日本語史研究用テキストデータ集

> English 

おくみ惣次郎春色江戸紫おくみそうじろうしゅんしょくえどむらさき

クリエイティブ・コモンズ・ライセンス

初編中

縦横切り替え ダウンロード

おくみ惣次郎春色江戸紫 初編中

----------------------------------------------------------------------------------
凡例
1.本文の行移りは原本にしたがった。
2.頁移りは、その丁の表および裏の冒頭において、丁数・表裏を括弧書きで示した。また、挿絵の丁には$を付した。
3.仮名は現行の平仮名・片仮名を用いた。
4.仮名のうち、平仮名・片仮名の区別の困難なものは、現行の平仮名に統一した。ただし、形容詞・副詞・感動詞・終助詞・促音・撥音・長音・引用のト等に用いられる片仮名については、原表記で示した場合がある。 〔例〕安イ、モシ、「ハイそれは」ト、意気だヨ、面白くツて、死ンで、それじやア
5.漢字は現行の字体によることを原則としたが、次のものについては原表記に近似の字体を用い、区別した。「云/言」「开/其」「㒵/貌」「匕/匙」「吊/弔」「咡/囁」「哥/歌」「壳/殻」「帒/袋」「无/無」「楳/梅」「皈/帰」「艸/草」「計/斗」「弐/二」「餘/余」
6.繰り返し符号は次のように統一した。ただし、漢字1文字の繰り返しは原本の表記にしたがい、「〻」と「々」を区別して示した。
 平仮名1文字の繰り返し 〔例〕またゝく、たゞ
 片仮名1文字の繰り返し 〔例〕アヽ
 複数文字の繰り返し 〔例〕つら〳〵、ひと〴〵
7.「さ」「つ」「ツ」に付く半濁点符は「さ゜」「つ゜」「ツ゜」として示した。
8.Unicodeで表現できない文字は〓を用いた。
9.句点は原本の位置に付すことを原則としたが、文末に補った場合がある。
10.合字は〔 〕で囲んで示した。 〔例〕殊{〔こと〕}に、なに〔ごと〕、かねて〔より〕
11.傍記・振り仮名は{ }で囲んで示した。 〔例〕人生{じんせい}
12.左側の傍記・振り仮名の場合は、冒頭に#を付けた。 〔例〕めへにち{#毎日}
13.傍記・振り仮名が付く位置の紛らわしい場合、文字列の始まりに|を付けた。 〔例〕十六|歳{さい}
14.原本に会話を示す鉤括弧が付いていない場合も、これを補い示した。また庵点は〽で示した。
15.原本にある話者名は【 】で示した。 〔例〕【はる】
16.割注・角書および長音符「引」「合」は[ ]で囲んで示した。
17.不明字は■で示した。
18.原本の表記に関する注記は*で行末に記入した。 〔例〕〓{たど}りて*〓は「漂+りっとう」
19.花押は〈花押〉、印は〈印〉として示した。
20.画中文字の開始位置に〈画中〉、広告の開始位置に〈広告〉と記入した。

本文の修正
1.翻字本文を修正した場合には、修正履歴を末尾に示す。
----------------------------------------------------------------------------------


(1オ)
[おくみ惣次郎]春色江戸紫初編中之巻
江戸 朧月亭有人 補綴
第三回
夕霧{ゆふぎり}に。こと問{とひ}わびぬ。角田{すみだ}川。我{わが}友舟{ともふね}は。ありやなしやと。
ト藤{ふぢ}川|百首{ひやくしゆ}に見{み}えたりし。黄門{くわうもん}定家{ていか}が詠哥{よみうた}の夫{それ}にはあら
で今{いま}ははや。花{はな}に納凉{すゞみ}に月に雪{ゆき}実{げ}に。世{よ}に遊{あそ}ぶ風流男{みやびを}が
言{こと}の葉{は}草{くさ}の捨処{すてところ}。同{おな}じ隅田{すみだ}の片辺{かたほと}り世{よ}を牛島{うしじま}の一ト構{ひとかまへ}は浮{うい}
た暮{くら}しにあらねども船板{ふないた}をもて。塀{へい}となし所〻{しよ〳〵}に桜{さくら}の

(1ウ)
咲満{さきみち}て庭{には}に物好{ものずき}尽{つく}せしは。是{これ}松坂屋{まつざかや}善兵衛{ぜんべゑ}が寮{りやう}なり
けり。内{うち}に男女{なんによ}のさゞめく声{こゑ}は。是{これ}上の巻{まき}に出{いで}し人々なり。
【左】「サア〳〵此度{こんど}はお楽{らく}さんの鬼{おに}だ。」【らく】「まだ吾儕{わたし}ヤア休{たま}だはネ。」【左】「休{たま}
もねへもんだ。漸{やう〳〵}の事で。さがし当{あて}たのを。玉{たま}なしにされて。
たまるものか。」【らく】「夫{それ}だツても。お幸様{こうさん}が咳{せき}をせいて。いけないから。
隠{かく}れ直{なを}さうと思ツてるのだから。休{だま}だ〳〵と言{い}ツてるのだ
はね。」【こう】「夫{それ}に左楽様{さらくさん}は。づるいヨ。あそこの松{まつ}のある所{とこ}迄{まで}往{いつ}て。
来ツこダと極{きめ}て置のに。直{じき}そこ迄{まで}往{い}ツて。目も眠{ねむ}らずに居{ゐる}ン

