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Okumi sōjirō shunshoku edomurasaki

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おくみ惣次郎春色江戸紫 初編下

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凡例
1.本文の行移りは原本にしたがった。
2.頁移りは、その丁の表および裏の冒頭において、丁数・表裏を括弧書きで示した。また、挿絵の丁には$を付した。
3.仮名は現行の平仮名・片仮名を用いた。
4.仮名のうち、平仮名・片仮名の区別の困難なものは、現行の平仮名に統一した。ただし、形容詞・副詞・感動詞・終助詞・促音・撥音・長音・引用のト等に用いられる片仮名については、原表記で示した場合がある。 〔例〕安イ、モシ、「ハイそれは」ト、意気だヨ、面白くツて、死ンで、それじやア
5.漢字は現行の字体によることを原則としたが、次のものについては原表記に近似の字体を用い、区別した。「云/言」「开/其」「㒵/貌」「匕/匙」「吊/弔」「咡/囁」「哥/歌」「壳/殻」「帒/袋」「无/無」「楳/梅」「皈/帰」「艸/草」「計/斗」「弐/二」「餘/余」
6.繰り返し符号は次のように統一した。ただし、漢字1文字の繰り返しは原本の表記にしたがい、「〻」と「々」を区別して示した。
 平仮名1文字の繰り返し 〔例〕またゝく、たゞ
 片仮名1文字の繰り返し 〔例〕アヽ
 複数文字の繰り返し 〔例〕つら〳〵、ひと〴〵
7.「さ」「つ」「ツ」に付く半濁点符は「さ゜」「つ゜」「ツ゜」として示した。
8.Unicodeで表現できない文字は〓を用いた。
9.句点は原本の位置に付すことを原則としたが、文末に補った場合がある。
10.合字は〔 〕で囲んで示した。 〔例〕殊{〔こと〕}に、なに〔ごと〕、かねて〔より〕
11.傍記・振り仮名は{ }で囲んで示した。 〔例〕人生{じんせい}
12.左側の傍記・振り仮名の場合は、冒頭に#を付けた。 〔例〕めへにち{#毎日}
13.傍記・振り仮名が付く位置の紛らわしい場合、文字列の始まりに|を付けた。 〔例〕十六|歳{さい}
14.原本に会話を示す鉤括弧が付いていない場合も、これを補い示した。また庵点は〽で示した。
15.原本にある話者名は【 】で示した。 〔例〕【はる】
16.割注・角書および長音符「引」「合」は[ ]で囲んで示した。
17.不明字は■で示した。
18.原本の表記に関する注記は*で行末に記入した。 〔例〕〓{たど}りて*〓は「漂+りっとう」
19.花押は〈花押〉、印は〈印〉として示した。
20.画中文字の開始位置に〈画中〉、広告の開始位置に〈広告〉と記入した。

本文の修正
1.翻字本文を修正した場合には、修正履歴を末尾に示す。
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(1オ)
[おくみ惣次郎]春色{しゆんしよく}江戸紫{えどむらさき}初編下之巻
江戸 朧月亭有人 補綴
第五回
〽跡に尾上は伊太八が顔つく〳〵と打ながめわしといふ
ものないならばかうした身にはならんすまい。おや
ご様の御勘気もみんなわたしがしわざそや。
あい初てより一日もからすのなかぬ日はあれど
お顔見ぬ日はないわいな。しげ〳〵あへばおやど

(1ウ)
のしゆびあしきは胸にしりながらすいたが
いんぐわつかのまもそばはなるゝが弥{いや}まして
朝のかへりもまだはやい。[下略]
【惣】「何様{どう}も花園{はなぞの}の上瑠璃{じやうるり}は何処{どこ}ともなく品{ひ}ンが能{いゝ}の。」【らく】「新
内{しんない}といふところがし過{すぎ}ていけませんけれども花園{はなその}の方{ほう}は誰{だれ}
が語{かた}ツても聞{きけ}ますヨ。」【惣】「ナニ花園にも限{かぎ}らず若太夫{わかたいふ}でも紫
朝{してう}でもあゝ語りやア大概{たいがい}な義太夫{ぎだいふ}よりやア余{よ}ツ程{ほど}品{ひん}が宜{いゝ}の
ヨ。夫{それ}はさうとお前{めへ}帰{かへ}らねへか。亦{また}|家内{うち}てやかましかろうぜ。」

