春色連理の梅 五編中
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凡例
1.本文の行移りは原本にしたがった。
2.頁移りは、その丁の表および裏の冒頭において、丁数・表裏を括弧書きで示した。また、挿絵の丁には$を付した。
3.仮名は現行の平仮名・片仮名を用いた。
4.仮名のうち、平仮名・片仮名の区別の困難なものは、現行の平仮名に統一した。ただし、形容詞・副詞・感動詞・終助詞・促音・撥音・長音・引用のト等に用いられる片仮名については、原表記で示した場合がある。 〔例〕安イ、モシ、「ハイそれは」ト、意気だヨ、面白くツて、死ンで、それじやア
5.漢字は現行の字体によることを原則としたが、次のものについては原表記に近似の字体を用い、区別した。「云/言」「开/其」「㒵/貌」「匕/匙」「吊/弔」「咡/囁」「哥/歌」「壳/殻」「帒/袋」「无/無」「楳/梅」「皈/帰」「艸/草」「計/斗」「弐/二」「餘/余」
6.繰り返し符号は次のように統一した。ただし、漢字1文字の繰り返しは原本の表記にしたがい、「〻」と「々」を区別して示した。
平仮名1文字の繰り返し 〔例〕またゝく、たゞ
片仮名1文字の繰り返し 〔例〕アヽ
複数文字の繰り返し 〔例〕つら〳〵、ひと〴〵
7.「さ」「つ」「ツ」に付く半濁点符は「さ゜」「つ゜」「ツ゜」として示した。
8.Unicodeで表現できない文字は〓を用いた。
9.句点は原本の位置に付すことを原則としたが、文末に補った場合がある。
10.合字は〔 〕で囲んで示した。 〔例〕殊{〔こと〕}に、なに〔ごと〕、かねて〔より〕
11.傍記・振り仮名は{ }で囲んで示した。 〔例〕人生{じんせい}
12.左側の傍記・振り仮名の場合は、冒頭に#を付けた。 〔例〕めへにち{#毎日}
13.傍記・振り仮名が付く位置の紛らわしい場合、文字列の始まりに|を付けた。 〔例〕十六|歳{さい}
14.原本に会話を示す鉤括弧が付いていない場合も、これを補い示した。また庵点は〽で示した。
15.原本にある話者名は【 】で示した。 〔例〕【はる】
16.割注・角書および長音符「引」「合」は[ ]で囲んで示した。
17.不明字は■で示した。
18.原本の表記に関する注記は*で行末に記入した。 〔例〕〓{たど}りて*〓は「漂+りっとう」
19.花押は〈花押〉、印は〈印〉として示した。
20.画中文字の開始位置に〈画中〉、広告の開始位置に〈広告〉と記入した。
本文の修正
1.翻字本文を修正した場合には、修正履歴を末尾に示す。
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(1オ)
春色{しゆんしよく}連理梅{れんりのうめ}巻之十四
江戸 梅暮里谷峨作
第廿七齣
お梅{うめ}の泣顔{なきがほ}を見{み}て由{よし}之助は訝{いぶか}り「ヲヤ泣{なく}のか。どう
したのだ。又{また}𤴲{かん}の虫{むし}か。困{こま}ツたものだぜ。」【梅】「ハイ私{わたく}しや
アどうせ困{こま}ツたものでござゐますヨ。」ト水屋{みづや}の前{まへ}
にて。茶巾{ちやきん}をふり出{だ}して居{ゐ}たりしが。其{その}まゝ俯向{うつむき}し
やくり泣{なき}。由之助は合点{がてん}ゆかず「なんだか由情{わけ}が解{わか}
(1ウ)
らねへ。何{なに}が本{もと}でそんなに哀{かな}しいのだへ。」[トそばへよりそひせなかへ手をかけ
そでゝかくしたるかほをのぞきこむ。是{これ}より下{しも}たがひにいよ〳〵小声{こゞへ}也]【梅】「貴君{あなた}があんまりでござゐ