(2オ)
だものを。」【らく】「誰{だれ}が鬼{おに}なんぞに成{なる}ものか。」【鯉】「それはしかたがねへ。
目つかつたのがふ運{うん}だ。見事|鬼{おに}に成{なり}ツこ〳〵。」「夫{それ}ぢやア吾儕{わちき}
も松{まつ}のある処{とこ}迄{まで}は。往{い}かないヨ。」【こう】「其様{そん}な事{こと}なしサ。」【小】「左楽{さらく}さん
はモウ此度{こんど}から。入ないから宜{いゝ}やね。」【らく】「夫{それ}ぢやア吾儕{わたし}ヤア能{いゝ}面{つら}
の皮{かは}ダ。」【惣】「口小言{くちこゞと}を言{い}はずに疾{はや}く往{いき}ねへヨ。」ト是{これ}よりお楽{らく}を。
鬼{おに}となし思ひ〳〵の隠{かく}れンぼ。【小】「最{もう}ヨウシ。」の相図{あいづ}と供{とも}にお楽
は所{しよ}〳〵を尋巡{たづねめぐ}れど。其|影{かげ}だにも。見えざるものから終{つい}
うか〳〵と茶座敷{ちやざしき}へ|這入{はい}れば内{うち}に。惣次{そうじ}郎|転寝{うたゝね}なして

(2ウ)
ゐたりしが【惣】「誰{だれ}だ。」【らく】「ヲヤ旦那{だんな}。」【惣】「おらく様{さん}か。自己{おいら}は抜{ぬけ}て仕舞{しまつ}
たのだから堪忍{かんにん}して呉{くん}ナ。」【らく】「ヲヤマアおづるいぢやアないか。」【惣】「なん
だか。急{き}うに眠{ねむ}く成{なつ}て。来{き}たから今{いま}お幸様{こうさん}に断{ことは}ツて。抜{ぬい}て
貰{もら}つた所{ところ}だ。なんならお前{まへ}も爰{こゝ}へ来{き}て。寝{ね}ねへナ。」ト言{い}はれて
此方{こなた}は兼{かね}てより。思ひおもふて束{つか}の間{ま}も。忘{わす}るゝ暇{ひま}なく友
達{ともだち}の。お幸{こう}小照{こてる}に。仲達{なかだち}を頼{たの}む程{ほど}なる其{その} 人{ひと}に現在{げんざい}此所{こゝ}
で。逢{あい}ながら流石{さすが}夫{それ}とも。岩清水{いはしみづ}男心{おとここころ}を汲{くみ}かねて。出{いづ}る
も惜{おし}く居{ゐ}るもまた手持{てもち}なきまゝ。半衿{はんえり}へ首{くび}を半分{はんぶん}埋{うづ}

(3オ)
ませて。さしうつ向{むき}し光景{ありさま}は衣通{そとをり}小町{こまち}楊貴妃{やうきひ}の再{ふたゝ}び
此{この}土{ど}に。生{うま}るゝとも。桜{さくら}にならぶ杉{すぎ}同然{どうぜん}。若{もし}や似顔{にがほ}に写{うつ}さ
せなば。豊国{とよくに}忽{たちま}ち筆{ふで}や。捨{すつ}べく企{され}ば惣次{そうじ}郎が放逸{はういつ}は
縁{ゆへ}ある事{こと}とは言{いひ}ながら。人{ひと}木石{ぼくせき}にあらざれば今{いま}お楽{らく}が
据膳{すえぜん}を。見のがすべうのあらざらん。【惣】「ヲイお楽様{らくさん}なぜ
其様{そんな}に打欝{ふさぐ}のだ。今|言{い}ツた事{こと}は串戯{じやうだん}だから。腹{はら}が立{た}ツ
たら堪忍{かんにん}しねへ。」【らく】「ナニモ吾儕{わちき}ヤア打欝{ふさぎ}ヤアしませんが。お前
様{まはん}もあんまりぢやありまへんか。」【惣】「ナゼ亦{また}自己{おいら}があんまりだ。」

(3ウ)
【らく】「夫{それ}だつても。此{この}間{あひだ}からお幸{こう}さんや小照{こてる}さんに小蝿{うるさい}程{ほど}おたの
み申た事{こと}もあり枡{ます}から。定{さだ}めしお前様{まはん}の方{ほう}へも通{つう}しまし
たろう。そんなら其{その}様{やう}に。いくら自己{をれ}に。惚{ほれ}たツても言{いふ}ことは
聞{きけ}ねへから。こがれて死{し}ぬなら死{し}んで仕舞{しまへ}と一筆{ひとふで}ぐらゐお
返事{へんじ}を。下すツてもまんざら罰{ばち}も当{あた}りますまい。」【惣】「左様{さう}
言{いは}れて。見りやア一句{いつく}もねへがの。アノ古{ふる}い都〻一{どゞいつ}に○うぬぼれ
があればおまゑをうたぐる物か。しがないわたしの身{み}のひがみ」
トいふのがあるが丁度{てうど}自己{わたし}の心意気{こゝろいき}だ。其|仔細{わけ}といふのは。先{まづ}

