日本語史研究用テキストデータ集

> English 

おくみ惣次郎春色江戸紫おくみそうじろうしゅんしょくえどむらさき

クリエイティブ・コモンズ・ライセンス

二編上

縦横切り替え ダウンロード

おくみ惣次郎春色江戸紫 二編上

----------------------------------------------------------------------------------
凡例
1.本文の行移りは原本にしたがった。
2.頁移りは、その丁の表および裏の冒頭において、丁数・表裏を括弧書きで示した。また、挿絵の丁には$を付した。
3.仮名は現行の平仮名・片仮名を用いた。
4.仮名のうち、平仮名・片仮名の区別の困難なものは、現行の平仮名に統一した。ただし、形容詞・副詞・感動詞・終助詞・促音・撥音・長音・引用のト等に用いられる片仮名については、原表記で示した場合がある。 〔例〕安イ、モシ、「ハイそれは」ト、意気だヨ、面白くツて、死ンで、それじやア
5.漢字は現行の字体によることを原則としたが、次のものについては原表記に近似の字体を用い、区別した。「云/言」「开/其」「㒵/貌」「匕/匙」「吊/弔」「咡/囁」「哥/歌」「壳/殻」「帒/袋」「无/無」「楳/梅」「皈/帰」「艸/草」「計/斗」「弐/二」「餘/余」
6.繰り返し符号は次のように統一した。ただし、漢字1文字の繰り返しは原本の表記にしたがい、「〻」と「々」を区別して示した。
 平仮名1文字の繰り返し 〔例〕またゝく、たゞ
 片仮名1文字の繰り返し 〔例〕アヽ
 複数文字の繰り返し 〔例〕つら〳〵、ひと〴〵
7.「さ」「つ」「ツ」に付く半濁点符は「さ゜」「つ゜」「ツ゜」として示した。
8.Unicodeで表現できない文字は〓を用いた。
9.句点は原本の位置に付すことを原則としたが、文末に補った場合がある。
10.合字は〔 〕で囲んで示した。 〔例〕殊{〔こと〕}に、なに〔ごと〕、かねて〔より〕
11.傍記・振り仮名は{ }で囲んで示した。 〔例〕人生{じんせい}
12.左側の傍記・振り仮名の場合は、冒頭に#を付けた。 〔例〕めへにち{#毎日}
13.傍記・振り仮名が付く位置の紛らわしい場合、文字列の始まりに|を付けた。 〔例〕十六|歳{さい}
14.原本に会話を示す鉤括弧が付いていない場合も、これを補い示した。また庵点は〽で示した。
15.原本にある話者名は【 】で示した。 〔例〕【はる】
16.割注・角書および長音符「引」「合」は[ ]で囲んで示した。
17.不明字は■で示した。
18.原本の表記に関する注記は*で行末に記入した。 〔例〕〓{たど}りて*〓は「漂+りっとう」
19.花押は〈花押〉、印は〈印〉として示した。
20.画中文字の開始位置に〈画中〉、広告の開始位置に〈広告〉と記入した。

本文の修正
1.翻字本文を修正した場合には、修正履歴を末尾に示す。
----------------------------------------------------------------------------------


(口1オ)
増補{ぞうほ}江戸紫{えどむらさき}弐編叙
金波{きんぱ}の光{ひか}り。有明{ありあけ}の月{つき}に消覆{けおされ}。牛屋{うしや}の
雁木{がんぎ}。魚十{うをじゆう}と河岸{かし}を換{か}え。延{のび}あがらねば
三囲{みめぐり}の。鳥居{とりゐ}も当時{いま}は高声{たかごゑ}に。竹屋{たけや}と
時代{やぼ}に呼{よぶ}人{ひと}なく。山谷{ほり}の延津賀{のぶつが}。梅干{うめぼし}に
名{な}を止{とゞ}め。花{はな}を咲{さか}せし実{み}の果{はて}は。粋興連{すいきやうれん}
の三題楽語{さんだいばなし}と。開{ひら}け過{すぎ}たる世界{せかい}の

(口1ウ)
変化{へんくわ}。されば人生{じんせい}同{おなじ}きも。人情{にんじやう}古今{こゝん}の差別{けぢめ}有{あり}て。
流行{りうかう}朝暮{てうぼ}の運動{うんどう}あり。茲{こゝ}に我{わが}友{とも}有人{ありんど}
ぬし。其{その}人情{にんじやう}と流行{りうかう}の。実地{じつち}を踏{ふん}で趣向{しゆかう}
を設{まう}け。古今{こゝん}と朝暮{てうぼ}の規矩合{ぐあひ}を計{はか}り。而{しかし}て
後{のち}に筆{ふで}を採{と}り。深{ふか}く世態{せたい}の穴{あな}を穿{うがて}ど。泥{どろ}の
泥{どろ}を掴{つか}むの難{なん}なく。博{ひろ}く痴情{ちじやう}を探{さぐ}ると雖{いへども}。
枝{えだ}を撓{たはめ}て葩{はなびら}を損{そこな}ふ。疎忽{そこつ}の愁{うれひ}なし。実{げ}にや

