比翼連理花迺志満台 三編上
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凡例
1.本文の行移りは原本にしたがった。
2.頁移りは、その丁の表および裏の冒頭において、丁数・表裏を括弧書きで示した。また、挿絵の丁には$を付した。
3.仮名は現行の平仮名・片仮名を用いた。
4.仮名のうち、平仮名・片仮名の区別の困難なものは、現行の平仮名に統一した。ただし、形容詞・副詞・感動詞・終助詞・促音・撥音・長音・引用のト等に用いられる片仮名については、原表記で示した場合がある。 〔例〕安イ、モシ、「ハイそれは」ト、意気だヨ、面白くツて、死ンで、それじやア
5.漢字は現行の字体によることを原則としたが、次のものについては原表記に近似の字体を用い、区別した。「云/言」「开/其」「㒵/貌」「匕/匙」「吊/弔」「咡/囁」「哥/歌」「壳/殻」「帒/袋」「无/無」「楳/梅」「皈/帰」「艸/草」「計/斗」「弐/二」「餘/余」
6.繰り返し符号は次のように統一した。ただし、漢字1文字の繰り返しは原本の表記にしたがい、「〻」と「々」を区別して示した。
平仮名1文字の繰り返し 〔例〕またゝく、たゞ
片仮名1文字の繰り返し 〔例〕アヽ
複数文字の繰り返し 〔例〕つら〳〵、ひと〴〵
7.「さ」「つ」「ツ」に付く半濁点符は「さ゜」「つ゜」「ツ゜」として示した。
8.Unicodeで表現できない文字は〓を用いた。
9.句点は原本の位置に付すことを原則としたが、文末に補った場合がある。
10.合字は〔 〕で囲んで示した。 〔例〕殊{〔こと〕}に、なに〔ごと〕、かねて〔より〕
11.傍記・振り仮名は{ }で囲んで示した。 〔例〕人生{じんせい}
12.左側の傍記・振り仮名の場合は、冒頭に#を付けた。 〔例〕めへにち{#毎日}
13.傍記・振り仮名が付く位置の紛らわしい場合、文字列の始まりに|を付けた。 〔例〕十六|歳{さい}
14.原本に会話を示す鉤括弧が付いていない場合も、これを補い示した。また庵点は〽で示した。
15.原本にある話者名は【 】で示した。 〔例〕【はる】
16.割注・角書および長音符「引」「合」は[ ]で囲んで示した。
17.不明字は■で示した。
18.原本の表記に関する注記は*で行末に記入した。 〔例〕〓{たど}りて*〓は「漂+りっとう」
19.花押は〈花押〉、印は〈印〉として示した。
20.画中文字の開始位置に〈画中〉、広告の開始位置に〈広告〉と記入した。
本文の修正
1.翻字本文を修正した場合には、修正履歴を末尾に示す。
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$(口1オ)
島台や松の筆振おもしろき 姚花庵孝笠
蓬莱や松に黄金の花のさく 栗庵玉堂
島台に作り上手や松の振 若竹鶴女
蓬莱や土箸祝ふ筆はしめ 鈴木冨女
$(口1ウ)
島台は松の誉れか筆の花 為永延蔦
蓬莱や仙女も見ゆる筆の山 為永春水
またあすか此島台の作りもの 為永春蝶
島台の要や松の操なる 為永志ん馬
$(口2オ)
蓬莱や台にうつず宝筆 為永津賀
島台の花に深きの千代見草 為永兼八
松と竹梅を■の■■■ 為永柳水
島台や千年を松のかさり物 版元文渓堂
$(口2ウ)
あづさ弓
春野のすみれ
たをやめに
つまれ
ても
猶
うれ
しく
ぞ
おもふ
柳川岸{やなぎがし}の
唄女{げいしや}小春{こはる}
$(口3オ)
鎌倉{かまくら}天間町{てんままち}
紙屋{かみや}治兵衛{ぢへゑ}
$(口3ウ)
露{つゆ}を含{ふくむ}
且{あした}の花{はな}も
霞{かすみ}を帯{おび}し夕{ゆふべ}の月{つき}も
青黛{せいたい}紅顔{こうがん}の
美人{びじん}に
如{しか}ず
枝{えだ}ばしの
於多喜{おたき}
$(口4オ)
髪結{かみゆひ}の
於吉{おきち}
うかれ出{で}る
孀{やもめ}がらすや
春{はる}の月{つき}
$(口4ウ)
花にゑふ
人{ひと}もありけり
春{はる}の山{やま}
畝山{うねやま}強六{ごうろく}
(1オ)
[比翼{ひよく}連理{れんり}]花{はな}迺{の}志満台{しまだい}第三編{だいさんへん}巻之上
東都 松亭金水編次
第十三回
五尺{ごしやく}の菖蒲{あやめ}に水{みづ}を沃{そゝ}ぐと。美人{びじん}を賛{ほめ}たる唐人{たうじん}の。言葉{〔こと〕ば}も
こゝにおもひやる。素顔{すがほ}はいとゞ美{うつく}しき。浴衣{ゆかた}抱{かゝ}へて吾家{わがや}の
門{かど}。卸{おろ}せし錠{ちやう}を明{あけ}ながら隣{となり}を覗{のぞ}き「老母{おば}さんありがたう。
誰{だれ}も来{き}はしましなんだかへ」【ばゝ】「ムヽ小春{こはる}さんお帰{かへ}りか。アノ先刻{さつき}
旦那{だんな}がお出{いで}だから。今{いま}湯{ゆ}にお出{いで}だと言{いつ}たらネ。其様{そん}ならまた後{のち}に
(1ウ)