(4オ)
自己{おいら}の様{やう}なものをつかまへて。好{すい}たの惚{ほれ}たのといふのを。実
正{ほんとう}にやア答{うけ}られめへぢやアねへか。夫{それ}ともお前{まへ}も此{この}頃{ごろ}は宗伯{そうはく}
宗匠{そうせう}へ入門{にうもん}致被成{しなすつ}て余{よ}ツ程{ほど}茶人{ちやじん}に成{なつ}たといふ事{こと}だから
古{ふる}びが宜{いゝ}といふ。注文{ちうもん}で思ひつかれたのかはしらねへが。あん
まり遊{あそ}ばれるのも。気{き}が利{きか}ねへとツイお返事{へんじ}も致{し}なかつ
たが。夫{それ}もまだ一|面会{めんくわい}にも及{およ}ばねへ。うちだからだが。斯|心{こゝろ}
やすく成{な}ツた日{ひ}にやアお前{めへ}の方{ほう}で否{いや}だと。言{いつ}ても是
非{ぜひ}情合{いろ}になつて貰{もら}は。なけりやアならねへから。お前{まへ}も

$(4ウ)
魯文
小てる
おらく

$(5オ)
くち叩く
人ははふ
かん
水鶏聞
嘉極
左楽
惣次郎

(5ウ)
其気で正根{せうね}を据{すへ}て他{ほか}に情人{いひひと}でもあるなら片{かた}を附{つけ}て
置ねへ。」【らく】「成程{なるほど}お前様{まはん}の方{ほう}ぢやア其様{そん}な気{き}でお在{いで}
被成{なはる}だろうね。」ト[両眼{りやうがん}になみだをうかめて惣次郎のかほをさもうらめしさうににらめる]。【惣】「ナゼ其様{そん}な。㒵{かほ}を
して白眼{にらめる}のだ。」【らく】「夫{それ}だつても他{ほか}に情{いひ}人があるなら。なんぞと
可笑{をかし}くお言{いひ}被成{なはる}ぢやアありませんか。此様{こん}な家業{しやうばい}こそ。致{し}
ますけれども是{これ}まで其様{そん}な気{け}ぶりもありやアしません。
嘘{うそ}だとお思ひ被成{なはる}ならお幸{こう}さんにでもおみよさんにでも誰{だれ}
にでも。聞{きい}て御覧{らん}被成{なはい}。もう実正{ほんとう}に是{これ}が惚{ほれ}はじめの惚終{ほれじまい}

(6オ)
ですは。」ト[力を入いれていふ]。【惣】「他{ほか}になけりやア。猶{なを}重畳{てう〴〵}ヨ。何も左様{さう}くや
しがる仔細{わけ}もないのだが。お前{まへ}の聞様{きゝやう}が悪{わり}イのだ。自己{をいら}は生れ
ついて野暮{やぼ}堅{かた}い方{ほう}だから。情合{いろ}も当座{とうざ}の花{はな}なら真{ま}ツ平{ひら}
ヨ。何様{どう}か末{すへ}のすへまでといふにやア能{よく}聞糾{きゝたゞ}したうへでなけ
りやアなるめへぢやアねへか。」【らく】「夫{それ}は其様{そん}なもんですけれども実{じつ}
に吾儕{わちき}に限{かぎ}ツちやア大|丈夫{じやうぶ}ですは。モシ旦那{だんな}是{これ}につけても
松山とやらいふ。太夫{おいらん}の句{く}に○「我{わが}形{なり}をうらみつ風{かぜ}の糸柳{いとやなぎ}」
といふのは身{み}につまさるゝやうですねへ。」【惣】「中〳〵咄{はな}せるの。しかし。

(6ウ)
○「夕立や嘘{うそ}のやうなる日の光り」ぢやア恐{おそ}れるねへ。」【らく】「夫{それ}は
左様と皆{み}ンなが嘸{さぞ}さがして。ゐませうネ。」【惣】「ナニ構{かま}う事{こと}がある物{もの}
か。爰{こゝ}へお出{いで}言{い}ツたら。来{き}ねへヨ。夫{それ}見ねへ。口{くち}でばかり。味{うめ}へ事{こと}を
。言{い}ツたつて。矢{や}ツ張{はり}否{いや}だもんだから。」【らく】「左様{さう}ぢやア有{あり}ません。*行頭句点位置ママ
けれども誰{だれ}か。来{く}るといけませんもの。」【惣】「来{く}りやア止{よす}ばかりだ
アナ。」【らく】「夫{それ}ぢやアあすこの障子{せうじ}を捷{しめ}て来{き}ませう。」ト暫時{しばらく}無
言{むごん}○此{この}時{とき}聞{きこ}える門附{かどづけ}の清元{きよもと}。
「琴{こと}やぶんごの文句{もんく}にもみんな女子{をなご}は一生{いつせう}に男{おとこ}といふ