(2オ)
【らく】「ナニ吾儕{わちき}の方{ほう}はやかましいと言{いつ}た処{ところ}が。しれたもんですけれ
ども御前様{おまはん}は今日{けふ}で丁度{てうど}五日{いつか}宅{うち}へ帰{かへ}らないから御|内室{かみ}
さんが嘸{さぞ}お案事{あんじ}被成{なはい}ませう。夫{それ}も左様{さう}なり。亦{また}案事て
見{み}りやア。今{いま}下地{したぢ}ツ子{こ}の浚{さら}ツた新内{しんない}の。伊太八{いだはち}ぢやアないが。
実正{ほんとう}に烏{からす}の鳴{な}かぬ日{ひ}はあれどトいふ様{やう}ですから。其様{そん}な事{こと}も
ありますまいが。万一{ひよつと}お前様{まはん}のみのうへに。間違{まちが}ひでも有{あ}ツた日{ひ}に
やア。何様{どう}致{し}ませうかと。今{いま}ツから夫{それ}が苦労{くろう}ですは。」ト[すこしなみだぐむ]。【惣】「自
己{おいら}のみの上{うへ}に間違{まちがひ}でもとは勘当{かんどう}の事{こと}か。自己{おいら}は其{その}勘当{かんどう}を

(2ウ)
待{ま}ツてるのだかお前{めへ}はまた。自己{おいら}が宅{うち}を出{で}ちやア厄介{やつかい}だ。と
でも思{おも}ふのか。」【ら】「串戯{じやうだん}を言{い}ツてお呉{く}ン被成{なはる}ナ。吾儕{わちき}の方{ほう}ぢやア
お前様{まはん}が勘当{かんどう}でもお請{うけ}なはりやア慈母{おつかあ}に咄{はな}しをしてご不
|自由{じゆう}でも吾儕{わちき}の宅{うち}に。ゐてお呉{く}ン被成{なは}りやア夫{それ}こそ遅{おそ}く
御|座敷{ざしき}から帰{かへ}ツてきても。楽{たの}しみて宜{よう}ございますから願{ねが}ツても
左様{さう}致{し}たい様{やう}ですが。若{もし}左様なつたらおくみさんが。嘸{さぞ}お心細{こゝろぼそ}
かろうと夫{それ}が。おいとしうご座{ざ}いますは。」トいはれて流石{さすが}惣次{そうじ}郎
飽{あき}もあかれもせぬ中{なか}を義理{ぎり}ゆへ。心{こゝろ}を鬼{おに}となし別{わか}るゝ事{こと}

(3オ)
のふ便{びん}やと。思{おも}はずこぼす一ト雫{ひとしづく}。【らく】「ヲヤお前様{まはんは}御泣{おなき}被成{なはる}
のかへ。夫{それ}御覧{ごらん}ナはい。口{くち}で斗{ばか}り立派{りつは}ナ事{こと}をお言{いひ}被成{なは}ツ
たつて。矢張{やつはり}泪{なみだ}をこぼしてお在{いで}被成{なはる}くせに尤{もつとも}夫{それ}はその
筈{はづ}ぢやア有ますけれども。」ト[少しふさぐおもいゝれ]【惣】「自己{おいら}の泪{なみだ}をこぼ
したのはおくみ。なんぞの事{こと}を彼是{かれこれ}おもふ子細{わけ}ぢやア
ねへが。あんまりお前{めへ}の心{こゝろ}ざしが優{やさしい}から思{おも}はず泪{なみだ}がこぼれ
たのヨ。」【らく】「甘口{うま}くお言{いひ}被成{なはい}ますヨ。其様{そん}ナ嬉{うれ}しがらせをお言|
被成{なはら}ずとも。お組様{くみはん}の事をお前様{まはん}が可愛想{かあいさう}と。お思ひ

(3ウ)
被成{なはる}のは。いはゞあたりまへと。いふもんです。」【惣】「あたりまへか。何{なん}
だかしらねへが自己{おいら}は。何{な}ンとも思{おも}やアしねへ。」【らく】「夫{それ}ぢやア
お前様{まはん}頼母敷{たのもしく}ないぢやア有{あり}ませんか。なぜと言ツて
御覧{ごらん}なはい。おくみはんは幼少{ちいさい}時分{じぶん}からの言号{いひなづけ}で。心立{こゝろだて}は
よし。美顔{うつくしい}といふし。第一{だいゝち}お前様に惚{ほ}れて〳〵惚{ほれ}きつてお在{いで}
被成のを。お前様を吾儕{わちき}にした所{ところ}が。憎{にく}い道理{どうり}はない
ぢやアありませんか。おくみは一生{いつせう}見すてるといふ子細{わけ}にや
アいかねへが。手前{てめえ}も見|捨{すて}やアしねへとお言{いゝ}のなら実正{ほんとう}

