Text Data Sets for Research on the History of Japanese

> Japanese 

Shunshoku umegoyomi

クリエイティブ・コモンズ・ライセンス

Volume 3

Vertical / Horizontal Download

春色梅児与美 巻三

----------------------------------------------------------------------------------
凡例
1.本文の行移りは原本にしたがった。
2.頁移りは、その丁の表および裏の冒頭において、丁数・表裏を括弧書きで示した。また、挿絵の丁には$を付した。
3.仮名は現行の平仮名・片仮名を用いた。
4.仮名のうち、平仮名・片仮名の区別の困難なものは、現行の平仮名に統一した。ただし、形容詞・副詞・感動詞・終助詞・促音・撥音・長音・引用のト等に用いられる片仮名については、原表記で示した場合がある。 〔例〕安イ、モシ、「ハイそれは」ト、意気だヨ、面白くツて、死ンで、それじやア
5.漢字は現行の字体によることを原則としたが、次のものについては原表記に近似の字体を用い、区別した。「云/言」「开/其」「㒵/貌」「匕/匙」「吊/弔」「咡/囁」「哥/歌」「壳/殻」「帒/袋」「无/無」「楳/梅」「皈/帰」「艸/草」「計/斗」「弐/二」「餘/余」
6.繰り返し符号は次のように統一した。ただし、漢字1文字の繰り返しは原本の表記にしたがい、「〻」と「々」を区別して示した。
 平仮名1文字の繰り返し 〔例〕またゝく、たゞ
 片仮名1文字の繰り返し 〔例〕アヽ
 複数文字の繰り返し 〔例〕つら〳〵、ひと〴〵
7.「さ」「つ」「ツ」に付く半濁点符は「さ゜」「つ゜」「ツ゜」として示した。
8.Unicodeで表現できない文字は〓を用いた。
9.句点は原本の位置に付すことを原則としたが、文末に補った場合がある。
10.合字は〔 〕で囲んで示した。 〔例〕殊{〔こと〕}に、なに〔ごと〕、かねて〔より〕
11.傍記・振り仮名は{ }で囲んで示した。 〔例〕人生{じんせい}
12.左側の傍記・振り仮名の場合は、冒頭に#を付けた。 〔例〕めへにち{#毎日}
13.傍記・振り仮名が付く位置の紛らわしい場合、文字列の始まりに|を付けた。 〔例〕十六|歳{さい}
14.原本に会話を示す鉤括弧が付いていない場合も、これを補い示した。また庵点は〽で示した。
15.原本にある話者名は【 】で示した。 〔例〕【はる】
16.割注・角書および長音符「引」「合」は[ ]で囲んで示した。
17.不明字は■で示した。
18.原本の表記に関する注記は*で行末に記入した。 〔例〕〓{たど}りて*〓は「漂+りっとう」
19.花押は〈花押〉、印は〈印〉として示した。
20.画中文字の開始位置に〈画中〉、広告の開始位置に〈広告〉と記入した。

本文の修正
1.翻字本文を修正した場合には、修正履歴を末尾に示す。
----------------------------------------------------------------------------------


$(1オ)
歌妓{うたひめ}化粧{みじまひ}の図{づ}

(1ウ)
唄女{うたひめ}三四人{さんよにん}寄合{よりあひ}し中{なか}に米八{よねはち}【よね】「梅次{うめじ}さん今{いま}の噺{はな}しに
どふしてもしておこふの。」【うめ】「そふよわりい〔こと〕はいわねへから。
そふしねへヨ。」側{そば}に眉毛{まゆげ}をぬいてゐる政次{まさじ}【まさ】「ナニサまた其
所{そこ}の座{ざ}になると捨罪{すてばち}をいふわな。」【よね】「ナニもふ今日{けふ}は
みんなの異見{ゐけん}について。程{ほど}よくいふ気{き}よ。」【うめ】「いふ気ばつ
かりじやアいけねへぜ。しかしおゐらもおぼへがあるよ。おらア
もふ幸{かう}さんの時{とき}にやアノウまのじ。」[政次{まさじ}の〔こと〕なり]【まさ】「そふよ手こずツ
たつけ。大津屋{おほつや}の内義{おつかア}にたいそふ世話{せわ}になつたのウ。」トいふ

