日本語史研究用テキストデータ集

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浮世新形恋の花染うきよしんがた こいのはなぞめ

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三編中

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浮世新形恋の花染 三編中

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凡例
1.本文の行移りは原本にしたがった。
2.頁移りは、その丁の表および裏の冒頭において、丁数・表裏を括弧書きで示した。また、挿絵の丁には$を付した。
3.仮名は現行の平仮名・片仮名を用いた。
4.仮名のうち、平仮名・片仮名の区別の困難なものは、現行の平仮名に統一した。ただし、形容詞・副詞・感動詞・終助詞・促音・撥音・長音・引用のト等に用いられる片仮名については、原表記で示した場合がある。 〔例〕安イ、モシ、「ハイそれは」ト、意気だヨ、面白くツて、死ンで、それじやア
5.漢字は現行の字体によることを原則としたが、次のものについては原表記に近似の字体を用い、区別した。「云/言」「开/其」「㒵/貌」「匕/匙」「吊/弔」「咡/囁」「哥/歌」「壳/殻」「帒/袋」「无/無」「楳/梅」「皈/帰」「艸/草」「計/斗」「弐/二」「餘/余」
6.繰り返し符号は次のように統一した。ただし、漢字1文字の繰り返しは原本の表記にしたがい、「〻」と「々」を区別して示した。
 平仮名1文字の繰り返し 〔例〕またゝく、たゞ
 片仮名1文字の繰り返し 〔例〕アヽ
 複数文字の繰り返し 〔例〕つら〳〵、ひと〴〵
7.「さ」「つ」「ツ」に付く半濁点符は「さ゜」「つ゜」「ツ゜」として示した。
8.Unicodeで表現できない文字は〓を用いた。
9.句点は原本の位置に付すことを原則としたが、文末に補った場合がある。
10.合字は〔 〕で囲んで示した。 〔例〕殊{〔こと〕}に、なに〔ごと〕、かねて〔より〕
11.傍記・振り仮名は{ }で囲んで示した。 〔例〕人生{じんせい}
12.左側の傍記・振り仮名の場合は、冒頭に#を付けた。 〔例〕めへにち{#毎日}
13.傍記・振り仮名が付く位置の紛らわしい場合、文字列の始まりに|を付けた。 〔例〕十六|歳{さい}
14.原本に会話を示す鉤括弧が付いていない場合も、これを補い示した。また庵点は〽で示した。
15.原本にある話者名は【 】で示した。 〔例〕【はる】
16.割注・角書および長音符「引」「合」は[ ]で囲んで示した。
17.不明字は■で示した。
18.原本の表記に関する注記は*で行末に記入した。 〔例〕〓{たど}りて*〓は「漂+りっとう」
19.花押は〈花押〉、印は〈印〉として示した。
20.画中文字の開始位置に〈画中〉、広告の開始位置に〈広告〉と記入した。

本文の修正
1.翻字本文を修正した場合には、修正履歴を末尾に示す。
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(1オ)
[浮世{うきよ}新形{しんかた}]恋{こひ}花曽女{はなぞめ}第三編巻之中
江戸 松亭金水編次
第八回
却説{さても}白藤{しらふぢ}源作{げんさく}は。いつぞや寸八{すんはち}門太{もんた}の両個{ふたり}に。伝{でん}兵へ
を亡{な}き者{もの}とし。宝{たから}の剣{つるぎ}を把{と}りくれよと。たのみて自筆{じひつ}
の一札{いつさつ}まで入{いれ}おきたりし事なれば。頓{やが}てぞ渠等{かれら}が働{はたら}きて
吉左右{きつさう}を為{な}すべきなり。其{その}折{おり}こそはかの剣{つるぎ}を。大内
家{おゝうちけ}へさしあげて。代金{だいきん}の三百|両{りよう}。さなくは新知{しんち}五百|石{こく}の

(1ウ)
主{ぬし}とならんは眼{ま}のあたり。さすればこゝの身上{しんせう}を仕
まひて屋{や}かたへ引移{ひきうつ}り栄曜{ゑよう}栄花{ゑいぐわ}にくらさんと。お妙{たへ}と
二人{ふたり}の寝{ね}ものがたり。たゞ長樊{ちやうはん}のあて飲{のみ}に。日毎{ひ〔ごと〕}酒{さけ}くみ
かわしつゝ戯{たはふ}れて日を送{おく}る。かゝる所{ところ}に或日{あるひ}の夕{ゆふ}ぐれ
両個{ふたり}は泥{どろ}の〔ごと〕くに酔{ゑひ}て。枕{まくら}ならべし床{とこ}のうち。かはる
まいぞの睦言{むつごと}も。事旧{〔こと〕ふり}たれど淫奔{いたづら}は。年{とし}闌{たけ}たるも若{わか}
き身{み}も。思ひはおなし慈{いと}しさに。おたゑは源作{げんさく}にうち
もたれ。源作が㒵{かほ}なでまはし。或{あるひ}は眉毛{まゆげ}を引張{ひつはつ}たり