(4オ)
にも聞{きこ}えますが。お前様{まはん}のやうに被仰{おつしやつ}ちやア気{き}やすめと
外{ほ}ツきやア思{おも}はれませんやネ。」【惣】「そりやア人の心{こゝろ}は相縁奇縁{あいえんきえん}
ダ。幼少{ちいさい}時からの言号{いひなづけ}であろうが否{いや}ナものは否{いや}だハナ。お前{めへ}
も亦{また}夫{それ}程{ほど}信切{しんせつ}に思ひながら自己{をれ}が泪{なみだ}をこぼしタト言{い}
ツて兎{と}や角{かう}言{いふ}にやア及{およば}ねへぢやアねへか。」【らく】「夫は吾儕{わちき}が悪{わる}
うございましたが。そこが人情{にんじやう}でいくらあきらめてもツイ愚
痴{ぐち}が出{で}ていけません。何卒{どうぞ}勘忍{かんにん}してお呉{く}ン被成{なはい}。」【惣】「其様{そんな}に
あやまる子細{わけ}もないやナ。ダガお前{めへ}今{いま}可笑{をかし}な事{こと}を。言{い}ツた

$(4ウ)
惣次郎
おらく

$(5オ)
ほとゝきす
啼くや口舌の
中直り
按我

(5ウ)
ナ。」【らく】「何{なに}を。」【惣】「いくらあきらめてもといふナア何{なに}をあきらめ
たのだ。」【らく】「ナニサどうせ末始終{すへしじう}御前様{おまはん}の女房{にようぼ}になろうとも
思{おも}はず唯{たつた}壱度{いちど}でも。何卒{どうぞ}願{ねが}ひが叶{かな}ふ様{やう}にと朝晩{あさばん}信
心{しんじん}をした御利益{ごりやく}で。斯{か}う成{な}ツたのであり枡{ます}から。最早{もう}
妬{やきもち}なんぞは少{すこ}しも出{だ}すまいとあきらめて居{ゐ}ると。いふ事サ。」
【惣】「どうせ左様{さう}ヨ。自己{おいら}なんぞの女房{にようぼ}になツちやアあの人に済{すま}
ねへだろう。」【らく】「串戯{じやうだん}にも其様{そん}な事{こと}を言{い}ツちやア否{いや}ですヨ。
其{その}時{とき}からお前様{まはん}は初{は}じめてだらうとお言{いひ}ぢやアあり

(6オ)
ませんか。」【惣】「其{その}時{とき}やア未開紅{はじめて}。でも夫{それ}から何様{どう}だか。しれやア
しねへ。」【らく】「エヽ口惜{くやしい}。」と[惣次郎のひざをくひつて]。【惣】「アイタゝ何{なに}をしやアがるの
だ。」【らく】「夫{それ}だつても其様{そん}な事{こと}を。言{いは}れちやアくやしかろうぢや
アありませんか。」【惣】「夫{それ}でもお前{めへ}むやみに自己{■れ}を帰{かへ}したが
るぢやアねへか。」【らく】「ナニモ帰{かへ}したい子細{わけ}は。ありやアしませんけ
れども。なんだか此{この}頃{ごろ}は夢見{ゆめみ}もわろし。いツそお前様{まはん}の身
が案{あん}じられますから夫{それ}で疾{はや}くお帰{かへ}ン被成{なはい}と。申す事サ。」
【惣】「其様{そん}な事{こと}はどうでも宜{いひ}が。最早{もう}そちこち。子刻{こゝのつ}だろう。

(6ウ)
自己{おいら}の方{ほう}は兎{と}も角{かく}も。お前も夕阝{ゆふべ}から居{ゐ}つゞけだから何{なん}
ぼなんでもあんまり慈母{おつか}アを踏付{ふみつけ}に。する様{やう}でわるい
から。一ト口{ひとくち}呑直{のみなを}して飯{めし}でも調{しらべ}て帰{かへ}るとしやせう。」【らく】「アヽ
左様{さう}仕{し}ませう。併{しかし}お前様{まはん}も真直{まつすぐ}にお帰{かへ}ン被成{なはい}ヨ。」【惣】「あたり
めへヨ。何処{どこ}へ寄{よ}る処{とこ}があるものか。」【らく】「実正{ほんとう}に何処{どこ}へも
寄{よ}ツちやア否{いや}ですヨ。」【惣】「大丈夫{だいじやうぶ}だヨ。夫{それ}よりやア。疾{はや}く下{した}
の伯母{おば}さんに今{いま}の事{こと}を頼{たの}みねヘナ。」【らく】「アヽ何{なん}にしませう。」
「なんでも宜{いひ}から大概{てへげへ}にみつくろツて貰{もら}ひねへ。」【らく】「アヽ。」ト

