日本語史研究用テキストデータ集

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春色連理の梅しゅんしょく れんりのうめ

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三編上

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春色連理の梅 三編上

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凡例
1.本文の行移りは原本にしたがった。
2.頁移りは、その丁の表および裏の冒頭において、丁数・表裏を括弧書きで示した。また、挿絵の丁には$を付した。
3.仮名は現行の平仮名・片仮名を用いた。
4.仮名のうち、平仮名・片仮名の区別の困難なものは、現行の平仮名に統一した。ただし、形容詞・副詞・感動詞・終助詞・促音・撥音・長音・引用のト等に用いられる片仮名については、原表記で示した場合がある。 〔例〕安イ、モシ、「ハイそれは」ト、意気だヨ、面白くツて、死ンで、それじやア
5.漢字は現行の字体によることを原則としたが、次のものについては原表記に近似の字体を用い、区別した。「云/言」「开/其」「㒵/貌」「匕/匙」「吊/弔」「咡/囁」「哥/歌」「壳/殻」「帒/袋」「无/無」「楳/梅」「皈/帰」「艸/草」「計/斗」「弐/二」「餘/余」
6.繰り返し符号は次のように統一した。ただし、漢字1文字の繰り返しは原本の表記にしたがい、「〻」と「々」を区別して示した。
 平仮名1文字の繰り返し 〔例〕またゝく、たゞ
 片仮名1文字の繰り返し 〔例〕アヽ
 複数文字の繰り返し 〔例〕つら〳〵、ひと〴〵
7.「さ」「つ」「ツ」に付く半濁点符は「さ゜」「つ゜」「ツ゜」として示した。
8.Unicodeで表現できない文字は〓を用いた。
9.句点は原本の位置に付すことを原則としたが、文末に補った場合がある。
10.合字は〔 〕で囲んで示した。 〔例〕殊{〔こと〕}に、なに〔ごと〕、かねて〔より〕
11.傍記・振り仮名は{ }で囲んで示した。 〔例〕人生{じんせい}
12.左側の傍記・振り仮名の場合は、冒頭に#を付けた。 〔例〕めへにち{#毎日}
13.傍記・振り仮名が付く位置の紛らわしい場合、文字列の始まりに|を付けた。 〔例〕十六|歳{さい}
14.原本に会話を示す鉤括弧が付いていない場合も、これを補い示した。また庵点は〽で示した。
15.原本にある話者名は【 】で示した。 〔例〕【はる】
16.割注・角書および長音符「引」「合」は[ ]で囲んで示した。
17.不明字は■で示した。
18.原本の表記に関する注記は*で行末に記入した。 〔例〕〓{たど}りて*〓は「漂+りっとう」
19.花押は〈花押〉、印は〈印〉として示した。
20.画中文字の開始位置に〈画中〉、広告の開始位置に〈広告〉と記入した。

本文の修正
1.翻字本文を修正した場合には、修正履歴を末尾に示す。
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(口1オ)
春色{しゆんしよく}連理梅{れんりのうめ}第三編{だいさんべん}の序{じよ}
花見{うめ}に和合{なかよき}金衣鳥{うぐひす}の。觜羽{はしば}といへば拙著{せつちよ}の梅{うめ}に。
縁{ゑん}ある里{さと}の名所{などころ}へ。不斗{はからず}栖{すみか}を移{うつ}しゝは。|当孟秋{このあき}
朔日{はじめ}の事{〔こと〕}なりけり。抑{そも〳〵}這{この}郷{さと}は。昔{むかし}源{みなもと}の頼朝卿{よりともきやう}奥羽{をうう}
征伐{せいばつ}の時{とき}。船{ふね}を連環{つなぎ}て橋{はし}となし。軍馬{ぐんば}を進{すゝめ}給ひし
より。今{いま}に橋場{はしば}の名{な}は残{のこ}れりとぞ。されば夫木集{ふぼくしう}に

(口1ウ)
「隅田川{すみだがは}昔{むかし}はしらず今{いま}こそは身{み}を浮橋{うきはし}のある世{よ}也
けれ。」是{これ}は康正{かうせう}の|年間{ころ}の詠哥{ゑいか}なれば。其{その}後{ゝち}足利氏{あしかゞうじ}
末世{まつせ}まで。這{この}船橋{ふなばし}はありしと見{み}えたり。扨{さて}這{この}|子方{きた}の
街梢尽処{まちはづれ}に。真崎{まつさき}てふ津口{わたしば}あり。這処{こゝ}の津人{わたしもり}は。むかし
在吾中将{ざいごちうじやう}に。都鳥{みやこどり}の名{な}を示{しめ}しまいらせし者{もの}の子孫{しそん}
とかや。側{かたはら}に小{ちい}さき石橋{いしばし}あり。其{その}枝流{こながれ}を左手{ゆんで}に小田{をだ}を

(口2オ)
右手{めて}に西{にし}に曲{まが}りて二十歩{にじつぽ}ばかり。径{こみち}の中{なか}に又{また}径{こみち}あり。
是{これ}彼{かの}三径{さんけい}の一径{いつけい}にして。即{すなはち}僕{おのれ}が住居{すみか}なり。古風{やぼ}な*「僕」は小書き
|片鄙{いなか}の暮{くら}しには。機{はた}こそ織{を}らね|気補養{きさんじ}に。
夕㒵棚{ゆふがほだな}の下納涼{したすゞみ}。男{おとこ}は裸{はだか}百回{ひやくくわい}の。水滸{すいこ}に映{うつ}る
月蔭{つきかげ}を。詠{ながめ}て向{むか}ふ机{をしまづき}に。紫女{しぢよ}の俤{おもかげ}なつかしとは。
田夫{いなかもの}に相応{ふさは}しからぬ。大言{まうしぶん}なる鼻{はな}の先{さき}。古沢庵{ふるたくあん}

(口2ウ)
に。あらねどもおしが強{つよ}しと押潰{ひしやが}れやせむ。
遮莫{さはれ}近隣{あたり}の閑情{かんせい}なる。且{かつ}這{この}地{ところ}は近年{ちかごろ}迄{まで}。水田{みづた}なり
しを埋{うめ}しとぞ。埋{うめ}に梅{うめ}の訓{くん}相近{あいちか}き。因{ちなみ}はいとも不可思議{ふかしぎ}
なり。爰{こゝ}に至{いた}りて弥{いよ〳〵}ます〳〵。短才不学{たんさいふがく}を顧{かへりみ}ず。連理{れんり}の
梅{うめ}を数十株{すしうツしゆ}に。成{なさ}まく思{おも}ふ大慾心{だいよくしん}の。増長{ざうちやう}しても
新参{しんまい}の。|貧学野人{みづのみびやくせう}文才{こやし}が浅{たら}ねば。硯{すゞり}の丘{をか}に覚束{おぼつか}なく