(2オ)
鼻{はな}をつまむも恋{こひ}の癖{くせ}。傍{そは}に見る目{め}もはづかしきに
二人{ふたり}はこれぞ最上{さいぜう}の。楽{たの}しみ極{きは}むる心地{こゝち}して。たゞ
莞爾〻〻{にこ〳〵}とうち笑{ゑ}むのみ。互{たかい}にことばもなかりしが
やかておたゑがいひけるやう「おまへと二人{ふたり}で毎日{まいにち}毎晩{まいばん}
かうして楽{たの}しんで居{をり}ますは。モウ上{うへ}もない事ながら
さて親馬鹿{おやばか}とはよういふたもの。アノ色絹{いろぎぬ}はどうしたか
民弥{たみや}さんも民弥さんだ。なんの逃{にけ}たり隠{かく}れたり。人{ひと}に
気{き}ばかり揉{もま}せずと。居{ゐ}てゐてかたの付{つく}〔こと〕を。年{とし}が

(2ウ)
若{わか}いといひながら。余{あん}まりな了張{れうけん}なし。さぞ今頃{いまころ}
は二人{ふたり}とも後悔{こうくわい}してゞあらうかと。思ふと胸{むね}が一ぱい
で。心{こゝろ}もちよふ酔{よふ}た酒{さけ}も。何処{どこ}へか往{いつ}て仕{し}まひます。
そう申たらまた愚痴{ぐち}かと。お呵{しか}りなさるで有{あら}ふ
けれど。これほどまでに手{て}わけして。探{さが}してもしれ
ぬといふは。ひよつと二人{ふたり}が身{み}の上{うへ}に。どうした事でも
出来{でき}はしまいか。と按{あん}じられてなりません。」トいふに白
藤{しらふぢ}うちわらひ【源】「なんのおめへ約{やく}にも立{たゝ}ねへ。こゝで

(3オ)
くよ〳〵思つて居{ゐ}ても。聾{つんぼう}ほども通{つう}じはしねへ。そ
して宅{うち}を出{で}るときも。二十|両{りよう}といふ金{かね}を。持{もつ}て往{いつ}た
といふじやアねへか。シテ見{み}ればけふ日{び}まだ〳〵困{こま}る事は
すこしもなしさ。按{あん}じるより産{うむ}がやすいと。今{いま}どきの
若{わけ}ヱものは。何事{なに〔ごと〕}も如才{ぢよさい}ねへ。大{おほ}かた何処{どこ}ぞへ店{たな}ても
持{もつ}て。旦那{だんな}さんおかみさんといはれて暮{くら}して居{ゐ}るだ
らふ。あんじて見れば方図{ほうづ}はねへ。万一{まんいち}喰{くは}れなくなつて
見ねへ。人{ひと}を持{たの}むかどうかして。此方{こつち}へ詫{わび}をいれるより*「持{たの}む」(ママ)

(3ウ)
外{ほか}に手段{しゆだん}のない手合{てあい}だ。少{すこ}しも苦労{くらう}にしなさん
な。夫{それ}よりやア伝{でん}兵へめは。何処{どこ}に隠{かく}れて居{い}をるかしらん。
モウ大概{たいがい}見{み}あたりそうなものだ。一日{いちんち}も早{はや}くアノ剣{つるぎ}が
返{かへ}つてくれば此方{こつち}の本目{ほんめ}だ。そうするとおめへは奥{おく}
さま。こゝに居{ゐ}るより些{ちつと}ばかり。窮屈{きうくつ}かもしれねへが。人{ひと}
に敬{うやま}ひ尊{たつ}とまれて。その方{ほう}がいゝじやアねへか。」【たへ】「そりやア
たとへ窮屈{きうくつ}でも。おまへと一所{いつしよ}に居{い}る事だから。そん
な事はいとひませんか。どふぞなるなら其{その}まへに。色

(4オ)
絹{いろきぬ}が帰{かへ}つて来{き}たらこゝをそつくり二人{ふたり}に譲{ゆづ}り
そうして屋{や}しきへ引越{ひきこし}たいねへ。」【源】「そう物事{もの〔ごと〕}が十分{じうぶん}
に往{いけ}ば。此方{こつち}も僥倖{さいわい}だが。イヤ〳〵どふかなるだらう。取
越苦労{とりこしぐらう}もいらぬ事さ。マア夫{それ}よりは一寝入{ひとねいり}。サアおめへ
も寝{ね}なせへ。」ト枕ひきよせ高劓{たかいびき}。おりから下女{げぢよ}が起{おこ}す
声{こゑ}に。おたゑは眼{め}さめて|四辺{あたり}を見まはし「ヱヽやかましい。
何{なん}の用{よう}だな。コレ手{て}めへたちは人{ひと}の寝{ね}て居{い}る枕{まくら}もとへ
つか〳〵と這入{はいる}ものしやアねへヨ。用{よう}があるなら襖{からかみ}の。外{そと}

(4ウ)
から声{こゑ}をかけるものだ。ホンニ不躾{ぶしつけ}といふ事をしらねへ
のふ。」【下女】「ハイ〳〵ごめんなさい。ツイ心{こゝろ}が急{せき}まして。」【たへ】「心{こゝろ}か急{せく}とは
何{なん}の用{よう}だヨ。これどんな急用{きうよう}だヨ。」ト眼{め}に角{かど}立{たつ}れば下女{げぢよ}は
もぢ〳〵。跡巡{あとじさり}して「ハイ只今{たゞいま}民弥{たみや}さまが入{いら}しつて。おまへ
さまに。ちよつとこゝでおめにかゝりたいとおつしやりま
す。」ト聞{きい}ておたゑは刎{はね}おきつゝ【たへ】「ナニ民{たみ}さんが来{き}なすつた
と。そんなら色絹{いろぎぬ}も一所{いつしよ}にか。」【下女】「ハイどふでござりますか。
表{おもて}は闇{くら}くなりまして。しつかりとわかりません。」【たへ】「アノ人{ひと}が