(口2オ)
何某{なにがし}先生{せんせい}の。自己{おのれ}が郷里{とち}の品類{ひんるい}を。挙誌{ならべ}て
そをしも流行{りうかう}と。心得{こゝろへ}られたる村学究{そんがくきう}の。著
述{ちよじゆつ}と製本{せいほん}似{に}たりとて。一列{ひとつら}にばし見玉{みたま}ひそ。此{この}頃{ごろ}
江戸紫{えどむらさき}二編{にへん}の稿{かう}成{なり}。少{すこ}しく由縁{ゆかり}の余{おのれ}をして。序
誌{はしかき}せよとの頼{たの}みはなけれど。蚊{か}も船{ふね}で行{ゆく}十三|里{り}。
流行{はやる}に媚{こび}る驥尾{きび}の蝿{はい}。意気{いき}な世界{せかい}へお目見{めみ}へ
告条{かうでう}。綾{あや}に捆{からくむ}組糸{くみいと}の。縺{もつれ}て解{とけ}て結{むすぼ}るゝ。三〻九度{さん〳〵くど}

$(口2ウ)
惣次郎

$(口3オ)
於組

$(口3ウ)
智清

$(口4オ)
仕うちで切よとは
ひきやうなしかた男ら
しくもないじやくり
花見

$(口4ウ)
の結局{けつきよく}迄{まで}。山〻亭{さん〳〵てい}が丹精{ほねをり}を。喋〻{くどふ}もくどふも
御目永{おめなが}に。御覧{ごらん}の程{ほど}を希{ねが}ふになん。
甲子の春吉旦
仮名垣魯文誌
おくみ惣次郎をつゞり直せし
有人ぬしのいさほを愛{めで}て
色揚{いろあげ}て新{あた}らし
ものとなりに鳧{けり}
江戸紫{えどむらさき}の
仕立{したて}ばえして
粋狂連
扇夫

(1オ)
増補{ぞうほ}江戸紫{えどむらさき}二編上巻
江戸 山々亭有人作
第七回
ちらさじとしめし心{こゝろ}もしら梅{うめ}のさばかり風{かぜ}に吹{ふき}つのる
らんトは彼{かの}花扇{はなあふぎ}が恋情{れんじやう}を示{しめ}す亭主{あるじ}墨河{ぼくが}の詠歌{よみうた}
とかや。其{そ}は兎{と}もあれ角{かく}もあれお楽{らく}は此{この}程{ほど}惣次郎{そうじらう}が
つかぬ別{わか}れの気{き}になりて翌{あした}逢{あひ}なば斯{かく}いわん。今宵{こよひ}来{き}
たなら箇様{かう}いはんと待{まて}ど暮{くら}せど音信{おとづれ}もなきの泪{なみだ}の

(1ウ)
乾{かはく}間{ま}もあらぬ折柄{をりから}堀切{ほりきり}の菖蒲{せうぶ}をかけて亀井戸{かめゐど}や
隅田{すみだ}巡{めぐ}りに誘引{さそは}れ客{きやく}を送{おく}りて戻{もど}るなる舟{ふね}に残{のこ}りし
お美代{みよ}にお楽{らく}おみよが其{その}場{ば}の形振{なりふり}は葡萄鼠{ぶどうねづみ}に光琳{くわうりん}
の千鳥{ちどり}を白{しろ}く染抜{そめぬか}せ上{うへ}から網{あみ}を摺込{すりこみ}たる単物{ひとへもの}[尤{もつとも}着替{きかへ}故{ゆへ}襦袢{じゆばん}の半
襟{はんえり}なし。紅縮緬{こうちりめん}の極{ごく}ほそく半襟{はんえり}の懸{かけ}りし汗{あせ}じゆばんを着{き}る]帯{おび}は白茶{しらちや}の本国織{ほんこくおり}蹴出{けだ}しは古風{こふう}の
緋縮緬{ひぢりめん}天窓{あたま}は好{この}みの島田{しまだ}髷{わげ}斑{ふ}なしの甲{かう}の中差{なかざし}に厚{あつ}み
四五分{しごぶ}もあらんかとおぼしき櫛{くし}に銀笄{ぎんかん}も撥耳{ばちみゝ}とかいふ
野鄙{やひ}でなく耳{みゝ}かき丸{まる}きを後{うしろ}へさし意気{いき}なれども下司{げす}

