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日本語読本NIHONGO TOKUHON 尋常科用[布哇教育会第1期]

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巻五

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日本語読本 尋常科用 巻五 [布哇教育会第1期]

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≪目録 p000≫
目録
第一課 天照大神{あまてらすおほみかみ} 一
第二課 神武天皇 三
第三課 ホノルルから横濱{よこはま}へ 五
第四課 日本三景 九
第五課 祖父母に 十二
第六課 杉田壹岐{すぎたいき} 十四
第七課 水兵の母 十八
第八課 母の日 二十三
第九課 漢學{カンガク}ト佛教 二十五
第十課 近世の大發明 二十七
第十一課 ワット 三十二
第十二課 東京から青森まで 三十五
第十三課 日光 三十九
第十四課 國技 四十二
第十五課 天智{てんぢ}天皇と藤原|鎌足{かまたり} 四十五
第十六課 かぶりもの 四十九
第十七課 赤き毬{まり}と白き毬 五十二
第十八課 北海道見物 (一) 五十四
第十九課 北海道見物 (二) 五十八
第二十課 養生 六十
第二十一課 奈良{なら}時代 六十五
第二十二課 和氣清麻呂{わけのきよまろ} 六十七
第二十三課 病氣見まひ 七十一
第二十四課 少女ノ貯金 七十四
第二十五課 阿倍仲麻呂{あべのなかまろ}と吉備眞備{きびのまきび} 七十六
第二十六課 貨幣{カヘイ}ト度量衡{ドリヨウコウ} 七十八
第二十七課 日本一の物 八十一
第二十八課 桓武{かんむ}天皇 八十七
第二十九課 京都 八十九
第三十課 藤原氏 九十四
第三十一課 張良{チヨウリヨウ}ト韓信{カンシン} 九十七
第三十二課 名古屋{なごや}から新潟{にひがた}まで 百一
第三十三課 平氏と源氏 (一) 百四
第三十四課 平氏と源氏 (二) 百八
第三十五課 遊學する友に 百十三
第三十六課 書物 百十四
第三十七課 北條時宗{ほうじようどきむね} 百二十
第三十八課 日本の冬景色 百二十四
第三十九課 日本ノ鑛山{コウザン} 百二十七
第四十課 建武|中興{ちうこう} 百三十
第四十一課 松の下露 百三十四
第四十二課 吉野{よしの}朝 百三十五
第四十三課 小島|蕉園{しようえん} 百三十七
第四十四課 花|筵{ムシロ} 百四十一
第四十五課 註文状 百四十四
第四十六課 足利{あしかど}時代 百四十七
第四十七課 川中島の戰 百五十
第四十八課 捕鯨{ほけい}船 百五十二
第四十九課 勇ましき少女 百五十七
第五十課 キャプテンクック 百六十
第五十一課 織田信長{おだのぶなが} 百六十五
第五十二課 豐臣秀吉{どよごみひでよし} 百六十九
第五十三課 名古屋{なごや}より宇治山田{うぢやまだ} 百七十二
第五十四課 報恩 百七十六
第五十五課 感謝祭と新嘗{にひなめ}祭 百七十八
第五十六課 温泉 百八十二
第五十七課 カメハメハ大王 百八十三
第五十八課 北極|探檢{たんけん} (一) 百八十五
第五十九課 北極探檢 (二) 百八十九
第六十課 布哇{はわい}通信 百九十五
第六十一課 郵便物語 二百一
第六十二課 禮義 二百四
第六十三課 乃木{のぎ}大將 二百六
第六十四課 グラント將軍 二百十一
第六十五課 大和{ヤマト}巡り (一) 二百十六
第六十六課 大和巡り (二) 二百二十
第六十七課 牛島ボテトー王 二百二十五
第六十八課 布哇{はわい} 二百二十九

≪p001≫
日本語讀本卷五
第一課 天照大神{あまてらすおほみかみ}
皇大神宮は伊勢{いせ}國|宇治{うぢ}山田にあります。これは天
照大神を祭つた御宮です。
天照大神は日本皇室の御祖先でいらせられます。
遠いむかしの世、大神は御孫の瓊瓊杵尊{ににぎのみこと}に、日本の
國をおさづけになつて、
「此の國はわが子孫の君たるべき地なり。汝皇孫
ゆきてをさめよ。皇位は天地と極なかるべし。」

≪p002≫
とおほせられました。
瓊瓊杵尊は其のおほ
せをうけて、多くの臣
下を引きつれて、此の
國に御下りになりま
した。これが日本の歴
史{れきし}の始です。
其の時、大神は八咫鏡{やたのかゞみ}
と天叢雲劒{あめのむらくものつるぎ}と八坂瓊
曲玉{やさかにのまがたま}を尊におさづけ

≪p003≫
になりました。之を三種の神器{しんき}と申して、代々の天
皇が皇位のしるしと御つたへあそばすのです。明
治{めいぢ}天皇の御歌にも、
神代よりうけしたからをまもりにて、
をさめ來にけり、日の本つ國。
とあります。
瓊瓊杵尊から三代の間は、日向{ひうが}國に都せられまし
た。之を神代と申します。
第二課 神武天皇
神武天皇は瓊瓊杵尊{ににぎのみこと}から四代目で、其の御孫にあ

≪p004≫
たらせられます。天皇が日向{ひうが}に御出でのころは、東
方の國にはまだ惡者どもがはびこつてゐました。
天皇は之を平げて、人民を安んじようと思しめし
て、御兄たち・御子たちとともに、兵をひきゐて日向
を御立ちになりました。
さてこれから十數年の間、いろ〳〵な難義におあ
ひになりました。ある時は強い敵と戰つて、御兄を
失はれたこともありましたが、とう〳〵惡者ども
を討平げて、大和{やまと}國|橿原{かしはら}宮に即位の禮を行はせら
れました。これは大正六年から數へて、二千五百七

≪p005≫
十七年以前の事です。
神武天皇を日本帝國人皇第一代の君と申します。
それから今の天皇|陛下{へいか}までは百二十二代になり
ます。
第三課 ホノルルから横濱{よこはま}へ
私どもの乘りこんだ天洋丸がホノルルの港を出
帆したのは、水曜日の午前十時でした。少しくもつ
た日で、ヌアヌパリのあたりには、うす黒い雲が煙
のようにたゞようてをり、ワイキキの海岸は、うち
よせる波に、白く長くふちどられて見えました高

≪p006≫
い岡、ひくい林、あの家、この家と、あざやかに數へら
れた畫のような景色が、次第に遠ざかつて、ダイヤ
モンドヘッドもやゝ青くかすんで見えるころには、
飛立つ水鳥のむれも、だん〳〵數少なになりまし
た。午後五時ごろ、左の方に加哇{かうあい}の島が見えて、燈臺
の光をみとめました。
次の朝|甲板{かんぱん}に上つて見ると、青い海と青い空、空に
はちぎれ〳〵の白い雲が飛んでゐるばかり、鳥一
つもをらず、船一つも通りません。今は太平洋のた
だ中に來たのでせう、きのふから今日の正午まで

≪p007≫
の航程{こうてい}は三百五十|浬{まいる}。夕方ホノルルの友だちから
無線電信がかゝつて、
ブジ コウカイ ヲ イノル
毎日々々同じような景色です。雨雲がひくゝたれ
て、はるかむかふの海では夕立であらうと思ふ中、
いつか船は其の雲の下に來たのでせう、大つぶな
雨が、一しきり甲板をあらつていつたこともあり
ました。月はだん〳〵圓くなりました。
五日目の朝、今日は日曜日と思ふのに、月曜日とい
ふのでおどろきました。きのふの土曜日から一日

≪p008≫
飛んで、月曜日になつたのです。日本から來る時に
は、これと反對に、同じ日が二
度重るさうです。
九日目金曜日の午後二時ご
ろでした、「富士{ふじ}山、富士山。」とい
ふ聲が聞えました。いそいで
甲板に出て見ると、西の空の
雲間に、雪をいたゞいた富士
山が見えました。私は始めて
此の名高い山を見て、何とな

≪p009≫
く、なつかしい、うれしい心持がしました。あすの正
午ごろに横濱へ着くといふので、船客一同の顔に
喜の色が見えました。
よく晴れた風のしづかな土曜日の朝、十日間の長
い航海を終へて、無事に横濱に上陸しました。
第四課 日本三景
日本ニハ山ニ、川ニ、海岸ニ、景色ノヨキ所多シ。中ニ
モ松島・天橋立・嚴島{イツクシマ}ハ日本三景トシテ其ノ名古ク
ヨリ聞ユ。
松島ハ仙臺灣{センダイワン}ニアリ。波シヅカナル海ニ、大小幾百

≪p010≫
ノ島々ウカビ、島毎ニ青松シゲレリ。其
ノ島ノ形、千種万樣ニシテ、松ノ枝ブリ
ミナ面白シ。小舟ヲ浮ベテ此ノ間ヲユ
ケバ、一島去リテ、一島來リ、景色見ルウ
チニカハリテ、サナガラマハリドウロ
ウヲ見ルガ如シ。灣ノ北ナル富山{トミヤマ}ニ上
レバ、松島ノ全景ヲ見ルヲ得ベシ。
天橋立ハ宮津{ミヤヅ}灣ニアリ。松林ウチツヾ
キタル細長キ一帶ノ地、北ヨリ南ヘツ
キ出ヅルコト一里、廣キ所ハ一町、狹{セマ}キ

≪p011≫
所ハ二十間ニスギズ。松ノ枝ハ
ミナヒク、地上數尺ニタレテ、
遠クヨリノゾメバ、アタカモ一
ノ字ヲ引ケルガ如シ。其ノカゲ
水ニウツリテ、水中ニ松アルカ
トウタガハレ、緑波天ニ連リテ、
天上ニ橋アルカトアヤシマル。」
嚴島ハ瀬戸{セト}内海ニアル一島ニ
シテ、島ノ上ニ嚴島神社アルヲ
以テ、一ニ宮島トモイフ。大鳥居{オホドリヰ}

≪p012≫
ハ遠ク海ノ中ニ立チ、美シ
キ社殿ハ波ノ後ニ列レリ。
滿潮{ミチシホ}ノ時ニハ、百八間ノ廻
廊{カイロウ}水ニヒタリテ、人ヲシテ
ムカシ話ノ龍宮{リウグウ}城ヲ思ハ
シム。島ノ上ニハ山アリ、谷
アリ、春秋時々ノナガメモ
ヨシ。
第五課 祖父母に
祖父樣、祖母樣、御きげんよくいらせられますか。私

≪p013≫
も三郎も元氣よく毎日學校へ通つて居りますか
ら、御安心下さいませ。私どもは午前九時から午後
二時までは、此の地の公立學校へまゐります。公立
學校にはアメリカ人の子どもも居り、土人其の外
各國人の子どもも居りますが、みな中よくして、同
じ教場で勉強し、同じ運動場で遊んでゐます。私の
一番すきなのは歴史{れきし}と地理{ちり}で、此の間も大そう答
がよく出來たと、先生からほめられました。三郎は
二年生ですが、去年からまだ一度も休んだり、ちこ
くしたりした事がありません。

≪p014≫
公立學校がすむと、三時から五時までは日本語の
學校へまゐります。こゝで日本語や書き方を習ひ
ます。先生から日本のむかし話や地理の御話を聞
くのが、何よりも樂みです。
五月十日 次郎
祖父上樣
祖母上樣
第六課 杉田壹岐{すぎたいき}
むかし松平|忠昌{たゞまさ}といふ大名の家來に、杉田壹岐と
て、もとは輕き身分の者なりしが、其の身のはたら

≪p015≫
きによりて、次第に重く用ひられ、つひに家老とな
りし人あり。
ある日、忠昌|鷹狩{たかがり}に出で、日くれて家にかへりしに、
家老ども一同出でむかへたり。忠昌はきげんよく、
「今日のわかものどものはたらきは、いつもにすぐ
れて見えたり。あれにてはいつ合戰に出づとも、あ
つぱれ用に立つべし。」と言ひしかば、家老どもいづ
れも、「御家のため、何よりめでたき御事なり。」と言ふ。
此の時、末座にありし壹岐は、「たゞ今の御言葉はな
げかはしきおほせなり。近ごろ武士どもの鷹狩の

≪p016≫
御ともに出づる者は、いつ殿の御手討にならんも
はかり難しとて、妻子にもいとまごひして出立つ
由うけたまはれり。かようの心にて、万一の御用に
立つべしとも思はれず。それを御存じも無きか、た
のもしと思しめさるゝは、心得ぬ御事ぞ。」と言ひし
かば、忠昌大いにいかれる色あり。
家來の者どもはおどろきて、壹岐に「とく〳〵座を
立たれよ。」と言ふに、壹岐は物をも言はず、其のまゝ
自分の脇差{わきざし}を取りて、後へなげすて、忠昌のそばに
進みより、「たゞ御手討に遊ばされよ。空しくながら

≪p017≫
へて、御家のおとろへんを見んよりは、御手にかゝ
らん方、はるかにまされり。」と言ひて、首をさしのべ
て居たり。忠昌は見むきもせず、つと立ちて、おくへ
入りたり。
壹岐は家にかへりて、妻に此の事を語り、「今日は死
を以て君をいさめ奉り、君の御きげんを損{そん}じたり。
かならず切腹を命ぜらるべし。」とて、其の用意して
待つ中に、夜ふけて召さる。「さてこそ。」と、忠昌の前に
出づれば、忠昌面をやはらげて、「汝よくも我をいさ
めくれしぞ。其の方の忠義、深く喜ばしく思ふなり。」

≪p018≫
とて、刀一ふりを取らせしかば、壹岐もなみだをな
がして喜びたりとぞ。
第七課 水兵の母
明治二十七八年戰役の時で御座いました、ある日、
日本軍艦|高千穗{たかちほ}の甲板{かんぱん}の上で、一人の水兵が女手
の手紙を讀みながら、ないてゐました。通りかゝつ
た大尉{たいい}が之を見て、
「其の有樣は何事だ。命がをしくなつたか、妻子が
こひしくなつたか。軍人となつて、軍に出たのを
男子の面目とは思はないか。」

≪p019≫
と、言葉するどくしかりつけました。
水兵は立上つて、しばらく大尉の顔を見つめてゐ
ましたが、やがて頭を下げて、
「それはあまりな御言葉です。私には妻も有りま
せん、子も有りません。私も日本男子です。何で命
ををしみませう。どうぞ之を御らん下さい。」
と言つて、其の手紙をさし出しました。
大尉はそれを取つて見ると、意外にも次の樣な事
が書いてありました。
「そなたは豐島{ほうとう}の戰にも出ず、八月十日の威海衞{いかいえい}

≪p020≫
の戰爭にも何のはたらきも聞えず、母は如何に
もざん念に思ひ候何のために軍には御出でな
され候ぞ。君のため、國のために一命をすつるは
此の時に候はずや。村の方々は朝に夕に、色々と
やさしく御世話下され、「一人の子が國家のため
軍に出でし事なれば、さだめて不自由なる事も
有らん。何にてもえんりよなく言へ。」と親切にお
ほせ下され候母は其の方々の顔を見る毎に、そ
なたのふがひなさが思ひ出されて、此のむねが
さくるばかりに候。八幡{はちまん}樣に日參{につさん}いたし候も、そ

≪p021≫
なたがあつぱれなるてがらを立て候樣との願
に候。此の手紙したゝめ候も、我が子かはゆき一
念よりと、よく〳〵御さつし下され度候。」
大尉は之を讀んで、思はずなみだをながし、かたく
水兵の手をにぎつて、
「わたしが惡かつた。おつかさんの精神は感心の
外は無い。お前の無念に思ふのももつともだ。し
かし今の戰爭はむかしとちがつて、一人で進ん
でてがらを立てる樣なことは出來ない。將校も
兵士もみな一つになつてはたらかなければな

≪p022≫
らない。すべて上官{じようかん}の命のまゝに、自分の職務に
精を出すのが第一だ。おつかさんは「一命をすて
て君にむくいよ。」と言つて居られるが、まだ其の
時が來ない。豐島の戰に出なかつたことは艦中
一同ざん念に思つてゐるが、これも仕方が無い。
其の中には花々しい戰爭もあるだらう。其の時
にはおたがひに目ざましいはたらきをして、我
が高千穗艦の名をあげよう。此のわけをよくお
つかさんに言つて上げて、安心させるがよい。」
といひ聞かせました。

≪p023≫
水兵は頭を下げて聞いてゐましたが、やがて手を
あげて敬禮して、につこりと笑つて立去りました。
第八課 母の日
五月の第二の日曜日には、白い石竹の花をむねに
つけたり、えりにかざつたりして、樂しげに歩いて
ゐる若い人々を市中で見うけます。此の日は母の
恩愛を思つて、感謝をさゝげる日です。白い石竹は
母の愛をかたどる花です。此の日には、家をはなれ
てゐる者は、かならず母のもとへ手紙を出すこと
になつてゐます。

≪p024≫
米國では今から十年程前、フィラデルフィヤのアンナ、
ジャーキスといふ婦人が始めてとなへ出して、今日
ではほとんど全國にわたつて行はれ、布哇{はわい}でも盛
に行はれるのです。英國ではこれが二百年も前か
ら行はれてゐます。其のころは英國にも學校が少
くて、生徒は大てい兩親のもとをはなれて、學校の
生活をしなければなりませんでしたから、これら
の生徒や、奉公に出てゐる者などのために、一年に
一日、此の日をさだめて、なつかしい兩親にあはせ
たのです。此の日に、子どもらは小さな菓子{かし}の手み

≪p025≫
やげを持つて家にかへります。兩親はまたごちそ
うをこしらへて、子どもたちをもてなしたといふ
ことです。此の風習から今日の母の日がおこつた
と申します。
日本でも、一月と七月の十五日や十六日には、やぶ
いりといつて、奉公に出てゐる者が、兩親にあひに
行く風習がむかしからあります。
第九課 漢學{カンガク}ト佛教
日本デ今使ツテヰル文字ニハ、假名{カナ}ト漢字ガアリ
マス。漢字ハモト支那{シナ}デ作ツタ文字デ、ソレガ日本