(5オ)
来{く}るほどでは。大{おほ}かた娘{むすめ}も一所{いつしよ}たらう。サアはやく
此方{こつち}へあがんなと。そう言{いひ}やヨ。そして仲{なか}の間{ま}の四畳{よぢやう}
へでも通{とふ}しておきな。今{いま}往{ゆく}から。」トいひつゝ立{たつ}て帯{おび}〆
直{しめなを}し。源作{けんさく}をもゆり起{おこ}し。如此〻〻{しか〴〵}なりといひ聞{きか}せ
掾頬{えんかは}へ立出{たちいて}つゝ。手{て}ばやく嗽{うがい}手水{ちやうづ}して立出{たちいつ}れは白
藤{しらふち}民弥{たみや}は。股引{もゝひき}かけの旅支{たびじ}たく。愁然{しうせん}ととして座{ざ}に*「ととして」の「と」は衍字
つけば。おたゑは其処{そこ}へ飛{とん}で出{いて}。莞爾〻〻{にこ〳〵}として民弥{たみや}に
むかひ【たへ】「ヲヽ民弥{たみや}さんお久{ひさ}しぶりだね。小言{こ〔ごと〕}をいふでは

(5ウ)
ないけれど。おまへもマア何{なん}の事た。若{わか}い時{とき}には好{すい}た同
士{とし}。色恋{いろこひ}もありうちの事。何{なに}も逃{にけ}たり隠{かく}れたり。人{ひと}に
気{き}を揉{もま}せずとも。いくらも仕様{しやう}のある事だに。夫{それ}は〳〵
兄{あに}さんと。どんなに苦労{くらう}して居ましたらう。夫{それ}でも
無事{ぶし}な㒵{かほ}を見て。大{おほ}きに安堵{あんど}いたしました。アノ色
絹{いろきぬ}は呵{しか}られやうと。思つて外{そと}に居{い}るのかへ。夫{それ}しきの事
にナニ呵{しか}りませう。マア〳〵此方{こつち}へ呼{よん}でおくれ。コレおさんや
色絹{いろきぬ}が。大{おゝ}かた表{おもて}に居{い}るであらふ。呵{しか}りはせぬから

(6オ)
此方{こつち}へ来{こ}いと早{はや}く連{つれ}て来{き}て下{くだ}せへ。」ト言付{いひつけ}られて
立{たち}ゆく下女{げぢよ}。民弥{たみや}はこれをおしとゞめ。おたゑが前{まへ}へ手{て}
をつかへて「申あげるも何{なに}とやら。面目{めんぼく}しだいもござり
ませぬが。不図{ふと}した事で色絹{いろきぬ}と。懇{ねんごろ}いたした不{ふ}らち
のみか。伝{でん}兵へどのがやかましさ。迚{とて}も内{うち}には居{を}れぬから
立退{たちのき}くれよと色絹{いろきぬ}が。申すによつて是非{ぜひ}なくも。立
退{たちのく}つもりに談合{だんかう}は。いたしましても路用{ろよう}はなし。そんなら
斯{かう}と道{みち}ならねど。親{おや}の物{もの}を子{こ}が盗{ぬす}む。まさか盗賊{とうぞく}に

$(6ウ)

$(7オ)

(7ウ)
も落{おち}まいと。心{こゝろ}で許{ゆる}しておまへさまの。お留守{るす}を見か
けて金子{きんす}を奪{うば}ひ。立退{たちのき}ましたは両個{ふたり}とも重{ぢう}〳〵の不
届{ふとゞき}もの。それさへお咎{とが}めなさらずに。親子{おやこ}と言{いふ}て今{いま}
のやうに。仰{おゝせ}られて下{くだ}さるは。冥加{めうが}ないほどありがたく。色
絹{いろきぬ}も倶〻{とも〴〵}に。参{まいつ}た事なら早速{さつそく}に。お目通{めどふ}りもいた
させませうが。些{ちと}わけ有{あつ}て只今{たゞいま}はどふも連{つれ}て参{まい}られ
ません。と。いふ訳{わけ}は二人{ふたり}で欠落{かけおち}いたした所{ところ}。何{なに}を申も旅{たび}他
国{たこく}は。不按内{ふあんない}のわれ〳〵二人{ふたり}。護摩{ごま}の灰{はい}とやらに附{つか}れて

(8オ)
二十|両{りよう}のその金{かね}はまるでとられて仕廻{しまひ}ました。夫{それ}さへ
あるに色絹{いろぎぬ}が。それや是{これ}やを苦労{くらう}にいたし。旅泊{はたこや}で
の大煩{おゝわづ}らひ。積{しやく}が強{つよ}くさし込{こん}んで。手足{てあし}も厥冷{けつれい}いたし
まして。迚{とて}も是{これ}では叶{かな}はぬと。医師{いし}の申すに力なく。折{おり}も
折とてこの始末{しまつ}。これも親御{おやこ}の目{め}を抜{ぬい}て善からぬ事
をいたしたる。罪{つみ}か報{むく}ひか怖{おそろ}しやと。観念{くはんねん}いたすその折{おり}
から。邑{むら}の衆{しゆ}が申すには。この邑外{むらはづ}れに名医{めいい}かある。
療治代{りやうちたい}はちと高{たか}いが。これへ見せたら万{まん}にひとつも