(口3オ)
も摺塊{すりかたま}りし武佐墨{むさずみ}を。筆{ふで}の鍬{くは}もて突{つき}くづし
腕限{ちからいつぱい}漸〻{やう〳〵}に。楮{かみ}の地面{ひらち}へ書綴{うへつけ}序{ながら}。卜居{ぼくきよ}の披露{ひろう}申ス
ものは。彼{かの}本調子{ほんちやうし}の小唱哥{はうた}ならねど。墨水{すだの}辺{ほとり}の
侘住居{わびずまゐ}。芳宜{はぎ}の栞戸{しほりど}四畳半{よぢやうはん}の。鈴亭{れいてい}に籠{こも}りて
亥の秋。
稿成
梅暮里谷峨誌 谷峨〈印〉

$(口3ウ)
おかる
かつら

$(口4オ)
小玉相呼起問
春階前草色上
羅裙玉釵半堕
無聊頼欲倩牙
繊理乱雲
萃笠翁

$(口4ウ)
○孫康{そんかう}車胤{しやいん}にあらざれば蛍{ほたる}や雪{ゆき}の窓{まど}ならで
冬{ふゆ}は雪{ゆき}にもまがふべき唯{たゞ}白妙{しろたへ}の塗障子{ぬりせうじ}
夏{なつ}は蛍{ほたる}も透{すか}し見{み}る中{うち}ぞゆかしき
玉簾{たまだれ}の誰{たれ}松{まつ}の葉{は}の
こまやかな文字{もじ}を
よみとき合巻{くさざうし}の
作意{さくい}に感{かん}じて
身{み}の行跡{をこなひ}も自然{しぜん}と
女子{おなご}の道{みち}にかなふて優{やさし}き
美{いゝ}娘{こ}と賞{ほめ}らるゝ梅{うめ}か柳{やなぎ}か
是{これ}やさぞ巻中{くわんちう}随一{すいゝち}の
処女{むすめ} お由岐{ゆき}
梅暮里
谷鳳女述

$(口5オ)
○稚衆盛{わかしゆざかり}はよい水仙{すいせん}のと古{ふる}き
はかたを今{いま}もまだ三ン下{さが}りに
口吟{くちずさ}む節{ふし}も刺{とげ}なき風俗{なりふり}は
婦人{おなご}にも
多{おほ}からぬ
花{はな}の
㒵{かほ}ばせ柳{やなき}の
こし眼{め}もとやら
口{くち}もとの愛敬{あいきやう}は実{げ}に
妓衆{ぢよろしゆ}に敵役{てきやく}娘{むすめ}に尤{もつとも}禁物{きんもつ}たる
べき梅{うめ}か柳{やなぎ}か是{これ}もさぞ巻中{くわんちう}
随一{すいゝち}の美少年{わかしゆ} 房二郎{ふさじろう}
梅暮里
谷二述

$(口5ウ)
瓢庵
梅青
楊弓に
小的の
かけや
はつ


(1オ)
春色{しゆんしよく}連理梅{れんりのうめ}巻之七
江戸 鈴亭 梅暮里谷峨作
第十三齣
[中]〽所詮{しよせん}この世{よ}はかのわげの」【ツレ】「恋{こひ}にうき身{み}をなげ
しまだかくごきはめしこゝろをばぬしに何{なに}とぞ
つげのくしあはせかゞみとなくなみだおちて
ながれてびん水{みづ}のあはれはかなき花{はな}のつゆ
きゆる間{ま}ちかき風情{ふぜい}なり。」トをしゆる

(1ウ)
文句{もんく}も物思{ものおも}ふ。胸{むね}にあたりて憂{う}や朦{む}やと。気{き}もをち
つかぬ節廻{ふしまは}し。かゝる歎{なけき}は人{ひと}しらぬ。沖{をき}の石{いし}にやあらね
ども。涙{なみだ}のかはく隙{ひま}もなき。袖{そで}ふる為{ため}の家業{よわたり}は。気{き}が
欝{ふさぐ}とて我{わが}まゝに。日〻{ひゞ}の稽古{けいこ}を休{やすみ}もされぬ。娘{むすめ}ごゝろぞ
哀{あはれ}なる。【菊】「マア今日{けふ}は是{これ}にして置{をき}ませう。」ト[トントン〳〵]
ト[てうしをさけて三味せんをおく]【小娘】「ハイ有{あり}がたうござゐます。左様{さやう}なら
明日{めうにち}はお休{やすみ}でござゐますか。」【菊】「さうさねへ。ナニ朝{あさ}早{はや}く
来{き}てごらんナ。それとも又{また}翌日{あした}の〔こと〕は延引{のびる}かもしれない

(2オ)
からネ。」【小娘】「ヲヤ然{さう}でござゐますかヱ。それじやアマアなり
たけ早{はや}く参{まい}りませう。左様{さやう}なら。」ト帰{かへ}る娘{むすめ}のうしろ
蔭{かげ}見{み}おくるお菊{きく}は溜息{ためいき}咄{つき}【きく】「アヽモウ〳〵此様{こんな}時{とき}
にやア稽古{けいこ}もしみ〴〵否{いや}だ。」ト[見台{けんだい}に肱{ひぢ}をつきひたいに手{て}をあてゝふさぐ折{をり}から]【男】
「ヘイお早{はや}う。昨晩{さくばん}は有{あり}がたうござゐました。」【おきくのはゝ】「ヲヤ
梅川{うめがは}の若衆{わかいしゆ}さんだ。何程{いくら}になりますヱ。」【男】「ヘイ書付{かきつけ}を。」ト
[出{だ}しながら]「お請取{うけとり}にいたして参{まい}りました。」【母】「然{さう}かへ。お菊{きく}やサア。」
【きく】「払{はらひ}かへ。昨夜{ゆふべ}の内{うち}で遣{やつ}てお呉{くれ}な。」【母】「ムヽ然{さう}か。何処{どこ}に

