Kouhen chū

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小三金五郎仮名文章娘節用　後編中

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凡例
1.本文の行移りは原本にしたがった。
2.頁移りは、その丁の表および裏の冒頭において、丁数・表裏を括弧書きで示した。また、挿絵の丁には＄を付した。
3.仮名は現行の平仮名・片仮名を用いた。
4.仮名のうち、平仮名・片仮名の区別の困難なものは、現行の平仮名に統一した。ただし、形容詞・副詞・感動詞・終助詞・促音・撥音・長音・引用のト等に用いられる片仮名については、原表記で示した場合がある。　〔例〕安イ、モシ、「ハイそれは」ト、意気だヨ、面白くツて、死ンで、それじやア
5.漢字は現行の字体によることを原則としたが、次のものについては原表記に近似の字体を用い、区別した。「云／言」「开／其」「㒵／貌」「匕／匙」「吊／弔」「咡／囁」「哥／歌」「壳／殻」「帒／袋」「无／無」「楳／梅」「皈／帰」「艸／草」「計／斗」「弐／二」「餘／余」
6.繰り返し符号は次のように統一した。ただし、漢字1文字の繰り返しは原本の表記にしたがい、「〻」と「々」を区別して示した。
　平仮名1文字の繰り返し　〔例〕またゝく、たゞ
　片仮名1文字の繰り返し　〔例〕アヽ
　複数文字の繰り返し　〔例〕つら〳〵、ひと〴〵
7.「さ」「つ」「ツ」に付く半濁点符は「さ゜」「つ゜」「ツ゜」として示した。
8.Unicodeで表現できない文字は〓を用いた。
9.句点は原本の位置に付すことを原則としたが、文末に補った場合がある。
10.合字は〔　〕で囲んで示した。　〔例〕殊｛〔こと〕｝に、なに〔ごと〕、かねて〔より〕
11.傍記・振り仮名は｛　｝で囲んで示した。　〔例〕人生｛じんせい｝
12.左側の傍記・振り仮名の場合は、冒頭に＃を付けた。　〔例〕めへにち｛＃毎日｝
13.傍記・振り仮名が付く位置の紛らわしい場合、文字列の始まりに｜を付けた。　〔例〕十六｜歳｛さい｝
14.原本に会話を示す鉤括弧が付いていない場合も、これを補い示した。また庵点は〽で示した。
15.原本にある話者名は【　】で示した。　〔例〕【はる】
16.割注・角書および長音符「引」「合」は［　］で囲んで示した。
17.不明字は■で示した。
18.原本の表記に関する注記は＊で行末に記入した。　〔例〕〓｛たど｝りて＊〓は「漂＋りっとう」
19.花押は〈花押〉、印は〈印〉として示した。
20.画中文字の開始位置に〈画中〉、広告の開始位置に〈広告〉と記入した。

本文の修正
1.翻字本文を修正した場合には、修正履歴を末尾に示す。
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（１オ）
仮名文章｛かなまじり｝娘節用｛むすめせつよう｝後編｛かうへん｝中之巻
江戸　曲山人補綴
第五回
小三｛こさん｝は粂川｛くめがは｝より口｛くち｝がかゝりしゆゑ。鏡台｛きやうだい｝取｛とり｝出し身｛み｝
じまひの。紅粉｛べに｝おしろいもふかくはせず。ちよつと化粧｛けはひ｝で
櫛｛くし｝笄｛かうがい｝前｛まへ｝ざし一本｛いつほん｝うしろへは。銀｛ぎん｝の細｛ほそ｝うちばかりさして。
いきなつくりのいやみなし。金五郎｛きんごろう｝は手枕｛てまくら｝して。こたつに
あたりねいりし様子｛やうす｝に。小｛こ｝さんは戸棚｛とだな｝よりかいまき出｛いだ｝し

（１ウ）
そつとかけて枕｛まくら｝をあてがひ。そこらかたづけ金五郎｛きんごろう｝の羽折｛はをり｝を
たゝんで戸棚｛とだな｝へしまひ。火鉢｛ひばち｝のそばへすわり。たばこを一｛いつ｝ぷく
のみ。そばにある浄｛じやう｝るり本｛ぼん｝を手｛て｝にとりあげ。よみながら乳
母｛うば｝とはなし【小三】「コウばアやよ。こんな〔こと〕をいつたらまた。つま
らぬ事｛〔こと〕｝とわらふだらうがの。水｛みづ｝のながれと人｛ひと｝の行｛ゆく｝すゑ
ほど。定｛さだ｝めないものはないよ。此｛この｝浄｛じやう｝るり本｛ぼん｝の三勝｛さんかつ｝を見｛み｝るやうな
わたしの身｛み｝のうへ。よく似｛に｝てゐるがもしひよつと浮世｛うきよ｝の
義理｛ぎり｝にからめられ。どんなわかれにならふもしれず。

