春色連理の梅 二編中
----------------------------------------------------------------------------------
凡例
1.本文の行移りは原本にしたがった。
2.頁移りは、その丁の表および裏の冒頭において、丁数・表裏を括弧書きで示した。また、挿絵の丁には$を付した。
3.仮名は現行の平仮名・片仮名を用いた。
4.仮名のうち、平仮名・片仮名の区別の困難なものは、現行の平仮名に統一した。ただし、形容詞・副詞・感動詞・終助詞・促音・撥音・長音・引用のト等に用いられる片仮名については、原表記で示した場合がある。 〔例〕安イ、モシ、「ハイそれは」ト、意気だヨ、面白くツて、死ンで、それじやア
5.漢字は現行の字体によることを原則としたが、次のものについては原表記に近似の字体を用い、区別した。「云/言」「开/其」「㒵/貌」「匕/匙」「吊/弔」「咡/囁」「哥/歌」「壳/殻」「帒/袋」「无/無」「楳/梅」「皈/帰」「艸/草」「計/斗」「弐/二」「餘/余」
6.繰り返し符号は次のように統一した。ただし、漢字1文字の繰り返しは原本の表記にしたがい、「〻」と「々」を区別して示した。
平仮名1文字の繰り返し 〔例〕またゝく、たゞ
片仮名1文字の繰り返し 〔例〕アヽ
複数文字の繰り返し 〔例〕つら〳〵、ひと〴〵
7.「さ」「つ」「ツ」に付く半濁点符は「さ゜」「つ゜」「ツ゜」として示した。
8.Unicodeで表現できない文字は〓を用いた。
9.句点は原本の位置に付すことを原則としたが、文末に補った場合がある。
10.合字は〔 〕で囲んで示した。 〔例〕殊{〔こと〕}に、なに〔ごと〕、かねて〔より〕
11.傍記・振り仮名は{ }で囲んで示した。 〔例〕人生{じんせい}
12.左側の傍記・振り仮名の場合は、冒頭に#を付けた。 〔例〕めへにち{#毎日}
13.傍記・振り仮名が付く位置の紛らわしい場合、文字列の始まりに|を付けた。 〔例〕十六|歳{さい}
14.原本に会話を示す鉤括弧が付いていない場合も、これを補い示した。また庵点は〽で示した。
15.原本にある話者名は【 】で示した。 〔例〕【はる】
16.割注・角書および長音符「引」「合」は[ ]で囲んで示した。
17.不明字は■で示した。
18.原本の表記に関する注記は*で行末に記入した。 〔例〕〓{たど}りて*〓は「漂+りっとう」
19.花押は〈花押〉、印は〈印〉として示した。
20.画中文字の開始位置に〈画中〉、広告の開始位置に〈広告〉と記入した。
本文の修正
1.翻字本文を修正した場合には、修正履歴を末尾に示す。
----------------------------------------------------------------------------------
(1オ)
春色{しゆんしよく}連理梅{れんりのむめ}巻之五
江戸 梅暮里谷峨作
第九齣
大慈{だいじ}の利益{りやく}著明{いちじるき}。彼{かの}浅房{あさふさ}なる御倉舞{おくらまへ}より。
御納屋河岸{おんなやがし}へ出{で}はづれに。八幡宮{はちまんぐう}と記{しる}したる。扁額{へんがく}懸{かけ}し
華表{とりゐ}あり。境内{けいだい}広{ひろ}き其{その}中{なか}に。成田不動明王{なりたふどうめうわう}の。旅宿{りよしゆく}の
御仮堂{みかりや}ましませば。引{ひき}もきらざる参詣{さんけい}の。群集{くんじゆ}が中{なか}に
一個{ひとり}のむすめ。百度{ひやくど}のさしを額{ひたい}に当{あて}て。ゆきつもどりつ
(1ウ)
他目{わきめ}もふらで。祈念{きねん}をこらす一心不乱{いつしんふらん}。やがて百度{ひやくど}も果{はて}
しかば。堂下{みまへ}に又{また}も蹲踞{ひざまづき}。一日{ひとひ}も早{はや}く世{よ}の中{なか}へ。はれて
夫婦{ふうふ}の縁{ゑん}の糸{いと}。結{むす}ばせ給へとくりかへし。口{くち}の中{うち}に
