日本語史研究用テキストデータ集

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比翼連理花廼志満台ひよくのれんりはなのしまだい

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三編中

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比翼連理花迺志満台 三編中

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凡例
1.本文の行移りは原本にしたがった。
2.頁移りは、その丁の表および裏の冒頭において、丁数・表裏を括弧書きで示した。また、挿絵の丁には$を付した。
3.仮名は現行の平仮名・片仮名を用いた。
4.仮名のうち、平仮名・片仮名の区別の困難なものは、現行の平仮名に統一した。ただし、形容詞・副詞・感動詞・終助詞・促音・撥音・長音・引用のト等に用いられる片仮名については、原表記で示した場合がある。 〔例〕安イ、モシ、「ハイそれは」ト、意気だヨ、面白くツて、死ンで、それじやア
5.漢字は現行の字体によることを原則としたが、次のものについては原表記に近似の字体を用い、区別した。「云/言」「开/其」「㒵/貌」「匕/匙」「吊/弔」「咡/囁」「哥/歌」「壳/殻」「帒/袋」「无/無」「楳/梅」「皈/帰」「艸/草」「計/斗」「弐/二」「餘/余」
6.繰り返し符号は次のように統一した。ただし、漢字1文字の繰り返しは原本の表記にしたがい、「〻」と「々」を区別して示した。
 平仮名1文字の繰り返し 〔例〕またゝく、たゞ
 片仮名1文字の繰り返し 〔例〕アヽ
 複数文字の繰り返し 〔例〕つら〳〵、ひと〴〵
7.「さ」「つ」「ツ」に付く半濁点符は「さ゜」「つ゜」「ツ゜」として示した。
8.Unicodeで表現できない文字は〓を用いた。
9.句点は原本の位置に付すことを原則としたが、文末に補った場合がある。
10.合字は〔 〕で囲んで示した。 〔例〕殊{〔こと〕}に、なに〔ごと〕、かねて〔より〕
11.傍記・振り仮名は{ }で囲んで示した。 〔例〕人生{じんせい}
12.左側の傍記・振り仮名の場合は、冒頭に#を付けた。 〔例〕めへにち{#毎日}
13.傍記・振り仮名が付く位置の紛らわしい場合、文字列の始まりに|を付けた。 〔例〕十六|歳{さい}
14.原本に会話を示す鉤括弧が付いていない場合も、これを補い示した。また庵点は〽で示した。
15.原本にある話者名は【 】で示した。 〔例〕【はる】
16.割注・角書および長音符「引」「合」は[ ]で囲んで示した。
17.不明字は■で示した。
18.原本の表記に関する注記は*で行末に記入した。 〔例〕〓{たど}りて*〓は「漂+りっとう」
19.花押は〈花押〉、印は〈印〉として示した。
20.画中文字の開始位置に〈画中〉、広告の開始位置に〈広告〉と記入した。

本文の修正
1.翻字本文を修正した場合には、修正履歴を末尾に示す。
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(1オ)
[比翼{ひよく}連理{れんり}]花{はな}迺{の}志満台{しまだい}第三編{だいさんへん}巻之中
東都 松亭金水編次
第十五回
【琴うた】「蕗{ふき}といふも草{くさ}の名{な}。茗荷{めうが}といふも草{くさ}の名{な}。富貴{ふき}自在{じざい}
徳{とく}ありて冥加{めうが}あらせ給へや。コロリンシヤン。」【おきち】「和{わ}のや今{いま}帰{かへ}つたヨ。
サアおまへも稽古{けいこ}に往{いき}な。アヽ大{おほ}きに遅{おそ}くなつた」【わの】「餘{あん}まり
退屈{たいくつ}したから。チツト復{さら}ひを始{はじ}めました」【吉】「アノ強六{ごうろく}野郎{やらう}は
来{こ}なんだかへ」「アイ先刻{さつき}来{き}ましたが。私{わた}しやア口{くち}も利{きか}ずに琴{〔こと〕}

(1ウ)
を弾{ひい}て居{ゐ}たもんだから。久{ひさ}しく火鉢{ひばち}の傍{そば}に居{ゐ}たツけが姉{あね}さんは
何処{どこ}へ往{いつ}たといふから。アイ今朝{けさ}出{で}かけましたが何処{どこ}へ往{いき}まし
たかしりませんと。言{いつ}たツきりで打捨{うつちやつ}て置{おい}たもんだから些{ちつと}腹{はら}
でも立{たつ}た様子{やうす}で。無言{だまつ}て出{で}て往{いき}やした」【吉】「左様{さう}か。また大{おほ}
かた借{かり}にでも来{き}たンだらう。誠{ま〔こと〕}にうるせへつツちやアねへ。ナニ*「うるせへつツ」の「つ」は衍字
人{ひと}を金{かね}を遣{つか}ひ過{すぎ}て。屋{や}しきから暇{いとま}が出{で}たツて。自己{おいら}が知{し}つた
事{〔こと〕}じやアあるめへし。勿論{もちろん}そりやア。自己{おいら}にも帯{おび}だの上着{うはぎ}だの
と。些{ちつと}こしれへて呉{くれ}た物もあるけれど。そりやア当{あた}りめへだ。

