日本語史研究用テキストデータ集

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春色連理の梅しゅんしょく れんりのうめ

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四編中

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春色連理の梅 四編中

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凡例
1.本文の行移りは原本にしたがった。
2.頁移りは、その丁の表および裏の冒頭において、丁数・表裏を括弧書きで示した。また、挿絵の丁には$を付した。
3.仮名は現行の平仮名・片仮名を用いた。
4.仮名のうち、平仮名・片仮名の区別の困難なものは、現行の平仮名に統一した。ただし、形容詞・副詞・感動詞・終助詞・促音・撥音・長音・引用のト等に用いられる片仮名については、原表記で示した場合がある。 〔例〕安イ、モシ、「ハイそれは」ト、意気だヨ、面白くツて、死ンで、それじやア
5.漢字は現行の字体によることを原則としたが、次のものについては原表記に近似の字体を用い、区別した。「云/言」「开/其」「㒵/貌」「匕/匙」「吊/弔」「咡/囁」「哥/歌」「壳/殻」「帒/袋」「无/無」「楳/梅」「皈/帰」「艸/草」「計/斗」「弐/二」「餘/余」
6.繰り返し符号は次のように統一した。ただし、漢字1文字の繰り返しは原本の表記にしたがい、「〻」と「々」を区別して示した。
 平仮名1文字の繰り返し 〔例〕またゝく、たゞ
 片仮名1文字の繰り返し 〔例〕アヽ
 複数文字の繰り返し 〔例〕つら〳〵、ひと〴〵
7.「さ」「つ」「ツ」に付く半濁点符は「さ゜」「つ゜」「ツ゜」として示した。
8.Unicodeで表現できない文字は〓を用いた。
9.句点は原本の位置に付すことを原則としたが、文末に補った場合がある。
10.合字は〔 〕で囲んで示した。 〔例〕殊{〔こと〕}に、なに〔ごと〕、かねて〔より〕
11.傍記・振り仮名は{ }で囲んで示した。 〔例〕人生{じんせい}
12.左側の傍記・振り仮名の場合は、冒頭に#を付けた。 〔例〕めへにち{#毎日}
13.傍記・振り仮名が付く位置の紛らわしい場合、文字列の始まりに|を付けた。 〔例〕十六|歳{さい}
14.原本に会話を示す鉤括弧が付いていない場合も、これを補い示した。また庵点は〽で示した。
15.原本にある話者名は【 】で示した。 〔例〕【はる】
16.割注・角書および長音符「引」「合」は[ ]で囲んで示した。
17.不明字は■で示した。
18.原本の表記に関する注記は*で行末に記入した。 〔例〕〓{たど}りて*〓は「漂+りっとう」
19.花押は〈花押〉、印は〈印〉として示した。
20.画中文字の開始位置に〈画中〉、広告の開始位置に〈広告〉と記入した。

本文の修正
1.翻字本文を修正した場合には、修正履歴を末尾に示す。
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(1オ)
春色{しゆんしよく}連理梅{れんりのうめ}巻之十一
江戸 梅暮里谷峨作
第廿一齣
かきつめて。妬{ねた}さもねたし藻汐草{もしほぐさ}おもはぬかたに
煙{けふり}たちけり。はじめの程{ほど}はそれまでに。妬{ねた}まざりし
を思{おも}ひきやお梅{うめ}は命{いのち}も惜{をし}からじと。思{おも}ふ男{おとこ}の由{よし}之助が。
房次{ふさじ}郎の事{〔こと〕}に就{つき}。用{よう}あるほどにお雪{ゆき}をば。慰{なぐさ}めくれ
よと頼{たの}まれしを。念{こゝろ}にも懸{かけ}されば。只{たゞ}お雪{ゆき}を立{たゝ}せじ

(1ウ)
と。機嫌{きげん}とり〴〵噺{はなし}を断{き}らずけふの役者{やくしや}のよしあし
やら。髪{かみ}の恰好{かつかう}櫛{くし}かんざし。衣服{いふく}の色{いろ}あひ流行模様{りうこうもやう}。好{この}
み好{この}みをわがまゝに。評判{ひやうばん}しツヽ幕{まく}あきを。俟{まつ}間{ま}ほど
なく木のかしら。チヨン〳〵。[山おろしのたいこ]ドロンドン〳〵〳〵〳〵〳〵。
【梅】「ヲヤもうあきますさうだ。早{はや}くお茶{ちや}を入{いれ}て参{まい}りま
せうや。」【雪】「ナニまアよいわね。」【梅】「それでも貴嬢{あなた}いまあが
り度{たい}と|被為仰{おつしやい}ましたから何{なん}でも持{もつ}て参{まい}りますヨ。」ト戯
言{じやうたん}ながら。小{ちい}さな土瓶{どひん}を持{もつ}て厨{かつて}へ行{ゆき}しが。仲{なか}の間{ま}を通{とを}る

