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比翼連理花廼志満台ひよくのれんりはなのしまだい

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四編中

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比翼連理花迺志満台 四編中

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凡例
1.本文の行移りは原本にしたがった。
2.頁移りは、その丁の表および裏の冒頭において、丁数・表裏を括弧書きで示した。また、挿絵の丁には$を付した。
3.仮名は現行の平仮名・片仮名を用いた。
4.仮名のうち、平仮名・片仮名の区別の困難なものは、現行の平仮名に統一した。ただし、形容詞・副詞・感動詞・終助詞・促音・撥音・長音・引用のト等に用いられる片仮名については、原表記で示した場合がある。 〔例〕安イ、モシ、「ハイそれは」ト、意気だヨ、面白くツて、死ンで、それじやア
5.漢字は現行の字体によることを原則としたが、次のものについては原表記に近似の字体を用い、区別した。「云/言」「开/其」「㒵/貌」「匕/匙」「吊/弔」「咡/囁」「哥/歌」「壳/殻」「帒/袋」「无/無」「楳/梅」「皈/帰」「艸/草」「計/斗」「弐/二」「餘/余」
6.繰り返し符号は次のように統一した。ただし、漢字1文字の繰り返しは原本の表記にしたがい、「〻」と「々」を区別して示した。
 平仮名1文字の繰り返し 〔例〕またゝく、たゞ
 片仮名1文字の繰り返し 〔例〕アヽ
 複数文字の繰り返し 〔例〕つら〳〵、ひと〴〵
7.「さ」「つ」「ツ」に付く半濁点符は「さ゜」「つ゜」「ツ゜」として示した。
8.Unicodeで表現できない文字は〓を用いた。
9.句点は原本の位置に付すことを原則としたが、文末に補った場合がある。
10.合字は〔 〕で囲んで示した。 〔例〕殊{〔こと〕}に、なに〔ごと〕、かねて〔より〕
11.傍記・振り仮名は{ }で囲んで示した。 〔例〕人生{じんせい}
12.左側の傍記・振り仮名の場合は、冒頭に#を付けた。 〔例〕めへにち{#毎日}
13.傍記・振り仮名が付く位置の紛らわしい場合、文字列の始まりに|を付けた。 〔例〕十六|歳{さい}
14.原本に会話を示す鉤括弧が付いていない場合も、これを補い示した。また庵点は〽で示した。
15.原本にある話者名は【 】で示した。 〔例〕【はる】
16.割注・角書および長音符「引」「合」は[ ]で囲んで示した。
17.不明字は■で示した。
18.原本の表記に関する注記は*で行末に記入した。 〔例〕〓{たど}りて*〓は「漂+りっとう」
19.花押は〈花押〉、印は〈印〉として示した。
20.画中文字の開始位置に〈画中〉、広告の開始位置に〈広告〉と記入した。

本文の修正
1.翻字本文を修正した場合には、修正履歴を末尾に示す。
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(1オ)
[比翼{ひよく}連理{れんり}]花{はな}迺{の}志満台{しまだい}第四編巻之中
東都 松亭金水編次
第廿一回
再説{かくて}鬼勝{おにかつ}は小春{こはる}が容子{ようす}を篤{とつ}くと見さだめ「フム
お前{めへ}夫{それ}じやア真実{ほんとう}に何{なに}もしらねへのだネ」【春】「アイ終{つい}ぞ迎{むか}ひ
の人{ひと}なんぞを越{よこ}した事{〔こと〕}は有{あり}ませんものヲ。尤{もつとも}此間{こないた}私{わち}きの
留守{るす}のとき。隣{となり}の老母{おば}さんへ置手紙{おきてがみ}を恃{たの}んで往{い}つたと
いふ事{〔こと〕}だが。その手紙{てがみ}は終{つい}老母{おば}さんがなくしたとツて

(1ウ)
種〻{いろ〳〵}と分解{いひわけ}をしましたが。若{もし}其{その}事{〔こと〕}かも知{し}れないけれど。夫{そ}
りやア紙治{かみぢ}さんが自分{じぶん}に来{き}たと言{いひ}ますから」【勝】「イヤ〳〵夫{それ}
じやアあるめへ。何{なん}でも紙治{かみぢ}さんはお滝{たき}と同伴{いつしよ}に船{ふね}で珍波{ちんぱ}へ
往{いつ}て。彼方{あつち}から使{つかひ}をよこした筈{はづ}だ。其{その}節{とき}おめへが来{こ}ねへ
ばつかりで腹{はら}を立{たつ}たり。其方{そつち}彼方{こつち}が出来{でき}たのだから。全{まつた}く
其{その}節{とき}使{つかひ}の人{ひと}の間違{まちげ}へで。お前{めへ}の宅{うち}へ来{こ}ねへとでも言{いふ}事{〔こと〕}が
佶{きつ}ぱりと分{わか}りやア。紙治{かみぢ}さんも腹{はら}を立{たつ}理{わけ}もねへといふ
ものだ。ノウ小春{こはる}さん左様{さう}じやアねへか」【春】「アイ何{なん}でも其{その}使{つかひ}は

(2オ)
来{き}ませんものヲ」【勝】「左様{さう}か。夫{そん}なら其{その}証明{あかり}の立{たて}かたア幾許{いくら}も
ありやす。是{これ}から珍波{ちんぱ}へ往{いつ}て。其{その}節{とき}使{つかひ}に越{よこ}した野郎{やらう}を
つかめへてヨ。手前{てめへ}此所{こゝ}から頼{たの}まれて白川町{しらかはてう}へ使{つかひ}に往{いつ}
た時{とき}。何所{どこ}の宅{うち}へ往{いつ}たサ。また怠{づる}を極{き}めて往{いか}ねへで。往{いつ}た
積{つも}りにしたかサ。其{その}筋合{すじあい}を解{わけ}るなア苦{ざうさ}もねへ事{こつ}た。夫{そん}なら
是{これ}から左様{さう}して糺{たゞ}して見{み}やうか」【春】「誠{ま〔こと〕}にモウおまはんにも
お気{き}の毒{どく}でございますねへ。私{わち}き達{たち}の事{〔こと〕}で種〻{いろ〳〵}気{き}を
揉{もま}してからに。ホンニ紙治{かみぢ}さんも紙治{かみぢ}さんだヨ。何{なん}だか角{か}だか

