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比翼連理花廼志満台ひよくのれんりはなのしまだい

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三編下

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比翼連理花迺志満台 三編下

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凡例
1.本文の行移りは原本にしたがった。
2.頁移りは、その丁の表および裏の冒頭において、丁数・表裏を括弧書きで示した。また、挿絵の丁には$を付した。
3.仮名は現行の平仮名・片仮名を用いた。
4.仮名のうち、平仮名・片仮名の区別の困難なものは、現行の平仮名に統一した。ただし、形容詞・副詞・感動詞・終助詞・促音・撥音・長音・引用のト等に用いられる片仮名については、原表記で示した場合がある。 〔例〕安イ、モシ、「ハイそれは」ト、意気だヨ、面白くツて、死ンで、それじやア
5.漢字は現行の字体によることを原則としたが、次のものについては原表記に近似の字体を用い、区別した。「云/言」「开/其」「㒵/貌」「匕/匙」「吊/弔」「咡/囁」「哥/歌」「壳/殻」「帒/袋」「无/無」「楳/梅」「皈/帰」「艸/草」「計/斗」「弐/二」「餘/余」
6.繰り返し符号は次のように統一した。ただし、漢字1文字の繰り返しは原本の表記にしたがい、「〻」と「々」を区別して示した。
 平仮名1文字の繰り返し 〔例〕またゝく、たゞ
 片仮名1文字の繰り返し 〔例〕アヽ
 複数文字の繰り返し 〔例〕つら〳〵、ひと〴〵
7.「さ」「つ」「ツ」に付く半濁点符は「さ゜」「つ゜」「ツ゜」として示した。
8.Unicodeで表現できない文字は〓を用いた。
9.句点は原本の位置に付すことを原則としたが、文末に補った場合がある。
10.合字は〔 〕で囲んで示した。 〔例〕殊{〔こと〕}に、なに〔ごと〕、かねて〔より〕
11.傍記・振り仮名は{ }で囲んで示した。 〔例〕人生{じんせい}
12.左側の傍記・振り仮名の場合は、冒頭に#を付けた。 〔例〕めへにち{#毎日}
13.傍記・振り仮名が付く位置の紛らわしい場合、文字列の始まりに|を付けた。 〔例〕十六|歳{さい}
14.原本に会話を示す鉤括弧が付いていない場合も、これを補い示した。また庵点は〽で示した。
15.原本にある話者名は【 】で示した。 〔例〕【はる】
16.割注・角書および長音符「引」「合」は[ ]で囲んで示した。
17.不明字は■で示した。
18.原本の表記に関する注記は*で行末に記入した。 〔例〕〓{たど}りて*〓は「漂+りっとう」
19.花押は〈花押〉、印は〈印〉として示した。
20.画中文字の開始位置に〈画中〉、広告の開始位置に〈広告〉と記入した。

本文の修正
1.翻字本文を修正した場合には、修正履歴を末尾に示す。
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(1オ)
[比翼{ひよく}連理{れんり}]花{はな}迺{の}志満台{しまだい}第三編{だいさんへん}巻之下
東都 松亭金水編次
第十七回
わが宿{やど}は雪{ゆき}ふりしきて道{みち}もなし。踏{ふみ}わけてとふ人{ひと}しな
ければ。夫{それ}にはあらでこゝはまた。白川町{しらかはてう}と聞{きこ}へたる。其{その}新路{しんみち}
の裡家{うらや}なれど。九尺{くしやく}二間{にけん}にあらずして。固{もと}は数寄者{すきしや}の住
居{すまゐ}けん。二間{ふたま}か三間{みま}の都合{つがう}よく。いと隘{せま}けれど庭{には}もあり
御影{みかげ}の石{いし}の手水鉢{ちやうづばち}。萩{はぎ}の袖垣{そでがき}南天{なんてん}の。根〆{ねじめ}に葉蘭{はらん}

(1ウ)
こなたには桐{きり}のずんどに高野槇{かうやまき}。いづれ常盤{ときは}に色{いろ}かえ
ぬ。冬木{ふゆき}好{ごの}みの植物{うゑもの}は。主{あるじ}ゆかしく思{おも}はれたり。をりから
こゝへ訪{とひ}来るは。三十四五の男{をとこ}にて。窶{やつ}れ果{はて}たる退糧{らうにん}と
いはねどしるき其{その}人物{じんぶつ}。彼方{かなた}こなたを伺{うかゞ}ひ〳〵【侍】「モシチト
お恃{たの}み申ます。此処等{こゝら}に唄女{げいしや}の小春{こはる}さんといふがござり
ますかナ」ト問{とは}れて小春{こはる}は門口{かどくち}あけ【はる】「ヲヤ。」ト[いひつゝあとじさりをしながら]
「おまはんは。アノ千葉{ちば}さまの強六{ごうろく}さんじやアございませんかへ」
【強】「ハヽヽヽ。強六{ごうろく}サ〳〵。これさ何{なに}も其様{そんな}に恟{びつく}りせずともいゝ

(2オ)
じやアないかへ。自己{おれ}に借{かり}でもありはしまいし」【はる】「ナニ左様{さう}
じやアありませんが。誠{ま〔こと〕}におもひ寄{よら}ないお方{かた}のお出{いで}で。胆{きも}
をつぶしましたは。マア此方{こつち}へお上{あが}んなはい。先頃{いつぞや}はモウ色〻{いろ〳〵}
御深切{ごしんせつ}に仰{おつ}しやつて被下{ください}まして。其{その}うへにお金{かね}や何{なに}かを
いたゞきましたのに。陸〻{ろく〳〵}お礼{れい}も申ませんで。誠{ま〔こと〕}にエウお気{き}*「エウ」は「モウ」の誤字か
の毒{どく}でございます。しかし御機嫌{ごきげん}よくツておめでたう」【強】「イヤ
ハヤ餘{あん}まり御機嫌{ごきげん}がよくもない。たゞ命{いのち}に別条{へつぢやう}がないと言{いふ}
ばかりサ」【はる】「イヱそれが何{なに}よりでございます。度{たび}〳〵おあんじ