(2オ)
うち米八{よねはち}は帯{おび}をしめて仕舞{じまひ}【よね】「ヲイめのじ[うめじのことなり]ちよいと。」ト茶碗{ちやわん}をいだす。梅次{うめじ}は火鉢{ひばち}のわきに下{おり}て
ゐる土瓶{どびん}をとつて【うめ】「これか。」【よね】「アレサどふも請{うけ}のわりい。」
【うめ】「ヲツトしやうちだ。」ト。そばにある燗徳利{かんどくり}をとり。湯
呑{ゆのみ}へなみ〳〵とつぐ。米八はぐつとのんで胸{むね}をたゝき。フウと
息{いき}を二ツ三ツ外{そと}へはつ゜し。歯{は}をかち〳〵とならし【よね】「サア
お出{で}かけなはるんだ。」【政次{まさし}梅次{うめじ}】「うまく言{い}ツて来{き}ねへよ。」
米八は完爾{につこり}として出{いで}て行{ゆく}。

$(2ウ)
米八
米八{よねはち}船宿{ふなやど}へいたる図{づ}
〈画中〉大鳴

(3オ)
春色{しゆんしよく}梅児与美{うめこよみ}巻の三
江戸 狂訓亭主人作
第五齣
初{はつ}といふ名{な}に客人{まれびと}はあくまでに。跡{あと}をつけたる雪{ゆき}の中{なか}。
裏{うら}。それかあらぬか知{し}らねども。何{いづ}れあだなる婦多川{ふたがは}の
色{いろ}の湊{みなと}に情{なさけ}の川岸蔵{かしぐら}。恋{こひ}の入船{いりふね}迎船{むかひぶね}。たれ桟橋{さんばし}と
いふ声{こゑ}と。意気{ゐき}な調子{てうし}の騒唄{さはぎうた}。たえぬ世界{せかい}に爰{こゝ}はまた。
閑幽{しんみり}とした船宿{ふなやど}の。二|階{かい}に二人さし向{むか}ひ。酒{さけ}もさへなき

(3ウ)
不調子{ふてうし}は。どふいふ訳{わけ}かわからねど[旦那{だんな}らしき風俗{ふうぞく}の人|藤{とう}といふきやくじん]【藤】「コウ
米{よね}八手めヘマア。そふ意地{ゐぢ}をはるものじやアねへぜ。義理{ぎり}
と人情{にんじやう}をかんがへりやア。少{すこ}しはどふかそつちから。嬉{うれ}しい
返答{へんじ}もしずはなるめへじやアねへか。マア〳〵それはそふと
一|盃{ぱい}呑{のま}ツし。」ト盃{さかづき}猪口{ちよく}をいだす。米八はふせう〴〵に
手を出{いだ}して猪口{ちよく}をとり。だんまりで出{いだ}せば。藤は銚子{てうし}を
とつて【藤】「ドレお酌{しやく}を。」ト笑{わら}ひながらつぐ。【藤】「ちよつぴり生
姜{せうが}といきやせうかね。」ト生姜{せうが}をつまんで出{だ}す。米八は完

(4オ)
爾{につこり}して。またつまんでとり【よね】「ハイ藤{とう}さん。」ト猪口{ちよく}を出{だ}す。
【藤】「イヤモウやう〳〵口を聞{きい}たの。ヤレ〳〵骨{ほね}の折{おれ}た〔こと〕だ。ドレ。」と
猪口{ちよく}をとる。米{よね}八は銚子{てうし}をとつて【よね】「ドレお酌{しやく}をかね。」
ト酒{さけ}をつぎ「ちよつぴり生姜{せうが}たア。私{わつち}は行{いき}届{とゞ}かねへヨ。」
【藤】「コレサそつちはどふもそふ癪{しやく}をいふから恨{うらみ}だトいふ
ところをやつぱり根{ね}づよく恨{うら}まねへの。」【よね】「そりやア
そふとだれぞかけてやらふじやアないかねへ。さむしいヨ。」
【藤】「また迯句{にげく}をいふよ。そりやアいくらでも呼{よび}に
やるがいゝ

(4ウ)
何{なん}とか返事{あいさつ}してもいゝじやアねへか。ホイまた言{いひ}出{だ}した。
われながらどふもわりい。」【よね】「そりやアおまはんだれが
来{き}たつて。しよふと思{おも}ふ返事{へんじ}ならしまはアな。まただれが
ゐなくつても。否{いや}ならしやアしませんわね。」ト。いふうち下
から【女】「ハイお肴{さかな}がまゐりました。」ト。ひろぶたを二|階{かい}へ
あげる【藤】「ヲイ〳〵一ツ飲{のみ}ねへな。」【女】「ハイありがたふござい
ます。米{よね}八さんなんだかまじめでゐなはいますネ。どふ
かなすツたかへ。」【よね】「ナニサどふもしねへが全体{ぜんてへ}このごらア