(2ウ)
根{ね}を糺{たゞ}しも仕{し}ないで。其様{そんな}に腹{はら}を立{たつ}て。咎{とが}もないお滝{たき}さん
にまで。左様{さう}気{き}を揉{もま}せずと宜{いゝ}じやア有{あり}ませんかねへ。左様{さう}
思{おも}ふなら鳥渡{ちよつと}此方{こつち}へ来{き}て。言{いつ}て呉{くん}なさりやア私{わち}きが其{その}
訳{わけ}を言{いつ}て。おまはん方{がた}の耳{みゝ}にも入{いれ}ないで仕{し}まいますに
ねへ。私{わち}きが何{なん}だか外{ほか}に密通{わるい〔こと〕}でもしたやうで恰好{かつこう}も悪{わる}
し。おまはん方{がた}へもお気{き}の毒{どく}でございますヨ」【勝】「アレサ。
お前{めへ}が左様{さう}言{いふ}からどふも他人{たにん}がましくツて悪{わり}い。自己{おいら}が
方{はう}では実{じつ}に他人{たにん}だとは思{おも}はねへぜ。なぜと言{いつ}て見{み}なせへ。

(3オ)
お滝{たき}と姉妹{きやうたい}になりやア自己{おいら}ア矢張{やつぱり}お前{めへ}をも実{じつ}の女児{むすめ}
だと思{おも}ハア。しかし此様{こん}な放蕩{どうらく}ものを親司{おやじ}に持{もつ}のはいや
かもしらねへけれど。ハヽヽヽヽ」【春】「アレサ。貴郎{おちさん}左様{さう}思{おも}つてお呉{くれ}
しやア否{いや}だネ。たとへ父子{おやこ}姉妹{きやうたい}の中{なか}だつて。悪{わる}い耳{みゝ}をば聞{きか}
せたくないからサ。真{しつ}に私{わち}きも段〻{だん〳〵}お聞{きゝ}の通{とほ}り。紙治{かみぢ}さん
より外{ほか}に便{たよ}りのない体{み}だから。其様{そんな}邪見{ぢやけん}な事{〔こと〕}を言{いは}れ
ますと。真{しん}に哀{かな}しくなツて成{なり}ませんは。どふぞ是{これ}から
真実{ほんとう}の娘{むすめ}だと思{おも}つて相談{さうだん}対身{あいて}になつてお呉{くん}なさいナ」

(3ウ)
【勝】「ヲヽなるとも〳〵。夫{そん}ならマア何{なん}にしろ其{その}使{つかひ}が来{き}たか来{こ}ない
かの証明{あかり}の立{たて}方{かた}をして。いよ〳〵使{つかひ}の間違{まちが}ひに違{ちげ}へなけり
やア。私{わたし}も紙治{かみぢ}さんに言様{いひやう}もあり。またアノ人{ひと}も訳{わけ}せへ
わかりやア直朴{すな}な人{ひと}たから。何様{どう}でもならア。ドレ是{これ}から
珍波{ちんぱ}へ往{いつ}て来{こ}やうか」【春】「夫{そん}なら何卒{どうぞ}後生{こしやう}だから
左様{さう}してお呉{くん}なさいましな。こりや貴郎{おぢさん}餘{あんま}り少{ちつ}とだが
是{これ}で駕{かご}に乗{のつ}て往{いつ}てお呉{くん}なさい」ト紙{かみ}に包{つゝ}みし
物{もの}を出{いだ}せば【勝】「エヽ何{なん}だなこの児{こ}は。夫{それ}が他人{たにん}がましいと

(4オ)
言{いふ}ンだ。老朽{おひくち}た身{み}じやアなし。ナンノ一跨{ひとまたぎ}たア。マア其方{そつち}へ置{おき}
ねへ」ト押戻{おしもど}して烟草{たはこ}を呑{のん}で居{ゐ}る。【春】「そんならね何{なん}にも
無{ない}がお飯{まんま}を給{たべ}てお出{いで}なさいナ。お茶{ちや}もよく沸{わい}てゐるから」
【勝】「ナニ飯{めし}もまだ食{くひ}たくねへ。コレサ其様{そんな}に心遣{こゝろづか}ひを仕なさん
な」トいふも互{たか}いに世間の義理{ぎり}。かゝる折{をり}から表{おもて}の格{かう}子を
|瓦落理{くわらり}とあけて入来{いりく}るは。豊島村{としまむら}なる髪結{かみゆひ}お吉{きち}
いとゞ尖{する}どき眼{め}を睜{みは}り上{あが}る足音{あしおと}荒{あら}らかに小春{こはる}が傍{そば}へ
どつさりと。座{すは}るや否{いな}や小春{こはる}が胸逆{むなさか}。しつかととつて膝{ひさ}

(4ウ)
おし立{たて}【吉】「コウ小春{こはる}さん。お前方{めへがた}は不届{ふてへ}人{ひと}だノ。よく私{わたし}が
弟{おとうと}の和之一{わのいち}を。辛{ひと}い目に合{あは}せなすツたの。ト斗{ばか}り言つたら
イヽヱ私{わち}きやア知{し}らねへと言{いひ}なさるたらうか此方{こつち}にやア
佶{きつ}とした証拠{しやうこ}が有{あつ}ていふ事{〔こと〕}たから否応{いやおう}はいはせねへヨ。ヘン
見{み}りやア虫{むし}も潰{つぶ}さねへ様{やう}な艶{やさ}しい皃{かほ}をして居{ゐ}てホンニ〳〵
怖{おそろ}しい大胆{ふてへ}娘{こ}だノウ。サア把{とつ}た物{もの}も皆{みんな}返{けへ}して。そして療治
代{りやうぢだい}を出{だ}しなせへ。夫でもアノ坊{こ}が怪我{けが}アした斗{ばか}りで命{いのち}に別条{べつやう}*「別条{べつやう}」の「や」に濁点、「べつじやう」の脱字か
がねへからこそまだしもだア。彼{あの}儘{まゝ}に死{しん}で見{み}ねへ。此所{こゝ}へ来{き}て

