日本語史研究用テキストデータ集

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春色連理の梅しゅんしょく れんりのうめ

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二編下

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春色連理の梅 二編下

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凡例
1.本文の行移りは原本にしたがった。
2.頁移りは、その丁の表および裏の冒頭において、丁数・表裏を括弧書きで示した。また、挿絵の丁には$を付した。
3.仮名は現行の平仮名・片仮名を用いた。
4.仮名のうち、平仮名・片仮名の区別の困難なものは、現行の平仮名に統一した。ただし、形容詞・副詞・感動詞・終助詞・促音・撥音・長音・引用のト等に用いられる片仮名については、原表記で示した場合がある。 〔例〕安イ、モシ、「ハイそれは」ト、意気だヨ、面白くツて、死ンで、それじやア
5.漢字は現行の字体によることを原則としたが、次のものについては原表記に近似の字体を用い、区別した。「云/言」「开/其」「㒵/貌」「匕/匙」「吊/弔」「咡/囁」「哥/歌」「壳/殻」「帒/袋」「无/無」「楳/梅」「皈/帰」「艸/草」「計/斗」「弐/二」「餘/余」
6.繰り返し符号は次のように統一した。ただし、漢字1文字の繰り返しは原本の表記にしたがい、「〻」と「々」を区別して示した。
 平仮名1文字の繰り返し 〔例〕またゝく、たゞ
 片仮名1文字の繰り返し 〔例〕アヽ
 複数文字の繰り返し 〔例〕つら〳〵、ひと〴〵
7.「さ」「つ」「ツ」に付く半濁点符は「さ゜」「つ゜」「ツ゜」として示した。
8.Unicodeで表現できない文字は〓を用いた。
9.句点は原本の位置に付すことを原則としたが、文末に補った場合がある。
10.合字は〔 〕で囲んで示した。 〔例〕殊{〔こと〕}に、なに〔ごと〕、かねて〔より〕
11.傍記・振り仮名は{ }で囲んで示した。 〔例〕人生{じんせい}
12.左側の傍記・振り仮名の場合は、冒頭に#を付けた。 〔例〕めへにち{#毎日}
13.傍記・振り仮名が付く位置の紛らわしい場合、文字列の始まりに|を付けた。 〔例〕十六|歳{さい}
14.原本に会話を示す鉤括弧が付いていない場合も、これを補い示した。また庵点は〽で示した。
15.原本にある話者名は【 】で示した。 〔例〕【はる】
16.割注・角書および長音符「引」「合」は[ ]で囲んで示した。
17.不明字は■で示した。
18.原本の表記に関する注記は*で行末に記入した。 〔例〕〓{たど}りて*〓は「漂+りっとう」
19.花押は〈花押〉、印は〈印〉として示した。
20.画中文字の開始位置に〈画中〉、広告の開始位置に〈広告〉と記入した。

本文の修正
1.翻字本文を修正した場合には、修正履歴を末尾に示す。
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(1オ)
春色{しゆんしよく}連理梅{れんりのうめ}巻之六
江戸 [春亭]梅暮里谷峨作
第十一齣
人{ひと}や来{き}し柳{やなき}乱{みだ}るゝ宵{よひ}の窓{まど}。外{そと}から覗{のぞ}き込{こま}れや
せんと。配意{こゝろづかひ}も母{はゝ}の留守{るす}。娘{むすめ}のお梅{うめ}唯{たゞ}一人{ひとり}。行灯{あんどう}の
灯{ひ}を掻{かき}立{たて}て。何{なに}か苦{く}になる物{もの}あんじ。丸{まる}めた
皺{しは}をのばしては。裂{さけ}めを合{あは}して読{よみ}とる文{ふみ}
難き■も御座■■存候へども*「■」は書簡の「裂め」部分に相当

(1ウ)
此{この}程{ほど}毎夜{まいよ}うちつゞきあしき
夢{ゆめ}のみ見{み}〔まいらせ{まいらせ}候〕まゝ胸{むね}をいため
心{こゝろ}のひがみとも存{ぞんじ}候ても御遠〻敷{おんとを〴〵しき}
を思{おも}ひ越{こ}し候へば正夢{まさゆめ}と思{おも}ひ定{さだめ}
申さぬ事{〔こと〕}は罪{つみ}深{ふか}きよし承{うけたまはり}
居{をり}候まゝ夢{ゆめ}のあらまし申上〔まいらせ候〕。
昨夜{さくや}も御まへ〔さま〕御事{おん〔こと〕}ま事ニ〳〵

