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小三金五郎仮名文章娘節用こさんきんごろうかなまじりむすめせつよう

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三編中

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小三金五郎仮名文章娘節用 三編中

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凡例
1.本文の行移りは原本にしたがった。
2.頁移りは、その丁の表および裏の冒頭において、丁数・表裏を括弧書きで示した。また、挿絵の丁には$を付した。
3.仮名は現行の平仮名・片仮名を用いた。
4.仮名のうち、平仮名・片仮名の区別の困難なものは、現行の平仮名に統一した。ただし、形容詞・副詞・感動詞・終助詞・促音・撥音・長音・引用のト等に用いられる片仮名については、原表記で示した場合がある。 〔例〕安イ、モシ、「ハイそれは」ト、意気だヨ、面白くツて、死ンで、それじやア
5.漢字は現行の字体によることを原則としたが、次のものについては原表記に近似の字体を用い、区別した。「云/言」「开/其」「㒵/貌」「匕/匙」「吊/弔」「咡/囁」「哥/歌」「壳/殻」「帒/袋」「无/無」「楳/梅」「皈/帰」「艸/草」「計/斗」「弐/二」「餘/余」
6.繰り返し符号は次のように統一した。ただし、漢字1文字の繰り返しは原本の表記にしたがい、「〻」と「々」を区別して示した。
 平仮名1文字の繰り返し 〔例〕またゝく、たゞ
 片仮名1文字の繰り返し 〔例〕アヽ
 複数文字の繰り返し 〔例〕つら〳〵、ひと〴〵
7.「さ」「つ」「ツ」に付く半濁点符は「さ゜」「つ゜」「ツ゜」として示した。
8.Unicodeで表現できない文字は〓を用いた。
9.句点は原本の位置に付すことを原則としたが、文末に補った場合がある。
10.合字は〔 〕で囲んで示した。 〔例〕殊{〔こと〕}に、なに〔ごと〕、かねて〔より〕
11.傍記・振り仮名は{ }で囲んで示した。 〔例〕人生{じんせい}
12.左側の傍記・振り仮名の場合は、冒頭に#を付けた。 〔例〕めへにち{#毎日}
13.傍記・振り仮名が付く位置の紛らわしい場合、文字列の始まりに|を付けた。 〔例〕十六|歳{さい}
14.原本に会話を示す鉤括弧が付いていない場合も、これを補い示した。また庵点は〽で示した。
15.原本にある話者名は【 】で示した。 〔例〕【はる】
16.割注・角書および長音符「引」「合」は[ ]で囲んで示した。
17.不明字は■で示した。
18.原本の表記に関する注記は*で行末に記入した。 〔例〕〓{たど}りて*〓は「漂+りっとう」
19.花押は〈花押〉、印は〈印〉として示した。
20.画中文字の開始位置に〈画中〉、広告の開始位置に〈広告〉と記入した。

本文の修正
1.翻字本文を修正した場合には、修正履歴を末尾に示す。
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(1オ)
仮名文章{かなまじり}娘節用{むすめせつよう}三編{さんへん}中之巻
江戸 三文舎自楽補述
第八回
その時{とき}紫雲{しうん}は長羅宇{ながらう}の。煙管{きせる}に多葉粉{たばこ}を吸{すひ}つけて。[小三に出せば手に
とりながら]【小三】「ほんにおうらやましいはあなたのお身{み}。うるさい世事{せじ}の御|苦
労{くらう}もなく。朝夕{あさゆふ}こんな静{しづか}なところに。憂世{うきよ}を捨{すて}ての楽{らく}なおくらし。
わたくしもどうぞ三日なりとも。仏{ほとけ}につかへて死{し}にたいと。こゝろに
願{ねが}つておりますが。身{み}の罪障{ざいしやう}が深{ふか}いかして。それさへかなはぬ

(1ウ)
憂苦労{うきくらう}。なんの因果{いんぐわ}でござりませう」ト[しじうなみだにむせびがち。紫雲もなにとなくむねせまり]
【紫】「なんのわたしの身{み}のうへが。うら山{やま}しいとはおまへの僻言{ひが〔こと〕}。世{よ}に在{あり}て
こそ人{ひと}は花{はな}。金ぼうといふ実{み}を結{むす}んで。苦労{くらう}はあろうが又{また}楽{たの}しみ。
旦那{だんな}も人におすぐれなすつた。発明{はつめい}なおかたゆゑ行{ゆく}すゑはそれ
こそ安楽{あんらく}だはネ。おもしろい事{〔こと〕}もおかしい事{〔こと〕}も。たのしみもかなしみも
しらぬこの世の世捨人{よすてびと}が。なんの本意{ほんい}であるものかネ。是{これ}も定{さだ}まる
因縁{いんねん}と。思{おも}つてゐてこそ又{また}安楽{あんらく}。姉妹{きやうだい}二人{ふたり}が同{おんな}じやうに。浮世{うきよ}を
捨{すて}ては亡{なき}親{おや}たちの。菩提{ぼだい}のためとおもはれやうが。却{かへ}つてそれでは