(2オ)
とき。由{よし}之助が戯房{がくや}より。お菊{きく}を呼{よん}で廊下{らうか}を連立{つれたち}
わが子舎{へや}へゆくうしろ影{かげ}を。窓越{まどご}しに見かけしかば。ど
うした事かと気{き}がもめて。心{こゝろ}も空{そら}に安堵{おちつか}ず。小土瓶{こどびん}の
茶{ちや}は人托{ひとたの}みに。お雪{ゆき}の前{まひ}へ持{もた}せ遣{や}り。其{その}身{み}は厠{こうか}へと言{いひ}
まぎらして。悄〻地{ひそやか}に由{よし}之助が。子舎{へや}のうしろへ忍{しの}び
寄{より}。偸聞{たちきゝ}しても壁一重{かべひとへ}。裏{うち}のはなしは小声{こゞへ}なるにぞ。
聞{きゝ}とり難{かね}てじれツたき。心{こゝろ}を鎮{しづ}めて耳{みゝ}を澄{すま}せば
折〻{をり〳〵}洩{も}るゝ言葉{〔こと〕ば}のはし〴〵。由{よし}之助が理{わり}なくも。お菊{きく}

(2ウ)
を口説{くとく}く動静{やうす}なり。原来{さては}と胸{むね}も轟{とゞろ}きて。たのみ甲*「口説{くとく}く」の「く」は衍字
斐{かひ}なき男の浮薄{うわき}を。怨{うら}めば太{いとゞ}藻汐草{もしほぐさ}。かくとはし
らで契{ちき}りてし。末{すへ}の松山{まつやま}浪{なみ}越{こ}さぬ。両個{ふたり}が中{なか}も今{いま}さ
らに。空{そら}だのめなる仇{あだ}ゑにし。秋{あき}の扇{あふぎ}とふるさるゝ。
程{ほど}にはいまだ年月{としつき}も。積{つも}らざりしを薄情{うたて}やな。此{この}身{み}が
倦{あき}ての他淫{いたづら}か。とまだ年{とし}更{ゆか}ぬ娘気{むすめき}に。思{おも}ひまわせば哀{かなし}さと
腹立{はらたゝ}しさぞやるせなき。涙{なみだ}に袖{そで}をぬらしける。浩{かゝ}る折{おり}しも舞
台{ぶたい}の方{かた}は。幕{まく}の明{あい}たる動静{やうす}にて。ざゝめきわたるその

(3オ)
中{なか}に。お雪{ゆき}がお梅{うめ}を呼ならん。「お梅さんは何処{とこ}へお出だ
ねへ。お梅さん〳〵。」トお松{まつ}の呼{よぶ}声{こへ}聞{きこ}えるにぞ。這処{こゝ}へ捜{さが}
して来{こ}られては。ついで悪{わろ}しと思{おも}ひければ。心{こゝろ}は跡{あと}へ残
れども。此{この}場{ば}を見捨{みすて}て密{そつ}と立出{たちいで}。厠{こうか}より出しさまに
手洗鉢{てうづばち}にて手{て}を洗{あら}ひながら。手ばやに泣顔{なきかほ}をなを
し。無理{むり}に笑顔{ゑかほ}をつくりつゝ。荐びお雪のお相手{あいて}
して。そしらぬさまに動止{たちふるまふ}。こゝろの中{うち}ぞ怎生{いか}ならん。
斯{かく}ともしらず由{よし}之助は。義理{ぎり}を忘{わす}るゝ痴漢{しれもの}ならねど

(3ウ)
如何{いか}なる心{こゝろ}か房{ふさ}次郎の。情{い}人としりつゝ理{わり}なくも。*「情{い}」は「情{いゝ}」の脱字か
お菊{きく}にせまりて道{みち}ならぬ恋暮{れんぼ}の闇路{やみぢ}に踏{ふみ}まよひ。
強{しい}てわが意{い}になびかせんと。想{おも}ひのたけをかきく
どくに。はじめはお菊{きく}も程{ほど}よくあしらい。串戯{じやうだん}に
言紛{いひまぎら}すにぞ。なを懲{こり}ずまに身をすり寄{よせ}て。当座{たうざ}
の気安{きやす}めのみならず。親子{おやこ}が行末{ゆくすへ}の為{ため}を思{おも}ひ
いと信切{しんせつ}に言{いひ}かけては。房{ふさ}次郎が年{とし}ゆかで。才
智{はたらき}無{なき}を悪敷{わるく}いひ。又{また}はからずも母親{はゝおや}を。たすけし