(2オ)
美{うつく}しき十六七の娘{むすめ}と御|中{なか}
むつましく御かたらひの処{ところ}を
見{み}うけ余{あま}り情{なさけ}なき〔こと〕に存{ぞんじ}
胸{むね}もむやくや我{われ}しらず
其{その}娘{むすめ}を引{ひき}はなし御まへ
様{さま}にしがみ付{つき}恨{うらみ}のかつ〴〵
申上〔まいらせ候〕へばさすが御まへ〔さま〕

(2ウ)
も気{き}の毒{どく}そふにいろ〳〵言訳{いひわけ}を
|被為仰{おふせられ}候ゆへ全{ぜん}たい何処{いづこ}の娘{むすめ}
に御座{ござ}候やと承{うけたまはり}候へば直{ぢき}
近所{きんじよ}のものニて名{な}はお梅{うめ}と
言{いひ}母親{はゝおや}と両人{ふたり}ぐらしま〔こと〕に
可愛{かあい}そふだから目{め}をかけて遣{や}る
のだとの御事ゆへなほ〳〵腹{はら}が

(3オ)
たちくやしさ限{かき}りなくつゐ
癇積{かんしやく}がとり|逆上{のぼせ}て御まへ
さまの御膝{おんひざ}を一生{いつしやう}けん命{めい}
に喰付{くひつき}し歯{は}ぎしりの
音{をと}にてふつと眼{め}さめ候へば
お梅{うめ}さんとか申|娘{むすめ}の㒵{かほ}今{いま}に
見覚{みおぼへ}居{をり}〔まいらせ候〕。此{この}夢{ゆめ}もし

(3ウ)
御|胸{むね}に当{あた}り候|事{〔こと〕}も御座{ござ}候はゞ私{わたくし}
ふ便{びん}と思召{おぼしめし}可被下候。女{をんな}の一念{いちねん}
はおそろしきものと我{われ}から
浅{あさ}ましく存〔まいらせ候〕。この末{すへ}。
【梅】「ヲヤ〳〵是{これ}は若旦那{わかだんな}と先〻{とう}から二世{にせ}かけて夫
婦{ふうふ}にならうと約束{やくそく}を被成{おし}だとかいふ名妓{おいらん}のふみ

(4オ)
だがマアどうして私{わたい}の〔こと〕を夢{ゆめ}に見{み}て名{な}まで知{し}ツ
たらう。おそろしいアノ源氏{けじ}の阿古木{あこぎ}の容{やう}だ。」ト
口{くち}のうち。いともの淋{さみ}しき留守{るす}の宿{やど}。何{なに}とやら
怖気{こはげ}だち。気味{きみ}宜{よ}からねば末{すへ}までは。読{よみ}も
果{はた}さず彼{かの}文{ふみ}を。巻{まき}をさめつゝ吐息{といき}つく。うしろ
の障子{しやうじ}にさら〳〵と何{なに}か障{さは}りし物音{ものをと}に。愕{びつくり}し
つゝふり向{むけ}ば。障子{しやうじ}をそツと引開{ひきあけ}て「お梅{うめ}さん。」といふ
声{こゑ}も。いと哀傷{あはれげ}に呼{よび}かけて。長{なが}き黒髪{くろかみ}ふり乱{みだ}し。

(4ウ)
白服{しろむく}着{き}たる幽{ゆう}れいの。すツくと立{たち}しありさまに。
お梅{うめ}はキヤツと玉消{たまぎる}一声{ひとこゑ}。仰反{のけぞり}倒{たふ}れ歯{は}をくひ
しばり。前後{ぜんご}もしらず息{いき}絶{たえ}たり。【由{よし}之助】「お梅{うめ}さん
ヲイ〳〵お梅{うめ}さん〳〵。」トゆすれどさらに気{き}も付{つか}
ねば。驚{おどろき}あはて柄杓{ひしやく}の儘{まゝ}に。汲{くみ}もて来{き}たる水{みづ}を
ふくみ。抱起{だきをこ}しつゝ㒵{かほ}へ吹{ふき}かけ【由】「お梅{うめ}さアん[引]。」
ト耳{みゝ}のもとにて呼{よぶ}声{こゑ}の。やう〳〵に通{つう}じてか
ウヽと蠢{うごめ}くお梅{うめ}をば。しツかりと抱{だき}すくめ。