(2オ)
不孝{ふこう}の罪{つみ}。せめておまへは人なみに。世を過{すき}てこそ両親{りやうしん}が。草葉{くさば}の
影{かげ}からおよろこび。かならず〳〵わたしが身を。うらやまないで
金{きん}ぼうや。旦那{だんな}を朝暮{あけくれ}大切{たいせつ}に。うき苦労{くらう}をもしんぼうして
末{すへ}の栄{さか}へをたのしみに。時節{じせつ}をまつのが楽{らく}のたね。すこしの
〔こと〕をきな〳〵おもつて。あんまり苦労{くらう}ばつかりおしだと。大わづ
らひにでもなろうもしれず。気をきりかへてわたしにも。苦労{くらう}を
させておくれでない」と[しんみの〔こと〕ば身にしみてうれしさあまるかなしさの]泪{なみだ}を袖{そで}に包{つゝ}みかね
袂{たもと}をぬらししばらくは。詞{〔こと〕ば}さへ泣{なく}ばかり也紫雲{しうん}はこれをあんじ

(2ウ)
わび倘{もし}や金五郎が小三を見かぎり。お雪{ゆき}にこゝろをうつせし
ゆゑ。胸{むね}をくるしめ気{き}をつかひて。このわづらひの出しかと[おもひすごしてひざ
すりよせ]【紫】「おまへのふさぐを見るにつけ。病{やま}ひの根{ね}がしれないから。どふも
わたしは案{あん}じられるよ。癪{しやく}や血{ち}の道{みち}でふさぐのなら案{あん}じるほどの
事もないが。何{なに}やらひどく気をいため。心{しん}のつかれのわづらひかと。
見たはひが目かしらないが。思案{しあん}に落{おち}ない事{〔こと〕}でもあつて。一人{ひとり}で
心労{しんらう}してゐると。ろくな〔こと〕は考{かんが}へ付ず。苦労{くらう}にくらうをます
やうな。つまらぬ〔こと〕を考{かんが}へ出すから。だん〳〵病気{びやうき}は重{おも}るとも。

(3オ)
|快気{よくなる}ほうはすくないものさ。他人{たにん}は格別{かくべつ}真{しん}身のわたし。世を捨{すて}
し身といひながら。苦労{くらう}な〔こと〕があるならば。おまへの胸{むね}を隠{かく}ずに。*「隠{かく}ず」(ママ)
はなして聞{きか}せておくれなら。女の智恵{ちゑ}の浅{あさ}はかでもそこは膝{ひざ}
とも談合{だんこう}づく。へだてぬでこそ実{じつ}の姉妹{きやうだい}。からす啼{なき}がわるいに
つけ。夢{ゆめ}見のわるいや何{なに}かにつけ。おまへの事が気にかゝり。後
生{ごせう}を願{ねが}ふさまたげと。おもへど凡夫{ぼんぶ}のかなしさに。浮{うき}世を捨{すて}ても
やつぱり苦労{くらう}。心{こゝろ}のやすまるひまはないはネ」ト[ま〔こと〕をあらはす〔こと〕ばの中になさけとなみだ
をふくみたる]姉{あね}の異見{いけん}のありかたさに。小三は始終{しじう}涙{なみだ}にくれ。胸{むね}もはり

(3ウ)
さくばかりにて。顔{かほ}もえあげずゐたりしが。[やう〳〵袖になみだをはらひ]【小三】「真{しん}じつ
真{しん}身の妹{いもと}と。おぼしめしてくださればこそ。お案{あん}じなすつての
段〻{だん〳〵}のお〔こと〕ば。うれしいにつけ悲{かな}しいにつけ。なんであなたを
へだてませう。この世に杖{つへ}とも柱{はしら}とも。ちからにおもふはあなたお
ひとり。浮{うき}世に人は沢山{たくさん}あれど。考{かんか}へて見るとおまへさんや。わた
くしほどな因果者{いんぐわもの}は。あんまり外にはありますまい。生{うま}れ落{おち}る
と親{おや}にはなれ。姉妹{きやうだい}二人{ふたり}揃{そろ}いもそろつて。故郷{こきよう}をよそにはる
〴〵と。しらぬ東{あづま}へさまよひ来て。うき川竹{かはたけ}のなかれにしづみ。

(4オ)
苦労{くらう}にくろうをしぬいたあげくに。あなたは行{ゆく}すゑたよりのお
人にはやくお別{わか}れなすつたゆゑ。お若{わか}い身{み}そらに世{よ}を捨{すて}て。
附会{つきあひ}しらぬ仏{ほとけ}の道{みち}。それにひきかへわたくしは。恩{おん}と情{なさけ}を捨{すて}
かねし。浮世{うきよ}の義理{ぎり}にせめられて。日陰{ひかげ}に咲{さき}し仇花{あだばな}の。散{ちり}て
ゆく身{み}はいとはねど。まだ撫子{なでしこ}もめばへにて。育{そだ}てあげぬか
一ツの気{き}がゝり」【紫】「そのなでし子{こ}が気{き}がゝりとはヱ」ト[とがめられてこゝろづき]
【小三】「サアその気がゝりとは金{きん}ぼうが事。とかく虫{むし}もちて病身{びやうしん}
ゆゑ。明{あけ}ても暮{くれ}ても苦労{くらう}になり。どうぞ丈夫{ぢやうぶ}に育{そだ}たいと。*「育{そだ}たい」(ママ)