(2オ)
ばらず上品{じやうひん}なれど野暮{やぼ}でなく実{じつ}に威{ゐ}あつて猛{たけ}からず。
お楽{らく}が着替{きかへ}は六弥太{ろくやた}格子{がうし}を鼠{ねづみ}と藍{あい}で弁慶{べんけい}の高砂{たかさご}と
いふ二重染{にぢうぞめ}帯{おび}は白茶地{しらちやぢ}に紫{むらさき}独鈷{とくこ}の本築前{ほんちくぜん}余{よ}はみな
お美代{みよ}に替{かは}らねば皆様{みなさま}宜{よき}に御|推{すい}もじ。【美】「お楽{らく}さん未{まだ}
子刻{こゝのつ}前{まへ}かネ。」【らく】「最早{もう}子刻{こゝのつ}過{すぎ}だらうはネ。川口{かはぐち}を出{で}た時{とき}鳴{なつ}た
鐘{かね}が亥刻{よつ}だらうから。」【美】「左様{さう}だらうネへ。ひどく眠{ねむ}イから。」
【らく】「吾儕{わたし}もサ。」【美】「夫{それ}に夕阝{ゆふべ}大変{たいへん}に更{ふけ}たもんだから。」【らく】「夕阝{ゆふべ}は
何処{どこ}へ。」【美】「高野{かうの}様{さん}のお茶{ちや}で。」【らく】「夫{それ}じやアお客{きやく}は山本{やまもと}様{さん}かへ。」

(2ウ)
【美】「アヽ。夫{それ}から後{あと}で芝居{しばゐ}尽{づく}しの歌{うた}がるたが初{はじ}まつたり何{なに}かして
どんなに面白{おもしろ}かつたらう。」【らく】「左様{さう}かへ。吾儕{わたし}やアどういふもん
だか此{この}頃{ごろ}は間{ま}が悪{わる}くツていけないヨ。」【美】「ナゼ。」【らく】「夕阝{ゆふべ}なんぞも腹{はら}が
立{たつ}てならないのサ。昼間{ひるま}梅川{うめがは}からも河長{かはちやう}からも口{くち}がかゝツた
けれども何{なん}だか気色{きしよく}がわるいから断{〔こと〕は}ツて寝{ね}て仕舞{しまふ}と継母{おツかア}
が例{れい}のブウ〳〵が始{はじま}ツて困{こま}らせきるからお前{まへ}の所{ところ}へ遊{あそ}びにでも
行{いか}うかと思{おも}ツたけれ共{ども}まさか出{で}にくいからぐず〳〵してゐる
うち又{また}口{くち}がかゝツたのサ。否{いや}で仕方{しかた}がなかつたけれ共{ども}宅{うち}に

(3オ)
ゐていびられるよりやア宜{よか}らうと思{おも}つて請{うけ}るとマアお聞{きゝ}ヨ梅
川{うめがは}や何{なに}かの平生{ふだん}御ひゐきにして呉{くれ}る所{とこ}をはづしながら
自分{じぶん}の勝手{かつて}にやア出{で}て行{いく}の何{なん}のいふのサ。小癪{こしやく}に障{さは}ツた
から行{ゆく}まいと思{おも}ツたけれ共|請{うけ}て仕舞{しまつ}たものを今更{いまさら}左様{さう}も
行{いか}ないから往{いつ}て見ると夜明{よあか}しサ。モウ〳〵くだらない騒{さはぎ}で
頭痛{づつう}がして来{き}たはネ。夫{それ}がおまけに貸{かし}だらうじやアない
か。忌〻{いま〳〵}しいからおも入{いり}惚談{のろけ}て遣{やつ}たは。」【美】「左様{さう}かへ。夫{それ}は
さうとお前{まへ}先刻{さつき}から何{なん}だか苦労{くろう}がありさうだがどうか

(3ウ)
おしのかへ。」【らく】「アヽ吾儕{わたし}も大変{たいへん}に気{き}のもめる事{〔こと〕}が有{ある}もんだから
お客{きやく}へ出てもおもしろく無{なく}ツて串戯{じやうだん}なんぞを言{いは}れても肝積{かんしやく}
に障{さは}ツてツイ顔{かほ}へ出ていけないは。」【美】「誰{だれ}しも其様{そん}な者{もん}だ
けれども全体{ぜんたい}お前{まへ}お客{きやく}のまへであんまりぽん〳〵惚談{のろける}のは
わるいヨ。今日{けふ}のやうなさばけたお客{きやく}はどうでも宜{いゝ}様{やう}なものゝ
中{なか}にやア腹{はら}を立{たつ}人{ひと}があらアね。」【らく】「ナニ惚談|気{き}じやア無{ない}ンだ
けれどもツイ口癖{くちくせ}になつて仕舞{しまつ}たのだは。」【美】「其{その}気{き}でのろけ
られちやア事{〔こと〕}だネ。しかし無理{むり}はないのサ。程{ほど}がよくツて男{をとこ}が宜{よくツ}■*「■」は「て」の虫損

