日本語読本 巻七 [布哇教育会第3期]
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凡例
1.頁移りは、その頁の冒頭において、頁数を≪ ≫で囲んで示した。
2.行移りは原本にしたがった。
3.振り仮名は{ }で囲んで記載した。 〔例〕小豆{あずき}
4.振り仮名が付く本文中の漢字列の始まりには|を付けた。 〔例〕十五|仙{セント}
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≪目録≫
もくろく
第一 港の朝 二
第二 ひこうき 三
第三 天の岩屋 十一
第四 月夜 十六
第五 メネフネ 二十
第六 のうふ 三十一
第七 八岐のおろち 三十三
第八 逃げたらくだ 三十九
第九 雀の子 四十九
第十 自動車 五十六
第十一 なさけぶかい兵士 六十四
第十二 きびやき 六十九
第十三 メリーのきてん 七十五
第十四 まきば 八十
第十五 手紙 八十二
第十六 年こし 八十七
第十七 雪舟 九十一
第十八 アンドロクラスとしゝ (一) 九十八
第十九 アンドロクラスとしゝ (二) 百三
課外 少彦名のみこと 百十
≪p002≫
第一 港の朝
沖の波、
ほんのり白み、
港の朝は
靜かに明ける。
船のかげ、
ほばしらのかげ、
≪p003≫
かゞみの海に
ゆら〳〵うつる。
白い船、
朝日をあびて、
波かき分けて
靜かにはいる。
第二 ひこうき
≪p004≫
三郎「おじさん、おみやげありがとうございま
す。」
はつ子「ありがとうございます。」
おじ「よく來たね。お前達のすきな物を、澤山
買って來ようと思ったが、ひこうきで歸っ
たものだからね。」
三郎「何時にホノルルをお立ちになりました
か。」
おじ「今朝八時にホノルルを立って、九時には
≪p005≫
もうリフエに歸ったのだよ。」
はつ子「おじさん、ひこうきはこわいでしょうね。」
おじ「こわいどころか、實にゆかいだった。下
を見おろした美しさは、何とも言えないよ。
ひこうきが地面をはなれたかと思うと、も
う目の下に家がおもちゃのように見える。
道がくね〳〵まがって、長くつずいている。
きび畠や、パイナップル畠がまるでしまや
もようのきれをしいたように見えるよ。」
≪p006≫
三郎「僕達が、學校の庭で遊んでいるのも見え
ましたか。」
おじ「それは見えなかったよ。馬がねずみく
らいにしか見えないのだからね。」
はつ子「海の上をとんで行く時は、どんなでした
か。」
おじ「海の上はまったく氣持がいゝね。波は
青いちりめんのようだ。白い波を立てて
走る汽船は、ボートくらいに見える。」
≪p007≫
三郎「ひこうきには、
うんてん手が二
人いるのですね。」
おじ「そうだ。しか
し二人で一しょ
にうんてんはし
ない、時々かわり
合うのだ。うん
てんする人は、わ
≪p008≫
き見もしないで前の方ばかり見つめてい
る。一時間百マイルとゆうはやさだから、
少しもゆだんは出來ないさ。」
はつ子「雲の中に、はいったことがありましたか。」
おじ「うん、一度あった。まっ白な雲が、ひどい
いきおいでとんで來ると思ったら、それは、
こっちから雲の中へはいったのだった。
しばらくは空も海も見えなかったよ。」
三郎「どこも見えないようになったら、方がく
≪p009≫
が分らなくはなりませんか。」
おじ「ひこうきには、じしゃくがつけてあるか
ら、その針を見て進みさえすればいゝのだ。
それに、ホノルルとカワイ島との間は、たっ
た一時間しかかゝらないから、空でまよう
ようなことはないさ。」
三郎「ひこうきは、ちゅうがえりをしませんで
したか。」
おじ「ちゅうがえりはせんそうのけいこだ。
≪p010≫
島通いのひこうきは、たゞまっすぐにとん
で行くだけだ。」
三郎「僕も、ひこうきにのって見たいなあ。」
はつ子「わたしも。しかし、こわいでしょうね。」
おじ「お前達くらいの子供も、一しょに乘って
來たよ。たいへん面白がっていた。お前
達が大人になる頃は、どこへでも、ひこうき
でりょこうするようになるだろう。」
≪p011≫
第三 天{あめ}の岩屋
天照大神{あまてらすおうみかみ}が、天{あめ}の岩屋へおはいりになって、
岩戸をおしめになりました。明かるかった
世界が、急にまっ暗になりました。すると、今
までかくれていた、いろ〳〵のわるものが出
て來て、らんぼうをしたり、いたずらをしたり
しました。
大勢の神樣が、お集りになって、
≪p012≫
「どうしたらよかろうか。」
と、ごそうだんなさいました。
思いかねの神とゆう、たいそうちえのある
神樣のお考で、神樣方のなさることがきまり
ました。
或神樣は、大きいりっぱなかゞみをお作り
になりました。或神樣は、きれいな玉を澤山
作って、くびかざりのように、ひもにお通しに
なりました。又、或神樣は、山へ行って、大きな
≪p013≫
さかきの木を根こぎにして、持っていらっし
ゃいました。
このさかきの木に、かゞみと玉をかざって、
岩屋の前に立て、又澤山のにわとりを集めて、
岩屋の前でお鳴かせになりました。
この時、天{あめ}のうずめのみこととゆう女の神
樣が、岩屋の前へ進んで、まいをなさいました。
かずらをたすきにかけ、さゝの葉を手に持っ
て、ふせたおけをだいにして、その底をとんと
≪p014≫
んふみ鳴らしながら、こっけいな手ぶりや身
ぶりをして、面白くおまいになりました。
大勢の神樣は、どっとお笑いになりました。