て夕{ゆふ}ぐれに。なれば心{こゝろ}も急足{いそぎあし}。家路{いへぢ}へもどる後{うしろ}より
【男】「ヲイ〳〵お菊{きく}さん。」ト大{おほ}きな声{こゑ}でよび止{とめ}られ
ふりかへり見{み}て【きく】「ヲヤ支配人{ばんとう}さんどちらへ。」
【番頭勘八】「イヤサ宜{いゝ}所{ところ}で逢{あ}ツた。おめえへの宅{うち}へ伝言{〔こと〕づて}を
頼{たのま}れたから帰{かへり}に寄{よらふ}と思{おもつ}て居{ゐ}た。ちやうど宜{いゝ}から
(2オ)
爰{こゝ}で咄{はな}さう。イヤしかし長談{なげへ〔こと〕}だにまた他{わき}へ洩{もれ}ても宜{よく}
無{ね}へ。」【きく】「然{さう}でございますかへ。アノ誰様{どなた}からへ。」【勘】「何
方{どなた}と言{い}ツてお前{まへ}にいふ伝言{〔こと〕づて}を己{おいら}に頼{たの}むものが
他{ほか}にあるものか。己{おいらん}家{とこ}の若旦那{わかだんな}ヨ。」【きく】「ヲヤ左様{さう}で
ございますかへ。」ト[房{ふさ}二郎が〔こと〕づけときいてうれしく]「然{それ}では如何{どう}いたし
ませうねへ。宅{うち}へ|被為入{いらしつ}て被下{ください}ますか。」【勘】「左様{さう}サ。
お前{めへ}の宅{うち}へ行{いつ}ても宜{いゝ}が少〻{ちツと}母人{おつかア}に聞{きか}して悪{わる}ひ
〔こと〕があるから。」ト[そこら見まはし]【勘】「ムヽあすこにしやう。手間{てま}
(2ウ)
はとらせねへから一寸{ちよつと}諸共{いつしよ}に来{き}ねへ。」ト笊屋町{ざるやまち}へ
まがりてとり付{つき}の鰻屋{うなぎや}へ|這入{はいれ}ばかねてなじみと
見{み}へて【女】「ヲヤ旦那{だんな}|被為入{いらつしやい}まし。サアお二階{にかい}〳〵。」
【勘】「アイちと内客{ないきやく}を連{つれ}て来{き}たから。」【帳場】「ヘイ左様{さやう}
なら奥{をく}へお連{つれ}申シな。」【女】「ハイ此方{こちら}へ。」ト[中庭{なかにわ}のむかふなる
かけはなれたるざしきの内{うち}を又{また}囲{かこゐ}たる小{こ}ざしきにつれゆく]【勘】「今日{けふ}はちツと小串{こまツすへ}のも
雑{まぜ}て呉{くん}な。」【女】「ヘイかしこまりました。」ト[いでゝゆく]【勘】「
お菊{きく}さんちと寛〻{ゆツくり}して往{いき}ねへ。さう急{きう}に咄{はなし}も
(3オ)
仕{し}きれねへから。」【きく】「ハイ有{あり}がたうございますが暮{くれ}
ますと母{はゝ}が案{あん}じますから何卒{どうぞ}御用{ごよう}をお聞{きか}せ
被成{なさツ}て被下{ください}な。早{はや}く帰{かへ}りたうございますから。」【勘】「マア
宜{いゝ}はな。遅{をそ}くなりやア宅{うち}まで送{をく}ツて遣{やら}ア。ナニカお前{めへ}
の家{うち}は母人{おつかア}と両人渡世{ふたりツきり}か。」【きく】「ハイ。」【勘】「左様{さう}か。
何処{どこ}か親類{しんるい}からでも少〻{ちつと}は助力{すけて}呉{くれ}る人{ひと}がある
かへ。」【きく】「イヽヱ外{ほか}に親{しん}るいも何{なに}も在{あり}ませんから実{ま〔こと〕}に
こゝろ細{ぼそ}うございますハ。」【勘】「左様{さう}か。それじやア
(3ウ)
全{まつた}くおめへの腕限{てひとつ}で渡世{くらし}て在{ゐ}るのだノ。嘸{さぞ}それは
苦労{たいぎ}だらふ。どうか為{ため}に成{な}る花主{だんな}でもとれば
宜{いゝ}。若旦那{わかだんな}も未{ま}だわづかな|手当小遣{あてげへぶち}で自身{じふん}の
小遣{こづけへ}にも不足{をかツたるい}くれへだらふから渡世{くらし}のたそく
には成{なる}めへに。」ト[欲{よく}とくづくで房二郎と色{いろ}になりたるやうにおもはれ且{かつ}ためになる旦那{だんな}をとれといは