（２オ）
マアさうなつたらどうしやうと。外｛ほか｝に苦労｛くろう｝はないけれど。
そればつかりが案｛あん｝じられて。人｛ひと｝の知｛し｝らぬ胸｛むね｝をいためる
よ。」ト［身の行｛ゆく｝すゑをくりかへしほろりとおとす一トしづく。うばはそばから打｛うち｝けして］【うば】「アレまたしても〳〵。
そんな益｛やく｝にもたゝぬ事｛〔こと〕｝を。おつしやるものではござりません。
その三勝｛さんかつ｝の身｛み｝のうへは。それはほんの戯作｛つくり｝もの。今｛いま｝どき縁
切｛ゑんきり｝だのなんのかのと。芝居｛しばゐ｝かしやれ本｛ほん｝ではあるまいし。
どふしてそんな〔こと〕がありますものか。たわいもない事｛〔こと〕｝
ばつかり。」ト［いひまぎらせど共なみだ。小さんもむねをなでおろし］「ほんにさういへばそんな物｛もの｝

（２ウ）
作物｛つくり｝とはしりつゝも。身｛み｝につまされて繰言｛くり〔こと〕｝いふも。やつぱり
女｛をんな｝のあさはかゆゑ。金坊｛きんぼう｝といふ子｛こ｝まであるものを。御本妻｛ごほんさい｝
にはなられずとも。末｛すへ｝のすゑまで添｛そひ｝とげやうと思｛おも｝はないで
なんとせう。もしもの事｛〔こと〕｝があつたらば。夫｛それ｝は又｛また｝その時｛とき｝の〔こと〕
もう〳〵案｛あん｝しまい〳〵。」ト［はなしなかばへ粂川｛くめがは｝よりむかひの人がきたるにぞ］【小三】「そんなら
ばアやア。行｛いつ｝て来｛く｝るから気｛き｝をつけておくれよ。」ト［出かゝりしが］「ほんにアノ
坊｛ぼう｝が。帰｛かへ｝つてわたしが居｛ゐ｝なかつたら。又｛また｝おとつさんをいびるだら
うから。アノはいちやうにうづら焼｛やき｝があるから。あれをやつてだま

（３オ）
しておくれ。わたしが又｛また｝かへりに。なんぞお土産｛みや｝を買｛かつ｝て来｛く｝るから。
そして若旦那｛わかだんな｝がお目｛め｝がさめたら。大｛おほ｝かたお茶漬｛ちやづけ｝を上｛あが｝らう
から。鍋焼｛なべやき｝でも取｛とつ｝てあげておくれ。」ト［万事｛ばんじ｝に気｛き｝くばりぬけ目｛め｝なき女房かたぎぞあらはれける］斯｛かく｝
まで夫｛おつと｝やわが子｛こ｝をば。大事｛だいじ｝にかける心｛こゝろ｝から。座｛ざ｝しきへ出｛で｝てもとに
かくに。内｛うち｝の事｛〔こと〕｝のみ案｛あん｝じらるれど。勤｛つとめ｝といふ字｛じ｝は是非｛ぜひ｝なくも。
いやな客｛きやく｝にも機｛き｝げんとる。心｛こゝろ｝の中｛うち｝ぞつらからめ。かくて
小｛こ｝さん金五郎｛きんころう｝は。たゞ金｛きん｝の助｛すけ｝の愛｛あい｝におぼれ。他事｛たじ｝なく暮｛くら｝
すその年｛とし｝も。くれて又｛また｝来｛く｝る春｛はる｝がすみ。たなびく空｛そら｝も

（３ウ）
うらゝかな弥生｛やよひ｝なかばの事｛〔こと〕｝なるが。金五郎は仲間｛なかま｝の者｛もの｝に
さそはれて。向｛むか｝ふが岡｛おか｝の花見｛はなみ｝もどりのほろ酔｛ゑひ｝に。みな〳〵
舟｛ふね｝にうちのりて。青柳橋｛あをやぎばし｝まで来｛きた｝りしが。こゝより上｛あが｝りて
金五郎｛きんごろう｝は。人〻｛ひと〳〵｝にわかれて可助｛べくすけ｝といふ。供｛とも｝の男｛おとこ｝を引｛ひき｝つれて。
粂川｛くめがは｝の前｛まへ｝へ来｛きた｝れば。乳母｛うば｝は金之助｛きんのすけ｝をいだきつゝ。かくと
見｛み｝るより遠｛とを｝くから【うば】「ヲヤ〳〵おぼうさん。アレおとつさんが
入｛い｝らつしやいましたよ。」【金五郎】「ヲヽ坊｛ぼう｝か。ばゞアにだつこして
いゝのふ。おつかアは内｛うち｝にかへ。」【うば】「ハイお宿｛やど｝でござります。