ますもの。」【由】「おいらがどふしたといふのだ。」【梅】「なにも
私{わたくし}が此様{こんな}身{み}をもツてお恨{うら}み申シては利{きい}た風{ふう}なと
思しめしませうが是{これ}までの御信切{ごしんせつ}はほんの気安{きやす}
めで皆{みんな}お欺{だま}し被成{なさい}ましたのでござゐますね。」【由】「
又{また}何{なに}か思{おも}ひ出{だ}してつまらねへ〔こと〕をいふ。お前{まへ}にかまは
ねへくらいなら此間{こないだ}の娵{よめ}の相談{さうだん}もきめれば家{うち}
(2オ)
へ冊{なほ}る〔こと〕はおまへもしツてゐるじやアねへか。夫{それ}
を不承知{ふしやうち}を言{いつ}て斯{かう}してゐるのも朝晩{あさはん}おま
へを側{そば}へ置{おき}てへからの〔こと〕ヨ。とはいふものゝいつ
まで斯{かう}してゐてもつまらねへから兎{と}も角{かく}も
家{うち}へ冊{なほ}ツておまへ達{たち}親子{おやこ}に楽{らく}をさせて遣{や}り
度{たい}といろ〳〵かけ引{ひき}をしてゐる最中{さいちう}だのにな
んだかしらねへが恨{うらみ}を聞{きい}ちやアうまらねへぜ。」
【梅】「其様{そんん}な御信切{ごしんせつ}がお在{あん}被成{なさい}ますならばなぜ*「其様{そんん}な」の「ん」は衍字
(2ウ)
お菊{きく}さんを無理{むり}にあんな〔こと〕を被成{なさい}ました
のでござゐますへ。」【由】「ムヽどふしたのかと思{おも}ツたら
先刻{さつき}の一条{いちじやう}を立聞{たちきゝ}したのか。道理{だうり}でくだらね
へ〔こと〕をいふと思{おも}ツた。ありやアお前{めへ}ソラ予{かね}てしツ
てゐる房{ふさ}の通情{いろ}のお菊{きく}さんだアな。」【梅】「左様{さやう}さ。
それも承{うけたまは}りましたヨ。」【由】「然{さう}か。誰{だれ}から聞{きい}た。」【梅】「
お松{まつ}さ゜んから聞{きゝ}ましたは。」【由】「ハテナそれじやア
お雪{ゆき}にも噺{はな}したろふノ。」【梅】「ハイそれで私{わたくし}が
(3オ)
存{ぞん}じたのでこざゐますヨ。」【由】「そいつはまづかツ
たな。チヨツしかたがねへ。何{なに}しろお前{めへ}は然{さう}しツた
なら何も己{おいら}を怨{うら}むせきはあるまいにサ立聞{たちきゝ}
だから委敷{くわしく}は聞{きゝ}とれねへからの〔こと〕だろふが
全{まつた}くは斯{かう}した訳{わけ}さ。」[トおきくのこゝろをひきみるためにせしわがむねのうちをはなし]
【由】「然{さう}いふ役{やく}まはりなればこそあんな真似{まね}もした
のだわな。何{なん}のおもしろくもねへ。女日照{おんなひてり}でも
しやアしめへし口説{くどい}て色{いろ}をするやうにまだ耄鈍{もうろく}
(3ウ)
はしねへつもりだ。」[トきいてお松のはなしと符合{ふがふ}したればようやくうたがひはれて安心{あんしん}なし]【梅】「
そりやアもう貴君{あなた}がいくら色{いろ}を被成{なさい}ましたからと
て夫{それ}を私{わたくし}が彼是{かれこれ}申ス身分{みぶん}じやアありません
けれど万事{ばんじ}足{た}らはぬ私{わたくし}でごさゐますから愛
想{あいそ}がお尽{つき}なさいましたらどふ致{いた}さうと思{おも}ひますと
なまじ可愛{かわい}がツて被下{くださ}らずは私{わたくし}ばかりどのやう
に想{おも}ひましたから迚{とて}また思{おも}ひ切{きる}瀬{せ}もありまし
たろふにと存{そん}じては可{つい}悲{かな}しくなりますは。」【由】「
(4オ)
フン君{きみ}を思{おも}へば逢{あわ}ぬむかしがましぞかしじやアねへ