(7オ)
は唯{たゞ}ひとりふたりと肌{はだ}をふれるのはどんな本{ほん}に
も年{とし}〴〵の合巻{くさざうし}にもない事をよう見て聞{きい}ていた
づらな顔{かほ}にも咲{さき}し初紅葉{はつもみぢ}杉田{すぎた}の梅{うめ}の香{か}もしらぬ。
「その江{え}のしまに雪{ゆき}の下{した}あの石部屋{いしべや}で丁度{てうど}まア
かたいおまゑとあいやどの弁天{べんてん}さんの引合{ひきあは}せはじ
めてこはいはづかしい。跡{あと}で嬉{うれ}しい枕{まくら}して夫{それ}から旅{たび}の
夢見艸{ゆめみぐさ}下畧」
【らく】「ヲヤ丁度{てうど}いゝ辻占{つぢうら}ちやアありませんか。」【惣】「チツト請取{うけとり}にくいお半ダナ。

(7ウ)
はじめてこはい。はづかしいでもあるめへ。」【らく】「亦{また}其様{そん}な憎{にく}まれ
口{ぐち}を。お聞{きゝ}被成{なはい}ますヨ。たツた今お前様{まはん}。成{なる}ほど左様{さう}だらう
とお言{いひ}なすつたぢやアありませんか。」【惣】「アイ〳〵恐入{おそれいり}ます。ヲイ障
子{しやうじ}を明{あけ}ねへナ。」【らく】「ハイひどく暖{あつ}くなつて来{き}ましたねへ。」ト惣次郎を
尻目{しりめ}に見なして莞爾{につこり}笑{わら}ひながら障子{しやうじ}を明{あけ}に立{た}ツ。【惣】「ヲイ〳〵
そこの障子{しやうじ}よりやアこツちの窓{まど}を明{あけ}ねへ。」【らく】「ヲヤ〳〵菜畑{なばたけ}が
奇麗{きれい}で。ございます事{こと}。此様{こん}な処{ところ}にゐたら。暖気{のんき}で長生
を致{し}ませうね。」【惣】「ナニ居{ゐ}ついて見ると左様{さう}でも。ねへとみえて

(8オ)
寮番{りやうばん}の爺{おやぢ}なんざア江戸向{えどむき}へ出て来{く}ると帰{かへ}るのを否{いや}がる
はナ。なんでも珍{めづ}らしい。うちは宜{いゝ}が毎日{まいにち}ぢや鼻{はな}につくのが人情{にんじやう}
だア。」【らく】「お前様{まはん}はさう。吾儕{わちき}やア亦{また}左様{さう}ぢやアありません。一{いつ}ツ
端{たん}斯{かう}と思つた事{こと}は否{いや}になるの。倦{あき}るのといふ事{こと}はありま
せん。」【惣】「とんだ所{ところ}で揚足{あげあし}を。取{と}られるものだ。トキニ最{も}う日{ひ}が
暮{くれ}るだろう。徐{そろ}〳〵出かけるとしやせう。」【らく】「マア宜{いひ}ぢやアあり
ませんか。」【惣】「左様{さう}でねへヨ。お前{まへ}は兎{と}も角{かく}も他{ほか}の仁達{ひとたち}もある
から今日{けふ}は。帰{け}へツて亦{また}何処{どこ}ぞで逢{あを}ふ。」【らく】「アヽ夫{それ}ぢやア左様{さう}

(8ウ)
しませう。」ト鬢{びん}のほつれを。掻揚{かきあげ}ながら。帯{おび}〆直{しめなを}して。立出{たちいづ}
れば【鯉】「さア〳〵目つけた〳〵。何処{どこ}へ穴{あな}ツ|這入{はいり}を被成{なさる}のだ。肝心{かんじん}
の鬼{おに}が玉{たま}なしに成{な}ツちやアかくれんぼも仕舞{じやん〳〵}ダ。」【こう】「ヲヤ〳〵
お楽様{らくさん}何処{どこ}へ往{いつ}てお在{いで}だ。」【らく】「何処{どこ}へも往{い}きやアしないがネ。」
トお幸{こう}の耳{みゝ}に口{くち}をよせて。何{なに}やら私語{さゝや}く。お幸{こう}も莞爾{につこり}笑{わら}
ひながら【こう】「ヲヤ左様{さう}。夫{それ}ぢやアなんぞ御奢{おおごり}ヨ。」【らく】「アヽ奢{おご}るとも
〳〵。なんでも。お好{このみ}次第{しだい}。」【こう】「左様{さう}いへばお楽様{らくさん}。些{ちつ}と痩{やせ}た様{やう}
だね。」【らく】「おふざけでないヨ。」トいふ時{とき}。惣次{そうじ}郎も出来り【惣】「左楽

(9オ)
子{さらくし}や小照{こてる}さんは。」【こう】「今{いま}来{き}ますだろう。」トいひながら惣次{そうじ}郎
の顔{かほ}を見て笑{わら}ツてる。【惣】「お幸{こう}さん人{ひと}の顔{かほ}を見て否{いや}に笑{わら}
ふの。」【こう】「なんぞお奢{おご}り被成{なさい}ませうね。」【惣】「勿論{もちろん}サ。」【小】「ヲヤ〳〵お楽さん。」
【左】「やつと探{さが}し当{あて}タ。なんだか。鬢{びん}のほつれ塩梅{あんばい}なんざア何
様{どう}もあやしい。」【惣】「サア〳〵出船{でふね}と致{し}やせう。」【左】「最{も}う刻限{こくげん}も徐〻{そろ〳〵}
宜敷{よろしう}ございやせう。」【鯉】「しかし迚{とて}もの事{こと}に堤{どて}の篝火{かゞりび}といふのを
見じやせう。」【惣】「是{これ}から夕飯{やしよく}でも調{しら}べるうちにやア丁度{てうど}篝火{かゞりび}
にも宜{いゝ}時分{じぶん}に。なりやせう。」【こう】「夫{それ}よりやアいつそ。今夜は此方{こちら}