(2オ)
あんな野郎{やらう}に。だれが只{たゞ}婬戯{なぐさま}れる奴{やつ}があるものか。ノウ和之{わの}
さん」【わの】「アイそりやア左様{さう}たけれど。アノ人{ひと}も金{かね}のあるうちは
ヤレコレと言{いつ}て。今{いま}つまらなくなつたつて。構{かま}ひつけねへやうに
するのも。餘{あん}まり気{き}の毒{どく}らしいけれど。おまへが分附{いひつけ}だから
私{わた}しやア来{き}てもかまはずにおきますヨ」【吉】「アヽそれが宜{いゝ}のサ。ばか〳〵
しい」ト咄{はな}し半{なかば}へ門口{かどぐち}を明{あけ}て入来{いりく}る畝山{うねやま}強六{ごうろく}。むかしの容{さま}には引{ひき}
かえて。肩{かた}の破{やぶ}れし藍上田{あいうへだ}。縞{しま}さへ見{み}へぬ汚{よご}れた羽折{はをり}。むかし
忍{しの}ぶの黒羽二重{くろはぶたへ}。小袖{こそで}の膝{ひざ}に針目{はりめ}だつ。裾{すそ}はみるめの〔ごと〕

(2ウ)
くにて。紋{もん}の所{ところ}は魯黒色{にびいろ}なり。【強】「ホウお吉{きち}帰{かへ}つたか」【吉】「アイ
今{いま}帰{かへ}りました。おまへ先刻{さつき}も来{き}なすツたそうだが。又{また}お出{いで}か。
何{なん}ぞ用でもあるのかへ」【強】「ナニさしたる用{よう}もねへが。久{ひさ}しく逢{あは}
ないから。ぶら〳〵と出{で}かけたのサ。此{この}中{ぢう}も来{き}たら錠{ぢやう}がおりて
居{ゐ}たが。今日{けふ}また留守{るす}じやといふ事{〔こと〕}。此{この}頃{ごろ}は何{なん}ぞおもしろい
事でも出来{でき}たかして。兎角{■■く}留守勝{るすがち}じやな」【吉】「なぜへ。何{なに}も
おもしろい事{〔こと〕}はないが。私{わたし}だツても色{いろ}〳〵用{よう}があるから。出歩行{であるき}
もするのサ。なぜ出{で}せへすりやア。おもしろいのかへ。ヲホヽヽヽ。おかしい

(3オ)
〔こと〕をお言{いひ}だねへ。そしてまた私{わたし}を養{やし}なツてでもおきやア
しまいし。何{なに}を仕{し}ても宜{いゝ}じやアないかへ。大{おほ}きにお世話{せわ}だ」ト
冷笑{あざわら}へば強六{ごうろく}は。火鉢{ひばち}の傍{そば}へずつと居{すは}り【強】「これヱ。大
概{てへげへ}に㖧{しやべ}つて居{ゐ}ろヱ。おれも屋{や}しきに居{ゐ}る時{じ}ぶんにやア
時{とき}〴〵に気{き}をつけて。ヤレ斯{かう}いふ着物{きもの}が欲{ほし}いノ。斯{かう}いふ帯{おび}が
欲{ほし}いのといふときにやア。それ〳〵に拵{こし}れへてやつた事も
あり。米{こめ}の銭{ぜに}から店賃{たなちん}から。一切{いつさい}自己{おれ}が賄{まか}なつて。夫{それ}から
後{のち}は髪結{かみゆひ}に出る〔こと〕も止{やめ}たじやアねへか。勿論{もちろん}退糧{らうにん}して

(3ウ)
から後{のち}は何{なん}とおもつても械{かい}がまはらず。手{て}めへの世話{せわ}に
なつた事も有{ある}とはいふものゝ。手前{てめへ}ゆゑに実{じつ}はやしきから
暇{いとま}も出た理{わけ}。些{ちつと}やそつと貢{みつい}だツても。さのみ恩{おん}でもあるめへス。
それにこの頃{ごろ}はつん〳〵して。邂逅{たま〳〵}来{く}りやア怖{こわ}い皃{かほ}で。出{で}
て行{いけ}がしに会釈{あしらふ}とは。餘{あん}まりな義理{ぎり}しらず。なんぼ女{をんな}でも
それじやア済{すむ}めへ」【吉】「ヘンおかアしな〔こと〕をお言{いひ}だねへ。マアよく
積{つも}つてお見{み}な。傍{そば}に弟{をとうと}を置{おい}ちやア。ちつと言{いひ}にくい事{こつ}たけれ
ど。私{わたし}のやうなものでも。彼是{かれこれ}と言{いつ}ておくれだから。いつそお

(4オ)
まへに身{み}を任{まか}せたなら。暑{あつ}イ寒{さむ}イに其処等{そこら}をかけ
廻{まは}つて。いきれツ臭{くせ}へ天窓{あたま}の匂{にほ}ひを嗅{かい}で。三十や四十の
銭{ぜに}をとつて歩行{あるく}より。増{まし}だらうかと思{おも}つて。おまへの世
話{せわ}になつて居{ゐ}たが。今{いま}斯{かう}なつて見{み}ちやア。元{もと}の得意
場{とくひば}は不残{みんな}無{なく}なつて仕舞{しまふ}し。猶{なほ}〳〵つまらない所{とこ}へ。一文{いちもん}
なしでしけ込{こま}れちやア困{こま}るから。ツイ顔{かほ}へも出{で}るかアしら
ないが。おまへもまた。なんぼつまらなくなつたツても。女{をんな}の痩腕{やせうで}
を当{あて}にして。来{く}る〔こと〕もないじやアないかネ。ばか〳〵しい。たとへ退