(8ウ)
蘇生{よみがへる}。事もあらうと申すによつて。頼{たの}みましたが其{その}
医者{いしや}どのが。容子{よふす}を見て是{これ}は直{ちき}に蘇生{よみかへる}るが療治代{りやうちたい}
金{きん}十両かゝると。聞{きい}てぎつくり以前{いせん}の金{かね}が。手{て}にさへあ
れば十両か。十五両でも厭{いと}ひはせぬが。護广{こま}の灰{はい}の災
難{さいなん}に。逢{あひ}たる後{のち}で一文{いちもん}なし。ハテどうしたらよからうか。
しかしながら十両の金{きん}は。どふとも工面{くめん}が出来{てき}やう。人{ひと}
の命{いのち}は買{かは}れぬと。思ひ直{なを}して気{き}つよくも。その医者{いしや}
とのに持{たの}みましたら。ツイ蘇生{よみかへつ}て不断{ふたん}の通{とふ}り。サア十両*「持{たの}み」(ママ)

(9オ)
の療治代{りやうぢだい}。うけとらふと矢{や}の催促{さいそく}。是非{ぜひ}なく金{かね}の
出来{でき}るまで。まづ人質{ひとしち}に色絹{いろぎぬ}をば。その医師{いしや}に
あづけておき。心当{こゝろあた}りの所〻{しよ〳〵}方〻{ほう〴〵}。才覚{さいかく}しても出来{でき}ぬは
金{かね}。詮事{せう〔こと〕}なしにこの㒵{かほ}へ。面{めん}をかむつて参{まい}りました。
アヽ盗人{どろぼう}に追銭{おいせん}とやら。おはら立{たち}ではござりませう
が。申さばそれで色絹{いろきぬ}が。命{いのち}を買{かつ}たやうなもの。ど
うぞ不便{ふびん}とおぼしめして。療治代{りやうぢだい}の十|両{りやう}金{きん}。貸{かし}て
くださるものならば。生〻{せう〴〵}世〻{せゞ}の御厚恩{こかうおん}死{し}んでも

(9ウ)
忘{わす}れはおきませぬ。然{さ}もないときは色絹{いろきぬ}も。可愛{かあい}
や始終{しじう}どのやうな。憂目{うきめ}にあふもしれませず。諺{〔こと〕はさ}に
いふ人参{にんじん}飲{のん}で。首{くび}くゝるとはこの事で。ござりませう。」
トおたゑが甘{あま}き言葉{〔こと〕ば}につけこみ。弁舌{べんぜつ}よくぞ騙{たば}
かるとは。いかでかしらん母{はゝ}おやの。おたゑは是{これ}を聞{きく}〔ごと〕
に。且{かつ}は憂{うれ}ひつ且{かつ}歓{よろこ}びつ【たへ】「今{いま}もおまへのいふた
通{とふ}り。腹{はら}を立{たて}ばたつやうなもの。そう成行{なりいつ}た上{うへ}からは
仕方{しかた}のないはしれた事。一生{いつせう}連配{つれそふ}夫婦{ふうふ}なりや。否{いや}

(10オ)
な人{ひと}とは配{そ}はれぬ義理{ぎり}。そこは随{ずい}分しつて居{い}ます。
そんなら何{なに}かへその十両を。やりさへすれば色絹{いろきぬ}を。直{すぐ}
に連{つれ}て来{こ}られますかへ。」【民】「それはいふに及{およ}びません。全{まつたく}
今{いま}の金子{きんす}ゆへ。質{しち}にとられてさぞ今{いま}ころは。苦労{くらう}にし
て居{をり}ませう。」ト心{こゝろ}にあらぬ空泪{そらなみだ}も。金{かね}がほしさの計較{もくろみ}とは
しらぬおたゑが愚{おろか}にも。子{こ}ゆへの闇{やみ}のおや心{こゝろ}簞笥{たんす}より
してとり出{だ}す金{かね}。そのとき源作{げんさく}おしとゞめ「コレサ〳〵今{いま}聞{きく}に
間違{まちがい}もあるめへけれど。余{あん}まりそれじやア親{おや}の威光{いくはう}も

(10ウ)
何{なん}にもなくて。この以後{いご}とも。いふ事を聞{きゝ}おるまい。夫{それ}より
ひとまづ刎{はね}てやり。いよ〳〵難渋{なんぢふ}する容子{やうす}を。見みとゝけた上{うへ}
跡〻{あと〳〵}の。所{ところ}までもとり極{き}めて。金{かね}をやるがよからうぜ。」【たへ】「
わたしもそふは思ひますか。かあいそうに民弥{たみや}さんも。いつ
そ窶{やつ}れた形容{なりかたち}。色絹{いろきぬ}とてもどのやうにか。苦労{くらう}にい
たして居{をり}ませうに。マア〳〵これはつかはしませう。そのうへで
二人{ふたり}して。こゝへ帰{かへ}つて参{まい}つたとき。おまへさま私{わたくし}に。成替{なりかはつ}て
おとりきめ遊{あそ}ばしてくだされ。」ト民弥{たみや}が詞{〔こと〕ば}を真顔{まがほ}に

