日本語史研究用テキストデータ集

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比翼連理花廼志満台ひよくのれんりはなのしまだい

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二編中

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比翼連理花迺志満台 二編中

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凡例
1.本文の行移りは原本にしたがった。
2.頁移りは、その丁の表および裏の冒頭において、丁数・表裏を括弧書きで示した。また、挿絵の丁には$を付した。
3.仮名は現行の平仮名・片仮名を用いた。
4.仮名のうち、平仮名・片仮名の区別の困難なものは、現行の平仮名に統一した。ただし、形容詞・副詞・感動詞・終助詞・促音・撥音・長音・引用のト等に用いられる片仮名については、原表記で示した場合がある。 〔例〕安イ、モシ、「ハイそれは」ト、意気だヨ、面白くツて、死ンで、それじやア
5.漢字は現行の字体によることを原則としたが、次のものについては原表記に近似の字体を用い、区別した。「云/言」「开/其」「㒵/貌」「匕/匙」「吊/弔」「咡/囁」「哥/歌」「壳/殻」「帒/袋」「无/無」「楳/梅」「皈/帰」「艸/草」「計/斗」「弐/二」「餘/余」
6.繰り返し符号は次のように統一した。ただし、漢字1文字の繰り返しは原本の表記にしたがい、「〻」と「々」を区別して示した。
 平仮名1文字の繰り返し 〔例〕またゝく、たゞ
 片仮名1文字の繰り返し 〔例〕アヽ
 複数文字の繰り返し 〔例〕つら〳〵、ひと〴〵
7.「さ」「つ」「ツ」に付く半濁点符は「さ゜」「つ゜」「ツ゜」として示した。
8.Unicodeで表現できない文字は〓を用いた。
9.句点は原本の位置に付すことを原則としたが、文末に補った場合がある。
10.合字は〔 〕で囲んで示した。 〔例〕殊{〔こと〕}に、なに〔ごと〕、かねて〔より〕
11.傍記・振り仮名は{ }で囲んで示した。 〔例〕人生{じんせい}
12.左側の傍記・振り仮名の場合は、冒頭に#を付けた。 〔例〕めへにち{#毎日}
13.傍記・振り仮名が付く位置の紛らわしい場合、文字列の始まりに|を付けた。 〔例〕十六|歳{さい}
14.原本に会話を示す鉤括弧が付いていない場合も、これを補い示した。また庵点は〽で示した。
15.原本にある話者名は【 】で示した。 〔例〕【はる】
16.割注・角書および長音符「引」「合」は[ ]で囲んで示した。
17.不明字は■で示した。
18.原本の表記に関する注記は*で行末に記入した。 〔例〕〓{たど}りて*〓は「漂+りっとう」
19.花押は〈花押〉、印は〈印〉として示した。
20.画中文字の開始位置に〈画中〉、広告の開始位置に〈広告〉と記入した。

本文の修正
1.翻字本文を修正した場合には、修正履歴を末尾に示す。
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(1オ)
[比翼{ひよく}連理{れんり}]花{はな}迺{の}志満台{しまだい}二編{にへん}巻之中
東都 松亭金水編次
第九回
こゝに豊島邑{としまむら}なる髪結{かみゆひ}のお吉{きち}は腹{はら}のたつまゝ口{くち}にまか
してお春{はる}が父{ちゝ}の兵衛{へうゑ}を恥{はぢ}しめ胸{むね}むやくやと業{ごう}を沸{にや}
してその日{ひ}くれがた家{いへ}にかへれば弟{おとゝ}和之一{わのいち}もまだ帰{かへ}らず。
独{ひとり}でなにか吶〻{ぐど〳〵}と呟{つぶや}きながら燧筥{ひうちばこ}とり出{だ}してうつ
石{いし}と鎌{かま}「ヱヽ。じれつてへノウ。人{ひと}を虚戯{こけ}にした算段{さんだん}が

(1ウ)
ちがやア火{ひ}までつかねへヨ。誰{だれ}ぞ水{みづ}でもぶつかけやア
しねへか。火口{ほくち}が大{たい}そうに湿{しめつ}てゐるやうだ」ト対身{あいて}もな
きに一人{ひとり}でじれ込{こみ}火{ひ}をうちつけて附木{つけぎ}にうつし
むづと掴{つか}みし消炭{けしずみ}を火鉢{ひばち}へいれてふきつけつゝ持
出{もちいだ}したる酒瓶{とくり}と燗鍋{かんなべ}。やがて茶碗{ちやわん}へつぐ酒{さけ}を息{いき}を
もつかず飲干{のみほ}してつゞけて二{ふた}ツ三{み}ツ五{いつ}ツ酒瓶{とくり}のかぎり
無法酒{やけざけ}に尽{つく}して蒲団{ふとん}引{ひき}かぶり前後{ぜんご}もしらず伏{ふ}し
たりしは女子{をなご}の所為{わざ}とは見{み}へざりき。斯{かく}てそれより七八