(4オ)
事{〔こと〕}を恩{をん}にかけて。義理{ぎり}に言葉{〔こと〕ば}をからみ付{つけ}。極{ごく}いや気{き}に
いゝまはし。金{かね}のあるのと男{おとこ}の美{いゝ}のを。鼻{はな}にかけたる
動止{ふるまい}に。恩{をん}も義理{ぎり}もある人{ひと}と。おもへどお菊{きく}は今{いま}さら
に。小面{こづら}が憎{にく}くなりければ。平{ひら}ツたく言{いひ}こなし。命{いのち}を
懸{かけ}し房{ふさ}次郎の。外{ほか}に二人{ふたり}と男{おとこ}の肌{はだ}を。更{ふら}ぬ覚期{かくご}
に究{きわ}めたる。貞女{ていぢよ}を見損{みそく}なツたかと。いはぬばかり
に断{〔こと〕わつ}ても。愛敬{あいきやう}はうしなわで。ほどよくあしらふ
利発{りはつ}もの。由{よし}之助もなか〳〵に。蓄財家{かねもちの}息子株{むすこかぶ}

$(4ウ)
おうめ

$(5オ)
あし
おとを
きかれ

くやし
きり〳〵

蜑の

藻にすむ
虫の
われ
からと
音にこそ
なかね
人を
恨みし

(5ウ)
にて男{おとこ}も美{よ}く程{ほど}もよければ。娼妓{じようろ}唄妓{げいしや}処女{むすめ}の色{いろ}是{これ}
まで度数{どかず}多{おほ}かりしも。僉{みな}惚{ほれ}られての上{うへ}なれば。鉄面
皮{あつかまし}き女{おんな}には。言寄{いひよら}れし事{〔こと〕}こそあれ。此方{こなた}より口
説{くどき}し事は。只{たゞ}の一個{ひとり}もなかりしに。縁{ゑん}は異{い}なもの
あぢな言葉{〔こと〕ば}に。お菊{きく}をくどく肚{はら}の中{うち}。一物{いちもつ}ありや
なき伏{ふす}までに。蜂{はち}をされても野暮{やほ}らしく。腹{はら}を
立{たち}ぬる容子{ようす}もなく。|一霎時{しばし}かんがへてありけるが
【由】「コレサお菊{きく}さん何{なに}も泣{なく}〔こと〕はねへわな。そらほど否{いや}

(6オ)
なら己{おいら}も逢{あは}ねへむかしとあきらめようがしかしまアよく
考{かんか}へてお見よ。おまへばかり房{ふさ}さんを慕{した}ツてゐても向{さき}
は飴{あめ}ん棒{ぼう}に喰付{くひつか}うといふ小僧子{こぞうツこ}だから了簡{りやうけん}も何{なに}も
なくおまへの事なんざア忘{わす}れてしまツてお雪{ゆき}と中
|睦{よ}くいまに表向{おもてむき}夫婦{ふうふ}に成{なつ}て是{これ}見{み}よがしにされた
らつまらねへものじやアねへか。然{さう}成{なつ}たらおまへの
方{はう}でも黙{だま}ツてはゐめへけれど扨{さて}さう成{なつ}た暁{あかつき}は
やツぱり手切{てぎれ}ばなしになるはしれた事だアサ。して

(6ウ)
見るとおまへがいくら義理{ぎり}を立{たて}ても一向{ねつから}つまらね
へものじやアねへか。一昨日{おとゝひ}おまへの家{うち}で見たツけ。梅暮
里連{うめぼりれん}で著作{でき}た辻占度独逸{つじうらとゞいつ}の中{なか}にも〽実{じつ}をつくす
も不実{ふじつ}をするも心{こゝろ}ひとつの相手{さき}しだい」。トいふのか有た*原本に閉括弧あり
が其{その}通{とほ}りだぜ。破家{ばか}律義{りちぎ}も程{ほど}にするが宜{よ}さそうだ。畢竟{ひつきやう}
もう房{ふさ}の方{はう}じやアおまへの事{〔こと〕}を思{おも}はなければこそ
平気{へいき}とお雪{ゆき}にばツかりへばり付{つい}てお前{まへ}の方{ほう}へ行{ゆき}
さうにもしねへのだろう。己{おいら}はしらねへが内〻{ない〳〵}人{ひと}をもツ

