〕}もなかりしとぞ。そも〳〵
人{ひと}の身{み}のうへほど哀{あは}れにはかなき者{もの}はなし。何事{なに〔ごと〕}も定{さだ}め
なきが不断{つね}なれば若{わか}き時{とき}に老人{としとる}ことを思ひ花{はな}ある
ときに下枯{しもがれ}の野{の}を思{おも}ふべし。いつも盛{さかり}といふ事は天地{てんち}の間{あいだ}に

(3ウ)
なきものぞ。欲{よく}より人{ひと}にだまされやすく跡{あと}にて悔{くや}しき
こと多{おほ}し。何事{なに〔ごと〕}も慎{つゝ}しみて身{み}を守{まも}る〔こと〕城{しろ}の〔ごと〕く
になし給へ。
○世{よ}の中{なか}は今日{けふ}ばかりこそ同{おな}じけれ
昨日{きのふ}は過{すぎ}つ明日{あす}は知{し}られず。
かくてお染{そめ}は達引{たてひき}ある女{をんな}なれば仇吉{あだきち}が不都合{ふつがう}なるを察{さつ}し
て金子{きんす}など小遣{こづかひ}にとて与{あた}へつゝ山谷{さんや}に帰{かへ}りて仇吉{あだきち}が難義{なんぎ}
の様子{やうす}をはなしける所{ところ}へ久{ひさ}しぶりにて米八{よねはち}が延津賀{のぶつが}の方{かた}へ来{きた}り

(4オ)
仇吉{あだきち}の病気{びやうき}難渋{なんぢふ}の噂{うわさ}を聞{きい}て帰{かへ}りしとぞ。また婦多
川{ふたがは}には仇吉{あだきち}が次第{しだい}につまる困窮{こんきう}は一人身{ひとりみ}ながら病気{びやうき}
ゆへ只{たゞ}何事{なに〔ごと〕}も人頼{ひとだの}み薬取{くすりとり}から勝手元{かつてもと}信切{しんせつ}らしく
片手間{かたてま}に見舞{みま}ふ裏家{うらや}の姥{うば}かゝも喰{くひ}かせぎとかすり取{とり}
為{ため}になる人{ひと}まれなれば物入{ものいり}多{おほ}く此程{このほど}は家内{かない}の雑作{ぞうさく}道
具{どうぐ}まで書入{かきいれ}たりし利付{りつき}の金{かね}借{かり}たる者{もの}は兼{かね}てより此{この}仇
吉{あだきち}に執心{しうしん}にて其{その}癖{くせ}強欲{ごうよく}非道{ひどう}の曲者{くせもの}|森羅殿橋{ゑんまどうばし}の鬼
九郎{おにくらう}今日{けふ}も見舞{みまひ}と催促{さいそく}を兼{かね}て恋路{こひぢ}のいやらしくすはり

(4ウ)
込{こん}だる床{とこ}の側{そば}【鬼】「どうだ仇{あだ}さん今日{けふ}は大分{だいぶ}顔色{がんしよく}がいゝ
の。」【仇】「ハイありがたふ。ナニどふもいゝかと思{おも}ふと折節{とき〴〵}さし込{こむ}
からどふもいけないヨ。」【鬼】「イヤ〳〵それでも今{いま}はとんだ顔{かほ}いろ
がいゝ。そしてマア髪化粧{かみけしよう}していつも座敷{ざしき}へ出{で}かける時{とき}より
美{うつ}くしい。しかしおまへのその病気{びやうき}は始終{みんな}男{をとこ}の思{おも}ひだぜ。マア
さしあたつて|他人{ひと}よりはおれが思{おも}ひばかりでも出来{でき}不出来{ふでき}が有{ある}
はづだ。」トいひながら仇吉{あだきち}の手{て}をとらへ【鬼】「誠{ま〔こと〕}にきれいな手{て}
だナア。チツトモ病人{びやうにん}らしかアねへぜ。ヘヽどふもたまらねへ。コレサ仇{あだ}さん