（４オ）
サアおぼうさん。おとつさんにおじぎはへ。ヘイ御機｛ごき｝げんよふ
と。ヲホヽヽヽ。イヱ〳〵おとつさんにだつこはなりません。もう
まつくになりますから。お寝｛ね｝んねがよふござります。」
【金五郎】「金ぼうやおとつさんはおつかさんのとこへ行｛いつ｝てお乳｛ちゝ｝
をのむよ。あば〳〵だよ。」ト［いふに金の介はかほを見て］「おとつち゜やん。いや〳〵＊「ちやん」に右傍線
おつかち゜やんのちゝいや〳〵。」【うば】「ヲヽさやう〳〵。おつかさんのお乳｛ちゝ｝＊「ちやん」に右傍線
はお坊｛ぼう｝さんの。おとつさんのではござりませんねへ。おとつさんは
御｛ご｝ぎげんゆゑおじらしなすつていけません。」【金五郎】「ハヽヽヽヽ坊｛ぼう｝やの

（４ウ）
ばかや〳〵。」ト［からかひながら内へゆき見れは小さんは］今｛いま｝座敷｛ざしき｝よりかへりしまゝ。
三味線筥｛さみせんばこ｝によりかゝり。物思｛ものおも｝はしげなる顔｛かほ｝つきに［金五郎はそばへよりて］
「小｛こ｝さんどうぞしたのか。おつな顔｛かほ｝をしてゐるのふ。」ト［いはれてにつこりわらひながら］
【小三】「いゝへどうもいたしませんが。今｛いま｝座｛ざ｝しきからかへりましたのサ。
そしてあなたは。どこのお皈｛かへ｝りでござりますへ。」【金】「ナニおれか。拙者｛せつしや｝
めは今日｛こんにち｝仲間｛なかま｝の者｛もの｝の付｛つき｝あひにて。よんどころなく向｛むか｝ふ島｛じま｝へ。
御遊覧｛ごゆふらん｝と出かけて鯛七｛だいしち｝へおしかけた処｛ところ｝が。女子｛をなご｝どもが大勢｛たいぜい｝
出｛で｝て。ソレお手｛て｝をとれ足｛あし｝を取｛とれ｝と。めつたむせうにそやし

（５オ）
たて。それからなんでも大｛おほ｝ざかもり。さいつおさへつ唄｛うた｝へや
弾｛ひけ｝や。」【うた】「ぢれて迷｛まよ｝ふて。まよふてぢれて。くぜつも千話｛ちわ｝も屏風｛びやうぶ｝
の外｛そと｝へはふり出｛だ｝したる一ツ夜着｛ひとつよぎ｝。」【はやし】「さつさおせ〳〵堀｛ほり｝まで
つけろ。あとは野｛の｝となれ山｛やま｝となれ。床｛とこ｝とつたらねてかへれ。
雨｛あめ｝ふつたら居｛ゐ｝つゞけだ。」なとゝうたふからたまらぬて。【小三】「道理｛だうり｝
だぞマアきつい御機｛ごき｝げん。それはさうと。あなたは京｛みやこ｝を御
立｛おたち｝の時｛とき｝。おとつさんのおつしやつた事｛〔こと〕｝を。覚｛おぼ｝へて御出｛おいで｝あそ
ばしますかへ。」【金】「これは又｛また｝あらたまつたおたづね。親父｛おやぢ｝の

（５ウ）
おしへを守｛まも｝ればこそ。外｛ほか｝の女｛をんな｝に目｛め｝もふらず。たつた一人｛ひとり｝を
守｛まも｝つてゐるから。何｛なに｝もはやお案｛あん｝じなさる〔こと〕はござなく候サ。」
【小三】「ヲホヽヽヽヽ。そのおぼしめしならうれしいけれど。今｛いま｝では日｛ひ｝
かげのこの身｛み｝ゆゑ。おぢいさんや皆｛みな｝さんが。このやうな〔こと〕
とは御存｛ごぞん｝じなく。只｛たゞ｝あなたがわがまゝで。放蕩｛ほうとう｝をあそ
ばす事｛〔こと〕｝と。おぼし免｛め｝すでござりませうから。お宿｛やど｝のお首
尾｛しゆび｝がお大事｛だいじ｝ゆゑ。あんまり御酒｛ごしゆ｝をあがりますと。あなたの
お為｛ため｝になりますまいかと。それが苦労｛くろう｝でなりません。」ト

（６オ）
［思ひにあまるしんみのいけん］心ににくしとおもはねど。一盃｛いつぱい｝きげんの金五郎「アヽ百｛ひやく｝も
承知｛しようち｝二百｛にひやく｝もがつてん。お為｛ため｝こかしのその異見｛いけん｝聞｛きゝ｝たくもねへ耳｛みゝ｝が
けがれる。酒｛さけ｝をあんまりあかりますと。あなたのお為｛ため｝になり
ますまいツ。ヘン酒｛さけ｝を呑｛のま｝ふがのむめへが。おれが口｛くち｝だから勝手｛かつて｝だによ。
大｛おほ｝きにお世話｛せわ｝お茶｛ちや｝でもあがれツ。そんな利｛り｝くつらしい異見｛いけん｝をいふ
のは。大｛おほ｝かた外｛ほか｝におつりきな。おもしれへはなしでも有｛ある｝からだらう。」
【金】「ナニ久｛ひさ｝しいなじみがあると。
それだからなんのかのといつて。はやく帰｛かへ｝さうと思｛おも｝ふのだな。よし〳〵