あまり面白そうなので、天照大神{あまてらすおうみかみ}は、少しばか
り岩戸をあけて、おのぞきになりました。す
ると、神樣方は、さか
きの木を、ずっと前
へお出しになりま
した。
≪p015≫
大神{おうみかみ}のおすがた
が、かゞみにうつり
ました。大神{おうみかみ}は、い
よいよふしぎにお
思いになって、少し
戸の外へ出ようと
なさいました。
岩戸のそばで待
っていらっしゃっ
≪p016≫
た天{あめ}の手力男{たじからお}のみことは、この時とばかり、さ
っと岩戸をあけて、大神{おうみかみ}のお手を取って、外へ
お連出し申しました。
世界中が、もとのように明かるくなりまし
た。大勢の神樣は、手を打ってお喜びになり
ました。
第四 月夜
ゆかたをかゝえて、ふろばに行きました。
≪p017≫
夕方、フットボールをしたので、体は汗でべと
べとです。
すっかり洗い流して、外に出ました。空は、
すっきりと晴れて、かゞみのようにすんだ月
が、庭のやしの葉の下に見えています。
「きれいなお月樣だなあ。」
ひとりごとを言って、涼しい風に吹かれなが
ら、しばらく眺めていました。
やしの葉の間を、月がだん〳〵上って行く
≪p018≫
のがはっきり分ります。
美しい月です。
靜かな夜です。
いつの間に來たか、ポチがそばに立ってい
ます。
「ポチ。きれいなお月樣じゃないか。お前
もそう思はないかい。」
しかしポチは、僕の顔ばかり見ていて、お月
樣を見ようとはしません。
≪p019≫
「さあこれから勉強だ。ポチも夜は仕事だ
ね。遊びに出るのじゃないよ。」
頭をなでてやると、じっとして靜かに尾を
ふっています。
≪p020≫
何におどろいたのか、とり小屋のにわとり
がこゝゝゝと鳴き出しました。
第五 メネフネ
大昔、布哇の島々には、メネフネとゆうふし
ぎな小人が、澤山住んでいました。
メネフネは、私達の半分ぐらいの高さしか
ありませんが、たいそう元氣がよくて、どんな
けわしいがけでも、山でも、平氣で上って行き
≪p021≫
ます。晝の間は、山おくのほら穴や、木のうろ
の中にはいっていて、人間が寢靜まると、出て
來て、いろ〳〵な事をします。
びゃくだんの木を切りたおして、海べへ運
んで行って、そこにとまっている船に、つみこ
んでやったのも、メネフネです。高い山のい
たゞきに、大きな石を立てたのも、メネフネで
す。
メネフネは、どんな事でも一晩のうちにし
≪p022≫
てしまいます。いつも、澤山のメネフネが、一しょ
になって働くのです。けっして、自分勝手な
事をしたり、ぼんやり立って見ていたりはし
ません。みんな心をそろえ力を合わせて、せ
っせと働くのです。
カワイ島のワイメアに、「メネフネデッチ」と
ゆうみぞがあります。みぞを流れる水は、大
きな岩をくりぬいたトンネルへはいって、そ
れから、ずっと向こうの田の方へ流れていま
≪p023≫
す。このすばらしい仕事も、メネフネがした
のだそうです。
カワイ島に、オラ
とゆう王樣があり
ました。その頃、カ
ワイ島の川の水は、
石のわれ目に流れ
こんでしまったも
のです。それで、田
≪p024≫
や畠に水をかけるには、雨ふりを待つより外
はありませんでした。カワイ島の人達は、た
いそう困っていました。
王樣は、何とかして水を引くくふうはある
まいかと、お考えになりましたが、なか〳〵出
來そうにもありません。そこで、まほう使の
ピーに、
「田に少しも水がかゝらないので、のうふ達
がたいへん困っている。水を引くくふうは
≪p025≫
あるまいか。」
とお尋ねになりました。
「人間にはとても出來ません。メネフネに
たのんだら、出來るかも知れません。」
「では、お前、メネフネにたのんでくれないか。」
「よろしゅうございます。」
ピーは、まほう使ですから、よくメネフネ達
に知られていました。遠いモキハナの山お
くへ行って、メネフネの頭にあいました。そ
≪p026≫
うして、
「王樣の土地にいるのうふ達が、田に水を引
けないので、たいへんなんぎをしている。
どうか、水が流れて來るようにしてもらい
たい。」
とたのみました。
親切なメネフネの頭は、
「さっそくいたしましょう。」
と、こゝろよく引受けました。
≪p027≫
夜になると、メネフネの頭は、大勢のメネフ
ネ達を呼集めて、その仕事を言いつけました。
すると、一組は、大きな石を澤山集めました。
一組は、澤山の石をきれいに、四角に切りまし
た。
その次の夜は、モキハナの山おくから、てん
でに石を運んで來ました。一組は、深いみぞ
を掘って、そのうちがわに、四角に切った石を
しっかりとしき並べました。一組は、運んで
≪p028≫
來た大きな石
をつんで、川に
せきをこしら
えました。
せきが出來
上ると、川の水
は、ざあ〳〵と
音を立てて、勢
よくみぞに流
≪p029≫
れこんで來ま
した。
月の光にて
らされて、きら
きらと白い波
を立てながら、
水は流れまし
た。メネフネ
達は喜んで、大
≪p030≫
きな聲でさけびました。その聲は、オアフ島
まで聞えて、カワイヌイの池にいた水鳥が、び
っくりして飛立ったほどでした。
今まで、かわききってあれ野になっていた
ワイメアの田や畠は、この水のおかげで、タロ
ややさいがよく出來るようになりました。
「メネフネデッチ」のそばの道ばたには、「ピー
のにもつ」と言われる切石が、今でも殘ってい
ます。
≪p031≫
第六 のうふ
今日も朝から
畠のしごと。
ならぶ玉なの
根もとの土は、
一くわごとに
新しく、
さっく、さっくと
≪p032≫