(2オ)
日{しちはちにち}は活業{しやうばい}にも出{いで}ずして朝{あさ}からの茶{ちや}わん酒見{ざけみ}かけ次
第{しだい}に人{ひと}を呼{よび}こみ否{いや}といふても強{しい}つけてわからぬ
くだを巻舌{まきじた}に世間{せけん}噺{ばな}しや身{み}のうへばなしするが中{うち}
にも心{こゝろ}のうちには便{たよ}り少{ずく}ないお春{はる}父子{おやこ}何{なん}とかいふて
来{き}そうなもの。左様{さう}したならば斯〻{かう〳〵}と腹裡{はらのうち}に沈吟{しあん}
して待{まて}ども絶{たえ}て音信{おとづれ}なし。はや七八日|過{すぎ}ければお
吉{きち}は家{いへ}をたち出{いで}て芝崎{しばさき}へいたりつゝお春{はる}が裏{うら}の路
次{ろじ}に立{た}ちもしや出{で}るかと待{まて}ども来{こ}ず。そろり〳〵と差

(2ウ)
覗{さしのぞ}き見{み}れば門口{かどぐち}戸{と}をたてゝ人{ひと}もをらざる容子{ようす}に不審{いぶかり}
さては引越{ひきこし}たるものかと側{そば}なる人{ひと}に問{とひ}ければ如此〻〻{しか〴〵}
なりといふにより聞{きく}さへ了得{さすが}悪媽{あくば}にも身{み}にしむば
かり怖{おそ}ろしく急{いそ}いで家{いへ}にたちかへり思へば兵衛{へうゑ}は昔
性質{むかしかたぎ}恥{はぢ}しめられたが悔{くや}しさに死{し}んだものかとあきれ
はて若{もし}も此{この}身{み}を怨{うら}みはせぬか。知{し}らぬうちこそ後生{ごしやう}も
軽{かろ}けれ憖{なまじい}きけば気{き}にかゝると人{ひと}こそしらね胸{むね}のうち
快{こゝろ}よからぬ折{をり}こそあれ雪踏{せつた}の音{おと}もいかめしく障子{せうじ}

(3オ)
ぐわらりと畝山{うねやま}強六{ごうろく}「ヤア姉御{あねご}うちにゐたな。まだ活
業{しやうばい}から帰{かへ}るめへかと思つた」【吉】「ヲヤ。旦那{だんな}お出{いで}なはい。ナニ
此{この}ごろはネ活業{し〔ごと〕}にも出{で}ませんヨ」【強】「ホヽヲ金{かね}が万{まん}と出来{でき}た
と見{み}へるナ」【吉】「さやうさ。地面{ぢめん}のあがりと貸金{かしがね}でつかふのに
余{あま}りますヨ。ヲホヽヽヽヽ」【強】「なるほど羨{うらやま}しいわけだノウ。何{なん}ぞ
ちつと奢{おご}らねへか」【吉】「ハイおごりませう。酒{さけ}は買{かつ}てあり
ますしお肴{さかな}は何{なん}といたしませうねへ」【強】「左様{さう}サ。何{いづ}れ
刺身{さしみ}に吸{すひ}もの。それせへありやア呑{の}めるハサ」【吉】「そん

(3ウ)
なら檀那{だんな}私{わたくし}がいひ付{つけ}て参{まい}るからおまへさん憚{はゞか}りながら
こゝへ火{ひ}をどんと発{おこ}しておいておくんなはい」【強】「オツト承知{しやうち}
〳〵。コウお吉{きち}さんよしか。嘘{うそ}だア。ちつとばかりおれが奢{おご}
らふヨ」ト紙入{かみいれ}より百匹{ひやくぴ}出{だ}してわたす。お吉{きち}は強六{ごうろく}が前{まへ}に
おいて【吉】「ナニマアよふございますヨ」【強】「何{なに}さ持{もつ}て往{いつ}て呉{くん}な」
【吉】「アレサたとへどうでも今{いま}やらずとよふございまさアな」ト
出{いで}てゆきしが程{ほど}もなく誂{あつら}への肴{さかな}きたればお吉{きち}も跡{あと}
より竹{たけ}の皮{かは}づゝみを持{もつ}てかへり来{きた}り【吉】「檀那{だんな}火{ひ}は発{おこ}り

(4オ)
ましたかへ。モウ今日{けふ}は不漁{しけ}だといつて何{なん}にもありま
せんヨ。これ御覧{ごらん}なさい。斯{かう}いふげび蔵{ぞう}をしてまいり
ましたは」【強】「なんだ」【吉】「あてゝ御覧{ごらん}なさい。誠{ま〔こと〕}においしい
ものサ」【強】「するめの附焼{つけやき}か」【吉】「ナアニ天麩羅{てんふら}でございま
すヨ。今{いま}見{み}ましたらネどふか甘{おいし}そうに揚{あげ}て居{ゐ}ますからネ
些{ちつと}ばかり」【強】「ムヽそいつア妙{めう}だ。サア燗{かん}をつけねへ」【吉】「アイ
付{つけ}ますヨ。マアおまへさんお袴{はかま}でもおとんなさいな」【強】「ムヽ
そうしやせう」ト袴{はかま}を脱{ぬぎ}それより火鉢{ひばち}にさしむかひ