＄（６ウ）

＄（７オ）

（７ウ）
そんなに邪广｛ぢやま｝になるなら帰｛けへ｝つてやらうとめるな。」ト［ぢれるかんしやくはいふき
へきせるとん〳〵八つあたり小三はいつもの事とおもへはわざとそしらぬかほをして］「お腹｛はら｝が立｛たつ｝ならどうでもなさい。
たま〳〵はおはやくおかへりなさるも。御孝行｛おかう〳〵｝でござりませう。ヲヤ
なんだか風｛かぜ｝が変｛かは｝つたやうだ。アヽ雨｛あめ｝がふらねばよいが。」ト。さからはぬゆへ
金五郎｛きんごろう｝は［きせるをしまひたちあがり］【金】「ナニ御孝行｛おかう〳〵｝でござりませう。お香〻｛かう〳〵｝でお
茶｛ちや｝づけがきいてあきれらア。雨｛あめ｝が降｛ふろ｝ふが降｛ふる｝めへが。皈｛けへ｝るに四｛し｝も
五｛ご｝も入るものか。」ト［むりなくぜつも酒のわざ］我儘｛わがまゝ｝気｛き｝まゝをいひちらし。ぢれ
つゝ内｛うち｝へかへりけり。乳母｛うば｝はこの時｛とき｝金之助｛きんのすけ｝を連｛つれ｝て帰｛かへ｝りかゝれど

（８オ）
金五郎｛きんごろう｝が不機｛ふき｝げんゆゑに。次｛つぎ｝の間｛ま｝にてあそばせて居｛ゐ｝たり
しが。やう〳〵こなたへ出来｛いできた｝り【うば】「御新造｛ごしんぞ｝さまへ。今日｛けふ｝は
おとつさまの御機｛ごき｝げんが。おわるふございましたねへ。何｛なん｝の
お腹｛はら｝だちであのやうに。お発｛おこ｝りなすつたのでござい
ますへ。」ト［いへば小さんはわらひながら］「ナニサいつでもあゝだはな。御酒｛ごしゆ｝を
あがるとなんだの彼｛か｝だのと。わたしに無理｛むり｝ばつかりおつ
しやるのサ。たまにははやくお帰｛かへ｝し申さないと。あなたも
いろ〳〵訳｛わけ｝あるお身｛み｝ゆゑ。おやどの御｜首尾｛しゆび｝が大事｛だいじ｝だから

（８ウ）
さ。お内｛うち｝では心｛こゝろ｝づかひもなさるだらうし。わたしにはわが
まゝの。いひどころだとお思｛おも｝ひなすつて。いつでも〳〵
あの通｛とほ｝り。それに此｛この｝ころでは日｛ひ｝にまして。だん〳〵御
酒｛ごしゆ｝が上｛あが｝るから。まことに苦労｛くろう｝でならなひよ。わたしは
何｛なん｝といはれても。つねから御気性｛ごきしやう｝を知｛し｝つてゐるゆゑ。
御酒｛ごしゆ｝をあがつて御｛ご｝きげんの時｛とき｝は。その気｛き｝でゐるからよい
けれど。やつぱりおゆきさんにもあの通｛とほ｝りに。無理｛むり｝ばつ
かりおつしやるかと。影｛かげ｝ながらそれが案｛あん｝じられるよ。

（９オ）
わたしも女｛おんな｝の情｛しやう｝だもの。いとしとおもふお方｛かた｝をば。つれなく
いひておかへし申すも。浮世｛うきよ｝の義理｛ぎり｝や二ツ｛ふたつ｝には。お身の
ためをおもふゆゑ。心｛こゝろ｝にもない事などを。いひ出すまで
の胸｛むね｝のせつなさ。すいりやうして。」ト［なみだぐむ。うばもさこそと目｛めを｝しばたゝき］
【うは】「御尤｛ごもつとも｝でござります。譬｛たとへ｝にもいふ通｛とほ｝り。一ツ｛ひとつ｝かなへば
又｛また｝二ツ｛ふたつ｝と。何｛なに｝をいふてもまかせぬうき世｛よ｝。十分｛じふぶん｝な事は
ござりませぬもの。いろ〳〵御苦労｛ごくろう｝あそばすも。因念｛ゐんねん｝と
やらでござりませう。」ト［しめりがちなるはなしなかばへくめ川のりやうりばん表より］「ヲイお竹殿｛たけどん｝

（９ウ）
ちよつと爰｛こゝ｝をあけてくんな。」【下女】「アイ〳〵佐介｛さすけ｝どんかへ。」ト
［しやうじあければ佐介｛さすけ｝はひろぶたへいろ〳〵酒のさかなをのせもちこみて］「モシ旦那｛だんな｝はどうなさいました。」
【小三】「ヲヤ佐介｛さすけ｝どん旦那｛だんな｝はもうおかへりだよ。」【佐介】「ホイそいつはおほ
しくじり。けふはなぜはやくおかへんなすつたネ。さつき
お出なすつたのを見とゞけたから。せつかく。くめん十｛じう｝
めんして。旦那｛だんな｝のお好｛すき｝な一ト口｛ひとくち｝ものを。仕｛し｝こんでもつて
めへつたのに。」【小三】「ヲヤさうかへ。それはマアよくいそがしい
のに。気｛き｝をつけておくれだ。うれしいネ。」【佐】「なんにしても

