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日本語読本NIHONGO TOKUHON[布哇教育会第3期]

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巻九

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日本語読本 巻九 [布哇教育会第3期]

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凡例
1.頁移りは、その頁の冒頭において、頁数を≪ ≫で囲んで示した。
2.行移りは原本にしたがった。
3.振り仮名は{ }で囲んで記載した。 〔例〕小豆{あずき}
4.振り仮名が付く本文中の漢字列の始まりには|を付けた。 〔例〕十五|仙{セント}
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≪p001≫
卷九 もくろく
第一 高原 二
第二 伊藤公の少年時代 四
第三 貝掘り 九
第四 じしゃく 十六
第五 ヘイアウ 二十一
第六 海水浴 三十一
第七 夕日 三十四
第八 大岡さばき 三十七
第九 かつおつり 四十二
第十 夜の虹 四十九
第十一 かんしゃ祭 五十一
第十二 東京 五十五
第十三 安倍川の渡し 六十二
第十四 木ノ高サ 七十三
第十五 布哇から 七十六
第十六 萬壽姫 八十
第十七 コロンブスの卵 九十
第十八 カメハメハ大王 九十二
課外
笛の名人 百二

≪p002≫
第一 高原
高原は、
幾千エーカーのパイナップル畠だ。
遠く、畠のはてに、
綿のような雲が低く浮かんで、
山々が、其の上に頭を出している。
畠の中をつきぬいて、

≪p003≫
黒い、廣い道がどこまでも續く。
僕らの自動車は、
快速力で走る。
谷を一つ越えると、
一面のきび畠だ。
走っても走っても砂糖きびだ。
緑の葉が風にそよいでいる。
夕日が雲の間から光をなげて、

≪p004≫
低く遠く見える海の面に、
たてに長く、
金色を流している。
第二 伊藤公{いとうこう}の少年時代
伊藤公{いとうこう}が八九さいの頃の事です。
或日、大勢の子供が、村のお宮のけいだいで遊んで
いました。しばらくの間、おにごっこやかくれんぼ
をしましたが、それにもあきて、木のかげに休みまし

≪p005≫
た。すると、一人の子供が、
「おい、よい物を見つけたぞ。」
と叫びました。指さす方を見ると、お宮のゆか下に、
お祭に使うだしの台がありました。
「面白い。引出せ、引出せ。」
と言いながら、皆で引きずり出しました。
「さあ、お祭だ。かつげ、かつげ。」
皆がかつごうとすると、さっきから此の樣子を見て
いた一人の子供が、
「お祭に使う物を、僕たちが遊び道具にするのはよ

≪p006≫
くないぞ。」
と言いました。外の子
供たちは、
「なに、かまうものか。」
「かつげ、かつげ。」
と言って、とう〳〵かつぎ出
してしまいました。
「わっしょい、わっしょい。」
「祭だ、祭だ。わっしょい、わっ
しょい。」

≪p007≫
むちゅうになってさわぎまわっ
ていました。
其の時、けいだいに一人の
老人がはいって來ました。
「何をするのか。」
とどなりました。子
供たちは驚いてふり
向くと、村のしょう屋さん
でした。
「あっ。」

≪p008≫
と言うが早いか、みんなはだしの台をそこに置いて、
逃げてしまいました。だ
が、たゞ一人逃げずにいる
子供がありました。しょ
う屋さんはふしぎそうに、
「お前はなぜ逃げないの
か。」
と尋ねると、子供は、じっとしょう屋さんの顔を見て、
「おじさん、ごめんなさい。初め、僕は惡い事だと思
って止めましたが、みんなは聞きませんでした。

≪p009≫
其のうちに、僕も面白くなって、一しょにかつぎま
わりました。どうぞ、許して下さい。」
と言いました。しょう屋さんは、急に顔色をやわら
げて、子供の頭をなでながら、
「お前は正直者だ。かしこい子供だ。」
とほめました。
此の子供が、後の大せいじ家|伊藤博文公{いとうひろぶみこう}です。
第三 貝掘り
海は少しにごっているが、波はいたって靜かです。

≪p010≫
しおが引いて、廣いひがたが
出來ています。澤山な
足あとが水ぎわまで續
いています。
私たちは、直ぐ海水着
を着て海へはいりまし
た。水はあたゝかです
ひざの所まで行って、
足の先で探ってみまし
た。やわらかいどろの

≪p011≫
中に、小石のような物が
あります。取って見る
とあさりでした。思わ
ず、
「あった、あった。」
と叫ぶと、少し先の方にい
らっしゃるお父さんが、
「あったかね。それはよ
かった。」
とおっしゃいました。

≪p012≫
兄さんは口もきかず、一心に掘っています。
「兄さん、あったの。」
と言うと、
「うん。」
と言ったきりです。又、足の先にさわりました。今
度はからの貝でした。
「春子、其のへんはだめだよ。こちらへお出で。」
と、お父さんがお呼びになりました。
「でも、そこは深いでしょう。」
と尋ねると、

≪p013≫
「少し深いけれども大丈夫だ。お出で。」
とおっしゃるので、恐る〳〵行ってみました。
なるほど、足に幾らでもさわります。手をやると、
五つも六つも同じ場所にかたまっています。掘っ
ては、肩から下げたあみのふくろに入れましたが、小
さいのは、皆海の中になげました。兄さんが、
「あったかね。」
と言って、私のそばへ來ました。
「えゝ、澤山ありました。」
と言うと、

≪p014≫
「僕は、もうふくろに一ぱいになった。ちょっと置
いて來るよ。」
そう言いながら、上って行って、濱べに置いてある米
ぶくろに入れました。
間もなく、お父さんも上って行って、お入れになり
ました。私だけは、まだふくろに半分もありません。
ホノルルから來た汽車が、ひどい音を立てて、海に
近いせんろを通りました。
しばらく掘っているうちに、こしが痛くなったの
で、すわって掘りました。そこへお父さんが、近くの

≪p015≫
家から、金あみで底を張った淺い箱とシャベルを借
りてお出でになって、
「どうだ、指が痛くなったろう。これで取るとらく
だよ。」
とおっしゃいました。
兄さんと私が箱を持ちました。お父さんがシャ
ベルでどろをすくいこむと、私たちは水の中で箱を
ゆすります。すると、どろはあみの目から下にぬけ
て、あさりだけが殘ります。
面白くて、時間のたつのも忘れていましたが、お父

≪p016≫
さんが、
「もう大分しおがみちて來た。此のくらいにして
歸ろう。」
とおっしゃいました。
西の空は夕やけでまっかでした。
第四 じしゃく
ぬい物をしていらっしゃったおばあさんが、針を
お落しになった。