(9ウ)
へ止宿{とまる}として。左楽様{さらくさん}の咄しでも聞うぢやア有{あり}ませんか。
夫{それ}ともお宅{たく}の首尾{ほう}がわるくツちやアいけませんけれども。」
トいふはお楽が心根{こゝろね}を。をしはかりたる苦労人{くろうにん}【惣】「自己{おいら}の方{ほう}は
何様でも宜{いゝ}が御|前達{まへたち}の宅{うち}で。案{あん}じやア仕{し}ねへか。」「ナニお前
様{まはん}随分{ずいぶん}素人座敷{しろうとざしき}や。何かぢや一晩{ひとばん}ぐらい止宿{とまる}事{こた}アいくら
も有まさア。」【こう】「夫{それ}ぢやア斯しませう。今に清助殿{せいすけどん}が[箱まはしなる
べし]迎{むか}ひに。来{き}ませうから其時よく左様{さう}言{いつ}て遣{や}りませう。」【惣】「夫
ぢやア左様{さう}するとして。左楽{さらく}さんお前{めえ}。夜講{やこう}は。」【左】「ヘイ。吹{ふき}ぬきで。

(10オ)
御|座{ざ}いますが一ト晩{ひとばん}ぐらゐ宜{よう}ございます。」【惣】「夫{それ}ぢやアそれ
で宜{よし}と。鯉{り}中子も宜{よか}ろう。」【鯉】「私{せつ}などは天|竺{ぢく}浪人{ろうにん}同様{どうやう}ナ身
分{みぶん}だから一向{いつこう}平気{へいき}サ。」【惣】「夫{それ}ぢやア双方{さうほう}大|極{きま}りダ。」ト是{これ}
より魚十{うをじう}へ夕飯{ゆうはん}を。誂{あつら}へ程{ほど}よく食事{しよくじ}も整{とゝの}ひて。例{れい}の
左楽が落語{らくご}をはじめ。小唄{こうた}一中{いつちう}河東節{かとうぶし}。思{おも}ひ〳〵の
芸尽{げいづく}し終{おは}りて。後{のち}は夫〳〵にお幸{こう}と小照{こてる}の二人{ふたり}をば六
|畳敷{じやうじき}の間{ま}へ寝{ね}せて。左楽|鯉中{りちう}を次{つぎ}の間{ま}へ寝{ね}せ残{のこ}る
両個{ふたり}は。何をか成{な}す。先{まづ}看官{ごけんぶつ}察{さつ}して読{よみ}給{たま}へかし。

(10ウ)

第四回
性{せい}は善{ぜん}にして邪{よこしま}なる事{こと}なしとは。いへど見るなといへる
は果{はた}して見たく。喰{たべ}よと進{すゝ}むは嗅{かぐ}だにいぶせく難面{つれなき}
人が恋{こひ}しくて。実{じつ}ある仁{ひと}を小蝿{うるさし}とおもふはなべての人
情世態{にんじやうせいたい}。さればおくみは去年{こぞ}の冬{ふゆ}母{はゝ}が死際{いまは}の遺言{ゆいごん}に春{はる}
はかならず吉日{きちにち}を選{えら}んで祝言{しうげん}さすべく儘{まゝ}。夫婦{ふうふ}中{なか}よく
せよかしと曰{のたま}ふ事{こと}の嬉{うれ}しさに月日に指{ゆび}を折〳〵は神{かみ}に
仏{ほとけ}に願事{ねぎごと}して。楽しむ事{こと}も仇名草{あだなぐさ}。露{つゆ}か泪{なみだ}か晴{はれ}やらぬ

(11オ)
風情{ふぜい}を見てとる。下女お咲{さき}【咲】「モシおくみ様{さま}今日{けふ}のやうな
御天気{おてんき}に。お仕事|斗{ばか}り。致{し}て|被為入{いらしつて}は。いツそお気{き}がむ
すぼれます。室町{むろまち}へ。お文{ふみ}でも御上|遊{あそ}ばしてお絹様{きぬさま}と
御|一緒{いつしよ}に御|芝居{しばゐ}へでも。|被為入{いらつしやい}ましな。彦三郎{ひこさぶろう}のとな
せが大造{たいそう}宜{よい}と申す評判{ひやうばん}でございます。」【くみ】「さうかへ。彦三{ひこさ}のとなせは嘸{さぞ}宜{よか}ろう。吾儕{わたし}は芝居{しばゐ}も別{べつ}に見度とも。
思はないがお前{まへ}が其様{そんな}に見たけりやア若旦那様{わかだんなさま}に
伺{うかゞ}ツて。宜{よい}と被仰{おつしやつ}たら。往{いこ}うはね。」【咲】「ナニ貴君{あなた}構{かま}う事{こと}が