(5オ)
恨{うら}みを言{いふ}所{どこ}じやアねへ。直{ぢき}に知県所{だいくわんしよ}へ訴{うつたへ}て。お前方{めへがた}の首{くび}も把{とつ}て
仕止{しまふ}のだけれど。息{いき}のある斗{ばか}りで相対{あいたい}の噺{はな}し合{あい}になつたなア
僥倖{しあはせ}だア。サア〳〵うぢ〳〵しねへで奇麗{きれい}に出{だ}しねへ」トちからに
まかして揺突{こづき}まはせば。小春{こはる}は更{さら}に合点{がてん}ゆかす。夢{ゆめ}に夢{ゆめ}見{み}し心地{こゝち}にて
【春】「アレサマアお吉{きつ}さん。何{なに}をお言{いひ}のだヱ。マアこゝを放{はな}しておくれ。
切{せつ}なくツてならない。ヱヽモウ此方{こつち}でこそお前{まへ}に逢{あつ}たら。恨{うらみ}を
言{い}はふと言{いふ}事{〔こと〕}もあるが。お前{まへ}の方{はう}から恨{うらみ}を言{いは}れたり。そして
何{なん}だか出{だ}せの返{かへ}せのと。マア何{なん}の事{〔こと〕}だへ。お前{まへ}気{き}でも違{ちが}やア

$(5ウ)
奸悪{かんあく}の徒{ともがら}の
栄枯{ゑいこ}は
槿花{きんくわ}の
盛衰{せいすい}にも
劣{おと}れり
一朝{いつちやう}善人{ぜんにん}を
陥{おとしい}れて
利欲{りよく}を得{え}
心{こゝろ}に
快{こゝろよ}

$(6オ)
すと
いふ
〔こと〕ぞ
皇天{てんとう}
終{つひ}に
是{これ}

罰{ばつ}
して
不義{ふぎ}の
富貴{ふうき}を
久{ひさ}しからざらしむ

(6ウ)
仕{し}ないかへ」ト押{おさ}へたる手{て}を振放{ふりはな}さんと。すれど此方{こなた}は一生懸命{いつしやうけんめい}
力{ちから}に任{まか}して押{おさ}へつけ【吉】「ヘン空〻{そら〴〵}しい面{つら}ツつきで。イケしやア〳〵と
して居{ゐ}るのウ。お前{まへ}私{わたし}を女{をんな}だと思{おも}つて
馬鹿{ばか}にするのか。夫{そ}ン
なら是{これ}からこゝの家主{おゝや}さんへ引{ひき}ずつて往{いつ}て。理{わけ}を付{つけ}て貰{もら}は
にやアならねへ。サア歩行{あゆび}なせへ」ト立上{たちあが}り。小春{こはる}を引立{ひきたて}往{ゆか}ん
とする。当下{そのとき}鬼勝{おにかつ}は立{たち}かゝつて。お吉{きち}がとらへし手{て}を放{はな}させ
【勝】「コウお前{めへ}は何所{どこ}の内室{おかみ}さんだか。御新造{ごしんぞ}さんだかア知{し}ら
ねへが。餘{あん}まり無法{むはう}な仕方{しかた}だネ。仮令{たとへ}何様{どう}いふ理{わけ}が有{あつ}てサ

(7オ)
此{この}嬢{こ}が十分{じうぶん}悪{わる}いにもしろ。女{をんな}の癖{くせ}にお前{めへ}も大人{おとな}しくねへ。
まさか此{この}嬢{こ}が窃{ぬすみ}盗賊{どろばう}も仕{し}はしめへ」【吉】「ヘンお前{まへ}も入{い}らざるお
世話{せわ}ヨ。この女{こ}が窃{ぬすみ}盗賊{どろばう}を仕{し}たから斯{かう}言{いふ}ンたア。知{し}りも仕{し}ねへ
で打捨{うつちやつ}て置{おき}ねへ」ト聞{きい}て小春{こはる}は起直{おきなを}り【春】「ナニへお吉{きつ}さん。私{わちき}が
何時{いつ}盗賊{どろばう}をしたへ。外{ほか}の事{〔こと〕}なら何様{どんな}に言{いは}れても。どうせ対身{あいて}
にならないお前方{まへがた}の事{〔こと〕}だから。眼{め}を矚{ねむつ}て済{すま}せもしやうが
私{わち}きやア盗賊{どろばう}といはれて此{の}儘{まゝ}にやア置{おか}れないヨ。サア何時{いつ}*「此{の}」は「此{この}」の脱字か
盗賊{どろばう}をしたか。夫{それ}をお言{いひ}。サア〳〵〳〵」【吉】「アヽ言{いは}ないでサ。お前{まへ}の方{はう}で

(7ウ)
打捨{うつちやつ}て置{おき}たいと言{いつ}ても。此方{こつち}で打捨{うつちやつ}ては置{おか}ない。サア歩行{あゆび}
ねへ」【春】「アヽ何所{とこ}へでも往{いき}ませう。此方{こつち}に些{ちつと}も覚{おぼへ}のない〔こと〕を
言懸{いひかけ}られてつまるものかネ。サア〳〵何所{どこ}へでも往{いき}ませう」ト
解{とけ}たる帯{おひ}を抱{かゝ}へ込{こ}み。行{ゆか}んとするを鬼勝{おにかつ}が【勝】「コレサ〳〵小
春{こはる}さん。夫{それ}じやアお前{めへ}も大人{おとな}しくねへ。此{この}方{かた}が彼様{あゝ}言{いひ}なさる
位{くれへ}だから。たとへお前{めへ}の身{み}にやア覚{おぼ}へがないにもしろ。先{さき}
にやア何{なに}か訳{わけ}が有{あり}やせう。マア其{その}分解{わけ}を篤{とつく}り静{しづか}に聞{きい}て
その上{うへ}で何所{どこ}へでも往{いく}が宜{いゝ}じやアねへか。其様{そん}な形{なり}をして

(8オ)
外{そと}を歩行{あるひ}て見{み}ねへ。人{ひと}が笑{わら}はハア。馬鹿{ばか}〳〵しい。マア下{した}に居{ゐ}なせへ」ト小春{こはる}
を無理{むり}に引居{ひきすへ}てお吉{きち}に向{むか}ひ【勝】「モシお吉{きつ}さんとやら。先刻{さつき}も入{いら}ざる
お世話{せわ}だと言{いひ}なさるけれど。私{わたし}もコノ娘{こ}とは些{ちつと}遁{のが}れねへ中{なか}の者{もの}で
斯{かう}して来合{きあは}せて居{ゐ}て見{み}りやア。まさか知{し}らん皃{かほ}をしても居{ゐ}ら
れやせんから左様{さう}言{いふ}が。モシ窃{ぬすみ}盗賊{どろばう}をしたとは。マア何{なに}を盗{ぬす}んで
何様{どう}した条{わけ}だか。分解{わけ}をお噺{はな}しなせへ。お役{やく}にやア立{たつ}めへが条{すじ}に
よつたら私{わたし}が引受{ひきうけ}て。お前{まへ}さんの気{き}の済{すむ}様{やう}にいたしやせう。
ヱモシまア分解{わけ}を篤{とつ}くりとお咄{はな}しなせへ。何{なん}だか当人{とうにん}も

