日本語史研究用テキストデータ集

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浦里時次郎明烏後の正夢うらざとときじろう あけがらすのちのまさゆめ

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五編中

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浦里時次郎明烏後の正夢 五編中

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凡例
1.本文の行移りは原本にしたがった。
2.頁移りは、その丁の表および裏の冒頭において、丁数・表裏を括弧書きで示した。また、挿絵の丁には$を付した。
3.仮名は現行の平仮名・片仮名を用いた。
4.仮名のうち、平仮名・片仮名の区別の困難なものは、現行の平仮名に統一した。ただし、形容詞・副詞・感動詞・終助詞・促音・撥音・長音・引用のト等に用いられる片仮名については、原表記で示した場合がある。 〔例〕安イ、モシ、「ハイそれは」ト、意気だヨ、面白くツて、死ンで、それじやア
5.漢字は現行の字体によることを原則としたが、次のものについては原表記に近似の字体を用い、区別した。「云/言」「开/其」「㒵/貌」「匕/匙」「吊/弔」「咡/囁」「哥/歌」「壳/殻」「帒/袋」「无/無」「楳/梅」「皈/帰」「艸/草」「計/斗」「弐/二」「餘/余」
6.繰り返し符号は次のように統一した。ただし、漢字1文字の繰り返しは原本の表記にしたがい、「〻」と「々」を区別して示した。
 平仮名1文字の繰り返し 〔例〕またゝく、たゞ
 片仮名1文字の繰り返し 〔例〕アヽ
 複数文字の繰り返し 〔例〕つら〳〵、ひと〴〵
7.「さ」「つ」「ツ」に付く半濁点符は「さ゜」「つ゜」「ツ゜」として示した。
8.Unicodeで表現できない文字は〓を用いた。
9.句点は原本の位置に付すことを原則としたが、文末に補った場合がある。
10.合字は〔 〕で囲んで示した。 〔例〕殊{〔こと〕}に、なに〔ごと〕、かねて〔より〕
11.傍記・振り仮名は{ }で囲んで示した。 〔例〕人生{じんせい}
12.左側の傍記・振り仮名の場合は、冒頭に#を付けた。 〔例〕めへにち{#毎日}
13.傍記・振り仮名が付く位置の紛らわしい場合、文字列の始まりに|を付けた。 〔例〕十六|歳{さい}
14.原本に会話を示す鉤括弧が付いていない場合も、これを補い示した。また庵点は〽で示した。
15.原本にある話者名は【 】で示した。 〔例〕【はる】
16.割注・角書および長音符「引」「合」は[ ]で囲んで示した。
17.不明字は■で示した。
18.原本の表記に関する注記は*で行末に記入した。 〔例〕〓{たど}りて*〓は「漂+りっとう」
19.花押は〈花押〉、印は〈印〉として示した。
20.画中文字の開始位置に〈画中〉、広告の開始位置に〈広告〉と記入した。

本文の修正
1.翻字本文を修正した場合には、修正履歴を末尾に示す。
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(1オ)
[浦里{うらざと}時次郎{ときじらう}]明烏{あけがらす}後正夢{のちのまさゆめ}巻之十四
江戸 [南仙笑楚満人 滝亭鯉丈] 合作
廿四回
「いかでかは思{おも}ひありともしらすべき。」と詠{よみ}し室{むろ}の八島{やしま}は
下野国{しもつけのくに}に名高{なだか}き所{ところ}なり。按{あん}ずるにこれは武蔵野{むさしの}の逃水{にげみづ}
なんどの類{たぐひ}にして。地気{ちき}の蒸{む}れて立登{たちのぼ}るを。遠{とを}く望{のぞ}めば
或{ある}は煙{けむり}りのごとく。または水{みづ}の流{なが}るゝが如{〔ごと〕}くも見{み}ゆる故{ゆゑ}に*「煙{けむり}り」の「り」は衍字

(1ウ)
かくは詠{よめ}るなりけらし。此{この}ほか古哥{こか}ども猶{なを}有{あ}りとなん。
閑話{むだばなし}は扨{さて}おきつ。偖{さて}も春日屋{かすがや}時次郎{ときじらう}は。舅{しうと}正右エ門{せうゑもん}がなさけ
にて。お照{てる}をともない下野{しもつけ}の国{くに}室{むろ}の八嶌{やしま}にさしかゝりしに。
はや秋{あき}のはじめつかたとて。野山{のやま}の光景{けしき}やふ〳〵に寂{さみ}しく。
雲井{くもゐ}にわたる厂金{かりがね}。峰{みね}に妻{つま}乞{こ}ふ鹿{しか}の声{こゑ}。いづれかあわれ
ならざるはなし。さらてだに旅{たひ}は物憂{ものう}きならひなるに薄{すゝき}
の穂{ほ}にもおぢるとかいふ落人{おちうど}の身{み}の人目{ひとめ}を忍{しの}びてたどり
行{ゆく}に時{とき}次郎は。此{この}ほどよりの心{こゝろ}づかいにや。急{きう}に癪{しやく}にとじ

(2オ)
つめられ。一足{ひとあし}も歩{あゆ}みがたく見{み}へければ。お照{てる}はかなしく
走{はし}り寄{よ}り【てる】「コレ申|時{とき}次郎さんお心{こゝろ}をたしかにおもち
なされて下{くだ}さりませ。ヱヽ折{をり}わるふ合薬{あいぐすり}の黒丸子{こくくわんし}もきれる。
暫{しば}しなりとお休{やす}ませ申そふ茶{ちや}やもなし。コリヤ何{なん}とした
物{もの}て有{あら}ふぞ。」と。うろ〳〵すれば時{とき}次郎は。苦{くる}しき息{いき}のした
よりも【時】「これは〳〵お照{てる}かならず案{あん}じて下{くだ}さるな。モウ〳〵
気分{きぶん}は大{おゝ}きによい。そろ〳〵歩行{あるい}て見{み}よふか。」と立上{たちあが}れ共{ども}
胸先{むなさき}へさしこむ癪{しやく}にたぢ〳〵と。尻居{しりゐ}にどふと倒{たを}るれば