（１０オ）
旦那｛だんな｝が。お出なさらねへぢやアはじまらねへ。そんなら
この鉢｛はち｝のものや何｛なに｝かは。旦那｛だんな｝へのこゝろざしだから。置｛おい｝て
めへりませう。」ト［さかなを置｛おい｝ていでゝゆく］さても金五郎｛きんごろう｝は。酒｛さけ｝がいわ
する疳癪｛かんしやく｝の。腹立｛はらたち｝まぎれとがもなき。小さんにつらく
あたりちらしてかへりしが。根｛ね｝もなきくぜつの事なれば。
又｛また｝あはねば気｛き｝になるゆゑ。四五日｛しごにち｝たちて昼｛ひる｝すぐるころ。
小三のもとへいたりしに。小三は留守｛るす｝にて乳母｛うば｝ばかり。［針仕事｛はりし〔ごと〕｝をして
ゐたりしが］「ヲヤ若旦那｛わかだんな｝さま。此｛この｝ごろはま〔こと〕に〳〵お遠｛とを｝〳〵

（１０ウ）
しうござります。」【金五郎】「さうサ。此｛この｝間｛あいだ｝はちつと用｛よう｝が多｛おほ｝くつて。
さつぱり出られねへやつよ。」【うば】「アノあなたがいつそこの
あいだ。お腹｛はら｝をお立｛たち｝あそばして。おかへりなすつたから
御新造｛ごしんぞ｝さまが。まことにお案｛あん｝じなすつてお出なさり
ます。」【金】「ハヽヽヽヽさうだつたかの。おれはさつぱりしら
なんだ。アノ今日｛けふ｝はどこぞへ行｛いつ｝たか。」【うば】「ハイ今日｛こんにち｝は鮫
清｛さめせい｝に。なんとやらの会｛くはゐ｝がござりまして。」【金】「フウ坊｛ぼう｝は
どうした。」【うば】「お坊｛ぼう｝さんは今お竹｛たけ｝がどこへかおつれ

（１１オ）
申てまゐりました。」【金】「さうか。おれはわすれはしねへか
のふ。」【うば】「ヲヤとんだ事をおつしやいましな。三日｛みつか｝や四日｛よつか｝お
出なさらぬとておわすれなさるものでございませう
か。今朝｛けさ｝などもいつそおとつちやん〳〵と。あなたの
事をおつしやいました。」【金】「ハヽア。子どもといふものは
どふもにくゝねへものだの。アノこの間｛あいだ｝来｛き｝たとき。ちつと
あたまへふきでがしたやうだつけが。そんなにふえも
しねへかへ。」【うば】「ハイお頭｛つむ｝のでござりますかへ。そのやうにふえも

（１１ウ）
なさりません。それはさうと若旦那｛わかだんな｝さまへ。こんな事は
申すまでもござりませんが。御新造｛ごしんぞ｝さまが明｛あけ｝ても
暮｛くれ｝ても。あなたの事のみお案｛あん｝じなすつて。それは〳〵
御苦労｛ごくろう｝のやすまる間｛ま｝とてはござりませんから。その
御心根｛おこゝろね｝をおもひやつて。あなたもどふぞあんまり
お気｛き｝を。おもませあそばさぬやうになすつてくだ
さりまし。」【金】「イヤモウおれとても。にくしとおもふ小
三ではなし。殊｛〔こと〕｝に子｛こ｝まで出来｛でき｝たのに。すこしはおれの

（１２オ）
手だすけと。いやな座｛ざ｝しきの勤｛つとめ｝をするのは。なみ大｛たい｝ていの
女｛をんな｝などはなか〳〵及｛およ｝ばぬ心｛こゝろ｝だてとおもへば。一日｛いちにち｝片時｛かたとき｝も
つとめをさせる気｛き｝はねへが。足｛たら｝はぬがちゆゑ是非｛ぜひ｝もなく。
苦労｛くろう｝をさせるが可愛｛かあい｝そうだ。」ト［ほろりとおとす男泣｛おとこなき｝うばも泪にくれにけり］折｛をり｝から
粂川｛くめがは｝のわかひもの清介｛せいすけ｝。料理｛りやうり｝ばん佐介｛さすけ｝［うちつれて入り来りて］「ヘイ旦那｛だんな｝
このあいだは。」【両人】「ヘイ
御｛ご｝めんなせへ。」ト［ふたりながらそばへきたり］【清】「もし旦那｛だんな｝此｛この｝間｛あいだ｝は。ねから入らつ
しやいませんね。きついお見かぎり。又｛また｝外｛ほか｝に何｛なに｝かおもしろい。