(11オ)
うけ。子{こ}の可愛{かあい}さも百倍{ひやくばい}に。やがて金{かね}をとり揃{そろ}へ。民
弥{たみや}にわたせばおしいたゞき「アヽありがたふござります。
これでアノ児{こ}も身{み}は楽〻{らく〳〵}。サア些{ちつと}もはやふ往{いつ}て聞{きか}せて
安堵{あんど}させませう。」ト出{で}るを止{とゞ}めて【たへ】「アヽもし〳〵先{さき}は何
処{どこ}とか言{いひ}なすつたの。今{いま}から其処{そこ}へ往{いか}れはしまい。夜{よ}が
明{あけ}たらば直{すぐ}においで。」【民】「アノ児{こ}の居{い}るのは武州{ぶしう}熊{くま}がへ。
どうで今夜{こんや}往{ゆき}つくといふ事には参{まい}りませんが。其
処{そこ}までゆけば馬{うま}もあり。イヤ些{ちつ}とも急{いそ}いでまいりま

(11ウ)
せう。」ト乞暇{いとまごひ}さへそこ〳〵に。福住{ふくずみ}やを立出{たちいで}つゝ。心{こゝろ}の内{うち}
にうち笑{ゑ}みて。ハテサテ甘{うま}くしてやつたはへ。是{これ}せへあれば此{この}
足{あし}で。大和{やまと}めぐりと出{で}かけやうと。私語{ひとり〔ごと〕}して急{いそ}ぎゆく
心{こゝろ}のうちこそ怖{おそろ}しけれ。かくてまた伝{でん}兵へと。おしゆんの
二人{ふたり}はこの日ごろ。兄{あに}与次郎{よじらう}が世話{せわ}になり。簗架{やなか}に潜{ひそ}
み居{い}たりしに。元{もと}より貧{まづ}しき与{よ}次郎なれば。朝{あさ}な夕{ゆふ}な
に縡{〔こと〕}足{た}らぬを。見{み}聞{きく}につけて気{き}のどくさに。二人{ふたり}は
いろ〳〵相談{さうだん}し。幸{さいわ}い隣{となり}の老婆{ばゝ}が口入{くちいれ}。忍{しの}ぶが岡{おか}なる

(12オ)
水茶{みづちや}やへ。出{で}よとの勧{すゝ}めは僥倖{さいわい}と。伝{でん}兵へにもいひ
きかせ。おしゆんはこゝへ日毎{ひ〔ごと〕}に出{で}て。入来{いりく}る客{きやく}のあし
らひは。座{ざ}しきを勤{つと}めし自然{しぜん}の功{こう}。ことに標致{きりやう}は十|
人{にん}まさり。どつと人{ひと}〳〵評判{ひやうばん}して。かけ行灯{あんどう}を目印{めしるし}に
喜撰|女児{きせんむすめ}と仇名{あだな}して。日ならずこゝへ集会{つどひ}来{く}る。客{きやく}
も数多{あまた}になりければ。思ひの外{ほか}に得{とく}つきて。夫婦{ふうふ}
が口{くち}を糊{こ}するにやすく。しかはあれどもこの所{ところ}へ。集
会{つどへる}客{きやく}のそのうちには。通{つう}もあり不通{ふつう}もあり。妓娼{ぢようろ}唄

(12ウ)
女{げいしや}や茶{ちや}や女{■■な}と。品{しな}こそかはれ色{いろ}をもて。人{ひと}の心{こゝろ}を寄{よす}
るなれば野暮{■ぼ}でいやみな客人{まれびと}に。かぎりて何{なに}か馴
〻{なれ〳〵}しく。時邂{ときたま}くれる一朱銀{いつしゆぎん}を。恩{おん}にかけての懇{ねんごろ}ぶり
今日{けふ}は己巳{みまち}でにぎやかな。田楽{でんがく}喰{くひ}に一所{いつしよ}に往{ゆけ}の。蓬
莱亭{ほうらいてい}へ伴{とも}なはんのと。種〻{しゆ〴〵}に心{こゝろ}
を引{ひき}見{み}る客{きやく}は。よき
に回答{いらへ}てなるたけは。外{はづ}すも人{ひと}の機{き}をとりて。よらず
さはらず疎{うと}からず。品{しな}よくするも身{み}が可愛{かあい}さ。おりに
ふれては菓子{くはし}くだもの。蒸{む}した玉子{たまご}や酢{すし}うりなど

(13オ)
茶{ちや}やにつどひし賓客{まろうど}を。目{め}あてに来{きた}ればよき
ほどに。勧{すゝ}めて買{かは}すときもあり。断{〔こと〕はり}いふて返{かヘ}すのも
みなこれ女子{をなご}が差略{さりやく}によれば。内外{うちと}に心{こゝろ}つかふなる。
生酔客{なまゑひきやく}の来{く}るときは。訳{わけ}もないのに無理{むり}いふて
相客{あいきやく}までも困{こま}らすを。中{なか}にたちての取捌{とりさはき}。さても
見かけは水性{うはき}らしふ。見へても浮気{うはき}じや勤{つと}まらぬ
商売{せうばい}がらも呑{のみ}こんで。ほどよくこれをあやなすも
世{よ}を宇治山{うぢやま}の薄{うす}ざくら。思ふ男{をとこ}と友白髪{ともしらが}まで。配{そは}

(13ウ)
ば嬉{うれ}し野{の}気{き}もわかみどり。今{いま}の辛苦{しんく}の山吹{やまぶき}も。いつ
かははれて後{のち}昔{むかし}。むかし噺{ばな}しになしたやと指{ゆび}を折鷹{おりたか}
因縁{いんえん}の。たゞ芦久保{あしくぼ}とあきらめても。積{つも}るおもひの
八重垣{やゑがき}や。ひとへに願{ねが}ふ往{ゆく}すへも。身{み}は楽{らく}やきや信
楽焼{しがらきやき}。故郷{こけう}へかざる錦出{にしきで}の。色{いろ}も香{か}もよきせんじ
茶{ちや}を。鬻{ひさ}く身{み}とまでなり果{はて}し。人{ひと}の行方{ゆくゑ}と水茶{みづちや}
やの。あはれはかなき活生{なりわい}なり。かくてこの日は麗{うらゝか}に
行来{ゆきゝ}の人{ひと}もにきはしき。折{おり}からこゝへ衝{つ}と這入{はいる}は。覆