(2ウ)
又{また}もおてるは■なしさつらさ【てる】「ヱヽマアおまへ其{その}様{よう}に気{き}を
せかずと。ゆるりと心{こゝろ}をおち付{つけ}てからお歩{あゆ}みなされませ。
せめて水{みづ}などたゞ一口{ひとくち}。」と。あたりの清水{しみつ}手{て}に結{むす}ひ。「サア〳〵
次郎{じらう}さんこれなりと呑{のん}で気{き}はたしかにもつて下{くだ}さり
ませ。」トいふ顔{かほ}じつと打{うち}ながめ【時】「コレお照{てる}うれしいぞやかた
じけない。これ迄{まで}おれが色〻{いろ〳〵}と。女狂{をんなぐる}ひの身持放埓{みもちほうらつ}。夫{それ}を
ちつとも嫉妬{りんき}もせず。影{かげ}になり日向{ひなた}になり。舅{しうと}や親{おや}の前{まへ}
をつくろい。日影{ひかげ}ものゝ此{この}おれを。夫{おつと}と思ふて居{ゐ}ればこそ。

(3オ)
此{この}よふにまで深切{しんせつ}にしてくれる志{こゝろざし}死{しん}でも忘{わす}れぬコレ女
房{にようぼう}。今{いま}までの放蕩{ほうとう}は堪忍{かんにん}してくれコレお照{てる}。おれもいつか
盗賊{とうぞく}との。其{その}悪名{あくめう}も消{きへ}うせて。再{ふたゝ}びかゞやす春日屋{かすがや}の家*「かゞやす」(ママ)
|名{めい}をおこす時{とき}もあらば。今{いま}の憂苦{ゆうく}もむかしかたり。舅{しうと}どの
やそなたにも。安堵{あんど}させる折{おり}も有{あら}ふ。今{いま}ちつとの間{ま}の辛
抱{しんぼう}じや程{ほど}に。どふぞこらへて待{まつ}てくれ。」ト夫{おつと}の詞{〔こと〕ば}にお照{てる}は
嬉{うれ}しく【てる】「ヱヽなんのおまへも他人{たにん}がましい。女房{にようぼ}のわたしに
礼{れい}いふものが有{あ}るものか。それはそふとアノ浦里{うらざと}さんは行衛{ゆくゑ}

(3ウ)
しれずと聞{きゝ}ましたが。どこにどふして居なさんすやら
そのゝちさつぱり便{たよ}りも聞{きか}ず。心{こゝろ}のうちではおまへもさぞ。
案{あん}じてゞござりませふ。わたしも夫{それ}が案{あん}じられる。」トいふを
聞{きい}て時次郎{ときじらう}「何{なん}のまア浦里{うらざと}が事{〔こと〕}をあんじよう。都{すべ}て
勤{つとめ}をしたものといふものは薄情{はくぜう}なものゆゑ。互{たがい}に一ツ所{ひとつところ}に
ゐるうちこそ。身{み}もよもあられず思{おも}ふものだが去{さ}るもの
日〻{ひゞ}に疎{うと}しとやらで。久{ひさ}しく離{はな}れて居{ゐ}て見{み}れば。そんな
にも思{おも}はぬよ。そして大{おゝ}かたあいつめも。欲張老婆{よくばりばゝあ}が連{つれ}て

(4オ)
行{いつ}たからは。定{さだ}めし今頃{いまごろ}はいゝ旦那{たんな}にでも鹿恋{かこわ}れて花野{はなの}
でくらしているかもしれぬ。それだによつておれが方{はう}へは
なしもつぶてもねへのだろうよ。それでなければどこへか
しら。ちつとは便{たよ}りのないといふ事{〔こと〕}もねへものだ。」【てる】「イヱ〳〵
そふではござりませぬ。私{わたし}はつゐに一度{いちど}あふた事{〔こと〕}はなけれ
ども。長{てう}五郎どのが咄{はなし}で聞{きゝ}ましたが。なか〳〵そふいふ浮気{うわき}
な心{こゝろ}ではないお方{かた}じやそふな。そふいふ真実{しんじつ}な心{こゝろ}でなけ
れば。お前{まへ}もほれもなさるまい。そふおつしやるは私{わたく}しへの

(4ウ)
義理一返{きりいつへん}のお詞{〔こと〕は}か。浦里{うらさと}さんの事{〔こと〕}とては。わたしに於{おい}ては
露{つゆ}程{ほど}もやきもちやく気{き}はござりませぬ。なろう事{〔こと〕}なら
二人{ふたり}仲{なか}よくお前{まへ}を大事{だいじ}にしたならば。どのよふにマア嬉{うれ}し
かろうと。私{わた}しや不断{ふだん}心{こゝろ}では。そればつかりを願{ねか}ふているに
そのやうな事{〔こと〕}おつしやるは。日頃{ひごろ}のわたしが気質{きしつ}おも。お前{まへ}
はしらぬかなんぞのよふにそりやどふよくてござります。」ト
すがりなげゝば時次郎{ときじらう}も。道理{とうり}にせまりふししづめばまた
もやさしこむ胸先{むなさき}の。もだへくるしむ其{その}折{をり}から。来{き}かゝる