(4ウ)
糧{らうにん}したツて。おまへの様{やう}に梵論{ぼろ}〳〵になる人{ひと}も。ないものだねへ。
餘{あん}まり働{はたら}きがないじやアないか。是{これ}から何様{どう}かして工面{くめん}でも
能{よく}なツたらお出。其様{そんな}形容{なり}をして来{き}ておくれでない。近
所{きんじよ}の前{めへ}も外聞{ぐわいぶん}がわりいはね」【強】「ヱヽこの女{あま}めは。よくぺら〳〵と
愛想{あいそ}づかしを言{いひ}をるなア。いゝは来{く}るなといふなら来{こ}めへ。
ホンニ手{て}めへの様{やう}な欲{よく}ばりの。義理{ぎり}しらずを見{み}た事{〔こと〕}はねへ」
【吉】「またおめへのやうなものに。義理{ぎり}を立{たて}る奴{やつ}が有{ある}ものか。畢
竟{ひつきやう}些{ちつ}たア。小銭{こぜに}でも遣{つか}へばこそ。フム〳〵と御機嫌{ごきげん}をとつて

(5オ)
居{ゐ}るンだア。銭{ぜに}のねへ人{ひと}に義理{ぎり}を立{たて}るなア。当時{たうじ}流行{はやり}ま
せん」【強】「ホンニ不届{ふてへ}畜生{ちくしやう}めだなア。ふつ〳〵愛想{あいそ}のつきた女{あま}
だア」【吉】「フン其方{そつち}でも愛想{あいそ}がつきたらうが。此方{こつち}でも愛想{あいそ}がつ
きたヨ。サア〳〵お帰{かへ}り〳〵」【強】「帰{かへ}れといはねへでも帰{けへ}るはへ」ト了得{さすが}の
強六{ごうろく}先刻{せんこく}より。お吉{きち}が雑言{ざうごん}胸{むね}にすえかね。掴{つか}みつかんと
おもへども。じつと堪{こら}へて立{たち}あがるを。側{そば}に聞居{きゝゐ}る和之一{わのいち}が
気{き}の毒{どく}がりて裾{すそ}をおさへ【わの】「マア強六{ごうろく}さん宜{よう}ございます
はな。姉{あね}は御存{ごぞんじ}の通{とほ}り我儘{わがまゝ}な性質{うまれつき}。さぞお気{き}にもあたり


$(5ウ)
よしきりの耳{みゝ}にうるさき月夜{つきよ}かな
ごう六

$(6オ)
おきち
和の一

(6ウ)
ましたらうが。それは私{わたし}が誤{あや}まります。どうぞ御了張{ごれうけん}をな
すつて下{くだ}さいまし」【強】「ナニ和之{わの}かまひなさんな。自己{おれ}もむかしと
違{ちが}つて。斯{かう}いふ身{み}に成{なつ}たから。愛想{あいそ}をつかされるのも固来{もとより}承
知{しやうち}。また此処{こゝ}の宅{うち}にかゝつて居{ゐ}て。世話{せわ}になる気{き}はなし。ナニ帰{けへ}
りやす。はなしなせへ」ト無理{むり}に振{ふり}きり出{で}てゆけば。跡{あと}でお吉{きち}は
せゝら笑{わら}ひ【吉】「ホンニ智慧{ちゑ}のねへべらぼうじやアねへか。ナンノ
おめへも留{とめ}だてをする事があるものか」【わの】「それでもあん
まり気{き}のどくだからサ」【吉】「ヘンそりやア人{ひと}によりけりサ。なんの

(7オ)
あんな野郎{やらう}を」ト傍若无人{ばうじやくぶじん}に罵{のゝし}りて【吉】「サア〳〵おまへも
稽古{けいこ}に出{で}なせへ。私{わたし}もまだ往{いく}ところがあるから」ト和之一{わのいち}を
急立{せきたて}つゝ。門{かど}を鎖{とざ}して出{いで}てゆく。心{こゝろ}のほどぞ浅{あさ}ましき。
こゝに彰{あら}はすお吉{きち}が〔ごと〕きは。いと憎{にく}むべきの淫婦{いんふ}
なれども。かゝる類{たぐ}ひは世間{せけん}に多{おほ}し。人{ひと}の零落{おちめ}にいたる
とき。義理{ぎり}を弁{わき}まへ。情{なさけ}を知{し}るは稀{まれ}なるべし。近世{ちかごろ}
流行{りうかう}の囲女{かこいもの}の〔ごと〕き。たゞ金銭{きんせん}を得{う}るためなれば
実情{じつじやう}のあるべき理{わけ}なし。それに溺{おぼ}れて身{み}を顧{かへ}りみ

(7ウ)
ざるは。愚{ぐ}の甚{はな}はだしといふべきか。仮初{かりそめ}の戯作{けさく}な
がらも。看官{みるひと}心{こゝろ}をし給へかし。
面楫{おもかぢ}採楫{とりかぢ}寝{ね}ながらに。耳{みゝ}をつらぬく楼{たかどの}は。こゝぞ賑{にぎ}はふ
枝橋{えだばし}の。川岸{かし}を一目{ひとめ}に南{みなみ}むき。日{ひ}あたりのよき奥二階{おくにかい}。細
目{ほそめ}にあけし障子{しやうじ}さへ。内{うち}やゆかしき玉簾{たまだれ}の。こがめやいづら
こゆるぎの。五十{いそじ}にちかき主{あるじ}の鬼勝{おにかつ}。椽{えん}のほとりに手{て}を又{こま}
ぬき。折{をり}〳〵仰向{みあぐる}二階{にかい}のかた。物{もの}あんじなるその体相{ていさう}。をり
から二階{にかい}で吹壳{ふきがら}をはたく灰吹{はいふき}の音{おと}トン〳〵〳〵。【おたき】「おま