(2ウ)
あるヱ。」【きく】「其処{そこ}のひき出{だ}しにあるヨ。」【母】「ドレどの抽斗{ひきだし}だ
ヱ。」【きく】「アレサじれツたい。莨盆{たばこぼん}のひき出{だ}しへ入{いれ}て置{をい}たは
ねへ。」【母】「然{さう}かそんなら早{はや}く莨盆{たばこぼん}だといへば宜{いゝ}にわか
りやアしないわナ。自己{じぶん}が気{き}が欝{ふさ}ぐと言{いつ}て他{ひと}にまで
当{あた}ツて其様{そんな}にじれる〔こと〕があるものか。可笑{おかし}な子{こ}だ
ノウ。」ト[かみにひねりし金子{かね}のうちより一分銀{いちふきん}を二分{ふたつ}いだし]【母】「サアお待遠{まちどう}ヨ」。【男】「ヘヽヽヽヽ
どふいたしまして。左様{さやう}ならおつりをさし上{あけ}ます。」ト鳥目{ちやうもく}
を算{かぞ}へ【男】「毎度{まいど}有難{ありかたう}ござゐます。」ト[器物{うつは}をうけとりかへりゆく]思{おも}

(3オ)
ひに沈{しつ}む懐{ふところ}へ。㒵{かほ}さし入{いれ}る娘気{むすめき}に。欝{ふさ}ぐ心{こゝろ}を慰{なぐさ}むる。*「懐」の偏は肉月
詞{〔こと〕ば}もあらぬ母親{はゝおや}は。子{こ}に愛{あい}深{ふか}きのみならず。万事{すべて}
やさしき生質{きしつ}より。両人{ふたり}が中{なか}も汲分{くみわけ}て。共{とも}に苦労{くろう}な
風情{ふぜい}なり。【母】「ノウお菊{きく}其様{そんな}にモウ案{あん}じなさんなヨ。
又{また}近日{ちかいうち}にお豊{とよ}どんも来{き}被成{なさる}たらふから然{さう}すりやア
房{ふさ}さんの安否{あんび}も知{し}れやうしはなしの容子{やうす}じやア
房{ふさ}さんの母上{おつかさん}も此方共{こちとら}を悪敷{わるく}ばかり思{おも}ツても
在{ゐ}被成{なさら}なひものだからどうか悪敷{わるひ}様{やう}にばかり

(3ウ)
してお呉{くれ}の〔こと〕もあるまひからマア気{き}を広{ひろ}く
もつて在{ゐ}なヨ。房{ふさ}さんとは元{もと}よりの〔こと〕たし是{こゝ}
ほど深{ふ■}い縁{ゑん}の是{これ}限{ぎり}になりもしまひから。ヨ。ヨお菊{きく}。」
【菊】「モウ〳〵母上{おつかさん}堪忍{かんにん}しておくれ。意外{とんだ}私{わたい}の不行跡{いたづら}
からお前{まへ}にまで苦労{くらう}をかけて済{すま}ないが皆{みんな}前世{ぜんせ}の
因縁{やくそく}とやらだと思{おも}ツて私{わた}やア私{わたい}であきらめて在{ゐ}
ますけれどもお前{まへ}はさぞ世間{せけん}で私{わたい}の此{この}噂{うはさ}を
されたら悔{くやし}くもおありだらふし腹{はら}もお立{たち}たらふがモウ

(4オ)
ちツとの間|辛抱{しんはう}して居{ゐ}てお呉{くれ}。そう〳〵恥{はぢ}をかゝせる
やうな〔こと〕はかりもしませんから。」【母】「なんの堪忍{かんにん}も辛
抱{しんばう}もいるものかナ。是{これ}が能{よく}ある〔こと〕で彼方{あつち}にも此方{こつち}にも
男{おとこ}があツて伐{きる}のはるのといふやうな〔こと〕なら外{くわい}ぶんも
わるいが真実{しんじつ}互{たがひ}に思合{おもひやつ}た中{なか}の又{また}遁{のが}れぬ義理{ぎり}で
離別{わかれる}といふではないが当分{たうぶん}斯{かう}遠退{とうのい}ているばかり
だに世間{せけん}で何{なん}といふ者{もの}があるものか。しかし悪事{わるい〔こと〕}と
いふと尾{を}に尾{を}をつけて評判{ひやうばん}するか世間{せけん}一統{いつとう}のならひ

(4ウ)
だから近処{きんじよ}でどんな噂{うはさ}をして居{ゐ}るかしらなひが
何{なん}と言{いをふ}か世間{せけん}の口{くち}にやアさらへ打捨{うつちやツ}て置{をく}が宜{いゝ}ヨ。」
【きく】「それに又{また}内{うち}へ来{く}る男{おとこ}のお弟子{でし}は断{〔こと〕はる}もんだ
から近所{きんじよ}しやア私{わたい}に花主{だんな}が有{あつ}て其{その}花主{だんな}がやき
もちやきだから男{おとこ}の弟子{でし}をとらせなひのだと言{いつ}て
在{ゐる}とサ。悔{くや}しいじやアないかねへ」。【母】「フヽ何{なん}とでも言{いは}
して置{をく}が宜{いゝ}わナ。蔭{かけ}じやア|鎌倉御所{うへさま}の〔こと〕さへ善
悪{よしあし}をいふ者{もの}があるもの。他{ひと}に何{なん}と言{いは}れても此方{こつち}さへ

(5オ)
清浄{せいじやう}なら天道{てんたう}さまが見捨{みすて}ては下{くだ}さらなひから
又{また}吉事{いゝ〔こと〕}もあるだらうサ。それは左様{さう}と昨夜{ゆふべ}の人{ひと}は
マア何処{どこ}だか。壮年{わかい}にしては心切{しんせつ}な女才{ぢよさい}の無{な}い人{ひと}だ
ノウ。」【きく】「アヽよくお前{まへ}を駕籠{かご}へ乗{のせ}てつれて来{き}て
呉{くれ}たねへ。男{おとこ}も随分{ずいぶん}すツきりとした気障{いやみ}のない
風{ふう}さねへ。」【母】「然{さう}サ。何{なん}でも余程{よつぼと}大家{いゝとこ}の息子{むすこ}さんか
主人{だんな}だらうヨ。着服{なり}もどふして何処{どこ}へ出{だ}してもひけは
とらないノウ。」【きく】「アヽ然{さう}してアノ私{わたい}たちが余{あんま}り強