(7オ)
ておまへの方{はう}へ音信{たより}をするかしらねへがそりやアほんの
気安{きやす}めで何{なん}ぼなんでも当分{たうぶん}おまへにふり込{こん}でゞもこ
られては迷惑{めいわく}するから其{その}為{ため}の防{ふせ}ぎとは言{いは}ねへから
ツておまへも劬労人{くろうにん}しやアねへか。毫{ちつ}たア邪査{かんくれ}さうな
もんだ。とはいふものゝどんな苦労人{くろうにん}でも向{むかふ}の見{み}へな
く成{なる}のは此{この}道{みち}だけれど夫{それ}も互{たがひ}に迷{まよ}ツてゐる中{なか}なら
尤{もつとも}だが斯{かう}もう破口{ばれくち}に成{なつ}てゐるのが見へてゐながら此
方{こつち}でばツかり実{じつ}をつくすといふものは痴鈍{ばか〳〵}しさがた

(7ウ)
まらねへ斯{かう}いふとまだ未錬{みれん}らしく聞{きこ}へるがどうでも私{あたし}の
㒵{かほ}を立{たて}てくれられなけりやア無{ない}で宜{いゝ}がね破家{ばか}を見た
あげくに後悔{こうかい}しなさんなよ。」ト悪{にくま}れ口{くち}にしやくられて。有
繋{さすが}にお菊{きく}も勃然{むつ}としつ。涙{なみだ}ながらの㒵{かほ}をあげて。とら
れたる手{て}をふり払{はら}ひ。端{ちやん}と座{すは}りて真爾面{ましめ}になり【きく】
「だん〳〵御信切{ごしんせつ}さまに有{あり}がたうございますが私{わちき}も一度{いつたん}
起請{きしやう}までとりかわして死{し}なば諸共{もろとも}と言{いひ}かわしました房{ふさ}
さんでございますもの。どんな事が有{あれ}ばとて別{わか}れる心{こゝろ}は

(8オ)
みじんもありません。そりやア成{なる}ほど|被為仰{おつしやる}とおり私{わちき}
より年{とし}したの房{ふさ}さんでおあんなはるから了簡{りやうけん}もき
まらないで心{こゝろ}が変{かわ}ツたらそれまでの事とあきらめ
ますのさ。どうも私{わちき}のやうな片意地{かたいぢ}ものの三平{おたふく}でござ
いますから早{はや}く倦{あき}られるのも無理{むり}はないと思{おも}へば身{み}
で身{み}を悔{くや}むより外{ほか}に仕{し}かたもございません。だから
仮令{たとへ}房{ふさ}さんはふ実{じつ}でも私{わちき}はどこまでも実{じつ}をつく
して女{おんな}の道{みち}とやらを立{たて}ますよ。とうも今{いま}に成{なつ}て房{ふさ}

(8ウ)
さんに想{おも}はれないのも因縁{いんねん}づくでありませうから弥{いよ〳〵}
然{さう}なら母{はゝ}を見送{みおく}りましてから世{よ}を捨{すて}て尼{あま}になるか
く期{ご}でありますから末{すへ}をあんじて被下{ください}ますには及{およ}びませ
ん。又{また}其{その}ときに成{なり}ましたからとて衣{ころも}の寄進{きしん}をお頼{たの}も
うさうとも申シますまいから御安心{ごあんしん}被成{なすつ}てくださゐまし。」
ト言葉{〔こと〕ば}に角{かど}を立板{たていた}へ。水{みづ}を流{なが}すが〔ごと〕くにて。弁舌{べんせつ}清
亮{すずし}く言放{いひはな}ツ。其{その}面色{おもゝち}の為体{ていたらく}。いかにも貞心{ていしん}堅固{けんご}なるを。試{ためし}
て観{み}ぬく由{よし}之助「アヽ感心〻〻{かんしん〳〵}。どうも今時{いまどき}の娘{むすめ}にはめづらしい

(9オ)
実{じつ}のある子だ。すべて女は然{さう}ありてへものだよ。其{その}心{こゝろ}を聞{きゝ}てへば
かりで今までいやらしくも言{いひ}かけたり憎{にくま}れ口をきいたのさ。嘸{さぞ}
腹{はら}も立ツたろふし悲{かな}しくも有{あつ}ツたろふが実はおまへの心を引*「有{あつ}ツ」(ママ)
て見たのだよ。ならばと言て誰{だれ}にも頼{たのま}れた訳{わけ}でもねへが
その心{しん}底を聞{きい}たからは是{これ}から私{あたし}が引請{ひきうけ}て不及{およばず}ながらし
らきてうめんの侠客気{おとこぎ}で世話{せわ}をしませうといふは它{ほか}でも
ねへがおまへと房{ふさ}さんの縁{ゑん}は妹{いもうと}のお雪{ゆき}が無{な}ければどうにも
して表向{おもてむき}夫婦{ふうふ}になられねへ事もあるまいがお雪といふ

