浮世新形恋の花染
二編中
浮世新形恋の花染 二編中
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凡例
1.本文の行移りは原本にしたがった。
2.頁移りは、その丁の表および裏の冒頭において、丁数・表裏を括弧書きで示した。また、挿絵の丁には＄を付した。
3.仮名は現行の平仮名・片仮名を用いた。
4.仮名のうち、平仮名・片仮名の区別の困難なものは、現行の平仮名に統一した。ただし、形容詞・副詞・感動詞・終助詞・促音・撥音・長音・引用のト等に用いられる片仮名については、原表記で示した場合がある。 〔例〕安イ、モシ、「ハイそれは」ト、意気だヨ、面白くツて、死ンで、それじやア
5.漢字は現行の字体によることを原則としたが、次のものについては原表記に近似の字体を用い、区別した。「云／言」「开／其」「㒵／貌」「匕／匙」「吊／弔」「咡／囁」「哥／歌」「壳／殻」「帒／袋」「无／無」「楳／梅」「皈／帰」「艸／草」「計／斗」「弐／二」「餘／余」
6.繰り返し符号は次のように統一した。ただし、漢字1文字の繰り返しは原本の表記にしたがい、「〻」と「々」を区別して示した。
平仮名1文字の繰り返し 〔例〕またゝく、たゞ
片仮名1文字の繰り返し 〔例〕アヽ
複数文字の繰り返し 〔例〕つら〳〵、ひと〴〵
7.「さ」「つ」「ツ」に付く半濁点符は「さ゜」「つ゜」「ツ゜」として示した。
8.Unicodeで表現できない文字は〓を用いた。
9.句点は原本の位置に付すことを原則としたが、文末に補った場合がある。
10.合字は〔 〕で囲んで示した。 〔例〕殊｛〔こと〕｝に、なに〔ごと〕、かねて〔より〕
11.傍記・振り仮名は｛ ｝で囲んで示した。 〔例〕人生｛じんせい｝
12.左側の傍記・振り仮名の場合は、冒頭に＃を付けた。 〔例〕めへにち｛＃毎日｝
13.傍記・振り仮名が付く位置の紛らわしい場合、文字列の始まりに｜を付けた。 〔例〕十六｜歳｛さい｝
14.原本に会話を示す鉤括弧が付いていない場合も、これを補い示した。また庵点は〽で示した。
15.原本にある話者名は【 】で示した。 〔例〕【はる】
16.割注・角書および長音符「引」「合」は［ ］で囲んで示した。
17.不明字は■で示した。
18.原本の表記に関する注記は＊で行末に記入した。 〔例〕〓｛たど｝りて＊〓は「漂＋りっとう」
19.花押は〈花押〉、印は〈印〉として示した。
20.画中文字の開始位置に〈画中〉、広告の開始位置に〈広告〉と記入した。
本文の修正
1.翻字本文を修正した場合には、修正履歴を末尾に示す。
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＄（１オ）
＄（１ウ）
伝｛でん｝兵へ雨｛あま｝
やどりして
おしゆんに
再会｛さいくはい｝す
＄（２オ）
（２ウ）
［浮世｛うきよ｝新形｛しんかた｝］恋｛こひ｝の花曽女｛はなぞめ｝二編｛にへん｝巻之中
江戸 松亭金水編次
第五回
みな人｛ひと｝の心｛こゝろ｝なぐさむ花水橋｛はなみづばし｝。誰｛たが｝門辺｛かどべ｝とも白露｛しらつゆ｝に。あら
で軒｛のき｝もる玉｛たま｝の水｛みづ｝。こゝにかけたる烑灯｛てうちん｝は。観音薩埵｛くはんおんさつた｝へ
奉灯｛ほうとう｝の。こゝろを表｛ひやう｝する万字｛まんじ｝の紋｛もん｝。はや灯火｛ともしび｝もたえ〴〵
に。ひかりもくらき格子窓｛かうしまど｝。この軒下｛のきした｝へたちよる伝｛でん｝兵へ「
ヤレ〳〵とんだ目｛め｝に逢｛あつ｝た。先刻｛さつき｝のさはぎに笠｛かさ｝はなくす。ヱヽ
（３オ）
羽｛は｝おりも著物｛きもの｝もびつしより。ヱヽそれも仕方｛しかた｝はねへが
嚮｛さつき｝のやつらは何処｛どこ｝のものだしらん。腹｛はら｝の立｛たつ｝まゝ横腹｛よこばら｝
を。」ト［いひかけてあたり見まはし］「どこでどんな災難｛さいなん｝にあふかしれねへ
ものだ。しかし誰｛だれ｝ぞおれを知｛し｝つてゐる者があると大変｛たいへん｝
だが。」ト小声｛こゞゑ｝でひとり咳｛つぶや｝きつゝ。したくを直｛なを｝す折｛おり｝こそあ
れ。内には弾出｛ひきだ｝す三弦｛さみせん｝の。音｛ね｝じめもきよき清元｛きよもと｝の
流｛なが｝れをこゝにうつしゑや。今｛いま｝もすたらぬ山がへり。たゞ一
くさりチヤン〳〵と引｛ひき｝かけてこちらを向｛む｝き「モシお俊｛しゆん｝さん。」【しゆん】「
（３ウ）
「アイ。」「アイじやアないはね。此間中｛こないだぢう｝から私｛わちき｝がモウ〳〵。息｛いき｝せい＊３丁表末尾と３丁裏冒頭の両箇所に「「」