(8オ)
はんは左様{さう}おいひだけれと。私{わちき}はどうも承知{しやうち}されま
せんは。なぜと言{いつ}て御覧{ごらん}なはい。元{もと}よりまたアノ小春{こはる}さんに
そらほど惚{ほ}れて居{ゐ}て。女房{にようぼう}に仕{し}ないけりやアならないと
いふ義理{ぎり}があるくらゐなら。何{なに}も私{わちき}を此様{こな}に迷{まよ}はせない*此様{こな}は此様{こんな}の脱字か
が能{いゝ}じやアないかネ。夫{それ}ともおまはんが。是非{ぜひ}左様{さう}しな
くツちやアならないといふ事{〔こと〕}なら。勝手{かつて}にをしなさい。私{わち}
きやア鎌倉{かまくら}へ往{いつ}て。尼{あま}にでもなります。どうしてあの
娘{こ}と姉妹分{きやうだいぶん}になつて居{ゐ}られるものか。左様{さう}して他{ほか}の

(8ウ)
男{をとこ}と寝{ね}るのは否{いや}〳〵」【紙治】「ハテ分{わか}らねへ〔こと〕を云{いふ}もンぢやア
ねへか。おめへにも似合{にあは}ねへ。何{なに}も自己{おれ}がお春{はる}に惚{ほれ}て居{ゐ}る
から。斯{かう}いふ理{わけ}じやアねへが。今{いま}さらあれを捨{すて}て見{み}ちやア
どうも夫{それ}ゆへに自殺{じさつ}までした。爺{とつ}さ゜んの前{めへ}へ済{すま}ずサ。と云{いつ}
て彼女{あれ}を本妻{ほんさい}にして。おめへを妾{めかけ}に仕{し}やうといつた処{ところ}が
人{ひと}の妾{めかけ}側女{てかけ}になる気{き}はねへと言{いふ}だらう。左様{さう}して見{み}る
と。何{いづ}れ押付{おつゝか}ねへ理{わけ}だから。いつその事{〔こと〕}奇麗{きれい}に別{わか}れて
其{その}かはりにやア。自己{おれ}がたとへ。借銭{しやくせん}を質{しち}に置{おい}ても。見苦{み■とも}

(9オ)
なくねへやうに。おめへを縁付{かたづけ}てやらうといふのだから
自己{おれ}が心根{こゝろいき}をも。汲{くみ}わけてくれねへじやア。情{なさけ}ねへといふ
もんだ」【たき】「アレサ左様{さう}縡{〔こと〕}をわけておいひのを。私{わちき}がだゞ
ツ子{こ}のやうに。否{いや}だア〳〵と。強情{ごうじやう}をいふのじやアないがね
なるほど初{はじ}めは鳥渡{ちよつと}した浮薄{うはき}から。出来{でき}た理{わけ}だけれ
ど。段{だん}〳〵深{ふか}くなるにつけちやア。おまへと末{すゑ}かけて約束{やくそく}を
した事{〔こと〕}もあり。夫{そ}りやア兎{と}も角{かく}も。先頃中{いつかぢう}から爺{ちやん}も能{よく}
知{し}つて居{ゐ}て。此間{こないだ}もいふにやア。手めへは能人{いゝひと}にひゝきに

(9ウ)
されて僥倖{しあはせ}だ。なるほど紙治{かみぢ}さんといふ人{ひと}は男{をとこ}は好{よし}金{かね}は
あり。艶{やさ}しくツて直朴{すなほ}で。そして万事{ばんじ}によく往{いき}わたつて
あんな弱官{わかいもの}は今時{いまどき}はめづらしい。何様{どう}ぞ手{て}めへもあんな
人{ひと}を良人{ていし}にして暮{くら}しやア。一生{いつしやう}安{あん}らくだ。勿論{もちろん}左様{さう}いふと
金{かね}に目{め}をくれるやうだけれど。自己{おれ}はまた痩{やせ}ても枯{か}れても
枝橋{えだばし}はおろか。川内{かはうち}で鬼勝{おにかつ}と言{いつ}ちやア。誰{たれ}知{し}らねへものも
ねへ。漢士{をとこ}になつて居{ゐ}るから。たとへ手{て}めへを万万両{とちまんりやう}の分限{ぶげん}へ
呉{くれ}たからと言{いつ}て。銭{ぜに}五文{ごもん}でも無心{むしん}合力{かうりよく}がましい事{〔こと〕}をいふ

(10オ)
気{き}はねへが。手{て}めへは女{をんな}の事{〔こと〕}。それにたつた一人{ひとり}の児{こ}だ
から。何卒{とうぞ}彼様{あん}な人{ひと}に配{そは}して安堵{あんど}してへと言{いは}れた時{とき}
にやア。私{わち}きやア何様{どんな}に嬉{うれ}しかつたらう。左様{さう}すると。サア
さつはりおまへが来{こ}なくなつたもんだから。爺{ちやん}もちつと不
測{ふしぎ}をうつて。私{わちき}のやうな我儘{わがまゝ}ものだから。何{なに}かおまへさんの
気{き}にいらない事{〔こと〕}でも。出来{でき}たらうと思{おも}ふ容子{ようす}で。此間{こなひだ}も言{いふ}
にやアこの頃{ごろ}は紙治{かみぢ}さんが。久{ひさ}しく見{み}へねへ。何{なん}ぞ腹{はら}でも
たゝせやアしないか。先頃{いつか}もいふ通{とほ}りだから。大事{だいじ}にしろヱト