（１２ウ）
世界｛せかい｝でも出来｛でき｝ましたか。」【金】「とんだ事をいふ。おもしろい世界｛せかい｝
どころか。いつもまじめでさへねへやつよ。ちつとおもしろい
世界｛せかい｝へ。案内｛あんない｝してもらいてへのふ。」【清】「是｛これ｝はまためいわく
千万｛せんばん｝。ハヽヽヽヽ。」【佐】「旦那｛だんな｝この間｛あいだ｝ネ。あなたがお出なすつたのを
見とゞけまして。ちよつひり趣向｛しゆかう｝してめへりましたら。
もうあとのお祭｛まつ｝りで。大｛おほ｝きに鼻｛はな｝をあきましたのさ。」
【金】「ハヽアさうだつたか。そいつア残念｛ざんねん｝だつけの。しかし
その心意気｛こゝろいき｝がありがてへ。そんなら今からはじめ

（１３オ）
やう。」ト［是｛これ｝よりいろ〳〵肴｛さかな｝をとりよせ］大酒｛おほさか｝もりとなるまゝに。たがひにさいつ
おさへつして。いとにぎやしくなりにけり。［金五郎はとこの間｛ま｝のはしらによりかゝりて］
【金】「なんと清公｛せいこう｝や佐介公｛さすこう｝なんぞは。いつも〳〵いそがしいから。
女｛をんな｝の所｛ところ｝へ行｛ゆく｝ひまはあるめへのふ。」【清】「サア。そこがもしおつな
もので。是｛これ｝でもずいぶん女｛をんな｝ゆゑにやア。相応｛さうおふ｝に謀斗｛はかり〔こと〕｝も
いたしますのサ。まづ女｛をんな｝に逢｛あ｝はふといふ晩｛ばん｝にやア。内｛うち｝を
都合｛つがふ｝してはやくきりあげ。おたしなみの蔵衣裳｛くらいしやう｝を。
引｛ひき｝かけの親｛おや｝かたの目｛め｝をしのび足｛あし｝。こそ〳〵〳〵とぬけ

（１３ウ）
がけの。逸足｛いちあし｝出｛だ｝して阿多気｛あたけ｝へおしかけ。ろじ｜四ツ限｛よつぎり｝も
目｛め｝にかけず。たゝきおこして上｛あが｝りの天神｛てんじん｝。サアそれからが
口舌｛くぜつ｝のこんたん。おもしろ狸｛たぬき｝の腹｛はら｝つゞみ。」ト［のりぢではなすそのところへ］座敷｛ざしき｝
をしまひ帰｛かへ｝り来｛く｝る。小｛こ｝さんのあとより。箱｛はこ｝まはしの
仁介｛にすけ｝三味｛さみ｝せん箱｛ばこ｝を背負｛せおひ｝ちやうちんをかた手｛て｝に引｛ひつ｝
さげ供｛とも｝をして来｛く｝る。［小三は上｛うへ｝へあがりながら］「仁介｛にすけ｝どん大｛おほ｝きに御苦労｛ごくろう｝。
そんならまた明日｛あした｝来｛き｝ておくれ。」ト［おびにはさみし金｛かね｝を出｛いだ｝し紙にちよいとひねつて］「サア
是｛これ｝で一ツ｛ひとつ｝呑｛のん｝でお寝｛ね｝よ。」ト［わたせば箱｛はこ｝まはしはいたゞきて］【仁介】「ヘイこれは有｛あり｝がたふ

（１４オ）
ございます。さやうなら明日｛めうにち｝。ヘイおやすみなさいまし。」ト
［三味｛さみ｝せんばこをおき］かへり行｛ゆく｝。小三｛こさん｝は金五郎｛きんごろう｝のそばへすわり【小三】「ヲヤよく
お出｛いで｝なすつてくださいました。此｛この｝間｛あいだ｝はなぜさつぱり。おいで
なさいませんへ。」ト［かほを見｛み｝てうれしさうにわらふ］【金】「ヘンあんまりよくも来｛こ｝ねへ
のよ。来｛く｝るなといふから来｛こ｝ずに居｛ゐ｝れば。又｛また｝うらむのかあきれ
るのふ。四五日｛しごにち｝おれが来｛こ｝なかつたから。うるさくなくつてよかつ
たらう。あんまり邪广｛じやま｝にされるから。呼｛よび｝によこすまでふつ
つりとも。来｛こ｝めへとおもつてあきらめて居｛ゐ｝たが。逢｛あは｝ずに