(5オ)
二人{ふたり}の雲助{くもすけ}ども。此{この}体{てい}見{み}るより咡{さゝや}き合ひ。二人{ふたり}が傍{そば}へ立
寄{たちよ}つて【飛介】「コレあねさん見{み}ればかわいそうに若{わか}いお方{かた}の
苦{くる}しむてい。定{さだ}めし急病{きうびやう}でがなあるべいが。旅{たび}は道連{みちづれ}世{よ}は
情{なさけ}と。今{いま}の流行{はやり}の唄{うた}のとふり気{き}のどくな事{〔こと〕}だ。其{その}お方{かた}は
まアどこがわるいのだヱ。」ト聞{きい}てお照{てる}は気味{きみ}わるく【てる】「ハイ〳〵。
急{きう}に癪{しやく}がさしこんで難儀{なんぎ}いたしますによつて。さつきから
此{この}よふにかいほふしておりますが。爰{こゝ}らにお医者{いしや}さまはご
ざりますまいかね。」【泥蔵】「ナニ医者{いしや}どのかね。何{なに}この原中{はらなか}に

(5ウ)
そんなものが有{あ}る物{もの}かな。あねさんおめへなら私{わし}が医者{いしや}
どのに代{かわ}ツて。療治{りやうぢ}をしてやりてへもんだが。そつちの野郎{やろう}
ではくたばらうが。わしらは何{なん}ともおもはねへ。ヨ。姉{あね}ヱもふ日が
暮{くれ}るよ。こんな原中{はらなか}で夜{よる}になつて見なせヱ猪{しゝ}狼{おゝかみ}が出{で}て
喰{くい}ころされてしまふから。その野郎{やろう}をばうつちやつてお
いて。お前{めへ}ひとりおいらが内へ来{き}て。今夜{こんや}とまんなせへ。
おいら二人{ふた}リがおめへをば抱{だい}て寝{ね}て可愛{かあい}がつて。たんと御
馳走{ごちそう}をするよ。」ト[むたいに手をとりたわむるゝを。傍{そば}に見ている時{とき}次郎口おしながら身の病{やま}ひにせんかたなくもなみだをながし。

(6オ)
たゞ歯{は}をくひしばるばかりなり。お照{てる}は夫{おつと}のいたづきにとやせんかくやと思{おも}ふ中{うち}また一憎{いつそう}の此{この}場{ば}のなんぎ何{なに}とせんかた泣{なく}ばかり]【てる】「どふして
まア此{この}よふに苦{くる}しんでいる人{ひと}を。見{み}すてゝどこへ行{いか}れませう。
コレおまへがた手{て}を合{あは}せてお頼{たの}み申ます。駄賃{だちん}とやらは
何{なん}ぼでもあげませふほどに。主{ぬし}をもともに脊負{せお}ふてなり
と。こよひ一{ひ}ト夜{よ}さどこへなと。おとめなされて下{くだ}さりませ。」ト
いへどこなたは聞{きゝ}いれず【飛】「ハアヽその野郎{やろう}はおまへの亭
主{ていしゆ}か。但{たゞ}しは色事{いろ〔ごと〕}かなんぞで江戸{ゑど}を欠落{かけおち}した者{もの}だな〳〵。
欠落{かけおち}ものならいわずとしれた関所破{せきしよやぶ}り。此{この}通{とをり}を代官所{だいくわんしよ}へ

$(6ウ)
〈画中〉青面金剛

$(7オ)

(7ウ)
訴{うつた}へれば。おめへははりつけアノ野郎{やろう}は打首{うちくび}。どふで命{いのち}の
ねぐさつた。その野郎{やろう}をは原中{はらなか}へ。すてゝおけば今夜{こんや}の内{うち}。
猪{しゝ}狼{おゝかみ}の餌食{ゑじき}となる。そこでおめへは此{この}男{おとこ}と。おいらと二人{ふたり}で
持合{もやい}の女房{にようほう}。一晩{ひとばん}がはりに抱{だい}て寝{ね}てかわいがるがどふだ〳〵。」
トむさくろしき顔{かほ}すり付{つ}けて戯{たわむ}るれば。こらへかねて
泥蔵{どろぞう}が。飛助{とびすけ}を引{ひき}のけて【泥】「ヱヽこの野郎{やろう}は二人{ふたり}で見付{みつけ}た
此{この}鳥{とり}を。おのれ一人{ひとり}がものゝやうに。我{わが}見{み}るまへでじやらつく
とは。岡{おか}やきもちではなけれども。おれにもちつとかして

(8オ)
くれ。コレあねさん。おめへ悪{わる}い合点{がつてん}だ。見{み}れば野郎{やろふ}はもふ
今{いま}にくたばるよふす。死{しん}だ時{と}きやア是非{ぜひ}ともひとりに
なるおめへ。どこへ行{ゆく}のかしらねへが。女{をんな}の身{み}そらでひとり
じやア。どこの宿{しゆく}でもとめはしねへヨ。おいら達{たち}がいふことを
聞{きけ}ば直{すぐ}さま連{つれ}て行{ゆき}。可愛{かあい}がつたその上{うへ}で。行{ゆく}ところまで
送{おく}ツてやる。それをいやだと四{し}の五{ご}のいへば。此{この}野郎{やろう}をば今{いま}
二人{ふたり}で。たゝき殺{ころ}した其{その}上{うへ}で。お前{めへ}の足手{あして}をしばつて置{おき}。
おいら達{たち}がぞんぶんになぐさんだうへぶち殺{ころ}し。猪{しゝ}狼{おゝかみ}の

(8ウ)
餌食{ゑじき}にする。それでもおいらがいふ事を。いやだといふのか。
サアどふだ〳〵〳〵。」とつめよせられ。お照{てる}はこはさ悲{かな}しさに。
堪忍{かんにん}してとばかりにて。身{み}をちゞめてぞふるへいる。二人{ふたり}の
雲助{くもすけ}気{き}を焦{いら}ち【泥蔵】「コリヤモウいつそ近道{ちかみち}に。足手{あして}をくゝ
つて手{て}ごめに。」と。立{たち}かゝらんとする折{をり}しも。来{き}かゝる老女{らうぢよ}は
此{この}体{てい}見{み}るより。二人{ふたり}が中{なか}へわつていれば。雲介{くもすけ}どもは老婆{ろうば}を
見{み}て【飛】「ヲヽお|伯母御{ばご}せつかく鳥{とり}がかゝつたゆゑ。おいらが
よつて手料理{てりやうり}するを。なんでこなさまとめさしやる。」ト