≪p017≫
見ると、針はゆか板のすき間に落ちこんでいる。
ナイフの先でかき出そうとしたが、すき間がせまく
てなか〳〵取出せない。ふと、きのう兄さんからい
たゞいたじしゃくのことを思い出した。急いで取
って來て、針の上へ持って行った。すると、針は生き
物のように、ぴょんと飛上ってじしゃくにくっ着い
た。見ていらっしゃったおばあさんは、
「ありがとう、お前はなか〳〵ちえがあるね。」
とほめて下さった。
それからじしゃくでいろ〳〵な物を吸着けて遊

≪p018≫
んだ。ピン、ブリキ
のおもちゃ、くぎ、何
でもよく吸着く。
中でも面白かった
のはくぎだ。じし
ゃくをそばに持って
行くと、ころ〳〵ころ
がって來てぴしゃっと
くっ着く。後には、じしゃ
くをくぎ箱の中に入れて

≪p019≫
かきまわしてみた。する
と、小さなくぎがじしゃく
に澤山着いた。中には、くぎ
の先に外のくぎがぶら下っ
ているのもある。
たゞ銅のくぎは、いくらじし
ゃくを持って行ってもくっ着かな
い。そこへ、ちょうど兄さんがお出でに
なったので、聞いてみたら、
「じしゃくは、鐵やニッケルは吸着けるが、銅や、しん

≪p020≫
ちゅうや、アルミニューム
は、吸着けない。」
とおっしゃった。そうして、
「面白い事を教えて上げよ
う。それを砂の中へつっ
こんでごらん。」
とおっしゃった。
砂の中から取出してみると、黒い粉のような物が、
じしゃくに一面に着いていた。先の方には、ことに
澤山着いていた。これは、砂の中にある砂鐵がくっ

≪p021≫
着くのだそうだ。
第五 ヘイアウ

布哇には、いたる所に、石を積上げて作ったヘイア
ウとゆうものがあります。もうくずされてしまっ
たのもありますが、昔のまゝの形で殘っているのも
あります。
ヘイアウは、昔の布哇人が、神を祭った所なのです。
其の大きさはいろ〳〵あるが、大てい、長さ二三百フ

≪p022≫
ィート、はゞ百二三十フィート、高さ二十フィートく
らいのものです。

大昔、ハウメアとゆう女が、遠い南の國へ行った時、
そこでふしぎな木を見つけました。
葉が風に吹かれてひら〳〵動くと、それが金に見
えたり、銀に見えたりします。葉の間には、赤い花と
白い花が入りまじって咲いています。赤い花は、高
い聲で元氣よく歌い、白い花は、低い聲で靜かに歌っ
ています。ハウメアは、

≪p023≫
「これこそ神樣のお使に
ちがいない。」
と考えて、それを布哇島
へ持って歸りました。
けれども、此の木を植える
よい場所が見つかり
ません。仕方がなく、
マウイ島に渡って、あちらこ
ちら探しながら、ワイヘイの谷
まで來ました。

≪p024≫
ハウメアは水を飲もうとして、木をそこに置いた
まゝ、近くの谷川に行きました。歸って來て見ると、
木は地面に深く根を下しています。驚いて眺めて
いるうちに、芽をふき、枝をのばして、ぐん〳〵大きく
なりました。
ハウメアは喜びました。さっそく、木のいたまな
いように、其のまわりに石を高く積重ねて、かきを作
りました。これがヘイアウの始です。
或日の事、一人の男が、神樣のお姿をきざむ木を探
そうとして、こゝへやって來ました。此の珍しい木

≪p025≫
を見つけると、喜んで切りたおしましたが、日が暮れ
たので、其のまゝにして家に歸りました。
あたりはまっ暗になりました。空は黒雲におう
われて、星一つ見えません。にわかに、恐しい風がご
うごうと山から吹下して來ました。はげしい雨は
横なぐりに降って來ます。とう〳〵暴風雨になっ
てしまいました。
どろ水は、山から谷へとおし寄せました。其の流
が、物すごい音を立てて、ヘイアウにつきあたると、見
る間にがら〳〵とおしくずしました。神の使の木

≪p026≫
は、流に乘って、暗い海へ流
し出されてしまいました。

六ヶ月たちました。
或日の事、布哇島のカ
イルアの海岸で、珍しい
木の枝が、海に浮いて
いるのを見つけた者
がありました。枝の
まわりには、いろ

≪p027≫
いろの魚がむらが
っています。
これを
聞いたし
ゅう長は、
人々に言い
つけて、其の枝
を陸に運ばせ、ヘ
イアウを作ってそ
れを祭りました。それか

≪p028≫
ら後、カイルアではふしぎに魚が澤山取れるように
なりました。

ワイヘイのしゅう長は、或晩ふしぎなゆめを見ま
した。神樣があらわれて、
「川の流れこむ海岸に行って見よ。かならず神を
祭ることが出來るだろう。」
とお教えになりました。
次の晩、海岸に行って見ました。まん月が東の空
に上って、まるで晝のような明かるさでした。

≪p029≫
海には、靜かな波にゆられながら、一本の大きな木
が浮かんでいました。木からは、たえず雲が立上っ
て、海面を曇らせています。
「これこそ神木だ。」
そう思ったしゅう長は、其の木を大切に持歸って、そ
れで神樣を作りました。そうして、クホオネエヌウ
の神と名ずけ、ヘイアウを作って一心におがみまし
た。
人々は、此の神樣のお力で、皆幸福になりました。
クホオネエヌウの名は、布哇中に知れ渡りました。

≪p030≫

其の頃、オアフ島に名高い王樣がお出でになりま
した。クホオネエヌウの神樣の話をお聞きになる
と、ぜひお祭りしたいとゆうので、使をマウイ島へお
やりになりました。
王樣はコウに立派なヘイアウを作って、クホオネ
エヌウの神樣を祭りました。これが有名なパカカ
の宮です。今は取りくずされてあとかたもありま
せんが、ホノルルのアロハタワーのあたりが、昔のパ
カカの宮のあった所だと言います。

≪p031≫
第六 海水浴
いつもの所へ泳ぎに行った。もう大勢來ている。
やしの木かげのしばふには、すわっている人もあり、
寢ころんでいる人もある。海の中には、澤山の黒い
頭が見える。まるですいかを浮かしたようだ。小
さな子供は、波打ぎわでぼちゃぼちゃやっている。
日はやけつくように暑い。急いで來たので、汗がた
らたら流れる。