(5オ)
胸膈{むなさき}をさすりながら。柄杓{ひしやく}の水{みづ}を口{くち}うつしに
飲{のま}して体{からだ}を動揺{ゆすぶれ}ば。グツクと咽{のど}を通{とふり}つゝ。漸{やう〳〵}蘇生{われにかへり}
しお梅{うめ}。眼{め}を細{ほそ}くひらき息{いき}の下{した}に【梅】「若旦那{わかだんな}
さまかヱ。」ト[ぶる〳〵ふるへてしがみつく]。【由】「ムヽヽ己{おいら}だヨ。お梅{うめ}さんしツ
かり仕{し}なヨ。」【梅】「私{わたく}しやアモウ怖{こは}くツて〳〵なり
ましなんだヨ。」【由】「フヽどうしたンだ幽{ゆう}れいも何{なに}もモウ
居{ゐ}やアしねへわな。」【梅】「ヲヤ今{いま}の女{おんな}を貴君{あなた}も
ごらん被成{なさつた}のかへ。」【由】「何{なん}だか己{おいら}ア知{し}りやアしねへ

$(5ウ)
おうめ

$(6オ)
心{こゝろ}に
恐怖{をそれ}を
生{せう}じて
お梅{うめ}
生精{いきすたま}を
見る
窮鬼{いきすたま}

(6ウ)
わな。サアモウ正気{しつかり}したらちやんとしなヨ。もう
|一ト口{ひとくち}水{みづ}を遣{やら}うか。」ト[口{くち}うつし]【梅】「アヽ嬉{うれ}しい。」ト[舌{した}うちして]
「若旦那{わかだんな}さまヱ。」【由】「ヱ。」【梅】「私{わたくしや}アどうしませうねへ。」
【由】「何{なに}を。」【梅】「お噺{はなし}申スも怖{こわい}は。」【由】「何{なに}をいふンだか
つまらねへ。」【梅】「ナニ今{いま}私{わたくし}の眼{め}に見{み}えたのは
貴君{あなた}とお中{なか}の睦{いゝ}女中{じよちう}がわたくしの〔こと〕を知{しつ}て
恨{うらみ}に来{きた}ンでありますヨ。」【由】「ハヽヽヽヽ馬鹿{ばか}を言{いひ}ねへ。」
【梅】「イヱ何{なん}でも然{さう}に違{ちがひ}ございません。」【由】「ナニ他{ひと}

(7オ)
お前{めへ}の外{ほか}に己{おいら}が別{べつ}に言{いひ}かはした女{おんな}がありもしねへ
もの。」【梅】「ヲヤ貴君{あなた}其様{そんな}〔こと〕を|被為仰{おつしやる}けれども北里{ちやう}の
名妓{おいらん}は。」ト[につこり]。【由】「あれは売色{ぢようろ}の〔こと〕だから当座{ほん}の戯遊{なぐさみ}
たはナ。」【梅】「イヽヱ嘘{うそ}をお吐{つき}被成{なさい}まし。私{わたくし}の〔こと〕を夢{ゆめ}に見{み}る
くらゐでございますものヲ。」ト[いはれて胸{むね}にギツクリとあたれどもそしらぬ㒵{かほ}]【由】「
夢{ゆめ}に見{み}たとは。其様{そんな}に強情{ごうじやう}に疑意{うたぐる}と又{また}今{いま}の幽霊{ゆうれい}が
ソレ後{うしろ}に来{き}て居{ゐ}るぜ。」ト[きいておうめはわれしらずうしろを見れば以前{いぜん}のゆうれいかたはらに居{すわ}ツてをるにぞ
また〳〵お梅は]「キヤツ」ト由之助{よしのすけ}にかぢり付{つく}。今{いま}は男{おとこ}の側{そば}なれば。

(7ウ)
眼{め}はまはさねどがた〳〵と。戦栗{ふるへ}て居{ゐ}るを由{よし}之助は
可笑{おかし}がりて【由】「困{こま}る臆病{をくびよう}だノウ。」ト[ゆうれいをひきよせ手{て}にとりて]「ソラ
幽霊{ゆうれい}の正体{せうたい}をマア能{よく}見{み}なヨ。」ト[いはれてお梅はこは〴〵ながらよく〳〵見{み}ればゆう㚑{れい}ならず。
あらひ髪{がみ}の女{おんな}のかつらに白{しろ}りんずのかさね白服{むく}あさぎちりめんのしごきもそへたる是|墨{すみ}ぞめの衣裳{いしやう}なれば]【梅】「ヲヤ〳〵。」ト[手{て}にとり
あげしけ〴〵と見{み}て]「マア憎{にく}らしい若旦那{わかだんな}だ。是{これ}を召{めし}てお驚{おどか}し
なさいましたンだネ。」【由】「アハヽヽヽ一番{いちばん}喰{くつ}たらう。」【梅】「笑{わら}ひ
ごツちやアありませんはネ。私{わたくし}はモウ少{すこ}し怖{こわい}〔こと〕がありまし
てひとりで誠{まこと}に気味{きみ}が悪敷{わるい}と存{ぞん}じて在{お}ツたところで