れた〔こと〕がしやくにさはりて]【きく】「ハイ御心切{ごしんせつ}に有{あり}がたう。私{わたい}も生得{もと}
から此様{こんな}賤{いや}しい身分{みぶん}でもありませんから仮令{たとへ}
母娘{おやこ}土{つち}を喰{くつ}て餓死{ひしぬ}までも其様{そんな}穢{けがれ}た〔こと〕をして
(4オ)
世{よ}を渡{おくらう}とはおもひませんハ。ふとした〔こと〕から房{ふさ}さん
とは斯{かう}いふわけになりましたが為{ため}に仕{し}やふの
何{なん}のと其様{そんな}さもしい了{りやう}けんは私{わたい}においては
毛頭{ちつと}もないから此間{こないだ}もお前{まへ}さんが房{ふさ}さんを
お迎{むかひ}にお出{■て}のアノ前{まへ}から房{ふさ}さんとも相談{さうだん}して
もし万一{ひよつと}勘当{かんたう}でもおされなら私{わたい}の方{はう}へ
引取{ひきとつ}て勝手{かつて}次第{しだい}に側{そば}へ置{をき}手活{ていけ}の花{はな}と楽{たのし}
みに眺{なが}めてくらす私{わたい}の心{こゝろ}。此様{こんな}渡世{しやうばい}をして居{ゐ}まし
(4ウ)
ても一生{いつしやう}夫{ていしゆ}と定{さだめ}た男{をとこ}とよしや世間{せけん}の義理{ぎり}あいで
遠退{とをの}く理{わけ}に成{な}ツたからとて又{また}余所{よそ}外{ほか}に気{き}を
うつす其様{そんな}はたらきはありません。馬鹿{ばか}律義{りちぎ}
とは私{わたい}のやうなンでありませうヨ。」ト[先{さき}ほどより勘八{かんぱち}がおかしらしいやうす
なればかくべツたりといひたるなるべし。是{これ}泥水{どろみつ}ものまずしてなみ〳〵の娘{むすめ}にはなか〳〵いへぬ口上{こうじやう}なり。さればとて別{べつ}だんに稽古所{けいこじよ}こそ出{だ}してあれ
泥水{どろみづ}のみしおきくにあらねど女の腕{うで}にて母{はゝ}をやしなふ苦労{くらう}はたやすき〔こと〕にあらず。かゝれば自然{しぜん}と世にすれてかく女才{ちよさい}なき〔こと〕をもいふなるべし]
【勘】「ハヽヽヽヽ然{さう}でもあらふが扁屈{やぼ}な〔こと〕だノ。それじやア
当世{たうじ}に合{あは}ねへから仕{し}めへには人{ひと}がかまはなくなる
(5オ)
ぜ。」【きく】「ハイどうで扁屈{やぼ}な生{うま}れの私{わたい}だからかまひ
人{て}が無{な}ければ寧{いつそ}うるさく無{なく}ツて宜{よう}ございます。」
【勘】「フヽ強義{がうぎ}におみどの烏{からす}だノ。しかし独身{ひとりみ}
なら我儘{わがまゝ}一{い}ツぱいにするも宜{いゝ}が母人{おつかア}も在{あ}ツて見{み}
りやア早{はや}く老人{としより}を安心{あんしん}させるが宜{いゝ}じや無{ねへ}か。
人{ひと}は孝行{かう〳〵}が第一{だいゝち}だぜ。」[このうち酒{さけ}もいでうなぎもならびければ]【勘】「サア
もウ一猪口{ひとつ}飲{のみ}ねへ。」【きく】「実{ほんと}に私{わちきや}ア嫌{きら}ひなんで
ありますからモウ堪忍{かんにん}して被下{ください}。」【勘】「それでも一猪口{ひとつ}
(5ウ)
限{ぎり}ではきまりがわりい。」ト[むりについでやりながら]「それでも房{ふさ}さんと
なら少〻{ちつ}は飲{のむ}だらふ。」【きく】「そりやア|被為仰{おつしやら}*「少〻{ちつ}」は「少〻{ちつと}」の脱字か
ないでもしれた〔こと〕サ。うれしいから了{つゐ}うかれて
飲{のめ}ない酒{さけ}も少{すこ}しは飲{のみ}ますのサ。其様{そんな}〔こと〕は
マアどうでもお前{まへ}さんお頼{たのま}れ被成{なさつ}た言{〔こと〕}を
早{はや}くお聞{きか}せ被成{なさい}なねへ。」【勘】「其様{そんな}に急迫{せつこま}ず
と宜{いゝ}わナ。実{じつ}は言伝{〔こと〕づて}も何{なに}もねへのサ。」【きく】「ヲヤ
それじやア房{ふさ}さんからは何{なんに}もお言伝{〔こと〕づて}は無{ない}ので
(6オ)