(5オ)
さはりよふじでゐたんだはネ。」[このことばつうじんはおふかたごぞんじなるべし]【女】「そりやアわ
りいネ。癖{くせ}になるもんだヨ。」【藤】「マアいゝわな米{よね}こふはどふも
おれせへ来{く}りやア。あのとふりヨ。ヲツト気障{きざ}をいつたの。
堪忍{かんにん}さつし。」【女】「ハイ藤{とう}さんありがたふ。」ト盃{さかづき}を藤{とう}に
さし。下{した}へおりにかゝる【藤】「マアもふ一ツのみねへな。」【女】「下{した}が
いそがしいから。まためへります。」ト下{した}へゆく。【藤】「いつでも
賑{にぎ}やかだの。」【女】「ハイ。」ト階子{はしご}の段{だん}をおりながら「米{よね}八さん。」
ト声{こゑ}をかけ。「どふもしうちがわるいヨ。」と心でいつて眼{め}と

(5ウ)
しかた。米{よね}八も心に合点{がつてん}【よね】「ありがたふ。サア藤{とう}さん何{なに}
か来{き}たからお呑{のみ}な。私{わつち}も呑{のみ}ますは。」ト。茶碗{ちやわん}をいだす。
【藤】「またひさしいものよ。今日{けふ}はもふ何{なに}も言{いは}ねへから。
落着{おちつい}て呑{のみ}ねへ。茶{ちや}わんもちつと恐{おそ}ろしすぎるの。」ト
やさしくいふ。【よね】「ナニそれで呑{のむ}のじやアねへはネ。二三日
よふじで居{ゐ}たから。さツぱり酒気{さけき}がないから。今日{けふ}は
丁度{てうど}よいヨ。マアついでお呉{くん}なせへな。」【藤】「そんならどふ
でもお心|任{まか}せサ。」トついでやる。米{よね}八はうけて完爾{につこり}笑{わら}ひ。

(6オ)
【よね】「死{し}なざ止{やむ}まひおつな持病{ぢびやう}だ。」トいひながらぐつと
干{ほし}て「藤{とう}さん湯呑{ゆのみ}じやアお否{いや}かへ。」【藤】「随分{ずいぶん}いゝのさ。」
【よね】「よかアおあがりなサアつぎますゼ。」【藤】「マア酒{さけ}と討死{うちじに}を
するぶんの〔こと〕よ。」ト請{うけ}て「コウ米{よ}の字{じ}手めへ廓{あつち}に居{ゐ}る
内はこんなに酒{さけ}は呑{の}みやアしねへとおもつたつけ。」【よね】「マア
呑{のん}だでも呑ねへでもなしさ。」【藤】「コレサ〳〵此{この}くれへな〔こと〕は
誠{ほんとふ}に返事{あいさつ}をしてもいゝじやアねへか。おらア今日{けふ}は
こふおとなしく。何{なに}もいはずにゐるのに。そつちからおか

$(6ウ)
藤兵衛

$(7オ)
米八
口舌従来是禍基
物{もの}いへば唇{くちびる}さむし
あきのかぜ

(7ウ)
しくすると。どふもツイ疳癪{かんしやく}にさわつてならねへ。」【よね】「ヲヤ
おつな〔こと〕をお言{いひ}だヨ。何{なに}もおかしくもどふもしやアしな
いはネ。私{わつち}も一体{いつてへ}おそろしい我儘{わがまゝ}ものサ。そりやアもふ
他人{ひと}にいはれるまでもなく。ずいぶん手{て}めへでも知{し}ツて
居{ゐ}るのサ。それだけれどマアよくつもつてお見なせへ
な。此糸{このいと}さんはあのとふり明理{わかつた}お方{かた}。それなればこそ
はじめから。何{なに}も角{か}も打明{うちあか}して。ぬしにたのんだわけ
じやアありませんか。実{じつ}におまはんの深切{しんせつ}は。身{み}にしみ