はつていふのに。まだおまへには解｛わか｝らないかへ。ヱヽモウじれつ
てへ人｛ひと｝だノウ。そしてその文｛ふみ｝は何処｛どこ｝へやんなさるへ。何｛なん｝だかきつい
魂胆｛こんたん｝らしいネ。どれ鳥渡｛ちよつと｝お見せよ。」トいひさま紙｛かみ｝の端｛はし｝
をとる。見せじと此方｛こなた｝へひく拍子｛ひやうし｝に。さらりと裂｛さけ｝て
五六寸｛ごろくすん｝。こなたの女｛をんな｝の手｛て｝に残｛のこ｝るを。おしゆんは猶｛なを｝も手｛て｝を
伸｛のば｝して。とらんとするを「マアお待｛まち｝」トいひさま夫｛それ｝を佶｛きつ｝と
見て「ヲヤ〳〵マア怪｛けし｝からねへ。何｛なん｝だと。書｛かき｝おきの事。ヱ丶こりやア
（４オ）
何｛なん｝の事だへ。マア下｛した｝に居｛い｝てよくお聞｛きゝ｝よ。諚｛ぜう｝のこわいにも
ほどがあるよ。そりやアなるほど先頃｛いつぞや｝は。義理｛ぎり｝づくで。身｛み｝
におぼへもない事を書｛かい｝てサ。気｛き｝にもかゝるだらうし。又｛また｝
その男｛をとこ｝にも済｛すむ｝めへけれど。それを兎｛と｝やかく気｛き｝を揉｛もん｝
で。死｛し｝んだからと言｛いつ｝て通｛つう｝じはしないヨ。そしてこんな
かきおきだの。なんだのといふふみを書｛かい｝てサ。たれに
やるのだ。大｛おほ｝かたその男｛をとこ｝へやんなさる気｛き｝だらうが死｛し｝ん
だあとでこの文｛ふみ｝を見せるよりやア。生｛いき｝て居｛ゐ｝て逢｛あつ｝て
（４ウ）
噺｛はな｝しやア。また訳｛わけ｝のわかる事もあらうはサ。いつぞやお
めへの咄｛はな｝したやうすじやア。さきの人｛ひと｝もそれほどまで
おめへを思つて深切｛しんせつ｝にもして呉｛くん｝なさる位｛くらい｝だものヲ。
よしや此｛この｝中｛ぢう｝のわけで。一旦｛いつたん｝はにくいとかつまらねへ者｛もの｝だ
とか思ひなすツたにもしろ。逢｛あつ｝て縡｛〔こと〕｝わけを咄｛はな｝して
見なせへ。気｛き｝の解｛とけ｝ねへといふ事もあるめへし。万｛まん｝がいち
それでも腹｛はら｝を立｛たつ｝て。おめへを殺｛ころ｝すとでもいふこと
なら。其｛その｝とき覚語｛かくご｝をきめて。その人｛ひと｝の手｛て｝にかゝつて。
（５オ）
死｛し｝ぬがいゝサ。それおめへもいつかお聞｛きゝ｝だらう。金竜山人｛きんりうさんじん｝
とかいふ講釈師｛こうしやくし｝が。よこ丁｛てう｝で。ソレ。アノ芝居｛しばや｝でもしたツけ。
細川｛ほそかは｝勝元｛かつもと｝とやらいふ人の〔こと〕を。咄｛はな｝したとき「いそが
ずはぬれざらましを旅人｛たびゝと｝の。あとよりはるゝ野路｛のぢ｝の
むら雨｛さめ｝。」といふ歌は。勝元｛かつもと｝が気｛き｝が短｛みじ｝かくツて。功｛こう｝を立｛たて｝
そくなつたといふ戒｛いまし｝めだとヨ。おめへもその通｛とふ｝り。さき
の男がなんと思つてゐるか。どふだかしれもしねへ
のに。大事｛だいじ｝な命｛いのち｝をすてゝ。つまるものじやアあります
（５ウ）
めへ。十二や十三の女児｛むすめ｝じやアあるめへし。よく考｛かん｝げへて
見な。何｛なに｝もおめへが死｛し｝なふが生｛いき｝やうが。私｛わちき｝が兄弟｛けうだい｝じやアなし
親子｛おやこ｝じやアあるめへし。かまう筋｛すぢ｝もねへけれど。かうして
ふしぎな事で傍輩｛ほうばい｝になつたのも。マア深｛ふか｝イ縁｛えん｝があ
りやアこそと思ふから。口｛くち｝を酢｛す｝くして異見｛いけん｝もするの＊「りやア」（不鮮明）
だに。かならず悪｛わる｝く思はずに。わたしがいふやうに。マアやつ
て見なヨ。」ト真実｛しんじつ｝見へて泪｛なみだ｝ぐみ。言葉｛〔こと〕ば｝をつくす傍
輩｛ほうばい｝唄女｛げいしや｝。お鶴｛つる｝が異見｛いけん｝身｛み｝にしみて。おしゆんは一什｛しぢう｝堰｛せき｝
（６オ）
あへぬ。泪｛なみだ｝に哽｛むせ｝てさし俯｛うつむ｝き。しばし言葉｛〔こと〕ば｝もなかりしが
【しゆん】「アイモウおつるさん誠｛ま〔こと〕｝にありがたふ。アイ一〻｛いち〳〵｝わかりました。此
間中｛こないだぢう｝からして。おまへがあんなに深切｛しんせつ｝に言｛いつ｝ておくれのを
背｛そむ｝くといふではないが。そりやア先｛せん｝のうちこそ。こんな
足｛たら｝ない私等｛わちきら｝を。彼｛かれ｝のこれのと言｛いつ｝て。そりやア実｛じつ｝に深
切｛しんせつ｝にしてくれたのは。今｛いま｝でも忘｛わす｝れはしないほどだけれど
そのときは色〻｛いろ〳〵｝の義理｛ぎり｝もあつて。どふもさきのいふ
やうにもならないから。諚｛ぜう｝を張｛はり｝とほして。既｛すで｝におまへ
（６ウ）