(9オ)
いふに老婆{ろうば}は二人{ふたり}にむかい【婆】「コレ泥蔵{どろぞう}飛助{とびすけ}。ヱヽおのし達{たち}は
又{また}しても。悪手{わるて}な事{〔こと〕}ばかりしおるのう。若{わか}いお方{かた}のいとし
なげに。苦{くる}しまさしやるを夫{それ}にもかまはず。つれの女中{ぢよちう}を
とらへてむたいをしよふとは。さりとては非道{ひどう}な事{〔こと〕}。」トいふに
二人{ふたり}は「コレお|伯母{ば}ご日頃{ひごろ}に似合{にあは}すなぜこなたは。そんな
事{〔こと〕}をいわしやる。」といふを打消{うちけ}し【老婆】「ヱヽコレ〳〵何{なん}にも
いふな。おのれらは。其{その}よふな事{〔こと〕}いわずと。これをもつて家{うち}へ
行{いん}で一盃{いつはい}呑{の}みやれ。」となげ出{いだ}したる紙包{かみづゝみ}。二人{ふたり}はとつて

(9ウ)
ひねくり廻{まは}し。「そんならおばご此{この}二人{ふたり}はしつかりおまへに
わたしました。ドレ内{うち}へゐて休{やすま}ふか。」と。打連立{うちつれだち}て返{かへ}り行{ゆく}。
跡{あと}見送{みおく}りてお照{てる}は悦{よろこ}び。老女{ろうぢよ}が前{まへ}へ手{て}をつかへ【てる】「これ
は〳〵どなたさまかぞんじませぬが。危{あやう}い所{ところ}へようお出{いで}
なされて。ありがたふぞんじます。どふぞ此{この}上{うへ}のお情{なさけ}には
今宵{こよひ}一夜{ひとよ}サお前{まへ}さまの所{ところ}へなと。お留{とめ}なされて下{くだ}さり
ませ。」トいふに老女{ろうぢよ}は打{うち}うなづき【老婆】「なにがさてかふお世話{せわ}
を申|上{うへ}からは。一夜{ひとよ}はおろか十日{とをか}も廿日{はつか}もゆつくりと。逗

(10オ)
留{とうりう}して御連合{おつれあい}の御病気{こひやうき}の本腹{よふなる}をまつて行{ゆか}つしやり
ませ。アヽそのふんては歩行{あるい}ては行{ゆか}れまい。わしか家{うち}はツイ
アノ森{もり}の小陰{こかけ}トレわしかおふつて。」トかい〳〵しくも時次
郎{ときしろう}を脊中{せなか}に負{お}ひて彼{かの}老女{ろうちよ}お照{てる}をともない連行{つれゆき}ぬ。
廿五回
宇都{うつ}の宮{みや}とて奥州{みちのく}と二荒山{ふたらやま}へのわかれみち殊{〔こと〕}に賑{にきわ}ふ
駅路{うまやし}の。爰{こゝ}にもしける川竹{かはたけ}やさゝの一夜{ひとよ}のあた夢{ゆめ}を
むすふも旅{たひ}のうさはらしと往{わう}さ来{き}るさの諸客{まろうと}の袖{そて}

(10ウ)
引留{ひきとむ}るおしやれ女{め}か情{なさけ}あきのふ家{いゑ}〳〵は鄙{ひな}も都{みやこ}もおし
なへて昼{ひる}は寂{さひ}しき奥座敷{おくさしき}。朋輩女郎{はうはいちようろ}打寄{うちよ}りて過{すき}
こしかたの物語{ものかたり}あわれにはなす者{もの}もあり。または浮{うき}たる
徒{いたつら}に此{この}身{み}になれと猶{なを}あかて間夫狂{まふくる}ひする女{をんな}もあり。泣{なく}も
あれは笑{わら}ふもあり。千差万別{せんしやまんへつ}喜怒哀楽{きとあいらく}森羅万象{しんらまんそう}交{こも〳〵}たる
|紅粉房{みしまいへや}そかしましき。[爰{こゝ}に又{また}さきに釣舟{つりふね}の清次{せいし}か為{ため}に木下川{きねかは}の道{みち}にて匂引{かどわかせ}し彼{かの}浦里{うらさと}はめくり〳〵て此{この}宇津{うつ}の宮{みや}なる山名{やまな}や
といへるかもとに売{う}られけるか此{この}山名{やまな}やの文蔵{ふんそう}といへるは以前{いせん}は芦原{あしはら}にて浦里{うらさと}か親方{おやかた}たりし山名屋{やまなや}なれと此あるしは〔こと〕に情{なさけ}深{ふか}く家{うち}の子供{ことも}をよくいたわりめしつかひしかと
不仕合{ふしあはせ}打{うち}つゝきけれはあし原{はら}の店{みせ}をしまい此{この}程{ほと}より此|宇津{うつ}の宮{みや}に来{きた}りて住{すみ}けるに尽{つき}せぬゑんとて浦里{うらさと}か又もや爰{こゝ}にきたりしにいとも不便{ふひん}におもへともなりわいの事{〔こと〕}なれは