来{こ}やうと言{いつ}てお帰{かへ}りだヨ」【小はる】「ヲヤ左様{さう}かへ。じれつてへノウ。
今日{けふ}は色{いろ}〳〵噺{はな}す事も有{あつ}たツけが。大{おほ}かた今頃{いまごろ}来{き}はし
まいと思{おも}つて湯{ゆ}へ往{いつ}たら。その跡{あと}へ来{き}たのかねへ。どうせう
のふ」【ばゝ】「ナニ後{のち}に来{く}るとお言{いひ}だはネ。夫{それ}だからおまへ。例{いつ}も旦那{だんな}が
お言{いひ}なさる通{とふ}りにして。女中{ぢよちう}でも置{おい}てお貰{もら}ひならいゝ。左様{さう}
すれば留守{るす}に宅{うち}を〆{しめ}ないから宜{よい}に」【はる】「それも左様{さう}だけれど
何{なに}も大造{たいさう}な用{よう}はなし。高{たか}がお飯{まんま}を焚{たく}ぐらゐな事{〔こと〕}だからネ。
なんぼ自己{てまへ}の金{かね}がいらないからと言{いつ}ても。餘{あん}まり冥利{みやうり}が
(2オ)
悪{わる}いと思{おも}つて。何{なに}かに不自由{ふじゆう}して居{ゐ}ますのサ」【ばゝ】「お前{まへ}はホンニ
年{とし}の往{いか}ねへに似{に}あはず甘心{かんしん}だヨ。左様{さう}万事{ばんじ}心懸{こゝろがけ}なさりやア
一生{いつしやう}悪{わる}い事{〔こと〕}はないのサ」【はる】「アレ老母{おば}さんお株{かぶ}で人{ひと}に嬉{うれ}しがら
せるよ。ナニ左様{さう}じやアないがネ。おまへも知{し}つての通{とふ}り。私{わちき}を身儘{じめへ}
にしてくれるのにも。餘程{よつぽど}金{かね}が入{いり}ましたからネ」【ばゝ】「左様{さう}ヨ。大{たい}てへな
事{〔こと〕}じやアないのサ。しかし其処{そこ}を考{かん}げへる様{やう}な者{もの}は。今時{いまどき}はすく
ないヨ。ソレ横町{よこてう}の嬢{こ}なんぞを御覧{ごらん}な。自己{てめへ}が勤{つと}めをして居{ゐ}た
のを。人{ひと}に救{すく}ひ出{だ}されて。それから後{のち}は天窓{あたま}から足{あし}のさきまで
(2ウ)
世話{せわ}になつて居{ゐ}て。些{ちつと}お尻{しり}が温{あつた}まると。サア好{すき}な男{をとこ}を引{ひき}ずり込{こん}
で。寝泊{ねとま}りをさせたり。日酒{ひざけ}をたらふく飲{のん}で。肝心{かんじん}の旦那{だんな}さまの
事{〔こと〕}をば。蔭{かげ}ぢやア老父〻〻{ぢゝい〳〵}と言{いつ}て。尻{しり}からこき出{だ}した様{やう}にいふが
ホンニ脇{わき}で聞{きい}て居{ゐ}ても腹{はら}が立{たつ}やうだヨ。夫{それ}にまた其{その}老父{ぢい}さん
が色男{いろをとこ}のあるのは知{し}らねへで。何{なん}でもホイ〳〵とあの娘{こ}の御意{ぎよい}
次第{しだい}になつて居{ゐ}るから。可笑{おかしい}じやアないか。ノウ小春{こはる}さん」【はる】「どう
も私{わち}きやア馬鹿{ばか}な性{しやう}でネ。あんな活業{しやうばい}をしてゐるときから
左様{さう}突倒{つきたふ}しな〔こと〕は誠{ま〔こと〕}に嫌{きら}ひでネ。夫{それ}だから蔭{かげ}では他{ひと}が
(3オ)
のろま唄女{げいしや}だと悪{わる}く言{いひ}ましたツサ。これも生{うま}れ付{つき}だから詮
方{しかた}がない。ねへ老母{おば}さん」【ばゝ】「ナニ〳〵それが宜{いゝ}のサ。左様{さう}してせへゐれば
間{ま}ちげへはねへのサ。ハヽヽヽ」【はる】「ヲヤ花{はな}やさんが来{き}たからモウお昼{ひる}だ
そうだ。ドレお茶{ちや}でも沸{わか}さう」ト内{うち}に入り化粧{みじまひ}さへも手{て}ばしこく
薄{うつ}すりつけし仙女香{せんぢよかう}。鬢{びん}のほつれを掻{かき}あげて。火鉢{ひばち}の側{そば}へ
居{すは}りつゝ。火{ひ}を積直{つみなほ}して居{ゐ}る所{ところ}へ。門口{かどぐち}明{あけ}て入|来{く}る紙治{かみぢ}
【治】「ハヽア化粧{おつくり}が出来{でき}たナ。先刻{さつき}来{き}たら湯{ゆ}へ往{いつ}たといふこと
だから。ぶら〳〵文渓堂{ぶんけいどう}へ遊{あそ}びに往{いつ}たら。今日{けふ}は尼子{あまこ}の二編{にへん}
(3ウ)
の売出{うりだ}しだと言{いつ}て。廓{みせ}は賑{にぎ}やかだツた。おめへ。先頃中{いつかぢう}から
後編{こうへん}が見{み}てへ〳〵と云{いつ}て居{ゐ}たから買{かつ}て来{き}た。コレ見{み}ねへ。彼処{あすこ}の
宅{うち}ぢやア。例{いつ}も本{ほん}の製作{こしれへかた}は能{いゝ}ノウ。先{せん}は為永{ためなが}と松亭{しようてい}と合
作{あいさく}だツたが。今度{こんど}は松亭{しようてい}一人{ひとり}で書{かい}たツサ」【はる】「ヲヤ嬉{うれ}しいねへ。
私{わち}きやア。今{いま}流行{はやる}人情本{にんじやうぼん}より。斯{かう}いふ本{ほん}がどうも面白{おもしろ}くツて