か。とんだ待乳{まつち}しづんでだの。爰{こゝ}は絵岸{ゑぎし}だせ。」【梅】「
アレ直{ぢき}お茶{ちや}かし被成{なさい}ますヨ。憎{にく}らしい。」[是より下{しも}べつ段{たん}こへをひくめて]
【由】「古{ふる}い文句{もんく}だが己{おいら}は可愛{かわい}らしい。」ト[しつかりだきしめる]【梅】「
ぞんじませんよ。」[ト口にはいへどうれしさに身をぶる〴〵とふるはせながらふたゝび茶巾{ちやきん}をふりだす]【由】「ヲヤ〳〵
いつまでも板{いた}の間{ま}に坐{すは}ツてゐるもんだからそれ見
な膝{ひざ}ツこぞうが此様{こんな}に冷{つめ}たく成{なつ}てゐるぜ。かわいそふ
に。ドレちよいと。」【梅】「アレサまア手{て}がぬれてゐます
(4ウ)
から待{まつ}て被下{ください}よ。」【由】「斯{かう}してゐるから早{はや}く仕舞{しまい}ね
へな。」【梅】「フヽそれだツても。」ト何{なに}やらお梅{うめ}は耳{みゝ}まで
赤{あか}くして茶巾{ちやきん}を絞{しほ}る音{おと}ジウ。グチヤリ〳〵。○彼方{かなた}
の一室{ひとま}に若夫婦{わかふうふ}は。都{すべ}てお松{まつ}が計{はから}ひにて土蔵{とぞう}の
二階{にかい}の長櫃{ながもち}より。出{いだ}して来{き}つる絹布{けんぷ}の夜具{やぐ}。枕元{まくらもと}
には桜炭火{さくらずみ}を埋{いけ}て。小鉄瓶{こてつびん}をかけたる桑{くわ}の小{ちい}
さき箱火鉢{はこひばち}に。莨盆{たばこぼん}と染付{そめつけ}の湯{ゆ}のみを添{そへ}おき。
利休好{りきうごのみ}の行灯{あんどう}なる。鋳物{いもの}の雀器{すゝめがはらけ}の灯心{とうしみ}を。笄{かんざし}の先{さき}
(5オ)
にて掻立{かきたて}。真{しん}の塗手燭{ぬりでしよく}へ。蝋燭{ろうそく}を立{たて}て側{そば}へ置{おく}
までに。万事{ばんじ}ぬけめなく行{ゆき}とゞき。屏風{べうぶ}を
ぐるりと立廻{たてまは}し【松】「御機嫌{ごきげん}よう。」ト出{いで}て行{ゆく}。あとは両
個{ふたり}がさし向{むか}ひ。枕{まくら}ならべて顔{かほ}と顔{かほ}。お雪{ゆき}はじツと思{おも}ひ
あり気{げ}に。房{ふさ}二郎の面{かほ}を見{み}つめながら。唾{つ}を
呑{のみ}こみ声{こへ}をひそめて「兄{にい}さんお前{まへ}さんは私{わたい}
と一生{いつしやう}夫婦{ふうふ}にお成{なん}なすツてゐて被下{ください}ますお
ぼしめしでござゐますかへ。」【房】「なんだへ今夜{こんや}
$(5ウ)
$(6オ)
お雪。
房二郎
楽天は重し
といひ其角は
軽しといふ
笠{かさ}の雪{ゆき}
わからぬ
重{おも}み軽{かる}み哉。
東川
(6ウ)
にかぎツて異{おつ}な〔こと〕を聞{きく}ね。外{ほか}ならないお前{まへ}だ
もの。斯{かう}成{なつ}たからには共白髪{ともしらが}と思{おも}ツてゐる
わね。」[トきいてお雪はさもうれしさうににつこりとして]【雪】「実正{ほんとう}にそのおぼしめし
なら是{これ}までの通{とほ}りどふぞお菊{きく}さんとも中{なか}よく
してあげて被下{ください}ましな。」[トいふはお松がいれぢへにてわが心を引ならんと思ひ]【房】「何{なに}
をいふかと思{おも}へばつまらない。那方{あつち}の事ならば。もう
けして念{き}に懸{かけ}なさんなよ。暫時{ちつと}の間{あいだ}とほざかツて
ゐるうちに気{き}まづい訳{わけ}を聞{きい}た〔こと〕があツてふつ
(7オ)
つり思{おも}ひ切{きつ}たからその気{き}でゐておくれよ。それ