(7オ)
言つゝ二階{にかい}の口{くち}より主人の女房{にようぼ}を手|招{まね}きなし。形{かた}の〔ごと〕く
たのみければ待間|程{ほど}なく誂{あつら}への酒肴{さけさかな}も来にければ。夫{それ}〔より〕
程{ほど}よく酒喰{しゆしよく}をとゝのへお楽{らく}は箱屋{はこや}を呼{よび}よせて自己{おの}が家
路{いへし}に。おもむきぬ。夫{それ}より惣次{そうじ}郎は。すご〳〵と我{わが}家{や}へ帰{かへ}るも
何{なに}とやら鴫居{しきゐ}が高くて。足{あし}の向{む}かねば夜伝堀{やでんぼり}なる左楽
か家{うち}を。音信{おとづれ}て。【惣】「モシまだお帰{かへ}りぢやアないか。」【左】「ヲヤ旦那{だんな}ぢやア
ありませんか今時分|何処{どこ}へ御出|被成{なせへ}やした。」【惣】「今{いま}帰{かへ}りがけヨ。」
【左】「マアお座{あがん}被成{なせへ}。」【惣】「夜講{やこう}は休{ぬい}たのか。」【左】「ナニ今{いま}帰{けへ}ツて着物を着替{きかへ}

(7ウ)
たばかりの所{ところ}です。」【惣】「また来やせう。」【左】「マア鳥渡{ちよつと}おあがん被成{なせへ}
まし。甚{はなは}だ失礼{しつれい}ぢやアござい枡{ます}が自己{わたくし}も丁度一ト口。遣うと
言{い}ふ所{ところ}で御|座{ざ}いますから。不味{まづい}ものも亦{また}お気が替{かは}ツて。宜{よう}
御|座{ざ}いやす。ヲヽ夫{それ}に大|事{じ}な用{よう}が。御|座{ぜ}へやした。先刻{せんこく}お宿{やど}
から御手|紙{がみ}が参{まゐ}ツてゐやす。」【惣】「ナニ宅{うち}から手|紙{かみ}が来た。ハテ
ナ。」ト少{すこ}し小|首{くび}を傾{かたむ}け。其{その}儘{まゝ}ずつと座敷{うへ}へ上り件{くだん}の文{ふみ}の上書{うはかき}読{よめ}ば
御兄上様 くみより

(8オ)
【惣】「左楽{さらく}さん。此{この}手紙{てがみ}は誰{たれ}が持{も}ツて来{き}ました。」【左】「私も留守{るす}で御座{ござ}
いましたが。」ト奥{おく}へ向{むか}ツて。「ヲイお菊{きく}やアノお手紙{てがみ}はどんな仁{かた}が
持{も}ツてお出|被成{なす}ツた。」【きく】「細面{ほそおもて}ナ女中衆{ぢよちうしゆ}が持{も}ツてお出{いで}被成{なさい}ました。」
【惣】「左様{さう}かへ。」【左】「御|免{めん}被下{ください}まし。只今{たゞいま}子供を寝{ね}かしつけて居{をり}
ますから御|挨拶{あいさつ}も致{いた}しません。」【惣】「ナニ何様{どう}いたして斯{かう}遅{おそ}く
押込{おしこ}んで御|厄界{やつかい}になるさへ。御気の毒{どく}だ。決{けつ}して御心遣ひ
御|無用{むよう}〳〵。夫{それ}でも小児{ちいさい}のに虫気{むしけ}もなくツてお僥倖{しあはせ}ダ。」ト言
つゝ行灯{あんどう}引{ひき}よせて件{くだん}の文{ふみ}を読{よみ}くだせば

(8ウ)
わざ〳〵文し奉候。此程四五日御帰らせなふ
もしや御気ぶんのすぐれやらずおはし候やと
朝夕御あんじもふし上候。扨御出先へかやう
な事もふし上候は心なきやうに存候えども
御身のうへの大事に御座候まゝ御しかりを
かへりみず御しらせ申上候。昨日京都より
重手代衆御くだりにて御ともし〔さま〕との御咄