≪p026≫
ニ傳ハツテ、日本人モ使フヨウニナツタノデス。假
名ノ中デ、片{カタ}假名ハ漢字ノ扁{ヘン}ヤ旁{ツクリ}ヲハブイテコシ
ラヘ、平假名ハ漢字ノ草書カラコシラヘタモノデ
ス。
漢字ハ漢學トトモニ傳ハリマシタ。ソレハ今ヨリ
千六百年モ前デ、應神{オウジン}天皇ノ御代ノ事デス。應神天
皇ノ御母ハ神功皇后{ジングウコウゴウ}デイラセラレマシタ。
神功皇后ノ三韓征伐{サンカンセイバツ}ノ後、三韓カラ色々ナ物ヲ奉
リマシタガ、或年、百濟{クダラ}ノ國カラ漢學ノ書物ヲ持ツ
テ來マシタ。マタ彼ノ國ノ學者|王仁{ワニ}トイフ人ガ來

≪p027≫
テ、ソレヲ皇子タチニ御教へ申シ上ゲマシタ。日本
デ漢字ヲ使ヒ、漢學ヲ學ブヨウニナツタノハ、此ノ
時カラデス。
佛教ハソレカラ二百六十年程後ニ、コレモヤハリ
百濟カラ傳ハリマシタ。初ノ中ハ此ノ教ヲ入レル、
入レヌニツイテノ爭モアリマシタガ、ダン〳〵ニ
信ズル人ガフエテ、後ニハ日本國中ヘヒロガリマ
シタ。聖徳{シヨウトク}太子ガ佛教ヲヒロメルノニ、御骨ヲリニ
ナツタ事ハ、前ニ學ビマシタ。
第十課 近世の大發明

≪p028≫
汽車・汽船・電信・電話・電燈・航空
機の如きは、いづれも近世の
學問が産出せる大發明なり。」
蒸氣{じようき}機關は二百年以前、英國
人ワット之を發明せしが、始め
て之を船に用ひて成功せし
は米國人フルトンなり。また
之を車に用ひて、今日の汽車
を造りたるは英國人スチブ
ンソンの工夫に出づ。

≪p029≫
電信の機械を發明したるは米國人モールスにし
て、今より八十年前、始めて之を造れり。電話・電燈の
工夫はさらに之より後にして、電話はベル、電燈は
エヂソン之を成せり、二人ともに米國人なり。
電氣に關してもつともおどろくべき發明は無線
電信なるが、其の機械を發明
せしは今より二十年前にし
て、年なほ若きイタリヤ人マ
ルコニなり。日本と布哇{はわい}との
間に無線電信の開通せしは、

≪p030≫
一千九百十
六年十一月
十五日の事
なりき。
航空機の發
明も近年の
事にして、各
國爭うて、其の進歩發達につとむ。
今や我らは坐して幾百里外の人と談話すること
をも得べく、如何なる遠き國の出來事も、數時間の

≪p031≫
後には傳聞することを得
べく、汽船・汽車の便利によ
りて、世界一週の旅行も極
めて安らかなり。航空機の
工夫今一そう進まんには、
之によりて、世界の國々に
飛行せんも近き將來の事
なるべし。これみなむかし
の人のゆめにも知らざり
し所にして、おどろくべき

≪p032≫
は人智{じんち}の發達なり。
第十一課 ワット
蒸氣{じようき}機關を發明したワットはスコットランドのグリ
ノックス市で生れた身分のひくい機械職工で御座
いました。少年のころから身體が弱かつた人です
が、其の仕事に對する忠實と熱心{ねつしん}が、とう〳〵其の
大發明を成さしめました。
蒸氣機關についてはワットよりも前に、佛國のパパ
ンといふ人がすでに工夫してゐますが、十分に出
來上らず、世人の注意をうけずに、不幸な一生を終

≪p033≫
りました。其の後英國のニューコメンといふ人が、多
少之を改良しましたが、それにもいちじるしい進
歩は見られなかつたのです。ワットはどうかして之
を完成しようと、一心に其の事を工夫しました。
ニューコメンの蒸氣機關は、其のころ英國の炭坑{たんこう}で
用ひられてゐましたが、蒸氣の凝結{ぎようけつ}法の上に不十
分な點がありました。蒸氣を凝結させるために、圓
筒{えんとう}の中へ水を注ぐしかけになつてゐたのですか
ら、之がために多くの温度がうばはれて、たくさん
な石炭が入用であつたのです。

≪p034≫
ワットは先づ此の點を改良して、
凝結|器{き}を發明しましたから、石
炭のつひえを四分の三までへ
らすことが出來ました。之を改
良の第一歩として、後には大小
の機械をこと〴〵く改良して、今日の機關とあま
りちがはないものを造り出すことが出來ました。」
蒸氣を動力とした機關が、今日種々の機械に用ひ
られて、近世工業の發達を進めたことは、實にいち
じるしい事です。それが貧しい一職工が世界にあ

≪p035≫
たへた大功徳です。
第十二課 東京から青森まで
宮城も拜し、方々の名所も見物しましたから、東京
を立つて、青森へむかひました。
上野|停車{ていしや}場から汽車に乘つて一時間あまり、栗橋{くりはし}
の鐵橋で利根{とね}川をわたり、間もなく宇都宮{うつのみや}へ着き
ました。日光へ行くのには、こゝから日光線に乘り
かへるのです。
宇都宮から北へ行くと、那須{なす}の平野に入ります。む
かしは廣々とした野原であつたのでせう、

≪p036≫
ものゝふの矢なみつくろふ小手の上に
あられたばしる那須のしの原。
といふ名高い歌があります。今は田や畑も多く開
けました。しばらくして白河{しらかは}に着きます。
都をばかすみとともに立ちしかど、
秋風ぞふく白河の關。
といふ歌で、むかしの旅の不便であつたことが思
はれます。
阿武隈{あふくま}川にそつて、見わたすかぎりの桑{くは}の畑の間
を進んで、東北第一の都會仙臺{せんだい}へ着きました。三百

≪p037≫
年のむかし、ローマ法王へ使を送つた伊達政宗{だてまさむね}の
居つた所です。帝國大學や高等學校があります。日
本三景の一といふ松島も、こゝから近い所にあり
ます。
いよ〳〵北へ進んで、一の關といふ所があります。こ
この近所に中尊{ちうぞん}寺といふ古い御寺がのこつてゐ
ます。源|義經{よしつね}が討死した高館{たかだち}といふのが、其の御寺
のあたりにあります。北上川のほとりを通つて、盛
岡へ着きます。むかしの合戰に、安倍貞任{あべのさだたふ}のたてこ
もつた衣川の柵{とりで}は此の近所にあつのたです。貞任

≪p038≫
が此の柵からにげて行くのを、源|義家{よしいへ}がおつかけ
て、後から
衣のたてはほころびにけり。
と言ひますと、貞任はふりかへつて、
年をへし絲のみだれの苦しさに、
と答へた名高いむかし話があります。
盛岡から北には平野が多くて、馬の産地です。それ
から淺蟲のあたりへ出ると、始めて海が見えて、間
もなく青森へ着きました。上野を出てから十七時
間、此の行程は四百五十六|哩{まいる}です。

≪p039≫
第十三課 日光
日光の市街盡くる所に大谷{だいや}川あり。岩にくだくる
清流、雪とちり、玉と飛ぶ。其の
上にかゝれる朱{しゆ}ぬりの橋、美
觀先づ目をおどろかす。これ
即ち有名なる神橋にして、「日
光の結構{けつこう}。」こゝに始る。
川をわたりて坂路{さかみち}を上れば、
東照{とうしよう}宮の正面に出づ。善盡し、
美盡せる殿堂、森の緑につゝ

≪p040≫
まれて、全景畫よりも美し。表門より進んで陽明{ようめい}門
にいたる。此の門一に日暮{ひぐらし}門の名あるは、日暮るゝ
まで見れどもあかずとの意なりとぞ。金銀の光、丹
青の色、目もまばゆきばかりなり。次の門を唐門{からもん}と
いふ。木材は一切唐木を用ひたり。こゝを入れば、拜
殿あり、本殿あり、いづれも人工の美を盡せり。これ
より西南にあたりて、徳川|家光{いへみつ}の廟{びよう}あり。同じく善
美を極む。
東照宮の西三里ばかり、男體山のふもとに中襌寺
湖{ちうぜんじこ}あり、湖面かゞみの如く、四方の山々みなさかし

≪p041≫
まにかげをうつせり。明治天皇かつてこゝに行幸
あり、其の風景を賞したまひて、幸湖{さちのうみ}の名を下した
まへり。此の湖
のおち口は華
嚴瀧{けごんのたき}となる。直
下四十丈、壯觀
言ふべからず。此の水流れて大谷川となる。
日本には名勝の地にとぼしからざれども、人工の
美と山水の美とをあはせたるは日光に如くはな
し。されば一年中來り遊ぶ者多く、外國人の日本に

≪p042≫
來る者、またかならずこゝに遊びて、日光の結構を
賞せざるものなし。
第十四課 國技
ドコノ國ニモ、國民ガモツトモ好ム遊技ガアリマ
ス。之ヲ其ノ國ノ國技トイヒマス。
米國人ノモツトモ好ム遊技ハベーすぼーるデス。
廣々トシタぐらうんどヲ見タダケデモ、大陸ニフ
サハシイ遊技デアルコトヲ思ハセマス。一|團體{ダンタイ}ノ
部員ガ、全力ヲ以テ我ガ職分ヲ盡スト同時ニ、他ノ
部員ト關係{カンケイ}ヲタモチ、時ニハ團體ノタメニ犧牲{ギセイ}ニ

≪p043≫
ナルコトヲアマンズル所ニ、此ノ遊技ノ面白ミト
精神ガアリマス。
英國人ノ得意トスル遊技ハぼーとれーすデス。コ
レモ世界一ノ海軍國トイフ國民ニハ、モツトモ適
シタ遊技トイハネバナリマセン。勢ヨク白波ヲキ
ツテ進ンデ行ク競爭{キヨウソウ}ノ勇マシサハ、見テヰル人モ
心ガ空ニナリマス。コレモぼーとトぼーとノ競爭
デスカラ、一人一人ノ勝負デハアリマセン。
日本ニハ劒道・柔{ジウ}道・弓術・角力ナド、國民ノ好ム勝負
ハイロ〳〵アリマスガ、中ニモモツトモ廣ク行ハ

≪p044≫
レテ、日本ノ國技トイハレテ
居ルノハ角力デス。東京ニハ
國技|館{カン}トイフ大キナ角力場
ガアツテ、毎年一月・五月ノ興
行{コウギヨウ}ハ盛ナ見物デス。夏ノ日ノ
森ノ木カゲヤ、秋ノ月夜ノ海
ベナド、力ジマンノ村人ガ勝負ヲ爭
ツテヰルノハ、ドコヘ行ツテモ見ラ
レマス。角力ハ一人ト一人ノ勝負デ
ス。

≪p045≫
此等ノ遊技ハイヅレモ運動ニナツテ、身體ヲキタ
ヘル利益ハアリマスガ、運動ノ目的ハ、身體ヲキタ
ヘルバカリデハアリマセン。身體ヲキタヘルト同
時ニ、精神ノ上ニ、善イ感化{カンカ}ヲウケルトイフコトモ
知ラネバナリマセン。
第十五課 天智{てんぢ}天皇と藤原|鎌足{かまたり}
聖徳{しようとく}太子が政をなされた頃、蘇我{そが}馬子は大勢の一
族の力をかりて、勝手きまゝのふるまひをしまし
たが、馬子の子蝦夷{えみし}、蝦夷の子|入鹿{いるか}と、つゞいて無道
の行がつのりました。中にも入鹿は自分の思ふま

≪p046≫
まに政をしようと、聖徳太子
の御子孫をも滅し、天皇をも
おそれぬようになりました。」
此のまゝでは日本の國がど
うなるか知れないから、皇室
の御ために、一日も早く蘇
我氏を滅さなければなら
ないと、内々心を苦しめて
ゐたのは、中臣{なかとみ}鎌足といふ
人で御座いました。そこで

≪p047≫
鎌足は皇子たちの中で、どなたか賢明な御方の力
をかりようと思ひ、中大兄{なかのおほえ}皇子こそ、其の御方であ
ると、注意してゐました。
或日、中大兄皇子は或御寺の前で、蹴鞠{けまり}の遊をなさ
いました。ふとしたはずみで、皇子の御|靴{くつ}がぬけて
おちたのを、其の時まゐり合せてゐた鎌足は、すぐ
にそれを拾つて、うや〳〵しくひざまづいて、皇子
にさゝげました。皇子は禮を言つて御うけとりに
なりましたが、これが絲口となつて、皇子と鎌足は
親しい交をむすばれました。

≪p048≫
其の後皇子と鎌足は、つねに入鹿をたふす方法を
はかり、或年、三韓{さんかん}の使者が來て、國書を天皇に奉つ
たをり、其の式場{しきじよう}で、とう〳〵之を決行せられまし
た。
入鹿もたふれ、父の蝦夷も死に、蘇我氏の一族が滅
びましたので、皇室は元の通り安全になりました。」
其の後、皇子は皇太子として、長い間、政事に御盡し
になりましたが、天皇の位に御即きになつてから
も、樣々な善政を行はれました。天智天皇と申し上
げるのは此の天皇です。鎌足は始終天皇をおたす

≪p049≫
け申して、大功を
立てましたから、
大織冠{たいしよくかん}といふ位
をさづかり、藤原
といふ姓{せい}をたま
はりました。後の
代にさかえた藤原氏はみな此の鎌足の子孫です。
第十六課 かぶりもの
路行く人のかぶりもの、
中をれ・鳥うち・山高や、

≪p050≫
シルクハットと類多し。
星{ほし}の形をうちたるは
陸軍兵の帽子{ぼうし}にて、
艦の名あるは水兵帽。
學生・生徒の帽子にも
みな學校の徽章{きしよう}あり。
夏の經木{きようぎ}やむぎわらは
見るにもいとゞ輕げなり。
西洋婦人のハットには
花をかざりてうるはしく、

≪p051≫
支那{しな}の帽子はいたゞきに、
むすぶ赤だまかはいらし。
赤き帽子のトルコ人、
長き白布くる〳〵と
頭にまける印度{いんど}人、
所かはれば樣々に
かはるよそほひ面白や。
古風ゆかしき日の本の
かんむり・烏帽子{ゑぼし}今はたゞ
祭の服にのこりたり。

≪p052≫
むかしのふりを其のまゝに、
田植・草取・取入れに
農夫の辛苦{しんく}ともにする
すげ笠こそはたふとけれ。
車夫のかぶるは形より
まんぢう笠の名もをかし。
づきんにおこそ・大黒と
其の名其の類また多し。
第十七課 赤き毬{まり}と白き毬
人たれか過無からん。過を知りて改むればこそ、次

≪p053≫
第に善き道にも進み行くなれ。むかし瀧鶴臺{たきかくだい}とい
ふ學者あり。其の妻も賢婦人の聞えある人なりし
が、此の婦人が如何に我が身をかへりみて、其の行
をつゝしみしかは、次の話にても知らるべし。
或日、鶴臺の妻、ふとたもとより赤き毬を落し、あわ
てて之を拾ひ取れり。夫の鶴臺あやしみて、「そは何
ぞ。」と問ふ。妻顔を赤らめながら、なほたもとより白
き毬一つを取出して言ふよう、「われ愚{おろか}にして、日々
の行に過多ければ、如何にもして之を少くせんと
思ひ、かく赤・白二つの毬を作りて、つねにたもとに

≪p054≫
入れおけり。さて過ある時は、赤き毬に赤絲を卷き
そへ、善き行ある時は、白き毬に白絲を卷きそへし
に初は赤毬のみ大きくなりしが、今はかく同じ程
の大きさとなれり。なほ白毬の大きからぬこそは
づかしけれ。」と言ふ。鶴臺大いに妻の心がけを喜び
て、それより夫婦益々其の徳行にはげみたりといふ。
第十八課 北海道見物 (一)
青森港から汽船に乘つて、津輕海峽{つがるかいきよう}をわたると、數
時間で函館{はこだて}に着きます。こゝは北海道第一の都會
で、船の出入しげく、商業の取引もなか〳〵盛です。

≪p055≫
函館の人
口は十萬
近くもあ
ります。
函館から
汽車で北
へ向ふと、
間もなく
廣い平野
に出て、長

≪p056≫
いトンネルを通ります。トンネルを出れば、大沼{おはぬま}・小
沼{こぬま}の美しい景色が見えます。それからしばらくは
噴火灣{ふんかわん}にそうてはしりますが、灣内の景色も畫の
ような美しさです。またさびしい山の中へはいつ
て、日本海に面した小樽{をたる}港へ着くのは、函館を出て
から十二時間の後です。小樽港は北海道でもつと
も大切な港です。札幌{さつぽろ}を通つて來る陸産物は、大て
いこゝから輸出されますし、西北海岸から集つて
來る水産物も、みなこゝから船で積出されます。樺
太{からふと}行の汽船の發着點もこゝです。

≪p057≫
小樽から札幌へは一時間です。札幌は
石狩{いしかり}平野の西部に位して、全道の交通
の中心になつてゐます。道|廳{ちよう}・帝國大學
等があります。大きな工場もたくさん
あります。市街はアメリカ式で、碁盤{ごばん}の
目の如く、市街の兩がはにはアカシヤ
其の外のなみ木が植ゑてあります。農
科{のうか}大學の農園の大きいのと、よくとゝ
のつてゐるのは、だれでも見て感心し
ます。夏の新緑の頃、こゝに遊ぶ人は、此

≪p058≫
の世の樂園といふのは、かういふ所であらうと思
ひます。
第十九課 北海道見物 (二)
札幌を出發して、東北の岩見澤{いはみざは}へ行きます。其の中
間に江別{えべつ}があります。千歳{ちとせ}川と石狩川の本流の會
合點で、千歳川の鐵橋を渡ると、左には石狩川の洋
洋として西流するのが見えます。さすがに日本第
一の大川と思はれます。岩見澤は炭礦{たんこう}地方の中心
地で、夕張{ゆふばり}・幌内{ぽろない}等の炭山はこゝから近いのです。夕
張の石炭は布哇{はわい}へもたくさん輸出されます。

≪p059≫
岩見澤から旭川{あさひがは}へ行く汽車は石狩川にそつて走
ります。名高い神居古潭{かむゐこたん}の勝景は旭川に近い所に
あります。旭川は新しい町ですが、近所に米の産地
が多くあつて、にぎやかな所です。こゝは北海道で
ももつとも寒い所です。本島第一の高山|旭岳{あさひだけ}は、雪
をいたゞいて東方にそびえてゐます。
旭川から東南に向ひ、十勝{とかち}の平野を走ると、太平洋
に面した釧路{くしろ}に着きます。釧路は開港場で、木材や
種々の水産物等を輸出します。根室{ねむろ}へはこゝから
汽船で行くのです。