(5ウ)
情{ごうじやう}に断{〔こと〕はる}ものだから困{こまつ}て莨盆{たばこぼん}の中{なか}へそツといれて
お出{いで}ンだヨ。私{わた}やアちツとも気{き}が付{つか}なんだわ。」【母】「然{さう}サ。
どうも駕籠{かご}で送{おく}ツて貰{もら}ツたばかりも気之毒{きのどく}だに
其{その}うへに又{また}お金子{かね}を囉{もら}ツちやアまことに済{すま}ないが
マアどふしたら宜{よ}からふ。何処{どこ}だか町処{ちやうところ}も言{いは}ないから
礼{れい}に行{ゆく}〔こと〕もできず困{こま}ツたものだのふ。」【きく】「ナニ私達{わたいたち}に
散財{おごら}せて喰{たべ}ちやア不宜{わるい}と思{おも}ツて置{をい}て去{い}ツたンだらふ
わネ。」【母】「それにしても一両{いちりやう}二分{にぶ}あるたらふじやアないか。

(6オ)
余{あんま}り多過{おほすぎ}らアナ。何{なん}でも何{なに}か存寄{りやうけん}があるかもしれ
ないから又{また}近日{ちかいうち}来{き}たら返{かへ}すやうに梅川{うめがは}へ払{はらひ}をせずに
|不手付{そつくり}して置{をけ}ば宜{よか}ツたのふ。あんな風{ふう}をしてゐても人{ひと}の
胸中{こゝろ}は難解{わからない}ものだから由断{ゆだん}はならないヨ。」【きく】「アヽ
そりやア二分{にぶ}ぐらひはどふかして揃{そろへ}てをきますがネ私{わたい}
も解{わから}ないのは勘八{かんぱち}が来{き}た時{とき}狼唄{うろたへ}て厠{こうか}へ|這入{はいツ}たが
帰{かへ}るまで隠{かく}れて出{で}て来{こ}なかツたからおかしいと思{おも}ツ
たわ。」[この〔こと〕ば第{だい}二へん中の巻の了丁{おはり}とよみあはしてその人をしり給ふべし]【母】「ナニ別段{べつだん}にかくれた

(6ウ)
のでもあるまいが腹中{おなか}でも痛{いた}かツたンだらふヨ。」【きく】「イヽヱそれ
からまだ不審{へん}だと思{おも}ツたのわネ帰{かへ}るときあの人{ひと}の脇差{わきざし}を
見{み}て何{なん}だか考{かんがへ}て在{ゐ}たからありやア何{なん}でも勘八爺{かんぱちぢゞい}と
知己{しりやつ}てゐる人{ひと}かもしれないヨ。」【母】「さうかのふ。何{なに}しろ
お前{まへ}とも稽古{けいこ}の噺{はなし}をして去{いつ}たから急度{きつと}又{また}来{く}るだ
らふから其{その}うちにやア何程{いくら}隠{かく}して在{ゐ}ても何者{なにもの}だか
知{しれ}るわな。」【きく】「アヽそれはさうだがネ私{わた}やア夫{それ}が気{き}に成{なる}は。
座成{ざなり}を言{いつ}て置{をい}たから若{もし}万一{ひよつと}謝義{ひざつき}を持{もつ}て入門{おでし}にでも

(7オ)
成{なり}に来{き}たらどうしようかと思{おも}ふヨ。あんなにお前{まへ}が世話{せわ}に
お成{なり}のを無下{むげ}に断{〔こと〕はら}れもせず。さうと言{いつ}てあの人{ひと}ばかり
稽古{けいこ}をしちやアこれまで断{〔こと〕わり}を言{いつ}た近所{きんじよ}の人達{ひとたち}
にすまず。困{こま}るねへ。」【母】「そりやアどうも仕{し}かたが
ないからもし稽古{けいこ}をして呉{くれ}とお言{いひ}なら男子{とのがた}の
お弟子{でし}は皆{みんな}お断{〔こと〕はり}を申シますからと平{ひら}ツたく言{いつ}て断{〔こと〕はる}が
宜{いゝ}わな。」【きく】「アヽ然{さう}さねへ。一度{いちど}気{き}の毒{どく}な思{おも}ひをすれば
宜{いゝ}からやツぱり断{〔こと〕はり}ませうヨ。」【母】「アヽそれが宜{いゝ}とも。

$(7ウ)
雁かねの霜に別るゝ涙かな 駿イハラ 廬阜
おきく

(8オ)
それじやア若{もし}翌日{あした}でも来なさると何{なん}だから揃{そろへ}て置度{おいた}が
どうしようのふ。」【きく】「お金子{かね}かへ。」【母】「然{さう}ヨ。」【きく】「私{わたい}のアノ用
簟笥{ようだんす}の中{なか}の引出{ひきた}しにまだ少〻{ちつと}は有{あつ}たと思{お}ツたから出{だ}
して一所{ひとつ}にしてお置{おき}な。」【母】「さうか。おかねが違{ちが}ツちやアおかし
いが二朱金{にしゆきん}しやアないかヱ。」【きく】「アヽ然{さう}だらふ。」【母】「それじやア
とり替{かへ}て置{おか}ざア可笑{かわい}からふ。」【きく】「アヽ然{さう}サ。どうでも宜{よい}
様{よう}にして置{おき}てお呉{くれ}ナ。今もツて沙汰{さた}が無{ない}から多{た}ぶん
延引{のびる}かもしれないが然{さ}もないと翌日{あした}は朝{あさ}ツから留守{るす}

(8ウ)
だから。」【母】「ヲヽ左様{さう}であツたのふ。お前{まい}も久{ひさ}しく踊{おどり}は休{やすん}て
居{い}たから翌日{あした}はちツと難{なん}儀だのふ。」【きく】「アヽ私{わた}もあつかま
しく否{いや}だけれども是{これ}も身{み}すぎ世過{よすぎ}とやらだからしかた
なしに出{て}るのだわネ。」【母】「ホンニのふ。」ト[にはかに〔こと〕ばの切{きれ}たるは過去{すぎこし}方{かた}をかんがへて今|落{をち}ぶれたる身の程{ほど}
を言{いは}ずかたらず喞{かこつ}なる母娘{おやこ}が歎{なげき}ぞあはれなる]恁{かゝ}るところへ出しぬけに【男】「ハイおししよ
さん。」【きく】「ヲヤ愕{びつくり}しましたは。マア誰様{どなた}かと思ツたら。」【男】「き
ざな冶郎{やろう}かネ。」【きく】「好{すい}た藤{とう}さんで嬉{うれ}しい。」【男】「ホイかぜ
でもひきさうだ。」【母】「ホヽヽヽヽおきくも宜{いゝ}加減{かげん}に人が悪{わる}う