女の身｛み｝で家出｛いへで｝までもした位｛くらい｝だから。私｛わちき｝が心｛こゝろ｝の潔白｛けつはく｝は
さきの人も。よもや可愛｛かあい｝そふだとか。ふびんだとか思つて
居｛い｝ましたらふサ。それに間｛ま｝もなくなんぼ延引｛のつひき｝ならねへ
わけだと言｛いつ｝ても。無｛な｝イもしねへ事を書｛かき｝ちらして。その人に
迷惑｛めいわく｝させて見ては。どふ考｛かん｝がへて見ても私｛わち｝きやア。生｛いき｝
ては居｛い｝られねへと。思つての事サ。勿論｛もちろん｝そりやア。面｛めん｝と面
を合｛あは｝して咄｛はな｝し合｛あつ｝たら。訳｛わけ｝のわからねへ事も有｛あり｝ますめへ
けれど。今｛いま｝さらそうする位｛くらい｝なら。粂川｛くめがは｝でも一寸｛ちよつと｝なりと逢｛あひ｝
（７オ）
ますし。どふでもなるが。夫｛それ｝じやア。今迄｛いまゝで｝義理｛ぎり｝を立｛たて｝た詮｛せん｝がないから。
いつそ命｛いのち｝をすてゝ。根｛ね｝こそぎ潔白｛けつはく｝にせうといふ私｛わちき｝が
了簡｛れうけん｝。」【つる】「それがマア。私｛わちき｝なンぞは。大｛だい｝のふ了簡｛れうけん｝だらうと
思ふのサ。マア〳〵今｛いま｝おめへ死｛し｝なふといふ命｛いのち｝を。わちきに
少｛すこ｝しのあいだあづけておゝきヨ。悪｛あく｝はのべろとやらで。伸｛のべ｝て
おくうちにやア。また悪｛わる｝い事｜計｛ばか｝りもないものだアネ。サアモウ
泣｛なか｝ずに㒵｛かほ｝をふきなヨ。今日｛けふ｝は生憎｛あやにく｝雨｛あめ｝はふり出｛だ｝すし。
モウ口｛くち｝もかゝるめへけれど。そんな㒵｛かほ｝をして居｛い｝ちやア。第一｛だいゝち｝
（７ウ）
不吉｛ふきつ｝だヨ。サアおしろいを一寸｛ちよつと｝おつけヨ。」【しゆん】「アイありがたふそん
ならそふしませう。ヲヤこりやア京｛きやう｝ばしの仙女香｛せんぢよかう｝だネ。」【つる】「そふ
サ。私｛わち｝きやア。おしろいは是｛これ｝ばツかりサ。どうして見ても外｛ほか｝の
よりやア格別｛かくべつ｝いゝネ。」【しゆん】「私｛わちき｝もこれから仙女香｛せんぢよかう｝にしませう。
たび〳〵便｛たよ｝りもある所｛とこ｝だから。沢山｛たくさん｝買｛かつ｝ておけば間｛ま｝は闕｛かけ｝
ないネ。」【つる】「そして十包｛とつゝみ｝から買｛かふ｝と。何｛なん｝でも望｛のぞみ｝しだいの役者｛やくしや｝
の書｛かい｝た扇｛あふぎ｝をくれるは。此間｛こないだ｝買｛かつ｝たとき。貰｛もらつ｝た芝翫｛しくはん｝の
扇｛あふぎ｝これ御｛ご｝らん。」【しゆん】「ヲヤほんに。私｛わちき｝もこれからそうせう。」
（８オ）
【つる】「夫｛それ｝じやおめへそういふ気｛き｝になつたネ。」【しゆん】「アイおまへの
異見｛いけん｝に付｛つい｝てサ。しかしくどいやうだが。アノ人にや気｛き｝の
どくで実｛じつ｝にモウ。㒵｛かほ｝むけもならないやうだネ。」【つる】「どんな
人かしらないが。わけをくわしく言｛いつ｝たら。それでも胸｛むね｝が
解｛とけ｝ねへといふやうな。野暮｛やぼ｝な人でもありますめへ。」【しゆん】「ナアニ
やぼじやアない人サ。」【つる】「サア〳〵モウのろけ出｛だ｝すヨ。どふぞ其｛その｝方｛かた｝に
おめにかゝりてへネ。そしておめへの命｛いのち｝を。けふまで佐｛たす｝けて
おいた訳｛わけ｝も咄｛はな｝して聞｛きか｝せてへ。ナニお俊｛しゆん｝さん。浮世｛うきよ｝は気｛き｝で
（８ウ）
もて。鱠｛なます｝は酢｛す｝でもてとやらで。何｛なに｝もおめへのやうに爰｛こゝ｝を
踏｛ふん｝だらあすこがあがらうノ。是｛これ｝じやア義理｛ぎり｝が善｛いゝ｝の悪｛わりい｝
のと。そんなぐづ〳〵した気｛き｝ぢやアいかねへはナ。そしてマア私｛わちき｝
にやア分｛わか｝らない事があるヨ。此｛この｝ぢうもよこ丁｛てう｝の藤七｛とうしち｝さんが
アノ児｛こ｝を世話｛せわ｝にさせるなら。身｛み｝まゝにして店｛たな｝をもた
して。小女｛こをんな｝のひとりも仕｛つか｝はして。楽｛らく｝にしておいてやらうと
いふ旦那｛だんな｝があるが。どふだと言｛いつ｝たとき。おめへはモウ〳〵立
派｛りつぱ｝に断｛ことはり｝を言｛いつ｝たそうだノ。それで藤七｛とうしち｝さんが私｛わちき｝にいふ
（９オ）
にやア。あの児｛こ｝は大｛おほ｝かた外｛ほか｝に虫｛むし｝が付｛つい｝てゐると見へる。
是｛これ｝ほと結構｛けつこう｝な事はあるめへと思つて咄｛はな｝したら。モウ〳〵
私｛わち｝きやアそんな事はきらひたから。堪忍｛かんに｝しておくれと
寄｛よつ｝てもつかれねへ挨拶｛あいさつ｝をされて。立場｛たちは｝にも困｛こま｝ツたと
言｛いつ｝たツけか。そりやアおまへ真実｛ほんとう｝にかへ。たゝしその伝｛てん｝