(11ウ)
あります物{もの}か。若旦那{わかだんな}さまは。毎日{まいにち}〳〵内{うち}を外{そと}にばかり
して。お在遊{いであそ}ばすものを貴君{あなた}もお芝居{しばゐ}ぐらゐへ被為
入{いらしやる}のは。あたりまへでございますは。夫{それ}で。モシお腹{はら}でもお立
遊{あそ}ばしたら室町{むろまち}へお帰{かへ}り遊ばしましな。夫{それ}も全体{せんたい}貴
君{あなた}が御|気{き}が宜{いゝ}からですは。止宿{とまつて}なんぞお帰{かへ}り遊{あそば}したら。
おも入|喰付{くいつい}てでもお遣{やり}遊{あそ}ばすと些{ちつと}は生が附{つき}まさア。
夫{それ}も左様{さう}なり全体{ぜんたい}男{おとこ}ぶりが。宜{よ}過{すぎ}るもんですから
方{ほう}〳〵て女が。小蝿{うるさい}のでございますヨ。モシ斯{かう}遊{あそば}せな。今晩{こんばん}

(12オ)
にも若旦那様{わかだんなさま}がお帰{かへ}り遊{あそ}ばしたら。薑擦{わさびおろし}でお顔{かほ}をひ
ツ掻{かい}て。さうして焼火箸{やけひばし}でもおツ付てお遣{あげ}遊{あそ}ばせ。」【くみ】「咲{さき}の
やうに。気{き}を持{もつ}て居{ゐ}られると宜{よい}ねへ。併{しかし}串戯{じやうだん}にも其様{そん}
な事{こと}を。御言{おいゝ}でない。」【咲】「実正{ほんとう}に悔{くや}しいやうでございますネ。」
【くみ】「夫{それ}だツても勿体{もつたい}ない。どうして其様{そん}な事か出来る
ものかね。たとへ若旦那{わかだんな}が。他{ほか}に何様{どん}なお楽{たの}しみがあらう
とも夫{それ}は男{おとこ}の働{はた}らきといふもの。殊{こと}に一ツ端{いつたん}爰{こゝ}へ来{き}た
からは。生て再{ふたゝ}び帰{かへ}るナト御|兄上様{あにいさん}が常住{ふだん}からの御教

(12ウ)
訓{ごきやうくん}。重{かさ}ねて其様{そん}な事を言{い}やると。若旦那様{わかだんなさま}に左様{さう}
申すから。其気で在{いや}。」と貞操{ていさう}全{まつた}きおくみが放言{ことば}を。次{つぎ}の
間{ま}で。聞{きゝ}ゐたるお花{はな}は夫{それ}へ在来{いできた}り[是{これ}は里方{さとかた}よりついてきたる女也]【はな】「お咲殿{さきどん}
うか〳〵。遊{あそ}んでゐずとも御二度{おにど}の仕{し}かけでも。お仕{し}でないか。」
ト叱{しか}り附{つけ}られ。面{つら}ふくらしとつかは勝手{かつて}へ立てゆく。【花】「只今{たゞいま}
咲{さき}が申た事を実正{ほんとう}にも思召{おぼしめし}ますまいが。」ト[すこし小ごゑになり]「アレは
善様{ぜんさま}の味方{みかた}で。ござゐますから油断{ゆだん}がなりませんぜ。」【くみ】「アヽ
夫{それ}は吾儕{わたし}も。知{し}ツてるヨ。夫{それ}だから態{わざ}と若旦那{わかだんな}に左様{さう}申す

(13オ)
と言{い}ツて。遣{や}ツたは。」【花】「能{よ}く被仰{おつしやい}ました。モシおくみ様{さま}。定{さだ}めし
貴君{あなた}も此{この}程{ほど}は御|心細{こゝろぼそ}うおぼしませうが。若旦那{わかだんな}さまの
御|身持{みもち}も御|内室様{しんぞさま}でも御|繁昌{はんじやう}で。当春{とうはる}御|祝言{しうげん}でも。
済{すみ}ましたら。あのやうな御|気{き}にも。お成{なり}遊{あそ}ばしますまいが
夫{それ}も是{これ}も皆{み}ンナお牧様{まきさま}のお差曲尺{さしがね}で。其御|沙汰{さた}もない
故{ゆへ}に御|発明{はつめい}でもお若{わか}イ事{こと}。はじめは御|友達{ともだち}にでもお誘
引{さそわれ}遊{あそ}ばして夫{それ}がつゐ病{やみ}つきで。此様{こんな}に内{うち}を外{そと}に遊{あそ}ばす
やうに。御|成{なり}遊{あそ}ばしたのでございませうが直{じき}に亦{また}お心が直{なを}

$(13ウ)
お咲
おくみ

$(14オ)
聞もうき
噂はなしや
はるの宵
柳美

(14ウ)
ツて元の通{とを}りに御|優{やさし}くお成{なり}遊{あそ}ばしませうからかならず
御|短気{たんき}を。お出{だ}し遊{あそば}すな。」【くみ】「夫{それ}はおまゑの異見{いけん}がなくても。
生て里方{うち}へは帰{かへ}らぬつもり。斯して爰{こゝ}にさへ居れば。若旦
那様{わかだんなさま}が御|邪見{じやけん}でもお牧{まき}さんにいじめられても。家{いへ}一|軒{けん}の
主人{あるじ}の女房{にようぼう}。室町{むろまち}へ帰{かへ}れば喰客{ゐさうろう}。夫{それ}も左様{さう}なり若旦那
様{わかだんなさま}も吾儕{わたし}には御|邪見{じやけん}なやうでも。室町{むろまち}の方{ほう}へは何角{なにかと}目{め}を
かけて被下{くださる}と言ツて。お姉様{あねいさま}がいつそ。およろこび。」【はな】「左様{さう}ダ
さうで。ございます。此{この}間{あいだ}吾儕{わたくし}が先方{あちら}へ参{まい}ツた時{とき}もお姉{あね}イ