(9ウ)
邪广{じやま}があるゆへ強{しい}て夫婦{ふうふ}になろふとすれば房{ふさ}さんの身{み}
のつまり其処{そこ}をおまへが我{が}まんして日蔭{ひかげ}ものと云{いは}れても
男{おとこ}ゆへとあきらめて腹{はら}も立{たと}うがお雪{ゆき}はまア房{ふさ}さんの
女房{にようぼう}としてサ是{これ}は置{おき}もの同様{どうやう}だからおまへの心{こゝろ}で互{たがひ}
に女房{にようぼう}だ亭主{ていしゆ}だと思{おも}ツてふ実{じつ}のねへやうにしてゐたら
末長{すへなが}く縁{ゑん}の切目{きれめ}もねへといふもの。然{さう}すれば双方{さうほう}浪風{なみかぜ}立{たゝ}
すにおさまるから其{その}内{うち}にやア親父{おやぢ}の気{き}も折{をれ}たら表向
|房{ふさ}さんがお前{まへ}の世話{せわ}をされるやうに成{な}ろうからまアそ

(10オ)
れまでは私{あたし}がなりかわツて妹{いもうと}の義理{ぎり}におまへ達{たち}親子{おやこ}を見{み}
つくから是{これ}からは大船{おゝぶね}に乗{のつ}た気{き}でお在{いで}よ。」ト初{はじめ}て明{あか}す誠心{まごゝろ}
に。お菊{きく}はほツと嘆息{ためいき}を。つく〴〵思{おも}へば由{よし}之助がひとかた
ならぬ信切{しんせつ}に嬉{■れ}しさ餘{あま}りて袖{そで}におく。露{つゆ}や絞{しぼ}りも敢{あへ}ぬらん。
由之助が。お菊の心を引観{ひきみ}る為{ため}に。事{〔こと〕}を三段{さんだん}に分{わけ}
て。口説{くどく}と雖{いへど}も。貞心{ていしん}鉄石{てつせき}の〔ごと〕く。毫{ちつと}も情{こゝろ}を動{うごか}
さぬを感{かん}じ。房{ふさ}二郎が家産{しんしやう}を承嗣{うけつぎ}て。彼{かの}身{み}自
由{じゆう}に成{な}るまで。親子{おやこ}をみつぐといふに縁由{ゆへ}あり。

(10ウ)
曩{さき}に父が本家{ほんけ}の勢{いきほ}ひもて。房{ふさ}二郎を手元{てもと}に
引寄{ひきよせ}。お雪と起臥{おきふし}を共{とも}にさするにぞ房二郎
もまんざら悪{わろ}き事ならねば。お菊の事を
忘{わす}るゝにはあらねど。いつしか水{みづ}洩{も}らさぬ中
と成{なり}て。両親{りようしん}安堵{あんど}に思{おも}ふものから。お菊{きく}房{ふさ}二郎
の中〻{なか〳〵}は。匹鳥{ひつてう}{#ヲシドリ○}膠漆{こうしつ}{#ニカハ○ウルシ}の〔ごと〕くなれば|一露時{し■■}疎遠{そゑん}
に暮{くら}すとも。互{たがい}にこゝろは変{かわ}るまじ。爾{さ}れども
男{おとこ}は恍惚息子{おぼこむすこ}の。井蛙子{せけんみづ}なる故{ゆへ}に。もし行

(11オ)
届{ゆきとゞか}ざる事ありて。引離{ひきはな}れてゐるひがみより。お菊{きく}が
思{おも}ひ違{たが}ひにて。怨{うら}み憤{いきどを}る〔こと〕あらば。親族{みうち}に恥{はじ}をかく事{〔こと〕}
あらん歟{か}。よし爾{さ}はなくともお菊{きく}の恨{うら}みは。お雪{ゆき}ひとりの
上{うへ}にあり。既{すで}にお雪{ゆき}も此{この}頃{ごろ}は。はや妊娠{たゞならぬ}体{からだ}の容子{やうす}。若{もし}
嫉妬{しつと}の怨念{おんねん}かゝりて。彼{かの}身{み}に凶事{きよじ}のあるときは
父母{ふぼ}の悲歎{ひたん}その身{み}の苦患{くげん}。今{いま}よりして推量{おしはか}
れば。心苦{こゝろぐる}しき限{かきり}なり。転{ころ}ばぬ先{さき}の杖{つゑ}となりて
彼等{かれら}親子{おやこ}に恩を掛{かけ}なば。義理{ぎり}としても恨{うら}む