(4ウ)
相{あい}のおさへと盞{さかづき}の数{かず}かさなればとつちりと酔{よふ}て心{こゝろ}も
おもしろく強六{ごうろく}は頬杖{ほうづえ}してお吉{きち}が顔{かほ}をうちながめ
【強】「コウお吉{きち}さんおめへとは不図{ふと}した事{〔こと〕}で斯{かう}心{こゝろ}やすく
なつてサ。今{いま}始{はじめ}て見{み}たやうにいふ事もねへがおめへも余{よつ}
ほど意気{いき}だヨ。まだ三十{さんじう}になるやならずの此様{こん}な意
気{いき}なものをひとり寝{ね}かすとは惜{をし}いものだなア。しかし表{おもて}
むきこそ寡{やもめ}なれ内証{ないしよ}は良人{ていし}の二三人も有{ある}だらうヨ」
【吉】「アレサよしておくんなはい。そりやアモシ御用提灯{ごようてうちん}とやら

(5オ)
でございますヨ」【強】「あんまり左様{さう}でもあるめへ。それは
そうとお吉{きち}さんアノ日外{いつぞや}恃{たの}んだ一件{いつけん}はどうしてくれる
のだな。相談{さうだん}もあんまり長{なが}いぢやアねへか」【吉】「アノ何{なに}かへ。
お春{はる}さんの事{〔こと〕}かへ」【強】「そうよ。おれもコウたび〳〵催促{さいそく}
するのも可笑{をかし}らしいから。実{じつ}は我慢{がまん}して居{ゐ}るけれど
モウ出来{でき}るとか出来{でき}ねへとか挨拶{あいさつ}してもいゝ時{じ}ぶん
じやアねへか。」【吉】「アヽいゝどころじやアございませんがネどう
もアノ子{こ}が」【強】「アノ子{こ}が稚女{おぼこ}もひさしいもので聞飽{きゝあき}て

$(5ウ)
おきち

$(6オ)
ごう六
酒興{しゆきやう}に乗{ぜう}じて淫婦{いんふ}
奸夫{かんふ}膠漆{りやうしつ}の契{ちぎり}をむすぶ*「膠漆{りやうしつ}」(ママ)

(6ウ)
居{ゐ}るがホンニ雑談{じやうだん}じやアねへぜ。しかしモウ出来{でき}ねへのだ
らう。そんなら左様{さう}と明{あき}らめさせて呉{くれ}るがいゝわな。勿
論{もちろん}その一件{いつけん}で。おめへに些{ちつと}ばかり貸{かし}た金{かね}もあるけれど
それが出来{でき}ねへからと云{いつ}て今{いま}けへしなともいふめへ
はな。ずる〳〵で何{いつ}までも引{ひつ}かけられちやア可笑{おかし}くねへ」
【吉】「ナニおまへさん引{ひつ}かけておくといふ訳{わけ}じやアございません
はね。私{わたき}もどうぞしてと思つてネアノ子{こ}の宅{うち}へもたび〳〵
往{いき}ますけれど爺{とつ}さ゜んは石部{いしべ}金吉{きんきち}といふ堅造{かたざう}なり

(7オ)
当人{とうにん}は年{とし}がいかず。誠{ま〔こと〕}に私{わたき}もこまりますのサ。どう
ぞ旦那{たんな}。モウちつと辛抱{しんぼう}しておくんなはい」ト一界{いつかい}
のがれにいふものゝお春{はる}は歌妓{げいしや}になつたとの事{〔こと〕}もし
ひよつとして強六{ごうろく}に出会{であふ}まい物{もの}でもなし。左様{さう}した
時{とき}は言訳{いひわけ}なしと表{うはべ}は平気{へいき}に見{み}せかけても心{こゝろ}の内{うち}は
酒{さけ}の酔{ゑひ}さへけろりと醒{さめ}てさま〴〵と計掠{もくろむ}からに酔{よふ}
たふり【吉】「アレサ旦那{だんな}マア何事{なに〔ごと〕}も私{わたき}が承知{じやうち}だよ。サアそ
んな小言{こ〔ごと〕}ばかりおつしやらずとマア一{ひと}ツおあがんなはい

(7ウ)
よ」ト窈窕{なまめく}姿{すがた}強六{ごうろく}が。膝{ひざ}のあたりへ身{み}をよせて盞{さかつき}さ
せばこなたもまた綢繆{しなだれ}なから酒{さけ}をうけしばらく興{きやう}
を催{もよ}ふすほどにはや黄昏{たそが}るゝ雀色時{すゞめいろどき}空{そら}かきくもり
て降{ふる}雪{ゆき}は綿{わた}を礫{つぶて}にうつ〔ごと〕く忽地{たちまち}つもり軒端{のきば}さへ
真白{ましろ}になれば強六{ごうろく}が「ヤア大変{だいへん}だ。何{いつ}の間{ま}にか大雪{おゝゆき}に
なつて来{き}た。ドレあんまりつもらねへうち帰{かへ}らう。お吉{きち}さん
傘{かさ}が一本{いつほん}あらうか」【吉】「アイ傘{かさ}も下駄{げた}もありますけれど
此{この}雪{ゆき}におまへさんお帰{かへ}りなさられるものかネ。どうせこれ