(15オ)
様{さま}が種{いろ}〳〵とお咄しのうちに。若旦那{わかだんな}が御信切{ごしんせつ}に何かの
お世話{せわ}を下さるから。あれでは定{さだ}めしお組{くみ}にもおやさし
からう。男{おとこ}ぶりなら御気立なら。爰{こゝ}と言{い}ツて。点{てん}の打所{うちどころ}の
ない。あんなお仁{かた}を聟{むこ}に取{と}ツたは私{わたし}どもの僥倖{しあはせ}。あれも又
此{この}うへのない果報者{くはほうもの}と夫{それ}は〳〵御よろこびで。ございました。」ト
いはれておくみは両眼{りやうがん}に少し泪{なみだ}をうかめ【くみ】「此{この}間{あいだ}のお文{ふみ}に
もホンニお前{まへ}は僥倖者{しあはせもの}。みんな近所の友達{ともだち}が浦山{うらやま}しがつて。
お在だと此方{こちら}のやうすは。御|存{ぞん}じなく喜{よろこ}ンでゐる姉{ねへ}さんや

(15ウ)
浦{うら}山しがる皆{みな}さんより果報{くはほう}と名{な}のつく吾儕{わたし}のつらさ。
察{さつ}してお呉{くれ}。」とばかりにて|四辺{あたり}憚{はゞ}かるしのび泣{なき}【花】「モウ〳〵
其様{そん}なに。きな〳〵思{おぼし}召めさずに若旦那様{わかだんなさま}のお心がお*「思{おぼし}召めさず」の「め」は衍字
直り遊{あそ}ばすやうに被成{なさい}ましな。」【くみ】「左様{さう}致{し}たいのは山〳〵だ
けれども何様{どう}すれば。左様お被成{なんなはる}か吾儕{わたし}にやアしれ
ないものヲ。」【花】「なにもむづかしい事{こと}はございませんヤネ。まだ
御|婚礼{こんれい}こそ。遊{あそ}ばしませんけれども貴君{あなた}の旦那{だんな}さまに
違{ちが}ひはございませんから。此夜{こんや}にも御帰り遊{あそ}ばしたら御|

(16オ)
部屋{へや}へ。|被為入{いらしつ}て御|苦労{くろう}を遊{あそ}ばす御咄しでも。被成{なすつ}ておも
入御あまへ遊{あそ}ばすとそこへ。いツては。男{との}がたは気の折{をれ}やすい
もので。ございますから直{じき}和合{なかゞよく}御成{おなり}遊{あそ}ばしますはネ。」【くみ】「夫{それ}
だツても。お前{まへ}のいふ通{とを}りに左様{さう}直{ぢき}に御やさしく遊{あそ}ばせば
宜けれどもきいた風{ふう}な奴{やつ}だとも思召て御|小言{こゞと}を被仰{おつしやる}
といけないね。」【花】「そこは。貴君{あなた}が一|生懸命{せうけんめい}に。思ひきつて。心
におぼしめす事{こと}を被仰{おつしやる}と終{つい}手がさはり足{あし}がさはり。それ
から後{のち}は何所{どつこ}へも|被為入{いらつしやる}のが否{いや}に御|成{なり}遊{あそ}ばすに。違{ちが}ひ御

(16ウ)
ざいません。」[おくみはかほをあかくなして]【くみ】「何様{どう}して其様{そん}な事が出来{でき}る物
かね。」【花】「人にこそ。よれ貴君{あなた}の御|亭主様{ていしゆさま}誰{だれ}がナント申ものが
ございませう。」【くみ】「夫{それ}でも間{ま}が悪{わる}くツて。」【花】「左様{さう}貴君{あなた}は。御気
が宜{いゝ}からいけません。ヲホヽヽヽヽ。併{しかし}もう昼飯{ごぜん}に間{ま}もございま
すまひ。ドリヤ御|支度{したく}でも致{いたし}ませう。」トとつかは立て行{ゆく}跡{あと}へ
【善】「何様{どう}だお組{くみ}さん。御仕事かへ。実正{ほんとう}に尊兄{あにき}は気がしれ
ねへ。お前{まへ}さんのやうな。美貌{うつくしい}実{じつ}のある人が宅{うち}に有ながら
柳河岸{やなぎがし}の芸者{げいしや}にうつゝをぬかすといふナアあんまりだ。

