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天草版平家物語あまくさばんへいけものがたり

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漢字仮名翻字テキスト

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天草版平家物語(漢字仮名翻字テキスト)

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凡例
1.頁移りは原本に従い、原本に付された頁番号をその頁の冒頭において括弧書きで示した。頁番号の記載のない冒頭部は(扉)、(序1)、(序2)、(序3)とした。なお原本で誤った頁番号が付与されている348、349、400頁にはそれぞれ訂正後の頁番号を付与した。
2.原本の改行に従い改行をし、各行の先頭に行番号を半角数字で入力した。行番号は頁内の通し番号である。
3.本テキストは『日本語歴史コーパス室町時代編Ⅱキリシタン資料』の漢字仮名交じりテキストを基に作成した。語の表記は、形態素解析辞書「UniDic」の「語形代表表記」の情報を用いて決定している。語形代表表記は、UniDicの持つ階層的な見出し構造のうち異語形を区別するレベルである「語形」についてもっとも代表的な表記を定めたもので、『日本国語大辞典』の表記を参考にしている(UniDicの階層構造についてはhttps://unidic.ninjal.ac.jp/glossaryを参照)。
4.語形代表表記が漢字のものはそのまま漢字表記とした。
5.語形代表表記が仮名のものはそのまま仮名表記とした。語形代表表記は現代語をベースに定められているため、歴史的仮名遣いではなく原本の表音主義の綴り字を反映した仮名遣いとなる。
〔例〕vouaſu→おわす narai→習い tatoye→例え
6.活用語の活用語尾についても以下のように原本のローマ字に従った表音的な仮名遣いとなる。
〔例〕vomouanu→思わぬ mochijrare→用いられ
7.ただし以下のとおり原本のローマ字表記に配慮して語形代表表記から仮名遣いを改めた箇所がある。
・ザ行の「じ・ず」とダ行の「ぢ・づ」は原本で原則書き分けているため、本テキストにおいても区別する。
〔例〕muzuto→むずと mazzu→先づ  najica→なじか togite→閉ぢて 
・長音を表す「à」・「â」は「あ」と翻字する。
〔例〕yà→やあ
・オ段長音のうち、「ŏ」で表される開長音のものは「ア段の仮名+う」、「ô」で表される合長音のものは「オ段の仮名+う」とする。
〔例〕 mucŏ→向かう Sô→そう
・動詞に意志・推量を表す助動詞「う」「うず」が後続するもののうち、上一段・上二段活用動詞等「イ段+う・うず」の融合形は拗音形で表記した。「エ段+う・うず」の場合は拗音形とせず、「エ段の仮名+う・うず」の表記とした。
〔例〕miô→見ょう  tçuqiôzuru→尽きょうずる caqeô→駆けう suchôzure→捨てうずれ
8..外国語の普通名詞・地名・人名等が現れる場合は全角のアルファベット表記とした。ただし全角での出力が不可能な「ſ」は「s」に置き換えている。
〔例〕Chriſto → Christo
9.句読点相当の記号は、原本の表記に応じて全角の「,/./:/;/!/?」を用いた。原本には不自然な箇所に句読点が打たれている場合があるが、修正は加えず原本どおりの位置に句読点を挿入した。
〔例〕cata,toqi→片,時
10.句読点以外の記号は、原本に現れる( )のみ使用した。
11.原本の分かち書き(アルファベット間の空白)は漢字仮名翻字テキストには反映していない。
12.固有名詞以外で明らかに原本の書き誤りであると判断できる箇所は、正しいと思われる語形に修正した。
〔例〕quabun no coco uoba vôxerarure, →過分の事をば仰せらるれ.
13.固有名詞で、原本どおりでは指示対象が不明または間違った指示対象を指してしまう場合には、該当箇所をカタカナ表記とした。
〔例〕Axicauayama → アシカワ山(※「足柄山」の誤りとみられる箇所)
14.翻字した漢字の途中で原本ローマ字が改行している場合、漢字を仮名に改めることはせず前の行に収めた。
〔例〕ca/cuite→隠/いて
また、前の行に収めると句読点などの記号が次の行の頭に現れる場合は、記号も含めて前の行に入れることとした。
〔例〕no/chi, →後,/
15.人名や地名などの固有名詞の前に付される「f/t/c/q」などの記号は漢字仮名翻字テキストには反映していない。
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(扉)
1 日本の
2 言葉と
3 Historiaを習い知らんと
4 欲する人の為
5 に世話に和らげた
6 る平家の物語.
7 IESVSのCOMPANHIAの
8 Collegio天草に於いてSuperioresの御免
9 許としてこれを版に刻む物なり.
10 御出世よりM.D.L.XXXXⅡ.

(序1)
1 この一巻には日本の平家と言うHi
2 storiaと,Morales Sentençasと,EuropaのEso
3 poのFabulasを押す物なり.然ればこれ等の
4 作者はGẽtioにて,その題目も然のみ重
5 々しからざる儀なりと見ゆると言えども,且
6 つうは言葉稽古の為,且つうは世の徳の為,
7 これ等の類いの書物を版に開く事は,
8 Ecclesiaに於いて珍しからざる儀なり.斯く
9 のごときの極めは,Deusの御奉公を志
10 し,そのGloriaを希うに有り.然ればこのCol
11 legioに於いて今まで版に開きたる経はこれ等
12 の儀について定め置かるる法度の心当てに
13 応じて穿鑿したるごとく;この一部をも
14 Superioresより定め給う人々の穿鑿を
15 持って版に開きて良からんと定められたる物
16 なり.天草に於いてFeuereiroの.23.日
17 にこれを書す.時に御出世の年紀.1593.

(序2)
1 読誦の人に対して書す.
2 それIESVSのCompanhiaのPadre Irmam故
3 郷を去って蒼波万里を遠しとし給わず,
4 茫々たる巨海に船渡りして粟散辺地の扶
5 桑に跡を留め,天の御法を広め,迷
6 える衆生を導かんと精誠を抜きん出給う
7 事ここに切なり.余も又造悪不善の身
8 にして,些か持って功力無しと言えども,この
9 人々を師とし,その後方に従い,願いを同
10 じゅうす.これを物に比する時んば,蠅驥に付く
11 に異ならず:師ここに於いて余に示し給うは,
12 工匠の家屋を作らんと欲するには,先づそ
13 の器物を疾くし,漁人の魚鱗を得ん
14 と思う時んば,退いて網を結ぶに如く
15 事無し.されば我等この国に来たって,天の
16 御法を説かんとするには,この国の風俗を
17 知り,又言葉を達すべき事専らなり.か
18 るが故にこの両条の助けと成るべき日
19 域の書を我が国の文字に写し,梓に鏤
20 めんとす:汝その書を選んでこれを編めと:我
21 固より匠浅うして,才短し:力の
22 及ぶ所に有らざるに因って,千辞万退すと
23 言えども,Sanɛta Obedientiaの旨に任せ,是
24 非を論ぜず,貴命に従う物なり.然れば言
25 葉を学びがてらに日域の往事を弔うべき
26 書これ多しと言えども,なかんづく叡山の住侶,
27 文才に名高き玄恵法印の制作平家物
28 語に如くは有らじと思い,これを選んで書写
29 せんと欲するに臨んで,又我が師宣うは:
30 今この平家をば書物のごとくにせず,両
31 人相対して雑談を成すがごとく,言葉のてに

(序3)
1 はを書写せよとなり:その故を尋ぬれば,下学
2 して上達するは常の法なり:何ぞ基を
3 勤めずして末を取らんや?賢きより賢
4 からんとならば,その手立てを変え,一隅を守
5 るべからず.かるが故に言葉のてにはの
6 みに有らず,この国の風俗として,一人に数
7 多の名,官位の称え有る事をも避くべ
8 しとなり:故如何となれば,これ物の理を乱
9 すに因って,他国の言葉を学ばんとする初
10 心の人の為には大きなる妨げなり.
11 今この言葉を学ばんと自他企つる事
12 全く持って別の儀に有らず:尊き御主
13 Iesu ChristoのEuangelhoの御法を広めん為
14 なれば,この志願の便りと成らざる事を
15 ば皆持って除かずんば有るべからずとの儀
16 なり.余退いて愚案を加うるに,この事真
17 にその謂れ無きに有らず:一々持って皆然
18 なり.因って右の志願の充所に応じ,師
19 の命に従って,嘲りを万民の指頭に受けん
20 事を顧みず,この物語を力の
21 及ぶ所は本書の言葉を違えず書写し,
22 抜き書きと成したる物なり:伏して請う,博雅
23 の君子これを読んで,情深うして才の短き
24 を嘲弄する事無かれ.時に御出世.1592.
25 Dezembro.10.
26 不干Fabian慎んで書す.

(3)
1 平家
2 物語.
3 巻第一.
4 第一.平家の先祖の
5 系図,又忠盛の上の誉と,清
6 盛の威勢栄華の事.
7 物語の人数.
8 右馬の判官.喜一検校.
9 右馬の判官.検校の坊,平家の由来が聞
10 きたい程に,粗々略して御語り有れ.
11 喜一.易い事で御座る:大方
12 語りまらせうず.先づ平家物語の書
13 き始めには驕りを極め,人をも人と
14 思わぬ様なる者は軈て滅びたと言う
15 証跡に,大唐,日本に於いて驕りを極
16 めた人々の果てた容態を且つ申して
17 から,扠六波羅の入道先の太政大
18 臣清盛公と申した人の行儀の不
19 法な事を乗せた物で御座る.扠その
20 清盛の先祖は桓武天皇九代の

(4)
1 後胤讃岐の守正盛が孫刑
2 部卿忠盛の嫡男で御座る.この忠
3 盛の時までは先祖の人々は平
4 氏を高望の王の時下されて,武
5 士と成られて後,殿上の仙籍をば許さ
6 せられなんだ.然るを忠盛に鳥羽の院
7 と申す帝王得長寿院と申す寺を立
8 て,又三十三間の堂を作って一千一
9 体の仏を据えよ,その御返報にはど
10 こなりとも開かうずる国を下されうずると仰
11 せられた.然る所でかの堂寺を宣旨
12 のごとくに程経て造畢せられたに因って,その
13 折節に但馬の国が開いたを即ち
14 下されて御座った.鳥羽の院猶御感の
15 余りに内の昇殿を許されたに因って,忠
16 盛三十六の年初めて昇殿致された
17 所で,公家達がこれを嫉み憤っ
18 て,同じ年に或る時,忠盛を闇討ち
19 にせうずると談合せられたを忠盛も伝
20 え聞いて思わるるは:我は長袖の身
21 でも無し,武士の家に生まれた者が,今
22 不慮の恥に会わうずる事は家の為,身
23 の為心憂い事ぢゃ程に,詮ずる所
24 は身を全うして,君に仕えよと言う本

(5)
1 文が有るぞと言うて,予てその用意をせられた:
2 それと言うは,参内の始めから大きな鞘巻
3 を用意して,束帯の下に如何にもしどけ
4 な気に差いて,火の仄暗い方へ向かうて,やわ
5 らこの刀を抜き出いて鬢に引き当てられたれ
6 ば,余所からは唯氷やなどの様に見えた.
7 それに因って,諸人の目を澄まいてこれを見
8 まらした:その上かの忠盛の郎等元
9 は一門で御座った.家貞と言う者薄浅
10 黄の狩衣の下に萌黄縅の鎧
11 を着て,弦袋を付け,太刀を脇挟
12 うで,殿上の小庭に丁ど畏まって居た.
13 これを見てその所の番衆共が怪
14 しめて言う様は;そこに布衣の者が居るは何
15 者ぞ?狼藉な奴ぢゃ:出よ,出よと,責
16 めたれば,家貞これを聞いてその事ぢゃ,私
17 が相伝の主殿忠盛を今宵
18 各々闇討ちに召されうと有る事を伝
19 え聞いて御座る程に,その成られうずる様を
20 見届けうとて,斯くて罷り居る程に,えこそ
21 出で申すまじけれとて,猶揺り座った:これ
22 等を詮無い事と思われたかして,その夜
23 の闇討ちは御座無かった.
24 さう有って忠盛は御前で舞われて御座っ

(6)
1 たれば,公家達がこの人を嘲って拍子
2 を変えて,伊勢瓶子は酢瓶なりと言うて,囃され
3 て御座った:さうせられた子細は,忠盛中頃
4 都の住まいも疎々しゅう成って,伊勢の
5 国に住国勝ちに有ったに因って,その国の
6 器物に事寄せて,伊勢瓶子と申された.
7 その上忠盛目が眇で有ったに因って,
8 かう申されて御座った.さう有ったれども忠盛
9 も御前の事では有っつ,せう様も無うて,未だ
10 その御遊びも過ぎなんだれども,面目
11 無さにか密かに罷り出でらるるとて,横たえ
12 て差されたかの刀を紫宸殿の後ろで
13 皆人の見るに,有る人に預け置いて出られ
14 て御座った.かの郎等の家貞待ち受けて,
15 扠如何御座ったぞと申したれば,忠盛そ
16 の容態を知らせたう思われたれども,言うな
17 らば,殿上までも切り上りさうな者の面
18 魂で有ったに因って,別の事も無いぞと
19 答えられて御座った.
20 右馬.さてさてそれは徒らな事を公家
21 達はせられたの?
22 喜.その事で御座る.あの公家達が
23 この様な事をせらるる事は,今に始め
24 ぬ事で御座ある:それに因って中頃権

(7)
1 帥と申す人余り色が黒う御座ったに因って,
2 見る者共黒帥と異名を付けて御
3 座る.その人が右のごとくに,御前に
4 於いて舞われたれば,それも又公家達拍
5 子を変えて,あな黒々黒き頭哉,如何なる
6 人の漆塗りけんと言うて囃されて有った.又
7 忠雅公と申した御人が御座ったが,こ
8 れは十ばかりの時,父に遅れさせられて,
9 孤児に成らせられたを播磨の守と
10 言う人が婿に取って,如何にも華やかに持て
11 成されたが,この忠雅公も先のごとく
12 に,内裏で舞わせられたれば,又公家達の
13 細工に,播磨米は木賊か,椋の葉
14 か人の綺羅を磨くはと言うて,囃されて御
15 座った.
16 右馬.その様に悪口狼藉をせられたれど
17 も,皆人が堪えて居たよの?
18 喜.その事で御座る:上古には斯様の
19 事が御座ったれども,事が出で来なんだが,末
20 代には何と有らうぞと言うて,皆人も忠
21 盛の面目を失われた時は,気遣
22 いを致されたと,聞こえて御座る.
23 右馬.してそれは何と果てて有ったぞ?
24 喜.中々,猶先を語りまらせうず.扠

(8)
1 その侭でも置かれいで,殿上人達が一度
2 に又忠盛の事を帝王へ訴えられ
3 まらした:その子細は総別剣を帯して座敷
4 に連なり,兵仗を携えて内裏へ出で入り
5 をする事は別しての子細が無うては無い
6 事ぢゃに:この忠盛は相伝の郎等
7 ぢゃと申して,兵を内裏の御庭
8 に召し置き,或いは腰刀を差しなが
9 ら節会の座に連ならるる,この両条は
10 前代未聞の狼藉で御座るに因って,罪科
11 に行わせられいでは適わぬ儀ぢゃ程
12 に,官位をも剥がせられいでは適うまじいと
13 真っ黒に訴えられた.帝王も大きに驚
14 かせられて,即ち忠盛を召して,
1 この事は何とと,御尋ね有ったれば,忠
16 盛その時申さるるは:先づ郎等が御庭
17 まで伺候仕ったる事は全く拙
18 者が存じての儀では御座無い.但し近日御
19 前の人々私に対せられて何ぞ巧
20 ませらるる子細が有ると言う儀を伝え承
21 って,年頃の家人では御座り,その恥を
22 助けうずる為に,忠盛に知らせまらせい
23 で,密かに参って御座れば,更に力に及
24 ばぬ儀で御座る:若し,この上でも猶そ

(9)
1 の科有ると思し召すならば,かの身を召
2 し進ぜうずるか?次に又刀の儀は
3 軈て身内に預け置いて御座る:これを召
4 し出だされ御覧ぜられて,刀の実否に因って,科
5 の御沙汰をも為されうずるかと,申されたれば:
6 帝王これを聞こし召されて,実にもそれは尤
7 もぢゃ:先づ然らばその刀を取り寄せよ
8 と仰せられて,御覧為さるれば,上は鞘巻の
9 黒う塗ったに中は木刀に銀箔を置いて
10 差されて御座った.これは当座の恥辱を逃れう
11 ずる為に刀を差いた振りを人には見せら
12 れたれども,後日の訴訟を顧みて木刀
13 を差された.それに因って帝王もこの謀
14 は弓箭に携わる者の上には
15 尤も神妙な事を仕ったと仰
16 せられ,又郎等が御庭へ伺候仕った
17 事も武士の郎等の習いなれば,忠盛
18 が科では無いぞと仰せられ,以ての外叡
19 感為されたれば,罪科などの沙汰は夢に
20 も御座無かった.
21 右馬.さてさて忠盛と言う人はおぞい人
22 で有ったの?
23 喜.して,こればかりと思し召すか?忠
24 盛と言う人は文武二道の人で御座った.

(10)
1 それに因って或る時又忠盛備前の国
2 から都へ上られて御座ったに,帝王明
3 石表は何と有るぞと,御尋ね為され
4 たれば,その御返事には:
5 有り明けの月も明石の浦風に,
6 波ばかりこそ寄ると見えしが.
7 と,申し上げらるれば,帝王御感為されて
8 御座った.
9 右馬.それは如何ほどの齢を保たれて
10 有ったぞ?
11 喜.年五十八で死なれて御座る清
12 盛は嫡男で御座ったに因って,その跡を
13 継いで次第次第に官位にも上がり,遂には天
14 下をも一人してほしいままにせらるるほど
15 の威勢で御座った.
16 右馬.なう喜一序でにその清盛の
17 事をも聞きたいよ.
18 喜.こなたさえ草臥れさせられずは,私
19 は何ぼうなりとも語りまらせう.
20 右馬.いいや,この様な事をば身共等は
21 七日七夜聞いても飽かぬぞよ.
22 喜.それならば語りまらせう.清盛家
23 督を受け取られてより,右に申したごとく,
24 威勢,位も肩を並ぶる人も御座無かった.

(11)
1 扠清盛五十一の頃病に犯さ
2 れ,存命も不定に見えたに因って,その祈り
3 の為にか出家入道して法名をば浄海
4 と名乗られて御座った.天道からその所作を御
5 納受為さるる験にか,病も立ち所に
6 平癒して,人の従い付く事は真に
7 吹く風の草木を靡かすがごとく:又世
8 の遍く仰ぎ敬うた事は,宛ら降る
9 雨の国土を潤す様に御座った.それに因っ
10 てかの清盛の御一家の人々とさえ言え
11 ば,公家武家共に面を向かえ,肩
12 を並ぶる人も御座無かった.清盛の小
13 舅に時忠の卿と申す人が御座ったが,
14 この一門で無い人は皆人非人ぢゃと
15 申された.それに因って如何な人もその縁に
16 結ぼおれうと仕った.余りの事に
17 衣紋の掻き様,烏帽子の矯め様までも
18 六波羅様と言えば,一天四海の人々皆
19 これを学ぶほどに御座った.真に何
20 たる威勢位の有る人をも陰では悪
21 戯者は謗らいで適わぬ物なれど
22 も,この清盛の世盛りの程は些
23 か忽せにも申す者も御座無かった.そ
24 の子細は,清盛の謀に,十四五六

(12)
1 の童を三百人揃えて,髪を禿
2 に切り回し,赤い直垂を着せて使われた
3 が,京中に満ち満ちて往返仕った.
4 それに因って若し平家の事を悪しい様に
5 申す者が有れば,一人聞き出ださぬ程こ
6 そ有れ,三百人の者の内誰なりとも,
7 これを少し聞けば,軈て朋輩に触れ巡らい
8 て,その家に乱れ入って財宝,所帯道具までを
9 もこっと奪い取って,あまっさえ平家を謗った奴
10 をば搦め取って,六波羅へ引いて参った.こ
11 の様に御座ったに因って,平家の悪しい事共
12 を仮令目に見,心に知れども,言葉に表
13 わいてはえ申さなんだ.清盛の召し使
14 わるる禿とさえ言えば,道を過ぐる馬,
15 車も避けて通し,内裏の御門を出
16 入するにも何者ぞと咎むる者
17 も無く,真に都方にて威勢有る様
18 な人も目を側めて万事見ぬ振りをせら
19 れたと,申す.この清盛は我が身の栄
20 華を極めらるる事は申すに及ばず,
21 一門共に繁盛せられたに因って,世には
22 又人も無い様に見えたと聞こえて御座る.
23 姫君も八人まで御座ったが,面々
24 皆縁に付かせられた:その内に一人は

(13)
1 后に立たせられて皇子を御誕生有って後には
2 建礼門院と申した:人の崇め敬う
3 事は言語に及ばぬ儀で御座った.
4 右馬.して清盛の嫡子をば何と
5 言うたぞ.
6 喜.重盛と申した,又次男は宗
7 盛,三男をば知盛と申した:この
8 人々の威勢いづれをいづれとも申さうずる
9 様も御座無かった.
10 第二.重盛の次男
11 関白殿へ狼藉を為された事:こ
12 れ平家に対しての謀反の根源
13 と成った事.
14 右馬.迚もの事に平家に対して起こされた
15 謀反の起こりをまちっと御語り有れ.
16 喜.畏まって御座る:嘉応元年の事
17 で御座ったに:一院は御出家為されて御座った,
18 然れども御出家の後も,万機の政
19 をば聞こし召されたに因って,院の御所,
20 又は内裏の内と言うても分く方
21 も御座無かった.院の御所に召し使わるる
22 公卿殿上人,北面に至るまで宝,位,
23 皆身に余るばかりの体で有ったれども,

(14)
1 人の心の習いなれば,猶飽き足らいで,哀
2 れその人が滅びたらば,その国は開かうず,そ
3 の人が失せたらば,その官には成らうずるなど
4 と言うて,疎からぬ同士は寄り合い寄り合い,囁き
5 回られた.法皇も内々仰せられたは:昔
6 より代々の朝敵を平らぐる者も多
7 けれども,今の清盛が様に心の
8 侭に振る舞う者は無かった:これも世も
9 末に成り,王法も作る印ぢゃと仰せら
10 れたれども,序でが無ければ,御戒め為
11 さるる事も御座無かった.平家も又別して
12 朝家を恨み奉らるる事も無かった
13 に,世の乱れ初めた根本は過ぎし嘉応
14 二年に重盛の次男資盛の卿十
15 三の年で御座ったに,雪ははだれに降ったれ
16 ば,枯野の気色真に面白かった
17 に因って,若い侍共三十騎ばかり召し
18 具して,蓮台野や,紫野,右近の
19 馬場に打ち出て,鷹共数多据えさせ,鶉,
20 雲雀などを追っ立て,追っ立て終日狩り暮らいて,晩
21 景に及うで六波羅へ返らるるが,道で
22 関白殿の御参内有るに,鼻突に
23 ひたと入り会われた所で,皆人が何者
24 ぞ,狼藉な奴ぢゃ:関白殿の御

(15)
1 出成るに乗り物より下りよ,下りよと,制し
2 たれども,余りおごり勇うで世を世ともせぬ
3 上に,召し連れた侍共も皆二十歳
4 より内の若い者共なれば,礼儀骨法
5 を弁えた者は一人も無く,関
6 白殿の御出とも言わず,一切下馬
7 の礼にも及ばず,駆け破って通らうとする
8 所で,暗さは暗し,確確入道の孫
9 とも知らず,又少々は知ったれども,空
10 知らずして,資盛の卿を始めとして,
11 侍共皆馬より取って引き落といて大
12 きな恥を掻かれて御座った.
13 資盛は這う這う六波羅へ行って,祖父の清
14 盛禅門にこの由を訴えられたれば,
15 清盛は大きに怒って,仮令関白なりと
16 も清盛が辺りをば憚られうずる事ぢゃ
17 に幼い者に左右無う恥辱を与えられた事
18 は遺恨の次第ぢゃ:この様な事よりして
19 こそ人には欺かるるぞ:この事思い
20 知らせ奉らいでは置くまい:関白殿
21 を是非共恨み奉らうずると言われた
22 れば,重盛の申されたは:これは少し
23 も苦しゅうも御座無い儀ぢゃ.若し頼政
24 ぢゃは,光基などと申す源氏共に

(16)
1 欺かれたればこそ真に一門の恥辱
2 でも御座らうずれ,重盛が子供とて
3 有らうずる者の関白殿の御出に参
4 り合うて,乗り物より下りぬこそ尾籠に御座れと
5 言うて:その時殊に会うた侍共を召
6 し寄せ,自今以後も汝等良う心得い:誤
7 って関白殿へ無礼の由を申さうず
8 るとこそ思えと,言うて返られたれば:その後
9 清盛重盛に談合も召されず,
10 田舎の侍共の強らかな清盛
11 の仰せより他は又恐ろしい事も無い
12 と思う者共,難波瀬尾などと言う
13 者を始めとして,都合六千人余り
14 召し寄せて,来たる二十一日主上御元服
15 の定めの為に,関白殿御出
16 有らうずる程に,いづくにても有れ,待ち受けて
17 御供の奴原共が髻悉
18 く切って,資盛が恥を濯げと,言い付け
19 られた.関白殿はこれをば夢にも
20 知らせられず,主上御元服の御定め
21 の為に,常の御出よりも,引き繕うて
22 御座る所に,平家の兵共直兜
23 三百騎余り待ち受けて,関白殿
24 を中に取り籠め奉って,前後より一

(17)
1 度に鬨をどっと作って,御供の者共
2 が今日を晴れと出立ったをあそこに追っ掛け,
3 ここに追っ詰め,馬より取って引き落とし,散々
4 に打ち叩いて,一々髻を切った.それの
5 みならず御車の内へも弓の筈
6 突き入れなどして,簾かなぐり落とし,牛の
7 鞦,鞅切り離し,散々にし散らいて,喜
8 びの鬨を作って,六波羅へ返ったれば:
9 清盛これを聞いて,良うこそしたれと,褒められ
10 た.真に昔から今まで,関白殿
11 ほどの人がこの様な目に合わせられた事
12 は,聞きも及ばぬ事ぢゃ:これが平家の
13 悪行の始めと,聞こえて御座る.
14 重盛はこれを聞いて,大きに騒いで,その
15 所へ行き向かうたほどの者を皆勘
16 当して言われたは:仮令清盛如何なる不思議
17 を下知せらるるとも,何故に重盛に夢
18 ほどなりとも知らせなんだぞ?凡そは
19 資盛が曲事ぢゃ.栴檀は双葉よ
20 り香ばしいとこそ見えたに:既に十二三に成らう
21 ずる者が,今は礼儀を存じ知ってこそ振
22 る舞わうずるに,斯様に尾籠を現じて清盛
23 の悪名を立つる事,不孝の至りぢゃ.この
24 誤りは汝一人に帰すると言うて,暫く

(18)
1 伊勢の国へ追い下されたに因って,帝王もこれ
2 を聞こし召され,公家達も伝え聞いて,この
3 重盛をば別して感ぜられて御座った.
4 第三.成親卿
5 位争い故に,平家に対し謀反を
6 企てられた事が現われ,その身を始
7 め,与したほどの者搦め
8 取られ,その内に西光と言う
9 者は首を打たれた事.
10 右馬.扠平家の悪行は斯からぬ事
11 ぢゃの?
12 喜.その事で御座る:平家の悪行は
13 こればかりでも御座無い,その上無理な位争
14 いをして,数多の人々を越えて次男宗
15 盛右大将と言う官に上がられた.さう有った所
16 で,成親卿と申す人これを無念に
17 思うて,何とぞして平家を滅ぼいて本望を
18 遂げうずると企てられた.これも思えば,
19 要らぬ事で有った:親の卿に勝ってこの成
20 親卿は大きな国をも数多持たれ,又
21 子息所従共に朝恩に誇り,何の不足
22 も無かったに,この様な心の付いた事は
23 偏に天魔の所為と見えた.この成親卿

(19)
1 に限って平家に対して粗略有るまい事が
2 本意で御座る:その子細はその古信
3 頼卿と言う人に一味して平家に敵対わ
4 れたに因って,既に誅せられうずるに定まったを
5 重盛様々に申して首を継がれ
6 たに,その恩を忘れて外人も無い所
7 に兵具を整え,武士を語らい置いて謀反
8 の営みの他には他事無かった.東山
9 の麓鹿の谷と言う所は良い城
10 で有ったに因って,ここに常は寄り合い寄り合い平家
11 を滅ぼさうずるとの謀を巡らされ
12 たと申す.或る時法皇も御幸為されたれば,
13 浄憲法印と言う人も御供せられて御
14 座った.その夜の酒宴にこの謀反の事
15 を仰せ合わされて有ったれば,浄憲の申された
16 は;扠もこれほど数多の人の聞きまらす
17 に然様の事はな仰せられそ:若し漏れ聞こ
18 えたらば,天下の大事に及びまらせうずると,言わ
19 れた所で;成親卿気色を変えて,ざっと
20 立たれたが,御前に有った瓶子を装束の袖に
21 掛けて引き倒されたを,法皇あれはと仰せられた
22 れば,新大納言立ち返って平氏倒れて御座
23 ると,申されたれば,法皇笑壺に入らせられ猿
24 楽共参って,曲を仕れと,仰せ

(20)
1 られた所に,康頼と言う人余り平氏の
2 多いに以て酔うたと,申されたれば:俊寛それ
3 をば何とせうぞと言われたれば:西光法師首
4 を取るには如かぬと,言い様に,瓶子の首を
5 取って内に入られた.浄憲これを見て余りの
6 事に呆れて,確確物をも言われなんだ.そ
7 の謀反に与した者は数多有った中に,
8 先づ俊寛,康頼,西光,又行
9 綱などと言う者で御座った.成親卿
10 行綱を呼うで御辺をば一方の大将に
11 頼むぞ:この事し果せて有るならば,国
12 をも,庄をも所望に任せうず:先づ弓
13 袋の料にと言うて,白布五十反贈
14 られた.
15 軈て勢をも揃え謀反を企てられう
16 ずる事で有ったれども:その折しも比叡
17 の山に難しい事が出来たに因って,成
18 親卿は私の宿意を暫くは留
19 められて御座った.然れども内儀に於いて
20 の支度は様々で有った:然れども催
21 しばかりでこの謀反適いさうにも見え
22 なんだ所で,行綱この謀反に与
23 する事は,無益ぢゃと,思う心が付い
24 て,弓袋の料に贈られた布共を

(21)
1 ば直垂,帷子に裁ち縫わせて,家の子郎
2 等共に着せて,目打ち瞬いて居たが:平
3 家の繁盛する容態を見るに,当時容易う傾
4 け難い儀ぢゃに,由無い事に与した物
5 哉!若しこの事が漏れ聞こえたならば,
6 行綱先づ失われうず,他人の口
7 より漏れぬ先に,返り忠して命生かうと
8 思う心が付いたに因って:同じ年の五
9 月二十日頃の小夜更け方に,行綱
10 清盛の下へ参って,行綱こそ
11 申さうずる子細有って,これまで参ったと,言わせたれば:
12 清盛常にも来ぬ者の来たは何
13 事ぞ?あれ聞けと言うて,盛国と言う者を
14 出だされたれば,人伝てに申すまじ事ぢゃと言う
15 に因って:然らばと言うて,清盛自ら中
16 門の廊まで出でて,夜は遥かに更けたと見
17 えたに,只今これまで来たらるる事は何
18 事ぞと,問われたれば:昼は人目が繁う御座
19 るに因って,夜に紛れて参った.この程院中
20 の人々軍兵を集めらるる事をば何
21 事とか聞かせられた?それは比叡の山を
22 攻められうず為と聞いたと,事も無気に言わ
23 れた時,行綱近う寄り,小声に成って申
24 したは:その儀では御座無い,只管御一家の

(22)
1 上とこそ承って御座れ.法皇もしろ
2 しめされたか?子細にや及ぶ:成親卿
3 の軍兵を集めらるるも院宣とてこそ呼
4 ばせらるれ:俊寛がと振る舞うて,康頼
5 がかう申して,西光がと申してなどと言う
6 事まで,始めから有りの侭には差し過ぎて
7 言い散らいて,御暇申すと言うて出でたと,聞こえ
8 まらして御座る.その時清盛大きに驚
9 いて大声を上げて侍共呼び,罵
10 らるる事夥しかった.行綱なましい
11 なる事言い出だいて証人にか引かれうと恐ろしさ
12 に大野に火を放いた心地をして,人も追わ
13 ぬに,取り袴して急いで門外へ出でた,清
14 盛先づ貞能と言う者を呼うで当
15 家を傾けうとする謀反の者共が
16 京中に満ち満ちたぞ;一門の人々
17 にも触れい,侍共をも催せと
18 言われたれば,馳せ回って催すに因って,宗
19 盛,知盛,重衡,行盛その他
20 の一門の人々を始めとして,兵
21 共甲冑を鎧い,弓,矢を帯して雲
22 霞のごとく馳せ集まったに因って,その夜の内
23 に西八条に兵共六七
24 千騎は有らうと見えた.明くれば六月一日

(23)
1 の未だ暗かったに,清盛,資成と
2 言う者を呼うで,院の御所へ参れ:信
3 業を招いて申さうずる様は:夜な夜な近
4 習の人々この一門を滅ぼいて,天下を
5 乱らさうずると企てらるるに因って,一々
6 に召し捕って尋ね沙汰致さうずる:それをば君
7 もしろしめされまじと申せと,言われたれば:
8 資成急いで御所へ馳せ参って,ノブフサ
9 を呼び出だいてこの由を申せば:その人も
10 色を失うて御前へ参ってこの由を奏聞
11 せられたれば,法皇は早これ等が内々巧ん
12 だ事が漏れたよと思し召されて驚かせ
13 られ,これは何事ぞとばかり仰せられて,分
14 明に御返事も無かった.資成急いで馳せ
15 帰って清盛にこの由を申したれば,さ
16 ればこそ行綱は真を言うた:この
17 事を行綱が知らせずは,清盛安
18 穏に有らうかと言うて,軈て謀反の輩を
19 搦め取れと,下知せられたれば,二三百騎ほど
20 づつあそこここに押し寄せ,押し寄せ搦め
21 取って御座る.
22 扠成親卿の下へ申し合わせうず
23 る事が有る程に,急度立ち寄らせられよと,
24 言い送られたれば,ナリカチ卿は我が身の上

(24)
1 とは露ほども御知り無うて,哀れこれは
2 法皇の比叡の山を攻めさせられうと有る
3 を,申し留むる為に,呼ばるると御心
4 得有って,結構な車に乗り,侍三四人
5 連れて,常よりも引き繕うて出でられた.真
6 にそれが最後とは後に思い知られて
7 御座った.西八条近う成って見らるれば,四五
8 町ばかりが間に軍兵共満ち満ちて
9 有ったに因って,扠も夥しい事哉!これは
10 何事ぞと,胸打ち騒いで車より下り
11 て門の内へ差し入って見られたれば,内にも
12 兵共暇,狭間も無う満ち満
13 ちて居た:中門の口に恐ろしさうな武士
14 共数多待ち受けて,成親卿の左右
15 の手を取って引っ張って,縄を掛けまらせうかと
16 言うたれば:清盛御簾の内から見出だいて
17 有るべうも無いと言われたに因って,武士共十四
18 五人前後左右に立ち囲うで縁の上に引
19 き上せて,一間な所に押し込うで置いた.
20 成親卿は夢の心地してつやつや
21 物をも言われなんだ.供をした侍共
22 も押し隔てられて散り散りに成り,雑色,牛
23 飼い共も色を失うて,牛,車を捨てて

(25)
1 逃げ去った.さうする所に,この謀反に与
2 したほどの者を悉く搦め取って参
3 って御座る.
4 西光はこの事を聞いて,扠は我が身の
5 上ぢゃと思うて,鞭を打って,院の御所へ馳
6 せ参る所に,平家の侍共道
7 で馳せ向かうて,西八条へ召さるるぞ急
8 度参れと,言うたれば:申し上ぐる子細が有って院の
9 御所へ参る,軈て帰り参らうと,言うたれども,
10 憎い入道哉!何事を奏聞せうぞ,然な
11 言わせそと言うて,馬より取って引き落とし,宙に括
12 って,西八条へ下げて来た.日の始めから,
13 固より与力の者で有ったれば,殊に強
14 う戒めて,坪の内に引き据えたれば:
15 清盛大床に立って,この一門を傾
16 けうとする奴が成った様は!しゃつここ
17 へ引き寄せよと言うて,縁の際に引き寄せて
18 物履きながら,しや面をむずむずと踏ん
19 で言わるるは:固より己が様な下臈
20 の果てを君の召し使われて,為さるまじ官
21 職を下され,父子共に過分の振る舞い
22 をすると,見たに違わず過分の振る舞い
23 をするのみならず,あまっさえこの一門を
24 滅ぼさうずるとの謀反に与した奴ぢゃ.

(26)
1 有りの侭にその容態を申せと有った所
2 で,西光は固より優れた大剛の者
3 では有り,些とも色も変ぜず悪びれた体
4 も無う,居直り嘲笑うて申したは;然も候ず,清
5 盛公こそ過分の事をば仰せらるれ,
6 他人の前は知らず,西光が聞かうずる所
7 では,然様の事をばえ仰せられまい.院
8 中に召し使わるる身なれば,成親卿
9 の院宣と言うて催された事に与せぬと
10 は申さうずる様も無い,それは組み仕った:
11 但し耳に留まる事を仰せらるる物
12 哉!御辺は忠盛の子で有ったれども,
13 十四五までは出仕もえ召されず,家成の
14 卿の辺に立ち寄らせられたをば,京童
15 は高平太とこそ申したが,保延の頃大
16 将軍を承って,海賊の張本三
17 十人余り絡めて進ぜられた恩賞に四品
18 して,四位の兵衛の助と申したをさえ,
19 過分の事ぢゃと時の人々は申し
20 合われたに,殿上の交わりをさえ嫌われた人
21 の子で,太政大臣まで成り上がったか?過
22 分におりゃらうず:侍ほどの者の受領
23 検非違使に成る事例無い事では無い:
24 何故に過分に有らうぞと憚る所も無う

(27)
1 申したれば,清盛は余り怒って物も
2 言われなんだ;暫し有ってしゃつが首左右無う切るな,
3 良く良く戒めて置けと,言われたれば:重
4 俊と言う者これを聞いて足を挟うで様
5 々に痛めて問うた:固より抗わぬ上に
6 責めは厳しし,残り無う申したを白状四
7 五枚に記いて,軈てしゃつが口を裂けと
8 言うて口を裂かれ,首を撥ねられた:その他
9 一門眷属まで成敗に会いまらした.
10 扠成親卿は一間な所に押し
11 込められて汗水に成って,哀れこれは日頃
12 のあらまし事が漏れ聞こえたと見えた:誰が
13 漏らいたか,定めて北面の者共が
14 中に有らうずと思わぬ事無う案じ続けて
15 おぢゃった所に,後ろの方から足音が
16 高う聞こえたれば,すわ我が命を失わうず
17 るとて,武士共が来たると待たるる所
18 へ:清盛自ら板敷高らかに踏
19 み鳴らいて,大納言の居られた後ろの障子を
20 ざっと開けられたを見らるれば,素絹の衣
21 の短らかなに白い大口踏み含うで聖柄
22 の刀押し寛げて,差す侭に以
23 ての外怒った気色で成親卿を暫し
24 睨うで,抑御辺は平治にも既に誅

(28)
1 せられうずる人で有ったを,重盛が身に
2 変えて申し宥め,首を継ぎ奉った
3 に,何の遺恨を持ってこの一門を滅ぼ
4 さうずるとの企ては何事ぞ?恩を知る
5 者を人とは言う,恩を知らぬをば畜
6 生とこそ言え.然れども当家の運が尽きぬ
7 に因って,迎え奉った:日頃の御結構
8 の次第直に承らうずると,言われたれば:
9 成親卿全く然様の儀は御座無い:人
10 の讒言で御座らうず:良く良く尋ねさ
11 せられいと,陳ぜられたれば:清盛言わせも果
12 たさいで:人や有る,人や有ると呼ばれたれば:貞
13 能がそこへ参ったに:西光が白状持って
14 来いと言うて:請い寄せて二三遍押し返し,押し返
15 し,読み聞かせ:あら憎や,この上は何と
16 陳ぜうぞと言うて:成親卿の顔にざっと投
17 げ掛けて,障子を丁ど立てて出でられたが:清
18 盛猶腹を据え兼ねて,経遠兼康と
19 呼ばれたれば,そこへ参ったに:あの男取って庭
20 へ引き落とせと,下知せられたれども:これ等左右無う
21 もせず,畏まって重盛の御気色何
22 と御座らうぞと申したれば:清盛大きに怒っ
23 て,良いぞ良いぞ:己等は重盛が命を
24 ば重んじて,我が言う事をば軽しむるか?

(29)
1 その上は力に及ばぬと,言われたに因って,
2 この事悪しからうずと思うたか:二人の者
3 共大納言の左右の手を取って,庭
4 へ引き落といた.その時清盛心地良
5 気にて取って伏せて喚かせいと,言われたに因って:
6 二人の者共成親卿の左右の耳
7 に口を当てて,何と様になりとも御声を
8 そっと出ださせられいと,囁いて引き伏せ奉った
9 れば,二声三声ほど喚かれた:その体
10 哀れなと言うも疎かな事で御座る.
11 成親卿我が身のかう成るに付けても,
12 子息の少将と幼い人々何たる目にか
13 会わるると思い遣らるるにも,心は身に沿
14 わなんだと,聞こえて御座る.然しも暑い六月
15 に装束をさえも寛げず,暑さも
16 耐え難いに因って,胸も塞き上ぐる心地し
17 て,汗も,涙も争うて流れた.然りとも
18 重盛は思い放されまじい物をと,
19 言われたれども:誰して言わうとも分く方が
20 無うておぢゃって御座る.
21 第四.重盛父
22 の清盛に成親卿を害せられ
23 ぬ様に,教訓をせられた事.
24 右馬の判官.して重盛はこの事に

(30)
1 ついて清盛へ異見をば召されなんだか?
2 喜.中々教訓を召されて御座る.そ
3 の容態をも語りまらせう.重盛その後
4 遥かに程を経て嫡子権の助を
5 車の後に乗せて,兵をば一
6 人も具せられず,唯世の常の供ばか
7 りで如何にも大様気でそこへ出でられたれば,
8 清盛を始めて人々皆不審さうに
9 見られた.車より下りらるる所へ,貞
10 能つっと寄って,何故にこれほどの御大事
11 に軍兵共をば召し具せられぬぞと申
12 したれば,大事とは天下の大事をこそ言え:斯
13 様の私事を大事と言う事が有るか
14 と言われたに因って,兵仗を帯した者共も
15 皆漫ろ引いて見えた.扠成親卿をば
16 いづくに置かれたかとここかしこの障子を引き
17 開け,引き開け見らるれば,或る障子の上に蜘蛛手
18 結うた所が有ったをここかと開けて見られたれば,
19 成親卿は涙に咽びうつ伏しに成っ
20 て目も見合わせられなんだを重盛如何
21 にと言われたれば,その時見付け,嬉し気に思
22 われた気色何とも例え難かった.その
23 時成親卿言われたは:何事とは存ぜね
24 ども,斯かる目に会いまらするを御覧ぜられい,貴

(31)
1 辺然様に御座れば,然りともとこそ頼み奉
2 って御座れ,平治にも既に誅せられうず
3 るを御恩を持って首を継がれ参らせて,
4 二位の大納言に上がって,年も既に四十
5 に余り候,御恩こそ生々世々にも報じ尽
6 くし難う存ずる;今度も同じくは甲斐無き
7 命を助けさせられて下されよ:然も有るな
8 らば,出家入道仕り,如何なる片山里
9 にも引き籠もって,只管後世菩提の勤め
10 を営みまらせうずると,申されたれば:重盛
11 然は御座りとも御命を失い奉る
12 まではよも御座あるまじい;仮令然有りとも重
13 盛かうで罷り居れば,御命にも変わり奉
14 らうずると言うて:そこを出て父の禅
15 門の御前へ参って,あの成親卿を失
16 われうずる事をば良く良く御思案為されい.
17 その子細は,あれは先祖にも無かった正二位の
18 大納言まで上がられ,殊に当時君の御寵
19 愛も並びも無いに,軈て頭を撥ねられうず
20 る事は如何御座らうぞ?唯都の他
21 へ出ださせらるるを持って,事は足る事で御座
22 る:昔から今に至るまで讒奏も有る習
23 いで御座れば,粗忽な御成敗は似合わぬ.既
24 にこの様に召し置かれた上は,急ぎ失

(32)
1 わせられずとも,苦しゅうも無い儀ぢゃ:刑の
2 疑わしきをば軽んぜよ,功の疑わしきをば
3 重んぜよと,申す事が御座る.事新しゅう
4 御座れども,重盛かの成親卿の妹
5 に相具し子にて御座る:維盛は又婿
6 と成って御座る.その縁に引かれてかう申すと
7 思し召さるるか?全くその儀では御座
8 無い,世の為,家の為,国の為,君の為
9 の事を存じて申す:むさと人を死罪に
10 行えば,世も乱れ,又身の上に報
11 うと見えて御座れば,恐ろしい儀ぢゃ.御栄華
12 は残る所御座無ければ,思し召す事
13 も有るまじい:然りながら子々孫々までも繁
14 盛こそ希う事で御座れ,先祖の善悪
15 は必ず子孫に報うと見えた.それに因って
16 積善の家には余慶有り,積悪の門には
17 余殃留まると,申し伝えた.如何様にも
18 今夜首を撥ねられう事は然るべうも無いと,
19 申されたに因って,死罪をば思い留められて
20 御座った.
21 その後重盛中門に出でて,侍
22 共に言われたは:仮令仰せなりとも,成親
23 卿をむさと失い奉るな:清盛腹
24 の立つ侭に物騒がしい事を召され

(33)
1 ては,後に必ず御悔やみ有らうず:僻事し
2 て我を恨むなと,言われたれば:兵共
3 皆舌を振って,恐れ戦いたと申す.扠
4 経遠,兼康に向かうて今朝成親卿
5 に情けなう当たった事は返す返すも奇怪
6 な:重盛が還り聞かうずる所をば何
7 とて憚るまい事は?片田舎の者はかう
8 有るぞと言われたれば:経遠も,兼康も共
9 に恐れて御座る.斯様に有って重盛は立
10 ち返られた.
11 扠成親卿の侍共宿所へ
12 走り帰って,この由を告ぐれば:北の方
13 以下の女房達声も惜しまず泣き叫
14 ばるる体,真に哀れに有った.既に早武士
15 が向かいまらする.少将殿を始め,公達
16 も皆取られさせられうずると聞こえたれば,
17 急いでいづかたへも忍ばせられいと,申したれば:
18 今はこれほどの身に成って残り留まり安
19 穏に居て何にせうぞ?唯同じ一夜の露
20 とも消よう事こそ本意なれ:扠も今朝を
21 限りと知らなんだ:悲しやと言うて,伏しまろうで
22 泣かれた.既に武士共近付くと聞こえ
23 たれば,この様にして,又恥がましゅううたてい目
24 を見ょうも,流石ぢゃと言うて,十に成らるる女

(34)
1 子八歳の男子を車に取り乗せ,いづくを
2 差すとも無く遣り出だいて,漸うとして雲林院
3 と言う所へ落ち着いて,その辺りの寺に下
4 ろし置いて,送りの者共も皆我が身
5 の捨て難さに暇を請うて返れば:その後は
6 幼けなう幼い人々ばかり残り留まって,
7 又言問う人も無うておぢゃらうずる.北の方
8 の心の内は真に推し量られて
9 哀れな事で御座る.日の暮れ行くに付けて
10 も,成親卿の露の命この夕べ
11 を限りぢゃと,思い遣らるるにも消え入る心
12 地で有った.その宿所の体を言うに,女房侍
13 多かったれども,物をさえ取り認
14 めず,門をだにも押しも立てず,馬共
15 は馬屋に並み立ったれども,草飼う者一
16 人も無し:夜明くれば,馬,車門に立ち
17 並び,数多の客人座に連なって遊び,戯
18 れ,舞い,踊り,世を世とも思われず,
19 近い辺りの人は物をさえ高う言わず,怖ぢ
20 恐れてこそ昨日までも有ったに,夜の間に変
21 わる体楽しみ尽きて,悲しみ来たると,或る人
22 の書き置かれたも,今目の前に知らる
23 る体で御座る.

(35)
1 第五.成親卿の
2 子息少将についての事.
3 右馬.してその子息少将は何と成ら
4 れて有ったぞ?
5 喜.少将はその夜しも院の御所に上
6 臥しして未だ出られなんだに,成親卿の侍
7 共急いで御所へ馳せ参って,少将殿
8 を呼び出だいて,この由を申したれば:何故に
9 宰相の下からは今まで知らせられぬぞ
10 と,言いも果てられぬ所へ,宰相殿からと言う
11 て,使いが来た.この宰相と申すは,清盛
12 の弟で御座るが,宿所は六波羅
13 の総門の内に有ったに因って,門脇の宰
14 相殿と申した:少将の為には舅ぢゃ.
15 何事かは知らねども,清盛急度西
16 八条へ具し奉れと,有ると言わせられた
17 れば:少将この事を心得て,近習の女
18 房達を呼び出だいて,夕べ何とやら世上が物
19 騒がしゅう御座ったを,例の山法師の下る
20 か,などと余所に思うて御座ったれば,早某
21 が身の上に成って御座る.成親卿は
22 夜さり切られうとの沙汰ぢゃ:某少将も同

(36)
1 罪で御座らうと,存ずる.今一度御前へ参
2 って君をも見奉りたうは存ずれども,
3 既に斯かる身に罷り成って御座れば,憚
4 り存ずると申された所で,女房達御前
5 へ参って,この由を奏せられたれば:法皇大
6 きに驚かせられて,さればこそ今朝清
7 盛が使いはこの事で有ったよ:先づこれ
8 へと御気色有ったに因って,少将御前へ参
9 られた,法皇も御涙を流させられ,仰
10 せ下さるる旨も無し:少将も涙に
11 咽び,申し上げらるる旨も御座無かった.
12 やや有って然ても有らうずる事で無ければ,少将
13 袖を顔に押し当てて,泣く泣く罷り出でられ
14 た.法皇は後ろを遥かに御覧じ送られて
15 唯末代こそ心憂けれ,これを限りで又
16 御覧ぜられぬ事もや有らうずるとて,御涙
17 を流させられたと申す.真にこれは
18 少将の上に取っては忝い儀で御座った.
19 院中の人々少将の袖を控え,袂
20 に縋って,名残りを惜しみ,涙を流されぬ
21 は無かった.扠舅の宰相の下へ出られ
22 たれば,その北の方は近う産をせられうず
23 る人で有ったが,今朝よりこの嘆きを打ち添
24 えては既に命も絶え入らるるかと,疑う

(37)
1 ほどに有った:少将御前を罷り出でらるるよ
2 りして流るる涙は尽きせぬに,北の方
3 の有り様を見らるれば,いとど詮方無う見え
4 られたと,聞こえて御座る.少将の乳母に六
5 条と言う女房が有ったが,そこへ出て申した
6 は:生まれ落ちさせらるれば,軈て君を抱
7 き上げ参らせ,月,日の重なるに従うて
8 我が身の年の行く事をば嘆かいで,君
9 の大人しゅう成らせらるるをのみ嬉しゅう思
10 い奉って,あからさまとは思えども,
11 今年は既に二十一年離れ奉らず,
12 院内へ参らせられて遅う出でさせらるるをさ
13 え覚束無う思いまらしたに,今更如何な
14 る御目にか会わせられうずらうと言うて,泣く所
15 で,少将いとな泣いそ宰相殿の然て御座れば,
16 命ばかりは然りとも請い受けられうずると慰
17 めらるれども,人目も知らず,泣き悶
18 えられて御座る.
19 さう有る所へ西八条から使い頻
20 波に立ったれば,宰相行き向かうてこそとも
21 かうも成らうずれと言うて,少将も,宰相の車
22 の後に乗って出でられた.保元平治よりこ
23 の方,平家の人々は楽しみ栄のみ
24 有って,憂い嘆きは無かったに,この宰相殿ば

(38)
1 かり由無い婿故に,この様な嘆きを
2 ばせられて御座った.西八条近う成って車
3 を留め,先づ案内を申し入れられたれ
4 ば:清盛少将をばこの内へは入れらる
5 るなと,言わるるに因って,その辺り近い侍
6 の家に下ろし置いて,宰相ばかり門の内
7 へは入られた:少将をばいつしか兵共
8 打ち囲うで守護した.頼まれた宰相殿
9 には離れらるる,少将の心の内然こそ
10 は頼り無かるらうと,哀れに見えた.宰相中門
11 に入られたれども,清盛対面もせられず,
12 季貞を持って申し入れられたは:由無い者
13 に親しゅう成って,悔しゅう御座れども,今更
14 甲斐も無し:相具しさせて御座る者この程
15 は悩む事の御座ったに,今朝よりこの嘆
16 きを打ち添えては,既に命も絶ようずる
17 体と見えて御座る:何かは苦しゅう御座らうぞ?
18 少将をば暫く宰相に預けさせられい,宰
19 相かうで御座れば,なじかは僻事をさせまら
20 せうずるぞと,申されたれば:季貞参って,かの
21 由を申せば:哀れ例の宰相が物に心
22 得ぬとて頓に返事もせられいで,やや有っ
23 て清盛言われたは:成親卿この一
24 門を滅ぼいて,天下を乱らさうずると企

(39)
1 てられた.少将は既に成親の嫡子
2 で有れば,疎うも有れ,親しゅうも有れ,えこそ申し
3 宥むまじけれ:若しこの謀反遂げられたな
4 らば:御辺とても穏しゅうや有らうと申せと,言わ
5 れたれば:季貞帰り参って,この由を宰
6 相に申したれば:真に本意無さうにして重
7 ねて申さるるは:保元平治よりこの方度々
8 の合戦にも先づ御命に変わりまら
9 せうずるとこそ存じたれ,この後も荒い風
10 をば先づ防ぎまらせうに,仮令某こそ
11 年罷り寄ったりとも,若い子供が数多
12 御座れば,一方の御固めに成り奉らぬ
13 事は御座るまい.それに少将暫く預か
14 りまらせうと申すを御許され無い事は,一向
15 宰相を二心有る者と思し召さるる
16 か?これほどに後ろめたう思われ奉っ
17 ては,世に有っても何に致さうぞ?今は唯
18 身の暇を下されて出家入道して,高
19 野粉河にも籠もり居て,一筋に後世菩
20 提の勤めを営みまらせうず.由無い憂
21 世の交わりぢゃ:世に有ればこそ望みも
22 有れ,望みの適わねばこそ恨みも有れ,
23 如かじ憂世を厭うて,真の道に入らうずる
24 にはと,言われたれば.季貞参って宰相殿

(40)
1 は早思し召し切ったと見えて御座れば,と
2 もかうも良き様に御計らい為されいと,申したれ
3 ば:その時清盛大きに驚いて,さればと
4 て,出家入道までは余り怪しからぬ儀ぢゃ:
5 それならば少将をば暫く御辺に預け奉
6 ると,言えと言われたに因って:季貞返っ
7 てこの由を申せば,哀れ人の子をば持
8 つまじい物ぢゃ,我が子の縁に結ぼおれぬ
9 に於いては,これほどまで心をば砕く
10 まじい物をと言うて出でられた.
11 少将は待ち受け奉って,扠何と御
12 座るぞと,申されたれば:清盛余りに腹
13 を立てて,宰相には遂に対面もせられず,
14 適うまじいと,頻りに申されたれども,出家入
15 道まで申したれば,それ故にか暫く,宿
16 所に置き奉れと,言われたれども,始終
17 然るべからうとも見えぬ.少将然御座ればこそ
18 某は御恩を持って暫しの命も伸
19 びて御座る:それについては成親が事
20 をば何と聞こし召されたぞ?それまでは思い
21 も寄らぬ事ぢゃと,言われたれば:その時涙
22 をはらはらと流いて,真に御恩を持って
23 暫しの命も生きまらせうずる事は然る
24 べう御座れども,命の惜しいも父を

(41)
1 今一度見たう存ずる故ぢゃ.成親が
2 切られうずるに於いては,少将とても甲斐無い命
3 生きて何に仕らうぞ?唯一所で
4 如何にも成る様に仰せられて下されうずるかと
5 言われたれば:宰相世にも心苦し気で
6 いさとよ御辺の事をこそとかう申したれ:
7 それまでは思いも寄らねども,成親
8 卿の御事をば今朝重盛様々に申
9 されたれば,それも暫しは心安い様に
10 こそ承れと,言わるれば:少将泣く泣く
11 手を合わせて喜ばれた所で,子ならずは
12 誰か只今我が身の上を差し置いて,これ
13 ほどまでは喜ばうぞ?真の契りは
14 親,子の中にこそ有れ,子をば人の持
15 つべい物哉と軈て思い返された.扠
16 今朝のごとくに同車して返られたれば,宿
17 所には女房達死んだ人の生き返った心
18 地して,皆差し集うて喜び泣き共,
19 せられて御座った.
20 第六.重盛父
21 清盛の法皇へ対し奉って
22 の憤りの深い事を諫められ,
23 その謀として,勢を集
24 められた事.

(42)
1 右馬.喜一まちっと御続け有れ.
2 喜.然らば夜が更けまらせうずれども,語
3 りまらせう.清盛はこの様に人々を
4 数多戒め置いても,猶心行かずや
5 思われつらう:既に赤地の錦の直垂
6 に,黒糸縅の腹巻きの白金物
7 打ったを着,銀の蛭巻きした小長刀
8 の常に枕を放たず立てられたを脇
9 に挟うで中門の廊へ出でられた体,真に
10 由々しゅう見えた.そこで貞能と召された;貞
11 能も木蘭地の直垂に,緋縅の鎧
12 を着て,御前に畏まったに:やや有って
13 清盛言われたは:貞能この事をば
14 如何思うぞ?保元平治よりこの方汝が
15 知るごとく,君の御為に命を捨てう
16 とする事は,度々の儀ぢゃ:仮令人何と
17 申すとも,七代まではこの一門をば
18 如何でか思し召し捨てさせられうぞぢゃに:成
19 親と言う無用の悪戯者,西光と言う
20 下賤の無道人が申す事に付かせられて,
21 ややもすれば,この一門を滅ぼさせられう
22 ずると有る法皇の御結構こそ遺恨の次第
23 なれ:この後も讒奏する者有らば,当家
24 滅ぼせとの院宣を下されうずと思うぞ:

(43)
1 朝敵と成っては,如何に悔ゆるとも,益有るま
2 じい.暫く世を静めう程法皇を鳥羽
3 の北殿へ移し奉るか,然らずは
4 これへまれ御幸を成し参らせうずると思
5 うぞ:その儀ならば,北面の輩矢
6 をも一つ射ようずる侍共にその用意
7 せよと,触れい:大方は清盛院方の奉公
8 をば思い切ったぞ:馬に鞍置かせよ,着背長
9 取り出だせと,喚かれた.盛国急いで重
10 盛へ馳せ参って,世は既にかうで御座ると申
11 したれば:重盛聞きも敢えず,あわはや成
12 親卿が頭を撥ねられたなと,言わるれば:然は
13 御座無けれども,シゲモリ着背長を召さるる
14 上は,侍共皆打っ立って,只今法
15 住寺殿へ寄せうと出で立ちまらする.法皇を
16 ば鳥羽殿へ押し込め参らせられうずると
17 ぢゃが,内々は鎮西の方へ流し奉
18 らうずると,議せられたと,聞こゆると,申せば:
19 重盛何故に只今然様の事が有らうぞと,
20 思われたれども,今朝の清盛の気色
21 然る物狂わしい事もや有るらうとて,車
22 を飛ばせて西八条へ出でられて,門
23 前で車より下り,門の内へ差し入って
24 見らるれば:清盛腹巻きを着られた上は,

(44)
1 一門の人々各々色々の直垂に,
2 思い思いの鎧を着て,中門の廊に二
3 行に着座せられた.その他諸国の諸侍
4 などは縁に居溢れ,庭にもひしと並み
5 居て,旗竿共引き側め,引き側め,馬の
6 腹帯を固め,兜の緒を締め,只今皆
7 打っ立たうずる気色共ぢゃに,重盛烏
8 帽子直衣に大紋の指貫の側を取っ
9 てざやめき入られたは,殊の外に見えた.清
10 盛伏し目に成って,哀れ例の重盛が
11 世を僄する様に振る舞う物哉!大きに諫
12 めうずると思われたれども,流石子ながら
13 も内には五戒を保って慈悲を先とし,他
14 には五常を乱らず,礼儀を正しゅうする人
15 で有れば,あの姿に腹巻きを着て,向かわうずる
16 事,流石面映ゆう恥づかしゅう思われたか,障
17 子を少し引き立てて素絹の衣を腹巻
18 きの上に慌て着に着られたが,胸板の金
19 物少し外れて見えたを隠さうと,頻り
20 に衣の胸を引き違え,引き違えせられ
21 た.重盛は舎弟宗盛の座上に着かれ
22 た:清盛も言い出ださるる旨も無し:重
23 盛も申さるる事も無し.
24 やや有って清盛言われたは:成親の卿が
25 謀反は事の数でも無い,一向法皇の御結

(45)
1 構で有ったぞ:暫く世を静めう程こ
2 れへまれ御幸を成し奉らうずると思う
3 は,如何にと言われたれば:重盛聞きも敢えず,
4 はらはらと泣かれた.シゲモリ如何に如何にと呆れ
5 らるれば,やや有って重盛涙を押さえて
6 申さるるは:この仰せを承るに御運
7 は早末に成ったと存ずる:人の運命
8 の傾かうとては,必ず悪事を思い立つ
9 物で御座る.又御有り様更に現
10 とも覚えず,太政大臣の官に至る人
11 の甲冑を鎧う事,礼儀を背くでは御
12 座無いか?なかんづくに御出家の御身で御
13 座る.これ真に内には既に破戒無慚
14 の罪を招くのみならず,他には又
15 仁,義,礼,智,信の法にも背かうずる儀ぢゃ:方
16 々恐れ有る申し事で御座れども,心
17 の底に意趣を残さうずる儀で御座無
18 ければ,申し上ぐる.世に四恩が御座る:それと
19 言うは天地の恩,国王の恩,父母の恩,
20 衆生の恩,これで御座る.その中に最も
21 重いは朝恩で御座る.普天の下王土に
22 有らずと言う事は御座無い:さればこそ唐土
23 に,かのエレンの水に耳を洗い,首
24 陽山に蕨を折って露の命を継い

(46)
1 だる賢人も勅命背き難き礼義を
2 ば存じたとこそ承って御座れ:如何に況ん
3 や,先祖にも未だ聞かぬ:太政大臣を極
4 めさせられ,かう申す重盛も愚かなる
5 身にて御座りながら,内大臣の位に至り,然
6 のみならず,国郡半ばは一門の所領
7 と成って,田園悉く一家の進退と成った
8 儀は,希代の朝恩では御座無いか?今こ
9 れ等の莫大の御恩を忘れて,猥りがわしゅう
10 法皇を傾けさせられうずる事は天道の
11 御内証にも背き参らせられうず:その上君
12 の思し召し立つ所道理半ば無いでは
13 御座無い.中にもこの一門は代々の朝
14 敵を平らげて,四海の逆浪を静むる事
15 は無双の忠なれども,その賞に誇る事
16 は傍若無人とも申さうず.然れども当
17 家の運命未だ尽きぬに因って,謀反も既
18 に現われて御座る.その上仰せ合わせらるる
19 成親卿を召し置かれた上は,仮令君
20 如何なる不義を思し召し立たせらるるとも,何
21 の恐れが御座らうぞ?所当の罪科行わ
22 れうずる上は,退いて事の由を陳じさせ
23 られば,君の御為には愈奉公の忠勤
24 を尽くし,民の為には益々撫育の

(47)
1 哀憐を致されば,天命に適わせられ,天の
2 御加護有らば,君も思し召し直す事
3 など御座るまじいか?君と,臣とを並ぶるに,
4 親疎分く方無く:道理と,僻事を並ぶ
5 るに,如何で道理に付きまらすまいか?これは君
6 の御理で御座れば,適わぬまでも
7 院の御所を守護し奉らうず:その故
8 は,重盛今大臣の大将に至るまで
9 然しながら君の御恩で御座る.その恩
10 の重い事を思えば,千顆万顆の
11 玉にも越え,その恩の深い色を案ずれば,
12 一入再入の紅にも過ぎた.然れば院
13 中に参り籠もらうず;その儀にて御座らば,重
14 盛が身に変わり命に変わらうずると契
15 った侍共少々御座らうず.これ等を召
16 し具して院の御所を守護し参らするぞなら
17 ば,流石以ての外の御大事で御座らうず:扠
18 も迷惑な事哉!君の御為に奉
19 公の忠を致さうずるとすれば,迷盧八万
20 の頂よりも猶高い,父の恩を忽
21 ち忘るるに,不孝の罪を逃れう
22 とすれば,君の御為に既に不忠の逆
23 臣と成らうず:進退ここに極まって,是非如何
24 にも分かち難い儀ぢゃ.申し受くる所,詮

(48)
1 は,唯重盛が首を召されよかし,院
2 中をも守護し奉らず,院参の御供
3 をも仕るまじいかの唐土の
4 蕭何は大忠節片方に越えたに因って,大
5 きなる位に至って剣を帯し,靴を履きな
6 がら,殿上に上る事を許されたれども,
7 叡慮に背く事が有れば,高祖重う戒
8 めて深う罪せられた.斯様の先蹤を思う
9 にも富貴と言い,栄華と言い,朝恩と言い,重職
10 と言い方々極めさせられたれば,御運の尽きょう
11 ずる事も難い事では無い.富貴の家には
12 禄位重畳せり:再び実生る木はその根
13 痛むと見えて御座れば,心細う存ずるいつ
14 まで命生きて乱れうずる世をも見まら
15 せうずるか?唯末代に生を受けて斯かる憂き
16 目に会う重盛が果報の程をこそ拙
17 う御座れ.只今も侍一人に仰せ
18 付けられて,御坪の内に引き出だされて,重
19 盛が頭を撥ねられう事は易いほどの事
20 で御座る.これを各々聞こし召せとて,
21 直衣の袖も絞るばかりに涙を流
22 し,掻き口説かれたれば,その座に並み居られた
23 るほどの人々心有るも,心無いも
24 皆袖を濡らされぬは御座無かった.