(11ウ)
まじ〔こと〕。思{おも}ふに就{つけ}ても女子{おなご}は水性{みづしやう}。仇心{あだごゝろ}あるものなら
ば。譬言{〔こと〕わざ}にいふ去{さる}ものは。疎{うと}く成{な}る道理{だうり}也。心{こゝろ}を苦{くる}
しむるに及{およ}ばずと。慮{おもひはか}りて三段{さんだん}口説{くどき}に。其{その}心{こゝろ}を引
観{ひきみ}しが。案{あん}の〔ごと〕く貞実{ていじつ}にて。断{きれ}る心{こゝろ}はなか〳〵に。
露{つゆ}ほども無{な}かりしにぞ。扨{さて}こそ思{おも}ふに違{たが}はじと。胸{むね}に
答{こた}へて親子{おやこ}をみつぐ。心{こゝろ}には決{さだ}めたり。是{これ}咸{みな}親{おや}
を思{おも}ひ。妹{いもと}を思{おも}ひ。両個{ふたり}が中{なか}をも想像{おもひやる}。一個{いつこ}の情{じよう}し
り大通人{だいつうじん}。孝{かう}あり義{ぎ}あるの世才子{せさいし}なるかな。

(12オ)
第廿二齣
当下{そのとき}お菊{きく}は㒵{かほ}をあげて「それでは私{わちき}どもにお目{め}を
かけて被下{ください}ますおぼしめしで心{こゝろ}を引{ひゐ}て御覧{ごらん}被成{なす■}たんで*「■」は「つ」の欠損か
ございますね。どうもモウ御信切{ごしんせつ}さまのほどがしみ〴〵
有{あり}がとうござゐます。左様{そん}なおぼしめしとも存{ぞん}じ
ませんけれど実{じつ}思{おも}ツて在{をり}ましただけを申シて
私{わちき}の胸{むね}を清潔{すつぱり}おしらせ申シたから嬉{うれ}しいことは*「潔」は「さんずい+契」
嬉{うれ}しうございますが又{また}考{かんが}へて見{み}ますと寔{ま〔こと〕}に恥{はづ}

(12ウ)
かしうございますわ。ほん気{き}に成{なつ}てあんな事を申シ
ましてからにさぞ己惚{うぬぼれ}た三平{おたふく}だと思{おぼ}しめしまして
お腹{はら}も立{たち}ましたろふが何卒{どうぞ}失礼{しつれい}を申シました事{〔こと〕}は御
免{ごめん}被成{なさつ}て被下{ください}ましヨ。」【由】「どふして〳〵。腹{はら}を立{たつ}どころか
思{おも}ツたよりも見上{みあげ}た心{こゝろ}いきを聞{きい}ちやア今{いま}に成{なつ}て見る
と悪試{わるだめ}しにいろんな事をいツたのが恥{はづ}かしいやうで
此方{こつち}でこそあやまりてへやうだ。ほんに人{ひと}はおまへの様{やう}
に実{じつ}意を持{もち}てへものさ。」【きく】「アレもういやでござゐ

(13オ)
ますねへ。其様{そんな}にお誉{ほめ}被成{なさつ}て被下{ください}ましては面目{めんほく}なく
ツて穴{あな}へでも|這入{はいり}たうござゐますわ。」【由】「ナニおまへが穴{あな}
へはいり度{たい}事があるものか。有{あり}やうは私{あたし}がおまへの穴
へはいらしてもらい度{たい}けれど其処{そこ}が浮世{うきよ}の義理{ぎり}で
さうもいかず殊{〔こと〕}に相手{あいて}が石部{いしべ}金吉{きんきち}じやア金{かね}づく
でも是{これ}ばツかりは出来{でき}ねへ相談{さうだん}だからまア高峰{たかね}
の花{はな}とあきらめて居{ゐ}やせう。アハヽヽヽ。」【きく】「ヲホヽヽヽヽヽ
まだあんな事を|被為仰{おつしやつ}ておなぶん被成{なさい}ますよ。にく

$(13ウ)
らしい。此間{こないだ}に
急度{きつと}意趣{いし}が
へしをして
上{あげ}ますから
おぼへてゐらツ
しやいましよ。」【由】「ハヽヽヽ。
大変{たいへん}だ。それじやア
まア意趣{いし}がへ