だから是{これ}からはもうお内義{かみさん}一点{いつてん}ばりだからうるさい
ぜ。覚期{かくご}して居{ゐ}な。」【雪】「ホヽヽヽそのお心{こゝろ}は嬉{うれ}しうござ
ゐますがね。お菊{きく}さんとはひとかたならない中{なか}で
お在{いで}被成{なさい}ましたものをちツとやそツとお気{き}に済{すま}
ない事がござゐましたから迚{とて}今{いま}に成{なつ}て愛想{あひそ}づ
かしを成{な}さツては悪うごさゐますよ。それに私{わたい}の方{はう}へ
お出{いで}被成{なさつ}てからあちらをお捨{すて}被成{なさい}ましてはさも私{わたい}が
(7ウ)
怖{おそろ}しい嫉妬{やきもちやき}のやうに思{おも}はれまして恥{はづ}かしうござゐ
ますから何卒{どふそ}これまでの通{とほ}りにしてあげて被下{ください}よ。
然{さう}して父上{おとつさん}と母上{おつかさん}の方{はう}へは私{わたい}が宜{よい}様{やう}に申シて置{おき}ます
から密〻{ないしやう}でお菊{きく}さん許{とこ}へ連{つれ}て行{いつ}て被下{ください}な。姉妹分{きやうだいぶん}
になりまして中{なか}よく致{いた}したいと存{ぞん}じますから。夫{それ}共{とも}
あちらでは私{わたい}を嘸{さぞ}憎{にく}いと思{おも}ツてお在{いて}なさいませう
からどふお言{いひ}だかしれませんねへ。」【房】「どうして〳〵。
お前{まへ}のやうに柔和{やさしい}こゝろならば頼{たの}もしいが那女{あいつ}
(8オ)
はもう常{ふだん}から片意地{かたいぢ}でどふにもこうにもいかない相
敵{しろもの}だからしやうが無{な}いヨ。それだものあんな者{もの}と虚{うそ}
にも姉妹分{きやうだいぶん}なぞにでも成{なる}とおまへの貫目{くわんめ}が下{さが}
るわね。第一{だいゝち}まア実{じつ}は最{もう}愛想{あいそ}づかしをして
しまツたのだからもう〳〵二度{にど}と再{ふたゝび}那女{あいつ}の面{かほ}を見様{みやう}
とは思{おも}はないからもう其様{そん}な〔こと〕は言{いつ}て呉{くん}なさんな。」
[トしばしかんがへ]「ムヽ宜{いゝ}事があツたツけ。忘{わす}れきツてゐた。心
残{こゝろのこ}りの無{な}いやうにしておまへの疑念{ぎねん}がはれる事{〔こと〕}
(8ウ)
をして見{み}せやう。」ト延寿帯{ゑんじゆたい}を解{とき}[是ははらとむねの間へしめるはらをびなり。
近年世にひろむ。男女とも常に用ひて養生ニなる]縫{ぬい}めをひき裂{さ}き縫蔵{ぬひをさめ}たる護
符{まもり}の中{なか}より一枚{いちまい}の紙{かみ}を出{いだ}し【房】「ソラ見{み}な。」ト[ひろげるを見れば]
起請文{きしやうもん}之{の}事{〔こと〕}
一 そもじ様{さま}と夫婦{ふうふ}の契約{けいやく}致{いた}し
候|所{ところ}実正{じつしやう}なり。然{しか}る上{うへ}は親{おや}ども
たとへいか様{やう}に申候とも外{ほか}の夫{おとこ}持{もち}
(9オ)
申まじく候。かやうに申候事|少{すこ}しも
偽{いつはり}御坐{ござ}候はゞ日本{につぼん}六十|餘州{よしう}大小{だいせう}の
神祗{じんぎ}別{わけ}て不動明王{ふどうめうわう}摩利支尊天{まりしそんてん}
の御罰{ごばつ}を蒙{かふむ}り未来永劫{みらいえうがう}うかむせ
さらニ有{ある}まじく候。仍{よつ}て天罰{てんばつ}起請
文{きしやうもん}如件{くだんの〔こと〕し}。
きく
亥十八才
年月日
房二郎さま
(9ウ)
【房】「これが那女{あいつ}の血起請{ちきしやう}さ。私{わたし}に二心{ふたごゝろ}の無{な}い証拠{しやうこ}