(49)
1 清盛頼み切られた重盛は斯様に
2 有れば,力も無気に成って,否々それまで
3 は思いも寄らぬ儀ぢゃ:悪党共が申す
4 事に付かせられて僻事などが出で来ょうずる
5 かと思うばかりでこそ有れと,言われたれば:重
6 盛仮令如何なる僻事出で来るとも,君を
7 ば何とさせられうかと,言い捨てて,突い立って中門
8 に出でて侍共に仰せらるるは:只今
9 重盛が申した事をば汝等聞かぬか?
10 今朝よりこれに有って斯様の事共申し静
11 めうと,存じたれども,余りに直騒ぎに
12 騒いだに因って返った.院参の御供に於い
13 ては,重盛が頭の撥ねられたらうずるを
14 見て仕れ:然らば人参れと言うて,小松
15 殿へ返られた.扠盛国を呼うで重
16 盛こそ天下の大事を聞き出だいたれ,我を
17 我と思わう者共は,皆物の具
18 して馳せ参れと,披露せよと下知せらるれば,
19 この由を披露した.おぼろけには騒がれぬ
20 人の斯かる披露の有るは別の子細の有るに
21 こそと言うて,皆物の具して我も我
22 もと馳せ参る.淀,羽束師,宇治,岡
23 屋,その他京辺りの在在所々に溢
24 れ居た兵共,或いは鎧を着て未

(50)
1 だ兜を着ぬも有り,或いは矢を負うて未
2 だ弓を持たぬも有り,片鐙踏むや
3 踏まずで慌て騒いで馳せ参る.小松殿
4 に騒ぐ事有ると,聞こえたれば:西八条に
5 数千騎有った兵共清盛にかうと
6 も申さず,ざざめき連れて小松殿へ馳
7 せ参って,少しも弓箭に携わるほどの
8 者は,一人も残らなんだ.その時清
9 盛大きに驚いて,貞能を召して,重
10 盛は何と思うて,これ等をば呼び取る
11 ぞ?これで言うた様に清盛が下へ討手
12 などを迎ようずるかと,言われたれば:貞能涙
13 をはらはらと流いて,人も人にこそ因
14 れ,如何でか然様の儀は御座らうぞ?ここで仰せ
15 られた事共をも御後悔でこそ御座らう
16 ずれと,申したれば:清盛重盛に仲
17 違うては悪しからうずと思われたか,法
18 皇を迎い奉らうずる事をも早思
19 い止まり,腹巻き脱ぎ置いて,素絹の衣
20 に袈裟打ち掛けて,心にも起こらぬ念
21 誦して居られた.
22 小松殿には盛国着到を付
23 けたに,馳せ参じた兵共一万余騎
24 と記いた.着到披見の後,重盛中

(51)
1 門に出でて,侍共に言わるるは:日頃の
2 契約を違えず,参ったる事は真に神
3 妙な儀ぢゃ.異国に然る例が有る.周の幽
4 王褒姒と言う最愛の后を持たれた:天下第一
5 の美人で有ったれども,幽王の心に適
6 わなんだ事は,褒姒笑みを含まずと言うて,
7 一円后笑う事をせられなんだ.異国
8 の習いには,天下に乱が起こる時所々に
9 火を上げて,太鼓を打って兵を召す謀
10 が有る.これを烽火と言う.或る時に兵
11 乱が起こって,所々に火を上げたれば,后こ
12 れを御覧ぜられて,扠も不思議や火もあれほ
13 ど多いかと言うて,その時初めて笑われた.
14 この后は一度笑めば,百の媚生
15 ずるほどの美人で有ったに因って,幽王嬉しい事
16 にして,その事と無う常に烽火を上げ
17 られたに因って,皆人馳せ集まれども,何
18 事も無ければ,軈て散った.斯様にせらる
19 る事が度々に及うだれば,後には参る
20 者も無かった.或る時隣国より敵が
21 起こって,幽王の都の攻むるに因って,烽
22 火は上ぐれども,例の后の火に習うて,兵
23 も参らず:その時都は傾い
24 て,幽王も敵に滅びられた.斯様の事が

(52)
1 有る時は,自今以後もこれより召さう時,斯くの
2 ごとく参れ;重盛不思議の事を聞き
3 出だいて召した,然れどもその事を聞き直いた
4 僻事で有れば,疾う疾う返れとて,皆返された.
5 真には差せる事も聞き出だされなんだれど
6 も,父を諫められた言葉に従うて,我が
7 身に勢の付くか,付かぬかの程をも知
8 り,又父子戦をせうでは無けれども,斯様
9 にして清盛の謀反の心も和ら
10 がうずるかとの謀と,聞こえた.君君
11 たらずと言うとも,臣持って臣たらずんば,有るべか
12 らず:父父たらずと言うとも,子持って子た
13 らずんば,有るべからずと言う語のごとく:この重
14 盛は君の為には忠有って,父の
15 為には孝有る人ぢゃに因って,法皇もこの
16 由を聞こし召されて,今に始めぬ事なれ
17 ども,重盛が心の内は,真
18 に恥づかしい事ぢゃ:仇をば恩を持って報ぜら
19 れたと,仰せられた果報こそめでたうて,大臣の
20 大将にまで至られうずれ,容儀帯佩人に優
21 れ,才知才覚さえ世に越えた人ぢゃと言うて,時
22 の人々皆感じ合われたと,申す.国に
23 諫むる臣有れば,その国必ず安く:家に
24 諫むる子有れば,その家必ず正しと言う事

(53)
1 は,尤もぢゃ:昔にも末代にもこ
2 の様な人は稀な事で御座る.
3 第七.成親卿
4 と,その子少将流罪に行われた事.
5 右馬.成親卿の果てを御語り有れ.
6 喜.その御事ぢゃ:同じ年の六月
7 二日に成親卿をば公卿の座へ出だし
8 奉って物を参らせたれども,胸塞き
9 塞がって,御箸をだにも立てられなんだ.車を
10 寄せて疾う疾うと申せば,心ならず乗らせられ
11 たを軍兵共前後左右に打ち囲うだれば,
12 我が方の者は一人も無し,今一
13 度重盛に会い奉りたいと,言われたれども,
14 それも適わなんだに因って,仮令重科を被
15 って遠国へ行く者とても,人一人
16 身に添えぬ事が有るかと言うて,車の内
17 で掻き口説かれたれば,守護の武士共も
18 皆鎧の袖を濡らいて御座る.西の
19 朱雀を南へ行かるれば,大内山を
20 も今は余所に見られ,年頃見慣れ奉
21 った雑色,牛飼いまでも名残りを惜しゅうで,涙
22 を流し,袖を絞らぬは無かったれば,

(54)
1 況して都に残り留まらるる北の方,
2 幼い人々の心の内は推し量ら
3 れて哀れな.鳥羽殿を過ぎらるるにもこ
4 の御所へ御幸為されたには一度も御供
5 には外れなんだ物をとて通られた:南
6 の門に出て船を遅しと急いだれば,これは
7 いづくへ行くぞ?迚も失われうならば,同じゅう
8 は都近いここもとでも有れかしと,言われた
9 は,せめての事で御座った.側近う沿うた武
10 士を誰そと尋ねらるれば,経遠と答えた
11 に:若しこの辺に我が方様の者や
12 有る,船に乗らぬ先に言い置かうずる事が有る:
13 尋ねて参らせよと,言われたれば:その辺を走
14 り回って尋ねたれども,我こそ成親
15 卿の方と言う者は,一人も無かった.経
16 遠返ってこの由を申したれば;成親
17 卿涙をはらはらと流いて,然りとも我が世
18 に有った程は,従い付いた者共一二千
19 人も有らうずるに,今は余所ながらもこの有り様
20 を見送る者の無い事の悲しさよ
21 とて,泣かれたれば:猛い武士共も皆
22 袖を絞らぬ者は無かった.
23 熊野詣で,天王寺詣で,などには
24 二つ瓦の三つ棟に作った船に

(55)
1 乗り,次の船二三十艘も漕ぎ続けて
2 こそ有ったに,今は世の常の屋形舟に
3 大幕を引いて,見も慣れぬ兵共
4 に具せられて今日を限りに都を出でて,波
5 路遥かに赴かれた心の内推し
6 量られて,真に哀れな.その日は津の
7 国大物の浦に着かれた.成親卿既
8 に死罪行われうずる人が流罪に宥
9 められたは,重盛の様々に申された故
10 ぢゃ.同じく三日に大物の浦へ京
11 より御使いが着いたと言うて,犇めいたに因って,
12 成親卿ここで失えと言う儀にてこそ有
13 るらうと聞かれたれば;然は無うて,備前の児島へ
14 流せとの使いで有った.重盛の方より
15 も如何にもして都近い片山里に置
16 き奉らうずると然しも申しつれども,
17 適わぬ事こそ世に有る甲斐も御座無けれ:然
18 りながらも御命ばかりは申し受けて御座
19 るとの文を送られた.経遠が下へ
20 も相構えて良く良く労わり奉れ,御
21 心にばし違うなと言い遣り:旅の装い
22 をも細々と沙汰し送られて御座った.
23 成親卿然しも忝う思し召された
24 君にも離れ奉られ,束の間も

(56)
1 去り難う思われた北の方,幼い人々
2 にも別れ果てて,是はいづちへ行く身ぞ?
3 一年山門の訴訟に因って既に流さ
4 れたを君惜しませられて,西の七条
5 より召し返されたが,これはされば君の御
6 戒めでも無し,是は何とした事ぞと
7 天に仰ぎ,地に伏し,悶え焦がれられた.明く
8 れば船押し出だいて下らるるに,道すがらも
9 唯涙にのみ咽ばるれば,長らえられう
10 ずとは見えねども,流石露の命は消
11 え遣らいで,後は白波に隔たれば,都は
12 次第に遠ざかり,日数漸う重なれば,遠国
13 は既に近付いて,備前の児島に漕ぎ
14 寄せて,民の家の浅まし気な柴の庵
15 に入れ奉った.島の習いなれば,後ろ
16 は山,前は海,磯の松風,波の
17 音,いづれも哀れは尽きせぬ事で有った.凡
18 そは成親卿一人にも限らず,戒
19 めを被った輩が多かったを皆
20 それそれに流罪せられたと,聞こえまらした.その
21 頃清盛は福原の別業に居られた
22 が,同じ月の十九日に,盛澄と言う
23 者を使者で宰相の下へ存ずる旨
24 が有れば,少将を急いで,これへ賜われと

(57)
1 言い遣わされたれば,宰相然らば唯有ったる時
2 とも斯くも成ったぞならば,何とせうぞ?今更
3 物を思わせうずる事こそ悲しけれと
4 て,福原へ下らせられうずると,仰せられたれ
5 ば,少将も泣く泣く出で立たれたれば:女房達
6 は適わぬ物故猶も唯宰相の
7 申されいかしと嘆かれた.宰相存ずるほど
8 の事をば申しつ,世を捨つるより他は
9 今は何事を申さうぞ?然れども仮令いづ
10 くの浦に御座るとも,我が命の有らう限
11 りは弔い奉らうずと,言われた.少将は
12 今年三つに成らるる幼い人を持たれた
13 が,日頃は若い人なれば,公達などの
14 事も然しも濃やかにも無かったれども,
15 今際の時に成れば,流石心に掛かったか,
16 この幼い者を今一度見せいと,言われ
17 たれば,乳母抱いて参ったを,少将膝の上
18 に置いて髪を掻き撫で,涙をはらはらと流
19 いて,哀れ汝七歳に成らば,男に成い
20 て,君へ参らせうとこそ思うたに,今は言う
21 甲斐も無い:若し命生きて生い立ったらば,法師に
22 成って我が後の世を弔えと,言わるれば;
23 未だ幼けない心に何事をか聞き弁
24 えられうぞなれども,打ち頷かるれば,少

(58)
1 将を始め奉って,母上,乳母の女房
2 その座に並み居たほどの人は,心有るも,
3 心無いも皆袖を濡らさぬは無かったと,
4 申す.
5 さう有る所に福原の御使い軈
6 て今夜鳥羽まで出でさせられいと,申したれば:
7 幾程も伸びまい物故に今宵ばかり
8 は都の内で明かさうと,言わるれども:頻
9 りに申すに因って,その夜鳥羽まで出でられた.
10 宰相も余りの恨めしさに今度は同心
11 もせられなんだ.福原へ下り着かるれ
12 ば,清盛兼康に言い付けて,備中の
13 国へ流された.兼康は宰相の還り聞
14 かれうずる所を恐れて,道すがらも様
15 々に労わり慰め奉った.然りながら
16 少将は慰まるる事も無し,夜昼唯
17 父成親卿の事のみを嘆かれ
18 た.成親卿は備前の児島に居られた
19 を,これを預かった経遠ここは猶船
20 津近うて悪しからうずと言うて,地へ渡し奉
21 り,備前と,備中両国の境に庭瀬
22 の郷有木の別所と言う山寺に置き奉
23 った.備中の瀬尾と,備前の有
24 木の別所の間は,僅かに五十町に足

(59)
1 らぬ所で有れば,少将吹き来る風までを
2 も懐かしゅう思い:或る時兼康を召
3 してこれより成親卿の御座る備前の
4 有木の別所へは如何ほどの道ぞと,問わ
5 れたれば直ぐに知らせまらしては悪しからうと思
6 うたか,片道十二三日で御座ると,申
7 した.その時少将涙をはらはらと流いて,
8 日本は昔三十三箇国で有ったを,中
9 頃六十六箇国に分けられたと,聞こえた.
10 然言う備前備中備後も元は一国
11 で有った.さう有れば備前,備中の間遠うても,
12 両三日には過ぎまじい:近いを遠う言うは,成
13 親卿の御座る所を我に知らせまい
14 とてこそ申すらうとて,その後は恋しけれど
15 も,訪いもせられなんだと申す.
16 第八.成親の最
17 後の事:その北の方都にて尼に成り
18 かの後世を弔われた事.並びに
19 少将重ねて鬼界が島へ流され,
20 そこで康頼や,俊寛やなど
21 と憂き目を凌がれた事.
22 右馬.迚もの事に成親卿の果て

(60)
1 られた容態と,少将の鬼界が島へ又
2 流された事をも御語り有れ.
3 喜.心得まらした.さう御座って俊寛
4 僧都と,康頼と,この少将相具して三人
5 薩摩の鬼界が島へ流されて御座った.
6 かの島は都を出て遥々と波路を
7 凌いで行く所ぢゃに因って,おぼろけでは
8 船も通わず,島にも人が稀な.自
9 づから人は有れども,この土の者に
10 も似ず;色は黒うて,牛のごとく身には
11 頻りに毛が生えて,言う言葉も聞き知らず;男
12 は烏帽子も着ず,女は髪も下げ
13 ず;衣装が無ければ,人にも似ず,食する
14 物も無ければ,唯殺生をのみ先と
15 する体ぢゃ.賤が山田を返さねば,米穀
16 の類も無く,園の桑を取らねば,絹
17 綿の類いも無し:島の中には高い山
18 が有って常に火が燃え,硫黄と言う物が満
19 ち満ちたに因って,硫黄の島とも名付けた
20 と申す.雷は常に鳴り上がり,鳴り下り,
21 麓には雨が繁うて,一日片時も人
22 の命絶えて有らうずる様も無かった.扠成
23 親卿は少し寛ぐ事も有らうかと
24 思われた所に,子息少将も早鬼

(61)
1 界が島へ流されたと聞かるれば,今は然
2 のみつれなう何事をか待たうぞと言うて,出
3 家の志が有ると言う儀を便りに付
4 けて,重盛へ申されたれば,この由を法
5 皇へ伺い奉って御免為されたに因って,
6 軈て出家に成って,栄華の袂を引き替え
7 て,憂世を余所の墨染めの袖に身を
8 窶された.成親卿の北の方は都
9 の北山辺に忍うでおぢゃった:唯さえも
10 住み慣れぬ所は物憂いに,いとど昔を
11 偲ばれたれば,過ぎ行く月,日をも明かし兼
12 ね,暮らし煩わるる体で有った.女房侍
13 多かったれども,或いは世を恐れ,或いは人
14 目を包む程に,問い訪う者一
15 人も無かった.然れどもその中に信俊
16 と言う侍一人情けの深い者で有った
17 に因って,常は弔い奉ったに:或る時
18 北の方信俊を召して,哀れこれに
19 は備前の児島にと聞こえたが,この程
20 聞けば,有木の別所とやらんに御座ると言う:
21 何とぞして今一度儚い筆の跡をなり
22 とも奉って,御訪れを聞かうとこそ
23 思えと,言われたれば:信俊涙を押
24 さえて申すは:幼少より御哀れみを被っ

(62)
1 て片,時も離れ奉らなんだれば,御下
2 りの時も何とぞして御供を仕
3 らうず事で御座ったれども,平家より許
4 されなんだれば,力に及ばいで罷り止まっ
5 た.今に召された御声も耳に留まり,
6 諫められ奉った御言葉も,肝に銘
7 じて片,時も忘れ奉らぬ.仮令この
8 身は如何なる目にも会わば会え,疾う疾う御文
9 を賜わって参らうずると,申したれば:北の方
10 斜めならず喜うで,軈て書いて出された.幼
11 い人々も面々に文を書いて,信
12 俊に渡されたを,取って遥々と備前の国
13 有木の別所へ尋ね下って,預かった武士
14 経遠に案内を言うたれば,志の程
15 を感じて軈て見参に入れた.
16 成親卿は只今しも都の事を
17 言い出だいて,嘆き沈んで居らるる所に,京
18 より信俊が参ったと,申したれば:夢か
19 と言うて,聞きも敢えず,起き直ってこれへ,これへ
20 と,召されたれば:信俊参って見奉る
21 に,先づ御住まいの心憂い体は然る事で
22 墨染めの御袂を見奉るにこ
23 そ,信俊目も暗れ,心も消え入る様
24 で,漸うとして北の方の仰せられたる事共

(63)
1 を細々と申して,御文を取り出だいて
2 参らするに,これを開けて見らるれば,筆の跡
3 は涙に掻き暮れて,そこはかとは見えね
4 ども,幼い人々の余りに恋い悲しまる
5 る体我が身も尽きせぬ物思いに堪え
6 忍ぶべうも無いと書かれたれば,日頃の恋
7 しさは事の数でも無いと言うて,悲しまれ
8 た.扠四五日過ぎて,信俊これに有って
9 最後の御有り様を見奉らうずると申
10 せば,預かりの武士経遠の適うまじいと
11 頻りに申すに因って,力及ばいで,然らば上
12 れ,我は近う失われうずと思う:此の
13 世に無い者と聞くならば,相構えて我が
14 後世を弔えと言うて,返事を書いて出だされた
15 れば,信俊はこれを受け取って,又こそ参
16 り奉らうずれと言うて,暇を申して出づれ
17 ば,汝が又来う度を待ち付けうとも
18 覚えぬぞ:余りに慕わしゅう覚ゆるに,暫
19 し暫しと仰せられて,度々呼び返された.
20 然て有らうずる事で無ければ,信俊も涙
21 を押さえて都へ帰り上って,北の
22 方に御文を参らせたれば,これを開けて
23 御覧ずるに:早出家召されたと思しゅうて御
24 髪の一房文の奥に有ったを二目と

(64)
1 も見もせられず,形見こそ中々今は
2 徒なる事よと言うて,伏しまろうで泣かれたれ
3 ば,幼い人々も声々に泣き悲し
4 まれた体,申すも疎かぢゃ.
5 扠成親卿をば同じ八月の十
6 九日に備前と,備中両国の境庭瀬
7 の郷,吉備の山中と言う所で遂に
8 失いまらした.その最後の有り様は様々
9 に聞こえた:酒に毒を入れて勧めたれど
10 も,適わなんだれば,岸の二丈ばかり有る下
11 に菱を植えて,上より突き落とせば,菱に貫
12 かれて,遂に果てられたと,申す:真に無
13 下にうたてい事共で御座る.成親卿
14 の北の方は此の世に無い人と,聞かるれば:
15 如何にもして今一度変わらぬ姿を見も
16 し,見ようとてこそ今日まで様をも変えなん
17 だれ,今は何にせうずと言うて,菩提院と言う寺
18 へ入って,様を変え,型のごとく弔いなど
19 をして,後世を弔われた.幼い人々も
20 面々に花を手折り,閼伽の水を結ん
21 で,父の後世を弔われたは,真に
22 哀れな事ぢゃ.
23 又鬼界が島の流人共は露の
24 命を草葉の末に掛けて,惜しまうずるで

(65)
1 は無けれども,少将の舅平宰相の知
2 行ビゼンの国鹿瀬の庄から衣食を常
3 に送ったれば,それを持って俊寛僧都も,
4 康頼も命を生きて過ごされた.康頼
5 は流された時,周防の室積で出家に
6 成って,法名をば性照と付いた:出家は固
7 より望みで有ったれば:
8 遂に斯く背き果てける世の中を,
9 疾く捨てざりし事ぞ悔しき.
10 と,詠うで御座る.
11 第九.康頼と,少将と
12 かの島で熊野詣での真似をし,
13 又卒塔婆を作って流された事
14 を蘇武が雁書に引き会わせて
15 語る事.
16 右馬.その島で有った事共をも御
17 語り有れ.
18 喜.畏まった.
19 少将と,康頼は固より熊野信
20 心の人で有ったに因って,何とぞしてこの島
21 の内に熊野に似た所を尋ね
22 出いて,熊野と名付けて拝まうずると言うて,
23 あそこここを尋ねらるるに,或る所に山

(66)
1 の気色の木立ちに至るまで,他より
2 も猶優れた所が有った:南を見
3 れば,海が漫々として,雲の波,煙
4 の波深う,北を顧みれば,又山
5 峰の峨々と聳えた所から,滝が漲
6 り落ちて,その音真に凄まじゅうて松
7 風神さびた住まい,熊野の権現
8 の居らるる那智の山に似たに因って,軈て
9 そこを那智の山と名付けて日毎に二
10 人共に熊野詣での真似をして,都
11 へ返る様にと祈られた.康頼入道
12 余りの詮方無さに,千本の卒塔婆を作
13 って,仮名実名と二首の歌を書いて,若し故
14 郷の方へ揺られ行く事も有らうかと言うて
15 流いた.その歌は.
16 薩摩潟沖の小島に我有りと,
17 親には告げよ,八重の潮風.
18 思い遣れ暫しと思う旅だにも,
19 猶古里は恋しき物を.
20 と書いて,その卒塔婆を浦に持って出て,せめて
21 一本なりとも都辺りへ揺られ行けかしと
22 言うて,千本乍ら海に入れたれば,その内一
23 本安芸の国の厳島の渚に打ち
24 上げた所で,康頼が縁の僧の有った

(67)
1 が,然るべい便りが有らば,如何にもしてかの島
2 へ渡って,その行方を聞かうずるとて,西国
3 修行に出て,先づ厳島へ寄ったが,
4 日暮れて,月の差し出でて,潮の満ち来る
5 に,そこはかとも無い藻屑共の揺られ寄
6 る中に卒塔婆の形の見えたを何と無う
7 取って見たれば,沖の小島に我有りと書いた:
8 その文字をば彫り入れ,刻み付けたれば,波
9 にも洗われず,鮮々として見えた.扠も不
10 思議やと言うて,これを取って笈の肩に差いて
11 都へ上り,康頼が老母の尼公,妻子
12 共が一条の北紫野と言う所
13 に忍うで居たに見せたれば:然らばこの卒塔婆
14 が唐土の方へも揺られ行かいで,何し
15 に,これまで伝え来て,今更物をば
16 思わするぞと悲しむ事は計りも
17 無かった.程経てこれを法皇も御覧為され,
18 扠も無残や!未だこの者共は命
19 の生きて有るにこそと仰せられて,御涙を
20 流させられ,即ちその卒塔婆を重盛
21 の下へ送らせられたを父の清盛
22 に見せられたれば,清盛も岩木で無けれ
23 ば,流石哀れに思われたと,聞こえて御
24 座る.清盛の哀れまれた上は京中

(68)
1 の上下老いたも,若いも鬼界が島の流
2 人の歌と言うて,口ずさまぬは御座無かった
3 と申す.
4 扠も千本まで作った卒塔婆ぢゃ程に,
5 然こそは小さう有っつらうに,薩摩潟から遥々
6 と都まで伝わった事は,不思議ぢゃ.
7 余り思う事は昔もこの様な験
8 の有る故か.古漢王胡国を攻め
9 られた時,始めは李少卿と言う者を大将
10 軍にして,三十万騎向けられたが,漢の戦
11 は弱く,胡国の戦いは強うて,官軍
12 皆打ち滅ぼされ,あまっさえ大将軍李少卿
13 まで生け捕られた.次に又蘇武と言う者
14 を大将で,五十万騎を向けられたれども,
15 猶漢の戦は弱う,夷の戦いは強う
16 て官軍は皆滅びて,兵六千人余
17 り生け捕られた.その中に大将蘇武を始め
18 として,宗との兵を六百三十人
19 ほど選り出いて,一々に片足を切って追っ放
20 いたれば,即ち死する者も有り,程を経て
21 死ぬる者も有った.その中に蘇武ばかりは
22 死ないで,片足無い身と成って,山に上っては
23 木の実を拾い,春は沢辺の根芹を摘み,
24 秋は田面の落ち穂を拾いなどして露

(69)
1 の命を過ごいた.田に幾らも有った雁共
2 も蘇武に見慣れて恐れなんだ所で,蘇武
3 これは皆我が故郷へ通う物ぢゃと懐
4 かしさに,思う事を一筆書いて,雁の翼
5 に結び付けて放いたに:甲斐甲斐しゅうもこの
6 雁がその文を受け取って,漢の昭帝と申
7 した帝王御遊び為さるるに,夕暮れの空
8 薄曇って,何とやら物哀れな折節,一
9 列の雁が飛び渡った:その中に雁一
10 つ飛び上がって,己が翼に結び
11 付けた玉梓を食い切って落といたを,官人
12 これを取って,帝へ奉ったれば,開いて御
13 覧為さるるに:昔は岩の洞に込められ
14 て,三年の愁嘆を送り,今は如何にも広い
15 田の畝に捨てられて,足一つの身と成って御
16 座る:屍は胡の地に散らすと言うとも,魂
17 は再び君の辺に仕ようずると,
18 書いた.それからして文を雁書とも,雁札と
19 も名付けたと申す.扠漢の帝王はこれ
20 を見て,未だ胡国に蘇武が,生きて居ればこそ,
21 かうは有れと言うて:今度は李広と言う将軍
22 に言い付けて,百万騎を差し遣わされたれば,
23 この度は,漢の戦いが強うて,胡国の戦
24 が敗れた:味方戦い勝ったと,聞いたれば:蘇

(70)
1 武は広い野の中から這い出て,これこそ古
2 の蘇武よと名乗って,十九年の春秋を送
3 って,片足は切られ,輿に舁かれて故郷へ
4 返った.蘇武十六の年胡国へ向け
5 られたに,帝より賜わった旗をば何と
6 して隠いたか,身を放さいで持ったを今取り
7 出だいて,帝の御目に掛けたれば,君も,
8 臣も斜めならず感じて,その忠賞に大国
9 をも数多下されたと,聞こえて御座る.唐土
10 の蘇武は書を雁の翼に付けて故
11 郷へ送り,日本の康頼は波の便
12 りに歌を故郷に伝えた.あれは唯一筆の
13 荒み,これは二首の歌:彼は上代,これは
14 末代:胡国鬼界が島の境を隔て
15 代々は変われども,風情は同じ風情で有った.
16 真に不思議な謀で御座る.
17 第十.鬼界が島の
18 流人を許さるるについて,後に残
19 らるる俊寛の悲しみ深い
20 事.
21 右馬.その鬼界が島の流人共を
22 清盛の許された様を御語り有れ.

(71)
1 喜.后に立たせられた清盛の娘
2 中宮御懐妊有って,以ての外悩ませ
3 られたに因って,帝王を始め,諸人皆気遣い
4 を致いた.清盛も種々の祈祷,などをせら
5 れたれども,その験が無かった所で,鬼界が
6 島へ流された少将の舅の宰相殿
7 この事を伝え聞いて,重盛へ申された
8 は:中宮御産の御祈り様々に御座
9 るとも,非常の赦に過ぎた事は御座るまい
10 と存ずる:中にも鬼界が島の流人
11 共召し返されうずるほどの功徳,善根
12 は如何でか御座らうぞと申されたれば:重盛
13 父の禅門の前に出でて,あの少将が
14 事を宰相の強ちに嘆かるるが不憫
15 に御座る.中宮の悩ませらるる御祈り
16 にもあの少将をこそ召し返されう事なれ:
17 人の思いを休めさせられば思し召す
18 事も適い,人の願いを叶えさせられば,
19 天道これを御納受有って,御願も即ち
20 成就致いて,中宮軈て皇子御誕生為されて家
21 門の栄華も愈盛んに御座らうずると
22 申されたれば:清盛日頃にも似いで,以
23 ての外に和らいで,さてさて俊寛と,康
24 頼が事は何と有らうぞと,言われた所で,

(72)
1 それをも同じく召し返されて良う御座らうず:
2 若し一人なりとも留めさせらるるなら
3 ば,中々罪業で御座らうずと,申されたれば:康
4 頼が事は然る事ぢゃが,俊寛は随
5 分シゲモリが口入を持って人と成った者
6 で有りながら,所こそ多いにかの鹿の谷
7 に城郭を拵えて,我に謀反を巧
8 んだ者で有れば,俊寛をば思いも
9 寄らぬ事ぢゃと,言われた.重盛叔父の宰相
10 殿を呼うで,少将は既に赦免せられたぞ,
11 御心安う思し召せと,言われたれば:宰相
12 手を合わせて喜ばれた.下る時もこれ
13 ほどの事を何故に身は申し受けぬぞと言う
14 振りで,私を見る度毎には,涙を
15 流いたが,不憫に御座ると,申されたれば:重
16 盛真に然こそ御座るらう:子は誰とて
17 も悲しい物なれば,猶々良う申さうず
18 ると言うて,鬼界が島の流人を召し返さ
19 るる清盛の許し文を取って,使いを
20 下された.宰相殿は余りの嬉しさに御
21 使いに私の使いを添えて下された.
22 夜を昼にして,急いで下ったれども,心に
23 任せぬ海路なれば,波,風を凌いで行く
24 程に,都をば七月の下旬に出

(73)
1 たれども,九月の二十日頃に漸うと鬼
2 界が島には着いて御座る.御使いをば
3 基康と申したが,船から上がって,ここも
4 とに都から流されさせられた丹波の
5 少将殿や,俊寛御坊,又康頼な
6 どは御座らぬかと,声々に尋ねた所
7 で,二人の人は例の熊野詣でをし
8 て留守で;俊寛一人ばかり残って居られ
9 たが,これを聞いて余り思えば,夢か,
10 又天魔波旬が我が心を誑かさうと
11 て言うか,現とも覚えぬ物哉と言う
12 て,慌てはためいて走るとも無く,倒るるとも
13 無く,急いで使いの前に走り向かうて,何
14 事ぞ?これこそ京から流された俊寛
15 よと,名乗られたれば:雑色が首に掛けさせた
16 文袋から清盛の許し文を取り出い
17 て捧げた:開いて見らるれば,重科は遠流に
18 免ず,早く帰洛の思いを成すべし.中
19 宮御産の御祈りに因って,非常の赦行わ
20 る:然る間鬼界が島の流人少将,康
21 頼法師赦免とばかり書かれて,俊寛
22 と言う文字は無かったに因って,礼紙にこそ有るらう
23 と言うて,礼紙を見るにも見えず,奥より端
24 へ読み,端から奥へ読めども,二人と

(74)
1 ばかり書かれて三人とは書かれなんだ.さうさうする
2 内に少将や,康頼も戻られたが,
3 少将の取って見らるるにも,康頼が読む
4 にも二人とばかり書かれて,三人とは書かれなん
5 だ.夢にこそこの様な事は有れ:夢か
6 と思い為さうとすれば,現なり:現かと
7 思えば,又夢の様なり:その上二人
8 の人の下へは都から言伝文
9 共が幾らも有ったれども,俊寛僧都の
10 下へは言問う文一つも無かった所
11 で,俊寛言わるるは:さてさて我等三人は罪
12 も同じ罪,配所も一つ所ぢゃ
13 に,何としたれば赦免の時,二人は召し返
14 されて,一人ここに残らうぞ?平家の思い
15 忘れか?執筆の誤りか?これは何とした
16 事共ぞと,天に仰ぎ,地に伏いて,泣き悲
17 しまるれども,甲斐も無ければ,少将の袂
18 に縋って,俊寛が斯様に成ると言うも,御辺
19 の父大納言殿の由無い謀反の故
20 ぢゃ.さう有れば余所の事とは思し召すな,
21 許されねば,都までこそは適わずとも,
22 この船に乗せ,九国の地へ付けて下さ
23 れい;各々のこれに御座った程こそ春は
24 燕,秋は田のむの雁の訪る

(75)
1 る様に,自づから故郷の事をも伝え
2 承ったれ;今より後は何として聞
3 かうぞと言うて,悶え,焦がれられた.その時少
4 将の申さるるは:真に然こそ思し召す
5 らう,我等が召し返さるる嬉しさは然る事な
6 れども,そなたの御風情を見置き奉れ
7 ば,行く空も覚えねども,打ち乗せ奉
8 って上るにも及ばず,詮方無い事
9 ぢゃ.都の御使いも適うまいと,申さるる
10 上,許されも無いに,三人乍ら島を
11 出でたなどと聞こえば,中々悪しゅう御座らうずる
12 程に,某先づ罷り上って人々
13 にも申し合わせ,清盛の気色をも窺
14 うて,迎いに人を進ぜうず.その間はこの
15 日頃御座った様に思い為いて,待たせられい:命
16 は如何にも大切な事なれば,仮令この瀬
17 にこそ漏れさせらるるとも,遂には何故に赦
18 免無うて有らうずるかと,慰めらるれども,人
19 目をも知らず泣き悶えられた.
20 既に船を出ださうずると犇めき合えば,俊
21 寛乗っては下り,下りては乗っつ,あらまし事
22 をせられた.少将の形見には夜の衾,
23 康頼が形見には一部の法華経を止
24 め置いて,纜を解いて押し出せば,俊

(76)
1 寛は綱に取り付いて,腰に成り,脇に
2 成り,丈の立つまで引かれて出られたが,丈
3 も及ばねば,船に取り付いて,扠如何に各
4 々,俊寛をば遂に捨て果たさせらるるか?
5 これほどには存ぜなんだ:日頃の御情け
6 も今は何ならず.唯理を曲げて御乗
7 せ有ってせめて九国の地までと,口説かれた
8 れども,都の御使い如何にも適うまいと
9 言うて,取り付かれた手を引き退けて,船をば遂
10 に漕ぎ出だせば,俊寛は詮方無さに渚
11 に上がって,倒れ伏いて幼い者の乳母
12 や,母などを慕う様に,足摺りをして,
13 これ乗せて行け,具して行けと,喚き叫べ
14 ども,漕ぎ行く船の習いなれば,後は白
15 波ばかりで有った.然程未だ遠ざからぬ船
16 なれども,涙に暗れて見えねば,俊
17 寛は高い所に走り上がって,沖の方を
18 招かれた体,かの松浦佐用姫が唐土
19 船を慕うて平伏したもこれには過
20 ぎまいと,見えた.船も漕ぎ隠れ,日も暮
21 るれども,怪しの臥所へも返らず,波
22 に足打ち洗わせて,露に萎れて,その夜
23 はそこに明かされた.然りとも少将は情けの
24 深い人ぢゃ程に,良い様に申し做さるる事

(77)
1 も有らうずと頼みを掛けて,その瀬に身を
2 も投げられなんだ心中は,真に愚かな
3 事で御座った.
4 第十一.少将,康頼都
5 へ返らるる道すがらの事.
6 右馬.扠これは真に哀れな事で有っ
7 たなう?して少将や,康頼はその侭上ら
8 れて有ったか?
9 喜.その御事ぢゃ:この人々は鬼界が島
10 を出て,宰相の知行の肥前の国鹿
11 瀬の庄に着かれたれば:宰相京より人を
12 下いて年の内は波,風が激しゅうて道
13 の間も覚束無い程に,そこもとで良う
14 身をも労わって,春に成らば,御上り有れと,有った
15 れば:少将も鹿瀬の庄でその年をば暮ら
16 された.明くる年の正月下旬に,丹波
17 の少将も,成経も鹿瀬の庄を発って
18 都へと急がれたれども,余寒が猶激
19 しゅうて,海上も厳う荒れたれども,浦伝い,島伝
20 いにして,二月の十日頃に,備前の
21 児島に着かれた.それより父大納言
22 殿の住まれた所を尋ね入って見らるる
23 に,竹の柱,旧りた障子,などに書き置かれた

(78)
1 筆の荒みを見て,哀れ人の形見には
2 手跡に過ぎた物は無い.書き置かれぬなら
3 ば,何としてこれをば見ょうぞと言うて,康頼入
4 道と二人読うでは泣き,泣いては読みなどせら
5 れた.そこに安元三年七月二十日,
6 出家同じき二十六日信俊下向と,
7 書かれた.これを持って信俊が参ったと言う
8 事も知られた.扠その墓を尋ねて見ら
9 るれば,松の一叢有る中に甲斐甲斐しゅう壇
10 を突いた事も無うて,唯土の少し高い
11 所に少将は袖を掻き合わせて,生きた人に
12 物を言う様に,泣く泣く申されたは:御死去
13 有った事をば島に於いて微かに伝え承
14 ったれども,心に任せぬ憂き身で
15 御座れば,急ぎ参る事も御座無し,成
16 経かの島へ流されて露の命消
17 え遣らいで二年を送って,召し返さるる嬉
18 しさは然る事で御座れども,此の世に長
19 らえさせらるるを見奉らばこそ,命
20 の長い甲斐も御座れ.これまでは急がれたれ
21 ども,今より後は急がうずるとも存ぜぬ
22 と,掻き口説いて泣かれた.真に存生の時
23 ならば,大納言入道殿こそ如何にとも
24 仰せられうに,生を隔つる習いほど恨めしい

(79)
1 事は無い.苔の下には誰が返事をもせう
2 ぞ?唯嵐に騒ぐ松の響きばかりで
3 御座った.その夜は夜もすがら康頼入道
4 と二人墓の周りを行道して念仏を
5 申し,明くれば新しゅう壇を突いて,釘抜きな
6 どをもさせて,前に仮屋を作り,七
7 日,七夜念仏を申し,経を書い
8 て,結願には大きな卒塔婆を立てて,その
9 年号,月日の下には孝子成経と書か
10 れたれば,賤山賤の心無い者も
11 子に過ぎた宝は無いと言うて,涙を流
12 し,袖を絞らぬは御座無かったと,申す.
13 扠少将は今暫くも念仏の功
14 をも積みたう御座れども,都に待つ人
15 共も,心許なう御座らうずる程に,先づ
16 罷り上る:又こそ参らうずれと言うて,
17 亡者に暇乞いをして,泣く泣くそこを発た
18 れた.草の陰でも然こそ名残惜しゅう思
19 われつらう:然れども然て有らうずる事で無けれ
20 ば,そこを発って同じ三月の十九日に
21 少将は鳥羽へ明う着かれた.大納言殿
22 の山荘州浜殿と言うて鳥羽に有ったが,
23 住み荒らいて年を経たれば,築地は有れども,覆
24 いも無く:門は有れども,扉も無し:庭

(80)
1 に立ち入って見らるれば,人跡絶えて苔深う:
2 池の辺りを見回さるれば,秋の山の春
3 風に白波頻りに折り掛けて,鴛鴦,鴨
4 の類いこなたかなたへ泳ぎ回るに付
5 けても,これを興じた人の恋しさに尽きせ
6 ぬ物は涙で有った:家は有れども,羅
7 紋も破れ,蔀,遣り戸も絶えて無し.こ
8 こには大納言殿こそ御座った物を,この
9 妻戸をばかうこそ出でさせられたが,あの木をば
10 自らこそ植えさせられたが,などと言うて,言
11 の葉に付けても父の事を恋し気に仰
12 せられた.弥生半ばの事なれば,花は未だ
13 名残りが有って,楊梅桃李の梢も折知り顔
14 に色々に咲き乱れて,昔の主は無
15 けれども,春を忘れぬ花で有れば,少将そ
16 の花の下に立ち寄って.
17 桃李物言わず,春幾許か暮れぬる,
18 煙霞跡無し,昔誰か住みし.
19 古里の花の物言う世なりせば,
20 如何に昔の事を問わまし.
21 と,この古い詩歌を口ずさまれたれば:康頼
22 入道も折節哀れに思うて,墨染め
23 の袖を濡らされた.暮るる程をば待たれた
24 れども,余り名残惜しゅうて,夜更くるまでそこ

(81)
1 に居られた.更け行く程に,荒れた宿の習い
2 なれば,古い軒の板間より漏る月影
3 は隈も無かった:鶏籠の山も明けう
4 とすれども,家路へは更に急がれなんだ.
5 然て有らうずる事でも無ければ,迎いに乗り
6 物共を遣わいたに,人の待たうずる
7 も心無い事ぢゃと言うて,泣く泣く州浜
8 殿を出でて,都へ帰り入られた心
9 の内共は,然こそ嬉しゅうも,哀れにも御
10 座っつらう.康頼入道が迎いにも乗り物
11 が有ったれども,それには乗らいで,今更名残
12 惜しいと言うて,少将の車の尻に乗って,
13 七条川原までは行き連れて,それから行
14 き別るるが,猶行きも遣られなんだ:花の
15 下の半日の客,月の前の一夜の
16 友,旅人が一村雨の行き過ぐるに,
17 一樹の陰に立ち寄って別るる名残りさえ
18 も惜しいに,況んやこれは恨めしかった島の
19 住まい,船の内,波の上起き伏し共
20 に一つにせられた事なれば,前世の縁
21 も浅からずに思われたれば,これは道理至
22 極ぢゃ.少将は舅の宰相の宿所へ立
23 ち入らるるに,少将の母上は霊山にお
24 ぢゃったが,昨日より宰相の宿所に出て,待

(82)
1 たれた所へ少将の立ち入らるる姿を一
2 目見て,命有ればとばかり言うて,引き被い
3 て伏された.宰相の内の女房侍共
4 差し集うて皆喜び泣き共をしたれば,
5 況して少将の北の方や,乳母の六
6 条が心の内に然こそは嬉しゅう思わ
7 れつらう:六条は尽きせぬ物思いに黒
8 かった髪も皆白う成り,北の方は然
9 しも華やかに美しゅう見えた人で有ったれど
10 も,いつしか痩せ衰えて,その人とも
11 見分けぬほどに有った.少将の流されられた時,
12 三歳で別れられた幼い人も大人しゅう
13 成って,早髪を結う程に有り,又その側
14 に三つばかりに成る幼い人が有ったを少
15 将,あれは誰ぞと,問われたれば,六条これこそ
16 とばかり言うて,袖を顔に押し当てて,涙を
17 流いたを持って,扠は下った砌心苦
18 し気な有り様を見置いたが,何事無う育っ
19 たよと,思い出ださるるに付けても,猶悲
20 しゅう思われたと,聞こえて御座る.少将は元
21 のごとく院に召し使われて宰相の中
22 将に上がられ,康頼入道は東山の
23 双林寺に我が山荘の有ったに落ち着いて,先づ
24 思い続けて一首の歌を読まれた.

(83)
1 古里の軒の板間に苔むして,
2 思いし程は漏らぬ月哉.
3 軈てそこに閉ぢ籠もって,疎ましかった昔
4 を思い続けて,宝物集と言う物語を
5 書き立てられたと,聞こえて御座る.
6 第十二.有王鬼界が島
7 に渡って,俊寛に会い:俊寛死去
8 せらるれば荼毘をして,その遺骨を首
9 に掛け,都へ帰り上り,
10 方々修行して,その後世を
11 弔うた事.
12 右馬.して俊寛は何と果てられたぞ?
13 喜.その御事ぢゃ:鬼界が島へ三人
14 流された流人,二人は召し返されて,都へ
15 上ったに:俊寛一人疎ましい島の島
16 守に成って果てられた.俊寛の幼うよ
17 り不憫にして召し使われた童が有ったが,
18 名をば有王と申した.鬼界が島の流人
19 今日既に都へ入ると,聞こえたれば:鳥羽
20 まで出迎うて見たれども,我が主は見えら
21 れず:何とと問えば,それは猶罪が深
22 いと言うて,島に残されたと聞いて,悲しゅうだは

(84)
1 事も疎かぢゃ.常は六波羅の辺に
2 佇み歩いて聞いたが,赦免有らうとも聞き出さ
3 なんだに因って,俊寛の娘の忍うで
4 居られた所へ参って,この瀬にも漏れさせら
5 れて上させられねば,何とぞしてかの島
6 へ渡って,御行方をも尋ねまらせうと存
7 ずる:御文をも下されいと,申したれば:泣
8 く泣く書いて出だされた.暇を請うとも,よも許
9 す事は有るまいと思うて,父にも,母
10 にも知らせいで,三月の末に都を出
11 て,多くの波路を凌いで,薩摩潟へ
12 下った.薩摩からかの島へ渡る船津
13 で人が怪しめて,着た物を剥ぎ取りなど
14 したれども,少しも後悔をもせず,かの
15 娘の文ばかりを人に見せまいとて,元
16 結いの中に隠いたと,申す.扠商人船
17 に乗って,件の島へ渡って見れば,都
18 で微かに伝え聞いたは,事の数でも
19 無い:田も無し,畑も無し,村も無し,
20 畑も無し,自づから人は有れども,言う言
21 葉も聞き知らず:若し斯様の者の中に
22 我が主の行方を知った者が有るか尋
23 ねうと思うて,物申さうと言えば,何事ぞ
24 と答えた.ここに都から流されさせられ

(85)
1 た法勝寺の執行御坊と申す人の行
2 方を知った人が有るかと,問えば:法勝寺と
3 も,執行とも知ったらばこそ返事もせうずれ:
4 唯頭を振って知らぬと言うたが,その中
5 に有る者が心得て,実にも然様の人
6 は三人これに居られたに,二人は去年の秋召
7 し返されて都へ上られたが,今一人
8 は残されてあそこここに惑い歩かれたが,そ
9 の行方をば知らぬと,言うた.
10 山の方が覚束無さに遥かに分け
11 入って,峰に上り,谷に下れども,尋ねも
12 会わず:唯白雲が跡を埋んで,行き来の
13 道定かにも見えず:嵐が激しゅうてま
14 どろむ事も成らねば,夢にさえもその
15 面影をも見なんだ.山で遂に尋
16 ね合わいで,海の辺に着いて尋ぬるに,砂
17 に印を刻む鴎,沖の白州にす
18 だく浜千鳥の他は跡訪う者も無かっ
19 た.或る明日磯の方から蜉蝣などの様に
20 痩せ衰えた者が蹌踉い出たを見れば,
21 元は法師で有ったと覚えて,髪は空様
22 へ生え上って,万の藻屑が取り
23 付いて,棘を頂いた様で,番い目も露わ
24 に,皮もゆたい,身に着た物は絹,布

(86)
1 の分けも見えず,片手には荒布を拾うて
2 持ち,片手には網人に魚を貰うて持
3 ち,歩む様にはしたれども,はかも行かず,
4 よろよろとして来た.都で数多の乞
5 丐人を見たれども,この様な者をば未
6 だ見た事が無い:若し餓鬼道に尋ねて来
7 たかと思う程に,彼もこれも次第に
8 歩み近付く.若しこの様な者も我が
9 主の御行方を知る事もや有らうかと物
10 申さうと言えば;何事ぞと答ゆるに:これ
11 は都から流されられた俊寛と言う人
12 の行方を知ったかと,問うに:童は見忘れ
13 たれども,俊寛は何故に忘れうぞなれば,こ
14 れこそそよと言いも敢えず,手に持った物を
15 投げ捨てて,砂子の上に倒れ伏された.扠
16 こそ我が主の行方とも知って有ったれ;然無くん
17 ば,思いも寄るまい.軈て消え入られたを膝の
18 上に掻き伏せ奉り,有王が参って御座
19 る:多くの波路を凌いでこれまで訪
20 ね参った甲斐も無う,軈て憂き目を見せさせ
21 らるるかと,泣く泣く申したれば:やや有って少
22 し人心地が出来て,助け起こされて,真
23 に汝がここまで尋ね来る志
24 の程は,近頃神妙な:明けても,暮

(87)
1 れても都の事のみが思い出だされ,
2 床しい者共が面影を夢に見
3 る折も有り,幻に立つ時も有り:
4 別して身も疲れ果てて後は,夢も,
5 現も思い分かず:さればその方が来た
6 事も,唯夢とばかり思う:若しこの事
7 が夢ならば,覚めて後は,何とせうぞと
8 悲しまるれば:有王現で御座る:この
9 御姿で今まで御命を伸びさせら
10 れた事こそ不思議で御座れと,申したれば:され
11 ばこそ:去年少将や,康頼に捨てられて後
12 の頼り無さ心の内をば推し量れ;そ
13 の瀬に身をも投げうとしたを,由無い少
14 将の今一度都の訪れをも
15 待てかしなどと慰め置かれたを,愚かで
16 若しやと頼うで長らようとはしたれども,こ
17 の島には人の食い物が絶えて無い所
18 なれば,身に力の有る程は,山に
19 上って硫黄と言う物を掘って,九国より
20 通う商人に会うて,食い物に変えなどしたれど
21 も,日に添えて弱り行けば,今はその様な
22 技もせず:この様に日の長閑な時は,
23 磯に出て網人,釣り人に手を擦り,膝を屈
24 めて魚を貰い:潮干の時は,貝を拾

(88)
1 い,荒布を取り,磯の苔に露の命
2 を掛けてこそ今日までも長らえたれ:然無う
3 ては,世を渡る縁をば何としてせうとは
4 思うぞ?ここで何事をも言わうと思え
5 ども,先づいざ我が家へと,言わるれば:この
6 有り様でも家を持たせられたかと不審に思
7 いながら,行く程に,松の一叢有る中
8 に寄り竹を柱にして,葦を結い,桁,梁
9 に渡いて上にも,下にも,松の葉をひ
10 しと取り掛けたれば,雨風も堪らう体では
11 無かった.昔は,法勝寺と言う寺の司
12 で有ったれば,八十余箇所の知行を進退
13 せられたれば,棟門,平門の内に四五
14 百人ほどの所従,眷属共に用いられ
15 てこそ過ぎられたに,目の当たりにこの様な憂き
16 目を見らるる事は,真に不思議ぢゃ.
17 俊寛はその時漸うと現で有ると
18 思い定めて,して去年少将や,ナリチカが
19 迎いにも彼等が文と言う事も無し:
20 今又そちの便りにも訪れの無いは
21 かうとも言わなんだか?有王涙に咽びな
22 がら,俯いて暫しは物をも申さず,やや
23 有って起き上がって,涙を押さえて申したは:君
24 の西八条へ出させられたれば,軈て追捕

(89)
1 の官人が参って資財,雑具をも奪い取
2 り,身内の人々をも搦め取って,御謀反
3 の次第を尋ねて皆失い果たいて御座る.
4 北の御方様は幼い人を隠し兼
5 ねさせられて,鞍馬の奥に忍ばせられて
6 御座ったに,某ばかりこそ時々参って宮
7 仕いをも仕って御座るが,いづれも
8 御嘆きの疎かな事は御座らなんだれど
9 も,幼い人は余りに恋い焦がれさせられて,
10 参る度毎に,有王よ,父御前の御座る
11 鬼界が島とやらへ連れて行けとむつから
12 せられたが,過ぎし二月に痘瘡と申す事
13 で隠れさせられた.北の御方様はその
14 御嘆きと申し,これの御事と申し,一方
15 ならぬ御思いに沈ませられ,日に添えて
16 弱り行かせられたが,同じ三月二日に
17 遂に儚う成らせられて,今姫御前ばかり奈
18 良の伯母御の下に御座る:その御文はこ
19 れへ持って参って御座ると言うて,取り出いたを見ら
20 るれば:有王が申すに違わず書かれて,その
21 文の奥には,何とて三人流された人の
22 二人は召し返されて御座るに,今まで御上
23 り無いぞ?哀れ高いも,卑しいも女の身
24 ほど心憂い物は御座無い:男子の身

(90)
1 で御座らば住ませらるる島へも何故に参
2 らいで御座らうぞ?この有王を御供で急いで
3 上らせられいと,書かれたれば,これ見よこの子
4 が文の書き様の儚い事よ:己を
5 供にして急いで上れと,書いた事こそ恨め
6 しい:心に任せた俊寛が身ならば,何故
7 に三年の春秋をば送らうぞ?今年は
8 十二に成るとこそ思うに,これほど儚うて
9 は,人にも見え,宮仕いをもして身をも
10 育てうずるかと言うて,嘆かれたを持って,人の
11 親の心は闇では無けれども,子を
12 思う道には迷う事も知られた.この島
13 へ流されて後は,暦も無ければ,
14 月日の変わり行くをも知らず:唯自づ
15 から花の散り,葉の落つるを見て,春秋
16 をも弁え,蝉の声を聞けば,夏
17 と思い:雪の積もるを見て,冬と知る
18 体ぢゃ.月夜,闇の夜の変わり行くを見て,
19 三十日を弁え,指を折って数ゆれば,
20 今年は六つに成ると思うた幼い者
21 も早先立ったよな?西八条へ出た時,
22 この子が我も行かうと慕うたを,軈て返らう
23 ぞと,賺いて置いたが,今の様に覚ゆる:それ
24 を限りと思うたならば,今暫しも見ょう

(91)
1 物を!親と成り,子と成り,夫婦の縁を
2 結ぶも,皆此の世一つに限らぬ契
3 りぢゃに:何故に然らばこれ等が然様に先立った
4 を今まで夢幻にも知らなんだぞ?
5 人目も恥ぢず,如何にもして命を生きょうと
6 思うたも,これ等を今一度見ょうと思う為
7 ぢゃ:姫が事こそ心苦しけれども,
8 それも生き身なれば,嘆きながらも過ごさうず,
9 然のみ長らえて己に憂き目を見せうも
10 我ながらつれない事ぢゃと言うて,自づから
11 の食事をも止めて,唯偏に弥陀の名
12 号を唱えて,臨終正念を祈られたが,有王
13 が渡って二十三日と言うに,その庵の内
14 で遂に終わられた.年は三十七ぢゃと,聞
15 こえて御座る.
16 有王は空しい姿に取り付いて,天に仰
17 ぎ,地に伏いて泣き悲しめども,甲斐も無
18 し.心の行くほど泣き飽いて,軈て後世の
19 御供を仕らうずる事なれども,此
20 の世には姫御前ばかりこそ御座れ:後世を
21 弔い参らせうずる人も御座無ければ,暫し
22 長らえて,後世を弔いまらせうずると言うて,臥
23 所をも改めず,庵の切り掛け,松の
24 枯れ枝,葦の枯れ葉を取り覆うて,藻塩の

(92)
1 煙と成し奉って,荼毘も事終わ
2 れば,白骨を拾うて首に掛け,又商人の
3 船の便りに九国の地へ着いて,それから俊
4 寛の娘の居らるる所へ行って,有りし様
5 を始めより細々と語って申すは:中
6 々こなたの御文を御覧ぜられてこそ,いとど
7 御思いは増さらせられて御座る.硯も,
8 紙も御座無いに因って,御返事にも及ばれ
9 ず:唯心ばかりで果てさせられて御座る.今
10 は生々世々を送らせらるるとも,何とし
11 てか御声をも聞かせられ,御姿をも見さ
12 せられうぞと,申したれば:伏しまろうで声をも
13 惜しまず,泣き悲しまれたが,軈て尼に成っ
14 て奈良の法華寺と言う寺に行い澄まいて,
15 父母の後世を弔われたと,申す.哀
16 れや有王は俊寛僧都の遺骨を首
17 に掛けて,高野へ上って,奥の院に収
18 めて蓮華谷で法師に成り,諸国を修
19 行して主の後世を弔うて果てて御座る.
20 この様に人の思い嘆きの積もる平
21 家の末は何と有らうか?恐ろしい事ぢゃ.