兵へさんとかいふ人に情｛せう｝を立｛たて｝てゐるのか。何｛なに｝もおまへ。私｛わちき｝と
おまへの中｛なか｝て。隠｛かく｝しちやア恨｛うら｝みた。言｛いつ｝て聞せなゝ。ヨウ。お俊｛しゆん｝
さん。いはねへとこそくるせ。サアとふた。」【しゆん】「アイ〳〵アレサいふよ〳〵。」
（９ウ）
【つる】「サアいひな。」【しゆん】「そふおまへましめに詰｛つめ｝かけられちやアいひ
にくいはね。」【つる】「ムヽいゝお娘｛ぢやう｝さんのやうな事を言｛いつ｝てゐるよ。コレサ
その人に情｛ぜう｝を立｛たて｝る気｛き｝たらう。ヱヽそふか。」【しゆん】「ナアニ。」【つる】「ナアニも
ねへものた。それより外｛ほか｝にやアそういふ甘｛うま｝い口を外｛はつ｝す筈｛はつ｝か
ないサ。」【しゆん】「それたツておまへにも咄｛はな｝す通｛とふ｝り。その人とたゝの
一度｛いちと｝ても。いやらしい事はせすそんなら末始終｛すへしちう｝は斯｛かう｝といふ
やくそくはせすか。しつての通｛とふ｝りの訳｛わけ｝て。佶｛きつ｝とした女房｛にようぼう｝も
あり。それゆへに私｛わちき｝が家出｛いへて｝をした位｛くらい｝たものを。たとへは何｛なん｝
（１０オ）
と思つてゐたにもしろ。そふはなりますめへしやアないかネ。
ヱヽしれつてへ。」ト持｛もつ｝たる銀｛ぎん｝の簪｛かんざし｝を。畳｛たゝみ｝へつふりとつきとふす
【つる】「ヲヤとんた気｛き｝ちけへたヨ。それほとに思ふなら頓｛とう｝から
色｛いろ｝になれはいゝしやアねへか。先｛さき｝でも夫｛それ｝ほとにいふ物｛もの｝を。」【しゆん】「
とふもそうならねへ義理｛きり｝なれはこそサ。おまへもマア察｛さつ｝
しておくれナ。義｛き｝りといふじにからまれて面白｛おもしろ｝くもない
世｛よ｝をおくるより。とふても私｛わちき｝はしにたいヨ。」トかのかんさしを
とり直｛なを｝し咽｛のと｝へ立んとする手をおさへ【つる】「ヱヽモウこのこは
（１０ウ）
マア待｛まち｝な。」ト携｛すが｝りとゝむるをりこそあれ潜｛くゞ｝り戸｛ど｝くはらりと
引｛ひき｝あけて「ヤイおしゆんの不了簡｛ふれうけん｝もの。やうすは残｛のこ｝らす表｛おもて｝て
聞｛きい｝た。今さらしぬとは大｜戯｛だは｝け。」と。いふ声｛こゑ｝は定｛たし｝かにその人
折｛をり｝のわろしと㒵｛かほ｝そむける。間｛ま｝もなくいりくる福住｛ふくずみ｝伝｛でん｝兵へ。
おつるかまへに座｛ざ｝をしめて【伝】「かねて噂｛うはさ｝に聞およふおつる
さんとはおまへの事か。わたしは伝｛でん｝兵へといふ野暮｛やぼ｝なもの此｛この｝
おしゆんとはマア従弟｛いとこ｝といふやうなもの。何｛なに｝かいろ〳〵深切｛しんせつ｝
に。言｛いつ｝てくたさる〔こと〕はもきかすしぬの生｛いき｝るのとイヤモウ〳〵
（１１オ）
大｛だい｝それた馬鹿｛ばか｝ものでございやす。恥｛はづ｝かしなから訳合｛わけあい｝も
逐一｛ちくいち｝に御｛ご｝そんじたらうかそれに付｛つい｝ちやアまた此｛この｝せつも色｛いろ｝
〳〵の揉｛もめ｝あいて。毎日｛まいにち｝わたしも所〻｛しよ〳〵｝方〻｛ほう〴〵｝出｛で｝あるく所｛ところ｝にお
もひかけなくこの村雨｛むらさめ｝に傘｛かさ｝はもたすこゝの宅｛うち｝ともしら
ねへて軒下｛のきした｝に屈｛かゝ｝んてゐるうち。容子｛ようす｝をきけばお俊｛しゆん｝か
心中｛しんちう｝またおまへの深切｛しんせつ｝をも。一〻聞てをりましたか今更｛いまさら｝
未練｛みれん｝のやうなれどたつた一言｛ひと〔こと〕｝おしゆんに咄｛はな｝して置｛おき｝てへ
事もあり何｛なに｝やかて案内｛あんない｝もなく御免｛ごめん｝なせへヨ。アヽヤレ〳〵
（１１ウ）
今日｛けふ｝はいゝ天気｛てんき｝たツたに夏｛なつ｝の空｛そら｝を見るやうた。大｛おほ｝きに
ぬれやしたトレ一｛いつ｝ふく。」【つる】「ヲヤ〳〵それしやアおしゆんさんかいつも
のろけなさる伝｛でん｝兵へさんとはおまはんかへ。私｛わち｝きやアモウお
しゆんさんとは兄弟｛けうたい｝同｛とう｝せんに心｛こゝろ｝やすくしますヨ。」【伝】「イヤ御めんな
せへ。のろけるもねへもんた。八分｛はちぶ｝されてまこつくやつさ。」
【つる】「私｛わち｝きやアそんしない事たけれどおしゆんさんも全｛まつた｝くおま
はんを嫌｛きら｝ふの否｛いや｝かるのといふ訳｛わけ｝しやア決｛けつ｝してなし。何｛なに｝か叔母｛おば｝
さんとやらへの義理｛きり｝つくて深切｛しんせつ｝な人を捐｛すて｝たといつそ悔｛くや｝し
（１２オ）
がつて居｛い｝ますヨ。」【伝】「そふ取｛とり｝なされて見りやアマア〳〵夫｛それ｝