(11オ)
せんかたなくさいつ頃{ころ}より店{みせ}へ出{だ}しけるか元{もと}よりあし原{はら}にても全盛{ぜんせい}ならふかたなかりし傾城{けいせい}なれは忽{たちまち}客人{まらうと}の数{かつ}山をなして板頭{いたかしら}のおしよくかふとそなりにけるか此二三日|以前{いせん}より此{この}家{や}へ
目見{めみ}へに来{きた}り居{い}る女いやしからぬ風俗{ふうそく}といひ殊{〔こと〕}にまた此{この}流{なか}れにはなれぬと見へてたゞ昼夜{ちうや}涙{なみた}にかきくれいるに浦里{うらさと}も身{み}につまされていとゞ不便{ふひん}におもひ今日しも幸{さいわ}い少{すこ}しのいとま
ありけれは内{うち}の小ぢよくに言付{いゝつけ}酒肴{さけさかな}をとりよせ日頃{ひころ}より心{こゝろ}のあいし朋輩{ほうばい}女郎二三人うちよりて]【お里】「コレ大|吉{きち}や[小{こ}ちよくのことなり]アノこな
いたからめみへに来{き}てゐる子{こ}におれかそふいふから来{き}て一盃{いつはい}呑{のみ}
なせへといつて呼{よん}で来{き}な。そして〓ケ{かけ}[引]て台屋{でへや}へいつて*〓は「しんにょう+欠」
最前{さつき}言付{いゝつけ}たものはとふするのだ。はやくよこしておくれと
そふいつて来{き}や。それから其{その}序{ついて}にの店{たな}へいつて仙女香{せんちよこう}を
おくれといつて一包{ひとつゝみ}かつて来{き}な。又{また}道草{みちくさ}をくつて遊{あす}んて

(11ウ)
居{い}めへよ。」【今一人のおみつ】「コレサお里{さと}さんその仙女香{せんちよこう}とやらは何{なん}の
薬{くすり}だ。」【又一人のおちよ】「ヲヤお光{みつ}さんおめへまたしらねへか。此{この}あいたの
流行{はやり}ものてとんだよくきく薬白粉{くすりおしろい}の事サ。わつちやア
お里{さと}さんにおそわつてから買{か}て付{つけ}るか第一{たいゝち}きめをこまか
にして顔{かほ}の出来物{できもの}やにきびそばかすなんぞにやア誠{ま〔こと〕}に
奇妙{きめう}たよ。これ〳〵爰{こゝ}に包{つゝ}んた紙{かみ}が有{あ}るがこれを読{よん}て
見{み}な。」【おみつ】「どれ〳〵ヲヤ何{なん}だと。御顔{おんかほ}の薬{くすり}美艶仙女香{びゑんせんちよこう}一
包{ひとつゝみ}四十八|孔{こう}。この御薬{おんくすり}は享保{きやうほ}十一|年{ねん}二十一|番{はん}の船主{せんしゆ}伊孚九{いふきう}

(12オ)
といへる唐人{とうしん}長崎{なかさき}偶居{くうきよ}の時{とき}丸山{まるやま}の全盛{せんせい}|中近江屋{なかあふみや}菊
野{きくの}と称{せう}せし遊女{ゆうちよ}にさづけし奇代{きたい}の妙薬{めうやく}也{なり}。ヲヤおそろしく
六ケ敷{むつかしい}事{こと}か書{かい}てあるよ。そんならわたしもかつて付{つけ}て
見{み}ようよ。晩{はん}にやア得手{えて}か来{く}るからなんぼ駄面{たつら}てもそん
なもんても付{つけ}たらちつたアよく見{み}へよふもしれねへから。」
【お里】「ヘヱヽ又{また}うけさせるよ。大吉{たいきち}早{はや}くいつてよんで来{き}な。」ト[いわれて
小{こ}ちよくは返{へん}事もそこ〳〵出{いで}てゆく。程{ほと}なくかの目見{めみ}への女{をんな}はおつ〳〵なから]「お里{さと}さんおみつさんお千代{ちよ}さん
もおそろいて何{なん}てこさりますヱ。」【お里】「何{なん}てもねへかおめへか

(12ウ)
あんまりふさいて泣{ない}てはつかり居{い}るよふすたからちつと
気{き}をはらさせよふと思{おも}つて呼{よ}ひにやつたのサ。まア一盃{いつぱい}呑{のみ}
なせヱ。」「ハイそれは有{あ}りがたふござりますか私{わたくし}はたべません。」
【おみつ】「ヲヤそふかへ。それても有{あら}ふけれど。折角{せつかく}お里{さと}さんの
志{てざし}だから一ツ{ひとつ}呑{のみ}なせへな。」「ハイ〳〵さやうならば。」ト[盃{さかつき}をうける]【お里】「ホンニ
お前{まへ}は聞{きけ}ばまだ勤{つとめ}は始{はし}めてだそふだかどふいふ訳{わけ}でこふいふ
勤{つとめ}をしなさるのだ。何{なん}にしろそんなにふさいて。泣{ない}てばつかり
居{ゐ}なさつちやア身{み}の為{ため}にならねへから。酒{さけ}ても呑{のん}でちつと

(13オ)
浮{うき}〳〵しなせへ。誰{たれ}しも始{はじ}めてこんな所{ところ}へ来{き}た時{とき}は西{にし}を見
ても東{ひがし}を見{み}てもしらねへ人{ひと}ばつかり。何{なん}だか様子{よふす}はしれず地
獄{ぢごく}へでも落{おち}たよふにおもふものだが。まさか居馴{ゐなれ}て見{み}るとそん
なに恐{おそ}ろしい所{ところ}でもねへのさ。恥{はぢ}をいわねヱけりやア理{り}が聞{きこ}へ
ねへとやらいふ事{〔こと〕}があるが。ほんに違{ちげ}へねへ〔こと〕で。私{わたし}も元{もと}は芦
原{あしはら}で。やつはり爰{こゝ}のうちの旦那{だんな}さんがあつちに居{ゐ}なすつた
時分{じぶん}勤{つと}めて居{ゐ}やしたが。其{その}時{と}きやアわたしもおいらんとか
何{なん}とかいわれていたもんで有{あ}りましたが。それから云{いゝ}かはした