(93)
1 平家巻第二.
2 第一.
3 祇王清盛に愛せら
4 れた事:同じく仏
5 と言う白拍子に思い変えられて後,
6 親子三人尼に成り,世を
7 厭うた事と,又その仏
8 も尼に成った事.
9 右馬.扠真に誰にも,彼にも清
10 盛は難儀を掛けた人ぢゃの?又
11 その祇王が事をも聞きたい,御語り有れ.
12 喜.長い事なれども,申さうず.清盛
13 はこの様に天下を掌に握られ
14 たに因って,世間の謗りをも憚らず,人の
15 嘲りをも顧みいで,不思議な事のみ
16 をせられて御座る.例えば,その頃都に
17 聞こえた白拍子の上手に祇王,祇女と言う
18 弟兄の者が御座ったが,とぢと言う白拍
19 子が娘で有った.姉の祇王を清盛
20 の愛せられたに因って,妹の祇女をも
21 世上の人が持て成す事は,斜めなら
22 なんだ.母とぢにも良い家を作って取ら
23 せ,毎月に百石,百貫を送られたれ

(94)
1 ば家内富貴して,楽しい事限り無かった.京
2 中の白拍子共祇王が幸いのめでたい
3 様を羨む者も有り,嫉む者も
4 有り,まちまちで有った.羨む者共
5 は扠も果報な祇王やな!同じ遊び女と
6 成らば,誰も皆あの様でこそ有りたけれ:哀れ
7 これは祇と言う文字を名に付いたに因ってこの
8 様にめでたいか.いざ我等も付いて見ょうと言う
9 て,或いは祇一と付き,祇二と付き,或いは
10 祇福,祇徳などと言う者も有った.又
11 嫉む者共は何故に文字に因り,名に
12 は因らうぞ?幸いは前世の生まれ付きでこそ
13 有れと言うて,付かぬ者も多かったと,申す.
14 さうして三年目に,又都に聞こえ渡
15 った白拍子の上手が一人出来たが,加賀
16 の国の者で,名をば仏と申した.
17 年は十六で御座った.昔から白拍子も
18 有ったれども,この様な舞は未だ見ぬと言う
19 て,京中の上下持て成す事は限りが無
20 かった.仏御前が申したは:我は天下に
21 聞こえたれども,当時然しもめでたう栄えさせら
22 るる西八条へ召されぬ事こそ本意無い事
23 ぢゃ:遊び者の習いなれば,定めて苦
24 しゅうも有るまい,いざ推参して見ょうと言うて,或る時

(95)
1 西八条へ参ったれば:人が参って,当時
2 都に聞こえまらした仏御前こそ参っ
3 て御座れと,申したれば:清盛何ぢゃ?その
4 様な遊び者は人の召しに従うてこそ
5 来る物なれ,左右無う推参する事が有る物
6 か?その上祇王が有らうずる所へは神
7 とも言え,仏とも言え,適うまい:疾う疾う
8 返れと言えと,言われたれば:仏すげなう言われ
9 て,既に返らうとしたを,祇王清盛に
10 申したは:遊び者の推参する事は,常
11 の習いで御座る.その上年も未だ若う
12 御座るが,偶々思い立って参ったをすげなう
13 仰せられて返させられう事は,不憫な儀ぢゃ:
14 如何ほど恥づかしゅうか御座らう.我が立てた道で
15 御座れば,人の上とも存ぜぬ:仮令舞を
16 御覧じ,謡いを聞こし召されずとも,御対面ば
17 かり有って返させられば,有り難い御情けで御座
18 らうず.唯理を曲げて御対面為されいと,申
19 したれば:清盛わごぜが余り言う事ぢゃ程
20 に,見参をして返さうずると有って,使いを
21 立てて召された.仏はすげなう言われて車
22 に乗って出たが,召されて又帰り参ったれば,
23 入道軈て出会われて,今日の見参は有る
24 まじ事で有ったを,祇王が申し勧むるに

(96)
1 因って見参はしつ,見参する程では
2 何故に声を見聞かいで有らうぞ?先づ今様を
3 一つ歌えかしと,有ったれば,仏畏まって
4 御座ると申して,今様を一つ歌うた:君
5 を初めて見る折は,千代も経ぬべし姫小
6 松,御前の池なる亀岡に鶴こそ
7 群れ居て遊ぶめれと,押し返し押し返し,三遍
8 まで歌うたれば,見聞く人皆耳目を驚
9 かいたに因って,清盛も面白気に思
10 われて,わごぜは今様は上手ぢゃ:この体では
11 舞も定めて良からうず:一番舞う程に
12 鼓打ちを呼べと言うて召された.扠打た
13 せて一番舞うたに,仏御前は髪姿
14 より始めて,見目,形世に優れて,声も
15 良う,節も上手で有ったれば,何しに舞も損ぜう
16 ぞ?心も及ばぬほど,舞い澄まいたれば,
17 清.舞に愛でられて,仏に心を移
18 されたれば,仏申すは,是はされば何事
19 で御座るぞ?固より私は推参の者
20 で追い出だされまらせうずるを,祇王御前の
21 申し状に因ってこそ召し返されても御座る
22 に,止め置かせらるるならば,祇王の思
23 われうずる心の内も恥づかしゅう御座らうず.
24 早早暇を下されて出させられいと,申した

(97)
1 れば,清盛一円その儀は有るまい:但し
2 祇王が居るを憚るか?その儀ならば,祇
3 王をこそ出さうずれと,言われたれば:それ又有らうず
4 る事でも御座無い.諸共に召し置かれう
5 さえ片腹痛う御座らうずるに,祇王は出されて,
6 妾一人を止め置かせられば,猶々
7 迷惑に存ぜうず:自づから後まで
8 御忘れ為されぬならば,召されて又は参
9 るとも,今日は先づ御暇を下されいと,
10 申したれば:清盛全てその儀有るまい:
11 祇王疾う疾う罷り出いと有って,御使いを重ねて
12 三度まで立てられた.祇王は固より思い
13 設けた道なれども,流石昨日今日とは
14 思いも寄らず:急いで出でよと頻りに仰せらる
15 るに因って,掃き拭い塵を拾わせ,見苦
16 しい物共取り認めて出うずるに定まっ
17 た.一樹の陰に宿り,同じ流れを結
18 ぶさえ,別れは悲しい習いぢゃに,況してこの
19 三年が間住み慣れた所なれば,名残りも
20 惜しゅう悲しゅうて,甲斐無い涙が零れた.然て有
21 らうずる事でも無ければ,今はかうぢゃと言うて,
22 出づるが,無からうずる後の忘れ形見にと思
23 うたか,障子に泣く泣く一首の歌を書いた.
24 萌え出づるも,枯るるも同じ野辺の草,

(98)
1 いづれか秋に会わで果つべき?
2 扠車に乗って宿所に返って,障子の
3 内に倒れ伏いて,唯泣くより他の事は
4 無かった.母や,妹これを見て,何と何とと
5 問うたれども,とかうの返事もせなんだに因って,供
6 した女に尋ねて,扠はかうで有ったよと知っ
7 た.さう有ったれば毎月に送られた百石,
8 百貫も止められて,今は仏が縁,掛
9 かりの者共初めて楽しみ栄えた.
10 京中の上下祇王こそ清盛の
11 暇を下されて出たと言うに,いざ見参し
12 て遊ばうと言うて,文を遣わす者も有り,
13 使いを立つる者も有り:祇王はされば
14 とて今更人に対面して,遊び戯れう
15 ずる事でも無ければ,文を取り入るる事
16 も無し,況して使いにあいしらうまでも無かっ
17 た.これに付けても悲しゅうて涙にの
18 み沈んで居た.さうさうする程に今年も暮れ,
19 明くる春の頃清盛祇王が所へ
20 使いを立てて,如何に祇王,その後は何事
21 か有る?扠は仏が余り寂しさうに見ゆる:
22 何か苦しからうぞ?参って今様をも歌い,
23 舞などをも舞うて,仏を慰めいと言わ
24 れたれば:祇王とかうの返事にも及ばず:涙

(99)
1 を支えて打ち伏した.清盛何故に
2 祇王は返事をせぬぞ?参るまいか?参る
3 まいならば,その様を言え,清盛も図る様
4 が有ると,言われたれば:母はこれを聞いて悲しゅう
5 で,何とせうとも覚えず,泣く泣く教訓した
6 は:如何に祇王ごぜ,ともかうも御返事を申
7 せかし,この様に叱られまらせうよりはと,言え
8 ば,祇王参らうと思う道ならばこそ,軈
9 て参らうとも申さうずれ:参るまい物故に,
10 何と御返事を申さうとも覚えぬ:この度
11 召すに参らずは,図らう旨が有ると仰せらる
12 るは,都の内を出さるるか,然らずは命
13 を断たるるか:これ二つには過ぎまい.仮令
14 都を出さるるとも嘆かうずる事で
15 も無い,仮令命を召さるるとも,惜しまうず
16 る我が身か?一度詮無い物と思われ
17 まらして,再び面を向けうずる物か
18 と言うて,猶御返事をも申さなんだを母と
19 ぢ重ねて教訓したは:如何に祇王御前,天
20 が下に住まうずる限りは,ともかうも清
21 盛の仰せを背くまい事でこそ有れ,男,
22 女の縁定め無い事,今に始めぬ
23 事ぢゃ:千年万年と契れども,軈て
24 離るる仲も有り,事仮初とは思え

(100)
1 ども長らえ果つる事も有り,世に定め
2 無いは,男女の習いぢゃ.その上わごぜ
3 は三年まで思われまらしたれば,有り難い事
4 でこそ有れ:召されうに参らねばとて,命
5 を失わるるまでは有るまじい.都の他
6 へ出されうずるまでで有らう:仮令都を出さ
7 るるとも,わごぜ達は年が若ければ,何
8 たる岩木の狭間でも過ごす事が易からう
9 ず.それに我が身年寄り,齢も衰えた身
10 が都の他へ出されうず,習わぬ鄙の
11 住まいを予て思うも悲しい:唯我を
12 都の内で住み果てさせい:それこそ今生後
13 生の孝養で有らうと言えば,祇王恨めしいと
14 思うた道なれども,親の命を背
15 くまいとて,泣く泣く又出立つ心の内
16 は真に無残な.一人参らうずるも
17 余り物憂いと言うて,妹の祇女を
18 も連れ,その他白拍子二人,総じて四人
19 一つ車に乗って,西八条へ参ったれ
20 ども,日頃参った所へは入れられいで,遥か
21 下がった所に座敷を設うて置かれたれば,
22 祇王是はされば何事ぞ?我が身に誤
23 る事は無けれども,出さるるだに有るに,座
24 敷をさえ下げらるる事の恨めしさよ:如何

(101)
1 はせうと思うに,知らせまいと押さゆる袖の
2 暇から余って涙が零れた.仏御前
3 これを見て,世に哀れに思うたれば,清.に
4 申したは;日頃召されぬ所でも無し,これ
5 へ召させられいかし.然無いならば,私に暇
6 を下されい,出て見参申さうと言うたれば,
7 清盛全てその儀有るまじいと言わるれば,力
8 に及ばいで出なんだ.清盛軈て
9 出会うて祇王が心の内をば御知り無うて,
10 如何に祇王,その後何事か有る?扠は仏
11 ごぜが余り徒然気に見ゆる,何か
12 苦しからう?先づ今様を一つ歌えかしと,
13 言われたれば,祇王参る程ではともかうも
14 清盛の仰せを背くまいと思い,落
15 つる涙を押さえて今様を一つ歌うた
16 が,その理時に当たって似合うて有ったれば,そ
17 の座に並み居られた平家の一門の人々
18 皆涙を流された.清盛も面
19 白気に思われて,時に取っては神妙
20 に申した:扠は舞も見たけれども,今日
21 は折節紛るる事が有る:この後
22 は呼ばずとも,常に来て今様をも歌い,
23 舞などをも舞うて仏を慰めいと言わ
24 れたれども,祇王とかうの返事にも及ば

(102)
1 ず,涙を押さえて返った.
2 親の命を背くまじいとて,辛い道
3 に赴いて,再び憂き目を見た事の
4 心憂さよ:かうして此の世に居るならば,又
5 憂き目を見ょうず:今は唯身を投げうずる
6 と言えば,妹の祇女もこれを聞いて,
7 我も共に身を投げうと言う.母と
8 ぢこれを聞くに悲しゅうて,何と有らうとも覚
9 えず,泣く泣く又教訓したは:真に
10 わごぜの恨みも理ぢゃ:然様の事が
11 有らうとも知らいで,教訓して参らせた事の
12 心憂さよ:但しわごぜ身を投げば妹
13 の祇女も共に身を投げうと言う.
14 若い二人の娘共に遅れたらば,年
15 老い,齢衰えた母が留まっても何
16 にせうぞ?我も共に身を投げうず:
17 未だ死期も来ぬ親に身を投げさせたら
18 ば,深い罪にも成らうず.此の世は僅か
19 の仮の宿りなれば,恥ぢても,恥ぢいでも差
20 せる事でも無い:唯長い世の闇こそ
21 悲しけれ:今生でこそ有らうずれ,後生まで
22 悪道へ赴かう事こそ悲しけれと言う
23 て,袖を顔に押し当てて,さめざめと掻き
24 口説いたれば,祇王涙を押さえて,一旦恥

(103)
1 を見た心憂さにこそ身を投げうとは
2 申したれ:実にも然様に御座らば,罪の深
3 からうずる事は疑い無い:然有らば自害をば思
4 い止まりまらした.この分で都に居
5 まらするならば,又憂き目をも見ょうずれば,今
6 は唯都の他へ出うと言うて,祇王は二
7 十一で尼に成り,カガの奥な山里
8 に柴の庵を引き結んで,念仏申して
9 居た.妹の祇女もこれを見て,姉が身
10 を投げば,我も共に投げうとこそ契っ
11 たに:況して世を厭わうに,誰かは劣らうぞと
12 言うて,十九で様を変えて,姉と一所に籠もっ
13 て後生を願うたは,真に哀れな事ぢゃ.
14 母のとぢもこれを見て,若い娘共
15 さえも様を変ゆる世の中に,年寄り,
16 齢の傾いた母白髪を付けても何に
17 せうぞと言うて,四十五で髪を剃って,二人の娘
18 と共に只管に念仏申して,偏に後
19 生を願うたと,申す.扠春も過ぎ,夏も
20 長けて,秋の初風が吹けば,星合いの空を
21 眺め,日影の西の山の端に掛かるを
22 見ても,日の入る方は極楽ぢゃと聞くが,
23 我等もいつかあそこに行って,物を思わいで
24 過ごさうぞ?これに付けても過ぎつる方の事

(104)
1 共を思い続けて,唯尽きせぬ物
2 は涙で有った:黄昏時も過ぐれば,竹の
3 網戸を閉ぢ塞いで灯し火を微かに掻き立
4 てて親子三人念仏して居た所に,竹の
5 網戸をほとほとと打ち叩く音がした.その
6 時尼共肝を消して,哀れこれは言う甲斐
7 無い我等が念仏して居るを妨げうとて,魔
8 縁の来たるでこそ有るらう:昼だに人も問い来ぬ
9 山里の柴の庵の内で有れば,夜更
10 けて誰かは訪ねうぞ?僅かの竹の網
11 戸で有れば,開けずとも押し破らうず事は易
12 からうず.中々唯開けて入れうと思う:それに
13 情けを掛けいで,命を失うならば,年頃
14 頼み奉った弥陀の本願を強う信じ
15 て暇も無う,名号を唱えさせられい.声を
16 訪ねて迎い取らせられうずとの儀ぢゃ程に,
17 構えて念仏を怠らせられなと,互いに心
18 を戒めて竹の網戸を開けたれば,魔
19 縁では無うて,仏御前で有った.祇王涙
20 を押さえてあれは扠仏御前と存ずるが,
21 夢か,現かと言うたれば,仏申したは:
22 この様な事を申せば,事新しゅう御座れど
23 も,申さずは又思い知らぬ身と成りまら
24 せうずれば,始めよりして申す:固より私

(105)
1 は推参の者で出されまらせうずるを,祇
2 王御前の申し状に因ってこそ召し寄せられて
3 も御座ったに,女の甲斐無い事は,我が身を
4 心に任せいで押し止められまらした事
5 は,如何ほど心憂う御座ったが,そなたの出されさせ
6 られたを見たに付けても,いつか我が身の上
7 で有らうと思うたれば,嬉しゅうは無うて,障子にいづ
8 れか秋に会わで果つべきと書き置かせられた筆
9 の跡を実にもと思うて悲しゅう存じた.
10 いつぞや又召されさせられて今様を歌わせ
11 られたにも思い知られてこそ御座ったれ.その後
12 は行方をどなたとも知りまらせなんだに,
13 斯様に様を変えて一所にと承っ
14 て後は,余り羨ましゅうて,常に暇を
15 請いまらしたれども,清.更に御用い為され
16 なんだ:熟物を案ずるに,娑婆の栄
17 華は夢の夢なれば,楽しみ栄えて
18 も何せうぞ?今この瀬に後生を願わいで
19 は,泥犁に沈んだらば,浮かむ世は有るまじい:年
20 の若いを頼まうずる事でも無い:老少
21 不定の世界ならば,誰とても定めが無い:
22 出づる息の入るをも待つまじい,蜉蝣稲妻
23 よりも,猶儚い一旦の楽しみに誇
24 って後生を忘れうずる事の悲しさに,今

(106)
1 朝紛れ出でてかう成ってこそ参ったれと言うて,被
2 いた衣を打ち除けたを見れば,尼に成って
3 来た.この様に様を変えて参ったれば,日頃
4 の科をば,許させられい:許さうと思わせら
5 れば,諸共に念仏を申して,一つ蓮
6 の身と成らうず.それも猶気に合わずは,これ
7 よりどなたへなりとも迷い行いて,如何なる岩木
8 の狭間にも倒れ伏いて,命の有らう限り
9 は念仏を申して,後生を助からうずると言うて,
10 袖を顔に押し当てて,さめざめと掻き口説い
11 たれば,祇王真にそなたのこれほどに思
12 い有るとは,夢にも知らいで,憂き世の中の
13 浅ましさは我が身をこそ憂しと思わう事
14 ぢゃに:ともすれば,そなたの事が恨めしゅうて,
15 往生の素懐を遂げうずる事も適わうと
16 も覚えず,今生も,後生もなましいにし
17 損じた心地で有ったに:この様に様を変えて
18 おぢゃったれば,日頃の恨みは露,塵ほども
19 残らぬ.今は往生も疑い無い:この度
20 素懐を遂げうずる事こそ,何よりも嬉しい
21 事ぢゃ.我等が尼に成った事を世に有り難
22 い事の様に人も言い,我が身にも思うた
23 が,これは身を恨み,世を恨みての事な
24 れば,様を変ゆるも理ぢゃ.今そなた

(107)
1 の出家に比ぶれば,事の数でも無い.そ
2 なたは嘆きも無し,恨みも無し,今年は
3 未だ十七にこそ成る人が,これほど穢土を
4 厭うて,浄土を願わうと深う思い御入り有ったこ
5 そ真の大道心とは見えたれ.いざ然らば諸
6 共に後生を願わうと言うて,四人一所に
7 籠もって,朝夕仏の前に花,香を供
8 えて,余念も無う後生を願うて遂に無事に
9 終わったと,申す.
10 第二.高倉の宮
11 の御謀反現われて,三井寺へ落ちさ
12 せられた事.又長兵衛と言う
13 宮の侍後に残って合
14 戦をし,生け捕られた事.
15 右馬.高倉の宮の御謀反の容態
16 をも聞きたい,御語り有れ.
17 喜.先づは扠退屈も召されぬ御人
18 ぢゃ.然らば語りまらせう:タダクラの宮の
19 御謀反の由を披露仕ったれば,法
20 皇はこれを聞かせられ,由無い都へ出て,
21 又この様な疎ましい事を聞くと仰せら
22 れて,御涙に咽ばせられた.清盛は
23 福原の別業に居られたに,次男宗盛

(108)
1 の方から飛脚を立ててこの由を言い送
2 られたれば,清.大きに腹を立てて,別の子
3 細も無い:急いで宮を搦め取りまらして,土
4 佐の畑へ流しまらせいと言うて,出羽の判
5 官と,源太夫判官にこの由を言い
6 付けられた.この源太夫の判官と言うは,
7 三位入道の養い子で御座る:したをこ
8 の人数に入れられた事は何とした事ぞと言う
9 に,三位入道宮を勧められた事を平
10 家は未だ知られなんだに因ってで御座った.三
11 位入道これを聞いて,急いで宮へ御文を
12 進ぜられた:宮は五月十五夜の雲間
13 の月を眺めさせらるる所に,三位
14 入道の使いと言うて,急ぎふためいて文を
15 持って参ったを,宮の御乳母の宗信
16 これを取って,御前へ参って,震い震い読う
17 だは,宮の御謀反既に現われさせられた
18 に因って,官人共が只今御迎いに
19 参る程に,急いで御所を出させられて,三井寺
20 へ出でさせられい:某も子供を引き具して
21 軈て参りまらせうずると,書いたれば:宮はこれ
22 は何とせうぞと騒がせられたれば,長兵衛
23 の判官と申す侍が申したは:別の事
24 が御座らうか?女房の装束を借らせられて出

(109)
1 させられたらば,良う御座らうと,申したれば:実にも
2 と仰せられて,その分に出立たせられ,市女
3 傘を召させられて出させらるれば,宗信
4 は直垂に玉襷を上げて,傘を持ち,
5 御供を仕る.黒丸と言う小者
6 は袋に物を入れて頂いて,青侍
7 の女を迎えて行く様に持て成いて落
8 ちさせらるるに,溝の有ったを宮の如何にも
9 軽うざっと越えさせられたれば,道を行く者
10 が立ち留まって,あら!はしたなの女房の
11 溝の越え様やと言うて,怪しさうに見まらし
12 たれば,いとどそこを足早に過ぎさせられた.
13 長兵衛の判官は御所の御留守に残った
14 が,只今官人共が参って見ょうに,見
15 苦しい物共を取り収めうとて,ここか
16 しこを拵ゆる内に,宮の御秘蔵為さ
17 れた小枝と言う笛を常の枕に取
18 り忘れさせられたを見て,ひしと心に掛かっ
19 て長兵衛これを取って小門を走り出て
20 五町が内で追い付いて捧げたれば,宮斜
21 めならずに喜ばせられて,我が死んだなら
22 ば,この笛を構えて御棺に入れいと仰せ
23 られたと,申す.さう有って軈て御供を仕
24 れと,御意為された時に,長兵衛

(110)
1 の判官最も御供をこそ仕りたう
2 御座れども,只今官人共が御迎い
3 に参らうずるに御所中に,一言葉もあいしらう
4 者が御座無うては,余りな事で御座る;物
5 の数では御座無けれども,あの御所には
6 長兵衛が居まらすると皆人が知って御
7 座るに,今宵罷り居ずは,それもその夜逃
8 げたなどと申されう事,疑いも無い:弓矢
9 を取る身の習いは,仮にも名こそ惜しゅう御
10 座れ,一言葉あいしらうて,軈て参らうずると暇
11 を申して,走り帰った.
12 扠門共を悉く開いて,唯一
13 人待つ所に,夜半ばかりに出羽の判
14 官と,源太夫判官,都合二百騎ばか
15 りで押し寄せたが,源太夫判官は存
16 ずる子細が有ると見えて,門の前に暫
17 く控えたに:出羽の判官は馬に乗り
18 ながら,庭に打ち入れて申したは:君の御
19 謀反既に現われさせられたに因って,官人
20 共が御迎いに参ったと,申せば,長
21 兵衛の判官がこれを聞いて,何事で御座る
22 ぞ?当時はこの御所には御座無いと,申せば,
23 出羽の判官,何故にこれならでは,どこへ
24 御座らうか?その儀ならば,僕共参っ

(111)
1 て御所中を探し奉れと申したれば,
2 長兵衛,物も知らぬ奴原が言い様
3 やな!馬に乗りながら庭上に参るさえ奇怪
4 なに,僕参って探し奉れとは,己
5 等が分で何として申さう事ぞ?日頃は
6 音にも聞き,今は目にも見よ,長兵衛
7 の判官と言う者ぢゃぞ,近う寄って過ちす
8 なと言うたれば:源太夫判官これを聞いて,
9 喚いて駆け入れば,大剛の僕共太刀
10 や,長刀の鞘を外いて,長兵衛を
11 目掛けて切って上れば,長兵衛は狩衣
12 の下に腹巻きを着て,太刀を佩いたが,
13 僕共が切って上るを見て,狩衣
14 をば引きちぎって脱ぎ捨て,太刀を抜いて切っ
15 て回れば,面に向かう者は無かった.長
16 兵衛一人に切り立てられて,嵐に木の葉の散
17 る様に,皆庭にざっと下りた.五月雨の頃
18 で有ったれば,村雨の絶え間の月の出で
19 たに,敵は無案内なり,我が身は案内者なれ
20 ば,ここの詰まりに追っ掛けてははたと切り,かし
21 この詰まりに追い籠めては丁ど切り,切って回
22 れば宣旨の御使いをば何故にかうはするぞと
23 言えば,何の宣旨とはと言うて,太刀が歪め
24 ば躍り退いて踏み直し押し直し,立ち所

(112)
1 に究竟の者を十五人切り伏せたれ
2 ば,太刀の切っ先五寸ばかり打ち折って捨てて退
3 けた.今は自害をせうと思うて,腰を探
4 れば,脇差が落ちて無かったに因って,高倉
5 面の小門に人の無い間に走り出う
6 とする所に,手塚の八郎と言う者
7 長刀を持って寄せ合わせたに乗らうとて,飛んで
8 掛かったが,腹を縫い様に貫かれて長兵
9 衛心は猛う思えども,生け捕りにせら
10 れた.その後御所中を探し奉ったれ
11 ども,御座らなんだれば,長兵衛ばかりを生け捕って
12 六波羅へ引いて行って,坪の内に引き据えて置い
13 たれば,宗盛出て縁に立って言わるるは:宣
14 旨とは何事ぞと言うて,僕共を刃傷
15 し,殺害した事は近頃分別に及ば
16 ぬ:その子細を詳しゅう問うて,その後川原
17 へ引き出いて首を撥ねいと,言い付けられたれば,
18 長兵衛嘲笑うて申したは,さうで御座らうず:
19 この程あの御所を夜な夜な者が襲う程
20 に,門を開いて待ちまらする所に,夜
21 半ばかりに鎧うた者が庭に乱れ入るを
22 何者ぞと問うて御座れば,宣旨の御使いと
23 申したれども,強盗などと申す者は或い
24 は公達の御座った,或いは宣旨の御使いぢゃ

(113)
1 などと申すと内々承り及うで御座
2 る程に,宣旨とは何ぞと言うて切って御座る.
3 天性は日本国を既に敵に受けさせ
4 られうずる宮の侍として,僕共を
5 刃傷殺害仕ったは事も疎かで
6 御座る.金の良い太刀をさえ持って御座らば,
7 官人共を安穏には一人もよも返
8 しまらせうぞ?又宮の御座り所をば
9 いづくとも存ぜぬ:仮令知って御座りとも,侍
10 品の者が申すまじいと思い切った事
11 をば,糾問に因って申す事が有らうか?長
12 兵衛宮の御為に頭を撥ねられう事
13 は今生の面目,後生の思い出ぢゃと申
14 して,その後は物をも言わなんだ.
15 平家の人数は並び居られたが,扠も剛の
16 者の手本や!惜物の切られう事の
17 不憫さよと言うて,惜しまれた.その中に或る
18 者が申したは:先年御所の衆に連
19 なって居た時,大番の衆が止め兼ねた強盗六
20 人を一人して追い掛けて四人は矢庭に
21 切り伏せ,二人をば生け捕りにして,その時為され
22 た長兵衛で御座る:真に一人当千と
23 もこの者をこそ申さうずれなどと,口
24 々に申せば,宗盛然らば暫しな切っそ

(114)
1 と言うて,その日は切られなんだ.清.も惜しゅう思
2 われたか,思い直いたらば,後には当
3 家に奉公をもせいかしと言うて,伯耆の日野
4 へ流されたと,申す.その後源氏の世に
5 成って,頼朝より尋ね出させられて,事
6 の様を始めから,次第に語りまらしたれ
7 ば,頼朝もその志の程を
8 感じさせられて,能登の国で知行を下
9 されたと,聞こえて御座る.扠宮は如意山
10 へ掛からせられ,習わせられぬ山路を夜も
11 すがら歩かせられたれば,御足も破れ腫れ,
12 血を流させられながら,とかうして暁方
13 に三井寺へ入らせられて甲斐無い命の惜しさ
14 に衆徒を頼み来たと,仰せられたれば,大衆は
15 これを承って,法輪院に御所を設
16 うて入れ奉った.明くれば十六日高
17 倉の宮は御謀反を起こさせられ
18 て,失せさせられたと言う程こそ有れ,都
19 の内が騒動する事は
20 夥しかった.

(115)
1 第三.三位入道の
2 嫡子仲綱馬故に面目を
3 失われたに因って,この恥を濯
4 がうずるとて,謀反を起こされた事
5 :並びに競が宗盛
6 をたばかって主の恥
7 を濯いだ事.
8 右馬.三位入道の謀反の由来をも
9 御語り有れ.
10 喜.畏まった:扠も年来日頃も
11 有ればこそ有ったに:三位入道今年何たる
12 心が付いて謀反をば起こされたぞと言うに,
13 宗盛不思議な事をせられた故ぢゃ.真
14 に人は世に有るとてもすまじい事をし,
15 言うまじい事を言わば,漸う思慮生ずる事ぢゃ:
16 例えばその頃源三位入道の嫡
17 子仲綱の下に都に聞こえ渡っ
18 た名馬が有ったが,名をば木の下と言うた.宗
19 盛使者を立てて,承り及ぶ木の下
20 を見まらしたいと言い遣られたれども,乗り損じて,
21 この間養生の為に田舎へ遣わいた:軈
22 て召しこそ上せうずれと返事せられたれば,

(116)
1 ムネモラ,扠は力に及ばぬと言うて,居ら
2 るる所に:平家の侍共が並み居た
3 が,その中から或る者が,否,その馬は
4 一昨日までは有った物をと申せば,又
5 或る者が昨日も有った物を,今朝も庭
6 乗りした物をなどと,口々に申せば,
7 宗盛憎い事ぢゃ,扠は惜しむげなぞ:
8 その儀ならば,その馬責め乞いに請えと,言うて,
9 侍を走らかし,文などを持って押し返
10 し,押し返し五六度まで請われたれば,三
11 位入道これを聞いて,仲綱を呼うで,仮令
12 黄金を丸めた馬なりとも,それほどに人
13 の請わうずるに惜しむ事が有らうか?その
14 馬を六波羅へ遣わせと,言われたれば,
15 仲綱馬を惜しむでは御座無い:権威に
16 付いて責めらるると思えば,無念さに今ま
17 で遣わしまらせぬと言うて,軈て木の下を
18 六波羅へ遣られた.
19 宗盛はこの馬を引き回させ,引き回
20 させ見てあら憎や!これをば主が惜しゅうだ
21 馬ぢゃ物をと,言うて,軈て主が名乗りを
22 金焼きにせいと言うて,仲綱と言う焼き印
23 をして据えられた.客人が来て承り及
24 ぶ木の下を見まらせうと,言えば,宗

(117)
1 盛仲綱奴が事か?やれ仲綱奴
2 引き出せ,仲綱奴打て,張れなんどと,言わ
3 れた.仲綱はこれを聞かれて,馬をば打つ
4 とは言えども,張ると言う事を聞いた事は無い.
5 命にも変えて惜しかった馬を権威に付い
6 て取られたさえも無念なに,馬故に仲
7 綱が日本国の笑い種に成らう事が
8 無念な.恥を見んよりも,死にをせいと
9 言う事が有る物をと,言わるれば,父の三
10 位入道もこれを聞いて,実にもそれほどに
11 人に言われて,命を生きて何にせうぞ?詮
12 ずる所は便宜を窺うでこそ有らうずれと
13 言うて,居られた程に,なましいに私にはえ企
14 てられず,宮を勧め参らせられたと聞
15 こえた.扠十六日の夜に入って,三位入
16 道は家の子郎等を引き具して,都合三百騎
17 ばかりで我が館に火を掛けて,三井寺へ馳せ
18 参られたと聞こえた.源三位入道の郎
19 等に競と言う者が有ったが,馳せ遅れて
20 止まったと言う事を,宗盛聞き及ばれて,
21 使者を立てて呼ばれたれば,競は召しに従
22 うて参った.宗盛も軈て出会うて対面
23 して,己は相伝の主の三位入道の
24 供をばせいで止まったは,何と?子細が有るかと

(118)
1 問われたれば,競畏まって申したは:日頃
2 は何事も御座らば,真っ先を駆けて討ち
3 死にを致さうと存じたに,今度は何と思わ
4 れて御座るか,遂にかうとも知らせられなんで御座る.
5 この上は跡を訪ねまらして行かうずる
6 事でも御座無ければ,留まって御座ると申
7 した所で,年頃我がこの辺りを出入
8 するを哀れ召し使わうずる物をと,常
9 に思うたに,扠は幸いぢゃ:当家に奉公せいか
10 し,三位入道の恩には少しも劣るまい
11 と,言われたれば,競畏まって申したは:仮令
12 三位入道は日頃の好で御座るとも,
13 朝敵と成られた人で御座れば,何故に同心
14 をば仕らうぞ?今日よりは当家に奉
15 公を致さうずると,申したれば,宗盛如何にも
16 嬉しさうで内に入られた.その日は競は有るか?
17 居まらする,居まらすると言うて,明日から夕さりまで
18 そこに居たが,既に日も漸う暮るれば,競が
19 申したは:宮又三位入道殿も三井
20 寺にと承って御座る:定めて今は討
21 手を迎えられうずれば,三井寺法師を始めて
22 良からうずる者を選り打ちに致さうず:然りながら
23 乗って事に合わうずる馬を親しい奴原
24 に盗まれて御座る.御馬を一匹預け

(119)
1 下されうずるかと,申したれば,宗盛何とぞ
2 して有り付けうずると思われたに因って,白芦
3 毛な馬の如何にも大きなを煖廷と名を
4 付けて,秘蔵せられたに白覆輪の鞍置いて
5 競に遣られた.この競はこの馬を引
6 かせて宿へ返って,早う日が暮れいかし:三井寺
7 へ馳せ参って,三位入道殿の真っ先を駆
8 けて討ち死にせうと思うた:次第に日も暮るれば,
9 妻子共をば忍ばせて,我は水に千
10 鳥を押した平文の狩衣を着て,重
11 代の緋縅の鎧を着,厳物作りの
12 太刀を佩いて,大中黒の矢を頭高に負う
12 て,塗籠籐の弓の真ん中を持って宗
14 盛から下された煖廷に打ち乗って,乗り換
15 え一匹引かせて,中間にも太刀を脇挟
16 ませて,館に火を掛け,三井寺へ馳せ参った.
17 競が館から火が出たと言う程こそ有れ,
18 六波羅中が騒動する事は限りが無かっ
19 た.宗盛競は居るかと尋ねられたれば,
20 居まらせぬと,言うたれば,すわ!きゃつにたばかられた
21 よ:無念やと言われたれども,甲斐も無かった.三井
22 寺には折節競が沙汰が有って,扠も競
23 を召し具せられう事で有った物を!捨て置
24 かせられて何たる目にか会いまらせうずらうと,口

(120)
1 々に申されたれば,三位の入道はそれ
2 が心を知られたか:その者は無体に
3 取られ絡められう者では無い:今見よ参
4 らうずと言わるる言葉も未だ干ぬ内に,ひょっ
5 とそこへ参ったれば,三位の入道さればこ
6 そと言うて喜ばれた.競畏まって申し
7 たは:仲綱の木の下が代わりに宗
8 盛の煖廷を取って参ったと申したれば,仲
9 綱大きに喜うで,軈てこの馬を請うて,
10 宗盛と言う金焼きを差いて,その朝六
11 波羅へ遣って,門の内へ追い入れたを侍
12 共この馬を取って来たを宗盛見
13 らるれば,宗盛と言う焼き印を当てて置いた
14 を見て,大きに腹を立てて,今度三井寺に
15 寄せうずるに,余は知らず,構えて先づ競
16 奴をば生け捕りにせい,鋸で首を引かう
17 と言われて御座る.
18 第四.三井寺には長
19 僉議をして,夜を明かいて夜討ちをし損
20 なうて,道から戻った事.
21 右馬.して三井寺からは京へ寄する事
22 も無かったか?又京から三井寺をも攻め

(121)
1 なんだか?
2 喜.その御事ぢゃ.
3 三井寺には貝鉦を鳴らいて大衆共が
4 起こって僉議したは,近日世上の体を案ず
5 るに,仏法も,王法も衰微する.この度清
6 盛が悪逆を戒めぬならば,いつの
7 日を待たうぞ?ここに宮入らせられた事は,神
8 仏の御計らいぢゃ.比叡の山へも,奈
9 良へも状を遣って合力を受けうずと談合
10 して,先づ比叡の山へ状を送ったれども,
11 比叡の山は何のかのと言うて同心せず.
12 奈良は未だ参らなんだに因って,三位入道
13 の申されたは:このごとくに事が伸びては
14 悪しからうず,今宵六波羅へ押し寄せて夜討ちに
15 せうと存ずる:その儀ならば老いた,若い二千
16 余りは有らうず:老僧共は如意が峯から
17 搦手に回らうず:若い者共は二
18 三百人ほど先立って,白河の在家に火
19 を掛けて,下りへ焼いて行くならば,京,六波羅
20 の逸り者共,あわや!事が出来たわと言う
21 て馳せ向かわうぞ:その時岩坂,桜本
22 に引っ掛け引っ掛け暫し支えて防がうずる間
23 に,若大衆共は大手から仲綱を
24 大将にして六波羅へ押し寄せ,風上から

(122)
1 火を掛けて,一揉み揉うで攻むるならば,何故
2 に清.を焼き出いて打たいでは有らうぞ?さうして大
3 衆共も僉議するに,その内に平家の
4 祈りをした真海と言う老僧僉議の場へ進
5 み出でて申すは:これを申せばとて,平家の方人
6 をするとな思わせられそ:仮令然も御座れ,
7 何故に我が寺の恥をも思い,門徒の名
8 をば惜しまぬ事が御座らうぞ?昔は源
9 平左右に争うて,いづれも優し劣りは無かったれ
10 ども,平家世を取って二十余年,天下に靡
11 かぬ草木も無い.内々御館の容態も
12 小勢で容易う攻め落とし難からうず.さう有るな
13 らば良く良く謀を巡らいて,勢をも
14 集めて寄せさせられうずかと,時刻を移さうず
15 る為に,長々と僉議した所に,ケイ
16 ユウと言う者が又進み出て言うたは:小勢
17 を持っても勝つ事は成る:その証拠は余
18 所までも無い,日本にも多い.余の人は
19 然も有らば有れ,ケイユウが門徒に限っては今
20 宵六波羅へ押し寄せて討ち死にをせうと言え
21 ば,又或る者が申したは:兎角僉議が
22 多うて悪い:夜が更くるに早う急げと言うて,
23 如意が峯から搦手に向かう老僧共
24 の大将には源三位入道,その他名

(123)
1 有る大衆共を先として直兜六百
2 ばかり向かうた:大手から向かう若大衆には仲
3 綱などが大将に成って,これも直兜が
4 千人余り有ったと申す.扠三井寺を打っ
5 立つに三井寺には宮の入らせられてから,大関
6 小関を置き,堀を掘り切り,逆茂木を据え
7 たれば,堀に橋を渡し,逆茂木を退けなん
8 どする内に時刻が移って,鶏が鳴いた
9 れば,或る者が言うたは:この様な時は敵が
10 謀を持って鶏を鳴かする事も
11 有る物ぢゃ程に,唯寄せいと言うたれども,
12 五月の短夜なれば,早仄々と明け
13 た所で,仲綱の言われたは:只今ここ
14 で鳥が鳴くならば,六波羅へは,白昼にこ
15 そ寄せうずれ,夜討ちにこそ然りともと思うたれ:
16 昼軍には何としても適うまいと言うて,搦
17 手は如意が峯から呼び返す.大手は松
18 坂から取って返すに,若大衆共が申
19 したは:これは所詮真海が長僉議に因っ
20 て夜が明けた.その坊主奴切れ,叩けと言うて,
21 押し寄せて散々に打ち破って,防ぎ戦う弟
22 子,同宿共をも数多打ち殺いたれば,真
23 海は這う這う六波羅へ行って,一々にこの由
24 を申したれども,六波羅には軍兵共が

(124)
1 馳せ集まって居たに因って,騒ぐ事も無かった.
2 第五.宮三井寺を
3 落ちさせられて宇治橋に於いて矢切りの
4 但馬や,浄妙坊が合戦の事.
5 右馬.して宮はその分で三井寺に御
6 座ったか?
7 喜.その御事で御座る.宮は比叡の
8 山と,奈良表こそ然りともと思
9 わせられたれ:三井寺ばかりでは如何にしても
10 適うまいと思し召されて,同じ二十三日
11 の暁に奈良へ赴かせられた.宮
12 は蝉折,小枝と言う漢竹の笛
13 を二つ持たせられたが,その蝉折をば,
14 金堂の弥勒へ今生の祈祷の為か,
15 又は後生の為にか寄進させられて出さ
16 せらるる所に,ケイユウは杖に縋って宮
17 の御前へ参って申したは:私は年
18 も既に八十に及うで御座れば,行歩
19 も適い難う御座るに因って,御暇を申して
20 罷り止まる.弟子で御座るシュンユウを進上
21 致す:これは幼少から後懐で生い立たせ
22 て,心の底まで知って御座る.これをば

(125)
1 どこまでも召し連れられいと申しも敢えいで,
2 涙に咽ぶを宮御覧ぜられて,いつの
3 好にかうは申すぞと仰せられて,宮も
4 御涙を流させられた.然るべい老僧共
5 をば留めさせられて,三位入道の一
6 類と,三井寺法師,都合千人余り召し連れさ
7 せられて醍醐路に掛かって南都へ赴か
8 せらるるに,宮は宇治と,寺との間で
9 六度まで御落馬有った:これは去んぬる夜御
10 寝成らなんだ故ぢゃと言うて,宇治の橋二間
11 引き外し,宮をば平等院に入れ奉った
12 れば,それにて暫く御休息有った.宇治川に
13 馬共を引き付け,引き付け冷やいて鞍具足
14 を拵えなんどする程に,六波羅には
15 これを聞いて,宮は早南都へ落ちさせら
16 れたと言うて,平家は大勢の人数を持って追い
17 掛け奉られた.清盛の三男知
18 盛,通盛を大将にして,都合その勢は
19 二万ばかりで木幡山を打ち越して宇治の
20 橋詰めへ押し寄せて,敵が平等院に有る
21 と見たれば,橋よりこなたから二万余りの
22 者共が天も響き,地も動くほど
23 に三度まで鬨を作った:先陣が橋を
24 引いたぞ,過ちすなと言うたれども,後陣は

(126)
1 これを聞き付けいで我先にと掛かる程に,
2 先陣が二百人ばかり押し落とされて水に
3 溺れて流れた.宮の御方には大矢
4 の俊長,五智院の但馬などが射る矢は
5 鎧も,盾も堪らずくつと抜けた.扠
6 五智院の但馬は長刀の鞘を外
7 し,兜の錣を傾けて,橋は引いつ,敵
8 には会いたし,錣を傾けて立った所に,
9 平家の方からこれを見て,差し詰め,引き詰
10 め散々に射れば,但馬は越ゆる矢をば
11 つい潜り,下がる矢をば飛び越え,向かうて来る
12 矢をば長刀で切って落とすに因って,敵も
13 味方もあれを見よと言うて,見物した:それか
14 らして矢切りの但馬とは言われて有った.堂衆
15 に筒井の浄妙坊は褐の直垂に黒
16 革縅の鎧を着て,黒漆の太刀
17 を佩き,大中黒の矢を負うて,塗籠籐
18 の弓の真ん中を取って,好む白柄の
19 長刀と取り添えて,橋の上に進んで,大音
20 を上げて名乗るは:日頃は音にも聞き,今
21 は目にも見よ,三井寺に於いて隠れも無い
22 筒井の浄妙坊と言う一騎当千の兵
23 ぢゃぞ:平家の方に我と思わう人々
24 は駆け出させられい,見参申さうと言い様に,

(127)
1 二十五差いた矢を差し詰め,引き詰め散々に
2 射るに十二人矢庭に射殺いて,十二人に手を
3 負おせ,一つは残って箙に有った:弓を
4 後ろへからと投げ捨てて箙をも解いて川
5 へ投げ入るるを,敵は何事ぞと見る
6 所に,貫きを脱いで裸足に成って,長刀
7 の鞘を外いて,橋の行き桁を
8 さらさらと走り渡った.人は恐れて渡ら
9 なんだれども,浄妙坊が心には一条,二
10 条の大道の様に振る舞うた.長刀で
11 向かう敵を五人薙ぎ伏せ,六人に当たる度
12 に長刀の柄を打ち折って捨てた.その後
13 太刀を抜いて切ったが,三人切り伏せて,四人
14 に当たる度に余り兜の鉢に強う打ち
15 当てて,目貫の下から丁ど折れて,川へざ
16 ぶと入った所で,今は頼む所の腰刀
17 で偏に死なうと狂うた.その所に一
18 来法師と言うて十七に成る法師が有ったが,
19 浄妙に力を付けうとて,続いて戦うたが,
20 橋の行き桁は狭し,通らう様は無し,浄
21 妙が兜の手先に手を置いて,悪しゅう候浄妙
22 の坊と言うて,肩をゆらりっと越えて戦うたが,
23 一来法師は軈てそこで死んだ.浄妙は這う這う
24 返って平等院の門前の芝の上に鎧

(128)
1 を脱ぎ置いて,矢目を数えて見たれば,六
2 十三箇所有った.裏を掻いた矢目は五所
3 で有った.然れども痛手で無かったれば,頭を
4 引っ包んで,弓を打ち切って杖に突いて,南
5 都の方へ落ち行いたと,聞こえまらした.
6 第六.足利の又
7 太郎宇治川を渡いた事と,又源
8 三位入道,その他この一族
9 討ち死にの事.
10 右馬.宇治川を渡いた事と,源三位入
11 道の討ち死にを召された所をも聞きたい.
12 喜.それをば明日と存ずれども,然ら
13 ば只今申さうず.
14 源三位入道は長絹の直垂に品
15 革縅の鎧を着て,今日を最後と思
16 われたれば,態と兜をば着られなんだ.嫡
17 子の仲綱も赤地の錦の直垂
18 に,黒糸縅の鎧を着て,弓を強
19 う引かうとて,これも兜をば着られなんだ.橋
20 の行き桁を浄妙が渡ったを手本にして,
21 三井寺の悪僧共渡辺の兵
22 共走り渡り,走り渡り戦うて,引っ組んで川

(129)
1 に入るも有り,討ち死にする者も有り,橋
2 の上の戦は火の出るほどに見えた.平
3 家の方に先陣をした忠清が大将に
4 申したは:橋の上の戦は火の出るほ
5 どに成って御座る,適いさうにも御座無い程に,
6 今は川を渡らうずるで御座るが,折節五月雨
7 の頃で水嵩が遥かに増さって御
8 座る程に,渡す程ならば,馬,人押し流
9 されて失せまらせうず.淀一口へ向かい
10 まらせうか?河内路へ回りまらせうかと,申
11 したれば:下野の国の足利の又
12 太郎と言う人が進み出て申されたは:恐れ
13 有る申し事で御座れども,忠清の申
14 され様は然るべいとも存ぜぬ:目に掛けた
15 敵を只今打たいで南都へ入れまらしたなら
16 ば,吉野十津川とやらの者共が
17 参って只今も大勢に成ったならば,それは猶
18 御大事で有らうず:戦が伸びて良い事は御
19 座無い:淀,一口,河内路へは天竺,
20 震旦の者が参って向かわうか?それも
21 我等共こそ向かいまらせうずれ.武蔵と,
22 下野の境に利根川と言う大河が
23 御座るが,それをも馬筏を作って渡い
24 て御座る.この川の深さ,浅さも利根川

(130)
1 に如何ほどの劣り優りがよも御座らうぞ?
2 いざ渡さうと言うて,手綱を掻い繰って真っ先に
3 打ち入れたれば,同時に三百余騎打ち入れて渡す
4 に,足利大音声を上げて下知したは:強い
5 馬をば上手に立てよ,弱い馬をば下手
6 に成せ,馬の足の及ばう程は手綱を
7 呉れて歩ませい,弾まば,手綱を繰って泳
8 がせい,下がらう者をば弓筈に取り付かせい:
9 肩を並べて渡せ:馬の頭が沈む
10 ならば,引き上げい:強う引いて引き被くな:馬に
11 は弱う,水には強う当たれ:敵が弓射ると
12 も,相引きすな:常に錣を傾けい:余
13 りに傾けて天辺を射さすな:矩に渡って過
14 ちすな:水に撓うて渡せや渡せと下
15 知をして,三百余騎を一騎も流さいで向
16 かいの岸にざっと渡いた.
17 足利は褐の直垂に,赤革の鎧
18 を着て,白月毛な馬に金覆輪の鞍
19 置いて乗ったが,鐙を踏ん張り,突っ立ち上がって,
20 先づ名乗ったは:足利の又太郎と申す
21 者は某ぢゃ.生年十八歳に罷り成
22 る:官位も無い者のこの様に宮
23 へ向かい奉って弓を引く事は,その
24 恐れ多い事なれども,弓も矢も冥

(131)
1 加の程も今日皆清.の御上に
2 こそ有らうずれ:我等は主命なれば存ぜぬ.宮
3 の御方に我と思わう人々は駆け
4 出でさせられい,見参致さうと言うて,平等院の
5 門の前に押し寄せ押し寄せ,喚き叫う
6 で戦うた.これを見て二万余りの者
7 共が打ち入れ打ち入れ渡す程に,馬人に
8 塞かれて,然しも早い宇治川の水は上
9 へ湛えたが,自づから外るる水には
10 何も堪らず流れた.何としたか伊賀,
11 伊勢,両国の武士が六百余り馬筏
12 を押し切られて流れた.萌黄緋縅色
13 々の鎧を着ながら,浮きぬ沈みぬ流れ
14 たれば,神奈備山の紅葉が峰の
15 嵐に誘われて,龍田川の秋の暮れに
16 井堰に掛かって流れも遣らぬに似た.何とし
17 たか緋縅の鎧着た武者が三人宇治の
18 網代に掛かって揺られたを何者が詠うだか.
19 伊勢武者は皆緋縅の鎧着て,
20 宇治の網代に掛かりぬる哉.
21 これは伊勢の国の黒田,日野,鳥
22 羽と言う者で有った.黒田が弓の筈
23 を岩の狭間に捩ぢ立てて,掻き上って二人
24 をも引き上げて助けたと,聞こえて御座る.その

(132)
1 後大勢川を渡って平等院の門の内
2 へ攻め入り攻め入り戦うた.宮をば南都へ先
3 立てまらして,三位入道以下は残って防
4 ぎ矢を射られた.三位入道は八十に成って
5 戦をして右の膝口を射させて,今は
6 適うまじいと思われたか,自害をせうとて平等
7 院の門の内へ引き退かるるに,敵が
8 追い掛かれば,次男源太夫の判官紺地
9 の錦の直垂に,緋縅の鎧を着て,白
10 芦毛な馬に沃懸け地の鞍を置いて乗った
11 が,中に隔たって返し合わせ,返し合わせ戦
12 われた.上総の守七百余騎で取
13 り籠めて戦うたに,源太夫の判官は十七
14 騎で喚いて戦われたが,上総の守が
15 放す矢に内冑を射られて怯まるる所
16 に,上総の守が内の三郎丸と
17 言う者押し並べてむずと組んで落ちた.判
18 官は手を負われたれども,三郎を取って押
19 さえて首を掻き切って立ち上がらうとせらるる所
20 に,平家の兵共が我も我
21 もと落ち重なって,遂にそこで打ち留めた.
22 三位入道は平等院の釣り殿で
23 渡辺の長七唱を召して我が首
24 を取れと,言われたれば:唱涙を流いて御

(133)
1 首を只今打ちまらせうずる事は,中々
2 適い難い:御自害をだにさせらるるならばと申
3 したれば:三位入道殿実にもと言うて,鎧
4 を脱ぎ置いて,高声に念仏を申された最
5 後の容態が哀れに御座る.
6 埋もれ木の花咲く事も無かりしに,
7 身の成る果てぞ悲しかりける.
8 と,これを最後の言葉にして,太刀の切っ先
9 を腹に突き立てて倒れ掛かり,貫かれて
10 死なれた.この時歌を読まれうずる事で
11 は無けれども,若い時から強ちに嗜
12 み好かれた道ぢゃに因って,最後までも忘れ
13 られなんだと,聞こえて御座る.首をば唱
14 泣く泣く掻き落といて直垂の袖に包み,
15 敵陣を逃れて,人にも見せまいと思うて,
16 石に括り合わせて,宇治川の深い所に
17 沈めた.仲綱は散々に戦い,痛手を
18 負うて,今はかうと思われたか,自害して,伏された所
19 で,その首をば清親と言う者が
20 取って本堂の大床の下へ投げ入れて隠
21 いた.その他の人々も思い思いに自害
22 をし,或いは打たれて皆死なれた.競をば平
23 家の兵共が何とぞして生け捕りに
24 せうとて,面々に心掛けたれども,競

(134)
1 も心得て散々に戦うて,自害をして死に
2 まらした.
3 三井寺の大衆は矢種皆射尽くいて,今
4 は早宮も遥かに伸びさせられうずると思
5 うたれば,大きな太刀を佩き,長刀を持って
6 敵の陣を打ち破って,宇治川へ飛び入って物
7 の具一つも捨ていで,向かいの岸に泳
8 ぎ着いて,高い所に登り上がって,平家の人
9 々はこれまでは御大事哉と呼ばわって,
10 長刀で敵の方を招いて,三井寺へ向
11 けて返った.
12 第七.飛騨の守と言う
13 平家の兵宮を追い掛けて打ち
14 奉った事と,その後宮の
15 御子をも平家失い奉
16 らうとせられた事.
17 飛騨の守と言う平家の兵は巧者
18 で有って,定めて宮をば南都へ先立てま
19 らせうずと推量して,戦をばせいで五百余騎
20 で南都を差いて追い掛けまらしたれば,案のごと
21 く二十四騎で落ちさせらるる所に,光
22 明山の鳥居の前で飛騨の守が追い

(135)
1 付きまらして,雨の降る様に射奉ったれ
2 ば,誰が矢とは知らなんだれども,宮の御
3 側腹に一筋立って,御馬にも堪らせら
4 れいで落ちさせられたを兵共が落ち
5 合うて軈て御首を打ち奉った.御供
6 を仕ったほどの悪僧もその所で
7 一人も漏るるは無かったと,申す.宮の御
8 乳母の子に六条の助と言う者が
9 御座ったが,並びも無い臆病な者で馬
10 は弱し,敵は続く,詮方無さに馬か
11 ら飛び降りて,新羅が池に飛び入って,目ばかりそっ
12 と出いて震い居たれば,暫く有って,敵皆首
13 共を取って返る:その中に浄衣着た人の
14 首も無いを蔀の下に乗せて舁いて通
15 るを誰ぞと思うて,恐ろしながら,覗いて見
16 れば,我が主の宮で御座った.我が死なば御
17 棺に入れいと仰せられた小枝と言う笛も未
18 だ御腰に差させられて有ったを見て,走り出て
19 取り付きまらせうとは思うたれども,恐ろし
20 ければ,適わいで唯水の底で泣き居た.
21 敵が皆過ぎて後に池から上がって,濡れ
22 た物共を絞り着て,泣く泣く京へ
23 向けて上った.南都の大衆先陣は木
24 津川に進み,後陣は未だ興福寺の

(136)
1 南の大門に湛えて,老いた若いに七
2 千余騎ほど御迎いに参るが,宮は早
3 光明山の鳥居の前で打たれさせられ
4 たと,聞いたれば:大衆共も涙を流い
5 て,皆引っ返いた:今五十町ばかりを待ち付
6 けさせられいで打たれさせられた宮の御運の程
7 がうたてい.
8 平家は宮,並びに三位入道の一類
9 三井寺法師,都合五百人余りの首を
10 取って,夕べに及んで京へ上るが,兵
11 共が,罵り騒ぐ事は夥しかっ
12 た.三位入道の首をば唱が取って石
13 に括り合わせて宇治川の深い所に沈
14 めたれば,人は見付けなんだれども,子供
15 の首をば皆尋ね出いた.宮の御首
16 は宮の御方へ常に参り通う人
17 が無かったに因って,見知りまらした者も無
18 かった所で,サダイエと言う薬師が一年御
19 療治の為に召されたれば,定めてそれが
20 見知りまらせうずと言うて,呼ばれたれども,所労と
21 申して参らなんだれば,宮の年頃召し
22 使われた女房一人を呼び出いて尋ねら
23 れたれば,御首を見奉って,軈て涙
24 に咽ぶを見て,扠はこれこそ宮の

(137)
1 御首で有ると定められた.この宮は
2 御子を数多持たせられたが,その御子達
3 をば女院我が子の様に思し召して,御
4 懐で育て参らせられたが,宮の御
5 謀反を起こさせられて失せさせられたと,聞こえ
6 たれば,女院は仮令如何なる大事に及ぶと
7 も,この宮達をば出し参らせうずるとは
8 覚えぬと仰せられて惜しませられた.六波羅
9 から頼盛を使いにして,この御所に高
10 倉の宮の若君,姫君達の
11 御座ると聞いた.姫君をば申すに及ば
12 ぬ,若君をば出し参らせられいと,申されたれ
13 ば:女院の御乳母の宰相と申す女
14 房に頼盛相具せられたに因って,常に参ら
15 れたれば,日頃は懐かしゅう思し召されたに,
16 今この様に申して参られたれば,有らぬ人
17 の様に疎ましゅう思し召した.女院の御返
18 事には,さればこそこの事の聞こえた暁
19 御乳母などが心幼うて具し奉
20 って出たか,この御所には御座らぬと,仰せら
21 れたれば,頼盛扠は力に及ばぬと
22 申して居られた所へ:清.又重ねて言わ
23 れたは:何故にその御所ならでは,いづくに御座
24 らうぞ?その儀ならば御所を探し奉

(138)
1 れと言うて使いが頻波に立ったに因って,頼
2 盛ははしたない言柄に成って,門に武士
3 共を置きなどして,御所の内を探し
4 奉らうずると聞こえたれば,これは何と
5 せうぞと有って,御所中の女房達呆れ騒が
6 れた.
7 若君はその年七歳に成らせられた
8 が,これを聞かせられて,女院の御前へ
9 参って仰せられたは:今はこれほどの御大事
10 に及うで御座れば,唯疾う疾う出させられいと,仰せ
11 られたれば,女院人の七つやなどでは
12 未だ何事をも思わぬ物ぢゃが,我
13 故大事の出来ょう事を悲しゅうでこの様に
14 仰せらるるいとおしさよ:由無い人をこの六七
15 年手慣れ参らした事よと仰せられて,御
16 衣の袖を絞らせられたれば,その御
17 母は申すに及ばず,女房達も皆
18 涙を流し,袖を絞られぬは御座無
19 かった.御母泣く泣く御衣を召させ参ら
20 せて,出立たせ参らせられたが,唯これも最後
21 の御出立ちと思し召された.頼盛も泣
22 く泣く御車の尻輪に参って,六波羅
23 へ渡し奉られた.宗盛この宮
24 を一目見奉って,父の清.に申

(139)
1 されたは,先の世に何たる契りが御座る
2 か,一目見奉ったれば,余りに御いとおしゅう
3 存ずる.この宮の御命には宗盛
4 が変わりまらせうずると,申されたれば,清.は
5 これを聞いて,むさとした事を言う宗盛哉
6 と言うて,暫しは聞きも入れられなんだが,重ねて
7 再三申されたれば,然らば早う出家をさせま
8 らして,御室へ入れまらせいと,申されたれば,宗
9 盛も大きに喜んで,この由を女
10 院へ申されたれば:女院も御手を合わさせら
11 れて,喜ばせられ,その御母の御心
12 の内は飛び立たせらるるほどに,喜ばせられ
13 て,軈て出家に成し参らせられた,と申す.
14 第八.新三位入道
15 の由来と,同じくその鵺を射られた
16 高名の事.
17 右馬.してその三位入道は総別は何た
18 る人で有ったぞ?
19 喜.この三位の入道と申すは,兵庫
20 の守と言う人の子で御座ったが,保元
21 に御味方を申して,真っ先を駆けられたれ
22 ども,差せる恩賞にも与られず,平治にも

(140)
1 又親類を捨てて参られたれども,恩賞は
2 これ又疎かに有った.重代の職で有っ
3 たに因って,大内の守護を承って年
4 久しゅう居られたれども,昇殿をば未だ許され
5 なんだ.年長け,齢も傾いて後に述
6 懐の歌を一首仕ってこそ昇殿を
7 ば許されて御座れ.その歌には.
8 人知れず大内山の山守は,
9 木隠れてのみ月を見る哉.
10 と,仕って昇殿せられたと聞こえた.
11 その分でも位は四位で居られたが,常
12 は三位に心を付けて,又歌を読
13 まれた.
14 上るべき便り無き身は木の下に,
15 椎を拾いて世を渡る哉.
16 と,仕って,三位に成られたと,聞こ
17 えまらした.その後に軈て出家をせら
18 れてから,その討ち死にの年は七十七で御
19 座った.この頼政の一期の高名と覚
20 ゆるは,近衛の院の御時,夜な夜な
21 怯えさせらるる事が有ったに因って,種々の御
22 祈祷共が有ったれども,験も無うて人が
23 申したは:東三条の森から黒雲が
24 一群立って来て,御殿に覆えば,その時

(141)
1 必ず怯えさせらるると申す.これは何
2 として良からう事ぞと公卿僉議有って,所
3 詮源平の兵の中に然るべい
4 者を召して,警固をさせられうずと定め
5 られた.昔も堀川の天皇と申
6 したが,この様に怯えさせらるる事が有ったに,
7 その時の将軍義家を召さるるに:義
8 家は香色の狩衣に塗籠籐の弓
9 を持って,山鳥の尾で矧いだ尖矢を
10 二筋取り添えて,南殿の大床に伺候し
11 て,御悩の時に臨うで,弦音を三度
12 丁々どして,その後御前の方を睨
13 うで:義家と高声に名乗られたれば,聞く
14 人も身の毛がよだって,御悩も怠らせら
15 れたに因って,即ちこの例に任せて警固
16 有らうずるとて,頼政を選み出されて参ら
17 るるが,我は武勇の家に生まれて,群に抜きん
18 出て召さるる事は家の面目なれども,
19 但し朝家に武士を召さるるは,反逆の
20 者を平らげ,違勅の者を滅ぼす
21 為ぢゃに,目に見えぬ変化の物を仕
22 れと有る勅諚こそ,然るべいとも覚
23 えねと呟いて出られたと,申す.頼政は
24 薄青の狩衣に重籐の弓を持って

(142)
1 これも山鳥の尾で矧いだ尖矢を二筋
2 取り添えて,頼み切った郎等には井の早太と
3 言う者を唯一人連れて,夜更け,人も
4 静まってから,様々に世間を窺い見
5 る程に,日頃人の言うに違わず,東三条
6 の森の方から例の一群雲が来て,
7 御殿の上に五丈ばかり棚引いて雲の内
8 に怪しい物の姿が有るを頼政見
9 て,これを射損ずる物ならば,世に有らうずる
10 身とも覚えぬと,心の底に思い定
11 めて,尖矢を取って番うて,暫し保って
12 ひょうど射たれば,手応えがしてふつと成るが,軈
13 て矢立ちながら南の小庭にどうど落
14 ちたを,井の早太つっと寄って,取って押さえて,五
15 刀まで差いた.
16 その時上下の人々火を灯しこれ
17 を見るに,頭は猿,骸は蛇,足手は
18 虎の姿で,鳴く声は鵺に似て御座
19 る.これは五海女と言う物ぢゃと申す.主
20 上も御感の余りに獅子王と言う御剣
21 を頼政に下さるるを,頼長と申す人
22 がこれを取り次いで頼政に下さるるとて,
23 頃は卯月始めの事で有ったれば,雲居
24 に時鳥が二声,三声ほど訪れ
25 て過ぐれば,頼長:

(143)
1 時鳥雲居に名をや上ぐるらん:
2 と,仰せ掛けられたれば,頼政右の膝
3 を突き,左の袖を広げて,月を側
4 目に掛け,弓を脇挟うで.
5 弓張り月の入るに任せて.
6 と,つかまって,御剣を賜わって,罷り出で
7 られた.弓矢の道に長ぜらるるのみならず,
8 歌道にも優れた人ぢゃと仰せられて,皆感
9 じさせられたと申す.扠この変化の物
10 をば空船に入れて流されたと聞こえた.頼
11 政は伊豆の国を下されて,子息の
12 仲綱は受領せられ,我が身は丹波
13 の五箇の庄,若狭の東宮河を
14 知行して然て有らうずる人が由無い事を
15 思い企てて,我が身も,子孫も滅びられた
16 事は,真に浅ましい次第で御座った.
17 第九.文覚の勧め
18 に因って頼朝の謀反を起こさせら
19 れた事と,平家は又これを
20 平らげうとて,討手を下
21 された事.
22 右馬.頼朝の謀反を起こさせられた由

(144)
1 来をも御語り有れ.
2 喜.畏まった.頼朝は去んぬる平治元
3 年十二月に父義朝の謀反に因っ
4 て,十四の年伊豆の国蛭が小島へ
5 流されて,二十余年の春秋を送られて御
6 座るが,年頃日頃もこそ有ったに,今年何
7 たる心が付いて謀反をば起こされたぞと
8 申すに,高雄の文覚上人の申し勧
9 められた故と,聞こえた.この文覚は都
10 で事をし損なうて伊豆の国へ下
11 られたが,そこで常には頼朝へ参って
12 昔今の事共を申して,慰ま
13 るる程に,頼朝に或る時文覚の申
14 されたは:平家には重盛こそ心も
15 剛に,謀も優れて有ったが,平家の運
16 命の末に成る故か,去年の八月に
17 死去せられて御座る.源平の中には御
18 身ほど将軍の位に上がらせられう人は無い:
19 早う謀反を起こいて日本国を従え
20 させられいと,言われたれば,頼朝この聖の御
21 坊は思いも寄らぬ事を承る物
22 哉!我は故池の尼に甲斐無い命
23 を助けられておぢゃれば,その後世を弔わう
24 ずるが為に,毎日法華経を一部読

(145)
1 誦するより他は他事無いと,言われたれば,天の与
2 うるを取らざれば,却ってその災いを受く,時
3 至って行わざれば,却ってその災いを
4 受くと言う本文が御座る.
5 かう申せば御心を見まらせうとて申す
6 などと思わせらるるか?御身に志
7 の深かった事を御覧ぜられいと言うて,白い布
8 で包んだ髑髏を一つ取り出いたれば,
9 頼朝それは何ぞと問わるるに,これこそ御
10 身の父左馬の守殿の頭で御
11 座れ.平治の合戦の後苔の下に埋
12 まれさせられて後は,後生を弔う人も
13 無かったを,某存ずる旨が有って,これを
14 取って四十年首に掛け,山々,寺々を拝
15 み巡って弔い奉ったと,言うたれば,頼
16 朝一定とは思われなんだれども,父
17 の首と聞かるれば,先づ涙を流い
18 てその後は打ち解けて物語を召され
19 て仰せらるるは:扠頼朝は勅勘を許
20 されいでは,何として謀反をも起こさうぞと有ったれ
21 ば,それは易い事で御座る:軈て罷り上っ
22 て申し開いて進ぜうず.然もおりゃらうず,御坊も
23 勅勘の身で,人を許さうと承るは,大
24 きに真しからぬ事ぢゃ:文覚我が身の

(146)
1 勅勘を許されうずと申さばこそ僻事で
2 も有らうずれ:君の事を申さうずるには,何
3 か苦しゅう御座らう?今の都福原へ上
4 らうずるに三日には過ぎまじい:院宣を伺
5 わうずるに一日の逗留が有らうず:都合その
6 間七八日には過ぎまいと言うて,つっと
7 出て我が坊に返って弟子共には伊豆の
8 御山に忍うで七日参籠の志が
9 有ると言うて,出たが実にも三日目には福原
10 の都へ登り着くが,光能卿
11 の下に些か縁が有ったれば,先づそこに
12 行って,伊豆の国の流人頼朝こそ勅勘
13 を許されて院宣をだに下されば,八箇国
14 の家人共を催し集め,平家を
15 滅ぼいて天下を収めうと,申さるると言うたれ
16 ば,光能卿当時は我が身も官をも
17 止められて心苦しい折節ぢゃ:又法皇
18 も押し込められさせられて御座れば,何と有らう
19 か,知らねども,伺うて見ょうと言うて,密かに奏
20 聞せられたれば,法皇軈て院宣を下され
21 たを文覚はこれを首に掛けて,又三
22 日と言うに伊豆の国へ下り着かれた.
23 頼朝は文覚はなましいに由無い事
24 を申し出いて,頼朝を又何たる目に

(147)
1 か会わせられうと思わじ事無う案じ続けて
2 おぢゃる所に,八日と言う午の刻ばかり
3 に下り着いて,これ院宣よと言うて捧げらるれ
4 ば,頼朝これを見て,天に仰ぎ,地に伏い
5 て,大きに喜うで,手水を使い,嗽して
6 新しい浄衣を着て,院宣を三度拝して,開いて
7 見らるれば,早々平家を滅ぼいて世を収め
8 られいと書かれた.石橋山の合戦の時
9 もこの院宣を錦の袋に入れて,旗
10 の上に付けられたと聞こえた.さう有る程に,
11 福原には頼朝に勢の付かぬ前
12 に,急いで討手を下さうずるとて,公卿僉議
13 有って,大将軍には入道の孫維盛,
14 副将軍には忠度で,都合勢は三万
15 余り引率して,九月十八日に福原
16 の新都を発って,十九日に元の都
17 に着いて,軈て二十日に東国に打っ立たれた.大
18 将の維盛はその年二十三で御座った
19 が,その形は絵に書くとも,筆も及
20 び難いほどに,美しかったが,重代の鎧
21 の唐皮と言うを唐櫃に入れて舁かせ,赤地の
22 錦の直垂に萌黄縅の鎧
23 を着て,連銭芦毛な馬に金覆輪の鞍
24 を置いて乗られた.副将軍の忠度は

(148)
1 紺地の錦の直垂に,唐綾縅の
2 鎧を着て,黒い馬の太う逞しいに沃懸け
3 地の鞍を置いて乗られたが,馬,鞍,鎧,
4 兜,太刀,刀まで照り輝くほどに,
5 出立たれたれば,真に良い見物で御座った.総
6 別宣旨を下されて戦場へ向かう大将は
7 三つの事を心得られいで適わぬ.それ
8 と言うは,先づ参内して勅命を被る時,
9 家を忘るる事と,家を出づる時は妻子
10 を忘るる事,戦場で敵に会うては身を
11 忘るる事で御座る.定めてこの様な事
12 をば維盛も然こそ存ぜられつらう:各
13 々九重の都を発って,千里の東海
14 に赴かるる事なれば,平らかに帰り上
15 られう事も難い事ぢゃ:或いは野原の露
16 に旅寝をし,或いは高嶺の雲に宿
17 を借り,山を重ね,水を隔てて行かる
18 る程に,十月の十三日には平家は駿
19 河の国の清見が関へ着かれて御
20 座った:都をば三万余騎で出られたれど
21 も,路次の兵共が付いたに因って,
22 七万余りと聞こえまらした.