(2ウ)
くださいましたが。爺父{おやぢ}も頓{とう}〳〵死去{なくなり}ましたヨ」【強】「ヤ。左様{さう}で
有{あつ}たさうな。夫{それ}も外{ほか}から聞{きゝ}やした。イヤ何{なん}のかのとさぞ心配{しんはい}
年{とし}も往{いか}ぬものを可愛{かわい}そうに。しかし今{いま}では大分{だいぶ}楽{らく}な
身{み}の上{うへ}じやといふ事{〔こと〕}。わしは夫{それ}に引{ひき}かへ。見{み}なさる通{とふ}りの体為{ていたらく}。
イヤハヤ咄{はな}しにもならぬ訳{わけ}さ」【はる】「おまはんの事{〔こと〕}も。他{ほか}から
聞{きゝ}ましたが。アノお吉{きつ}さ゜ん所{とこ}にお出{いで}なはるさうでございますネ」
【強】「ナニ〳〵左様{さう}じやアねへ」【はる】「お隠{かく}しなはツても。みンな知{し}つて
居{をり}ます。アノお吉{きつ}さ゜んも全体{ぜんたい}他{ひと}に負{まけ}ない。江戸{えど}ツ子{こ}気象{ぎしやう}

(3オ)
だから。情人{いろ}にしちやア。さぞおもしろうございませうねへ」
【強】「左様{さう}サ。情人{いろ}になつたら面白{おもしろ}からうが。何{なん}でもないから
つまらないのサ」【はる】「ヲヤまだ其様{そんな}に。知{し}らを切{きつ}てお出{いで}なはるヨ。
夫{それ}よりかマア痴情{のろけ}ばなしでもなはいナ」【強】「ハヽヽヽ。斯{かく}なるうへは
是非{ぜひ}におよばずサ。有様{ありやう}にいひやせう。実{じつ}はおめへに惚{ほ}れて
どうぞ世話{せわ}にしたいと思{おも}つて。お吉{きち}をたび〳〵恃{たの}んで。お薬{くすり}
をも用{もち}ひたけれど。おめへは他{ほか}におたのしみが有{ある}もんだから
承知{しやうち}してくれず。胸{むね}がむしやくしやとして居{ゐ}る所{ところ}で。お吉{きち}

(3ウ)
めが。おかしな目{め}つきをしたり。何{なに}かしてお膳{ぜん}を居{すえ}るから。箸{はし}
をとらねへも損{そん}だとおもつて。終{つひ}一口{ひとくち}撮{つま}んだが病{やみ}つきで
情人{いろ}になつて見{み}れば。また煩悩{ぼんのふ}とやらに引{ひか}されて。捨{すて}るにやア
捨{すて}られず。そのうへに盲法師{めくらぼうず}の。官金{くわんきん}が欲{ほ}しいのなんのと
好{すき}な熱{ねつ}を吹{ふく}のを。まさか否{いや}ともいはれねえで。工面{くめん}十{じふ}めんに
終{つひ}金{かね}を遣{つか}ひ過{すご}して。恥{はづ}かしながら屋敷{やしき}はお払{はら}ひ筥{ばこ}サ。ハヽヽヽ。
イヤ笑{わら}ひ〔ごと〕じやアねへ。それから段{だん}〳〵都合{つがう}も悪{わる}くなつて
万事{ばんじ}お吉{きち}がいふ通{とほ}りにもならず。つまらなくなると。サア

(4オ)
彼奴{あいつ}めが。我儘{わがまゝ}一{いつ}ぺゑを働{はた}らいて。なか〳〵居{ゐ}たゝまれねへ
やうにするから。忌〻{いま〳〵}しさに出{で}は出{で}て見{み}たが。何{なに}をいふにも
此{この}形容{みなり}では詮方{しかた}もなし。どうか相談{さうだん}しやうと思{おも}つても
扨{さて}〳〵不人情{ふにんじやう}千万{せんばん}な奴{やつ}で。銭金{ぜにかね}の事{〔こと〕}なんざア。足元{あしもと}へも聞{きか}
ねへ。あんな忌{いま}〳〵しい畜生{ちくしやう}があるもんじやアねへ。ホイこれはし
たり。ナニモもおめへの知{し}つた理{わけ}でもねへのに。ノウ小春{こはる}さん。これは
ホンノ噺{はな}しだぜ。ハヽヽヽ」【はる】「夫{それ}でもおまはん。中{なか}の能{いゝ}時分{じぶん}は。死{し}ね
死{し}なうとお言{いひ}だらう。今{いま}になつたツて。左様{さう}悪{わる}く言{いふ}もんぢやア

(4ウ)
ありません。お吉{きつ}さ゜んに逢{あふ}と言告{いつゝけ}ますぜ」【強】「どうぞ言告{いつゝけ}て
貰{もら}ひてへ。融通{ゆづう}の出来{でき}るうちは根{ね}こそぎ扱取{もぎとつ}て。サア無{なく}
なつたら直{ぢき}に突出{つきだ}すといふ様{やう}な奴{やつ}ア。人間{にんげん}の皮{かは}を被{かぶ}つた
畜生{ちくしやう}だ。しかし其様{そん}な奴{やつ}に引{ひつ}かゝつたのが不肖{ふせう}で。どうも
詮方{しかた}はねへ」ト或{ある}ひは怒{いか}りあるひは歎{なげ}きて。噺{はな}すをきけば
小春{こはる}は何処{どこ}か不便{ふびん}になり。深切{しんせつ}とにはあらざれど。身{み}の
貧{まづ}しさを汲{くみ}とりて。僅{わづか}ながらも恵{めぐ}まれし。昔{むかし}の〔こと〕を思{おも}
ひやれば。了得{さすが}無下{むげ}にも帰{かへ}されず。何{なに}はなくとも酒{さけ}一{ひと}ツ。呑{のま}