なりませんヨ。ホンニまア奇麗{きれい}な事。これは餘程{よつほど}出{で}ませうネ」
【治】「新版{しんぱん}だから高{たか}イのス。しかし本{ほん}なぞといふものは。幾干{いくら}でも
易{やす}いものサ。一|度{ど}買{かつ}ておくと。孫{まご}彦{ひこ}玄孫{やしやご}の代{だい}まであらア。ハヽヽヽヽ」
(4オ)
【はる】「読本{よみほん}は何{なん}でも二編{にへん}三編{さんへん}とならないじやア面白{おもしろ}く有{あり}ま
せんねへ。初編{しよへん}ばかりぢやア。まだ真実{ほんとう}の条{すぢ}がしれないから」
【治】「左様{さう}サ。しかし今度{こんど}は松亭{しようてい}一人{ひとり}で書{かい}たといふから。為
永{ためなが}の様{やう}にやアいくめへヨ。まア〳〵後{あと}でゆるりと見{み}ねへ。其処{そこ}で
モウ昼{ひる}だが。何{なん}ぞ甘{うめ}ヱものでもあるか」【春】「イヽヱ今日{けふ}は不漁{しけ}だ
そうで。例{いつも}の魚屋{さかなや}も来{き}ませんヨ」【治】「そんなら新道{しんみち}へなんぞ
言付{いひつけ}なゝ」【はる】「彼処{あすこ}の物{もの}も餘{あん}まり味美{おいし}くありませんねへ。夫{それ}
よりおまへさん。|鶏卵{たまご}のもらつたのが沢山{たんと}ありますから。厚焼{あつやき}
(4ウ)
でもこしらへてお茶漬{ちやづけ}をおあがんなさいナ。おまへさんのお好{すき}
な物{もの}だから」【治】「好{すき}は好{すき}だが其様{そん}なものを喰{くふ}と。跡{あと}の始末{しまつ}に
こまらア」【はる】「ムヽ人並{ひとなみ}な〔こと〕を被仰{おつしやる}ヨ。そのときやア枝橋{えだばし}の方{はう}へ
お出なさると能{よう}ございますは」トじろりと見{み}て莞爾{につこり}と。笑{わら}
ふ顔{かほ}ばせたとふるに物{もの}なく。紙治{かみぢ}は衿元{ゑりもと}がぞつとする思{おも}
ひ【治】「こゝじやア始末{しまつ}は出来{でき}めへか」【はる】「こゝで始末{しまつ}をすると。角{つの}を
はやす人{ひと}がありますからどうも」【治】「ヱヽよく其様{そん}な事{〔こと〕}をいふヨ。
此間{こないだ}はさつぱり枝橋{えだばし}へは足{あし}がむかねへ。ありやアモウあれ限{ぎり}さ」
(5オ)
【はる】「其様{そん}な〔こと〕を被仰{おつしやら}ずと。矢張{やつぱり}今{いま}までの通{とふ}りに往{いつ}てお
あげなはい。実{じつ}に私{わち}きやアモウ。其様{そん}な〔こと〕にやアかまひま
せんは。嫉妬{やきもち}をやかないものは。情{じやう}がないからだと言{いひ}ますけれど
よく考{かん}がへて見{み}りやア。嫉妬{やきもち}をやく理{わけ}はありません。なぜと
言{いつ}て御覧{ごらん}なはい。此方{こつち}にそら程{ほど}の働{はたら}きもなくツて。男{をとこ}を自
由{しゆう}に仕{し}やうといふのは。無理{むり}じやアありませんか。男{をとこ}はまた自己{てん〴〵}
の器量{はたらき}次第{しだい}で。二人{ふたり}でも三人{さんにん}でも女{をんな}をこしらへて楽{たの}しむのは
いはゞマア当{あた}りめへで。どうも仕方{しかた}はありませんサ。それだから
$(5ウ)
むつましやおなし
道{みち}にと河豚汁{ふぐとじる}
かみ治
$(6オ)
小はる
(6ウ)
おまはんが仮令{たとへ}情人{いろ}を十人{じふにん}おこしらへ被成{なすつ}ても。怨{うら}みとも
思{おも}はないけりやア。惜{くや}しいとも思{おも}ひません。たゞとうぞ倦{あき}て捨{すて}
られないやうにしたいと。夫{それ}ばツかりが苦労{くらう}でございますヨ」
【治】「なるほどおめへの様{やう}に言{いつ}て見{み}りやア。実{じつ}に女{をんな}の聖人{せいじん}だ。物{もの}
ごと左様{さう}せへいけば。世間{せけん}に何{なん}にもむづかしい事{〔こと〕}はねへ筈{はづ}だが
サテどうも左様{さう}は悟{さと}れねへからやかましい。しかし何様{どん}な〔こと〕が
出来{でき}やうが。倦{あき}るの捨{すて}るのといふ事{〔こと〕}はねへから案{あん}じなさんな」
【はる】「真実{ほんとう}にかへ」【治】「しれた事{〔こと〕}サ」【はる】「ヲヤうれしいねへ」【治】「アイタヽヽヽ。
(7オ)
コレサ〳〵。ヱヽ息{いき}がつまらア。ひどい事{〔こと〕}をするぜ。マア其様{そんな}に憎{にく}い
のか。おれが方{はう}じやア命{いのち}にかえても。可愛{かわ}いゝと思{おも}つてゐるものヲ」
【はる】「可愛{かわい}さ餘{あ}まつて憎{にく}さが百倍{ひやくばい}とやら。モウいつそしめ
殺{ころ}してあげたかつたは」【治】「イヤ大変{たいへん}〳〵。おれがしめ殺{ころ}される
なア厭{いと}はねへが。おめへが解死人{げしにん}に出{で}るのがかわいそうだ」【はる】「