(5オ)
此間中{こないだぢう}から言{いふ}とふりどふぞおれが頼{たの}みをムヽと言{い}つてくんねへ。
そうすりやア是{これ}までの借{かし}た金{かね}も返{かへ}すには及{およ}ばず毎日{まいにち}の入用{いりよう}
も不残{のこらず}おれが見継{みつい}で昼夜{ちうや}の看病{かんびやう}もおれがするぜ。ヱ仇{あだ}さん
ヱコウ。」ト言{いひ}つゝ夜着{よぎ}をそろ〳〵とまくりあげ横{よこ}になるを仇吉{あだきち}
は夜着{よぎ}を押{おさ}へて身{み}を縮{ちゞ}め【仇】「アレサおよしヨ。おぼしめしは嬉{うれ}
しいがこんなに久{ひさ}しく煩{わづら}つて体{からだ}がよごれきつてモウ〳〵〳〵
私{わちき}が身{み}で私{わちき}があいそのつきる様{やう}に穢{よご}れて居{ゐ}るものをお
まへも少{すこ}しは何{なん}とか思{おも}つておくれでも直{ぢき}にあいそのつきる

$(5ウ)
金{かね}をはたりて
鬼九郎{おにくろう}
仇{あだ}吉を
いどむ

$(6オ)

(6ウ)
種{たね}だはネ。」【鬼】「イヤ〳〵〳〵|他人{ひと}はしらずおいらはモウ〳〵今{いま}言{いふ}ことを
聞{きい}てくれりやア死{しぬ}まで愛想{あいそ}はつかさねへ。」ト抱{だき}つくをおし
退{のけ}【仇】「アレサマアアレ。」ト着物{きもの}の前{まへ}をしつかり合{あはせ}【仇】「マアお聞{きゝ}よ。
こんなに煩{わづ}らつて居{ゐ}るのをおまへかわひそふだとおもつて
おくれならどふでもなるけれど私{わちき}が死{し}んでもかまはねへといふ
様{やう}な気{き}じやアいやだヨ。」【鬼】「ナニどふしておまへを殺{ころ}していゝものか。
いふ事{〔こと〕}さへ聞{きい}てくれりやア医者{いしや}を幾人{いくたり}かけても物入{ものいり}がいくらかゝ
つても構{かま}はねへ。是非{ぜひ}|全快{よく}しねへじやアおかねへはな。」【仇】「サアそふ

(7オ)
思{おも}つておくれなら私{わちき}が全快{ほんとうに}よくなつて座敷{ざしき}へでも出{で}られる
まで気長{きなが}に何{なに}もかも待{まつ}ておくれな。」ト言{いふ}をかまはず夜着{よぎ}
の中{なか}へ入{い}るを押{おし}出し手{て}を払{はらふ}をはらはせじとする鬼九郎{おにくらう}が
指{ゆび}をポツキリ逆{ぎやく}におれば鬼九郎{おにくらう}は【鬼】「アイタヽヽヽヽ。ヱヽいてへ
ひどひことをするぜ。コウ仇吉{あだきち}さんいゝかげんにしねへな。面白{おもしろ}
くもねへ。小児{こども}をだますやうにこゝまでござれ甘酒{あまざけ}しんじよか
其手{そのて}をばマア喰{くふ}めへ。おめへがぴん〳〵達者{たつしや}になつて座敷{ざしき}へ
出{で}るやうになつて見{み}ねへお客{きやく}が来{く}るやら旦那{だんな}が出来{でき}る

(7ウ)
やらおゐら達{たち}が側{そば}へも寄{よら}れるものか。そのとき金{かね}をおれに
返{かへ}してよろしくお断{〔こと〕はり}だらう。それじやアおめへはよか
らうがおれがあんまりばか〳〵しい。どうで始終{しゞう}抱{だい}て寝{ねる}
ことはならねへ合点{がつてん}で病気{びやうき}の中{うち}を見継{みづく}といふおれが*「見継{みづく}」の濁点位置ママ
信切{しんせつ}をむそくにして追払{おひはら}ふ了簡{りやうけん}なら此方{こつち}もその気{き}
でよしやせう。よす日{ひ}になりやア用立{ようだつ}た金{かね}の日数{ひかず}も先月
限{せんげつぎり}だア。日限{ひぎり}が切{き}れりやア道具{どうぐ}やを呼{よん}でとりこわすと
いふことは大家{おほや}さんへも断{〔こと〕は}つてあらア。人{ひと}に怪我{けが}をさせ