(4ウ)
おもひましても子供{こども}の事。なにが給{たべ}たい彼{か}がたべたいと。
それは〳〵日{ひ}かな一日{いちにち}。見{み}るほどの物{もの}たべたがり。ねだりごとも
三どに一どは。食過{たべすぎ}ぬやうに気{き}をつけて。だましすかせばぐわん
せもなく。いや〳〵をして泣{なき}ますから。ツイ可愛{かわい}さにひかされて
灸{きう}でおどすより早{はや}でまはしと。ねだるお菓子{くわし}をあてがひ
ますと。又{また}食{たべ}すぎてはお腹{はら}が痛{いた}い。痛{いた}い〳〵の食傷{しよくしやう}の度毎{たんび}に。
虫気{むしけ}でいつもちよつとは直{なほ}らず。一体{いつたい}ひよはいうまれだのに。
わたくしの乳{ちゝ}でそだてぬから。猶{なほ}病身{びやうしん}になりますると。おもへば

(5オ)
不便{ふびん}がいやまして。よその丈夫{ちやうぶ}の子供{こども}のやうに。折檻{せつかん}もしす
つよくもしからず。わんぱくそだちが増長{そうちやう}して。手{て}にのらぬほどの
いたづら者{もの}に。なりましたせへかして。些{ちと}づゝ丈夫{ぢやうぶ}に育{そだ}つやう
だとおもへば。旦那{だんな}は又{また}行義{ぎやうぎ}がわるいの。育{そだ}てがらがわるいから
のと。あの子{こ}の身{み}の為{ため}をおもつて。小言{こ〔ごと〕}をおつしやるも無理{むり}では
ないが。まだやう〳〵|丸三歳{まみつゝ}に。なるかならぬのふところそだち。
生{うま}れ落{おち}からちやほやいつて。あんまり大事{だいじ}にしすぎたゆへ。わが
まゝ気{き}まゝに育{そだ}つ筈{はづ}。今更{いまさら}急{きう}に折{せつ}かんしたり。泣{なく}時{とき}あたまを

$(5ウ)

$(6オ)

(6ウ)
打{はつ}たりしてきびしくしたらわが儘{まゝ}も。少{すこ}しづゝは直{なほ}りませうが
只{たゞ}でさへひよはい子{こ}が。それこそ驚風{きやうふう}の虫{むし}でも引出{ひきた}し。ほんとうの
病身{びやうしん}になりますだろう。可愛{かわ}いゝにつけ不便{ふびん}につけ。苦労{くらう}の
やすまるひまもなく。気{き}で気{き}をつかひますゆへに。今{いま}の病気{びやうき}も
おこりましたの。是{これ}もわたくしが気{き}がちいさいから。せずとよい
苦労{くらう}を余斗{よけい}にいたして。寿命{じゆみやう}をちゞめますも心{こゝろ}がら。とても
長生{なかひき}はできませんが。思{おも}へばま〔こと〕に世{よ}の中{なか}ほどうるさいものは
ござりません。それゆゑにこそあなたの御身{おみ}が。おうらやま

(7オ)
しうござります」ト[なみだながらのかこち〔ごと〕聞くもなみだの目をしばたゝきふさがるむねをなでおろしつゝ]【紫】「ほんに
そふいへばそうでもあろう。けれどもそれはほんの一随{いちずい}。はやい譬{たとへ}が
世{よ}の中{なか}に。子宝{こだから}とさへいふものを。大切{たいせつ}な金銭{きんせん}よりも。子{こ}ほどまさ
つた宝{たから}はないと。誰{たれ}しもしつた世{よ}の常言{〔こと〕わざ}。子{こ}を持{もつ}た身{み}に苦労{くらう}
の絶{たへ}ぬは。おまへばかりではあるまいし。みんな世間{せけん}のならひだはネ。
高貴{うへつがた}でも下賤{した〴〵}でも。子{こ}にひかさるゝは親{おや}の常{つね}。マア見るかげも
ない橋{はし}の上{うへ}の。むしろ蒲団{ぶとん}に世{よ}をおくる。食{く}ふや食{く}はずの乞食{こじき}
でさへ。子{こ}を大切{たいせつ}に可愛{かわい}がり。寝{ね}る目{め}をねすに育{そだ}てあげても。出世{しゆつせ}の

(7ウ)
出来{でき}ぬ乞食{こじく}は乞食。上{うへ}を見れば方図{ほうづ}がないから。貧{まづ}しいものを
思{おも}ひやれば。寒{さむ}い目{め}もせず不自由{ふじゆう}なく。くらしてゐるは安楽{あんらく}さネ。
欲{よく}にかぎりのない世{よ}の中{なか}ゆゑ。十|分{ぶん}な〔こと〕も不足{ふそく}におもふは。人
|情{じやう}だからしかたもないが。おまへなんぞも日かげの身{み}で。儘{まゝ}にならぬ
を苦{く}におしだが。満{みつ}れば欠{かけ}るといふ通{とほ}り。十分|過{すぎ}た〔こと〕はないもの。
人のほしがる金銀{きんぎん}が。有{あ}り餘{あま}るほどの大家{たいけ}には。子{こ}を欲{ほし}がるほど
子が出来{でき}ず。貧乏人{びんぼうにん}の子|沢山{だくさん}を。うらやむといふ〔こと〕だから。金銀{きん〴〵}
づくにも換{かへ}られぬは。金ぼうといふアノ大事{だいし}の子宝{こたから}。よし病身{びやうしん}の生