ヱヽまた其様{そん}な人迷{ひとまよ}はせをお言{いひ}だヨ。憎{にく}いノウ。ヲヤおまはんは
脊中{せなか}へ大造{たいさう}灸{きう}をおすえだネ。さぞ熱{あつ}かつたらうねへ」【治】「知{し}
れた事{〔こと〕}サ。熱{あつ}くねへ灸{きう}があるものか。モウ寒{かん}前{めへ}だからおめへも
(7ウ)
すえるが能{いゝ}」【はる】「アヽすえませうヨ。何処{どこ}そ悪{わる}いと困{こま}るから」
【治】「ドレ今{いま}おれがすえてやらう」【はる】「アレマアお待{まち}なさいヨ。其様{そんな}に
火{ひ}の付{つい}たやうに」【治】「いづれ灸{きう}は火{ひ}の付{つく}わけサ。そして灸{きう}と
いふから急{いそ}がにやアいかねへ。マア帯{おび}をときねへナ。ヱヽ埒{らち}のあか
ねへ嬢{こ}だノウ」【はる】「アレ今{いま}解{とき}ますヨ。まアお飯{まんま}でも仕{し}まつて
から」【治】「其様{そん}な気{き}の長{なげ}ヱ奴{やつ}があるものか。サア帯{おび}を解{とき}ねへ」ト
いひさま治兵衛{ぢべゑ}はお春{はる}が帯{おび}を。くる〳〵と引{ひき}ほどき。下{した}じめも
とかせて。着物{きもの}をうしろ前{まへ}にする。【はる】「ヲヤ可笑{おかし}な形{なり}だねへ。
(8オ)
斯{かう}いふ所{ところ}へ人{ひと}が来{き}たら。何{なん}とか思{おも}ひやアしないかねへ」【治】「何{なん}
の己{お}れが女房{にようぼう}の灸{きう}をすえてやるのに。誰{だれ}が何{なん}とおもふ
ものか」トいふに小春{こはる}は心{こゝろ}のうち。女房{にようばう}といふ一言{いちごん}が骨身{ほねみ}にし
みてうれしさの。莞爾{につこり}見あはす互{たがい}の深情{しんじやう}。雲{くも}とやなら
ん雨{あめ}とやならん。是{これ}より嚮{さき}は作者{さくしや}もしらず。暫{しばら}くありて
紙治{かみぢ}はたちあがり【治】「夫婦{ふうふ}かけ向{むか}ひは気楽{きらく}なものだノウ。
喰{くは}ふが喰{くふ}めへが御勝手{ごかつて}次第{しだい}だ。ドレ湯{ゆ}へ往{いつ}て来{き}やう」【はる】「
アヽ。往{いつ}てお出{いで}なはい。其{その}内{うち}に甘{うま}いものを拵{こし}らへて置{おき}ますヨ」
(8ウ)
【治】「ト。言{いつ}た所{ところ}が玉子{たまご}の厚焼{あつやき}ぐれへの洒落{しやれ}だらう。おれが
帰{かへ}りに何{なん}ぞ見{み}て来{く}るから。煮花{にばな}でもこしれへて置{おき}ねへ。
アヽヤレ〳〵所帯{しよてへ}もちはうるせへぞ」ト言{いひ}つゝ其処{そこ}の下駄{げた}をはき
手拭{てぬぐひ}さげて出{いで}てゆく。小春{こはる}は帯{おび}をしめ直{なほ}して。火鉢{ひばち}の
炭{すみ}を積{つみ}なから独言{ひとり〔ごと〕}【はる】「ヱヽモウじれつてへ炭{すみ}だのう。
些{ちつと}打捨{うつちやつ}ておくと。直{ぢき}にたち消{ぎえ}がするからいけないのう。今
度{こんど}ホンニ佐倉{さくら}を左様{さう}言{いつ}てやらう。急{いそ}ぐ時{とき}に。よく起{おこ}つて
能{いゝ}から」トいひながら隣{となり}へゆき【はる】「老母{おば}さん。どうぞ消炭{けしずみ}が
(9オ)
あるなら些{ちつと}おくれナ。終{つひ}に火{ひ}が消{きえ}て困{こま}るから」【ばゝ】「アイ〳〵いく
らも有{ある}から沢山{たんと}お持{もち}なさい。また此{この}寒{さむ}いのに火{ひ}を消{けす}とは何様{どう}
なすツたんだへ。餘{あん}まりのろけが強{つよ}いから火{ひ}が消{きえ}ましたらう。
ヲホヽヽヽヽ」【はる】「アレサ左様{さう}じやアありませんが。誠{ま〔こと〕}にたち消{ぎえ}がして
困{こま}りきるヨ。こりやア有{あり}がたう」ト持{もち}かへり。やがて火鉢{ひばち}へ吹{ふき}おこす火{ひ}
よりも熱{あつ}き胸{むね}のうち。堪{たま}りかねてや足音{あしおと}の。我{われ}にもあらで荒{あら}
くなる。夜叉{やしや}にたとへし女{をんな}の念力{ねんりき}。はらしてくれんと狂気{きやうき}の
ごとく。此方{こなた}彼方{かなた}を見{み}かへり〳〵。やがて小春{こはる}が門{かど}の口{くち}。立止{たちとま}りて
(9ウ)
覗{のぞ}きこみ。内{うち}の容子{ようす}を伺{うかゞ}ふとも。知{し}らぬ小春{こはる}はいそ〳〵と
煮花{にばな}のしたく膳立{ぜんだて}に。勝手{かつて}へ出{いづ}るその顔{かほ}を。ちらりと見{み}
るより引明{ひきあけ}る。障子{しやうじ}の音{おと}に見{み}かへれば。年{とし}は十九か廿才{はたち}
ばかり。標致{きりやう}すぐれしのみならず。身形{みなり}も好風{いき}な|美花造{はでづくり}
どうやら知{し}つた顔{かほ}なれど。急{きふ}に胸{むね}へも浮{うか}ばねば【はる】「ヲヤ