≪p060≫
釧路から引返して、岩見澤で室蘭{むろらん}線に乘りかへま
す。室蘭は噴火灣の東のはしにあつて、函館に次ぐ
良港です。灣内の港々へ便利なために、船の出入が
盛です。
室蘭から東およそ三十里に沙流{さる}川があります。少
し上流に有名なあいぬ人の村があります。あいぬ
人は昔北海道と本土の東北部にすんでゐた人種
ですが、だん〳〵に少くなつて、今では全島で二萬
に足りない程しか居りません。
第二十課 養生

≪p061≫
「病ハ口ヨリ入ル。」ツヽシムベキハ飲食ナリ。口ニウ
マシトテ、多ク食フコトナカレ。多ク飲ムコトナカ
レ。今一口トイフ所ニテ止メヨ。
食物ハヨクカミコナスベシ。年八十ヲコエテ病ヲ
知ラザル老人ニ、長生ノ方法ヲ問ヒシニ、「ヤハラカ
ナルモノモ二十七度カメ。」ト答ヘタリトイフ。
ジユクセザル果物、生ニエノ肉、クサリタル魚ナド
ヲ食ヒテ、一命ヲウシナフ者少カラズ。キタナキ水
ヲ飲ミテ、オソロシキ病ニカヽル者多シ。酒・煙草ノ
害{ガイ}ハ今サラニ言フマデモナク、年少者ニハ其ノ害

≪p062≫
コトニオソロシ。
不潔{フケツ}モマタ病ノ種トナル。シバ〳〵入浴シテ、身體
ヲ清潔ニスベシ。ヨゴレタル手ニテ目ヲコスリテ、
目ヲワヅラヒシ人アリ。衣服モヨクアラヒテ、ヨゴ
レタルヲバ着ルコトナカレ。家ノ中モナルベクキ
レイニセヨ。心持ノヨキノミニテモ病ヲフセグニ
足ラン。
運動不足ナレバ、食物ノコナレ惡ク、身體弱リテ、氣
分モフサグ。無病ニシテ、醫者{イシヤ}ニカヽリタルコトナ
キ人アリ、「我ハ天氣ニモ相談セズ、毎日運動スルガ

≪p063≫
ユヱニ、醫者ニモ相談スルコトナシ。」ト言ヘリトゾ。
シカレドモ運動多キニ過グレバ、カヘツテ病ヲ起
スコトアリ。「過ギタルハ及バザルガ如シ。」ト知ルベ
シ。
身體ノツカレヲ直スハ、ヨク眠ルニ如クハナシ。「夜
半十二時前一時間ノ眠ハ、十二時後二時間ノ眠ニ
マサル。」ト言ヘリ。早クイネテ、早ク起クベシ。
空氣ノ大切ナルコトモ食物ニオトラズ。トヂタル
室内ニハ不潔ナル空氣コモル。時々マドヲ明ケハ
ナチテ、新シキ空氣ヲ流通セシムベシ。

≪p064≫
室内ニノミ居テ、外出スルコト少キ人ノ、色青ザメ
テ元氣ナキハ、日光ニ浴セザルガタメナリ。家ヲタ
ツルニハ日アタリヨキ所ヲエラビ、フトン・衣服ノ
類ハシバ〳〵日光ニカワカスベシ。西洋ノコトワ
ザニモ「ヨク日光ノ見マフ家ニハ醫者ハ見マハズ。」
ト言ヘリ。
人ハ身體ノ養生ノ外、精神ノ養生ニ注意セザルベ
カラズ。之ヲオコタラバ、精神ノ不健全ヲマネキ、ツ
ヒニハ一身一家ノ不幸ヲ來スベシ。精神ノ養生ハ
一言ニシテ盡ク、イハク安心コレナリ。物毎ニクヨ

≪p065≫
クヨセズ、天命ニ安ンジテ、ツネニ快活ニ立チハタ
ラクベシ。
第二十一課 奈良{なら}時代
日本の歴史{れきし}で奈良時代といふのは、元明天皇が都
を大和{やまと}國奈良へ御|遷{うつ}しになつてから、桓武{かんむ}天皇が
京都を都と御定めになつた年まで、御代は七代、年
は七十年あまりの間を申します。
奈良時代には學問も、美術も、工藝も、いちじるしく
進歩しました。佛教も益々盛になりました。
聖武{しようむ}天皇は深く佛教を御信仰になり、國々には國

≪p066≫
分寺といふ寺を御建てにな
り、奈良には東大寺を御造り
になりました。さうして五丈
三尺五寸の大佛を造つて、此
の東大寺におすゑになりま
した。これが世に名高い奈良
の大佛です。
聖武天皇の御物ををさめた
御|倉{くら}が、今でも奈良にありま
す。其の中には色々なめづら

≪p067≫
しい古い美術品が保存されてあつて、それを見る
と、あんな古い時代に、どうしてこんなりつぱな物
が出來たかと、今さらに昔の文明の進歩におどろ
かれるのです。
第二十二課 和氣清麻呂{わけのきよまろ}
奈良{なら}時代には佛教が盛に行はれたのにつれて、路
を開いたり、橋をかけたり、池を作つたり、人民の便
利をはかつた名僧もたくさんありましたが、道鏡{どうきよう}
のような無道な惡僧も出ました。
道鏡は稱徳{しようとく}天皇に仕へて、重く用ひられ、法王の位

≪p068≫
までさづけられて、何不足なき身分となりました
ので、つひには天子の位に即かうといふおそろし
い心を起しました。其の頃道鏡のきげんを取らう
といふ淺はかな人があつて、宇佐八幡{うさはちまん}の御告とい
つはつて、「道鏡を皇位に御上せになれば、天下は太
平になりませう。」と申し上げた者がありました。道
鏡は之を聞いて大いに喜びましたが、天皇は御安
心が出來ないので、和氣清麻呂を召して、宇佐へ行
つて、たしかに神の教をうけて來るようにと仰せ
つけられました。

≪p069≫
清麻呂が宇佐へ行かうと
した時、道鏡は清麻呂に向
つて、「自分が皇位に上つた
ら、汝には高官をさづける
から。」と、すかしたり、おどし
たりして、よきようにとたの
みました。やがて清麻呂は宇
佐へ行つて、神樣の御教をう
かゞひました。さて歸つて、「我
が國は太古から君臣の分が

≪p070≫
定まつてゐる。臣下から上つて君となることはか
つて無い。天日嗣{あまつひつぎ}にはかならず皇統を立てよ。無道
の人は早くのぞけ。」と、神樣の教をはゞかる所なく
申し上げました。道鏡は大いにいかつて、清麻呂の
名を穢麻呂{けがれまろ}とかへさせて、大隅{おほすみ}國に流し、なほ途中
で殺させようとしましたが、清麻呂は幸に其の難
をのがれました。
間もなく稱徳天皇が崩ぜられて、光仁{こうにん}天皇が御即
位になり、道鏡は下野{しもつけ}へおひやられました。忠義な
清麻呂は召しかへされて、其の後長く朝廷に仕へ

≪p071≫
ました。京都の御所の近くにある護{ご}王神社は、清麻
呂を祭つた社です。
第二十三課 病氣見まひ
一昨日より御出校無きゆゑ、如何せ
られしかと、級中のもの一同心ぱい
いたし居り候ところ、今朝御病氣の
由うけたまはり、みな〳〵おどろき
入り候。日頃健全なる君の事なれば、
不日全快せらるゝ事と存じ候へど
も、教室に、運動場に、元氣なる君のす

≪p072≫
がたの見えざるは、何となく物さび
しくて、一同氣ぬけしたる樣に候。十
分御養生の上、一日も早く御出校の
程願ひ上候。いづれ明後日の日曜に
はおたづねいたすべく候へども、取
りあへず右御見まひ申し上候。草々。
七月十日 上野良三
林 進一君
二白、別紙は小生の寫生{しやせい}畫に御座候。
實物は裏のにはにさきたる草花に

≪p073≫
候。御笑草までに。
同じく返事
さつそく御見まひ下され、まことに
有り難く存じ候。日頃の丈夫にほこ
りて、母の止むるをもきかず、果物を
食過したるための病氣に御座候。全
く不孝のばちとこうかいいたし居
り候。しかし幸にも今夕は少しのい
たみもおぼえず、此の樣子ならば、土
曜日までには全快仕るべしと存じ

≪p074≫
候間、御案じ下さるまじく候。
御自作の寫生畫見事にて、母も感心
いたし候。先は御禮まで。草々。
七月十日 林 進一
上野良三樣
第二十四課 少女ノ貯金
或村ノ貧シキ農家ニタネトイフ少女アリ、毎朝早
ク起出デ、町ヘ行キテ花ヲ賣レリ。其ノ花ハ我ガ家
ノ畑ニ作リタルモノカ、サラズバ自ラ野山ヨリ取
來レルモノナリ。タネガ美シキ聲ヲハリ上ゲテ、「花

≪p075≫
ヤ、花ヤ。」ト賣歩ク時、町ノ人ハ爭ウテ之ヲ買取レリ。
町ノ人ハ此ノ少女ノ善キ行ヲ知リタレバナリ。タ
ネガ其ノ得タル錢ヲ以テ、家ノクラシヲ助クルコ
ト、花ヲ賣終ヘテ後、學校ヘ通フコトサヘ知リタレ
バナリ。
タネハ日々得タル錢ノ幾分ヲバ、不時ノ用意ニト
テ貯金シタリ。チリモ積レバ山トナルタトヘ、ワヅ
カヅツノ貯金モ、イツカ一カドノ金高トナレリ。
或年ノ秋、末ノ弟ノ病氣ニカヽリシ時、タネハ其ノ
貯金ヲ出シテ、弟ヲ醫者{イシヤ}ニカケ、氣長ク養生セサセ

≪p076≫
シカバ、弟ノ病モ全快セリ。父母モコレ皆汝ノカナ
リトテ、タネニ禮ヲ言ヘリ。
タネハ二三年前、學校ヲ終ヘシガ、毎朝花ヲ賣歩ク
コトハ、今モ昔ニカハラズトイフ。
第二十五課 阿倍仲麻呂{あべのなかまろ}と吉備眞備{きびのまきび}
奈良{なら}時代には、日本から支那{しな}へ學問に行つた學生
や僧徒がたくさんありましたが、其の中で名高い
のは阿倍仲麻呂・吉備眞備などです。
仲麻呂は十六歳の時、日本の使とともに彼の國へ
渡り、數年の後、歸朝しようとしましたが、途中で難

≪p077≫
船して、歸ることが出來ず、一生彼の地にとゞまり
ました。支那の朝廷では仲麻呂に官位をさづけて、
重い役人に用ひました。
天の原ふりさけ見れば、春日{かすが}なる
三笠の山に出でし月かも。
といふのは、彼の國で日本の國を思つてよんだ歌
です。三笠山は奈良にある山です。
眞備は二十四歳の時、彼の地へ渡り、其の頃のすぐ
れた學者について學ぶこと二十年、たくさんの書
物を持つて歸りました。歸つてから、日本國のため

≪p078≫
に盡し、右大臣にまでなりました。
第二十六課 貨幣{カヘイ}と度量衡{ドリヨウコウ}
賣買トイフコト無カリシ上代ニハ、物ト物トヲ交
換シタリシガ、世ノ進ムニシタガヒ、或種類ノ物品
ヲ定メテ之ヲ中ダチトシテ、物々交換ノ不便ヲハ
ブクニ至レリ。此ノ中ダチトナル物品ハ之ヲ貨幣
トイフ。貨幣タル物品ハ時代ニヨリ、場所ニヨリテ
一定セザレドモ、文明國ノ貨幣ニハ主トシテ金銀
ヲ用フ。
日本ノ貨幣ニハ金・銀・銅ノ三種アリ。金貨ニハ二十

≪p079≫
圓・十圓・五圓、銀貨ニハ五十錢・二十錢・十錢、銅貨ニハ
五錢(白銅)・一錢・五|厘{リン}(青銅)ノ各種アリ。米國ノ貨幣ニ
モ金・銀・銅ノ三種アリ。金貨ニハ二十弗・十弗・五弗、銀
貨ニハ一弗・五十仙・二十五仙・十仙、銅貨ニハ五仙(白
銅)・一仙(青銅)ノ各種アリ。一弗ハ百仙ヨリ成リ、日本
ノ二圓程ニ當ル。
度量衡トハ長サ・マスメ・重サヲハカルニ用フル目
安ヲイフ。世界ノ度量衡ニハ尺・
貫・升式、やーど・ぽんど式、めーと
る式ノ三種類アリ。

≪p080≫
日本・支那{シナ}等ニテハ尺・貫・升式ヲ用
ヒ、西洋ノ國々ニテハ初メ英國ニ
ナラヒテ、やーど・ぽんど式多ク行
ハレシガ、十進法ナルめーとる式
ノ便利ナルヲ知リ、ヤウヤク之ニ
改ムル國多ク、シカラザル國々モ之ヲアハセ用フ
ルニ至レリ。
米國ハやーど・ぽんど式ニヨレリ。即チ度ハやーど、
量ハがろん、衡ハぽんどナリ。シカシテ一やーどハ
日本ノ三、〇一七五尺、一がろんハ二、〇九八五升、一

≪p081≫
ぽんどハ一二〇、九五八
〇匁{モンメ}ニ當ル。
めーとる式度量衡ハめ
ーとる・りっとる・きろぐら
むニシテ、一めーとるハ
日本ノ三、三〇〇〇尺、一
りっとるハ〇、五五四五升、
一きろぐらむハ〇、二六
六六七貫ニ當ル。
第二十七課 日本一の物

≪p082≫
日本一の高山は臺灣{たいわん}の新高{にひたか}山なり。其の高さは一
萬三千七十尺にして、富士{ふじ}山より高きことおよそ
一千尺なり。しかれども富士山は四時雪をいたゞ
きて、其の形白き扇{あふぎ}を
さかさまにかけたる
が如く美しきは、なほ
日本第一の山といふ
べく、むしろ世界一の
名山とも稱すべし。
日本一の湖{みづうみ}は近江{あふみ}の

≪p083≫
琵琶湖{びはこ}にして、いづこよ
り見ても、山にさへぎら
れ、かすみにへだてられ
て、其の全景を見ること
あたはず。近江一國の川
流はほとんど全く此の
湖に入り、湖より流れ出
づる瀬田{せた}川は宇治{うぢ}川と
なり、淀{よど}川となりて、大阪{おほさか}にいたりて海に注ぐ。
日本一の長流は朝鮮{ちようせん}の鴨緑江{おうりよくこう}なり。其の長さ百八

≪p084≫
十里なりといふ。此の川にかゝ
れる鐵橋もまた日本第一の長
橋なり。
日本一の古き建築物の今にの
これるは大和{やまと}の法隆{ほうりう}寺なり。日
本の建物はおほむね木造なれ
ば、古社寺等も昔のまゝにて今
にのこれるははなはだ少し。し
かるに此の寺は今よりおよそ一千二百年以前、聖
徳{しようとく}太子の建立にかゝり、昔のまゝの形を存せり。お

≪p085≫
そらくは木造建築物中、世界にてもつとも古きも
のなるべし。
大和には今一つ日本一のものあり、東大寺の大佛
これなり。身長五丈三尺五寸、銅座・石座を通計すれ
ば、其の高さ七
丈一尺五寸と
す。坐像にして
すでにかくの
如し。若し之を
立像とせば、何

≪p086≫
程の高さとなるべきか。其の大佛殿は大きさにお
いて世界第一の木造建築物にして、高さ十五丈六
尺、東西十八丈八尺、南北十六丈六尺あり。
西洋風の建物にて其の大きさの日本一といふべ
きは東京|停車{ていしや}場なり。長さ百八十四間、はゞは十一
間より二十三間に及べり。
日本一はもとより、世界一とも稱すべき大|煙突{えんとつ}は、
常陸{ひたち}の日立鑛山{ひだちこうざん}にあるものにて、高さ五百十一|呎{ふいーと}、
上口のさしわたし二十五呎六|吋{いんち}なり。高さ千六十
呎の山上にあるを以て、青空雲なき時は、よく數十

≪p087≫
里の遠くより望むことを得べし。此の大・煙突のや
や下手の山角に、高さは百二十呎に過ぎざれども、
上口のさしわたし五十九呎といふ、太さの點にお
いて日本一の煙突あり。外人の來り觀るもの、おど
ろかざるはなしといふ。
第二十八課 桓武{かんむ}天皇
光仁{こうにん}天皇の皇子で、第五十代の皇位をふませられ
たのが桓武天皇で御座います。此の天皇の御代に、
今の京都を帝都と定められて、それから一千七十
年の間、歴代の天皇は、いつもこゝに都せられまし

≪p088≫
た。坂上田村麻呂{さかのうへのたむらまろ}が蝦夷{えそ}を平げて大功を立てたの
も此の御代です。
天皇の御代に、最澄{さいちよう}・空海と
いふ二人の高僧が支那{しな}へ
渡つて、佛法を學び、日本へ
歸つて、各其の宗門をひろ
めました。最澄は比叡{ひえい}山を
開いて延暦{えんりやく}寺を建てまし
た。傳教大師といはれる人
です。空海は高野山を開い

≪p089≫
た人で、弘法{こうぼう}大師の名で知られてゐます。
京都に平安神宮といふ神社があります。これは桓
武天皇を祭つた御宮で、京都が帝都となつた一千
年の記念祭の時、建てられました。
第二十九課 京都
京都は美しい山にかこまれた美しいしづかな都
です。東には加茂{かも}川、西には桂{かつら}川が流れてゐます。皇
居は廣い御苑{ぎよえん}の中に、紫宸{ししん}殿・清凉{せいりよう}殿など、多くの宮
殿が立ちならんで、神々しい感じを起させます。市
街は縱{たて}横十文字に碁盤{ごばん}の目のように、きまりよく

≪p090≫
ならんでゐます。
一千年來の帝都として、どこ
へ行つても、名所・舊跡が數多
く御座います。東には知恩院・
八阪{やさか}神社・建仁{けんにん}寺・高臺寺・清水{きよみづ}
寺・大佛・豐國{とよくに}神社・三十三間堂・
泉涌{せんゆう}寺・東福{とうふく}寺、西には平野神
社・妙心{みようしん}寺・仁和{にんな}寺・大覺{だいかく}寺・天龍{てんりう}
寺・廣隆{こうりう}寺があり、東寺は南に、
平安神宮・南禪{なんぜん}寺・黒谷・吉田{よしだ}神