(8オ)
しやア和之一{わのいち}も何処{どこ}へか泊{とま}りになるだらうし。左様{さう}
すると私{わたき}たつた一個{ひとり}でさみしいから今夜{こんや}はお泊{とま}んな
さいな。しかし平店{ひらだな}へとまる位{くらゐ}なら仮宅{かりたく}へでも往{いく}とおつ
しやるだらうがその代{かは}りこゝじやアお勤{つとめ}もいらず歌妓{げいしや}
がはりは私{わちき}がいたしますから」ト壁{かべ}にかけたる三味線{しやみせん}取{とつ}て
【吉】「サアなんぞお出{だ}しなはいヨ」【強】「おめへマアやらかしねへ。心{こゝろ}
いきを一{いち}ばん聞{きゝ}てへの」【吉】「私{わたき}がこゝろいきかへ」
【ドヽ一】「ふるゝ雪{ゆき}のつもり〳〵しわたしが思ひ

(8ウ)
とけて寝{ね}た夜{よ}はうれしかろ」
【吉】「こゝろいきは斯{かう}でございますヨ」トじろりと見{み}やりし
情{なさけ}の目{め}もと強六{ごうろく}は酔心{ゑひごゝろ}にわれしらずぞつとして
はや気{き}も漫{そゞろ}にうきたちてかへる路{みち}さへわすれたり。
とかくする間{ま}に夜{よ}もふけて鐘{かね}の音{ね}遠{とを}くきこゆるに
酒{さけ}さへも尽{つき}ければお吉{きち}はそこら片付{かたづけ}て。押{おし}いれより
引出{ひきいだ}す五布{いつの}蒲団{ぶとん}に一{ひと}ツ𧝒{よぎ}二ツならべし枕方{まくらべ}に二枚{にまい}
屏風{べうぶ}の蝶{てう}つがひはなれぬ縁{えん}のはじめとは心{こゝろ}に推{すい}せど

(9オ)
強六{ごうろく}が「なんだお吉{きち}さん枕{まくら}なんぞを二ツならべてどう
するのだ。色男{いろをとこ}でも来{く}るのか」【吉】「アイサ私{わちき}が色{いろ}がネ今夜{こんや}
泊{とま}りに来{き}ますからサ」【強】「そりやア羨{うらやま}しいノウ。その色
男{いろをとこ}といふのはどんな人{ひと}だ」【吉】「アノお屋{や}しきのお方{かた}でネ何{なに}
かにいきわたりのいゝ情{なさけ}ぶかい人{ひと}でございますヨ。しかし
私{わち}きやア頓{とう}から惚{ほ}れてゐますけれど先{さき}の人{ひと}は新
造{しんぞう}好{ずき}でネこんな媽〻{ばゝ}アにやアかまつてくれません
ものを」【強】「ナニ先{さき}の人{ひと}も随分{ずいぶん}ほれちやアゐるだらうが餘{あん}

(9ウ)
まり心易{こゝろやす}くなり過{すぎ}ると却{かへつ}てそら〴〵しく其様{そんな}事{〔こと〕}
もいはれねへものだから夫{それ}でだらうノ。マアその人{ひと}は
どんな人だ」【吉】「ソレ其処{そこ}に居{ゐ}ます」トいはれて強六{ごうろく}は
胸{むね}どき〳〵【強】「ドレ何処{どこ}に」【吉】「コレ是{これ}でございますよ」ト
強六{ごうろく}が鼻{はな}のさきをちよいと摘{つま}む。強六{ごうろく}ははやたまり
かねて【強】「これサそんなに人{ひと}をじらす物{もの}じやアねへ。
男{をとこ}ころしめが」トその戯{たはふ}れも餘念{よねん}なくやがて屏風{べうぶ}の
うちにいり変{かは}るまいぞやかわらじのむつ言{〔ごと〕}つもる

(10オ)
夜半{よは}の雪{ゆき}ふかき思ひとなりけらし。かくて後{のち}強六{こうろく}は
初{はじ}めゆかしとおもひたるお春{はる}がことはうち忘{わす}れ了得{さすが}
年増{としま}の手{て}とりぞと名{な}さへもしるき髪結{かみゆひ}のお吉{きち}が
手事{て〔ごと〕}にかけられて広{ひろ}い世界{せかい}にお吉{きち}より外{ほか}に女子{をなご}
のあらぬとまで迷{まよ}ふものから其{その}虚{きよ}につけいり何斯{なにか}
の事{〔こと〕}に仮託{かこつけ}てお吉{きち}は強六{ごうろく}をねだるにより強{ごう}六も
手段{しゆだん}をつくして貪{むさぼ}りとらるゝ大金{たいきん}をば更{さら}に惜{をし}とも思
はねど後〻{のち〳〵}は貯{たくは}への。金{かね}はさらなり衣類{いるひ}大小{だいしやう}家財{かざい}など