(8オ)
るほどいやがるものを無理{むり}に彼是{かれこれ}いふよりか借{かし}たもの
を取{とる}方{ほう}が勘定{かんぢやう}がよからう。六両三歩{ろくりやうさんぶ}といふ金{かね}を出{だ}し
たら抱{だい}て寝{ね}る女{をんな}もあるだらう。とうで女郎{ぢようろ}も同{どう}ぜんに
男{をとこ}の数{かず}をおぼへた女{をんな}を箱入娘{はこいれむすめ}かなんぞのやうにしたふと
いふが我{われ}ながら狐{きつね}にばかされたとおなじ〔こと〕だ。嫌{きら}はれ
たのが身{み}の仕合{しあはせ}。傾城{けいせい}にふられて帰{かへ}る福{ふく}の神{かみ}眼{め}が覚{さめ}て
見{み}りやア有難{ありがて}へ。イヤ仇吉{あだきつ}さ゜んお気{き}の毒{どく}だが今{いま}から直{すぐ}に
古道具{ふるどうぐ}やを連{つれ}て来{き}てこの造作{ざうさく}を引{ひき}はらひやすヨ。ヤレ〳〵〳〵

(8ウ)
機嫌{きげん}よく抱{だか}れて寝{ね}て見{み}たがいゝ。六両三歩{ろくりやうさんぶ}たて投{なげ}にする
所{ところ}だつけ。ドレ〳〵障子{せうじ}隔紙{からかみ}の手軽{てがる}いやつは道具{どうぐ}やをよび
に行{いく}足{あし}でつゐでだから持{もつ}て行{いか}う。」と中{なか}じきりを外{はづ}しに
かゝれば仇吉{あだきち}はくやしくも世間{せけん}の手前{てまへ}恥{はづ}かしければ口惜{くちをし}なが
ら手{て}を合{あは}せ【仇】「どうぞ拝{おが}むから道具{どうぐ}を売{うる}ことは最{もう}ちつと
待{まつ}ておくれな。後生{ごしやう}だから。」【鬼】「後生{ごしやう}も情{なさけ}もおめへしだいサ。其方{そつち}
に情{なさけ}がなけりやア此方{こつち}もその気{き}サ。いつまで待{まつ}てゐられるもの
か。最{もう}今月{こんげつ}も半月{はんつき}過{たつ}たア。」トいひながらかたひし外{はづ}す邪見{じやけん}の

(9オ)
鬼{おに}這起{はひおき}すり寄{より}仇吉{あだきち}が鬼九郎{おにくらう}の裾{すそ}にとりつき【仇】「どふぞマア
了簡{りやうけん}してせめて最{もう}二三日{にさんち}待{まつ}ておくれな。急度{きつと}どふかするから。」
【鬼】「ヱヽはなしねへ。」ト手{て}をはらひ行{ゆく}をやらじと引止{ひきとめ}れば【鬼】「そん
なら心{こゝろ}にしたがうか金{かね}を返{かへ}すかどつちでも。」【仇】「サア両方{りやうほう}ともにいや
ではないが何{なに}をいふにも私{わたし}が病気{びやうき}|全快{よくなり}さへすりやアおまへの心{こゝろ}
に。」【鬼】「コウ〳〵おなじせりふでやらずとも少{すこ}し新手{しんて}なあい
さつがありそふなものじやアねへか。そのやさしひなりかたちが
煩{わづら}つたゆへ猶{なほ}の事{〔こと〕}かわいらしいと思{おも}ひの外{ほか}欲{よく}にかゝると病