には。」ト[いふより早くけんそうをかへてくだんのきしやうをさつをひきさき]「斯{かう}してしまへばおまへの
疑{うた}ぐる所{ところ}はあるまい。」[是お雪がしんそこ嫉妬{しつと}なき事はしらざればおきくとゑんを切しさまをあくまでしらせんとのはからい也]
お雪{ゆき}はかゝる動静{やうす}を見て。是{これ}はとばかり驚{おどろ}くまでに。男
の心{こゝろ}が定{さだま}りたるは。嬉{うれ}しくも亦{また}恐{をそ}ろしく。此方{こなた}が斯{かく}ては
お菊{きく}の方{はう}も。怎生{いか}なる心か計{はか}られず。どふしたら宜{よ}か
ろふと。深念{しあん}に餘{あま}る恍惚気{をぼこぎ}は。世間{せけん}しらずの深慮育{ふところご}。
ものをも言{いは}ず男の顔{かほ}を。じツと見つめて在{ゐる}ほどに
(10オ)
房{ふさ}二郎は裂{さき}し起請{きしやう}を。又ずた〳〵に裂。ひと丸{まる}め
にして噛{かみ}つぶし【房】「是{これ}でもう私を移気{みづくさい}と思やアし
まいねへ。」ト[いひながら寝{ね}なほりお雪のまくらの下へ手をいれぐいとだきよせる]【房】「アレサ髪{かみ}が。」ト[かほをすこし
しかめてびんをさわツて見る。是むすめの情{しよう}也]【房】「松が撫付{なでつけ}るはな。」【雪】「ヲヤそれでも
ね此頃は髪持{かみもち}が悪{わる}く成たと申て皆{みな}が笑{わら}ツていけま
せんは。」【房】「フヽこんど笑{わら}ツたら結立{いひたて}の髪{かみ}でも一晩{ひとばん}寝{ね}ると
髷{まげ}が仰向{あをむく}にきまツたものだ。娘島田{むすめしまだ}は寝{ね}て解{とけ}ると
言{いつ}て遣{や}るが宜{いゝ}。」【雪】「其様{そん}な事が私{わたい}に。」【房】「いへずば
(10ウ)
止{よ}そふよ。」[トにつこりしながら何{なに}やら下{した}の方{ほう}の手をあとへひく]【雪】「アレ又{また}。」ト𧝒{よぎ}の中{うち}へ顔{かほ}を
かくせば。前髪{まへがみ}が男の頬{ほう}へ冷{ひや}りとさはりて得もいは
れず。其まゝ棲遑{しゞま}の戯{たはむれ}歟{か}。須臾{しばらく}ものもいはざりけり。
第廿八齣
却{かく}てお雪{ゆき}はその翌日{あくるひ}。窃{ひそか}に兄{あに}由{よし}之助に。きのふありし
お菊{きく}の一条{いちじやう}を。お松{まつ}から聞{きゝ}しゆへ。ゆふべ房{ふさ}二郎にかやう
かやういひしが。房二郎はしか〴〵と決心{けつしん}して。起請{きしやう}を破{やぶ}
りし一伍一什{いちぶしじう}をもの語{がた}り。何卒{どふぞ}お菊と相かわらず。
(11オ)
縁{ゑん}を絆{つな}いで三人ンが。曠{はれ}て中{なか}よく暮{くら}し度{たい}と。その身{み}の
思{おも}ふ旨{むね}をはなし。相談{さうだん}に及{およ}ぶにぞ。由{よし}之助|大{おほ}きによ
ろこび。お雪{ゆき}の貞心{ていしん}を感{かん}じ讃{ほめ}て。その身{み}もお菊{きく}の事
に就{つき}ては。心配{しんぱい}せしよしをはなし。思{おも}ふに房{ふさ}二郎
が愛想{あいそ}づかしは。狂言{きやうげん}かと疑{うた}がふときには。昨夜{ゆふべ}起
請{きしやう}をやぶりしも。お雪{ゆき}に心{こゝろ}をひかれんかと。思{おも}ふ
ての所為{わざ}なるべし。斯{かく}てはなか〳〵我〻{われ〳〵}に。本心{ほんしん}は
明{あか}さゞらん。けふ後{のち}にお菊を訪{とむら}ひ。彼処{かしこ}の動静{やうす}
(11ウ)
を見{み}たうゑにて。万端{ばんたん}周全{せわ}をして遣{や}るべし。そのよ