(8オ)
じみと嬉{うれ}しいけれど。」ト[すこしうるみごゑ]「ごぞんじのとふりのわけ
ゆゑに。どふも返事{へんじ}がなりにくし。といつて恩{おん}のある
おまはんに。無得心{いつこく}なあいさつもならずと。いろ〳〵
考{かんが}へても。思案{しあん}の出{で}よふ様{よふ}もなし。実{じつ}にわちきやアとつ
おいつ。思案{しあん}してばかりいまはアな。」ト泪{なみだ}をふく。【藤】「コウ
よしねへ延喜{えんぎ}がわりいわな。泣{ない}てもらつちやア近頃{ちかごろ}
気{き}の毒{どく}だ。いつも〳〵同{おな}じせりふも最{もふ}聞倦{きゝあき}た。精
進{しやうじん}ものゝこんだてはマア儘{まゝ}にして。ちつと悪毒{あくどく}
天麩羅{でんふら}

(8ウ)
か。黒漫魚{まぐろ}のさしみで油{あぶら}の乗{のつ}た。あいさつが聞{きゝ}てへの。
手{て}めへ最{もふ}ちつとは婦{ふ}多川の水{みつ}が染{しみ}そふなもんだぜ。
まだものいひが少{ちつと}は直{なを}ツたのがしゆせうだヨ。おれがおか
げで身抜{みぬけ}をして。斯{かう}して自前{じめへ}出居衆{でゐしゆ}になつてゐて。
それ相応{さうおふ}にこしやくなことを言{いつ}て居{ゐ}たツて。まだ屋
根船{やねふね}へ首{あたま}から乗{のる}うちははじまらねへゼ。」ト米{よね}八が
膝{ひざ}を喜世留{きせる}でつゝく。
酒{さけ}がいはする悪口{わるくち}も。金と場{ば}ずれた人の癖{くせ}。恋{こひ}

(9オ)
ゆゑえこぢを言{いひ}出{だ}すは。男{をとこ}の常{つね}といひながら通
者{すい}めかしては中〻{なか〳〵}に。かなはぬ色{いろ}は芸者{げいしや}にて。やつ
ぱり男{をとこ}はいくぢもなく。金{かね}をつかつて気{き}を能{よく}し
ばからしきほどあどけなきが。恋{こひ}の生根{しやうね}といふ
べきか。
米{よね}八はちよいと膝{ひざ}を脇{わき}へよせ【よね】「アヽモシ藤{とう}さんあん
まりいろ〳〵なことを大{おほ}きな声{こゑ}でいわねへでもいゝ
じやアないかへ。しづかにお言{いひ}なせへな。」ト。三味線{さみせん}をとつ

(9ウ)
て爪弾{つめびき}に。
〽明{あけ}の鐘{かね}ごんと突{つ}きや気{き}のきいた烏{からす}サアざいもくの
うへで楊枝{やうじ}をつかふそれにこけめが朝{あさ}なをし。
嗟呼{あゝ}疳癪{かんしやく}のしのびごま。看官{みるひと}汐合{しほあひ}のほどをはかり
て。よろしくおかぶらの足{あし}を洗{あら}ひ。引込{ひつこむ}時{じ}ぶんの間{ま}
を見合{みあは}せ。野暮{やぼ}と化物{ばけもの}にたとへらるゝことなかれ。そも
此{この}二階{にかい}の床{とこ}の間{ま}に。誰{た}が筆{ふで}なるか一幅{いつぷく}の掛{かけ}ものあり
かゝる家{いへ}には似合{にあは}しからねど。こゝに因{ちなみ}のあるに等{ひと}し。

$(10オ)
口舌{こうぜつ}従来{じゆうらい}是{これ}禍{わさはひの}基{もと}
物{もの}いへば唇{くちひる}さむし
あきのかぜ

第六齣*以下本文
行水{ゆくみづ}の流{なが}れと人のみのさくがト口の内{うち}にて幾度{いくたび}か
繰返{くりかへし}つゝ他目{よそめ}もふらず稽古{けいこ}にかよふ一人{ひとり}の処女{むすめ}。