(8オ)
ありましたから貴君{あなた}に驚{おどか}されるとは少{すこ}しも気{き}がつき
ませんだツたヨ。然{さう}してマア此{この}衣裳{いしやう}は如何{どう}被成{なさる}ので
ございますヱ。」【由】「ハヽヽヽこの衣裳{いしやう}は此頃{このごろ}他家{わき}に祝事{いはひ〔ごと〕}
があつて己{おいら}の友{とも}だちが素狂言{しろときやうけん}を頼{たのま}れたに付{つい}て翌日{あした}
下{した}ざらひに座{ざ}しきをかして遣{や}る約{やく}そくをしたも*「したも」(ママ)
だから今{いま}しがた衣裳{いしやう}つゞらだの諸道具{いろ〳〵なもの}を運{はこん}で
来{き}たのだ。」【梅】「ヲヤ〳〵それはさぞおもしろうござい
ませうねへ。拝見{はいけん}いたす〔こと〕は出来{でき}ませんかねへ。」【由】「

(8ウ)
見{み}せるとも。お前{めへ}に見{み}せやうと思{おも}ツて家{うち}を貸{かし}て遣{や}る
のだアナ。」【梅】「ウヽうまく|被為仰{おつしやる}ヨ。」【由】「実{ほんとう}ヨ。それだ
から今夜{こんや}から衣裳{いしやう}のした見{み}をさせたのだに。眼{め}を
まはして呉ずとも宜{いゝ}にヨ。アハヽヽヽヽ。」【梅】「それでも実{ほんとう}に
肝{きも}を潰{つぶし}ましたものヲ。若{もし}万一{ひよつと}あれツきり私{わたくし}が死{しん}だら
どうなさる。」【由】「さうすりやア直{すく}と己{おいら}も死{しぬ}のヨ。」【梅】「ヱ。」ト[につこり]。
「若旦那{わかだんな}ヱ。」【由】「なんだ。」【梅】「然{さう}して被下{くださ}ツたら爰{こゝ}へ済{す}み
ますまい。」ト[先{さき}ほどよみし文{ふみ}を少{すこ}しはかりそでから出{だ}してみせる]。【由】「ヲヤそりやア何{なん}だ。」

(9オ)
ト[手{て}をだすをまたたもとへおしかくせばむりにとらんとしてくすぐるをお梅はやう〳〵ふりほどきにげ出{いだ}せば追{おひ}かける出合{であい}がしら]
【下女】「若旦那{わかだんな}さまヱどなたかお客{きやく}さまが|被為入{いらつしやい}ました
からお迎{むかひ}に参{まい}りました。」
第十二齣
客{きやく}の帰{かへり}し其{その}跡{あと}を片付{かたづけ}ながら【下女】「今晩{こんばん}は更{ふけ}やうかと
存{そん}じましたら大{たい}そふ早{はや}くお帰{かい}ン被成{なさい}ましたねへ。」【由】「ウン
是{これ}から又{また}北里{ちやう}の大藤{だいとう}へ廻{まは}ツて狂歌連{きやうかれん}を頼{たのむ}とヨ。」【下女】「ヲヤ
左様{さやう}でございますかヱ。彼{あの}方{かた}が会{くわい}を被成{なさる}のでございますかへ。」