(10ウ)
まで売{うり}つくしお吉{きち}が方{かた}へはこびつゝしきりに困窮{こんきう}
なるにより主君{しゆくん}よりの預{あづかり}なる金子{きんす}をつかひ多分{たぶん}の引
負{ひきおひ}となりしかば重役{おもやく}のものこれを糺{たゞ}しきびしき罪{つみ}に
も行{おこ}なはるべきを千葉殿{ちばどの}格別{かくべつ}の仁慈{じんぢ}をもつて追放{ついほう}
せられたりければ強{こう}六は今{いま}さらに身{み}を落着{おちつけ}べき所{ところ}
もなければお吉{きち}が方{かた}に来{きた}りつゝ食客{かゝりうと}となりにしかばお
吉{きち}は此{この}ごろ強{ごう}六が銭{せに}なきを忌{いみ}きらひ始{はじめ}のさまには
似{に}もつかず出{で}て往{ゆけ}がしに会釈{あしらふ}ほどに強六は心{こゝろ}のうちに

(11オ)
薄情{うたて}き事{〔こと〕}よとおもひながらも今{いま}は何方{いづく}へ身{み}を寄{よせ}ん
よるべさへなきかなしさに形{あぢき}なき日{ひ}を送{をく}りけり。
作者{さくしや}曰{いわく}近曽{ちかごろ}お吉{きち}がたぐひの女{をんな}世間{せけん}にまゝ有{あり}。
色情{しきじやう}をもて男子{なんし}を蕩{とらか}し大{おゝい}に金銭{きんせん}を貪{むさぼり}
とりその尽{つく}るときにおよんでは再{ふたゝ}び顧{かへり}みる〔こと〕
なし。全{まつた}く遊女{ゆうぢよ}などの所為{わざ}におなじといへども
遊女{ゆうぢよ}は然{さ}るものといふ事を始{はじめ}より承知{しやうち}して
通{かよ}ふがゆへにその辜{つみ}も浅{あさ}かるべし。素人{しろと}めかして

(11ウ)
人{ひと}を変誂{たばかる}まつたく利欲{りよく}の為{ため}にして敢{あへ}て
聊{いさゝか}の情{なさけ}だもあらぬはその罪{つみ}いと深{ふか}からん。然{さ}
れば男子{なんし}として這般{かやう}の婦人{ふじん}に蕩{たぶらか}さるゝ
事なかれと是{これ}もまた作者{さくしや}が老婆心{らうばしん}のみ。
第十回
却説{かくて}天間町{てんまゝち}なる紙屋{かみや}にては主人{あるじ}治兵衛{ぢへゑ}なるもの
このほどより大病{たいびやう}にてうち伏{ふ}しけるが終{つひ}にはかなく
世{よ}をさりしかば形{かた}のごとく仏事{ぶつじ}をも果{はた}しけるに跡{あと}を

(12オ)
継{つぐ}べき児{こ}なきによりて親{しん}るい縁者{えんじや}もうち集会{つどひ}いろ
〳〵評議{へうぎ}なしけるに手代{てだい}小六{ころく}は稚{をさな}きより廓{みせ}につと
めて商{あきな}ひの道{みち}にも達{たつ}し殊{〔こと〕}にはわかきものに似{に}すいと
貞実{ていじつ}なるものなれば渠{かれ}を養子{ようし}としたらんには家名{かめい}
もながく相続{さうぞく}せんと評議{へうぎ}一決{いつけつ}したりしかば小六{ころく}へ
そのよしを談{たん}じけるに始{はじ}めは辞退{ぢたい}なしけれど達{たつ}て
といふに辞{いな}みがたくやがて紙屋{かみや}の家督{かとく}をつぎて名{な}を
も治兵衛{ぢへゑ}とあらためてこれよりは猶{なほ}さらに身{み}の行{おこな}ひ

(12ウ)
をも改{あらた}めて家業{かぎやう}を出精{しゆつせい}したりしかば家{いへ}はます〳〵
繁昌{はんぜう}して先代{せんだい}におとらず賑{にぎ}はしく暮{くら}しける。治兵衛{ぢへゑ}
は定{さた}まる渾家{つま}もあらず。仲間{なかま}の人{ひと}のさそひに任{まか}せ
辰巳{たつみ}なる藤本{とうほん}とかいふ楼{たかどの}にいたりお賤{しづ}といへる娼妓{ぢようろ}
をあげてあそびけるにまた是{これ}天上{てんじやう}の別世界{べつせかい}これに過{すぎ}
たる娯楽{たのしみ}のあるべしとも思はねば縡{〔こと〕}につけ折{をり}にふれ
通{かよ}ふまゝに相方{あいかた}も馴染{なしむ}につけて憎{にく}くも思はず。こと
には金銀{きん〴〵}の切{き}レ放{はな}れさへよき小六{ころく}なればいつしか深{ふか}き

(13オ)
中{なか}となりて互{たがい}に心{こゝろ}かわらじと行末{すくゆへ}かけて契{ちき}りしが
固来{もとより}多性{うはき}は娼妓{ぢようろ}のもちまへ治兵衛{ぢへゑ}になじまぬその
|御前{まへかた}婦多川{ふたがは}の牛場{うしば}といへるに|破落戸{どうらくもの}の頭{かしら}とよばれ
し皿八{さらはち}といふ雄士{をとこ}ありしがお賤{しづ}はこれと深{ふか}くも契{ちぎ}りて
既{すで}に親元{おやもと}へもわたらせて僅{わづか}な金{かね}を結納{ゆひなふ}の験{しるし}となし
て請{うけ}たれば皿{さら}八ははや我{わが}ものとし来{く}るたび〔ごと〕に無
理難題{むりなんだい}あるひは着{き}るい帯{おび}かんざし借{かり}ては返{かへ}すといふ
をしらず。諺{〔こと〕はざ}にいふ痩虱{やせじらみ}のつきしがごとくいたぶられて