(9ウ)
人{びやうにん}には似{に}てもつかねへその力{ちから}裾{すそ}をとらへて引寄{ひきよせ}る同{おな}じ力{ちから}を
肩{かた}へかけて引寄{ひきよせ}られりやア忽{たちまち}にこの鬼九郎{おにくらう}は節分{せつぶん}同前{どうぜん}
仏心{ほとけごゝろ}になるものを鬼{おに}にするのは心{こゝろ}がらモウ〳〵色気{いろけ}はやめにする。
サア造作{ぞうさく}を取払{とりはらは}ふか金{かね}をわたすかどふするのだ。」ト取{とり}すがりたる
仇吉{あだきち}を突倒{つきたほ}して表{おもて}のかたへ隔紙{からかみ}かゝへて立{たち}いづる後{うしろ}のかたの
裏口{うらぐち}より障子{せうじ}も明{あけ}ず声高{こへたか}く「その金{かね}はたツた今{いま}私{わちき}が返{かへ}すヨ。マアお待{まち}。」と
いはれてびツくり鬼九郎{おにくらう}おもひがけねば仇吉{あだきち}も倶{とも}に驚{おどろく}斗{ばか}りなり。

第十条

$(10オ)
時{とき}に障子{せうじ}をおし明{あけ}て静{しづか}に入来{いりく}るその女{をんな}は恋{こひ}の敵{かたき}と仇吉{あたきち}が常{つね}に妬{ねたみ}
し米八{よねはち}なり。|衣類{なり}も容{かたち}も立派{りつぱ}なれど[上着{うはぎ}はわざと目{め}たゝぬやうにつやなし結城{ゆふき}の五{ご}ほんてじま花色{はないろ}うらのふきさへもたんとは
ださぬおとなし仕立{したて}素人{しろうと}めかす風俗{ふうぞく}はなを温厚{かうとう}に意気{いき}なりけり]まづ仇吉{あだきち}にあいさつしながら蒲団{ふとん}の上{うへ}に伴{とも}
なひ介抱{かいほう}して【米】「仇{あた}さんお気{き}にいるまいがマア此処{こゝ}をば私{わちき}にまかしておくれナ。
〈画中〉仇

(10ウ)
今{いま}に後{あと}でいろ〳〵はなすから。」トなだめながら鬼九郎{おにくらう}に向{むか}ひ【米】「アイ
モシおまへが仇吉{あだきち}さんに借{かし}た金{かね}は何程{いくら}だへ。」【鬼】「おまへはたしか仇
吉さ゜んとは色{いろ}の意気地{いきぢ}で敵同士{かたきどし}と噂{うわさ}にきいて折節{おり〳〵}は㒵{かほ}
も見知{みし}つた米八{よねはつ}さん。」【米】「アイ人{ひと}の噂も七十五日|過{すぎ}たむかしは兎{と}
も角{かく}も今{いま}じやア実{じつ}の兄弟{きやうだい}同前{どうぜん}。其様{そん}なことは打捨{うつちやつ}てお
ゐてマア其{その}金{かね}はいくらだへ。」【鬼】「ヱハイ何{なに}少{すこ}しでこせへます。
たつた六七両{ろくしちりやう}サ。」ト鼻{はな}であしらふあいさつはこれ米八{よねはち}をあなど
りて大金{たいきん}ゆへに出来{でき}まじと思{おも}ひてかくは言{いひ}けるを米八{よねはち}は

(11オ)
懐中{くわいちう}より金子{きんす}とり出し紙{かみ}に載{のせ}小判{こばん}をならべて七両を
鬼九郎{おにくらう}へさしつけ【米】「証文{しようもん}があるならお返{かへ}し無{なか}ア請取{うけとり}
をおくれ。」トいはれてびつくり鬼九郎{おにくらう}【鬼】「ヱそんなら
おまへが立代{たてかへ}てこの大金{たいきん}を私{わたくし}へ。」【米】「アイ仇吉{あだきつ}さんでも
私{わちき}でもはかなひ活業{しようばい}したかはり勿体{もつたい}ないほど銭金{ぜにかね}を
遣{つか}つた事もありますのサ。病人{びやうにん}を付{つけ}こんでいぢめなさる
おまへの腹{はら}とは違{ちが}ひます。サア請取{うけとり}をよこしてはやくお
帰{かへ}り。」【仇】「イヱそれではどうも私{わちき}の心{こゝろ}が済{すま}ないから。」【米】「アレサ