(9オ)
しをよそながらうかゞひ候処御まゑ〔さま〕事
御身持あしきよし京都に聞えあちらにても
殊なふ御いきどうりにて当分御勘当との
御事誠に〳〵おとろき入何事も手につき不申。
早く此よし御しらせ申もふし上度存居候え共
御居所さへさだかならねば左楽さんの方迄
申上候。只先だつものは泪のみにて此方のかな
しさ御すいもし下され少しもはやく御帰り

(9ウ)
遊ばし候やうくれ〳〵ねんじ上{あげ}奉候。下略
ト半を読{よみ}て惣{そう}次郎其身は覚悟{かくご}の事ながら娘{むすめ}心の一ト
筋{すち}に。つれなき自己{われ}を。斯{かく}迄{まで}に慕{した}ふ心のふ便{びん}さよ。義理{ぎり}と
いふもの世{よ}になくばかゝる歎{なげき}はさせまじと千〻{ちゞ}に心を砕{くだく}成{なる}べし。
第六回
恁而{かくて}惣次郎は件{くだん}の文{ふみ}を懐中{くわいちう}なし此{この}家{や}を立出|寛{ゆる}〳〵と
鼻唄{はなうた}を唱{うた}ひながら自己{おのれ}が門{かど}へ来りければ夫{それ}と見るより
娘{むすめ}のおくみ庭口{にはぐち}をば。そつと明{あ}け【くみ】「モシ若旦那様{わかだんなさん}。」【惣】「ヲヽおくみか。

(10オ)
なぜ其様{そん}な所{とこ}にゐるのだ。」【くみ】「貴君{あなた}のお声{こゑ}がいたしましたから。
裏口{うらぐち}も何{なに}も皆{みん}ナ〆{しま}りかいたしてございますからマア爰{こゝ}から
御這入{おはいり}遊{あそ}ばせヨ。」【惣】「左様{さう}か。」ト平気{へいき}でゐる。【くみ】「先刻{さつき}左楽様{さらくさん}の
所{とこ}迄{まで}文{ふみ}をあげましたが届{とゞ}きましたか。」【惣】「届{とゞ}いた〳〵。ナンダ
勘当{かんどう}だと。」【くみ】「アレしづかに被成{なさい}ましヨ。直{じき}表{おもて}の二階{にかい}に京都{かみがた}の
仁{ひと}がゐますから。サア此方{こちら}へ御這入{おはいり}遊{あそば}せヨ。」ト言{いひ}つゝ自己{おのれ}は先{さき}に
立{たつ}て惣次郎が居間{ゐま}へ。伴{ともな}ひ着物{きもの}など着替{きかへ}させて【くみ】「モシ
若旦那{わかだんな}。」【惣】「なんだ。」【くみ】「アノヲ貴君{あなた}モウ何処{どこ}へも|被為入{いらつしやら}ずに御宅{おうち}に

(10ウ)
ばかり|被為入{いらしつ}て被下{ください}まし。」ト[紺{こん}びろうどのきせるづゝをむすんだりといたりしてゐる]【惣】「アヽモウ何処{どこ}
へも往{ゆ}きやアしないから案{あん}じなさんな。ダガおくみ。去年{きよねん}慈母{おつか}
ア様{さん}の死際{おなくなり}遊{あそば}す時{とき}被下{くだす}ツタ脇差{わきざし}は御前{おまへ}の方に仕舞{しまつ}て
あるの。」【くみ】「ハイアノ用箪笥{ようだんす}の上の引出{ひきだ}しに入{い}れて置{おき}ました。」【惣】「左様{そう}
かへ。夫{それ}ぢやア気{き}の毒{どく}ながら一寸{ちよつと}持{も}ツて来{き}てくんな。」【くみ】「ハイ持て参{まゐ}
る事はまゐりますが貴君{あなた}あんな長{なが}い御腰{おこし}の物{もの}を。何様{どう}遊{あそば}
すの。」【惣】「あれか。」ト[すこしくちごもりしが]「ナニありやア斯{かう}ヨ。名作物{めいさくもの}だといふ事
だから翌{あした}の朝{あさ}。本阿弥{ほんなみ}まで持して遣{や}るのヨ。」【くみ】「左様{そん}なら宜{よう}