おまへさんは何方{どつち}からお出{いで}なさいましたへ」【女】「ムヽ何方{どつち}から来{き}た
もねへもんだ。小春{こはる}さんとぼけなさんな。私{わた}しやア先頃{いつか}紙
治{かみぢ}さんと。涼{すゞ}みに出{で}たとき両国{りやうごく}で。お前{まへ}を揚{あげ}て夜一夜{よつぴとよ}
(10オ)
遊{あそ}んだ枝橋{えだばし}のお滝{たき}といふものだヨ。おめへまた活業人{しやうばいにん}にも
似合{にあは}ねへ。お客{きやく}をわすれたのかへ。しかし今{いま}ぢやア能{いゝ}旦那{だんな}
が付{つい}て。自儘{じめへ}になつて居{ゐ}なさるさうだから。お客{きやく}なんざア
入{いる}めへのふ」心{こゝろ}短{みぢ}かき女{をんな}の癖{くせ}。上{あが}り榪{かまち}も跨{また}がぬ先{さき}から
はや切{きり}かゝる言葉{〔こと〕ば}の刃{やいば}。小春{こはる}は聞{きい}て勃然{むつ゜}とせしが。元{もと}より
怜悧{さかしき}生質{うまれつき}。人{ひと}と争{あら}そはぬ持{もち}まへなれば。忽地{たちまち}に笑顔{えかほ}を作{つく}
り【はる】「ヲヤマア左様{さう}でございましたねへ。さつぱりお見外{みそ}れ
申ました。何卒{どうぞ}御免{ごめん}なさいましヨ。サアまア此方{こつち}へお上{あが}んなさい
(10ウ)
まし。嘸{さぞ}マア途中{みち}はお寒{さむ}ウございましたらう。ホンニよく尋{たづ}
ねて下{くだ}さいましたねへ」ト柳{やなぎ}ながしに受{うけ}られて。お滝{たき}は少{すこ}し
張合{はりあい}の抜{ぬけ}たる〔ごと〕く言葉{〔こと〕ば}なく。やがて座{ざ}にこそ着{つき}にけれ。
第十四回
当下{そのとき}小春{こはる}は茶{ちや}をいれて【はる】「マアお茶{ちや}を一{ひと}ツお上{あが}んなはい。
サアこゝの火鉢{ひばち}の傍{そば}へお寄{よん}なさいまし」トいへどもお滝{たき}は言葉{〔こと〕ば}
なく。|四辺{あたり}をきよろ〳〵見{み}まはして【たき】「イヱナニおかまひな
さんな。実{じつ}は些{ちつと}おまへに聞{きゝ}たい事{〔こと〕}があつて来{き}ましたが
(11オ)
モウ〳〵知{し}れなくツて何様{どんな}にか困{こま}りましたらう」【はる】「ホンニ
左様{さう}でございましたらう。夫{それ}でもよく知{し}れましたネ」【たき】「アイサ
知{し}れないでむだ足{あし}をして帰{かへ}れば。おまへ方{がた}のはうじやア
僥倖{しあはせ}だらうが。此方{こつち}もまた女{をんな}の一念{いちねん}だから。草{くさ}を分{わけ}ても
たづねる気{き}で。頓〻{とう〳〵}突当{つきあて}たのサ」ト目{め}に角{かど}たてるお滝{たき}が
形相{ぎやうさう}。こなたも心{こゝろ}に一物{いちもつ}は。あれども故意{わざ}とそしらぬ顔{かほ}
つく〴〵とお滝{たき}を見{み}て【はる】「おまへさんは何{なん}ぞお腹{はら}の立{たつ}事{〔こと〕}
でもありますか知{し}りませんが。先刻{さつき}からおつな事{〔こと〕}ばツかり
(11ウ)
被仰{おつしやる}のが。どうも私{わちき}にはわかりません。マア何様{とう}したわけで
ございますヱ」【たき】「ナニ私{わたし}だツても斯{かう}言{いつ}ちやア可笑{おかしい}が。其様{そん}な野
暮{やぼ}でもないからネ。腹{はら}も脊{せ}も立{た}ちやアしないが。マアよく積{つも}
つてお見{み}。私{わたし}が紙治{かみぢ}さんと凉{すゞみ}に出{で}て。そのときおまへを呼{よん}で
それから何様{どう}騙{だま}したか何{なん}と言{いつ}たんだかア知{し}らねへが。アノ人{ひと}
のお蔭{かけ}で。斯{かう}して楽{らく}に暮{くら}して居{ゐ}なはるたア。去{さり}とは年{とし}
の往{いか}ねへにしちやア能{いゝ}お働{はたら}きだ。大{おほ}かた私{わち}きやア知{し}るめへ
〳〵と思{おも}つて臭{くせ}へものへ蓋{ふた}をする様{やう}に隠{かく}して居{ゐ}なさる
(12オ)
けれど。そりやアおめへ頓{とう}から知{し}つて居{ゐ}ます。尤{もつとも}男{をとこ}の働{はたら}
きだから。何様{どん}な事{〔こと〕}でもするがよし。お前{まへ}も随分{ずいぶん}世話{せわ}
に成{なん}なさるも能{いゝ}けれど。何{なに}も私{わたし}に左様{さう}隠{かく}す事{〔こと〕}は
あるまいぢやアないか。何{なん}でも物{もの}事{〔ごと〕}|明〻{あらは}にされゝばよし。
知{し}れきつた〔こと〕を隠{かく}されるとおもふと。腹{はら}の立{たつ}もの
だヨ。それに紙治{かみぢ}さんも此{この}頃{ごろ}私{わたし}の方{ほう}へは。さつぱり
寄付{よりつき}なさんねへから。色{いろ}〳〵用{よう}が有{あつ}ても。いふことは
ならず困{こま}るから。今日{けふ}はわざ〳〵尋{たづ}ねに出{て}かけ
(12ウ)