し房{ふさ}二郎が伝{つた}へ聞{きか}ば。われ〳〵兄妹{きやうだい}の信切{しんせつ}をしり。は
じめて本心{ほんしん}を明{あか}すならん。ト|分根亭{はなれざしき}に兄妹{あにいもと}が。密談{みつだん}定{さだ}
めて立出{たちいづ}れば。午時{ひる}にも近{ちか}く成{な}るころなりしが。お梅{うめ}
は|争何{いかゞ}なしたりけん。今朝{けさ}より一度{いちど}も来{こ}ざりしかば。
お雪{ゆき}はあんじ且{かつ}淋{さみ}しがりて。小婢{こじよく}を迎{むか}ひに遣{や}りしほど
に。使{つかひ}のものかへり来{き}て「只今{たゞいま}上{あが}りますと|被為仰{おつしやい}ました
けれどもどふでござゐますかしれませんヨ。もう〳〵どん
(12オ)
なに気障{きざ}なお客{きやく}が来{き}て居{ゐ}ましてね何{なん}でござゐます
かむづかしい事を申て親母{おやご}さんが大変{たいへん}に困{こま}ツて
お在{いで}なさいませう。」【雪】「ヲヤそふかへ。お兄{あにい}さんどふ
被成{をし}のでござゐませうねへ。」【由】「そふさのウ。」ト由縁{わけ}
ある娘{むすめ}の家{うち}ゆへに。そがまゝ庭口{にはぐち}より立出{たちいで}て。お梅{うめ}の住居{すまゐ}
の裏口{うらぐち}より。裏{うち}の動静{やうす}をうかゞへば。商人体{あきうどてい}の男なれど
も。見た所{ところ}より悪倍{にく〳〵}しきは。強六{がうろく}といふ高利{かうり}かし
【強】「コウ難渋{なんじう}だといやアほうづが無{ね}へぜ。見れば娘{むすめ}も
(12ウ)
此{この}ごろじや小{こ}ざツぱりした容{なり}をしてゐるが旦那{だんな}
でも出来{でき}たのだろふが[是は此ごろ由之助よりそれとはなしにつかひたてるゆへおれいにとてをくりくれし小袖{こそで}なるべし]
よしんば旦那{だんな}が付{つい}た所{ところ}が貧窮{ひんきう}なおめへたちをせわを
するくらいな奴{やつ}じやア元利{ぐわんり}〆て十一|両{りやう}三|分{ぶ}二|朱{しゆ}といふ
金{かね}の工面{くめん}は覚束{おぼつき}そふもねへ。それを今{いま}請{うけ}とろふとい
ツた処{ところ}が比丘尼{びくに}に何{なん}とかで迚{とて}も出来{でき}めへからふせう
して約束{やくそく}どほり金{かね}のかたに娘{むすめ}を預{あづ}かろふといふのだ。
己{おいら}の方{はう}に無理{むり}はあるめへ。」[此強六はじめよりお梅にほれてゐるゆへ親子がさしかゝりしなんぎをさいわひに
(13オ)
お梅を手に入るつもりでかねをかしたるなり]【お梅母】「それはもう御尤{ごもつとも}でござゐますがネ
這娘{これ}は貴君{あなた}。此様{こんな}に形{なり}は大{おほ}きうござゐましても是{これ}ま
で親{おや}の手{て}もとにばツかり在{をり}まして一向{とんと}まだ小児{ねんねへ}で
ござゐますから他{ひと}さんの中{なか}へ出{だ}しましては何{なん}に
もお役{やく}に立{たち}は致{いた}しません。それに御存{ごぞん}じさまの
通{とほ}り私{わたくし}がとかく病身{びやうしん}でござゐましてねあなた昨年{さくねん}
悴{せがれ}が放埓{はうらつ}を致{いた}してをります最中{さいちう}私{わたくし}が眼{め}を煩{わづら}ひ
まして皆目{かいもく}見る〔こと〕も協{かな}ひません節{せつ}もこれが
$(13ウ)
誉{ほめ}らるゝ
襖{ふすま}は
ふるし
鹿{しか}の
こゑ
十時門松彦
お梅
お梅の母
$(14オ)
強六
(14ウ)
眠{ね}る目{め}もねずに他{ひと}し〔ごと〕を致{いた}しましてはやツと親