(8オ)
付{うまれつき}で人のしらない苦労{くらう}をするも。親{おや}となり子{こ}となるほどの。因縁{いんねん}
づくだとあきらめて面倒{めんとう}を見てそたてなくつては。親{おや}の役目{やくめ}がす
まぬといふもの。サアそれだから少{すこ}しの事を。くよ〳〵案{あん}じて煩{わつ}らつ
ては。おまへの身にも寿命{じゆみやう}の毒{どく}。彼{あの}子{こ}の為{ため}にもなるまいから。気{き}を引
立{ひきたて}て煩{わづら}はぬやうに。身{み}を厭{いと}ふのが肝心{かんじん}さ。世{よ}に楽{たのし}みも何{なん}にもない。
わたしが身をうらやまずと。金ぼうの行{ゆく}すゑを神仏{かみほとけ}に祈{いの}つて。
成人{せいじん}させるがおまへの手柄{てがら}。女の道{みち}の欠{かけ}ぬといふもの。しかし子持{こもち}の
身{み}でありながら。旦那{だんな}の為{ため}の手助{てだす}けに。身{み}すぎ世{よ}すぎといふものゝ。

(8ウ)
人の機{き}げん気{き}づまを取{と}る。今{いま}の身での座{ざ}しき活業{しやうばい}は。アヽさぞいや
だろうつらかろうと。わたしがむかしの身{み}をおもつてもおまへの心{こゝろ}が
悟{さ■}られて。もう〳〵胸{むね}もはりさくやう。何{なに}かにつけて苦{く}が絶{たへ}ぬ*「■」は「と」の欠損か
から。ふさいで病気{びやうき}のおこる筈{はづ}。とはいふものゝわたしと違{ちが}ひ。おまへは身
ひとつといふではなし。幾度{いくど}もくどくいふやうなれと。あんまり苦労{くらう}に
苦労{くらう}をかさねて。今{いま}のわづらひが大病{たいびやう}になると。もしもの〔こと〕があり
もしまいが。さういふ時{とき}にはわたしはもとより。金ぼうも便{たよ}りがなく
なるから。とふぞこの末{すゑ}は願{ぐわん}でもかけて。煩{わづら}はぬやうにしておくれ」ト[さすがあねだけ

(9オ)
理をわけて。いもとをあはれむしんせつは。かくぞありたきものぞかし]【小三】「その御異言{ごいけん}につきまして。申すやうでは
ごさいますが人{ひと}の命{いのち}は今日{けふ}がけふ。翌日{あす}があすとて定{さだ}まらぬ。世{よ}の
ならひゆゑわたくしが。けふが日{ひ}もしもの事{〔こと〕}があろうや。しれぬ生身{なまみ}
の〔こと〕なれば。逆{さか}さまながら御回向{ごゑこう}を。受{うけ}ます〔こと〕もあろうも知{し}れず。
逹者{たつしや}でおつてもなき後{のち}でも。真身{しんみ}はあなたおひとりゆゑ。何彼{なにか}に
つけて金ぼうが事を。どうそおねがひ申シますから。わるい〔こと〕はどの様{やう}
にも。お呵{しか}りなすつてくださいまし」と[子にまよふゆゑひたすらにたのむ〔こと〕ばぞあはれなり]【紫】「なんだヱ
モウ。そんな哀{あは}れつぽい事{〔こと〕}はいつておくれでない。姉{あね}となり妹{いもと}と生{うま}れて

(9ウ)
来{き}たからは力{ちから}になつたりなられたりするのは。そりやアいはないてもし
れた事{〔こと〕}。もう〳〵そンな愚痴{くち}はやめて。金ぼうをつれて梅屋{うめや}しきへ
でも行{いつ}て。ちつと気{き}ばらしをしてお出{いで}」ト[なくさめるおりから金の介も庭のあそびにあきたるにや]乳
母{うば}にいだかれ座敷{ざしき}へ来{きた}れば。紫雲{しうん}は抱{いだ}きつ愛{あや}しつして。わが子{こ}の
〔ごと〕くに|可愛{いつくし}み。是{これ}よりみな〳〵もろともに。梅屋{うめや}しきへゆかんとて。
内{うち}には下女{げぢよ}と下男{しもおとこ}を。残{のこ}して小三と紫雲{しうん}は連立{つれだち}。花屋{はなや}しきより
蓮華寺{れんげし}の。大師{だいし}へ詣{もうで}に出行{いでゆき}しが。程{ほど}なくして立帰{たちかへ}り。紫雲は種〻{くさ〴〵}
の美味{びみ}をとゞのへ。みな〳〵に夕餉{ゆふげ}をすゝむる。馳走{ちそう}に時{とき}を移{うつ}しければ。*「とゞのへ」の濁点ママ

(10オ)
秋{あき}の日のはや西{にし}にかたぶき。入相{いりあひ}ちかくなりしかば。[小三は家にかへらんときせるなどしまひながら]
【小】「ヤレ〳〵今日{こんち}は久しぶりで。ついになくゆる〳〵と。身のうへばなしに欝{うさ}を
はらし。ま〔こと〕に保養{ほやう}いたしました。日の暮{くれ}るにも気がつかず。尽{つき}ぬ
はなしをくりかへして。大きに遅{おそ}くなりました。乳母{ばゞあ}おまへも支度{したく}が
よいなら。モウそろ〳〵帰{かへ}ろうじやアないか」【紫】「マアおまへよいはネ。それに
今日{けふ}は遅{おそ}くもなるし。内にさしたる用がなくば又こういふよい首尾{しゆび}は
ないから。今夜{こんや}一ト晩{ばん}泊{とま}つてお出な。病気{あんばい}がよくなつて。座{ざ}しきへ
出るやうになると。又出るといふが|手重{おつくう}になつて。いつ来{き}られるか知{し}れ