(4オ)
お金が有といふもんだからネ。相|替{かは}らず御|盛{さかん}かヱ。」トいはれて
お楽は両眼{りやうがん}に少し泪{なみだ}をうかめ【らく】「イヽヱ。」【美】「どうしたのだヱ。又|喧
嘩{けんくわ}でもしたのだネ。今日もひどく浮{うか}ない様だツたから急度{きつと}
左様だらうと思ツてゐたは。宜{いゝ}加減{かげん}におしな。」【らく】「其様な事
なら結構{けつかう}だが。」ト[又少し泪を浮めながら]【らく】「最早{もう}惣さんにやア逢れない
やうに成たは。」【美】「きまりを言てるヨ。亦|例{れい}の口舌{くぜつ}がこうじて
止とか離{きれる}とか言|子細{わけ}だネ。あんまりお前が妬{やきもち}が過るからだネ。
とうせ程のよい人や何かを情人{いろ}にすりやア少しぐらゐ気の

$(4ウ)

$(5オ)
初手は
うつり気
中たびや
実気
今じや
苦労の
増かゞみ
十寸見
半等

(5ウ)
揉{もめ}るのはあたりまへだネ。何所ぞへ新{しん}出来{でき}かヱ。北廓かヱ下谷{したや}
かヱ新|橋{ばし}かヱ。」【らく】「ナニ其様{そん}な子細{わけ}じやアないやネ。夫ア惣{そう}さん
に限ツちやア他{ほか}に情合{いろ}をするの北廓{てう}へ深{ふか}はまりをするのと
言〔こと〕は決{けつ}てないヨ。」【美】「そりや亦{また}始ツた。鳥渡{ちよつと}咄しをすると其
後は直{すぐ}に惚談{のろけ}たから恐れるヨ。」【らく】「お前左様聞て仕舞{しまつ}ちやア
いけないやネ。惣様は宅にお組{くみ}様{さん}といふ大造{たいそう}美麗{うつくしい}内室様か
あるもんたから吾儕なんそも先じやア当座の花といふ気で
居るのかも知れない。」【美】「夫りやアお前のひかみといふもんたヨ。惣

(6オ)
様{さん}の御店{おみせ}へ出入{でいり}をする大工{だいく}の棟梁{とうりやう}に吾儕{わちき}の心安{こゝろやす}い人{ひと}が有{あ■}*「■」は「る」の虫損
のサ。其{その}人の咄{はな}しぢやアお組{くみ}さんとかいふ美麗{うつくしい}内室{おかみ}さんをなぜ
だか惣{そう}さんがひどく邪見{じやけん}にすると言〔こと〕だヨ。夫{それ}も是{これ}もおまへと
いふ者があるからの事{〔こと〕}だヨ。夫をあんまり沢山{たくさん}さうに思ふと
罰{ばち}が当{あた}るぜ。」【らく】「ナニお組{くみ}さんを邪見{じやけん}にするのも吾儕ゆへと
いふ子細{わけ}でもないのサ。夫にはいろ〳〵子細のある〔こと〕ですとサ。夫
は左様{さう}とおみよさん吾儕{わちきや}アどうしたら宜{よから}うと思ツて苦労{くらう}で
苦労で致方{しかた}がないは。」【美】「何{なに}が其様{そんな}に苦労になるのだヱ。」

(6ウ)
[お楽{らく}は少{すこ}し泪{なみだ}ごへにて]【らく】「惣三{そうさん}がネ勘当{かんだう}に成{なつ}たからサ。」ト[さめ〴〵トなく]。【美】「ヱヽ。」ト[びつくり
せし思ひ入れにて]【美】「実正{ほんとう}かヱ。夫はお気{き}の毒{どく}ナねへ。尤{もつとも}惣三の父上{おとつさん}といふ
ものが丸{まる}で内室様{おかみさん}にまかれてゐて其{その}内室さんといふのが随
分{ずいぶん}悪筋{いかぬ}しろ物{もの}ださうだから。左様{さう}して惣三はお前{まへ}の所に
でも被在{おいで}のかヱ。」【らく】「そんなら十分{じふふん}で嬉{うれ}しいけれども何所にどふ
してゐるのだか知{し}れないから苦労だは。」【美】「さうかへ。夫じやア
お宅{うち}を出てから些{ちつ}ともお前の宅へは来ずかへ。」【らく】「どうして
来{き}さへすりやア帰{かへ}しやアしないけれども夫に昨日{きのふ}の朝{あさ}此様{こん}な