(149)
1 第十.平家の兵
2 共鳥の羽音に驚いて,敗
3 軍して面目を失い,京へ
4 上れば,頼朝は戦
5 に勝って鎌倉へ返
6 られた事.
7 右馬.なう喜一,その先をもまっと御語
8 り有れ.
9 喜.然らば果たしまらせう.
10 先陣はさうさうする内に富士川の辺り
11 に着けば,後陣は未だ手越の辺りに支
12 えて居た所で,大将維盛上総の守
13 を召して,維盛が存ずるには,足柄
14 を打ち越えて,坂東で戦をせうと思うと
15 言われたれば,上総の守が申したは;福
16 原を発たせられた時,清盛の御諚に
17 戦をば上総の守に任させられいと有っ
18 た:然れば八箇国の兵共が皆
19 頼朝に付いたと申せば,幾十万か御
20 座らうずらう,味方の御勢は七万余りと
21 は申せども,国々の駆り武者共で,
22 馬も,人も疲れ果てて御座る:その上伊豆,

(150)
1 駿河の勢が参らうずる事も未だ知
2 れねば,唯富士川を前に当てて味方の
3 勢を待たせられいと,申したれば:力及ばい
4 で,控えられた所で,頼朝は足柄山
5 を打ち越えて,駿河の国のキソ川
6 に着かれたが,甲斐,信濃の源氏共
7 が馳せ集まって一つに成る程に,浮島
8 が原で勢揃いをせらるるに,二十万騎と
9 記された.源氏方の佐竹の太郎が下
10 人主の使いに文を持って京へ上る
11 を上総の守がこれを留めて,持った
12 文を奪い取って開いて見れば,女房の下
13 への文で有ったに因って,苦しゅうも無いと言うて,
14 取らいで問うたは:頼朝の勢は如何ほど有るぞ
15 と:凡そ八日,九日路にはひったと続い
16 て,野も,山も,海も,川も武者ば
17 かりで御座る:下臈の身で御座れば,四五百,
18 千ほどこそ物の数をも知って御座
19 れ,それより上は存ぜぬが,キソ川で一
20 昨日人の申したは:源氏の人数は二十
21 万騎と申したと,答えたれば,上総の守
22 はこれを聞いて,扠も大将の心の
23 伸びさせられたほど口惜しい事は無い:今一
24 日も先に討手を下させられたならば,アシ

(151)
1 カワ山を打ち越いて八箇国に入らせられたな
2 らば,畠山の一族などはこなたへ
3 参らいで適うまい:これ等さえ参ったならば,坂
4 東には靡かぬ草木も有るまいと,後悔を
5 すれども,甲斐も無かった.
6 大将維盛東国の案内者と言うて,
7 実盛を召して,やあ実盛,そちほどの
8 強弓の精兵は坂東には如何ほど有る
9 ぞと問われたれば,実盛嘲笑うて申し
10 たは:然御座れば某をば大兵と思し召
11 さるるか?僅か十三束こそ仕れ.
12 実盛ほどの射手は坂東には幾らも
13 御座る:大兵と申すほどの者は十五束
14 に劣って引くは御座無い:弓の強さも
15 健やかな者が五六人して張りまらする:
16 この様な精兵が射れば,鎧の二三領も
17 重ねて易う射通しまらする.大名一人は
18 勢を持たぬ分が五百騎には劣りまらせ
19 ぬ:馬に乗れば,落つる道を知らず:悪
20 所を馳すれども,馬を倒さず,戦には親
21 も打たれよ,子も打たれよ,死ぬれば乗り越え,
22 乗り越え戦いまらする.西国の戦と申
23 すは,親が打たるれば孝養をして忌みが明いて
24 後に寄せ,子が打たるればその

(152)
1 思い嘆きに寄する事も御座無い.兵糧が尽くれば,
2 田作を刈り収めて寄せ,夏は暑い事を
3 厭い,冬は寒い事を嫌いまらするが,東国
4 には全てその様な事は御座無い.甲斐,信
5 濃の源氏共は案内は知っつ,富士の腰
6 から搦手に回る事も御座らうず.かう
7 申せばとて君を臆せさせまらせうとて,申
8 すでは御座無い:戦は勢には因りまらせぬ:謀
9 に因るとこそ申し伝えて御座れ.
10 実盛は今度の戦に命生きて再
11 び都へ参らうとは存ぜぬと,申したれ
12 ば,兵共これを聞いて皆震いわな
13 なき合うたと,申す.
14 さうして十月の二十三日の翌る日,
15 源氏平家富士川で矢合わせと定められ
16 て,夜に入って平家方から源氏の陣を見
17 渡いたれば,伊豆,駿河の百姓共が
18 戦に恐れて,或いは野に入り,山に隠
19 れ,或いは船に乗り,海川に浮かみ蛍
20 火の見ゆるをも平家の兵共は,
21 ああら恐ろしの源氏の陣の篝火や!実に
22 野も,山も,海も,川も皆敵ぢゃ
23 よ!これは何とせうぞと騒ぐ所に,その
24 夜半ばかりに富士の沼に幾らも群れ居た

(153)
1 水鳥共が何に驚いたか,たった一
2 度にぱっと立った羽音が大風や,雷など
3 の様に聞こえたれば,すわ!源氏の大将実
4 盛が申したに違わず,定めて搦手に
5 や回らうずらう,取り籠められては適うまい.こ
6 こをば引いて,尾張の洲俣を防げ
7 と言うて,取る物をも取り敢えず,我先にと
8 落ち行く程に,余りに慌て騒いで,弓
9 を取る者は矢を知らず,人の馬には
10 我乗り,我が馬をば人に乗られ,繋いだ
11 馬に乗って走らかせば,ぐるりぐるりと株を
12 回る事は限りが無かった.さうして明くる卯の
13 刻に源氏の大将押し寄せて,鬨を作れ
14 ども,平家の方には音もせず:人を入れ
15 て見せられたれば,皆落ちて居まらせぬと申
16 して,或いは鎧を取って参る者も有り,或い
17 は大幕を取って返る者も有り,敵の陣
18 には蠅さえも飛びまらせぬと申したれば,頼
19 朝馬から飛んで下りて兜を脱ぎ,手水
20 嗽して都の方を伏し拝うで,こ
21 れは全く頼朝が高名では無い:偏
22 に天道の御計らいぢゃと言うて喜ばれた.
23 軈て打ち取る所ぢゃと言うて,駿河の
24 国をば一条の次郎,遠江の国を

(154)
1 ば安田の三郎に預けられまらした.平
2 家をば続いても攻めうずれども,流石
3 後ろも覚束無いと言うて,浮島が原か
4 ら鎌倉へ返られた.海道宿々の
5 者共があら忌ま忌ましや!討手の大将と成っ
6 て下ったほどの人が,矢一つをさえも射い
7 で逃げ登られた事のうたてさよ!戦には
8 見逃げと言う事さえ心憂い事に言うに,こ
9 れは聞き逃げをせられたなどと言うて,笑い合う
10 て,落書共を多う立てまらした.都の
11 大将をば宗盛と言い,討手の大将をば権
12 の助と言う間,平家をひらやと読み成いて.
13 平屋なる棟守り如何に騒ぐらん?
14 柱と頼む板を落として.
15 富士川の瀬々の岩越す水よりも,
16 早くも落つる伊勢平氏哉.
17 又上総の守忠清が富士川で鎧
18 を脱ぎ捨てたをば.
19 富士川に鎧は捨てつ墨染めの,
20 衣唯着よ,後の世の為.
21 忠清は二毛の馬にぞ乗りてげる,
22 上総鞦掛けて由無し.
23 などと詠うで,皆物笑いにしまらした.
24 扠大将維盛は福原の新都へ帰

(155)
1 り上らるれば,清盛は大きに腹を立て
2 て,大将軍維盛をば,鬼界が島へ流
3 し,侍大将の忠清をば死罪に行
4 えと,下知せられた所で,平家の侍
5 衆参会をして,扠忠清が死罪の
6 事は何と有らうぞと評定せらるれば,その中
7 に或る人が進み出て申したは:忠清は
8 昔から不覚の人とは承り及
9 ばぬ:あの主十八の年と覚ゆるに,
10 鳥羽殿の宝蔵に五畿内一の悪党が二
11 人逃げ込うで居て御座るを,寄って絡めうと申
12 す者は一人も御座無かったに,この忠
13 清白昼に唯一人築地を跳ね越えて,
14 入って一人をば打ち殺し,今一人をば生け
15 捕って後代に名を上げた者で御座るが,今
16 度の不覚は只事とも存ぜぬ:それに付
17 けても良く良く兵乱を御静め為されい
18 と申したれば,同じく二十三日に近江
19 の源氏を攻めうずるとて,大将軍には清
20 盛の三男知盛,副将軍には忠
21 度を定めてその勢二万余騎で,近江
22 へ発向して,所々方々の城を攻め落といて
23 美濃,尾張へ越されまらしたれども,遂に捗
24 々しい事は無かったと,聞こえまらして御座る.

(156)
1 平家巻第三.
2 第一.木曾殿の由
3 来と,平家に対して謀反を起こされ,
4 平家の味方のナカモチ
5 と合戦して打ち勝たれ
6 た事.
7 右馬.夕べの物語が余り本意無い程
8 に,今は又木曾殿の成り立ち,その謀
9 反の様をも御語り有れ.
10 喜.さてさて果てしも無い事を仰せらるる:
11 然らば又語りまらせう.
12 右馬.その木曾殿は何と様に謀反を
13 起こされて有ったぞ?その由来をもここに続
14 けて御語り有れ.
15 喜.先づその木曾殿はその頃信
16 濃の国におぢゃって御座る.その父義
17 賢は武蔵の国で悪源太に打たれ
18 られたが,その時木曾殿は二歳で有ったを
19 母御が泣く泣く抱いて信濃の国へ越して
20 兼遠と言う者が下へ行って,如何にもして
21 これを育てて,人に成いて御見せ有れと,言われ
22 たれば,兼遠受け取って甲斐甲斐しゅう二十余年養育

(157)
1 して,漸う人と成らるるに従って,力も
2 世に優れて強う,心も並ぶ者が
3 無かった.常は如何にもして平家を滅ぼして
4 世を取らうなどと,言われたれば,兼遠大きに喜
5 うでその為にこそ君をばこの二十余
6 年養育しまらしたれ:かう仰せらるるこそ真
7 に八幡殿の御末とは覚ゆれと
8 申したれば,木曾は愈猛う成って,国中
9 の兵を語らうに,一人も背く
10 は御座無かった.
11 木曾と言う所は信濃に取っても南
12 の端で,美濃の国の境ぢゃに因って,
13 都へも無下に近かった程に,平家
14 の人々漏れ聞いて,これは何とせうぞと言うて,
15 皆騒がれたれば,清盛これを聞いて,そ
16 れは心憎うも思わぬ:信濃一国
17 の者こそ従い付くとも,深い事は
18 有るまいぞと,言わるる内に,又河内の
19 国にも敵が出来,伊予の河野を
20 始めとして南海道には熊野の別当
21 も平家を背き,九州の者共も
22 残り少なに敵に成ったと,注進をしたれ
23 ば,今度は宗盛自身東国へ向かわう
24 ずると,言われたれば,皆この儀は然るべか

(158)
1 らうず:さう有るならば,誰も尻足を踏む者
2 は御座るまいと,皆言うたに因って,それに定
3 まって有った.その内に越後の国の
4 長茂と言う者は平家の味方を
5 して,人数を率して,都合その勢四万余
6 りで木曾を追伐せうと言うて,信濃の国
7 へ発向して,信濃の国の横田川原
8 と言うに陣を取って居るを木曾は聞いて,三千
9 余りで馳せ向かうに光盛と言う者が
10 謀で俄かに赤旗を七流れ作
11 って,三千余騎を七手に分けて,かしこの
12 峰,ここの洞から(案内者で有ったれば)赤旗
13 共をてんでに差し上げ差し上げ寄ったれば,
14 長茂はこれを見て,何者がこの国
15 に居て,平家の方人をするかと心嬉しゅう
16 力付いて勇み罵る所に,次第に
17 近う成れば,合図を定めて七手が一つに
18 成って,三千余りの者共が一所に鬨
19 をどっと作って,用意した白旗をざっ
20 と差し上げたれば,長茂が人数共は
21 敵は幾十万と言う事か有らう,何としても
22 適うまいと言うて,色を失い俄かにふた
23 めいて,或いは川に追い入れられ,或いは悪所に
24 追い落とされて,助かる者は少なう,打たるる

(159)
1 者は多かった.長茂が頼み切った
2 者共も皆そこで死んだに因って,我が
3 身も辛々命助かって,川を渡って,
4 越後の国へ引き退いて,都へ告
5 げたれども,平家の大将宗盛はこれ
6 を事ともせいで,種々様々の位扱い
7 ばかりをして居られまらしたは,何ぼう温い事
8 ではおりないか?東国,北国には源氏
9 共が蜂のごとくに起こって,只今都
10 へ攻め上らうとする所に,波の
11 立つやら,風の吹くやらも知らいで,この様
12 にせらるる事は,真に言う甲斐無い事共
13 で御座る.
14 第二.平家木曾を滅
15 ぼさうとて,北国へ下らるれば,その内に木
16 曾と,頼朝不和の事が有ったれども,
17 遂に和睦せられた事:又木曾
18 殿が火打が城に置かれた斎
19 明威儀師謀反を起こし,
20 平家の味方してその城
21 を取らせた事.
22 右馬.平家の北国へ下られた事を
23 も続けて御語り有れ.

(160)
1 喜.扠も飽く期も無い人でこそ御座れ:
2 然りながら語りまらせう.所々方々の者
3 が平家を背いて,源氏に心を通ず
4 るに因って,四方へ宣旨を成し下され,諸国
5 へ院宣を遣わさるれども,皆平家の
6 下知とばかり心得て,従い付く者が
7 御座無かった.その頃木曾と,頼朝不快の
8 事が有って,頼朝木曾を打たうとて,六万余
9 騎を相具して,信濃の国へ発向せらるる
10 事を木曾は聞かれて,乳母の兼平を
11 持って,何に因って木曾を打たうとはさせらるる
12 ぞ?但し蔵人殿こそそなたを恨む
13 る事が有ると言うて,これに居られたを某
14 が抱えまらしたに因ってか?この他に御意趣
15 が有らうとも存ぜぬ:何の故に今仲を違
16 いまらして合戦をして,平家に笑われうと
17 は存ぜうぞと,言い遣られたれば,頼朝今こそ
18 さうは言わるるとも,頼朝を打たれうずると
19 有った由を確かに謀を巡らされたと
20 聞いた.その託けには因るまいと言うて,討手
21 の一陣を差し向けられたれば,木曾真実に
22 意趣の無い通りを表わさうずる為に,嫡子
23 のヨシトモと言うて,生年十一に成らるる人
24 に歴々の侍共を添えて,頼朝の
25 下へ遣られたれば,頼朝この上は意趣

(161)
1 が無いと言うて,ヨシトモを連れて鎌倉へ
2 返られた.
3 木曾は軈て越後へ打ち越えて長
4 茂と合戦をして,何とぞして打ち取らう
5 としたれども,長茂主従五騎に打ち為
6 されて,行き方知らず落ちて行いたに因って,越
7 後の国を始めて,北陸道の兵
8 共皆木曾に従い付くに因って,
9 木曾は東,北の道を経て,只今都
10 へ攻め入らうずると,聞こえたれば:平家は今
11 年よりも明年は馬の草,飼いに付け
12 て合戦せうずると披露せられたれば,兵
13 共雲霞のごとくに馳せ参った.東の方
14 にも遠江の国より東こそ参らなん
15 だれ:それよりこちの人は歴々の者
16 共が皆参ったに因って,平家は先づ
17 北国へ討手を遣わさうずると,評定有って,既
18 に討手を遣わす.その大将には維盛,
19 副将軍には通盛,その他の一
20 門を差し添えて,都合その勢十万余り
21 で都を発って,北国へ赴かれた.
22 その道すがら人数が荒れたに因って,民
23 百姓も数多逃げ去って御座る.
24 扠木曾我が身は信濃に有りながら,越

(162)
1 前の国の火打が城を構えて,大将に
2 は斎明威儀師を先として七千余騎を
3 込められて御座る.平家の先陣は越前の
4 国の木部山を打ち越えて,火打が
5 城へ寄せた.この城の容態は,磐石が
6 峙ち巡って,四方に峰を連ね,山
7 を後ろにし,山を前に当て,城の前
8 には大きな二つの川が流るるに,二
9 つの川の落ち合いに大木を立てて,柵
10 を突いて掻き上げたれば,水は東西の山
11 の根に差し満ちて,偏に大海に臨
12 むがごとくに御座ったと,申す.それに因って平
13 家は向かうの山に陣を取って,空しゅう日数
14 を送らるるに,城の内の大将の斎
15 明威儀師心変わりをして,文を書いて蟇
16 目の内に込めて,忍びやかに山の
17 根を伝うて,平家の陣へ射入れたに,この蟇
18 目の鳴らぬ事を怪しゅうで,取ってこれを見ら
19 るれば,中に文が有った.これを開いて見れ
20 ば,かの沢は昔からの淵では御座
21 無い:一旦柵を突き上げて湛えた水なれ
22 ば,雑人輩を遣わいて,柵を切り破ら
23 せられい.山川で御座れば,水は程無う
24 落ちまらせう:馬の足立ちも良う御座らう:

(163)
1 渡させられい.後ろ矢をば某が射まらせうず
2 と,書いたに因って:平家の大将は大きに喜う
3 で,軈て雑人共を遣って切り破られたれ
4 ば,案のごとく,山川ぢゃに因って,水が
5 程無う落ちたれば,その時平家の大勢ざっ
6 と渡す所で,斎明威儀師は軈て平家
7 と一つに成って戦うに因って,城の内の
8 残りの大将共暫し防いで見たれども,
9 成らなんだに因って,加賀の国へ引き退け
10 ば:平家軈て加賀の国へ越いて,林,
11 富樫が二箇所の城郭をも攻め落とすに
12 因って,一向早面を向けう様も無かった
13 と見えた.都にはこれを聞いて,喜ばる
14 る事は限りも御座無かった.
15 第三.木曾も,平家も
16 互いに方々へ人数配りをした事と,
17 同じく倶利伽羅が谷で合戦して,
18 平家を残り少なに打ち為し,
19 又志保坂の合戦
20 にも木曾打ち
21 勝った事.
22 右馬.して合戦はどこで有ったぞ?
23 喜.その御事ぢゃ.平家は加賀の国

(164)
1 の篠原と言う所で勢揃えを
2 して,軍兵を二手に分けて,砥浪山
3 と言う所へ押し向けられた.さう有る所
4 で木曾殿は越後の国府から五万
5 余騎で馳せ向かわるるが,先に先づ行家
6 と言う者を大将にして,一万ほど引き
7 分けて,志保坂へ差し向けられた:残る所
8 の四万余騎をば七手に分けて,木曾
9 殿の言われたは平家は大勢で下る程に,
10 山を打ち越いて広みへ出るならば,掛け合いの
11 合戦でこそ有らうずれ:但し掛け合いの合戦
12 は何としても勢の多少に因る事ぢゃ.大
13 勢を嵩に受けては適うまい:搦手へ回
14 せと言うて,楯の六郎に七千余騎を
15 添えて,北黒坂へ回し,仁科,高
16 梨などと言う者も七千余騎で南
17 の黒坂へ向かうに,我が身は大手から
18 一万余騎で向かうが,又一万余騎を
19 あそこここに引き隠いて置いて,兼平と言う者
20 は六千余騎で日野宮林に陣
21 を取られて御座った.
22 そこで木曾殿の言われたは;この勢が
23 黒坂へ回らうずる事は遥かの事
24 ぢゃ程に,その内に平家の大勢が山よ

(165)
1 りこなたへ越さうぞ,勢は向かわずとも,旗
2 を先に立てたならば,源氏の先陣が向かう
3 たと言うて,山よりあなたへ引かうず:旗を先
4 に立ていと言うて,勢は向かわねども,黒
5 坂の上に白旗を三十流ればかり打ち
6 立てたれば:案のごとく,平家これを見て,あわ!
7 源氏の先陣が向かうたぞ:ここは山も
8 高し,谷も深し,四方は岩石ぢゃ程に,
9 搦手へも容易うはよも回らじ,馬の
10 草飼い水の便りなども良い程に,ここ
11 に馬を休めうずるとて,大勢皆山の
12 中に下って居られた所で:木曾は八幡
13 の社領の垣生の庄と言う所に,陣を
14 取って急度四方を見渡せば,夏山の峰
15 の緑の木の間から朱の玉垣が仄
16 見えて,片削ぎ作りの社が有ったれば:
17 木曾これを見られて,案内者を召して,これ
18 は何の社ぞ?何たる神を崇めたぞと
19 問われたれば:これは八幡を祝いまらして,
20 当国には新八幡と申すと,答えたれば,木
21 曾大きに喜うで,手書きに連れられた覚明
22 を呼うで,木曾こそ幸いに八幡の御前
23 に着いた:合戦を遂げうずるなれば,それについ
24 て且つうは後代の為でも有り,且つうは当時

(166)
1 の祈祷の為に,願書を一筆書いて捧げう
2 と思うが,何と有らうぞと言われたれば,最も
3 然るべう御座らうずると言うて,馬から飛んで下り
4 た.覚明は褐の直垂に,黒糸縅
5 の鎧を着て居たが,箙から小硯と,畳
6 紙を取ん出いて,木曾殿の御前につい
7 跪いて書けば,数千の兵がこれ
8 を見て,文武共に達者ぢゃと言うて褒めた.
9 さうして源氏も,平家も陣を合わせて互
10 いに盾を突いて向かうた.その間三町ば
11 かり有らうと,見えた.然れども源氏も進まず,
12 平家も進まず:やや有って源氏方に何
13 と思うたか,精兵をすぐって十五騎出いて十五
14 の鏑矢を平家の陣へ射入れたれば,平家も
15 十五騎出いて,十五の鏑を射交わせば,源
16 氏又三十騎出いて,三十の鏑を射させたれば,
17 三十の鏑を射返す:五十騎出せば,五十
18 騎を出し合わせ,百騎を出せば,両方百騎
19 づつ盾の面に進んで,互いに勝負を
20 決せうとすれども,源氏の方には総じて制
21 して勝負をせられまらせなんだ.その子細は
22 このごとくあいしらうて日を暮らいて,後ろの谷
23 へ追い落といて滅ぼさうとするをば知らいで,平
24 家も共にあいしらうて日を暮らす事は,愚

(167)
1 かな事ぢゃ.次第に暗う成れば,搦手の
2 人数一万余り平家の後ろな陣の
3 倶利伽羅の堂の辺りで回り合うて,倶利伽羅の
4 堂の前で一万ばかりの者が箙
5 の方立を打ち叩いて,天も響き,大地
6 も動くほどに,鬨をどっと作ったれば,木
7 曾はこれを聞いて,早我が人数が後ろへ回
8 ったと知って,又一万ばかりの者共
9 が鬨をどっと作り合わすれば,あそこここに隠
10 いて置いた一万ばかりの者も出会う.兼
11 平も六千余騎で日野宮林から
12 一度に喚いて馳せ向かうに因って,前後から四
13 万ばかりの鬨の声で山も,川も唯
14 一度に崩るるかと覚ゆるほどに御座った.
15 平家はここは山も高し,谷も深
16 し,四方は岩石ぢゃ程に,搦手へは容易
17 うよも回るまいと思うて,打ち解けた所
18 に,思いも掛けぬ鬨の声に驚
19 いて,慌て騒いで若しや助かると,側な谷
20 へ転け落つる所で,汚し汚し,返
21 せ返せと言う者も多かったれども,
22 大勢の傾き立ったは取って返す事が無い
23 物ぢゃ:それに因って我先,我先にと落
24 ちた.親が落とせば,子も落とす:主が落

(168)
1 とせば郎等も続く:兄が落とせば,弟
2 も落とす:馬には人,人には馬が落
3 ち重なって,然しも深かった谷一つを平
4 家の人数七万余りを持って埋め上げま
5 らしたれば,血は川のごとくに流れ,屍
6 は丘のごとくに成って御座った.大将軍
7 維盛ばかり辛い命生きて,加賀の国
8 へ引き退かれた.平家の歴々の者は
9 大略そこで死にまらした.その谷の辺りに
10 は矢の穴,刀の跡が今に有ると,申す.
11 生け捕りにせられた者も多かった内に,火
12 打が城で心変わりをした斎明威儀師
13 も取られたと,聞こえたれば,木曾殿これを召
14 し寄せて前に引き据えて軈て首を撥ねら
15 れた.夜明けてから,又三十人余りの首を
16 切り掛けてから,木曾殿が言われたは;行家
17 が回った志保坂の手が覚束無いにいざ
18 行て見ょうとて,四万騎が中から,馬人強
19 いを二万余りすぐって,志保坂の手へ馳せ
20 向かわるれば:案のごとく,行家は散々に
21 射白まかされて引き退いて,馬の足を休め
22 居た所に:木曾さればこそと言うて,二万余騎
23 を入れ替えて,鬨をどっと作って喚いて掛かった
24 れば,平家暫しこそ支えたれ:志保坂の手

(169)
1 をも追い落とされて,加賀の国の篠原
2 へ引き退かれまらした.
3 第四.篠原の合
4 戦にも平家負けられた事:並び
5 に実盛が討ち死にしてその
6 髭を洗われた事.
7 右馬.篠原での合戦には双方厳う死んだなう?
8 喜.あう中々,源平共に厳う打たれた
9 と,聞こえまらした.
10 同じ二十三日の卯の刻に源氏篠
11 原へ押し寄せて,午の刻まで戦うた
12 が,暫時の合戦に源氏の人数も一千
13 余騎打たるる:平家の方には,二千余
14 り歴々の者が打たれて,平家篠原
15 をも遂に攻め落とされて落ち行かるるが,そ
16 の中に有国と実盛と言う者は
17 大勢の人に引き離れて,唯二騎連れ立って,
18 引っ返いて戦うが,有国は敵に馬の腹
19 を射られて頻りに跳ぬるに因って,弓杖を
20 突いて下り立って,敵の中に取り籠められて,
21 散々に射て,矢種が皆に成ったれば,打ち物
22 を抜いて戦うが,矢を七つ八つほど射立

(170)
1 てられて,立ち死にに死んで御座る.有国が打た
2 れて後は,実盛は存ずる子細が有ったに
3 因って,唯一人残って戦う所へ,手塚
4 の太郎と言う者が馳せ寄せて,味方は
5 皆落ち行くに,唯一騎残って戦をする
6 こそ心憎けれ:誰ぞ?覚束無い,名乗
7 れ聞かうと言うたれば,さう言う吾殿は誰そ?先づ
8 名乗れと言うに因って,かう言う者は信濃の
9 国の手塚の太郎と名乗った所で,実
10 盛然る人が有ると聞き及うだ,但し吾殿
11 を敵に嫌うでは無い:思う旨が有る程
12 に,今は名乗るまいぞ:寄れ組まう手塚と
13 言うて,押し並べて組まうとする所に,手塚
14 が郎等中に隔たってむずと組むを実盛
15 は手塚が郎等を取って,鞍の前輪に
16 押し付けて,刀を抜き,首を掻かうとする所
17 で,手塚は郎等が鞍の前輪に押
18 し付けらるるを見て,弓手からむずと寄せ
19 合わせて,実盛が草摺りを引き上げて,二
20 刀差す:弱る所に曳声を上げて
21 組んで落つるが,実盛心は猛けれ
22 ども,老武者なり,手は負うつ,二人の敵を
23 あいしらわうとする程に,手塚が下に成って,
24 遂に首を取られた.

(171)
1 手塚は遅れ馳せに来る郎等に実
2 盛が物の具を剥がせ,首を持たせて,
3 木曾殿の前に馳せ参って申したは:手塚
4 こそ今日希代の曲者に組んで
5 首を取って御座れ:何と名乗れと責めて御座
6 れども,遂に名乗りまらせなんだ:侍かと
7 存ずれば,錦の直垂を着,又大将かと
8 存ずれば,続く勢も御座無かったが,声は
9 坂東声で御座ったと,申したれば:哀れこれは
10 実盛でか有るらう:但しそれならば身が一
11 年幼目に見た時に,早白髪が少し
12 有った程に,今は定めて白髪にこそ有らうず
13 る事ぢゃが,鬢髭の黒いは但し有らぬ
14 物か?年来の知音ぢゃ程に,樋口は
15 見知らうず:樋口を召せと言うて,呼ばれたれば,
16 樋口は参って実盛が首を唯一
17 目見て,軈て涙に咽ぶを如何に如何に
18 と尋ねらるれば,あら無残や,実盛でこそ
19 御座れと申すに:鬢髭の黒いは何事ぞ
20 と問われたれば:樋口涙を押し拭うて
21 申したは:然御座あればこそその様を申さうとす
22 れば,不覚の涙が先立って申しえまらせ
23 ぬ.弓矢を取る者はあからさまの座席
24 とは思うとも,思い出に成る言葉をば

(172)
1 申し置かうずる事ぢゃ.常は兼光に
2 向かうて物語り仕ったは:実盛六
3 十に余って戦の場に向かわうには,鬢髭
4 を墨に染めて若やがうと思う:その
5 子細は,若殿輩に争うて先を駆けうず
6 るも大人気無し,又老武者ぢゃと言うて,
7 侮られうも口惜しからうずなどと常は
8 申したが,今度を最後と存じて,真に
9 染めまらした事の無残さよ,洗わせて御
10 覧ぜられいと申しも敢えず,又涙をはら
11 はらと流いたれば:然も有らうずと言うて,洗わせて見
12 らるれば,白髪に成りまらした.実盛が錦
13 の直垂を今度着まらした事は,都を
14 出様に宗盛へ参って申したは:一年
15 東国の戦に罷り下って,駿河の
16 蒲原から矢一つをも射いで逃げ登って
17 御座る事は,真に老後の恥辱唯こ
18 の事で御座る:今度北国へ向かうなら
19 ば,年こそ寄って御座ありとも,真っ先を駆けて
20 討ち死にを仕らうずる:それに取っては実
21 盛元は越前の者で御座あるが,
22 近年所領について武蔵の長井に居
23 住仕って御座る.事の例えが御座
24 る:故郷へは錦を着て返ると申す:然

(173)
1 るべくは,実盛に錦の直垂を許さ
2 せられよかしと,申したれば:宗盛然らばと
3 言うて,錦の直垂を許されたと聞こえま
4 らしたと,申せば,皆これを感じて涙を
5 流されまらした.
6 第五.木曾戦の評
7 定をして比叡の山を語らわるれば,
8 即ち比叡の山も木曾に
9 与し,平家を背いた事
10 :並びに平家西国
11 の合戦には勝利
12 を得られた事.
13 右馬.平家はその分にして京へ上
14 られて有ったか?
15 喜.その御事ぢゃ.平家は北国へ下
16 られた時は,十万余騎と聞こえたが,上
17 らるる時は,僅かに三万ばかりに成って,然
18 しも結構に出立って都を出られた人々
19 が,徒らに名をのみ残いて越路の末
20 の塵と成られた事は,真に哀れな事
21 で御座る.清盛の末の子の三河の
22 守もそこで死なれ,又忠綱,カゲ
23 トキも返らず,その他歴々の者共

(174)
1 が皆打たれた.江を尽くして漁りを
2 成す時は,多くの魚有りと言えども,明くる
3 年には魚無し:林を焼いて狩りする時は,
4 多くの獣有りと言えども,明くる年
5 には獣無しと言うごとく;後を思案し
6 て少々は一門の衆を残されうずる事
7 で有ったと申す者も多う御座った.飛騨の
8 守と言う人は最愛の総領の景高が
9 打たれたと,聞こえたれば,伏し沈んで嘆いたが
10 頻りに暇を請うに因って,宗盛許され
11 たれば,軈て出家して打ち伏す間は十日
12 余りで有ったが,遂に思い死にに死にまらし
13 た.これを始めて親は子を打たせ,子は
14 親を打たせ,妻は夫に遅れて,家
15 々に喚き叫ぶ声は夥しい事で
16 御座った:これは都の事.
17 木曾は越前の国府に着いて合戦
18 の評定をせらるるに,今井,高梨,その
19 他歴々の者共百人ばかり前
20 に並み据えて,木曾殿の言わるるは:我
21 等が都へ上らうずるには近江の国
22 を経てこそ上らうずるに,例の山法師の
23 憎さは又防ぐ事も有らうず:蹴破って
24 通らう事は易けれども,平家こそ当時は

(175)
1 仏法を滅ぼし,僧をも失え:それを
2 守護せう為に上洛する者が,大衆に
3 向かうて合戦をするならば,少しも違わぬ
4 二の舞で有らうず.これこそ安大事の事
5 ぢゃが何とせうぞと,言われたれば,覚明が
6 進み出て申したは:尤もの仰せぢゃ.然
7 りながら三千の衆徒で御座れば,必定一味同
8 心する事は御座るまい:皆思い思いに
9 こそ御座らうずれ.先づ御状を送らせられて御
10 覧為されい:事の様は返札で見えまらせうず
11 と言うたれば,然らば書けと言うて,覚明に書
12 かせて,山門へ状を送られた.その文
13 体は先づ平家の悪行を書いて,これを静
14 めうずる為に,上洛する事なれば,山
15 門も源氏へ一味せられいかしと書かれた.
16 山門にはこれを見て,僉議まちまちに
17 して,或いは平家に同心せうと言う衆徒も有り,或
18 いは源氏に付かうと言う者も有り,思い
19 思いに有った所で,老僧共の申したは:
20 我等は帝王も御無事に御座り,天下も無事
21 な様にと祈りを成せば,殊に当代の平家
22 は御外戚ぢゃに因って,今までかの繁盛を
23 祈誓仕った.然れども悪行法に過ぎ,
24 万民これを背くに因って,国々へ討

(176)
1 手を遣らるれども,結句人より滅ぼさるる体
2 ぢゃ.源氏は近年度々の合戦に打ち勝っ
3 て運を開き始むるに,何ぞ運の尽きた平
4 家に同心して,運を開く源氏を背かうぞ?
5 唯平家に値遇した事を翻いて,源
6 氏に合力せうずると一味同心に僉議し
7 て,軈て返札を送った.その趣は,
8 これも同じ様に平家の悪行を謗って,
9 又木曾をば褒めて一味せうずると返事を
10 したに:平家これをば知られいで,奈良や,三井
11 寺は憤りの深い折節ぢゃ程に,語
12 らうとも靡くまい:比叡の山は当家を大
13 切に思う:当家も又,比叡の山の為
14 に仇を結ばねば,山王に祈誓をして三
15 千の衆徒を語らい取らうずると言うて,一門の
16 公卿同心して願書を書いて,比叡の山へ
17 送って,三千の衆徒に力を合わせいと頼
18 まれたれども,年来日頃の振る舞いがそで
19 無かったに因って,祈れども,適わず,語らえど
20 も,靡かず:弓折れ矢尽きた体で有ったに
21 因って,衆徒これを見て,真に然こそとは
22 哀れに思うたれども,既に源氏に同心
23 せうずると返事をしたれば,その儀を改むる
24 に及ばいで,皆これを許容仕ら

(177)
1 なんだ.
2 扠肥後の守と言う者を西国へ下
3 されて有ったが,これは鎮西の謀反を平ら
4 げて,菊池ぢゃは,原田ぢゃはなどと言う
5 者を先として,三千余りの者を引き
6 連れて,都へ上ったに因って,西国ばかり
7 は僅かに平らかなれども,東国,北国
8 の源氏は如何にも静まらいで,気遣いを
9 せられて御座った.
10 第六.木曾諸方から
11 都へ入ると聞いて,平家は主上をも法皇
12 をも取り奉って,西国へ落ちょうと
13 せらるる時,法皇いづちとも無く
14 失せさせられた事と:同じく平家
15 の都落ちと,又忠
16 度の歌の沙汰.
17 右馬.扠も平家は厳う符が悪かったの?
18 喜.真に天道から放されられたと,見
19 えて御座る.その頃或る夜夜半ばかりに六
20 波羅の辺りが大地も打ち返いた様に騒い
21 で,馬に鞍を置き,腹帯を締め,具足
22 を着,東西に走り血惑うて御座った.その子

(178)
1 細は重貞と言う者が御座ったが,これは一
2 年保元の合戦に源氏の大将の為
3 朝の戦に負けて落ち行かるるを搦
4 め取って渡いた勲功に因って,位にも上げられ
5 て日頃は平家を諂うて居たが,夜半ばかりに
6 急ぎふためいて六波羅へ参って,木曾が既
7 に近江の国まで乱れ入ったが,その勢は
8 五万余りで御座ると,申す.東坂本
9 に満ち満ちて人をも通さず:郎等の楯
10 と,又覚明と言う者は六千余り
11 で比叡の山へ攻め上って,総持院を
12 城にして居るに,衆徒も皆同心して,只
13 今都に攻め入らうずると,申すと告げた
14 故で御座った.
15 平家はこれを防がうずる為に,瀬田へは
16 知盛,重衡三千余りで向かわる
17 れば,宇治へは又通盛,能登殿こ
18 れも三千余りで下られた.さうする程に,
19 木曾方からは行家が一万ばかりで
20 宇治から入り,又矢田の判官は丹波の
21 大江山を越えて,五千余騎で京へ入ると
22 言い;津の国,河内の源氏も同じ
23 様に力を合わせて,淀,川尻から
24 攻め入ると罵れば,平家はこれを聞いて,扠

(179)
1 これは何とせうぞ?唯一所で何とも成
2 らうずると言うて,宇治,瀬田の手をも皆呼び返
3 された.吉野山の奥の奥へも
4 入りたう思われたれども,諸国七道が皆
5 乱れたれば,どこの浦,山の奥にも
6 身を隠れられうずる所が無かった.それに
7 因って夜更けてから,宗盛建礼門院
8 の六波羅に御座ったに参って申されたは.こ
9 の世の中の有り様を見まらするに,世は
10 既にかうと見えて御座る程に,院をも,内
11 をも取り奉って,西国の方へ御幸を
12 成し奉らうと存ずると,申されたれば,建
13 礼門院とも,かうも唯宗盛の計らい
14 でこそ有らうずれと仰せられて,皆諸共
15 に涙を押さえ兼ねさせられた.法皇は平
16 家の取り奉って西国の方へ落ちて
17 行かうずると言う事を内々聞かせられたに因っ
18 てか,スケモチと言う人ばかりを御供で
19 密かに御所を出させられて,鞍馬の方へ
20 御幸為されたれども,誰もこれを知る人が
21 御座無かった.
22 平家の侍に季康と言う者が有っ
23 たが,賢賢しい者で御座ったに因って,院
24 にも召し使われたが,その夜しも院の御

(180)
1 所に泊まったに常に御所の方が騒が
2 しゅうざざめき合うて,女房達も忍び声
3 に泣きなんどせられたれば,これは何事ぞと
4 思うて聞く程に,法皇の御座らぬは,どこ
5 へ御幸為されたかと言い合わるる声に聞き做いて,
6 扠も浅ましい事哉と思うて,急いで六
7 波羅へ馳せ参って,この由を申したれば,宗
8 盛否,それは僻事で有らうずと言いながら,
9 軈て院の御所へ馳せ参って見られたれば,実
10 にも御座らなんだれば,何と何とと尋ねら
11 れたれども,我こそ御行方を存じたれと
12 申す女房は一人も御座無かった.明くれば
13 七月の二十五日で有ったに,法皇御所
14 に御座らぬと申す程こそ有ったれ,京中の
15 者共騒動する事は斜めならなんだ
16 れば,況んや平家の人々が慌て騒がれた
17 有り様は家々に敵が打ち入るとも,限り
18 が有れば;これには過ぎまいと見えまらした.日頃
19 は院をも,内をも取り奉って,御幸
20 をも成し奉らうと思われたれども,
21 この様に法皇の捨てさせられたれば,頼む木
22 の下に雨の堪らぬ心地をせられた.
23 然りとては行幸ばかりをなりとも成し奉
24 らうずると言うて,二十五日の卯の刻ばかり

(181)
1 に御輿を寄せて,主上の六つに成らせら
2 るるが,何心も無う御座ったを軈て御輿
3 に召させまらしたれば,国母建礼門
4 院も同じ御輿に召させられた:その他色
5 々の御道具などをも持って参れと,下知せ
6 られたれども,余り慌てて取り落とさるる物
7 も多う御座ったと,聞こえた.
8 忠度はどこから引き返されたか,侍
9 を五人連れて,俊成卿の宿所に打ち
10 寄せて見らるれば,門を閉ぢて開かなんだに
11 内を聞けば,落人が帰り上ったなどと
12 言うて,夥しゅう騒動して門を叩かれたれ
13 ども,開けぬに因って,これは忠度と申す
14 者ぢゃが,今一度御目に掛かって申さうずる
15 事が有って,道から帰り上りまらした:仮令
16 門を開けずとも,この際まで立ち出さ
17 せられいと,言われたれば,俊成卿これを聞かれ,
18 その人ならば,苦しゅうも無いぞ:入れまらせよと
19 言うて,門を開いて対面せられたれば,忠度
20 の言われたは:年来申し承って後
21 は,些かも疎かには存ぜなんだれども,この
22 三四年は京都の騒ぎ,国々の乱れ,
23 然しながら当家の身の上で御座れば,この
24 事共について粗略は御座無かったれども,

(182)
1 常に参り寄る事も御座無かった.然れど
2 も撰集の御座らうずると,承ったれば,一
3 期の面目に一首御恩を被りまらせう
4 ずると存じた所に,軈て世の乱れが
5 出来て,その沙汰も御座無かった事一身の嘆
6 きと存ずる.君は既に都を出で
7 させらるれば,我等も又屍を山野に晒
8 さうずる他は期する方も御座無い.世が静
9 まりまらしたならば,定めて撰集の沙汰
10 も御座らうずれば,その内に一首御恩を被
11 って草の陰までも嬉しゅう存ぜうずると
12 言うて,鎧の引き合わせから巻き物を一
13 巻取り出いて,俊成卿へ奉られた
14 を俊成ちっとこれを開いて見て,斯かる忘
15 れ形見を賜わり置く事なれば,ゆめゆ
16 め粗略を存ずまじい:若し撰集の事が
17 御座るに於いては,余の人は知らず,拙者に
18 仰せ付けらるるならば,少しも疑わせらる
19 るなと,言われたれば,忠度今生の見参こ
20 そ只今を限りと申すとも,来世では必
21 ず御目に掛からうずると言うて,兜の緒
22 を締め,馬の腹帯を固めて打ち乗って,
23 西を差いて歩ませて行かるるを遥々と
24 見送ってから,内へ入られた.

(183)
1 実にも世が静まってから;歌を選ばれ
2 た内へ,忠度の歌も一首入れられたと聞
3 こえまらした.志が深かったに因って,数
4 多も入れたう思われたれども,勅勘の人
5 ぢゃに因って,名字をば表わさいで読み人知らず
6 と書かれたが,その歌は故郷の花と言う題
7 で読まれて御座る.
8 細波や志賀の都は荒れにしを,
9 昔乍らの山桜哉.
10 その身既に朝敵と成られた上は,子
11 細には及ばねども,これほどの作者を読
12 み人知らずと書かれた事は,真にその
13 身に取っては口惜しい事で御座る.
14 第七.維盛の
15 落ちらるれば,北の方を始め,子達
16 の維盛を慕われ
17 た事.
18 右馬.その時勿論維盛も都
19 を落ちられて有ったか?
20 喜.中々,維盛も日頃は思い
21 設けられた事なれども,差し当たっては悲しゅう
22 思われて御座った.この北の方は新大

(184)
1 納言の娘で,この腹に六代御前と
2 申して十に御成り有る若君も御座っつ,
3 夜叉御前と申して,八つに御成り有る姫君
4 も御座ったが,この人々も遅れまい
5 と言うて,面々に出立たるれば,維盛北
6 の方に言われたは:維盛は一門の人
7 々に連れて西国の方へ落ち行く:共
8 に相具しまらせうとは思えども,道に
9 も源氏共が待てば,平らかに通らう事
10 も難い:若しいづくの浦になりとも心
11 安う落ち着いたならば,急いで迎いを進ぜ
12 うず:又何たる人になりとも一つに御成
13 り有れ:都の内に情けを掛けまらす
14 る者が無うては適うまじいと,言われたれば,北
15 の方は兎角の返事をも召されいで,軈て
16 引き被いて泣き倒れられたれば,維盛は鎧
17 を着て,馬を引き寄せ出うとせられた時,
18 北の方泣く泣く起き上がって,袖に取り付いて,
19 都には父も無し,母も無し,捨てら
20 れまらして後に,又誰に見えまらせう
21 ぞ?如何なる人にも見えよかしなどと仰せ
22 らるる事の恨めしさよ!此の頃は御志
23 も深かったに因って,人知れず深う頼も
24 しゅう思い参らせたに,いつの間に変わり果てた

(185)
1 御心ぞ?同じ野原の露とも消え,
2 同じ底の藻屑とも成りまらせうずると
3 契った事も皆偽りに成るか?せめて
4 我が身一つならば,捨てられまらしても,身の
5 程を思い知っても留まりまらせうが,幼
6 い者共をば,誰に見譲って何と成
7 れと思し召すぞ?恨めしゅうも御留め有る
8 物哉と言うて,且つうは慕い,且つうは恨み
9 て泣かるるに因って,維盛も詮方無う思
10 われた.
11 真に人は十三,維盛は十五と言う
12 時から,互いに見初め,見え初めて,今年
13 は既に十二年,火の中,水の底ま
14 でも共に入り,共に沈み,限りの有る
15 別れ路にも遅れ先立つまじいとこそ契っ
16 たれども,心憂い戦の場に赴けば,
17 行方も知らぬ旅の空に憂き目を見せ
18 まらせうずるも心憂からうず:その上今度
19 は用意もおりない程に,迎いの者を御
20 待ち有れと,賺いて置かうとせられた所
21 へ,若君も,姫君も御簾の他
22 へ走り出て,鎧の袖,草摺りに取り付い
23 て,これは扠いづくへ御座あるぞ?我も
24 行かう,我も参らうと,慕うて泣かるる所で,

(186)
1 維盛も詮方無う思われたと,聞こえま
2 らした.さうする所へ五人の兄弟達が
3 門の内へ打ち入って,行幸は遥かに伸びさ
4 せられたに,何故に今まで遅れさせらるるぞ
5 と面々言い合うて勧められたれば,既に馬
6 に乗って出うとせられたが,大床の際に又
7 打ち寄って弓の筈で御簾をざっと掻き
8 上げて,これを御御覧じ有れ:幼い者共
9 が余り慕うを今朝からとかう賺いて置かうとする
10 程に,存知の他に遅なわったと言いも敢え
11 ず泣かれたれば,五人の人々も皆鎧
12 の袖を絞られて御座った.
13 斎藤五,斎藤六と言うて兄は十九,弟
14 は十七に成る侍が御座った,これは篠
15 原で打たれた実盛が子供で御座る.こ
16 れ等も維盛の馬の左右の承鞚に
17 取り付いて,いづくまでも御供を仕
18 らうずると言うたれば,維盛あれ等に深う慕わ
19 れて詮方無さに多い人の中に汝等
20 を留むるは思う様が有って留むるぞ:末
21 までも六代が頼りとは汝等こそ成
22 らうずれ:留まるならば,連れて行くよりも,
23 我は猶嬉しゅう思わうずるぞ,などと細
24 々と言われたれば,力及ばいで涙を

(187)
1 押さえて留まりまらした.北の方は此の頃
2 はこれほどに情けなからう人とは思わ
3 なんだと言うて,伏し転んで泣かるれば,若君
4 も大床に転び出て,声を計りに喚
5 き,御叫び有る声が門の他まで聞こ
6 えたれば,維盛は馬をも進め遣られ
7 ず,控え控え泣かれて御座る.真に人は
8 今日別れては,又いつの日,いづれの時は必
9 ず巡り会わうと契るさえも,その期を
10 待つは久しいに,これは今日を限りの別
11 れなれば,その期を知られぬ事は深い悲し
12 みで御座らうず.この声共が耳の底
13 に止まって,西海の旅の空までも吹く風
14 の声,立つ波の音に付けても,只今
15 聞く様に思われたと,聞こえて御座る.
16 第八.平家の一門
17 は都を落ちらるるその内に池の
18 大納言殿は都に留まられた
19 事:同じく福原を発たるると
20 て,一門の人々名残りを
21 惜しまれた事.
22 右馬.扠平家の一門の内に都に

(188)
1 留まられたは無かったか?
2 喜.その御事ぢゃ:皆六波羅を始
3 めて面々の館に火を掛けて,焼き立て
4 て落ちらるる内に,池の大納言殿と
5 申す人は館に火を掛けて,これも出らる
6 るが,何と思われたか,道から手勢三百
7 余りを引き分けて,赤旗をば皆切って捨て
8 て,都へ引き返されたれば:エチゼンの前司
9 と言う人がこれを見て,宗盛に申したは:
10 池の大納言殿の止まらせらるるに,侍
11 共も多う付いて留まりまらする.池
12 の大納言殿までは恐れ深う御座れば,
13 侍共に矢を一つ射掛けまらせうと
14 言うたれば,宗盛否,それはその侭置
15 け:苦しゅうも無い:年来の重恩を忘れて,
16 この有り様を見果てぬ奴原ぢゃ程に,中
17 々とかう言うに及ばぬと,言われて御座る.維
18 盛は何とと問われたれば,小松殿
19 の公達は未だ一人も見えさせられぬ
20 と申したれば,然こそ有らうずれとて,愈心細
21 気に思われたと,聞こえて御座る.新中納
22 言のおしゃったは:都を出て未だ一日
23 も経ぬに,早人の心も変わり果てたれ
24 ば,況して行く末の事は推し量られた.唯

(189)
1 都の内でとも斯くも成らう物を
2 と言うて,宗盛の方を見遣って,世にも
3 恨めしさうに思われた事は,真に理
4 で御座る.池の大納言は仁和寺に引き
5 籠もっておぢゃった.
6 これは故池の尼ごぜの頼朝を助
7 けられたに因って,頼朝からも誓文
8 を持って,池殿にも意趣は無いと言うて,討手
9 の使いの上るにも,構えて汝等池殿
10 の侍共に弓を引くなと,下知せられた
11 に因って,この様な事を頼うで都に御残
12 り有ったと聞こえたが,なましいに一門には離
13 れつ,波にも,磯にも付かぬ心地をせら
14 れて御座る.
15 畠山の荘司小山田宇都宮,こ
16 れ三人は召し込められて有ったを,宗盛ば
17 かりこれ等が首を撥ねうずると言われたを,平大
18 納言と新中納言の申されたは:これ等百
19 人千人を切らせらるるとも,御運が尽きさ
20 せられて後は,世を取らせられう事は難い.
21 国に居まらする彼等が妻子共が然こそは
22 嘆きまらせうずらう:今や下る,今や下る
23 と,待ちまらする所へ,切られたと聞こえたら
24 ば,如何ほどか嘆きまらせうずらう?これ等をば東

(190)
1 国へ帰し遣わされいかしと存ずると,申
2 されたれば,宗盛これも実にもぢゃと言う
3 て,この三人を呼び出いて,暇を遣るぞ:急い
4 で下れと,言われたれば,三人の者共畏
5 まっていづくまでも行幸の御供を
6 仕らうずると,申した所で,宗盛
7 汝等が色代は然る事なれども,魂
8 は皆東国にこそ有らうずれ:抜け殻ばかり西
9 国へ連れうか?疾う疾う下れと有ったれば,力
10 に及ばいで,涙を押さえて下らうとするが,
11 これ等も流石二十年余りの主で有ったれば,
12 別れの涙をば押さえ兼ねて御座った.
13 小松殿の子達は兄弟その人
14 数六七百ばかりで淀の辺りで御幸
15 に追い付かれた.宗盛この人々を御見
16 付け有ってから,ちっと力付いて,世にも嬉し
17 さうにして,扠今までは何故に遅かったぞと
18 有ったれば,維盛その御事で御座る:幼い
19 者共が今朝から余りに慕いまらするに
20 因って,とかう賺しまらする内に遅なわって御
21 座ると,申されたれば,宗盛何故にそれは
22 御連れ有らなんだか?維盛行方とても頼
23 もしゅうも御座無いと言うて,問うに辛さの涙
24 を流された.扠平家の人々は一門

(191)
1 その他の侍を掛けて宗との者共
2 は百六十人余り:その付き付きの
3 勢を合わせては七千余騎で御座った.これ
4 は東国,北国この三四年方々の合戦に
5 打ち漏らされて残る分と,聞こえて御座る.
6 山崎の関戸の院と言う所に主上
7 の召された玉の御輿を舁き据えて御座る
8 所へ,貞能と言う者が川尻へ源
9 氏共が向かうたと聞いて,蹴散らかさうと言うて,
10 五百余りで向かうたが,僻事で有ったに因っ
11 て,帰り上る程に,道で御幸に合いまら
12 して,宗盛の御前で馬から飛んで下
13 り,弓を脇に挟うで,畏まって申した
14 は:これはいづくを差させられて御座るか?西国
15 へ落ちさせられたらば,助からせられうと思し
16 召すか?落人と申してここかしこで打ち止
17 めまらせう事は,余り口惜しい事で御座る:
18 唯都でともかうも成らせられいかしと申
19 したれば,宗盛,貞能は未だ知らぬ
20 か?源氏は既に比叡の山まで攻め上
21 って,総持院を城にして山法師も皆
22 与力して今は都へ入らうずると言う:せめ
23 て各々身ばかりならば,何とも成らうずれど
24 も,女院,二位殿に憂き目を見せまらせう

(192)
1 ずるも笑止なれば,一先づ都を落ちょう
2 ずると思うと,言われたれば,貞能然らば某
3 は御暇を下されいと言うて,手勢三百
4 人引き分けて都へ返って,西八
5 条の焼け跡に大幕を引いて一夜居たれど
6 も,帰り上らるる平家は一人も無かった
7 に因って,流石に心細う思うたか,源氏
8 の馬の蹄には掛かるまいと言うて,重
9 盛の墓を掘り起こいて,辺りの賀茂川へ
10 流させ,骨をば高野へ送って,世の中は
11 頼もしゅう無いと思うたれば,思い切って勢を
12 ば維盛の方へ奉って,我は乗り換
13 え一匹具して,宇都宮と打ち連れて,平家
14 と後ろ合わせに関東へ落ちて行いて御座る.
15 平家は維盛の他には,宗盛を始
16 めて皆妻子を連れられた.その他行くも,
17 留まるも互いに袖を絞らるるばかりで
18 御座った.相伝譜代の好で有れば,年頃
19 の重恩を忘れう様が無ければ,若いも,老い
20 たも唯後ろをのみ顧みて,前へは
21 進みも遣られなんだ.各々後ろを顧
22 みて,都の方は打ち霞んだ様な心
23 地がせられて,煙ばかり心細う立ち上
24 ったれば,一門の内の経盛都

(193)
1 を顧みて,泣く泣くかう読まれて御座る.
2 古里を焼け野の原と顧みて,
3 末も煙の波路をぞ行く.
4 又タダモリも.
5 儚しや,主は雲居を別るれば,
6 後は煙と立ち上る哉.
7 と,詠うで真に故郷をば一片の煙
8 に隔てられて,行方も知らぬ旅路へ赴
9 かるる人々の心の内は推し量ら
10 れて哀れな事で御座る.一期に習わぬ磯
11 辺の波枕で,八重の潮路に日を暮
12 らいて,入り江を漕ぎ行く櫂の滴と,落
13 つる涙も争うて,袂も更に干し敢え
14 られなんだ.或いは駒に鞭を打つ人も
15 有り,或いは船に竿を差す者も有り:思い
16 思い,心々に落ちて行かるるが,福
17 原の古い都に着いて,宗盛然る
18 べい侍共を三百人余り呼び集
19 めて言われたは:積み置いた善の幸いも
20 悉く尽きて,今は積み重ねた悪
21 の災いが身に報うて君にも捨てられま
22 らして,波の上に浮かぶ落人と成って,既
23 にこの様に漂い歩く上は,行く末とて
24 も頼み有るべうは無けれども,一樹の陰

(194)
1 に宿るも前世の契り深う:一河の
2 流れを渡るも他生の縁が深い故ぢゃ:
3 況んや汝等は一旦従い付く渡り並みの
4 人々では無い.代々伝わった主従の間
5 ぢゃに因って,或いは側近う使われた人も
6 有り,或いは重代の恩を深う着た人も有り:こ
7 の一門が繁盛した時は,深い恩を受け
8 たれば,今この難儀の時節にも思慮を巡
9 らいて重恩を報われうずる事ぢゃ.
10 忝くも帝王も三種の神器も
11 御座れば,何たる野の末,山の奥ま
12 でも御幸の御供を仕らうとは思
13 わぬかと,言われたれば,老いたも,若いも
14 皆涙を流いて,怪しの鳥獣
15 までも恩を報じ,徳を報う心
16 が皆御座ると,聞きまらする:中にも弓
17 箭に携わる習いは二心の有るを
18 恥と仕る.この二十余年が間妻
19 子を育み,所従を顧みる事然しなが
20 ら君の御恩で無いと申す事は無い.然
21 れば即ち日本の他鬼界,高麗,天
22 竺,震旦までも御幸の御供を仕
23 らうずると,口を揃えて申したれば,そ
24 の時皆色をそっと直いて,頼もしゅう思

(195)
1 われて御座る.
2 平家は福原の古里に一夜を明かさ
3 れた折節,秋の月が冴えて,夜も静か
4 に有ったれば,旅寝の床の草の枕に涙
5 も,露も争うて,唯物悲しゅういつ
6 返らうとも知れなんだれば,心細さは限
7 りが無かったと,聞こえまらした.清盛の作
8 り置かれた所々もいつしか三年に
9 荒れ果てて,苔は道を塞ぎ,草は門
10 を閉ぢて,瓦には松が生え,葛蔓
11 が茂って,台も傾いて,そこを出で入る
12 物とては松風ばかりで御座った.明くれば
13 主上を始めまらして,人々皆御船に
14 召されて,都を発たせられた程は無けれど
15 も,これも名残りは惜しゅうて,海女の焚く藻
16 の夕べの煙,尾上の鹿の暁の
17 声,汀に寄る波の声,袖に宿
18 借る月の影,千草にすだく虫全
19 て目に見,耳に触るる事の一つとし
20 て哀れを催し,心を痛ましめぬと
21 言う事は御座無かった.昨日は東山の関
22 の麓に轡を並べ,今日は西海の
23 波の上に纜を解いて,波を分け
24 て潮に引かれて行けば,船は半ばは天

(196)
1 の雲に遡る様に有った.経盛の嫡
2 子経正御幸に供奉せられたが,泣く
3 泣く.
4 御幸する末も都と思えども,
5 猶慰まぬ波の上哉.
6 と,読まれまらした.平家は日数を経れば,
7 都をば山,川,海に隔てられて,雲
8 居の余所に見ないて,遥々来たと思わ
9 るるに付けても,唯尽きせぬ物は涙
10 で御座った.
11 第九.法皇鞍馬の寺
12 から比叡の山へ還御有った事と,
13 平家の西国へ落ちられて
14 からの事.
15 右馬.して法皇の御行方は後にも
16 知れなんだか?
17 喜.否,それは知れまらした.七月の
18 二十四日の夜半ばかりに法皇は資時
19 と言う人ばかりを御供で御所を出させられ
20 て鞍馬へ入らせられたに,鞍馬の坊主共
21 これは猶都が近うて悪いと言うて,
22 奥へ入れまらしたれども,比叡の山から軈

(197)
1 てこれを聞き付けて,比叡の山へ成し参
2 らせた.この事が又天下に聞こえ渡った
3 所で,関白殿を始めて,その
4 他都に居られたほどの公家達総じて世
5 に人と数えられ,官,位に望みを掛く
6 るほどの人は一人も漏れず,軈て皆
7 比叡の山へ参られたに因って,法皇の御
8 所に成った寺には家の内には皆人が
9 居余って,庭から門外までぴっしと満ち満
10 ちて居た所で,比叡の山の繁盛門
11 跡の面目と見えて御座った.それから軈
12 て法皇都へ還御為さるるに,木曾五
13 万余騎で守護仕ったに,白旗を
14 先に立てたれば,この二十余年余り見なんだ
15 源氏の白旗が今日初めて都へ入る事
16 のめでたさよと言う者が多かった.扠
17 院の御所へ入らせられてから,木曾や,行家
18 などが御縁の端に畏まって居たに,法皇
19 からして平家の大将の宗盛を始めて,
20 一門の者共を皆打ち果たせと,仰せ
21 られたれば,軈て領掌を申して御座ったが,宿
22 所が無い由を申したれば,皆銘々に
23 宿を仰せ付けられたに因って,その朝恩の
24 深い事を皆感じ合われた.

(198)
1 主上は平家に取られさせられて,西国の方
2 にさ迷わせらるる事を,法皇は斜め
3 ならず嘆かせられて,主上並びに三種の
4 神器をも諸共に都へ返し入れま
5 らせいと有って,度々に及んで院宣を成させられ
6 たれども,平家は一円用いまらせなんだ.
7 それに因って高倉の院の皇子主上の他
8 に三人まで御座ったが,二宮をば平家
9 からして取りまらして,西国へ下ったに因って,
10 三四の宮ばかり都に御座ったを;法
11 皇この宮達を呼び寄せまらせられて,先づ
12 三宮の五つに成らせらるるを扠
13 何とこなたへこなたへと仰せられたれども,
14 法皇を御覧ぜられて強かむつからせらるる
15 に因って,軈てこれをば出だしまらしゃって,その後
16 四宮の四つに成らせらるるを迎え
17 させられて,これへこれへと仰せられたれば,これは
18 そっとも恐れさせられいで,軈て法皇の御膝
19 の上へ上がらせられて,一段と睦ましゅう
20 御座ったれば,法皇涙をはらはらと流させら
21 れて,実にも漫ろな者はこの様に年
22 の寄った法師を見ては何故に懐かしゅう思
23 わうぞ?これこそ真の孫なれと仰せられ
24 て,御髪などを掻き撫でさせられて,高倉

(199)
1 の院の幼い御時にそっとも違わぬと
2 仰せられて,御涙を流させられた.そこに丹
3 後殿と申した女房衆が居られたがこれを
4 見まらして,扠御譲りはこの宮でこそ
5 御座らうずれと申されたれば,法皇子細にも及
6 ばぬ事ぢゃと仰せられた.
7 さう有って同じ月の十日に木曾をば左馬
8 の守に成させられて,越後の国を下され,
9 その上に朝日の将軍と言う宣旨を下された然
10 れども木曾は越後の国をば嫌うて,伊予
11 の国を下された.その時に十人余り源
12 氏の人々が受領をせられた.その日平家は
13 又百六十人内裏の御札を削り
14 退けられたと,聞こえまらした.真に昨日は
15 今日に変わる世の中の体は哀れに御座る.
16 扠平家は筑前の国の大宰の府と
17 言う所に居て歌を詠うづ,連歌をして旅の
18 憂いを慰めて居られた.さう有って九州二島の
19 人数は軈て馳せ参らうずるとは申したれど
20 も,未だ参らなんだれば:重衡そこで余り
21 都の事を恋しゅう思うて.
22 住み慣れし古き都の恋しさは,
23 神も昔を忘れ給わず.
24 と,泣く泣く読まれたれば,皆これを聞いて

(200)
1 感涙を催さるれば,都には又法
2 皇四宮を位に付けまらせられて皆
3 喜び合われた.又平家は西国でこの事
4 を伝え聞いて,扠も四宮をも連れ
5 まらして下らうずる物をと後悔をしたれ
6 ども,益も無かった.さうしてあなたこなたと明
7 し暮らさるる所に,九月の十三夜に成っ
8 て,名を得た月がその夜しも猶々隈
9 も無かったれば,一門の人々が都で
10 の事を思い出いて,歌を読まれたが,先づ
11 経盛の歌には.
12 恋しとよ去年の今宵の夜もすがら,
13 契りし人の思い出られて.
14 又行盛の歌には.
15 君住めば,ここも雲居の月なれど,
16 猶恋しきは都なりけり.
17 忠度の歌には.
18 月を見し去年の今宵の友の宮,
19 都に我を思い出づらん.
20 扠経正の歌には.
21 分けて来し野辺の露とも消えずして,
22 思わぬ里の月を見る哉.
23 と,思い思いに詠うで慰うで居られて御
24 座る.