(5オ)
して遣{や}らんと勝手{かつて}へゆき。見{み}るに生憎{あやにく}酒{さけ}はなし。隣{となり}の老母{ばゝ}
を恃{たの}まんと。見{み}れば是{これ}さへ錠{ぢやう}を卸{おろ}して。家{いへ}にあらねば間{ま}の
わるさよと。心{こゝろ}のうちに呟{つぶや}きて【はる】「強六{ごうろく}さん私{わちき}は鳥渡{ちよつと}
其処{そこ}まで往{いつ}て来{き}ますからネ。どうぞ些{ちつと}の間{ま}気{き}を付{つけ}て
お呉{くん}なはいナ」【強】「アヽそりやアお易{やす}イ〔こと〕だが。決{け}して私{わたし}に
かまつて呉{くん}なさんなヨ。私{わた}しやアモウ帰{けへ}りやす」【はる】「ひさし
ぶりだから寛{ゆる}りとなはいナ」ト言捨{いひすて}て駒下駄{こまげた}はき。角{かど}の
酒屋{さかや}に横丁{よこてう}の。美味屋{うまいものや}をかけあるき。口取{くちとり}刺身{さしみ}を誂{あつら}へて

(5ウ)
序{ついで}にちよつと立{たち}よるは。お浜{はま}と呼{よべ}る唄女{げいしや}の門口{かどぐち}【はる】「おはまさん
宅{うち}かへ。昨日{きのふ}はモウ有{あり}がたう」【はま】「ヲヤお春{はる}さんか。サアおあがりな」
【はる】「イヽヱ今{いま}宅{うち}にお客{きやく}を一人{ひとり}置{おい}て来{き}たから。左様{さう}しては居{ゐ}ないヨ」
【はま】「お客{きやく}とは彼{かの}かへ」【はる】「ナアニおまへはお知{し}りでないが。否{いや}アな
人{ひと}だヨ」【はま】「ムヽあんまり左様{さう}でもあるまい。浮薄{うはき}をすると。紙
治{かみぢ}さんに言{いふ}ぜ」【はる】「そりやア大丈夫{だいじやうぶ}だヨ」【はま】「マア一ぷく飲{のん}でも宜{いゝ}
じやアないかねへ」ト急{いそ}ぐとすれど女{をんな}同士{どし}。とゞめられてはまたつ
さらに。一口{ひとくち}噺{はな}し二口{ふたくち}噺{はな}し。長{なが}くなるのは女{をんな}の癖{くせ}。留守{るす}には

(6オ)
独{ひとり}強六{ごうろく}が。火鉢{ひばち}の傍{そば}に高胡坐{たかあぐら}。宅{うち}の模{も}やうを右視{とみ}左
視{かうみ}て。なるほど女{をんな}は姓{うぢ}なくて。玉{たま}の輿{こし}とはよく云{いつ}た。先頃中{いつかぢう}の
体為{ていたらく}と。今{いま}の様子{やうす}は雲泥{うんでい}万里{ばんり}。お姫{ひめ}さまと乞児{やどなし}ほど
違{ちが}ふは。これも不残{みんな}紙治{かみぢ}が賄{まかな}ひ。町人{てうにん}風情{ふぜい}と侮{あな}どつても
此方人等{こちとら}とはまた格段{かくだん}なもの。どうりこそ其{その}以前{いぜん}。あれ程{ほど}
骨{ほね}を折{をつ}たけれど。応{おふ}といはぬはハヽ此処{そこ}だなア。見{み}くびられ
たも是非{ぜひ}はないが。畢竟{ひつきやう}いはゞそのあてが。はづれた斗{ばか}りでお
吉{きち}に食{くひ}つき。あげくの果{はて}に此{この}体為{しだら}に。なつたといふもお春{はる}が

$(6ウ)
毒{どく}のあるものとは
見えず
蛇{へび}いちご
小はる

$(7オ)
ごう六

(7ウ)
発端{もと}。おもへば憎{にく}き女{をんな}めと。思{おも}はず知{し}らず懐旧{くわいきう}の。胸{むね}に迫{せま}りし
その所{ところ}へ「モシチトお恃{たの}み申ます。私{わたくし}は三谷{さんや}から恃{たの}まれて参{まいり}
ましたが。小春{こはる}さんのお宿{やど}はこちらでござりますか」ト音{おと}なふ
声{こゑ}に強六{ごうろく}は。門口{かどぐち}をあけて見{み}るに。年{とし}の頃{ころ}三十ばかりの男{をとこ}。文{ふみ}
を持{もつ}て来{きた}りしなれば。強六{ごうろく}はうけ取{とつ}て【強】「アイこちらでござい
やす。今{いま}ちよつと其処{そこ}まで往{いき}やしたから。帰{かへ}つたら見{み}せませう」
【使の男】「ヘヽ左様{さやう}ならどうぞお恃{たの}み申ます。何{なん}だか早{はや}く入{い}らツ
しやるやうにと。お言伝{〔こと〕づて}でございました」【強】「アイ〳〵左様{さう}申やせう」ト