（１４ウ）
行｛いん｝ではぢやアなくつて。逢｛あは｝ずにゐると気｛き｝になるから。顔｛かほ｝が
見｛み｝たさについうか〳〵。やつぱり迷｛まよ｝つて又｛また｝こゝへ。」【小三】「ヲヤばから
しいなんでありますへ。清｛せい｝どんや佐介｛さすけ｝どんが聞｛きい｝てゐる
のにそんな事｛〔こと〕｝を。」【金】「ハテ人｛ひと｝が聞｛きい｝ても大事｛だいじ｝ないての。コウ
小三｛こさん｝。こんな馬鹿｛ばか｝にやア誰｛だれ｝がしたらう。おれも生｛うま｝れつき
是｛これ｝ほどの。阿房｛あほう｝ではなかつたつけのふ佐介公｛さすこう｝。楊貴妃｛やうきひ｝や玉｛たま｝
もの前｛まへ｝のためしもあるから。さのみはづかしいとも思｛おも｝はねへの。」
【佐介】「こりやア旦那｛だんな｝のが御尤｛ごもつとも｝だ。惚｛ほれ｝てもりきむのはやぼのいたりサ。

（１５オ）
小三｛こさん｝さんはやつぱりおぼこ気｛き｝がぬけませんね。」【金】「なんの
おぼこどころか。ぼらが変｛へん｝して古狸｛ふるだぬき｝とはなりにけりだ。
アヽ化｛ばか｝される〳〵と。知｛し｝りつゝやつぱりばかされるは。おれが
一生｛いつしやう｝のあやまりだ。」【小三】「ヲヤよろしく申ておくんなさい。あなた
こそわたしをお化｛ばか｝しなすつたのでございます。」【金】「そりやア
またなぜだ。」【小三】「それでも唄｛うた｝にもうたふ通｛とほ｝り。心｛こゝろ｝がらとて
古郷｛こきやう｝をはなれ。しらぬ此｛この｝地｛ち｝で苦労｛くろう｝するとは。よくわたしの
身｛み｝の上｛うへ｝に。かなつた唄｛うた｝でございますよ。」【清介】「モシ。」ト［小こゑでうた］「苦労｛くろう｝

＄（１５ウ）

＄（１６オ）

（１６ウ）
するのもおまはんをたより。それに邪見｛じやけん｝な事｛〔こと〕｝ばかり。＊原本行末に閉括弧
モシ旦那｛だんな｝。小三｛こさん｝さんの心｛こゝろ｝はこのうたの文句｛もんく｝の通｛とほり｝てござりますよ。
ねへ小三さん。一｛ひと｝ツ心意気｛こゝろいき｝がうけ給はりてへもんでござり
ますネ。」【小三】「なんだねおかしくもない。娘｛むすめ｝子供｛こども｝ぢやアあるま
いし。心意気｛こゝろいき｝なんぞはいやだはね。」【佐介】「そんな事｛〔こと〕｝をおいひ
なさらずと。ちよつと一ツ｛ひとつ｝おやんなせへ。ソレどゞいつどい〳〵
なだべこ。ちやら〳〵。どんぶり鉢｛ばち｝アういた〳〵。」【金】「アヽやかましい
何｛なに｝をいふのだ。」【佐介】「ハアヽ。サア〳〵小三｛こさん｝さんサア一ツ｛ひとつ｝。」ト［いはれて小三はせんかたなく■の

（１７オ）
間にある三味｛さみ｝せん手にとり］【うた】「なまじなま中｛なか｝ほれたがうらみほれざ苦労｛くろう｝
もせまいもの。」【清】「ハ。妙｛めう｝だ〳〵〳〵〳〵。」【小三】「モウ是｛これ｝でかんにんしておくれ。」
【金】「コウおつなものでの。おれも実｛じつ｝は上｛かみ｝がたぜへろくだが。都｛みやこ｝と
いへば聞｛きこ｝えがいゝが。上｛かみ｝がたぜへろく上｛かみ｝がた猿｛ざる｝といはれては一句｛いつく｝も
ねへのす。」【佐介】「その上｛かみ｝がたにもおめへさんのやうな通人｛つうじん｝があり
やすから。東｛あづま｝ツ子｛こ｝は一句｛いつく｝も出｛で｝ません。全体｛ぜんてへ｝は旦那｛だんな｝がわりいのさ。
おめへさんがあんまり程｛ほど｝がいゝから。やぼなら斯｛かう｝したうき目｛め｝は
せまいと。小三｛こさん｝さんがこれ〳〵で。気｛き｝がもめるでごぜへませう。」ト

（１７ウ）
［ひたいにつのゝはへるまねする］【金】「そんなくぜつはむかしの事よ。コウそれよりやア
清公｛せいこう｝今｛いま｝の阿多気｛あたけ｝の物語｛ものがたり｝の二番目狂言｛にばんめきやうげん｝をはなさねへか。後学｛こうがく｝
のために聞てへのふ。」【清】「ナニもう跡｛あと｝ははなしますめへ。」【金五郎】「なぜ。」
【清】「小三さんにしかられます。」【小三】「清｛せい｝どん何｛なん｝だへおもしろいはなしかへ。」
【清】「なアにわつちが色｛いろ｝の恋｛こひ｝はなしさ。」ト［いふところへくめ川の小女］「清介｛せいすけ｝どん
佐｜介｛すけ｝とんお客｛きやく｝があるよア。」【佐介】「ヲイ〳〵そいつは斯｛かう｝してはゐられ
ねへ。」【金】「小三｛こさん｝そこにある紙入｛かみいれ｝を清公｛せいこう｝にやつてくんな。そして
此｛この｝一ツ提｛ひとつさげ｝は。佐介｛さすけ｝貴公｛きこう｝に譲｛ゆづ｝つてやらう。」ト［ふ■■に投てやる］【両人】「ヘイ是｛これ｝は＊「■■」は「たり」の欠損か