(8ウ)
覚{おぼ}へがないといふから。言{いひ}なさらねへ事{〔こと〕}はわからねへ」ト鬼勝{おにかつ}は割膝{わりひざ}
をしてじつとお吉{きち}が皃{かほ}を見{み}つめて居{ゐ}る。其{その}容子{ようす}一癖{ひとくせ}有{あり}気{げ}にて
凡者{たゞもの}と見へねば。お吉{きち}は底気味{そこきみ}悪{わる}く。滅多{めつた}な事{〔こと〕}を言{いひ}だしたらば
却{かへつ}て揚足{あげあし}をとられんかと浮雲{あやぶめ}ば。わざと脇{わき}の方{はう}を向{むい}て【吉】「ヘン
ナニおめへ方{がた}の御存{ごぞんじ}ない事{〔こと〕}サ」ト鼻{はな}の先{さき}で会釈{あしらふ}様子{やうす}を。鬼勝{おにかつ}は
腹{はら}に居{すへ}かねたゞ一挫{ひとひし}ぎと思ひしが。イヤ〳〵先{さき}は女{をんな}の事{〔こと〕}。分解{わけ}
さへ陸{ろく}に知{し}りもせで。無法{むはう}な事{〔こと〕}は成{なり}がたしと。胸{むね}をさすツて
【勝】「ハテサ知{し}らねへ事{〔こと〕}なればこそ。分解{わけ}を聞{きか}してお呉{くん}なせへと言{いふ}ん

(9オ)
だアね。なぜ。私{わた}しの前{めへ}じやア言{いは}れねへ事かへ」【吉】「ナニ何方{だれ}の前{めへ}だッ
て」【勝】「夫{そん}ならお言{いひ}なせへナ。マア此{この}娘{こ}が何時{いつ}盗人{どろばう}をしたといひな
さるンだへ」ト問詰{とひつめ}られて詮方{しかた}なく【吉】「アイ此間{こないだ}の晩{ばん}私{わたし}の弟{おとうと}を
川{かは}の中{なか}へ突落{つきおと}して。胴巻{どうまき}の金{かね}を二十五両{にじうごりやう}といふ物{もの}。不残{みんな}把{と}つた
なア。こゝの小春{こはる}か左様{さう}でなけりやア。天間町{てんまゝち}の紙治{かみぢ}か。其{その}二個{ふたり}の
内{うち}にやア違{ちげ}ヱねへといふ証拠{しようこ}があります。夫{それ}だのに此{この}女{こ}が知{し}ら
ないと言{いふ}から。同伴{いつしよ}に引{ひき}ずつて天間町{てんまゝち}へ往{いつ}て。三{み}ツ鉄輪{がなは}で縡{〔こと〕}
分解{わけ}て。夫{それ}で分解{わか}らねへけりやア。知県所{たいくわんしよ}へ願{ねが}ふ分{ぶん}の事{〔こと〕}。何{なに}も

(9ウ)
むづかしい事{〔こと〕}は有{あり}ません。訳{わけ}といふなア其{その}通{とほ}りサ。何様{どう}だ小春{こはる}さん覚{おぼへ}か
あるだらう」【春】「ヲヤマア呆{あき}れるねへ。お前{まへ}の弟{おとうと}とは和{わ}のさんの
事{〔こと〕}かへ。金{かね}を把{と}る所{どころ}か久{ひさ}アしく逢{あつ}た事{〔こと〕}もないものヲ。尤{もつとも}何{なに}か慥{たしか}な
証拠{しやうこ}が有{ある}とお言{いひ}だから夫{それ}をお見{み}せ。何{なん}だヱ」【吉】「ムヽ証拠{しやうこ}かへ。そりや
ア出{で}る所{とこ}へ出{で}てから見{み}せやうヨ」【春】「アレサ夫{それ}じやア矢張{やつはり}わけが
わからないはね。ネへ尊兄{おぢ}さん」ト鬼勝{おにかつ}の方{はう}を見{み}る。【勝】「左様{さう}サ〳〵。
モシ今{いま}いふ通{とほ}り私{わたし}が立会人{たちあいにん}だ。証拠{しやうこ}を爰{こゝ}へ出{だ}してお見{み}せなせへ」ト
いふにお吉{きち}は懐{ふところ}から。彼{かの}紙治{かみぢ}より小春{こはる}が方{かた}へ。送{おく}りし手簡{てがみ}を

(10オ)
さし出{だ}して【吉】「サアお見{み}せ申ませう。この手簡{てがみ}が弟{おとうと}の側{そば}に有{あつ}た
から。何{なん}でもお前方{まへがた}二人{ふたり}のうちに違{ちが}ひないと言{いふ}のはこゝサ。是{これ}から
紙治{かみぢ}さんの方{はう}へも噺合{はなしあつ}て訳{わけ}が付{つか}ないけりやア。願{ねが}ひ出{で}るつもり
だヨ。覚{おぼ}へが有{ある}なら有{ある}。なければないとお言{いひ}」【春】「誠{ま〔こと〕}にモウ不測{ふしぎ}だ
ねへ。何{なん}だとへ。ヲヤこりやア珍波{ちんぱ}から私{わち}きを呼{よび}に越{よこ}した文言{もんごん}
だネ。マア尊兄{おぢ}さん何様{どう}したんだらうネへ」ト呆{あき}れて鬼勝{おにかつ}が
皃{かほ}を見{み}れば。鬼勝{おにかつ}は暫{しはら}く考{かんかへ}へ【勝】「イヤ是{これ}にやア何{なに}かわけが*「考{かんかへ}へ」の「へ」は衍字
有{あり}やせう。斯{かう}して此{この}手簡{てがみ}が脇合{わきあい}から出{で}たからにやア。チツト