≪p091≫
社・鹿谷{しゝがたに}・銀閣{ぎんかく}寺・上下|賀茂社{かものやしろ}・大徳寺・金閣{きんかく}寺は北に、北
野神社・相國寺・護{ご}王神社・本能{ほんのう}寺・六角堂・東西|本願{ほんがん}寺
は市内にあつて、古い神社、名高い寺々、こゝは何の
宮の跡、あそこは何の院の池などと、ながい日を五
日や六日めぐりめぐつても、見盡すわけにはまゐ
りません。まるで歴史の上を歩いてゐるような心
持がします。
京都の人口は六十萬に近う御座います。産物とし
ては、清水燒{きよみづやき}や、友禪染{いうぜんぞめ}や、西陣{にしじん}織や、京人形・小町紅な
ど、其の名を聞いても、なつかしい感じが浮びます。

≪p092≫
(一)
一千年の昔より
名も平安の都とて、
眠るににたる東山、
さゝやく如き加茂の川。
(二)
朝御苑の露ふみて、
はるけき代々をなつかしみ、
夕御寺のかねの音に、
過ぎにし人も思ひ出づ。

≪p093≫
(三)
春は櫻の嵐{あらし}山、
花にふく風うらめしく、
秋のもなかの月のかげ、
嵯峨{さが}野に蟲の聲高し。
(四)
一條{じよう}・二條・三條と、
都大路はしげけれど、
かしこの社、こゝの森、
たゞいにしへのしのばれて。

≪p094≫
第三十課 藤原氏
桓武{かんむ}天皇が京都に都を定められてから、源|頼朝{よりとも}が
幕府{ばくふ}を鎌倉{かまくら}に開くまでの間四百年程を、日本の歴
史で平安時代と申します。
平安時代の京都の御所は、今京都にあるものより
はずつと大きうございました。其の頃の京都の市
街も、今よりはずつと大きかつたらしう御座いま
す。高位・高官の人々の壯麗な家居の有樣も、今は見
ることが出來ません。綾{あや}・錦{にしき}の衣を重ねた大宮人が、
ゆるやかな牛車を追はせて、此の市街をねり歩い

≪p095≫
た樣子は、どんなに優美で御
座いましたらう。
平安時代は藤原氏の勢力の
もつとも盛な時で御座いま
した。祖先の鎌足{かまたり}が天智{てんぢ}天皇
を助け奉つて大功を立てて
から、其の子孫はだん〳〵に
榮え榮えて、高位・高官の人々
は多く藤原氏の一門から出
ました。鎌足の子|不比等{ふひと}の女

≪p096≫
が聖武{しようむ}天皇の皇后{こうごう}に上つたのを始として、歴代の
皇后は皆藤原氏から上りました。鎌足六代の孫|良
房{よしふさ}の女は文徳天皇の皇后となられまして、良房は
攝政{せつしよう}といふ役になりました。其の子|基經{もとつね}は關白と
いふ職になつて、天皇から一切の政事をまかせら
れました。其の以後は藤原氏が代々關白となつて、
日本の政事を左右しました。
藤原氏の榮|華{が}の極點に達したのは、藤原道長の時
で御座います。道長の女は三人まで皇后に上り、道
長は後一條・後朱雀{ごすじやく}・後冷泉{ごれいぜい}の三天皇の外祖父とな

≪p097≫
りました。道長が或時よんだ歌に、
此の世をば我が世とぞ思ふ、もち月の
かけたる事も無しと思へば。
第三十一課 張良{チヨウリヨウ}ト韓信{カンシン}
昔|支那{シナ}ニ張良トイフ人アリ。橋上ニテ白髮{ハクハツ}ノ老人
ニアフ。老人|片足{カタアシ}ノ靴{クツ}ヲ橋下ニ落シ、良ヲカヘリミ
テ、「拾ヒ來レ。」ト言フ。良、心ノ中ニ無禮ナリト怒リシ
ガ、老人ノ言ナレバ、命ノマヽニ拾ヒ取リテ之ヲサ
サグ。老人足ニテ之ヲ受ケ、笑ツテ去ル。良オドロキ
テ目送スルニ、ヤヽアリテ引返シ來リ、「汝ハ教フル

≪p098≫
ニ足ル者ナリ、五日目ノ朝、此
ノ所ニテ我ヲ待テ。」ト言ヒス
テテ去レリ。
五日目ノ朝行キテ見ルニ、老
人スデニ來リテ、良ヲ待テリ。
大イニ怒リテ、「長者ト約シテ、
後ルヽハ禮ニアラズ。今ヨリ
後五日目ノ朝、フタヽビ來レ。」
ト言フ。良ヤムヲ得ズシテ歸レリ。
次ノ五日目ノ朝モマタ老人ニ先ダタレタリ。老人

≪p099≫
怒リテ、五日目ノ朝ヲ約スルコト、マタ前ノ如シ。良
此ノ度コソハト、夜半ヨリ起キテ橋上ニイタレバ、
シバラクアリテ、彼ノ老人來レリ。フトコロヨリ一
卷ノ書ヲ取出シテ言フヨウ、「汝ヨク此ノ書ヲ學バ
バ、ツヒニ王者ノ師タラン。」トテ、其ノ書ヲアタヘテ
去レリ。受ケテ見レバ、世ニモ得難キ兵書ナリ。良大
イニ喜ビテ、朝夕之ヲ讀ミ、ツヒニ兵法ヲ會得シタ
リ。
良ト同ジ頃、韓信トイフ人アリ。大刀ヲオビテ市中
ヲ行ク。市中ノ惡少年等、口々ニノヽシリテ止マズ。

≪p100≫
其ノ中ノ一人イハク、「汝長大ニシ
テ、劒ヲオビナガラ、心ハナハダ弱
シ。若シ勇アラバ、我ヲ殺セ。殺スア
タハズバ、我ガ胯{マタ}ヲクヾレ。」ト。韓信
シバシ其ノ面ヲウチマモリタリ
シガ、ヤガテハラバヒテ胯ヲクヾ
ル。見ル者アザケリ笑ハザルハナ
シ。
後張良・韓信トモニ漢{カン}ノ高祖ニ仕ヘ、良ハ内ニ謀{ハカリゴト}ヲ
運ラシ、信ハ外ニ兵ヲ用ヒテ、ツヒニ高祖ヲシテ其

≪p101≫
ノ大業ヲ成サシメタリ。良ヤ老人ノ無禮ヲトガメ
ズ、信ヤ少年ノ冷笑ニ怒ラズ、其ノ初メ小事ニシノ
ビシハ、後大名ヲ成スニ至リシ所以ナリ。
第三十二課 名古屋{なごや}から新潟{にひがた}まで
名古屋で中央線の汽車に乗ると、濃尾{のうび}の平原から
次第に上つて、木曾{きそ}川の急流を見下しながら、山ま
た山の中にはいつて行きます。良材の産地として
昔から名高い木曾山|脈{みやく}の間を走つて行くのです。
かけ橋や命をからむつたかづら。
とうたはれた木曾のかけ橋も、汽車のまどから見

≪p102≫
られます。御嶽{おんたけ}參りの人が下
車する福島{ふくしま}を過ぎて、間もな
く鹽尻{しほじり}に着きます。
こゝで別の汽車に乘換へて
松本へ行く道は、見渡すかぎ
りの畑はほとんど桑{くは}の木ば
かりです。長野|縣{けん}が日本第一
の養蠶{ようざん}地であることは、之を
見ても成程とうなづかれます。
松本市は信州{しんしう}第一の商業地です。市街の東のはし

≪p103≫
には昔の城が見え、日本アルプスといふ高い山々
は屏風{びようぶ}を立てまはしたように、西方はるかにそび
えてゐます。山上りをする人は、こゝで汽車を下り
るのです。
松本市から三時間で長野市に着きますが、其の間
に月の名所の姨捨{をばすて}山があります。長野市は善光寺
で知られてゐます。遠近の國々から御參りするも
のは、年中引きもきらない有樣です。
長野市から直江津{なほえつ}をへて、日本海岸にそつて新潟
市へ出ます。新潟市は本土第一の長流|信濃{しなの}川の川

≪p104≫
口にあつて、古くからの開港場ですが、今はあまり
良い港ではありません。
新潟附近、また新潟から信濃川にそつて少し上つ
た長岡附近からは、石油がたくさんに出ます。
名古屋から新潟へ出ると、これでちようど本土を
横ぎつたのです。
第三十三課 平氏と源氏 (一)
平安時代の末になつて、藤原氏がおとろへて、天下
の實權は武人の手にうつりました。武人では平氏
が一時勢力を得ましたが、やがて平氏が滅びて、源

≪p105≫
氏が將軍として立つことになりました。
平氏も源氏も元は皇室から出て居ります。平氏の
祖先は桓武{かんむ}天皇の皇子|葛原{かつらはら}親王で、其の孫|高望{たかもち}王
が始めて平の姓{せい}をたまはりました。源氏の祖先は
六孫王|經基{つねもと}で、清和{せいわ}天皇の御孫にあたります。
平安時代の平安は保元の亂にやぶれました。保元
の亂の起りは、皇室では崇徳{すとく}上皇が御弟の後白河{ごしらかは}
天皇と御中たがひになり、藤原氏では藤原|頼長{よりなが}が
其の兄の關白|忠通{たゞみち}と不和になつて、兩方が武人を
引入れて、戰爭となつたのです。此の時源氏では源

≪p106≫
|爲義{ためよし}が多勢の子を引きつ
れて、崇徳上皇の御|味方{みかた}に
參り、平家では平|清盛{きよもり}が後
白河天皇の御味方になり
ました。上皇の軍がまけて
から、平家の勢力の強くな
つたのは當然{とうぜん}の事です。
此の軍に爲義の長子|義朝{よしとも}
ばかりは、清盛と同じく後
白河天皇の御味方に參り

≪p107≫
ましたが、平家の勢のだん〳〵強くなるのを見て、
不平でたまりません。そこに藤原|信頼{のぶより}も同じく不
平であつたので、これと相談して、平家をのぞかう
としました。これが平治の亂の原因{げんいん}です。
平治の亂で義朝はやぶれ、東國へ落ちのびようと
して、尾張{をはり}國で殺されました。其の子も多く討死し
たり、殺されたりしましたが、頼朝{よりとも}は伊豆{いづ}國に流さ
れました。
源氏の重だつたものが、皆無くなりましたから、こ
れからが平家の世です。清盛はだん〳〵に勢力を

≪p108≫
得て、太政大臣{だじようだいじん}になり、其の長子の重盛{しけもり}は内大臣、次
子の宗盛{むねもり}は右大臣、一門の者はこと〴〵く高位・高
官を占めて、平家の人でなければ人で無いといふ
有樣になりました。
第三十四課 平氏と源氏 (二)
源氏の一族源|頼政{よりまさ}は平治の亂にも清盛方で、無事
で居りましたが、平氏があまりに横暴なのを見て、
面白くなくなりました。そこで後白河天皇の皇子
|以仁{もちひと}王を御すゝめ申し上げ、平氏を討つ御ゆるし
を申し受けて、先づ軍を起しましたが、間もなくや

≪p109≫
ぶれて自殺しました。
國々にひそんで居つた源氏は以仁王のおほせを
受けて、兵を起しました。十三歳の時伊豆に流され
た頼朝は今年三十三歳です。東國には源氏の恩義
に感じて居る武士がたくさんありましたから、頼
朝が兵を起したと聞いて、皆其の旗{はた}の下に集つて
來ました。少したつて、頼朝の弟|義經{よしつね}もはる〴〵奧
州{おうしう}から頼朝の軍に加りました。頼朝や義經の從弟{いとこ}
にあたる源|義仲{よしなか}は木曾{きそ}の山中から起つて、京都へ
せまらうとしました。

≪p110≫
ひさしい間、榮|華{が}になれてゐた平家方は、東國の武
士の敵ではありません、重盛の長子|維盛{これもり}は大軍を
ひきゐて東國へ向ひましたが、富士{ふじ}川でさん〴〵
に負けて、京都へにげて歸りました。其の中に義仲
は北陸道から攻めこんで、京都へはいりました。平
家方は一族うちつれ、安徳天皇を奉じて、西國の方
へ落ちて行きました。
平家を追ひはらつて京都へはいつた義仲は、功に
ほこつて、我がまゝの所行をしました。とう〳〵頼
朝と不和になつて、頼朝は弟の範頼{のりより}や義經等に義

≪p111≫
仲を討たせました。佐々
木高綱{さゝきたかつな}と梶原景季{かぢはらかげすゑ}が宇
治{うぢ}川で先陣{せんじん}を爭つたの
は、此の時の話です。義仲
は敗れて戰死しました。」
一たん西國へにげのび
た平家は、少しく勢を取
りかへして、攝津{せつつ}の福原{ふくはら}
にたてこもりました。義
仲を滅した範頼や義經

≪p112≫
は、勢に乘じて之を攻めました。義經は裏山のけは
しい道から攻入りました。これが一の谷の坂落{さかおと}し
です。一の谷が落ちて、平家の人々は四國の屋島{やしま}へ
にげました。義經はまた急に攻めて之を破りまし
た。那須與一{なすのよいち}が扇{あふぎ}の的をいた話は、皆さんもおぼえ
てゐませう。
平家は長門{ながと}の壇浦{だんのうら}までにげのびましたが、源氏は
あくまで之を追ひつめました。壇浦の戰で、平家の
一門は或は討死し、或は入水し、安徳天皇も海にし
づんでおかくれになりました。

≪p113≫
「驕{おご}る平家は久しからず。」平家はとう〳〵全滅しま
した。
第三十五課 遊學する友に
拜啓、御出發の時日も相せまり、何かと御いそがし
き事と存じ候。遠く御兩親のもとをはなれられ候
とはいへ、東京には御親類も御有りの由、御案じに
は及ぶまじく、希望にかゞやく將來を思へば、まこ
とに御めで度、かつはおうらやましき次第に候。承
り候へば、來年三月には東京府立中學の入學試驗{しけん}
を御受けなされ候御決心のおもむき、御勉強の結

≪p114≫
果{けつか}のあらはれて、御|合格{ごうかく}はもちろんの事とは存じ
候へども、入學出願者も多數の由に候へば、此の上
とも、十分御勉學、首尾よく御入學なさるゝ樣、返す
返すもいのり居り候。御出發の時は、ぜひ波止場{はとば}ま
で御見送り申し上ぐべく候。草々。
十一月二十五日 加藤善作
櫻山五百吉兄
第三十六課 書物
我等は毎日書物を讀んで、色々な事をおぼえ、深く
心を樂しませます。世間には色々な樂みがありま

≪p115≫
すが、良い書物を讀む樂み程、上品な樂みはありま
せん。また世の中に書物程價の安いものはありま
せん。飲んだり食つたりしたものは、其のまゝ消え
てしまひますが、書物はいつまでもあつて、何べん
でも讀まれます。
書物をこしらへるのは學者です。學者が書下して、
それが書物に出來上るまでには、色々な手數が入
ります。どんな文の上手な人でも、どんな學問の深
い人でも、書物を書く前には、十分に其の考をねら
なければなりません。色々な書物をしらべて參考

≪p116≫
にすることも大切です。
さて書始めてからも、消
したり加へたりして、我
我の讀むようなものに
なるまでには、幾度書直
すか知れません。書物の
中へはさむ畫をかく人、
圖を引く人などの苦心
も一通りではありませ
ん。

≪p117≫
かうして出來上つたものを印刷所へ渡します。印
刷所では活字拾ひの職工が、それを讀みながら一
一活字を拾ひますと、植字の職工が、書いて渡した
通りにならべます。日本の活字には大きさによつ
て、初|號{ごう}から八號
位までの種類が
あります。圖や畫
は別にかたい木にほりつけて、相當の場所に入れ
ます。さてかりに刷つて、讀合せて見て、あやまりが
あれば、幾度でも其の活字をぬきかへて植直しま

≪p118≫
す。之を校正と申します。さうしていよ〳〵一字も
あやまりが無くなつてから、本刷にかゝるのです。」
一色の印刷は一度刷ればよいが、色のたくさんま
じつた美しい畫や地圖のようなものは、幾度も幾
度も印刷を重ねなければなりません。極上品なも
のになると、機械では刷らないで、手刷にすること
もあります。
印刷が出來上つてから本にとぢるまでにも、また
中々手數がかゝります。印刷する紙は廣い大きな
紙で、幾ページ分も一度に刷れます。それををつて、

≪p119≫
そろへてとぢて、其の上に表紙をつけて、かたくし
めます。表紙には紙ばかりのもあり、紙の上を布で
つゝんだのもあります。りつぱなものになると、革{かは}
をきせたのもあります。
これは活字本の書物の造り方でありますが、此の
外に木版{もくはん}刷の書物もあります。それは版下をかた
い木にはりつけて、其の上からほつて版木を造り、
一枚づつ手刷にするのです。
活版は印刷が終れば、其の活字を取りはなすこと
が出來ますから、同じ活字が何度でも使へます。木

≪p120≫
版では一枚々々ほらなければなりませんから、其
の自由がきゝません。活字は何時でもすぐに植ゑ
ることが出來ますが、木版では一枚づつほります
から、手間が幾倍もかゝります。
をり〳〵に遊ぶいとまはある人の、
いとまなしとて、ふみ讀まぬかな。
第三十七課 北條時宗{ほうじようときむね}
源|頼朝{よりとも}の妻|政子{まさこ}は北條|時政{ときまさ}の女で、頼朝のなくな
つた後は、幕府{ばくふ}の實權は北條氏の手にうつりまし
た。北條氏は世々|執權{しつけん}として、幕府の政を取りあつ

≪p121≫
かつたのです。
六代目の執權北條時宗の時、日本に取つての一大
事が起りました。それは元の國が大兵を起して、日
本におしよせたことです。
元はもと支那{しな}の北方から起つて、つひに支那を從
へ、四方の國々を攻取つた勢に乘じて、日本にせま
つて來ました。兵を送る前には度々使者をよこし
て、通交をもとめましたが、其の書中に無禮な言葉
があつたので、時宗は之に答へません。或時は其の
使者を鎌倉{かまくら}に召しよせて、斬{き}つてしまひました。元