(9オ)
ござゐますねへ。」【男】「イヤモウ今{いま}はじまツた〔こと〕ぢやアねへがネ。」
【きく】「ヲヤ私{わたい}が人の悪{わるい}のがゝへ。にくらしい。」【男】「イヤハヤ来{き}
そふ〳〵憎{にく}まられちやアうまらねへ。トキニお師匠{ししよ}さん
例{れい}の一件{いつけん}ネ弥{いよ〳〵}翌日{あした}に成{なり}ましたから何卒{なにとそ}お頼{たのみ}申シます。」【きく】「
然{さう}でありますかへ。それじやア。アノ此間お咄しの画岸{ゑぎし}に定{きまり}
ましたかへ。」【男】「ヱ左様{さやう}サ。遠方{ゑんばう}でお気{き}之|毒{どく}だが出がけに
私{わたし}が誘引{さそひ}に来{き}ます。」【きく】「然{さう}かへ。それじやア私{わた}やア仕度{したく}を
して待{まつ}て居{ゐ}ますヨ。」【男】「かげ膳{せん}は。」【きく】「ホヽヽヽヽ権八{こんはち}きとりかへ。

(9ウ)
鉄面皮{あつかましい}ねへ。」【母】「ホヽヽヽヽ前髪{まへがみ}はどふ被成{なさつ}たヱ。雲助{くもすけ}におとら
れか。」【男】「母上{おつかア}野暮{やぼ}を言{いち}ちやアいけねへ。男{おとこ}なりせし
だアナ。アハヽヽヽヽ。左様{そん}なら又|翌朝{あすなさ}。」
第十四齣
お菊の愁情{うれひ}にひきかへて。思{おもい}を遂{なと}しきのふけふ。こゝろ
嬉{うれ}しき処女気{むすめき}の。恥{はつか}しいやら楽{たの}しいやら恋{こい}しき男{おとこ}の
側{そは}に。遊{あそ}ひ暮{くら}して余念{よねん}なき。彼{かの}由之助が妹{いもと}の。お雪{ゆき}は
既{すで}に化粧{みじまひ}も。すみて出{て}て来{く}る形容{ありさま}は。|正月上旬{はるまだわかき}

(10オ)
紅梅{こうばい}の。薫{かほり}を籠{こめ}て莟{つぼむ}なる。花{はな}の笑顔{ゑがほ}をつくらふて。
房二郎{ふさじろう}の側{かたはら}へ。しどけなく座{すは}る風情{ふぜい}。他見{よそめ}ですら可愛{かあい}
らしきに。況{まし}て由縁{わけ}ある男{おとこ}の眼{め}から。見{み}たらゆかしさ
限りもなく。譬諭{たとはゝ}唐土{もろこし}の楊貴妃{やうきひ}も。本朝{わがひのもと}の小野{をの}の
小町{こまち}も。上代{ぜうだい}過{すぎ}て古嗅{やぼくさ}く。故人{こじん}杜若{とじやく}がお半{はん}の形容{でだち}
と。其{その}孫{まご}の粂三郎{くめさぶろう}が。八百屋{やをや}お七{しち}に最{もう}一段{いちだん}。愛敬{あいきやう}
ありて上品{しとやか}なる。近年{きんねん}一統{いつとう}お馴染{なじみ}の。紫{むらさき}の上{うへ}か但{たゞ}し又{また}。
異国生{けとうじん}でも耶須多羅女{やすたらによ}か。噫{あゝ}怎生{いか}なれば房二郎{ふさじろう}

(10ウ)
は。実{じつ}に男{おとこ}が美麗{よけれ}ばとて。天縁{てんゑん}斯{かく}の〔ごと〕くなる。好男子{いろおとこ}に
は生{うま}れけん。今{いま}仮{かり}そめにお雪{ゆき}とお菊{きく}を。源|氏{じ}のうへで
見立{みたて}なば。お雪{ゆき}は紫{むらさき}お菊{きく}は彼{かの}。桂{かつらぎ}と黄昏{たそがれ}を。混{こん}じ
て仕立{したて}し娘風{むすめふう}か。しかし看官{ごけんぶつ}の思{おも}ひ〳〵に。見立{みたて}給ふ
所{ところ}もあるべし。何{いづれ}にしても両女{ふたり}のうち。一個{ひとり}に団扇{うちは}を
揚{あげ}がたき。両手{りやうて}に花{はな}の房二郎{ふさしろう}が。此{この}うへの望{のぞ}みには。
両女{ふたり}並{ならべ}て側{かたはら}へ。朝夕{あさゆふ}置{をい}て詠{ながめ}たかるべし。お雪{ゆき}は寛
爾{につこり}笑窪{ゑくぼ}を作{つく}り【雪】「ハイ是{これ}で宜{よろ}しうござゐますかヱ。

(11オ)
貴君{あなた}かいろンな〔こと〕を被為仰{おつしやい}ますからモウ長{なが}く成{なり}まして
いけませんわねへ。」【房】「ムヽ見事{み〔ごと〕}〳〵。それでこそ極上{ごくせう}無
類{むるい}飛切{とびきり}だ。どふも前{せん}の様{やう}に㒵{かほ}が濃{こい}と鼬{いたち}のやうでおか
しい。それに其{その}島田{まけ}の風{ふう}では余{あんま}り白粉{おしろい}が濃{こい}と似合{にあは}
ねへから是{これ}からはちツと顔{かほ}は際取{くつきり}薄{うす}くしなヨ。」【雪】「ホヽヽヽヽ
種〻{いろんな}〔こと〕をおツしやいますヨ。髷{まげ}も斯{かう}結{いひ}ますのはむづかしい
そふで髪結{かみい}がとんなに困{こま}りましたらふ。アノ若旦那{わかだんな}さまが
種〻{いろ〳〵}なお智恵{ちゑ}をお付{つけ}被成{なさる}もんだから結{いひ}にく