（１８オ）
有｛あり｝がたふござります。」ト［いたゞきながら］出｛いで｝て行｛ゆく｝。【金】「アヽ酔｛よつ｝た〳〵。けふは
どうしたかま〔こと〕に酔｛よつ｝た。」ト［そのまゝそこへうちふしてぜんごもしらぬ大いひき］【小三】「お竹｛たけ｝やもう
こゝをかたづけておくれよ。」【下女】「ハイ〳〵もうよろしうございますかへ。」
【小三】「アヽいゝのさ。乳母｛はあや｝や今夜｛こんや｝は若旦那｛わかだんな｝は。よつぽどあがつた
かへ。」【うば】「いゝへ。そんなにおすごしあそばしたやうすでも
ござりませんが。いつたい御酒｛ごしゆ｝がおよわいから。」【小三】「さうサぜん
たいあがりはなさらなんだが。ちかごろはよくあがるよ。」【うば】「さやう
でござります。若旦那｛わかだんな｝さまもお宿｛やど｝では。万事｛ばんじ｝おぼしめす

（１８ウ）
やうにもいかず。お心づかひもあそばしますから。ちつと
づゝ御酒｛ごしゆ｝をあがらずは。お気｛き｝のはれやうがござります
まい。ほんにお坊｛ぼう｝さんもよくおよつたから。若旦那｛わかだんな｝のお
床｛とこ｝をのべませうか。」【小三】「そんならその子をわたしが抱｛だい｝て
居｛ゐ｝やうから。お床｛とこ｝をとつて上ゲておくれ。」ト金之助｛きんのすけ｝を
いだきあぐるにぞ。乳母｛うば｝はこの内｛うち｝六畳｛ろくてう｝の座｛ざ｝しきへ床｛とこ｝
をとり夜着｛よぎ｝を出｛いだ｝して【うば】「モシ若旦那｛わかだんな｝さまへ。サアおより
まし。」ト［ゆりおこされて］【金】「ヲイ〳〵。アヽいゝ心もちだぞ。」ト［たちあがりて上着｛うはぎ｝をぬぎ］

（１９オ）
下着｛したぎ｝ばかりになりて［床｛とこ｝へ入り］【金】「サアおつかアも寝｛ね｝ねへか。坊主｛ぼうず｝は
おれがだいて寝｛ね｝よう。」【小三】「あなたが抱｛だい｝ておよつたら。それ
こそつぶしておしまひなさるだろう。」【金五郎】「いゝはな。つぶしても
おれの子｛こ｝だから。だれも何｛なん｝ともいひ人｛て｝はねへ。万一｛ひよつと｝お
れがつぶしたら。又｛また｝いゝのをこしらへるは。」ト［金の介の手｛て｝をとり引｛ひつ｝はる］
【小三】「すきな事｛〔こと〕｝をおつしやるよ。アレおよしなさい。そんな
に引｛ひつ｝はると目｛め｝をさまします。起｛おこ｝しちやアわるうござり
ます。」【金】「ナニ起｛おこ｝しやアしねへちよつと貸｛かし｝てくれ。」ト［むりに金の介をだきとりて］

（１９ウ）
「ヱヽよく寝｛ねる｝坊主｛ぼうず｝だぞ。コレちつと目｛め｝をさましてあすば
ねへか。こちよ〳〵〳〵〳〵。」ト［くすぐりそうにする］【小三】「アレおよしなさいといふ
のに。寝｛ね｝るさきへ立｛たつ｝て起｛おこ｝しちやアいけませんよ。」【金】「ハヽヽヽヽ
そんなら乳母｛ばゞあ｝の処｛ところ｝へ行｛いつ｝て寝｛ね｝ろ。今｛いま｝目｛め｝をさまして泣出｛なきだ｝
すと。おつかアの何｛なん｝のか邪广｛じやま｝になるさうだ。」ト［ねたまゝうばの手へわたせば］乳母｛うば｝
は金｛きん｝の介｛すけ｝をかき抱｛いだ｝きて。次｛つぎ｝の間｛ま｝へ入｛い｝りてうち臥｛ふ｝し
ける。
仮名文章娘節用後編中之巻終


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底本：国立国語研究所蔵本（W99/Ky4/2、1001952983）
翻字担当者：矢澤由紀、金美眞、島田遼、銭谷真人
付記：鶴見人情本読書会編「〈翻刻〉『仮名文章娘節用』前編（・後編・三編）」（「鶴見日本文学」2～4、1998～2000）を対校資料として利用した。
更新履歴：
2017年3月28日公開