ありますかへ。」【勘】「左様{さう}ヨ。アハヽヽ。」[おきくはくやしさはらたゝしさあそばれしと
おもへども今さらにせんかたなく]【きく】「なんだネ用{よう}も無{ない}に馬鹿{ばか}〻〻しい。
母上{おつかさん}がどんなにあんじて居{ゐ}ますかしれはしません。
それじやア私{わたい}は帰{かへり}ますヨ。」【勘】「ヲツト待{まち}ねへ。お前{めへ}は
用{よう}が無{なく}ツても己{おいら}が用{よう}があるテ。外{ほか}でも無{ねへ}がお前{めへ}
房{ふさ}さんの様{やう}なものに結縁{くつゝい}て居{ゐ}た処{ところ}が始終{しじう}つま
らねへものじやアねへか。世界{せけへ}は何{なん}でも金{かね}の〔こと〕
だス。先刻{さつき}もいふ通{とふ}り母人{おつかア}を楽{らく}にさせるが専{せん}一
$(6ウ)
愛郎{おとこ}を恋{した}ふて
おきく祈誓{きせい}を凝{こら}す
勘八
〈画中〉進奉納
〈画中〉■方梅彦
〈画中〉金七両 下谷 時斗屋松五郎
$(7オ)
■文京
■京山
■一九
■金水
■春水
■賀
■員
■果
■馬
金七両 馬喰町 高島屋吉兵衛
金七両 ホリ 清元延津賀
金五両 寺島 植木屋角兵衛
金五両 橋場 甲子楼藤左衛門
金五両 はしば 武田
金三両
金三両 サンヤ 坂東
金五両 神田富山町 杵屋かつ世
金五両 同町 大工新次郎
金五両 同なべ町 常盤津よし春
奉納 新よし原 御宝前 中卍楼 崎はま
奉納 猿若町 御宝前 新道 小万■
奉■ 神田
おきく
(7ウ)
の〔こと〕だからお前{めへ}せへ承知{せうち}すりやア元金{もとで}は幾両{いくら}
でも出{だ}して遣{やる}から何所{どこ}か場所{ばしよ}の宜{いゝ}町{ところ}のうり家{すへ}を
買{かつ}て母人{おつかア}とお前{めへ}にも解{わかる}やうな何{なん}ぞ手堅{てがてへ}商売{しやうばい}を
はじめて小僧{こぞう}と婢女{おんな}の両人{ふたり}も置{をい}て極{ごく}小体{こてい}に
鄽{みせ}で暮{くら}していツたら宜{いゝ}じやアねへか。なんとまんざら
悪敷{わりい}咄{はなし}でもあるめへ。」ト[しなだれかゝるありさまにおきくはくやしさかぎりなけれど余りにむごくいひはな
たば房二郎の身{み}のうへにさはる〔こと〕のありもやせんとおもへばさのみはつきもはなたず]【きく】「いろ〳〵御心切{ごしんせつ}にあり
がたうございますが唯{たゞ}今も申ス通{とふ}り仮令{たとへ}親子{おやこ}が
(8オ)
玉{たま}の輿{こし}へ乗{のら}れる様{やう}な〔こと〕がありましても房{ふさ}さんを
捨{すて}る〔こと〕は出来{てき}ませんからマアお断{〔こと〕わり}申シませう。私{わたい}は
モウ気{き}が迫{せき}ますからお先{さき}へ帰{かへり}ます。左様{さやう}なら。」ト
[立{たつ}を引{ひき}とめ]【勘】「お前{めへ}も宜{いゝ}加減{かげん}に扁屈{やぼ}を言{いひ}ねへ。余{あんま}り
わからねへも程{ほと}があらア。是程{これほど}までに実{じつ}を尽{つく}すを
嫌{きら}ふ〔こと〕があるものか。痩体{やせツぽち}の小僧子{こぞうツこ}よりやア
又{また}格別{かくべつ}抱{だき}でがあるぜ」ト[おしころばし抱{だき}しめられおきくはもはやせんかたなく恥{はぢ}をかいても
一生懸命{いつしやうけんめい}こゑをたてんとおもふところへ障子{しやうじ}の外{そと}から]【女】「おきくさんは此方{こちら}かへ。」ト[音{をと}なふこゑに
(8ウ)
かん八はびつくりゆるむ腕{かひな}のちから。おきくはうれしくふりほどく]【女】「ごめん被成{なはい}。開{あけ}ます。」ト[息{いき}もせは
しく入{いり}くるはおきくがこゝろあいの友{とも}だちにてすでに初{しよ}べんにうわさのあるげいしやのおたき]【たき】「アノおきくさん
大変{たいへん}だヨ。お前{まへ}の母上{おつかさん}が急病{きうびやう}が発{おこ}ツて長家中{ながやぢう}が