(10ウ)
ないから。寝物{ねもの}がたりにゆつくりと。身の上ばなしの跡{あと}をついで。ふさぐ
胸{むね}をはらしてお出よ」【小三】「わたくしもたま〳〵ではございますし。尽{つき}ぬ
お名残{なごり}だからどうぞして。泊{とま}つてまゐりたいとぞんじますが。今夜{こんや}
わたくしが留主{るす}のあとへ。ひよつと旦那{だんな}がお出なさるとわるふござい
ますから。どうも帰{かへ}らずはなりますまい」【紫】「ほんにさうさねへ。旦那{だんな}
の御機{ごき}げんをそこねてもわるし。一ト晩{ばん}でも儘{まゝ}にならない〔こと〕だねへ。
そんなら船{ふね}でおかへりな。しかしゆれてはわるかろうから駕籠{かご}の方{ほう}
がよかろうか」【小三】「ナニそれにも及{およ}びません。ずゐぶんあるいてまゐられ

(11オ)
ますから」【紫】「それでもおまへ気色{きしよく}がわるいに往還{いきかへり}ではくたびれるヨ」【小三】「いゝヱ。
却{かへつ}てすこしづゝ頭痛{づつう}のいたす時{とき}は。歩{ある}くほうが勝{かつ}手でございます」
【紫】「さうかネ。そんなら金ぼうばかりも泊{とめ}てお出な。のう金ぼう。お
まへは。乳母{はゞあ}と爰{こゝ}へおとまりよ」ト[いだきあげればうれしそふに]【金】「アイ。坊{ぼう}。おばちやん
処{とこ}へ。寝{ねんね}仕{ち}て。お池{いけ}の亀{かめ}ン子つやまいゆよ」ト[ゐなかめづらしき子ごゝろに。かへるそらのなかりしかば小三も心に
あんどして]【小三】「ヲヤそんならぼうはおとなしくしておとまりヨ。ばゞアのいふ
〔こと〕をよくきいて。だゞをいつてすねるではないよ。アノ内{うち}に居{い}るやうに
おこるとの。おばさんが泊{とめ}てくださらないよ。あなたが可愛{かわい}がつて

(11ウ)
くださるから。直{ぢつ}きに泊{とま}ろうと申シまして。おくめんがなくつてこ
まります」【紫】「それだからま〔こと〕に可愛{かわ}いゝのサ。人見しりをする
子供{こども}は。愛相{あいそ}をしても泣出{なきだ}すから。うつかり口{くち}も聞{き}けないが。此{この}
子のやうなにこやかな。可愛{かわい}いらしい子はありません」【小三】「坊{ぼう}は
ま〔こと〕に仕合{しあは}せものだよ。こんな野広{のびろ}い処{ところ}へ泊{とめ}ていたゞいて。おつかア
よりあやかりものだの。そしてアノ坊{ぼう}や。おつかアがゐなくなつても。
たづねて泣{なく}のではないよ。泣{なく}との直{ぢつ}き灸{あつゝ}だよ。おばさんの処{とこ}には
灸{あつゝ}がたんとありますから。おとウなしくしてお出よ」【金】「アイ。坊{ぼう}おと

(12オ)
なチくすゆが。おつかちやんどこイお出だ」【小三】「おつかさんはの。アノ内{うち}が
遠{とほ}ウいから帰{かへ}らないと。おとつさんにしかられるよ」ト[いひつゝ金の介をいだきあげかわいゝこの子の
かほ見るも]是{これ}が名残{なごり}かかなしやと。いはねど胸{むね}にせきあげて。顔{かほ}を見つめる
目に涙{なみだ}。しばし〔こと〕ばもなかりしが。疑{うたが}はれんと心{こゝろ}づき[泣目をかくしわらひがほ]【小三】「ほん
に子供{こども}といふものは。何{なに}をいつても無我夢中{むかむちう}。後生楽{ごしやうらく}な〔こと〕であり
ますねへ」ト[おもひきつて下へおろし]帯{おび}〆直{しめなほ}す顔{かほ}つきも。常{つね}にかはりしやう
すゆゑ。紫雲{しうん}も乳母{うば}も何{なに}となく。小三の身のうへあんじられ。
[かへしがたさにかほ見あはせて]【紫】「どうもわたしは今{いま}ツから。おまへを独{ひと}りかへすのが心{こゝろ}に

(12ウ)
かゝつて落{おち}付ぬから。今夜{こんや}は泊{とま}つて明日{あした}の朝{あさ}。はやく帰{かへ}つたら
よさそふなものだ。のうばゞア」【うば】「さやうさ。旦那{だんな}だとて一ト晩{ひとはん}ばかり
の事。訳{わけ}をおはなし申ましたら。お腹立{はらだち}もありますまいから。
是非{ぜひ}今夜{こんや}はおとまんなさいましな」ト[とめる〔こと〕ばもきゝいれす]【小三】「そうだけれど。
けふこなたへ来る〔こと〕を。旦那{だんな}におはなし申さなんだから。泊{とま}つては
どふも済{すま}ないよ。それに是非{ぜひ}おはなし申さねばならぬ事も
あるから。三松{さんまつ}どんでもお借{か}り申て。ちつともはやくかへろうよ」
【うば】「さやうならおぼうさんもお帰{かへ}りがよふございます。小僧{こぞふ}どん