(11ウ)
くツてなりやアしないと申シて居{ゐ}ましたヨ。」[是{これ}はおゆきのお嬢さま風{ふう}のやぼなを当
世{いき}にせんとてまげのかつこうけしようのしやうを房二郎がさしづせしなり。実{しつ}は頭上{あたま}の風{ふう}からつくりもおきくに似{に}せてながめて見{み}たくおもふてなり]【房】「
ハヽヽヽヽ然{さう}か。ぜんたい髪結{かみいひ}も餘{あんま}り上手{じやうづ}じやア無{ない}ノ。此様{こういふ}髷{まげ}を
いはしちやアお菊{きく}のかみ結{い}。」ト[いひかけしがこゝろづきて]「あるかへ。」【雪】「なん
でござゐますヱ。」【房】「小菊{こぎく}の紙{かみ}がサ。」【雪】「左様{さやう}さねヘ。
松{まつ}に聞{きい}て見{み}ませう。」【房】「それじやア其{その}序{ついで}にアノ
此間{こないだ}丸利{まるり}から仕立{でき}て来{き}た紙入{かみいれ}を出{だ}して囉{もら}ツて呉{くん}
なゝ。」【雪】「ハイ松{まつ}が存{そん}じて居{をり}ますかへ。」【房】「アヽ仕立{でき}て来{き}た

(12オ)
儘{まんま}松{まつ}に預{あづけ}て置{をい}たから。」ト[いふときお松は継{つぎ}の間{ま}へ来{き}て]【松】「アノお嬢{じよう}さまヱ
左様{さやう}なら此間{こないだ}大丸{だいまる}から仕立{でき}て参{まい}りましたおふり
袖{そで}にいたしませうネ。」【雪】「アヽ母上{おつかさん}に承{うかゞ}ツておくれヨ。」
【松】「イヱ御令閨{ごしんぞ}さまが左様{さやう}|被為仰{おつしやい}ましたンでござゐます。」
【雪】「ム然{それ}じやアネ序{ついで}に先日{いつか}兄{にい}さんからお前{まへ}がお預{あづか}りの
お紙入{かみいれ}を出{だ}して来{き}てお呉{くれ}ヨ。」【松】「ハイかしこまりました。」ト
[いひながら奥{をく}の土蔵{ぬりごめ}へおもむきいろ〳〵の衣服{きもの}をとりそろへて運{はこ}び来{き}たり。やがて着{き}せる]
当下{いまそも}重{かさね}振袖{ふりそで}に。着{き}かえしおゆきが打扮{いでたち}は。|栗皮

(12ウ)
正黒色{くりかはねづみ}の縮繾{かべちよろ}に。葑薹{くゝたち}の[春{はる}の草{くさ}也]模様{もやう}を。いと
あざやかに染{そめ}なしたる褂{うはぎ}に。同{おなじ}染{そめ}の貼裏{したぎ}二重{ふたへ}。
地{ぢ}はおめしの亀綾{かめあや}なり。[是{これ}は世{よ}にありふれたる浮{うき}をり模様{もやう}のあるかめあやにはあらず]
帯{をび}は黄呉縷{きごろう}にて。極好古{ごくしぶき}仕立{したて}に。緋{ひ}の三升
絞{はちだいめしぼり}の。しごきを結下{むすびさげ}たるは。花美{はな〴〵しく}して少〻{すこし}も野卑{げび}
ぬ。取合{とりあはせ}格別{かくべつ}よろしく。白綾{しらあや}の襟{ゑり}に緋{ひ}の|光糸皺
紗{やまゝゆちりめん}の対丈濡絆{ついたけじゆばん}。鏡袋{かゞみつき}は丸利製{まるりじたて}にて。|霜置
哆羅呢{しもふりらしや}へ絹糸{きぬいと}もて。人形手{にんぎやうで}の華布形{さらさがた}を縫取{ぬひとり}。

(13オ)
裏{うら}は惣古金襴織{そふこきんらんをり}脇入{わきいれ}は扇襠{あふぎまち}。鏡{かゞみ}の面{ところ}は窓
開共蓋{まどあきともぶた}。金{きん}と赤銅{しやくどう}の。くぢら合{あはせ}の。釦掛{ぼたんがけ}管鎖
洗香入{くだくさりづかういれ}は小埋{こうめ}の春明{はるあき}が彫{ほり}たる。赤銅{しやくどう}の瓢箪
形{ひやうたんなり}に。金{きん}の古代模様{こだいもやう}の平象眼{ひらぞうがん}。鎖{くさり}も同作{どうさく}にて。
正金{きんむく}をもて。菊鎖{きくくさり}の形{かた}に倣{ならひ}て。一分{いちぶ}五厘{ごりん}程{ほど}の
雪輪{ゆきわ}をつなぎ。其{その}中{なか}に一{ひと}ツ宛{づゝ}。四時{しき}の百花{ひやくくわ}を
彫{ほら}したるを。四寸ン五分ばかりに三筋{さんぼん}。帯{をび}の上{うへ}より
下{さげ}たり。尤{もつとも}其{その}百花{ひやくくわ}の中{うち}に。菊{きく}の無{なき}は。彼{かの}一件{いつけん}を

(13ウ)
嫌忌{けんき}したる。婦女子{ふぢよし}の情態{じやうたい}。嫉妬{しつと}めけども
又{また}憎{にく}むべからず。髪{かみ}の風{ふう}は房二郎{ふさじろう}が好{このみ}に任{まかせ}て
高髷{たかまげ}の野暮{やぼ}を崩{くづ}し。結綿{いひわた}の位置{いち}を少{すこ}し
小{ちい}さくせし結構{かつこう}。古風{やぼ}ならずして卑{いやし}からず。珊瑚
珠{さんごじゆ}の五分玉{ごふだま}を九顆{こゝのつ}。金線{きんし}幾筋{いくすぢ}にか貫{つらぬき}し先{さき}は
おなじ金線{きんし}を一握{ひとにぎり}ほどの房{ふさ}になし。髷{まげ}の根{ね}
より掛{かけ}て。上{うへ}にて結{むすび}ぬる先{さき}を。二三寸ンばかり長{なが}く
切{きり}て。鬢{びん}と髱{たぼ}の間{あいだ}へ下{さげ}たれば。端{はし}の玉{たま}|一二顆{ひとつふたつ}かく