大騒{おほさはぎ}だヨ。モウ九死一生{むづかしい}容子{やうす}だから早{はや}くお帰{かへ}り。アヽ
無術{せつない}。」ト[むねをさする]【きく】「ヲヤ左様{さう}かへ。マアどうしよう
ねへ。」ト[なみだぐむ]【たき】「何{なん}でもマア私{わちき}と諸共{いつしよ}にお出{いで}。サア。
ヲヤ貴君{あなた}へ御免{ごめん}被成{なはい}まし。左様{さやう}ならお寛{ゆるり}と。」ト[かん八に
あいさつそこ〳〵出{いで}てゆき息{いき}せきあへず二人{ふた}りしてかはら町を通りすぎ小玉や横{よこ}丁へおたきはまがり]【たき】「おきくさんちよ
(9オ)
いと。」【きく】「なんだへ。」ト[そばへよれば小こゑにて]【たき】「母上{おつかさん}の病気{あんばい}の悪{わるい}なア
嘘{うそ}だヨ。私{わちき}も先刻{さつき}から彼亭{あすこ}に在{ゐ}たのだはネ。然{さう}した
処{ところ}が廁{こうか}へ行{いつ}たらおまへの声{こゑ}がするから透窺{すきみ}をしたら
大{たい}さう困{こま}ツてお在{いで}の容{やう}だから呼出{よひだ}して上{あげ}たのだヨ。」【きく】「
ヲヤ実正{ほんとう}に然{さう}かへ。マア嬉{うれ}しいねへ。私{わたい}はモウ悔{くや}しくツて
〳〵どうしやうかと思{おも}ツたヨ。まことに有難{ありがたう}。あれはネ
房{ふさ}さんの家{うち}の支配人{ばんどう}だはネ。」【たき】「ヲヤ彼奴{あいつ}がかへ
気障{きざ}な奴{やつ}だネ。翌日{あした}寛{ゆるり}と聞{きこ}う。後{あと}へ竢{また}して置{をい}た
(9ウ)
から。」【きく】「ヲヤ誰{だれ}たへ。」【たき】「フヽ。」ト[わらツてゐる]【きく】「岩{いわ}さん
かへ憎{にくい}ねへ。」ト脊{せなか}をぴツしやり。「たんとお楽{たのし}みヨ。」【たき】「
有{あり}がたう。」トわかれゆく。
第十齣
あさ緑{みどり}。糸{いと}よりかけて白露{しらつゆ}を。玉{たま}にもぬける春
景色{はるけしき}。青柳橋{あをやぎばし}を渡{わた}り来{き}て。寮朋町{りやうばうまち}へまがりゆく
江戸|勘{かん}の|戸駕籠{あんぽつ}に。附添{つきそう}て来{く}る一個{ひとり}の男{をとこ}。日{ひ}は昏{くれ}
たれど〓と。船宿{ふなやど}の灯{あかり}にて。熟{つら〳〵}覧{みる}に今茲{としのころ}漸{やう〳〵}*〓は提灯の絵
(10オ)
廿三ン四|左右{なるべし}。似柳{すつきり}として色{いろ}しろく。年{とし}こそ更{ゆか}ね
|無気障{にやけぬ}形容{ふうぞく}。本産{ほんば}結城{ゆうき}の藍微塵{あゐみぢん}の晴衣{うはぎ}に。
斜粉織{なゝこをり}広東島{くわんとうじま}の下着{したき}二枚{にまい}を着{き}こみ。古{こ}わたりの
唐桟{たうざん}に。海老色{ゑびいろ}古鈍子{ことんす}の胴裏{どううら}の羽{は}をり。紐{ひも}は紺{こん}の
極平{ごくひら}うち。帯{をび}は筑前{ほんば}の御召博多{おめしとつこ}。濃鉄御納戸{こいてつおなんど}
縮{ちり}めんの風順{ゑりまき}。紅藍{はないろ}改機{かいき}のぱつち。足袋{たび}はもちろん
晒{さらし}なるべし。脇差{わきざし}其{その}外{ほか}の持物{もちもの}。夜見{よめ}は|巨細{こまか}に分{わか}らね
ども。大体{たいてい}は察{さつ}し給へ。六門屋{ろくもんや}にて誂{あつらへ}の。雪踏{せつた}をチヤラ
(10ウ)
チヤラト引{ひき}ずりて。駕籠{かご}の中{なか}を覗{のぞ}き【男】「モウこゝら
たらふノ。」[かごの中にて]【女】「ハイまことにモウ有{あり}かたうございます。
アノ出格子{でがうし}に都{みやこ}と申ス札{ふだ}が掛{かけ}てございます。」
【男】「ムヽ然{さう}か。コウ駕籠{かご}の衆{しゆ}其所{そこ}へおろして
提灯{てうちん}で見{み}て呉{くん}なナ。」【かごや】「ヘイかしこまりまし