(10ウ)
穿鑿{せんさく}の仕様{しやう}も有{あり}やす。モシお吉{きつ}さん夫{そん}なら此{この}一件{いつけん}はネ。翌{あす}の晩{ばん}まで
私{わたし}に預{あづ}けて呉{くん}なせへ。成程{なるほど}是{これ}を証拠{しやうこ}にして言{いひ}なさるも無理{むり}はねへ様{やう}
なもんだが。仲〻{なか〳〵}この手合{てあい}が其様{そん}な不法{ふはう}をする人{ひと}ではなし。こりやア外{ほか}に
盗人{どろばう}が有{あり}やせう。万事{ばんじ}私{わたし}が胸{むね}に有{ある}から。翌{あす}の晩{ばん}にやアすつはりと片{かた}
を付{つけ}て上{あげ}やせう。私{わたし}は枝橋{えだばし}の舟宿{ふなやど}で。にたりやの勝{かつ}といふ者{もの}。斯{かう}言{いふ}
からにやア五厘{ごりん}でも。間違{まちげ}へ引{ひき}はございやせん」ト立派{りつぱ}に請合{うけあふ}侠者{をとこ}
の言葉{〔こと〕ば}にお吉{きち}は莞爾{につこり}笑{ゑ}みを含{ふく}み【吉】「アイお前{まい}さんが其{その}通{とほ}り受
合{うけあつ}てお呉{くん}なはりやア。たとへ翌{あす}が明後日{あさつて}でもお待{まち}申て居{ゐ}ませう。

(11オ)
そんならお恃{たの}ン申ます」トそこ〳〵にして立出{たちいづ}る。
第廿二回
古今和哥集{こきんわかしう}巻{まき}の第十二{だいうに}恋{こひ}の哥{うた}の二{に}に。いとせめて恋{こひ}しき*「第十二{だいうに}」は「第十二{だいじうに}」の脱字か
時{とき}はむば玉{たま}の。夜{よ}るの衣{ころも}をかへしてぞ着{き}る。と小町{こまち}が詠{ゑい}し
おかれしより。世{よ}の婦女子等{ふぢよしら}が口{くち}ずさみに。心{こゝろ}におもふ事{〔こと〕}毎{こと}を
夢{ゆめ}に見{み}たくは逆{さか}さまに。𧝒{よぎ}着{き}て臥{ふ}せよと。いひならはしけん。
お滝{たき}は独{ひとり}つく〴〵と。思{おも}ひまはせば世{よ}の中{なか}に。女子{をなこ}の身{み}ほと悲{かな}し
くも。果敢{はか}なきものは亦{また}とあらじ。斯{かく}まで想{おも}ひ詰{つめ}し身{み}も。男{をとこ}の

(11ウ)
勝手{かつて}の義理{ぎり}づくには。飽{あか}ぬ別{わか}れもせにやならぬとは。何時{いつ}の神代{かみよ}
の定{さだ}めかは。しらねどホンニ情{なさけ}なし。いつそ別{わか}れてくよ〳〵と。気
|病{やみ}にやんで死{し}なふより。捨{すて}られた身{み}の面{つら}あてに。おもふ男{をとこ}の門{かど}へ
往{い}て。首{くび}でも縊{くゝ}つて死{しん}たなら。可愛{かあい}そうとか恋{いと}しいとか。思{おも}つて
くれる事{〔こと〕}もあろ。たとへ五十{ごじう}や六十{ろくじう}の。金{かね}貰{もら}ふとて何{なん}にせう。
気心{きこゝろ}しらぬ仇人{あだびと}に。配{そ}ふて苦労{くらう}や気{き}がねして。紗綾縮緬{さやちりめん}の
𧝒{よぎ}蒲団{ふとん}。御新造{ごしんぞう}さま奥{おく}さまと。いはれたとて何{なに}おもしろか
らう。百年{ひやくねん}寿{いき}て今{いま}死{し}ぬも。十九{つゞ}や二十{はたち}て今{いま}死{し}ぬも。思{おも}ひは同{おな}じ

(12オ)
断待間{だんまつま}。左様{さう}じや〳〵と胸{むね}のうち。おもひ悩{なや}めばいとゞ猶{なを}。心細{こゝろぼそ}さや
三日月{みかづき}の。枯野{かれの}を照{て}らす如{〔ごと〕}くなり。折{をり}から下女{げぢよ}が二階{にかい}へ来{きた}り
【女】「アノお滝{たき}さん。中通{なかどほ}りの作良屋{さくらや}でネ。アヽ[引]何{なん}とか言{いひ}ましたツけ
ムヽ何{なん}でも大{たい}そふ智識{ものしり}の和尚{をしやう}さまが。アノお談義{だんぎ}とかお説法{せつはう}
とかを為{し}ますが。種〻{いろ〳〵}な面白{おもしろ}い咄{はな}しを為{す}ると言{いつ}て。近所{きんしよ}から
皆{みんな}が往{いき}ますヨ。私{わたくし}も往{いき}たいと思{おも}ひますが。お前{まへ}さんも左様{さう}して
塞{ふさい}てばかりお出{いで}なさらずと。往{いつ}て御覧{ごらん}なさいな。左様{さう}したら
またお気{き}の晴{はれ}る事{〔こと〕}もございませう」【たき】「ヲヤ否{いや}だネ。お老婆{はア}さん

(12ウ)
じやアあるまいし」【女】「アレサ左様{さう}被仰{おつしやい}ますが。向{むか}ふの内室{おかみ}さんも
娘{むすめ}ツ子{こ}も。アノお隣{となり}の内義{おかみ}さんも。お出{いで}被成{なさい}ましたは。マア慰{なぐさみ}に
往{いつ}てお聞{きゝ}なさい。ヨウ」【たき】「夫{それ}でも老爺{おとつさん}は留守{るす}だし。宅{うち}が明{あ}く
ものヲ」【女】「ナニ今{いま}ネ。六{ろく}どんが堀{ほり}から帰{かへ}りましたヨ。アノ人{ひと}を些{ちつと}
の間{あいだ}置{おい}て往{いき}ませう。サアお出なさいなネへ」ト勧{すゝ}められて
否〻{いや〳〵}ながらも。名僧{めいそう}智識{ちしき}の談義{だんぎ}ときけば恃母{たのも}しく。命{いのち}を
捨{すて}て心{こゝろ}の底{そこ}を。男{をとこ}へ見{み}せんと覚悟{かくご}のをり。談義{だんぎ}を|聴聞{きゝ}に往{いけ}と
いふ是{これ}も仏{ほとけ}の導{みちび}きか。思{おも}へば不測{ふしき}と人{ひと}知{し}れぬ。夫{それ}も泪{なみだ}の種{たね}なるべし。