(14オ)
れて。譬{たとは}ば旭{あさひ}の霞{かすみ}に輝{かゞやく}が似{〔ごと〕}し。[さてこのまげひもの製かたは中になる
ところの玉{たま}七ツの穴{すくち}に金糸{きんし}を一ツぱいつらぬき両はしになる玉のすぐちを大{おほ}きく彫{ほり}ぬかせ七玉{なゝつ}を貫{とふ}せし金糸{きんし}を真{しん}にして別{べつ}に又
金しを其すぐち充満{しうふん}にうへこむなり。然{しか}せねばむすひしところふさにならず。房{ふさ}にならざればおもしろからず。是は花美{はて}なるやうに
聞{きこ}ゆれども結{かけ}たるけしきはしぶき〔こと〕最大一{さいだいいち}なり。世にお嬢{しよう}さまと称{せう}せられ給ふ児女達{ひめたち}はかならす是をかけ給はすはあるへからず]
太{ふと}く逞{たくま}しくと言{いは}は馬{うま}めけども。実{げ}に水{みづ}の垂{たる}る
が如{〔ごと〕}き。鼈甲{べつかう}の前{まへ}ざし櫛笄等{くしかうがへとう}。さらに細工{さいく}を
飾{かざ}らす。唯{たゞ}後{うしろ}ざしのみ。唐製{からもやう}の花車{はなくるま}の上{うへ}なる。
花籠{はなかご}より花王{ほたん}の襴漫{らんまん}たるは。彼{かの}故人{こじん}竜桂{りうけい}が

$(14ウ)
おゆき
おまつ
佐保姫の
これも
けはひ歟

$(15オ)
春の雪
駿ミネ
亀嶺
房二郎

(15ウ)
名刀{めいたう}に倣{ならひ}たり。嗟{あゝ}黄金家{だいじん}の深窓育{ひそふツこ}が。頭上{あたま}
より足下{つまさき}まで。幾両{いくそ}の黄金{こがね}や附属{つき}たらん。
看官{みるひと}よろしく直段{ねうちを}附{ふむ}べし。
お松{まつ}は寛爾〻〻{にこ〳〵}嬉{うれ}しそふに【松】「実{ほんと}にモウ〳〵どんなに
能{よく}お似合{にあい}被成{なさい}ました〔こと〕。ネヱ若旦那{わかだんな}さま。」【房】「ムヽヽ
当世{いき}で上品{ひとがら}でとんだ宜{いゝ}。平生{ふだん}よりは又{また}格別{かくべつ}十倍{じうばい}も
美麗{うつくし}く成{な}ツた。」ト[いはれて]【雪】「フヽ。」ト[はづかしさうにわらふ心のうれしさじつと男の㒵{かほ}を見{み}つめ]
【雪】「あんな〔こと〕を|被為仰{おつしやる}ヨ。にくらしい。」【房】「ナニ賞美{ほめ}て

(16オ)
遣{や}るに悪{にく}がるものがあるものか。」ト[わらひながら小形{ちいさ}な本{ほん}をふところへいれる]【雪】「ヲヤ
それは何{なん}でござゐますヱ。」【房】「ナニ是{これ}は私達{わたしたち}も世話{せわ}に
なる作者{さくしや}が綴{かい}た草稿{したがき}サ。先日{こないだ}画岸{ゑぎし}の兄{にい}さんに貸{かす}
約束{やくそく}をしたから今日{けふ}持{もつ}て行{いつ}てあげやうと思{おも}ツて昨日{きのふ}
自家{うち}から取{とり}よせたのだヨ。」【雪】「それじやアお豊{とよ}が持{もつ}て参{まい}り
ましたのかへ。」【房】「アヽ。」【雪】「ちよいとお見{み}せ被成{なさい}な。」ト[うけとり膝{ひざ}のうへに
ひろけて]【雪】「ヲヤ〳〵大{たい}さう種〻{いろ〳〵}な流行唄{はうた}が寄{よせ}てござゐます
ねへ。」ト[|第一丁{はじめ}をくりひろげ]【雪】「|小唱哥{はやりうた}一夕話{ひとよがたり}初集{しよしう}巻之上{まきのじやう}梅暮里{うめぼり}

(16ウ)
谷峨{こくが}集註{しつちう}。ヲヤ〳〵マア細字{こまつか}に書{かい}てありますねへ。
最初{はじまり}は。はるさめそれから同{おなじ}くかへ唄{うた}。ヱヽ思案半{しあんなかば}。夕暮{ゆふぐれ}の
詠{ながめ}。雪{ゆき}は巴{ともへ}。愚痴{ぐち}も出{で}るはづ。仇{あだ}な笑顔{ゑがほ}。おなじくかへ唄{うた}。
ちまた〳〵の青柳{あをやぎ}。ながき夜{よ}の。待乳{まつち}しづんで。宇治{うぢ}は茶
所{ちやどころ}。」ト[文句{もんく}のかしらはかりよみながら一枚〻〻{いちまい〳〵}にはねてまた]【雪】「わが恋{こひ}は。夜{よ}ざくらや。めぐる日{ひ}。
おなじくかへ唄{うた}。アヽ是{これ}サ貴君{あなた}のお好{すき}なのは。」【房】「ド。どれが。」【雪】「
ホヽ此{この}|墨水雨落葉{すみだがはあめのをちば}と申スのさ。」ト[小声{こゞへ}によむ草稿{さうかう}の文章{ぶしやう}]【雪】「しぐるゝや
をちばまじりに萱屋{かやや}の家棟{やね}は降{ふる}ともしらずぬれかゝる〳〵。

(17オ)
隅田川辺{すみだがはべ}の水{みづ}汲{くみ}とりてちよと釜{かま}かけて冬{ふゆ}ごもり床{とこ}に
ゆかしき水仙{すいせん}のすいた同志{どうし}の佗住居{わびずまゐ}いざ〔こと〕問{とは}ん人{ひと}とゝは
ちん〳〵鵆{ちどり}に都鳥{みやこどり}。宜{いゝ}文句{もんく}でござゐますねへ。上{うへ}の細字{こまつか}のが
文句{もんく}の註{わけ}を述{かい}たのでござゐますかのかへ。」【房】「然{さう}サ。読{よん}でお見{み}。」
【雪】「ヱヽ時雨{しぐれ}は冬{ふゆ}十月{かみなづき}より降{ふる}雨{あめ}をいふ。」紀事{きじ}ニ此{この}月{つき}不分*「紀事」に四角囲
昼夜不論{よるひるとなく}陰晴{はれつくもりつして}時々{とき〴〵}|有急雨{むらさめあり}|倭俗是謂志倶礼雨{やまとのひとこれをしぐれあめといふ}。釈名{しやくめう}*「釈名」に四角囲
時雨{しぐれ}は「しばしくらき。」の義{ぎ}なり。ラとレと通{つう}ず。しぐれふる間{ま}はしば*「しばしくらき」は原本に開括弧、閉括弧あり
らく暗{くらし}といへり云〻。ヲヤ〳〵むづかしい〔こと〕が述{かい}てござゐますねへ。