(13オ)
ばかりでは。おかへし申されません。わたくしもお供{とも}いたして。亀{かめ}ン子{こ}は
又{また}明日{あした}。見にまゐりませうねへお坊{ぼう}さん」【金】「フウ。ばゞア。坊{ぼう}帰{かい}ゆのいや
〳〵だよ。亀{かめ}ン子{こ}の処{とこ}へ泊{とま}ようよウ」【うば】「あゝだものどうもこまり
きつた事た。どういたしたらよかろうやら」【紫】「そんなら斯{かう}しま
せう。坊{ぼう}と乳母{ばゞあ}はおとまりと極{きめ}て。おつかさんには三松{さんまつ}に久助{きうすけ}を付
て上やうよ。それでは案{あん}しる事もあるまい」【うば】「さやうならどうぞ
そふなすつてくださいまし。ヤレ〳〵それで落{おち}つきました」ト[みな〳〵あんどする]
[ゆゑに]小三は紫雲{しうん}と金{きん}の介{すけ}に。名残{なごり}のことばが置{おき}みやげと[なみだを袖にかくしつゝ]

(13ウ)
【小三】「さやうならあなた御|機{き}げんよう。御厄界{ごやつかい}でもござりませうが。
金{きん}ぼうが事をおねがひ申シます。ばゝアそんならたのんだよ金
ぼうやおつかアはモウ行{いく}から。おとなしくして機{き}げんよくお遊{あそ}びヨ
あば〳〵だよおさらばよ」ト[のこるかたなくつど〳〵にいとまごひして立出れど]輪廻{りんゑ}の伴{きつな}にひかさ
れて尽{つき}ぬ名残{なこり}のやるせなく。紫雲{しうん}も乳母{うば}ともろともに。金{きん}の介{すけ}
の手をひき門口{かどぐち}まで。別{わか}れを惜{おし}み送{おく}る身より。送{おく}らるゝ身は
この世{よ}から。くらき冥途{めいど}の旅{たび}の空{そら}へ。消{きへ}ゆくものと悟{さと}りしも。
さすがは尊{たふと}き法{のり}の道{みち}を。授{うけ}たる身ゆゑ御仏{みほとけ}の。真{しん}身の姉{あね}に

(14オ)
導{みちび}きをさせてたまはるものにやと。ふり帰{かへ}りては目{め}に涙{なみだ}。哭音{なくね}を
しのぶ親鳥{おやとり}の。雛{ひな}に別{わか}るゝ思{おも}ひにて。気{き}も絶〻{たへ〴〵}になる鐘{かね}の。無
常{むじやう}の風{かぜ}にひゞき来{き}て。耳{みゝ}をつらぬく入相{いりあひ}に。おどろかされて気{き}
を取{とり}なほし。心弱{こゝろよは}くてかなはじと。別{わか}れてこそは皈{かへ}りける。さる
程{ほと}に金五郎{きんごらう}は今朝{けさ}小三{こさん}に別{わか}るゝ時{とき}。常{つね}にかはりて名残{なこり}がおし
まれ。帰{かへ}る心{こゝろ}のつらかりしが。主人{しゆじん}持{もつ}身{み}の儘{まゝ}ならねば。〔こと〕ばを契{ちき}
りて別{わか}れしかど。その夜{よ}は夜|詰{づめ}の番{ばん}にあたりて。出{いづ}る事{〔こと〕}さへなら
ざるゆへ。心{こゝろ}ならずもとやかくと。案{あん}じわびても詮方{せんかた}なく。明{あか}る

$(14ウ)

$(15オ)
酔狂山人
巻紙{まきがみ}もしめり
がちなり
雁のこゑ

(15ウ)
夜{よ}遅{おそ}しと待{まち}かねて。御殿{ごてん}より内{うち}へ帰{かへ}りても。胸{むな}さわぎの常{つね}な
らねば。食事{しよくじ}さへせず着物{きもの}を着{き}かへ。|青柳橋{やなぎばし}まで急{いそ}ぎ来{く}る。
足{あし}も空{そら}に飛{とぶ}が〔ごと〕く。小三{こさん}の許{もと}へ来{きた}りしは。やう〳〵日{ひ}の出{で}の頃{ころ}なる
べし。[まだ入口の戸も明ねば。さては何事もなかりきと。少しは心もおちつきながら。戸口をとん〳〵と打たゝき]【金五郎】「ヲイお竹{たけ}起{おき}ねへか。モウ
日{ひ}かあたつてゐるぜお竹{たけ}〳〵」と[うちたゝかれて下女はおどろき]【お竹】「ハイ〳〵旦那{だんな}さまでござり
ますか。ヲヤ〳〵大{おほ}きに寝{ね}すぐしました」ト[かけがねはづして戸明れは金五郎は内へとびこんで]【金】「
坊主{ぼうず}はどうしたまだ起{おき}ねへか。小三の病気{あんべゑ}が悪{わる}かアなかつたか」【お竹】「ハイ
昨日{さくじつ}は大{おほ}きにおこゝろよいとつて。お坊{ほう}さんをお連{つれ}なすつて。向{むか}ふ島{しま}へ