(13ウ)
人{ひと}があつて。やふ〳〵の思{おも}ひでその人{ひと}の所{とこ}へいつて。ヤレ嬉{うれ}しやと
おもふうち。私{わたし}が継母〔さま〕{まゝはゝさま}といふものは無慈悲{むじひ}な人{ひと}で。つゐその
人{ひと}に連{つれ}て行{いか}れる道{みち}。不思儀{ふしぎ}な事{〔こと〕}で今{いま}爰{こゝ}の家{うち}へ売{う}れる
時{とき}の判人{はんにん}清次{せいじ}さんといふ人{ひと}にたすけられてから。去ル{さる}お屋
敷{やしき}の御家中{ごかちう}の人{ひと}の世話{せわ}になつたり。いろ〳〵さま〴〵の難行
苦行{なんぎやうくぎやう}した事{〔こと〕}はわたしが今{いま}爰{こゝ}で噺{はな}さずとも明烏{あけがらす}の初篇{しよへん}
から四篇{しへん}迄{まで}で。御見物{ごけんぶつ}さまがたが克{よく}御{ご}ぞんじサ。その釣舟{つりぶね}の
清次{せいじ}さんのおかげで。こんな所{とこ}迄{まで}まごついて来{き}て居{ゐ}やすが

(14オ)
ほんに人{ひと}といふものはノウお千代{ちよ}さん。七{なゝ}ころび八起{やおき}と
やらで。わるい事{〔こと〕}が有{あつ}ても又{また}急{きう}にどんないゝ事{〔こと〕}が有{あら}ふも
しれねへから。何{なに}もそんなにくよ〳〵おもはずに。酒{さけ}でも呑{のん}
で憂{うさ}をはらしなせへ。マアきらいでも有{あら}ふが一ツ{ひとつ}おのみ。
おみつさん此{この}子{こ}についでやつてお呉{くれ}な。」トお里{さと}が酔{すい}な異見{ゐけん}
をば聞{きい}て涙{なみだ}を打{うち}はらひ「アヽ有{あ}り難{がた}ふごさります。まだ
爰{こゝ}へ来{き}て漸〻{やう〳〵}と四五日たつやたゝぬうち。馴染{なじみ}も薄{うす}い私{わたくし}を
その様{よふ}に深切{しんせつ}にいふて下{くだ}さりますお志{こゝろざし}。お礼{れい}の申そふよふも

(14ウ)
ござりませぬ。ほんに人{ひと}に人鬼{ひとおに}はない者{もの}とはよふ申ました
物{もの}で。わたくしも連合{つれあい}と諸{もろ}とも此{この}近所{きんじよ}まで参{まい}りました者{もの}。
どふした事{〔こと〕}やら先達{さきだつ}て室{むろ}の八嶌{やしま}とやらいふ所{ところ}で。夫{おつと}が俄{にはか}の
病気{びやうき}ゆゑ。雲助{くもすけ}どもが見{み}あなどり。難儀{なんぎ}におよびし其{その}所{ところ}へ。
折{をり}能{よく}来{き}かゝり二人{ふたり}の難儀{なんぎ}を。おすくひなされて下{くだ}されし
お婆〻{ばゞ}さま。御深切{ごしんせつ}にも私等{わたしら}夫婦{ふうふ}を|我家{うち}へともない御
介抱{ごかいほう}のかいもなふその次{つぎ}の日{ひ}より私{わたくし}が夫{おつと}の病気{びやうき}はいよ〳〵
つのるしたくわへ持{もち}し路金{ろぎん}さへ。其{その}騒動{そうどう}の砌{みぎ}りに失{うしな}ひ。

(15オ)
とやせんかくやと思{おも}ふうち。あるじのすゝめにせん方なく流{ながれ}に
沈{しづ}むも夫{おつと}の病{やまい}。其{その}薬代{やくだい}に此{この}身{み}をば。捨{すつ}るはさら〳〵惜{おし}から
ねど。わたしが居{ゐ}ずはこちの人{ひと}。さぞ何{なに}やかや不自由{ふじゆう}に有{あら}ふと
思{おも}へば私{わたくし}はそれが案{あん}じられ。酒{さけ}ものどへは通{とを}りませぬ。」と又{また}も
涙{なみだ}にむせかへれば。お里{さと}もいとゞ不便{ふびん}さに【里】「それは〳〵|亭主{ぬし}の
有{あ}る身{み}で其{その}主{ぬし}の為{ため}に身{み}を沈{しづ}めしとは天晴{あつぱれ}貞女{ていぢよ}とやら。
尤{もつとも}皆{みな}此{この}勤{つとめ}をするものは親兄弟{おやはらから}か夫{おつと}の為{ため}につらい泣{かな}しい
苦界{くがい}を立{たて}るならひなれど今{いま}の世{よ}の中{なか}にそんな野暮{やぼ}な

$(15ウ)
浦里{うらさと}
〈画中〉仙女香

$(16オ)
於照{おてる}

(16ウ)
者{もの}が有{あ}るものかと。お光{みつ}さんやお千代{ちよ}さんも笑{わらい}なさらふが
なか〳〵そふした事{〔こと〕}ではない。随分{ずいぶん}世間{せけん}には女今川{をんないまがは}や庭訓{ていきん}を
後生大事{ごせうだいじ}に守{まも}つている女中衆{ぢよちうしゆ}が素人{しろうと}にはいくらも有{ある}物{もの}サ。
既{すで}におめへわたしがいゝかはした人{ひと}の内室{おかみ}さんといふ者{もの}は夫{それ}は〳〵
今{いま}いふ貞女{ていぢよ}とやらサ。その上{うゑ}わかつた通{とを}りもので。聞{きゝ}なせへ。その
亭主{ていしゆ}が私{わたし}が所{ところ}へ夜昼{よるひる}かよひつめたを悋気{りんき}もせす。金{かね}を
出{だ}してわたしが年季{ねんき}を抜{ぬい}たと親方{おやかた}さんの今更{けふび}のはなし。なんと
今{いま}の世{よ}にもかふいふ女{をんな}が有{あら}ふか。|里住時{さとにいるとき}其{その}内室{おかみ}さんの使{つかひ}に来{き}な
*本丁上欄「おてる長五郎をたのみみうけせし事にて浦さとのちにこゝにてしるとみ給べし。」