(11オ)
ございますけれども何{なん}だか。いつそ御案{おあん}じ申ます。モシ若旦那
様{わかだんなさま}京都{かみがた}の手代{てだい}が何{なん}と申さうとも。亦{また}父上様{おとつさん}が。なんと被仰{おつしや}
らうとも何卒{どうぞ}虫{むし}を御{お}こらへ遊{あそ}ば■■お否{いや}でも。侘言{わびこと}を遊{あそば}し*「■■」は「し。」の部分欠損か
て。何所{どこ}へも|被為入{いらつしやら}ずにゐて被下{ください}ましヨウ。若旦那様{わかだんなさま}実正{ほんとう}に
御願{おねが}ひで。ござい枡{ます}。」といふも漸{やう}〳〵口{くち}のうち。惣次郎は。茫然{ぼうぜん}と
心{こゝろ}の中{うち}に。思{おも}へらく。今{いま}にはじめぬおくみが信実{しんじつ}。言約束{いひやくそく}も名{な}
のみにて終{つゐ}に優{やさし}き言葉{ことば}さへ掛{かけ}たる事{こと}なき自己{をのれ}をも。
夫{おつと}と思{おも}ひ斯{かく}までにしたふ心{こゝろ}のふ便{びん}やと思{おも}はず。こぼす|一ト

(11ウ)
雫{ひとしづく}。【くみ】「モシ若旦那様{わかだんなさま}何{なに}をお泣{なき}遊{あそ}ばします。なんぞ御苦労{ごくろう}
な事{こと}でもございますか。」【惣】「ナニも泣{なき}やアしないが今朝{けさ}から心
持{こゝろもち}がわるくツて漸{やゝ}ともすると泪{なみだ}が出{で}ていけない。」【くみ】「それは
いけませんネへ。なんなら吾儕{わたくし}が。少{すこ}し叩{たゝ}きませうか。」トさも
恥{はづ}かしさうにいふ。【惣】「左様{さう}かへ。夫{それ}ぢやア気{き}の毒{どく}だが少{すこ}し叩{たゝい}て
貰{もら}はふか。」トいつに替{かは}りし。惣次{そうじ}郎が優{やさし}きもてなしを。歎{なげ}きの
中{なか}の喜{よろこ}びとおくみは。いそ〳〵後方{うしろ}へ廻{まは}り【くみ】「此様{こんな}でも些{ちつと}は利{きゝ}
ますかへ。」【惣】「思{おも}ひの外{ほか}力量{ちから}があるノウ。アゝ宜{いひ}心持{こゝろもち}ダ。此様{こんな}に

(12オ)
上手なら毎日{まいにち}揉{も}んで貰{もら}へばよかつた。」【くみ】「是{これ}から毎日{まいにち}御
肩{おかた}をもみますから最早{もう}何所へも御出|遊{あそ}ばしますなヨ。」
【惣】「モウ〳〵何所{どこ}へも往{ゆ}く気遣{きづか}ひねへ。」【くみ】「貴君{あなた}がお宅{うち}に。|被為入{いらつしやら}
ないと善{ぜん}さんが種{いろ}ンナ事を言{い}ツて。モウ〳〵口惜{くやし}うござい枡{ます}は。」
【惣】「左様{さう}か何様{どんな}事をいふのだ。」【くみ】「ヤレ帯{おび}を遣{やろ}うのなんだの彼{か}だ
のと実正{ほんとう}に小蝿{うるさう}ござい枡{ます}は。」【惣】「帯{おび}を遣{やろ}うと言{いふ}ナア結構{けつこう}
ぢやアねへか。貰{もら}ツて置ば宜{いひ}のに。」【くみ】「夫{それ}斗{ばか}りぢやアございません。
モウ〳〵艶言{いやらしい}事{こと}ばかり言{い}ツて。聞{きい}てゐるのも口惜{くやしう}ござい枡{ます}は。」

$(12ウ)
生木
さく斧の
にくさよ
春の比
有人
惣次郎

$(13オ)
おくみ

(13ウ)
【惣】「善公{ぜんこう}は自己{おいら}と違{ちが}ツて。実{じつ}が有{あつ}て第一{だいゝち}。戸落{どうらく}でなくツて
亭主{ていしゆ}に持{も}ツちやア極{ごく}徳用{とくよう}ダセ。」【くみ】「否{いや}ナ事か。あんな奴{やつ}を亭
主{ていしゆ}に持{もつ}くらゐ。なら死{し}ンで仕舞{しまふ}方{ほう}が。いくらか増{まし}でござい
枡{ます}は。」【惣】「左様{さう}でねへぜ。あれでも亭主{ていしゆ}に持{もつ}てみると命{いのち}も
遣{や}る気{き}になるぜ。」【くみ】「串戯{じやうだん}にも其様{そん}ナ事を被仰{おつしやつ}ちやア。否{いや}
でござい枡{ます}ヨ。」【惣】「ヘイ〳〵是{これ}から申ますまい。夫は左様{さう}と嘸{さぞ}草
臥{くたびれ}たらう。モウ宜{いい}に仕{し}やう。其替わりお前{めへ}に遣{や}るものがある。」
【くみ】「ヲヤマア嬉{うれ}しうございますネヘ。」【惣】「其様{そんな}に嬉{うれ}しがる程{ほど}のもの