$(14オ)
しの
所{ところ}を内済{ないさい}とし
てもらツて何{なに}してもまア
久{ひさ}しぶりで逢{あつ}てお遣{や}り。奥{おく}の囲{かこひ}
へ寝{ね}かして置{おい}たから。」【きく】「ヲヤ房{ふさ}さんにで
ござゐますかへ。」【由】「左様{さう}さ。」【きく】「それでも此方{こなた}の
お内{うち}でお目{め}に掛{かゝ}ツておはなしなぞを致{いた}しましたら悪敷{わるく}
はこざいませんかへ。」【由】「そりや私{あたし}が承知{しやうち}だから宜{いゝ}わな。

(14ウ)
しかし餘{あんま}り長{なが}く成{なつ}ツてはわるいぜ。今{いま}におまへの出幕{でまく}
にも成{なる}だろふし又{また}夫{それ}にはお雪{ゆき}はまだ幼女{ねんねへ}だから然{さう}は
思{おも}ふめへが附{つい}てゐるお松{まつ}といふ女{おんな}が中〻{なか〳〵}くへるのじや
アねへから由断{ゆだん}はできねへよ。もし彼女{きやつ}の目{め}に掛{かゝ}ると
面倒{めんどう}に成{なつ}て己{おいら}までおかしく思{おも}はれると此{この}後{ご}の狂言{きやうげん}
が書{かき}にくいからよく気{き}を付{つけ}ねへじやアいかねへぜ。」【きく】「ハイ
有{あり}がたうござゐます。」【由】「サアそれじやアね其処{そこ}の土蔵
前{どぞうまへ}の長廊下{ながらうか}を真直{まつすぐ}にいツてつき当{あた}りの座敷{ざしき}

(15オ)
から右{みぎ}へまかると椙戸{すぎど}があるからそこを開{あけ}てはいツて
直{じき}左{ひだり}の方{はう}の片方口{かとうぐち}の大皷張{たいこばり}をあけると其処{そこ}に房{ふさ}
さんが在{ゐ}るからまアいツて逢{あつ}て来{く}るさ。もし何{なん}なら今{いま}
来{き}た椽側{ゑんがわ}から下{を}りて垣{かき}に付{つい}て行{ゆく}とぢきその囲前{かこひまひ}
へ出{で}られるからネ庭{には}の方{はう}から行{ゆく}ならお出{いて}。」【きく】「ハイ左様{さやう}
でござゐますか有{あり}がたうござゐます。」トいへど何{なに}やらもじ〳〵
と。立{たち}かねるは流石{さすが}に娘気{むすめぎ}。由{よし}之助は査{さつ}し遣{や}りて「サアそ
れじやア連{つれ}ていつてあげよう。」と先{さき}に立{たち}つゝ方僅{いま}おし

$(15ウ)
木の
戦き
見ては
わするゝ
あふき
かな

$(16オ)

(16ウ)
へたる。倉前{くらまへ}の長廊下{ながらうか}より。件{くだん}の囲{かこひ}の次{つぎ}へともなひ。片方
口{かたうぐち}より囲{かこひ}の裏{うち}へ。お菊{きく}を入{いれ}て由{よし}之助は。荐{ふたゝび}子舎{へや}へもどり
しが。お雪{ゆき}の動静{やうす}こゝろもとなく。舞台前{ぶたいまひ}へ来{き}て見れ
ば。折{をり}しも妹脊山{いもとせやま}の四{し}の切{きり}にて。求馬{もとめ}の跡{あと}をしたひ来{く}る
お三輪{みわ}の役{やく}。こしらへよろしく。「豆腐{とうふ}の御用{ごよう}が遅{おそ}なはる。」ト
お婢{はした}が笑{わら}はせて。引込{ひきこ}むあとに独舞台{ひとりぶだい}。もんきり形{がた}の
せりふありて○{おもいれ}よろしく
〽登{のぼ}るきざはし長廊下{ながろうか}。トちよぼの浄

(17オ)
瑠離{じようるり}につれて。御殿{ごてん}の上{うへ}へあがると。向{むこ}ふより引{ひき}つゞいて。
出来{いでく}る官女{くわんぢよ}に行{ゆき}あひ。たがひに入{いり}かわる身{み}のこなしよろし
く。六人{ろくにん}の官女{くわんじよ}双方{そうほう}へ立{たち}ならび
【官女】「いつに見馴{みなれ}ぬ女子{おなご}じやがそなたは誰{たれ}
じや。」[官女みな〳〵こへたかく]「なにものじやア。」
【けんぶつ大ぜい】「イヨお手{て}ぞろひでござゐますぞ。お三|輪{わ}の日本一{につぽんいち}。」ト囂{がや}
がや誉{ほむ}るその中{なか}に。お梅{うめ}は心{こゝろ}おもしろからねど。色{いろ}には出{だ}
さでお雪{ゆき}お松{まつ}の。主従{しゆうじふ}ともろともに。餘念{よねん}無{な}げなる|形