掘りかえされる。
玉な畠は、
はやもうすんだ。
ホーにもたれて
一息つけば、
顔に流れる
玉の汗。
ひるの汽笛が
≪p033≫
遠くでひゞく。
第七 八岐{やまた}のおろち
天照大神{あまてらすおうみかみ}のおん弟に、すさのおのみことと
申して、たいそう勇氣のある神樣がいらっし
ゃいました。
或時、出雲{いずも}の國の、ひの川の岸をお通りにな
ると、川上からはしが流れて來ました。みこ
とは、この川上に人が住んでいるなとお思い
≪p034≫
になって、川について、だん〳〵山おくへおは
いりになりました。すると、おじいさんとお
ばあさんが、一人のむすめを中に置いて、泣い
ていました。
「なぜ泣くのか。」
と、みことがお尋ねになると、おじいさんが、
「私どもには、もとむすめが八人ございまし
たが、八岐{やまた}のおろちとゆう大じゃに、毎年一
人ずつ食われて、もうこの子一人になりま
≪p035≫
した。今年も、ちょうどその大じゃが出て
來る時分になりまし
たので、泣いているの
でございます。」
と申しました。
「一たいどんな大じゃ
か。」
「長さは八つの山、八つ
の谷にわたるほどで
≪p036≫
頭が八つ、尾が八つ、目はまっかで、せなかに
はこけが生えています。」
みことは、この話をお聞きになって、
「よし。その大じゃをたいじしてやろう。
強いさけを澤山つくれ。そうして、八つの
おけに入れて、大じゃの來る所へ並べて置
け。」
とお言いつけになりました。
その通りに用意して待っていると、間もな
≪p037≫
く大じゃが出
て來ました。
さけを見つけて、
八つの頭を八つ
のおけに入れて、が
ぶがぶと飲みました。
そのうちに、よいがま
わって、とう〳〵眠っ
てしまいました。
≪p038≫
みことは、つるぎをぬいて、大じゃをずたず
たにお切りになりました。赤い血が、たきの
ように流れました。ひの川の水が、まっかに
なりました。
尾をお切りになった時、かちっと音がして、
つるぎの刀がかけました。ふしぎにお思い
になって、尾をさいてごらんになると、たいそ
うりっぱなつるぎが出て來ました。
「これは、とうといつるぎだ。」と、みことはお
≪p039≫
思いになって、天照大神{あまてらすおうみかみ}にお上げになりまし
た。
第八 逃げたらくだ
一
さばくの中で、或旅人が、二人の商人に出あ
いました。
旅人「あなた方は、たいそう心配らしい御樣子
ですが、もしや、らくだを逃したのではあり
≪p040≫
ませんか。」
二人「そうです、そうです。」
旅人「そのらくだは、片目ではありませんか。
右の目がつぶれていましょう。」
二人「よく知っていますね。まったくその通
りです。」
旅人「そうして、右の足が一本短くて、前ばが二
三本ぬけていましょう。」
二人「それにちがいありません。どこでごら
≪p041≫
んになりましたか。」
旅人「そうして、つけていた荷物
は、むぎでしょう。」
二人「たしかにそうです。どこ
にいるか、どうぞ、早く教えて
下さい。」
旅人「いや、私はそのらくだを見
たのではありません。」
≪p042≫
「え、でも、そんなにくわしく知っていらっし
ゃるではありませんか。」
乙の商人、
「それとも、誰かにお聞きになったのですか。」
旅人「いゝえ、見たのでも、聞いたのでもありま
せん。」
二人は、顔を見合わせて、
甲「おかしいね。こいつがどろぼうだぞ。」
乙「そうだ、そうだ。さあ、役所へ引っぱって行
≪p043≫
け。」
二人は、むりに旅人を役所へ引っぱって行き
ました。
二
役人は、三人を呼出して、
役人「一たい、どうゆふ事か、くわしく申せ。」
甲「この男が、私どものらくだをぬすんだので
ございます。私どもは、むぎをつけたらく
だを引いて、さばくの中を通っていました
≪p044≫
が、とちゅうで一休しているうちに、つい眠
ってしまいました。」
乙「目がさめて見ると、らくだがいませんので、
おどろいて方々探して歩きました。その
とちゅうで、この男に出あいますと、向こう
から、『らくだを逃したのではないか』と
尋ねるのでございます。」
甲「そうして、そのらくだは、片目だろうの、びっ
こだろうの、はがぬけているだろうのと、一
≪p045≫
一見たように申すの
でございます。」
乙「その上、つけていた荷
物まで言いあてました。」
二人「らくだをぬすんだ
のは、どうしても、この
男にちがいありませ
ん。」
≪p046≫
役人「こりゃ、旅人、その方にも、言い分があるな
らば申せ。」
旅人「私をぬす人などとは、とんでもない事で
す。私がさばくを歩いていますと、らくだ
の足あとがつずいているのに、人の足あと
が見えません。それで、らくだが逃げたの
ではないかと思ったのでございます。」
役人「そのらくだが片目だとゆう事は、どうし
て分ったか。」
≪p047≫
旅人「道の片がわの草ばかりが、食ってあった
からでございます。」
役人「それでは、びっことゆう事は、どうして知
っているか。」
旅人「片方の足あとが、一つ置きに淺くなって
いるので分りました。」
役人「はのぬけているとゆう事は、どうして分
ったか。」
旅人「草を食取ったあとを見ますと、かみ切れ
≪p048≫
ないで、殘っている葉があるので、そう考え
ました。」
役人「なるほど、聞いて見れば、一々もっともで
ある。」
二人「もし〳〵、お役人樣、それなら、荷物をどう
して知っているのでございましょうか。」
旅人「それは何でもありません。道に、むぎが
こぼれていたからです。」