(16オ)
入{い}らつしやいましたが。お坊{ばう}さんは乳母{おんば}どんと御一処{ごいつしよ}に御逗留{ごとふりう}で。お独{ひと}り
あちらの男衆{おとこしゆ}に。おくられて夕{ゆふ}べお皈{かへ}りなさいました」【金】「ナニ
きのふ金{きん}ぼうを連{つれ}て向島{むかふじま}へ行{いつ}たか。よく帰{けへ}つて来{きた}たのう。それ*「来{きた}た」の「た」は衍字
じやアくたびれてまだ起{おき}ねへのだろう」ト[いひつゝ小三のねやへ行。からかみあけてひとめ見るより]
「ヤヽヽヽヽヽ」ト[びつくりぎやうてん]後居{しりゐ}に倒{たふ}るゝ物音{ものおと}に。下女{けちよ}のお竹{たけ}も何事{なに〔こと〕}にやと。
かけ来{きた}りてやうすを見{み}れば。小三{こさん}は白無垢{しろむく}を身{み}にまとひ。いつの
間{ま}にやら自害{じがい}なしけん。朱{あけ}に染{そみ}て死{し}したる体{さま}に。おなじくわつと
おどろきて倒{たふ}れてわな〳〵ふるへゐる。[金五郎は狂気の〔ごと〕く]【金】「小三{こさん}ナゼ死{し}んだ。

(16ウ)
どうしたのだ。気{き}が狂{ちが}つたかコレ小三{こさん}。小三〳〵」ト[だきおこし。よべどこたへも〔こと〕きれて。顔
の色つやあをざめて]虫{むし}の息{いき}さへなきゆゑに。さすが男{おとこ}の心{こゝろ}もみだれ。泣{なき}こゑ
くもらせ[なみだとともに]【金】「コレお竹{たけ}。てめへが内{うち}に一処{いつしよ}に寝{ね}ながら。小三が斯{かう}
いふやうすがあつたら。ちつとはしれそふなものだのに。しらずに
殺{ころ}してしまつたか。情{なさけ}ねへ〔こと〕をしてくれた」ト[ぐちをいふのもことわりなり]この時{とき}
粂川{くめがは}のわかい者{もの}。清介{せいすけ}佐介{さすけ}もかけ来{きた}りて。おどろく〔こと〕大{おほ}かたならず。
何{なに}はともあれ向島{むかふじま}へ知{し}らせんとて。佐介{さすけ}を紫雲{しうん}のところへはし
らせければ。紫雲{しうん}も乳母{うば}も仰天{ぎやうてん}して。金{きん}の介{すけ}を連{つれ}駕{かご}にうち

(17オ)
のり。飛{とぶ}が〔ごと〕くに馳来{はせきた}りて。小三{こさん}のすがたを見{み}るよりも。あまり
の事{〔こと〕}のかなしさに。夢{ゆめ}か実{ま〔こと〕}か弁{わき}かねて。涙{なみだ}にむせぶばかりなり。
紫雲{しうん}は顔{かほ}に袖{そで}おしあて。声{こゑ}くもらせつゝ金五郎に。小三{こさん}がき
のふのやうすを語{かた}り。金{きん}の介{すけ}の行{ゆく}すゑまでを。とにかく憑{たの}み
て別{わか}れ路{ぢ}に。名残{なごり}の泪{なみだ}の尽{つき}ざりしも。斯{かう}いふ覚悟{かくご}をきはめし
ゆゑ。情{なさけ}なやかなしやと歎{なげ}くかたへに書置{かきおき}の[ありしをうばはとりあげて]
【うは】「コレマア御覧{ごらう}じまし。遺書{かきおき}までこんなになすつて。お果{はて}なさ
るはよく〳〵な事{〔こと〕}。とは申{もふ}シながらいとし盛{さか}りの。お坊{ぼう}さんをこの

(17ウ)
世{よ}へ捨{すて}て。跡{あと}のなげきを思{おぼ}しめさぬは。あんまり聞{きこ}えぬお胴欲{どうよく}
おせまい心{こゝろ}でござりました」ト[しじうなみだに]むせびゐる。金五郎{きんごらう}は
男子{おとこ}ながら。共{とも}に心{こゝろ}も消〻{きえ〳〵}に。歎{なげ}きにしづみうつとりと。夢
現{ゆめうつゝ}ともわかぬまで。おしさやるかたなかりしが。さすがさかしき
生{うま}れゆゑ。武士{ものゝふ}の身{み}でかへらぬ〔こと〕を。くりかへして歎{なけ}くこそ。人{ひと}
のおもはくも面目{めんぼく}なしと。やう〳〵おもひあきらめて。かの遺書{かきおき}を
手{て}にとりあげ。ひらきて見{み}ればこま〴〵と。わか身{み}のためと家{いへ}の
為{ため}を。おもひつめての覚悟{かくご}の文体{ぶんてい}。読{よめ}めばよむほど後悔{こうくわい}の。身{み}を*「読{よめ}めば」の「め」は衍字

(18オ)
きらるゝよりせつなさに。あきらめてもまた泪{なみだ}ぐむ[目をしばたゝき胸をなで]
【金五郎】「老少不定{ろうせうふぢやう}は世{よ}のならひ。翌{あす}をもしれぬ身{み}の上{うへ}だと。きのふ小三{こさん}が
いつたのが。思へば紀念{かたみ}の言{〔こと〕ば}となつたか。浮世{うきよ}の義理{ぎり}とおれがためを。
おもひなやみて先{さき}たつ不便{ふびん}さ。亡{なき}跡{あと}の事{〔こと〕}まで苦労{くらう}にして。異見{いけん}
まじりのこの書置{かきおき}。よむ身{み}になろうとは気{き}がつかなんだ。いつか世{よ}に
出{だ}し人{ひと}なみの。楽{らく}なくらしをさせてへと。思{おも}つた事{〔こと〕}も水{みづ}の泡{あわ}。
子供{こども}の時{とき}からけふが日{ひ}まで。かわいや一日{いちにち}楽{らく}もせず。日影{ひかげ}の身{み}にて
苦労{くろう}をし死{しに}。死{し}んだ劬労{くらう}の原{もと}はといへば。おれが片{かた}とき内{うち}に