≪p032≫
僕は、直ぐ泳ぐ
用意をして飛び
こんだ。よい氣持
だ。さっきまでの
暑さもけろりと忘れて
しまった。皆の中には
いって泳ぎまわった。
あお向けになって泳
いでいると、ふと、誰かに
つきあたった。知らな

≪p033≫
いおじさんだった。兄
さんは、大分沖の方まで
泳いで行った。
濱へ上って、砂を掘って
遊んだ。大きな波が來て、せっかく
掘った池が、一ぺんでやられてしまった。
沖の方に、帆をかけた小さな舟が見える。はるか
地平線上にも、大きな汽船が見える。飛行機が一台
頭の上を通った。

≪p034≫
第七 夕日
赤い大きな夕日が、遠い西
の海に落ちて行く。
やけきった鐵のように
まっかである。大きな
圓の中には、何か、とろと
ろととけた物が動いて
いるように見える。
岡から見下す地上の

≪p035≫
美しさ。ククイの木立、
マンゴのしげり、其の間
に見える白い家。海は
靜かで、あい色に牛乳を
まぜたようだ。
日はぐん〳〵と落ち
て行く。下のはしは地平
線にかゝった。沈む、沈む。
もう半圓になった。三日月ほ
どに細くなった。あ、とう〳〵

≪p036≫
かくれてしまった。
だが、日の落ちた後の空は、何とゆう美しさであろ
う。今、沈んだあたりから、雲を通して幾百の細い金
のすじが、夕空に廣がっている。
すじは次第にうすれて行く。雲のはしが、金から
むらさきに、むらさきから青にかわる。
右手の空に、ぽっかり浮かんでいる雲のふちが、み
かん色に光り出した。
あたりはだん〳〵夕やみに包まれる。

≪p037≫
第八 大岡さばき
ごふく屋の手代が、大きなふろしき包を石じぞう
の前に下して、休んでいました。よほどつかれてい
たと見えて、間もなくぐっすり眠ってしまいました。
目がさめて見ると、ふろしき包がありません。中
には、白木綿が五十たんばかりはいっていたのです。
驚いてあたりを探したが、見あたりません。近所の
人に尋ねても、知らないと言います。困って、町ぶぎ
ょうへうったえて出ました。

≪p038≫
其の時の町ぶぎょう
は、有名な大岡|越前守{えちぜんのかみ}で
す。
「其の方の申す所では、
どうも石じぞう樣が
あやしい。めしとっ
て、しらべてみよう。」
と言って、下役の者に、石
じぞうをしばって來い
と命じました。

≪p039≫
下役の者は、石じぞう
をしばって、車にのせて
引いて來ました。
町の人々は、
「何だ、何だ。」
「じぞう樣がしばられている。」
「これは珍しい。じぞう樣でも惡い事をなさった
と見える。」
などと言って、四五百人の者が、ぞろ〳〵と車の後に
ついて、思わず知らず、役所の門内にはいってしまい

≪p040≫
ました。
越前守{えちぜんのかみ}は、早速門をしめさせて、見物人一同の住所
と名前を書取らせました。そうして、
「こゝは役所であるぞ。許しもなく勝手にはいり
こむとは何事だ。歸すことは出來ない。」
と言渡しました。一同は驚きました。しばらくし
て、其の中のおもな者が、越前守{えちぜんのかみ}の前に手をついてお
わびすると、越前守{えちぜんのかみ}は、
「では、許してやろう。其の代り、白木綿を一たんず
つ、名ふだをつけて直ぐ持って來い。」

≪p041≫
と命じました。
人々は、急いで白木綿を一たんずつ持って來まし
た。越前守{えちぜんのかみ}は、ごふく屋の手代を呼出して、其の中に
ぬすまれたたん物が、あるかないかをしらべさせま
した。すると二たんありました。そこで、其のたん
物を出した者を呼出して、買先をしらべ、それからそ
れへとしらべたので、とう〳〵ぬす人が分かりまし
た。
越前守{えちぜんのかみ}は、ふたゝび一同を呼出して、前に持って來
させた白木綿を返し、ついでに、石じぞうを元の所に

≪p042≫
もどしました。
第九 かつおつり
船は、あみを積んだ小舟を引いて、夕方の靜かな海
面をすべって行く。緑に包まれたヒロの町が、次第
に遠ざかる。ぼうはていを過ぎた頃から、波のうね
りが高くなって來た。
ホノリイ沖で船は止
まって、前後二つのいか
りが海に投げこまれた。

≪p043≫
これから、えさ取りであ
る。
長いさおの先に、大き
な電燈をつけて海の中
へ入れた。電燈のまわ
りに集るいわしを、あみ
ですくい取るのである。
あたりはすっかり暗
くなって、空には星一つ
見えない。遠く陸の方

≪p044≫
に、まばらにあかりが見える。波の音がさびしい。
何万とも數知れぬ小いわしは、電燈を中心に、大きな
銀色のわをえがいてまわっている。此のいわしの
むれをあみですくい上げて、いけすに入れる。しば
らく寢る。起きて見ると、又集っている。又すくう。
こうして朝の四時頃までに、四度取った。いけすの
中は、小いわしで一ぱいである。
空は晴れたが、あたりはまだ暗い。エンジンの音
が勇ましくひゞき出した。船はやみの海を走って、
ぼうはていの中にもどって來た。小舟をこゝに殘

≪p045≫
して、ふたゝび港外に出ると、うねりは前よりも高い。
船は全速力で進む。しぶきは雨のように散って來
る。
夜はすっかり明けはなれた。はるか地平線の上
に、金色の横雲が浮かんでいる。朝日が、今大空にの
ぼろうとしているのである。見る〳〵日は雲間を
はなれた。すみきった空はどこまで高いのであろ
う。海の氣はさわやかである。
船がクムカヒみさきの沖にさしかゝった時、
「あ、いるぞ、いるぞ。」

≪p046≫
と言う叫び聲が聞えた。
はるか向こうに、海面
近く鳥のむれが見える。
近ずくと、マイナくらい
のまっ黒な鳥が、幾羽と
なくみだれ飛んでいる。
かつおの集る所には、
必ず此の鳥が集る。か
つおも鳥も小魚を食お
うとするのだが、鳥には

≪p047≫
海の中の小魚が見えに
くい。それでかつおの
むれを追う。りょうし
はかつおが見えにくい。
だから鳥のむれを目あてに進むのである。
急に船の速力がゆるくなった。えさまきが、小い
わしを海面にぱら〳〵とまく。海面は、かつおのむ
れでまっ黒になる。一同は、太いつりざおと、長えの
ひしゃくを持って船べりに立つ。ひしゃくで、海水
をすくってふりまくと、かつおには、それが小いわし