役人「よし〳〵、よく分った。たしかに、お前が
≪p049≫
ぬすんだのではない。もう歸ってよろし
い。二人がうたがったのも、むりではない
が、今聞いた通りである。早く行って、らく
だを探すがよい。」
第九 雀の子
雨の降る夕方でした。
お使の歸りに、道の上でかわいゝ雀の子が、
ちゅっちゅっと、悲しそうに鳴いているのを
≪p050≫
見つけました。
私が近よっても、逃げようとしません。ま
だ飛べないのです。そっとつかまえると手
の中で、ぶる〳〵ふるえています。道にさし
出たキヤベの枝を見上げると、雀のすがあり
ます。多分、あれから落ちたのでしょう。私
は、子雀を手の中に入れてうちへ歸りました。
お母さんに、カナリヤの空かごを出してい
たゞいて、其の中に入れてやりました。子雀
≪p051≫
は恐しいのか、動きもせずにだまっていまし
た。
次の日は、よいお天氣
でした。
私は起きると、直
≪p052≫
ぐ子雀を見ました。さびしそうに鳴いてい
ます。かごを、庭のゴールデンシャワーの枝
につるして、御飯つぶを入れてやりました。
「後で、水をやって下さい。」
と、お母さんにたのんで、學校へ行きました。
學校から歸って見ると、大分元氣そうなの
で安心しました。でも、夕方になると、しきり
に、悲しそうに鳴きます。
「お母さんの所へ行きたいのだろう。明日
≪p053≫
逃してやろう。」
と思いましたが、まだよく飛べないし、それに、
逃すのがおしいような氣がするので、やっぱ
りかって置くことにしました。
四五日たってからの事です。
學校から歸って、かごの子雀を見に行きま
した。ふと、上を見ると、ゴールデンシャワー
の枝に、虫をくわえた親雀がいて、じっとかご
の方を見ています。
≪p054≫
私ははっとしました。
毎日こうして、親が子をやしなっているの
だなと思うと、急に、親
雀がかわいそうにな
りました。
「もう飛べるように
なったから、出して
やるよ。さあ、お母
さんの所へ飛んで
≪p055≫
おいで。」
私は、そう言いながら、かごの戸をあけました。
子雀は、ぱっと飛出しました。
しばらく、そばのハイビスカスの枝に止っ
て、鳴いていましたが、やがて、となりの庭の方
へ飛んで行きました。親雀も、子雀の後を追
って、飛んで行きました。
私は、今でもあの子雀の鳴き聲が、聞えて來
るような氣がしてなりません。
≪p056≫
第十 自動車
父が自動車をうんてんして、兄と私と三人
で、となり耕地へ行きました。出かける時、兄
が、
「お父さん、向こうへ着くまでに、何台自動車
に出あうと思いますか。」
と言いました。父は笑いながら、
「そうだね、いなか道だから、あまり澤山は來
≪p057≫
ないだろう。十五台かな。竹雄は何台と
思うね。」
私は、
「二十五台は出あうと思います。兄さんは。」
と、兄の顔を見ると、
「わずか五六マイルの道で、そんなに來るも
のか。僕は十台だ。」
兄がそう言った時には、父はもう自動車を走
らせていました。
≪p058≫
間もなく、一台の古自動車が、大きな音を立
ててやって來ました。
「一台。」
兄が言いました。直ぐ、又新しいのが、音もな
く走って來ました。
「二台。」
私が言いました。
ぽうっと、汽車の汽笛が、向こうのきび畠の
中から聞えて來たと思うと、ふみ切の前で、父
≪p059≫
は自動車を止めました。
向こうがわにも、五台の自
動車がつずいて止りまし
た。
「三台、四台、五台、六台、七台。」
と、かぞえているうちに、「ぽ
っ、ぽっ、ぽっ、ぽっ。」と、黒い煙
をはきながら、砂糖きびを
つんだ長い汽車が、ものす
≪p060≫
ごい勢で、地ひゞきをさせて、ふみ切を通りま
した。「もし自動車が、汽車にしょうとつした
らどんなだろう。」と思うと、恐しい氣がしま
した。
しばらく行くと、まっ白な自動車が來まし
た。
「八台。」
其のうちに、二十年も使ったらしいフォー
ドが來る、中古のシボレーが來る、プリモスが
≪p061≫
來る、ダッジが來る。いつの間にか、兄の言っ
た十台を通りこして、十四台になりました。
「今日は、いつもより多いようだな。」
がっかりしたように兄が言うと、父も、
「まだ道の半分も來ないのに、こう出あった
のでは、竹雄の勝かも知れない。」
と言いました。
不意に、ホーンを鳴らしながら、恐しいはや
さで私達を追いこして、見る間に、向こうのま
≪p062≫
がり角をまがった自動車がありました。
「あんなに走らせるからあぶないのだ。こ
こらは、三十五マイル以上出してはならない
のだ。」
と、父が言いました。
下り坂のまがった道へさしかゝると、いく
台もいく台も、坂を上って來ました。
「やあ、來る、來る。十五、十六、十七、十八、十九、十
九台になった。」
≪p063≫
と、兄が言いました。
坂を下りてしまうと、まっ直な道の向こう
に、キャンプが見え出しました。
二十四台までかぞえた時、となり耕地の事
む所の前で、父は車を止めました。澤山の人
達が、面白そうに話しながら、ぞろ〳〵歸って
行きます。父は時計を出して見て、
「ちょうど三時だ。あゝ、今日は土曜日だっ
た。それで車が多かったのだ。竹雄の勝
≪p064≫
だったなあ。」
と言いました。
第十一 なさけぶかい兵士
昔、デンマークとスエーデンとが戰爭した
時の事です。
或日のはげしい戰に、スエーデン軍は、さん
ざんに負けてしまいました。
其の時、ふしょうした一人のデンマーク兵
≪p065≫
が、水を飲もうとして、水とうを口にあてると、