(11ウ)
仇{あだ}さん何ごとも跡{あと}でお言{いひ}よ。マアこゝは私{わちき}にまかして
お置{おき}といふのに。」ト眼交{めまぜ}でをしゆる米八{よねはち}が心{こゝろ}の底{そこ}はしら
ねども気{き}をもみしゆへ今{いま}さらにまたもさしこむ胸前{むなさき}
をおさへて床{とこ}に伏沈{ふししづ}む。【鬼】「アイそんならこれが証文{しようもん}サ。」ト
不承{ふせう}〴〵にさし出せば米八{よねはち}はおしひらきて【米】「ヲヤこりやア
六|両{りやう}三歩{さんぶ}だネ。」【鬼】「ヱイ左様{さやう}サ。利{り}は初手{しよて}におもらひ申し
ましたから七両では壱歩{いちぶ}お返{かへ}し申ます。」トいへば米八{よねはち}莞爾{につこり}
わらひ【米】「よひヨ煩{わづら}つて居{ゐ}る仇{あだ}さんをくどひたお礼{れい}におま

(12オ)
へにあげるヨ。サア〳〵早{はや}くお帰{かへ}り。」と追出{おいいだ}されて鬼九郎{おにくらう}
恥{はぢ}をしらざる強欲者{ごうよくもの}かなはぬ恋{こひ}の不首尾{ぶしゆび}には壱歩{いちぶ}
の金{かね}も取徳{とりどく}と彼{かの}七両{しちりやう}を懐{ふところ}へいれてこそ〳〵逃帰{にげかへ}る。跡{あと}
には静{しづか}に米八{よねはち}が仇吉{あだきち}の側{そば}へすり寄{より}【米】「仇{あだ}さんさぞ私{わちき}か
今{いま}のしうちを出過{ですぎ}た仕方{しかた}とお思{おも}ひだらふが堪忍{かんに}して
マアお聞{きゝ}。ヨ。そして。たんとせつないかへ。」トそろ〳〵と背中{せなか}を*「聞{きゝ}。」の句点位置ママ
撫{なで}て「ヲヽ〳〵誠{ま〔こと〕}にやせたねへ。」仇吉{あだきち}は心{こゝろ}のうち今日{けふ}米八{よねはち}が
此所{こゝ}へ来{き}しその善悪{よしあし}はしらねともさしかゝりたる手詰{てづめ}の難{なん}

(12ウ)
をすくひし上{うへ}に此{この}介抱{かいほう}いぶかしながらも嬉{うれ}しくて【仇】「米八{よねはつ}さ゜ん
誠{ま〔こと〕}にマアどふして来{き}ておくれだ。これも夢{ゆめ}じやアないかねヘ。」ト
涙{なみだ}はら〳〵米八{よねはち}が㒵{かほ}をながめてありければ米八{よねはち}も仇吉{あだきち}かまけ
ぬ気性{きしやう}を知{し}るゆへに心{こゝろ}の中{うち}を察{さつ}しやり眼{め}をうるまして㒵{かほ}
さし寄{よせ}【米】「アレサ仇{あだ}さん其様{そんな}に気{き}をおもみでないよ。何{なに}ことも*「何{なに}こと」の「こ」は部分欠損
縁{えん}づくだはネ。定{さだ}めておまへの心{こゝろ}じやア私{わちき}をにくいとお思ひだ
らうがわる気{ぎ}で来{こ}ない私{わちき}が心{こゝろ}どふぞ是{これ}までの事は水{みづ}にし
て心置{こゝろおき}なくおもつておくれな。全体{ぜんたい}私{わちき}が来{く}るよりは丹{たん}さん

(13オ)
を見舞{みまひ}にと思{おも}つて今日{けふ}まで延{のば}したけれどまだなか〳〵
に帰{かへ}る沙汰{さた}もなし。おまへの病気{びやうき}は重{おも}いといふしことに
母御{おつかあ}も死去{なくなつ}たといふ噂{うわさ}なんでも大{たい}そう難義{なんぎ}して御在{おいで}だ
といふ〔こと〕を聞{きい}たからぶしつけだけれどかわいそうで〳〵なら
ないゆへ今日{けふ}はモウ〳〵案{あん}じられてたまらないから来{き}たんだア
ね。」トさもうちとけしあいさつに仇吉{あだきち}は手{て}を合{あはせ}【仇】「米八{よねはつ}さ゜ん
どふぞ今{いま}までのことをば実正{ほんとう}に堪忍{かんにん}しておくれな。そして
丹{たん}さんは遠国{とうく}へでもお出{いで}のかへ。」【米】「ほんに急{いそ}ぎの旅{たび}だから此方{こつちら}へ