≪p122≫
主は之を聞いて大いに怒つて、大兵を起して日本
に向はせました。
兵數はおよそ十萬、大小幾千の軍船が海をおほう
て、九州{きうしう}へ攻めよせました。時宗はかねてから十分
に用意をさせましたから、我が將士は武勇をふる
つて、ふせぎ戰ひました。敵の方には石弓などの強
い武|器{き}があつて、日本兵のきずついてたふれる者
もたくさんありましたが、少しもひるみません。戰
爭は五月から七月と三月もつゞいて、敵も攻めあ
ぐんで見えました。

≪p123≫
七月一日の朝、前夜から大暴風がふき起りました。
山なす波にもまれて、
敵の軍船は皆破れ、將
卒の海に落ちて、おぼ
れたものは數知れず、
日本軍は之に乘じて、
敵を攻撃したので、一
つの島ににげのこつ
てゐた數千の元兵も、
或は殺され、或は降參{こうさん}

≪p124≫
しました。これは弘安{こうあん}四年の事で、之を弘安の役と
いひます。
日本が此の國難をのがれたのは、將卒の武勇にも
より、大風の助もありましたが、時宗が武勇で大敵
をおそれず、果斷{かだん}で事を決した處置がよかつたか
らです。明治年間、天皇は時宗に正一位をおくられ
ました。
第三十八課 日本の冬景色
黄に赤に林をかざつてゐた木の葉も、大方は散り
はてて、見渡せば山々のいたゞきは、はやまつ白に

≪p125≫
なつてゐる。山おろしの風が身にしみて寒い。
宮の森のこんもりとしげつた間から、古い銀杏{いてふ}の
木が一本、木がらしにふきさらされて、今は葉一枚
も殘つてゐない。中程の枝の上にからすが二羽止
つて、さつきから少しも動かない。廣い田の面には
人かげの見えないのみか、かゝしの骨も殘つてゐ
ない。たゞあぜの榛{はん}の木に、すゞめがたくさん集つ
てゐて、時々群になつては飛立つ。
畑にはむぎがもう一寸程にのびてゐる。それとと
なり合つて、ねぎやだいこんが青々とうねをかざ

≪p126≫
つて、こゝばかりは冬を知らないように、活々とし
た色を見せてゐる。畑につゞいて、農家が一けんあ
る。しもにやけて赤くなつたかきねの中には、寒菊
が今を盛りとさいてゐる。物置の後には、大きなだ
いだいの木があつて、黄色な大きな實が枝もたわ
む程なつてゐる。
家の横に水のよくすんだ小川が流れてゐる。魚の
かげは一つも見えない。二三羽のあひるが岸のし
もばしらをふみくだきながら、しきりにゑをあさ
つてゐる。

≪p127≫
冬の景色はしづかでさびしい。若草もえ出る春の
花々しさ、暑さに金をとろかす夏のいら〳〵しさ、
皆とり〴〵に人の心を動かすが、野分に木の葉の
散りそめる秋の頃は、自然に人の心もおちついて
來る。冬は人の心に秋のおちつきを持たせて、しか
も一種のおごそかな強い感じと、來年の春に對す
る希望とをいだかしめる。
第三十九課 日本ノ鑛山{コウザン}
人皇第四十代天武天皇ノ二年、對馬{ツシマ}ヨリ白銀ヲ奉
リタリトイフ記事アリ。コレ日本ニオケル鑛山發

≪p128≫
見ノ初ナラン。奈良{ナラ}時代ノ元明天皇ノ時、銅ヲ以テ
錢ヲ造リ、其ノ年和銅トイフ年|號{ゴウ}ヲ建テラレタリ。
其ノ後モ金・銀・銅・鐵等ノ發見シバ〳〵ナリシヲ見
レバ、日本ハ古ヨリ鑛山ニトボシカラザリシヲ知
ルベシ。
明治ノ初、米人ライマンノ調査{チヨウサ}ニヨリ、日本ニ鑛物
多キコト、イヨ〳〵確實トナリシヨリ、近世ノ學術
ヲ應用シ、新|式{シキ}ノ機械ヲ使用シテ、年々其ノ業ヲヒ
ロメ、ツヒニ今日ノ盛大ヲ見ルニ至レリ。
日本ノ鑛山ニハ銅山ト炭山トモツトモ多ク、シタ

≪p129≫
ガツテ産額{サンガク}ニオイテモ、銅ト石炭トヲ第一トス。從
來モツトモ盛ニ銅ヲ産出セシ銅山ハ、下野{シモツケ}ノ足尾
ヲ首トシ、陸中ノ小坂{コサカ}、伊豫{イヨ}ノ別子之ニ次ギシガ、近
年ニ及ビテ、常陸{ヒタチ}ノ日立{ヒダチ}ハ其ノ産額足尾ノ上ニ出
デントスルニ至リ、其ノ他ノ鑛山ニオイテモ、年々
他ノ鑛山ヲシノガントセリ。
石炭ハ九州{キウシウ}・北海道・奧羽{オウウ}地方ニ多シ。中ニモ九州ノ
三池、北海道ノ夕張{ユフバリ}ハ日本有數ノ炭山トシテ、其ノ
産額ハ全産額ノ大半ヲ占ム。其ノ他ニモ鐵・銀・鉛{ナマリ}・錫{スヾ}
等ノ鑛山アレドモ、銅・石炭ニハ及ブベクモアラズ。

≪p130≫
石油ハ越後{エチゴ}・羽後{ウゴ}ノ油田ヨリ産出スルモノ、年々増
加ノカタムキアリ。
第四十課 建武|中興{ちうこう}
弘安{こうあん}の役から四十年程たつて、後醍醐{ごだいご}天皇の御代
となります。天皇は英主であらせられて、深く政治
に御心を御用ひになりました。かねて北條{ほうじよう}氏が政
權をほしいまゝにするのを心安からず思し召し、
時機を見て北條氏をたふして、政權を取返したい
と考へて御出でになりました。
其の頃の執權{しつけん}北條高時はおごりにふけつて、氣ま

≪p131≫
まな行が多かつたので、世の人望を失ひました。天
皇は此の機會にかねての御志をとげさせられよ
うと、ひそかに勤王の士を召されました。高時は早
くもそれとさとつて、大軍を京都へさし向けまし
た。天皇はやむを得ず京都をのがれて、笠置{かさぎ}山に行
幸なさいました。高時はなほも兵を笠置へ進めて、
之を攻落し、とう〳〵天皇を隱岐{おき}の島に遷{うつ}し奉る
といふ無道なふるまひをいたしました。
此の有樣を見て、勤王の旗{はた}をあげるものが方々に
あらはれました。中にも河内{かはち}の楠木正成{くすのきまさしげ}は、或は赤

≪p132≫
坂{あかさか}城に、或は千早城にたてこも
つて、高時の大軍をむかへ撃ち、
勤王のさきがけとなりました。
其の間に皇子|護良{もりなが}親王は大和{やまと}
の吉野{よしの}で義兵をつのられまし
たから、之を傳へ聞いて、皇軍に
味方{みかた}するものが一日々々とふ
えました。
隱岐にいらせられた天皇は、時
こそ來れと、ひそかに此の島を

≪p133≫
御出ましになつて、伯耆{はうき}へ御渡りになり、名和{なわ}長年
の一族にむかへられて、船上山{せんじようせん}を行宮と定められ
ました。高時は足利尊氏{あしかゞたかうぢ}を將として、大軍をひきゐ
て、ふたゝび西の方へ向はせましたが、尊氏も途中
から心を變じて、北條氏にそむいて、京都の六波羅{ろくはら}
を攻落しました。此の時分新田義貞{につたよしさだ}も上野{かうづけ}から起
つて、鎌倉{かまくら}へ向ひ、北條氏を滅しました。
天皇はやがて京都へ御かへりになつて、政權は全
く天皇の御手にもどりました。之を建武中興と申
します。

≪p134≫
第四十一課 松の下露
笠置{かさぎ}の山の行在所、
よする雲霞{うんか}の敵兵に、
ゆくへも知らず落ち給ふ。
君の御供に仕へしは
藤房{ふぢふさ}・季房{すゑふさ}たゞ二人。
夜晝三日供御も無く、
歩みつかれて松かげに
いこはせ給ふかしこさよ。
君は御そでにふりかゝる露はらはせて、

≪p135≫
「さして行く笠置の山を出でしより、
天が下にはかくれがも無し。」
御歌かしこみ、藤房は聲くもらせて、
「いかにせん、たのむかげとて立ちよれば、
なほそでぬらす松の下露。」
御返歌申し、なきゐたる
やみの天地をまた元の
御代に返すはたが任ぞ。
金剛山{こんごうせん}下に忠士あり。
第四十二課 吉野{よしの}朝

≪p136≫
北條{ほうじよう}氏が滅びて、太平の御代を歌つたのもしばし
の間で、足利尊氏{あしかゞたかうぢ}のむほんによつて、世はふたゝび
大亂になりました。忠臣の心盡しも水のあわ、忠勇
古今に類なき楠木正成{くすのきまさしげ}も湊{みなと}川の露と消え、正成と
同じく忠義を盡した新田義貞{につたよしさだ}も北國で戰死しま
した。御醍醐{ごだいご}天皇は假{かり}の皇居と、吉野山へ行幸にな
りました。或年山の櫻の盛りを御らんになつて、
こゝにても雲井の櫻さきにけり、
たゞかりそめの宿と思ふに。
と遊ばされました。南風|競{きそ}はず、天皇はとう〳〵吉

≪p137≫
野山でおかくれになりました。」
其の後後村上天皇・後亀山{ごかめやま}天皇
の二代、前後五十七年間、こゝに
皇居がありましたので、此の間
を吉野朝とひいます。楠木氏・新
田氏の一族等は始終忠義の武
士をひきゐて、足利氏と戰つて
居りました。
第四十三課 小島|蕉園{しようえん}
昔|江戸{えど}の小島蕉園といふ人が役人となつて、甲斐{かひ}

≪p138≫
國へ行きました。甲斐は人情があら〳〵しくて、治
めにくいといふひようばんの國でしたが、蕉園は
一から十まで人民の利益になる事を心がけて、公
平無私に治めました。人民はいつか蕉園の徳にな
ついて、其の國の人情も改り、惡い風習もだん〳〵
と直りました。
數年の後、蕉園は役人をやめて江戸へ歸り、醫{い}術を
業としましたが、思ふような收入がありませんか
ら、貧しくくらしてゐました。しかしそんな中でも、
一人の老母には出來るだけの孝養を盡しました。」

≪p139≫
彼の國の人々は此の事を聞いて、前年の恩義にむ
くいねばならぬと、三人の總代{そうだい}をえらび、金子百兩
を持たせ、江戸へ上らせて、蕉園の家をたづねさせ
ました。あいにく蕉園は不在でしたから、總代の者
は金を老母にあづけて、宿へ歸りました。
あくる日、ふたゝび蕉園の家をおとづれますと、蕉
園は喜んで出むかへ、何くれともてなして、さて昨
日母があづかつた金子を取出して言ひますには、
皆樣の御親切に對しては申し上げる言葉もあり
ません。しかし此の金子はどうか御持歸りを願ひ

≪p140≫
ます。私が先年御國のためにいたした事は、役人と
しての任務でいたしたので、決して私人としてし
た事ではありません。私は今貧しくくらしてはゐ
ますが、定まつた職業もある身分ですから、どうか
御心配下さらぬように。」と、理を正してじたいしま
した。之を聞いて、總代の者は色々すゝめましたが、
蕉園の決心のかたいのを見て、あつく禮をのべて、
國へ歸り、一同に其の事を傳へました。
間もなく蕉園が死んだと聞いた時には、甲斐の國
の人々は父母に別れたように悲しみました。さう

≪p141≫
してながく其の恩義をわすれないために、前の金
で蕉園の社を建てて、祭つたと申します。
第四十四課 花|筵{ムシロ}
藺{ヰ}ハ水草ナリ。莖{クキ}ハ圓クシテ、長サ四尺バカリ、短キ
ハ二尺位ナルモアリ。疊{タヽミ}ノ表ハ此ノ莖ヲアミテ造
ル。此ノ莖ヲソメ分ケテ、花鳥等ノ美シキ模樣{モヨウ}ヲ織
出セルヲ花筵トイフ。日本輸出品ノ一タリ。
花筵ヲ多ク産ス
ルハ岡山|縣{ケン}・廣島
縣・福岡縣等ニシ

≪p142≫
テ、其ノ織方ヲ發明シタルハ岡山縣ノ磯崎眠亀{イソザキミンキ}ト
イフ人ナリ。眠亀ハ明治九年頃ヨリモツパラ花筵
ノ改良ニ志シ、先ヅ之ヲ織ル機械
ノ製作ニ工夫ヲコラセシガ、失敗
ノ上ニ失敗ヲ重ネテ、一時ハ赤貧
アラフガ如キ有樣トナレリ。サレ
ドモ少シモタワマズ、イヨ〳〵勇
氣ヲ起シテ考案ヲツヾケ、ヤウヤ
ク一種ノ機械ヲ發明セリ。眠亀ハ
此ノ機械ヲ用ヒテ、自ラ花筵數十

≪p143≫
種ヲ織出シ、海外ニ輸出セントコヽロミシガ、此ノ
時ハナホ世人ノ注目スル所トナラズ、タヾ一商人
アリテ、其ノ中ノ數種ヲ買取リタルノミナリキ。
其ノ商人ハコヽロミニ之ヲ英・米二國ヘ送リシニ、
次ノ年英國ヨリ註文アリシヲ始トシ、ドイツ・アメ
リカ等ノ諸國ヨリモ、追々註文ヲ受クルニ至レリ。
布哇{ハワイ}ノ家々ニモ之ヲ用フルコト、諸子ノ實見セル
所ナリ。カクテ近年ノ輸出高ハ年々三百萬圓ヲ上
下ストイフ。
花筵ノ輸出盛ナルニツレテ、其ノ主産地ハ言フニ

≪p144≫
及バズ、近縣ニテモ農家ノ女子等ハ之ヲ織リテ、賃
金ヲ得、家ノクラシヲ助クル便ヲ得タリ。
眠亀ガ一身一家ヲワスレ、事業ニ熱中シテ、國産ヲ
起セシハ、其ノ功マコトニ大ナリトイフベシ。
第四十五課 註文状
去月十五日御差立相成り候花|筵{むしろ}二
十枚確に受取り候。右は品質{ひんしつ}・模樣{もよう}當
地むきと存ぜられ候。なほ同一品三
十枚御送り願ひ度候。別に客室用と
して、品質上等、模樣上品にてこまか

≪p145≫
きもの、十八|疊敷{じようじき}一枚、十疊敷二枚、右
二口とも、至急御發送願ひ上候。本月
二十五日|横濱{よこはま}出帆の天洋丸便にて
願はるれば、當方の都合もつともよ
ろしかるべく候。代價の義は精々御
勉強願ひ上候。先は重ねて御註文ま
で。草々。
十月三日 水野清太郎
山形屋商店
御中

≪p146≫
同じく返事
拜啓、御註文の花筵三十枚、ならびに
十疊敷客室用上物二枚、取りあへず
天洋丸便にて發送いたし候。次に客
室用十八疊敷上物は、あいにく出來
合にて然るべきもの之なく、殘念な
がら今度の便船には間にあひかね
候。たゞしさつそく調製に着手仕り
候間、おそくともこゝ四五日中には
出來のはずにつき、次便を以て御送

≪p147≫
り申し上ぐべく候。右御承知下され
度候。別紙|勘定{かんじよう}書|封{ふう}入いたし置き候。
代價は出來得るかぎり勉強いたし
置き候。以上。
十月二十二日 山形屋商店
山本清太郎樣
第四十六課 足利{あしかゞ}時代
京都には金|閣{かく}寺・銀閣寺といふ御寺があつて、京都
へ行く旅客はかならず見物に出かけます。それは
其の建物や庭園の美しいのを見るばかりでは無

≪p148≫
く、足利時代の昔がしのばれ
るからです。
金閣寺は尊氏{たかうぢ}の孫の將軍|義
滿{よしみつ}の建てたもの、また銀閣寺
は義滿の孫の將軍|義政{よしまさ}が建
てたのです。金閣寺は金|箔{ぱく}をはり、銀閣寺は銀箔を
はりつめたといふので、其の時分のおごつた有樣
が分ります。
足利將軍は代々こんな風におごりにふけつて、政
治に心を用ひませんでしたから、權力は次第に家

≪p149≫
來の者にうつりました。さう
して山名や細川などいふ家
臣の重だつたものの間に爭
が起り、應仁{おうにん}年間には、京都が
十一年の間も、全く戰場とな
つてしまひました。其の間市
街も度々兵火にかゝり、昔からの宮殿や、美術や、書
物の類も、大半は燒けて無くなつたといひます。
京都がすでに此の有樣ですから、地方の政治は全
く行きとゞきません。各地方で思ひ〳〵に、大名が

≪p150≫
兵を用ひて、人の領地を取合ひする樣になりまし
た。戰國時代といふのは此の時です。
第四十七課 川中島の戰
戰國時代には面白い武勇談がたくさんあります。
其の中で越後{えちご}の上杉謙信{うへすぎけんしん}と甲斐{かひ}の武田信玄{たけだしんげん}は、い
づれおとらぬ軍の上手で、幾度も幾度も、信濃{しなの}の川
中島で戰ひましたが、とう〳〵勝負がつきません
でした。
或時の戰に、謙信はたゞ一人馬にうち乘り、太刀を
ふるつて、信玄の本陣{ほんじん}へかけ入りました。「信玄は居

≪p151≫
らぬか。」と大聲にさけびまし
たから、床几{しようぎ}にこしをかけて
ゐた信玄は「何者ぞ。」と言つて、
立上らうとする所を、謙信は
三太刀まで切りつけました。
不意をうたれた信玄は、刀を
ぬくびまもなく、軍配|團扇{うちは}で
防ぎました。之を見た信玄の
家來は走りよつて、やりをし
ごいて、謙信の馬のしりをつきました。馬がおどろ

≪p152≫
いて飛上るすきまに、信玄はやう〳〵にげて、あや
ふい命を助りました。
上杉・武田の戰爭も十三年の久しい間つゞきまし
た。其の中に信玄が病死して、戰が終りました。信玄
が死んだと聞いて、謙信は「あゝ、をしい事をした。よ
い軍の相手が無くなつた。」と言つたさうです。
第四十八課 捕鯨{ほげい}船
よく晴れた日です。そよ〳〵とふく朝風に、海面に
はさゞ波が立つてゐます。一そうの捕鯨船が今し
づかに波を切つて進んで行きます。見はり人がマ