(10ウ)
年{とし}は三{さん}五{ご}の月{つき}の顔{かほ}。花{はな}の口|元{もと}うるはしき姿{すがた}に伊
達{だて}の三升{みます}じましやんと結{むす}びし小柳{こやなぎ}の。帯{おび}も目に
たつ当世風{たうせいふう}。行{ゆく}むかふより年の頃{ころ}。十九{つゞ}か二十{はたち}のやさ
男{をとこ}。首{くび}をかしげて物{もの}あんじ。思{おも}はずバツタリ行当{ゆきあた}り
互{たがひ}にこれはと顔{かほ}見合{みあは}せ【男】「お長{てう}ぢやアねへか。」【女】「ヲヤ
お兄{あに}イさんマア〳〵どふしてお目に。」【丹】「ほんにまアふし
ぎな所{ところ}てあつたのふ。マアいろ〳〵聞{きゝ}たい〔こと〕もあるが。爰{こゝ}じやア
往来{わうらい}だからどこぞへ。」ト近辺{あたり}を見{み}まはし「アヽあすこに

(11オ)
うなぎやがある。マア久{ひさ}しぶりだから一所{いつしよ}にお飯{まんま}でも
たべよふ。」ト。いはれてお長{てう}は嬉{うれ}しくも。また恥{はづ}かしく
赤{あか}らめし。㒵{かほ}におほひし懐紙{くわいし}の包{つゝ}み。只{たゞ}アイ〳〵と
打連{うちつれ}て。うなぎやにこそいたりける【うなぎや】「いらツ
しやいまし。お二階{にかい}へいらツしやいまし。お多葉粉
盆{たばこぼん}をおあげ申なヨ。」ト女房{にようぼ}があいそに段階子{だんばしご}。二人{ふたり}
はあがる二階{にかい}の座{ざ}しき。表{おもて}のかたは多寡橋{たくわばし}の。往来{ゆきゝ}
賑{にぎ}わふ春{はる}げしき【丹】「寔{ま〔こと〕}におらアおめへの事{〔こと〕}を案{あんじ}て

(11ウ)
ばかり居{ゐ}たが。今日{けふ}らこゝで逢{あわ}ふとは。夢{ゆめ}にもおもは
ねへ。どふしてこゝいらを歩行{あるく}のだ。何{なに}かあの廓{あつち}に
はゐないのか。」【長】「アイモウいつか中{ぢう}から居{ゐ}ませんヨ。」【丹】「そ
して今{いま}じやア何所{どこ}にゐるのだ。つばくら口{ぐち}の懐紙{くわいし}を
持{もつ}て歩行{あるく}からは。近所{きんじよ}にゐるか。何所{どこ}へ稽古{けいこ}にゆく。」
【長】「イヽヱ此{この}近所{きんしよ}じやアありませんヨ。小梅{こうめ}に居{おり}ますは。」
【丹】「小梅{こうめ}から此所{こつち}へ稽古{けいこ}に来{く}るのか。」【長】「イヽヱ銀座{ぎんざ}の
宮芝{みやしば}さんが月{つき}に六斎{ろくさい}。近所{きんじよ}のおやしきへお出{いで}だから

(12オ)
節{ふし}をよく直{なを}してもらつて。不断{ふだん}は市原{いちはら}のお師匠{しせう}さんへ
まいるヨ。」【丹】「そふか銀座{ぎんざ}の宮芝{みやしば}さんなら節{ふし}は大丈夫{だいぜうぶ}
だ。そして市原{いちはら}から今日{けふ}はどこへ行{いく}のだ。」【長】「けふは稽
古{けいこ}の皈{かへ}りに姉{ねへ}さんの名代{みやうだい}に。上千寺{ぜうせんじ}さまへ参{まゐ}るので
ありますヨ。」【丹】「小梅{こうめ}の姉{ねへ}さんとはだれのことだ。」ト聞{きく}
折{をり}から下女{げぢよ}茶{ちや}を汲{くん}で来{きた}り。【下女】「いかほど。」【丹】「アイまア
中位{ちうぐらゐ}なのを三皿{みさら}ばかり焼{やい}てくんな。」【女】「ハイ御酒{ごしゆ}は。」【丹】「イヱ
お飯{まんま}〳〵。それともお長{てう}おめへのむか。」【長】「イヽヱ。」トにつこり

(12ウ)
下女{げぢよ}は階子{はしご}の手{て}すりの際{きわ}に寄{よ}せありし衝{つい}たてを
二人{ふたり}の脇{わき}へたて。下{した}ヘトン〳〵おりて行{ゆく}。【長】「ほんに小梅{こうめ}に
居{ゐ}るのも姉{あね}さんといふも。ごぞんじなひはづだねヘ。」ト
おゐらん此糸{このいと}が深切{しんせつ}より鬼兵衛{きへゑ}が非義{ひぎ}を
退{のが}れて金沢{かなさは}へ行道{ゆくみち}の難義{なんぎ}。梅{うめ}のお由{よし}にすくは
れて。此{この}ほど廓{くるわ}へはお由{よし}が理詰{りづめ}の掛合{かけあい}にて。むづ
かしく談{だん}じてお由{よし}が方{かた}へ引取{ひきとり}。娣{いもと}ぶんとして。かわ
いがらるゝやうす。をくわしくかたりさすが娘気{むすめぎ}の