$(13ウ)

$(14オ)
賢女{けんぢよ}
仇{あだ}を
恩{おん}にて
伏{ふく}す

(14ウ)
しらせる間{ま}がなかつたらうねへ。アノ丹{たん}さんはネ親御{おとつ}さ゜んが道中{どうちう}で大病{だいびやう}
だといふしらせが来{き}たもんだから俄{にはか}に旅支度{たびじたく}をして京
都{かみかた}へ立{たつ}てお出{いで}だヨ。それからまた日数{ひかず}が過{すぎ}て飛脚{ひきやく}が来{き}て
病気{びやうき}はいゝが御用筋{ごようすぢ}が手間{てま}どれるから丹次郎{たんじらう}は済{すみ}しだい
同道{どう〳〵}して帰{かへ}るから案{あん}じるなと手紙{てがみ}がきたから何日{いつ}帰{かへ}るか
知{し}れないよ。」【仇】「ヲヤ〳〵そふかへ。どふりでさつぱり便{たよ}りがない
と思{おも}つて実{じつ}はお長{ちやう}さんとやらとおまへを恨{うら}んで居{ゐ}たが
罪{つみ}だツけねへ。そのばちで此様{こんな}に塩梅{あんばい}がわるいと思{おも}ひますは。」

(15オ)
【米】「ナニ〳〵決{けつ}してそふではないヨ。おまへの間{ま}のわるいのだヨ。また
能{いゝ}ことも来{く}るはネ。今日{けふ}は私{わちき}も覚語{かくご}をしておまへがうち解{とけ}
ておくれなら一晩{ひとばん}止宿{とまつ}てゆる〳〵といろ〳〵の咄{はな}しもし
ようし看病{かんびやう}もしてあげる気{き}だからお長{ちやう}さんによくのみ
込{こま}せて来{き}たからその気{き}でおいでな。」トあたりを片付{かたづけ}る。【仇】
「アレサ米{よね}さんおよしヨ。おまへの着物{きもの}がよごれるはネ。私{わちき}やア宅{うち}
をはき出{だ}してきれゐにするのが好{すき}だけれど斯{かう}して寝{ね}
ているからモウ〳〵何{なに}かゞごみだらけでいけないヨ。そしてマア

(15ウ)
私{わちき}が第一{だいち}冥利{みやうり}がわるひはネ。其様{そんな}にやさしいおまへとも知{し}
らずに迷{まよ}つた横恋慕{よこれんほ}是非{ぜひ}丹{たん}さんを自由{じゆう}にしよふと
無理{むり}がこふじておまへと喧嘩{けんくは}なか直{なほ}りはしたけれど今{いま}
さらおまへに㒵向{かほむけ}もならぬ私{わちき}が無法{むほう}なしかたおもひ出{だ}し
ても勿体{もつたい}ない。他{ひと}の噂{うわさ}の草履打{ざうりうち}それを根葉{ねは}にも思{おも}は
ずに斯{かう}して見舞{みまひ}に来{き}ておくれのお志{こゝろざし}に対{たい}しては恥{はづ}かし
くつて死{しに}たいヨ。」トいひつゝあとはむせかへりわつと泣出{なきだ}す
仇吉{あだきち}が涙{なみだ}の雨{あめ}かばら〳〵と降出{ふりいだ}したる空{そら}ながめ引窓{ひきまど}し

(16オ)
める米八{よねはち}が【米】「ヲヤ此{この}ひぼはどふしたか誠{ま〔こと〕}にかたいねへ。」【仇】「アヽどふ
かして工合{ぐあい}がわるくなつたヨ。今{いま}裏{うら}のおばさんが来{き}たらし
めてもらふからマアそうしておいておくれ。」【米】「板{いた}の間{ま}だから
濡{ぬれ}てもよいねヘ。」トまた仇吉{あだきち}が側{そば}に居{すは}り煙草{たばこ}をつけて
やり【米】「仇{あだ}さん誠{ま〔こと〕}に不躾{ぶしつけ}だが延津賀{のぶつが}さん所{とこ}で噂{うわさ}を聞{きい}て
さぞ困{こま}つてお出{いで}だらうと思つて出{で}て来{き}たから今{いま}のお金{かね}も
はじめツからおまへの小遣{こづか}ひにするつもりまだ持{もつ}て来{き}たのが
あるヨ。マア当時{とうぶん}入用{いりよう}の物{もの}を私{わちき}が居{ゐ}るうち不残{のこらず}お買{かひ}な。宅{うち}へ