(10ウ)
苦〻{にが〳〵}しい顔{かほ}をして言{いは}れたときは。私{わち}きやア何様{どう}仕{し}やうと
思{おも}つたヨ。それから餘{あん}まり業腹{がうはら}でならないから。此間{こないだ}小春{こはる}
さんの所{ところ}を。漸{よう}やくたつねて往{いつ}て。おまへが居{ゐ}たら掴{つか}み付{つい}て
あげやうと思{おも}つたら。居{ゐ}ないから。悔{くや}しまぎれに。色{いろ}〳〵な事{〔こと〕}を
言{いひ}ちらかして帰{かへ}つたが。大{おほ}かた小春{こはる}さんが跡{あと}で咄{はな}したらうネ。
誠{ま〔こと〕}におそろしい女{あま}た。あれでもおまへさんの目{め}には。おとなしい
艶{やさ}しい女{をんな}だとおもつて。可愛{かわい}がんなさるだらうネ。なんぞと
言{いつ}て。それが口説{くぜつ}の種{たね}となつて。腹{はら}一{いつ}ぱい千話{せわ}を。おしだ

(11オ)
らうネ。ネ。サア有体{ありてい}に首状{はくじやう}をし」ト。腋{わき}の下{した}をこそぐれば
その手{て}を押{おさ}へて【紙治】「コレサ戯談{じやうだん}しなさんなヨ。アレサ痛{いて}へ
といふに」【たき】「サアそんならお言{いひ}」【治】「アイサいふヨ」【たき】「サアお言{いひ}。
サア。おいひ」【治】「ヱヽやかましい奴{やつ}だ」トぐつと引寄{ひきよ}せ見{み}あはす
皃{かほ}。互{たがい}に莞爾{につこり}手{て}を伸{のば}し。お滝{たき}は障子{しやうじ}をぱつたりと。〆{しめ}て
その後{ご}は音{おと}もせず。咄{はな}し声{ごゑ}さへ途{と}ぎれたり。
第十六回

恋{こひ}せじと御手洗川{みたらしがは}にせし御祓{みそぎ}。神{かみ}はうけずぞなりに

(11ウ)
ける。紙治{かみぢ}はお滝{たき}を暁{さと}さんと。言葉{〔こと〕ば}を尽{つく}すその内{うち}に。燃
杙{もえくい}に火{ひ}のつき易{やす}き。喩{たと}へにもれぬ煩悩{ぼんのふ}の。惚{ほ}れたが互{たがい}
の因果{いんぐわ}同士{どし}。おもひよらずもまたかはす。二{ふた}ツ枕{まくら}も船底{ふなぞこ}
の。水{みづ}も漏{もら}さぬ比翼{ひよく}の契{ちぎ}り。よしなき事{〔こと〕}をと後悔{のちぐひ}は
してもかへらぬ男気{をとこぎ}に。また詮方{せんかた}もあるべしと。その■{ひ}
別{わか}れてかへりける。跡{あと}にお滝{たき}はつく〴〵と。思{おも}へば男{をとこ}も
憎{にく}からず。小春{こはる}と両個{ふたり}がその中{なか}は。了得{さすが}に妬{ねた}くもあり
ながら。理{わけ}を聞{きい}ては今{いま}さらに。大人気{おとなげ}もなく兎{と}やかく

(12オ)
と。いふも愧{はづ}かしいはねば疎{うと}し。いかゞはせんと女気{をんなぎ}の。縺{もつ}れ
てとけぬ鬢{びん}の髪{かみ}。顔{かほ}へかゝるや糸柳{いとやなぎ}。風{かぜ}にもまるゝ
風情{ふぜい}にて。たゞ過去{こしかた}のなつかしく。思{おも}はず湿{しめ}る懐紙{ふところがみ}の
端{はし}を噬{くは}へて対居{ついゐ}たり。折{をり}から障子{しやうじ}をすらりと明
て。こゝへ入来{いりく}る主人{あるじ}の鬼勝{おにかつ}。積鬱{ふさぐ}女児{むすめ}の顔{かほ}見{み}て莞
爾{につこり}【勝】「コウおたき何{なに}を其様{そんな}に積鬱{ふさぐ}のだ。手{て}めへどう
も自己{おれ}が児{こ}の様{やう}でもねへな」【たき】「ヲヤマア爺{おとつ}さ゜んかへ。私{わちき}にやア
びつくらおさせだヨ。そつと抜足{ぬきあし}をしてサ」【勝】「ハヽヽヽ。ナニ抜足{ぬきあし}をし

(12ウ)
て来{く}るもんだ。手{て}めへ胸{むね}にいろ〳〵屈沢{くつたく}があるから。足音{あしおと}が耳{みゝ}へ
|這入{へゑら}ねへのだア。まア。そりやアよしヨ。其処{そこ}で手{て}めへの鬱{ふさい}でゐる
のは。アノ紙治{かみぢ}さんの事{〔こと〕}だらうが。モウ何{なに}も其様{そんな}に苦労{くらう}する
|有理{わけ}はねへ。」【たき】「なぜへ」【勝】「おれが児{こ}にも似合{にあは}ねへとは夫{それ}
をいふのだ。立聞{たちぎゝ}をするなア罪{つみ}だといふが。サテ其処{そこ}が親子{おやこ}の
情合{じやうゑへ}で。ツイ自己{おれ}も苦労{くらう}になるから。実{じつ}は先刻{さつき}から紙治{かみぢ}さん
と咄{はな}し合{あい}をするのを。下家{した}で聞{きい}て居{ゐ}たが。なるほど凶{ひよん}な
理合{わけゑへ}で。自己{おれ}が注文{ちゆうもん}せへ。ぐわらりと違{ちが}つたから。手{て}めへは