≪p048≫
に見えるらしい。
つれる、つれる。二フィートあまりのかつおが、す
っと引上げられて、りょうしのわきの下にかゝえら
れる。直ぐ針をはずして、かつおを甲板に投げる。
又つり上げる。又投げる。あちらでも投げる。こ
ちらでも投げる。八人のつり手の働きぶりは、まる
で戰場の勇士のようである。たちまち甲板には、か
つおの小山が出來る。
忙しい五六分がすぎたと思う頃、不意に一匹もつ
れなくなった。かつおのむれは、どこかへ逃去った

≪p049≫
のである。船は、又鳥のむれを探して走る。見つけ
てはつる。又、走る。こうして五六度かつおのむれ
を追いかけているうちに、とう〳〵えさがなくなっ
た。
船はヒロに向かって歸りを急いだ。
第十 夜 の 虹
銀の月。
銀の波。
明かるい濱の

≪p050≫
そよ風に、
やしの葉ずれの
さや〳〵と。
虹が出た、
ほんのりと、
西のみさきの
山の上。
いつかのゆめに、
見たようだ。

≪p051≫
ウクレレの
靜かな音。
おとぎの國の
小人らが、
歌に合わせて
ひくようだ。
第十一 かんしゃ祭
千六百二十年の冬の事でした。メーフラワーと

≪p052≫
ゆう船が、ボストン近くの海岸に着きました。乘っ
て來た多くの人たちは、皆イギリス人で、女や子供も
澤山居りました。
上陸すると、まず木を切って、住む小屋を建てまし
た。それから土地を耕して、こく物をまいてみたが、
草は枯れ、木の葉は落ちるさむい冬なので、ほとんど
取入れがありませんでした。其のために食べ物が
なくなって、病氣になったり、うえ死したりする者が
澤山ありました。
悲しみのうちに、あたゝかい春が來ました。野山

≪p053≫
は緑におうわれました。一同は元氣ずいて、子供た
ちまで野に出て、青空の下で春の日をあびながら、力
一ぱい働きました。
春がすぎ、夏がすぎて、取入れの秋になりました。
むぎや、豆や、とうもろこしや、其の外いろ〳〵な物が
澤山取れました。一同の喜びはどんなでしたろう。
早速集って、まず神樣にかんしゃしました。それ
からごちそうをこしらえて、お祝をしました。上陸
した時、ひじょうに親切にしてくれたインデアンた
ちもまねきました。これがかんしゃ祭の始です。

≪p054≫
其の時のごちそ
うの中で、七面鳥の
肉が第一のおいし
い物でした。それ
で、それから後のか
んしゃ祭にも、きっ
と七面鳥のりょう
りが使われるよう
になりました。
毎年、十一月のお

≪p055≫
わりの木曜日が、かんしゃ祭の日です。
第十二 東京
横濱から電車に乘っ
て、一時間たらずで東京
えきに着く。えきを出
ると、目の前には七かい
八かいの大きな建物が
並んでいる。丸ビルは
八かいの大建物で、五千人近くの人

≪p056≫
が其の中に働いて居り、一日に出入する人は、五万人
を越すとゆうことである。
東京えきから、廣いきれいな道
が、まっ直ぐに宮城前の廣場に通
じている。東京見物に來た者は、
誰でも、まず第一に宮城をおがみ
に行く。宮城の
前には、廣い廣
い廣場があって、そこのしばふに
は松が生えている。其の廣場を通

≪p057≫
って行くと、おほりをへだてて二重橋{にじゅうばし}が見え、其の右
の方には木の間から御所のお屋根
も見える。此の廣場には、楠木正
成{くすのきまさしげ}の銅ぞうが立っている。
櫻田門を通りぬけると、議事堂{ぎじどう}
のとうが高くそびえている。
明治神宮{めいじじんぐう}は代々木にある。
けいだいがたいそう廣く、一の鳥居
をくゞると木立が深く、長いさん道にはちり一つ落
ちていず、まことにこう〴〵しい氣がする。

≪p058≫
九段坂{くだんざか}の上には靖國神社{やすくにじんじや}が
ある。青銅の鳥居は高さが七十フィート、恐らく、青銅の鳥居
では日本一で
あろう。
公園は、
小さいの
を入れると百五十もある。日
比谷{ひびや}公園には、きれいな池や、美
しい花園や、音樂堂{おんがくとう}などがある。芝{しば}公

≪p059≫
園には、大きな木が晝
でも暗いようにしげ
っていて、東京の中に
こんな靜かな所があ
るかとふしぎに思われる。
しゃしんによくある、あの犬
をつれた西郷{さいごう}さんの銅ぞうの
立っているのは、上野公園であ
る。さくらの木が澤山あって、
春の花ざかりにはたいへんなにぎわいである。園

≪p060≫
内には博物館{はくぶつかん}や美術館{びじゅつかん}や動物園がある。
東京で一番にぎやかな町は、
銀座{ぎんざ}か新宿{しんじゅく}であろう。夕方は
たいへんな人出で、サイドウォ
ークはちょっと歩けないくら
いだ。其の間の廣い車道を、電
車や自動車がひっきりなしに
走っている。地面の上ばかりで
はなく、地面の下には地下鐵道があって、電車が通っ
ている。銀座{ぎんざ}から、地下鐵道で淺草公園へ行くと、こ

≪p061≫
こゝに名高いかんのん樣がある。
毎日お祭のような人出である。
かんのん樣の
そばには、映
畫館{えいがかん}やげき
場が立並ん
でいて、にぎ
やかなこと
から言えば或は東京一かも知
れない。

≪p062≫
かんのん樣の近くに隅田川{すみだがわ}が流れている。此の
川には立派な橋が澤山かゝっている。川べりには、
さくらで有名な隅田{すみだ}公園がある。
四十七|義士{ぎし}のはかは芝{しば}の泉岳寺{せんがくじ}にある。今もな
お線こうの煙がたえない。
東京は人口が六百万以上もあって、世界第三の大
都會である。
第十三 安倍川{あべかわ}の渡し


≪p063≫
降續く雨で、あふれるほどになっていた安倍川{あべかわ}の
水も、今朝は大分引いた。「それ、川が渡れる。」とゆうの
で、今まで川べのやどにとまって、水の引くのを待っ
ていた大勢の旅人は、われもわれもと先を爭って渡
った。渡るといっても、水になれた人夫の肩に乘る
か、手を引いてもらうかして渡らなければならない。
そこで大勢の人々は、口々に人夫を呼んで、われ先に
渡ろうとする。川べのさわぎはひじょうなもので
あった。
此のさわぎの中に、見すぼらしいなりをした一人