(17オ)
すつた蝶五郎{てうごらう}さんといふ人に頼{たの}んで私{わたし}が所{ところ}へよこしなすつた
文{ふみ}が有{あ}りやすが。わたしやア今にそれを守袋{まもりぶくろ}の中{うち}へ入{い}れて
大切{たいせつ}に持{もつ}ていやす。」ト[懐{ふところ}の守{まも}り袋{ふくろ}の中{うち}よりもとり出{いだ}したる女{をんな}のふみ。ほうばい女郎もうちよりてひらいて見れば手跡{しゆせき}さへ拙{つた}なからざる
筆{ふで}にしていと哀{あは}れに情{なさけ}深{ふか}く書{かき}つらねたる文章{ぶんしやう}は。彼{かの}唐土{もろこし}の蘇{そ}若蘭{じやくらん}我{わが}国{くに}の瀬川{せがは}求女{もとめ}が妻{つま}たる菊女{きくちよ}ともいふべき。優{ゆふ}にやさしきすさみなりければ。かゝる|風雅{みやび}の道{みち}にうとき
儡傀女{くゞつ}らもそゞろにあはれをもよふしてその座{ざ}を立{たつ}て行{ゆく}跡{あと}に女は一人リ打{うち}しほれものをもいわず居{い}たりしがお里{さと}が側{そば}へすり寄{より}て]「今{いま}のお前{まへ}の
お噺{はなし}といゝ殊{〔こと〕}に覚{おぼ}への此{この}文{ふみ}は。まがふ方{かた}なきわたしが手跡{しゆせき}。
もしやお前は芦原{あしはら}の家名{いゑな}もおなじ山名屋{やまなや}の浦{うら}里さんでは
ござりませぬか。」ト聞{きか}れてお里{さと}は不審顔{ふしんがほ}。【里】「成程{なるほど}おなじ

(17ウ)
流{なが}れの身ながらも今{いま}は賤{いや}しい飯盛女{めしもりをんな}。名{な}のるもどふやら
面{おもて}ぶせ。なるほどわたしは芦原{あしはら}の山名屋{やまなや}にゐた時{とき}の名{な}は浦
里{うらざと}といゝましたが。おまへはそれをどふして。」と。いわれて女{をんな}は又{また}
恟{びつく}り「ヱヽそんならいよ〳〵おまへが浦里{うらざと}さんでござりまし
たか。わたしや春日{かすが}や時{とき}次郎が女房{にようぼう}照{てる}といふ者{もの}でござり升{ます}。」
【里】「ヱヽそんなら今も餘所事{よそ〔ごと〕}に聞{きい}たおまへの連合{つれあい}とは。」【てる】「やつ
ぱりおまへの言{いゝ}かはした。私{わたし}が夫{をつと}の時{とき}次郎さん。」【里】「しらぬ事{〔こと〕}
とてお照{てる}さま。」【てる】「浦{うら}里さん。」【里】「ヱヽあいたふござりましたわい

(18オ)
のふ。」トまたも涙{なみだ}にふし沈{しづ}む折{をり}から何{なに}やら見世{みせ}のかたいと騒{さは}
がしく聞{きこ}ゆるに。何事{なに〔こと〕}やらんと見てあれば六十{むそぢ}あまりの一
人{ひとり}の老女{らうちよ}何{なん}の遠慮{ゑんりよ}も内証{ないしやう}のいろりのはたに緩〻{くわん〳〵}と煙
草{たばこ}のみて主人{あるじ}にむかひ【老女】「モシ旦那{だんな}さんお久{ひさ}しうござりやした。」
トいふ顔{かほ}じろりと主人{あるじ}の文蔵{ぶんそう}「ハテナおまへは見たよふな
顔{かほ}だがだれであつたツけな。」【老女】「ヱヽおめへさんまだお若{わか}いに
老耄{らうもう}しなすつたそうだ。私{わた}しやア芦原{あしはら}にいなすつた時分{じぶん}
居{い}た浦里{うらざと}が親{おや}の篠塚{しのづか}でござりやすはな。」【文】「成程{なるほど}そふいへば

(18ウ)
前度{まへど}おらが家{うち}に居{ゐ}たうら里{さと}がお袋{ふくろ}。シテこなさんは何{なん}の用
で来{き}なすつたのだヱ。」【しのづか】「ヱヽ申|旦那{だんな}さん何{なに}もそんねへにしらを
きんなさる事{〔こと〕}はねヱわな。わたしやアアノ浦里{うらざと}が事{〔こと〕}で来{き}やした。
聞{きけ}ばアノあまめがだれが世話{せわ}だかいつぞやより爰{こゝ}の内{うち}に出{で}て
いると四五日|以前{まへ}に聞{きい}たゆゑ連{つれ}に来{き}やした。お里{さと}は私{わたし}が娘{むすめ}
じやによつて。親{おや}が連{つれ}て行{いく}はいさもくさもねへ理窟{りくつ}。現在{げんざい}
親{おや}がしらぬのにこゝらあたりへ流{なが}れきて。また泥水{どろみづ}をのむ
からはいわずとしれたかどはかし。いつぞやわつちが花又{はなまた}から