(13ウ)
お賤{しづ}も今{いま}は後悔{こうくわい}なしいかにもして皿{さら}八の手{て}をきら
ばやと思へども子分{こぶん}子方{こかた}とよばれつる|破落戸{どうらくもの}も多{おゝ}
くして容易{ようい}には手{て}を切{きり}がたく兎{と}や斯{かく}とおもふをり
計{はか}らず治兵衛{ぢへゑ}になじみて見{み}ればかの皿{さら}八とは縡{〔こと〕}かは
りて情{なさけ}もふかく金{かね}もあり。さてこそ治兵衛{ぢへゑ}に思{おも}ひかえ
それより後{のち}は皿{さら}八が来{く}る〔こと〕ありても寄{より}つくず。貸{か}せと*「寄{より}つくず」は「寄{より}つかず」の誤字か
いふても断{〔こと〕は}りて始{はじ}めに変{かは}る会釈{あしらひ}に皿{さら}八は憤{いきどふ}り手{て}
をまはしてやうすをきけば此{この}ほどは紙屋{かみや}の主人{あるじ}治兵衛{ちへゑ}

(14オ)
といふに深{ふか}く馴染{なじみ}二世{にせ}までかけての約束{やくそく}せしと聞{きい}て
皿{さら}八いよ〳〵妬{ねた}みいかにもして渠等{かれら}二人{ふたり}に恥{はち}をあたへて腹{はら}を
医{い}んと一日{あるひ}子分{こぶん}の|破落戸{どうらくもの}四五|人{にん}を語{かた}らひて枝橋{えだばし}へんを
彼方{あち}此方{こち}と徘徊{はいくわい}なし若{もし}や紙治{かみぢ}の来{く}る〔こと〕もやと。往来{ゆきゝ}
の人{ひと}に目{め}をくばる。斯{かゝ}るべしとは露{つゆ}しらぬ治兵衛{ぢへゑ}は少{すこ}しの間{ひま}
を得{え}て今日{けふ}もお賤{しづ}が方{かた}へ行{ゆか}んと枝橋{えだばし}へ来{き}かゝりける向{むか}ふ
よりしていかめし気{げ}の男{をとこ}四五人|来{き}かゝりて物{もの}をもいはすつか
〳〵と治兵衛{ぢへゑ}が側{そは}へ来{きた}ると見{み}へしがよろ〳〵として突当{つきあた}り

(14ウ)
拳{こぶし}をにぎる喧嘩{けんくは}じかけおもひかけねば此方{こなた}はおどろき
身{み}をひらいて除{よけ}んとするを前後{まへうしろ}より取巻{とりまい}て「往来{わうらい}のもの
に突{つき}あたり|無言{だまつ}て往{いく}とはふてへ奴{やつ}此様{こん}な奴{やつ}は半殺{はんころし}にして
やるがいゝ」トいひさま一度{いちど}に掴{つか}みつく。治兵衛{ぢへゑ}は元来{もとより}華奢
男{きやしやをとこ}見{み}れば兇身{あひて}にならぬ奴{やつ}ばら誤{あや}まつて通{とふ}すがよしと
胸{むね}をさすつて言葉{〔こと〕ば}をつくし詫言{わび〔こと〕}いふもきかばこそ|手て{てんで}
に治兵衛{ぢへゑ}が渾身{みうち}をとらへ打{うて}ば乱{みだ}るゝ鬢{びん}の毛{け}より羽織{はをり}
着物{きもの}もばら〳〵と切{きれ}て断離{ちぎれ}て見{み}るめさへ悒顔{いぶせき}さまなる

(15オ)
治兵衛{ぢへゑ}が災難{さいなん}ソレ喧嘩{けんくは}よと四方{しほう}より集{あつ}まる人{ひと}は山{やま}
をなせども誰{たれ}あつて引{ひき}わくる人{ひと}もなければその果{はて}は泥{どろ}
にまみれつ手足{てあし}を磨{さす}りて流{なが}るゝ血{ち}さへ夥{おひたゝ}し。かゝる処{ところ}に
立{たち}ふさがりたる人{ひと}を押{おし}わけ入来{いりく}るは年{とし}まだやう〳〵十
八九|眼{め}もとすゞしく鼻{はな}高{たか}く色{いろ}さへ雪{ゆき}の富士額{ふじびたい}丹花{たんくは}
の唇{くちびる}柳{やなぎ}の眉{まゆ}その風俗{ふうぞ■}も意気{いき}なる処女{むすめ}今{いま}湯{ゆ}がへりか*「■」は「く」が大部分欠落か
浴衣{ゆかた}をかゝへちよいとさしたる横櫛{よこぐし}に光{ひか}るが如{〔ごと〕}き水髪{みづがみ}は
水際{みづきわ}のたつ打扮{でたち}なり。悪者等{わるものら}をおし隔{へだ}て【娘】「ヱヽ何{なん}だナ。