(201)
1 第十.院宣に因って豊後
2 の緒方平家に対し謀反を起こすに因っ
3 て,平家扱わるれども適わず:遂に
4 大宰の府にもえ堪られいで,徒
5 跣で落ちさ迷われた
6 事と,屋島の内裏作
7 りの事.
8 右馬.してそれはその様に自由にして西国
9 には何として居られたぞ?京からの咎めは
10 無かったか?
11 喜.その御事ぢゃ.さうさうせらるる内に
12 豊後の国に代官の心に成って居られ
13 たヨリモリと言う人の所へ,京から御使
14 いが発って平家は天道にも放され,君にも
15 捨てられまらして,都を出て波の上に
16 落人と成って漂うを鎮西の者共
17 が受け取って持て成すこそ聞こえぬ事なれ:
18 早々そこもとの者皆一味して平家を
19 滅ぼせと,仰せられたに因って,頼経これを
20 その国の緒方と言う者に下知せられた
21 れば,軈て院宣ぢゃと言うて,九州二島へ文
22 を回いて,良い武士共を集むるに,皆
23 一味した事は,真にこれは平家の運

(202)
1 の尽きた謂れで御座る.平家は今国を
2 定めて西国に又内裏を作らうと沙汰せ
3 られたれども,緒方が謀反と聞こえたれば,
4 何にせうぞと言うて,騒ぎ合われた所で,時
5 忠卿と言う人申されたは:かの緒方は
6 小松殿の御被官ぢゃ程に,その子
7 達の内から一人豊後へ遣りまらし
8 て何とぞ整えて御覧ぜられいと,言われたれば:
9 実にもぢゃと有って,資盛の卿五百余
10 騎で豊後の国へ打ち越えて,様々
11 に整えられたれども,緒方は一切同
12 心せいで,あまっさえこの資盛をもそこで
13 打ち果たしさうに有ったれども,大事の中には小
14 事無しと要らぬ事ぢゃ:取り籠めまらせずとも,
15 何ほどの事をか召されう:唯疾う疾う大宰
16 の府へ返らせられて,一所でともかうも成ら
17 せられいと言うて,情けなう追い返いて,我が弟
18 の野尻と言う者を使いにして大宰
19 の府へ申し遣ったは:平家は重恩の君
20 で御座れば,兜を脱いで,弓の弦を
21 外し,降参仕らうずる事なれども,
22 都からの御諚には疾う疾う追い出しまらせいと
23 御座るに因って,そこを疾う出させられいと申し送
24 ったれば:時忠卿出会うて,色々に賺いて,

(203)
1 頼朝や,木曾に一味したならば,国を預
2 けう,郡を呉れうなどと言うを真かと
3 思うて,その豊後の国司頼経が言う
4 事に同心しては悪しからうぞと,言われたれば:野
5 尻返ってこの由を父に言うたれば,それな
6 らば急いで追い出せと言うて,軍勢を催すと,
7 聞こえたれば,平家の侍頼定,守澄
8 などはこれを召し捕って死罪に行わう
9 と言うて,三千余騎で筑後の国竹
10 野下の庄と言う所へ発向して,一日
11 一夜攻め戦う所で,緒方三万余騎
12 で寄すると聞こえたれば,取る物も取り敢え
13 ず,大宰の府へ平家の侍共は皆
14 落ちて返られたが;そこにもえ堪らいで,
15 主上をば輿に召させ,国母を始めて
16 やごとない女房達袴の側を取り,
17 宗盛なども狩衣の側を高う差
18 し挟うで,我先にと徒跣で落ちさせ
19 らるるに:折節雨が降って車軸を流せ
20 ば,吹く風は砂を飛ばして,目口に
21 入れば,落つる涙と,降る雨はいづれをいづ
22 れと見分けられなんだ.険しい所共を
23 歩かせらるる事をばいつ習わせられうぞな
24 れば,御足から流るる血は砂を染めてそ

(204)
1 の哀れな体は言語に述べられぬ体で御座った.
2 さうして漸うと山鹿と言う城へ入らせられ
3 たれども,そこへも猶敵が寄すると聞こ
4 えたれば,小船共に取り乗って,夜もすがら豊
5 前の国の柳浦へ御渡り有ったが,そこ
6 にも又え堪らいで,あそこここへ漂い歩
7 かるる内に,小松殿の三番目の子
8 のキヨシゲと言う人は平家の運の尽き果
9 てた体を見限って,網に掛かった魚の様に
10 して居ては要らぬ事ぢゃと思われたか,月夜
11 に心を澄まいて,船の館に立ち出て
12 笛などを吹いて遊ぶ体に持て成いて,海へざっ
13 と沈んで死なれたれば,男女泣き悲しうだ
14 れども,甲斐もおりなかった.その分にして平
15 家は重能と言う者を頼うで四国の
16 地へ渡られたが,そこで重能が才覚
17 を持って四国の国内を催いて,讃
18 岐の屋島に型のごとくな板屋に内裏や,
19 御所を作らせた.その間は百姓の家
20 をば流石皇居にする事が成らなんだれば,
21 船を御所に定められたれば,宗盛を始
22 め,皆海女の苫屋に日を送り,夜を重
23 ねて,波の上に漂わるれば,少しの
24 間も心静かな事は無うて,深い憂い

(205)
1 に沈んで,霜の覆う葦の枯れ葉を見て
2 は,命の脆い事に思い為し,洲崎に騒
3 ぐ千鳥の声を聞いては,暁の憂いを
4 増し,側に引き掛くる梶の音は夜半に
5 心を痛ましめ,白鷺の遠の松
6 に群れ居るを見ては,源氏の旗を上ぐるか
7 と疑い,夜雁の鳴くを聞いては,敵の船
8 を漕ぐ音かと驚き,寒い潮風に
9 揉まるれば,姿形も漸々に衰え
10 て,命を長らえられうずる様も無いほど
11 に御座った.
12 第十一.木曾が猫間
13 殿に会うての不躾と,車に乗っ
14 て牛に引き摺られた事.
15 右馬.して木曾は都へ上って仕付け
16 などは良かったか?又時宜法をも知った者
17 でおぢゃったか?
18 喜.その御事ぢゃ:木曾は都を
19 守護して居たが,顔は苦々しい男で有っ
20 たれども,立ち居振る舞いの無骨さ,物言う
21 言葉付きの頑なしい事は,限りも御
22 座無かった.道理哉,二つの年から信濃

(206)
1 国の木曾と言う山里に三十まで住み慣
2 れたれば,何として礼儀をば知られうぞ?その
3 頃猫間殿と言う人が有ったが,木曾に
4 談合せう事が有ると言うて,木曾が宿所へ
5 行かれたれば,郎等共が出会うに,木曾殿へ
6 御目に掛かりたい子細が有って来た,披露して賜
7 うれと,言われたれば,軈てその由を郎等が告げ
8 たれば:木曾は大きに笑うて,何?猫で有りな
9 がら,人に見参せうと言うかと,言われたれば:否,
10 これは猫間殿と申して,公家で御座
11 ると言うたれば,木曾然らば見参せうと言うて,
12 出会うて対面して,猫間殿とはえ言わいで,
13 猫殿の初めておぢゃったぞ:持て成しま
14 らせいと言うて,飯の時分に成って新しい物
15 をば何をも無塩と言うと心得て,御
16 肴に無塩の平茸が有るを早う出せと,
17 言われた所に:配膳する者共が田舎
18 御器の荒う塗ったが,極めて大きゅう,深いに飯
19 を押し付けて入れて,菜は三つで平茸を
20 ば汁にして,木曾が前にも猫間殿
21 の前にも同じ様に据えた所で,木
22 曾は箸を取ってこれを食えども,猫間殿
23 は御器の不審さに食われなんだれば,何故に御
24 参り有らぬぞ猫殿?これは木曾が晴れの

(207)
1 合子でおぢゃると言うに因って,猫間殿も
2 食わずは,悪しからうと思うて,箸を立てて食う由
3 をせられたれば:木曾はこれを見て,猫
4 は小食なよ:強いて御参り有れと,言われて御座った.
5 猫間殿は談合せられうずる事も多
6 かったれども,その体を見て,確確言いも
7 せいで,軈て返られまらした.
8 猫間殿が返られてから,木曾も出
9 仕をせうと言うて出立ったが,官加階に上がった者
10 が直垂で出仕せう事は有らうずる事で
11 も無いと言うて,初めて本本に束帯うたが,そ
12 の烏帽子際などの見苦しさ,頑なしさ
13 鎧を取って引っ掛け,兜の緒を締め,馬
14 に打ち乗った時には,似も似ず,見苦しゅう御座っ
15 た.車をば前の平家の宗盛の
16 召し使われた弥次郎と言う者が世に従
17 う習いなれば,力に及ばいで召されて遣っ
18 たが,余りの目覚ましさに飼いに飼うた牛の
19 逸物なに門を出うとした時,鞭を一
20 つ当てたれば,なじかは良からう?飛び出る程に,木
21 曾は車の内で仰けに倒れて,蝶の
22 羽根を広げた様に,左右の袖を広げて
23 起きょうとすれども,やうか起きられう;猶も五
24 六町ほど引き摺ったに,兼平鞭に鐙

(208)
1 を揉み合わせて追い付いて,何と何とと申し
2 たれば,牛の鼻が強うて何とも成らぬと
3 言われた.牛飼いこの分では悪しからうず:仲直
4 りをせうと思うて,さうで御座る:手形に取り付
5 かせられいと申したれば,むずと手形に取り付い
6 て,漸うとして院の御所へ参り着いて車
7 を掛け外させて,後ろから下りょうとしたを,そ
8 の雑色は京の者で有ったに因って,これを
9 見て乗らせらるる時は,後ろから召させられ,
10 下りさせらるる時は,前からこそ下りさせられい
11 と申したれども,何どこも車で有れば,
12 角水を突いて下るるに,難しい事が有らう
13 ぞと言うて,遂に後ろから下りられて御座った.真
14 に笑わうずる事は多かったれども,恐
15 れて流石さうとはえ言わなんだ.
16 第十二.平家室山,
17 水島二箇所の合戦に打ち勝たれた
18 事と,兼康が木曾に対しての謀
19 反と,源氏の大将行家の合
20 戦の事.
21 右馬.してその間に平家は何とせられたぞ?
22 喜.その御事ぢゃ.平家は讃岐の

(209)
1 屋島に居られたれども,そっと歩を為直いて
2 あそこここ十四箇国ほど切り従えて蔓延ら
3 るる所で,木曾はこれを聞いて,易からず
4 思うて,軈て討手を遣わいた.その大将には
5 義清,侍大将には行広を定め
6 てその勢都合七千余騎で馳せ向かうたが,
7 備中の水島と言う所で小船
8 が一艘来るを唯世の常の海女などの船
9 かと思うたれば,平家方から文を持っ
10 て行く船で有ったに因って,源氏方から船
11 を五百艘ほど押し出いて,その侭取り回
12 さうとしたれば,又平家方からも船を
13 千余艘で漕ぎ出いて,喚き叫うで漕ぎ寄
14 せた所で,能登殿の言われたは:合戦
15 のし様が忽せな:敵の船は皆も
16 やうたと見えたぞ:味方の船も組めと言う
17 て,千余りの船を艫舳に縄を組み
18 合わせて,歩みの板を引き渡いたれば,船の
19 上は平地のごとくに有って,源平両方共
20 に鬨を作り,船を押し合わせて攻め戦
21 うが,遠いをば弓で射,近いをば太刀で
22 切り,熊手に掛け取るも有り:取らるるも
23 有り:組んで海に入るも有り,差し違えて死ぬるも
24 有り,思い思い,心々に勝負を

(210)
1 したが,その内に源氏の侍大将の行
2 広も打たれたを総大将の義清聞いて,安
3 からぬ事哉と言うて,主従七人小船
4 に乗り移って,真っ先に進んで戦うたが,何
5 とかしつらう:船を踏み沈めて皆死なれて
6 御座る.
7 平家の船には鞍置き馬を立てたれば,
8 船を差し寄せて馬共を追い下し追い下
9 しひたひたと打ち乗って,陸に居た源氏の陣
10 へ能登殿喚いて駆けられたれば,源氏方
11 には大将が打たるる上は,我先にと落ち行
12 きまらした.平家は水島の戦に勝って
13 こそ前の恥を濯がれて御座れ:然無いなら
14 ば可笑しい事で御座らう.
15 木曾はこれを聞いて安からぬ事と思うて,
16 一万余りで軈て馳せ下らるるが,備
17 中の国の兼康と言う者は北国
18 の戦にクラズミと言う者が手に掛かって
19 生け捕られたが,剛の者で有ったに因って,木曾殿
20 惜物を先づ切るなと言うて,倉光
21 が弟に預けて置かれたが,心様
22 も優で,情け有る者で有ったに因って,倉
23 光も懇ろに扶持して置いて御座る.然れ
24 ども兼康は上面ばかりで,底には

(211)
1 何とぞして,今一度元の主の平家へ
2 返らうと思うたが,或る時倉光に言うた
3 は:去年の五月から甲斐無い命を助け
4 られまらして御座れば,今より以後戦いが御
5 座らば,真っ先駆けて木曾殿に命を奉
6 らうずると存ずると実しやかに言うた
7 れば,倉光その様を木曾殿に語る
8 に,木曾殿もそれは神妙な事ぢゃ:然らば
9 先づ案内者を連れて先へ下って,馬の
10 草,飼いなどをも拵えさせいと言われたれば:
11 倉光も喜うで兼康を先として,
12 三十騎ばかり引き連れて備中の国へ下れ
13 ば,兼康が兄平家の方に居たが,弟
14 が木曾殿から許されて下ると聞いたれば,
15 郎等共を催し集めて五十騎ばかり
16 で迎いに上る程に,播磨の国府
17 で行き合うて連れ立って下るが,備前の国
18 の三石の宿に泊まったれば:兼康が
19 親しい者共酒を持たせて来て,その夜
20 夜もすがら酒盛りをして,預かりの武士の
21 倉光が郎等共三十人余り前後も
22 知らず酔い伏して居たを起こしも立てず,一々
23 に皆刺し殺いて退けて御座る.備前の国は
24 源氏方の行家と言う人の国で有ったに

(212)
1 因って,その代官が国府に居たを押し寄せ
2 て,これをも打ち殺いて,兼康こそ木曾殿
3 から暇を下されて下れ,平家に志
4 を通ぜうずる者共は,兼康を先
5 として,木曾殿の御下り有るに矢を一
6 つ射掛けまらせいと,言い触らいたれば:備前,備中,
7 備後,この三箇国の兵共物
8 の具の然るべい子供をば皆平家方
9 へ遣って休んで居たが:この兼康に催
10 されて如何にも見苦しい出立ちで,山空穂
11 や,矢壺矢などを取り付け取り付けて兼康
12 が下へ馳せ集まった者は二十人ばかり
13 で有ったが,兼康を先に立てて,備前の国
14 の福隆寺畷に城を拵えて,口
15 二丈,深さ二丈に堀を掘り,逆茂木を引い
16 て,櫓を掛き,矢尻を揃えて待ち掛けて
17 射て御座る.
18 備前の国府に居た行家の代官の
19 被官共が,主は殺されてから,京へ逃
20 げて上るが,道で木曾殿に行き合うて,
21 その有り様を語ったれば,木曾腹を立てて切らう
22 ずる物を,憎い命を助けて置いて,仇
23 に成ったと,言われたれば,兼平が申したは,され
24 ばこそ眼差し,骨柄怪しからぬ者と

(213)
1 存じた程に,疾う切って捨てさせられいと申したに,
2 事を伸べさせられて,この様な事が出来
3 まらした.そこで木曾殿剛の者と聞いた
4 が,床しさに今まで切らいで置いた,何ほどの
5 事が有らうぞ?追い掛けて打てと言われたれば:兼平
6 然御座らば,先づ下って見まらせうと言うて,三
7 千余騎で馳せ下って,その城へ押し寄せて見
8 れば:その辺りは深田で馬の足も及
9 ばなんだれば,三千余騎の者共が心
10 は先に進んだれども,馬次第に歩ま
11 せたに,兼康が兄弟高櫓から大音
12 を上げて罵って:去んぬる五月から甲斐無い命
13 を助けられまらして,各々の御芳志
14 を受けたは,連々これを用意仕って御座
15 ると言うて,究竟の射手を数百人すぐって,矢
16 尻を揃えて,差し詰め引き詰め散々に射る
17 に因って,面を向けうずる様は無かった
18 れども,兼平を始めて歴々の剛の
19 者共兜の錣を傾け射殺
20 さるる者を取り入れ引き入れ,堀を埋めて,喚
21 き叫うで攻め戦うが,遂には左右の深
22 田へ打ち入れて,馬を泳がするやら,歩ま
23 するやらで,喚いて押し寄せ,或いは谷の深い
24 をも嫌わず,駆け入れ駆け入れ一日戦い暮らい

(214)
1 たれば,カネミツが催し集めた駆り武者
2 共散々に駆け散らかされて,助かる者は
3 少なう,打たるる者は多かったに因って,兼康
4 その城を攻め落とされて,備中の国の
5 板倉川の端に垣楯を掛いて待ち掛けた
6 所へ,兼平息をも呉れず押し寄せたれば,
7 矢種の有る程こそは防ぎも戦うたれ:
8 皆射尽くいてから,我先にと落ちて行く程
9 に,兼康は主従唯三人に打ち為されて逃
10 げて行くを,始め北国で生け捕りにしたかの
11 倉光又これを生け捕りにせうと言うて,大勢
12 の中を一町ばかり駆け抜け追い付いて,如何に兼
13 康,何故に敵に後ろをば見するぞ?返せ
14 返せと言うたれば,板倉川を西へ打ち
15 渡るが,川中に控えて待ち掛けたに,倉
16 光馬を馳せ寄せて,押し並べてむず
17 と組んでどうど落ち,互いに劣らぬ大力
18 で有ったに因って,上に成り下に成り,転び
19 合う程に,川岸の淵が有ったに転び入って,
20 倉光は水練無し,兼康は水練が
21 上手なれば,水の底で倉光を取って
22 押さえて,刀を抜き,草摺りを引き上げ,三
23 刀差いて,首を取って,馬は乗り捨てたり:敵
24 の倉光が馬にひたひたと打ち乗って逃

(215)
1 げて行ったが:兼康が総領の宗康馬
2 には乗らず,徒で郎等と共に落ちて行く
3 程に,未だ二十二三な者で有ったれば,余
4 り強うは一町ともえ走らず,具足など
5 をも脱ぎ捨てて,漸うと十町余りほど落ち
6 たれども,親には未だ追い付かなんだ所
7 で,兼康下人に言うは:兼康数多の
8 敵に向かうて戦をして名を上げたれども,
9 今度あの宗康を捨てて行くならば,仮令
10 命生きて再び平家の味方へ参ったりと
11 も,朋輩共兼康は六十に余って幾
12 程も無い命を惜しゅうで,唯一人有る子を
13 捨てたなどと言われう事は恥づかしいと言うた所
14 で,郎等が返事には:然御座ればこそ唯一
15 所でともかうも成らせられいとは申したはここ
16 で御座る:取って返させられいと言うたれば:心
17 得たと言うて,取って返いて見れば:宗康は
18 足が強か腫れて,歩く事も成らず,唯
19 地にひたと伏して居たに,汝が追い付かねば,
20 一所で討ち死にをせうと思うて返いたが何と
21 と言うたれば:宗康そこで起き上がって,某
22 は無器量に御座れば,自害をも仕らう
23 ず:我故御命を失わせらるるならば,
24 私が為に深い罪と成りまらせうず

(216)
1 れば,唯返らせられいと言えども,思い切る
2 上はと言うて休む所へ:兼平真っ先
3 駆けて五十騎ばかりで喚き叫うで掛かったれ
4 ば,兼康矢を七つ八つほど射残いて置い
5 たを差し詰め引き詰め散々に射たに,生死は
6 知らず,矢庭に敵を五六騎ほどは射落といて,
7 その後打ち物を抜いて,先づ嫡子の
8 宗康が首を打ち落といてから,敵を数
9 多打ち取って,遂に討ち死に仕った.郎等共
10 も主に劣らず戦うたれども,大事の手
11 を数多負うたに因って,自害をせうとする所
12 を生け捕りにせられた:首を切って,これ等主従三
13 人の首をば備中の国の鷺の
14 森と言う所に掛けられたを,木曾殿が
15 見られて,扠も剛の者哉!これこそ一
16 人当千の兵とは言わうずる者共
17 なれ:惜しい者共ぢゃ:助けて見ょう物
18 をと言われて御座る.
19 さうして木曾殿はそこで勢揃いをして,
20 屋島へ既に寄せうとせらるる所へ,都
21 の代官に置かれた兼光飛脚を
22 立てて申したは:行家は都に御座って,再
23 々院へ参らせられて,木曾殿の事を讒
24 奏召さるる程に,西国の戦をば先づ差

(217)
1 し置かせられて,早う上らせられいと言い遣った所
2 で:木曾然らばと言うて,夜を日に継いで,馳せ
3 上らるれば,行家は適うまいと思われた
4 か,木曾に擦って違うて丹波路へ掛かって播
5 磨へ下らるれば:木曾は津の国を経
6 て,都へ入る:平家は又木曾を打たうずると
7 言うて,知盛を大将にして,都合その勢
8 二万余りで千余艘の船に乗って,播
9 磨路へ押し渡って,陣を取って居らるれば:行
10 家は平家と戦をして,木曾と仲直
11 りをせうと思われたか,五百余騎で喚き
12 叫うで掛かられたに,越中の次郎兵衛と言う人
13 会釈する様に持て成いて,中をざっと開けて
14 通いた.二番目の陣は家長と言う人
15 で有ったが,これも中を開けて通いた.又三
16 番目の陣から四番目まではそのごとく
17 にして通いて,約束をした事なれば,五
18 番目でひたと受け止めて,敵を中に取り籠
19 めて,前後ろから一度に鬨をどっと作
20 った所で,行家今は逃れうずる方
21 が無いと思われたに因って,命も惜しま
22 ず,面も振らず,ここを最後と防ぎ戦
23 わるるを,平家の侍共源氏の大
24 将に押し並べて組め組めと言うたれども,

(218)
1 流石行家に組む者は一騎もおりなかっ
2 た.平家の大将新中納言の頼み切られた
3 侍共もその所で数多死んだと申
4 す.行家も五百余騎が漸うと三十騎ばか
5 りに打ち為されて,四方が皆敵で有ったに因って,
6 何としても逃れうとは思わなんだれども,
7 思い切って雲霞の様な敵の中を打ち破
8 って出られた.然れども我が身は手を負わ
9 ず,家の子郎等二十余騎数多痛手を負うて
10 播磨の国の高砂から船に乗って押
11 し出いて和泉へ着いて,それから河内の長
12 野と言う城へ引っ籠もられたと,申す.平家
13 は室山,水島二箇所の合戦
14 に打ち勝たれてこそ,愈勢は付いて有ったと,
15 申す.
16 第十三.木曾都に
17 於いて狼藉を成すを法皇からして戒め
18 させられたれば,法皇の御座る法住寺殿
19 まで押し寄せて,合戦をし,御
20 所を焼いた事.
21 右馬.木曾が京で狼藉をしたは何たる
22 事ぞ?

(219)
1 喜.さればその事で御座る.京中に
2 は源氏の勢が満ち満ちて,在在所々では
3 入り取りを多うし,誰が知行とも言わせず,青
4 田を刈り,馬に飼い,人の蔵をば打ち開い
5 て物を取り,衣装を剥ぎ取り,狼藉をして
6 御座る.平家の都に居られた時,六波羅
7 殿と言うても,唯大方に恐ろしいばかりで,
8 衣装を剥ぎ取るまでの事は無かった物を!
9 平家の代わりに猶源氏は劣ったと,申す
10 に因って,木曾が下へ法皇からして壱岐の判
11 官と言う人を勅使に立てさせられた.この
12 人は天下に優れた鼓の上手で有ったれ
13 ば,その時代の人が鼓判官と申
14 した.木曾対面して先づ御返事をば申さい
15 で,抑吾殿を鼓判官と言う
16 は万の者に打たれたか,張られ,叩かれ
17 たかと問うに因って,判官返事にも及ばず,
18 急いで法住寺殿へ帰り参って,木曾は烏滸
19 の者で御座る:只今も朝敵と成り
20 まらせうず:急いで御成敗為されいと,申したれば:
21 然らば然るべい武士にも仰せ付けられいで,山
22 の座主,寺の長吏に仰せられて,比叡の
23 山,三井寺の悪僧共を召されたれば;
24 勢と言うても,言語道断浅ましい奴共

(220)
1 所々の乞食坊主,或いは京中に飛礫向
2 かい,印地などをする連れの者で御座った.
3 木曾は法皇の御気色が悪しゅう成ると聞こ
4 えたれば,五畿内の兵共初めは
5 木曾に従うたが,皆木曾を背いて法皇の
6 御方へ参った.それのみならず,歴々の者
7 が木曾を捨つるに因って,兼平が申したは:
8 これこそ以ての外の御大事で御座れ:されば
9 とて帝王に対せられて御合戦をさせられうずる
10 でも無し:唯兜を脱ぎ,弓弦を外
11 いて,降人に参らせられいと言うたれば,木曾大
12 きに腹を立てて,我は信濃の国を出た時
13 から,方々の合戦をしたれども,未だ一度
14 も敵に後ろを見せねば,帝王で御座らうとも
15 侭よ,兜を脱ぎ,弓弦を外いて,降
16 人にはえこそ参るまじけれ:例えば都
17 の守護として有らうずる者が馬一匹づ
18 つ飼うて乗るまいか?扠これほど多い田共
19 を刈って馬に飼うたればとて,強ちに法皇の
20 御咎め有らうずる事か?兵糧が無ければ,下
21 々の者共が辺土などで時々入り取
22 りをしたればとて,深い事か?公家達や宮
23 宮の御所へ参らばこそ,僻事でも有らうず
24 れ:これは偏に鼓判官が仕業

(221)
1 と思うぞ:その鼓打ち破って捨てい.今
2 度は木曾が最後の戦で有らうず.頼朝が
3 還り聞かうずる所も有るぞ.構えて戦を
4 良うせい者共と言うて,勢共が皆落ち
5 て往んだれば,僅かに六千余騎有ったを我が
6 戦の吉例ぢゃと言うて,七手に分くる.先づ
7 樋口の次郎二十余騎で搦手から回す:
8 残る六手は町小路から川原へ出て,そこ
9 で皆寄り合えと合図を定めて出立った.法住
10 寺殿へも軍兵が二万余り参り籠もった
11 と聞こえた.木曾が方の笠印には松の
12 葉を付けて,十月の十九日の朝木曾法住寺
13 殿の西の門へ押し寄せて見れば,鼓
14 判官は戦奉行をして兜ばかりを
15 着て,西の築地の上に上がって,時々舞う折
16 も有り,色々の形掛かりをしたれば,皆公
17 家達あれには天狗が付いたかと言うて笑われ
18 て御座った.
19 鼓判官大音声を上げて申したは:
20 宣旨を向かうて読めば,枯れた草木も花栄
21 え,実生るとこそ言うに,末代と言うても,帝王に
22 向かいまらして弓を引くか?己が放さうず
23 る矢は却って身に当たらうず:抜かうずる太刀も
24 却って汝が身を切らうぞなどと罵ったれば,

(222)
1 木曾然な言わせそと言うて,鬨をどっと作ったれ
2 ば:搦手から遣った樋口の次郎鬨の声
3 を合わせて,鏑矢の内へ火を入れて,法住寺殿
4 の御所に射立てたれば,折節風が激しゅう
5 吹いて,猛火天に焼け上って,炎は虚空に
6 満ち満ちた所で,戦奉行のかの鼓
7 判官は人より先に逃げた.戦奉
8 行が落つる上は,二万余りの官軍
9 共我先にと落ちて行くが,余り騒いで,
10 或いは弓の筈を物に引っ掛けて捨てて逃
11 ぐる者も有り:或いは長刀を逆様に
12 突いて,我が足を突き貫く者も有り:し
13 どろもどろに成って方々へ皆落ちて行くに,
14 予て戦以前に落人が有らば,皆射殺せ
15 と,院宣を下されたに因って,京辺土の者共
16 我が家を盾に突いて,瓦の石を取り集
17 めて待ち掛けた所に,津の国の源氏が
18 落ちて行くを見て,あわや落人よと言うて,石
19 共を拾い掛け拾い掛け打てば,これは院方
20 の者ぞ,過ちをすなと,言うたれども,然な
21 言わせそ,唯打ち殺せ打ち殺せと言うて,直
22 打ちに打つに因って,或いは馬を捨てて逃ぐる
23 者も有り,或いは打ち殺さるる者も御座っ
24 た.その他木曾を背いて法皇へ参った歴

(223)
1 々の者共も数多打たれたと申す.
2 法皇も車に召して他所へ御幸為さるる
3 に,武士共雨の降る様に射奉れば:
4 宗長と言う人御供を仕られたが,
5 これは法皇の御幸ぞ,過ちすなと,言わるれば:
6 武士共馬から下りて畏まるに,何者
7 ぞと御尋ね有れば:信濃の国の行綱
8 と申す者で御座ると,申した.扠法皇を
9 ば五条の内裏へ押し込めまらして,厳しゅう守
10 護しまらして御座る:その容態浅ましいと言うも
11 疎かで御座る.さうして木曾はその翌る日昨日
12 切った所の首共を六条川原に竿
13 を渡いて記すに六百三十人余りと記さ
14 れて御座る.木曾その時は人数が七千余
15 り有ったが,六条川原に人数を据えて馬の
16 鼻を東へ向け,天も響き,大地も震動
17 するほど,三度鬨を作ったれば;京中の者
18 共又騒いで,これは何事ぞと聞けば,
19 喜びの鬨と聞こえたに因って,皆安堵仕
20 って御座る.それから木曾は我が館へ返
21 って家の子郎等共を呼び集めて,評定
22 をするは,身は一天の君に向かいまらして戦
23 に勝った上は,主上に成らうか?法皇に成らうか?
24 主上に成らうと思えども,童部に成っては用

(224)
1 も無し:法皇に成らうと思えども,法師に成
2 らうが可笑しい;縦し縦しさう有らば関白に成らう
3 と思うが,何と有らうぞと言うたれば,覚明と
4 言う人が言うたは:関白は大織冠の御
5 末で藤原氏で御座るに,殿は源氏で御
6 座りながら,関白に成らせられたならば,これ
7 こそ世に可笑しい事で御座らうずれ.然らばその
8 上では力に及ばぬ事ぢゃと言うて,院の
9 御別当と言うに成って,丹波の国を知行
10 して居られた.真に木曾が主上,法皇の分け
11 をも知らいで,むさとした事を言うた事は可笑
12 しい事ぢゃ.君子は器物ならずとこそ言う
13 に,偏に弓矢の事ばかりに携わった事
14 は浅ましい儀ぢゃ.真に木曾が悪
15 行は平家の驕った時の仕業に
16 遥か増したと世上の取
17 り沙汰で御座った.

(225)
1 平家巻第四.
2 第一.頼朝木曾が
3 悪行を聞いてそれを静むる為に,代官
4 として弟の範頼と,義経を
5 上いてそれを静めうとせらるるを聞い
6 て,木曾平家と一味をせうと使
7 いを立てたれども,平家同
8 心せられなんだ事.
9 右馬の判官.頼朝は木曾がこの様な狼藉
10 を聞いて静めうともせられなんだか?
11 喜.中々頼朝もこの狼藉を聞い
12 て静めうずる為に,弟の範頼と,
13 義経を差し上せられたが,既に法住寺
14 殿をも焼き払いまらして,天下を暗闇に
15 成いたと聞こえたれば,左右無う上って戦をせう様
16 も無い:先づこれから関東へ子細を申さう
17 ずると言うて,尾張の国の熱田に居らるる内
18 にこの事を訴ようずると言うて,京から公
19 朝,時成と言う者が馳せ下って,義
20 経へこの由を告げたれば,即ち公
21 朝を関東へ下された:子細を知らぬ使い
22 は返り問われう時に,不審が残らうずと言うて,

(226)
1 公朝鎌倉へ走り下って,今度木曾
2 が狼藉の容態,事根源一々次第
3 に申したれば:頼朝も肝を消して,先づ
4 鼓判官が不思議な事をし出いて
5 御所をも焼かせ,歴々の人をも殺させた
6 事が遺恨な.判官に於いては勅勘成させら
7 れいで適わぬ:猶召し使わるるならば,重ね
8 て大事が出来仕らうずと,早馬を持っ
9 て申し上せられたれば,鼓判官これ
10 を陳ぜうずる為に,夜を昼にして関東へ
11 馳せ下ったれども,頼朝きゃつに目な見せ
12 そ,会釈なしそと言われたれども,日毎に頼朝
13 の館へ向かうたが,遂に面目無う帰り
14 上って,後には片田舎へ引っ込うで命ばか
15 りを生きて居まらした.
16 さうして木曾はこの分では成るまいと思う
17 たに因って,平家の方へ使者を立てて,都へ
18 上らせられい,一つに組んで関東へ攻め下
19 って,頼朝を打たうずると,申したれば:平家の
20 大将宗盛は大きに喜ばれたれども,
21 時忠卿ぢゃは,知盛ぢゃは,などと言う一
22 門の衆は一向これを受け付けられなんだ.子細
23 は世は末に成ったと言えども,木曾連れに語
24 らわれて御入洛有らう事は:然るべうも無い.

(227)
1 帝王の御座る事ぢゃ程に,唯兜を
2 脱ぎ,弓弦を外いて降人に成って,これ
3 へ参れとは仰せ遣わされいと,言われたに因って,
4 その分に言い遣られたれども,これをば木曾も
5 又許容せなんだ.さう有る所で松殿
6 と申す公家が御座ったが,木曾を呼うで,平家
7 の清盛入道は然ばかりの悪行の人
8 で有ったれども,それに埋め合わする善根をせらる
9 れば,又世をも穏やかに二十余年収め
10 られた.悪行ばかりで世を持つ事は大唐
11 にも,日本にもその例が無い.差せる事も
12 無いに,数多の公家達の官,位を止めた
13 事などは沙汰の限りぢゃ程に,これ等を皆
14 前々のごとくにしたらば良からうずると,言われた
15 れば,真の荒夷なれども,松殿
16 に導かれて,追い籠めた人々の官共
17 をも皆許いて,元々の様に成しまらし,
18 法皇も五条の内裏を出させられて,大膳の
19 大夫と言う者が宿所に御自由に御座って,思
20 い思いに人をも位に上げさせられ,先づ
21 早思し召す侭に成る心で有った.その
22 時天下の体は大方三つに分かれた様な
23 物で御座った.平家は西国に居られ,頼朝
24 は関東に有れば,木曾は京に居て色々の事

(228)
1 をする:それに因って諸国の道が皆乱れ
2 て面々の知行なども確かにも来ず,
3 京中の人も唯小水の魚に異ならぬ
4 物で御座った.
5 第二.範頼,義経
6 木曾が討手に上らるる事:同じく
7 梶原には摺墨,佐々木には生食
8 と言う馬を下された事:
9 並びに彼等宇治川の先
10 陣を争うた事.
11 右馬.御草臥れ有らうずれども,今宵も猶
12 先を御語り有れ.
13 喜.畏まった.寿永三年正月一日
14 の事で御座るに:院の御所は大膳の大夫
15 が宿所西の洞院で有ったれば,御所の体も
16 然るべからん所で,礼儀を行われうずる
17 事で無ければ,万政も無う,物
18 寂しい体で御座った.平家は讃岐の国屋島
19 の磯に送り迎えて,年の始めなれど
20 も,元日元三の儀も事宜しからず:
21 先帝の御座れば,主上と仰ぎ奉れど
22 も,万の礼儀,節会も行われず,

(229)
1 世は乱れたれども,流石都ではこれほ
2 どまでは無かった物をと哀れな体で御座った.
3 春も来,浦吹く風も麗らに,日影も
4 長閑に成り行けども,平家は唯いつと無う
5 氷に閉ぢられた心地して,寒苦鳥に異ならぬ
6 容態共で,古都に於いて月花を
7 見,詩歌管弦を成いて,色々様々に遊
8 び戯れられた事共を思い出いて,語りな
9 どして長い日を暮らし兼ねられた有り様は真
10 に哀れに御座ったと,聞こえて御座る.
11 正月十七日に院の御所から木曾を
12 召して,平家追伐の為に,西国へ発向
13 仕れと仰せ下されたれば,木曾畏
14 まって承り罷り出で,軈てその日西国
15 への門出をすると聞こえた程に,東国
16 から既に数万騎の討手が上ると聞こえたれ
17 ば,木曾西国へは向かわいで,宇治,瀬田両方
18 へ兵共を分けて遣る程に,木曾始
19 めは五万余騎と聞こえたが,皆北国へ
20 落ち下って,僅かに残った兵共
21 伯父の行家が河内の長野の城に籠もっ
22 たを打たうとて,樋口の次郎六百余騎で今朝
23 河内へ下り,残る勢兼平七百
24 余騎で瀬田へ向かう:仁科高梨山

(230)
1 田の次郎五百余騎で宇治橋へ向かう:志田の
2 三郎は三百余騎で一口を防いだと,申す.
3 その頃鎌倉殿に生食,摺墨と
4 申して,聞こえた名馬が御座った.生食を範
5 頼以下の人々参って申されたれども,適
6 わず:梶原平三景時参って生食を
7 下されて今度子にて御座る源太に宇治川
8 を渡させまらせうずると,申したれば:鎌倉殿
9 生食は自然の事有らうずる時,頼朝
10 物の具して乗らうずる馬ぢゃ:摺墨を取
11 らするぞと仰せられて下された.その後佐々木
12 の四郎が参って,上洛仕らうずる由を
13 申す所で,鎌倉殿出で会わせられ,御対
14 面有って,吾殿の父秀義は故左馬の
15 守殿に付き奉って,保元平治両度
16 の合戦に忠節を尽くいた:中にも平治の
17 合戦の時,六条川原で命を惜しま
18 ず,振る舞うたその奉公を思えば,吾殿ま
19 でも疎かに思わぬ:申す者共が
20 有ったれども,取らせぬぞ:これに乗って宇治川の先
21 をせいと有って,生食を佐々木に下された.
22 佐々木の四郎この御馬を賜わって御前を
23 罷り立つとて,余りの嬉しさに打ち涙ぐん
24 で申したは:身は恩の為に仕え,命は

(231)
1 義に因って軽しと申す事が御座る.この御
2 馬を賜わりながら,宇治川の先を人々
3 にせられて御座る物ならば,戦に会う事も
4 御座るまい,再び鎌倉へ向かっても参
5 るまじい:戦には子細無う会うたと聞こし召されたな
6 らば,宇治川の先に於いては仕りつらうと
7 思し召されいと,申して出た所で,参り合われた
8 大名,小名これを聞いて,荒涼の申し様哉
9 と囁き合われたと申す.
10 扠各々鎌倉を発って,都へ上
11 るに,駿河の国の浮島が原で梶
12 原源太高い所に打ち上って,暫し控
13 えて多くの馬を見るに,幾千万と言う数
14 を知らず,思い思いの鞍置き,色々の
15 鞦掛けて,或いは諸口に引かせ,或いは乗
16 り口に引かせ,引き通し引き通しした中にも
17 梶原源太が摺墨に優れた馬こそ
18 無けれと,嬉しゅう思うて,静かに歩ませ行く
19 所に,生食と思しい馬が来た.金覆
20 輪の鞍置いて,小房の鞦掛け,白泡噛
21 ませて,然ばかり広い浮島が原を狭しと踊
22 らせ引いて来るに因って,生食かと思い打ち
23 寄って見れば,真に生食で有る程に,舎人
24 に会うて,それは誰が御馬ぞと問えば,佐々木

(232)
1 殿の御馬で御座ると申す.佐々木は三
2 郎殿か?四郎殿か?四郎殿と申す.四郎殿
3 は御通り有ったか?下がっておぢゃるか?下がらせら
4 れて御座ると答ゆる.その時梶原口惜
5 しゅうも鎌倉殿は同じ様に召し使われ
6 た侍を佐々木に梶原を思し召し返ら
7 れた物哉!日頃は木曾殿に聞こゆる兼
8 平,樋口とかやに組んで死ぬるか?然無くは,
9 平家に組んで死なうとこそ思うたれども,それ
10 も今は詮無い:ここで佐々木を待ち掛け引っ
11 組んで落ち,差し違え,鎌倉殿に損取ら
12 せ奉らうずる物をと思い切って,待つ
13 所に,佐々木の四郎何心も無う歩ませ
14 来る:押し並べて組まうか,向かう様に当て落と
15 さうかなどと思い煩うが,然りとも一言
16 問うて組まうと思い,如何に佐々木殿,御辺は生食
17 を賜わられたなうと言葉を掛くる所
18 で,佐々木真やこの人も所望仕
19 られた由内々聞いた物をと急度思い
20 出いて些とも騒がず,打ち笑うて:やあ殿,賜
21 わらぬぞよ,宇治川渡さうずる馬は持た
22 ず,御秘蔵の御馬なれば,申すともよも下
23 されじ,何か苦しからうぞ?盗まうと思うて
24 窺うた程に,既に暁発たうとての夜便

(233)
1 宜良うて盗み済まいて上るぞよと言うたれば,梶
2 原この言葉に腹が居て,妬う然らば梶原
3 も盗まう事で有った物をとどっと笑うて
4 退いたと申す.
5 生食は黒栗毛な馬の馬をも人
6 をも余り食らうたれば,生食と付けられた,
7 八寸の馬と聞こえて御座る.摺墨も大
8 きに逞しいが,真に黒かったれば,摺墨
9 と申した.いづれも劣らぬ名馬で御
10 座った.
11 扠尾張の国から大手搦手の軍兵
12 を二手に分けて,搦手は伊勢の国へ回
13 る:大手は美濃の国に掛かる:大手の大将
14 軍には範頼,相従う人々武田の太
15 郎,鏡美の次郎,その他都合その勢三万
16 五千余りで近江の国の野路,篠原
17 に着く:搦手の大将には義経出で会い,従
18 う人々には畠山の荘司梶原
19 源太,佐々木の四郎,その他都合その勢
20 二万五千余りで伊賀の国を経て田原
21 路を打ち越えて,宇治川の端結ぶの明
22 神の御前を打ち過ぎて山吹瀬へ向かう
23 た:宇治も瀬田も共に橋を引いて宇治川の
24 向かいの岸には垣楯を掻いて,水の底に

(234)
1 は大綱を張り,逆茂木を繋いで流し掛
2 けた:頃は正月二十日余りの事なれば,
3 山々の雪も消え,谷々の氷も溶
4 け合うて,水嵩遥かに増さって,白波夥
5 しゅう,瀬枕大きに滝鳴って,逆巻く
6 水も早かった.
7 夜は既に仄々と明け行けども,川霧
8 深う立ち込めて,馬の毛も,鎧の毛も
9 定かに見えず:兵共川に打ち向
10 かうて,如何せうずるぞと控えた所へ:畠山
11 の荘司進み出て申されたは:この川の面
12 を見るに,馬の足の及ぶまい所
13 三段には過ぎまい:近江の湖から流
14 れ出る川なれば,待つとも待つとも水
15 は干まい;この川の定めは予て鎌倉
16 殿の御前で然しも御沙汰の有った事ぞ:
17 今始めた事ならばこそ,治承の合戦の時,
18 足利の又太郎が渡いたは神か,仏か
19 物がましい;畠山が瀬踏み仕
20 らう:武蔵の国の殿原続けやと言うて,
21 丹の党を始めとして五百余騎轡を
22 並ぶる所に,平等院の丑寅,橘
23 が小島から武者が二騎引っ掛け引っ掛け出て
24 来るを見れば,梶原源太と,佐々木の四郎ぢゃ.

(235)
1 人目には見えねども,内々先を争う輩
2 なれば,真っ先に二騎連れて出た.佐々木に梶
3 原は一反ばかり馳せ進むが,佐々木川の先
4 をせられまいとてか,梶原殿この川は
5 上へも,下へも早うて,馬の足利き少
6 ない:腹帯の伸びて見ゆるは,締めさせられいと,言わ
7 れて,梶原真と思うたか,突っ立ち上がって
8 左右の鐙踏み透かいて,手綱を馬の顳顬
9 に捨てて,腹帯を解いて締むる間に,佐々木つっと
10 馳せ抜けて川へざっと打ち入れたれば;梶原これ
11 を見て,たばかられまい物をと言うて,軈て同
12 じ様に打ち入れた.水の底には大綱を張らう
13 ぞ,馬乗り掛けて押し流されて不覚すな佐々
14 木殿と,言うて渡いたが,川の中まではいづ
15 れも劣らなだれども,何としたか梶原が
16 馬は篦撓め形に押し流され;佐々木は川
17 の案内者,その上生食と言う世一の馬
18 には乗っつ,大綱共の馬の足に掛かる
19 をば佩いた面影と言う太刀を抜いて,ふつふつ
20 と打ち切り打ち切り宇治川は早いと言えども,一
21 文字にざっと渡いて,思う所へ,打ち上って,鐙
22 を踏ん張り突っ立ち上がって,佐々木の四郎宇治川
23 の先陣ぞと名乗って,喚いて駆くれば:梶
24 原は遥かの下より打ち上ぐる.畠山五

(236)
1 百余騎で打ち入れて渡す:向かいの岸から仁
2 科,高梨など差し取り,引き詰め,散々に射る
3 に;畠山馬の額を篦深に射させて馬
4 をば川の中より流いて,弓杖突いて下
5 り立つに,岩波夥しゅう兜の手先に押
6 し掛かれども,事ともせず,向かいの岸に
7 渡り着いて,上らうとする所に,後ろに者
8 が控えた:振り返って見たれば,鎧武者が取り
9 付いたが,畠山の烏帽子子に大串の次
10 郎と言う者で有った:誰そと問えば,大串と名
11 乗る:斯かる事こそ御座れ,馬は弱っつ,押
12 し流され詮方無さに取り付きまらすると申
13 せば,いつも吾殿輩は某にこそ助けら
14 れうずれ:過ちすなと言い様に差し越えてむ
15 ずと掴うで,岸の上へ投げ上げたれば,投げ
16 られながら起き直って武蔵の国の住人
17 に大串の次郎宇治川徒立ちの先陣と名
18 乗ったれば,敵も味方も一度にどっと笑う
19 たと申す.
20 義経を始め奉って,二万五千余
21 騎打ち入れ打ち入れ渡いたれば,馬人に塞かれて
22 然ばかり早い宇治川の下は塞き切って浅う成って,
23 雑人共馬の下手に取り付き取り付き渡い
24 た.佐々木の三郎,梶原平次,渋谷これ三

(237)
1 人は馬を捨てて,下々を履き,弓杖突い
2 て橋の行き桁を渡れば,畠山は乗
3 り換えに乗って打ち上る:魚綾の直垂に緋縅
4 の鎧着て,連銭芦毛な馬に金覆
5 輪の鞍置いて乗った敵が真っ先に進んで,木
6 曾殿の家の子に長瀬の判官と名乗った
7 を,畠山先づ戦神に血祭りせうと
8 言うて,駆け並べむずと取って引き落とし,首捩
9 ぢ切って本田が鞍の鞖に付けさせた:これ
10 を始めとして木曾殿の方から宇治橋を固
11 めた勢共暫し支えて防げども,東国
12 の大勢が皆渡いて攻むれば,散々に駆け
13 成され,木幡山伏見を差いて落ち行く;
14 瀬田をば稲毛の三郎が謀で供御
15 の瀬を渡いて,戦が敗れたれば,鎌倉殿
16 へ飛脚を持って合戦の次第を注進
17 申されたに,鎌倉殿の先づ御使いに
18 佐々木は何とと尋ねさせられたれば,宇治川
19 の真っ先と申す:日記を開いて御覧ぜらるるに
20 も宇治川の先陣佐々木の四郎,二陣梶原
21 源太と書かれて御座った.

(238)
1 第三.義経兵
2 共に敵をば防がせて,その身
3 は院の御所へ参って,御所を守護せ
4 られた事.
5 右馬.猶末をも続けて御語り有れ.
6 喜.さう致いて木曾は宇治,瀬田も敗れたと
7 聞けば,最後の暇申さうずるとて,百騎ばかりで
8 院の御所へ馳せ参る:あわや木曾が参るぞ何
9 たる悪行をか仕らうずらうと有って,君も,
10 臣も恐れ戦かせらるる所に,東国
11 の兵共七条川原まで打ち入った
12 由告げたれば:木曾門の前から取って返
13 せば,御所には軈て門を立てた.木曾は最愛の
14 女に名残りを惜しまうとて,或る家に打ち入って,
15 暫しは出も遣らなんだを,家光と言う者
16 これを見て,あれほどに敵の攻め近付いて御座
17 るに,ここでは犬死にをさせられうず:急いで出さ
18 せられいと,申したれども:猶も出有らなんだれば,
19 家光此の世は今はかうぢゃ:然御座らば家
20 光は先づ先立ちまらすると,言い様に,
21 刀を抜いて,鎧の上帯を切って押し退
22 け,腹を切って死んだ.

(239)
1 木曾殿はこれを見て,これは我を勧む
2 る自害にこそと有って,軈て打ち出られたに,広純
3 などと言う者を始めとして,百五十騎には
4 過ぎなんだ.六条川原へ打ち出たれば,東
5 国の武士と思しゅうて三十騎ばかり来る:その
6 中に二騎進んで見えた.一騎は塩屋,一騎は
7 勅使河原と言う者で有った.塩屋が申
8 したは:後陣の勢を待たうか?勅使河原
9 が申すは:一陣敗れぬれば,残党全か
10 らず:唯寄せいと言うて,喚いて駆け,我先にと
11 乱れ入れば,後からは後陣が続いて有った.木
12 曾これを見て今を最後の事で有れば,百四
13 五十騎,轡を並べて,大勢の中に駆
14 け入らるれば,東国の兵共木曾殿
15 を打ち取れと,面々に逸り合うて両方火の
16 出るほど戦うた.
17 義経は兵共に矢面を防
18 がせ,義経は院の御所の覚束無いに
19 守護し奉らうずるとて:六条殿へ馳
20 せ参らるれば,大膳の大夫六条殿の
21 東の築垣に上って,わななくわななく
22 世間を窺い見る所に,東の方から
23 武者が五六騎仰け兜に戦い成って,射向け
24 の袖吹き靡かせ,白旗ざっと差し上げ,馳

(240)
1 せ参るに因って,あわや木曾が参るは,この度
2 ぞ世は失せ終わらうと申したれば:法皇を始め
3 奉って,公卿殿上人も殊に騒がせ
4 られた.大膳の大夫良く良く見て申したは:
5 笠印が変わって見えまらする,木曾では御座
6 無い,今日打ち入った東国の武士と思しいと
7 申しも終わらねば,義経門の前に
8 馳せ寄せて,馬より飛んで下り,鎌倉左
9 兵衛の助頼朝が舎弟義経が参って
10 御座ると,奏聞させられいと申したれば:大膳の
11 大夫余りの嬉しさに築垣から急ぎ飛んで
12 下る程に,落ちて腰を突き損なうたれど
13 も,嬉しさに紛れて覚えず,這う這う参って
14 奏したれば:軈て門を開いて入れられた.
15 大将軍と共に武士は六人で有った.義
16 経は赤地の錦の直垂に紫裾濃
17 の鎧を着,塗籠籐の弓の鳥打ちを
18 紙の広さ一寸ばかりに切って,左巻きに巻か
19 れた.これが今日の大将軍の印と見え
20 た.残る五人は鎧は色々に見えたれども,
21 面魂,骨柄いづれも劣らなんだ.
22 法皇中門の櫺子から叡覧有って,由々し気
23 な武士共哉!皆名乗れと仰せられたれば;
24 先づ大将軍義経を始めとして,次第

(241)
1 次第に皆名乗って,庭上に畏まって居られたに,
2 大膳の大夫は大床に有って合戦の次第を
3 尋ねらるる所で,義経申されたは:木
4 曾が悪行の事を頼朝承って,大
5 きに驚いて,範頼,義経二人の舎
6 弟を参らせて御座る.兄にて御座る範頼は
7 瀬田から参るが,未だ見えまらせぬ:義経
8 は宇治の手を追い落といて,先づ御所の覚
9 束無さに馳せ参って御座る.木曾は川原を
10 上りに落ち行いて御座るを兵共に
11 追い掛けさせて御座る.今は定めて打ち取りま
12 らせうずると,事も無気に申されたれば:法皇斜
13 めならず御感有って,木曾が悪党なんど
14 猶参って,狼藉を仕らうず:義経は
15 居てこの御所を良く良く守護し奉れと,
16 仰せ下されたれば,畏まって承り,門
17 々を固め奉る所に,程も無う
18 一二千騎参って,院の御所を四面に打ち囲
19 うで守護し奉れば,人々も心静
20 かに,君も御安堵の御心地をさせられ
21 た.

(242)
1 第四.木曾兼平に行
2 き合うて,三百余騎に成って,又合戦を
3 し,遂に木曾も,兼平も討ち死に
4 せられた事.
5 右馬.して木曾は何と成ったぞ?
6 喜.木曾は若しもの事が有らば,院を取り
7 奉って,西国の方へ御幸を成し奉
8 って,平家と一つに成らうとて,力者を二十人
9 余り用意して置いたれども,院の御所には義
10 経の参って,守護し奉らるると聞いたれば,
11 力に及ばぬと言うて,数万騎の大勢の中
12 へ駆け入り,駆け入り既に打たれうとする事が,度
13 々に及うだれば,駆け破り,駆け破り通った
14 が,この様に有らうと知ったらば,兼平を瀬田へ
15 遣るまじい物を,幼少から死なば,一所で何と
16 も成らうと契ったに,所々で死なう事が本意無い:
17 兼平が行方を見ょうずるとて,川原を上
18 りに駆けて行くに,大勢追い掛くれば:取って返し,
19 取って返し六条川原と,三条川原の間
20 で無勢なれども,多勢を五六度まで追い
21 返いて,賀茂川をざっと打ち渡いて,粟田口
22 松坂に掛かった.

(243)
1 去年信濃を出た時には,五万余騎と
2 聞こえたれども,今日四の宮川原を過
3 ぐるには,主従七騎に成ったれば,況して中有の
4 旅の空思い遣られて哀れな.七騎の内に
5 巴と言う女武者が有ったが,その頃齢
6 は二十二三で,太刀には強う,弓の精兵
7 究竟の荒馬乗りの悪所落としで,戦と言え
8 ば,札の良い鎧を着て,大太刀に強弓
9 を持って一方の大将に差し向けられたに,度々の
10 高名肩を並ぶる者も無かった.木曾は
11 長坂を経て,丹波路へ赴くと言う人
12 も有り,又は北国へとも聞こえたれども,
13 兼平が行方の覚束無さに,瀬田の方
14 へ落ち行かるれば,兼平も主の行方の
15 床しさに,旗ひん巻いて五十騎ばかりで都へ
16 取って返す程に,大津打出の浜で木曾殿
17 に会い奉るが,一町ばかりから互いにそれと
18 目を掛けて,馬を早めて寄せ合わせ,木曾殿
19 兼平が馬に打ち並べて,兼平が手を
20 取って如何に兼平,木曾は今日六条川原
21 で如何にも成らうずる事で有ったれども,幼少
22 から一所で如何にも成らうと契った事が思
23 われて,甲斐無い命を逃れ,これまで来たぞと
24 有れば:真にその分で御座る:兼平も瀬

(244)
1 田で如何にも成りまらせうずるを君の御行方
2 の覚束無さに,敵の中に取り籠められて御
3 座ったを打ち破って,これまで参って御座ると,申し
4 た所で,木曾殿契りは未だ尽きせぬぞ:
5 木曾が勢はこの辺にこそ有るらう,旗が有るか差
6 し上げて見よと有ったれば,兼平が持たせた旗
7 をざっと差し上げたれば,案のごとくこれを見て,
8 京から落つる勢とも無う,瀬田から落つる勢
9 とも無う,三百余り馳せ集まった所で:木
10 曾殿大きに喜うでこの勢が有らば,何故に
11 最後の戦をせいで有らうぞ?この先にしぐらうて
12 見ゆるは誰が手とか聞いた?甲斐の一条殿と
13 こそ承って御座れ:勢は如何ほど有るぞ?六
14 千余騎と聞いて御座る:然らば良い敵ぞ,同じゅうは
15 大勢の中でこそ討ち死にせうずれとて,真っ先に
16 進まれた.
17 木曾は赤地の錦の直垂に,薄金と言う
18 鎧を着て,音に聞こえた木曾の鬼芦毛と
19 言う馬に乗って,大音を上げて名乗られた:昔
20 は聞いた事も有らうず,木曾の冠者,今は見
21 るか?左馬の守朝日の将軍ぞ:一条の
22 次郎とこそ聞け:打ち取って,勧賞被れ:汝が
23 為には良い敵ぞと言うて,割って入らるれば,一条
24 の次郎,只今名乗るは大将軍ぞ:漏らすな

(245)
1 打ち取れと言うて,大勢の中に一揉み揉うで戦
2 うに,木曾は三百余騎で,縦様横様
3 蜘蛛手十文字に駆け破って,六千余騎があな
4 たへざっと駆け出られたれば,百騎ばかりに成られた
5 トキの次郎が一千余騎で支えた:そこを駆け破
6 って出られたれば,五十騎ばかりに成られた.さうさうして
7 数多の人数の中を駆け破り駆け破りして
8 通らるる程に,遂には主従五騎に成られた.五騎
9 が内までも巴は打たれなんだ所で,木
10 曾殿の言われたは;我は只今討ち死にをする
11 に極まったに,そちは女なれば,一所で
12 死なう事も悪しからうず:木曾こそ最後の戦に
13 女を連れて討ち死にしたなどと言われう事が
14 口惜しい:これからいづかたへも落ち行いて木
15 曾が後生をも弔えかしと言われたれども,落
16 ちなんだが,余り諫めらるれば,天晴良からう
17 敵もがな:最後の戦して御目に掛けうと見
18 回す所に,武蔵の国の住人トモ
19 シゲ音に聞こえた大力の剛の者が三十
20 騎ばかりで来るに,巴その中へ駆け入って,
21 トモシゲに押し並びむずと取って,引き落といて,
22 鞍の前輪に押し付けて,首掻き切って捨て,そ
23 の侭物の具を脱ぎ捨てて,泣く泣く暇
24 を申して,東国の方へ落ちて行いた.

(246)
1 手塚の別当は自害しつ,手塚の太郎
2 は討ち死にする:今は兼平と主従二騎に成られ
3 た.木曾殿の言われたは:如何に兼平,日頃は何
4 とも覚えぬ薄金が今日は重う覚ゆる
5 ぞ.兼平申したは:別の様や御座る?君の
6 無勢に成らせられたに因って,臆させられた故で
7 御座る:御馬は疲れず,御身も弱らせ
8 られず,日頃召された御鎧が何に因って只
9 今重うは成りまらせうぞ?兼平一人なり
10 とも余の者千騎と思し召され,箙に
11 今矢七つ八つを射残いて御座れば,この矢
12 の有らう限りは,防ぎ矢仕らうず:あれに見
13 えたは粟津の松原と申す:三町には
14 過ぎまらするまい:あれで御自害を為されいと,言うて,二騎
15 打ち並うで行く程に:又瀬田の方から新手
16 の武者が百騎ばかり来るに因って,兼平が申
17 したは:然御座らば,君はあの松原で静かに
18 御自害為されい,兼平はこの敵を防ぎまらせう
19 と申せば;木曾殿幼少から一所でにと契った
20 は,ここぢゃ:死なば同じ枕にこそと有って,馬
21 の鼻を並べ,駆けうとせられたれば,兼平馬
22 から飛んで下り,馬の鼻にむずと取り付いて,如何な
23 る御事で御座るぞ?弓取りは日頃高名を
24 仕れども,最後に不覚を仕れ

(247)
1 ば,長い傷で御座る物を:言い甲斐無い冠者輩
2 に組み落とされ打たれさせられば,日本国へ聞こ
3 えさせられた木曾殿をば某が家の子,某
4 と申す郎等こそ打ち取り奉ったなどと
5 申さう事,余りに口惜しゅう存ずる:唯松
6 の中へ入らせられて,御自害為されいと申せば,木
7 曾殿力及ばいで松原へ御入り有れば,
8 兼平唯一騎大勢に,駆け向かい大音を上げ
9 て,日頃は音にも聞け,今は目にも見よ:
10 木曾殿の御乳母に兼平三十三に罷り
11 成る:鎌倉殿までも然る者の有るとは
12 しろしめされつらう,打ち取って勧賞被れと言うて,
13 残った八筋の矢を差し詰め,引き詰め散々
14 に射る:生死は知らず,矢庭に八騎射落といて矢種
15 が尽くれば,弓をかしこに投げ捨て,打ち
16 物の鞘を外し,切って回るに,面を
17 合わする者は無うて,唯射取れ射取れと言うて,中
18 に取り籠め,遠立ちながら雨の降る様に,射たれ
19 ども,鎧が良ければ,裏も掻かず,空き間を
20 射ねば,手も負わず,木曾殿は松の中へ
21 御入り有るに,頃は正月二十日の暮れ方なれ
22 ば,余寒猶激しゅうて,薄氷の張ったに深
23 田が有るとも御知り有らいで打ち入れられたれば,聞
24 こゆる木曾の鬼芦毛も一日掛け合いの

(248)
1 合戦に疲れたか,あおれどもあおれども,打て
2 ども打てども動かず,今はかうと思わ
3 れたか,後ろへ振り仰かるる所を相模
4 の国の住人為久追い掛けて能っ引いて射る
5 に,内冑をあなたへつっと射通されて痛手な
6 れば,兜の真っ向を馬の首に当ててうつ
7 伏しに伏さるるを為久が郎等二人落ち合う
8 て遂に木曾殿の首を取って,太刀の先に
9 貫いて,高う差し上げて,兼平が言うたに違わ
10 ず,日本国に聞こえさせられた木曾殿を
11 為久かうこそ打ち奉れと言うて,高らかに
12 名乗ったれば:兼平これを見て,今は誰を囲
13 まうとて戦をせうぞ?これ見よ剛の者の
14 自害する様,手本にせい東国の殿原と言うて,
15 太刀を抜き,口に含んで馬から逆様に落
16 ち掛かって貫かれて失せた.兼平が打たれて,
17 その後こそ粟津の戦は止うで御座れ.
18 第五.樋口の次郎,降
19 参して後に切らるる事:同じく茅
20 野が討ち死にの事.
21 右馬.して兼平が兄の樋口の次郎は
22 何と成ったぞ?