(9ウ)
【由】「然{さう}ヨ。」【下女】「貴君{あなた}に会幹{おせはやき}をお頼{たのみ}なさりに被来{こられ}たので
ございますネ。」【由】「ムヽ三河町{みかはちやう}の初音園{はつねゑん}を誹諧{はいかい}の心添{こゝろぞへ}に
頼{たのん}で呉{くれ}ろと言{いつ}て十時庵{とゝきあん}からも添書{てがみ}を付{つけ}てよこしたから
否{いや}とも言{いへ}ねへ。」ト【下女】「左様{さやう}でございますかへ。どうでお隙{ひま}で
|被為在{いらつしやい}ますから其様{そんな}お世話{せは}なら能{よく}被成{なさつ}てお遣{やん}被成{なさる}が宜{よう}
ございます。」ト[勝手{かつて}へ立{たつ}てゆく。由{よし}之助は囲{かこい}に入て炉{ろ}の炭{すみ}をなほして居{ゐ}るところへあはたゞしく来{きた}り]【下女】「若旦那{わかだんな}さまヱ
横浜町{よこはまちやう}の若旦那{わかだんな}がお出{いて}被成{なさい}ました。」【由】「ナニ房{ふさ}さんが歟{か}。今
時分{いまじぶん}どうして出かけて来{き}たンだしら。■ア爰{こゝ}へ通{とふ}しなナ。」【下女】「イヱ

(10オ)
まことに急用{きうよう}だから爰{こゝ}で一寸{ちよいと}おめにかゝり度{たい}。この通{とふり}提灯{てうちん}も
灯{つけ}ずに来{き}たくらゐだと|被為仰{おつしやい}ましてセイ〳〵いつていらツ
しやいます。」【由】「然{さう}か。今夜{こんや}はマア思{おも}ひも付{つか}ねへ人{ひと}ばかり来{くる}
ノウ。しかしマア何用{なによう}だか|窶坐敷{かこい}へ来{く}る隙{ひま}ぐれへ惜{をしむ}〔こと〕も
なからうからお通{とふり}なさいと言{いつ}て連{つれ}て来{き}なヨ。」【下女】「ハイ左様{さやう}
でございますか。」ト[わらひながら立{たつ}て行{ゆく}。やがて次{つぎ}の間{ま}まで房{ふさ}二郎をつれきたれば由{よし}之助は座{ざ}をなほし]【由】「サア
房さん此方{こつち}へお|這入{はいん}なせへ。何{なに}が其様{そんな}に急用{きうよう}が出来{でき}たヱ。」
ト[いへどもさらに答{いらへ}なければ由{よし}之助はふしんにおもひ心{こゝろ}あたりのなきにあらねば男ながらも房二郎はまだ年{とし}ゆかで子{こ}ども同{どう}ぜんむねにせまりし〔こと〕など

(10ウ)
ありて急{きう}にものもいへぬかとおもひ]【由】「マア何{なに}にしろ爰{こゝ}へお出{いで}。丁度{てうど}釜{かま}も烹{にへ}てきた
から一服{いつぷく}進{あげ}やう。何{なん}だかしらねへが迫{せへ}た処{ところ}が成{なる}様{やう}にほか
ならぬ物{もの}だから気{き}を落付{をちつけ}て在{ゐる}〔こと〕サ。」ト[いひつゝ立{たつ}て房{ふ■}二郎を見るにこゝはあかりも
遠{とを}ければうすぐらくておぼろげなれども頭巾{づきん}をかぶりてゐるゆへ]【由】「なんだ房{ふさ}さん何程{なんぼ}急{いそ}い
だツてマア頭巾{づきん}は脱{とれ}ば宜{いゝ}に。アハヽヽヽヽサア此方{こつち}へお出{いで}ヨ。」ト
[手{て}をとりてつれゆくを]【下女】「フヽ。」ト[ふき出{だ}しわらへばこなたもたまらずクヽとわらふに由{よし}之助は気{き}がついて]【由】「ヲヤ
頭巾{づきん}も羽織{はをり}も己{おいら}のだノ。誰{だれ}だ。ヱヽヽお梅女{うめぼう}か。こいつア
一仕組{いちばん}くツたか。アハヽヽヽヽ。」【梅】「先刻{さつき}の遺恨{ゐし}をやつとかへしま

(11オ)
した。[ヲホヽヽヽヽホヽヽヽヽ]。」【下女】「ヲホヽヽヽヽ若旦那{わかだんな}さまがまじめにお請{うけ}被成{なさ}ツた
お㒵{かほ}と言{いつ}たらモウ〳〵可笑{おかし}くツてたまりましなんだヨ。」【由】「
べらぼふめ。両個{ふたり}して強{ごう}ぎに骨{ほね}を折{をつ}て欺{だまし}たンだの。アハヽヽヽヽモウ
其様{そんな}に寄{よつ}てかゝつて馬鹿{ばか}にするとこの子{こ}は泣出{なきだ}すヨ。」【梅 下女】「*「[梅 下女]」はスペース部分で改行
[ヲホヽヽヽヽホヽヽヽヽ]。」【由】「ドレ〳〵欺{だま}され賃{ちん}に一服{いつぷく}戴{いたゞこ}う。お梅女{うめぼう}一服{いつぷく}
たつて呉{くん}な。」【梅】「ヲヤ〳〵それじや私{わたくし}も驚{おとか}されました
から驚{おどか}されちんを戴{いたゞき}たうございますネ。それでないと
私{わたく}しやア引合{ひきあい}ません。」【由】「ハヽヽヽそりやアお前{めへ}の好{すき}な越後