$(15ウ)
枝橋{えだばし}の辺{ほとり}に
紙治{かみぢ}の危急{きゝう}
救得{すくひえたり}
侠婦{きやうふ}の
舌頭{ぜつとう}
おたき

$(16オ)
紙治

(16ウ)
おまへ方{がた}は餘{あん}まり騒〻{さう〴〵}しいヨ。この方{かた}がマアどうおしのだヱ。
何{なん}でもいゝ。今日{けふ}の喧嘩{けんくは}は私{わちき}がもらつた。ヲヤマア〳〵着{き}ものも
なにもみンな切{きれ}てサ。そして何処{どこ}か疵{きづ}が出来{でき}たそうで血{ち}が
出{で}る。マアぢつとしてお出{いで}なはいヨ」トかゝへし浴衣{ゆかた}で治兵衛{ぢへゑ}が
腕{うで}よりながるゝ血{ち}を拭{ふい}てやれば治兵衛{ぢへゑ}はこれをよく見る
に終{つひ}に見{み}しらぬ処女{をとめ}なれば不測{ふしぎ}におもひて言葉{〔こと〕ば}を
出{だ}さぬに了得{さすが}威勢{いきほひ}猛{たけ}かりし兇児{わるもの}どもは後{あと}へしさり
「いけふさ〳〵しい此{この}野郎{やらう}めへ。半殺{はんごろし}にしてやるのだがお滝{たき}

(17オ)
さんの仲人{ちうにん}じやアまさか了簡{れうけん}せざアなるめへ。野郎{やらう}めヱ
今日{けふ}は赦{ゆる}してやるぞ。是{これ}から佶{きつ}と気{き}をつけやれ」トいひ
放{はな}してどろ〳〵と何処{どこ}へか逃{にげ}てゆく。お滝{たき}は治兵衛{ぢへゑ}を扶{たす}け
おこし【おたき】「マアとんだ目{め}にお逢{あい}なすつたねへ。私{わちき}が宅{うち}に
ゐた位{くらゐ}なら此様{こん}な事にはしませんけれど生憎{あいにく}湯{ゆ}へ
往{いつ}てさつぱり知{し}らず。何方{どこ}も痛{いた}みはなはいませんかへ」ト
やさしき介抱{かいほう}こゝろ得{え}ねど治兵衛{ぢへゑ}は詞{〔こと〕は}を正{たゞ}しくして
「思ひがけなき途中{とちう}の難儀{なんぎ}見{み}しらぬおまへの扱{あつか}ひで済{すみ}

(17ウ)
ましたは身{み}の僥倖{しあはせ}」といふをお滝{たき}は莞爾{につこり}わらひ【たき】「お
まへさんは御存{ごぞんじ}なくても私{わちき}は頓{とう}から知{し}つて居{ゐ}ますヨ。私{わちき}の
宅{うち}はアレ向{むか}ふに行灯{あんどう}の出{で}てゐる所{ところ}マア〳〵あすこへお出{いで}な
はい」ト手{て}を引たてゝ往{ゆく}ほどに治兵衛{ぢへゑ}も外{ほか}に詮方{せんかた}なけ
れば彼処{かしこ}へゆきて兎{と}も角{かく}もせばやと思ひゆきて見
れば仁田里屋{にたりや}といふ船宿{ふなやど}にて家{いへ}には下女{げぢよ}がたゞひとり
留守{るす}してをりしがこれを見{み}て駈出{かけで}れば浴衣{ゆかた}をわたし
「マア〳〵奥{おく}へ」と治兵衛{ぢへゑ}を伴{とも}なひ【たき】「たんと痛{いた}めないでよふ

(18オ)
ございますねへ。誠{ま〔こと〕}にモウいゝ苦労{くらう}をしましたヨ。アノおさんや
おまへ私{わちき}の着物{きもの}を二ツ三ツ出{だ}しておくれ。そしてネ盥{たらい}へ銅
壺{どうこ}の湯{ゆ}を汲{くん}で来{き}な。このお方{かた}に手{て}や足{あし}をお洗{あら}はせ申
からヨ」【治】「イヤモウかまつてお呉{くん}なさんな。斯{かう}してモウこゝまで
来{く}りやア私{わたし}もほつといふ息{いき}をつきました。物取{ものどり}だか意
趣{いし}遺恨{いこん}かさつぱり訳{わけ}はわからねへがイヤとんだ目{め}に逢{あ}ひ
やした。夫{それ}はそうとおまへはマア見{み}た所{ところ}はやさしい少女御{むすめご}たつた一言{ひと〔こと〕}
でアノ悪棍{てやい}が手{て}を引{ひい}たは実{じつ}にありがてへがまたどういふ因