(17オ)
自己{おいら}なんぞと言{い}ツた所{ところ}がはじまらねへが。マア自己{わたし}が貴兄{あにき}
なら天辺{あたま}の物はいふに及{およ}ばず。帯{おび}や着物{きもの}も流行{はやり}もの
は欠{かゝ}さねへ。流行物{はやりもの}と言{い}やア此{この}間{あいだ}お前{まへ}さんに上やうと思{おも}
ツて西陣{にしぢん}へ。注文{ちうもん}した白茶地{しらちやぢ}の本国織{ほんこくおり}が漸{やう}〳〵出来て。
来{き}やしたから。どうせ御気にやア入{い}るめへが。何卒{どうぞ}しめておく
んなせへ。」ト。風呂敷包{ふろしきづゝ}みより帯を出す。【くみ】「ヲヤマア。結構{けつこう}な物
で。ございますねへ。吾儕{わたくし}が此様{こん}なのをしめましたツて。帯{おび}
が逃出{にげだ}しさうで御|座{ざ}いますから夫{それ}よりやア今{いま}に貴君{あなた}が

(17ウ)
お美麗{うつくしい}御|令室様{しんぞさま}の出来ました時{とき}御遣{おや}り遊{あそ}ばしたら
嘸{さぞ}お喜{よろこ}びで。ございませう。」【善】「自己{おいら}は一|生{せう}女房なんざア持{も}
ちやアしねへ。」【くみ】「なぜで御|座{ざ}いますへ。」【善】「なぜと言{いつ}て自己{おいら}
なんざア。誰{だれ}も女房に成人{なりて}はありやアしないやね。」【くみ】「味{うま}く
被仰{おつしやい}ます。」【善】「まア第一{だいゝち}。お前{まへ}さんからして否{いや}だろう。」【くみ】「吾儕{わたし}は
宜{よい}と存{ぞん}じたつてしかたがございません。」【善】「別{べつ}に仕{し}かたのな
い事もないやネ。斯{かう}いふとお前{まへ}さんに。気を持{もた}せる様{やう}な
もんだが。兄貴{あにき}はお前様{まへさん}を女房{にようぼ}に持気はなく。始終{しじう}は

(18オ)
お楽{らく}といふ唄女{げいしや}を宅{うち}へ入{い}れる気{き}でゐるのだから。その
時{とき}指{ゆび}を喰{くは}へるよりやア今の内{うち}に思案{しあん}を極{きめ}てお置{おき}
被成{なはる}が。宜{よう}ごぜへやすぜ。夫{それ}は左様と此{この}帯{おび}はどうせ。御気
にやア入{い}るめへが此度{こんど}の便{たよ}りに亦{また}お気に。入さうなもの
を注文{ちうもん}して。遣{や}りやせうから兎{と}も角{かく}も是{これ}を。取{とつ}てお置{おき}
なせへ。」【くみ】「難有{ありがたう}ございますが若旦那{わかだんな}さまに伺{うかゞ}つて。見まし
て頂{いたゞ}いて置{お}けと被仰{おつしやい}ましたらいたゞきませう。マア夫{それ}まで
貴君{あなた}の方{ほう}へお預{あづか}り遊{あそ}ばして被下{ください}まし。」【善】「何{なに}も其様に

(18ウ)
兄貴{あにき}に義理{きり}を。立{たて}ずとも宜{いゝ}やな。まだお前{まへ}さんは何{な}ン
にも。しるまいが兄貴{あにき}の身持のわるいのが京都{きやうと}の本
家{ほんけ}へ聞{きこ}えて先方{あちら}の主人{しゆじん}も以{もつて}の外{ほか}の立腹{りつふく}で此度{こんど}
別家頭{べつけがしら}の藤右衛門{とうゑもん}といふ仁{ひと}が下ツて。勘当{かんどう}される
といふ事だから。一所{いつしよ}にゐるのも最早{もう}些{すこし}の間{あいた}ダ。今更{いまさら}
室町{むろまち}へ。帰{かへ}られもせず。今{いま}のうちに。能{よく}思案{しあん}を。極{き}めて
お置{おき}被成{なせえ}。」トいはれておくみは。さなきだに案{あん}じわづら
ふ夫{おつと}の身{み}のうへ。かゝるべしとは夢{ゆめ}にだに。神{かみ}ならぬ

(19オ)
身{み}のしるよしなく何{いづ}れに御在{おはし}ましますか鳥渡{ちよつと}
なりとも。知{し}らせたやと首{くび}うなだれて。しばらくは
何{なん}の言葉{ことば}もなかりけり。
春色江戸紫初編中之巻終


----------------------------------------------------------------------------------
底本:国立国語研究所蔵本(W99/Sa66/1-2、1001952173)
翻字担当者:中野真樹、金美眞、銭谷真人
更新履歴:
2016年9月23日公開
2017年10月11日更新
----------------------------------------------------------------------------------
修正箇所(2017年10月11日修正)
丁・行 誤 → 正
(5ウ)3 貌{かほ} → 㒵{かほ}
(6ウ)8 男{をとこ} → 男{おとこ}
(7オ)6 後{あと}で → 跡{あと}で
(7オ)7 夢見草{ゆめみぐさ} → 夢見艸{ゆめみぐさ}
(8オ)2 否{いや}がるハナ → 否{いや}がるはナ
(11ウ)3 被為入{いらしやるの}のは → 被為入{いらしやる}のは
(11ウ)5 お帰{かへ}り遊{あそは}したら → お帰{かへ}り遊{あそば}したら
(12ウ)6 アレハ → アレは
(16オ)1 お咄しでも → 御咄しでも
(17ウ)8 女房{にようば} → 女房{にようぼ}

ページのトップへ戻る