(8オ)
使{つかひ}をかへして彼{かの}文{ふみ}を。よく〳〵見るに小春{こはる}どの。紙治{かみぢ}より
と認{したゝ}めあり。心{こゝろ}にくしと封{ふう}おし切{きつ}て読{よみ}くだせば。此{この}ほどより
約束{やくそく}したる〔こと〕につき。珍波楼{ちんぱらう}にて逢{あは}んとの文体{ふんてい}。見{み}るに
いよ〳〵腹立{はらたゝ}しく留守{るす}こそ僥倖{さいわひ}かくし置{おい}て。齟齬{まごつか}して
やらんものと腹黒{はらきたな}くも強六{ごうろく}はかの文{ふみ}を懐中{くわいちう}なし。そしら
ぬ顔{かほ}にて居{ゐ}る所{ところ}へ。足おと高{たか}く帰{かへ}る小春{こはる}「アヽ強六{ごうろく}さん
さぞお待遠{まちどほ}でありましたらう。鳥渡{ちよつと}友{とも}だちの所{とこ}へ寄{よ}ツ
たら留{とめ}られて。ツイ遅{おそ}くなりましたヨ。ヲヤまだ何{なに}も来{き}ません

(8ウ)
かへ」【強】「ナニどうで私{わた}しやア用{よう}のねへ体{からだ}。何時{いつ}までゝも寛{ゆる}りと
居{ゐ}なされば。いゝ。そしてアノ三谷{さんや}ヱヽ。ナニ〳〵何{なに}も来{き}はしないぜ」【はる】「
ホンニモウあすこの宅{うち}も等閑{ずるい}のふ。あら程{ほど}はやく越{よこ}しておくれと言{いつ}
て置{おく}のにモウ一ぺん往{いつ}て来{き}やうか」ト門口{かどぐち}よりさし覗{のぞ}くをり。料
理{りやうり}やの若{わかい}もの。岡持{おかもち}をさげ「ヘイ大{おほ}きに遅{おそ}くなりました」【はる】「
誠{ま〔こと〕}に待{まち}かねたヨ。そしてネおまへ帰{かへ}りがけに。三河{みかは}やへちよつと声{こゑ}
をかけておくれナ。こゝの宅{うち}はお払{はら}ひでもわるいさうで。みンなが
等閑{ずるける}ヨ。ヲホヽヽヽヽ」【男】「ハイ〳〵左様{さう}申ませう」ト立{たち}かへる。【強】「何{なん}だ

(9オ)
お春{はる}さん。それたからあれ程{ほど}断{〔こと〕}はつたのに。気{き}のどくな」【はる】「
ナニ誠{ま〔こと〕}に心{こゝろ}ばかりとやらで。何{なに}も甘味{をいしい}ものはないがネ。寒{さむ}い
から一口{ひとくち}あげやうと思{おも}つてサ。ヲヤ火{ひ}が消{きえ}かゝつたが。お茶{ちや}は
熱{あつ}うございますかへ」【強】「ヲヽよく沸{わい}て居{ゐ}ます」【はる】「そんなら
これを入{い}れておくんなはい」ト燗酒瓶{かんどくり}を強六{ごうろく}にわたし。鼠{ねすみ}
いらずから種{いろ}〳〵出{だ}して。強六{こうろく}が前{まへ}へ運{はこ}び【はる】「サア一{ひと}ツおあ
がんなはいヨ」【強】「ヱヽそんなら御馳走{ごちそう}にならうか。マア〳〵御
主女{ごていし}からお始{はじ}め」【はる】「左様{さやう}ならお燗{かん}を見{み}て」ト猪口{ちよく}に半

(9ウ)
分{はんふん}ほど次{つい}て飲{の}■強六{こうろく}にさす。是{これ}より酌{さし}つ酬{おさへ}つ。しばらく
酒宴{さかもり}のうち。いろ〳〵と咄{はな}しも有{あり}と知{し}るべし。【強】「アヽヤレ〳〵存{ぞんじ}がけ
なく。ゑらい御馳走{ごちそう}になりました。また何{いづ}れ近{きん}〳〵におれいに
来{き}ませう」【はる】「ヲヤいやだネ。お礼{れい}もないもんだ。モシ強六{ごうろく}さん。アノ
お吉{きつ}さ゜んにお逢{あひ}なら宜{よろ}しく申てお呉{くん}なはい。そして和之一{わのいち}
さんも健息{たつしや}かヱ」【強】「イヤぴん〳〵して居{ゐ}るのサ。しかし彼奴等{あいつら}ア。能{いゝ}
目{め}には逢{あは}ぬぞ。今{いま}もだん〳〵噺{はな}す通{とほ}り。餘{あん}まりな不人情{ふにんしやう}
もの。またお吉{きち}めが顔{かほツ}つきは艶{やさ}しい振{ふり}をして。根生{こんじやう}の太ヱ

(10オ)
と言{いつ}たら。咄{はな}しにやアならない奴{やつ}だ」【はる】「それでもおまはん一{ひ}ト
頻{しき}りは。|恋〻{のぼせ}てお在{いで}じやアないか」【強】「コレサまた人{ひと}をいぢめるヨ。
ありやア全体{ぜんたい}おまへが悪{わる}いからだ」【はる】「なぜ〳〵。何{なん}の私{わたし}が知{し}り
ますものか。可愛{かわい}そうに」【強】「イヤ左様{さう}でないのサ。おまへが先{せん}に
ムヽと言{いつ}てくれゝば。斯{かう}いふ思議{しぎ}にはならないものヲ。終{つひ}嫌{きら}は
れた悔{くや}しンぼうからして。|彼様奴{あいつ}に引{ひつ}かゝつて。つまらなく
なつたのだ」【はる】「左様{さう}聞{き}くと何{なん}だかお気{き}の毒{どく}のやうだけれど。私{わち}
きやア其{その}前{まへ}からして。今{いま}の紙治{かみぢ}さんの世話{せわ}になつて居{ゐ}ます