(13オ)
斯{かく}て帯{おび}などしめ直{なを}し。支度{したく}調{とゝの}へ船頭{せんどう}の。六{ろく}を留守{るす}におきてかれ
と両個{ふたり}。中通{なかどほ}りの作良屋{さくらや}へ至{いた}りて見{み}るに。門{かど}には大{おほ}きなる紙{かみ}の
札{ふだ}をさげ。鎌倉{かまくら}建長寺{けんてうじ}の長老{ちやうろう}。誠拙{せいせつ}和尚{をしやう}衆生{しゆぜう}結縁{けちえん}のため
此所{こゝ}にて法談{はうだん}あり。信心{しん〴〵}の輩{ともがら}は聴聞{ちやうもん}勝手{かつて}次第{しだい}の事{〔こと〕}。と
記{しる}して群集{くんじゆ}の貴賤{きせん}山{やま}をなし。老若男女{らうにやくなんによ}市{いち}の〔ごと〕く集{あつま}り。傍{そば}には
草履番{ぞうりばん}の若{わかい}もの。いろは分{わけ}の札{ふだ}を以{もつ}て。参詣{さんけい}の人{ひと}の下足{げそく}を
預{あづか}り。上下{かみしも}着{き}たる講中{かうぢう}の世話人{せわにん}。彼方{あち}此方{こち}駈{かけ}まはりてその
賑{にぎ}はしさいはん方{かた}なし。お滝{たき}と下女{げぢよ}の二個{ふたり}は上{うへ}へあがり。法談{はうだん}の

(13ウ)
場{ば}へ至{いた}りて見{み}るに。高座{かうざ}には年{とし}の頃{ころ}八十歳餘{はちじうあま}りの老僧{らうそう}。手{て}に
珠数{じゆず}を繰{くり}ながら。傍{かたへ}の香炉{かうろ}に香{かう}を焚{たき}。座中{ざちう}を見渡{みわた}して
「サテ各{おの〳〵}信心{しん〴〵}の厚{あつ}く。今日{けふ}此{この}道場{どうじやう}へ参詣{さんけい}いたされたは。愚僧{ぐそう}
において大慶{たいけい}に存{ぞん}ずる。扨{さて}おの〳〵方{かた}へ生死流転{しやうしるてん}のありさま
また電光石火{でんくはうせきくわ}と申て。電{いなびか}りの如{〔ごと〕}く石鎌{いしかま}より出{で}た火{ひ}の〔ごと〕
く。果{は}敢なく消{きゆ}る人間{にんげん}の上{うへ}を。悟{さと}らせませうと存{ぞんじ}たが。見{み}れば
殊{〔こと〕}の外{ほか}に婦人方{ふじんがた}の多{おほ}く参詣{さんけい}故{ゆへ}。まづ女人{によにん}得脱成仏{とくだつじやうぶつ}の説{せつ}
を申さうが。儒者{しゆしや}の儒者{じゆしや}嗅{くさ}きとやら。味噌{みそ}の味噌{みそ}嗅{くさ}きと

(14オ)
やらで。出家{しゆつけ}が仏道{ほとけ}の説{はなし}を致{いたす}は珍{めづ}らしからず。各方{おの〳〵かた}も退屈{たいくつ}
でござらふ。依{よつ}て今日{けふ}は婦人方{ふじんがた}の心得{こゝろえ}となつて。一生{いつしやう}身{み}の
修{おさ}めかたを咄{はな}しませう」ト又{また}ぐるりと一座{いちざ}を見廻{みまは}し。お滝{たき}が
皃{かほ}をじろりと見{み}給ふ眼中{がんちう}。実{け}に威{ゐ}あつて猛{たけ}からずま〔こと〕に
生如来{いきによらい}とも見{み}ゆる気勢{ありさま}に。お滝{たき}は随喜{ずいき}の心{こゝろ}を催{もよふ}し。思{おも}はず
泪{なみだ}の浮{うか}む斗{ばか}り。手{て}を合{あは}して伏拝{ふしおが}む。当下{そのとき}誠拙{せいせつ}和尚{をしやう}は。中啓{ちうけい}
をもつて高座{かうざ}を徹{はた}と打{うち}。「さて申|悪{にく}き事{〔こと〕}ながら。婦人{ふじん}といふ
ものは此{この}世{よ}へ生{うま}れて。家{いえ}といふものがないゆへに。他人{たにん}の家{いえ}を家{いえ}と

$(14ウ)
五月雨や
本よみ
さして
ねむり
けり
秋廼菴狂兎

$(15オ)
おたき

(15ウ)
して一生{いつしやう}を贈{おく}らねばならぬ。其処{そこ}で男{をとこ}と違{ちが}つて何{なん}でも
角{か}でも。他人{ひと}に従{したが}ふが婦人{ふじん}の常{つね}で。仮初{かりそめ}にも我儘{わがまゝ}気随{きずゐ}
では済{すま}ぬものじやが。当時{とうじ}の女{をんな}は。先{まづ}十人{じうにん}に八九|人{にん}まで左様{さう}は
ゆかぬテ。些{ちつと}気{き}の能{いゝ}良人{ていしゆ}だと。忽地{たちまち}大{おほ}きな尻{しり}に敷{しい}て見{み}たく
なり。ナニ何所{どこ}へ往{いつ}ても困{こま}りは仕{し}ないなどゝ。太平楽{たいへいらく}が鼻{はな}の先{さき}に
ぶらついて。一向{いつかう}他人{ひと}に従{した}がふと言{いふ}掟{おきて}の有{ある}所{ところ}へ気{き}が付{つか}ず。殊{〔こと〕}に|眉
眼{みめ}形容{くはたち}の美麗{うつくしい}婦人{ふじん}は。自己{てまへ}の姿{すがた}を頼{たの}みとして。他人{ひと}に可
愛{かあい}がられるに誇{ほこ}り。一生{いつしやう}此{この}通{とほ}りの物{もの}じやと思{おも}ひ。若{わか}いうちは