(249)
1 喜.それは十郎蔵人を打たうずると言うて,河
2 内の長野の城へ越えたが,そこでは打ち
3 漏らいて,紀の国の名草に居らるると聞いたれば,
4 軈て追っ掛け行たが,都に戦が有ると聞いて,
5 馳せ上るが,淀で兼平が郎等に行き
6 合うた:君は早打たれさせられ,兼平様は御
7 自害為されたと,申せば,樋口涙を流し,
8 これ御聞き有れ各々:世は既にかうぢゃ:命
9 の惜しからう人々はいづかたへも落ちさせら
10 れい,君に志を思い奉られう輩
11 樋口を先として,都へ入って討ち死
12 に召されいと,申したれば:これを聞いてかしこでは
13 馬の腹帯を固むる,ここでは兜の
14 緒を締むる,などと言うて,二三十騎四五十騎控え
15 控え落ちて行く程に,樋口が勢六百
16 余騎,今は二十騎余りに成った.樋口今日既
17 に都へ入ると,聞こえたれば,党も高家も七
18 条,朱雀,四塚へ我も我もと
19 馳せ向かうた.信濃の国の住人に茅野
20 の太郎と言う者が有ったが,これも樋口に連れ
21 て河内へ下って,同じく今日京へ入る
22 が,茅野の太郎何と思うたか:鳥羽から樋
23 口が先に立って,馬の足を早め,四塚
24 で大勢に打ち向かうて,この内に一条の

(250)
1 次郎殿の手の人が御座るかと呼ばわったれば,
2 敵一度にどっと笑うて,一条の次郎殿の
3 手でばかり戦をする事かと言うたれば,茅野
4 の太郎最も然言われた,各々かの手を尋
5 ぬる事は某が弟茅野の七
6 郎その手に有ると聞いた,信濃に某が子供
7 二人居まらする:彼等が天晴我が父は
8 良うて死んだか,悪しゅうて死んだかなどと思わうずる
9 所が不憫なれば,弟の七郎が見
10 る前で,彼等に語らせうずる為ぢゃと言うて,国
11 所,親の名までを名乗って敵は嫌うまい
12 ぞと言い様に,あれに馳せ合わせ,これに差し合わせ,戦
13 うて敵三人打ち取って四人に当たる敵に引っ組ん
14 で落ち,互いに差し違えて死んだ:これを見て惜し
15 まぬ人は無かった.樋口の次郎は児玉党が,
16 婿で有ったが,かの党が申したは:弓取りの広い
17 縁に入る事はこの様な時の為ぢゃ:樋口が
18 我が党に結ぼおれたも然こそ思うらう:いざ今度
19 の勲功に樋口を申して,賜わらうと言うて,樋
20 口が下へ使いを立てて,この様言い遣ったれば,
21 樋口聞こゆる者なれども,命が惜しかっ
22 たか,児玉党が中へ降人に成って出たを
23 打ち連れて都へ上って,この由を申すに
24 因って,義経院に奏聞せられたれば,苦しかる

(251)
1 まじいと有って,宥められたを御所女房達が去
2 年木曾が法住寺殿に火を掛けて,攻め奉
3 った時は,兼平,樋口と言う者共
4 こそかしこにもここにも充満した様に聞こえ
5 たが,これ等を宥められば,口惜しからうずなど
6 と訴えられたれば:樋口の次郎又死罪に定
7 まった.同じ二十四日に木曾殿と,高梨,
8 兼平などが首小路を渡さるれば,樋口
9 の次郎も既に切られうずると聞こえたれば,木
10 曾殿の御首の御供を致さうずると所望
11 するに因って,藍摺りの水干葛の袴に立て
12 烏帽子を着て渡されて,同じく二十五日に樋
13 口の次郎は六条川原で遂に切られたと,
14 申す.
15 第六.源平大手,搦
16 手の大将を分けられて,義経は
17 三草の合戦に打ち勝って,又鵯
18 越へ掛かられた事.
19 右馬.木曾は早滅びたが,平家は何と成ら
20 れたぞ?
21 喜.平家は正月中旬の頃讃岐の
22 屋島から津の国の難波へ伝うて,東

(252)
1 は生田の森を大手の木戸口と定
2 め;西は一の谷を城郭に拵えられて
3 御座った.その内福原,兵庫,板宿,須
4 磨に籠もる勢直兜八万余騎で御座っ
5 たと,申す.これは備中の国水島,
6 播磨の室山両度の合戦に打ち勝っ
7 て,ここかしこの国々都合十四五箇国を打
8 ち靡けて従う所の軍兵ぢゃと,聞こえて
9 御座る.一の谷は口は狭うて奥は広う,
10 北は山,南は海,岸も高う,屏風を
11 立てたごとくぢゃに,北の山際から南の
12 磯際まで大石を重ね,上には大木を
13 切って,逆茂木に引き,大船を取って垣楯に掻き,
14 後ろには鞍置き馬十重二十重に引き立て,表
15 には櫓を掻き,櫓の上には兵
16 共兜の緒を締め,常に太鼓を
17 打って,乱声し,弓矢,物の具の光は夥
18 しゅう:高い所には赤旗その数を知らず
19 立て並べたれば,春風に吹かれて天に翻れ
20 ば,偏に火炎の燃ゆるに異ならず:真
21 に夥しい体で御座ったと,申す.阿波,讃岐
22 の在庁共源氏に志が有ったが,昨日
23 まで平家に従うた者なれば,今日参
24 るとも,用いられまじい:平家に矢一つ射掛けて

(253)
1 それを面にして参らうと,小船百艘ばかり
2 に取り乗って,教盛の子息引き具して備前の国
3 の下津井におぢゃったを打たうずるとて,下津井
4 に押し寄せて有れば:能登殿これを聞いて,昨日ま
5 で我等が馬の草を飼うた奴が,今日契
6 りを変ずるか?その儀ならば,一人も残さず,
7 射殺せと有って,五百余騎で喚いて駆けられたれ
8 ば,これ等は人目ばかりに矢一つ射掛け引き退
9 かうと思うた所に,能登殿に攻められて
10 我先にと船に乗って,都の方へ逃げ登
11 るが,淡路の福良に着いて,この国に賀
12 茂の冠者,淡路の冠者と言うて,源氏の大将
13 が二人有ったを大将にして,城郭を構えて待
14 つ所に;能登殿二千余騎で淡路の福
15 良に寄せて,攻めらるるに,一日一夜戦
16 い,賀茂の冠者は討ち死にせられ,淡路の冠
17 者は痛手を負うて自害せらるれば;これ等百余
18 りが首を取って,福原へ送られたれば:教
19 盛はそれから福原へ上られ,子息達
20 は伊予の河野が源氏に志が有る
21 と聞いて,それを打たうずるとて,伊予の国へ渡ら
22 れた.河野これを聞いて,適うまじいと思うたか,
23 安芸の国へ落ち行いたを能登殿追っ掛けて,そ
24 こでも散々に合戦して追い散らし,その他方

(254)
1 々で手柄共をして攻めうずる敵も無けれ
2 ば,福原へ返られた.
3 扠源氏は四日の日に一の谷へ寄せら
4 れうずるで有ったれども,故太政入道の忌日
5 と聞いて仏事を行わせうが為に,その日は寄
6 せられず,五日六日は日が悪いは何のかの
7 と言うて,七日の卯の刻に津の国一の谷
8 で源平矢合わせと定められた.七日の
9 卯の刻に大手,搦手の兵二手に分
10 けられた:大手の大将には範頼,相従う人
11 々は武田の太郎,その他歴々の衆都合
12 その勢五万余騎で都を発って,津の国ま
13 で発向せられた.搦手の大将軍義経
14 に相従う人数は大内の太郎,安田の三
15 郎,武蔵坊弁慶を先として,都合その勢
16 一万余騎で同じ日,同じ時に都を発っ
17 て,丹波路に掛かって,二日路を一日に打って
18 その日は,播磨と,丹波との境の三草山
19 の東の山口,小野原に着かるれ
20 ば,義経土肥の次郎を召して,平家は小
21 松の新三位,同じく少将など三千余騎
22 でこれから三里隔てて,西の山口を
23 固めたと言う,今宵寄せうか,明日の合戦かと
24 有ったれば,田代の冠者進み出て申されたは:

(255)
1 平家は然様に,三千余騎で御座る!味方は一
2 万余騎,遥かの利で御座る物を:明日
3 の合戦に伸べられたならば,平家は勢が
4 付きまらせうず:夜討ちに良う御座らうと存ずるが,
5 トキ殿は何とと申せば:トキの次郎美しゅう
6 も申させられた田代殿哉!某もかう
7 こそ申したう御座ったれと,申した:二日路を一
8 日打って,馬人皆疲れたれども,然らば寄
9 せいと有って,打っ立たれた.兵共暗さは暗
10 し,知らぬ山路に掛かって,松明が無うては,
11 何とせうぞと口々に申したれば:義経
12 トキの次郎を召して,例の大松明は無いかと,
13 言われたれば;トキの次郎こそ御座れと言うて,小
14 野原の在家に火を付け,その他野にも,山
15 にも,草にも,木にも火を付けたれば,昼に
16 は少しも劣らなんだ.平家は三千余騎で
17 西の山口を固めたが,先陣は自づ
18 から用心する者も有り:後陣の者共
19 は定めて明日の合戦でこそ有らうずれ,
20 戦も眠たいは,大事の物ぞ,良う寝て明日
21 戦をせいと言うて,或いは兜を枕に
22 し,或いは鎧の袖,箙などを枕にし
23 て,前後も知らず寝た:思いも掛けぬ寅の刻
24 ばかりに源氏一万余騎三里の山を打

(256)
1 ち越えて,西の山口へ押し寄せ,鬨を
2 どっと作れば,平家慌て騒いで,弓よ,矢よ,
3 太刀よ,刀よと言う程に,源氏中をざっ
4 と駆け破って通る程に,我先にと落ち行
5 くを追い掛け,追い掛け散々に射る:平家の勢
6 そこで五百余騎は打たれ,小松の新三
7 位を始めて,大将をして居られた人々面目
8 無う思われたか,播磨の高砂から船
9 に乗って讃岐の屋島へ渡られたと,聞こえ
10 て御座る.
11 備中の前司,その他二三人は一の谷
12 へ参って合戦の次第を申せば,大殿
13 大きに驚いて,一門の人々の方へ
14 三草の手既に敗れたと聞こえたれば,人々
15 御向かい有れと有ったれども,山の手は大事ぢゃ
16 と申して,皆辞退申されたに因って,その後
17 能登殿の下へ使者を立てられて,三草の手
18 既に敗れたと申す:人々御向かい有れと申
19 せども,山の手は既に大事ぢゃと有って,皆
20 辞退せらるる:盛俊に向かえと申せば,大将
21 軍一人ましまさいでは適うまじい由を申す.
22 度々の事なれども,御辺又御向かい有らうか
23 と有れば,能登殿御返事に戦と申す物は
24 人毎に我一人が大事と思い切ってこそ良う

(257)
1 御座れ,然様に狩り漁りなどの様に足立ちの
2 良からう方へは我向かわう,悪しい方へは向かう
3 まいなどと申さば,いつも戦に勝つ事は御
4 座るまい:幾度なりとも某が命の有らう
5 限りは如何に強う御座るとも,一方は承
6 って打ち破りまらせうずると,申された.大殿
7 大きに喜うで盛俊を先として,能登殿
8 に一万余騎を付けられ,兄の越前の
9 三位通盛と打ち連れて鵯越の
10 麓に陣を取られた:平家も四日に大手,搦
11 手に分けて遣られた.大手の大将軍には新
12 中納言トモノリ,重衡その勢四万余
13 騎で大手生田の森に向かわれた.搦手
14 の大将軍には行盛,忠度三万
15 余騎で一の谷の西の手へ回られた:五日
16 の夜に入って,生田の森の方から雀の松
17 原御影の森,崐陽野の方を見渡
18 せば,源氏のてんでに陣を取って,遠火を
19 焚く事晴れた天の星のごとくに御座った.平
20 家も向かい火焚けと言うて,生田の森にも焚いた.
21 更け行く侭に見渡せば,沢辺の蛍に異
22 ならぬ体で有ったと聞こえて御座る.通盛は
23 弟の能登殿の館に如何にも悠々と
24 折に似合わぬ体で伏されたに因って,能登殿

(258)
1 大きに怒って然らぬだにこの手をば大事の手と有っ
2 て,某を向けられた:真に強からうず
3 る事が肝要ぢゃ.只今も上の山から敵
4 がざっと落としまらせう時は,弓は持ったりと
5 も,矢を矧げずは適うまじい:矢は矧げたりと
6 も,遅う引かば,猶も悪しからうずる所ぢゃ:
7 況して然様に打ち解けさせられては,何の詮に
8 か立たせられうぞと諫められて,通盛物の
9 具をして出られたと申す.
10 源氏は七日の卯の刻矢合わせと定まっ
11 たれば,かしこに陣取り,馬を休め,ここに
12 陣取り,馬を飼いなんどして急がぬに,平家は
13 これを知らいで,今や寄する,今や寄すると安
14 い心も無かった.六日に義経は一
15 万余騎を二手に分けて,トキ次郎を大将として
16 七千余騎をば一の谷の西の手へ差し向
17 けられ,我が身は三千余騎で一の谷の後ろ
18 津の国と,播磨の境な鵯越
19 の搦手へ向かわれた.兵共これは
20 聞こゆる悪所ぢゃ:敵に会うてこそ死にたけれ,悪
21 所に落ちて,死なうずるは,無下な事哉!
22 哀れ案内を知った者が有るかと口々に
23 申す所で;平山進み出て申したは:こ
24 の山の案内は私こそ知って御座れと,申

(259)
1 せば:義経然も有れ坂東育ちの人の
2 今日初めて見る西国の山の案内は
3 然るべからぬと有ったれば:平山が申したは:
4 御諚とも覚えぬ物哉!吉野,泊
5 瀬の花の頃は歌人がこれを知る,敵の
6 籠もった城の後ろの案内をば剛の者が
7 知りまらすると,申したれば:義経これ又
8 傍若無人なと有って笑われた.又武蔵の国
9 の住人に清重と言うて,十八歳に成る人
10 御前に進み出て申したは:親にて御座
11 る入道の教えまらしたは,敵にも取り籠め
12 られ,山越えの狩りをもして,深山に迷
13 わうずる時は,老馬に手綱を結んで打ち掛
14 け,先に追い立て行け,必ずこの馬は道
15 に出でうずると教えて御座ると,申したれば:義
16 経美しゅうも申した物哉!雪は野原
17 を埋めども,老いたる馬ぞ道は知ると
18 言う心ぢゃ:然らばと有って,白芦毛な馬に白
19 覆輪の鞍置いて,手綱を結んで打ち掛け
20 先に追い立て,一度も知らぬ深山に分け入られ
21 た.これは如月初めの事なれば,峰の
22 雪斑消えて,花かと見ゆる所も有り,
23 谷の鶯訪れて,霞に迷う所
24 も有り,上れば白雲が皓々として聳え,

(260)
1 下れば,青山峨々として岸高う,松の
2 雪さえ消え遣らず:苔の細道は微かで,
3 嵐の誘う折々は,梅の花かと覚え,山
4 路に日が暮るれば,今日は如何にも適うまいとて,
5 兵共皆馬から下りて,陣を取った
6 所で,武蔵坊弁慶或る老翁を一人具し
7 て,義経の御前に参った:これは何者
8 ぞと問わるれば,この山の猟師で御座る
9 と申す:扠は案内は知っつらう:これから平家の
10 城へ落とさうずると思うが,何とと有ったれば,思
11 いも寄らぬ事で御座る:三十丈の岩崎,十
12 五丈の岸などと申せば,人の通らうずる様
13 も御座らず:況して御馬は何として適いまら
14 せうずと申せば:鹿の通う事は無いかと尋
15 ねらるれば,鹿は自づから通いまらする:世
16 上さえ温かに成れば,草の深いに伏さうずると
17 て,丹波の鹿は播磨の南野へ通
18 りまらするが,時々この谷を通いまらする
19 と申す.扠は鹿の通わう所を馬の通
20 らぬ事が有らうか?汝軈て導べせいと有った
21 れば,この身は年老いて適うまじい由を申す:
22 子は無いか?御座る,熊王と申して生年十
23 六に成るを奉ったれば,軈て物の具
24 をさせ,馬に乗せて案内者に具せられた:これを

(261)
1 元服させて義経の義を下されて,義
2 久と名乗った.義経鎌倉殿と仲を
3 御違い有って,奥州で打たれさせられた時,義久
4 と申して,討ち死にした者で御座る.
5 第七.熊谷と,平
6 山と一の谷へ押し寄せ,戦して
7 一二の駆けを争うた事.
8 右馬.些ともそなたに徒口は置かせ
9 まいぞ:猶先へ御語り有れ.
10 喜.さてさて厳い平家上戸で御座る.義経
11 は又その山におぢゃる内に,熊谷
12 はその時まで搦手に有ったがその夜の夜半
13 ばかりに嫡子の小次郎を呼うで申したは:如何
14 に小次郎,思えばこの手は悪所を落とさうず
15 る時,打ち込みの戦で,全て誰先と言う事
16 有るまいぞ:いざこれから播磨路に出て,一の谷
17 の先を駆けうと言えば,小次郎良う御座らうず:急いで
18 向かわせられいと申す.真や平山も
19 打ち込みの戦を好まぬぞ:見て参れと言うて,
20 郎等を遣ったれば,案のごとく,平山は早物
21 の具して誰に会うて言うとも無う今度の戦
22 に人は知らず,平山に於いては,一足も引

(262)
1 くまい物をと独り言をした.郎等が馬を
2 飼うとて,憎い馬の長食い哉とて打ったれば,平
3 山さうなしそ:平山明日は死なうぞ:その
4 馬の名残りも今宵ばかりぢゃと言うたを聞いて,郎
5 等走り帰って斯う斯うと言えば:熊谷されば
6 こそと言うて打っ立って,主従三騎打ち連れて,一の谷
7 をば弓手に見なし,馬手へ歩ませ行く程
8 に,年来人も通わぬ古道を通っ
9 て,播磨路の波打ち際へ打ち出たれば:ト
10 キの次郎は卯の刻の矢合わせと定められたれば,
11 未だ寄せず:七千余騎で控えて居た所を
12 熊谷は大勢に打ち紛れて,つっと打ち通
13 って,一の谷へ寄せた.未だ丑の刻ばかりの
14 事なれば,敵の方にも音もせず,味方
15 の勢一騎も見えず,静まり返って有った所
16 に,熊谷言うたは:剛の者は必ず
17 我ばかりと思うな:この辺に控えて夜の明く
18 るを待つ人も有らうぞ:いざ人の名乗らぬ先
19 に名乗らう小次郎と言うて,木戸の口に歩ま
20 せ寄せて,大音を上げて名乗ったは:伝えて
21 も聞いつらう,武蔵の国の住人熊谷,
22 その子小次郎一の谷の先陣ぞと名乗った.
23 敵の方にはこれを聞き,音なしそ:唯敵
24 が馬の足疲らかさせい矢種を射尽くさせいと

(263)
1 言うて,音する者も無かった.
2 さうする程に武者が後ろに続いた:誰そと
3 問えば,平山と言う.平山殿か?熊
4 谷ぢゃ:なう熊谷殿か?いつからぞと問えば,
5 熊谷は宵からと答えた:その時平山
6 打ち寄せて申したは:さればこそ某も
7 疾う寄せうずるを成田に賺されて,今まで遅
8 々した:死なば平山殿と一所で死なうと契
9 る程に,打ち連れたが:成田が今宵言う様は:
10 痛う平山殿先駆け逸りな召されそ:戦
11 の先を駆くると言うは,味方の大勢を後ろ
12 に置いて,駆けたればこそ,高名不覚の程も
13 現われて面白けれ:味方の勢は一騎も見
14 えいで,雲霞のごとくの大勢の中に駆け入って,
15 打たれては,されば何の詮ぞと制する程に,実
16 にもと思うて連れて打つ程に,小坂の有る
17 所をつっと打ち上せ,馬を下り頭
18 に成いて,味方の勢を待つ所に,成田
19 も同じ様に打ち上せて,物を言い合わうずる
20 かと思うたれば;平山をすげなさうに見ない
21 て,そこをつっと打ち伸びて,軈て唯伸びに先
22 に行く程に,哀れきゃつは平山をたばかっ
23 て,先を駆けうとするよと心得て,五六反先
24 立ったを一揉み揉うで追い付けて,平山ほ

(264)
1 どの者をばどこをたばかるぞ?吾殿は
2 と言うて,打ち過ぎて寄せたれば;平山が馬
3 遥か増して,その人には後ろ影も見えま
4 じいと語った.
5 夜は既に仄々と明け行く:熊谷
6 先に名乗ったれども,平山が名乗らぬ先に
7 猶名乗らうと思うて,又木戸の際へ歩
8 ませ寄せて,前のごとく名乗り,平家の侍
9 の中に我と思わう輩は駆け出せ,
10 見参せうと言えば,平家の侍共これを
11 聞いて,夜もすがら罵る熊谷親子引っ下
12 げて来うと言うて,進む者共は越中の次
13 郎兵衛,上総の五郎兵衛,悪七兵衛
14 景清を先として,究竟の者共二
15 十三騎,木戸を開いて駆け出た.平山は熊
16 谷が後ろに控えたに,城の内の者共
17 は熊谷より他は敵が有るとも知らなん
18 だに,平山は敵の木戸を開いて出るを
19 見て,目糟毛と言う馬に乗って熊谷が先
20 を駆け過ぎて,二十三騎が中へ喚いて駆け
21 入れば,城の者共熊谷ばかりかと
22 思うたれば,これは何として打ち取らうぞと罵
23 った.熊谷これを見て,平山を打たすまい
24 とて続いて駆くる.平山が駆くれば,熊

(265)
1 谷続く:熊谷が駆くれば,平山
2 続く,二十三騎の者共を中に取
3 り籠めて,火の出るほど戦えば,二十三騎
4 の者共は手痛う駆けられて,城の内へ
5 ざっと引き,敵を外様に成いて戦うた.
6 熊谷は馬の腹を射させて頻りに跳ね
7 たれば,弓杖突いて下り立った.嫡子の
8 小次郎は生年十六と名乗って戦うたが,弓
9 手の腕を射させて引き退き,馬から下り,
10 父と並うで立ったれば,熊谷これを見て
11 汝は手を負うたか?あう,弓手の腕を射させて
12 御座る:矢抜いて下されいと申せば,熊谷
13 暫し待て暇も無いぞ.常に鎧付きせい,
14 矢に裏掻かすななどと教えて戦うた:熊
15 谷鎧に立った矢共を打ち掛けて,城の
16 内を睨うで,罵ったは:去年の冬鎌
17 倉を出たよりして,命をば鎌倉殿に
18 奉る:屍は合戦の場に晒さうと思
19 い切った熊谷ぞ:室山,水島
20 二箇度の合戦に高名したと名乗る:越中
21 の次郎兵衛は無いか?能登殿は御座らぬか?高
22 名も敵に因ってこそすれ:人毎に会うては,え
23 せぬ物ぞ.熊谷に落ち合え,落ち合えと,罵
24 るに因って,越中の次郎兵衛はこれを聞いて,

(266)
1 熊谷に組まうずるとて,静かに歩ませ
2 て向かうが,熊谷これを見て,中を割られま
3 じいと親子間も空かさず立ち並うで,肩を
4 並べ,太刀を額に当て,後ろへは一引きも引
5 かず,愈先へ進んだれば:次郎兵衛これを
6 見て,適うまじいと思うたか,取って返す.熊谷
7 越中の次郎兵衛とこそ見れ,敵に後ろを
8 ば見せぬ物を熊谷に落ち合えと言
9 葉を掛くれども,烏滸の者と言うて,引き退
10 く.悪七兵衛これを見て,汚い殿原
11 の性哉と言うて,既に落ち合うて,組まうとて出
12 るを君の御大事これに限るまい,有るべうも無い
13 と言うて,取り留めたれば:力に及ばいで
14 出なんだ.
15 その後三人の者共猶手強う
16 戦うを,櫓の上の者共矢先を揃
17 えて散々に射る:然れども味方は多し,敵
18 は少なし,矢にも当たらず,駆け回るを唯
19 押し並べて組め組めと櫓の上から下
20 知したれども,平家の馬は乗る事は繁う,
21 飼う事は稀で,船に月日を送り立ったれ
22 ば,皆竦んで寄り付いた様なれば,熊谷,
23 平山が馬に一当て当てられては,蹴倒さ
24 れさうなれば,押し並べても組まず:平山

(267)
1 は郎等を打たせて,敵の中へ割って入り,軈て
2 その敵を打って出,熊谷も分捕りをした.
3 熊谷は先に寄せたれども,木戸を開か
4 ねば,駆け入らず.平山は後に寄せたれど
5 も,木戸を開いたれば,駆け入るに因って,熊谷
6 平山が一二の駆けをば争うた.さうする程
7 に成田の五郎も来る,トキの次郎も七
8 千余騎で押し寄せて,鬨をどっと作れば,
9 熊谷,平山も引き退いて,馬の息を
10 休めたと,聞こえまらした.
11 第八.大手生田の森
12 の合戦の事:同じく鵯越を
13 落とされ,越中の前司が討ち死
14 にの事.
15 右馬.して生田の森の方には何と有った
16 ぞ?
17 喜.大手生田の森には範頼その勢
18 五万余騎で卯の刻の矢合わせと定められた
19 れば,未だ寄せられなんだ.その手に武蔵の国
20 の住人河原太郎,河原次郎と言うて,
21 弟兄有ったが,河原太郎弟の次郎を呼うで
22 申したは:如何に次郎殿,卯の刻の矢合わせと

(268)
1 定まったれども,余り待つが心許なう
2 覚ゆるぞ:敵を目の前に置きながら,何
3 を期せうぞ?弓矢取る法はかうは無い物を:
4 身が鎌倉殿の御前で討ち死に仕
5 らうずと申した事が有る:然有れば城の内
6 を入って見ょうと思う:吾殿は生きて証人に立て
7 と言えば,次郎申したは:口惜しい事を宣う
8 物哉!唯弟兄有らうずる者が,兄を
9 打たせて証拠に立たうと申さうずるに,弓矢取る法
10 に良いと申さうずるか?某も迚も討ち死に
11 せうずるに,同じゅうは一所でこそ如何にも成らう
12 ずれと言うに因って,力及ばいで河原太
13 郎然らばと言うて下人共を呼び寄せ,故郷
14 に止め置く妻子の下へこの様共を
15 言い遣わし,馬共をば汝等に取らする:
16 生有る物なれば,命の有らう程は形見に
17 せいと言うて,馬にも乗らず,下人をも連れ
18 ず,唯二人下々を履き,逆茂木を乗り越
19 えて,城の内に入ったれども,未だ暗かったれ
20 ば,鎧の毛も定かに見分けぬに,河原太
21 郎弟兄立ち並うで,仮名実名を名乗り,
22 大手の先陣ぞと呼ばわれば,平家の方には
23 これを聞き,どっと笑うて申したは:東国の者
24 ほど全て恐ろしい物は無い:これほどの

(269)
1 大勢の中に唯二人入ったらば,何ほどの事
2 が有らうぞ?その者共を暫し置いて愛せよと
3 申す所に,河原弟兄立ち並うで,差し
4 詰め引き詰め散々に射る:究竟の手足れなれ
5 ば,矢頃に回るほどの者は外るる事
6 は無かった所で,この者共愛し過ごい
7 た:今は射取れ若い輩と言うたれば,備中
8 の住人真名辺の四郎,五郎と言うて,強弓
9 の精兵兄弟有ったが,五郎は一の谷に
10 置かれ,四郎は生田の森に居たが,これを見
11 て能っ引いて射れば,河原太郎が左の脇を
12 右の脇へつっと射出されて,弓杖に縋っ
13 て立つ所に,弟の次郎これを見て,
14 敵に首を取らすまいと思うたか,つっと寄って
15 兄を肩に引っ掛け,逆茂木を乗り越ゆるを
16 ナナベの四郎二の矢を番うて放せば,河
17 原次郎が右の膝口に当たって,兄と同
18 じ枕に倒れたを真名辺が郎等二人打ち
19 物の鞘を外いて,河原弟兄が首を
20 取って入った.
21 河原が下人共河原殿は早城
22 の内へ入って打たれさせられたと呼ばわったれば,梶
23 原平三これを聞いて,あら無残や!これは私の
24 党の殿原が不覚でこそこの弟兄をば打

(270)
1 たせたれ:惜物共をと言うて,木戸の際
2 に押し寄せ,足軽共寄せて,逆茂木引
3 き退かせ,五百余騎轡を並べ,喚
4 いて駆け入る;源太が次男景高余りに
5 進んで駆くれば,大将軍使者を立てられ,後陣
6 の勢も続かぬに,先駆けしたらう者を
7 ば,勲功有るまじと,言わるれば:景高控え
8 て,御返事に:
9 武士の取り伝えたる梓弓,
10 引いては人の返る物かは.
11 と仰せられいと,言い捨てて,駆け入って戦えば,皆
12 続いて戦うて,両方喚き叫ぶ声山
13 を響かし,馬の馳せ違う音は雷のご
14 とくで,源平いづれも暇も無い体と見えて
15 有ったと申す.
16 源氏大手ばかりでは勝負有りさうにも見え
17 なんだれば,七日の卯の刻に義経三千
18 余騎で,一の谷の後ろ鵯越に打ち上
19 って,ここを落とさうとせらるるに,この勢に驚
20 いたか,大鹿二つ一の谷の城の内へ
21 落ちたれば,これは何事ぞ?里近からう鹿
22 さえも我等に恐れて,山深うこそ入らうず
23 るに,只今の鹿の落ち様こそ恐ろしけれ
24 と騒ぐ所に,伊予の国の住人高

(271)
1 市何でも有れ,敵の方から来う物を余
2 さう様は無いと言うて,馬に打ち乗り,弓手に相付
3 けて,先な大鹿の真ん中射て留め,軈て二
4 の矢を取って次の鹿をも射止めて,思い
5 も寄らぬ狩りをしたと申したれば,越中の前
6 司詮無い殿原の只今の獣の射様哉!
7 罪作りにと制した.
8 義経鞍置き馬を二匹追い落とされたれ
9 ば,一匹は足打ち折って転び落ち,一匹は相違
10 無う平家の城の後ろに落ち着き,越中の
11 前司が館の前に身震いして立った.鞍置
12 き馬二匹まで落ちたれば,あわや敵が向かうわ
13 と騒動する所に,義経馬共主々
14 が乗って,心得て落とさうずるには損ずまじい:義
15 経はかう落とすぞと有って,真っ先に落とされたれば,
16 白旗三十流ればかり差し上げて三千騎ばか
17 り続いて落とす:後陣に落とす人々の鎧
18 の端先陣に落とす人の鎧兜に当たる
19 程でえいえい声を忍び忍びに力を付
20 け,岩交じりに細石で有れば,流れ落としに二町
21 ばかりざっと落といて壇の有る所に控えて,それ
22 から下を見下せば,大磐石が苔むいて釣
23 瓶立ちに十四五丈見下いた所で,兵
24 共今はこれから引き返さうずる様も無し,

(272)
1 ここを最後と言う所に,三浦の十郎汚
2 し殿,三浦の方では鳥一つ立っても朝
3 夕斯かる所をこそ馳せ歩け,これは馬場か
4 と言うて真っ先に落といたれば,これを見て,大勢
5 軈て続いて落とすが,余りのいぶせさに目
6 を塞いで落といた.大方人の仕業とは覚
7 えず:唯天魔の所為と見えたと申す.
8 落としも敢えず,鬨をどっと作る:三千
9 余騎の声なれども,山彦に答えて数万
10 騎と聞こえた:落としも敢えず,信濃の源
11 氏義国が手から平家の館に火を掛けた
12 れば,折節風が激しゅう吹いて黒煙は
13 押し掛かる:兵共煙に噎せて,射
14 落とし,引き落とさねども,馬から落ちふた
15 めき,余り慌てて前の海へ向かうて馳せ
16 入った.助け船は多けれども,物の具し
17 た者共が船一艘に四五百人,五六百
18 人我先にと込み乗らうに,なじかは良からう?
19 渚から五六町押し出すに,人一人も
20 助からず,大船三艘流れたれば,その後
21 は然るべい人達をば乗するとも,雑人共
22 をば乗するなと言うて,然るべい人を引き乗せ,次
23 様の者共をば太刀長刀で船
24 端を薙がせた.かう有るとは知りながら,敵に会う

(273)
1 ては死ないで,乗せまじいとする船に取り付き,掴
2 み付き,或いは腕打ち切られ,或いは肘を
3 打ち落とされて渚に倒れ伏して,喚き叫ぶ
4 声夥しかったと申す.能登殿は一度
5 も不覚をせぬ人ぢゃが,今度は如何にも適う
6 まいと思われたか,薄墨と言う馬に乗って,
7 播磨の明石へ落ちられ,兄の通盛は
8 近江の国の住人木村の源三と
9 言う者に七騎の中に取り籠められて,遂に
10 打たれられ,越中の前司も落ち行くが,いづく
11 へ行かば,逃れうかと思うたれば,控えて敵
12 を待つ所に,猪俣良い敵と目を掛け
13 て,鞭を上げ馳せ寄せ,押し並べて組んで
14 落ちた.
15 越中の前司平家の方には七十人の
16 力を表わいたと言う大力なり:猪俣は
17 東八箇国に聞こえた強か者なれども,
18 越中の前司が下に成る:余り強う押さえ
19 られて,物を言わうとすれども,声も出ず,
20 刀を抜かうと柄に手を掛くれども,動き得
21 ず:これほど猪俣を手込めにせうずる者こ
22 そ覚えぬ:哀れこれは平家の方に聞こゆ
23 る越中の前司かと思い,力は劣ったれど
24 も,剛の者で有ったに因って,少しも騒が

(274)
1 ぬ体で,抑御辺は平家の方では定
2 めて名有る人でこそ有るらう:敵を打つと言うは,
3 我も人も名乗って聞かせ,敵にも名乗らせ
4 て,打ったればこそ面白けれと言うたれば,越中
5 の前司安らかに思うて,これは越中の前司と
6 言う者ぢゃが:我君は誰そ?名乗れ聞かうと言うたれ
7 ば,武蔵の国の住人猪俣と申す者
8 ぢゃ:助けさせられい,平家既に負け軍とこそ見
9 えて御座れ:若し源氏の世に成ったらば,御辺の一
10 家親しい人々何十人も有れ,某が勲功
11 の賞に申し替えて奉らうと申したれば:憎
12 い君が申し様や!我身こそ不肖なれども,
13 なましいに平家の一門なれば,今更源
14 氏を頼まうとは思わぬ物をと言うて,軈
15 て取って押さえ,首を掻かうとする程に,猪俣
16 適うまいと思うたか,正無や降人の首切
17 る様や有ると言われて,然らばと言うて取って引き起こ
18 し,田の畔の有る所に,腰打ち掛けて居た:後
19 ろは山田の泥が深う,前は干上がって,
20 畑の様な所に足差し下ろいて二人物
21 語して,息を継いで居た所に,武者が一騎
22 歩ませて来るを越中の前司見て,あれは
23 誰ぞと問えば;苦しゅうも御座るまい,某が
24 親しい者に人見の四郎と申す者で御

(275)
1 座るが,某を尋ねて参ったと存ずると言え
2 ども,側な猪俣を打ち捨てて,今の敵を
3 いぶせさうに思うて,目も放さず守る所
4 に,哀れあれ等が近う成る程ならば,今一度
5 組まうずる物を:組む程ならば,人見が
6 落ち合わせて力を合わせぬ事は有るまいと
7 思うて待つ所に,人見が次第に近付
8 くに因って,猪俣つっと立ち上がって力足
9 を踏んで,拳を握って,越中の前司が胸
10 板を丁ど突く:思いも掛けぬ事なれば,
11 後ろの水田へ仰のけに突き入れられ,起き上がらう
12 とする所に,猪俣上にむずと乗り掛かり,軈
13 て敵の刀を抜いて,草摺りを引き上げ柄
14 も拳も通れ通れと三刀差いて首
15 を取って,人見が落ち合うて論ずる事も
16 有らうかと思うて,前司が首太刀の先に貫
17 いて差し上げて,平家方に聞こゆる越中の
18 前司をば猪俣かうこそ打てと,高らかに名乗って,そ
19 の日の高名の一の筆に付けられたと,申す.
20 第九.平家の一門の
21 人々多う打たれられたその中に,敦盛
22 熊谷に会うて討ち死にの事.
23 右馬.御草臥れ有らずは,まっと御語り有れ.

(276)
1 喜.心得まらした:一の谷の戦敗
2 れて後,通盛,忠度を始め,歴
3 々の一門の人々打たれられ,重衡は生け
4 捕られた.その内に敦盛をば熊谷が
5 打って御座る.熊谷は良からう敵がな一人
6 と思うて,待つ所に武者一騎沖な船
7 に目を掛けて五反ばかり泳がせて来る.熊
8 谷これを見て,扇を上げ,返せ返せ
9 と招けば;取って返し,渚へ打ち上ぐる所
10 を熊谷願う所なれば,駒の
11 頭も敢えず,押し並べて組んで落ち,左右の
12 膝で敵が鎧の袖をむずと押さえ,首
13 を掻かうと兜を取って押し退けて見れば,未
14 だ十六七と見えた人の真に清気
15 なが薄化粧して鉄漿付けられた:熊谷
16 これは平家の公達でこそおわすらう:侍
17 ではよも有らじ:熊谷が小次郎を思う様
18 にこそこの人の父も思わせられう:いとお
19 しや!助けまらせうずると思う心が付いて,刀
20 を暫し控えて,如何なる人の公達で御
21 座るぞ?名乗らせられい,助けまらせうずると申せ
22 ば;汝は何たる者ぞと問わるれば,その
23 者にては御座無けれども,熊谷と申す
24 者で御座ると申せば;扠は汝が為に

(277)
1 は良い敵ぞ:汝に会うては名乗るまい,只今
2 名乗らねばとて,隠れ有らう者か?首実検の
3 時易う知れうぞ,急いで首を取れと有ったれば;熊
4 谷思う様は:只今この人打たねばとて,
5 源氏勝たうずる戦に負けうでも無し:打ったれば
6 とて,それには因るまじいと思うたれば,助け奉
7 らばやと後ろを顧みる所に,味方
8 の勢五十騎ばかり来る間,熊谷助け
9 たりとも,遂にこの人逃れさせられまじけれ
10 ば,後の御孝養をこそ仕らうずれと
11 て,御首を掻いて後に聞けば,修理の大
12 夫の末の子敦盛と申して,生年十七
13 で有った:御首を包まうずると鎧直垂
14 を解いて見れば,錦の袋に入った笛を引き
15 合わせに差された.これは父修理の大夫幼少
16 の時,鳥羽の院から下された小枝と言う笛
17 で御座る.熊谷これを見ていとおしや!今朝城
18 の内に管弦させられたはこの君でこそ
19 御座るらう:当時味方に東国から上った兵
20 幾千万か有らうずれども,合戦の場に笛
21 を持った人はよも有らじ;何としても上﨟は
22 優に優しい物ぢゃと言うて,これを義経の
23 見参に入れたれば;見る人聞く者涙を
24 流さぬは無かったと,申す.それからして熊谷

(278)
1 が発心の思いは進んだと聞こえまらした.
2 そう有って敦盛の御形見を沖な船に送
3 り奉らうとて,最後の時召された御装束
4 以下一つも残さず,取り添えて状を書いて
5 修理の大夫殿へ奉ったれば,返状も
6 御座った.
7 第十.通盛の北
8 の方,小宰相の局通盛に遅
9 れ,身を投げられた事.
10 右馬.その戦が敗れてからは何と有ったぞ?
11 喜.平家は戦敗るれば,先帝を始め奉
12 り人々船に取り乗って,海に浮かび,
13 或いは葦屋の沖に漕ぎ出だいて,波に漂
14 う船も有り;或いは淡路の瀬戸を押し渡っ
15 て,島隠れ行く船も有り;未だ一の谷
16 の沖に漂う船も有り;浦々,島々が
17 多ければ,互いに生死も知り難かったと,聞こ
18 えまらした.平家国を靡かす事も十四
19 箇国,勢の従う事も十万余騎,都
20 へ近付く事も思えば,僅かに一日
21 の道で有ったれば,今度は然りともと思
22 われた.一の谷をも落とされて心細う成

(279)
1 られた:海に沈んで死するは知らず,陸に掛
2 けた首の数二千余人と記された:一の
3 谷の小笹原緑の色も引き替えて薄紅
4 に成った.今度の合戦に打たれられた一
5 門の人々通盛を始め,十人の首
6 都に入り,重衡は生け捕りにせられて渡
7 されられた.二位殿これを聞かせられて,弓矢
8 取りの討ち死にする事は世の常ぢゃが,重
9 衡は今度生け捕りにせられて如何ばかりの事を
10 思うらうとて,御泣き有れば;北の方も様を
11 変ようずると有ったを,先帝の御乳母で有ったに
12 因って,何として君をば捨てまらせられうぞと二位
13 殿制しさせられたれば,力に及ばず明
14 し暮らされた.通盛の侍に滝口と
15 言う者北の方へ参って,泣く泣く申したは:
16 殿は早敵七騎が中に取り籠められて,
17 遂に討ち死にさせられた.
18 滝口も軈てそこで御供に討ち
19 死にをも仕らうずるが,かねがね御事
20 をのみ仰せられ,我は暇も無う戦の場に
21 向かう:我如何にも成らう所で後世の御供
22 仕らうと,相構えて思うな:唯命
23 生きて御行方を見継ぎまらせいと,然しも
24 仰せられたに因って,甲斐無う命生きてこれまで

(280)
1 参って御座ると申しも敢えず泣いた.
2 北の方聞こし召しも敢えず,思い入らせら
3 れた気色で,伏し沈んで嘆かれ,一定打た
4 れられさせられたとは聞きながら,若しや生きても
5 御返り有り,僻事でも有るかと二三日は唯
6 仮初に出た人を待つ様に待った事こ
7 そ悲しけれ;空しゅう日数も過ぎ行けば,
8 若しやの頼みも掻き絶えて,心細う思い
9 有り,乳母の女房唯一人有ったも同じ
10 枕に伏し沈んで泣いた:二月の十三日
11 夜も更け行く程に,北の方乳母の
12 女房に掻き口説いて言わるるは:哀れや明日打ち
13 出うとての夜然しも戦の庭に妾を呼うで,
14 扠も通盛が儚い情けに都の
15 内を誘われ出で,習わぬ旅の空に漂う
16 て,既に二年を送られたに,些かも思い込
17 めた色の終わりの無かったこそいつの世にも忘
18 れ難けれ:我は暇も無う戦の庭に向
19 かえば,我如何にも成って後,如何なる有り様
20 でおぢゃらうずるかと思えば,それも心苦
21 しいなどと有ったが哀れさに,我も唯ならず
22 成った事を言うたれば,斜めならず喜うで,
23 通盛既に三十に成るまで,子と言う事
24 も無かったに,嬉しい事ぢゃ:憂世の忘れ形見

(281)
1 は有らうず:但しいつと無い波の上,船の内
2 の住まいなれば,身身と成らうも心苦しい
3 などと言い置いたも儚い予言で有った.有りし
4 六日の暁を限りとだにも思うたな
5 らば,何故に後の世と契らいでは有らうぞ?平ら
6 かに思い過ぎたりとも,幼けない者を育てて
7 見ょうずる折々には,昔の人のみ恋しゅうて,
8 思いの数は増さるとも,慰む事は如何
9 でか有らうぞ?長らえたらば,又思わぬ節
10 も有りもせうず:若し思わぬ節有らば,草の
11 陰で見ょうずるもうたてい:今は中々見
12 初め,見え初めた契りさえ恨めしければ,生きて
13 居て暇無う物を思わうよりは,唯火の中へ
14 も,水の底へも入らうずると思い定めて
15 有るぞ.扠も扠もそれに付けてもこれまで御
16 下り有った志こそ有り難い事ぢゃ.書き置い
17 た文共を都へ御上せ有れ,これは後
18 の世の事を申し置くなどと来し方行
19 く末の事共を語り続けてさめざめ
20 と泣かれたれば,乳母の女房日頃は何た
21 る事が有れども,御泣き有るばかりで捗々しゅう
22 物をも仰せられぬ人の,例ならず斯様に仰
23 せらるる事の怪しさよ:真に千尋の底
24 にも沈ませられうずるかと浅ましゅう覚え

(282)
1 て,今度打たれさせられた人々の北の方いづ
2 れか疎かな事が御座らうぞ?必ず御身
3 御一人の事では無い:身身と成らせられて,
4 幼けない人をも育てさせられ,無き人の御形
5 見にも御覧ぜられいかし,それにも御心の
6 行かざらう時こそ,御様を変えさせられて,後
7 の世をも弔い参らせらるるならば,良う御座
8 らう.
9 されば水の底に沈ませられたればとて,
10 無い人を御覧ぜられう事は難からうず:実に
11 も然様に御座らば,妾をもいづくまでも
12 召しこそ具せられうずれと,申したれば,北の方
13 思いの余りにこそ言うたれ:如何に思うとも水
14 の底に沈まうとは思わぬ:今宵は
15 遥かに更け行くらう,いざ寝うと有って,寄り臥さるれば,
16 乳母の女房頼もしゅう思うて,ちっと打ち伏
17 し少し寝たれば;北の方起きて船端へ
18 出て漫々たる海上で有れば,いづちを西と
19 は知らねども,月の入るさの山の端をそ
20 なたかと伏し拝うで,静かに念仏召さるれ
21 ば,沖の白州に鳴く千鳥友迷わすか
22 と覚ゆるに,天の戸渡る梶の声微か
23 に聞こゆるえいや声いとど哀れや勝りつらう:
24 南無西方極楽世界の弥陀如来飽かで別

(283)
1 れた妹背の仲再び必ず同じ蓮
2 に迎えさせられいと,掻き口説き,南無と唱
3 ゆる声共に海に沈まれたれども,屋島
4 へ漕ぎ渡る夜半の事で有れば,人これ
5 を知らなんだ.
6 かん取りが一人寝なんだがこれを見て,あら浅
7 ましや!女房の海へ入らせられたぞやと,申せば:
8 その時乳母の女房この声に驚いて,
9 側を探れども,手にも触らず,人も
10 無し:呆れた声で船端に取り付き兎角
11 言い遣る方は無うて,あれあれとのみ申した.その時
12 人数多下りて,取り上げ奉らうとしたれ
13 ども,春の夜の習いに霞む物なれば,
14 四方の群雲が浮かうで被けども,被
15 けども月が朧で見えなんだ.やや有って
16 被き上げたれども,早此の世に無い人と御
17 成り有って,白袴に練貫二重引き巻いてお
18 りゃったが,髪も袴も潮垂れて,引き上げた
19 れども,甲斐も無かった.乳母の女房御手に
20 取り付き奉って,恨めしや老いた親にも
21 別れ,幼けない嬰児をも振り捨て,これま
22 で付きまらして下った甲斐も無う,如何に斯く憂き
23 目をば見せ給うぞと,泣き口説いたれども,早
24 通うた息も絶えて,今は事切れ終わって見え

(284)
1 たれば,いづくを差いて落ち着かうとも覚えね
2 ば,いつまでかうしては置き奉らうぞと有って,
3 通盛の鎧の一領残ったに引き巻いて,
4 又海に沈め奉った.乳母の女
5 房この度遅れ奉るまじいと言うて,続
6 いて海へ入らうとするを人数多取り留むれ
7 ば,船底に倒れ伏し,喚き叫ぶ事斜
8 めならなんだ.余りの詮方無さに,白髪
9 を剪み下ろすを通盛の弟中納
10 言泣く泣く髪を剃って,戒を授けられたと
11 申す.昔から夫に遅るる類い多い
12 と申せども,様を変ゆるは世の常の習
13 いなれども,目の前に身を投ぐる事は
14 有り難い例ぢゃ.されば忠臣二君に仕えず,
15 貞女両夫に見えずと言う事も思い知ら
16 れて哀れに御座る.
17 第十.都で平家の
18 一門の首を渡いた事と,三位の
19 中将夫婦の沙汰.
20 右馬.この茶を飲うで息を継いで,まちっと
21 御語り有れ.
22 喜.はあ,これは忝い:冥加も無い御茶で

(285)
1 こそ御座れ:極と見えまらして御座る.寿永
2 三年二月十二日去んぬる七日に一の
3 谷で打たれた平家の首共京へ入れば平家
4 に縁の結ぼおれた人々我が方様に何
5 事をか聞き,何たる憂き目をか見ょうと言うて,嘆
6 く人々が多かった:その中に大覚寺
7 におぢゃった小松の三位中将の北の方は
8 西国へ討手の向かうと聞く度に,今度の戦
9 に中将の如何なる目にか会い給わうずらうと静
10 心無う思わるる所に,平家は一の
11 谷で残り少なう滅び,三位の中将と言う公
12 卿一人生け捕られて上らるると聞こえたれ
13 ば,北の方この人に離れまじい物をと
14 泣かるるに,或る女房が来て申したは:三位の
15 中将と申すは本三位の中将の御事で
16 御座ると申したれば,扠は首共の中に
17 こそ有るらうとて,猶心安うも思い遣らなん
18 だ.同じ十三日に仲頼以下の検非違使
19 等平家の首共受け取って,大道を渡し,
20 獄門に掛けうずる由を奏したれば,法皇思
21 し召し患わせられて,太政大臣その他
22 の公卿五人仰せ合わせらるれば,この人々
23 は先朝の御時戚里の臣で,久しゅう君に
24 仕えられた:中にも斯様の人々の首大

(286)
1 道を渡さるる事先例無い儀ぢゃ.範
2 頼,義経等が申し状強ちに御許容
3 有らうずる事で無いと,申されたれば:扠は渡され
4 まじいで有ったを,父義朝が首大道
5 を渡し獄門に掛けられて御座る:父の
6 恥を濯がう為,君の御憤りを休め
7 奉らうと存じたれば,忠を重んじ,命
8 を軽んじて御座る.申し請う所御許され
9 無くは,自今以後何の勇め有ってか朝敵を滅
10 ぼしまらせうぞと,義経殊に怒り申されたれ
11 ば,然らばと有って遂に渡された:見る人川原に
12 市を成いて御座る.
13 大覚寺に隠れておぢゃった三位の中将の
14 若君六代ごぜに付き奉った斎
15 藤五,斎藤六は無官な上は,痛う人に
16 も見知られまじいと思い,この一二年は隠
17 れ居たれども,余り覚束無さに,様を窶
18 いて見たれば,三位の中将殿の御首は
19 見えなんだれども,皆見知った首共で有る
20 に因って,目も当てられず,涙も更に塞き敢え
21 ず,余所の人目も怪し気なれば,空恐ろ
22 しゅう思うて,急ぎ大覚寺へ立ち返った.北
23 の方先づ如何にと問わせらるれば,小松
24 殿の公達の中には備中の守の

(287)
1 御首ばかりこそ渡されさせられたれ:その他そ
2 の御首その御首と申せば,いづれとても人
3 の上で無いと有って,泣かれた.斎藤五,斎藤六
4 重ねて申したは:今日良う案内を知った者
5 が御座ったが申したは:小松殿の公達
6 は三草の手を固めさせられて御座ったが,源
7 氏共に破られて,屋島へ渡らせられたと
8 申す.扠三位の中将殿は何とと,問い
9 まらしたれば,その日の戦以前に,大事の御労
10 りで屋島へ渡らせられたに因って,今度
11 の御事は戦には合わせられぬとこそ申して
12 御座れと申せば:北の方いとおしやそれも唯
13 思い嘆きの積もって,病とこそ成っ
14 つらう:何たる患いぞ?扠も覚束
15 無やと仰せらるれば,若君も,姫君も
16 何の御労りぞとは問わなんだかと有ったれば,斎
17 藤五身ばかりさえも忍び兼ねて御座る者
18 が,何の御労りぞなどとまでは何として
19 問いまらせうぞと申せば;北の方真にと言う
20 て,泣かれた.
21 三位の中将も通う心なれば,都
22 に然こそ我を覚束無う思うらう:首共
23 の中には見えねども,水の底にもや
24 沈みつらうと嘆きなどせう程に,未だ此

(288)
1 の世に長らえたと知らせたうは思われたれど
2 も,忍びの住処を人に見せうも流石な
3 ればと言うて,泣く泣く明し暮らされた.夜々に
4 成れば,重景ぢゃは,石童丸などと言う
5 者などを傍らに召し,都には只今
6 我が事をこそ思い出すらう:幼けない者
7 共は忘るるとも,人はよも忘る暇は
8 有るまじい:兎角唯一人いつと無う明し暮らすは
9 慰む方も無けれども,通盛の上
10 を見れば,賢うこそ幼い者共を都
11 に止め置いたれと有って,泣く泣く喜ば
12 れた.
13 北の方商人の便りに文などの自
14 づから通うにも,何とて今まで迎い取ら
15 せられぬぞ?疾うして迎えさせられい,幼い者
16 共斜めならず恋しがり奉る:我
17 も尽きせぬ物思いに長らえつべうも
18 無いと,細々と書き付けられたれば:三位
19 の中将この返事を見て,今更又何事
20 を思い入ってやら,伏し沈んで嘆かれた.大
21 殿も,二位殿もこれを聞かせられて,然らば
22 北の方幼い人をも迎い御取り有って,
23 一所で如何にも御成り有れと有れども,我が身こ
24 そ有らうずれ,人の為には如何と言うて,泣く泣

(289)
1 く月日を送られたにこそ,せめて志
2 の深い程も現われた.然て有らうずる事で
3 も無ければ,近う召し使われた侍一
4 人仕立てて都に上せられたに,三つの文
5 を書かれた.北の方への御文には一
6 日片時の絶え間をさえもわりなう思うたに,空
7 しい日数も隔たって,都には敵が充満
8 して,我が身一つの置き所さえも無いに,幼
9 けない者共引き具して,然こそ心苦しゅう
10 おわすらう:疾うして迎え取り奉り,一所で
11 如何にも成らばやなどとは思えども,御
12 為に心苦しゅう有ればなどと細々と
13 書いて,奥に一首の歌を書かれた.
14 いづくとも知らぬ逢瀬の藻塩草,
15 書き置く後の形見とも見よ.
16 幼い人への御文には,徒然をば
17 何として慰むぞ?疾うして迎え取らうぞ:然
18 こそ有らうずれなどと書いて,奥には六代殿
19 へと書いて日付けせられた.これをば我如何
20 にも成って後形見にも見よかしとて,三
21 位の中将殿かうは書かれたと聞こえた.
22 御使い都へ上って,この文共を
23 奉れば,北の方は見させられて,思い
24 入って嘆かれた.御使い急いで下らうずる由を

(290)
1 申せば,然りとても暫し御返事の有らうずるぞと
2 有って,泣く泣く起き上がり細々と返事遊ば
3 されて渡された.若君姫君も筆を染
4 めて,扠御返事は何と書かうぞと仰せらるれば,
5 北の方唯ともかうもわごぜ達の思
6 わうずる様に書けと仰せられたれば:何とて今
7 までは迎え取らせられぬぞ?疾うして迎え取
8 らせられい:あら御恋しや,御恋しやと言葉も
9 変わらず,二人共に同じ言葉に書かれた.
10 御使い屋島へ下ってこの返事を参らせた
11 れば,三位の中将北の方の御文より
12 も,若君,姫君の恋し恋しと書かれた
13 を見て,今一際詮方無うは思われた.三
14 位の中将今はいぶせかった故郷の事も伝
15 え聞かれたれども,妻子は固より心を患
16 わする物なれば,物思いも弥
17 増しに成り,今は穢土を厭うに便りが有る:閻
18 浮愛執の絆が強ければ,浄土を願うに
19 倦み,今生では妻子に心を砕き,当来で
20 は地獄に落ちょう事が心憂い.然有ればこれ
21 から都へ上って妻子を見て後,妄念を
22 離れて自害せうには如くまじいと定められた
23 と,聞こえまらした.

(291)
1 第十一.重衡都
2 を渡されて後,三種の神器を屋島
3 へ所望せられた事:同じくそ
4 の北の方の事.
5 右馬.重衡は何と御成り有ったぞ?
6 喜.重衡は六条を東へ渡されて
7 御座った.入道清盛公にも,二位殿に
8 も思い子で御座ったれば,一門の人々に
9 も持て成されて,院内へ参らせらるれば,当家
10 も,他家も所を置いて敬われたが,今
11 は運尽き果てて,六条を東の川原ま
12 で渡されてから,故中の帝の作られ
13 た堀河の堂へ入れ奉った.トキの次郎
14 は木蘭地の直垂に,緋縅の鎧着て,
15 重衡に同車し奉り,兵共
16 六十人余り具して守護した.院から御使い
17 に蔵人と言う者が参ったれば:重衡
18 対面有るに,昔は何とも思われなんだ
19 蔵人を今は恐ろし気に思われた.蔵
20 人申したは:勅諚には所詮三種の神
21 器をさえ都へ入れられたならば,西国へ遣
22 わされうと有る:この趣を仰せられいと申

(292)
1 したれば,重衡今は斯かる身に成って御座れ
2 ば,一門に面を合わせうずるとも存ぜぬ.
3 女性で有れば,二位の尼などは今一度見ょう
4 とも思われうか,その他には哀れを掛けう
5 ずる者有らうずるとも存ぜぬ:然れども院
6 宣さえ下されば,申して見ょうずと有れば,蔵人
7 この様を奏聞致せば,法皇軈て院宣
8 を下された.その趣は,三種の神器を
9 さえ都へ返し入れらるるならば,重衡の死
10 罪を宥めて,返されうずると書かれた.御使
11 いには御坪の召し次ぎの花方を下
12 された:三位の中将の御使いには古召し
13 使われた重国を遣わされた.大殿
14 時忠卿へ勅諚の趣を条々
15 申し下され,母の二位殿にも細かに御
16 文を持って今一度御覧ぜられうと思し召さ
17 れば,内侍所の御事良く良く仰せられいと,
18 書かれた.北の方へも御文を遣わされう
19 と思われたれども,私の文は許され
20 ねば,言葉で戦は常の事なれども,去ん
21 ぬる七日を限りとも知らいで別れ奉
22 った事心憂う存じたなどと言い含めら
23 れた.
24 御使い屋島へ下って,この院宣を奉

(293)
1 れば,二位殿は重衡の文を御覧
2 ぜられて,この文押し巻いて,大殿の御前
3 に倒れ伏し,仰せらるるは:何の様か有らう?早
4 内侍所返し入れ奉って,重衡助
5 けて御見せ有れ:世に有らうと思うも子供の
6 為ぢゃ:我を助けうと思い有るならば,重
7 衡を今一度御見せ有れと泣かれた.又人々
8 申したは:帝王の御位を持たせらると申す
9 は,偏に内侍所の故ぢゃ:これを都
10 へ返し入れられば,君は何の御頼もしで
11 世にも御座らうぞ?如何でか君を捨てまらせられ,
12 多くの一門をば滅ぼさうとは思し召す
13 ぞと面々に恨み申されたれば,二位殿も
14 力及ばせられなんだ.
15 時忠院宣の御使い花方を召し
16 寄せて汝は花方か?多くの波路を
17 凌いで,これまで御使いしたに,一期が間の
18 思い出一つさせうと言うて,花方が顔に浪
19 方と言う焼き印を押された.帰り参ったれ
20 ば,法皇これを叡覧有って,縦し縦し然らば浪
21 方とも召せかしと,仰せられた.
22 然る程に平家の人々院宣の御返事を
23 申さるるその趣は:当家の数輩一の谷
24 で打たれて御座れば,何ぞ重衡一人を

(294)
1 助けらるるとても,喜びまらせうぞ?三種の
2 神器の事は思いも寄らぬ事ぢゃと事
3 も無気に書いて返された.重衡これを御
4 聞き有って然こそ有らうずれ:如何に一門の人々
5 の我を憎う思わるるらうと後悔召さるれ
6 ども,甲斐も無かったと申す.さうして後重
7 衡トキの次郎を召して,出家の望み,志
8 が有るをば何とせうぞと,仰せらるれば:ト
9 キの次郎この様を義経に申す:義経
10 院へ奏聞せられたれば;有るべうも無い:頼朝
11 に見せて後こそ,法師にも成さうずれと有って,御許
12 され無かったれば,力に及ばれず,我が在
13 世の時見参した聖に後世の事を申し
14 合わせうと思うは,何とと有れば;トキの次郎それは
15 誰で御座るぞ?黒谷の法然坊と仰せら
16 れた.然らばと言うて法然上人を請ずれば;重
17 衡出迎い申されたは:扠も南都を滅
18 ぼいた事,世には皆重衡一人が所行
19 と申せば,上人も然ぞ思し召すらう:全く
20 重衡が下知ではおりない:悪党が多う籠もっ
21 て居たれば,何たる者の仕業か存ぜぬなど
22 と種々様々の事を語られた.その他
23 出家は許されねば,力に及ばぬ:髻
24 切って,忽ち授戒させられいかしと申され

(295)
1 たれば:上人泣く泣く頂ばかり剃って,戒を
2 授け,その夜は上人もそこに留まられた.
3 重衡扠も快い善知識哉と喜
4 うで,年来常に御座って遊ばせられた侍
5 の下に預け置かれた御硯の有ったを召し
6 寄せられて,これは清盛の大唐から渡いて,秘
7 蔵して持たれたを重衡に呉れられた.名をば
8 松陰と申して,名誉の硯ぢゃ:これを
9 御目の通わう所に置かせられて御覧ぜられう
10 度に,重衡が縁と思し召し出だいて,後
11 世弔うて賜われと有って,奉らるれば:上
12 人これを受け取って,懐に入れ涙を押
13 さえ出られた.
14 八条に政時と言う侍が有ったが,暮
15 れ方にトキの次郎が下に来て申したは:こ
16 れは元召し使われた政時と申す者
17 ぢゃ:この一門都落ちの頃は未だ
18 幼少に御座ったに因って,弓の本末をも存
19 ぜなんだれば,唯汝は留まれと仰せられて,
20 西国へは御供仕らなんだ:なじかは
21 苦しゅう御座らう:御許され有れかし,夕さり参って,
22 何と無い事共申して,慰めまらせうと
23 申せば:トキ次郎刀をさえも差されずは,苦
24 しかるまじいと,申すに因って,太刀と刀をば

(296)
1 預けて,政時参ったれば:重衡これを
2 御覧ぜられて,如何に政時かと有れば,その御事
3 で御座ると申して,その夜は留まって昔
4 今の事共語り続けて,慰め
5 奉る.夜も既に明くれば,暇申し
6 て返らうとする時,重衡北の方への御
7 文を遊ばされて,これを届けいと仰せらるれ
8 ば,政時参って窺えば,いとおしやここにも
9 同じ心で重衡の事仰せ出ださるれば,
10 御局の下ろしをほとほとと叩けば,内
11 から誰そと問わるる:古重衡の御使い
12 に参り慣れた政時が参ったと申しも敢え
13 ず,御文が御座ると申せば,重衡の文
14 と言うが嬉しさに,人しても取られず,自
15 ら出て取り開いて見らるれば,細々と書いて,
16 奥には一首の歌を書かれた.
17 涙川浮き名を流す身なれども,
18 今一入の逢瀬ともがな.
19 北の方の御返事には.
20 涙川我も浮き名を流すとも,
21 底の藻屑と共に成りなん.
22 と,書いて渡されたを政時取って走り帰って,重
23 衡へ奉ったれば,重衡トキの次郎
24 を召してこの程に関東に下らうと聞く,下

(297)
1 らぬ先に,北の方を今一度見ょうと思うは
2 如何にと仰せらるれば:トキの次郎女房にて御座
3 れば,何か苦しゅう御座らうと申すに因って,政時
4 を内裏へ御迎いに遣わさるれば,北の方軈
5 て出でさせらるれば,片方の女房達武士共
6 の幾らも有る中へ何と見苦しゅうと申し
7 合われたれども,これならではいつの世にかは見ょう
8 ずと有って,急いで車に乗り,トキ次郎が下
9 へ御座って,昔今の事共語り返ら
10 るれば,重衡:
11 会う事も露の命も諸共に,
12 今宵ばかりや限りなるらん.
13 御返事に.
14 会う事も限りと聞けば,露の身の
15 君より先に消えぬべき哉.
16 その後は互いに会わるる事も適わず,重
17 衡南都へ渡され,御切られ有ったと聞こ
18 えたれば,様を変え,型のごとく仏事を
19 営み,後生を弔われたと
20 申す.

(298)
1 第十二.重衡の東
2 下りの事,同じく千手の前
3 が沙汰.
4 右馬.迚もの事に重衡の東
5 下りの事をも御語り有れ.
6 喜.ここはとっと面白い所で御座る
7 程に,本本に節を付けて語りまらせう.鎌
8 倉の先の右兵衛の助頼朝頻りに
9 申されければ,三位の中将重衡をば三
10 月十三日に関東へこそ下されけれ:梶
11 原平三トキの次郎が手より受け取って,具し奉
12 ってぞ下りける.西国より生け捕られて
13 故郷へ返るだに悲しきに,なじか又東
14 路遥かに赴き給いけん心の内
15 こそ哀れなれ.粟田口を打ち過ぎて,四の
16 宮川原にも成りければ,ここは昔延
17 喜第四の皇子蝉丸の関の嵐に心
18 を澄まし,琵琶を弾じ給いしに,博雅の
19 三位夜もすがら雨の降る夜も,降らぬ夜も三
20 年が間,琵琶の秘曲を伝えけん:藁屋の
21 床の旧跡も思い遣られて哀れなり.
22 逢坂山を打ち越えて,瀬田の長橋駒
23 も轟と踏み鳴らし,志賀の浦波春

(299)
1 掛けて,霞に曇る鏡山,比良の高
2 嶺を北にして,伊吹が岳も近付きぬ.
3 心止まるとは無けれども,荒れて中々優
4 しきは,不破の関屋の板庇,如何に鳴
5 海の潮干潟,涙に袖は絞りつつ,か
6 の在原の業平が唐衣着つつ慣
7 れにしと詠じけん,三河の国八橋にも
8 成りしかば,蜘蛛手に物をと哀れなり:浜
9 名の橋をも過ぎければ,池田の宿にぞ着
10 き給う:かの宿の遊君熊野が下にぞ宿
11 し給う.熊野は三位中将を見奉って,
12 いとおしや古はこの御様にて東方
13 へ下り給うべしとは,夢にも思わざりし
14 事をと申して,一首の歌をぞ奉る.
15 旅の空埴生の小屋のいぶせさに,
16 如何に古里恋しかるらん.
17 三位の中将の御返事に.
18 古里も恋しくも無し旅の空,
19 都も終の住処ならねば.
20 右馬.はあ節でも面白いが,所に因っ
21 て聞こえ兼ぬる:唯物語に召されい.
22 喜.ともかうも御意に従え時鳥と
23 申す事が御座る,心得まらした.さうさうして
24 日数が重なれば,漸う弥生も半ば過ぎ,

(300)
1 遠山の花は残る雪かと見えて浦々島
2 々も霞み渡り,来し方行く末を思
3 い続けて何たる宿業かと悲しまれた
4 れども,甲斐も無かった.葛楓木々の葉茂
5 って心細う宇津の屋手越を過ぎ行
6 かるれば,北に遠ざかって,雪の白う降り積
7 もった山が有ったをあれはいづくぞと御尋ね有れ
8 ば,甲斐の白根と申した.その時重衡:
9 惜しからぬ命なれども今日までは,
10 つれなき甲斐の白根をも見つ
11 清見が関も過ぐれば,富士の裾に成っ
12 た.北には青山が峨々として,松吹く風
13 もさっさっとし,南は滄海が漫々とし
14 て;岸を打つ波も茫々と有った:足柄山
15 をも打ち過ぐ,急がぬ旅とは思えど
16 も,日数も漸う重なれば,鎌倉へ御
17 入り有った.頼朝重衡に対面有って,会稽の
18 恥を濯いで,君の御憤りを休め奉
19 らうと存じたれば,平家を滅ぼし奉
20 らう事案の内で御座った.然る程に目の前
21 に斯様に見参に入らうとは思いも寄らなん
22 だれども,定めて今は屋島の大殿の
23 見参にも入りつべしいと存ずる.抑奈
24 良を御滅ぼし有った事,清盛入道の御計

(301)
1 らいか;又は臨時の御事かと有ったれば,重
2 衡一門運尽きて,都を既に落ちま
3 らした上は,屍をば山野にも晒し,江海
4 にも沈めうとこそ存じたれ:これまで下
5 らうとは思いも寄らず,殷王はヨウタイに捕らわ
6 れ,文王はヨウリに捕らわれたと聞こえたれば,弓
7 矢取る身の敵の手に捕らわれて滅ぼさるる
8 事,昔から皆有る事で重衡一人に
9 限らねば,今更恥ぢょうず事で無けれども,
10 前世の宿業が口惜しゅう御座る:唯芳恩に
11 は疾う疾う首を撥ねられいと有って,その後は物
12 をも仰せられず,さうして伊豆の国の住人
13 宗茂に預けられた:その体真に哀
14 れに御座った.
15 宗茂は情けの有る者で,様々
16 に労わり慰め奉り,湯殿を構え,
17 御湯を引かせ奉りなどした.或る時湯殿
18 に御下り有れば,頼朝から介錯の為
19 に二人の女房を遣わされたが,返らうずると
20 て,暇乞いして申したは:何事でも御座れ,
21 思し召さうずる事を承って申せとこそ
22 頼朝より仰せられて御座れと,申せば:重
23 衡笑うて只今何事をか申さう?近う切ら
24 るる事もや有らうと思えば,髪こそ剃りたけ

(302)
1 れと有れば,この女房帰り参って,この様を
2 申せば:頼朝が私の敵で有りなが
3 ら,既に朝敵と成る人なれば,出家は有る
4 べうも無いと言われた.重衡守護の武士に向
5 かうて,扠もこの女は幼気な者ぢゃ:名を
6 ば何と言うぞと仰せらるれば:宗茂畏
7 まって申したは:あれは手越の長者が娘
8 で御座るが,心様が優なと有って,頼朝
9 この三四年召し使わるるが,名をば千
10 手の前と申すと,語った.頼朝重衡
11 のかう仰せらるる由を伝え聞かせられて,
12 この女房を華飾仕立てて,重衡の下
13 に遣わされた.或る暮れ方に雨降り,世間
14 打ち静まって物凄まじかった折節,件
15 の女房琵琶琴を持たせて参った.宗
16 茂も家の子郎等十人余り具して御前
17 へ参り,酒を勧め奉らうとて,畏
18 まって申したは:頼朝より良く良く宮仕
19 い申せ:懈怠にして頼朝恨むなと,承
20 って御座れば,宗茂が心の及
21 びまらせう程は,宮仕え申さうずると言うて,
22 御酒を勧めた.千手の前酌を取って参っ
23 たれども,重衡いと興も無気に御座ったれ
24 ば,宗茂そこで何事でも有れ,一声

(303)
1 申して,御酒御申し有れかしと申せば:千
2 手酌を差し置いて,今様を歌えば,重衡その
3 時杯を傾けられて千手に下さる
4 る.千手飲うで宗茂に差す.宗茂
5 が飲む時,千手琴を弾き澄ませば,重
6 衡笑うて,この楽は普通には五常楽とこそ
7 申せども,重衡が為には後生楽とこそ
8 観ぜうずれと仰せられ,重衡も琵琶を取って,転
9 手を捩ぢて琵琶を弾ぜられた.小夜も漸う更け
10 行けば,世間も打ち静まって,いと物哀れ
11 なに,重衡心を澄まいておぢゃる折節,
12 灯し火が消えたれば,これを御覧ぜられて,重
13 衡:灯し火暗う,しては数行虞氏が涙,
14 夜更けて四面に楚歌の声.
15 と言う朗詠を泣く泣く口ずさまれた.
16 この詩の心は:昔漢の高祖と,楚
17 の項羽と合戦をする事が七十余度に及
18 うだに,戦毎に高祖は負けられた.然れども
19 遂には項羽負けて落ち行く時,虞氏と
20 言う最愛の后に名残りを惜しまるるに,折節
21 灯し火さえ消えて,互いに姿を相見らるる
22 事も無うて,泣く泣く別れられたと聞こえた.重
23 衡心を澄まいて,やあごぜ,余り面白い
24 に,何ぞ今一度と有ったれば:千手心を

(304)
1 澄まいて一樹の陰に宿り,一河の流れを
2 汲むもこれ前世の宿縁ぢゃと言う拍子を換
3 え澄まいたれば,重衡世にも面白さうに仰
4 せられ,夜も既に明くれば,千手暇を申し
5 て返れば:重衡も枕を西へ傾
6 けられた.その朝頼朝持仏堂に御経読
7 誦して御座る所に,千手が帰り参ったを御
8 覧ぜられて,頼朝は千手に面白い仲人
9 をした物哉と仰せられたれば:親義と
10 言う者があなたに物を書いて居たが,何事
11 で御座るぞと申せば:日頃は平家の人共
12 をば弓矢の勝負の他には他事有るまいとこそ
13 思うたに:この重衡は琵琶の撥音と,
14 口遊みの様夜もすがら立ち聞きしたに,こ
15 れほど優な人で有ったか?いとおしやと仰せられたれば:
16 親義筆を差し置いて誰も明らかに承
17 ったらば,立ち聞き仕らう物を,何
18 と御諚為さるるぞ?平家は代々文人,歌
19 人達で御座る物を:一年平家の一
20 門を花に例えまらした時は,この人を
21 ば牡丹の花に例えて御座ると,申したれば:そ
22 れからこそ千手の前はいとど思いが深う成っ
23 て,重衡南都へ渡されて切らるると,聞こえた
24 れば,様を変え信濃の,善光寺に行い

(305)
1 澄まいて,かの後世菩提を弔うたと,聞こえま
2 らした.
3 第十三.小松の三
4 位の中将屋島を出て高野へ上
5 らるる事:同じく滝口,
6 横笛が事.
7 右馬.扠も重衡はいとおしい事で有ったなう:又
8 小松の三位の中将の事をも御語
9 り有れ.
10 喜.小松の三位の中将は我が身は屋
11 島に有りながら,心は都に通い,故郷
12 に残し置かせられた北の方,幼い人々
13 の事を明けても,暮れても思われたれば,有る
14 に甲斐無い我が身ぢゃと思い侘びて,寿永三年
15 三月十五日の暁忍うで屋島の
16 館を紛れ御出有って,乳母の重景,
17 石童丸と言う童下臈には船も良うこ,
18 ころえた者ぢゃと有って,武里と言う舎人これ
19 等三人ばかり召し連れて,阿波の国結城の
20 浦から海女の小舟に乗らせられ,鳴門の沖
21 を漕ぎ渡り,ここは通盛の北の方
22 の絶えぬ思いに身を投げられた所と思
23 われたれば,念仏百遍ばかり申し,紀

(306)
1 の路へ赴かせられた.和歌吹上の浜
2 日前権現の前の沖を過ぎ,黒
3 井の港に着かせられ,それから浦伝い,
4 山伝いに都へ上って,恋しい者共
5 を今一度見もし,見ようと思われたれど
6 も,重衡の生け捕りにせられて京,鎌倉
7 を引かれて恥を晒されたさえ心憂いに,又
8 取られて浮き名を流さば,父の屍に血を
9 あやさうも流石ぢゃと有って,千度心は進めど
10 も,心に心をからかうて,引っ替え高野へ
11 上らせられた.
12 高野に年来知られた聖が有る:始めの名
13 は滝口と申して,元は小松殿の
14 侍で有ったが,横笛と言う女を思う
15 て,最愛したをその親左衛門の太夫これを
16 聞いて,汝を世に有らうずる者の婿にも成い
17 て,良い有り様を見聞かうとこそ思うたに:いつと無う
18 出仕なども懈怠勝ちな物哉と,強ち
19 にこれを制したれば,滝口申したは:西
20 王母と言う者も昔は有って,今は無し.東
21 方朔が九千歳も名をのみ聞いて,目には見ず.
22 老少不定の世の中は石火の光に異
23 ならぬ:例えば人の命は長いと言えども,七
24 八十をば過ぎぬ:その内に身の盛んな

(307)
1 事は僅かに二十年余りを限る:夢
2 幻の世の中に醜い者を片時も
3 見ては何にせうぞ?思わしい者を見ょうとす
4 れば,父の命を背くに似,父の命を
5 背くまじいとすれば,深う契った女の心
6 を破らうず:とに斯くに父の為,女の
7 為,これが即ち善知識の基ぢゃ:憂
8 世を厭うて,真の道に入らうずるには如くま
9 じいと言うて,滝口十九で菩提心を起こし,
10 髻を切って,嵯峨の奥往生院と言う所
11 に行い澄まいて居たに:横笛これを伝
12 え聞いて,我をこそ捨てうずれ,又様をま
13 で変えた事の無残さよ:仮令世をこそ厭うと
14 も,何故に斯くて知らせなんだぞ?人こそ心強
15 くとも,訪ねて今は恨みょうと思い,
16 人一人を召し具して,或る暮れ方に内裏を出
17 て,嵯峨の方へ憧れ行く.頃は如月十
18 日余りの事なれば,梅津の里の春風
19 に綴喜の里も匂い,大井川の月影
20 も霞に籠もって朧なれば,一方な
21 らぬ哀れさも誰故かと思われ,往生院と
22 は聞いたれども,定かに所を知らなんだれば,
23 ここに佇み,かしこに佇み,訪ね兼ねた事
24 は真に無残な事ぢゃ.