(7オ)
手簡{てがみ}をよこしたンだは。」ト鏡付{かゞみつき}の紙入{かみいれ}より取いだしたる
一通{いつゝう}をおみよは手早{てばや}く披{ひろ}げつゝ読{よみ}くだす其{その}文{ぶん}に
せんしはゆる〳〵御けんにむかひいつもながらの
むり計{ばか}り必{かならず}御ゆるし可被下候。そのふし
御まゑ〔さま〕の夢見{ゆめみ}かわるさに帰{かへ}れとの御|詞{〔こと〕ば}
今更{いまさら}思{おも}ひ当{あた}り申候。扨{さて}かねて〔より〕かくごの
〔ごと〕く今朝{けさ}ほど親共{おやども}〔より〕勘当{かんだう}受{うけ}もふし候。
【美】「マア今{いま}迄{ゝで}が今{いま}迄{ゝで}だから嘸{さぞ}御|困{こま}ンなさるだらう。」【らく】「其{その}跡{あと}を

(7ウ)
読{よん}でお見{み}なはい。惣{そう}さんも分{わか}らないじやアないか。」
就{つい}ては鳥渡{ちよつと}なり共{とも}御めもじ致し候
はづには御座候へ共|唯{たゞ}さへ御はもじ〔さま〕の
やかましきを今{いま}の此{この}身{み}となりたるうへは
嘸{さぞ}かしつらき御事のみおはし候はんかと
我{われ}から心を鬼{おに}にして上州{じやうしう}筋{すぢ}をいさゝか
心{こゝろ}ざす方{かた}御座候まゝ暫{しばら}く其方{そなた}に身{み}を寄{よせ}
申候。
【らく】「夫{それ}が分{わか}らないじやアないか。いくら継母{おツかア}がやかましいト言{いつ}たつて
惣{そう}さんの一人{ひとり}位{ぐらゐ}はどうてもして置{おく}はネ。」【美】「しかし惣{そう}さんの気{き}

(8オ)
じやア左様{さう}したらお前{まへ}の評判{ひやうばん}も落{おち}やうし又{また}|家内{うち}へも片身{かたみ}が
狭{せま}からうとかいふ処{ところ}を考{かんが}へたのだらうはネ。」ト又{また}もや読{よみ}に懸{かゝ}る。
遠{とほ}からすして御けんには必{かならず}むかひ候へとも
翌{あす}をも知{し}れぬ人{ひと}の身{み}のいかゞ成行{なりゆき}候やまして
ならはぬ旅{たび}の空{そら}老少{ろうしやう}ふじやうも計{はかり}がたく
よしなき私{わたくし}にきり立{だて}なく何方{いづかた}へ成{なり}とも
御|身{み}を寄{よせ}行末{ゆくすゑ}の御|栄{さかへ}こそねかはしく
存上〔まいらせ候〕。もふし上{あげ}度{たき}御事は筆{ふで}に尽{つき}せず
候へとも十{とを}に七つは申|残{のこ}し〔まいらせ候〕。何も〳〵
あら〳〵かしこ。

(8ウ)
【らく】「お美代{みよ}さん何{なん}の事{〔こと〕}はない是{これ}じやア今{いま}迄{まで}惣{そう}さんを
実{じつ}にしたのが皆{み}ンなむだに成{なつ}て仕舞{しまふ}やうなもんだ
らうじやアないか。」【美】「左様{さう}言{い}ツて見{み}りやアさうだけれ
ども是{これ}にやア種〻{いろ〳〵}わけのある事{〔こと〕}だらうはネ。」
尚〳〵|兎角{とかく}時{じ}こふもあしく候まゝ随分{ずいぶん}御|身{み}を
大切{たいせつ}にむり酒{ざけ}やけ酒はくれ〳〵御つゝしみ被成
あまり夜{よ}ふけては大酒御|無用{むよう}。いつものりうゐん
の丸薬{ぐわんやく}一ト廻{まは}り分さし上申候。たやさず
御用ひ可被成候。

(9オ)
【美】「夫{それ}でも惣{そう}様{さん}は実{じつ}があるじやアないか。此様{こん}な〔こと〕迄|気{き}がつく
のだネへ。」【らく】「第一{だいゝち}上州{じやうしう}と言ちやア大変{たいへん}じやアないか。百里{ひやくり}もある
のかネへ。」【美】「吾儕{わたし}も往{いつ}た〔こと〕はないけれども能{よく}上州{じやうしう}の草津{くさつ}
へ湯治{とうぢ}に行{ゆく}のなんのといふから其様に遠い所でもある
あるまいヨ。」【らく】「其様{そんな}に遠{とを}くなきやア跡{あと}から往{いつ}て見やうかネへ。」
ト[小声{こゞへ}でいふ是は舟人の聞をはゞかるゆへ也]【美】「お前{まへ}馬鹿{ばか}な〔こと〕をお言な。上州と言
たつて広{ひろ}かろうじやアないか。何の事はない田舎{ゐなか}の人が江戸{えど}
へ来て自己{おゐら}の国{くに}から出た人は何所{どこ}にゐると聞{きい}たつてわから