≪p064≫
の旅人が、人夫と渡しちんを高い安いと言合ってい
たが、とても相談は出來ない
ものと見切ったのであろう、
着物をぬいで頭にのせ、一人
で川へはいって行った。そ
うして、ずい分あぶない目に
あいながら、よう〳〵向こう
の岸に着いた。
少ししてから、かの人夫は、
何氣なしに先ほど渡しちん

≪p065≫
を爭った場所へ行って見た。
すると、そこに、かわのさいふ
が落ちていた。取上げると、
たいそう重くて、中にはこば
んがどっさりはいっていた。「これは、あの人が落し
て行ったにちがいない。渡しちんが高いと言って、
一人で越したほどの人だから、此の大金がなかった
ら、氣がちがって死ぬようなことになるかも知れな
い。氣の毒なことだ。」と思って、人夫は、直ぐ川を渡っ
て旅人の後を追いかけた。

≪p066≫
五哩ほど行って、大きなとうげへかゝると、上の方
から、片はだぬいで、つえ
をつきながら、かけ下り
て來る者がある。見れ
ば先の旅人である。人
夫は呼びかけた。
「あなたは、今朝一人で
川を越した方ではあ
りませんか。」
「そうです。」

≪p067≫
「どうして、又あわてて引返すのです。」
「落し物をしましたから。」
と言い〳〵かけ出そうとする。人夫は旅人を引止
めて、
「まあ、お待ちなさい。落し物は。」
「かわのさいふです。」
「中には。」
「こばんが百五十兩。五十兩は黄色なきれに包み、
百兩は小さなふくろに入れてあります。外にま
だ手紙が七八通。」

≪p068≫
「御安心なさい。こゝへ持って來ました。」
と言って、人夫はさいふを出して渡しました。

旅人は夢かとばかり喜んで、さいふを幾度かいた
だいたが、其の目からは涙がひっきりなしにこぼれ
ている。しばらくして、
「家の中でなくした物でも、なか〳〵出ないもので
す。まして、人通りの多い渡し場で落したのです
から、たとい飛んで行って見たところで、もうある
まいと思っていました。しかし、此のまゝ歸るこ

≪p069≫
とも出來ないので、引返して來ました。いよ〳〵
ない時は、川へ飛びこんで死んでしまうつもりだ
ったのです。それがあなたのようなお方に拾わ
れて、今此のさいふをいたゞかせてもらいました
が、いたゞいたのはさいふではなくて、私の命でご
ざいます。ついては、お禮のしるしに、私の金をみ
んなさし上げとうございます。」
と言って、ふところの中に手を入れた。人夫は、
「お止めなさい。あなたから一もんでももらう氣
があるくらいなら、こゝまでわざ〳〵持っては來

≪p070≫
ません。それよりも道をお急ぎなさい。私はこ
れでおいとまします。」
と言って歸ろうとする。旅人は、「待って下さい。」と言
って、引止めながら、
「私は紀州{きしゅう}の者でございます。はる〴〵房州{ぼうしゅう}へ出
かせぎに行って、りょうをしていましたが、仲間の
者が國へ送る金をあずかって、此のさいふに入れ
て來たのです。どうぞ、お禮だけは受取って、私の
氣がすむようにして下さい。それから、あなたの
お名前をうけたまわりとうございます。妻や子

≪p071≫
供に、朝晩おねんぶつの時となえさせます。」
人夫は首をふった。
「お金をもらったら、あなたの氣はすむかも知れま
せんが、私の氣がすみません。私は川ばたの人夫
で、名前を言うほどの者ではありません。どうか
すると、其の日の暮しに困るようなこともありま
すが、心にすまないことは、まだ一度もしたことは
ないつもりです。たとい、家中の者がうえ死をす
るようなことがあっても、あなたから、いわれのな
い金をもらおうとは思いません。」

≪p072≫
こう言って、さっさと歸り出した。旅人は、「それでは
困る。ぜひ。」と言いながら、人夫の後について來たが、
とう〳〵もう一度川を渡って、人夫の家をたずねて
行った。
見れば、うす暗い小窓の下で、妻らしい人がぼろを
つずって居り、土間では、七十近い老人がぞうりを作
っていた。旅人が、わけを話してお禮の金を出そう
とすると、老人は、ちらと見たきり何とも言わず、妻も
「せっかくですが。」と言って相手にならない。旅人は
困って、とう〳〵役所へ申し出た。役人はいろ〳〵

≪p073≫
とくわしく尋ねた上、人夫を呼出して、
「さて〳〵、二人ともまことに心がけのよい感心な
者だ。紀州{きしゅう}の男は、急いで國へ歸って、其の金をま
ちがいなくとゞけるようにせよ。人夫には、役所
からほうびをやる。」
と申し渡した。そうして、澤山のお金をあたえた。
第十四 木ノ高サ
僕ノ學校ニ、ヤシノ木ガ一本アル。高サハ、ドノク
ライアロウカ。中村君ハ三十五ふぃーとクライダ

≪p074≫
ト言イ、石川君ハ、四十ふぃーと以上モアルト言ウ。
ミンナガイロ〳〵ナ事ヲ言ウガ、誰モマダ其ノ木ノ
ホントウノ高サヲ知ッテイル者ハナイ。僕ハ、ドウ
カシテ一度計ッテミタイト思ッテイタ。
其ノウチニ、僕ハ氣ガツイタ。朝ハ物ノカゲガヒ
ジョウニ長イガ、ダン〳〵チジマッテ、オ晝頃ニナル
トズット短クナリ、ソレカラ又ダン〳〵ト長クナッ
テ行ク。ソコデ僕ハ、一日ノウチニ、物ノ高サト其ノ
カゲノ長サトガ、チョウド同ジニナル時ガアルニ違
イナイト考エタ。

≪p075≫
此ノ間ノ日曜日ニ、石川君ヲサソッテ學校ヘ行ッ
タ。ソウシテ、ヤシノ木ノソバニ
一やーどホドノボウヲ立テテ、何
ベントナク、ボウノカゲノ長サ
ヲ計ッテミタ。ソウスルウチ
ニ、思ッタ通リ、ボウノ
長サトカゲノ
長サトガ、チョウド同ジニ