(10ウ)
もんだから。なんぼおまはんが信切{しんせつ}に言{いつ}てお呉{くん}なすツても
どうも左様{さう}はならない義理{ぎり}だから。詮方{しかた}がありませんものを」
【強】「イヤそれも理{もつとも}サ。みなわしが悪{わる}いからの事{〔こと〕}。アヽヤレ〳〵つまらぬ
〔こと〕を言出{いひだ}して。折角{せつかく}御馳走{ごちそう}の酒{さけ}が裡{り}におちた。モウ〳〵咄{はな}
しは止{よし}にしやせう。ヤヽ瓢蕩{うか〳〵}して居{ゐ}る間{うち}に。日{ひ}がとつぽり暮{くれ}
た。アヽしかし今夜{こんや}は斯{かう}と。五日{いつか}だから月{つき}が少{すこ}しあるな。よし〳〵。
ドレお暇{いとま}に仕{し}ませう」【はる】「夫{それ}じやアモウお帰{かへ}んなさるかへ。お引{ひき}
とめ申て。何{なん}にもなくツてお気{き}の毒{どく}でございましたねへ。亦{また}

(11オ)
此辺{こつち}の方{ほう}へお出{いで}なはツたら。チツトお寄{よん}なさいましヨ」【強】「イヤ左様{さう}
艶{やさ}しくいはれると。昔{むかし}をおもひ出{だ}して。何{なん}だか帰{かへ}りとも無{なく}なる」
【はる】「そんなら幾日{いつ}までもお出{いで}なはいナ」【強】「ハヽヽ。左様{さう}して見{み}たが
いゝ。紙治{かみぢ}さんにひどい目{め}に逢{あふ}だらう。ハヽヽヽ。ドレ帰{かへ}りませう」ト
滄〻{ひよろ〳〵}としてたち出{いで}たり。

第十八回
あふさきるさの八街{やちまた}に。賑{にぎ}はひまさる繁昌{はんじやう}の。土地{とち}といへども新
道{しんみち}小路{こうぢ}。あるひは火除{ひよけ}の明地{あきち}の辺{ほと}り。傍{かたへ}は屋{や}しきの板塀{いたべい}高{たか}く

(11ウ)
傍{かたへ}は堀{ほり}の水{みづ}漫〻{まん〳〵}と。往来{ゆきゝ}の稀{まれ}なる所{ところ}も多{おほ}かり。かくて強六{ごうろく}は
図{はか}らずも。お春{はる}が情{なさけ}に鬱情{うつじやう}を。直{たゞ}ちに晴{は}らす酒{さか}きげん。ぶら〳〵
帰{かへ}るむかふより。杖{つえ}突立{つきたて}て来{く}る人{ひと}を。誰{たれ}ぞと見{み}れば月蔭{つきかげ}の
|行黒{ほのくら}けれど紛{まが}ひなき。和之一{わのいち}法師{ほうし}なりければ。つか〳〵と立{たち}
よりて。言葉{〔こと〕ば}をかけんとおもひしが。二足{ふたあし}三足{みあし}跡{あと}へ踆巡{しさり}て。独{ひとり}
ほく〳〵点頭{うなづき}つゝ。やり過{すご}して後脊{うしろ}より。踊{をど}りかゝつて物{もの}もい
はず。懐{ふところ}へ手{て}をさし入{いる}れば。和之一{わのいち}は胆{きも}をつぶし【わの】「アヽレ盗賊{どろぼう}〳〵。
人殺{ひとごろ}し〳〵」ト叫{わめ}けど呼{よ}べど人{ひと}は来{こ}ず。杖{つえ}さへ其処{そこ}へふり捨{すて}て

(12オ)
強六{ごうろく}が腕{うで}をしつかと押{おさ}へ【わの】「アヽだれだ〳〵。何{なに}をするのだ。私{わたし}は
この通{とほ}りの廃人{かたわ}もの。銭{ぜに}も金{かね}も持{もつ}ては居{ゐ}ない。アヽゆるしてくれ
佐{たす}けてくれ」ト狂{くる}ひまはるを強六{ごうろく}は。たゞ一言{ひと〔こと〕}も物{もの}はいはず。膂力{ちから}に任{まか}
して捻倒{ねぢたふ}せば。元来{もとより}甲斐{かひ}なき小盲{こめくら}の。争{いか}で敵対{てきたう}べきな
らねば。其処{そこ}へ倒{たふ}れてわアイ[引]〳〵と。叫{わめ}くよりまた外{ほか}はなし。
其{その}間{ひま}に強六{ごうろく}は和之一{わのいち}が懐{ふところ}を。探{さぐ}りて引出{ひきだ}す胴巻{どうまき}に。多寡{たくわ}は
しれねどたしかに金{かね}。これさへあればと奪{うば}ひとり。往{ゆか}んと
するを把着{とりつく}和{わ}の一{いち}。「ヱヽめんどうな」と足{あし}を伸{のば}して。蹴{け}れば転{ころ}