(16ウ)
帰{かへ}ると亦{また}追{おひ}〳〵によこしておまへの|全快{よく}なるまではどんな事{〔こと〕}
をしても見継{みつぐ}から必{かならす}〳〵気{き}を丈夫{じやうぶ}に持{もつ}ておいでよ。」ト紙{かみ}に包{つゝみ}
しその儘{まゝ}仇吉{あだきち}が手にわたす。[これもおよそ三四両あり仇吉はいたゞいて米八にかへし]【仇】「誠{ま〔こと〕}に|難
有{ありがたい}がこんなに沢山{たんと}はいらないはネ。そして寝{ね}てばかり居{ゐ}る
から何{なに}もそんなに入{いる}ことはなひヨ。」【米】「それでもおまへ|他人{ひと}を
頼{たの}んで何{なに}かの用{よう}をたしてもらふに金銭{おあし}がないと自由{じゆう}が
出来{でき}ないはネ。マア取{とつ}てお置{おき}ヨ。」トいゝながら表{おもて}の障子{せうじ}を明{あけ}て
外{そと}を見{み}る。これは知人{しりひと}でも通{とほ}らば用事{ようじ}を頼{たの}まん心{こゝろ}なり。

(17オ)
所{ところ}へ丁度{てうど}貸本{かしほん}の荷{に}を背負{しよひ}たりし若者{わかいもの}これ桜川{さくらかは}の
甚吉{ぢんきち}なり。【米】「ヲヤ甚吉さん久{ひさ}しぶりだの。何{なん}ぞ新板{しんぱん}が
有{ある}なら貸{かり}ようじやアねへか。」【甚】「ヘイそれは難有{ありがたふ}。」ト格子{かうし}を
あけて荷{に}を下{おろ}し【甚】「おまへさんどふして此宅{こゝ}においでなさ
ひますへ。今日{けふ}も親方{おやかた}が[さくら川ぜんかうをさしていふなり]はやく場所{ばしよ}を廻{まは}つて
しまつて仇吉{あだきつ}さん所{とこ}を気{き}をつけて用{よう}をたして上{あげ}ろと言
付{いひつけ}ましたつけがお塩梅{あんばい}はどふでございますか。」【米】「ヲヤそふかへ。
今日{けふ}は少{すこ}しよひヨ。おまへ宅{うち}へ行{いつ}たら私{わちき}がよろしくとそふ言{いつ}て

(17ウ)
おくれヨ。由{よし}さんにも。」【甚】「ハイ〳〵。」トいひながら貞操婦女八賢誌{ていさうをんなはつけんし}
といふ絵入読本{ゑいりよみほん}をいだし「これが評判{ひやうばん}のいゝ新板{しんはん}でござい
ます。」【米】「そふかへだれが作{さく}だへ。」ト[作者{さくや}の名{な}をよみ㒵をしかめ]「イヤ〳〵私{わちき}やアこの*「作者{さくや}。」(ママ)
狂訓亭{きやうくんてい}といふ作者{さくしや}はどふも嫌{きら}ひたヨ。楚満人{そまひと}と|名号{いつた}時
分{じぶん}から見るけれどどふも面白{おもしろ}いのはすくないものヲ。」【甚】「イヱ〳〵
それはみんな弟子{でし}や素人{しろうと}の作{つくつ}たのへ楚満人が名ばかり
書{かい}たのでございます。この八賢誌{はつけんし}をマア御覧{こらうじ}まし。」[米八はこれをかり外にもいろ〳〵かりて]
【米】「仇{あだ}さん夜伽{よとぎ}をしながら本{ほん}を読{よん}で聞{きか}せるヨ。」【仇】「嬉{うれ}しいねへ。