た。」ト[かごをおろしてうちんをはづし四五けんさきまでうろ〳〵見あるき]【かごや】「旦那{だんな}爰{こゝ}に何{なん}だか
札{ふだ}があります。」【男】「然{さう}か。ドレ〳〵何{なん}だ[都{みやこ}きく]ムヽ。」ト*「都きく」は札の中に記されている
[何か胸{むね}にあたりしおもいれ]「爰{こゝ}だらふが錠{ぢやう}がをりて在{いる}ノ。まだそれ
(11オ)
じやア先刻{さつき}はなしのむすめツ子{こ}が帰{かへ}らねへと
見{み}えるがマア|何し{なにし}ろ家{うち}の前{まへ}へおろさう。」【かごや】「ハイ。
合棒{あいぼう}ソレ。」【合】「ヲイきた。」ト[かごを家のまいへおろし]【かごや】「サアお袋{ふくろ}さん
爰{こゝ}でごぜへすかへ。」【男】「まだ錠{ぢやう}がおりて在{いる}が鍵{かぎ}をもつて
居{ゐ}るだらふ。よこしねへ。」【女】「ハイ鍵{かぎ}はネ若{もし}娘{むすめ}が入違{いれちがつ}て
帰{かへ}りますかもしれませんと存{ぞん}じてお隣{となり}へ預{あづけ}て参{まい}り
ましたから私{わたくし}が然{さう}申シて取{とり}ませう。」ト[かごから出やうとする]【男】「然{さう}かそん
なら隣家{となり}へ然{たう}言{いつ}て鍵{かぎ}を貰{もらを}ふ。おまへはマアさうして*「然{たう}」(ママ)
(11ウ)
在被成{ゐなせへ}。なりたけ体{からだ}を動{うご}かさねへが宜{いゝ}。」【女】「イヱもう
有{あり}がたうこざいます。おかげさまでモウ大{おほ}きに気{き}がたし
かに成{なり}ました。」【男】「イヤマアさうして在被成{ゐなせへ}。」と[かごかきに言{いひ}つけてとなりへ
かぎをとりにやり錠{ぢやう}をあけてかごから病人{びようにん}をいだすやうすにとなりの女房はおどろきながら出て来て勝手{かつて}しりたる〔こと〕なれば行灯{あんどう}を
つけふとんをしき自家{うち}から火{ひ}をもてきて茶たばこ盆{ぼん}をいだしかごやにもあいさつぬからずいとしんせつにせわをするうちかごやは帰り
をとこはあとへのこる]【男】「イヤモウ私{わたし}も大{おほ}きにあんじたが全体{ぜんたい}息才{たつしや}だと
見{み}えて格別{かくべつ}な〔こと〕が無{なく}ツて安心{あんしん}しました。」【女房】「
ま〔こと〕にモウお壮年{わかい}に御心切{ごしんせつ}な。唯今{たゞいま}母人{おつかア}から聞{きゝ}まし
(12オ)
たら貴君{あなた}とはマアお馴染{なじみ}も無{ない}のださうでございますねへ。」
【男】「ヱほんの通{とふ}りがゝりだが老女{としより}ではあるし見{み}すて
てもをけねへから介抱{かいほう}して来{き}ました。」【女ぼう】「実{じつ}に異変{とんだ}
〔こと〕でこざいましたねへ。全{ぜん}たいマアどういふ間違{まちがひ}から
発{おこつ}た〔こと〕でございますヱ。」【男】「私{わたし}も根元{もと}からはしらねへ
が何{なん}でも轎夫{かごかき}が解話{あやまりやア}宜{いゝ}のヲ悪言{あくてへ}をついたもんだ
から侍{さむらい}が立腹{おこつ}て抜{ぬい}たやつさ刀{だんびら}が光{ひかる}とアノおまへ
水苔町{かはなまち}の木戸際{きどぎは}だらふ往来{おうらい}の人{ひと}が皆{みんな}ワアツと
(12ウ)
一列{いちどき}に逃出{にげだ}したはづみに突転{つツころば}されたといふ〔こと〕だ。其{その}時{とき}
私{わたし}は江戸勘{えどかん}に居{ゐ}ましたが騒動{さうどう}が済{すん}だあとで井戸{ゐど}の
際{ぎわ}に女{おんな}が倒{たほ}れて居{ゐ}るといふから見{み}ると苦{くるし}んて在{ゐる}容子{やうす}
だから出{で}かたの者{もの}に江戸勘{えどかん}へ舁{かつ}ぎこませていろ〳〵
介抱{かいほう}して聞{きい}たら爰{こゝ}のもので娘{むすめ}が不動{ふどう}さまへ参詣{さんけい}に