ました。何{なん}でも此方{こつち}に居{ゐ}なさるにやア違{ちげ}へねへ。何卒{どうぞ}逢{あは}
しておくれな」トいはれて小春{こはる}が思{おも}ふやう。どうで知{し}ら
れた事{〔こと〕}なるを。隠{かく}しだてして争{あらそ}ふとも。夫{それ}とはしらで今{いま}
こゝへ。紙治{かみぢ}が帰{かへ}らばその時{とき}は。猶{なほ}面目{めんぼく}を喪{うし}なはん。いつそ打明{うちあけ}
話{はな}そうか。とはいふものゝ此処{こゝ}が大事{だいじ}。お滝{たき}の容子{ようす}は女房{にようばう}
気{き}とり。先頃{いつぞや}凉{すゞ}みの其{その}時{をり}から。情人{いろ}になつたと思{おも}ふのも。無
理{むり}はなけれど此方{こなた}には。その前〻{まへ〳〵}より言{いひ}かはし爺{とゝ}さんが世{よ}を
退{さる}ときも。既{すで}に女夫{めうと}と許{ゆる}されて。聟引出{むこひきで}まで贈{をく}つた中{なか}を。少{すこ}し
(13オ)
の物{もの}の言{いひ}やうで。囲女{かこひもの}よ幻妻{かくしづま}。他{ひと}の男{をとこ}を寝取{ねとつ}たる。婬奔{いたづら}ものと
仂{はした}なく見ひ下{さげ}られては草葉{くさば}の蔭{かげ}の。爺父{とゝ}さんへも済{すま}ぬわけ。夫{それ}
より今日{けふ}は何処{どこ}までも。知{し}らぬと情{じやう}を張通{はりとふ}し。左様{さう}して跡{あと}
で紙治{かみぢ}さんと。相談{さうだん}したら筋道{すぢみち}の。明{あき}らかにたつ仕方{しかた}も有{あら}う
と。思{おも}ひかへして莞爾{につこ}と笑{わら}ひ【はる】「ヲヤ〳〵マア。それで先刻{さつき}から可
笑{おか}しな〔こと〕をお言{いひ}なはるンだネ。そりやア勿論{もちろん}あの時{とき}からして
折{をり}ふしは御座敷{おざしき}へも呼{よん}で下{くだ}さるから。私{わちき}もマア活業{しやうばい}通{どふ}りの
お突合{つきあひ}をして居{を}るうち。ひゐきにして下{くだ}さるお客{きやく}のお蔭{かげ}で
(13ウ)
身儘{じめへ}に成{なつ}ても節〻{をり〳〵}は。お春{はる}ぼう何様{どう}したてツて。尋{たづ}ねて
くださる日{ひ}もありますが。いやらしい事{〔こと〕}は偖{さて}おき。終{つひ}しか一回{いちど}
戯談{じやうだん}でも。した〔こと〕はありません。唄女{げいしや}は妓女{ぢようろ}もおンなしこと
色{いろ}を表{おもて}の活業{しやうばい}だから。大{おほ}かた多性{うはき}なものだらうと。お思{おも}ひ
なさるか知{し}らないが。不躾{ぶしつけ}ながら私{わちき}においちやア。其様{そん}なもの
じやアございません」ト言放{いひはな}されてお滝{たき}は急{せき}たち。時{とき}なら
ねども夕紅葉{ゆふもみぢ}。顔{かほ}にちらして膝立{ひざたて}なほし【たき】「小春{こはる}さん
其様{そん}な奇麗{きれい}な口{くち}をお利{きゝ}でない。おまへが畢竟{ひつきやう}楽{らく}な身{み}に
(14オ)
なつたのもアノ人{ひと}のお蔭{かげ}。左様{さう}して朝夕{あさばん}引{ひき}つけて。楽{たのし}んで
居{ゐ}るこたア。誰{たれ}しらないものもなし。昨日{きのふ}は何様{どう}で今日{けふ}は
這般{かう}だと。逸〻{いち〳〵}私{わたし}に言{いつ}て聞{きか}せる人{ひと}もあります。ヘン他{ひと}の男{をとこ}を
引{ひき}ずり込{こん}で。知{し}らねへもよく出来{でき}た。信実{ほんとう}ならば気{き}のどく
ながら。終{つひ}した事{〔こと〕}から斯{かう}なりました。定{さだ}めし腹{はら}も立{たつ}だらう
が其処{そこ}はどうぞ堪忍{かんにん}して。悪{あし}からず思{おも}つてくれろと私{わたし}の
方{はう}へ渡{わた}りを付{つけ}ても宜{いゝ}わけじやアありませんか。おまへは何{なん}
にも知{し}るまいが。先頃{いつか}紙治{かみぢ}さんが枝橋{えだばし}で。既{すんで}の事{〔こと〕}に片
$(14ウ)
濃{こ}く薄{うす}く*「濃{こ}」の「こ」は部分欠損
こゝろ〳〵の
紅葉{もみぢ}かな
小はる
おたき
$(15オ)
かみ治
(15ウ)
輪{かたわ}にでもされる処{ところ}へ通{とふ}りかけ。餘{あん}まり見{み}かねて女{をんな}だてらに
中{なか}へ|這入{はいつ}て引{ひき}わけて。やう〳〵難儀{なんぎ}を済{すま}せたのが。縁{えん}と成{なつ}て
表向{おもてむき}。まだ足入{あしいれ}はしないけれど。女房{にようぼう}に仕やうならふとまで
約束{やくそく}をしたうへからは。吾侠{わたし}は紙治{かみぢ}さんの本妻{ほんさい}だヨ。おまへ
の方{はう}へ何様{とん}な事{〔こと〕}が言{い}つて有{ある}かアしらないが。吾侠{わたし}の方が先{せん}