(17ウ)
容{ありさま}なれば。由{よし}之助は安堵{あんど}して。見物{けんぶつ}の人〻{ひと〴〵}に。それお茶{ちや}よ
莨盆{たばこぼん}と。気{き}を付{つけ}ながら彼方此方{あちこち}へ。なほも心{こゝろ}を配{くば}るほ
どに。いつかお松{まつ}が見へざりしが。|一霎時{しばし}立{たて}ども出{いで}て来{こ}ざ
れば【由】「お雪{ゆき}やお松{まつ}を何処{どつが}へ遣{やつ}たかへ。」【雪】「いゝへどちらへ
も遣{つかは}しはいたしませんよ。」【由】「はてどこへ行{いつ}たかしらン。お梅
女{うめぼう}しらねへか。」【梅】「ぞんじません。」ト[つんとしてふりむきもせずぶたいの方を見てゐる]
【由】「ホイ〳〵強宜{がうぎ}に愛想{あいそ}づかしだ。」[お雪はにつこりしながら]「お梅{うめ}さんが
大{たい}そふまじめだよ。」ト[お雪は何もしらねばなり。此ときお梅がものによそへてうらみをいひあてツこすりのくぜつあるべき

(18オ)
所なれど狂言中{きようげんちう}なればしらぬ㒵也]【由】「ドレ〳〵叱{しか}られないうち逃{にげ}てゆかふ。」【雪】「ヲヤ兄{にい}
さん又{また}どこへか。|被為入{いらツしやい}ますのかへ。」【由】「ナニちよいと炉{ろ}の炭{すみ}をなほし
て来{こ}ようヨ。」ト口{くち}にいへども心{こゝろ}には。お菊{きく}房{ふさ}二郎を忍{しの}ばした
る。囲{かこひ}の裏{うち}が気{き}づかはしく。若{もし}お松{まつ}に嗅付{かんづけ}られては。事の
破{やぶれ}に成{なり}ぬべしと。あんじに胸{むね}も安{やす}からで。彼処{かしこ}へ迄{いた}れば思{おも}ふ
に違{たが}はず。早{はや}くもお松{まつ}は囲{かこひ}の外{そと}より。裏{うち}の動静{やうす}を窺{うかゞ}ふ
体{てい}を。うしろより見て怐{びつく}りしつ。㒵{かほ}見合{みあは}せては。面倒{めんどう}なら
ん。と早{はや}く此方{こなた}へもどりしが。今{いま}にもお松がしか〴〵と。己{われ}に告{つげ}

(18ウ)
なば表向{おもてむき}。捨{すて}て置{おか}れぬ事ながら。本{もと}はといへばわが罪{つみ}也。
わが会{あわ}せしと知{し}られては。此{この}後{のち}蔭{かげ}の繰{あや}がつれず。折角{せつかく}
安穏{おだやか}なるものを。是{これ}より双方{さうほう}に気{き}を持{もち}て。一家{いつけ}の騒
動{そうどう}に成{なり}もやせん。寧何{いかゞ}做{な}して可{よか}らんか。ト深念{しあん}にくれし
が兎{と}も角{かく}も。咡{さゝやき}を偸聞{たちぎか}んと。庭{には}の方{かた}より囲{かこひ}の陰{かげ}へ。そつ
とまわりて窺{うかゞひ}しを。裏{うち}の両個{ふたり}は右左{みぎひだり}に。立聞{たちぎく}人{ひと}のあり
ぞとは。夢{ゆめ}しら川{かは}の関{せき}越{こへ}て。逢{あふ}は名{な}のみの束{つか}の間{ま}や。
気{き}を栬葉{もみぢば}の恋中{こひなか}は。猶{なほ}さら色{いろ}を十寸{ます}かゞみ。く

(19オ)
もらぬ心{こゝろ}いへばゑに。言{いは}で涙{なみだ}にくれなゐの。且{かつ}散{ち}るとし
も見{み}へざりけり。
春色連理梅巻之十一了


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底本:東京大学文学部国語研究室蔵本(4L:124:4)
翻字担当者:金美眞、島田遼、矢澤由紀、藤本灯
更新履歴:
2017年7月26日公開

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