(17ウ)
然{さう}して此{この}四角{しかく}にしてござゐますのは何{なん}の印{しるし}でござゐませう。」
【房】「それは本{ほん}の名{な}で然{さう}いふ書物{しよもつ}にあるといふ〔こと〕だわネ。」【雪】「
然{さう}でござゐますかへ。」ト[又{また}よむ本{ほん}もん]「墨田川{すみだがは}は」江戸砂子{えどすなご}に水上{みなかみ}秩父*「江戸砂子」に四角囲
郡{ちゝぶごふり}より流{ながれ}て大里郡{おほざとこふり}足立郡{あたちごふり}へわたる流{ながれ}なり。荒川{あらかは}ともいふ云〻{しか〳〵}。
東鑑{あづまかゞみ}ニ治承{ぢしやう}四年{よねん}庚子{かのへね}十二月二ツ日三|万餘騎{まんよきの}兵士{つはもの}武蔵{むさし}隅田*「東鑑」に四角囲
川{すみだがは}に陣{ぢん}す云〻。伊勢物語{いせものがたり}ニゆき〳〵て武蔵{むさし}と下{しも}つ総{ふさ}のさかひ*「伊勢物語」に四角囲
なる隅田川{すみだがは}に云〻|又{また}巨田{おほた}持資{もちすけ}入道{にうだう}道灌{だうくわん}鎌倉{かまくら}五山{ごさん}の僧{そう}を
引{ひき}つれて這処{こゝ}に逍遥{あそび}し〔こと〕梅花無尽蔵{ばいくわむじんざう}に見{み}ゆ。斯{かく}のごとく*「梅花無尽蔵」に四角囲

(18オ)
東国{とうごく}随一{ずいゝち}の古{ふるき}名蹟{めいしよ}なり。駿河{するが}にも同名{どうめう}隅田川{すみだがは}あり。其{その}
水岸{すいがん}に庵崎{いほざき}てふ里{さと}もあり。混{こん}ずべからず。古歌{こか}及{また}発句{ほつく}
あれど略{りやく}す。○ちよと釜{かま}かけて云〻{しか〳〵}。是{これ}は茶席{ちやざしき}なり。茶事{ちやじ}は東山{ひがしやま}
義政公{よしまさこう}専{もつ}ら玩{もてあそび}給ふて珠光沼鷗{しゆくはうじやうをう}の先生方{せんせいがた}其{その}式{しき}を立{たつ}。*「専{もつ}ら」(ママ)
其{その}後{ゝち}利休式{りきうしき}を改{あらため}定{さだむ}。今{いま}の千家流{せんけりう}是{これ}なり。水仙{すいせん}替確*「替確類書」に四角囲
類書{せんくわくるいしよ}ニ|以千葉{せんえうをもつて}|為真水仙{しんのすいせんとなす}云〻。本草{ほんさう}ニ玉玲瓏{ぎよくれいろう}といふ。此{この}花{はな}を*「本草」に四角囲
多{おほく}服{ふく}して了{つゐ}に水仙{すいせん}となりし毛唐人{けたうじん}あり。○いざ〔こと〕問{とは}ん。伊勢*「伊勢物語」に四角囲
物語{いせものがたり}ニ「名{な}にしおはゞいざ〔こと〕とわん都鳥{みやこどり}わが思{おも}ふ人{ひと}は有{あり}や無{なし}やと。」*「いざ〔こと〕とわん」の左に二重傍線

(18ウ)
○ちん〳〵乳鳥{ちどり}和漢三才図会{わかんさんさいづゑ}ニ|在江海水辺{うみかはのほとりにあり}百千{ひやくせん}|成群{むれをなす}仍{よりて}|称*「和漢三才図会」に四角囲
千鳥{ちどりといふ}云〻。○都鳥{みやこどり}諸説{しよせつ}|不詳{つまびらかならざ}れども何{いづれ}も觜{はしと}脚{あし}は赤{あか}きよし
いえり。都鳥{みやこどり}の名{な}はそも〳〵万葉集{まんえうしう}ニ「布奈芸保布保利江
乃可波乃美奈伎波爾伎為都々奈久波美夜故抒里香
蒙{ふなぎほふほりへのかはのみなぎはにきゐつゝなくはみやことりかも}。」の哥{うた}見{み}ゆ。伊勢物語{いせものがたり}ニみな人{ひと}見{み}しらず。わたしもりに問{とひ}ければ*「伊勢物語」に四角囲、万葉集の引用歌は原本に開括弧・閉括弧あり
これなんみやこ鳥{どり}といふ云〻。本朝食鑑{ほんちやうしよくかん}ニ伊勢物語{いせものがたりの}都鳥{みやこどり}者{は}鷗{かもめ}也{なり}。*「本朝食鑑」に四角囲
京客{きやうのひと}|不知鷗鳥{かもめをしらず}|拠其形閑麗{そのかたちのうつくしきによりて}以{もつて}|有美夜称{みやこのしようあり}云〻。是{これ}鷗{かもめ}都
鳥{みやこどり}を同物{おなじもの}となす説{せつ}なれども|梅星爺{おのれ}はしからず。愚説{ぐせつ}あれども

(19オ)
茲{こゝ}に略{りやく}す。」ト[一段{いちだん}よみて又|次{つき}をよみかゝる]【房】「モウおもしろく無{ない}からよして
此{この}服紗{ふくさ}へちよいと包{つゝん}でおくれヨ。ヨ。サア」【雪】「ハイと申シたら
唯今{たゞいま}包{つゝ}みますわねへ。」トいと睦{むつ}ましき両個{ふたり}が中{なか}を見{み}つゝ
お松{まつ}は心嬉{こゝろうれし}く己{おのれ}も衣服{きもの}を着{き}かえんとて其{その}身{み}の部屋{へや}へ
出{いで}てゆく。
春色{しゆんしよく}連理梅{れんりのうめ}巻之七畢


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底本:東京大学文学部国語研究室蔵本(4L:124:3)
翻字担当者:梁誠允、矢澤由紀、島田遼、藤本灯
更新履歴:
2017年7月26日公開

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