(12ウ)
りと切崖{きりきし}より。堀{ほり}へ転{ころ}びて落{おち}たれど。幸{さいわ}ひにして引汐{ひきしほ}な
れば。半身{はんしん}泥{どろ}にうづもれても。命{いのち}にかゝる〔こと〕はなく。|汲干堀{かいぼり}されし
束鮒{つかふな}の。沼{ぬま}に息吻{いきつ}くごとくにて。身{み}を蠢{うごめ}かし居{ゐ}たりけり。強
六{ごうろく}は足{あし}ばやに。二三町{にさんてう}逃{にげ}さりて。かの胴巻{どうまき}より震{ふる}ひ出{だ}す。金{かね}
をば月{つき}にすかし見{み}て【強】「ハヽヽヽ。物{もの}の因果{いんぐわ}はあらそはれぬもの。|彼
奴等{あいつら}姉弟{きやうだい}して自己{おれ}を騙{だま}し。何{なん}だの角{か}だのと名{な}をつけて
貪{むさぼ}り取{とつ}たコレこの金{かね}。自然{しぜん}とまた自己{おれ}が手{て}へ。戻{もど}るといふは
奇妙{きめう}だ。ハヽヽヽ。物{もの}はあらそはれぬ理{わけ}だはへ。アノ座頭{ざとう}めが慾{よく}深{ふか}く

(13オ)
姉{あね}に預{あづ}けて置{おい}たらば。種{たね}なしにされやうかと。肌身{はだみ}離{はな}さぬ
といふ事{〔こと〕}は。頓{とう}から聞{きい}て居{ゐ}たばツかりで。まづ本銭{もとで}に有{あり}ついた。
ドレこれから身形{みなり}でもこしれへて。小春{こはる}を一{いち}ばん張{はつ}て見{み}やう
か。アいや〳〵〳〵。それよりは。身{み}の有付{ありつき}をするが宜{いゝ}かへ。ハヽヽヽ」ト只{たゞ}独{ひとり}
笑{え}みを含{ふく}みてその金{かね}を。懐中{くわいちう}してぞ急{いそ}ぎ行{ゆ}く。
作者曰 このお吉{きち}姉弟{きやうだい}が〔ごと〕きは。いと憎{にく}むべき凶児{わるもの}
なりといへども。人情{にんじやう}大概{おほむね}かくの〔ごと〕し。僅{わづか}の容緻{きりやう}を恃{たのみ}と
して。愚{おろか}なる漢士{をとこ}を誑{たぶら}かし。銭{ぜに}のある限{かぎ}りは是{これ}を貪{むさぼ}り

(13ウ)
銭{ぜに}尽{つく}るときは忽地{たちまち}讐敵{あだがたき}の如{〔ごと〕}くなりて。或{ある}ひは謗{そし}り
あるひは辱{はぢ}しめ。終{つひ}にその赤縄{えにし}を切{きつ}て。また他{ほか}の財主{かねもち}
を騙{だま}さんと計較{もくろむ}。嗚呼{あゝ}歎{なげ}くべし。不義{ふぎ}の富貴{ふうき}は浮{うか}
める雲{くも}の〔ごと〕しといふ。道{みち}ならずして得{え}たるものは。速{すみやか}に失{うし}
なふべし。然{さ}れど一旦{いつたん}の富貴{ふうき}を羨{うら}やみて。間〻{まゝ}此{この}境
界{きやうがい}を佳{よし}とする少女{をとめ}あれど。各{おの〳〵}その往{ゆく}すゑ善{よか}らずして
不慮{はからざる}の憂目{うきめ}を見{み}るもあるべし。既{すで}に和之一{わのいち}がかゝる憂
目{うきめ}を見{み}るも。姉{あね}の因果{いんぐわ}のめぐれるなり。人〻{ひと〴〵}要心{えうじん}なし

(14オ)
給へと。いらざる作者{さくしや}がさし出口{でぐち}も。善{ぜん}を善{ぜん}とし悪{あく}を
悪{あく}とし。あるひは因果{いんぐわ}の道理{どうり}を説{とい}て。幼{おさな}き児等{こら}の導{みちびき}
とするは。文{ふみ}を作{つく}るの肝要{かんえう}と。昔性質{むかしかたぎ}は流行{りうかう}に。後{おくれ}
馳{ばせ}なる故人{こじん}の尻馬{しりうま}。乗地{のりぢ}になつて筆{ふで}を下{くだ}すも
諺{〔こと〕はざ}にいふ老婆心{らうばしん}なるべし。
名{な}にしおはゞいざこととはん都鳥{みやこどり}。それは昔{むかし}となり平{ひら}の
故事{ふる〔こと〕}おもふ川{かは}の面{おも}。棹{さほ}さす筏{いかだ}苫{とま}ふく船{ふね}。山谷{さんや}通{がよ}ひの猪
牙{ちよき}の中{うち}。夜露{よつゆ}に濡{ぬ}るゝ唐草{からくさ}の。蒲団{ふとん}をかふるも恋{こひ}の道{みち}

(14ウ)
手{て}れん手管{てくだ}のあやせ川{がは}。雪{ゆき}の白髭{しらひげ}牛{うし}じまも。一{ひ}ト目{め}に
見{み}ゆる楼{たかどの}に。酒{さけ}くみかわす二人{ふたり}の客{きやく}は。是{これ}紙治{かみぢ}とおたきなり。
【治】「モウ来{き}そうなもんだなア」【たき】「ヘンおまはんが其様{そんな}にまち
兼{かね}てお出{いで}でも。先{さき}じやア何処{どこ}を風{かぜ}が吹{ふく}かと思{おも}つて居{ゐ}ませう
ヨ。トいふと矢張{やつぱり}痴未練{こけみれん}で。嫉妬{やきもち}のやうに聞{きこ}へますねへ。ホヽヽヽ。
ナニネ女{をんな}といふものは。鳥渡{ちよつと}出{で}るにも。何{なん}だの角{か}だのと手間{てま}が
とれるから遅{おそ}うございますのサ」【治】「イヤ遅{おそ}いにも程{ほど}があらア。
此間{こないだ}も左様{さう}言{いつ}て聞{きか}せて置{おい}て。昨日{きのふ}わざ〳〵其{その}事{〔こと〕}を言{いひ}に