にもしやせうサ。」【つる】「ヲヤ。」ト［おとろくをもいれ］「何｛なん｝たへ。マアおまはんの著
物｛きもの｝も羽｛は｝おりもびつしより。コウおしゆんさん。おめへマア何｛なに｝
をうち〳〵してゐるんたヨ。嬉｛うれ｝しくツて口も利｛きか｝れねへかへ。
マアそつちの著｛き｝けへても出｛だ｝して著｛き｝せかへ申なゝ。とう
したのたヨ。」ト［七九のあたりをはたとたゝく］【しゆん】「アレサそこ所｛ところ｝じやアないはネ。」
トいひなから出｛た｝す著かへの小そて。二ツかさねし〓翼紋｛ひよくもん｝＊〓は「比（冠）＋異」
【しゆん】「サアこれを引｛ひき｝かけてお出｛いて｝なさい。その内｛うち｝にほして上｛あけ｝
（１２ウ）
ますから。」【伝】「これはありかてへ。しかしコウおしゆんさん。よく
聞な。無実｛むしつ｝の罪｛つみ｝におちる事を。濡衣｛ぬれきぬ｝をきるといふか思
はぬ雨｛あめ｝にぬれた著物｛きもの｝をおまへに乾｛ほし｝てもらふとはみの
明｛あか｝りのたつ前表｛ぜんひやう｝か。」【しゆん】「アイその証｛あか｝りは此｛この｝しゆんか命｛いのち｝にかへ
ても立｛たて｝ますから。定｛さだ｝めて憎｛にく｝い女子｛をなご｝めと。おはら立｛たち｝では
ありませうか。叔母｛おば｝が手つめの無理｛むり｝なんたい。吾儕｛わたし｝はしぬ
気｛き｝て。」【伝】「書｛かい｝たといふのか。」【しゆん】「アイ。」【伝】「実｛じつ｝に始｛はじめ｝はわけかわか
らす。おめへの心｛こゝろ｝もうたかつてとうした事の間｛ま｝ちけへか不
（１３オ）
思議｛ふしぎ｝な事と思つたも。正直｛しやうぢき｝の頭｛かうべ｝に神｛かみ｝やどるとやらで
計較人｛もくろみて｝もしれやした。」【しゆん】「吾儕｛わたし｝はそのときから。こりやア何｛なん｝
でも色｛いろ｝ぎぬさんの手事｛て〔ごと〕｝だと思つたけれど。叔母｛おば｝さん
が何｛なん｝だかモウ急｛きう｝ばらで。彼｛かれ｝是｛これ｝といひなさるから。どふで
此方｛こつち｝は捨｛すて｝た身｛み｝のうへ。家出｛いへで｝をしたとき死｛し｝ぬ所｛とこ｝を。こゝの親
方｛おやかた｝に佐｛たすけ｝られ。大金｛たいきん｝かけて今｛いま｝の身｛み｝と。なつて月日｛つきひ｝を送｛おく｝るほど。
強諚｛ごうぜう｝はつて糺｛たゞし｝だてをした所｛ところ｝が。色絹｛いろぎぬ｝さんとおまへさんの
中｛なか｝をも隔｛へだ｝て。騒動｛さうどう｝さしてつまらないと思つたゆへ。」【伝】「嘘｛うそ｝を
＄（１３ウ）
＄（１４オ）
奸計｛かんけい｝をめぐ
らして悪夫｛わるもの｝
伝｛でん｝兵へを討｛うたん｝
とす
（１４ウ）
書｛かい｝ておれにまで。」【しゆん】「面皮｛めんひ｝をかゝした言｛いひ｝わけには。足｛た｝らない
わたしがこの命｛いのち｝を。」【伝】「そふ聞｛きい｝て見りやアかわいそうだよ。全
体｛ぜんてへ｝おれが悪｛わる｝いのさ。おめへに彼｛かれ｝これいはねへで。後生｛ごせう｝大
事｛たいじ｝に色｛いろ｝ぎぬを。山｛やま｝の神｛かみ｝さま〳〵〳〵と。崇｛あが｝めてゐりやア理
屈｛りくつ｝はねへが。どふも相縁｛あいえん｝奇縁｛きえん｝なら。そふ自由｛じゆう｝にも往｛いか｝ねへ
はサ。最｛もと｝発端｛ほつたん｝はそれからヨ。して見りやア家出｛いへで｝をしたのも。
叔母御｛おばご｝につらくいはれるのも。おめへゆへだといはれても
マア一言｛いちごん｝もねへわけさの。」トいふ尾｛を｝に付｛つい｝てさしでるおつる
（１５オ）
「それ見なせへお俊｛しゆん｝さん。逢｛あつ｝て咄しやアわかると言｛いつ｝て。私｛わちき｝が
今｛いま｝まで異見｛いけん｝して。短気｛たんき｝をとめたは。サアどふだ。何｛なん｝と一言｛いちごん｝も
あるめへ。サア手をついて御免｛こめん｝〳〵をしなせへ。ホンニ年｛とし｝のいかねへ
と言｛いつ｝て困｛こま｝りものさの。」【しゆん】「モウ何｛なん｝といはれても一言｛いちごん｝のいひ訳｛わけ｝
なし。モシ此｛この｝御恩｛ごおん｝は一｜生｛せう｝わすれないヨ。夫｛それ｝はそふと。モウ何時｛なんどき｝だ
らうネ。角｛かど｝の宅｛うち｝じやアまだ起｛おき｝て居｛ゐ｝るだらうか。」【つる】「どふたか知
ないねへ。ナニそれよりやア先刻｛さつき｝小松｛こまつ｝さんのおくんなすツた松｛まつ｝
の酢｛すし｝と。そして代七｛だいしち｝のお土産｛みや｝があるから。それで一｛ひと｝ツ。ノウおしゆん
（１５ウ）
さん。」【伝】「ナニわたしかへかまひなさんな。吾儕｛わたし｝もそう思つてゐる
けれど。俄｛にはか｝の大雨｛おゝあめ｝で皆｛みんな｝しまつたヨ。おつるさんお礼は翌｛あした｝緩｛ゆるり｝