(18ウ)
縁{いんえん}だろう。さつぱり分{わか}らねへ」【たき】「ヲホヽヽヽ。どうか私{わちき}が大処女{おゝあねへ}とやら
のやうでございますねへ。ナアニそふした訳{わけ}じやアございません。アノ人
達{ひとたち}はネ婦多川{ふたがは}の牛場{うしば}て皿八{さらはち}さんといふ人{ひと}の子分{こぶん}でございます
のさ。その皿{さら}八さんといふ人{ひと}は私{わちき}の爺{ちやん}にいろ〳〵世話{せわ}に成{なつ}た人{ひと}で
ございますからそれで私{わちき}のいふ〔こと〕を聞{きい}たのでございますヨ。何{なに}
か喧嘩{けんくは}だ〳〵と言{いひ}ますから人{ひと}の間{あいだ}から覗{のぞい}て見ると対身{あいて}はおまへ
さん先{さき}は皿{さら}八さんの子分{こぶん}だからそれで駈込{かけこん}で引{ひき}わけたのでござ
います。マアその着物{きもの}はきれてそして泥{どろ}がついて見{み}ツともない
(19オ)
からどふかするうちマアこれを着{き}てお出{いで}なはいヨ」トまだ新{あた}ら
しき結城{ゆふき}の小袖{こそで}下{した}は〓翼{ひよく}のまわり無垢{むく}いはねどしるき*〓は比(冠)+翼
嗜{たし}なみ着{き}ものかさねて治兵衛{ぢへゑ}に着{き}かへさすれば治兵衛{ぢへゑ}は
猶{なほ}さら気{き}の毒{どく}そうに辞退{ぢたい}すれども聞{きゝ}いれず【たき】「サアそ
して帯{おび}をおしめなさい。何{なん}だか女{をんな}の着{き}ものは着{き}にくうござい
ませうねへ。それに生憎{あいにく}此{この}せつは爺{ちやん}は野州{やしう}とやらへ参{まいり}まし
てネまだ五六日{ごろくにち}も立{たゝ}ないじやア帰{かへ}りません。お恥{はづ}かしい事{〔こと〕}だけれ
ど爺{ちやん}もモウいゝ年{とし}はして居{ゐ}ても此様{こん}な放蕩{とうらく}活業{せうばい}をして居{ゐ}

(19ウ)
ますものだからおまへさんにお貸{かし}申やうな着物{きもの}もありません。マア夫{それ}
で人{ひと}の見{み}ない所{ところ}にお出{いで}なはい。私{わちき}がどうかしてあげますから」ト
それより櫛笥{くしはこ}とり出{だ}して塵{ちり}をはらひて治兵衛{ぢへゑ}が髪{かみ}を結
直{ゆひなほ}し手足{てあし}を沃{そゝ}がせなどするに誂{あつらへ}と見{み}へて広蓋{ひろぶた}に三{み}ツ物{もの}
をのせて廓{みせ}へおけば下女{げぢよ}のおさんは請{うけ}とりて治兵衛{ぢへゑ}が前{まへ}へ
もち来{きた}る。おたきは莞爾{につこり}「アノ何{なに}もありませんけれどマア一{ひと}ツお
あがんなさいヨ。そうすると気{き}が晴{はれ}ますから」【治】「こりやアどうも
お気{き}の毒{どく}だネ。先刻{さつき}からしていろ〳〵とお世話{せわ}になるのみならず

(20オ)
私{わたし}の方{ほう}からこそお礼{れい}でもする筈{はづ}を是{これ}じやア却{かへつ}てあべこべ
とやらだ。夫{それ}に先刻{さつき}の騒{さは}ぎで紙入{かみいれ}は無{なく}すし」【たき】「ヲヤ左様{さう}で
ございますかへ。定{さた}めて大事{だいじ}な書付{かきつけ}でも」【治】「ナニ書付{かきつけ}や印形{いんぎやう}は
ありませんが金{かね}か些{ちつと}ばかり」【たき】「お金{かね}ばかりならようございまさ
あな。サア一{ひと}ツお始{はじ}めなさい」ト勧{すゝ}めらるゝに是非{せひ}なくも治兵衛{ぢへゑ}
盃{さかづき}とりあげて二{ふた}ツ三{み}ツ取{とり}かわし【治】「トキニモウ大{おほ}きに酔{よひ}ました。アノ
近所{きんじよ}にちよつと恃{たの}む人{ひと}はありますめへか。宅{うち}へ使{つかひ}をやつて着
物{きもの}でもとり寄{よせ}ませう」【たき】「随分{ずいぶん}人{ひと}もありますけれどマアよふ

(20ウ)
ございまさアな。おまへさん今夜{こんや}辰巳{たつみ}へ入{い}らしつて御覧{ごらうじ}まし。
とうせお泊{とまり}になりまさアな」【治】「どうして其様{そん}な所{ところ}へ往{いつ}た
ことはございやせん」【たき】「ヲホヽ。よく嘘{うそ}をおつきだヨ。憎{にく}いねへ。
其様{そん}なことをおつしやると猶{なほ}お帰{かへ}し申ません」ト留{とゞ}め
られては了得{さすが}にてしばらく盃{さかづき}をめぐらしけり。
花迺志満台二編巻之中終


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底本:国立国語研究所蔵本(W99/Sh96/2、1002334538)
翻字担当者:松川瑠里子、服部紀子、藤本灯
更新履歴:
2015年10月1日公開

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