≪p076≫
ナッタ。ソコデ、直グニ木ノカゲヲ計ッタ。キッチ
リ四十ふぃーとアッタ。
翌日、先生ニ此ノ事ヲオ話シタラ、先生ハ、
「ソレハ、スバラシイ思イツキデス。ソウスレバ、ド
ンナ物ノ高サデモ計ルコトガ出來マス。物ノ高
サト其ノカゲノ長サトガ、同ジニナルコトハ、一日
ノウチニ、午前ト午後ニ一回ズツアルノデス。」
トオッシャッタ。
第十五 布哇から

≪p077≫
おじい樣、おばあ樣、御丈夫でお暮しですか。日本
はもうずい分おさむくなりましたでしょう。お
父樣のお話では、十一月頃からだん〳〵さむくな
って、一月二月となると、さむいとか冷たいとか言
うよりも、痛いと言った方がよいくらいのさむさ
だとのことでしたが、ほんとうにそんなさむさが
あるのでしょうか。
布哇はまだ夏のようです。朝夕は大分涼しゅう
ございますけれども、アイスクリームも食べます。
泳ぎに行く者もあります。

≪p078≫
うちでは皆丈夫で、お父樣とお兄樣は、毎日製糖場
で働いて居られますし、お母樣は、家の中の仕事で
朝から晩までお忙しいようです。私と弟は學校
へ行くのが仕事で、公立學校も日本語學校も、私が
五年生、弟が三年生です。
公立學校は、朝八時半に始って、午後二時におわり
ます。先生も生徒も、日本人・しな人・白人・布哇人な
どいろ〳〵です。けれども、言葉は皆英語です。
讀むのも英語、書くのも英語、話すのも英語です。
日本語學校は、午後二時半から一時間のおけいこ

≪p079≫
です。修身・讀方・綴方・書方だけで、英語は一切使わ
ないことにしています。けれども、思わず英語を
話して、先生に笑われることがございます。
日本語學校で、いろ〳〵の事を勉強していますと、
一度日本へ行ってみたい感じがして來ます。ハ
イスクールをそつぎょうしたら、日本見物に行か
せて上げると、お母樣がおっしゃいますけれども、
まだ、七年も八年も後のことです。でもきっと、い
つかはお目にかゝれると思います。
では、これでおしまいにいたします。どうぞお体

≪p080≫
を御大切になさって下さい。
月 日 春子
おじい樣
おばあ樣
第十六 萬壽姫{まんじゅのひめ}

源頼朝{みなもとのよりとも}が、鶴岡{つるがおか}の八幡宮{はちまんぐう}へまいをほうのうするこ
とになって、まいひめを集めました。十二人のうち
十一人まではありましたが、あとの一人がありませ

≪p081≫
ん。困っている所へ、ごてんに仕えている萬壽{まんじゅ}がよ
かろうと申し出た者がありました。頼朝{よりとも}は一目見
た上でと、萬壽{まんじゅ}を呼出しましたが、顔も姿も美しく上
品に見えましたので、早速まいひめにきめました。
萬壽{まんじゆ}はようやく十三、まいひめの中では一番年若で
した。
ほうのうの日には、頼朝{よりとも}を始めまい見物の人々が、
何千人ともなく集りました。一番、二番、三番と、十二
番のまいがめでたくすみましたが、其の中でことに
人のほめたてたのは、五番目のまいでした。此の時

≪p082≫
には、頼朝{よりとも}も面白くなって、
一しょにまいました。其
の五番目のまいをまった
のが、かの萬壽姫{まんじゅのひめ}であった
のです。
翌日、頼朝{よりとも}は萬壽{まんじゅ}を呼出
して、
「さて〳〵、此の度のまい
は日本一の出來であっ
た。お前の國はどこ、又

≪p083≫
親の名は何と申す。ほうびはのぞみ通りに取ら
せるであろう。」
と言いました。萬壽{まんじゅ}は恐る〳〵、
「別にのぞみはございませんが、唐絲{からいと}の身代りに立
ちとうございます。」
と申しました。これを聞くと、頼朝{よりとも}の顔色はさっと
かわりました。かわるもどうり、これには深いわけ
があったのです。
それより一年ばかり前の事です。木曾義仲{きそよしなか}の家
來|手塚太郎光盛{てずかのたろうみつもり}のむすめは、頼朝{よりとも}に仕えて居りまし

≪p084≫
たが、頼朝{よりとも}が義仲{よしなか}を攻めようとするのをさとって、義
仲{よしなか}の所へ知らせました。義仲{よしなか}からは直ぐ返事があ
って、「すきをねらって、頼朝{よりとも}の命を取れ。」と、木曾{きそ}の家に
つたわっていた大切な刀を送ってよこしました。
光盛{みつもり}のむすめは、其の後いつも頼朝{よりとも}をねらってい
ましたが、少しもすきがありません。かえって、はだ
身はなさず持っていた刀を見つけられてしまいま
した。其の刀に見おぼえがあった頼朝{よりとも}は、さあ此の
女にはゆだんが出來ぬとゆうので、石のろうに入れ
てしまいました。唐絲{からいと}とゆうのは、此の女のことで

≪p085≫
した。

唐絲{からいと}には、其の時十二になるむすめがありました。
それが萬壽姫{まんじゅのひめ}で、木曾{きそ}に住んで居りましたが、風のた
よりに此の事を聞いて、うばを連れて鎌倉{かまくら}をさして
下りました。二人は野をすぎ山を越え、なれない道
を一月あまりも歩き續けて、ようやく鎌倉{かまくら}に着きま
した。まず鶴岡{つるがおか}の八幡宮{はちまんぐう}へまいって、母の命を助け
たまえといのり、それから頼朝{よりとも}のごてんへ上って、う
ばと二人でお仕えしたいと願い出ました。かげひ

≪p086≫
なたなく働く上に、人の仕事まで引受けるようにし
たので、萬壽{まんじゅ}々々と、人々にかわいがられました。
さて萬壽{まんじゅ}は、誰か母のうわさをする者はないかと、
氣をつけていましたが、十日たっても二十日たって
も、母の名を言う者はありません。あゝ、母はもう此
の世の人ではないのかと、力を落していました。
或日の事、萬壽{まんじゅ}がごてんの裏へ出て、何の氣もなく
あたりを眺めていますと、小さい門がありました。
そこへ下仕えの女が來て、「あの門の中へはいっては
なりませぬ。」と申しました。わけを尋ねますと、