(308)
1 灯籠の光が仄かに見えたに,目を掛けて,
2 遥々と分け入り,住み荒らいた庵室に立ち寄って
3 聞いたれば,滝口と思しゅうて,内に念誦
4 の声がしたれば,召し具した女を入れて妾
5 こそこれまで尋ねて参ったれと言うて,柴
6 の網戸を叩かせたれば,滝口入道は
7 胸打ち騒いで,障子の暇から覗いて見れば,
8 寝腐れ髪の暇から流るる涙は所
9 狭いて,今宵も寝有らぬと覚えて,面痩せ
10 た有り様で,尋ね兼ねた気色真に労
11 しゅう見えたれば,如何な道心者も心が弱う成っ
12 て,滝口入道今は出会うて見参せうと
13 思うたが,これほど心が甲斐無うては,仏道が
14 有る物か,成らぬ物かと心に心を
15 恥ぢしめて,急いで人を出いて,全くこれには
16 然様の人はおりない;門違いでこそ有るらうと言うて,
17 心強う滝口は会わいで返いた.横笛
18 恨めしや発心を妨げ奉らうと
19 言うでは無い:共に閼伽の水を結び上げ,一
20 つ蓮の縁と成らうとこそ望うだに,男
21 の心は川の瀬の刹那に変わる習いか,
22 女の心は池の水の積もって物
23 を思うと有るも今こそ思い知られたれ.様
24 を変えた由を聞いたれば,返って滝口入

(309)
1 道の下へ一首の歌を送った.
2 剃るまでは恨みしかども,梓弓,
3 真の道に入るぞ嬉しき.
4 滝口が返事には:
5 剃るとても何か恨みん梓弓,
6 引き留むべき心ならねば.
7 と互いに詠うだと聞こえまらした.その思いの
8 積りにか横笛は奈良の法華寺に居たが程
9 無う死した.滝口入道この事を伝え
10 聞いて,主の聖に向かうて,申したは:ここも世
11 に静かな所で念仏の障礙は御座無
12 けれども,飽かいで別れまらした女も早無い
13 者と成って御座る:天性その故にこそ斯様
14 に発心しても御座れ由無い都近い所
15 は又斯く憂い事もや聞きまらせうずらう:暇
16 申すと言うて,嵯峨を出て高野へ上って,清浄
17 心院にこの四五年行い澄まいて居たれば,父
18 の不孝も免れ,親しい者共は高
19 野の聖の御坊と持て成いたと,聞こえまらした.
20 扠小松の三位中将は高野へ上り,
21 或る庵室に立ち寄り,滝口を尋ねさせられた
22 れば,内から聖が一人出た:即ち滝口
23 入道はこれで御座った.聖は夢の心
24 地して申したは:この程は屋島へ御座ると

(310)
1 こそ承ったに,何としてこれまで伝えて
2 御座ったぞ?更に現とも存ぜぬと申して
3 涙を流いた.中将御覧ぜらるるに本所に有っ
4 た時は,布衣に立て烏帽子,衣紋掻い繕い,髭
5 を撫で,優な男で有ったが,出家の後は,
6 今初めて御覧ずれば,未だ三十にさえ足らぬ
7 者の老僧姿に痩せ衰え,濃い墨染め
8 に同じ袈裟,香の煙に染み燻ぼり,賢
9 気に思い入った道心姿羨ましゅう思
10 われたか,漢の四皓が逃れた商山晋の
10 七賢が籠もった竹林の住まいも斯くやと
12 覚えて哀れな.中将仰せられたは:人並々
13 に都を出て,西国へは落ち下ったれ
14 ども,唯大方の恨めしさも然る事で,故
15 郷に止め置いた幼けない者共が事を
16 のみ明けても,暮れても思い居たれば,物思
17 う心が他に著うや見えつらう!大殿も,
18 二位殿も池の大納言の様にこの人も
19 二心が有るげなと有って,打ち解けられねば,
20 いとど心も留まらず,屋島の館を
21 忍び,紛れ出てこれまで迷い来た:これから
22 山伝いに都に上って,恋しい者共
23 を見もし,見ようとは思えども,それも
24 重衡が事が口惜しければ,早思い

(311)
1 切った.同じゅうはこれで髻を切って,火の中,
2 水の底にも入らうと思うぞ:但し熊
3 野へ参らうと思う宿願が有ると仰せられも
4 敢えず,はらはらと泣かれたれば:滝口申した
5 は:夢幻の世の中はとても斯うでも
6 御座らうず:唯長い世の闇こそ心憂う御座
7 れと申して,軈て滝口先達をして堂
8 塔を巡礼して,奥の院へ参った.
9 この高野と申すは,帝城を去って二百里,郷
10 里を離れて無人声,晴嵐梢を鳴らし,
11 夕日の影長閑に八葉の峰,八つ
12 の谷峨々として聳え,渺々として限りも
13 無う,峰の嵐激しゅうて,振鈴の声に紛
14 い,花の色は林霧の底に綻び,鐘の
15 声は尾の上の雲に響き,瓦に松生い,
16 垣に苔むいて,星霜久しゅう覚えた所で
17 御座る.
18 第十四.三位の中将の
19 受戒,重景石童丸が事,同じ
20 く三位の中将身を投げられた
21 事.
22 右馬.まちっと御語り有れ.

(312)
1 喜.三位の中将は雪山に鳴く鳥の様
2 に,今日よ明日よと物を思う事よと有って,涙
3 に咽ばせらるる体真にいとおしい事ぢゃ.
4 潮風に痩せ黒うで,その人とは御見え有らね
5 ども,並べての人には紛うべうも無し:その夜
6 は滝口が庵室に返って,夜もすがら昔
7 今の事を語らせられた.聖が行儀を御
8 覧有れば,至極甚深の床の上には真理の玉
9 を磨くかと見え,後夜晨朝の鐘の
10 音は生死の眠りを覚ますかと覚えた.世を
11 逃れうぞならば,かうこそ有らまほしゅう思われ:
12 夜も既に明くれば中将戒の師を請じ奉
13 らうずると有って,東禅院の知覚上人を
14 申し受けて出家せうと出立たせらるるが,重景
15 や,石童丸を召して,我こそ道が狭う
16 成って,逃れ難い身なれば,今はかう成るとも,
17 汝等は都の方へ上って,如何なる人に
18 も宮仕いし,身を助け,妻子を育み,
19 又身が後世をも弔いなどせいかしと,仰
20 せらるれば,重景も,ヨシドウ丸もはら
21 はらと泣いて,暫しは物をも申さず:やや有っ
22 て重景涙を押し拭うて申したは:親
23 にて御座る景康は平治の合戦の時
24 重盛も御供仕ったが,二条堀

(313)
1 河の辺で悪源太に御馬を射させ,材
2 木の上に跳ね落とされさせられたを義朝
3 の乳母の鎌田兵衛喜うで掛かるに,
4 景康中に隔たり,鎌田と組んだに,
5 悪源太落ち合うて景康は打たれ,その
6 紛れに重盛は御乗り換えに召され,二
7 条を東に馳せ延びさせられた.某その時
8 は二歳とやらで御座った:七歳で母に遅
9 れ,その後は哀れまうずる親しい者一
10 人も御座無かったに,重盛のあれは我が命
11 に変わった者の子なればと有って,殊に御不
12 憫を加えられて,九つの年君の御元
13 服為されたに,六代が男に成れば,松
14 王も羨ましからうと仰せられて,同じゅう髻
15 取り上げられまらして,盛の字は家の字
16 なれば,六代に付くる:重の字をば松
17 王に下さるると有って,重景と名乗らさせら
18 れた.又私が童部名を松王と申
19 した事も,生まれて五十日と申すに,父
20 が抱いて参ったれば,この家を小松と言えば,
21 汝が子をば祝うてと仰せられて,松王と付
22 けさせられた.
23 御元服の後は,取り分き君の御方に
24 居まらして,今年既に十九年に成ると存ず

(314)
1 る.上下も無う遊び戯れまらして,一日
2 片時も立ち離れ奉らず,親の良うして
3 死んだも我が身の冥加とこそ存じたれ.重
4 盛の御臨終の時は,この世の中を皆
5 思し召し捨てさせられ,一言も仰せられなんだ
6 れども,重景を御前近う召して,汝が
7 父は重盛が命に変わった者ぢゃ:さ
8 れば汝は重盛を親の形見と思い,
9 重盛は汝を景康が形見とこそ
10 思うて過ぎたれ.
11 今度の除目に靫負の判官に成いて,己
12 が父景康を呼うだ様に,召し使わうと
13 思うたに,かう成る事は口惜しい:少将殿
14 の御方に居て,相構いて相構いて心に違わ
15 ず,宮仕い申せとこそ最後の仰せまでを
16 も承ったが,君も日頃は御命に
17 も変わりまらせうずる物と深う思し召したに,
18 今更見捨てまらせいと仰せらるる御心の内
19 こそ恥づかしゅう御座れ.その上世に有る人
20 を頼めと仰せらるるは:当時は源氏の郎等
21 共こそ御座れ:楽しみ栄え世に有るとも,
22 千年の齢を伸べうか?仮令万年を保
23 つとも,遂に終わりが有るまじいか?西王母が三
24 千歳も昔語りで,今は無し.東方朔

(315)
1 が九千歳も名のみ残って,姿は無い:これ
2 が善知識の基で御座ると言うて,手づから
3 髻切って滝口に剃らせ,軈て戒を保
4 った.
5 石童丸もこれを見て,滝口に髪
6 を剃らせ,同じゅう戒を保った.これも八歳の時
7 から付き奉り,然しも不憫にさせられたれ
8 ば,重景にも劣らず思い奉っ
9 た.これ等が斯様に先立つ有り様を御覧ぜられ
10 て,中将愈心細う思し召して,御
11 涙を留め敢えさせられなんだ.然て有らうずる事
12 で無ければ,御身の髪を剃り下させらるる
13 にも,古里に止め置かせられた北の方,
14 幼い人の事が猶心に掛かった.その
15 後舎人の武里を召して汝は我が終
16 わらうを見たならば,軈て都へ上せうとこ
17 そ思うたれども,遂に隠れ有るまじい事なれ
18 ば,暫くは知らすまじいと思う:その故は
19 都に入ってかう世に無い者と申すならば,定
20 めて様をも変え,形を窶さうずるも
21 不憫な:又幼けない者共が嘆かうず
22 る事も無残な:迎え取らうと賺し置いた事
23 も皆偽りに成らうず:屋島に残り居る
24 侍共が覚束無う思わうも心

(316)
1 憂ければ,唯屋島へ渡れと思うぞ:新三
2 位の中将に有った有り様を申せ,御覧ぜらるる
3 様に大方世の中も,物憂い様に罷
4 り成って,頼み少ない事も多う成りまらすれ
5 ば,各々にも知らせまらせず,浮かれ出て斯
6 様に罷り成った.西国では左の中将失せ,
7 一の谷では備中の守打たれ,維盛さ
8 え斯様に罷り成れば,如何に各々頼り無う
9 思し召すらう:これのみ心苦しゅう御座る:唐
10 皮と言う鎧,小鳥と言う太刀は貞盛か
11 ら当家の嫡々に相伝して,某まで
12 は九代に当たる:その鎧と,太刀は貞能が
13 下から取って,新三位の中将殿に預け
14 置き奉る:不思議に平家の世にも立ち
15 直らば,六代に下されいと申せと,仰せられ:
16 軈て滝口を善知識として召し具せら
17 れ,山伏修行者の様に成って,高野を発
18 ち,先づ粉河の観音に参らせられ,一
19 夜通夜有って,そこを出させらるるにもいつ返らう
20 とも覚えねば,心に涙は進んだ.
21 或る所で狩り装束した武士七八騎ほ
22 どに会うて,その時既に搦め取らうかなどと
23 思うて,皆腰の刀に手を掛け,自害せう
24 と思う所に,これ等は知り奉ったか,怪

(317)
1 しむ気色も無うて,皆馬から下り,深う畏
2 まって,通し奉ったれば:これは如何な事?
3 誰ぞ見知った者共でこそ有るらうと思し
4 召されたれば:いとど足早に通らせられたが,敵
5 では無うて,平家譜代の家人に宗光と
6 申す者で有った:それが郎等共何たる修
7 行者達で御座るぞと問うたれば:宗光打ち
8 涙ぐんで,あら事も忝や!これこそ太
9 政入道殿の御孫重盛の御嫡子
10 三位の中将殿よ:この人こそは日本国
11 の御主ぢゃ:重盛の御時は,父宗
12 重侍の別当で有ったれば,諸大名に仰
13 がれた.この君世に御座らば,我も又然
14 こそ有らうずるに,この様に成り果てさせられたいとおしさ
15 よ:この程は屋島に御座るとこそ承
16 ったに,これまでは何として伝わらせられたか?
17 早御様を変えさせられた:見参仕
18 りたうは思えども,憚らせらるると覚えた
19 れば,思いながらに打ち過ぎた.扠も夢の
20 様な事共哉と言うて,涙に咽うだれ
21 ば:郎等共も共に皆直垂の袖を
22 絞ったと申す.
23 岩田川に着かせられたれば,さめざめと泣
24 かせられた所で,滝口とに斯くに尽きせ

(318)
1 ぬ御涙で御座る:然りながら只今は何
2 事を思し召し出されたぞと申せば,三位の
3 中将汝は知らぬか?去んぬる治承三年五月
4 の頃,重盛熊野参詣の時,身を
5 始めとして,兄弟三人下向の道に及う
6 で,その頃浅黄染めが珍しかったれば,浄
7 衣の下に浅黄の帷子を着,この川で
8 水を戯れたに,我等が着た浄衣が皆
9 色の姿に見えたを貞能が咎めて申
10 したは:公達の御浄衣忌ま忌ましゅう見えさせられた,
11 変えまらせうずると申すを重盛御覧ぜられ
12 て,否々改めなと仰せられて,これから又喜
13 びの奉幣を奉られ,同じ五月二
14 十八日から悪瘡を患わせられて,同
15 じ八月の一日に御隠れ有ったが,只
16 今の様に覚えて,不覚の涙が押さえ難
17 いと仰せられたれば:滝口を始めて御理
18 と申して,感じたと聞こえまらした.
19 扠熊野へ参り着かせられて,後生善所
20 と祈らせらるるにも,猶北の方幼い人
21 々の事が心に掛かるを,滝口種々様
22 々に教化申せば:思い切って念仏数
23 百遍唱えさせられ,遂に海に入らせらるれば,
24 重景も,石童丸も続いて飛び入るに

(319)
1 因って,舎人の武里もこれを見て,余り
2 の悲しさに堪え兼ねて,続いて海に入らうとす
3 るを滝口これを見て,如何に汝はされば
4 御遺言をば違え奉るぞ:下臈こそ
5 思えば,口惜しいと言うて,泣く泣く留めた
6 れば:船底に倒れ伏し,泣き叫ぶ事斜
7 めならなんだ.聖も余りの悲しさに,墨染
8 めの袖を絞り,若しや浮かみも上がらせら
9 るるかと見たれども,日も入相に成るまで,遂
10 に浮きも上がらせられず:海上も次第に暗う成れ
11 ば,名残りは惜しけれども,然て有らうずる事でも
12 無ければ,空しい船を泣く泣く渚に押し
13 返すに,櫂の滴,落つる涙いづれも
14 分く方が御座無かった.
15 武里は屋島へ参って,新三位中
16 将殿などにこの由を申せば:重盛に
17 遅れまらして後は,高い山,深い海と
18 も頼み奉ってこそ有ったに,然様に成り果て
19 させられた事の悲しさよと有って,泣き悲しませ
20 らるれば,大殿も,二位殿もこれを聞かせら
21 れて,池の大納言の様に,二心が有って,
22 都の方へ御上り有ったかと思うたれば,然
23 は無うてこそと仰せられて,涙を流し合わせら
24 れたと,申す.

(320)
1 第十五.池の大納言
2 関東へ下られた事:又三位の
3 中将の北の方の事.
4 右馬.その池の大納言は何と御成り有った
5 ぞ?
6 喜.その頃池の大納言殿に関東
7 から下らせられいと有ったれば,池殿関東へ
8 御下り有るが,その侍に宗清と言う者
9 が有ったが,頻りに暇を請うて留まるに因っ
10 て,池殿何故に汝は遥かの旅に赴
11 くに,見送らうとはせぬぞと,仰せらるれば,
12 宗清申したは:その御事ぢゃ:戦場へさ
13 え赴かせられば,真っ先を駆けまらせうが,
14 これは参らずとも,苦しかるまじい:君こそ
15 かうで御座れども,西国に御座ある公達の
16 御事を存ずれば,余り御いとおしゅう御座る.頼
17 朝を某が預かりまらした時,随分
18 常は情けを掛け,芳志し奉った事よ
19 も御忘れ為されじ,故池殿の死罪を申し
20 宥めさせられて,伊豆の国へ流されさせら
21 れた時,仰せを持って近江の篠原ま
22 で打ち送り奉った事を常は仰せ出ださ
23 るると申す.下りまらしたらば,定めて夥

(321)
1 しい引き出物などをせられまらせうず:然りなが
2 ら此の世は幾程も御座無いに,西国に居ま
3 らする朋輩共が返り承らう事を恥づ
4 かしゅう存ずると申せば;池殿何故に然ら
5 ば都に留まった時は,さうは申さなんだ
6 ぞと仰せらるれば:君のかうで御座るを悪しいと
7 申すでは無い:頼朝も甲斐無い命を生きさせ
8 られてこそ斯かる世にも合わせられたれと頻りに
9 暇を申して留まるに因って,池殿力
10 に及ばれいで四月二十日に関東へ下ら
11 れた.頼朝池殿に対面有って,何故に宗
12 清は参らぬぞと仰せらるれば,宗清は
13 今度は労わる事が御座って,下りまらせぬ.
14 頼朝世にも本意無さうで,昔彼が下
15 に預けられた時,情け有る芳心をいつ忘れう
16 とも覚えぬ:定めて御供に下りまら
17 せうと恋しゅう心に待って御座るに,哀れこの者
18 は猶意趣が御座るげなと仰せられた.所知
19 下されうずるとて,下し文共数多成し
20 置かれ大名,小名馬共引かうずるとて,用意
21 せられたれども,下らなんだれば,皆人要らぬ
22 賢人立てと思われた.
23 池殿元知行召された荘園私領一
24 所も相違有るまじいと申さるる上に,所領共

(322)
1 数多賜わられて,六月六日に都へ
2 返り御上り有るに,大名,小名我劣らじ
3 と面々に持て成し奉らるれば,鞍置
4 き馬ばかりさえ五百匹に及うだ:命生きて
5 御上り有るのみならず,由々しい事共で
6 有った.
7 大覚寺に隠れておぢゃった三位の中将の
8 北の方は風の便りの言伝も絶えて久
9 しかったれば,月に一度は必ず
10 訪れが有った物を:今は火の中へも入り,水
11 の底へも沈んで,此の世に無い人かと思
12 わるる心は暇も無かった.或る女房
13 大覚寺へ参って申したは:三位の中将殿
14 こそ当時は屋島に御座らぬと,申せば:されば
15 こそ怪しかったれと有って,急いで人を下されたれ
16 ども,それも軈ても立ち返らず,夏も
17 長け,七月の末に返ったれば,北の方
18 先づ如何にと問わせらるれば:その御事ぢゃ:過
19 ぎにし三月の十五日の暁,忍うで屋
20 島の館を上は御出で有って,高野で御
21 出家有り,その後熊野へ参らせられ,後
22 世の事良く良く祈らせられて後,遂に御
23 身を投げさせられた.武里は我が終わりを
24 見たならば,都へ上れとは思えども,

(323)
1 唯屋島へ参れと思うぞ:その故は此
2 の世に無い者と申すならば,軈て御様を
3 も変えさせられうが御労しければ,唯屋島に
4 参れと御遺言有ったと申して,当時は屋島に
5 居まらすると,申したれば:聞きも敢えさせられず,引
6 き被いて伏させられた.若君も,姫君
7 も臥し倒れて泣かせらるれば,若君の乳母
8 の女房北の方に申したは:然御座れど
9 も,重衡の様に京,鎌倉を引き渡され
10 させられて,浮き名を流させられうよりは,高野で
11 御出家有って,熊野へ参らせられ,後世の事
12 御祈誓有って,御身を投げさせられた事こ
13 れは御嘆きの中の喜びぢゃ.今は如何に
14 思し召すとも,適わせられまい:唯御様
15 を変えさせられて,かの後世を弔わせられうず
16 るには如くまじいと,申したれば,北の方実にも
17 と有って,泣く泣く様を変えて,かの後世を
18 弔われたと申す.
19 頼朝はこの由を伝え聞かせられて,
20 頼朝を故池の尼公の申し宥められた
21 をば,重盛こそ我が身一人の大事と思う
22 て御嘆き有った:その奉公を思えば,子孫ま
23 でも疎かに思わぬ:三位の中将も隔
24 て無い.頼朝を打ち頼うでおぢゃったならば,

(324)
1 命ばかりは助けうずる物をと仰せられた.
2 その頃平家追伐の為に,新手二万余騎
3 を都へ差し上せらるる:その上鎮西か
4 ら菊池,原田松浦党五百余艘の船
5 に乗って,屋島へ寄すると,聞こえたれば:これ
6 を聞き,彼を聞くに付けても,心を惑
7 わし,魂を消すより他の事は無かった.
8 然有る程に七月二十五日にも成れば,
9 去年の今日は都を出て,浅ましゅう慌て騒い
10 だ事共を思い出いて語り出し,泣いつ笑
11 うつせられた.扠藤戸と言う所で又合
12 戦が有って,佐々木の三郎と言う者が手柄を
13 して,そこでも平家は打ち負けて,皆屋島
14 へ渡られたと,申す.
15 第十六.義経と
16 梶原逆櫓の論:同じく屋島へ
17 渡って内裏を焼き払い,戦せらるる
18 に,嗣信義経の身代
19 わりに立って死んだ事.
20 右馬.屋島は後には何と成ったぞ?
21 喜.元暦二年正月十日に義経
22 院の御所へ参って,大蔵卿を持って申

(325)
1 されたは:平家は宿報が尽きて,君にも捨て
2 られまらして,波の上に漂う落人と成っ
3 て御座る;然るをこの二三箇年攻め落と
4 さいで,多くの国々を塞がせたこそ本意無う
5 御座れ;今度義経に於いては,鬼界,高麗
6 天竺,震旦までも平家の有らう限り
7 は攻めうずる由を申された.院の御所を出
8 て,国々の兵共に向かうても,
9 頼朝の御代官として勅宣を承
10 って,平家追伐に罷り向かう:陸は駒
11 の足の通わう程,海は櫓櫂の立たう限
12 りは攻めうずるぞ:命を惜しみ,妻子を悲
13 しまう人はこれから鎌倉へ下られいと,仰せ
14 られた.
15 屋島には暇行く駒の足早うして正
16 月も経ち,二月に成った.春の草暮れて
17 は秋の風に驚き,秋の風が止うでは春
18 の草に成り,送り迎えて三年にも早
19 成った.然るに東国の武士共が攻め来たる
20 と聞こえたれば,男女の公達差し集まって,
21 泣くより他の事は無かった.同じ十四日に
22 範頼も平家追伐の為に,七百余
23 艘の船に乗って,神崎と言う所から発向せ
24 られ,義経も二百艘余りの船に乗って,

(326)
1 渡辺から南海道へ赴かるるが,日頃
2 揃えた船の纜を解くに,風枯木
3 を折って吹くに因って,波蓬莱のごとくに
4 吹き立って,船を出すに及ばなんだ:あまっさえ大
5 船共叩き割られて,修理の為にその日は
6 留まる.渡辺には,大名小名寄り合う
7 て,扠も船軍の様は何と有らうぞと,評定
8 せられた.
9 梶原が申したは:船に逆櫓を立てまら
10 せうずると申せば:義経逆櫓とは何たる
11 物ぞと仰せらるれば:梶原その御事で
12 御座る:馬は駆けうと思えば,駆け,引かうと思
13 えば,弓手へも馬手へも回し易い物
14 で御座るが,船は急度押し直す事が,容易
15 う無い物で御座れば,艫にも舳にも梶
16 を立て,左右に櫓を立て並べて,艫へも舳へ
17 も押させまらせうと申した所で:義経
18 戦の習いは,一引きも引くまいと約束した
19 さえも,間悪しければ,敵に後ろを見する習いが
20 有る:況して予てから逃げ支度をしたらば,何故
21 に良からうぞ?人の船には逆櫓も,反様櫓も
22 立てば立てい;義経が船には立てまじいぞと
23 仰せられた.
24 梶原余り大将の駆けう所,引かう所

(327)
1 を知らせられぬは,猪武者と申して,悪しい
2 事で御座る物をと申せば:縦し縦し義
3 経は猪,鹿は知らず,敵をば唯直
4 攻めに攻めて勝ったぞ心地良うは有れと,仰せら
5 るれば:梶原天性この殿に付いて戦をば
6 せまじい物をと呟めいた.夜に入って義経
7 船共を少々改め,物の具共運
8 ばせ,馬共乗せて,船出せと仰せらるれ
9 ば:かん取り共風は止うで御座れども,沖は
10 猶強う御座らう:適うまじい由を申せば:義
11 経怒って,勅宣を承って,頼朝
12 の御代官として,平家追伐に向かう義経
13 が下知を背く己こそ朝敵よ:野山
14 の末,海川で死ぬるも,皆前業の
15 所感ぢゃ.その儀ならば,しゃつ輩一々に射殺
16 せと仰せらるれば:奥州の嗣信ぢゃは,
17 忠信ぢゃは,弁慶ぢゃはなどと言う者共
18 片手矢を矧げて御諚ぢゃぞ,真に船
19 を出すまいかと言うて,向かうたれば:矢に当たって死ぬる
20 も同じ事:風が強くは馳せ死にに死ねと
21 言うて,二百艘余りの船の内に唯五艘ばか
22 り出いた:残りの船は風に恐れて出なん
23 だ.この風には見えねども,夜の内に四国
24 の地に着かうと覚ゆるぞ:船共篝

(328)
1 焚いて敵に船数を見するな:義経が船
2 を本船にして,篝を守れと取り舵
3 面舵に馳せ並うで行く程に,余り風の
4 強い時は,大綱を下ろいて引かせ,十六日
5 の丑の刻に渡辺,福島を出て,
6 押すには三日に渡る所を,唯三時に十
7 七日の卯の刻に阿波の勝浦に着いた.
8 夜の仄々と明くるに,渚の方を見
9 渡されたれば,赤旗を差し上げたを御覧ぜられて,
10 義経仰せられたは:あわ我等が設けはした:
11 船共平付けに付けて,敵の的に成っ
12 て射さすな:磯近う成らば,馬共海へ追い入れ
13 て船端に引き付け引き付け泳がせて,馬
14 の足が立つほどに成らば,打ち乗って駆けいと有っ
15 て,磯三町ばかりに成れば,船端踏み傾
16 けて,馬共海へ追い入れ,船端に引き付
17 けて泳がせ,馬の足立つほどに成れば,ひ
18 たひたと打ち乗り打ち乗り喚いて駆くれば,敵
19 も五十騎ばかり有ったが,これを見てざっと引くに
20 二町ばかり退いた.義経暫し控えて,
21 馬の息を休められて,義盛を召して,きゃ
22 つ輩は怪しかる者とこそ見れ:あの中に然
23 るべからう者を呼うで来いと仰せらるれば:義
24 盛唯一騎五十騎ばかり控えた敵の中

(329)
1 に駆け入れて,何とか会釈しつらう:四十ばかりな
2 男の鎧うて馬に乗ったを兜を脱がせ,
3 弓を外させて,乗った馬をば下人に引か
4 せ具して参った.義経これは何者ぞ
5 と,問わせらるれば:当国の住人に親家と
6 申す者で御座る:何家でも有れ,物
7 の具な脱がせそ:屋島への案内者に連れて行
8 け;目ばし放すな:逃げて行かば,射殺せと
9 仰せられ,この所は何と言うぞと問わせらる
10 れば,ここをばかつらと申す:文字には勝
11 浦と書いて御座る:下臈共が申し易い侭
12 にかつらと申す:義経これを聞かせられ,
13 殿原戦しに来た義経が先づ勝
14 浦に着いた事のめでたさよ:扠屋島には
15 勢は如何ほど有るぞ?千騎ばかり御座らうず;何故
16 に少ないぞと仰せらるれば:阿波の民部が嫡
17 子教能三千余騎で河野を攻めに
18 伊予へ渡って御座る:真に勢の向かわぬ
19 浦々も御座無い:五十騎百騎宛てに差し向けられ
20 て御座る.扠これに平家の方人せうずる者
21 は無いか?その御事ぢゃ:能遠と申す者
22 が御座る:然らば能遠を打って戦神に奉
23 れと言うて,能遠が城へ押し寄せたれば,能遠
24 暫し戦うて,究竟の馬を持ったれば,脇

(330)
1 の沼から落ちた.所の者共二
2 十人ばかり打ち取って,喜びの鬨を作り,
3 戦神に祭られた.
4 義経親家を召して,屋島へは如何ほ
5 ど有るぞ?二日路御座る:然らば敵の知らぬ先
6 に,寄せいと有って,駆け足に成りて行く程に,或る
7 山中で蓑笠背負うた男一人行き
8 連れたをどこの者ぞと,問わせらるれば,京の
9 者で御座ると申す:どこへ行くぞ?屋島
10 へ参る:屋島へはどの御方へ参るぞ?
11 女房の御使いに都から大殿の御方
12 へ参りまらする:これも阿波の国の御家人
13 ぢゃが,屋島へ召されて参る:この道は無案
14 内なに,吾殿案内者せいと有れば:これは案内
15 は知ったと申す:何事の御使いぞと問えば,
16 下臈は御使い仕るばかりでこそ有れ,何
17 事とは知りまらせぬと,申す:実にもと有って,
18 乾し飯食わせなんどして,さう有りとも何事の御
19 使いとか聞いた?別の子細が御座らうか?川尻
20 に源氏共が多う浮かうで居まらするとやら
21 申されて御座る:さうで有らうず,その文を取れ,しゃ
22 つ縛れと有って,縛って道の辺な木に括
23 り付けて通られた.義経この文を御
24 覧ぜらるれば,実にも女房の文と思しゅうて

(331)
1 義経は心のすすどい男で大風,
2 大波が立つとも嫌いまらすまい,勢を散らさい
3 で良う御用意有れと書かれた.これは義経に天
4 の与ゆる文ぢゃ:頼朝に見せまらせうずると
5 有って,深う収めて置かせられた.
6 親家を召して,扠屋島の城の容態
7 は何と有るぞ?その御事ぢゃ:しろしめされねば
8 こそ有れ,城は無下に浅まに御座る:潮の干
9 まらする時は,馬の腹も浸からぬと申す:
10 然らば寄せいと有って,潮干の方から寄せたに,頃
11 は二月十八日の事なれば,蹴上げた潮
12 のしぐらうだ中から打ち群がって寄せたれ
13 ば:平家は運が尽きたか,大勢と見ないた.阿波
14 の民部が嫡子教能河野を攻め
15 に伊予の国へ越したが,カナノをば打ち漏
16 らいて,家の子郎等百人余りが首を取って,
17 我が身は伊予に居ながら,先立てて屋島へ奉
18 ったが,折節大殿の御宿所で実
19 検有れば,兵共これは何事ぞ?
20 焼亡などかと騒いだが,漸う見て然では無い,
21 あわ敵が寄せたぞと申す程こそ有れ,白旗
22 ざっと差し上げた:既に源氏ぞ,定めて大勢で
23 有らうず,急いで御船に召されいと言うて,磯に上げ
24 置いた船共俄かに押し下ろいて,御所の御

(332)
1 船には女院,北の政所,二位殿なん
2 どの様な女房達が召させられた.大殿
3 の父子は一つ船に召させられ,その他の一
4 門も皆船に取り乗って,一町ばかり押し出い
5 た.義経は総門の前で名乗らせらるれ
6 ば,脇からこれを狙うて有ったれども,成らなんだ.
7 さうさうする内に嗣信,忠信,渋
8 谷これ三人は戦をせいで,漸うとして作り
9 立てた内裏や,御所に火を掛けて片時の煙と
10 成いた.
11 大殿これを御覧ぜられて,源氏は多う
12 も無かった物を,内裏や御所を焼かせたこそ
13 安からね:能登殿はおぢゃらぬか?一戦召
14 されいと有ったれば:能登殿二百人ばかりで同
15 じ渚へ上がらるれば,越中の次郎兵衛が
16 進み出て申したは:今日の源氏の大将は誰
17 そ?伊勢の三郎が申したは:事も忝や,
18 清和天皇の御末判官殿ぞ:次郎兵衛
19 嘲笑うて,それは金商人が所従ぢゃな?平治に
20 父義朝は打たれ,母常盤の懐
21 に抱かれて,ここかしこを迷い歩いたを清
22 盛入道殿尋ね出させられたれども,幼
23 ければ,不憫なと有って,捨て置かせられた程に,
24 鞍馬の寺に十四五六まで居たが,商人

(333)
1 の供をして奥州に下った者でこそ有れと
2 申したれば:伊勢の三郎汝は砥浪山
3 の戦に辛い命を生きて,乞食の身と成って,
4 京へ上ったは何ぞと申す.次郎兵衛汝
5 も鈴鹿山の山賤よと申したれば,
6 金子の十郎雑言は互いに益無い:申さば何
7 れか劣らう?去年の春一の谷で武蔵
8 相模の若殿輩の手並みは知っつらうと申
9 しも終わらねば:弟のヨイイチ能っ引いて射る:次
10 郎兵衛が胸板裏掻くほど射させて,その後
11 は言葉戦いはせなんだ.
12 源平は乱れ合うて暫し戦うが,能登殿
13 は大将を射落とさうずるとて,窺わるるに因っ
14 て,兵共義経の矢面に塞
15 がるを五騎射落とされ,義経露わに成らせら
16 るる所に,いつの間に進んだか,嗣信
17 義経の矢面にむずと隔たる所を
18 矢尻後ろへ射出されて,馬から逆様に落ちた
19 を能登殿の童菊王と言う者この首
20 を取らうずるとて,掛かるを弟の忠信
21 又これを射据ゆれば,能登殿菊王が首を
22 敵に取らせまじいと言うて,それを引っ下げて船に
23 御乗り有ったれども,痛手で有ったれば死んだ.然し
24 も不憫に思い有った菊王を射させ,その後

(334)
1 は戦もせられず,船を沖へ押し出さるる.
2 義経も手負うた嗣信を陣の後ろへ
3 舁かせ,手を取って,如何に如何にと仰せらるれば:息の
4 下に今はかうと申したれば,義経涙を
5 流させられ,此の世に思い置く事が有らば,
6 義経に言い置けと仰せらるれば:世にも苦
7 しさうで,などか思い置く事が無うては御座らう
8 ぞ?先づ奥州に居まらする老母の事,扠
9 は君の御代を見奉らいで,先立ちまら
10 するこそ黄泉路の障りで御座れとこれを最後の
11 言葉で,二十八と申すに,遂に死んで御座る.
12 義経悲しませられて,この辺に僧が有る
13 かと問わせらるれば:僧一人尋ね出いたれば,
14 義経この僧に向かわせられて,只今終わ
15 る武士の為に,経書いて弔うて賜うれ
16 と有って,秘蔵の馬を引かれた.この馬をば余
17 り秘蔵せられたに因って,太夫黒とまで名付け
18 られた.この様な馬を引かれた志の切
19 な事を見て,この君の御為に命を
20 捨てう事,誰か惜しからうぞと感涙を流し,
21 兵共皆鎧の袖を
22 絞ったと申す.

(335)
1 第十七.那須の与一
2 が扇を射た事:又義経弓
3 を取り返された事.
4 右馬.先をも略してなりとも御語り
5 有れ.
6 喜.心得まらした.その日は早暮れ方
7 に成れば,勝負は決すまじい,明日の戦
8 と定めて,源氏引き退かうとする所に,沖
9 の方から尋常に飾った小船一艘汀に
10 寄するを何事ぞと見る所に,赤い袴
11 に,柳の五重着た女の真に優
12 なが,船中から出て,皆紅の扇の
13 日出だいたを船端に差し挟うで立て,陸へ向かうて
14 招いた.義経後藤兵衛を召して,あれは
15 何事ぞと,仰せらるれば:射よと申す事で御
16 座らうず;但し謀でも御座らうず:大将定
17 めて進み出させられて;傾城を御覧ぜられう
18 ずる,その時手足れを持って射落とさうずるとの
19 儀で御座るか,扇をば急いで射させられうずるか
20 と申せば:射さうな者は無いか?那須の与一
21 は小兵なれども,手は利いて御座る:証拠は有る
22 か?その事で御座る:翔け鳥を三度に二度
23 は容易う仕ると申す:然らば召せとて

(336)
1 召されたに;与一その頃十八九ばかりで有っ
2 たが,御前に出て畏まったを義経如何
3 に与一,傾城の立てた扇の真ん中射て,人
4 に見物させいと仰せらるれば:与一これを
5 仕らうずる事は不定な:射損じて御座らば
6 味方の長い傷で御座らうず,自余の人に仰
7 せ付けられいかしと申せば:義経怒らせられ
8 て鎌倉を出て西国へ向かわうずる輩
9 は義経が命を背くまじい儀ぞ:そ
10 れに子細を申さう人は急いで鎌倉へ帰
11 り上られい:その上大勢の中から一人
12 選ばるるは,後代の冥加ぢゃと喜ばぬ侍
13 は何の用に立たうかと,仰せられたれば:与一重
14 ねて申したは:悪しからうずると御前を突い立って
15 馬に打ち乗り,磯の方へ歩ませ行けば:兵
16 共追様にこれを見て,振り掛かり
17 静まって一定この若い者は仕
18 らうと覚ゆると,口々に申せば:義経
19 も世に頼もしゅう思われた.磯から打ち覗
20 うで見れば,遠かった:遠浅なれば,馬の
21 太腹浸るほどに打ち入るれば,今七八
22 反と見えた:折節風が吹いて船を揺り据え
23 揺り上げ,扇座席も定まらいで閃いた.
24 沖には平家一面に船を並べて見物

(337)
1 する:後ろを見れば,汀に味方の源氏
2 共轡を並べて控えたれば,いづれも
3 晴れで無いと言う事は無かった.猶風も静
4 まらねば,扇の座席も定まらず:与一
5 何ともせう様も無うて,暫し経ったが:風が少し
6 静まり,扇射良気に見えた.小兵なれども,
7 十三束の鏑取って番い,暫し保って放
8 すに,弓は強し,浦に響くほどに,鳴り
9 渡って,扇の要から上一寸ばかり置いて
10 ひっぷっと射切ったれば,扇堪えいで三つに裂け,
11 空へ上がり,風に一揉み揉まれて,海へざっ
12 と散った皆紅の扇の日出だいたが,夕日に
13 輝いて白波の上を浮きぬ,沈みぬ揺
14 られた:陸海上の敵味方船端を叩き,
15 箙を叩き,一度にどっと褒めて,暫しは鳴
16 りも静まらなんだ.
17 余りの面白さに,白柄の長刀を持っ
18 た武者が一人出て暫し舞うた.伊勢の三
19 郎与一が後ろへ歩ませ寄って,御諚で有るぞ:
20 憎い奴が今の舞い様哉!仕れと言う
21 たれば,中差しを取って番い,能っ引いて射れば,しや
22 首の骨ひょうつっと射通され,舞い倒れに射倒
23 された.源氏方は愈勝つに乗って,どよみ,
24 平家の方は音もせなんだ,その後景

(338)
1 清が出て,三穂屋が兜の錣を
2 引きちぎってこそ,平家方にもそっと色を直い
3 て有った.
4 さうして又合戦が始まったに,義経
5 余り深入りをさせられて,熊手で弓を掛け
6 落とされて,鞍壺の浸るほどに打ち入れ,鞭
7 の先で掻き寄せ掻き寄せ,取らうと召さるる
8 を頻りに熊手を打ち掛くれば:陸の者
9 共唯捨てて引かせられいと申せども,義経
10 遂に弓を取らせられた.兵共
11 仮令千金万金の御執らしなりと言うとも,
12 如何でか御命には変えさせられうずるぞと,口
13 々に申せば:義経全く弓を惜
14 しむでは無いぞ:伯父為朝が弓な
15 どならば,態とも浮かめて見せうずれども,尩
16 弱たる弓を平家に取られて,これこそ源氏
17 の大将の弓よ,強いぞ,弱いぞと嘲ら
18 れうが口惜しければ,命に変えて,取ったぞと
19 仰せらるれば,皆この言葉を
20 感じられたと申す.

(339)
1 第十八.義盛教
2 能をたばかって生け捕った事,義経と
3 梶原と戦いに及ばるる事:同
4 じく平家の一門悉く
5 滅びられた事.
6 右馬.その阿波の民部が子の教能
7 は何と成ったぞ?
8 喜.その御事ぢゃ:義経義盛を召
9 して,教能は伊予の国へ越えたが,ここ
10 に戦が有ると聞いて,今日は定めて馳せ向
11 かわうず:大勢入れ立てては適うまい,汝行き向
12 かうて,良い様に拵えて参れと,仰せらるれば:
13 義盛然らば御旗を下されて向かわうず
14 と申す:尤もぢゃと有って,白旗を下された.
15 その勢十六騎で向かうが,皆白装束で有っ
16 た;兵これを見て三千余騎の大将を
17 白装束十六騎で向かうて,生け捕りにせう事
18 は有り難からうずと言うて笑うた.案のごとく教
19 能屋島に戦が有ると聞いて,馳せ参る道
20 で義盛行き合うて,白旗をざっと差し上ぐれば:
21 あわや源氏よと言うて,これも赤旗を差し上げ
22 た:義盛教能が側に寄って申したは:
23 かつは御聞き有らうず,頼朝の御弟

(340)
1 義経西国の討手の大将に向かわせられ
2 たが,一昨日御辺の叔父能遠打たれられ,昨日
3 屋島に寄せて,内裏や御所を焼き払い,一
4 日合戦の有ったに,平家の人々は数を
5 尽くいて打たれさせられた.その中に新中納言,
6 能登殿ばかりこそ良うは御座ったれ:大殿の父
7 子も生け捕りまらした:その他の生け捕り共
8 数多御座る:御辺の父民部の太夫も降
9 人に参られたを義盛が預かりまらしたが,
10 今宵夜もすがら御嘆き有って,哀れ教能
11 が此の世の有り様を知らいで明日参り,
12 合戦をして打たれまらせうず:斯様に預からせ
13 らるるも前世の宿縁でこそ有るらう:然るべく
14 は,御辺行き向かわせられて教能にこの事
15 を知らさせられて今一度見せさせられいと嘆
16 かるる程に,参ったと言えば,教能打ち頷
17 いて,かつ聞いた事に少しも違わぬと言うて,
18 軈て兜を脱ぎ,弓を外し降人に
19 成った.
20 これを見て三千余りの兵共弓
21 を外いて従うた.義盛白装束十六
22 騎で三千余騎の軍兵を従えて具して参
23 る:平家には負けたれども,大殿の父子も
24 生け捕りにせられさせられず,民部の太夫も降

(341)
1 人に参らず,義経戦に勝って馬から下
2 り座って休ませらるる所に,おめおめと召
3 されて参るを軈て鎧を脱がせて召し置か
4 れ,人に預けられた.扠従う所の軍
5 兵共は何とと仰せらるれば:これは吹く風
6 に草木の靡くごとく,いづれでも御座れ,
7 世の乱れを静め,国をしろしめさうずる
8 を上と致さうずると申せば:最もさう有らう
9 ずると有って,皆勢に連れられた.
10 又熊野の別当,湛増も源氏の味
11 方に参らるる.伊予の国の河野も馳せ
12 参って,これも一つに成る.平家は教能生け
13 捕りにせられたと聞こえたれば,讃岐の志度
14 をも出させられて,風に任せ,潮に引かれて,
15 いづくとも無う,揺られ行かせられたは真に労
16 しい儀ぢゃさうした所に渡辺に泊まり居た
17 二百余艘の船共梶原を先として,屋
18 島の磯に着いたに因って,人々笑い合うて,六
19 日の菖蒲会には合わぬ,花の後の葵か
20 などと申した.
21 扠義経は周防の地に押し渡って,兄
22 の範頼と一つに成って,鎮西へ渡らうと
23 召され,平家は長門の引島へ着く:源
24 氏は当国の赤間が関に着くと聞こえた.

(342)
1 源氏の船は三千余艘,平家の船は千余
2 艘で,三月二十四日の卯の刻に長門の国
3 壇の浦赤間が関で源平矢合わせと
4 定められた.その日既に義経と,梶原
5 と戦召されうとする事が有った.梶原義
6 経に申したは:今日の先陣をば侍
7 の内に下されいと申せば,義経が無
8 からうにこそ:正無や,君は大将軍で御座る
9 と申せば:頼朝こそ大将よ:義経は
10 奉行を承ったれば,唯各々と同
11 じ事ぞと仰せらるれば:梶原先陣を所
12 望し兼ねて,天性この殿は侍の主に
13 成り難いと呟いたれば;総じて汝は烏滸
14 の者ぞと仰せらるれば;これは如何な事:頼
15 朝の他には主をば持ち奉らぬ物
16 をと申す:義経憎い奴哉と有って,太刀
17 に手を掛け,立ち上がらうとさせらるれば,梶原
18 も太刀に手を掛けて,身繕いする所に,
19 三浦の助トキ次郎むずと中に隔たり奉
20 って,三浦の助義経に申したは:大
21 事を目の前に当てさせられた人の斯様に御座る
22 は敵の力に成りまらせうず:なかんづく頼
23 朝の還り聞かせられうずる所も穏便
24 ならぬ儀ぢゃと申せば:義経静まらせら

(343)
1 るる上は,梶原進むに及ばず,これから
2 梶原義経を憎み初めて,遂に讒
3 言して失いまらしたと聞こえた.
4 さうして合戦が始まれば,始めは平家そっと
5 勝ち色に有ったれども,阿波の民部心変わ
6 りをして平家の手立てを源氏へ返り忠した
7 に因って,賭けが外れて,又散々に平家は為
8 負けたれば;新中納言御所の御船に参って,
9 女房達見苦しい物共皆海に
10 沈めさせられいと有れば:女房達此の世は
11 如何に如何にと仰せらるれば,新中納言いと騒が
12 ぬ体で,戦はかうでおぢゃる:今日より後は珍
13 しい東男をこそ御覧ぜられうずれと
14 打ち笑わせらるれば:何ぞ只今の戯れぞ
15 やと有って,喚き叫ばせられた.
16 二位殿先づ先帝を抱き奉り御身
17 に二所まで括り付け,宝剣を腰に差いて,
18 神璽を脇挟み,練り袴の側を高う差
19 し挟み,鈍色の衣打ち着,既に船端
20 に寄らせられ,我は君の御供に参る
21 ぞ:女なりとも敵の手には掛かるまいぞ,
22 御恵みに従わうと思う人は,急いで御供
23 に参らせられいと有れば:国母を始め奉
24 り,女房達いづれも遅れ参らすま

(344)
1 じいと悶えられた.先帝今年は八歳,御年
2 の程よりも大人しゅう,御髪黒う,ゆらゆら
3 と御肩を過ぎさせられた.呆れさせられた御様
4 でこれはいづちぞやと仰せらるる御言葉未
5 だ終わらぬに,これは西方浄土へと申して,海
6 に沈ませられた.哀れや無常の春の風,
7 花の姿を誘い奉る:分段の荒波
8 に竜顔を沈め奉る:殿を長生
9 殿と擬え,門を不老門に事寄せて十
10 歳にさえも満たせられいで,雲上の竜下って海
11 底の水屑と成らせられた.
12 国母も続いて入らせられたを,渡辺の
13 源五と言う者熊手を下ろいて御髪に掛
14 け,取り上げ奉る:女房達の生け捕りに
15 せられて御座るが,浅ましやあれは女院で御座る
16 と仰せらるれば,その時源五鎧唐櫃
17 から新しい小袖一重ね取り出いて潮垂れた
18 御衣に召し替えさせ奉る.北の政所
19 臈の御方帥の内侍以下の女房達
20 も皆取られさせられた.一門の人々も
21 皆手を手に取り組んで,海へ沈ませられた
22 に,大殿は人々海に沈ませられたれ
23 ども,その気色も無いを侍共余り
24 の憎さに,海へ突き入れ奉った.御子

(345)
1 右衛門の守これを見て,続いて海へ入らせ
2 られた.大殿は右衛門の守が沈まば,
3 我も沈まうと思われ,又右衛門の守
4 は大殿の沈ませられば,沈まうと二
5 人の人々やや久しゅう波の上に浮かうでお
6 ぢゃったを義盛即ち船を漕ぎ寄せ
7 右衛門の守を取り上げ奉れば,大殿
8 これを見て,いとど沈みも遣らせられず,同
9 じく生け捕られさせられた.大殿の乳母景
10 経我が君を取り上げ奉ったは何
11 者ぞと言うて,太刀を抜き,義盛に打って
12 掛かる:義盛危なう見えた所に,並び
13 の船に立った堀が能っ引いて射るに,景経
14 が内冑を射られて怯む所を弓
15 を捨ててむずと組む:景経手負うたれど
16 も,些とも遅れず,上に成り,下に成り,
17 転び合う所に,堀が郎等景経が
18 草摺りを引き上げ二刀差せば,内冑
19 も痛手なり,遂に打たれた.大殿これを御
20 覧ぜられて然こそ悲しゅう思し召しつらう.
21 能登殿は矢種射尽くいて,今は最後と
22 思われたれば,源氏の船に乗り変わり,乗
23 り変わり,白柄の長刀茎短に取って,薙
24 がせらるれば,兵多う滅びた.新中納

(346)
1 言見させられて使いで,詮無い仕業哉!
2 余り罪な作らせられそ:さればとて然る
3 べい物でも無しと仰せらるれば,扠はこの
4 言葉大将軍に組めと言う事ぞと有って,その
5 後は源氏の船を乗り移り乗り移り,押
6 し分け押し分け,義経を御尋ね有るが,
7 思いの侭に尋ね合うて,喜うで打って掛か
8 らるる:義経適うまいと思われたか:長刀
9 脇に掻い挟み,一丈ばかりゆらりと飛び,味方
10 の船に伸びさせられた:能登殿心は猛
11 けれども,軽業が劣られたか,続いても
12 越えさせられず,義経を守ってこれほど
13 運の尽きょう上はと有って,長刀海へ投げ
14 入れ,兜も脱いで海へ入れ,鎧の袖かな
15 ぐり捨て,大童に成って立ち,我と思う者
16 身を生け捕り鎌倉へ具して下れ,頼朝
17 に物を言わう,寄れ寄れと仰せらるれども,寄
18 る者が無かった.ここに実光と言うて,三
19 十人の力有る人その弟の次郎も劣
20 らぬ強か者,主に劣らぬ郎等一人有っ
21 たが,兄の実光義経の御前に進み
22 出て申したは:能登殿に寄り付く者が無い
23 が,本意無う御座れば,組み奉らうと存ずる.然
24 御座らば,生きて返る事は御座るまい:土佐に二

(347)
1 歳に成る幼けない者が御座るを御不憫に預
2 かれと申せば,義経神妙に申した.子細
3 に於いては疑い有るまじいと仰せらるれば:実光
4 主従三人小船に乗り,能登殿の船に
5 乗り移り,錣を傾け,肩を並べ,打っ
6 て向かう;能登殿前に進んだ郎等を憎い
7 奴哉と有って,海へざんぶと蹴入れ,実光
8 をば左の脇に挟み,弟をば右の
9 脇に挟み,一締め締めて,いざ然らば己等
10 死出の山の供せいと有って,生年二十六で
11 遂に海に入らせられた.
12 新中納言これを見て,家長を召して,
13 今は見べいほどの事は見果てつ,有るとても
14 何かせうと仰せらるれば;家長日頃の契約
15 違い奉るまじいと言うて,寄って鎧二領
16 着せまらし,我が身も二領着,手を取り組んで海
17 へ入った.平生一所でと契った侍共二十
18 余人皆手を取り組み海へ入り,海上には赤
19 旗,赤印投げ捨てかなぐり捨てたれば,龍
20 田山の紅葉の嵐に散るがごとく,磯に
21 寄る白波も薄紅に成った:空しい船
22 は風に任せていづくとも無う揺られ行く.生け
23 捕りの人々は大殿を始め,女房達に
24 は国母建礼門院を始め奉って

(348)
1 凡そ四十三人と,聞こえて御座る.
2 第十九.平家の生け捕
3 り都へ入って渡さるる事:同じく建
4 礼門院の事.
5 右馬.同じ四月三日西国から早馬院
6 の御所へ参る:使いは広綱と聞こえた.去ん
7 ぬる三月二十四日の卯の刻に壇の浦赤
8 間が関の辺りで平家を遂に攻め落とし,
9 内侍所,神璽をも参らする:大殿以下
10 の生け捕り共数十人相具して参ると,奏聞
11 したれば:法皇御不審の余りに北面の信
12 盛を召して,西国へ遣わす:同じ十六
13 日に義経大殿以下の生け捕りを相
14 具して明石に着かせられた.その夜は月が
15 面白うて,秋の空にも劣らず,女房達
16 尽きぬ思いの中にも思い出を召された:
17 昔は名のみ聞いた明石の月を今見る
18 事の不思議さよと有って,歌詠みなんどをして慰
19 み合わせられた.その中に平大納言の北
20 の方古歌を思い出いて:
21 眺むれば,濡るる袂に宿りけり,
22 月よ雲居の物語せよ.

(349)
1 と泣く泣く口ずさませられたれば:義経
2 東男なれども,優に艶な心地し
3 て,哀れに思われた.
4 同じ二十六日に平家の生け捕りは都
5 へ入るを皆八葉の車に乗せ奉
6 り,前後の簾を上げ,左右の物見を開い
7 た.幾千万とも数を知らず,兵共
8 前後に打ち囲うで有った.大殿は四方を見
9 回し,痛う思い沈ませられた気色も見え
10 ず:御子右衛門の守は直垂の袖を顔
11 に押し当て,目も開けさせられず,然しも艶なり
12 し人々の三が年の間の潮風に痩せ黒
13 み,その人とも見えさせられぬは労しい事
14 ぢゃ.生け捕りの人を見ょうとて,京の内にも
15 限らず,遠国近国の貴賎上下山々
16 寺々から老少来集まり,鳥羽の南
17 の門から四塚まで満ち満ちたれば,
18 人は顧みる事も成らず,車は轅
19 を回す事も成らなんだ.治承養和の飢饉
20 東国北国の合戦に人種は皆滅び
21 たと言えども,猶残って多いと見えた.都
22 を出させられても中一年無下に間近
23 い事なれば,めでたかった事共も忘れ
24 られず,親祖父の代から伝わって重代召し

(350)
1 使われた者共身の捨て難なさに,皆
2 源氏に付いたれども,昔の好を忘
3 れねば,涙を流す人が多かった.その日
4 大殿の車を遣った牛飼いは元召し使
5 われた三郎丸と言う者ぢゃが,鳥羽で
6 義経の御前に進み出て申したは:舎人
7 牛飼いと申すは,下臈の果てで心有らうずる
8 身では御座らねども,年頃の好を如何
9 でか忘れ奉らう?然るべくは,御免を
10 被り,今日大殿の御車を仕
11 りたいと,申せば:情け深い人で,さう有らうず
12 と有って許されたれば,三郎丸は泣く泣く
13 御車を仕ったが,道すがら車
14 の内をのみ顧みて,涙塞き敢えなんだれ
15 ば,見る人も袖を絞った.大宮を上りに
16 六条を東に渡されさせられたを,法皇も
17 六条東の洞院に御車を立て,叡覧
18 有るに,公卿殿上人の車も同じゅう立て
19 並べられた:人々これを御覧有って,哀れあの
20 人々に目をも見掛けられ,一言葉をも
21 聞かばやとこそ思うたに,かう見なさうとは図ら
22 なんだと,各々仰せ合われた.
23 その分にして引き渡しまらして後,義
24 経の堀河の宿所に入れ奉られ

(351)
1 た.物を参らせたれども,御覧じも入れられ
2 ず,暇無う涙を流させられ,夜に成れど
3 も,装束をさえも退けさせられず,袖を片
4 敷き泣き伏させられた.御子右衛門の守
5 側に寝させられたに,大殿御衣の袖を打
6 ち着せさせらるれば,守護の武士これを見て,恩
7 愛とて何事ぞ,せめての志の致す
8 所ぢゃと言うて,猛い武士共も皆袖
9 を濡らいたと,申す.
10 かの生け捕りに成られた平大納言時忠
11 卿義経の宿所近う御座ったが,猶命
12 が惜しかったか,子息の中将を呼うで,散ら
13 すまじい文共を義経に取られたぞ:この
14 文関東に見えば,人も失わうず,我が
15 身も果てうずると有れば,中将義経は情
16 けの深い人で女房などの訴ゆる事は如何
17 な大事をも放されぬと承った:姫君
18 大勢御座れば,何か苦しゅう御座らう?一人
19 見えさせられ,親しゅう成ってこの由を仰せら
20 れうずるかと申されたれば;無残や我世に有った
21 時は,女御,后にもとこそ思うたれと仰せら
22 るれば:今はその事思し召し寄らるるなと
23 申された所で,当腹の十七に成らせらるる
24 をば余り惜しませられ,先の腹の姫君

(352)
1 の二十三に成らせらるるを義経と一つに
2 成いて,その便りを持って件の文の事を
3 仰せらるれば,然る事が有ると有って,あまっさえ封じを
4 も解かいで時忠卿へ送られた.時忠卿
5 喜うで即ち焼かれたと申す.如何なる事
6 か有りつらう,覚束無いと人申し合うた.
7 建礼門院は東山の麓吉田の
8 辺に立ち入らせられた.故有る奈良法師の坊で有った
9 が,住み荒らいて,庭には草深う,軒には蓬
10 茂り,簾絶え,閨露わで雨風堪る
11 べうも無かった.花は色々匂えども,主と
12 頼む人も無う,月は夜な夜な差し入れども,
13 眺めて明かす友も無し:昔は玉の
14 台を磨き,錦の帳に纏われて,明し
15 暮らさせられたが,今は有りとしあらゆる人には別
16 れ果てて,浅まし気な御住まいこそ悲しけれ:
17 女房達もこれより散り散りに成り,魚の陸
18 に上がったごとく,鳥の巣を離れた様な波
19 の上今更恋しかった.同じ五月一日に女
20 院御髪を下ろさせらるる御戒の師には長
21 楽寺の阿証上人で有った.御布施は先帝の御
22 衣とやらで有ったを上人泣く泣く賜わって,兎角
23 の言葉をば出だされねども,墨染めの袖
24 を絞られた.その期まで召されたれば,御移

(353)
1 り香も未だ尽きず,形見としてこれまで持
2 たさせられたれども,御菩提の為なればと有って,
3 泣く泣く取り出いて下された.上人これを旗に
4 縫うて長楽寺の正面に掛けられたと申す.
5 女院十五で女院の宣旨を被らせられ,
6 十六で后妃の位に備わらせられ,二十二で皇
7 子を御誕生有り皇太子に立たせられ,二十五で院
8 号を被らせられて,建礼門院と申した.
9 入道の御娘の上,天下の国母で
10 御座れば,とかう申すにも及ばぬ.今年二
11 十九桃李の装い猶濃やかに,芙蓉の姿
12 未だ衰えさせられねども,翡翠の簪
13 着ても今は何にかせうと仰せられ,泣く泣
14 く御様を変えさせられた.人々の沈まれた
15 有り様,先帝の御面影いつの世にか忘
16 れさせられう?五月の短夜なれども,明かし
17 兼ねさせらるれば,昔を夢にも御覧ぜら
18 れず,壁に背けた残りの灯し火の影
19 も微かに,夜もすがら窓を打つ雨も静
20 かで,上陽人が上陽宮に閉ぢ籠もられた寂
21 しさもこれには過ぎまじいと見えた.昔を
22 忍び妻と成れとてか元の主が移し植
23 えたやら,軒近う花橘の有ったが,風懐
24 かしゅう香った折節,山杜鵑近う

(354)
1 訪れて過ぎたれば,女院御硯の蓋に
2 古歌をかう遊ばされた.
3 時鳥花橘の香を尋めて,
4 鳴くは昔の人や恋しき.
5 女院二位殿の様に水の底にも沈
6 ませられず,武士共に生け捕られ,思いも
7 掛けぬ岩の狭間に明し暮らさせられた.古
8 住んだ宿は煙と上り,空しい跡ば
9 かり残って茂みの野辺と成り,見慣れた人
10 の問い来る事も無ければ,仙家から返って七
11 世の孫に会うたも斯くやと覚えて哀れ
12 に御座った.重衡の北の方は先帝の御
13 乳母で御座ったが,重衡は生け捕られさせら
14 れたと,聞こえたれば,西海の旅の空まで,泣き
15 悲しませられたが,先帝に遅れさせられ,旧
16 都へ返り,日野と言う所に御座ったが,重衡
17 露の命消え遣らぬと聞こえたれば,今
18 一度見もし,見えばやと互いに思われたれ
19 ども,適わねば,唯泣くばかりで明し暮らさ
20 せられたと申す.
21 第二十.大殿御子副
22 将に対面有る事:同じく副
23 将を害する事.
24 右馬.さてさて義経は厳い手柄を召され
25 たの?