「おゝ、君、僕にも一ぱい飲ませて下さい。も
う死にそうです。」
と、言う者があります。見ると、それは、少しは
なれた所に、やはり、ふしょうして苦しんでい
る敵兵です。
デンマーク兵は、直ぐそばへ行って、
「さあ、飲みたまえ。君の方が苦しそうだ。」
と言いながら、飲ませてやろうとしました。
≪p066≫
敵兵は、ひじで体をさゝえて、やっと起上っ
たかと思うと、デンマーク兵を目がけて、ずど
んと、ピストルを打ちました。
たまは、ひゅっと肩をかすりました。
「あっ。」
とさけんだデンマーク兵は、いきなり、敵兵の
うでをおさえつけました。
「この不とゞき者め。僕を殺すつもりだな。
よし、僕は、この水をすっかり君にやろうと
≪p067≫
思ったが、もう半
分しかやらない
ぞ。」
こう言って、自分で
半分飲んで、殘りを
敵兵に飲ませてや
りました。
戰爭がすんだ後、
デンマークの王樣
≪p068≫
が、この事をお聞きになって、其の兵士をお呼
出しになり、くわしく其の時の樣子を、お尋ね
になりました。
「お前を殺そうとした敵を、なぜお前は助け
てやったのか。」
王樣がおっしゃると、
「私は、どうしても、ふしょうした敵を殺す氣
には、なれなかったのでございます。」
と申し上げました。
≪p069≫
王樣は、この兵士のなさけ深い心をおほめ
になって、りっぱなくんしょうを、おさずけに
なりました。
第十二 きびやき
家内中で、耕地の親類へ行く時の事でした。
廣いきび畠の間の道で、父は、自動車を止め
ながら、
「きびやきが始まるから、ちょっと見て行こ
≪p070≫
う。」
と言いました。皆喜んで車から下りました。
馬に乘って向こうから走って來た人が、
「オーライ。」
と言うと、今まで、畠のすみにすわって待って
いた人が、砂糖きびの枯葉を十枚ばかり取っ
て、火をつけました。それを持って畠にはい
ると、あちらこちらと、きびの枯葉に火をつけ
て歩きます。火は黒煙を立てながらぱちぱ
≪p071≫
ちともえ廣がって、
見る間に、畠は大火
事になってしまい
ました。僕はおど
ろいて、
「せっかく作った
砂糖きびを、なぜ
やいてしまうの
でしょう。」
≪p072≫
と尋ねると、父は、
「きび切をする前に、こうして葉だけやいて
しまうのだ。葉があると、砂糖きびを切る
のにじゃまになる。葉をやいてしまえば、
根元もはっきり見えるし、仕事も早く出來
る。つまり、手間をはぶくためなのだ。」
と教えてくれました。すると姉が、
「あんなに大火事になっても、砂糖きびはや
けてしまわないのでしょうか。」
≪p073≫
と、ふしぎがりました。
火は恐しい勢で、風にあおられながら、向こ
うへもえうつって行きます。
「そこをごらん。もう葉がもえてしまって、
くきだけ立っているだろう。くきは固い
し、水氣が澤山あるから、なか〳〵やけはし
ない。」
なるほど、父の言う通り、目の前の砂糖きび
は、黒い、長いぼうの先に、若い葉だけを殘して、
≪p074≫
さびしそうに立っています。
火はもう大分遠くなりましたが、まだ、さか
んにもえています。僕達は、しばらくだまっ
て見ていました。
「きびやきの樣子は、もう分ったろう。おそ
くなるから、出かけよう。」
そう言って、父は、自動車へ乘りました。
母は、ほこりのついた目がねをふきながら、
「こんな事は、布哇でなければ見られません
≪p075≫
ね。」
と言いました。
これまで、時々、遠い空が大火事のように、赤
くやけるのを見て、僕は、ふしぎがったもので
す。「あれはきびやきだ。」と、父は教えてくれ
ましたが、今日始めて其のわけがはっきり分
りました。
第十三 メリーのきてん
≪p076≫
あわたゞしく、かけこんで來た者がありま
す。見れば、自分の國の兵士です。
「かくして下さい。敵が追っかけて來ます。」
メリーは、どうかして、かくしてやりたいと思
いました。けれども、まずしい木こり小屋で、
戸だな一っもありません。困っていますと、
「では、水を一ぱい下さい。」
と、兵士が言いました。メリーが大急ぎで、コ
ップに水をくんで來ました。あまり急いだ
≪p077≫
ので、水が、いすの上にあったおばあさんのず
きんの上にこぼれました。
「あゝ、そうだ。」
と言って、メリーは、おばあさんのずきんを取
って、兵士の頭にかぶせました。
「しばらく、うちのおばあさんにおなりなさ
い。」
こう言って、又大急ぎで、おばあさんの着物を
着せてやりました。肩かけや前だれもかけ
≪p078≫
てやりました。
「向こう向きになっ
て、このいすにかけ
ていらっしゃい。」
「こうですか。」
「あゝ、そうです。そ
れから、つんぼのま
ねをしてね。」
この時、どや〳〵と、
≪p079≫
四五人の敵兵がはいって來ました。
「おい、兵士が一人來たろう。」
「いゝえ。」
「たしかに來たはずだ。」
と言って、敵は、あちらこちら見まわしました
が、おばあさんの肩に手をかけて、
「これ、おばあさん、お前は知っているだろう。」
すると、兵士のおばあさんが、
「はい、よいお天氣でございます。」
≪p080≫
敵はどっと笑いました。そうして、
「こいつ、つんぼだな。」
と言って、皆出て行ってしまいました。
第十四 まきば
廣い野原で
親牛、子牛、
草を食べ〳〵
仲よく遊ぶ。
≪p081≫
空にひばりの
歌のこえ。
すいと、飛んで來た
氣がるなマイナ、
牛のせなかに
ちょこんと止る。
廣いまきばの
ま晝時。
≪p082≫
第十五 手紙
樂しいクリスマスが近ずきました。
こちらは、毎日のように雨が降りますので、