≪p087≫
「あの中には石のろうがあって、唐絲{からいと}樣がおしこめ
られています。」
と答えました。これを聞いた萬壽{まんじゅ}の驚きと喜びは、
どんなであったでしょう。
それから間もなくの事です。或日、今日はお花見
とゆうので、ごてんは人ずくなでした。萬壽{まんじゅ}は、其の
夜ひそかにうばを連れて、石のろうをたずねました。
八幡{はちまん}樣のお引合わせか、門の戸は細目にあいて居り
ました。うばを門のわきに立たせて置いて、ひめは
中にはいりました。月の光にすかして、あちらこち

≪p088≫
ら探しますと、松林の中に石のろうがありました。
萬壽{まんじゅ}がかけ寄って、ろうのとびらに手をかけますと、
「誰か。」と、ろう屋の中から申しました。
萬壽{まんじゅ}はこうしの間から手を入れて、
「おなつかしや、母上樣。木曾{きそ}の萬壽{まんじゅ}でございます。」
「なに、萬壽{まんじゅ}。萬壽{まんじゅ}か。」
親子は手を取合って泣きました。やがて、うばをも
呼んで、三人は其の夜を涙のうちに明かしました。
これから後、萬壽{まんじゅ}はうばと心を合わせ、時々ろう屋
をたずねては、母をなぐさめて居りました。そうし

≪p089≫
て、其の明くる年の春、まいひめに出ることになった
のでした。
親を思う孝子の心には、頼朝{よりとも}も感心して、石のろう
から唐絲{からいと}を出してやりました。二人がたがいに取
りすがって、うれし泣きに泣いた時には、頼朝{よりとも}を始め
居合わせた者に、誰一人もらい泣きをしない者はあ
りませんでした。
頼朝{よりとも}は唐絲{からいと}を許した上に、萬壽{まんじゅ}には澤山のほうび
をあたえました。そうして、親子はうばもろともに、
喜び勇んで木曾{きそ}へ歸りました。

≪p090≫
第十七 コロンブスの卵
コロンブスがアメリカを發見して歸ったとゆう
ので、スペイン人の喜びはたいへんなものでした。
或日、お祝のごちそうの時に、人々が代る〴〵立っ
て、コロンブスの成功をほめました。すると、一人の
男が、
「大洋を西へ〳〵と航海して、陸地に出あったのが、
そんなにえらい手がらだろうか。」
と言って、笑いました。

≪p091≫
これを聞いたコロンブ
スは、つと立上って、テーブ
ルの上のゆで卵を取って、
「皆さん、此の卵をテーブ
ルの上に立ててごらん
なさい。」
と言いました。人々は何
のためにこんな事を言出
したかと思いながら、やっ
てみましたが、誰も立てる

≪p092≫
ことは出來ません。
此の時、コロンブスは、こつんと卵のはしをテーブ
ルに打ちつけて、何の苦もなく立てて言いました。
「皆さん、これも人のした後では、何のぞうさもない
事でございましょう。」
第十八 カメハメハ大王
今から百五十年ばかり前までは、布哇には、どの島
にも王樣があり、其の下に幾人ものしゅう長があっ
て、人民をおさめていました。王樣は、たがいに攻合

≪p093≫
って、自分のりょう地を廣めようとしました。それ
で、いつも戰爭がたえませんでした。人民は、まるで
戰爭するために生まれて來たようなものです。
布哇島のコハラのしゅう長のむすこに、カメハメ
ハとゆう人がありました。おさない時から力が強
く、やり投でも、すもうでも、なか〳〵上手で、誰にも負
けたことはありませんでした。
カメハメハは、おじのカラニオプウ王の家來にな
って、幾度もマウイ島の王樣と戰爭をしました。大
たんでちえのあるカメハメハは、戰う度に、すばらし

≪p094≫
い働きをして、人々を驚かせました。
カラニオプウが死んだ後、カメハメハは、布哇島の
王樣になりました。其の頃、マウイ島の王樣は、モロ
カイ島、オアフ島、カワイ島と、次々に攻取ってたいへ
んな勢でした。布哇の島々を一つにまとめたいと
考えていたカメハメハは、まずマウイ島を攻めるこ
とにしました。
澤山な兵士とカヌ
ーが用意されました。
カメハメハの大軍は、

≪p095≫
どっとマウイ島にお
し寄せました。マウ
イ王は、イアオ谷に兵
を集めて、はげしく戰
いましたが、とう〳〵、
さん〴〵に打破られ
てしまいました。谷
川の水は、血でまっか
になったとゆうこと
です。

≪p096≫
其の後、カメハメハは、布哇島の大軍を引連れて、モ
ロカイ島を攻取り、其の勢で、オアフ島に攻めこみま
した。
幾百のカヌーに乘ったカメハメハの大軍は、ワイ
キキの濱からホノルルに上陸しました。オアフ王
カラニクプレは、けわしいヌアヌパリで、カメハメハ
軍と戰いました。
吹きつける風の音。岩山にこだまするときの聲。
敵みかた入りみだれて戰う物すごさ。切られ、け落
され、さすがのオアフ軍も、とう〳〵負けてしまいま

≪p097≫
した。カラニクプレは、山おくにかくれていたが、見
つけ出されて殺されました。
これで、オアフ島も、すっかりカメハメハがおさめ
ることになりました。殘っているのはカワイ島だ
けです。カワイ島の王樣は、カメハメハの勢のあま
り強いのに恐れて、自分の方からこうさんしました。
カメハメハは、長い間ののぞみ通りに、布哇の島々
を殘らず一つにまとめて、其の王樣となりました。
これがカメハメハ大王です。
大王は、まず人民に命じて、農業や漁業にせいを出

≪p098≫
させ、自分も田や畠を耕しました。島々にはえらい
家來をやって、二度と戰爭が起らないようにおさめ
させました。
布哇の人々
は、長い間の戰
爭で苦しみ續
けて來たが、大
王のおかげで、
幸福な生活が
出來るように

≪p099≫
なりました。
布哇島のコハラと、ホノルル市のキング街に、此の
英雄カメハメハ大王の立派な銅ぞうが立っていま
す。左の手にやりを持ち、右の手をさしのべた勇ま
しい姿には、いかにも大王のえらさがあらわれてい
ます。

≪p100≫
課 外

≪p101≫
笛の名人
笛の名人用光{もちみつ}は、或年の夏、土佐{とさ}の國から京都へ上
らうとして、船に乘った。
船が或港にとまった夜の事であった。どこから
かあやしい船があらはれて、用光{もちみつ}の船に近づいたと
思ふと、恐しい海ぞくがどや〳〵と乘りうつって來
て、用光{もちみつ}を取りかこんでしまった。
用光{もちみつ}は逃げようにも逃げるみちはなく、戰ふにも
刀はなかった。とても助らぬとかくごをきめた。