(13オ)
心ぼそく。涙{なみだ}のかわく間{あいだ}もあらず。きく丹{たん}次郎も
涙{なみだ}をながし。お長{てう}を引{ひき}よせれば。お長も丹次郎に取{とり}
すがり
【長】「寔{ま〔こと〕}に私{わち}きやアおそろしく。こわいかなしい思{おも}ひをして。
弁天{べんてん}さまやお祖師{そし}さまへ。願{ぐわん}をかけて。おまへさんをした
ひますのに。おまへさんは私{わちき}を。思{おも}ひ出{だ}してもおくんなさる
まひね。」ト。いふ所{ところ}へあつらへのかばやきを下よりはこぶ。【丹】「サア〳〵
あついうちマアたべな。」ト。飯{めし}を盛{よそつ}てやれば【長】「アレわちきが

(13ウ)
よそいませう。」ト茶{ちや}わんをとる。【丹】「寔{ま〔こと〕}に久{ひさ}しぶりてお
飯{まんま}をいつしよにたべるのう。」ト[かばやきのしつぽの所ばかりぬいてお長にやる]【長】「ハイ
ありがたふ。」トさも嬉{うれ}しそふに喰{たべ}ながら「お兄{あに}イさんの
お宅{うち}は何所{どこ}でありますヱ。」【丹】「ナニ宅{うち}か家{うち}はもふ宅{うち}と
いふ名{な}ばかりで。はなすも外聞{ぐわいぶん}がわりいよふだ。」【長】「アレサ
マアはやく言{いつ}ておきかせよ。ヨウ兄{にい}さん。」ト少{すこ}しあまへる
もかわゆらし。【丹】「ナニほんの仮宅{かりたく}だヨ。」【長】「ヲヤそれじやア
浜{はま}の宿{しゆく}か舟川戸{ふなかはど}かへ。」【丹】「ナニサそりやア廓{あつち}の仮宅{かりたく}の

(14オ)
場所{はしよ}だはな。おいらの今居る所は中の郷{がう}といふ所{ところ}だ。」
【長】「ヲヤ〳〵それじやア私{わちき}の居{ゐ}る所{ところ}から寔{ま〔こと〕}に近{ちか}いねへ。寔{ま〔こと〕}
にモウ〳〵何{なに}より嬉{うれ}しいねへ。是{これ}から毎{まい}日|行{いつ}て見よふヤ。」
【丹】「どふして〳〵来{き}て見られるものか。」【長】「ナゼヱ。」【丹】「なぜと
いつて。」【長】「おかみさんでもありますのかヘ。」【丹】「ナニつまら
ねへ。そんな所か。ほんにヨ廓{あつち}の宅{うち}の湯どのより狭{せま}ひ
はな。」【長】「ナニおまはんばかりなら少{ちいさ}い宅{うち}がよひはネ。」トいふ
所{とこ}へ跡{あと}の一|皿{さら}を持来{もちきた}り【下女】「ハイおあつらへでござります。」

$(14ウ)
おてう
丹次郎

(15オ)
【丹】「ヲイ〳〵もふ一皿{ひとさら}大{おほ}きいのをやいて呉{くん}な。」【下女】「ハイ〳〵。」ト
おりてゆく【長】「そしてお宅{うち}じやアだれがお飯{まんま}や何{なに}かの
世話{せわ}をしますヱ。」【丹】「長屋{ながや}の老女{ばア}さんがしてくれるよ。」
【長】「わちきが行{いつ}て用をたしてあげたひねへ。」【丹】「ナニおめへ
だつても仕{し}つけねへ業{〔こと〕}が出来{でき}るものか。そして独者{ひとりもの}の
宅{うち}へ娘{むすめ}が来{く}るとわるくいはれるからわりい。」【長】「夫{それ}じやア
私{わちき}がいつちやアわりいかねへ。」【丹】「ナニわりいといふわけも
ねへが。」【長】「わけもねへならば翌{あした}は直{ぢき}にまゐるヨ。」【丹】「あし