(11ウ)
屋{ゑちごや}の遠山{とをやま}も鶏蛋餻{かすてら}もあるし又{また}浅草{あさくさ}のよしの屋{や}の
羊羹{ようかん}もあるから遣{やる}わな。」【梅】「ホヽヽ然{そん}なら立{たつ}て進{あげ}ませう。」
【由】「大{ひど}く恩{をん}にかけるぜ。然{さう}して喰意地{くひゐぢ}が張{はつ}てゐるから
何{なん}でも喰{くひ}もので無{ねへ}と動{うご}かねへ。下品{げすばつた}娘{むすめ}だヨノウ。」【下女】「ホヽヽヽヽ
ヲホヽヽヽお梅{うめ}さんあんな〔こと〕をおつしやられて外聞{ぐわいぶん}の悪{わる}い。
マア黙{だま}ツてお在{いで}の〔こと〕がありますものか。」【梅】「イヽヱどうせ
若旦那{わかだんな}の悪口{わるくち}にはかないませんからだまつてゐますヨ。
ヲヤ服紗{ふくさ}がございませんは。」【由】「ムヽ己{おいら}が提{さげ}て居{ゐ}た。サア。」

(12オ)
【梅】「ハイ。」ト[出{だ}す手{て}をひきとらへ]【由】「サア今{いま}よく欺{だま}したノ。」ト[くすぐられキヤア〳〵と
はねまわるはづみに袂{たもと}から何{なに}かかきしかみきれが出{いで}けるを由之助は手{て}ばやくとりあげ]【由】「アヽ宜{いゝ}もの拾{ひろ}ツた。」【梅】「
ヲヤそれは有用{いる}のでございますヨ。」ト[とらんとするをおしへだて]【由】「なんだ
と仇{あだ}な笑{ゑ}がほのかへ唄{うた}。ハヽヽヽつまらねへものを大騒{おほさはぎ}やる
なア。ドレ〳〵ヱヽ。」と
本てうし〽雨{あめ}の尾花{をばな}をあれ女郎花{をみなへし}[合]みだるゝ葛{くづ}のはな
かづら[合]つゞれさせてふ蘭{ふぢばかま}[合]小芳宜{こはぎ}の露{つゆ}を松虫{まつむし}
すだく[合]空{そら}にもまがふ朝㒵垣{あさがほかき}にもたれて

(12ウ)
遊{あそ}ぶ撫子{なでしこ}の可愛{かあい}らしさと[合]曳{ひ}く袂{たもと}肌寒{はださむ}さう
じやアないかいな[合]
【由】「ムヽこりやア梅暮里社中{うめぼりれんぢう}で作{でき}たのだ。此{この}書{ほん}の作者{さくしや}が
序{じよ}を作{かい}た小唱歌図絵{はうたづゑ}の初編{しよへん}に見{み}えたツけ。何処{どこ}から
此様{こんな}ものを写{うつ}して来{き}たのだ。」【梅】「それは私{わたくし}の友逹{ともだち}のお蝶{てふ}
さんが書{かい}て呉{くれ}ましたンでございますヨ。」【由】「然{さう}か。マアさう
いへばお前{めへ}に見{み}せるものがあつた。アノ再昨{をとゝい}駿河{するが}から着{きた}
状{じやう}は如何{どう}したツけノ。」【下女】「アノ用捨箱{ようしやばこ}へお入{いれ}遊{あそ}ばしましたらう。」