子{おやこ}がその日{ひ}を送{をく}りますうちに親{おや}の口{くち}から申シます
もおかしなものでござゐますが左様{さやう}な貧苦{ひんく}な中{なか}
でも随分{ずいぶん}孝行{かう〳〵}に看病{かんびやう}をして呉{くれ}ました故{ゆへ}か眼病{がんびやう}も
全快{ぜんくわい}いたしましてヤレ嬉{うれ}しやと思{おも}ひます間{ま}もなく貴君{あなた}
に御厄介{ごやつかい}になりました悴{せがれ}がふしだら。それからと申スもの
は痞{つかへ}が持病{ぢびやう}となりまして自由{じゆう}に体{からだ}がつかへませんゆへ
今夜{こんや}にも私{わたくし}が煩{わづら}ひましても湯{ゆ}をひとつ汲{くん}でもらふ
(15オ)
ものもござゐませぬ心細{こゝろぼそ}さをお察{さつ}し被成{なされ}て。」ト末{すへ}
迄{まで}は聞{き}かぬ強{がう}六「ヱヽやかましい。其様{そん}な愚痴{ぐち}は聞{きゝ}たく
でもねへ。それじや何{なに}か娘{むすめ}は渡{わた}されねへといふのか。わたさ
れずは金{かね}で請取{うけとる}方{ほう}が此方{こつち}は勝手{かつて}だ。サアたツた今{いま}元利{ぐわんり}
揃{そろへ}てならべ被成{なせ}へ。」[トわざと高{たか}声にいふ]【母】「イヱもうお返{かへ}し申さぬ
とは申シませんからお静{しづか}に被成{なさつ}て被下{ください}まし。」【強】「ヘン返{かへ}さねへ
といやアかたりだ。しかし衒{かたり}をした息子{むすこ}の母親{おふくろ}だから
何{なん}ともいへねへ。どふしてもお代官{だいくわん}さまへ訟{うつた}へて苛{ひど}いめに
(15ウ)
あはせずは成{なる}めへか。」【母】「モシ〳〵何卒{どうぞ}その事は穏便{をんびん}に
被成{なすツ}てくださいまし。奥{おく}の地{ぢ}ぬしさまへ聞{きこ}へましても
甚{はなはだ}かツこうが宜{よ}くござゐませんから。」【強】「かツこうの悪{わる}い
のはしれた事ヨ。衒{かたり}をしたつくのひ金{きん}の借金{しやくきん}を不
義理{ふぎり}にして置{おい}て平気{のめ〳〵}としてゐるくれいに大胆{ふてへ}のだ
もの。己達{おいらたち}のせわしない金{かね}を此{この}くれへべん〴〵延{のば}して
遣{や}りやア沢山{たくさん}だ。慈悲{じひ}をすりやア糞{くそ}をたれるとは
お前{めへ}たち親子{おやこ}の事だぜ。いけ怠慢{ずるい}もいゝかげんにする
(16オ)
がいゝ。けふこそはもう徒{たゞ}は帰{かへ}らねへよ。サア金{かね}を渡{わた}すか。
出来{でき}ずば娘{むすめ}を連{つれ}てゆく分{ぶん}だ。それも証文{しやうもん}がものを
いへば遊女{ゆうじよ}売女{ばいぢよ}にしやうと己{おれ}が勝手{かつて}だが慈悲深{じひふか}へ己{おれ}
には其様{そん}な〔こと〕はさせられねへから家{うち}へ置{おい}て夜{よ}る〳〵
足{あし}でも揉{もま}せる分{ぶん}の〔こと〕だ。サア歩行{あゆび}なせへ。」ト悪体口{にくてぐち}。親
子{おやこ}は悔{くや}しさ哀{かな}しさも。金{かね}が無{な}ければ思{おも}ふまゝに。口{くち}
もきかれぬ世{よ}のならい。腹{はら}は立{たて}ども言葉{〔こと〕ば}を和{やわ}らげ
【母】「一〻{いち〳〵}御無理{ごむり}はござゐません。実{じつ}に悴{せがれ}をお助{たすけ}くだ
(16ウ)
さいました有{あり}がたい貴君{あなた}の事{〔こと〕}此{この}上{うへ}のお好意{なさけ}にはもう
少〻{せう〳〵}お待{まち}被下{ください}ますれば先刻{せんこく}もおはなし申シた通{とほ}り