≪p153≫
ストの上から北の方をゆびざして、聲高くさけび
ました。
「ブロー、〳〵、〳〵。」
甲板{かんぱん}に立つてゐた船長を始め、三十五人の若者は
ひとしく目を其の方向に向けると、はるかあなた
に、白い水煙が見えます。
船長のおちついた力のこもつた號{ごう}令に、船ははや
方向を轉じて、北へ向つて走つてゐます。四五そう
のボートは母船をはなれて、我先にとこいで行つ
て、こぎぬけた一そうは見るうちに一頭の鯨{くぢら}に近

≪p154≫
より、急處めがけて、破裂{はれつ}矢を
しかけた銛{もり}をうちます。小山
の樣な白波が高くくだけて、
夕立のように落ちる。鯨の一
群はかげも形も見えなくな
りました。
破裂矢は鯨の體内に深く食
ひこんで破裂しました。ボー
トは銛に附けた長いつなに
引かれて、右に左に引きまは

≪p155≫
されます。今にもしづむかと冷々する程です。
鯨は再び浮上りました。ボートはつなをたぐつて、
またも鯨に近より、今度は銃{じう}を以て破裂矢をうち
こみます。鯨はだん〳〵弱つて、およぐ力もなくな
ると、若者は長い劒をつき通して、幾度となくぬい
てはまたつきます。六七十尺の大鯨も今は全く息
がたえて、水面に横たはつて、流れる血で、海には紅
の波がたゞよひます。
外のボートを見ると、今新に鯨を追ふものもあり、
銛をうつて鯨に引きまはされてゐるものもあり

≪p156≫
ます。あちらこちら入亂れて戰場のようです。さき
のボートは鯨を引きながら母船の方へ急いで歸
ります。
捕鯨は實に勇壯なものです。捕鯨法には此の外に
汽船の砲から銛をうつ方法もありますが、以前に
は鯨の通路にあみをはつて銛をうつたりもしま
した。
鯨は獸類の中でもつとも大きなもので、長さは十
五間、即ち九十尺にも及ぶものもめづらしくはあ
りません。肉は食用となり、あぶらは機械油になり、

≪p157≫
ひげは細工物に使はれます。
第四十九課 勇ましき少女
英國東海岸の一島に燈臺あり、或日の夜半、此の燈
臺附近の岩の上に乘上げたる帆前船ありき。船體
二つにわれて、一半ははや大波にさらはれたり。生
残れる水夫は破れたる船體にすがりて、聲をかぎ
りに救をよべり。
燈臺|守{もり}の娘にグレース、ダーリングとて心やさし
き少女ありしが、波風にまじりて聞ゆる悲鳴の聲
に目をさまし、眠れる父をゆり起して、いそべに出

≪p158≫
でてながめしが、すみを流したる如き空|模樣{もよう}にて、
一寸先をも見分くることあたはず、心ならずも夜
明を待ちたり。夜明けて見れば、岩の上に一そうの
難破船横たはれり。水夫等はなほほばしらをかゝ
へて、息もたえ〴〵なり。
少女は之を見て、「父上、早く船を出して救はん。早く、
早く。」とせき立つ。父は此の大波に何とて行かるべ
きと思ひしが、娘のやさしき心にはげまされて、ボ
ートを用意す。やがて二人は大波にうち返さるゝ
船の頭を立直し〳〵、死力を盡してこぎ行く。岩に

≪p159≫
近づけば、波は益々あらく、ボートは幾度となくうち
もどされうちもどさるゝを、からくして難破船に
こぎ着けたり。父はつかれはてたる水夫を助けて、
ボートにうつす。此の間岩にも當てず、波にもまか
せず、岩と波との間にボートをあやつりたる少女
のはたらきは、人間業とは見えず。父はボートに引
返し、二人はまた有らんかぎりの勇氣をふるひて、
つひに岸べにこぎ着けたり。
水夫は盡く燈臺守の小屋に入れられたり。山なす
大波を物ともせず、男勝りの大力にてボートをあ

≪p160≫
やつりしダーリングの手は、今ややさしきをとめ
の手にかへりて、半死半生の水夫を看護{かんご}せり。數日
の後、水夫は此の少女の手に熱き感謝のなみだを
そゝぎて、各我が家に歸りたりとぞ。
グレース、ダーリングの生家に程近き寺の庭には、
右手にかいをとれる少女の銅像あり、ながく此の
勇ましく、やさしき昔物語を語れり。
第五十課 キャプテンクック
布哇{はわい}島の發見者ゼームス、クックは英國のヨークシャ
イヤの貧しい農家に生れました。初の中は小間物

≪p161≫
屋や靴{くつ}屋に奉公しましたが、數年の間、船乘をして
ゐる中に、一通りの航海術をおぼえて、二十八歳の
時、海軍の軍人になりました。其の後十年間はニュー
ファウンドランドの海岸や、アメリカのセント、ロー
レンス川の測量{そくりよう}をしてゐて、其の間に數學や其の
他の航海家としての智識{ちしき}を十分に得ました。
クックは前後三回にわたつて、名高い航海をしてゐ
ました。第一回は金星{きんせい}を太平洋で觀測するといふ
任務を帶びて、一千七百六十八年に航海の途に上
りました。翌年四月にはタヒチ島に着いて、金星を

≪p162≫
觀測し、其の歸途始めてニュージーランドをめぐり
ました。それからオーストラリヤとニューギニヤの
海峽{かいきよう}を通つて、此の二つが全く別な島であること
を確めました。喜望峯{ぐつどほーぷ}をまはつて、無事英國へ歸つ
たのは一千七百七十一年です。
翌年にはオーストラリヤが北方へどれ位のびて
ゐるかを調べる目的で、第二回の航海の途に上り
ました。ふたゝびタヒチ島をとひ、ニューヘブリデス
を探檢{たんけん}し、ニューカレドニヤ及び多くの群島を發見
しました。かくてオーストラリヤの大きさを調査

≪p163≫
して、一千七百七十五年には英國へ歸りました。
すると翌年、今度は太平洋からアメリカの北海岸
をまはる航路を發見する役を命ぜられました。そ
こでタスマニヤ及びニュージーランドをとひ、太平
洋の島々をまはつて、一千七百七十八年の初頃、北
アメリカの西海岸へ向つて進みつゝある時、ふと
ハワイ群島中のカウアイ島を發見しました。それ
からニハウ島やオアフ島へ參りましたが、土人か
らは好いもてなしを受けました。クックはアメリカ
の北海岸をまはる航路を發見しようと、北へ進み

≪p164≫
ましたが、次の夏まで暖い地方でくらさうと、ふた
たびハワイ群島へ來ました。さうして一千七百七
十九年の初にはハワイ島のケアラケクア灣{わん}にい
かりをおろしたのです。
こゝでクックは神樣でもむかへるようなもてなし
を受けました。其の中に土人の樣子がにはかに變
つて來ました。土人はクック等を本當の神樣と信じ
てゐたのでせう、ところが船員の中から病人が出
たのを見て、尊敬の心がうすらいだらしいのです。
土人が船へしのびこんで、物をぬすんで行きまし

≪p165≫
たから、クックは
或日それを取
りもどさうと、
上陸しますと、
急に土人が集つて、とう〳〵殺してしまひました。
それは一千七百七十九年の二月十四日のことで
した。船員等はクックの死體の一部分をうばひ返し
てはうむりました。クックのたふれた場處に記念|碑{ひ}
が立つたのは、それから百年程後です。
第五十一課 織田信長{おだのぶなが}

≪p166≫
戰國時代の末、尾張{をはり}國に織田信長といふ人があり
ました。平|重盛{しげもり}の遠孫で、父は尾張の一部の領主に
過ぎませんでしたが、信長の代になつて、尾張全部
を討平げて、其の領主に
なりました。
其の頃|駿河{するが}國に今川|義
元{よしもと}といふ武將がゐまし
た。三河・遠江{とほたふみ}の國々を從
へた勝利におごつて、信
長の國をも一氣に攻取

≪p167≫
らうと、自ら大軍をひきゐて、尾張の桶狹間{をけはざま}といふ
處まで來ました。信長は或夜風雨に乘じて、其の不
意をおそひ、義元を討取りました。信長の名が人に
知られたのは此の時からです。
京都では足利{あしかゞ}將軍の威力はいよ〳〵衰へました
が、朝廷の御衰|微{び}は申すもおそれ多い程でした。正
親町{おほぎまち}天皇は之を御心配になつて、信長を召して、力
を盡すようにとの御|沙汰{さた}がありました。信長はつ
つしんで勅命を奉じ、美濃{みの}・近江{あふみ}を平げて、京都に上
り、先づ暴威をふるふ足利氏の家臣どもを討つて、

≪p168≫
足利|義昭{よしあき}を將軍職につけました。それから皇居を
御手入れ申し上げたり、御料を奉つたりして、朝廷
の御ために力を盡しました。
義昭は信長の力で將軍になりましたが、信長の威
光の日に盛なのを見て、之をのぞかうとしました。
そこで信長は義昭を京都から追出して、足利氏を
滅しました。足利氏は尊氏{たかうぢ}が政權をにぎつてから
二百三十年あまりで滅びたのです。
信長はもはや京都の近國を討平げましたから、こ
れからだん〳〵に日本國を平定しようと、先づ部

≪p169≫
下の羽柴秀吉{はしばひでよし}を中國へやつて、毛利{もうり}氏を討たせま
した。さうして自分も征討に出かけようと、京都へ
出ましたが、かねて信長をうらんで居つた明智光
秀{あけちみつひで}といふ家來のために殺されました。
こんなわけで、信長は十分に其の志を成すことが
出來ず、半途でなくなりました。
第五十二課 豐臣秀吉{とよとみひでよし}
信長の部將|羽柴{はしば}秀吉が即ち豐臣秀吉です。初の名
を木下藤吉郎{きのしたとうきちろう}といひました。貧しい農家の子でし
たが、元來利口で、はたらきもありましたから、信長{のぶなが}

≪p170≫
に仕へて、其の信用を得、
ずん〳〵重く用ひられ
て、間もなく一方の大將
となつて、毛利{もうり}氏の征伐
を命ぜられました。
秀吉は毛利征伐の陣{じん}中
で、信長が殺された報知
を得て、たゞちに毛利氏
と和議{わぎ}をむすび、軍を返
して光秀{みつひで}を討ち、先づ主

≪p171≫
人のかたきを取りました。
秀吉の威名はこれから世にひゞいて、其の勢力は
日に加りました。信長の家來を始め、諸國の大名も、
或は手向つて滅され、或はかなはぬことを知つて
降參{こうさん}しましたから、とう〳〵日本全國が秀吉の命
令を聞くようになりました。秀吉が關白となつて、
豐臣といふ姓{せい}をたまはつたのは、信長の死後滿三
年にしかなりませんでした。
秀吉は日本を統一しただけて滿足せず、なほ朝鮮{ちようせん}・
支那{しな}をも服從させようと、後に大軍を起して朝鮮

≪p172≫
に攻入りました。支那からは大兵を送つて、朝鮮を
助けましたが、日本兵は破竹の勢で朝鮮を平げま
した。一たん和議がとゝのひかけて、兵を返しまし
たが、支那から送つた書中に無禮の語があつたの
で、秀吉はふたゝび征伐の軍を起しましたけれど
も、其の始末がつかぬ中に、秀吉は六十二歳でなく
なり、朝鮮征伐の軍勢も空しく引返しました。
第五十三課 名古屋{なごや}より宇治山田{うぢやまだ}
名古屋市は濃尾{のうび}平野の南部にあり、東西交通の要
路に當れる大都會として、物貨の集散、商工業の發

≪p173≫
達、東京・大阪{おほさか}に次ぐ。
金城の名を以て知られたる名古屋城は、市の東北
部に在り。今より三百年
前、徳川|家康{いへやす}の諸大名に
命じて築かしめたる名
城にして、其の天守閣{てんしゆかく}は
朝鮮{ちようせん}征伐の勇將加藤|清
正{きよまさ}の築きしものなり。此
の天守閣の上にすゑた
る金の鯱{しやち}は高さ八尺五

≪p174≫
寸、朝日・夕日にかゞやきて、遠く數里の外よりも望
み見ることを得べし。これ金城の名ある所以にし
て、古くより「尾張{をはり}名古屋は城で持つ。」とも歌はれた
り。
市の南部に熱田神宮あり、三種の神器{しんき}の一なる草
薙{くさなぎ}劒をまつれり。
市及び附近の地よりは綿{わた}織物の産出すこぶる盛
なり。市の東北にあたる瀬戸{せと}は陶器{とうき}の産出を以て
あらはれ、東南の知多半島は酒・醤油{しようゆ}の製造を以て
名高し。西一里ばかりなる中村は豐臣秀吉{とよとみひでよし}・加藤清

≪p175≫
正等の出生地として、あま
ねく人に知らる。
名古屋より伊勢{いせ}神宮にま
うづるには、汽車にて三時
間を要す。
神宮は内・外二宮あり。内宮
は五十鈴{いすゞ}川のほとりに在
りて、後に神路{かみぢ}山を負ひ、老
木御|苑{えん}にしげりて、神々し
さ言ふばかりなし。年古り

≪p176≫
たる木立の間をもれ來る日の御かげに、白木造の
清らかなる神殿をふし拜みたる心地、尊しとも尊
し。神殿の總檜木{そうひのき}造にて、何等の御かざりも無きは、
一しほに尊くおぼゆるなり。外宮の樣も大方は内
宮に同じ。
第五十四課 報恩
豐臣秀吉{トヨトミヒデヨシ}ノ夫人ハ、秀吉ガマダ木下藤吉郎{キノシタトウキチロウ}トイツ
テ、織田信長{オダノブナガ}ニ仕ヘテ居タ時分、嫁入リシマシタ。モ
ト貧シイ家ニソダツテ、諸處へ奉公ナドニ出マシ
タガ、幼少ノ頃カラ婚禮{コンレイ}ノ日マデ、ヨク其ノ世話ヲ

≪p177≫
シタノハ伊藤右近{イトウウコン}トイフ人デシタ。
秀吉ガ日本全國ヲ支配スル樣ナ身分トナツテ、夫
人ハ北政所{キタノマンドコロ}ト尊バレマシタガ、右近ノアツイ人情
ト恩義ハ一日モワスレタコトハアリマセン。
或日、秀吉夫婦ハ使ヲ以テ右近夫婦ヲ大阪{オホサカ}ニ召シ
ヨセ、ネンゴロニモテナシタ上、色々ノ昔物語ヲシ
テ、ナミダヲ流シテ、昔日ノ恩ヲ謝シマシタ。其ノ時、
夫人ハ手ヅカラ新シイ着物ヲ取出シテ、右近夫婦
ニ着セ、「古イノハ私ガセンタクヲシテ上ゲマセウ。」
ト言ヒマシタ。此ノ時ノ右近夫婦ノ喜ハドンナデ

≪p178≫
御座イマシタラウ。右近夫婦ハ其ノ後ナガク秀吉
ノ世話ニナツテ、安樂ニ世ヲ送リマシタ。
第五十五課 感謝祭と新嘗{にひなめ}祭
一千六百二十年の冬、一そうの船がボストン近く
の海岸に着きました。船の中の男も、女も、大人も、子
供も、やれ安心といふ顔はしてゐましたが、どこか
に不安の樣子があらはれてゐました。彼等ははる
ばると海を渡つて英國から來た清教徒{びゆーりたん}の一|團{だん}で
御座いました。木を切つて家を建て、地をたがやし
て穀{こく}物をまいたが、其の年の冬はめづらしい寒さ

≪p179≫
で、ほとんど何等の収|穫{かく}もありませんでした。彼等
の或者はうゑて死に、或者は病にたふれて、大方は
悲しい運命のもてあそぶ所となりました。
其の中に光りかゞやく暖い春がめぐつて來まし
た。男も、女も、大人も、子供も、各分に應じて、力一ぱい
はたらきました。春が過ぎ、夏が過ぎ、秋になります
と、去年とはうつて變つて、あり餘る程の見事な收
穫がありました。彼等はこれひとへに神の惠{めぐみ}と、う
れしさの餘り、一同が集つて、感謝の祈禱{きとう}を神にさ
さげました。それから出來るかぎりのごちそうを

≪p180≫
とゝのへて、一同の者がもつとも樂しい祝をもよ
ほしました。其の時のごちそうに七面鳥があつた
ので、これから後の感謝祭にも、きつと七面鳥の料
理が用ひられるようになりました。初め彼等が海
を渡つて來た時に、インデアンが大そう親切にし
てくれたことを、彼等は心からうれしく思つて、イ
ンデアンをもよんで、樂しい食|卓{たく}をともにしまし
た。これが感謝祭の起原です。
此の風習が年とともにだん〳〵殖{しよく}民地全體へ廣
がつて、しまひには米國祝祭のもつとも重要な一

≪p181≫
つとなりました。毎年十一月の終の木曜日を此の
日と定めたのは、はるか後のことで御座います。
感謝祭は年々の幸福を神に謝するといふ尊い深
い意味をもつてゐる上に、一面米國建國の精神を
しのび、祖先の辛{しん}苦を思ふ便ともなりますから、祝
祭の中でも、重要なものになつてゐます。
日本にも之と同じような祝祭日があります。それ
は十一月二十三日の新嘗祭で、其の日には天皇|陛
下{へいか}は、皇祖・皇宗を始め、天地の神々に、今年の新穀を
さゝげて、其の年の幸福を國民に代つて感謝あそ

≪p182≫
ばすのです。
第五十六課 温泉
地球ノ内部ニハ熱アリ。其ノ熱ニ温リタル水ノ、自
然ニ地上ニワキ出ヅルモノ、即チ温泉ナリ。温泉ニ
ハタエズワキ出ヅルモノト、時ヲ定メテワキ出ヅ
ルモノトアリ。
日本ハ火山國ニシテ、全國イタル處ニ温泉アリ。伊
豆{イヅ}半島ノミニテモ三十ケ所ヲ數フ。温泉ノ多キコ
ト實ニ世界第一ナリ。中ニテモツトモ世ニ知ラレ
タルハ西ニ道後{ドウゴ}・有馬{アリマ}、東ニ箱根{ハコネ}・熱海{アタミ}・伊香保{イカホ}等ナリ。」

≪p183≫
日本ノ温泉ハ風光ノ麗シキ地ニ在ルノミナラズ、
其ノ由來古キモノ多キガユヱニ、面白キ土地ノ傳
説モアリ、昔ナガラノオクユカシキ風|俗{ゾク}モノコリ
テ、浴客ノ心ヲ樂シマシムルコト少カラズ。
第五十七課 カメハメハ大王
皆さんは次の問に答へる事が出來ますか。
第一 カメハメハ大王の生れたのは何處ですか。
第二 どうして大王と稱せられる樣になりまし
たか。
第三 布哇{はわい}を統一するのに幾年かゝりましたか。