$(13オ)
爰{こゝ}にいふ用捨箱{ようしやばこ}は下{した}に図{づ}したる〔こと〕く冠{かぶ}せぶたの上面{うへ}に羽子板{はごいた}の形{かた}ちに
似{に}たる孔{あな}を彫{ほり}ぬき其{その}側{かたはら}に用捨{ようしや}の二字{にじ}を印{しる}し箱{はこ}の四方{まはり}に散紅葉{ちりもみぢ}の
蒔絵{まきゑ}を置{を}けり。是{これ}は今{いま}の状{じやう}さしと相{あい}おなじく他{わき}よりきたる
書状{しよじやう}を入{いる}るものなり。まだ入用{いりよう}の書{てがみ}は用{よう}の孔{あな}へ入{い}れもはや
不用{いらぬ}は捨{しや}の孔{あな}へ入{いる}。勿論{もちろん}箱{はこ}の中{うち}に隔板{しきり}あり。
こゝをもて用捨{ようしや}の名{な}あり。近年{ちかごろ}お馴染{なじみ}の
古|柳亭{りうてい}種彦{たねひこ}が随筆{すゐひつ}に用捨箱{ようしやばこ}と
題{だい}ししは即{すなはち}是{これ}なり。既{すで}に其〓に*〓は用捨箱の穴の絵
形{かた}ちを表{あらは}せり。こは誰{たれ}もしる〔こと〕ながらいくのゝ
道{みち}にあらねどもまだふみも見{み}ぬ
大江戸{おほえど}の児女逹{ひめたち}に示{しめ}すのみ。梅星爺{うめぼしぢゞい}がぐど〳〵と
あらずもがなとなわらひ給ひそ。うぐひすや蓋{ふた}あけて見{み}る用捨箱{ようしやはこ}。 乙彦。

(13ウ)
【由】「ムヽ|然也〻〻{さう〳〵}。アノ是{これ}はノお梅{うめ}さん駿河{するが}の庵原{いはら}といふ処{ところ}に
山梨{やまなし}といふ豪家{たいけ}の主人{だんな}が廬阜{ろふ}と号{いつ}て己{おいら}の誹友{はいゆう}サ。
其{その}又{また}山{やま}なしの朋友{ともだち}に佐野{さの}亀嶺{きれい}と号{いふ}人{ひと}がこし
らへたのだが口舌{くぜつ}して思{おも}はせぶりの陽睡{そらね}といふソラ
八幡{はちまん}がねのかへ唄{うた}だヨ。己{おいら}が読{よん}で聞{き}かさう。」
[本てうし]〽縁{ゑに}しさへ酔{よう}たまぎれの神{かみ}わざか開{あけ}たせうじ
をたてつけてつゐころび寝{ね}のそのまゝに乱{みた}
れて濡{ぬる}るまくら紙{がみ}岩{いわ}もとがねの後朝{きぬ〴〵}に

(14オ)
わかれともなき袖{そで}の露{つゆ}。
【梅】「ヲヤ〳〵大{たい}さう好風{いき}に作{でき}ましたねへ。」【由】「うまく作{でき}た
ノウ。岩本{いわもと}といふところは彼地{あつち}の鐘楼{ときのかね}のあるところだヨ。」
ト[このうち茶{ちや}もたてゝしまひ下女も勝手{かつて}へたつてゆく]。【梅】「若旦那{わかだんな}ヱ私{わたく}しやアまだ
胸{むね}がドキ〳〵しますは。」【由】「ハヽヽヽ先刻{さつき}の幽霊{ゆうれい}でか。」【梅】「ハイ
こら御覧{ごらん}なさい。」【由】「ドレ〳〵。」【梅】「ネ。ソラ動気{します}だらう。先
刻{さつき}はモウ自汗{ひやあせ}をびツしよりかきましたヨ。にくらしい。」
【由】「己{おいら}はかわいらしい。」【梅】「ア。アレサ」【由】「イヽじやアねへか自汗{ひやあせ}

$(14ウ)
おうめ。

$(15オ)
貧{ひん}を憐{あはれみ}て
由{よし}之助
お梅{うめ}を愛{あい}す。
由之助。

(15ウ)
ばかりかゝしちやア気{き}の毒{どく}だから此度{こんど}は実{ほんと}の汗{あせ}をかゝして
やらふと思{おも}ツてヨどふだ」ト[ゑくぼのところをちよいとつく]【梅】「フヽそれでも」【由】「
それでもなんだ否{いや}ならよさうか」【梅】「アレ否{いや}じやアあり
ませんがネお三{さん}どんがなんとかおもひませうねへ。」【由】「なんと
おもつても宜{いゝ}やな。老女{としより}だから。」【梅】「それでも私{わたく}しやア
ま〔こと〕に間{ま}が悪{わる}うございますは。それに此間{こないだ}からいろんな
〔こと〕を言{いつ}て私{わたくし}を嬲{なぶ}ツていけませんものを。」【由】「ハヽヽヽヽ然{さう}か。
彼女{ありや}ア気{き}が若{わけへ}から老女{としより}らしくねへノウ。」【梅】「かわいさう