此{この}事{〔こと〕}に就{つき}まして先達{せんだつ}ても玉川辺{たまがわへん}のしるべの方{かた}へ相談{さうだん}
に参{まい}りまして当月{たうげつ}下旬{げじゆん}には少〻{せう〳〵}でも間{ま}に合{あは}して
呉{くれ}ますつもりでござゐますから廿五日|過{すぎ}には急度{きつと}
利分{りぶん}の滞{とゞ■■り}だけも差入{さしいれ}まして。」[トいふをうちけし]【強】「コウ〳〵書替{かきけへ}
はもうお断{〔こと〕わり}だ。当{あて}も無{ね}へおめへたちにいつまで金{かね}
が貸{かし}て置{おけ}るものか。いけばか〳〵しい。サアきり〳〵立{たゝ}
(17オ)
ねへか。坂本通{さかもとどほ}りへ出{で}たら駕籠{かご}へ乗{の}せて遣{や}るから
その容{なり}で直{すく}と行{ゆく}がいゝ。」ト立{たち}かゝれば。親子{おやこ}は何{なに}と言
葉{〔こと〕は}さへ。涙洏{なみだぐみ}つゝ娘{むすめ}のお梅{うめ}は。寧{いつそ}このよし由{よし}之助に。
うち明{あけ}て相談{さうだん}なさば。どうか談合{はなし}もつくべけれど。
慾徳{よくとく}づくにかゝりし歟{か}と。思{おも}はれんも恥{はづ}かしく。如何{いかゞ}
なさんと思案{しあん}の体{てい}。推量{すいりやう}しては母親{はゝおや}も。共{とも}に胸{むね}をぞ悩{なやま}
しける。外{そと}に立{たち}ぎく由{よし}之助は。せツぱつまりし親子{おやご}の難
義{なんぎ}。殊{〔こと〕}に僅{わづか}な金{かね}ゆへに。お梅{うめ}を他手{ひとで}にわたしては。男{をとこ}が
(17ウ)
立{たゝ}ぬとおもへども。大家{たいけ}ながらもまだ遊倅{へやずみ}。それ
のみならず此{この}ほどは。禁錮{おしこめ}同様{どうやう}の身{み}の上{うへ}なるにぞ。差
当{さしあた}りて十|両{りやう}からの。金{かね}は手{て}もとに無{な}かりしかば。せん術{すべ}
なさにこのよしを。密{ひそか}に地守{じもり}に言含{いひふく}め。とり扱{あつか}ひを
させて後{のち}。金{かね}の工風{くふう}をして遣{や}らんと。おもへば其{その}まゝ地面
内{ぢめんうち}なる。地守{ぢもり}の宅{たく}へおもむきしに。生憎{あやにく}他行{たきよう}して出先{でさき}も
しれず。かくては親子{おやこ}がさし懸{かゝ}りし。間際{まぎは}の難義{なんぎ}を救{すく}
ひがたし。爾{さ}ればとて自身{じしん}たち寄{より}。とり扱{あつか}ひをするときは。
(18オ)
它{ほか}の長屋中{なかやちう}に面{おも}ぶせなり。いかゞはせんと猶予{ためろう}折{おり}しも
手代{てたい}婢{こおんな}五六人ンの従者{ともびと}を引連{ひきつれ}て。由{よし}之助の母親{はゝおや}は。仏
参{ぶつさん}のかへりがけに。這{この}別荘{べつそう}へ立{たち}よりて。きのふより止宿{とまり}たる。
お雪{ゆき}房{ふさ}次郎をもろ共{とも}に。伴{ともな}ひ帰{かへら}らんとて来{き}■■にぞ。*「帰{かへら}ら」の「ら」は衍字
お梅{うめ}の事は気{き}になれど。由{よし}之助は忙{いそ}がはしく。家{うち}へ
もどりて茶{ちや}よ菓子{くわし}よと。母{はゝ}のこゝろを怡{よろこば}す。孝養{かうやう}
等閑{なほざり}ならざりけり。
春色連理の梅巻之十四
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底本:東京大学文学部国語研究室蔵本(4L:124:5)
翻字担当者:金美眞、島田遼、矢澤由紀、藤本灯
更新履歴:
2017年7月26日公開