としやす。ドレ吾儕｛わたし｝はかへりやせう。」【つる】「ヲヤ怪｛けし｝からねへ。どうして
この雨｛あめ｝に。そしてまだ召物｛めしもの｝も干｛ひ｝ませんものを。丁度｛てうど｝今夜｛こんど｝は
親｛おや｝かたも。花会｛はなぐはい｝に往｛いき｝ましたから。どふせ帰｛かへ｝る事じやアなし
よし帰｛かへ｝ツても。何｛なに｝もかまひはないから。お泊｛とま｝りなさい。」【伝】「どう
して泊｛とま｝ツちやアゐられねへ。」【つる】「その色｛いろ｝きぬさんとやらが
案｛あん｝じられてかへ。」【伝】「ナンノつまらねへ。」【つる】「そんならいゝじやアあり
（１６オ）
ませんか。ノウお俊｛しゆん｝さん。」【しゆん】「そうさ。それでも悪｛わる｝からう。」【つる】「
なんのわるい事があるものか。雨｛あめ｝のふる夜｛よ｝はひとしほゆか
しサ。」【伝】「花川戸｛はなかはど｝のだんじやアあるめへし。」【つる】「サアお俊｛しゆん｝さんおまへ
がたは二階｛にかい｝の四畳｛よでう｝へ往｛いつ｝て寝｛ね｝なヨ。ヲヤモウ四｛よ｝ツだ。それ御覧｛ごらん｝
なさい。どうして帰｛かへ｝られますものかネ。サア〳〵早｛はや｝くお寝｛ね｝ヨ。」ト
二人｛ふたり｝をむりに二階｛にかい｝へおしやり。其｛その｝身｛み｝は下｛した｝へおりてくる。お俊｛しゆん｝は
今｛いま｝さら嬉｛うれ｝しさと。後影｛うしろめた｝さもこきまぜて。いふ事さへも跡｛あと｝や
さき。しどけ形振｛なりふり｝かはゆさに。罪｛つみ｝なき事は色｛いろ｝ぎぬが。蜜
（１６ウ）
書｛みつしよ｝をもても察｛さつ｝するから。憎｛にく｝ふはあらぬおしゆんが事。心｛こゝろ｝
解｛とけ｝つゝ伝｛でん｝兵へも。陜｛せま｝き臥房｛ふしど｝の一｛ひと｝ツ〓｛よき｝。ならぶ枕｛まくら｝も舟底｛ふなぞこ｝の＊〓は「身（偏）＋黄」
水｛みづ｝もらさじと契｛ちぎ｝るなるべし。かくて此｛この｝ほど在｛あり｝し次第｛しだい｝を伝｛でん｝
兵へ具｛つぶさ｝にものがたれば。聞｛きく｝たび〔ごと〕に驚｛おどろ｝くお俊｛しゆん｝。見｛み｝さげ
はてたる色｛いろ｝ぎぬ等｛ら｝が。心｛こゝろ｝の底｛そこ｝をにくみけり。案下某生
再説｛それはさておき｝こゝにまた。白藤｛しらふじ｝源作｛げんさく｝は色｛いろ｝ぎぬが。逐電｛ちくてん｝なせし
その日より。弟｛をとゝ｝民弥｛たみや｝も家｛いへ｝にをらねば。不測｛ふしき｝に思ひて
渠｛かれ｝が子舎｛へや｝を。あらため見るに遽｛いそがは｝しく。迷｛まよ｝ひ出｛いで｝しか取散｛とりちら｝し
（１７オ）
たれば。かなた此方｛こなた｝搔｛かい｝さがすに。色｛いろ｝ぎぬよりしてをくり
たる。文｛ふみ｝どものあるにより。偖｛さて｝はそれかと其｛その｝ときに。はじめ
て思ひあたりつゝ。ひそかにこれをお妙｛たへ｝にも。はなしに
ければお妙｛たへ｝はよろこび。頓｛とく｝よりそれとしるならば。心｛こゝろ｝もと
なき伝｛でん｝兵へを。逐出｛おひだ｝して民弥｛たみや｝どのを。この家｛や｝の養子｛ようし｝
とすべきものを。悔｛くや｝しき事をしてけりと。彼｛かれ｝を悔｛くい｝これ
をなげき。兎｛と｝にかく往方｛ゆくへ｝を尋｛たづ｝ぬるが。肝要｛かんえう｝なりと伝｛でん｝
兵へには。それとはいはず色｛いろ｝ぎぬが。往方｛ゆくへ｝をたづねて〳〵
（１７ウ）
と。日毎｛ひ〔ごと〕｝の責｛せめ｝に伝｛でん｝兵へも。かく方〻｛ほう〴〵｝を尋｛たづ｝ねけり。此｛この｝日｛ひ｝も
伝｛でん｝兵へ留守｛るす｝なれば。お妙｛たへ｝は見世｛みせ｝を小奴｛こもの｝にあづけ。源作｛げんさく｝が
方｛かた｝にゆき。例｛れい｝の〔ごと〕く酒｛さけ｝のみ戯｛たは｝れ。娘｛むすめ｝が事もうち忘｛わす｝
れ。さらに余念｛よねん｝もなき折｛をり｝から。表｛おもて｝のかたに人音｛ひとおと｝して
いり来｛く｝るものは此処等｛こゝら｝渉｛わたり｝に。横行｛おうぎやう｝なせる男伊逹｛をとこだて｝。寸
八｛すんはち｝門太｛もんた｝の二人｛ふたり｝なり。【寸八】「ヘイ御免｛ごめん｝なさい。ホヲ旦那｛だんな｝御在宿｛こさいしゆく｝で
よかつた。チト内〻｛ない〳〵｝おねがひがござりまして。」【源】「イヤ寸八｛すんは｝よく＊「寸八｛すんは｝」（ママ）
おいで。ナニ内〻｛ない〳〵｝のねがひとは。ヲヽしれた。彼｛かの｝一件｛いつけん｝に付｛つい｝て
（１８オ）
小遣｛こづかい｝を呉｛くれ｝ろか。そりやア諸事｛しよじ｝頭取｛とうどり｝にかけ合｛あは｝ツし。」【寸八】「イヤモシ
小｛こ｝づけへ所｛どころ｝しやアござりません。大変｛たいへん｝が出来｛でき｝サ。」【源】「ヱヽ大変