だから左様{さう}思{おも}つて居{ゐ}■さるが能{いゝ}。アヽしかしながら一通{ひとゝほ}り心*「■」は「な」の部分欠損
易{こゝろやす}くするばかりて。些{ちつ}とも情合{わけ}がないといふ人{ひと}に。此様{こん}な
〔こと〕を言{いふ}事{〔こと〕}もないけれど。世間{せけん}の人{ひと}の評判{へうばん}にはおまへを
(16オ)
世話{せわ}にしておくとの事{〔こと〕}だから。念{ねん}の為{ため}とやらに断{〔こと〕は}つて置{おく}
のだヨ。後日{ごにち}に彼{かれ}これお言{いひ}でない」ト立{たゝ}んとするを小春{こはる}は
引{ひき}とめ【はる】「マア〳〵お滝{たき}さんお待{まち}なはい。私{わちき}の方{はう}でも些{ちつと}斗{ばか}り
いふ事{〔こと〕}が有{あり}ますヨ」【たき】「何{なん}だか早{はや}くお言{いひ}なねへ。紙治{かみぢ}さんと
情合{わけ}がなけりやア。なんにも言{いひ}なさる事{〔こと〕}はないじやアないか。
夫{それ}だから私{わちき}の方{はう}でも。物{もの}を細密{くどく}はいはないのだアね」【はる】「アイサ
情合{わけ}がないとは言{いつ}たけれと。今{いま}のやうに聞{きい}て見{み}れば。どうも
云{いは}ないではおかれません。実{じつ}は私{わち}きやア紙治{かみぢ}さんとは。二世{にせ}
(16ウ)
かけた夫婦{ふうふ}だヨ。とばかりではわかるまいが。小六{ころく}さんと言{いつ}た
時分{じぶん}。不図{ふと}した事{〔こと〕}から馴{な}れ馴染{なじん}で。私{わちき}のお爺{とつ}さんも承
知{しやうち}のうへ。始終{しじう}は夫婦{ふうふ}とやくそくの。間{ま}もなく障{さは}ることが
出来{でき}て。わかれ〳〵になつて居{ゐ}たが。尽{つき}せぬ縁{えん}か匕椀{さぢわん}の。座{ざ}し
きで逢{あつ}てもおまへの手前{てまへ}を。遠慮{ゑんりよ}でたがひに知{し}らぬ顔{かほ}。小
便{ちやうづ}を幸{さいは}ひ下{した}へ往{ゆ}き。つもるおもひの噺{はな}しの最中{さいちう}。蔭{かげ}でお
まへが立聞{たちきゝ}を。したのも私{わちき}は知{し}つて居{をり}ます。悋気{りんき}は女{をんな}の嗜{たしな}み
だから。妾{めかけ}側女{てかけ}は幾個{いくたり}あつても。それは些{ちつ}も厭{いと}ひませんが
(17オ)
紙治{かみぢ}さんの実正{ほんたう}の。女房{にようぼう}といふのは私{わちき}だヨ」ト言{いは}せもあへず
お滝{たき}は衝立{つゝたち}【たき】「ヲヤこの嬢{こ}は年{とし}にも似合{にあは}ず。よくべちや
くちやとおしやべりだねへ。情合{わけ}はないといふ口{くち}の下{した}から。実
正{ほんとう}の女房{にようぼう}だとは。何{なに}がどうだか分{わか}らない。何{なん}でも私{わたし}は今{いま}
いふ通{とふ}り。堅{かた}い約束{やくそく}がしてあるから。いづれ紙治{かみぢ}さんに
逢{あ}へばわかる。おまへの様{やう}な尻口{しりくち}で。物{もの}をいふ嬢{こ}に用{よう}はない。
ハイ大{おほ}きにおやかましう」トいひ捨{すて}て出{で}るお滝{たき}が姿{すがた}。見{み}れば
おもへば浅{あさ}ましく。小春{こはる}は其処{そこ}へ平伏{ひれふし}て。わつと泣入{なきい}る
(17ウ)
その折{をり}から。こつそり|這入{はい}る紙屋{かみや}治兵衛{ぢへゑ}。小春{こはる}が脊中{せなか}
を撫{なで}ながら【治】「コウお春{はる}堪忍{かんにん}しねへヨ。とんだ奴{やつ}が来{き}やがつ
て。さぞおめへ困{こま}つたらう。それとも知{し}らず湯{ゆ}から帰{けへ}つて
聞{きけ}ばどうやらお滝{たき}の声{こゑ}。こいつアどうも間{ま}が悪{わ}りいと。隣{とな}
りの老母{おば}さんの所{とこ}にかくれて。彼奴{きやつ}が言{いひ}ぐさは篤{とつ}くり
聞{きい}たヨ。なるほどそりやア枝橋{えだばし}で。喧嘩{けんくは}を仕{し}かけられた
とき。口{くち}を利{きい}てくれたにも違{ちが}ひなし。夫{それ}から不図{ふと}して情人{いろ}
になつたも。違{ちげ}へねへのス。勿論{もちろん}その頃{ころ}はおめへの仕方{しかた}を。憎{にく}い
(18オ)
と思{おも}つて居{ゐ}る時{とき}だから。どうかした張合{はりあい}で。女房{にようぼう}に仕やうと
言{いつ}た〔こと〕もあるだらうが。ナニ〳〵そりやアあの通{とふ}りのあばれ者{もの}
おめへなンぞとア生{うま}れが違{ちが}はア。左様{さう}言{いつ}ちやア可笑{おか}しいが。
自己{おれ}も今{いま}ぢやア奉公人{ほうこうにん}の。十四五|人{にん}もつかふ身分{みぶん}。どうして
あんな女{をんな}を嬶{かゝあ}にされるものか。たとへ彼奴{きやつ}が逆{さかさ}に立{たつ}て。とんぼ
がへりをしたと言{いつ}ても。女房{にようぼう}にする事{〔こと〕}ぢやアねへから。其様{そんな}