(18ウ)
ゐぬゆゑ。親{おや}に不孝{ふかう}といはせじと。その身{み}を捨{すて}しこゝろねは。
真実{しんしつ}過{すぎ}てうらめしい。たとへ一人{ひと}りで死{しん}だとて。わが手{て}にかけ
しも同{おな}じ事{〔こと〕}。死{し}なずとしよふはあろうのに。短気{たんき}をしたから
みんなのなげき。吁{あゝ}なんだか夢{ゆめ}のやうで。かへらぬ事{〔こと〕}だが不便{ふびん}
でならねへ。南無{なむ}あみだ仏{ぶつ}〳〵」ト[ゑかうするかほ金の介はつく〴〵と見てふしんにおもひ]「おとつ
ちやんナニ泣{なく}のだへ。おつかちやん仏{のゝ}ちやんになつたかヱ。乳母{ばゝあ}なぜ泣{なく}
よウ。おばちやんもお泣{なき}かヱ。坊{ほう}おつかちやんこはいよウ」ト[ともに泣だすあど
けなさ紫雲もわつとなき出し]【紫】「ほんにこの子{こ}のかしこい事{〔こと〕}。誰{たれ}おしへねどおつかアが。

(19オ)
仏{のゝ}さんになつたかとは情{なさけ}ない。こんなかなしい事{〔こと〕}を見{み}るのを。虫{むし}が知{し}ら
せたせへかして。きのふ帰{かへ}すが気{き}にかゝり。乳母{ばゞあ}と二人{ふたり}でとゞめたが。
あの時{とき}帰{かへ}さずはなんのマア。あつたら命{いのち}を捨{すて}させやう。帰{かへ}すも約
束{やくそく}皈{かへ}る身{み}も。みんな定{さた}まる因縁{いんねん}ながら。薄命{ふしあはせ}な妹{いもと}が身{み}の果{はて}
や」ト[くりかへしてはさめ〴〵と]みな〳〵歎{なげ}きかなしみて。涙{なみだ}に畳{たゝみ}も浮{うく}ばかり。哀{あは}れ
といふもおろかなり。斯{かく}ては果{はて}しなき人{ひと}の。為{ため}にならじと金五
郎は。男心{おとここゝろ}を取直{とりなほ}して。紫雲{しうん}をいさめ乳母{うば}をはげまし。の辺{べ}
の送{おく}りもねんごろに。七日{なぬか}〳〵に訪{とひ}とむらひも。手厚{てあつ}く法会{ほうゑ}

(19ウ)
なしにける。かゝりし程{ほど}に金五郎は。おさなき金{きん}の介{すけ}が母{はゝ}に
別{わか}れて。便{たよ}りなき身{み}となりしを案{あん}じ。かねて小三が存生{そんしやう}
より。紫雲{しうん}の許{もと}へ預{あづ}けくれよと。たのみし〔こと〕ばもあるゆゑに。
日{ひ}がら立{たち}て金の介を。乳母{うば}もろともに向島{むかふじま}へあづけ。|青柳
橋{やなぎばし}の家{いへ}は取{とり}かたづけ。残{のこ}るかたなく心{こゝろ}を配{くば}り。をり〳〵紫雲{しうん}
の庵{いほり}を訪{とむ}らひ。金の介を愛{あい}しながらも。只{たゞ}小三の事{〔こと〕}忘{わす}れかね。
家{いへ}に在{ある}時{とき}は部屋{へや}にのみこもり。お雪{ゆき}にたに是等{これら}の始末{しまつ}を。秘{ひ}
しかくして語{かた}る〔こと〕なく。気{き}のひき立{たゝ}ぬも理{〔こと〕わり}なり。白翁{はくおう}はじめ家

(20オ)
内{かない}の者{もの}も。金五郎がこの頃{ごろ}にては。急{にはか}にうつて変{かは}りし〔ごと〕く。夜{よ}あそび
にも出{いで}ざるゆゑ。さては身持{みもち}の直{なほ}りしかと。よろこぶものゝいつとても。何{なに}
か心{こゝろ}に案{あん}じ顔{がほ}。屈宅{くつたく}らしくふさぐのを。見るにつけ又{また}白翁{はくおう}は。老{おい}の
身{み}の思ひ過{すご}しに。倘{もし}金五郎が短気{たんき}から。小三に怪我{けが}をさせしも
しれず。それゆゑにこそふさぐのか。小三の身のうへおほつかなし。いか
なる〔こと〕かたづねゆき。やうすを聞て安堵{あんど}せんと。ひとりひそかに
両国{りやうごく}の。小三が家{いへ}へぞいたりける。
仮名文章娘節用三編中之巻終


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底本:国立国語研究所蔵本(W99/Ky4/3、1001952991)
翻字担当者:島田遼、金美眞、矢澤由紀、銭谷真人
付記:鶴見人情本読書会編「〈翻刻〉『仮名文章娘節用』前編(・後編・三編)」(「鶴見日本文学」2~4、1998~2000)を対校資料として利用した。
更新履歴:
2017年3月28日公開

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