(14オ)
でもねへ。鳥渡{ちよつと}違棚{ちがひだな}にある文|庫{こ}を持{も}ツて来{き}て。くんな。」【くみ】「アイ。」
ト言{いひ}つゝ違棚{ちがいだな}の文|庫{こ}を持{も}ツて来{く}る。【惣】「サア是{これ}をお前{めへ}に進{あげ}やう。
此{この}中{なか}に種〻{いろ〳〵}なものがあるから翌日{あした}の朝{あさ}でも出して。御覧{おみ}。」【くみ】「ヲヤマア
うれしうござい枡{ます}ねへ。旦{あした}でなく今見ちやアわるうござい
ますか。」【惣】「マア〳〵旦{あした}のたのしみに見ねへヨ。」【くみ】「実正{ほんとう}にうれしうござい
ますねへ。此{この}間{あいだ}父上様{おとつさん}が京都{かみがた}へ紫{むらさき}の裾{すそ}もやうを染{そめ}に遣{や}つ
たと被仰{おつしやい}ましたが吾儕{わたくしや}ア夫{それ}より此{この}文庫{ぶんこ}を。いたゞいた方{ほう}が
いくらか。うれしうござい枡{ます}は。」【惣】「夫{それ}からネアノ奥二階{おくにかい}にある。

(14ウ)
用箪笥{ようたんす}もお前{まへ}に進{あげ}やう。あの中{なか}にやア種〻{いろ〳〵}自己{おいら}の大
|事{じ}なものや何かゞ|這入{はいつ}てゐるから翌日{あした}の朝{あさ}てもよく
お牧{まき}さんに断{ことは}ツて置ナ。翌日{あすがひ}。自己{おいら}が頓死{とんし}でもした跡{あと}ぢやア
お前{めへ}の自由{じゆう}にやアさせめへから。」【くみ】「ハイ左様{さう}申ますがなぜ貴君{あなた}
其様{そん}な忌{いまは}しい事{こと}を被仰{おつしやい}ます。大かた貴君{あなた}の思召{おぼしめし}ぢやア
其御|勘当{かんどう}を御請{おうけ}遊{あそ}ばすおぼしめしてございませうが貴
君{あなた}が御宅{おうち}に被為入ないぢやア他{ほか}に便{たよ}りのない吾儕{わたくし}何
卒{どうぞ}御短気{ごたんき}をお出し遊{あそ}ばさずにお宅{うち}に被在{いらしつ}て下さい

(15オ)
まし。ヨウモシ若旦那{わかだんな}。」ト両眼{りやうがん}に泪{なみだ}を浮{うか}めて惣次郎の顔{かほ}
をのぞき込{こ}む。【惣】「ナニ案{あん}じナさんな。モシ勘当{かんどう}をすると被仰{おつしや}
ツたら此{この}以後{いご}心を改{あらため}ると能{よく}御侘{おわび}を申て是{これ}から身を慎{つゝしん}
で。宅{うち}にばかり居{ゐ}るやうに仕{し}やうハナ。」トほんの其座の気休{きやす}め
としらねば。おくみは飛立{とびたつ}嬉{うれ}しさ。【くみ】「夫{そ}りやア実正{ほんとう}で。ござい
ますか。アゝ嬉{うれ}しい。」ト[むねをなでおろす]。【惣】「しかし今もいふ通{とを}り。露{つゆ}より
もろい人の命{いのち}。万一{ひよつと}翌{あす}が日{ひ}どんな事があらうもしれねへ
から。モシ自己{おいら}が死{しに}でも致{し}たら。善次{ぜんじ}郎を自己{おいら}だと思{おも}つて