とは。」【門太】「イヤモシ旦那｛たんな｝大変｛たいへん｝所｛どころ｝じやアござりません。兼｛かね｝てお
たのみの福住｛ふくずみ｝伝｛てん｝兵へ。きのふ折｛おり｝よく長谷｛はせ｝の並木｛なみき｝で。出
合｛であつ｝たはよい首尾｛しゆび｝と。お女郎｛ぢようろ｝が鼻｛はな｝ほうで喧嘩｛けんくは｝しかけで
すぢ骨｛ほね｝を。抜｛ぬい｝てくれうと思ひの外｛ほか｝。窮鼠｛きうそ｝却｛かへつ｝て猫｛ねこ｝
をはむと。喩｛たと｝への通｛とふ｝り伝｛でん｝兵へめが。一生｛いつせう｝けんめい耳｛みゝ｝くじり
を。振｛ふり｝まはすその拍子｛ひやうし｝に。アヽ親方｛おやかた｝の運｛うん｝の歹｛わろ｝き。ツイ脇
（１８ウ）
腹｛わきはら｝をゑぐられて。ウンと一声｛ひとこゑ｝夫｛それ｝ぎりサ。ソレ押｛おさ｝へろとさわぐ
うち。生憎｛あやにく｝ふり出｛だ｝す吹｛ふつ｝かけ雨｛あめ｝。その間｛ま｝に｜彼奴｛きやつ｝めは一｛いつ｝さん
に。逃｛にげ｝てさつぱり行方｛ゆくへ｝しれず。死骸｛しがい｝はマア〳〵わたし等｛ら｝が。寄
合｛よりあつ｝て引｛ひき｝とりやしたが。兇身｛あいて｝はたしかに知｛し｝れてゐる。今朝｛けさ｝福
住｛ふくずみ｝やへ往｛いつ｝た所｛ところ｝が。かくすのかしらねへが。旦那｛たんな｝はきのふ出｛で｝たまン
まで今｛いま｝にかへらず。お袋｛ふくろ｝さんも夕阝｛ゆふべ｝から。宅｛うち｝にゐないと見
世｛みせ｝の人｛ひと｝が挨拶｛あいさつ｝に仕方｛しかた｝なく。マア〳〵それよりお女郎｛ぢようろ｝金三｛きんざ｝
を。アヽしてもおかれめへ。元｛もと｝はといへばおめへさんに。頼｛たの｝まれ
（１９オ）
てから起｛おこ｝つた事｜吊｛とふら｝ひ金を二三十｜両｛りよう｝。とふそ貸｛かし｝てお呉｛くん｝
なせへ。全｛ぜん｝てへその場｛ば｝て知県所｛たいくはんしよ｝へ訟｛うつた｝へて検使｛けんし｝ても願｛ねが｝ふ
筈｛はづ｝たかネヘモシ旦那｛だんな｝そふしちやア一伍一什｛いちふしちう｝きんみされるは
しれた事おめへさんもよくあるめへと内分｛ないふん｝てすませる
つもり。勿論｛もちろん｝これから福住屋｛ふくすみや｝へもかけ合｛あい｝つけて首
代金｛くひたいきん｝なり解死人｛げしにん｝なりしよちを付にやなりやせん。」ト腰｛こし｝
をさくりて捻｛ひね｝り出｛た｝す烟草｛たはこ｝くゆらし割｛わり｝ひさにとつかと
坐｛さ｝して回｛いらへ｝をまつ。源作｛けんさく｝は恟｛ひつく｝りし「ヤレそりやアとんた事た。
（１９ウ）
しかしいはゝおめへ方は鬼｛おに｝ても兇身｛あいて｝にせうといふ人アノ伝
兵への青｛あを｝二さいに負｛まけ｝たといふは麁忽｛そこつ｝らしい。殊｛〔こと〕｝に一儀｛いちき｝を
たのむときおめへ方はしるめへかお女郎｛ちようろ｝金｛きん｝三にわた
した十両とんな事かてきやうとも此方｛こつち｝の苦｛く｝にかけ
ぬと金三｛きんさ｝か誓言｛せいこん｝。」【二人】「ハテサ旦那｛たんな｝モシそりやアおつしやるな。わツ
ちらは知｛し｝らぬわけ事に当人｛とうにん｝は死人｛しにん｝に口なし。兎｛と｝やかく
とおつしやるなら是｛これ｝から検使｛けんし｝を願｛ねか｝ふはかり。いさもくさも
こさりやせん。」【源】「そう言｛いつ｝て見りやアみも蓋｛ふた｝もねへといふ
（２０オ）
ものだが何をいふにも金｛かね｝といつちやア家内｛やうち｝震｛ふる｝つてたつた
五両。」【二人】「旦那｛たんな｝ぜうたんしやアこせへません。サア迚｛とて｝も埓｛らち｝は明ねへ。サア
これから直｛すく｝にナア検使｛けんし｝をお願｛ねか｝ひ申て在｛あり｝のまゝに言上｛いひあけ｝やせう。」
ト立あかる。折｛おり｝から側｛そは｝に聞｛きゝ｝ゐるおたゑ源作｛けんさく｝か袖｛そて｝を引何か小
こゑて低語｛さゝやけ｝は忽地｛たちまち｝点頭｛うなつく｝源作｛けんさく｝か「モシ〳〵二人の衆｛しゆ｝そんならは
斯｛かう｝しやせう。何をいふにも無｛な｝イものを今よこせとは比丘尼｛ひくに｝
に物た。一日二日も俟｛まつ｝てくれゝはこゝに一ツ仕法｛しほう｝かありたて。」【二人】「
そふおつしやれは仕方｛しかた｝かねへ。二三日の事なら俟｛まち｝ませうか
（２０ウ）
そのとき彼｛かれ｝是｛これ｝おつしやつちやア。」【源】「大｜丈夫｛しやうふ｝に金はてきやす。
其｛その｝かはりにはチト悪法｛あくほう｝。きさま逹｛たち｝モウ一ほね折｛おつ｝てくれにやアなら
ねへが。」【二人】「悪法｛あくほう｝ならわしらか得｛え｝手金せへてきる事ならは。」【源】「
そんなら斯｛かう｝た。」ト［小ごゑになり］「伝兵へめか指｛さし｝てゐる脇｛わき｝さしは雲竜｛うんりよう｝