(19オ)
連{つれ}て戻{もど}りし途中{とちう}にて。駕籠{かご}から川{かは}へざんぶりやられ南無
三宝{なむさんぼう}とあきらめてわすれていたが四五日|已前{いぜん}。爰{こゝ}のうちへ
目見{めみ}へによこした奉公人{ほうこうにん}を口入{くちいれ}をした飛介{とびすけ}が噂{うはさ}ではじめて
浦里{うらざと}が此{この}世{よ}にいるといふ事{〔こと〕}を聞{きい}ちやア片時{かたとき}うつちやツてもおか
れめへと年寄{としより}が遥{はる}〴〵爰{こゝ}へ来{き}やしたのサ。旦那{だんな}さんすべよく
お里{さと}を返{けへ}してくんな。」ト高{たか}をくゝりし無法{むほう}の悪婆{あくば}すぐ直{すなを}には
行{ゆか}じと思{おも}ひ【文】「なるほどお里{さと}はこつちの内{うち}に居{ゐ}やすよ。したが
アノ女{をんな}を今度{こんど}抱{かゝ}へたは則{すなはち}兄{あに}の清次{せいじ}といふものゝ手{て}より買{かい}

(19ウ)
とつた奉公人{ほうこうにん}。めつたにふみ玉{だま}にやアなるめへよ。殊{〔こと〕}にアノ女{をんな}は
先達{さきだつ}て時{とき}次郎|〔さま〕{さま}のお内方{うちかた}。おてるさまの御情{おなさけ}で。身請{みう}ケの
金{かね}はすんでいれどまだろく〳〵にこつちのかたも付{つか}ねへ中{うち}に
我儘{わがまゝ}に花又村{はなまたむら}から連{つれ}かへる。その途中{とちう}にて浦里{うらざと}に身{み}を投{なげ}
られたはそつちの不念{ぶねん}。スリヤ誤{あやま}ちは五分{ごぶ}〳〵。」といへば篠塚{しのづか}
頭{かしら}をふり【しの】「イヤ〳〵そりやアおめへさんの手前勝手{てめへがつて}といふ
ものサ。畢竟{ひつきやう}わたしやア時次郎{ときじらう}の貧乏野郎{びんほうやらう}にくつ付{つ}ケて
おいちやア。始終{しゞう}がいかねへとおもつたから。きゝたくもねへ

(20オ)
にくまれ口をたゝいて漸〻{やふ〳〵}と引{ひつ}ぱなして連{つれ}てかへる其{その}
道{みち}すがらアノ女{あま}めが不了簡{ふりやうけん}を出{だ}してあんなことを仕出{しだ}
しやアがつて私{わたし}にやアこれまで案{あん}じさせた大{だい}の不孝
者{ふかうもの}でござりやすが。夫{それ}はモウみんな過{すぎ}た事{〔こと〕}でござりやす
から。どふもしかたがござりやせん。何{なん}でもお里{さと}はけへして
おくんなせへ。それとも達{たつ}て返{けへ}すがいやなら是非{ぜひ}がねゑ。
代官所{だいくわんしよ}へ訴{うつた}へてなりともつれて返{かへ}らにやア置{おか}れねへよ。
サアお里{さと}を返{かへ}すか。代官所{だいくわんしよ}か。旦那{だんな}さんだまつて居{い}ずとマア

(20ウ)
物{もの}をいゝなせへナ。」ト[あく迄{まで}ねづよき篠塚{しのづか}に。さすが山名屋{やまなや}文蔵{ぶんぞう}も。もてあましてぞ見{み}へにける。折{おり}しも此{この}家{や}にきのふより逗留{とうりう}なし居{い}る
侍{さむらい}の素性{すぜう}はたしかにしらぬ火の。つくし方なる武士{ぶし}の浪人{らうにん}。何事{なに〔こと〕}やらんと一間{ひとま}をたちいで此ばのやうすをうかゞへり。主人{あるじ}の文蔵{ぶんそう}手をこまぬき詞{〔こと〕ば}もなくていたりしが。しのづかばゞは
きをいらち]【しの】「コリヤモウいつそ代官所{だいくわんしよ}へ勾引{かどわかし}をした山名{やまな}やと訴人{そにん}を
したうへ恩平{おんひら}なし。お里{さと}をつれて行{ゆき}やす。」と。立上{たちあが}らんとする
所{ところ}へ。いづくよりかは来{きた}りけん。はつしと打{うつ}たる手〓釼{しゆりけん}に*〓は「衣(偏)+裏」
篠塚{しのづか}ばゞが裳{もすそ}より。畳{たゝみ}へしつかとぬい付{つけ}たり。しのづか婆〻は
これを見て【しの】「ヲヤけしからねへ。爰{こゝ}のうちはしつけへ吹矢{ふきや}
を見るよふで。とんだものが飛{とん}で来{き}た。」と。いひさま抜{ぬ}きとり

(21オ)
手に取{とり}あげ。ためつすがめつ見てびつくり「たしかに覚{おぼ}への
此{この}もち主{ぬし}。何所{いづく}のお方{かた}か鳥渡{ちよつと}あふて。」ト奥{おく}のかたへ行{ゆか}ん
とするに。一ト間{ひとま}の中{うち}より声{こゑ}高{たか}く「忘{わす}るなよ程{ほど}は雲井{くもゐ}に
へだつとも空{そら}行{ゆく}月{つき}のめぐりあふ迄{まで}。絶{たへ}て久{ひさ}しき女房{にようぼう}小笹{をざゝ}
それへ往{い}て対面{たいめん}せん。」と襖{ふすま}さらりとおしあけて以前{いぜん}の
侍{さむらい}立出{たちいで}けり。
[浦里{うらざと}時次郎{ときじらう}]明烏{あけがらす}後|正夢{まさゆめ}巻之十四終


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底本:東京大学文学部国語研究室蔵本(4L:95:5)
翻字担当者:矢澤由紀、金美眞、島田遼、銭谷真人
更新履歴:
2017年7月26日公開

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