(14オ)
面{ふくめん}頭巾{づきん}に㒵{かほ}は見{み}へねど。衣服{いふく}大小{だいしやう}立派{りつぱ}な侍{さふらひ}。傍{かたへ}
の床机{せうぎ}に腰{こし}うちかければ。おしゆんは俄{にはか}に笑{え}みを
つくり。腰{こし}をかゞめて「旦那{だんな}よふいらツしやりました。」ト
いつもかはらぬ愛想{あいさう}に。茶{ちや}を汲{くみ}てもてゆけば。彼{かの}
侍{さふらひ}は茶碗{ちやわん}はとらで。おしゆんが手首{たなくび}緊{しか}と楸{とり}て「ハテサ
茶{ちや}を呑{のみ}には来{こ}ぬ。そなたに少{すこ}し噺{はな}しかあつて。漸{よふ}
〳〵と来{き}たのじや。」トいふ物{もの}ごしにおぼへあればおしゆん
は跡{あと}へ身{み}を踆巡{しさ}り【しゆん】「アレどなたでござります。」トよく〳〵

(14ウ)
見るに定{たし}かにしれず。しばし小首{こくび}を傾{かたむ}けて「モシおまへ
さんは源作{げんさく}さまではござりませんか。」トいはれて此方{こなた}は頭
巾{づきん}を脱{ぬぎ}すて【源】「かく顕{あら}はるゝ上{うへ}からは。何{なに}をか包{つゝ}まんさ。」[トこわいろを]
つかひ。「ときにおめへマアどうしてこゝへ出{で}るよ。喜撰|女児{きせんむすめ}と評
判{ひやうばん}の女{をんな}は。唄女{げいしや}のおしゆんだと。噂{うはさ}を聞{きい}て今日{けふ}わざ〳〵。尋{たづ}
ねて来{き}たのも余{よ}の義{ぎ}でねへのサ。おめへアノ伝{でん}兵への往先{ゆくさき}
を知{し}つて居{い}るだらふ。」【しゆん】「イヽヱどうして私{わたくし}が。伝{でん}兵へさんをぞんじ
ませう。そして此{この}頃{ごろ}はどふかなさいましたのかへ。伝{でん}兵へさんの

(15オ)
事といへばヨウク私{わたくし}に彼{かれ}是{これ}と。伯母{おば}さん始{はし}めおつしやる
けれど。誠{ま〔こと〕}に私{わたくし}は迷惑{めいわく}いたしますヨ。」【源】「まづそうは言{いふ}物{もの}の
実{しつ}は伝{でん}兵へもへちまもいらぬ。マアこつちへ寄{よ}んなせへ。」ト
無理{むり}に床机{せうき}の傍{かたはら}へおしゆんを引付{ひきつけ}源作{げんさく}か「コレサ何{なに}
もそんなにむづかしい㒵{かほ}をして居{い}る事はねへサ。今日{けふ}
わざ〳〵と爰{こゝ}へ来{き}た。わけといふは外{ほか}でもねへ。今さら
いふも恥{はつ}かしいが。福住{ふくすみ}の食客{かゝりうと}と。なつて居{い}る時分{じぶん}から
好{すい}た女{をんな}と明{あけ}くれに。思つて居{い}たれどいゝ年{とし}して。馬鹿{ばか}な

$(15ウ)

$(16オ)

(16ウ)
事もいはれめへと我{わが}身{み}に愧{はぢ}て慎{つゝ}しんだ。其内にお
めへは家{いへ}出。その後{のち}きけば花水橋{はなみづばし}に。いきな商売{せうばい}して
居{い}るとの。噂{うはさ}は有たがおれも了得{さすが}に人の思はく恥{はづ}かし
さに。堪{こら}へ〳〵て居たけれど。今{いま}に忘{わす}れぬおめへの面影{おもかげ}。此{この}
せつは別{べ}しての事。恋{こひ}の病{やまひ}は斯{かう}した物{もの}かと。思ふほどに
昼夜{ちうや}とも。さて煩悩{ぼんのふ}に引されて夢{ゆめ}に見るのはいくそ
たび迚{とて}もひとりでくよ〳〵と。思つて居たとて始{はじ}まらねへ。
物は当{あた}つて砕{くだ}けろと。喩{たと}への通{とふ}りおめへに逢{あつ}て。こゝろの

(17オ)
たけを言{いつ}て見{み}て。それで願{ねが}ひが叶{かな}はざア。死{し}ぬとも生{いき}
るともその時{とき}よと。今日{けふ}こそずつと魂{たましゐ}すへて。思ひ通{どふ}り
を言{いつ}て仕{し}まふ。迚{とて}もどれほど思つたとて。似{に}ても似つかぬ
雪{ゆき}と炭{すみ}。雲井{くもゐ}の雁{かり}のおよばぬ事。いゝ返事{へんじ}は有{ある}めへサ。
しかし何{なに}も後生{ごせう}とやらだ。是{これ}ほど思ふ心{こゝろ}いきを。不便{ふびん}と
思つて呉{くれ}られりやア。冥加{めうが}に叶{かな}つたこの源作{げんさく}。またいや
だとの挨拶{あいさつ}なら。浮世{うきよ}に楽{たのしみ}のねへ身{み}だから。坊主{ぼうず}になる
か但{たゞ}しは死{し}ぬかと。覚語{かくご}をきめての真実{しんじつ}本間{ほんま}だ。おしゆん