(15ウ)
たは留守{るす}だ。」【長】「留守でもよいわね。私{わちき}の行{いく}のをまつて
お出{いで}ヨ。折角{せつかく}たのしみに思{おも}つていまはアネ。ヨヨ兄{にい}さん
宅{うち}にお出{いで}よ。」【丹】「留守{るす}でもいゝから宅にゐろ。よつほど
よく出来{でき}たおかしい子だ。サア〳〵さめねへうちたんと給{たべ}
な。」【長】「わちきはもふ腹中{おなか}がいつぱいになりましたヨ。」
【丹】「ナニまだねつからたべもしないで。サアお茶{ちや}をかけて
もふちつとたべな。」【長】「兄さんもたんとおあがりな。そしてネ
兄さんどふぞこれからかわいがつておくんなはいヨ。」【丹】「知{しれ}た

(16オ)
ことよ。」【長】「それでもわちきがいろ〳〵苦労{くらう}したのも
知{し}らずに。わすれてお出{いで}だものを。」【丹】「なにすこしも
わすれるものか。いつかもおめへのことでおほきにいちり
合{やつ}たくらひだものを。」【長】「ヲヤだれとヱ。」【丹】「ヱ。」ト少{すこ}し行
詰{ゆきつま}り「ナニサ夢{ゆめ}に鬼兵衛{きへゑ}と言合{いひやつ}たくらひだものを。」
【長】「うそばつかり。ヲヤ私{わち}きやア兄{にい}さんに逢{あつ}たら。何{なに}か
はなそふ〳〵と思{おも}つて居{ゐ}たツけが。アヽそれ〳〵あのおま
はんのひゐきな米八さ゜んネとんだ〔こと〕をしましたよ。」

(16ウ)
[丹次郎はしらぬ顔]【丹】「なぜどふした。」【長】「アノネ此糸{このいと}さんの客人{きやくじん}の藤
さんと色{いろ}事をしたのが知{し}れて。とふ〳〵住{すみ}けへに出ま
したヨ。寔{ま〔こと〕}におほさはぎでありましたツけ。」ト。流石{さすが}発{はつ}
めいのお長なれども。米{よね}八は丹{たん}次郎ゆゑに。住{すみ}かへに出{いで}し
とは。心づかぬも道理{だうり}なり。丹{たん}次郎は知{し}らぬ顔{かほ}にて【丹】「そふか
それじやア此糸{このいと}が合点{がつてん}しねへも尤サの。そりやアいゝが
たいそふ烟{けむ}る。出前{でめへ}でも沢山{たんと}焼{やく}そふだ。どふも素焼{しらやき}の
匂{にほ}ひがきらひだ。これには山谷{さんや}がいゝの。」【長】「アヽねへ裏{うら}

(17オ)
でも広{ひろ}くつて二階{にかい}でないから烟{けふ}が来{こ}ないでよいヨ。」
【丹】「ドレちつと障子{しやうじ}をあけよふ。」ト。表{おもて}のしやうじをから
りと開{あけ}。何{なに}心なく手{て}すりへ手をかけ見{み}おろす徃
来{わうらい}。米{よね}八が梅次{うめじ}と二人でお客{きやく}をさきだて来{き}かゝり二|
階{かい}を目ばやく見つけ【よね】「ヲヤ丹{たん}さんまた宅{うち}へおかへり
でないか。今{いま}に梅次{うめじ}さんと一所{いつしよ}にかへるから。ちつと待{まつ}て
お出{いて}ヨ。」ト。いひながら完爾{につこり}笑{わら}ひ。酒乱{なまゑひ}の客{きやく}のともして
多寡橋{たくわばし}の。方{かた}へ過行{すぎゆく}後{うしろ}かげ。丹{たん}はびつくりお長は

(17ウ)
かけ出{だ}し【長】「ヲヤ米八さ゜んじやアありませんか。」【丹】「ナニ〳〵
米{よね}八ではねへ。」ト。口にはいへど心にギツクリ。今{いま}米八が
其近辺{そこら}から。かへり来{きた}らば大|変{へん}と。思{おも}へば何{なに}かそは〳〵
して「サアもふよかア皈{かへ}らふの。」【長】「アヽかへるがネ。今{いま}のは
どふも米{よね}八さ゜んらしいヨ。かくさずといゝじやアありま
せんか。」ト。いつたばかりでさしうつむき。涙{なみだ}の露{つゆ}はひざの
うへ。袖{そで}をくわへて身{み}をふるわし。いはぬはいふに増
穂{ますほ}の薄{すゝき}みだれし鬚{びん}のほつれかみ。かほにそよぐも