クリスマスの日も降るのではなかろうか
と、心配して居ります。ヒロは、雨の町だと
聞いて居りますが、この頃はいかゞですか。
クリスマスの日だけは、よいお天氣にした
いものと思います。
≪p083≫
きのう下町へ行って、よい物を買ってまい
りました。それを、今朝、父にたのんで、小ず
つみゆうびんでお送りいたしました。
私からの、クリスマスのおくり物でござい
ます。一しょに、しゃしんを一枚入れて置
きますから、ごらん下さい。これは、ワイキ
キへ遊びにまいりました時、弟と私が、鳩に
むぎをやっているところを、兄がうつした
のでございます。
≪p084≫
どうぞ、時々、お手紙を下さいませ。さよう
なら。
十二月二十一日 ちよ子
ふみ子樣
きのうお手紙をいたゞきまして、「どんな
よい物を、送って下さったのでしょうか。
早く小ずつみが着けばよい。」と、待って居
りましたところ、それが今朝まいりました。
≪p085≫
うれしくて、直ぐ母の前であけて見ました。
まあ、何とゆうかわいらしいお人形でしょ
う。美しい着物に、きちんとおびをしめて、
にこ〳〵している樣子は、まるで生きてい
るようです。母も、「ふだん、お前がほしがっ
ていたお人形をいたゞいて、ほんとうによ
かったね。」と言って、喜んでくれました。
ちよ子樣、まことにありがとうございまし
た。これから毎日、このお人形と一しょに、
≪p086≫
遊ぼうと思います。おとゝい、私も、小さな
箱をお送りいたしました。何がはいって
いるか、あけて見て下さい。
ホノルルも、雨だそうですね。こちらも、毎
日雨降りで、みんな困って居ります。明日
はクリスマスですのに、この樣子では、とて
も、よい天氣にはならないでしょう。
おしゃしんは、大そうよくとれて居ります。
三郎さんの肩に、鳩が三羽止っているのが
≪p087≫
面白うございます。
では、皆さんによろしくおっしゃって下さ
いませ。さようなら。
十二月二十四日 ふみ子
ちよ子樣
第十六 年こし
時計が十二時を打ちました。
工場や汽船の汽笛が、鳴り出しました。お
≪p088≫
寺や教會のかねも、鳴り出しました。町中は、
汽笛やかねの音で、一ぱいになったようです。
まっ暗な空に、星がまたゝいています。
あちらこちらに聞えていた花火の音が、急
にはげしくなって來ました。ぱち〳〵とゆ
う音の中に、時々、すぽうん、すぽうんと、大きな
音が聞えます。
向こうの家や、マンゴの木のかげから、赤や、
青や、黄や、みどりの火の玉が、すうっと空へ上
≪p089≫
っては消えます。青
い玉が上ったと思う
と、ゆらりゆらりと、靜
かに落ちながら、黄に
かわり、赤にかわり、み
どりにかわりなどす
るのもあります。
メジャーは、花火の
音に恐れて、ゆかの下
≪p090≫
にもぐったまゝ出て來ません。
古いがら〳〵自動車に乘って、笛を吹きな
がら、フェンダをたゝいて、
「ハッピーニューイヤ。」
とさけんで、通って行く人々もあります。
おい〳〵、あたりが靜かになって行きます。
あらしの靜まったあとのようです。時々
思い出したように、遠くの方で、ぱち〳〵と音
がします。
≪p091≫
つばさのはしに、赤と、みどりのあかりをつ
けたひこうきが一台、やみの中を飛んで行き
ます。
第十七 雪舟{セッシュウ}
雪舟{セッシュウ}ガ子供ノ時ノ話デス。
オ寺ノ小ゾウニナッテ間モナイ頃、或日、オ
ショウサンニタイソウ叱ラレマシタ。
「オ前ハ、又エヲカイテイルノカ。イクラ言
≪p092≫
ッテモ、エバカリカイテ、チットモオキョウ
ヲオボエナイ。オ前ハ、口デ言ッテ聞カセ
ルダケデハ、ダメダ。」
コウ言イナガラ、オショウサンハ、雪舟{セッシュウ}ヲ引ッ
パッテ本ドウヘ行キマシタ。
ブル〳〵フルエテイタ雪舟{セッシュウ}ハ、大キナハシ
ラニクヽリツケラレマシタ。
始ハ、タヾ恐シサデ一パイデシタガ、サビシ
イ本ドウノハシラニクヽリツケラレテ、ジッ
≪p093≫
トシテイル間ニ、雪舟{セッシュウ}ハ、イロ〳〵ト考エツズ
ケマシタ。
「ワタシハ、イツモ、オキョウヲ讀モウト思ウ
ノダガ、机ニ向カウト、ツイエガカキタクテ
カキタクテ、タマラナクナッテシマウ。明
日カラハ、キット一生ケンメイニオキョウ
ヲ習ッテ、早クエライボウサンニナロウ。
ワタシガ、コヽデ、コンナニ叱ラレテイヨウ
トハ、オ父サンモオ母サンモ、ユメニモ思ッ
≪p094≫
テイラッシャラナイダロウ。」
コンナ事ヲ考エテイルト、雪舟{セッシュウ}ハ、何ダカ悲シ
クナッテ、トウ〳〵、シク〳〵泣出シマシタ。
涙ガ、止メドナクコボレマシタ。ポタリポ
タリト落チテ、本ドウノ板ノ間ヲヌラシマシ
タ。少シ泣キツカレテ、ボンヤリ足モトヲ見
テイタ雪舟{セッシュウ}ハ、何氣ナク、足ノ親指デ、板ノ間ニ
落チタ涙ヲイジッテミマシタ。
スルト、今マデ悲シソウダッタ雪舟{セッシュウ}ノ顔ハ、
≪p095≫
ダン〳〵、晴レヤカニナッテ來マシタ。雪舟{セッシュウ}
ハ、足ノ親指ヲ使イナガラ、涙デ、板ノ間ニエヲ
カキ始メタノデシタ。
自分ノヘヤヘ歸ッテイタオショウサンハ、
シバラクスルト、雪舟{セッシュウ}ガカワイソウニナリマ
シタ。モウユルシテヤロウト思ッテ、又本ド
ウヘ來マシタ。
夕方近イ本ドウハ、少シ暗クナッテイマシ
タ。ドンナニ、サビシカッタロウト思ッテ、フ
≪p096≫
ト見ルト、ビック
リシマシタ。大
キナネズミガ一
匹、雪舟{セッシュウ}ノ足モト
ニイテ、今ニモ飛
ビツキソウナ樣
子デス。カマレ
テハ、カワイソウダト思ッテ、オショウサンハ、