(15ウ)
夫婦{ふうふ}になんねへ。」ト。いへど返回{こたへ}も泣{なく}ばかりさしうつむいて居{ゐ}た
りしを惣{そう}次郎は脊中{せなか}を撫{なで}【惣】「鶴亀{つるかめ}〳〵。モウ〳〵其様な延喜{えんぎ}
でもない事はいふめへ。疾{はや}くお前も部屋{へや}へ往{い}ツてお寝{ね}。」【くみ】「ハイなん
だか此{この}儘{まゝ}お別{わか}れ申すのが気{き}になります。」【惣】「なんのお前{めえ}遠{とを}く
へでも往{いき}やアしめへし宅{うち}の内{うち}へ往{ゆく}のだろうぢやアねへか。」【くみ】「それは
左様{さう}でございますけれども。」ト矢{や}ツ張{はり}もじ〳〵してゐる。【惣】「だん〳〵
夜{よ}が更{ふけ}るから疾{はや}く往{ゆき}ねへ。」【くみ】「ハイ。」【惣】「自己{おいら}も一|所{しよ}に居{ゐ}てへけれ
ども亦{また}お牧{まき}さんの耳{みゝ}へでも。|這入{はいる}るとめんどうだから疾{はや}く

(16オ)
往{い}ツてお寝{ね}。左様{さう}して此{この}文庫{ぶんこ}は。翌{あした}の朝{あさ}疾{はや}く取{とり}にお出{いで}。」【くみ】「ハイ今{いま}
参{まい}り枡{ます}。」と口{くち}にはいえど。何{なに}とやら側{そば}はなるゝが。弥{いや}ましに恋{こひ}
しさつのる。憂{うき}別{わか}れ。さはとて爰{こゝ}に在{をら}んには。夫{おつと}の機嫌{きげん}を損{そん}
じやせんト。一足{ひとあし}行{ゆき}ては振{ふり}かへり。二|足{あし}行{ゆき}ては立戻り。残{のこ}り惜{をし}
気{げ}に行{ゆく}影{かげ}を。此方{こなた}も同格{おなじ}思{おも}ひにて。是{これ}が此世の別{わか}れぞと。
思へば泪{なみだ}先{さき}だちて。せめて一ト眼{ひとめ}と伸上{のびあが}り【惣】「ヲイおくみ。」
【くみ】「ハイお呼{よ}び被成{なさい}ましたか。」【惣】「ナニ廊下{ろうか}が真{ま}ツ暗{くら}だから気をつけ
て往{いき}ナヨ。」【くみ】「ハイ。」ト返回{いらへ}て漸{やう}〳〵に自己{をの}が臥床{ふしど}へ戻{もど}りしがこれが

(16ウ)
しばしの別{わか}れとは後{のち}にぞ思ひ知{し}られける。惣次{そうじ}郎も泪{なみだ}を
拭{ぬぐ}ひ硯{すゞり}引{ひき}よせ細{こま}〴〵と有し次第{しだい}を書{かき}つらね件{くだん}の文庫{ぶんこ}の
中に入{い}れ。兼{かね}て覚悟{かくご}の事{こと}ながら。今宵{こよい}吾{わが}家{や}の見納{みおさ}めと
おもへば。名残{なごり}の惜{をし}まれて。男泣{おとこなき}にぞ泣{なき}ゐたりしが斯{かく}て
あるべき事{こと}ならねば夫{それ}よ。是{これ}よと。身支度なし夜{よ}明{あけ}て父{ちゝ}の
勘当{かんどう}を。ひたすら心{こゝろ}に待{まち}けるとぞ。
春色江戸紫初編下之巻終


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底本:国立国語研究所蔵本(W99/Sa66/1-3、1001951449)
翻字担当者:中野真樹、金美眞、銭谷真人
更新履歴:
2016年9月23日公開
2017年10月11日更新
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修正箇所(2017年10月11日修正)
丁・行 誤 → 正
(3オ)1 一雫{ひとしづく} → 一ト雫{ひとしづく}
(6オ)4 自己{おれ} → 自己{■れ}
(6ウ)1 夕部{ゆふべ} → 夕阝{ゆふべ}
(7オ)5 何{なん}とやら → 何{なに}とやら
(7オ)5 敷居{しきゐ} → 鴫居{しきゐ}
(7ウ)3 お気{き}が → お気が
(8ウ)7 重手代衆御下御くだり → 重手代衆御くだり
(9ウ)3 不|便{びん}さよ → ふ便{びん}さよ
(11オ)4 実正{ほんたう} → 実正{ほんとう}
(11ウ)7 利{きき} → 利{きゝ}
(14オ)8 奥{おく}二|階{かい}→ 奥二階{おくにかい}
(14ウ)3 後{あと}ぢやア → 跡{あと}ぢやア
(15ウ)2 背中{せなか} → 脊中{せなか}

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