(18オ)
かわゆらし。【丹】「ヲヤこの子{こ}はなぜ泣{なく}のだ。」【長】「イヽヱ泣{なき}は
しませんヨ。」【丹】「それでもどふもおかしいよふだ。サア㒵{かほ}を
ふきな。」ト手拭{てぬぐひ}をやればお長{てう}は目{め}をぬぐひ。男{おとこ}の㒵{かほ}を
恨{うらめ}しげに。見れどさすがに娘気{むすめぎ}の。まだ添{そひ}ぶしも
せぬ中{なか}で。おさな馴染{なじみ}のいひなづけ。はしたなひこと
いふたなら。愛相{あいそ}づかしも出来{でき}よふかと。思{おも}ひなや
むもわりなけれ。【丹】「サアまたあんまりおそくなツたら
わるからふ。」【長】「ナニそれはよいけれど。お邪广{じやま}なら早{はや}く

(18ウ)
かへりませうヨ。」ト。つんとする。【丹】「ヲヤ此{この}子{こ}は久{ひさ}しぶり
で逢{あつ}たのに。そんなにすねるもんぢやアねへヨ。」【長】「ハイ〳〵
もふすねはしません。何{なん}でも翌{あした}は兄{あに}さんヱ。たづねて参{まゐり}
ますヨ。」【丹】「ムヽ来{く}るなら昼過{ひるすぎ}がいゝ。昼前{ひるまへ}は留守{るす}だか
ら。」トいふは翌{あした}は十五日{しうごにち}。米八{よねはち}が妙見{みやうけん}さまへ朝参{あさまゐ}りに来{きた}
るをおそれてなり。今{いま}丹{たん}次郎が病気{びやうき}も直{なを}り。身{み}の廻{まは}り
其{その}外{ほか}不自由{ふじゆう}ならざるは。みな米八{よねはち}が仕送{しをく}りなれば。
心配{しんぱい}するも理{〔こと〕は}りなり。【丹】「勘定{かんぜう}して呉{くん}なヨ。」ト。手{て}をたゝく。

(19オ)
外{ほか}に客{きやく}もなく小軒{ちいさ}な宅{うち}ゆゑ。下{した}へ直{ぢき}に聞{きこ}え。下女{げぢよ}が来{きた}
れば代{だい}をはらひ。二階{にかい}をおりるその時{とき}しも。客{きやく}を送{おく}
つていそがしげに。このうなぎやへ入来{いりく}る米{よね}八。客{きやく}の坐
敷{ざしき}へ出{で}ていては。百味{さかな}も物{もの}のかづとせぬ。そのぜんせいより
自腹{じばら}の我{わが}まゝ。のろけたいのが歌妓{げいしや}の楽屋{がくや}。【よね】「ナニ
丹{たん}さんが居{ゐ}ざア。二人{ふたり}でゆるりとやらアな。梅{うめ}の字{じ}サア
あがんなナ。」【うめ】「さきへ行{いき}な。」【よね】「ナニ小用{ちようづ}か。おいらもい
こふや。」○下{を}りかゝりたる丹{たん}次郎。続{つゞい}ておりるお長{てう}がこゝろ。

(19ウ)
そも米八{よねはち}と落合{おちあつ}て。いかなるわけとなるやらん。作者{さくしや}
もいまだ承知{しやうち}せず。嗟{あゝ}かゝる時{とき}は好男子{いろおとこ}も。また人
知{ひとし}らぬ難渋{なんじう}あり。必竟{ひつきやう}この後{のち}何{なに}とかせん。看官{みるひと}よろ
しき段取{しゆかう}あらば。はやく作者{さくしや}に告{つげ}給はんことをねがふ
而已{のみ}。
ぽち〳〵とひろゐよみする梅{うめ}ごよみ
花{はな}の香{か}かほれごひゐきの風{かぜ}
清元延津賀
春色{しゆんしょく}梅{うめ}ごよみ巻の三了


----------------------------------------------------------------------------------
底本:国立国語研究所蔵本(W99/Ta81、1001142270)
翻字担当者:梁誠允、洪晟準、成田みずき、銭谷真人
更新履歴:
2017年4月5日公開

ページのトップへ戻る