行{いつ}たが遅{をそ}いから出迎{でむかひ}に来{き}た道{みち}だといふ〔こと〕だからそん
ならモウ彼是{かれこれ}娘{むすめ}も帰{かへツ}たらふとおもツて直{すぐ}に駕籠{かご}へ
乗{のせ}て連{つれ}申た理{わけ}サ。」【女ぼう】「それはマア宜{いゝ}ところで貴君{あなた}の
(13オ)
やうなかたにお出合{であい}申シたのは母人{おつかア}の幸甚{しやはせ}でござい
ます。それに付{つい}てもお師匠{ししよう}さんはモウお帰{かへ}りであり
さうなものだねへ。母人{おつかア}。」[是{これ}おきくの母{はゝ}なり。ふとんのうへにねかされたまゝなれどももとから
たいした病気{びようき}にあらねばもはやこゝろよきやうすなり]【母】「アヽどうしたンだらふ。何日{いつも}
此様{こんな}に遅{をそ}い〔こと〕は無{ない}がねへ。」【女ぼう】「なんじやアないか。途中{とちう}
で知己{しつたひと}にでも逢{あつ}て何楼{どツか}で奢{をご}られてゞもお在{いで}のじやア
ないか。」【母】「それもしれないが遅{をそ}くなると私{あたし}があんじる
と思{おも}ふからいつも告{〔こと〕わら}ないでは何所{どこ}へも行{いか}ないがサ。」【女房】「
$(13ウ)
問来{とひきた}る人{ひと}に隠{かくれ}て
壮男{わかうど}
未{いま}だ名{な}を知{しら}さず
未詳
$(14オ)
おきく
(14ウ)
篤実{をとなしい}から然{さう}だらふねへ。左様{さう}して見{み}ると此様{こんな}に遅{をそい}
のは猶{なほ}ふしぎじやアないか。」ト噂{うはさ}のところへあはたゞしく
格子{かうし}をあける娘{むすめ}のおきく「母上{おつかさん}さぞあんじてお在{いで}だ
らふねへ。私{わたい}はモウ真{ま〔こと〕}に悔{くや}しい〔こと〕が有{あつ}てネ。」ト[しやうじをあけてみれは
見なれぬわかきおとこととなりのかみさんとはなしをしてゐるそばに母{はゝ}おやは寝{ね}てゐるにぞふしんながら上{うへ}へあかりかのおとこに
ゑしやくして母{はゝ}がまくらもとに居{すは}り]【きく】「ヲヤ母上{おつかさん}どう被成{をし}だ。」【母】「私{あたし}よりおまへ
マアどうして此様{こんな}に遅{をそ}かつたのだヱ。私{あたし}も|災厄難{とんだめ}に逢{あつ}た
ヨ。」ト[これからむかひにでたる途中{とちう}にてありし〔こと〕ゞもをかたり聞{きか}すにぞお菊わうれしくもまたきのとくにおもふてかの男にいろ〳〵礼をのふる]
(15オ)
【女ぼう】「お師匠{ししよう}さんお茶{ちや}はこしらへましたがネお菓子{くわし}はヱ。」
【きく】「ハイ有{あり}がたう。今{いま}出{だ}しますヨ。」ト[ふくろとからくわしをいだしかの男にすゝめやがてだいどこ
へゆき]【きく】「ちよいと隣{となり}のおばさん。」【女ぼう】「アイ。」ト[なにか耳{みゝ}こすりをして女ぼうは裏
口{うらぐち}から梅川{うめがは}へいでゝゆく]【きく】「アノ貴君{あなた}ヱ御家{おうち}はどちらかぞんじません
が何卒{どうぞ}是{これ}を御縁{ごゑん}に此様{こんな}茅小舎{みぐるしいうち}へも是{これ}からちと
|被為入{いらしつて}くださゐましナ。」【男】「イヱ私{わたし}はちと遠方{ゑんぱう}だが
しかし参{まいつ}てもよければ毎日{まいにち}でも来{き}ます。然{さう}して
アノ御入門{おでしいり}をして稽古{けいこ}をしてお貰{もら}ひ申さうヨ。」【きく】「
(15ウ)
ヲホヽヽヽヽ感心{うまく}|被為仰{おつしやる}ヨ。時〻{とき〳〵}はまた私{わたくし}のやうな下手{へた}な
三味線{しやみせん}を弾{ひか}して語{かた}りにくひ思{おも}ひを被成{なさる}も可笑{おかしく}ツて
宜{よう}ございますのサ。」【男】「とんだ〔こと〕だ。わたしはどうも
不器用{ぶきよう}だからどうでむだゞと思{おも}ツて一向{とんと}此{この}方{はう}へは