「シッ、シッ。」ト追イマシタガ、フシギニ、ネズミハ、
≪p097≫
ジットシテ動キマセン。近ズイテ見ルト、ソ
レハ、生キタネズミデハアリマセンデシタ。
雪舟{セッシュウ}ガ、板ノ間ニ、涙デカイタネズミデシタ。
オショウサンハオドロキマシタ。急イデ、
ナワヲトイテヤリナガラ、
「ワタシガ惡カッタ。オ前ハ、エカキニナル
ガヨイ。コレホド、オ前ガ上手ダトハ、ワタ
シハ、今マデ知ラナカッタ。」
ト言イマシタ。雪舟{セッシュウ}ハ、ニッコリシマシタ。
≪p098≫
其ノ後、雪舟{セッシュウ}ハ、一心ニエヲ習イマシタ。學
問モ勉強シマシタ。
雪舟{セッシュウ}ハトウ〳〵日本一ノエカキニナリマ
シタ。
第十八 アンドロクラスとしゝ (一)
大昔のことです。
ローマの國に、アンドロクラスとゆうどれ
いがありました。主人が、あまりひどく使っ
≪p099≫
たり、いじめたりするので、たまらなくなって、
とう〳〵逃出しました。
アンドロクラスは、人に見つけられないよ
うに、廣い森の中を、幾日も歩きました。食べ
る物は何一つありません。谷川の水を飲ん
で、やっと命をつなぎました。其のうちに、す
っかりつかれて、弱ってしまいました。でも、
「このまゝ死ぬのはいやだ。逃げられるだけ
逃げよう。」と考へて、はうようにして歩きつず
≪p100≫
けました。
ふと、大きなほら穴のそばへ出ました。何
の考もなく、其の中へはいりこんで、ごろりと
横になると、ぐっすり眠ってしまいました。
しばらくすると、何か恐しい音がしました。
アンドロクラスは、はっと目をさましました。
見ると、大きなしゝが、ほら穴の入口でうなっ
ています。アンドロクラスは、あまりの恐し
さに、足も立たず、たゞ、ぶる〳〵ふるえながら、
≪p101≫
じっと見つめている
ばかりでした。
しゝは、びっこをひ
きながら、近ずいて來
ました。アンドロク
ラスのそばにすわる
と、一方の前足を上げ
て、何か、おねがいでも
するような樣子をし
≪p102≫
ました。
アンドロクラスは、しゝが、自分を食殺そう
とするのでない事が分りました。恐る〳〵
手をのばして、前足を引きよせて見ると、足の
裏に、大きなとげがさゝっています。アンド
ロクラスは、しっかりと、とげのはしをつまん
で、きゅっと引きぬいてやりました。
しゝはうれしそうに、アンドロクラスの手
をなめたり、顔をすりつけたりして、じゃれつ
≪p103≫
きました。
それから後、しゝは、毎日食物を持って來て
くれました。アンドロクラスは、しゝと共に、
このほら穴の中で、樂しく暮しました。
第十九 アンドロクラスとしゝ (二)
或日、アンドロクラスは、この森を通りかゝ
った兵たいに、見つけられました。兵たいは、
アンドロクラスをローマへ連れて行って、ろ
≪p104≫
うやの中に、入れてしまいました。
其の頃、ローマには、主人の家を逃出したど
れいは、うえたしゝと戰わせるとゆうきそく
がありました。それで、アンドロクラスは、し
しと戰うことになりました。
役人は、あらいしゝをおりの中へ入れて、幾
日も食物をやらずに置きました。
いよ〳〵、其の日になりました。
何千とゆうローマの人々は、この勝負を見
≪p105≫
ようと、おしかけて來ま
した。
アンドロクラスは、勝
負の場所に引出されま
した。恐しいしゝのう
なり聲が、聞えて來ます。
もう生きた氣持はあり
ません。
おりの戸があけられ
≪p106≫
ました。しゝは、アンドロクラスを目がけて、
おどり出しました。
人々はわっと聲を上げました。
するとふしぎです。しゝは、急におとなし
くなりました。かい犬のように、アンドロク
ラスにすりよって、手や足をなめたり、首をす
りつけたりします。アンドロクラスは、しゝ
の首にだきついて、頭をなでながら、うれしそ
うに何か話しています。人々は、どうした事
≪p107≫
かと、ふしぎに思って見ていました。
やがて、アンドロクラスは、しゝのたてがみ
をなでながら、見物人に向かって大きな聲で
言いました。
「私も人間です。だが、誰一人、親切にしてく
れる者はありませんでした。私は、このしゝ
に助けられたのです。このしゝは、世界中で、
私の一番仲のよい友達です。私は、長い間、こ
のしゝと一しょに山の中で暮していたので
≪p108≫
す。
人々は、たゞ顔を見合わせるばかりでした。
やがて、
「ゆるしてやれ。」「助けてやれ。」
見物人は、口々にさけびました。
役人は、アンドロクラスをゆるしてやりま
した。
其の後、アンドロクラスは、このしゝと共に、
何年もローマに暮していたとゆう事です。
≪p109≫
課外
≪p110≫
少彦名{すくなひこな}のみこと
大國ぬしのみことが、出雲{いづも}の海岸を歩いて
いらっしゃいますと、波の上に何か小さい物
がうかんで、こっちへ近よって來ました。
「何だらう、あれは。」
と、みことは、お供の者におっしゃいましたが、
お供の者にも分りませんでした。
だん〳〵近よって來るのをよく見ると、ま
≪p111≫
めのさやのやうな物を舟にして、それに何か
乘ってゐました。
「まめのさやに、虫が乘ってゐます。」
と、お供の者がまうしました。
しかし、虫ではありませんでした。虫のか
はを着物にして着てゐる、小
さい神樣でした。
みことは、
「小さい神樣だなあ。一た
≪p112≫
い、何といふお方だらう。」
とおっしゃいますと、お供の者は、
「こんな小さい神樣を、私は、見たことも、聞い
たこともありません。」
とまうしました。