(9ウ)
ないやうなもので何様{どう}して上州へ往{いつ}て探{さが}したつてし
れるものかネ。」【らく】「若{もし}是{これ}ツ限{き}り惣様に逢{あは}れないやうに
なつたら如何{どう}しやうねへ。」ト泪{なみだ}ぐむ。【美】「ナニ惣さんは惣
|領{れう}だといふじやアないか。左様{さう}して見りやアいつか一|度{ど}は
勘当{かんだう}がゆかずにはいまいはネ。なんでも信心{しん〴〵}して。」【らく】「時節{しせつ}
を待{まつ}より致方{しかた}がないけれども亦{また}旦那{だんな}を取{と}れといふ
にやア困{こま}りきるヨ。」【美】「何所の親{おや}でもそんな〔こと〕はあたりまい
だはネ。」【らく】「所がわたいの宅{うち}の継母{おツかア}は一通{ひととふ}りじやアないからネ。」

(10オ)
【美】「さうでもないじやアないか。とんだ附{つき}のよさそうな人だがネ。
夫{それ}はさうと由兵{よしべ}へ殿{どん}は静{しづか}じやアないか。」[箱廻{はこまは}しなるへし]【らく】「左様{さう}サ
ねへ。」ト言ながらともの方{かた}の戸{と}を明{あけ}て【らく】「ヲヤ〳〵あきれるじやア
ないか。グウ〳〵寝{ね}てゐるヨ。」【美】「ヲイ〳〵由{よし}兵へ殿{どん}〳〵。」【由】「アヽヽヽヽヽ。」ト
欠{あくび}をしながら「いゝ心持{こゝろもち}だツた。余程{よつぽど}寝{ね}ましたかネ。」【らく】「寝
ましたかもないもんだ。チツト気{き}をおつけヨ。」【美】「ヲヤモウ中洲{なかず}へ
来{き}たヨ。」【らく】「汐{しほ}さへいゝと舟{ふね}は早いもんだねへ。」[此{この}時{とき}岳{おか}にてカチ〳〵カヽチ]。
第八回

(10ウ)
諸共{もろとも}に住{すめ}ばぞうさも忘貝{わすれがひ}波{なみ}吹{ふく}風{かぜ}もあらき浜辺{はまべ}も。とは
一条{いちでう}兼定{かねさだ}卿{きやう}の御台所{みだいどころ}土佐{とさ}の国{くに}におはしける時{とき}兼定卿|大友{おゝとも}
宗麟{そうりん}の許{もと}より御|消息{しやうそく}ありし時|其{その}返{かへ}しに送{おく}り給ひし
詠哥{よみうた}とかや。夫にはあらで彼おくみは思ひ懸{がけ}ずも惣次郎{そうじらう}が
勘当{かんだう}の身となりたるより在{ある}にもあらで泣{なき}しづみ前後{ぜんご}正
体{しやうたい}あらざりしが斯{かく}てあるべき事{〔こと〕}ならねは宵に惣次郎
より貰{もら}ひたる手箪笥{てだんす}文庫{ぶんこ}を開{ひら}きつゝ見れば中{なか}には
簪{かんざし}や櫛{くし}かうがいを始{はじ}めとして心{こゝろ}をこめし賜物{たまもの}の多{おほ}

(11オ)
かる中に書置{かきおき}の事ト記{しるし}し一封{いつふう}あり。披{ひらく}間{ま}遅{おそ}しト読下{よみくだ}せば
わざ〳〵示{しめ}し〔まいらせ候〕扨{さて}是{これ}迄{まで}の御しんもじ
しばしも忘{わす}れやらず候へどもわざと
つれなく致{いた}し候|訳{わけ}は元{もと}私{わたくし}は
此|家{や}の実子{じつし}ならず。幼{おさなき}時やしなひ
子と成{なり}て御両親{ごりやうしん}の御いつくしみ海{うみ}よりも
深{ふか}く山よりも高{たか}し。然{さ}れば実子{じつし}の
善{せん}次郎を退{のけ}て此|身代{しんだい}を継{つが}ん事の
本意{ほんゐ}ならず故{ゆへ}心{こゝろ}にもなき身{み}もち