(13オ)
其{その}筈{はづ}の事{〔こと〕}。無理{むり}ともおもはねへが。また紙治{かみぢ}さんの言{いは}ツ
しやる所{ところ}も。至極{しごく}尤{もつとも}な理屈{りくつ}だ。此方{こつち}が無面目{むめんもく}に。物{もの}を
いふ日{ひ}にやア。たとへ他{ほか}に何様{どう}いふ理合{わけゑへ}があらうが。其
様{そん}な〔こと〕は知らねへ。他{ひと}の娘{むすめ}を戯婬{なぐさみ}ものにして。今{いま}さら其
様{そん}な手{て}めへ勝手{がつて}はいはせねへと。言{いつ}て見{み}りやア一{いち}も二{に}もなし
だが。物{もの}の間違{まちげへ}からして。小春{こはる}に遠{とほ}ざかつて居{ゐ}たが。還{めぐ}り
会{あつ}て筋道{すぢみち}を聞{きい}て見{み}りやア。全{まつた}く中途{ちうと}の人{ひと}の悪巧{わるだく}みだと
いふ条{すぢ}が分{わか}ツて。小春{こはる}が身{み}においちやア。兎{う}の毛{け}で突{つい}たほど

(13ウ)
も咎{とが}はなし。固来{もとより}親御{おやご}は。何{なん}の何某{なにがし}といふ立派{りつは}な人{ひと}で。厚{あつ}い
恃{たの}みの書翰{てがみ}もあり。旁{かた〴〵}して見{み}ると。どうも捨{すて}るに棄{すて}られ
ないから。気{き}まづい男{をとこ}だとも思{おも}ふだらうが。今{いま}までのことは
長{なが}い夢{ゆめ}を見{み}たと思{おも}つて。自己{おれ}が事{〔こと〕}は弗{ふづ}つりと。おもひ
切{きつ}てくれねへか。その換{かは}りにやア。手前{てめへ}の身{み}の上{うへ}は。引{ひき}うけ
て縁付{づけ}るなア勿論{もちろん}。一生{いつしやう}不自由{ふじゆう}のねへ様{やう}にして遣{やら}ふ」ト
縡{〔こと〕}をわけての口註{こうぢやう}。「男{をとこ}の口{くち}からは。さぞ言{いひ}悪{にく}くも有{あつ}たらう
が。克〻{よく〳〵}な筋{すぢ}なればこそ。手{て}めへに手{て}を着{つか}ねへ斗{ばかり}にして


(14オ)
言{いは}ツしやる心根{こゝろね}をおもへば。まんざら無下{むげ}に否{いや}だ〳〵とば
かり言{いつ}ては。居{ゐ}られねへ義理{ぎり}じやアあるめへか。其{その}上{うへ}マアよく
積{つも}つて見{み}ろ。手前{てめへ}が何様{どんな}に野鬼{やき}〳〵思{おも}つて居{ゐ}たツて
男{をとこ}の方{はう}が左様{さう}いふ了張{れうけん}になつて見{み}ちやア。どうも何{なん}だか
底{そこ}の冷{つめ}てへやうなものだ。そして餘{あん}まり聞分{きゝわけ}のねへやうで
大人{おとな}しくもねへ。此{この}道{みち}ばかりやア別{べつ}もんで。親{おや}の異言{いけん}や主
人{しゆしん}の諫言{こゞと}で。明{あき}らめられる条{すぢ}のものじやアねへが。篤{とく}くりと
よく勘弁{かんべん}して見{み}たが能{いゝ}。紙治{かみぢ}さんも自己{てまへ}が悪{わる}いと思{おも}ひ

$(14ウ)
おに勝

$(15オ)
かみ治
おたき
心{こゝろ}さへはれ
まも
見えず五月雨{さつきあめ}

(15ウ)
また手{て}めへをも不便{ふびん}だと思{おも}はつしやればこそ。縁付{かたづけ}たうへで
不自由{ふじゆう}のねへやうにして遣{や}らふとまで言{いふ}のじやアあるめへか。
ナン■男{をとこ}の名聞{めうもん}だア。幾個{いくたり}でも引{ひつ}かゝり次第{してへ}に婬戯{なぐさん}で。飽{あき}
たら夫{それ}ツきりヨといふ。不実{ふじつ}な了張{れうけん}の人{ひと}で見{み}たがいゝ。中{なか}〳〵
左様{さう}は言{いは}ねへ。彼是{かれこれ}むづかしくなつた所{ところ}が。他{ひと}の女房{にようぼう}では
なし。高{たか}が十両{じふりよう}か十五|両{りやう}の手切{てき}れでも出{だ}さうと思{おも}やア
いさもくさもなしだと。末{すゑ}を縊{くゝ}つてされても詮方はねへ
所{ところ}を。アヽいふ結構{けつこう}な篤実{とくじつ}な人{ひと}なればこそアノ通{とふ}りに