(16オ)
好{すき}な薄浮{き}や放蕩{とうらく}に身持{みもち}を崩{くづ}し。てんと面白{おもしろ}尽{つく}しで暮{くらす}のも*「薄浮{き}」は「薄浮{うはき}」の脱字か
かき集{あつ}めて十五年{じうこねん}か二十年{にじうねん}が限{かぎ}り。サア夫{それ}か過{すぎ}ると如何{いか}なる
美女{びぢよ}も。額{ひたい}や眼尻{めじり}にくちや〳〵と皺{しは}が出来{でき}。よく載{のつ}たおしろいも
焼原{やけはら}へ霜{しも}の降{ふつ}た様{やう}になつて。自{おのづ}から構人{かまへて}もなくなる頃{ころ}。初{はじ}
めて気{き}が付{つい}て。アヽ今迄{いままで}はつまらず年{とし}を拾{ひろ}つた。サア是{これ}から
身{み}を取極{とりきめ}てと。行先{ゆくさき}の事を苦労{くらう}にする様{やう}になれば。いよ〳〵
花香{はなか}もおとろへて。終{つひ}には名{な}もない者{もの}に連配{つれそふ}て。一生{いつやう}広{ひろ}い帯{おび}を*「一生{いつやう}」は「一生{いつしやう}」の脱字か
しめた事{〔こと〕}なく。裏家{うらや}脊戸屋{せとや}の侘住居{わひずまゐ}で。早桶{はやおけ}のさし荷{にな}ひで

(16ウ)
お寺{てら}へ送{おく}られるが。生涯{しやうがい}の|団円{とまり}じや。其処{そこ}で若{わか}い中{うち}に身{み}の要
心{えうじん}をして。老来{としよつ}て苦労{くらう}のない様{やう}にするが。誠{ま〔こと〕}の人間{にんげん}サア
夫{そん}ならばと言{いつ}て。誰{だれ}も三十年{さんじうねん}五十年{こじうねん}先{さき}を受合{うけあふ}ものも
なけれど。老来{としよつ}て難義{なんぎ}せぬ様{やう}にするとは。只{たゝ}其{その}身{み}の行{おこな}ひ
による事{〔こと〕}なり。其{その}行{おこな}ひ善{よ}ければ。たとへ薄命{ふしあはせ}な事{〔こと〕}か来{こ}やう
としても。諸天善神{しよてんせんじん}と言{いつ}て。尊{たつと}き神{かみ}や仏達{ほとけたち}が。其{その}難{なん}を
とゝめて来{きた}らせず。自然{しせん}と吉{よ}き方{はう}へ導引{みちびい}て下{くだ}さる〔こと〕。一点{つゆ}
ばかりも疑{うたが}ひない。サテ其{その}行{おこな}ひといふは。先{まつ}婦人{ふじん}は慈悲{ぢひ}の心{こゝろ}

(17オ)
深{ふか}く。人{ひと}と争{あらそ}はず。親{おや}良人{おつと}を敬{うや}まつて。いさゝかも命{おふせ}を背{そむ}かず。
其{その}上{うへ}に慎{つゝし}むべきは吝気{りんき}嫉妬{しつと}の悪念{あくねん}じやが。さて是{これ}は一番{いちばん}
慎{つゝし}みがたく。堪{こら}へ忍{しの}び難{がた}いもので。昔{むかし}から賢女{けんぢよ}と言{いは}れる人{ひと}で
さへ。とかく其{その}一念{いちねん}は去{さ}り難{がた}いやうに見{み}へれば。況{まし}て一通{ひととほ}りの
凡人{ひと}では慎{つゝし}む事{〔こと〕}いよ〳〵なり難{がた}いによつて。或{あるひ}は人{ひと}をも殺{ころ}し
其{その}身{み}も死{しに}。後{のち}の世{よ}まで悪名{あくめう}をながす事{〔こと〕}。嫉妬{しつと}といふ大悪心{だいあくしん}
より発{おこ}る。されば仏{ほとけ}も外面如菩薩{げめんによぼさつ}内心如夜叉{ないしんによやしや}と説{とか}れたは
人{ひと}もよくしつたる事{〔こと〕}ながら。なぜ菩薩{ぼさつ}の〔ごと〕き皃{かほ}を持{もち}ながら

(17ウ)
心{こゝろ}の内{うち}は夜叉{やしや}の如{〔ごと〕}くなりといふに。只{たゞ}嫉妬{しつと}の悪念{あくねん}有{ある}故{ゆへ}に
内心如夜叉{ないしんによやしや}なり。この嫉妬{しつと}の悪念{あくねん}さへなければ。内心{ないしん}も
倶{やつぱり}菩薩{ぼさつ}なり。どふぞ外面{げめん}も内心{ないしん}も菩薩{ぼさつ}になるやう
心懸{こゝろがけ}給{たま}へ」ト席{せき}を打{うつ}て一段{いちだん}声{こゑ}をはり揚{あげ}。「抑{そも〳〵}婦人{ふじん}は只
今{たゞいま}も言{もふ}す通{とほ}り。良人{おつと}に寵愛{てうあい}されて。一生{いつしやう}を送{おく}るもの
ゆへに。何{なん}でも角{か}でも一生{いつしやう}養{やし}なはれる良人{おつと}には。よく順{した}がは
ねばならぬ身{み}をわすれ。其{その}夫{おつと}が妓女買{ぢようろかい}かまた隠妻{かくしづま}など
あるを風聞{ほのきけ}ば。胸{むね}の炎{ほのほ}たちまちに燃立{もへたつ}て。物言{ものいひ}も荒〻{あら〳〵}

(18オ)
しくなり。目{め}に角{かど}立{たつ}て怨{うら}み怒{いか}り。或{ある}ひは泣{なき}わめきて怪{け}し
からぬ浅{あさ}ましき姿{すがた}を見するによつて。始{はじ}め可愛{かあい}く思{おも}ひ居{ゐ}
たりし良人{おつと}も。此{この}さまを見聞{みきゝ}して疎{うと}ましくなり。ます〳〵
隠妻{かくしつま}の方{はう}の寵愛{ちやうあい}深{ふか}くなるにつけて。弥{いよ〳〵}腹立{はらたゝ}しくやるせなく
善{よ}からぬ事{〔こと〕}を巧{たく}み出{だ}し。或{あるひ}は人{ひと}を呪詛{のろひ}祈{いの}るなど。沙汰{さた}の
限{かぎ}りの悪行{あくぎやう}に。終{つひ}に其{その}身{み}を失{うしな}ふのみならず。罪業{ざいがう}深{ふか}き
悲{かな}しさは。未来永劫{みらいえうがう}浮{うか}むべき方便{てだて}もなく。中宙{ちうう}に迷{まよ}ひて
死{しん}ての後{のち}までも。無量{むりやう}の苦艱{くげん}を受{うけ}る事{〔こと〕}。たゞ心{こゝろ}の持{もち}やう