≪p184≫
第四 戰爭に負けた事がありましたか。
第五 其の頃の武器にはどんなものがありまし
たか。
第六 其の頃の船はどんな船でしたか。
第七 ワイルク川は血の水といふことださうで
すが、どうし
てそんな名
が出來まし
たか。
第八 ヌアヌ

≪p185≫
パリではどんな事がありましたか。
第九 布哇で外國人が勢力を得るようになつた
のは、だれの時代からでせうか。
第十 布哇の王朝の滅びたのは何のためでせう
か。
第十一 カメハメハ大王から王朝の滅亡まで、何
年になりますか。
第十二 カメハメハ大王の事について、何か外に
知つてゐる事がありますか。
第五十八課 北極|探檢{たんけん} (一)

≪p186≫
一口に北極探檢といつても、二つの區別がありま
す。一つは北極地方の探檢であり、一つは北極其の
ものに達するのを目的とした探檢であります。前
者は第四世紀の頃フェネシヤ人が試みたといふ位
古いものです。其の後、中世・近世へかけて、多くの航
海家や探檢家が命をかけて、何度となく試みてゐ
ます。しかし食物の少いため、きびしい寒氣のため、
或は船の難破のため、首尾よく目的を達してかへ
つた者ははなはだ少う御座います。此等幾多の犧
牲{ぎせい}によつて、だん〳〵北極地方の地理が明かとな

≪p187≫
り、多くの有益な發見も出來て、十九世紀になつて
は、久しい間|疑問{ぎもん}となつてゐた北西航路をジョン、フ
ランクリンが發見し、北東航路をノルデンショルト
が發見しました。其の他ゼームス、ロッス・ジョン、ロッス
二人の有名な北磁極{ほくじきよく}の發見もあつたので、北極地
方はだん〳〵明かとなりました。
そこで追々|科{か}學的探檢といふ考が進んで、ぜひ北
極に達しようとする探檢が試みられるようにな
りました。一千八百七十五年、英國政府から出たネ
ーアスの探檢隊は、北|緯{い}八十三度二十分半まで達

≪p188≫
して、從來のレコードを破りましたが、氷山のさま
たげる所となつて、もうこれ以上進むことが出來
ませんでした。ネーアスが英國政府へあててうつ
た「北極探檢はだめである。」といふ電報は、北極探檢
家に取つては悲しいおとづれでした。しかし北極
探檢はだめだといふ考が一方にあると同時に、い
やしくも地球を支配してゐる人類が、其の住んで
ゐる地球の中をきはめられないとあつては殘念
といふ考も強まつて、とう〳〵北極探檢の二大家
が出て、其の目的を達するに至りました。一人はノ

≪p189≫
ールウェーのナンセンで、一人は米人ペリーです。中
でもペリーこそは北極其のものをふんだ一番初
の人であり、北極探檢第一の成功者であります。
第五十九課 北極探檢 (二)
ナンセンの探檢で有名なのは、氷|切符{きつぷ}といふすこ
ぶる面白い計畫であります。ナンセンはノルデン
ショルトや其の他の探檢家の報告などから考へて、
グリーンランドの北に流れて來る氷は、東の方か
ら北極の近くを通つて大西洋へ來るのであると
信じました。それ故氷の流れにさからはないで、氷

≪p190≫
の中へ入りこんで、其の流れにしたがつたならば、
きつと成功するにちがひないと考へました。ナン
センは之を「切符を買つて、汽車に乘る代りに、氷切
符で氷に乘るのだ。」と言ひました。考は面白いが、さ
てどうして氷切符を買ふか、どうして氷の中へ入
りこむか。ナンセンは大工に命じて、氷の壓{あつ}力にた
へ得るような丈夫な木造船を造つて、之をフラム
號{ごう}と名づけました。一千八百九十三年にはナンセ
ン自身がフラム號に乘りこんで、いよ〳〵出發し
ました。船は氷のために破られはしませんでした

≪p191≫
が、ナンセンが考へたように、さううまく北極へ向
つて流れはしません。それでナンセンは途中から
ヨハンセンといふ者と二人で、そりに乘つて、北極
へ向ひました。氷雪と戰ひ、うゑをしのんで、とうと
う北緯八十六度十三分まで達して、従來のすべて
のレコードを破りました。實驗{じつげん}室のような船で、北
極近くの海を航海しながら、思ふような觀|測{そく}をし
たのですから、此の探檢が學術上一番價値の多い
といふのも當然です。此の探檢でナンセンが考へ
た通り、氷流が東から西へ流れることが確となつ

≪p192≫
たばかりでなく、北極には陸地がなくて、其の海の
深いといふことが分りました。
さて米國人ペリーはとう〳〵北極に達して、四百
年來の疑問を解きましたが、彼は決してたやすく
此の大成功を收め得たのではありません。北極探
檢家として知られた人もたくさんありますが、ペ
リー位|辛{しん}苦にたへ、危險{きけん}ををかして、目的を達した
人はありません。
今まで島であるか、陸地であるか、分らなかつたグ
リーンランドを探檢したことが四回。さうしてと

≪p193≫
うとうそれが島であることを發見したのは、一千
八百九十八年であります。一千九百一年には北極
に向つて北緯八十四度十七分まで進み、つゞいて
一千九百六年には八十七度六分まで達しました。
だれも行つたことの無い地で、氷雪やうゑと戰つ
て、やう〳〵萬死に一生を得たペリーはなほも勇
氣をふるつて、今度こそは北極に達しようと決心
しました。
ペリーはグリーンランドから北極に進む線路を
アメリカ線と名づけ、此のアメリカ線によつて、北

≪p194≫
極に達する目
的で、一千九百
八年に出發し、
とう〳〵一千
九百九年二月
二十六日には
北極をふんだ
のであります。
其の時のペリ
ーの心の中は

≪p195≫
どんなで御座いましたらう。かくて此の探檢で、北
極は陸でなくて海であり、しかも千|尋{ひろ}以上もある
深い海であることが確められました。
第六十課 布哇{はわい}通信
一 布哇から日本へ
御別れ致しましてから、もう一年にも近くなりま
す。定めし此の頃ではりつぱな日本の少年とおな
りになつたでせうと、かげながらおうはさを致し
て居ります。
昨年御出での時には、もう櫻も過ぎてゐたとかい

≪p196≫
ふ御手紙でしたが、今年は十分御花見が出來ませ
う。日本はもう春になりましたか。父が何でも來月
の初には櫻がさくと申して居りました。御承知の
通り、私共は櫻々と申しますが、話で聞くか、繪で見
るか、それでなければ、ワシントン祭の花行列で、造
花の櫻を見る位が關の山ですもの、本物の櫻を御
らんになるあなたを、何でおうらやましう思はず
に居られませう。
あなたが御歸りになつたら、櫻の話やら、雪の話や
ら、布哇から行くと、人が多いのでびつくりすると

≪p197≫
いふ東京のにぎやかな話やら、いろ〳〵御うかゞ
ひすることが出來ると、そればかりを樂しみにし
て居ります。
私ももうぢきに公立學校を卒業して、中學校{はいすくーる}に入
學するわけですが、はいれるかどうかはまだ分り
ません。父は中學校を卒業したならば、日本へやつ
てやると申して居ります。
學校の友人達も皆丈夫です。林さんが家事の都合
で馬哇{マウイ}島に行かれました。どうぞ御手紙を下さい。
出來れば日本の繪はがきを少々。草々。

≪p198≫
三月十日 廣次
勝太郎樣
二 布哇から米大陸へ
御出發の節、いろ〳〵と申し上げたいことも御座
いましたけれど、あの人ごみでしたから、ろく〳〵
御話も出來ませんで、失禮しました。
御手紙によれば、無事ニューヨークに御着の上、目的
の學校に御入學なさつたさうですが、まことに喜
ばしう存じます。私も出來れば御一處に願ひたい
ものだと、實はゆめにまで見た位で御座います。中

≪p199≫
學を卒業しますと、ぜひそちらの大學へ參るつも
りですから、其の節は何分にもよろしく御願ひ致
します。
先日學校の先生が赤げつとといふことを御話し
になりましたが、失禮ですが、ニューヨークへ御出で
になつたばかりでは、あなたも赤げつとだらうと
存じます。四五年の後、私が參ります時には、私が赤
げつとで、あなたから笑はれる番だと、今からかく
ごしてゐます。じようだんはさておき、ニューヨーク
と申せば、世界の大都會のことで御座いますから、

≪p200≫
定めてめづらしいこと、ためになることも、たくさ
んあらうと存じますから、どうぞをり〳〵は御便
を願ひます。こちらでも負けずに御通信致す考で
御座います。
ニューヨークは夏は大そう暑く、冬は大そう寒い處
だと聞いて居りますから、何分にも御身體を御大
切に願ひます。こちらの御兩親樣は元氣よく御は
たらきの御樣子ですから、御安心下さい。御兄上樣
と御一處ですから、別に御さびしくは御座いませ
んでせう。草々。

≪p201≫
九月二十三日 銀次郎
久造樣
第六十一課 郵便物語
私ども一同は顔に黒い消印をおされて、ロンドン
を出發しました。これは南北アメリカ行、これは日
本・支那{しな}行と、それ〴〵別な囊{ふくろ}の中に入れられて、先
づ汽車でリバプールの港まで送られました。リバ
プールの港は船の出入が多くて、いそがしく、にぎ
やかな港でした。
こゝで私どもは白星線{はわいとすたーらいん}の郵便線にのせられて、夕

≪p202≫
方港を出ました。海はずいぶんあらかつたが、無事
に航海をつゞけて、五日目の晝頃にニューヨークの
波止場{はとば}へ着きました。
船の中には完全な郵便局があつて、三人の役人が、
手ばしこく一つ〳〵の囊を解いて、私どもを檢{けん}査
しました。檢査といふわけではありません、私ども
の行く目的地によつて、私どもをより分けたので
す。役人は皆米國の役人ださうですが、これは米國
に向ふ船だからです。反對に米國から英國へ向ふ
航海では、英國の役人が乘りこんで、此の仕事をす

≪p203≫
るのださうです。
ニューヨークの郵便局と停車{ていしや}場の間には大きな空
氣|管{かん}がありまして、私どもは船から上つて、郵便局
へ着くと、すぐに此の空氣管で停車場へ追ひやら
れました。さうして急行列車で、西へ西へと進みま
した。
サンフランシスコの港へ着いたのは四日目でし
たらう。こゝでも一度はいつもの通り、郵便局に行
きましたが、すぐにまた汽船に乘つて、太平洋に浮
び出でました。中間の者がだん〳〵へつて、心細く

≪p204≫
思ひましたが、ロンドンを出てから十五日目に目
的地のホノルル港に着きました。やはり前と同じ
く、郵便局に連れて行かれて、今度はからだの上へ
ホノルルの黒印をおされて、郵便配達人の手に渡
されました。私が連の者に別れて、たつた一人キン
グ街の太郎君の家へはふりこまれた時、太郎君は
「やあ、をぢさんから手紙が來た。」と言つて喜びまし
た。
第六十二課 禮義
豐臣秀吉{トヨトミヒデヨシ}ノ友ニテ、後ニ其ノ五大老ノ一人トナリ

≪p205≫
タル前田|利家{トシイヘ}ハ禮義ニアツキ人ナリキ。或時人ヨ
リ鯉{コヒ}ヲ贈ラレタリシカバ、近臣ニ命ジテ、其ノ禮状
ヲ作ラシメシニ、其ノ中ニ「鯉魚{リギヨ}二尾|到來{トウライ}、滿足セリ。」
ノ語アリ。利家之ヲ見テ言フヨウ、「オヨソ書状ノ言
葉ハテイネイニシテ、先方ヲ敬フヲ第一トス。マシ
テ禮状ノ如キハ、ツトメテ敬意ヲ表シ、先方ノ親切
ニ報イザルベカラズ。『御意ニカケラレ、カタジケナ
ク、』ト書クベシ。」トテ、之ヲ書改メシメタリ。サテナホ
近臣ニサトシテ、「此ノ方ヨリモ身分低キ人ニ對シ
テハ、コトサラニ言葉ヲモテイネイニスベキモノ

≪p206≫
ゾ。」トイマシメタリトイフ。マコトニ善キ教ナリ。
人ト交ルニハ、何事ニモ禮義ヲ以テセザルベカラ
ズ。手紙ノ書方ハモトヨリ、アイサツ・敬禮、皆ソレゾ
レノ仕來アレバ、小サキ事ナリトテ、オロソカニス
ベカラズ。萬事ニ不作法ナルハ、人ニ對シテ失禮ナ
ルノミナラズ、自ラノ人品ヲ落スコト多シ。ハヅベ
キ事ナリ。
第六十三課 乃木{のぎ}大將
とよさかのぼる日の本の
忠義の神と仰がれし

≪p207≫
楠{なん}氏ふたゝび世に出でて、
乃木大將をこゝに見る。
薩摩{さつま}あらしのはげしきに
爭ひかねて、一度は
軍|旗{き}を敵にうばはれし
うらみは殘る植木口。
恥{はぢ}を知りたる大丈夫、
とくより身をば君國に
さゝげて、家もかへりみず。
うべなり。心清きこと。

≪p208≫
過ぎし日露の戰に
向ふは名におふ旅順{りよじゆん}城、
難攻不落と聞えしも、
何おそるべき、日本武士。

≪p209≫
食を士卒とともにして、
苦難を分つ仁と勇。
慈{じ}愛の情はかぎりなし。
人はさらなり、馬にまで。
「愛子二人の討死も
さら〳〵をしと思はねど、
ひとり殘りて凱旋{がいせん}の
父老にあらはす顔ぞなき。」
これぞ將軍凱旋の
言づてなりと聞けるもの、

≪p210≫
たれかそでをばしぼらざる。
たれか義心に感ぜざる。
「失せし二人の子に代へて、
華{か}族の子等をそだてよ。」の
大勅かしこみて、
身もてひきゐし乃木大將。
あはれ、其の人、大|喪{そう}の
御車御所を出づる時、
夫人もろとも花しぶき
返らぬ行幸跡追ひて。

≪p211≫
かばねは土に埋むとも、
其の功、其の名傳はりて、
世をむちうつのつゑとなり、
國をまもりの神たらん。
第六十四課 グラント將軍
クレルモントの田園にたがやして、父の業を助け
てゐた農家の一少年から身を起して、三十年間力
戰の後、とう〳〵全米に號{ごう}令する大統領とまでな
つたグラント將軍も、また一世の英|傑{けつ}であります。
十八歳で身を軍|籍{せき}に置いてから、或はメキシコ征

≪p212≫
伐に、或は南北戰爭に、ほとんど席の暖るいとまと
てもありません。しかも將軍の名は早くから其の
光を軍|旗{き}の星{ほし}と爭つたのであります。
一千八百六十一年南北戰爭が開かれた時、將軍は
北軍一方の將となり、或はベルモントに、或はシロ
ーに或はビックスブルグに、い
たる處に大功を建てないこ
とはありませんでした中に
もビックスブルグの要|塞{さい}は難
攻不落といはれてゐました

≪p213≫
が、將軍は四十七日の攻撃の後、とう〳〵之をおと
しいれました。一千八百六十四年には北軍の大將
となつて、別將シャーマンと力をあはせ、一擧敵將リ
ーの大軍をほふらうとしました。リーもまた古今
の名將、ウィルダーネス川によつて防ぎましたが、三
晝夜のはげしい戰の後、負けました。此の戰爭が如
何にはげしかつたかは、戰後六晝夜、戰場の空が硝{しよう}
煙でくもつてゐたといふのでも分りませう。リー
將軍はリッチモンドに退いて、之を死守しようとし
ましたが、グラント將軍は北軍の全力を擧げて之

≪p214≫
に向ひ、一週間の久しきにわたる大戰の後、とうと
う之を其の軍門に降{こう}服させました。其の時の兩將
軍の樣子は實に見事なものであつて、彼の乃木{のぎ}大
將とステッセル將軍の水師|營{えい}會見をおもひ起させ
ます。リッチモンドの落ちたのが南北戰爭の事實上
の終|結{けつ}となつて、こゝにグラント將軍はワシント
ンに凱旋{がいせん}することになりました。
一千八百六十九年、グラント將軍はえらばれて、第
十八代の大統領となり、四年の任|期{き}がすんだにも
關らず、つゞいてふたゝび大統領に擧げられたの

≪p215≫
を見ても、どれ位國民から信用を受
け、感謝されてゐたかが知れます。其
の間には米國|憲法{けんぽう}第十五條の改正
を承認して、人種や身分のちがひに
よつて、こばまれてゐた事がらを取
りはらひ、建國の精神と自由の大義
を明かにしたのであります。
退位後、世界一週の途中、日本へも立
ちよりました。其の時東京の上野公
園に手植した常盤木{ときはぎ}は、今は二丈餘

≪p216≫
にのびて、いつも緑の色をたゝへ、さも將軍の武威
と徳望を語つてゐるもののようです。
第六十五課 大和{ヤマト}巡リ (一)
京都ヨリ汽車ニテ奈良{ナラ}ニ入ルニハ奈良線ニヨル
ベク、大阪{オホサカ}ヨリ奈良ニ至ルニハ關西線ニヨルベシ。」
奈良市街ハ奈良|停車{テイシヤ}場ノ東ニ在リ。停車場ヲ出デ
テ、大通リヲ東ヘ進メバ、右ニ猿澤{サルサハ}ノ池アリ。左ニ興
福{コウフク}寺ノ五重ノ塔{トウ}ヲ見ル。興福寺ハモト藤原氏ノ氏
寺ニシテ、其ノ盛ナル頃ハ境内{ケイダイ}方四町、規模{キボ}極メテ
大ナリシガ、今ハ昔時ノ三分ノ一ニモ足ラズ。縣|廳{チヨウ}・

≪p217≫
裁判{サイバン}所・師範{シハン}學校等ノ敷地{シキチ}
ハ皆昔ノ興福寺ノ境内ニ
在リ。師範學校門内ノ八重
櫻ハ
古の奈良の都の
八重櫻
今日九重に
にほひぬるかな。
ト、伊勢大輔{イセタイフ}ノヨミシ其ノ奈良櫻ノ名殘ヲトヾメ
タリ。