(15オ)
行{いく}と留守{るす}だから。置手翰{おきてがみ}をして置{おい}て。また今日{けふ}も迎{むか}ひに
やつたのだア。夫{それ}に来{こ}ねへといふなア一円{いちゑん}わからねへ」ト言{いひ}なが
ら酒坊{さかや}の女{をんな}にむかひ【治】「コウ先刻{さつき}白川町{しらかはてう}へ使{つかひ}に往{いつ}た人{ひと}に
ちよつと逢{あひ}てへもんだノ」【治】「ヲヽ
おめへ使{つかひ}に往{いつ}てくれた人{ひと}か。大{おほ}きに御苦労{ごくらう}だつた。マア一{ひと}ツ飲{のみ}ねへ。
コウおたき何{なん}ぞ殽{さかな}を」【男】「ヘイ〳〵。自由{じゆう}にいたゞきます」【治】「トキニ
白川町{しらかはてう}の小春{こはる}か所{ところ}じやア何{なん}と言{いひ}やしたへ」【男】「ヘイ何{なに}か三十|余{よ}
のお侍{さむらひ}さまが。お手翰{てがみ}を受取{うけとり}まして。ちよつと近所{きんじよ}まで往{いつ}た

(15ウ)
から。帰{かへ}つたら遣{や}りませうと申す御挨拶{ごあいさつ}でござります」【治】「フムヽ
それぢやア当人{とうにん}は留守{るす}だツたネ」【男】「ヘイ左様{さやう}でございます」【治】「ハテナ
何処{どこ}へ往{いつ}たか。そしてその侍{さむらひ}といふなア。何様{どん}な風{ふう}だへ」【男】「ハイ今{いま}
も申|通{とふ}り。三十才余{さんじふよ}の色{いろ}の白{しろ}イ。なんでも御家中衆{ごかちうし}と見{み}へます」
【治】「どうも其様{そん}な人{ひと}に知己{ちかづき}はねへ筈{はづ}だが」ト眉{まゆ}をひそめて
考{かん}がへる。【たき】「サア〳〵旦那{だんな}。気{き}が揉出{もめだ}した。ホヽヽヽ。そりやア小{こ}はる
さんの間夫{まぶ}にちがひないヨ。全体{ぜんたい}おやしき出{で}だといふ〔こと〕たから
大{おほ}かたむかしのお馴染{なじみ}でございませうヨ。ホヽヽヽ」【男】「まさか好男{いろをとこ}

(16オ)
といふやうなお方{かた}でもございません。ハヽヽヽ」【たき】「そりやアおまへ
左様{さう}お言{いひ}だけれど。見{み}た所{ところ}はおかアしな人{ひと}でも。艶{やさ}しくつて
実{じつ}があれば能{いゝ}はネ。男{をとこ}が好{よ}くツて金{かね}があつて。程{ほど}もいゝが邪
見{じやけん}で実{じつ}のない人{ひと}もありますは」ト紙治{かみぢ}をじろりと。横顔{よこがほ}
で見{み}る。【治】「なんだ。可笑{おかし}な眼{め}ツつきをするの。今{いま}言{いつ}たのは自己{おれ}
が事{〔こと〕}か。そりやア餘{あん}まり情{なさけ}ねへ御託宣{ごたくせん}だぜ」【たき】「ナアニおま
はんは左様{さう}じやアありませんか。他{ほか}に其様{そん}な人{ひと}があるといふ咄{はな}
しでございますヨ」【治】「ムヽ左様{さう}か。そんなら宜{いゝ}けれど。実{じつ}に左様{さう}

$(16ウ)
瓦{かはら}やく煙{けふり}も
花{はな}に
なびきけり

$(17オ)
おたき
かみ治

(17ウ)
いはれちやアお情{なさけ}ねへ」【男】「へヽヽヽヽ。旦那{だんな}一{ひと}ツさしあげませう。そし
て何{なん}なら最{もう}一遍{いつへん}往{いつ}て参{まい}りませうか」【治】「ナアニ来{こ}ざア来{こ}
ねへで打捨{うつちやつ}ておきねへ。近{ちけ}ヱ所{とこ}じやアあるめへし。馬鹿{ばか}〳〵しい」
【たき】「左様{さう}被仰{おつしやら}ないで。往{いつ}てお貰{もら}ひなはいな」【治】「ナニ〳〵宜{いゝ}に
仕{し}やうヨ。ホンニつまらねへ女{あま}だなア」【たき】「ヲヤ怖{こわ}い。何{なん}の咎{とが}もない
ものを。女{あま}呼{よば}りをしてサ。きつい急腹{きふばら}だネ。私{わち}きやア其様{そんな}に口穢{くちきた}
なくいはれる罪{つみ}はしませんヨ」トつんとすねるも酒{さけ}のうへ。了張
差{れうけたが}ひ行差{ゆきちが}ひは。誰{た}が身{み}の上{うへ}にもある事{〔こと〕}と。可笑{おかし}さを腹{はら}に