(18ウ)
一{ひと}ツなり。仮令{たとへ}我{わが}良人{おつと}隠妻{かくしづま}あるをしるともいさゝか皃{かほ}に出{だ}
さず。猶{なを}例{いつ}もより優{やさ}しく会釈{あしらひ}。よき序{ついで}あらはかの女{をんな}の方{かた}
へも通路{つうろ}して。少{すこ}しも嫉{ねた}む気色{けしき}なく。情{なさけ}を持{もつ}て交{まじは}らば。自
然{しぜん}と其{その}徳{とく}に懐{なつ}き。先{さき}よりして慕{した}ひ寄{よ}るは必定{ひつぢやう}なり。昔{むかし}も
今{いま}も鄙{ひな}も都{みやこ}も。人情{にんじやう}只{たゞ}一{ひと}ツなり。よしや大悪人{だいあくにん}たりとも
徳{とく}と情{なさけ}といふ敵{てき}には刃{は}むかふ事{〔こと〕}ならざるべし。それを心{こゝろ}の
短{みじ}かくして。怒{いか}り恨{うら}む仂{はした}なさ。よく〳〵思案{しあん}さるゝがよし」ト
善悪邪正{ぜんあくじやしやう}細少{こま}やかに。説暁{ときさと}されて集会{つどひ}たる。人〻{ひと〳〵}首{かうべ}を

(19オ)
傾{かたむ}けて。ハツト答{こた}ふる其{その}中{うち}に。お滝{たき}は一個{ひとり}身{み}にしみて。アヽ有難{ありがた}や
是{これ}よりは。心{こゝろ}の底{そこ}を切{きり}かへて。貴僧{あなた}のお言葉{〔こと〕ば}にしたがひ
ませうト掌{て}を合{あは}してふし拝{おが}む。かゝる折{をり}しも下女{げぢよ}のお三{さん}が
肩{かた}のあたりを揺動{ゆりうご}かして【さん】「モシお滝{たき}さん〳〵。旦那{だんな}が入{いら}つしやい
ましたヨ。サア早{はや}くお起{おき}なさいヨ」ト言{いは}れてふつと眼{め}をひらけば
今{いま}見{み}たりしは恋衣{こひごろも}。忍{しの}び兼{かね}ツヽとろ〳〵と。転寝{うたゝね}の中{うち}の夢{ゆめ}にして
紙治{かみぢ}は枕{まくら}の脇{わき}に居{すは}り【治】「いゝ心地{こゝろもち}に寝{ね}て居{ゐ}たのを。起{おこ}して
気{き}の毒{どく}だノ。自己{おいら}アまた寝{ね}ても寝{ね}られず。考{かん}げへりやア気

(19ウ)
色{きしよく}がわるいから。憂{うさ}はらしに爺{とつ}さんと三個{さんにん}で。一盃{いつはい}飲{の}まふと
思{おも}つて来{き}たが。爺{とつ}さんは居{ゐ}ずか」【たき】「爺{ちやん}はネ。アノ先刻{さつき}小春{こはる}
さんの所{とこ}へ。たしか往{いく}様{やう}な事{〔こと〕}を言{いつ}て居{ゐ}ましたツけ」【治】「小春{こはる}が所{どこ}
へ何{なに}しに往{いつ}たのだ」【たき】「夫{それ}だツてアノ間違{まちがひ}から。お前{まへ}は腹{はら}を立{たつ}て
モウ彼女{あいつ}にやアかまはねへ何{なん}ぞとお言{いひ}だし。さぞアノ嬢{こ}も気{き}を
揉{もん}で居{ゐ}るだらうから。往{いつ}て噺{はな}し合{あつ}て見{み}たら。間違{まちがひ}の条{すじ}も分{わか}る
だらう。殊{〔こと〕}にあれツきりお前{まへ}もお出{いて}でなくツて見{み}ると。何様{とう}か
私{わち}きがしやくりでも仕{し}た様{やう}で。夫{それ}も殊{〔こと〕}に気{き}の毒{どく}たから。何様{どう}

(20オ)
したら宜{よ}からふと。私{わち}きが毎日{まいにち}〳〵気{き}を揉{もん}で居{ゐ}るものだから
夫で爺{ちやん}が往{いつ}たンで有{あり}ませうヨ」【治】「ナンノ彼女{あいつ}にかまふ事が
あるものか。打捨{うつちやつ}て置{おい}て呉{くれ}りやア宜{いゝ}に」ト少{すこ}し勃然{むつ}とし
たる皃つき。お滝{たき}は■笑{につこり}として【たき】「アレマア宜{いゝ}から構{かま}はずに
お出{いで}ヨ。爺{ちやん}が何{なに}か了張{りやうけん}が有{ある}からだアね」トいふ折{をり}しも下{した}より
広蓋{ひろぶた}に三{み}ツ物{もの}をのせておさんが持出{もちだ}す。【たき】「ヲヤモウ来{き}た
のかへ」【治】「ムヽ自己{おれ}が来{き}がけに誂{あつ}らへて来{き}たから」【たき】「左様{さう}
かへ。サア夫{そん}ならマア一{ひと}ツお上{あが}んなさい」ト銚子{てうし}をとる。是{これ}より暫{しば}し

(20ウ)
酒事{さゝ〔ごと〕}ありて二個{ふたり}とも。眼{め}の淵{ふち}ほんのり桜色{さくらいろ}となり。少{すこ}しく
興{けう}を催{もよふ}すをり。お滝{たき}は紙治{かみぢ}が膝{ひざ}にもたれかゝり【たき】「旦那{だんな}へ
私{わちき}はお前様{まはん}に一生{いつしやう}のお願{ねが}ひがあるが。協{かな}へてお呉{くん}なはいな」【治】「
何{なん}だまた改{あらた}まつた事{こつ}たの。マア言{いつ}て見{み}ねへ」【たき】「アヽ言{いひ}ますけれど
人{ひと}にさんざ言{いは}して置{おい}て。否{いや}だとお言{いひ}だときかないヨ」【治】「ハヽヽヽ。
きつい事{こつ}たな。お前{めへ}の事{〔こと〕}なら何{なん}でも否{いや}と言{いふ}めへサ。ハヽヽヽ」【たき】「
アレサ雑談{じようだん}じやアありませんヨ。憎{にく}らしいネへ」
花迺志満台第四編巻之中終


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底本:国立国語研究所蔵本(W99/Sh96/4、1002334553)
翻字担当者:片山久留美、木川あづさ、藤本灯
更新履歴:
2015年10月1日公開
2017年10月5日更新
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修正箇所(2017年10月5日修正)
(16オ)8 背戸屋{せとや} → 脊戸屋{せとや}

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