≪p218≫
帝室|博物館{ハクブツカン}ヲ觀覽シテ、老木路ヲサシハサミテ晝
ナホ小暗キ間ヲ行ケバ、官|幣{ペイ}大社|春日{カスガ}神社ニイタ
ル。大小ノ燈|籠{ロウ}左右ニナラビテ、其ノ數二千ニ近シ。
毎年節分ノ夜盡ク之ニ點火ストイフ。鹿{シカ}ノ三々五
五、人ニ近ヅキ來リテ、食ヲ求ムルモ愛ラシ。
三笠山ハ此ノ神社ノ後方ニ在リ。阿倍仲麻呂{アベノナカマロ}ガ「天
の原」ノ歌ニヨメル三笠山ハ即チコレナリ。
春日神社ヨリ西北ヘ向ヒテ東大寺ニイタル。東大
寺ハ聖武{シヨウム}天皇ノ建立ニシテ、大佛ノ大キサノオド
ロクベキノミナラズ、大佛殿ノ大キサ、マタ實ニ世

≪p219≫
界第一ノ木造建築物タリ。大佛殿ノ北ニ正倉{シヨウソウ}院ア
リ。帝室ノ御有ニシテ、多ク古代ノ名器ヲヲサム。日
本古美術ハコヽニ其ノ粹ヲ集メタリトイフベシ。」
奈良ノ市街ノ西ハ昔ノ都ノ跡ニシテ、今ハオホム
ネ田畑トナレリ。コヽヨリナガムレバ、東ニ春日・三
笠・若草等ノ山々相連リ、其ノフモトニ大佛殿・興福
寺高クソビエ、西ニハ西大寺・藥師等ノ堂塔アリ。人
ヲシテソヾロニ佛教ノ盛ナリシ奈良時代ヲオモ
ハシム。
奈良見物ヲ終ヘテ法隆{ホウリウ}寺ニ向フ。此ノ寺ハ聖徳{シヨウトク}太

≪p220≫
子ガ用明天皇ノタメニ建立セラレタルモノニシ
テ、千二百餘年ヲヘタル古堂中ニハ、當時ノ佛像今
ナホ存ス。法隆寺ニ近ク、紅葉ニ名高キ龍田{タツタ}川アリ。
第六十六課 大和巡リ (二)
奈良ヨリ汽車ニ乘リテ南ヘ進メバ、一時間バカリ
ニシテ三輪{ミワ}町ニ達ス。三輪山ハ老木生ヒシゲリテ、
緑シタヽルガ如シ。コヽニ官幣大社|大神{オホミワ}神社アリ。
三輪町ヨリ東南ヘ向ヒ、初瀬{ハツセ}川ニソヒテ、ツマ先上
リニ行ケバ、初瀬町ニ至ル。初瀬山ニ長谷{ハセ}ノ觀音ア
リ、仁王{ニオウ}門ヲ入レバ、百間ニ餘ル長|廊{ロウ}アリ。紀貫之{キノツラユキ}ガ

≪p221≫
人はいさ心も知らず、ふる里は
花ぞ昔のかににほひける。
トヨミタリトイフ梅ノ木ハ此ノ廊ノカタハラニ
在リ。廊下ノ兩ガハニハ幾百本トナク牡丹{ボタン}ヲ植ヱ
コミタリ。長廊盡キテ本堂アリ。谷ヲ見下シテ、景色
スコブル美ナリ。
三輪町ノ南ニ櫻井町アリ。其ノ附近ノ地ハ古昔ノ
磐余{イハレ}ノ地ニシテ、神功皇后{ジングウコウゴウ}以後シバ〳〵皇居ヲ定
メ給ヒシトコロ。櫻井町ヲ南ヘ去レバ、談山神社ノ
一ノ鳥居アリ。コレヨリ谷川ニソヒテ、坂路ヲ上ル

≪p222≫
コト一里餘ニシテ、多武峯{タフノミネ}ナ
ル談山神社ニ達ス。社殿壯麗
ニシテ、關西日光ノ稱アリ。社
殿ノ後ノ山ニハ鎌足{カマタリ}ノ墓ア
リ。
來て見れば、こゝも
櫻の峯つゞき、
吉野初瀬の花の中宿。
ト、昔ノ人ノ歌ヒシハコヽナリ。
多武峯ヲ西ヘ下レバ岡寺アリ。岡寺ハ西國三十三

≪p223≫
番第七ノ札{フダ}處ナリ。岡寺ノ北ナル飛鳥{アスカ}ノ安居{アンゴ}院ハ
古ノ法興寺ノ跡ニシテ、中大兄{ナカノオホエ}皇子ガ蹴鞠{ケマリ}ノ遊ヲ
ナシ給ヒシ時、鎌足ガ靴{クツ}ヲサヽゲテ皇子ニ近ヅキ
奉リシハ、即チ此ノ寺ナリ。今ハサヽヤカナル堂中
ニ古キ丈六ノ佛ノミ殘レリ。
コヽヨリ西北ヘ進メバ、畝傍{ウネビ}・橿原{カシハラ}ノ地ニ出ヅ。畝傍
山・香具{カグ}山・耳無{ミヽナシ}山ノ三山、イヅレモ麗シキ山ニシテ、
鍋{ナベ}ノ足ノ如ク向ヒ合ヒテ立テリ。畝傍山ノ東北ニ
ハ神武天皇ノ御|陵{リヨウ}アリ。マタ近ク綏靖{スイゼイ}天皇ノ御陵
アリ。其ノ他古陵墓ハナハダ多シ。マタ畝傍山ノ東

≪p224≫
南ニ橿原{カシハラ}神宮アリ。コヽニマ
ウヅルモノ、誰カハ建國ノ昔
ヲオモヒ出デテ、皇室ノ御威
徳ヲ仰ガザラン。
大和國ハ久シキ間皇都ノ在
リシ地ニシテ、昔ナガラノ山
川、一木・一草盡ク上古ヲ談ゼ
ザルナシ。名所・舊跡ヲアマネ
クタヅネンニハ、幾月ノ巡遊
モナホ足ラザル感アルベシ。

≪p225≫
第六十七課 牛島ポテトー王
米國の西部で、ポテトー王のジョージ、シマといへば、
誰知らぬ者もない程に有名な牛島|謹爾{きんじ}は、福岡|縣{けん}
の出身で、米國へ始めて渡つたのは明治二十三年
です。上陸すると間もなく、サンフランシスコから
約百|哩{まいる}ばかりはなれたサクラメント附近に行き、
サクラメント川の大平原で、種々の農業を試みま
した。初の中はどれもこれも皆失敗して、はたの見
る目も氣のどくな程でありましたが、少しも元氣
を落しません。金持の一米人が牛島の熱心を見こ

≪p226≫
んで、行く〳〵は引立ててやらうと言ひましたが、
外國人の手足となつて一生を過すのも意氣地が
ないと、或日ひそかに其の家をにげ出しました。
それからふたゝび困{こん}難におちいりましたが、困難
はいよ〳〵彼が精神をかたからしめるばかりで
した。
渡米後九年目の事でした、サクラメント附近の地
で、大|規模{きぼ}のポテトー栽培{さいばい}を始めようと決心しま
したが、もとより定まつた資本もないことですか
ら、試みに一年間小農|式{しき}の栽培をやつて見ること

≪p227≫
にしました。これが案外の上作であつたので、引き
つゞいて第二回の耕作に從事しました。これがま
た意外の大成功であつたので、益々元氣づいて、今度
は白人も試みないような大げさな耕作に着手し
ました。其の耕地の面積はおよそ千八百エーカあ
つたといひますから、かりに一エーカ毎に百|俵{びよう}の
ポテトーを産するとしても、總収穫{そうしうかく}は實に十八萬
俵の多|額{かく}に上るわけであります。
ところが其の年ちようど米西戰爭が起つたので、
ポテトーの入用が増して、其の價額も一足飛に上

≪p228≫
りました。牛島はこれぞ天の幸と、たくさんなポテ
トーを供給して、大成功をとげるに至つたのであ
ります。今はサンオーキン川とサクラメント川の
兩岸に、一望百里の大農園を作つて、盛にポテトー
の栽培をつゞけてゐます。耕作の面積は年々によ
つて多少ちがひますが、少くとも二千三百エーカ
は下りません。多い年には三千エーカも耕すとい
ふことです。
サンオーキンとサクラメントの兩川岸には、一そ
う五百俵積位の蒸{じよう}氣船が六七そうも浮んで、サン

≪p229≫
フランシスコとの間を日々往來してゐます。岸に
は大規模の荷積場を造つて、運送の便をはかつて
ゐるばかりでなく、近年大金をかけて、廣い米國に
も餘り見當らない程な大きな貯藏{ちよぞう}場をさへ建て
ました。此等の壯大な建物は、兩川の岸にそびえ立
つて、ジョージ、シマの奮闘{ふんとう}と成功を物語つてゐるの
であります。
健在なれ、ジョージ、シマ。
第六十八課 布哇{はわい}
Hawaii.

≪p230≫
我等の月日は
仙郷さながら、
てる日の下より
夕立そゝぎて、
弟姫{おとひめ}かつぎを
狹霧{さぎり}とおほへば、
露散るしづくに
花みなわらふ。
日毎日毎に好き日は續きて、
年中いつとて六月日和{びより}。
Our days are all as a fairy tale,
Braided of sunshine and showers
Mists from the sea, the mermaids' veil,
A sprinkle of rain for the flowers.
And ev'ry day is “rare day”,
Every month of the year is June!

≪p231≫
小山のいたゞき、
浦{うら}わの高空、
虹{にじ}のかけ橋
かけんと急ぐ。
追はるゝ白雲
さまよひをかしく、
七色見る〳〵
谷間をつゝむ。
日毎日毎に好き日は續きて、
春夏秋冬六月日和。
To span the sky, hilltop and sea,
A rainbow hastens with delight.
Shoving the clouds along, in glee,
Wrapping the valleys in colors bright.
And ev'ry day is a rare day,
Every month of the twelve is June!

≪p232≫
愛らし、島々、
我等の故郷。
人の國をば
何うらやまん。
よその海をば
何望むべき。
金砂に縫{ぬ}ひたる
磯邊{いそべ}よ、あはれ。
日毎日毎に好き日は續きて、
布哇の一年六月日和。
When all so lovely is our own,
We may not dream of other lands;
We cannot covet other seas,
When ours are fringed with golden sands!
And ev'ry day is a rare day,
Ev'ry month of Hawaii is June.

≪p233≫
日本語讀本卷五終

≪附 p001≫
新出漢字表
丹。久。亂。亡 交。仁 他 令 仰 任 伐 低 住 供 保
値 健 傳 價 優。初 刷。功 助 勅 勤。區。卒。占。印
卷 即。去 參。及 受。召 史 向 告 味 和 啓 器。回
圖。在 坂 埋 報 増。壯。失。好 如 威 嫁。孫。守 完
官 定 室。尊 對。局 居 屋。崩。巡。差。布 希 師 席
帶。幼。座。庭。廷 建。往 征 從。志 快 怒 急 悲 情
應。成 我 或。承 技 拜 換 撃 擧。支。收 改 攻 故
救 敗 散 敬。文。旅。明 昔 昨。望。未 査 案 械 榮
機 櫻 權。歳 歴 歸。殘。殺。求 治 泉 注 流 清 渡

≪附 p002≫
温 源 滅 滿。然 熱 燒。状。理。當。的 皆。盡。直。破
確。祖 福 禮。程。笠 等 節 築。粹。紀 約 級 給 線
繪 續。置。群。翌。考。耕。至 致。舊。若 英 萬 落。處。
衣 衰。要。覽。解。計 註 試 認 語 説 誰 課 調 諸
謝 變。貨 貫 貯 賃 資 賢 贈。走 起。跡 路。轉。追
退 連 遊 過。郵 郷。配。關。防 附。集 難。電 露。頃
願。養 餘。麗。點。
讀替漢字表
五百。下 下 下。久。亂。交。仕 仕 代 仰 仰 何時 何=
處 作 供 供 便 候 傳 傳 價。元 元 兄 先 先。全。

≪附 p003≫
冷。刀 切 初 刷。力 功 加 助 勅 勝。卷 即 即。原。
去 參。友。古 古 右 各 名殘 向 向 告。圓。在 報
増。夕 夕 外。失 失。女 好 如 如何 始。孫。宗 定。
尊。居 居。川 巡。帶。店 度 庭。建 建。弓。形。役 後
後 得 御 從。思 急 悲。成。所以。承 拜 換 撃 擧。
收 改 改 攻 故 敗 散 敬。文。新。旅。明 明 昔 晝。
會。望 朝。末 松 果物 極 極 極 業 榮 橋 横。歌。
正 武 歸。殘。殺 殿。母 毎。氏。治 注 波 活 流 浮
清 渡 温 源 滅。無 然 煙 煙草 熱。爭。獸。生。由
男 畫 畫 當 當。的 皇。益 盛 盛 盡 盡。目 目 直

≪附 p004≫
相。知。砂 破 確。祖父 祖母。私 程 積 積。空。立。竹
笑 等 築。米。紅 紅葉 紙 細 終 給。置。群。考。耕。
至。良。若 落 落 藤。處。行 行幸。衣 衰。觀。角力。
言 討 語 調 變。貧。起 起。跡 路 路。近 返 送 退
途 通 連 遊 運 過 過 遠 遠。都。重 野。錢。關 關。
附。集 難。露。青。面 面。音。頭 頭 願 類。飛。飲 餘。
鳴。麗。黒。
熟語表
皇室1 祖先1 皇孫1 皇位1 臣下1 難義2 即位2 人皇2
反對3 船客3 上陸3 千種万樣4 全景4 一帶4 社殿4

≪附 p005≫
元氣5 末座6 御手討6 戰役7 面目7 意外7 一念7 無=
念7 將校7 職務7 一命7 敬禮7 恩愛8 感謝8 風習8
大發明10 産出10 成功10 機械10 開通10 傳聞10 飛行10 將=
來10 忠實11 注意11 改良11 完成11 温度11 第一歩11 動力11
大功徳11 名所12 平野12 不便12 産地12 行程12 清流13 美=
觀13 殿堂13 丹青13 人工13 善美13 行幸13 風景13 直下13
壯觀13 名勝13 國技14 遊技14 全力14 職分14 得意14 劔道14
弓術14 目的14 勝手15 無道15 賢明15 絲口15 方法15 國書15
決行15 安全15 政事15 善政15 始終15 大功15 古風16 賢婦=
人17 取引18 陸産物18 水産物18 發着點18 交通18 中心18

≪附 p006≫
農園18 本流19 會合點19 洋々19 勝景19 養生20 飲食20 年=
少者20 相談20 流通20 不健全20 天命20 快活20 信仰21 美=
術品21 保存21 名僧22 惡僧22 太平22 高官22 太古22 君臣22
皇統22 朝廷22 全快23 實物23 自作23 貯金24 不時24 僧徒25
歸朝25 難船25 官位25 交換26 十進法26 四時27 名山27 川=
流27 建築物27 古社寺27 建立27 通計27 坐像27 立像27 西=
洋風27 山角27 外人27 帝都28 歴代28 佛法28 宗門28 皇居29
宮殿29 十文字29 舊跡29 歴史29 都大路29 壯麗30 家居30
大宮人30 優美30 勢力30 關白30 極點30 外祖父30 無禮31
目送31 長者31 夜半31 王者31 兵書31 兵法31 會得31 大業31

≪附 p007≫
冷笑31 平原32 急流32 良材32 遠近32 開港場32 附近32 實=
權33 將軍33 不和33 不平33 横暴34 自殺34 恩義34 所行34
全滅34 遊學35 拜啓35 希望35 參考36 印刷36 活字36 校正36
本刷36 手刷36 通交37 軍船37 將士37 將卒37 攻撃37 國難37
處置37 冬景色38 野分38 自然38 記事39 確實39 應用39 盛=
大39 從來39 英主40 政治40 政權40 時機40 人望40 機會40
勤王40 義兵40 皇軍40 行宮40 行在所41 供御41 返歌41 忠=
勇42 人情43 利益43 公平無私43 收入43 孝養43 不在43 任=
務44 製作44 失敗44 赤貧44 考案44 海外44 注目44 註文44
實見44 主産地44 事業44 熱中44 國産44 客室用45 發送45

≪附 p008≫
都合45 代價45 精々45 殘念45 便船45 調製45 着手45 次便45
承知45 旅客46 庭園46 家臣46 大半46 地方46 領地46 武勇=
談47 不意47 方向48 母船48 急處48 體内48 勇壯48 通路48
細工物48 船體49 一半49 悲鳴49 一寸先49 難破船49 死力49
人間業49 半死半生49 生家49 昔物語49 小間物50 航海術50
數學50 翌年50 歸途50 群島50 調査50 航路50 尊敬50 遠孫51
領主51 全部51 武將51 勝利51 威力51 勅命51 暴威51 御料51
威光51 部下51 征討51 半途51 部將52 利口52 信用52 征伐52
報知52 威名52 命令52 統一52 滿足52 服從52 破竹52 始末52
要路53 物貨53 集散53 名城53 出生地53 木立53 白木造53

≪附 p009≫
神殿53 報恩54 夫人54 嫁入54 幼少54 支配54 昔日54 安樂54
不安55 運命55 起原55 祝祭55 重要55 幸福55 意味55 建國55
火山國56 風光56 由來56 傳説56 浴客56 武器57 王朝57 滅=
亡57 區別58 地理58 有益58 成功者58 計畫59 報告59 價値59
當然59 氷流59 萬死59 通信60 卒業60 失禮60 完全61 目的=
地61 急行列車61 禮義62 五大老62 近臣62 禮状62 滿足62
書状62 先方62 敬意62 不作法62 人品62 大丈夫63 君國63
難攻不落63 苦難63 義心63 田園64 力戰64 一擧64 死守64
全力64 軍門64 會見64 改正64 承認64 退位64 武威64 徳望64
氏寺65 名殘65 觀覽65 點火65 帝室65 名器65 古美術65 古=

≪p附10≫
昔66 御威徳66 巡遊66 意氣地67 資本67 案外67 耕作67 從=
事67 面積67 一足飛67 供給67 一望百里67 往來67 運送67
壯大67 仙郷68 故郷68


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底本:筑波大学附属図書館蔵本(810.7-H45-5 10014023660)
底本の出版年:大正6[1917]年3月25日印刷、大正6[1917]年3月28日発行
入力校正担当者:高田智和、堤智昭
更新履歴:
2022年8月30日公開

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