(18オ)
堪{こら}へて【治】「ホイこれはしたり。おめへの事{こつ}ちやアねへはな。餘{あん}まり行過{いきすぎ}
て。川{かは}へでもおツこちなさんな」【たき】「アイサ。其{その}おツこちもモウ流
行{りうかう}におくれたからつまりません」【治】「其様{そんな}にいふと。どうか実
情{ほんとう}に腹{はら}を立{たつ}たやうでわりい。マア〳〵一{ひと}ツ飲{のみ}ねへ。ナント是{これ}から気{き}を
替{かえ}て。何処{どこ}ぞへ往{いつ}て呑直{のみなほ}さうじやアねへか」【たき】「アヽ白川町{しらかはてう}へ
でも往{いつ}て呑{の}むサ」【治】「左様{さう}ヨ。訳{わけ}がわからねへから往{いつ}て見{み}やうか。
おめへも往{いき}ねへナ」【たき】「御免{ごめん}なはい。未練{みれん}らしく彼処{あすこ}まで着{つい}
て往{いつ}て。おまはん達{たち}の恋情{のろけ}をうけて居{ゐ}られますものか。そし

(18ウ)
て私{わち}きが同道{いつしよ}に往{いつ}てはわるうございます」【治】「なぜ〳〵」【たき】「な
ぜと言{いつ}ておまはん。今日{けふ}お春{はる}さんの来{こ}ないのは。お前{まへ}のおいひ
の通{とほ}り私{わちき}と姉妹分{きやうだいぶん}になるのは否{いや}だからだはネ」【治】「ナニ左様{さう}
じやアねえヨ。此間{こないだ}もその事{〔こと〕}はよく談{だん}じて。篤心{とくしん}して居{ゐ}たンだものを。
是{これ}にやア何{なに}か訳{わけ}があるだらうと思{おも}ふヨ」【たき】「そりやア訳{わけ}が有{あり}
ますのサ。お春{はる}さんの了張{れうけん}じやア。何{なん}ぼおまはんが左様{さう}お云{いひ}でも
私{わちき}と奇麗{きれい}に別{わか}れる事{こつ}ちやアない。生中{なまなか}姉妹分{きやうだいぶん}なンぞになると
物事{もの〔ごと〕}めんとうだから。逃{にげ}て居{ゐ}て私{わちき}と皃{かほ}をあはせない方{はう}が

(19オ)
宜{いゝ}。その間{ひま}にやア自我{てん〴〵}の気{き}に合{あつ}た人{ひと}と。酒{さけ}でも飲{のん}でたの
しんで居{ゐ}る方{はう}が気{き}がきいてゐるといふ風{ふう}だアネ」【治】「ナニまさか
其様{そん}な奴{やつ}でもねへのス」【たき】「ヘンおまへさんは飽{あく}まであの娘{こ}に
惚{ほれ}ぬいてお在{いで}だから。悪{わる}い事{〔こと〕}は眼{め}に見{み}へない筈{はづ}サ。ほんに斯{かう}
いふと愚痴{ぐち}らしく聞{きこ}へませうが。何{なん}でも意地{いぢ}のわるいもん
で。艶{やさ}しく実{じつ}を尽{つく}されると否{いや}になり。邪見{ぢやけん}にされると猶{なほ}
〳〵可愛{かわい}くなるといふのが人情{にんじやう}かねへ。なぜと言{いつ}て御覧{ごらん}な
はい。私{わちき}が種{いろ}〳〵気{き}を揉{もん}で。実{じつ}は尽{つく}さなくツても。今{いま}まで不実{ふじつ}

(19ウ)
をした事{〔こと〕}はないのを否{いや}がつて。お春{はる}さんの様{やう}に邪見{じやけん}でそ
して不実{ふじつ}な浮薄{うはき}ものは。何{なん}だの角{か}だのと道理{どうり}を付{つけ}て。可
愛{かわい}がつておあげだヨ。それでも今日{けふ}は誠{ま〔こと〕}に能{いゝ}〔こと〕が一箇{ひとつ}有{あり}
ますは。お爺{とつ}さんが自己{おれ}も一所{いつしよ}に往{いか}うかと言{いひ}ましたのを
私{わちき}が。ナアニおまへはお出{いで}でなくつても能{いゝ}ヨ。紙治{かみぢ}さんがアヽお言{いひ}
だから。間違{まちがひ}もあるまいし。却{かへつ}ておまへがお出{いで}だと。お春{はる}さんが
悪{わる}からうからと言{いつ}て。連{つれ}て来{こ}ないからまだしも宜{よい}はネ。是{これ}
でお爺{とつ}さんが此処{こゝ}へ一所{いつしよ}に来{き}てゐて御覧{ごらん}なはい。なんぼ親

(20オ)
子{おやこ}の中{なか}でも。何様{どんな}に気{き}の毒{どく}でありませう」ト声{こゑ}うるませ
てのお滝{たき}が怨言{ゑんげん}。何{なに}と回答{いらへ}もながら川{がは}。鵜舟{うぶね}の綱{つな}の
縺{もつ}れをば。いひ解{とく}〔こと〕もしら髭{ひげ}の。森{もり}をながめて紙治{かみぢ}が
溜息{ためいき}。その座{ざ}しらけて見{み}へにけり。
是{これ}より後{のち}巻中{くはんちう}の顛末{てんまつ}。千変{せんべん}无量{むりやう}の趣向{しゆかう}ありと
いへども。張数{ちやうすう}限{かぎ}りありてこゝに終{をは}る。引{ひき}つゞき四篇{しへん}を
出板{しゆつはん}して。大尾{たいび}まで不残{のこらず}御覧{ごらん}に入{いれ}候。ひとへに御評判{ごへうばん}を希{こひねが}ひ
奉り候。
花の志満台三編巻之下終


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底本:国立国語研究所蔵本(W99/Sh96/3、1002334546)
翻字担当者:杉本裕子、松川瑠里子、藤本灯
更新履歴:
2015年10月1日公開
2017年10月5日更新
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修正箇所(2017年10月5日修正)
(11ウ)6 後背{うしろ} → 後脊{うしろ}

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