(355)
1 喜.その御事ぢゃ.平家滅びて後,国
2 々も静まって,人の通いも患い
3 無ければ,義経ほどの人こそ無けれ:頼
4 朝は何事をもさせられず:高名有れば,
5 唯義経の世で有らうずると内々申すと聞
6 こえたれば,頼朝これを伝え聞かせられて,
7 これは如何な事?頼朝が居ながら謀
8 を巡らせばこそ,平家は滅びたれ:義経
9 ばかりでは何として世をば収めうぞ?人の
10 言うに驕って,いつしか世をば我が侭にすれば
11 こそ然ばかりの朝敵平大納言が婿に成る
12 事然るべからぬ.又世にも憚らず,平
13 大納言が婿に取るも心得ぬ.定めて
14 今度下っては義経は過分の振る舞いを
15 せうかと安からず思われた.
16 その頃義経大殿の父子を具して
17 関東へ下らるると聞こえたれば,大殿義
18 経の下へ言い遣らせらるるは:この程真
19 や東へ下らうと承る:扠は
20 生け捕りの内には八歳の童部と記されたは
21 未だ此の世に居まらするか?関東へ下らぬ
22 先に,今一度見まらしたいと仰せらるれば:易い
23 御事で御座ると言われた.二人の女房若君
24 を中に置き奉って,如何なる御有り様に

(356)
1 か見なし参らせうぞと言うて,朝な夜な泣くより他
2 の事は無かった.義経河越が下へ
3 遣られたれば,河越人の牛車を借っ
4 て若君女房共に乗せ奉って,大
5 殿の方へ入れまらしたれば,若君遥かに
6 御父を御覧ぜられいで,世にも快さうに
7 御座った.大殿如何に副将,これへと仰せらるれ
8 ば,軈て御側に寄らせらるるを膝に掻き乗
9 せ,髪掻き撫で守護の武士共に向かうて仰
10 せらるるは:これを見やれ各々,これが母は
11 これを生むとて,難産をして死んだ:産は平
12 らかにしたれども,打ち伏して悩むと見えたが,
13 我は今度儚く成らうと覚ゆる:この後
14 如何なる人の腹に若君を儲けさせらる
15 るとも,これを育てて妾が形見に御覧
16 ぜられい,乳母などの下へ差し放し遣わさ
17 るるなと余り言うたが無残さに,天下に事出で
18 来たらうずる時は,あの右衛門の守は大将
19 軍でこれをば副将軍をさせうずれば,
20 これが名を然らば軈て副将と呼ばうと言うた
21 れば,斜めならず喜うで,名を呼びなどし,
22 愛したが,七日と言うに遂に儚う成った.見る度
23 にその事が忘れられいでと有って泣かせらるれ
24 ば,守護の武士も涙を流す,右衛門の

(357)
1 守も泣かれた.二人の女房共も皆
2 袖を絞った.
3 既に日も漸う暮れ行けば,大殿然らば
4 副将,今は早嬉しゅう見たれば,疾う疾う返れと
5 仰せらるれば,大殿にひしひしと取り付いて,否
6 返るまじいと言うて泣かれたれば,右衛門の守
7 立って今宵はここに見苦しい事が有らうぞ:疾う疾う
8 返って又明日参れと仰せらるれども,
9 猶立たせられぬを二人の女房共寄って勧
10 め抱き奉り,車に乗せ奉った.
11 大殿若君の後ろを遥かに見送ら
12 せられて,日頃の思い嘆きは事の数で
13 も無いと泣かせられた.母御前の遺言のいとおし
14 ければと有って,遂に差し放いて乳母の下へ
15 も遣わさず,我が御前で育てさせられ,
16 三歳の年冠下され,初冠して名乗
17 りをば義宗と申した.生い立たせらるる侭
18 に見目形美しゅう,心様さえ優に御
19 座ったれば,大殿斜めならずいとおしい事にさせ
20 られて,西海の旅の空までも遂に片時も離
21 れさせられぬ心に戦敗れて後,四十日
22 余りに成るに今日ぞ初めて御覧ぜられた.
23 五月七日の卯の刻に義経大殿
24 の父子を具し奉り,既に関東へ下

(358)
1 らせらるる六日の夜河越義経に
2 参って申したは:扠あの若君をば何と仕
3 らうぞ?義経当時暑い中に幼けない者
4 引き具して,関東まで下るに及ばぬ:こ
5 こで良い様に計らえと仰せらるれば,扠は失
6 わう人よと心得て(若君は乳母の女
7 房と寝させられた)その夜深更に成る程に,河
8 越女房共に申したは:大殿の既に
9 関東へ御下り有る:某も義経の御
10 供に下りまらすれば,緒方が下へ入れま
11 らせうずるぢゃ.御車寄せて疾う疾うと申せば,
12 女房共実にもと心得て,寝入らせられた
13 若君を押し驚かし奉り,いざ御
14 昼為されい,御迎いに車が参ったと,申せば,
15 若君驚かせられて,昨日の様に大殿
16 の御方に又御座るかと喜ばせられた
17 は労しい事ぢゃ.若君を乗せ奉って,
18 六条を東へ遣る:川原に車を遣り止
19 め,敷き皮敷いて若君を下ろし奉れば,
20 二人の女房達日頃より思い設けられた
21 事なれども,差し当たっては悲しゅうて,人の聞く
22 をも憚らず,声も惜しまず,喚き叫
23 ばれた.若君は呆れさせられた様で,二
24 人の女房共の泣くを見て,大殿はいづ

(359)
1 くに御座るぞと,仰せらるれば:武士共寄って
2 只今これに御座らうずるに,下りて待たせられいと
3 敷き皮の上に抱き下ろし奉って,河
4 越が郎等太刀を抜いて寄れば,太刀影を
5 御覧ぜられて泣くを脅すと思し召したか,否
6 泣くまいと有って,乳母が懐へ顔差し入れさ
7 せられて泣かせられたを河越遅しと目を
8 見合わせたれば,太刀では適うまじいと言うて,刀
9 を抜き,乳母が懐に顔差し入れさせられ
10 た若君を引き離し奉り,遂に御首
11 を取った.首をば義経に見せ奉らう
12 ずるとて,持って行き,骸は空しゅう川原
13 に捨てた.
14 二人の女房共徒跣で義経の
15 前に行いて何か苦しゅう御座らう?若君の
16 御首を賜わって,後世を弔いまらせうと申
17 せば:義経尤も然有らうずるとて,許さ
18 れたれば,二人の女房達若君の御首
19 を得て,首をば乳母の懐に入れ,二人
20 連れ立って,泣く泣く返ると見えたが,その後
21 五六日有って女房二人桂川に
22 身を投げた事が有った:一人の女房は幼
23 けない者の首を懐に入れて沈んだ
24 は若君の乳母で有った:乳母が投げ

(360)
1 たは理:介錯の女房さえ身を投げた
2 は有り難い事ぢゃ.
3 第二十一.大殿の
4 東下り,同じく帰洛の道で首
5 を撥ねられ,京中を渡された事.
6 右馬.大殿の最後をも聞きたいの.
7 喜.元暦二年五月七日の卯の刻
8 に義経大殿の父子を具し奉
9 り,関東へ下られた.義経は情け有る
10 人で道の程様々労わり,慰め奉
11 られた.大殿我等父子が命を申
12 し宥められいかしと有れば,義経今度某
13 が勲功には只管御二所の御命
14 を申し宥めうとこそ存ずれ:よも失い奉
15 るまでの事は御座るまじい:如何様にも
16 奥の方などへぞ下しまらせられうずるかと
17 申さるれば,大殿東の奥,遠国の
18 他夷が住む千島なりともと仰せられ
19 たは,口惜しい事ぢゃ.昔は名をのみ聞いた
20 海道の宿々名所名所を御覧ぜられて日数
21 経れば,駿河の国浮島に掛からせらる
22 るに,ここは浮島が原と言う所ぢゃと申

(361)
1 したれば,大殿.
2 潮路より絶えぬ思いを駿河なる,
3 名は浮島に身をば富士の嶺.
4 右衛門の守.
5 我なれや思いに燃ゆる富士の嶺の,
6 空しき空の煙ばかりは.
7 と遊ばされた.
8 然る程に人々鎌倉へ入らせらるれば,義
9 経如何ばかりか頼朝合戦の様をも尋
10 ねさせられうずると思い設けて下られたに,
11 頼朝当時労わる事が有ると有って,対面も
12 せられず,然こそ恨めしゅう思われつらう:梶原
13 景時に仰せ付けられて,大殿の父子
14 をば頼朝の御座った所から庭一つ
15 隔てて,対屋に置き奉り,藤四郎と言う
16 者を持って申されたは:全く頼朝平
17 家に意趣を思い奉らぬ.池の尼公如何に
18 申されたりとも,清盛入道殿御許
19 し無くは,頼朝如何でか命生きて二十余
20 年の春秋をば送りまらせうぞ?然れども悪
21 行法に過ぎ,天の責め逃れ難うて,攻め
22 奉れと上命を被る上は,子細を申
23 すに及ばず:斯様に又見参仕
24 るこそ真に本意では御座れと申せと,有って

(362)
1 遣られたれば,藤四郎参ってこの由申さうと
2 すれば,大殿居直って畏まって聞かれたは口
3 惜しい事ぢゃ.国々の大名小名並み
4 居たその中で平家重代相伝の家人共
5 が多かったが,これを見て,あの心でこそ西
6 海の波の底にも沈ませられう人の命
7 生きて,これまでは下らせられたれ:今居直っ
8 て畏まって御座らば,命の生きさせられうかと
9 有って,憎み合うた.又或る者が申したは:猛
10 虎深山に有る時んば,百獣恐れ戦き,
11 檻穽に有るに及んでは,尾を動かして食を
12 求むと言う本文が有る.されば如何に猛い将
13 軍なればとて,斯様に成れば心は変わる習
14 いぢゃ.されば大殿の悪びれさせられたも理
15 ぢゃと申してこそ恥をば少し助けた.
16 同じ六月九日に義経大殿
17 の父子を受け取って,都へ帰り上られた.
18 大殿はこれで既に如何にも成らうかと思わ
19 れたれば,再び都へ帰り上る事の
20 嬉しさよと喜ばれた.右衛門の守若う
21 御座れども,心得させられて何が嬉しゅう御
22 座らう?都で切って渡されうずるばかりで御座る
23 と有って,帰り上る事を恨めし気に仰せられ
24 た.国々宿々を過ぎ行くに,ここにて

(363)
1 もここにてもやと思われたれども,尾張
2 の国野間と言う所に着かせられた.大殿
3 ここは義朝が首を撥ねた所ぢゃ:そ
4 の墓所の前で一定切られうずらうと大
5 殿も,右衛門の守も思われた所
6 に,義経大殿の父子を具し奉って,
7 父の墓所の前で三度伏し拝み,
8 草の陰でも亡魂必ずこれを御覧ぜら
9 れて,御心を休めさせられいと申された.然れ
10 どもここでも切られず,大殿今は甲斐無い
11 命ばかりは助けられうずるにこそと仰せら
12 るれば:右衛門の守何故に助かりまらせうぞ?
13 当時は暑い頃なれば,首の損ぜう様を測って,
14 都近う成って切りまらせうずると有って,暇無う
15 念仏申させられ,大殿をも勧めさせられ
16 た.
17 日数経れば六月二十日には近江の
18 国篠原に着かせられ,明くる二十一日
19 の朝から大殿をも,右衛門の守をも
20 引き分けて所々に置き奉れば,扠こそ親
21 子の人既に今日で有るよと,互いに思
22 い合われた.出家は許されねば,力に及
23 ばず;義経三日路から人を先立てて,大
24 原の本性坊と言う聖を大殿の善知識

(364)
1 とし,近江の篠原に請じ下された.既
2 に切り奉らうとするに,大殿右衛門
3 の守はいづくに有るぞ?十七年が間一時片
4 時も立ち離れず,水の底にも沈まい
5 で,浮き名を流すも唯彼故ぢゃ.死なば
6 一所でとこそ思うたに,生きながら離れた事の
7 悲しさよと言うて泣かれたれば,善知識の上人
8 も然な思し召されそ:最後の御有り様を御
9 覧ぜられうずるに付けても,互いに御心に掛か
10 らうず:此の世は生者必滅の国なれば,生まる
11 る者は必ず死に,会う者は定まって別
12 るる習いぢゃ:生を受けさせられてからこの方,楽
13 しみ栄えて,昔も今も例少ない
14 帝の御外戚で内大臣の位に至らせ
15 られ,今生の御栄華残る所も無い.楽
16 しみ尽きて,悲しみ来たるは世の習いで御座る.
17 今年は三十九に成らせらるるが,三十九年
18 を過ごさせられたも思し召し続けて御覧
19 為されい:唯一夜の夢で御座る:この後
20 七八十を過ごさせらるるとも,思えば程
21 や御座らう?秦の始皇の驕りを極めた
22 も,驪山の塚に埋まれ,漢の武帝の
23 命を惜しませられたも,空しゅう杜陵の苔
24 に朽ちた.

(365)
1 楽しみは必ず悲しみの基なれば,
2 生は又死の因で御座ると申して,頻りに
3 念仏を勧められたれば,大殿忽ちに
4 弱い心を思い返いて,高声に念仏を
5 唱えさせらるる所に,公長と言う者太刀
6 を抜いて,後ろに回るを見させられて,念仏
7 を止めて右衛門の守も今は既にかうか
8 と言いも終わらせられぬに,大殿の首は前
9 に落ちた.これを見て上人も,公長も
10 涙塞き敢えなんだ.
11 上人右衛門の守殿へ参って,先の
12 ごとく勧めまらすれば,右衛門の守念仏
13 を唱えさせらるるが,抑大殿の
14 最後の様は何とと仰せらるれば:上人世に
15 めでたうこそ御座ったれと有れば,斜めならず喜う
16 で,然らば疾う切れとて,首を伸べて切られさせられた.
17 首は義経持たせて都へ入る,骸
18 は聖の沙汰でそこで皆孝養した.扠
19 大殿父子の首をば京を渡いて獄門に
20 掛けられた.西国から返っては生きて六条を東
21 へ渡され,東国から上っては,死して
22 三条を西へ渡されさせらるる:生きての恥,死し
23 ての恥,いづれが劣らうずるぞとの取り沙汰で
24 御座った.重衡もその後南都へ引き渡さ

(366)
1 れて,遂に切られて御座る.
2 第二十二.地震の事,
3 又建礼門院吉田の御坊に住み
4 侘びさせられた事.
5 右馬.その頃大地震が有ったと言うが何と
6 した事ぞ?
7 喜.されば同じ七月九日の午
8 の刻ばかりに大地震が夥しゅう動く事
9 がやや久しかったれば,恐ろしいなどと申すは疎
10 かで御座った.白河の辺り六勝寺の九
11 重の塔を始めて或いは倒れ,或いは破れ
12 崩れ,在在所々の神社仏閣,皇居,民
13 屋の全いは一宇も無かった.上がる塵は
14 煙のごとく,崩るる音は雷の様に鳴っ
15 て,天も打ち暗うで日の光も見えなんだれば,
16 老少共に魂を消し,鳥獣も悉
17 く心を迷わす:遠国も,近国
18 も又斯くのごとくで,山は崩れて川
19 を埋み,海は傾いて浜を浸す:沖漕
20 ぐ船は波に漂い,陸行く駒は足の
21 立て所を迷わす:大地は裂けて水湧き出,
22 岩割れて谷へ転び,洪水漲り来れば,

(367)
1 丘に上っても何としてかは助からうぞ?猛
2 火が燃え来れば,川を隔てても,障え
3 難かった.鳥に有らねば,空をも翔り難う,竜
4 に有らねば,雲にも入り難う:唯悲しかったは
5 大地震で御座った.四大の内に水火風は常
6 に害を成せども,大地は異なる変をも
7 成さぬに,この様な事は不思議ぢゃ.法皇は新
8 熊野へ御幸有って,花参らせられたが,この
9 大地震出来て家共震い倒され,人多う
10 打ち殺され,触穢出で来たれば,軈て六条殿
11 へ還御為された.夕さり亥,子の刻ばかりに
12 は大地が必ず打ち返らうずると取り沙汰した
13 れば,家内に安堵する者は上下一人
14 も無うて,遣り戸障子を立て,空の鳴り,地の動
15 く度には只今ぞ死ぬると言うて,高う念仏
16 を申した声所々に夥しかった.
17 七八十,八九十の者共も世の滅
18 びょうずるなどと言う事は,流石昨日今日とは
19 思わなんだ物を:是は何とせうぞと喚き
20 叫べば,これを聞いて若い者も泣き悲しう
21 で御座った.建礼門院は偶々立ち宿ら
22 せらるる吉田の御坊もこの大地震に傾
23 き破れて,いとど住ませられう便りも見え
24 ず,何事も昔には変わり果てた世の中

(368)
1 なれば,情けを掛け奉り,これへと申
2 さるる人も無う,心の侭に荒れた籬
3 は茂みの野辺よりも,露けうて折知り顔
4 にいつしか虫の声々に恨み顔なも
5 哀れな:夜も漸う長う成れば,いとど御眠り
6 も覚め勝ちに明かし兼ねさせられた:尽きぬ御物
7 思いに秋の哀れささえ打ち添えて忍び兼
8 ねさせられたと申す.
9 第二十三.平大納言
10 の配所に赴かるる事:並びに
11 建礼門院の大原へ御隠
12 居の事.
13 右馬.して義経にはそれから後頼朝
14 の見参は無かったか?
15 喜.さればその御事ぢゃ:見参は無いのみ
16 ならず,あまっさえ義経を頼朝から打たれう
17 ずると聞こえて御座れば,義経内々仰せ
18 らるるは:弓矢取る身の親の敵を打つ
19 上は,何事かこれに過ぎた思い出は有らうぞ
20 なれども,関より東は頼朝の御座あれば,
21 申すに及ばず,西国は義経が侭と
22 こそ思うたに:これは思いの外の事哉と

(369)
1 有れば:世上にも四海を澄まいて,一天を静め,
2 勲功比類無い所に,如何なる子細有って頼朝
3 は斯様に恨みを御成し有るぞと上一人
4 から下万民に至るまで不審を致いた.これ
5 は今年の春渡辺で船揃えの有った時,
6 義経と,梶原と逆櫓を立てう,立てじの
7 論をし,大きに怒られた事を梶原本意無う
8 思うて讒言をして,遂に失い奉ったと,
9 聞こえた.
10 世を静めさせられ,頼朝今は我を
11 思い掛くる者は奥の秀衡で有らうずる
12 か,その他には覚えぬと仰せらるれば,梶原
13 申したは:義経も恐ろしい御人で御座る,
14 打ち解けさせられなと申せば,頼朝も然思
15 うと仰せられた.それに因ってこそ去んぬる夏の
16 頃平家の生け捕り共を相具して関東へ
17 下向せられた時,腰越に関を据えて,
18 鎌倉へ入れまじいで有ったれば,義経本意無い
19 事に思わせられて,疎かに思い奉
20 らぬ由を起請文を書いて進ぜられたれど
21 も,用いられねば,義経力に及ば
22 れなんだ.
23 同じ二十三日に平家の生け捕り少々都
24 に残ったを遠流せられうずるとて,配所を定

(370)
1 められ,平大納言時忠卿は能登の国へ
2 と定まって,既に近日都を出でうずると聞
3 こえたれば,預かりの武士に暇を請わせられ,
4 建礼門院の御座った吉田の御坊へ参っ
5 て申されたは:同じ都の内に居まらせば,
6 常に御行方をも承らうずれども,
7 責め重うて,既に配所に赴きまらする:
8 再び旧里に返らう事今は有り難うこそ御座
9 れとて,涙に咽ばれたれば,女院真に
10 昔の名残りとては,それにばかりこそおぢゃった
11 に,この後には誰かは問い訪わうぞとて,
12 御衣の袖を絞らせられた.この人西
13 国におぢゃった時,三種の神器事故無う
14 都へ返し入れ奉れと仰せ下さるる
15 勅宣の御使い花方が面に浪
16 方と言う焼き印を差されたれども,故建
17 春門院の御縁で有ったれば,力に及ば
18 せられなんだ.然れども時至って運尽くれば,斯
19 くのごとくぢゃ.
20 義経も親しゅう成られたれば,心ば
21 かりは如何にもして流罪を申し宥めうとは思
22 われたれども,頼朝許されねば,力
23 に及ばず,合戦をし,先を駆けられねど
24 も,謀を帷幄の内に巡らす事

(371)
1 偏にこの大納言の仕業なれば,理と
2 見えた.年も長け,齢傾いて後,妻
3 子にも別れ,見送る人も無うて,越路の旅
4 へ赴かせられた心の内は哀れな
5 事ぢゃ.志賀,唐崎を打ち過ぎて,堅田
6 の浦にも成れば,漫々たる湖上に引く網
7 を見させられて,大納言泣く泣くかう仰せら
8 れた.
9 帰り来ん事は堅田に引く網の,
10 目にも溜まらぬ我が涙哉.
11 昔は西海の波上に漂うて,怨憎会苦を
12 船の内に積み,今は北国の雪裏に埋
13 まれて,愛別離苦の悲しみを故郷の雲
14 に重ね,日数を経れば,能登の国に着か
15 せられた.かの配所は浦近い所なれば,
16 常は波路を遥かに遠見して,慰ま
17 せられたに,岩の上に松の有ったが,根露わ
18 で,波に洗われたを見させられて,大納言
19 かう遊ばされた.
20 白波の打ち驚かす岩の上に,
21 根入らで松の幾世経ぬらん.
22 と詠じ明し暮らさせられて遂に儚う成らせら
23 れた.
24 建礼門院は秋の始めまでは,吉田

(372)
1 の御坊に御座ったが,ここも猶都近う
2 て,玉鉾の道行人の人目も繁
3 し:露の御命風を待たせられう程も
4 憂き事の聞こえず,如何ならん山の奥の奥
5 へも入らせらればやとは思し召せども,然る
6 べい便りも無かったに:或る女房吉田の御坊へ
7 参って申したは:大原の奥寂光院と
8 申す所こそ静かにめでたい所では御
9 座あれと,申せば:女院これは然るべい,仏
10 の御勧めでも有らうず:山里は物の
11 寂しき事こそ有るなれども,世の憂きよりは住
12 み良からうずる物をと泣く泣く思し召し
13 立たせられた.冷泉の大納言の北の方,七
14 条修理の大夫の北の方ばかりで,御乗り
15 物共などをも整え奉り,文
16 治元年長月二十日余りの事なれば,
17 四方の梢の色々なを御覧ぜられて,遥か
18 に分け入らせられ,山陰なればにや日も早う
19 暮れ,野寺の鐘の入相の声寂しゅう,いつしか
20 空掻き曇り,打ち時雨れて嵐激しゅう,木の
21 葉濫れがわしゅう,鹿の声微かに訪れて
22 虫の声々絶え絶えに有った.
23 寂光院は岩に苔むして寂びた所なれ
24 ば,住ままほしゅう思し召す.翠黛の色紅葉

(373)
1 の山絵書くとも,筆にも及び難う,庭
2 の萩原は霜降りて,籬の菊の枯れ
3 枯れに移ろう色を御覧ぜられても,我が身の上
4 とや思し召されつらう.寂光院の傍らに
5 方丈なる御庵室を結ばせられて,一間を仏
6 所に設い,一間をば御所に拵えて,昼
7 夜朝夕の御勤め,長時不断の御念仏
8 怠らせられず月日を送らせられた.清涼
9 殿に花を結ばれた明日,風来たって匂い
10 を誘い,長秋宮に月を詠ぜられた夕べ
11 雲覆うて光を隠す:昔は玉
12 楼金殿の床の上に錦の褥を敷き,
13 妙なる御住まいで有ったれども,今は柴引き
14 結ぶ庵の内の御住まいなれば,余所の袂
15 も絞られた.斯様にさせられて,扠神無月
16 十日余りの頃に庭に散り敷く楢の
17 葉を鹿の踏み鳴らいて過ぎたれば,女院あれ見
18 よ,これほどに人目の稀な所に,何たる
19 人の来るか,忍ばうずる事ならば,忍ばうと仰
20 せられたれば,大納言の局御障子を開けて
21 見させらるれば,人では無うて鹿の恐し気な
22 が,二つ連れて楢の葉を踏み鳴らいて過
23 ぐるで有った.その時大納言の
24 局.

(374)
1 岩根踏み誰かは訪わん楢の葉の,
2 戦ぐは鹿の渡るなりけり.
3 と申されたれば,女院哀れに思し召されて,
4 御障子に書き遊ませられたと申す.
5 第二十四.昌尊が夜
6 討ちの事,又頼朝と,範頼不快
7 の事.
8 右馬.堀河夜討ちはいつの時分で有ったぞ?
9 喜.頼朝土佐昌尊を召して,義経
10 は定めて謀反の心も有らうず,勢共
11 の着かぬ先に打たうと思う:大名小名
12 共を上せば,宇治,瀬田の橋を引き,天下
13 の大事に及ばうず:我僧小勢で上って夜討ち
14 にも,昼討ちにも物参りをする様にして,
15 義経をたばかって打って参らせいと仰せらるれば:
16 畏まって承り,軈てその日五十騎ばか
17 りで都へ上り,元暦二年九月二
18 十九日に昌尊都に登り着いたれども,義
19 経の宿所へはその日も参らず,次の
20 日も参らず既に三日に成るに,義経弁
21 慶を持って如何に上られて有ると聞くに,かうと
22 も承らぬか?又頼朝から仰せら

(375)
1 るる旨は無いかと,尋ねられたれば,昌尊聞
2 きも敢えず弁慶に対面して,連れ立って義
3 経の宿所へ参ったれば,義経出会うて
4 見参有って,如何に一昨日から上られたと聞くに,
5 今までかうと申されぬぞ?又頼朝から御
6 文などは無いかと尋ねられたれば,昌尊その御
7 事で御座る:頼朝よりは然したる事も御
8 座らねば,御状は進ぜられぬ:御言葉に申せと
9 仰せられたは:当時京都に何事も御座無いは,
10 然て御座る故かとこそ思し召さるれと仰せ
11 られた:これは世の中も穏やかに成って御座
12 るに因って七大所詣で仕らうとて,暇
13 申して罷り上るが,道から労わる事
14 が御座って,とかうして参り着いては御座れども,
15 未だ快気仕らぬに因って,軈ても参
16 らなんだと,申せば:義経然はよも有らじ,梶
17 原が讒言について頼朝常は義経
18 を打たうと仰せらるると聞く:大勢上せば,宇治,瀬
19 田の橋をも引き,天下の大事に及ばうず:我僧
20 小勢で上って,夜討ちにも打って参らせいとて,上
21 せられた物よと仰せらるれば,昌尊顔色
22 変わって,全く然る事は御座無い:然御座らば
23 起請を書いて見参に入れうと申す所で,書
24 かうとも,書くまじいとも御坊が心よと仰

(376)
1 せらるれば,軈て三枚の起請文を書いて一
2 枚をば焼いて飲みなんどして返った.
3 弁慶が申したは:この法師は起請は書いて
4 御座あれども,何とやら危うう存ずる:追い付いて
5 しゃつが首を撥ねまらせう物をと申せば:
6 義経思うに何ほどの事が有らうぞ?唯
7 返せとて,返させられた.義経その頃
8 磯の禅師と言う白拍子が娘静と
9 申す女を愛して置かせられたが,只今の
10 法師は起請は書いたれども,子細有りさうに見えた,
11 人を付けて見せさせられいと申せば:童部
12 一人を見せに遣わすに,昌尊も恐ろ
13 しい者で義経定めて人を付けて見せ
14 させられうと思うて,これも門に人を立たせて
15 見する程に,怪しかる童部が一人佇み
16 歩いたを捕らえて問うに,落ちねば軈て打ち殺す:
17 既に暗う成るまで見えなんだれば,又静
18 女一人見せに遣わすが女程無う
19 走り帰って,昌尊は只今物参りと申
20 して打ち出す,この使いは切られて見えまらせ
21 ぬと申しも終わらねば,その勢五十騎ばかり
22 で義経の堀河の宿所へ押し寄せて,
23 鬨をどっと作る:義経折節灸治せら
24 れて,物の具召されうずる様も無うて御座ったが,

(377)
1 鬨の声に驚いてかっぱと起き,鎧取って着,
2 矢掻き負い,御馬参らせいと仰せらるれば,馬に
3 鞍置き,縁の際に引き立て打ち乗って,天竺,
4 震旦は知らず,義経などを手込めにせう
5 ずる者は覚えぬ物をと名乗り喚い
6 て駆け給えば,続く者は鈴木の三
7 郎,亀井の六郎,その他二十余騎喚いて駆く
8 れば,昌尊が勢五十余騎散々に駆け破られて,
9 残り少なう打たれた.義経の方には源
10 八兵衛,熊井太郎ばかり手負うて引き退いた.
11 頃は十月二十日の夜なれば,暗さは暗
12 し,雨は降る,昌尊が頼む所の兵
13 散々に駆け散らされ,昌尊も馬を射させて
14 徒立ちに成って,鎧脱ぎ捨て落ちたが,如何に
15 もして今宵竜が鼻越えに掛かって,北国
16 の方へと思うたれども,適わいでその夜
17 鞍馬の奥僧正が谷に逃げ籠もる
18 を義経の兵共跡を繋いで
19 追い掛くれば,鞍馬寺の僧これを聞き,義
20 経は古の好他に異ならず深かった
21 れば,諸共に尋ね行くに,羅皀の鎧直垂
22 着た法師一人僧正が谷から搦め取っ
23 て,おめおめと亀井の六郎に具せられて,
24 次の日の巳の刻ばかりに義経の六

(378)
1 条堀河の宿所に来れば,坪の内に
2 引き据え,義経縁から如何に御坊,起請には落
3 ちたぞと仰せらるれば,昌尊大きに打ち笑う
4 て,その御事で御座る:有る事に書いて御座る程
5 に,落ちて御座ると申したれば:命惜し
6 くは助けうぞ:鎌倉に下って頼朝を
7 も今一度見奉れかしと仰せらるれば,
8 昌尊正無や殿ほどの大将を打ちまら
9 せうずると思い掛かって上らう者が殿を打
10 ち奉らいで,命生きて再び鎌倉へ
11 下らうとは存ぜぬ:御恩には疾う首を召されい
12 と申せば,志の程神妙なと有って,
13 中務と言う侍に仰せて,法性寺の柳
14 原で切られた.
15 雑色足立と言う者をば頼朝旗差
16 しの料にと有って付けられたが,内々は義経
17 如何なる有らぬ振る舞いもの時は,夜を日に継いで
18 馳せ下って申せと御約束有って付けられた者
19 ぢゃが,昌尊が成り行く有り様を見,密かに
20 都を逃げ出て鎌倉へ参って,この由
21 一々に申せば,頼朝大きに驚かせ
22 られ,舎弟範頼を呼うで,御辺義経が討手
23 の大将に上られいと有ったれば,範頼辞し申さ
24 れた所で,頼朝怒って,扠は御辺も義

(379)
1 経と同心な?今日よりして頼朝
2 兄弟の儀有るまじい:鎌倉中にも適うま
3 じいと仰せらるれば,範頼大きに驚いて上
4 らうずる由を申されたれども,許されず:全
5 く疎かに思い奉らぬと百枚の起
6 請を書いて奉られたれども,猶も用い
7 られず,伊豆の北条へ追い下いて,遂にそこで
8 失われたと,聞こえた.舅の北条を大将に
9 して,六万余騎を差し上せらるると聞こえた
10 れば,義経は鎮西の方へ落ち行かばや
11 と思い立たせらるるが,ここに緒方の三
12 郎は威勢の者で有るに因って,義経に頼
13 まれよと有れば,緒方申したは:然御座らば,
14 身内の菊池は年来の敵で御座る,賜
15 わって首を撥ねうと申せば,申すまでも無う
16 軈て賜わったれば,六条川原で切って,緒
17 方は甲斐甲斐しゅう頼まれたと申す.
18 第二十五.義経の
19 都を落ちられた事:並びに北条の
20 上洛の事.
21 右馬.扠遂には兄弟の御仲何と成った
22 ぞ?

(380)
1 喜.義経は院の御所へ参って,大蔵
2 卿を持って申されたは:義経こそ鎌倉
3 から打たれうずるで御座る.宇治瀬田の橋をも
4 引いて,暫し支ようずる儀で御座れども,君の
5 御為心苦しゅう御座れば,西国の方へ
6 落ち行かうと存ずる:度々の朝敵を平らげ
7 まらした奉公をば如何でか御忘れ為されう?鎮
8 西の者共に心を一つにして合力
9 仕れと有る由を院庁の御下し
10 文を下されうずるかと申したれば:法皇思
11 し召し患わせられて,大臣公卿にこの
12 由を仰せ合わせらるれば,人々申さるるは:洛
13 中で合戦仕らば,朝家の御大事
14 で有らうず:逆臣洛中を出まらするならば,
15 穏しい事で御座らうずと諸卿一同に申され
16 たれば,法皇然らばと有って,軈て庁の御下し文
17 を為された.
18 同じ三日の卯の刻に伯父の義教,
19 行家,鎮西の住人緒方を相具してその
20 勢三百余騎で都に一つの患いを
21 も成さず,西国へ落ち行かれた.その日津の
22 国の大物の浦まで着かせらるるに,路次
23 で支ようとした者も有ったれども,適わいで
24 引き退いたれば,それから船に乗って押し出ださる

(381)
1 るに,俄かに西の風激しゅう吹いて頼まれ
2 た義教緒方が船たる船共いづ
3 くの浦へか吹き寄せつらう,行き方知らずに成っ
4 た.義経の船も同じ国の住吉
5 の浜に吹き寄せられたれば,都から召し具
6 せられた女房共十人余り住吉の
7 浜に捨て置き,静ばかりを召し具してそ
8 の勢二十人余りで大和吉野の奥へ
9 落ちられた.
10 捨て置かれた女房共或いは松の下,
11 或いは砂の上に袴踏みしだき,袖
12 を片敷き泣き伏したれば,人これを見て哀れみ,
13 皆都へ送った.吉野法師この事
14 を聞いて義経のこの山に籠もられたと言う
15 にいざ打ち取って,頼朝の見参に入らうとて,弓
16 矢兵仗を帯して数百人攻め来ると聞
17 こえたれば:義経吉野山にも跡を留
18 めず,防ぎ矢射させ,吉野山をも落
19 ち,その年は都辺に忍うで,文治二年
20 の春の頃秀衡を頼うで奥州へ落ち
21 行かせられた.
22 同じ十一月の七日に北条六万
23 余騎で都に入り,軈て院参して義教,
24 行家,義経等が謀反の由を奏聞す

(382)
1 れば,忽ち誅伐仕れと院宣を下
2 された.去んぬる一日は義経の申さるるに
3 因って,鎮西将軍たらうずると御下し文を
4 為され,同じ七日には頼朝申さるるに
5 因って,義経を追伐仕れと宣旨
6 を下さるる:明日に変わり,夕べに変ずる世
7 の中の不定な事は,真に口惜しい
8 儀ぢゃ.諸国に守護を置き,荘園に地頭を
9 成し,反別兵糧米を宛て行わうずると奏
10 聞すれば:法皇思し召し患わせられ,太
11 政大臣以下の公卿にこの由を仰せ合わ
12 せらるれば,人々申されたは:帝王の怨敵を
13 滅ぼいた者には半国を下さるると無
14 量義経に見えた:然れども我が朝にはその
15 例無いに,頼朝の申し状過分なと君
16 も,臣も仰せられたれども,頼朝重ねて
17 申されたれば,頼朝を日本国の大将
18 総司に補せられた:未だ先例無い恩賞ぢゃ.
19 扠行家は和泉の国に忍うで
20 居られたを北条とや斯くやして打ち
21 取って首をば鎌倉
22 へ下されたと申す.

(383)
1 第二十六.六代を
2 北条召し捕って後,文覚詫び言
3 に因って頼朝赦免
4 せられた事.
5 右馬.六代の事をも御語り有れ.
6 喜.都の守護に上せられた北条の
7 下へ鎌倉殿言い上せらるるは:平家
8 の子孫定めて多からうず,尋ね出いて御失
9 い有れと仰せらるれば:北条平家の子孫尋ね出
10 さう人は何事も望みの侭に有らうずると
11 披露したれば:京の者案内は知っつ,尋
12 ね求むる事はうたてい:下臈の子なれども,
13 色白う,見目良いはかの中将の若君,こ
14 の少将の公達などと申し,父母が悲し
15 めば,あれは外戚が申す事ぢゃなどと言うて,
16 奪い取り,幼いをば水に入れ,土に埋
17 み,大人しいをば首を切る:その中に小松
18 の三位中将の子息六代ごぜとて,年
19 も大人しゅう御座る上,平家嫡々の
20 正統なれば,これを失われよと鎌倉から
21 仰せ上せられたれば:北条尋ね兼ねて既に
22 下らうとする所に,或る女房六波羅に来て,

(384)
1 申したは:これから西遍照寺の奥小倉
2 山の麓大覚寺と申す所に,小
3 松の三位中将殿の北の方若君
4 姫君相具して,この三年住ませらるると教
5 えた程に,北条軈て人を遣わいて見られ
6 たれば使いこの坊中に入って,人を尋ぬる由
7 で,籬の暇から見入れたれば:折節白い
8 犬子の走り出たを取らうと美し気な若
9 君の走り出させられたを乳母と思しい
10 女房の慌てて続いて出て,あら浅ましや!人
11 もこそ見まらせうずれと申して,急ぎ引き入れ奉
12 れば,一定この人で有らうずると心
13 得て,使い立ち返って申せば,北条五百騎
14 ばかり大覚寺へ押し寄せ打ち囲うでここに
15 小松の中将殿の若君の御座ると聞い
16 て,北条と申す者御迎いに参って御座ると
17 人を入れて言わせたれば:母ごぜ唯我を先に
18 失えと泣かせられた.
19 この三年は高うさえ笑わなんだ人々が,
20 声を上げて叫ばれた.北条実にも然こそ
21 思し召すらうと申して,強いて坊にも攻め入らず,出
22 し奉るを待つ程に,日も漸う暮れ行
23 けば,重ねて使いを入れて別の事も御座る
24 まい,出しまらせられいと,言わせたれば:斎藤五,斎藤

(385)
1 六北の方の御前に参り,敵四方を囲
2 みまらしたれば,いづくより漏れさせられうかと
3 申せば:六代ごぜ遂に逃るる事は適
4 うまじい:武士共打ち入って探すならば,各々
5 も御迷惑有らうず,唯疾う出ださせられい:命
6 生きて六波羅に居まらせば,又参らうと仰
7 せらるれば:髪掻き撫で,結いなどして御装束
8 させ奉れば,母ごぜ黒木の数珠の小
9 さいを取ん出いて,やあごぜ,これを持って念仏を申
10 し,父ごぜと一つ所に生まれよと仰せ
11 らるれば,母ごぜには別れまらするとも,父
12 ごぜには必ず同じ所にとこそ大人
13 しやかに仰せられた.
14 今年は十二歳,見目形厳しゅう,たお
15 やかなに涙の進んだを余所に弱気を
16 見えまじいとてか,押さゆる袖の暇からも
17 余って涙は零れた.然て有らう事で無けれ
18 ば,輿に乗せて出させられた.斎藤五,斎藤六
19 御供をするに,北条乗り換えに乗せうずるとし
20 たれども,最後の御供なれば,苦しからぬ
21 と言うて,六波羅まで裸足で参った.母や乳母
22 は空しい後に留まって,如何せうと悶
23 えられた.命有らば又こそと慰めた言
24 葉の大人しさをいつ忘れうとも覚えず,

(386)
1 夕さりや切られう,暁や切られうなどと夜も
2 すがら寝させられねば,夢さえも無かった.限
3 り有れば,鶏人暁を唱え,長い夜も
4 早明け,六波羅から斎藤五若君の文
5 を持って参ったに,北の方先づ如何にと問わせ
6 らるれば,別の御事は御座無いと申す.この
7 文を見させらるれば,別の御事も御座無い:
8 御心苦しゅうな思し召しそ:いつしか皆
9 々恋しゅうこそと世にも大人しゅう書かれたれば,
10 無残の者の心やと文を顔に押し
11 当てて泣かせられた.斎藤五暫時も覚束
12 無う御座るに,暇申して返らうとすれば,御返
13 事下されて六波羅へ,立ち返った.乳母
14 の女房はそこはかとも無う憧れ居たに:或る
15 人労わって高雄の文覚と言う人こそ当時
16 頼朝の大切の人なれ;されば上﨟の公達
17 をも弟子に欲しがらせらるると聞く物を
18 と言うたれば:足に任せて惑い行き,高雄へ
19 尋ね入り,尾崎の坊に行き小松の三
20 位中将殿の若君今年は十二に成らせ
21 らるるが,世に美しゅう御座るを昨日武士に取ら
22 れて御座る:余りいとおしゅう御座れば,請い取って御弟子
23 にさせられいかしと,申せば:文覚扠一定
24 この山に置かせられうか?中々御命さ

(387)
1 え助からせられば,聖の御坊の御侭と申
2 した.武士は誰ぞ?北条と申せば,扠は知ら
3 ぬ人かとこそ思うたれ:行て尋ねうと出らるる
4 程に,一定とは覚えねども,大覚寺へ
5 返ってこの由を申せば,母ごぜ先づ喜
6 ばせられた.
7 文覚六波羅へ行ってこの由を尋
8 ねられたれば,北条然御座ればこそ平家は一門
9 広かったれば,子孫多からうず:尋ね取って失
10 えと鎌倉より承る.その中
11 に嫡々の正統六代ごぜとて有るを必
12 ず尋ね出いて失い奉れと有ったれば,
13 聞き出だし迎え奉ったれども,余り労
14 しさに,未だとも斯くもせぬと語られた.幼
15 い人はいづくに御座るかと問われたれば,御覧
16 ぜられいと有って,若君の御座る所に入れられた
17 れば,髪姿より始めて,袴の着際に
18 至るまで全て美しかった:黒木の数珠の
19 小さいを爪繰らせられたが,聖を見させられて,
20 何と思し召されたか,涙ぐませられたれば,
21 中々目も当てられず立ち返るが,末の世
22 如何なる毒と成らせらるるとも,如何でか助け奉
23 らぬ事が有らうぞと,文覚鎌
24 倉に下って申し受けて見まらせうず:如何に北

(388)
1 条文覚が頼朝に忠を尽くしまらし
2 た事は御辺予て御覧ぜられたれば,今更申
3 すに及ばねども,伊豆の北条に流されて
4 御座った時,勅勘を申し宥めうとて,千
5 里の道を遠しとせず,粮料の支度にも
6 及ばず,富士川,大井川に押し流され,
7 宇都の山,高師で山賊に会い,衣装を剥
8 ぎ取られ,命ばかり生きて,福原の御所へ
9 参り,院宣を申し出いて奉った:約束
10 には何たる大事をも申せと仰せられた.然れど
11 も契りを重うして,命を軽んじた.され
12 ば頼朝に天魔が付かずは,よも忘れさ
13 せられまじい:二十日の命を助けられいとて出で
14 られた.斎藤五,斎藤六は唯聖を生身
15 の仏の様に思うて,三度伏し拝み,喜
16 びの涙を流し,大覚寺へ参ってこ
17 の由を申せば,嘆き沈んで御座ったが,起
18 き上がらせられ,暫時の命も伸びょうずるかと明
19 し暮らさせられた程に,二十日の過ぐるは夢
20 で,聖は未だ見えられなんだ:然有る程に十二
21 月十五日に成った.
22 北条然のみ都で年月を送らう様
23 は無い:明日下らうと犇めいた.斎藤五,斎
24 藤六大覚寺へ参って北条は既に明日

(389)
1 発ちまらせうずるが,何故に聖は未だ見えさせ
2 られぬかと申せば,北の方されば良くは,先
3 に人をも上せられうが,唯悪しゅうてこそ遅
4 うは有るらう:扠失われうずる有り様かと仰せら
5 るれば:その御事ぢゃ:如何様にも暁の程
6 で御座らう:その子細は近う召し使わるる
7 家の子郎等共の若君を見まらし,世
8 にも御名残惜し気で,明日こそ罷り下
9 りまらすれとて,念仏を申すも御座り,側に
10 向いて涙ぐむ者も御座ると申せば:
11 扠六代は何と有るぞと,仰せらるれば:人の
12 見まらする時は,数珠爪繰らせられ,然らぬ
13 様に持て成させらるるが,然無い時は御涙に
14 咽ばせらるると申せば:それは然ぞ有るらう:心
15 無い者さえも命をば惜しむぞ.扠
16 己等は何とせうぞと,仰せらるれば:いづくま
17 でも御供仕り,何とも成らせられ
18 て御座らば,煙と成しまらし,御骨を取り,
19 高野に収め奉り,兄弟共に法師に
20 成り,後世を弔いまらせうとこそ申し合わせて御
21 座れと申し,泣く泣く暇請うて,六波羅へ立
22 ち返った.
23 同じ十六日の卯の刻に,北条既に
24 関東へ下るが,若君をも輿に乗

(390)
1 せ奉り,六波羅を出た.有為無常の境今
2 日この人越えさせられうずるとて,見る人袖
3 を濡らいた.粟田口に掛からせらるれば,我が
4 臥所かと守られ,駒を早むる武士が有れ
5 ば,我を殺すかと胸打ち騒ぎ:側に囁
6 く者が有れば,今を限りと胸を消
7 す.松坂四の宮川原かと思えど
8 も,関山をも打ち越えて大津に成り,
9 粟津か,野路かと思えども,その日も切
10 られいで止うだ.斎藤五,斎藤六物をさえ履かいで
11 足に任せて下り行くに,北条駒の足を
12 早むる程に,駿河の国千本松原
13 に掛かり,ここで輿舁き据え,敷き皮を敷き,
14 若君を下ろし奉り,北条斎藤五,斎
15 藤六を側に呼うで,今は疾う疾う御返り有れ,今日
16 より後は,何をか覚束無う思い有らうぞと
17 言わるれば:斎藤五,斎藤六これを聞き,扠は
18 ここで失い奉るよと思うに,物も
19 言わず,北条六代ごぜに申したは:何をか隠
20 しまらせうぞ?聖に会わうかとこれまでは具し奉
21 ったれども,一業所感の人で御座れ
22 ば,誰が申すとも頼朝御用い有るまじい.
23 足柄からあなたまでも具し参らせうとは存
24 ずれども,頼朝聞こし召されう所も恐

(391)
1 れで御座れば,近江の国で失いまらした
2 由をこそ披露仕らうずれと申せば;六
3 代ごぜ斎藤五,斎藤六を召し寄せて,汝等
4 我が終わりを見たならば,あな賢大覚寺で
5 申すなよ:母ごぜ嘆かせられば,冥土の障
6 りとも成らうず:関東に送り付け奉っ
7 たが,当時は人に預けられて居ると申せと,仰せ
8 らるれば:斎藤五,斎藤六君に遅れまらして
9 安穏に都まで登り着かうとも存ぜぬと
10 申して,泣く泣く西に向けまらし,念仏を
11 勧め奉り,太刀取り北条に目を合わせ,
12 いづくに太刀を打ち当て奉らうとも覚え
13 まらせぬ:自余の人にと辞退申せば,然らばあれ
14 切れ,これ切れと切り手を求むる所に,文袋
15 を首に掛けた僧の芦毛の馬に乗って
16 馳せ来る:これは高雄の聖の弟子で有ったが,
17 あの松原で只今召人の切られさせらる
18 ると人が申せば,余りの心許なさに傘
19 を上げて招いた.
20 北条これを見て子細が有る:暫しと言うて待た
21 れた.松原近う成れば,この僧馬から飛んで
22 下り,若君許されさせられて御座る.頼朝
23 の御教書これに有ると言うて,北条に捧げた.開
24 いてこれを見れば,小松の三位中将の子息

(392)
1 を尋ね出だされたを高雄の聖の頻りに
2 申さるる程に,預けよと書かれた.御自筆なり,
3 御在判なり,神妙神妙と言うて任せらるれば,
4 斎藤五,斎藤六中々呆れて物も言わ
5 ず,北条家の子郎等共皆涙を流
6 いた.
7 扠文覚も来たられ,六代ごぜ請い受け
8 申したとて,気色真に由々し気で父
9 三位の中将殿は数度の戦の大将なれば,
10 如何に申すとも適うまじいと頼朝仰せられたを
11 聖が奉公の好を様々に申し整
12 ゆる程に,遅かったぞと言わるれば:北条然御座
13 ればこそ二十日と仰せられた日数も既に伸
14 びまらするに,思えば賢うこそ今まで逃
15 しまらしたれとて,共に喜びの色を成し,
16 御輿に乗せ奉り,斎藤五,斎藤六をば
17 乗り換えに乗せて上するが,この程何事
18 に付けても情けの深かった事,今更嬉
19 しいに付けても,尽きせぬ物は涙で有った.
20 若君物こそ仰せられねども,名残惜
21 し気に思わせられ,北条も一日路なりと
22 も,送りまらせうずれども,鎌倉に参って
23 申さうずる大事数多御座ればと有って,引き分かれ
24 聖は若君受け取り,夜を日にして上る程

(393)
1 に,尾張の国熱田の辺で年も暮
2 れ,明くる正月の五日の夜に入って,都へ登
3 り着き,二条猪熊の岩上と申す所
4 に,文覚の坊が有ったにそこに入れまらした.
5 その夜の内に大覚寺へ御座って見らるれば,
6 立ち治まって人も無し,是は如何に?思いの
7 余りに水の底にも入らせられたか,然らば有り
8 し松原でとにも斯くにも成らうずる物
9 をと泣かせられた所へ,若君の飼わせられ
10 た犬子の築地の崩れから走り出て,尾を
11 振って向かうたれば:己は居るか!人はいづく
12 へぞと問われたにぞせめての事で有った.夜が更
13 けたれば問わうずる者も無し,然れども辺
14 りの者の申したは:年内から長谷に籠もら
15 せられたと申せば,その時安堵して斎藤五,斎
16 藤六門を開いて入れ奉れば:実にも近
17 う人の住んだ気色も無し,夜を待ち明かし,
18 聖と共に高雄へ上らせられた.
19 斎藤五,斎藤六長谷へ参り,この由を
20 申せば,更に現とも思し召さず,急
21 ぎ下向有って若君を呼び下しまらし,見
22 させられても,唯夢の心地をさせられた.暫
23 しここで労わりまらせうずる物をとは仰せ
24 らるれども,世の聞こえも恐ろししと有って,急

(394)
1 ぎ高雄へ送り奉られた.聖斜
2 めならずのいとおしみで二人の侍共に
3 哀れまれ,大覚寺の微かな住まいをも常
4 は訪い奉られた.その後頼朝
5 文覚の下へ便宜の時は,如何に中将の
6 子は昔頼朝を愛せられた様に,朝敵を
7 も滅ぼし,会稽の恥をも清めうずる
8 物で有るかと仰せられたれば,文覚全て
9 不覚人で御座る:御心安う思し召せと
10 申さるれども,頼朝見る所が有ってこそ
11 請い受けられつらう:謀反起こさば,定めて方人
12 をせう聖ぢゃ:但し頼朝が一期の間
13 は如何でか傾けうぞ?子供の末は知らず
14 と仰せられた事は,真に恐ろしい儀ぢゃ.
15 第二十七.法皇大原
16 に御幸為され,女院に御見参
17 有った事.
18 右馬.扠も哀れな事で有ったなう:その女
19 院の御事をもまちっと御語り有れ.
20 喜.文治二年の春の頃法皇は女院の大
21 原の閑居の御住まいを御覧ぜられたう思し召
22 されたれども,如月弥生の程は余寒も

(395)
1 猶激しゅう,峰の白雪消え遣らいで,谷の
2 氷柱も打ち解けず:さう有って春過ぎ,夏にも
3 成り,賀茂の祭りの頃に思し召し立た
4 れた.八葉の御車に召し,忍びの御
5 幸なれども,公卿六人,殿上人八人で
6 大原通りに日吉の御幸と御披露有って,清
7 原の深養父が作った補陀落寺小
8 野の皇太后宮の旧跡を叡覧有って,それ
9 より御車を留め,御輿に召された.遠
10 山に掛かる白雲は散りにし花の形
11 見と成り,青葉に見ゆる梢には春の名残り
12 も惜しまれ,始めたる御幸なれば,御覧
13 じ慣れたる方も無し:岩間を伝う水の声
14 も静けう,人跡絶えて哀れに有った.
15 寂光院は古う作り成いた山水木立ち由
16 有る様の御堂で有った:甍落ちては,霧不断
17 の香を焚き,枢破れては,月常住の灯
18 し火を掲ぐるとも斯様の所を申
19 さうか:岸の柳露を含めば,玉を
20 貫くかと疑い,池の浮き草波に漂
21 うて錦を晒すかと過たれ,松に掛か
22 る藤波の梢の花の残るも,山杜鵑
23 の一声も今日の御幸を待ち顔
24 に見え,深山隠れの習いなれば,青葉に交

(396)
1 じる遅桜初花よりも珍しゅう,水
2 の面に散り敷いて,寄せ来る波も白妙
3 なれば,法皇これを叡覧有って,かう思し召し続
4 けられた.
5 池水に汀の桜散り敷きて,
6 波の花こそ盛りなりけれ.
7 庭の青草露重う,籬に倒れ掛か
8 り,背面の小田に水越えて,鴫立つ暇
9 も無かった.
10 女院の御庵室を御覧ぜらるれば,垣には蔦
11 這い掛かり,忍交じりの忘れ草,瓢箪屡
12 空しゅう草顔淵が巷に繁しと
13 覚え:庭には蓬生い茂り,葎深
14 う閉ざいて,雨原憲が枢に潤すと
15 も言っつべしい:板の葺き目も疎らで時雨
16 も,霜も,置く露も漏る月影に
17 争うて,堪るべうも見えなんだ.後ろは山,
18 前は野辺,い笹小笹風騒いで世に,立たぬ身
19 の習いとて,憂き節繁い竹の柱,都
20 の方の訪れ,間遠に結える籬垣
21 や,僅かに言問う物とては,峰に木伝
22 う猿の声,賤が爪木の斧の音,
23 これ等ならでは更に無かった.正木の葛,
24 青葛,来る人稀な所で,法皇御

(397)
1 庵室に入らせられて,人や有る?人や有ると召されたれ
2 ども,御答えを申す人も無し:やや有って奥
3 の方から老いた尼公一人参って居まらする
4 と,申したれば:女院はいづちへ御幸成るぞと
5 仰せられたれば:この後ろの山に花摘みに
6 入らせられたと申せば:如何に花摘んで参らせうず
7 る者も付き奉らぬか?然こそ世を逃
8 れさせらるるとも,今更習い無い御技は労
9 しゅうこそと仰せらるれば尼公古い事共引
10 き出いてそれに類え,捨身の行を修しさせられう
11 ずるには,何の御憚りか御座らうと申した.こ
12 の尼公の気色を御覧為さるれば,身に着た物
13 は絹,布とも見分けず,浅まし気な作
14 法で有った.
15 この様で斯様の事を申す不思議さよ
16 と思し召し,汝は如何なる者ぞと御尋
17 ね有れば:尼公涙に咽び,暫しは物
18 をも申さず,やや有って涙を押し拭い,こ
19 れは少納言入道信西が娘阿波の
20 内侍と申す:内侍は紀伊の二位の娘.紀伊
21 の二位は又法皇の乳母で御座ったれば,然
22 しも御近う召し使わせられたに,御覧じ忘れ
23 させられ,今更夢かと驚かせられて,法皇
24 も御衣の袖を絞り敢えさせられなんだ.御障

(398)
1 子を開いて御覧ぜらるれば,本尊を掛けられ,全
2 て諸経の要文共色紙に書いて諸処に置
3 かれた:一間な所を開いて御覧有れば竹
4 の御竿を掛けられ,麻の御衣,紙の衾,
5 昔の蘭麝の匂いに引き替えた香の煙
6 心細う立ち上った.
7 然る程に後ろの山の細道から濃い墨
8 染めの衣着た尼二人木の根を伝い降
9 り下るが,先に立ったは樒,躑躅,藤の花
10 を入れた花筐を肘に掛け,今一人は爪
11 木に蕨折り添えて抱かれた.花筐を
12 肘に掛けさせられたは忝くも女院で御
13 座り,爪木に蕨折り添え抱かれたは維
14 実卿の御娘大納言の局で御座っ
15 たが,願いには違い,思いの外に法皇の御
16 幸為された口惜しさよ:然こそ世を捨つる身
17 とは成ったれども,斯かる様で見えまらせうも
18 心憂う悲しゅうて,唯消えも入らばやと思し
19 召された.宵々毎の閼伽の水を結ぶ
20 袂も萎るるに,暁起きの袖の上
21 山路の露も繁うて絞り兼ねさせられ,
22 山へも立ち返らせられず,御庵室へも入らせ
23 られず,遥かに佇ませらるる所に,内
24 侍の尼参って御花筐を賜わり,これほど

(399)
1 憂世を厭い,菩提の道に入らせられう上は,何
2 の御憚りが御座らうぞ?早早御見参為
3 され,還御成し参らせられいと申せば:実に
4 もと思し召されたか,泣く泣く法皇の御前
5 に参らせられ,互いに御涙に咽ばせら
6 れ,暫しは仰せ出ださるる事も無し:やや有っ
7 て法皇御涙を押さえさせられ,この御有り
8 様とはゆめゆめ知り参らせられなんだ,誰か
9 言問い参らするぞと,仰せらるれば:女院冷泉
10 の大納言,七条の修理の大夫この人
11 共の内方よりこそ時々訪いまらすれ:
12 昔はあの人々に訪われうとは露も思
13 い寄りまらせなんだ事をと有って,御涙に
14 咽ばせらるれば:法皇を始め,御供の人
15 々も御袖を絞り敢えさせられなんだ.
16 女院重ねて申させられたは:人々にも
17 遅れまらしたは,中々嘆きの中の喜
18 びで御座る:その故は五障三従の苦し
19 みを逃れ,釈迦の遺弟に連なり,人々の
20 後生を弔いまらすれば,生を変えてこそ六
21 道をば見るに,これは生きながら六道を,見て御
22 座ると,仰せらるれば:法皇これこそ大きに心
23 得まらせね:異国の玄奘三蔵,本朝のミ
24 チザウ上人の上にこそ然様の事をば承

(400)
1 れ:正しゅう女人の御身で即身に六
2 道を御覧ぜう事何と御座らうか:女院真
3 に理の仰せとは存ずれども,六
4 道の様を粗々擬えて申さうず:この身
5 は平大将の娘で女御の宣旨を下さ
6 れ,后の位に備わって皇子を生み奉
7 り,位に付かせられたれば,天子を子に持
8 ち奉る上は,大内山の春の花
9 色々の更衣仏名の年暮れ,摂籙以下の
10 大臣公卿に賞ぜられた有り様は四禅六欲
11 の雲の上,八万の諸天に囲繞せ
12 られうも斯くやとこそ覚えて御座ったが,扠も
13 去んぬる寿永の秋の始め,木曾とやら言う者
14 に都を攻め落とされ,遥々の波の
15 上に漂うて,室山,水島とやらの戦
16 に勝って,人々少し色を直されたに,又一
17 の谷とかやの戦に負けて,一門数十人然
18 るべい侍三百人余り滅びたれば,日頃
19 の直垂,束帯も今は何ならず:鉄を
20 伸べて身に纏い,諸々の獣の皮
21 を手足に巻き,喚き叫うだ声の絶えなん
22 だは帝釈睺王の須弥半天に於いて互いに意趣
23 を争う修羅の闘戦も斯くやとこそ覚えた
24 が,山野広しと言えども,休まうとするに,所

(401)
1 無う,貢きものも絶えたれば,旅の勤
2 めに及ばず:供御は偶々供ゆれども,
3 水をも奉らず,大海に浮かうだと言えど
4 も,それ潮なれば,飲むにも及ばず,
5 衆流海飲まうとすれば,猛火と成る:餓鬼道の
6 衆生も斯くやと覚えた.
7 扠年月を送る程に,過ぎた春の
8 暮れに先帝を始め奉り,一門と共
9 に門司の赤間の波の底に沈
10 まれたれば,残り留まる人共の喚
11 き叫ぶ声叫喚大叫喚の地獄の底
12 に落ちょうずるもこれには過ぎまいとこそ聞こ
13 えたが:扠も又武士共に取られて上る
14 時,播磨の国明石とやらに下り着いた夜,
15 夢幻とも分けなんだに,汀に出,
16 西を差し歩み行けば,金銀七宝を鏤
17 めて,瑠璃を伸べた宮の内へ参り,先帝
18 を始めまらし,一門の人々共並み
19 居て同音に提婆品を読誦せらるる程に,
20 ここは何と申すぞと問うたれば:二位の尼これ
21 は竜宮と答えられた程に,あらめでたや!これ
22 ほど由々しい所に苦しみは御座るまじいと
23 申せば:二位の尼この様は龍畜経に見
24 えて御座る:それを漸う見させられて後世を弔

(402)
1 わせられいと申すと思うて,夢は覚めた.
2 これを持ってこそ六道を見たとは申せ.我が
3 身は命惜しからねば,朝夕これを嘆く
4 事も無し,如何ならう世にも忘れ難いは,先帝
5 の御面影,心の終わり乱れぬ先
6 にと思えば,唯臨終正念ばかりと仰せら
7 れも敢えず,御涙に咽ばせらるれば:法
8 皇を始め奉って,供奉の公卿,殿上人袂
9 を絞りも敢えさせられず,猶も名残りは
10 惜しけれども,然て有らうずる事で無ければ,法
11 皇都へ還御成る.夕陽西に傾
12 けば,寂光院の鐘の声今日も暮れぬと
13 打ち知られ,女院は法皇の還御を御覧
14 じ送り参らせられて,御涙に咽ばせ
15 られて立たせられた所に,折節時鳥
16 の訪れて過ぎたれば,女院.
17 いざ然らば涙比べん時鳥,
18 我も憂世に音をのみぞ泣く.
19 と遊ばされた.その後法皇も常に御訪
20 い共有って,女院遂にゲンキュウ
21 の頃御逝去有ったと
22 申す.

(403)
1 第二十八.六代高
2 野へ上らるる事と,平家断絶,又文
2 覚も流され,遂には六代
4 も首を撥ねられ
5 た事.
6 右馬.して大略平家もあそこここなれど
7 も,大方聞き通いたかと存ずる.
8 喜.さればされば聞きも聞かせられ,語りも
9 語りまらした事ぢゃ;迚もの事に平家断
10 絶の所をも語り果たしまらせうず.然る程
11 に六代ごぜは十四五にも成らせらるれば,
12 見目,形美しゅう類無う見えさせられた.
13 十六と申すに,文治五年三月に聖に暇
14 を請わせられて,美し気な御髪を肩
15 の回りから剪み下ろさせられ,柿の衣
16 などを拵えて出でらるるに,斎藤五,斎藤六
17 も同じ様に出立って御供をした.先づ高
18 野に上って,滝口入道が庵室を訪ね
19 て御座り,これは三位の中将の子ぢゃが,父
20 の行方が聞かまほしさにこれまで訪
21 ね上ったと仰せらるれば:滝口急ぎ出
22 会い見奉れば,少しも違わせられず,只
23 今の様にこそ覚えまらすれと申して,墨

(404)
1 染めの袖を絞った.軈て具し奉り,
2 熊野へ参って三つの御山へ入って参
3 詣し,その後浜の宮の前の渚
4 に立って跡も無う,印も無かった遥かの海
5 上を守らえ,我が父はこの沖にこそ
6 沈ませられたとて,沖より立ち来る波に
7 問わまほしゅう仰せられた.それから都へ帰り
8 上り,高雄に三位禅師と申して行い
9 澄まいて御座った.
10 平家の子孫と言う事は去んぬる元暦二
11 年の冬の頃一つ二つの子を嫌わ
12 ず,腹の内を開いて見ょうと言うばかりにして失
13 うたれば,今は一人も無いとこそ思うたに,
14 新中納言知盛の末の子伊賀の
15 太夫と言う人が御座った.三歳と申す時,都
16 に捨て置いて落ち下られたを乳母の紀伊
17 の次郎兵衛と言う者が養い立て,伊賀の国
18 に有る山寺に置き奉った程に,十四五
19 に成らせられたれば,地頭,守護などが怪しむに
20 因って,ここでは適うまじいとて,十六と申す三
21 月に都へ上り,法性寺の一つ橋な
22 所に置き奉った.
23 その頃都の守護は頼朝の妹
24 婿一条の二位の入道で有った.古

(405)
1 は大宮の二位とて世にも御座らなんだが,今
2 は関東の便りと言うて,人の怖ぢ恐るる事
3 限りも無かった.その侍に基清と
4 言う者何としたか,この事を聞いて,その勢三
5 百余騎で法性寺の一つ橋へ押し寄せ
6 たれば,在京の武士共これを聞き,劣らじと
7 馳せ寄る程に,数千騎に及うだ.件の所
8 は四方に大竹を植え回し,堀を二重
9 に掘り,逆茂木塞いで橋を引いた.平家の侍
10 に聞こゆる越中の次郎兵衛,上総の
11 五郎兵衛,悪七兵衛これ三人は壇
12 の浦の合戦から打ち漏らされ,山林に交わ
13 り,源氏を窺い歩いたが,古の好を
14 尋ねてこの人に付いた.これを始めて城の
15 内に究竟の者共二十人余り立て籠
16 もり,命も惜しまず戦えば,面を
17 向くる者は無かった.
18 然れども寄せ手の者共堀を埋めて,
19 攻め入り攻め入り戦うたれば,城の内にも矢
20 種皆射尽くいて,館に火を掛け,自害して死ん
21 だ.上総の五郎兵衛はそこで討ち死にしつ,
22 次郎兵衛,悪七兵衛は何としたか,この
23 時も又落ちた.伊賀の太夫は生年十六
24 に成らせらるるが,腹掻き切り,西に向かい十念

(406)
1 唱えて終わらせられた.乳母の紀伊の次郎
2 兵衛は養君の自害させられたを膝に引き
3 掛け,我が身も腹掻き切り重なって伏した.その
4 他自害する者も有り,打たるる者も御
5 座った.基清この首共取り集めて,二位
6 の入道殿へ馳せ参れば:二位の入道車
7 に乗り,一条大道へ遣り出させ実検
8 せられた.
9 小松殿の末の子丹後の侍従は
10 屋島の戦から駆け抜けて,紀の国のイワ
11 サの七郎が下に御座ったを何としたか,こ
12 の事関東に聞こえて,熊野の別当,
13 湛増に仰せてイワサを攻めらるるに,追い返さる
14 る事数箇度に及うだれども,攻め落とさなんだ
15 れば,丹後の侍従仰せられたは:さればとて身が故
16 に各々の命を空しゅう成しまらせう
17 ずる事は労しい:唯我を都へ具して
18 上れ,降人に成って切られうと,仰せらるれば:如何でか
19 然る事の御座らうと申せども,余り仰せらる
20 るに因って力に及ばず,七郎兵衛具
21 し奉って,六波羅へ出た.この由を
22 関東へ申せば,別の子細も有るまじい,急い
23 で切れと仰せらるれば:六条川原で切り奉
24 った.扠こそイワサは安堵したと申す.

(407)
1 又小松殿の御子に宗実と言う人
2 が御座った.これは二歳の時,大炊の御門
3 取り離いてこの二十余年養育せられ,平家都
4 を落ちられた時も,相具せられなんだ.何と
5 したかこの事が関東に聞こえて攻められう
6 ずるで有ったれば,逃れうとて髻を切られた
7 れども,遂に適わいで関東へ下らるるが,
8 道すがらも水をさえも喉に入れさせられ
9 ず,足柄山で遂に干死ににさせられた.その
10 後越中の次郎兵衛も打たれ,悪七兵衛
11 は捕らまえられて,宇都宮に預けられた.そ
12 の頃主上と申すは,後鳥羽の院の御事ぢゃ:
13 これを文覚荒みまらし,二宮を位
14 に付け奉らうと図ったれども,頼朝の
15 御座る間は,申しも出さず,頼朝正治
16 元年の正月に失せさせられて後,文
17 覚この事を取り企てた程に,忽ちに
18 聞こえて,文覚を召し出され,年八十に
19 余って,隠岐の国へ流された.上皇余り
20 手鞠打ちを好ませられたれば,文覚追っ立て
21 の鬱使に具せられ,都を出た時も,様
22 々の悪口共申して下った.手鞠打ち
23 冠者に於いては,我が流さるる所へ遂に迎
24 えまらせうずる物をと言うて流された.

(408)
1 隠岐の国へ下り着いて,遂に思い死に
2 死んだ.その有り様恐ろしいなんどと言うも
3 疎かぢゃ.六代ごぜは三位の禅師とて行
4 い澄まいて御座ったを,文覚流されて後,
5 然る人の弟子なり,然る人の子なり,孫な
6 り,髪は剃ったりとも心はよも剃らじと有って,
7 鎌倉へ召し下され,遂に失われたと
8 申す.
9 右馬.さてさて長々しい事を退屈も無う
10 御語り有ったの.
11 喜.その御事ぢゃ.私が長い事を
12 語りまらしたよりも,退屈も無う聞かせられたを
13 奇特と存ずる.平家の由来は大略
14 この分で御座る程に,どこでもこ
15 の物語に於いては,こなた
16 も見事あどを打たせ
17 られう程に,重宝で
18 御座る.
19 FINIS.


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底本:大英図書館蔵本(Or.59.aa.1)
翻字担当者:片山久留美、渡辺由貴、金子愛、藤原慧悟、堀川千晶
更新履歴:
2019年3月25日公開

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