ことを気{き}にしなさんな」ト宥{なだ}める男{をとこ}の心{こゝろ}をくみ。泪{なみだ}ぬぐふて
起{おき}あがり【春】「隣家{となり}に居{ゐ}てお聞{きゝ}なら。みンな知{し}れたらうがネ
(18ウ)
何{なん}のかのと面倒{めんどう}だから。情合{わけ}はない知{し}らないと言{いつ}て。返{かへ}して
仕{し}まはふと思{おも}つたがネ。私{わたし}は治兵衛{ぢへゑ}さんの本妻{ほんさい}だから。左様{さう}
おもへといはれちやア。どうも私{わちき}も無言{だまつ}ては居{ゐ}られないから
始{はじ}めツからのわけを言{いつ}て。私{わちき}の方{はう}こそ本妻{ほんさい}だと言{いつ}たら。大造{たいさう}
腹{はら}を立{たつ}て。ヤレ尻口{しりくち}で物{もの}をいふの。ヤレべちやくちやとしやべる
のと。いろ〳〵な事{〔こと〕}を言{いつ}て。直{すぐ}に帰{かへ}つて仕{し}まひましたが。私{わち}きやア
モウ〳〵。悔{くや}しくツてなりません」トまた■然{さめ〴〵}と泣ひ伏{ふ}せば。側{そば}に紙
治{かみぢ}は隠{あぐ}み果{はて}。しばらくは物{もの}もいはず。茶{ちや}を飲{のん}で居{ゐ}たりしが
(19オ)
漸{やう}〳〵に胸{むね}をおちつけ【治】「これさ何{なに}も其様{そんな}に言{いふ}事{〔こと〕}はないはナ。
自己{おれ}か斯{かう}いふから大丈夫{たいしやうふ}だと思{おも}ひなせへナ。しかしコウお春{はる}自
己{おれ}が善{いゝ}事をおもひ付{つい}たか。おめへまた何{なん}といふかしらねへけれ
ど。おれが了簡{りやうけん}次第{しでへ}にして見{み}ねへか」【はる】「何様{とう}いふ事だか知{し}ら
ないが。おまへさんの了簡{りやうけん}通{とふ}りに仕{し}ませう。マア何{なん}たへ言{いつ}て御覧{ごらん}。
おたきさんを女房{にようほ}にするから。私{わちき}にやアかまはないといふのかへ」
【治】「アレまた其様{そん}な先潜{さきくゝり}をいふヨ。左様{さう}じやアねへ。マア聞{きゝ}なヨ。
おめへは固来{もとより}おれが女房{にようぼう}に違{ちけ}へねへサ。所{ところ}でお滝{たき}めが其様に
(19ウ)
言{いつ}て見ると。始終{しじう}どうていろ〳〵と|六ヶ敷{むつかしい}。夫{それ}も自己身{おれがみ}から|仕出{た}した
所為{わざ}とはいふものゝ。些{ちつと}の間違{まちげへ}からおめへの事{〔こと〕}は。実{じつ}に思{おも}ひ切{きつ}て居{ゐ}た
時{とき}の事たから。まんざら自己{おれ}が悪{わる}いばかりてもねへサ。其処{そこ}でおれ
が訳合{わけ}をよくお滝{たき}に呑込{のみこま}せておめへと姉妹分{きやうだいぶん}にして。その上{うへ}
でおたきをば。何処{どこ}か相応{さうおふ}な所{とこ}へ縁付{かたづけ}て遣{や}るといふ趣向{しゆかう}に
仕やう。左様{さう}すれば波風{なみかせ}なく。彼方{あつち}も此方{こつち}も納{おさ}まる理屈{りくつ}だ。
またおたきを是{これ}限{ぎ}りに。突放{つきはな}そうとした処{ところ}が。ヲイ夫{それ}とは中〳〵
往{いか}ず。其{その}上{うへ}に咎{とが}もねへ。おめへにまで怨{うら}みがかゝる。猫{ねこ}に憎{にくま}れりやア
(20オ)
引掻{ひつかゝ}れる。狗{いぬ}に憎{にく}まれりやア喰{くい}つかれる。といふ喩{さと}へがある*「{さと}」は「{たと}」の誤字か
はサ。人の怨{うら}みが有{あつ}ちやア。末始終{すゑしじう}善{いゝ}事{〔こと〕}はねへ理{わけ}だから。気{き}
にやア入{いる}めへか左様{さう}しなせへ」ト縡{〔こと〕}をわけたる治兵衛{ぢへゑ}が詞{〔こと〕ば}小
春{こはる}もこれを承知{しやうち}して。そんならは近日中{ちかいうち}に。お滝{たき}によく〳〵言{いひ}
ふくめ。姉妹分{きやうたいぶん}にさせやうと。相談{さうだん}きまる其{その}時{とき}は。はや暮{くれ}かゝる火{ひ}
灯{ともし}ごろ。幽{かすか}に聞{きこ}ゆる没相{いりあい}の。鐘{かね}にまじるや村雨{むらさめ}の。檐{のき}うつ音{おと}こそ淋{さび}しけれ。
花の志満台第三編巻之上終
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底本:国立国語研究所蔵本(W99/Sh96/3、1002334546)
翻字担当者:服部紀子、松川瑠里子、藤本灯
更新履歴:
2015年10月1日公開
2017年10月5日更新
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修正箇所(2017年10月5日修正)
(7オ)7 背中{せなか} → 脊中{せなか}
(11ウ)3 背{せ} → 脊{せ}
(17ウ)1 背中{せなか} → 脊中{せなか}