手{て}を出{だ}した〔こと〕もないから老入{おいれ}の学文{がくもん}にはじめて
見{み}やうかとも思{おも}ふのサ。しかし毎日{まいにち}稽古{けいこ}に来{く}るのをこんな
野郎{やらう}でもおかしな気{き}でも有{ある}やうに思{おも}はれて立腹{おこら}れでもする
人{ひと}がありやアしまいかネ。あられちやア迷{めい}わくだネ。ハヽヽヽヽ。」
(16オ)
【きく】「ヲヤまアあんなにくひ〔こと〕を|被為仰{おつしやる}ヨ。ヲホヽヽヽヽヽ
私{わたくし}のやうな三平{おたふく}に其様{そんな}好事{いき}な〔こと〕が有{あり}ますものか。
其様{そんな}〔こと〕をおあんじ被成{なさら}ずとおこゝろをきなく何卒{どうぞ}
|被為入{いらしつ}て被下{ください}。」【男】「イヱ〳〵どうもあんしんならねへ。
斯{かう}いふ間{ま}もけんのんだ。アハヽヽヽヽドラお大事{だいじ}に被成{おし}
ヨ。また此{この}間{あいだ}におたづね申さう。母人{おつかア}はどうだへ
此{この}方{はう}かネ。」ト[左手{ひだり}で酒{さけ}をのむみぶり]【きく】「イヽヱ親子{おやこ}とも不好風{ぶいき}で
モウいけませんは。ヲホヽヽヽヽ。」【男】「アヽ然{さう}かへ。それでは
(16ウ)
今{いま}何{なん}ぞ母人{おつかア}の口{くち}に合{あい}さうなものを見{み}たてゝ遣{よこ}
さう。」ト[立{たつ}を引{ひき}とめ]【きく】「ヲヤまア貴君{あなた}宜{よう}こさいますはネ。
御遠方{ごゑんはう}でもまだ戌刻{いつゝ}木を拍{うち}ました計{ばか}りでござい
ますからもう少〻{ちつと}|被為在{いらしつ}て被下{ください}ましな。」【男】「ヱあり
がたうございますが少{すこ}し又{また}他{わき}へ寄{よる}処{ところ}もありますから。」
【きく】「それはモウ彼方此方{あつちこつち}へお㒵{かほ}を見せてお遣{やん}被成{なはる}
処{ところ}がさぞありませうがたまには少〻{ちつと}待遠{まちどふ}がらせて
お遣{やん}被成{なさつ}ツても宜{よい}じやアありませんか。と申スと嫉妬{やきもち}*「被成{なさつ}ツ」(ママ)
(17オ)
らしうございますねへ。ホヽヽヽヽ。」【男】「アハヽヽヽヽだと大{おほ}きにたの
もしいが扨{さて}何処{どこ}へ行{いつ}ても蜂{はち}ぶされるやつサ。マア〳〵余{あんま}り
嫌{きらは}れねへうち帰{かへ}りませうヨ。それに又{また}病人{びようにん}の側{そば}にサウ
何時{いつ}まで在{ゐる}も気{き}が利{きか}ねへ。」【母】「モウ大{おほ}きに快{よろ}しうござい
ますから私{わたくし}にはけして御心配{ごしんはい}なさらないで|被為在{いらしつて}くだ
さいまし。」ト[かへるをしゐてとめる折{おり}から]【男】「アイ御免{ごめん}被成{なせへ}。」ト用{よう}あり
さうに入来{いりく}る人{ひと}を。障子越{しやうじごし}に透{すか}し見{み}て。帰{かへ}りかゝり
し已前{いぜん}の男{をとこ}は。そツと立{たつ}て■へ|這入{はいる}。はじめて
(17ウ)
来{き}たる家{いへ}ながら。手狭{て■ま}なれば聴{きか}ざれども。便所{べんしよ}は
知{し}られし〔こと〕なるべし。卑竟{ひつきやう}這{この}両個{ふたり}の男{をとこ}は。実{じつ}に善
人{ぜんにん}か将{はた}悪人{あくにん}か。お菊{きく}が為{ため}に吉凶{きつきよう}如何{いかに}。|且下巻休題{しばらくこゝにふでをやすみ}
|嗣編{へんをつい}で|分解{かいしるす}を。愛観{あいくわん}あらせ給ひねかし。
春色連理梅巻之五畢
----------------------------------------------------------------------------------
底本:東京大学文学部国語研究室蔵本(4L:124:2)
翻字担当者:洪晟準、梁誠允、矢澤由紀、藤本灯
更新履歴:
2017年7月26日公開