(17ウ)
さんおめへもよふく了張{れうけん}して。返事{へんじ}をして呉{くん}なせへ。」ト藪{やぶ}から
棒{ぼう}の横恋慕{よこれんぼ}に。おしゆんは㒵{かほ}をうち守{まも}り【しゆん】「私{わたくし}ぶせいを
それほどに。思し召{めし}てくださるとは。有{あり}がたふござりますが
おまへさんはアノ伯母{おば}さんと。平生〻〻{つね〴〵}からしてお中{なか}のよいを。私{わたくし}
はよく存{ぞん}じてをります。夫{それ}にそんな事いふて。お嬲{なぶ}りなさる
事はない。ぞんじません。」と突放{つきはな}し。こなたの床机{せうぎ}へ立{たち}かへり
釜{かま}の下{した}をぞ焚{たい}て居{ゐ}る。源作{げんさく}は莞爾〻〻{にこ〳〵}と「イヤなるほど
そういふ筈{はづ}さ。あれには些{ちつと}わけのある事。何{なに}もこれ惚{ほれ}

(18オ)
たのはれたのといふ訳{わけ}ではなしヨ。しかしそうおめへにいはれ
ちやア。一言{いちごん}もねへやうなもの。去{さり}ながらコレおしゆんぼう。気{き}
づよいばかりが女子{をなご}でもあるめへさ。情{なさけ}の道{みち}にも如在{ぢよせへ}ねへ。恋{こひ}
しりめ。何{なに}もそふ人に恥{はぢ}をかゝしてくれずといゝはさ。アヽしかし
此{この}事{〔こと〕}は。おれがみんな過{あや}まつた。コレ気{き}を直{なを}して呉{くん}なせへ。これは
余{あん}まり少{すく}ねへが。心{こゝろ}ばかりのお茶代{ちやだい}だ。」トいひつゝ出{だ}す紙包{かみづゝみ}
は。小判{こばん}でちやうど三枚{さんまい}ばかり。おしゆんは手{て}ばやくおしかへし
【しゆん】「これはマア頓{とん}だ事でござります。なんのあなたお茶代{ちやだい}に

(18ウ)
およびませう。ことに此{この}やうに戴{いたゞ}いては。」トいふを白藤{しらふぢ}「[イヤサ〳〵]
茶代{ちやだい}なり。ひとつには今{いま}いふた事の中直{なかなを}り。それまで無
理{むり}に返{かへ}そうとは。余{あん}まりな嫌{きら}ひやう。そふ何処{どこ}までも
この老爺{おやぢ}に。恥{はぢ}をあてずといゝじやアねへか。」【しゆん】「イヽヱそうで
はございません。何{なん}とおつしやつても是{これ}ばかりは。頂{いたゞ}く事は
なりません。」ト無理{むり}に突{つき}つけ逃出{にげだ}して。遥{はるか}こなたにおなじ
さまなる。茶鄽{ちやみせ}ヘツイと欠入{かけいり}ければ。源作{げんさく}今{いま}は手持{てもち}なく
【源】「ヲヽこゝでとらぬとなら。よし〳〵翌{あす}そなたの内{うち}。猿廻{さるまは}し

(19オ)
の与{よ}次郎が。家{いへ}に往{い}てやりませう。ヤレ〳〵世話{せわ}になりまし
た。」トいひすて往{ゆく}を遥{はるか}に聞{きい}て。おしゆんは其処{そこ}へ駈出{かけいだ}し
【しゆん】「ナニ猿廻{さるまは}しとへ。わたしが宅{うち}はそんな所{ところ}ではござりません。」
【源】「イヤサなんぼ隠{かく}しても。この源作{げんさく}はよふしつて居{い}るはへ。
そなたを恋{こひ}しひ〳〵と。明{あけ}くれ覷看{ねらつ}て居{い}る身{み}じやもの。ハテサ
そふしらをきるものじやアねへ。」【しゆん】「それはモウお志{こゝろざし}おうれ
しうござりますが。猿廻{さるまは}しとやらへいらしつても。私{わたくし}は居{をり}
ませんヨ。」【源】「そんならそなたの宅{うち}は何処{どこ}だ。ソレあいさつが

(19ウ)
出来{でき}まいがな。」【しゆん】「ナニツイ其処{そこ}でござります。毎日{まいにち}こゝへ
出{で}ますから。御用{ごよう}があるなら此{この}見世{みせ}でゆるりとお咄{はな}し
いたしませう。宿{やど}は私{わたし}の寡住居{やもめずまゐ}。モウ見{み}ぐるしふござりま
す。」【源】「その見苦{みぐる}しい所{ところ}がよいてサ。いづれその内{うち}ゆる〳〵と
おもひのたけを噺{はな}しませう。」トかの頭巾{づきん}をうち被{かふ}り。優{ゆう}
〳〵として立{たち}かへる。おしゆんは跡{あと}を見おくりて。どうして
此{この}身{み}は与{よ}次郎が。家{いへ}にありとはしりぬらん。そうして見れば
伝{でん}兵へさんと。一所{いつしよ}に居{い}る事|承知{せうち}でか。こりやマア油断{ゆだん}が