(11ウ)
ほうらつ嘸{さぞ}や実{じつ}なきものと御うらみ
可被成候へともうき世{よ}の義理{ぎり}ほど
せつなきものは無御座候。たゞ〳〵
私事{わたくし〔こと〕}は是{これ}迄{まで}のうすき縁{えに}しと
御あきらめ弟{おとゝ}善{ぜん}次郎と婚礼{こんれい}
被成候て中よく御|暮{くら}し被下候やう
くれ〴〵もねんじ〔まいらせ候〕。最{も}ばや
この世{よ}にてのおめもじは相成まじく
老{おい}さきみじかき御ともし様{さま}ゆへ

(12オ)
御|孝行{かう〳〵}のほど頼{たの}み入〔まいらせ候〕。
申上|度{たき}御事は数{かず}〳〵おはし候へども
兎{と}に角{かく}心のいそがれて
あら〳〵申|残{のこ}し〔まいらせ候〕。
何{なに}も早〻{さう〳〵}かしこ。
読{よみ}おわりて其|儘{まゝ}文{ふみ}の上にかつぱと伏{ふ}し暫{しばら}くよゝ
と泣{なき}居{ゐ}たりしが漸〻{やう〳〵}泪{なみだ}の顔{かほ}をあげ恨{うら}めし気{け}に

(12ウ)
件{くだん}の文{ふみ}を繰返{くりかへ}しつゝ打{うち}詠{なが}めひとりつく〴〵おもふ
やう扨{さて}は夫{をつと}惣次郎{そうじらう}は此{この}家{や}の実子{じつし}ならずして養
子{やしなひこ}にてありける歟{か}。実子{じつし}の弟に身体{しんだい}をゆづらんとしは
さる事{〔こと〕}ながら左様した子細{わけ}なら一ト通{とふ}り足{たら}はぬながら得
心{しん}させ連{つれ}て立|退{の}き給ひなば柴{しば}や刈{かる}てふ田草{たくさ}取{と}る賎{しづ}
が手|業{わざ}もいとはじものを弟と祝言{しうげん}せよとはアラうらめし
のつれなさよ。此|儘{まゝ}逢瀬{あふせ}のなかりせば何{なに}楽{たのし}みに存生{ながらへん}。
此{この}世{よ}の縁{えん}こそうすく共|未来{みらい}は添{そふ}てたび給へ。」ト念仏{ねぶつ}唱{となへ}て

(13オ)
鏡台{きやうだい}の引出{ひきだ}し手早くおし明{あけ}て髪剃{かみそり}逆{さか}手に取直{とりなほ}し
すでに斯{かう}よと見へたりしが否{いや}〳〵夫{それ}もいと疾{はや}かり。
惣次郎{そうじらう}様{さま}の御|家出{いへで}も継母{まゝしきはゝ}と弟の善次郎{ぜんじらう}面{づら}が
さがしらならめ。さるからには我{わが}亡{なき}後{あと}是{これ}まで惣次郎{そうじらう}が
情{なさけ}もて恵{めぐみ}賜{たま}はる黄金{こがね}まで若{もし}善次郎{ぜんじらう}の能{よく}しる上は
せちにはたるは必定{ひつぢやう}ならん。よし爾{さ}なくとも姉上{あねうへ}の歎{なげき}も
嘸{さぞ}とおし量{はか}り死{し}ぬにも死{し}ねぬ此場の仕義{しぎ}。兎{と}にも
角{かく}にも存生{ながらへ}て花咲{はなさく}春{はる}を待{まつ}にはしかじト自{われ}と自{おのれ}に

$(13ウ)
つらきやつらいで
あきらめもせうが
なまじなさけが
積のたね
柳ばし 梅吉

$(14オ)
おくみ

(14ウ)
問{とひ}答{こたへ}髪剃{かみそり}素{もと}へ収{おさ}めつゝ惣次郎{そうじらう}が書置{かきおき}を幾度{いくたび}と
なく繰返{くりかへ}し或{ある}はつれなき詞{〔こと〕ば}をなげき或{ある}は情{なさけ}をなま中
の思ひの種{たね}とうちかこち記念{かたみ}こそ今は仇{あだ}なれ是{これ}ならば
と詠{よみ}し古歌{こか}さへ身の上となりにけらしと肌着{はだき}の襟{えり}へ
腮{おとがい}半{なかば}埋{うづ}ませてしばし|黙然{もく}して居{ゐ}たりし時間の
襖{ふくま}をおし明{あけ}て下女のお咲{さき}が両手{りやうて}をつき【咲】「お組様{くみさん}*「襖{ふくま}」ママ
御内室{ごしんぞ}様{さん}が召{めし}ます。」トいふにお組{くみ}はあはたゞしく彼
書置{かきおき}を隠{かく}しなから【くみ】「只今{たゞいま}参{まゐ}ると左様{さう}申ておくれ。」