(16オ)
にまだ老女{としより}と申スほどじやアありませんわネ。」【由】「ナニさう
でもねへ。」【梅】「それでもネ。」ト[わらつてゐる]。【由】「何{なに}をわらふのだ。」【梅】「
フヽおかしい〔こと〕がありますヨ。」【由】「なんだ可笑{おかし}い〔こと〕もひとりで
承知{せうち}してゐるばかりじやア解{わから}ねへ。」【梅】「アノネ。アノウ
おさんどんは貴君{あなた}に惚{ほれ}きツてゐますヨ。」【由】「ハヽヽヽなんだナ
ばかを言{いひ}ねへ。」【梅】「イヽヱそれでも此間{こないだ}貴君{あなた}がお風邪{かぜ}
を召{めし}てお臥{やす}みなさいました時{とき}もアノ大師{だいし}さまへ
お茶{ちや}だちをしましてそれはモウどんなに気{き}を付{つけ}て

(16ウ)
御看病{ごかんびよう}いたしましたかしれはしません。実{じつ}がありますねへ。
それだから可愛{かあい}がつてお遣{やん}なさいましな。ホヽヽヽ。」【由】「かわい
さうな〔こと〕を言{いひ}なさんな。ばか〳〵しい。」【梅】「それでも実事{ほんとう}で
ございますものを。それだから此{この}頃{ごろ}じやア蔭{かげ}でわたくしに
どんなに当{あたり}ませう。私{わたく}しやアモウ気{き}の毒{どく}でなりませんは。」
【由】「つまらねへ〔こと〕を言{いひ}ねへ。おもしろくもねへ。」【梅】「つ
まらなかアありませんヨ。あんなに思{おも}て居{ゐ}ますものを。*「思{おも}て」(ママ)
可愛{かあい}がツておやんなさいましな。」と[からかいながら男のかほをのぞく]。【由】「フン

(17オ)
宜{い■}かげんにしねへア。モウ其様{そんな}〔こと〕をいふと斯{かう}たヱ」【梅】「ア。
ソレくすぐツたうごさいます」【由】「いつまで其様{そんな}に擽{くすぐ}ツ
たがるものかあるものかソレ見な此様{こんな}にしてゐるくせに」
ト跡{あと}は何{なに}やら黙{だんまり}の折節{をりから}天井{てんしやう}の鼠{ねつみ}がゴソ〳〵〳〵。
【下女】「アヽモウそちこち亥刻{よつ}だらふ。トレ寝仕{ねじ}たくでも
しませうか。」ト[立{たち}かゝりなから]「この火鉢{ひばち}の火{ひ}はモウ消{け}しても
よからうかしら。」トいふ時{とき}囲{かこい}に「アヽヽイヨ」ト幽{かすか}に洩{もる}る声
音{こはね}さへ。息{いき}のはづみに毫先{ふてさき}も。はづむ作者{さくしや}が気{き}を鎮{をちつけ}て

(17ウ)
巻{まき}を接{つき}ほの連{れん}りの梅{うめ}濡{ぬれ}ばながらに重編{をいたゞ}しこれ
よりお梅{うめ}由之助{よしのすけ}の恋〻{れん〳〵}和合{わがう}故障{こしやう}もなく。女夫{めうと}になるか
なられぬか。且{かつ}お雪{ゆき}といふ儲膳{すへせん}の箸{はし}を採{とり}て房{ふさ}二郎が
お菊{きく}の終身{しまつ}を如何{いかに}ぞする。それ是{これ}口舌{くせつ}と愁歎場{しうたんば}を
三編{さんへん}四編{しへん}に相{あい}著{あらは}し。続{つゐ}て出板{しゆつはん}仕候。あはれ十方{じうはう}の看官{ごけんふつ}。
ひとへに梅星爺{さくしや}おとり立{たて}を願上{ねがひあげ}奉り候。相{あい}も不替{かはらず}
御贔屓{ごひゐき}に愛観{あいくわん}あらせ給ひねかし。
春色連理梅巻之六畢


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底本:東京大学文学部国語研究室蔵本(4L:124:2)
翻字担当者:洪晟準、矢澤由紀、成田みずき、藤本灯
更新履歴:
2017年7月26日公開

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