(16オ)
言{いは}ツしやるのを聞分{きゝわけ}ねへじやア。餘{あん}まり此方{こつち}もわけが
わからねへやうで。見{み}ツともねへ。ナアお滝{たき}。左様{さう}じやアある
めへか。手{て}めへよく了張{れうけん}を仕直{しなほ}して紙治{かみぢ}さんのいふ通{とふ}り
にして貰{もら}ふがいゝ」ト異見{いけん}の詞{〔こと〕ば}悪{あし}かれと。おもひはせねど
日頃{ひごろ}より艶{やさ}しき紙治{かみぢ}が心根{こゝろね}につひ絆{ほだ}されし女気{をんなぎ}
には。了得{さすが}未練{みれん}と煩悩{ぼんのふ}の。おこり易{やす}さよ恋衣{こひころも}。過{すぎ}し
事{〔こと〕}のみおもひつゝ。何{なん}の因果{いんぐは}とかなしさの。胸{むね}は痞{つか}へて
思{おも}はずも。ほろりと落{おと}す泪{なみだ}の情{じやう}。声{こゑ}うるませて睚{まぶち}を

(16ウ)
拭{ふ}き【たき】「どうも外{ほか}に詮方{しかた}はあるまいかねへ」【勝】「そりやア
男{をとこ}へ面当{つらあて}に死{し}んで見{み}せるとか。但{たゞ}し先{さき}の女{をんな}と食合{くひあふ}とか
いふ。無分別{むふんべつ}な詮方{しかた}なら。幾干{いくら}もあらうが。他{ひと}も善{よか}れ家{われ}
も善{よ}かれ。親{おや}にも安堵{あんど}させ。世間{せけん}の人{ひと}にも賞{ほめ}られやう
といふ詮方{しかた}は。今{いま}おれがいふより外{ほか}にやアあるめへ」【たき】「
夫{そん}ならいつそ思{おも}ひきつて。お前{まへ}のおいひの通{とほ}りに仕様{しやう}
かねへ」【勝】「ムヽ左様{さう}すれば奇麗{きれい}でいゝ。そんなならはやく
其{その}事{〔こと〕}を紙治{かみぢ}さんに噺{はな}さうか」【たき】「アヽ噺{はな}しませう。しかし

(17オ)
また何時{いつ}来{く}るか知{し}れないネ」トいふ折{をり}から此方{■■た}の障子{しやうじ}を
あけて【紙治】「イヤ爺{おとつ}さ゜ん面目{めんぼく}次第{しだい}もないわけで。誠{ま〔こと〕}にお気{き}
の毒{どく}。しかしお滝{たき}が承知{しやうち}の容子{ようす}で。私{わたし}も安堵{あんど}しました」【勝】「
おまへがだん〳〵噺{はな}しのやうす。余義{よき}ない理{わけ}にも聞{きこ}へるから
お滝{たき}にも言聞{いひきか}して。漸〻{よう〳〵}得心{とくしん}させやした。その代{かは}りにやア
末始終{すゑしじう}。どうぞ見捨{みすて}ずに相談{さうだん}対身{あいて}に。なつて遣{や}つて
おくんなせへ」【紙治】「そりやア今{いま}下宝{した}でもまうす通{とほ}り。舌{した}を二枚{にまい}
遣{つか}ふやうな私{わた}しぢやアないから。爺{おとつ}ざん其処{そこ}は決{けつ}して

(17ウ)
お案{あん}じなさんな」【勝】「ハヽヽヽ。言{いふ}までには及{およ}ばねへが。サテ親{おや}は馬
鹿{ばか}なもので。先〻{さき〴〵}を案{あん}じやす。サアおたきや。紙治{かみぢ}さんも
アノ通{とほ}り言{いひ}なさるから。小春{こはる}さんと姉妹分{きやうでへぶん}になつて
中{なか}を能{よく}するがいゝ」【たき】「アイ」ト言{いつ}たばかり。紙治{かみち}の顔{かほ}をじろ
りと見{み}て。莞爾{につこり}と笑{わら}ひ「なんだか可笑{おかしい}ねへ。夫{それ}じやアこれ
から。お前{まへ}さんを兄{にい}さんといふのかへ」【治】「左様{さう}ヨ」【たき】「ヲホヽヽヽ。何{なん}
だかどうもおかしい様{やう}だネ」【勝】「そんならモシ旦那{だんな}。おめへさんの
御都合{ごつがう}次第{しでへ}で。小春{こはる}さんと此奴{こいつ}を一所{いつしよ}に寄{よせ}て。ちよつ■ら

(18オ)
盃{さかづき}をさせて遣{やつ}てお呉{くん}なせへナ」。【治】「アイ左様{さう}しやせう。
私{わた}しやア何時{いつ}でもいゝ。お滝{たき}おめへの都合{つがう}はどうだ」【たき】「私{わちき}も
何時{いつ}でも宜{よう}ございますは。」【治】「そんならば斯{かう}と」ト。[すこしかんがへ]
「今日{けふ}と言{いつ}ても餘{あん}まり急{きふ}だ。翌{あした}昼過{ひるすぎ}から何処{どこ}ぞへ往{いか}
う。おめへその積{つも}りで支度{したく}をして居{ゐ}な」【たき】「アイお爺{とつ}さ゜ん
も往{いく}のかへ」【勝】「ナニ自己{おらあ}いかずと宜{よ}からう」【治】「何{なん}ならおめへ
さんもお出{いで}なせへナ」【勝】「何様{どう}でも宜{いゝ}が。しかし翌{あした}は色{いろ}〳〵用{よう}も
あるから」【治】「マア〳〵そりやア翌{あす}の事{〔こと〕}ヨ。そんなら私{わた}しやア帰{かへ}りや