(14ウ)
【咲】「若旦那{わかだんな}様{さま}も今頃はどう遊{あそ}ばしましたらう。」【くみ】「左様{さう}サ
ねへ。何処{どこ}へお往{いで}遊{あそ}ばしたか。何{なに}かにつけて嘸{さぞ}御|不自由{ふじゆう}
だらう。」ト[おもはず泪{なみだ}をこぼす]【咲】「ナンのお前{まへ}様{さん}御|不自由{ふじゆう}な事{〔こと〕}が
ございませう。大かた今頃{いまごろ}は柳河岸{やなぎがし}へでもお往{いで}なすツて
ちん〳〵鴨{かも}のお楽{たの}で|被為入{いらツしやい}ませう。ヲホヽヽヽヽ。夫に貴嬢{あなた}が
お一人で御|苦労{くらう}ばかり被成{なすツ}ちやアましよくにも夜食{やしよく}にも
合{あふ}せんぎぢやア有{あり}ません。夫に引{ひき}かへ善様{ぜんさま}はお優{やさし}くツて
お堅{かた}くツて自己{わたくし}ならばと申た所が始{はじま}りませんがあんな

(15ウ)
御|仁{かた}を旦那様{だんなさま}に持ては女に生{うま}れた甲斐{かひ}がござります。
ヲホヽヽヽヽヽヽ。つまらぬ長咄{ながばな}しを致{いた}して大きに隙{ひま}どりました。
左様{さやう}ならば少{すこ}しも疾{はやく}御新座敷{ごしんざしき}へ|被為入{いらツしやい}。」と言捨{いひすて}立{たつ}て
行{ゆく}跡{あと}をおくみは見|送{おく}り独言{ひとりごと}【くみ】「アヽ儘{まゝ}ならぬが憂
世{うきよ}とは能{よく}言{い}ツたもの。今のお咲{さき}が〔こと〕葉{ば}といゝお牧様{まきさん}の
御用も其様{そん}な〔こと〕ではあるまいか。否{いや}〳〵夕阝{ゆふべ}若旦那{わかだんな}様{さま}
から是{これ}〻をお貰{もら}ひ申ましたと左様{さう}言{い}ツたら御前{おまへ}の
亭主{ていしゆ}の物をおまへが貰{もら}ふのに何処へ断{〔こと〕は}りが入{いる}ものかト

(16オ)
嫌{いや}にからんで被仰{おつしやつ}たが若{もし}やどういふ数品{しな〴〵}かと余所{よそ}
ながら見によこしたのか。兎{と}まれ角{かく}まれ此|儘{まゝ}に行{ゆか}ず
にも置{おか}れまじ。」ト身{み}づくろひして顔{かほ}をば直{なほ}しお牧{まき}が居
間{ゐま}へ行{ゆき}たりける。
朧月亭有人著
孟斎芳虎画
¥T増補{ぞうほ}江戸紫{えどむらさき}二編上巻了


----------------------------------------------------------------------------------
底本:国立国語研究所蔵本(W99/Sa66/2-1、1001951415)
翻字担当者:矢澤由紀、中野真樹、金美眞、銭谷真人
更新履歴:
2016年9月23日公開
2017年10月11日更新
----------------------------------------------------------------------------------
修正箇所(2017年10月11日修正)
丁・行 誤 → 正
(口1ウ)7 撓{たわめ}て → 撓{たはめ}て
(1ウ)7 銀簪{ぎんかん} → 銀笄{ぎんかん}
(2オ)3 二重染{にじうぞめ} → 二重染{にぢうぞめ}
(2オ)4 変{かは}らねば → 替{かは}らねば
(2オ)7 夫{それ}に夕部{ゆふべ} → 夫{それ}に夕阝{ゆふべ}
(2オ)7 「夕部{ゆふべ}は → 「夕阝{ゆふべ}は
(2ウ)3 夕部{ゆふべ}なんぞも → 夕阝{ゆふべ}なんぞも
(4オ)1 相|変{かは}らず → 相|替{かは}らず
(4オ)3 屹度{きつと} → 急度{きつと}
(5ウ)8 居るのかもしれない → 居るのかも知れない
(6ウ)5 十分{じふぶん}で → 十分{じふふん}で
(7オ)5 御まゑ様 → 御まゑ〔さま〕
(7オ)8 其{その}後{あと} → 其{その}跡{あと}
(7ウ)3 御はもじ様の → 御はもじ〔さま〕の
(9オ)5 後{あと} → 跡{あと}
(9ウ)5 勘当{かんだう}がゆりずには → 勘当{かんだう}がゆかずには
(10ウ)4 詠歌{よみうた} → 詠哥{よみうた}
(11オ)5 幼{をさなき}時 → 幼{おさなき}時
(14ウ)6 襖{ふすま} → 襖{ふくま}
(15ウ)4 後{あと} → 跡{あと}
(15ウ)6 夕部{ゆふべ} → 夕阝{ゆふべ}

ページのトップへ戻る