(18オ)
甚{ぢん}さん善孝{ぜんかう}さんに昨日{きのふ}は難有{ありがたふ}と言{いつ}ておくれヨ。」【甚】「ハイ〳〵今日{こんち}
も御用{ごよう}があるならばそふおつしやいまし。」ト[いへば米八{よねはち}は米{こめ}薪{まき}炭{すみ}すべて世帯{しよたい}について入用{いりよう}のものを
たくさんにいひつけもらはんと金{かね}をわたしたのむ]【甚】「ハイ〳〵それじやア直{ぢき}に行{いつ}て言付{いひつけ}まして
また晩程{ばんほど}参{まい}ります。」ト荷物{にもつ}をしよつて帰{かへ}りゆく。【米】「仇{あだ}さん
ちツとお見{み}な。」トいへど仇吉{あだきち}こたへなく枕{まくら}にもたれてうち伏
居{ふしゐ}る。【米】「仇{あだ}さんたんとわるくなツたかへ。」【仇】「イヽヱ。」【米】「私{わちき}が何{なに}かに
出過{ですぎ}ると思つて腹{はら}をお立{たち}か。」トいへば涙{なみだ}の顔{かほ}をあげ【仇】「イヱ
〳〵どふして勿体{もつたい}ない。実{じつ}は藤兵衛{とうべゑ}さんや善孝{ぜんかう}さんのお世

(18ウ)
|話{わ}で一旦{いつたん}丹{たん}さんときれいに別{わか}れたつもりだけれど何{なん}の因果{いんぐわ}か
わすられずに泣{ない}てばツかりくらして居{ゐ}れどまた丹{たん}さんも相{あい}かはら
ず逢{あひ}こそしないが文{ふみ}のつてかわらずくらすか無事{ぶじ}でゐるか
と問音信{とひおとづれ}のやさしいのがあの人{ひと}さんの不断{ふだん}の気性{きしやう}どふぞ死{し}ぬ
まで縁{えん}をきらずに居{ゐ}たいと思{おも}つて居たけれどおまへの今
日{けふ}の御信切{ごしんせつ}思{おも}つて見{み}るほど私{わちき}が罪{つみ}空恐{そらおそろ}しひ心{こゝろ}の底{そこ}お祖師{そし}
さまでも神{かみ}さんでもにくひと思{おぼ}しめさないお方{かた}はひろい
世界{せかい}に有{あり}ますまい。是{これ}から急度{きつと}気{き}をいれかへて丹{たん}さん

(19オ)
のことゝいつたら夢{ゆめ}にも見{み}まいと思{おも}ふからどふぞ米{よね}さん
そふ思{おも}つて今{いま}までの事をば堪忍{かんにん}して其{その}かわりには
此{この}病気{びやうき}でどうで死{し}ぬからその時{とき}は未練{みれん}なやうだが臨終{しにめ}
にはおまへと丹{たん}さんと一同{いつしよ}に来{き}ていとま乞{こひ}をしておくれな。
さつぱり思{おも}ひきるといふ言葉{〔こと〕ば}の露{つゆ}の干{ひ}ない中{うち}やツぱり
愚痴{ぐち}な執心{しうしん}とお思{おも}ひだらうがよく〳〵な願{ねが}ひとお
もつて丹{たん}さんにもどふぞ頼{たの}んで来{き}ておくれな。」ト身{み}
も浮{うく}ばかり涙{なみだ}の滝{たき}ながれの里{さと}の洒落{しやれ}た気{き}も実{じつ}に

(19ウ)
迷{まよ}へば素人{しろと}よりまさる思{おも}ひは米八{よねはち}も苦労人{くらうにん}だけ仇
吉{あだきち}が心{こゝろ}の中{うち}をおもひやりこれも涙{なみだ}に伏沈{ふししづ}みしばし
こたえはなかりけり。
[梅暦餘興]春色辰巳の園巻之十一了


----------------------------------------------------------------------------------
底本:国立国語研究所蔵本(W99/Ta81、1001142213)
翻字担当者:金美眞、島田遼、矢澤由紀、藤本灯
更新履歴:
2017年3月28日公開

ページのトップへ戻る