(18ウ)
せう」ト紙治{かみぢ}はこゝをたち出{いで}て。咄{はな}し合{あい}の極{きま}りし事{〔こと〕}を小春{こはる}
にかたり。翌{あす}の約束{やくそく}をもせんものと。急{いそ}いで小春{こはる}が方{かた}へゆき
たるに。此{この}日{ひ}小春{こはる}は心易{こゝろやす}き友{とも}だちに誘{さそ}はれ。芝居{しばゐ}へ往{ゆき}し
との事{〔こと〕}ゆへ詮方{せんかた}なく。隣{となり}なる老母{ばあ}さまに口上書{こうじやうがき}をして。小
春{こはる}が帰{かへ}りなば届{とゞ}けくれよと恃{たの}みおき。天間町{てんまゝち}へかへりける。
夫{それ}ともしらず其{その}夜{よ}四{よ}ツ前{まへ}に。小春{こはる}はつれだちて帰{かへ}りつゝ
火{ひ}を灯{とも}し着物{きもの}を着{き}かへなどするに。隣{となり}の老母{ばゝ}は門口{かどぐち}を
あけて入来{いりきた}り【ばゝ】「お春{はる}さん今日{けふ}はおたのしみだねへ。嘸{さぞ}おも

(19オ)
しろかつたらうネ」【はる】「ヲヤ老母{おば}さんサアおあがりヨ。毎度{まいど}モウ
留守{るす}をお世話{せわ}さまになりますヨ。今{いま}ネ。あげやうと思{おも}つ
て居{ゐ}た所{とこ}だヨ。こりやア餘{あん}まり少{すく}ないけれど。是{これ}でもお
土産{みや}だヨ。ホヽヽヽ」【ばゝ】「ヲヤ〳〵マア|最大{いかい}事{〔こと〕}。ナニおよしなさればいゝ。
気{き}の毒{どく}な。しかし私{わたく}しやア。此{この}鮨{すし}が大好{だいすき}でネ。若{わけ}ヱ時分{じぶん}
にやア。沢山{たんと}給{たべ}た事{〔こと〕}もあつたが。今{いま}じやア此様{こんな}には給{たべ}られ
ないから。些{ちつと}おまへの方{はう}へ取{とつ}て置{おい}ておあがり」【はる】「ナンノおまへそれ
ばかり。そして私{わち}きやア。今日{けふ}も一日{いちんち}何{なに}かを給{たべ}て居{ゐ}て。腹{おなか}が

(19ウ)
宜{いゝ}から。モウ〳〵何{なん}にも給{たべ}られないヨ。サア遠慮{ゑんりよ}なしにお上{あが}り
なねへ」【ばゝ】「アイそんなら頂{いた}だかうね」ト鮨{すし}を二{ふた}ツ三{み}ツ食{くひ}ながら
【ばゝ】「アノお春{はる}さん私{わた}しやア言訳{いひわけ}のない事{〔こと〕}をしたヨ。堪忍{かんにん}して
おくれナ」【はる】「ヱなんだへ」【ばゝ】「先刻{さつき}紙治{かみぢ}さんがお出{いて}だツたが。留守{るす}
なもんだから。口上書{こうじやうがき}をしておまへが帰{かへ}んなすつたら。あげて呉{くれ}
ろとお言{いひ}だツけが。サア今{いま}あげやうと思{おも}つて尋{たづ}ねたが。何処{どこ}へ
置{おき}無{なく}したか何様{どう}しても知れないから。色{いろ}〳〵気{き}を揉{もん}でさが
したけれど。誠{ま〔こと〕}にしれないがネ。どうしたら宜{よか}らう」【はる】「ヲヤ

(20オ)
左様{さう}かへ。何{なん}の用{よう}だかねへ」【ばゝ】「口{くち}じやア何{なん}ともお云{いひ}なさら
ないからわからないが。ナニ鳥渡{ちよつと}した手紙{てがみ}だツけがネ。誠{ま〔こと〕}に私{わた}
しやア気{き}の毒{どく}でならないヨ」【はる】「ナニどうも無{なく}なつたものを
詮方{しかた}はないはね。何{なに}も差為{さしたる}事{〔こと〕}でもあるまい。大{おほ}かた翌{あした}あ
たりはまた来{き}ますだらう」【ばゝ】「お出{いで}なすツたら。おもいれ詫
言{わび〔こと〕}をしないけりやアならない。終{つひ}しか他{ひと}さまに恃{たの}まれたもの
なんぞを。無{なく}した事はないがサ。誠{ま〔こと〕}にモウくれ〴〵も気{き}のどく
だねへ」【はる】「ナニ其様{そんな}にお云{いひ}でなくツても宜{よい}はね。誰{だれ}も熊{わざ}と

(20ウ)
無{なく}なすものじやアあるまいし」【ばゝ】「そりやア左様{さう}だけれども
餘{あん}まり麁末{そまつ}にしたやうで」【はる】「アレサ老婆{おば}さんモウいゝはね
翌{あした}見{み}たらまた有{ある}かもしれないはネ」【ばゝ】「何{なん}でも夜{よ}が明{あけ}ると
畳{たゝみ}まで上{あげ}て見{み}やう。何様{どう}したか」ト固来{もとより}律義{りちぎ}の老婆{ばゝ}なれば
額{ひたい}をなでつゝ分解{いひわけ}して。隣{とな}れるわが家{や}へ帰{かへ}りけり。
花迺志満台三編巻之中終


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底本:国立国語研究所蔵本(W99/Sh96/3、1002334546)
翻字担当者:服部紀子、松川瑠里子、藤本灯
更新履歴:
2015年10月1日公開
2017年10月5日更新
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修正箇所(2017年10月5日修正)
(7ウ)6 縁{えん} → 椽{えん}
(16オ)3 手てめへ → 手{て}めへ

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