丸といふ名剣｛めいけん｝て世｛よ｝に二｛ふた｝ふりとはない名｜作｛さく｝。みともか先祖｛せんそ｝什
来｛しうらい｝の宝｛たから｝なれとも貧｛ひん｝にはかなはす五十両の入用て拠｛よんところ｝
なく伝兵へに預｛あつ｝けて金を借｛かり｝うけたかその後｛のち｝金｛かね｝の才
｜覚｛かく｝出来｛でき｝す流｛なか｝れ月｛つき｝もきれたゆへ伝兵へか指料｛さしりよう｝にと
（２１オ）
いふに是非｛ぜひ｝なく其｛その｝意｛い｝に任｛まか｝した。奇妙｛きめう｝な事にはアノ刀｛かたな｝
血｛ち｝をぬるときは忽｛たちまち｝に。大雨｛おゝあめ｝降｛ふる｝とのいひ伝｛つた｝へ。」【二人】「ハヽア夫｛それ｝で
あのとき急｛きう｝にふり出｛だ｝したのかネ。」【源】「サアその刀｛かたな｝を大内家｛おゝうちけ｝
で達｛たつ｝て身｛み｝どもに御所望｛ごしよもう｝あり。今｛いま｝にもあれさし上｛あげ｝れば。
代金｛だいきん｝として三百両｛さんびやくりよう｝。くださる積｛つも｝りになつてはゐるが。何｛なん｝ぶん
｜彼奴｛きやつ｝めが身｛み｝をはなさず。そこを一｛いち｝ばん荒療治｛あらりようぢ｝で引｛ひき｝とる工
夫｛くふう｝は。」【二人】「あるとも〳〵安｛やす｝イ事。したがモシ旦那｛だんな｝。どふも直｛すぐ｝すなほにやア
いきやすめへ。殊｛〔こと〕｝によつたらばらしても。」【源】「ばらしてくれりやア
（２１ウ）
此方｛こつち｝も重畳｛ちやう〴〵｝。モシ二人｛ふたり｝の衆｛しゆ｝こゝにゐるのが福住｛ふくずみ｝の後家｛ごけ｝伝｛でん｝
兵へのお袋｛ふくろ｝サ。女｛をんな｝ながらも親｛おや｝が立｛たち｝あい。たのむからには砍｛きる｝とも
突｛つく｝とも。貴｛き｝さま逹｛たち｝の勝手｛かつて｝しだい。是｛これ｝をしゆびよく仕課｛しおほ｝せ
れば望｛のぞ｝み通｛どふ｝りの吊｛とむら｝ひ金｛きん｝。まだ其｛その｝外｛ほか｝にも骨折代｛ほねおりしろ｝は五十｜両｛りよう｝。」ト
聞｛きい｝て二人｛ふたり｝は完爾〻〻｛にこ〳〵｝もの。急｛きう｝に形｛かたち｝を改｛あらた｝めて【門太】「ヘイおまへさまが福
住｛ふくずみ｝の御隠居｛ごいんきよ｝さま。初｛はじ｝めて御目｛おめ｝に懸｛かゝ｝りました。今｛いま｝源作｛げんさく｝さまおつ
しやる通｛とふ｝り。おまへさまも御承知｛ごせうち｝で。」【寸八】「と申事なら私｛わたくし｝ども。命｛いのち｝
にかへても一骨｛ひとほね｝をります。」【たへ】「イヤモウ伝｛でん｝兵へとした〔こと〕が。女親｛をんなおや｝と侮｛あな｝
（２２オ）
とつて。いろ〳〵宅｛うち｝を騒動｛そうどう｝させ。命｛いのち｝も根｛こん｝もつゞきませぬ。外｛ほか｝に便｛たよ｝
りもないわたし。何｛なに｝から何まで御深切｛ごしんせつ｝に。なされて下｛くだ｝さる源作｛げんさく｝
さま。今｛いま｝何｛なに｝やかの御相談｛ごさうだん｝に。参｛まい｝つた所｛ところ｝うけ給はれば。人殺｛ひとごろし｝を
したとやら。そういふ怖｛こわ｝い心｛こゝろ｝とは。知｛し｝らずに親子｛おやこ｝の縁｛えん｝をくみ。
今｛いま｝では跡｛あと｝へも先｛さき｝へもゆかず。ふ便｛びん｝な事だが家｛いへ｝のためには。ネヘ源
作｛けんさく｝さまかへられますまい。」【源】「そふとも〳〵小｛せう｝の虫｛むし｝を殺｛ころ｝して大｛だい｝の虫｛むし｝
を佐｛たす｝けるが肝心｛かんじん｝。モシ二人｛ふたり｝の衆｛しゆ｝。たのみますぞへ。」【二人】「ヘイ〳〵承知｛せうち｝いたしま
した。去｛さり｝ながら。是｛これ｝もまた一大事｛いちだいじ｝。相違｛さうい｝はなけれどたゞ一｛ひと｝ふで
（２２ウ）
お頼｛たのみ｝の一札｛いつさつ｝を。」【寸八】「ナニむづかしい事は入｛いり｝ません。首尾｛しゆび｝よく仕課｛しおほ｝せ
御ほうびと。引｛ひき｝かへにいたしませう。」【源】「そんなら書｛かい｝て進｛しん｝ぜうが。
人｛ひと｝に必｛かな｝らず。」【門太】「それはおあんじなされますな。男｛をとこ｝を磨｛みが｝くが
商売｛せうばい｝がら。」【源】「いかさまそんならサア一｛ひと｝ふで。」トたのみの一札｛いつさつ｝印
判｛いんばん｝すへ。母｛はゝ｝おやおたへの名｛な｝も載｛のし｝て。わたせば寸八｛すんはち｝門太｛もんた｝の二人｛ふたり｝
は。懐｛ふところ｝にして完爾〻〻｛にこ〳〵｝といとまごひして立｛たち｝かへる。
恋の花染二編中終
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底本：東京大学文学部国語研究室蔵本（A4:0089:2）
翻字担当者：矢澤由紀、成田みずき、銭谷真人
更新履歴：
2017年7月26日公開