「あなたは、どなたですか。」
と、みことは、その神樣におたづねになりまし
たが、へんじをなさいません。
その時、ひょっこり出て來たのは、ひきがへ
≪p113≫
るでした。みことは、
「おゝ、ひきがへる、よい所へ來た。お前は、方
方へ出歩いて、何でもよく知ってゐるが、こ
の小さいお方の名を知らないか。」
ひきがへるは、目をぱちくりさせながら、
「いや、ぞんじません。きっと、あの物知りの
かゝしが知ってゐるでせう。」
とまうしました。
かゝしは、田の中に立って四方を見てゐる
≪p114≫
ので、何でもよく知っ
てゐました。大國ぬ
しのみことは、かゝし
に向かって、
「おうい、お前は、この
小さいお方を知っ
てゐるか。」
すると、かゝしは、
「それは、少彦名{すくなひこな}のみ
≪p115≫
ことといふ神樣です。からだは小さいが、
たいそうちゑのあるお方です。」
と答へました。
大國ぬしのみことは、たいそうお喜びにな
って、少彦名{すくなひこな}のみことを、うちへお連れになり
ました。
二人は兄弟のやうに仲よくなさいました。
心を合はせて、野や山を開いて田や畠にした
り、道をつけたり、川にはしをかけたりなさい
≪p116≫
ました。
人間や、かちくの病氣も、おなほしになりま
した。
或日、少彦名{すくなひこな}のみことは、おっしゃいました。
「私は、いつまでも、こゝにゐるわけには行き
ません。これで、おいとまいたします。」
大國ぬしのみことは、おどろいて、
「どうして。どこへお出でになるのですか。」
「とほい所へ行きます。」
≪p117≫
「何しに行くのですか。」
「新しい國を開きに。」
かういひながら、少彦名{すくなひこな}
みことは、あはのくきにつ
かまって、する〳〵とお上りになりました。
すると、一度しなったあは
のくきが、はねかへるひゃ
うしに、小さい神樣のお体
は、ぽんと空へ飛上りまし
≪p118≫
た。
「さやうなら。」
と、一聲おっしゃったまゝ、少彦名{すくなひこな}のみことは、
もう、おすがたが見えなくなってしまひまし
た。
(おわり)
≪p119≫
卷七新出漢字
港2 船2 達4 實5 馬6 汽6 針9 進9 頃10 世11 界11 身14 汗17 晴17 布20 哇20 寢21
運21 働22 王23 組27 角27 深27 掘27 飛30 野30 笛32 意36 眠37 血38 刀38 旅39 商39 御39
片40 荷41 甲41 乙42 役42 淺47 雀49 降49 其50 台56 糖59 不61 以62 坂62 計63 士64 戰64
爭64 軍64 負64 殺66 内69 類69 元72 姉72 原80 晝81 送83 工87 場87 寺88 習93 板94 主98
幾99 裏102 共103
卷七讀 字
船{せん}6 手{しゅ}7 通{かよ}い10 大人{おとな}10 勢{ぜい}11 人間{にんげん}25 頭{かしら}25 土地{とち}26 勇{ゆう}33 食{く}う34 八{やっ}つ35 物{もつ}41 所{しょ}42 多{た}50
空{あき}50 直{す}ぐ51 明日{あした}52 砂{さ}59 角{かど}62 時計{とけい}63 戰{たゝかい}64 氣{け}73 教{きょう}88 笛{ふえ}90 問{もん}98 勝負{しょうぶ}104 場{ば}105 見物{けんぶつ}108
≪p120≫
卷一 新出漢字
子 中 大 立 一 二 三 四 五 行 外 六 七 八 九 十 目
卷二 新出漢字
赤 小 白 青 今 木 下 持 上 切 入 言 見 畠 泣 出 月
日 光 山 虫 玉 拾 早 來 手 自 分 思 水 戸 口 方 首
私 前 先 生 休 貝 少 待 門 犬 川 時 男 名 向 刀 人
車
卷三 新出漢字
花 君 取 受 長 石 重 同 本 穴 所 郎 次 毎 又 間 何
≪p121≫
雲 風 空 吹 天 雨 夕 夜 星 右 面 左 朝 田 枝 考 僕
急 走 音 昔 土 金 話 聞 松 米 火 枯 咲 歩 集
卷四 新出漢字
動 學 校 氣 笑 寸 神 指 高 舟 供 遠 通 忘 買 匹 島
作 沖 引 海 太 紙 顔 耳 茶 色 細 合 助 皿 黄 始 草
度 美 糸 困 年 逃 夏 町 友 喜 着 物 近 足 道 母 知
起 元 妹 枚 書 牛 答 用 千 百 強 落 羽 使 店 種 呼
渡 黒 兩
卷五 新出漢字
≪p122≫
電 竹 谷 岸 流 食 晩 苦 樣 洗 賣 家 箱 村 住 死 仕
病 体 皮 皆 息 新 多 止 雄 讀 父 半 泳 砂 池 打 親
並 地 暗 力 飲 明 鳥 番 廣 弱 岩 西 東 眺 仲 痛 申
國 主 弟 兄 後 銀 雪 綿 葉 追 文 字 横 森 井 古 形
北
卷六 新出漢字
聲 消 鐵 正 直 若 鳩 屋 根 事 頭 週 鳴 女 育 春 者
別 兵 弓 乘 遊 勉 開 叱 丸 攻 敵 矢 連 勝 歸 歌 心
會 平 命 去 苗 植 樂 魚 或 煙 殘 澤 教 固 肉 窓 机
≪p123≫
腹 探 靜 尾 恐 破 短 尋 庭 置 勇 波 飯 午 肩 底 曜
乾 沈 惡 居 勢 誰 悲 涙 湯 暮 配 耕 涼
おわり
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底本:ハワイ大学マノア校図書館ハワイ日本語学校教科書文庫蔵本(T608)
底本の出版年:1937年8月1日発行、1938年8月10日再版
入力校正担当者:高田智和
更新履歴:
2021年11月27日公開