(20オ)
ならぬはへ。アヽとんだ人に引{ひき}かゝつて。モウ日{ひ}が暮{くれ}る。どりや
帰{かへ}らふト手{て}ばやく其処等{そこら}かたづけて。おしゆんはひとり
湯{ゆ}がへりの。浴衣{ゆかた}にあらぬ半天{はんてん}を。まへ垂{だれ}におし包{つゝ}み。抱{かゝ}
へて家路{いへぢ}へ帰{かへ}りがけ。左手{ゆんで}の方{かた}を見わたせば。限{かぎ}りも
見へず広{くはう}〳〵たる。池{いけ}に賓雁{ひんがん}瞭喨{れう〳〵}と。下{おり}るもあり立{たつ}も
あり。右手{めて}は葭茅{よしかや}いたく茂{しげ}り。見上{みあぐ}れば森〻{しん〳〵}たる樹林{じゆりん}
月光{げつくはう}を埋{うづ}む。さも怖{おそろ}しき叢{くさむら}に。女{をんな}の呻{うめ}く声{こゑ}すれば。お俊{しゆん}
はこれを聞{きゝ}つけて。何心{なにごゝろ}なく立{たち}よりつゝ。見{み}れば年{とし}まだ

(20ウ)
うら若{わか}き女{をんな}の悩{なや}みて居{ゐ}たるなり。おしゆんは哀{あは}れの増{まさ}
りつゝ。近〻{ちか〳〵}と歩{あゆ}みより。よく〳〵見るに板〆{いたじめ}の。まだ古{ふる}から
ぬ長繻伴{ながじゆばん}と。浅黄{あさぎ}の二布{ふたの}とばかりにて。帯{おび}とおぼしき*「長繻伴」(ママ)
物{もの}もなく。それさへ泥{どろ}にまみれつゝ。いと見苦{みぐる}しくはあり
ながら。何{なに}さま賤{いや}しき人{ひと}とは見へず。彼{かの}追放{ついほう}とかいふ物{もの}
に。遭{あひ}たる人{ひと}にや痛{いた}はしと。思ひつゝ傍{かたへ}に屈{かゞ}み。「何人{なにびと}な*原本に括弧なし
ればこの所{ところ}に。かくは悩{なや}みて居{ゐ}給ふ。」と。問{とふ}に女{をんな}は顔{かほ}うち
擡{もた}げ。互{たがい}に見合{みあい}て恟{びつ}くりし【しゆん】「ヤヤおまへは色絹{いろきぬ}さん。」【色】「

(21オ)
そういふおまへはおしゆんさん。面目{めんほく}ないこの姿{すかた}。どうせう
のふ。」と泣{なき}ふせは。訳{わけ}はしらねと災難{さいなん}に。あひたるものと
思ふから。おしゆんはこれを抱起{だきおこ}し【しゆん】「マアおまへはとうな
すつた。怪{けし}からぬこの姿{すかた}。わけによつたら仕{し}やうもあらふ。
マア〳〵噺{はな}してお聞{きか}せ。」ト例{いつ}にかはらぬ信切{しんせつ}の。見へて猶{なを}
さら色絹{いろきぬ}は。繻伴{しゆはん}とともに紅{くれなゐ}の色{いろ}を面{おもて}に顕はしつゝ*「繻伴」(ママ)
「恥{はつ}かしなから如此〻〻{しか〳〵}の。仔細{しさい}によりて民弥{たみや}に捨られ剰*原本に括弧なし
さへ衣類{いるい}まて。剥{はき}とられしかはこのまゝに死{し}なふと覚語{かくご}

(21ウ)
は究{きは}めても。了得{さすか}に命{いのち}おしまれて。こゝまて呻吟{さまよひ}参{まい}
りしなり。人にこそよれとのやうな。事になるともおまへ
の世話{せわ}にならるゝものか捨{すて}おいて。この野{の}で殺{ころ}してくだ
さんせ。」トいふをおしゆんはかき消{け}して。「仇{あた}も怨{うらみ}もお互{たかい}に*原本に括弧なし
世{よ}にある時{とき}の事なりかし。見{み}す〳〵こゝて死{し}ぬ人を何{なに}
見{み}すてゝは往{ゆか}りやうそ。わたしか宅{うち}もツイ其処{そこ}なれば
兎{と}にもかくにも門口{かとくち}まて。来{きた}り給へ。」と手{て}をとりてわか
隠{かく}れ家{か}へ伴{とも}なひけり。

(22オ)
評{ひやう}に曰{いはく}この草紙{さうし}を披{ひら}く|児女子{むすめこ}。よく此{この}赴{おもむき}を
味{あちは}へ給へ。はしめ己{おの}れに強面{つら}かりしかとも。お俊{しゆん}はよく
その人情{にんせう}に協{かな}ひ仇{あた}となりたる色絹{いろきぬ}か。急{きう}を救{すくふ}は
最{もつとも}美{よし}とす。色絹{いろきぬ}その身{み}の詮方{せんかた}つきて。また是{これ}に
伴{ともな}はる。聖徳太子{せうとくたいし}の宣{のたま}ひけん環{たまき}の端{はし}なき〔ごと〕しと
いふ。鳴呼{ああ}当{あた}れるかな〳〵。
恋花染三編巻之中終


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底本:東京大学文学部国語研究室蔵本(A4:0089:3)
翻字担当者:成田みずき、島田遼、銭谷真人
更新履歴:
2017年7月26日公開

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