≪p102≫
たゞ自分は樂人{がくじん}であるから、一生の思出に、心ゆくば
かり笛を吹いてから
死にたいと思った。
それで海ぞくどもに
向かって、
「かうなっては、お前
たちにはとてもか
なはぬ。私もかく
ごをした。私は樂人{がくじん}である。今こゝで命を取ら
れるのだから、此の世の別れに一きょくだけ吹か

≪p103≫
せてもらひたい。さうして、こんな事もあったと、
世の中につたへてもらひたい。」
と言って笛を取出した。海ぞくどもは、顔を見合は
せて、
「面白い。まあ一つ聞かうではないか。」
と言った。
これが名人と言はれた自分のさいごだと思って、
用光{もちみつ}はとくいのきょくを靜かに吹始めた。きょく
の進むにつれて、用光{もちみつ}は、自分の笛の音によったやう
に、たゞ吹きに吹いた。用光{もちみつ}の前には、もう死もなか

≪p104≫
った、生もなかった。たゞ一本の笛に思をこめて、天
地にひゞけと吹鳴らした。
雲もない空には、月が美しく照ってゐた。笛の音
は、高く低く波を越えてひゞいた。海ぞくどもは、た
だ一心に耳をかたむけて聞いた。せき一つする者
もない。目には涙さへ浮かべてゐた。
やがてきょくはをはった。
「だめだ。あの笛を聞いたら、惡い事なんか出來な
くなった。」
海ぞくどもは、其のまゝ船をこいで歸って行った。

≪p105≫
卷九新出漢字
快3 速3 代4 具5 老7 丈13 夫13 濱14 借15 吸17 銅19 粉20 姿24 暴25 幸29 福29 浴31 帆33 線33
圓34 岡34 乳35 過42 投42 燈43 万44 必46 虹49 豆53 祝53 京55 公58 園58 橋62 都62 相64 談64 毒65
夢68 妻70 違74 翌76 製78 語78 徒78 英78 修79 綴79 品81 孝89 成90 功90 洋90 航90 民92 農97 業97
漁97 市99 街99
卷九讀替漢字
高{こう}2 原{げん}2 力{りょく}3 少{しょう}4 道{どう}5 探{さぐ}る10 金{かな}15 雨{う}25 長{ちょう}27 神{しん}29 木{ぼく}29 牛{ぎゅう}35 次{し}36 木綿{もめん}37 命{めい}38 早速{さっそく}40
住{じゅう}40 代{かわり}40 數{かず}44 中{ちゅう}44 港{こう}45 甲{かん}48 板{ばん}48 去{さ}った48 音{ね}51 祭{さい}51 耕{たがや}す 52鳥{ちょう}54 東{とう}55 宮城{きゅうじょう}56
代{よ}57 青{せい}58 花園{はなぞの}59 下{か}60 或{あるい}は61 人{じん}62 爭{あらそ}って63 安{やす}い64 通{つう}67 相{あい}72 計{はか}って74 日{じつ}76 白{はく}78
言{こと}78 身{しん}79 切{さい}79 仕{つかえ}81 返{へん}84 二十日{はつか}86 世{よ}86 下{しも}86 雄{ゆう}99

≪p106≫
卷一新出漢字
子 中 大 立 一 二 三 四 五 行 外 六 七 八 九 十 目
卷二新出漢字
赤 小 白 青 今 木 下 持 上 切 入 言 見 畠 泣 出 月 日
光 山 虫 玉 拾 早 來 手 自 分 思 水 戸 方 首 私 前 先
生 休 貝 少 待 門 犬 川 時 男 名 向 刀 人 車
卷三新出漢字
花 君 取 受 長 石 重 同 本 穴 口 所 郎 次 毎 又 間 何
雲 風 空 吹 天 雨 夕 夜 星 右 面 左 朝 田 枝 考 僕 急

≪p107≫
走 音 昔 土 金 話 聞 松 米 火 枯 咲 歩 集
卷四新出漢字
動 學 校 氣 笑 寸 神 指 高 舟 供 遠 通 忘 買 匹 島 作
沖 引 海 太 紙 顔 耳 茶 色 細 合 助 皿 黄 始 草 度 美
糸 困 年 逃 夏 町 友 喜 着 物 近 足 道 母 知 起 元 妹
枚 書 牛 答 用 千 百 強 落 羽 使 店 種 呼 渡 黒 兩
卷五新出漢字
電 竹 谷 岸 流 食 晩 苦 樣 洗 賣 家 箱 村 住 死 仕 病
体 皮 皆 息 父 新 多 止 雄 讀 半 泳 砂 池 打 親 並 地

≪p108≫
暗 力 飲 明 鳥 番 廣 弱 越 岩 西 東 眺 仲 負 毛 痛 申
國 主 弟 兄 深 後 銀 雪 綿 葉 追 文 字 横 女 森 井 古
形 北 卷六新出漢字
事 聲 消 鐵 正 直 若 鳩 屋 根 頭 週 鳴 育 春 者 別 兵
弓 乘 遊 勉 開 叱 丸 攻 敵 矢 連 勝 歸 歌 心 會 平 命
去 苗 植 實 樂 魚 或 煙 殘 數 安 澤 教 固 肉 窓 机 腹
探 靜 尾 恐 破 短 庭 尋 置 勇 波 飯 午 肩 底 曜 乾 沈
惡 居 勢 誰 悲 涙 湯 暮 配 耕 送 涼
卷七新出漢字

≪p109≫
港 船 達 實 馬 汽 針 進 頃 世 界 身 汗 晴 布 哇 寢 運
働 王 組 角 深 掘 飛 野 笛 意 眠 血 刀 旅 商 御 片 荷
甲 乙 役 淺 雀 降 其 台 糖 不 以 坂 計 士 戰 爭 軍 負
殺 内 類 元 姉 原 晝 送 工 場 寺 習 板 主 幾 裏 共
卷八新出漢字
活 登 冬 末 南 鼻 曇 此 秋 陸 官 許 畫 建 返 叫 散 隣
頂 室 噴 初 汁 背 卷 側 珍 有 感 積 包 哩 浮 照 冷 卵
貧 灰 頼 禮 宮 祭 派 城 全 部 張 續 機 林 低 記 回 願
芽 緑 最 鉢 寄 景 發 驚 胸 柱 忙 暑 舌


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底本:ハワイ大学マノア校図書館ハワイ日本語学校教科書文庫蔵本(T623)
底本の出版年:1937年9月10日発行、1940年8月10日再版
入力校正担当者:高田智和
更新履歴:
2021年11月27日公開

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