日本語史研究用テキストデータ集

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浦里時次郎明烏後の正夢うらざとときじろう あけがらすのちのまさゆめ

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四編中

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浦里時次郎明烏後の正夢 四編中

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凡例
1.本文の行移りは原本にしたがった。
2.頁移りは、その丁の表および裏の冒頭において、丁数・表裏を括弧書きで示した。また、挿絵の丁には$を付した。
3.仮名は現行の平仮名・片仮名を用いた。
4.仮名のうち、平仮名・片仮名の区別の困難なものは、現行の平仮名に統一した。ただし、形容詞・副詞・感動詞・終助詞・促音・撥音・長音・引用のト等に用いられる片仮名については、原表記で示した場合がある。 〔例〕安イ、モシ、「ハイそれは」ト、意気だヨ、面白くツて、死ンで、それじやア
5.漢字は現行の字体によることを原則としたが、次のものについては原表記に近似の字体を用い、区別した。「云/言」「开/其」「㒵/貌」「匕/匙」「吊/弔」「咡/囁」「哥/歌」「壳/殻」「帒/袋」「无/無」「楳/梅」「皈/帰」「艸/草」「計/斗」「弐/二」「餘/余」
6.繰り返し符号は次のように統一した。ただし、漢字1文字の繰り返しは原本の表記にしたがい、「〻」と「々」を区別して示した。
 平仮名1文字の繰り返し 〔例〕またゝく、たゞ
 片仮名1文字の繰り返し 〔例〕アヽ
 複数文字の繰り返し 〔例〕つら〳〵、ひと〴〵
7.「さ」「つ」「ツ」に付く半濁点符は「さ゜」「つ゜」「ツ゜」として示した。
8.Unicodeで表現できない文字は〓を用いた。
9.句点は原本の位置に付すことを原則としたが、文末に補った場合がある。
10.合字は〔 〕で囲んで示した。 〔例〕殊{〔こと〕}に、なに〔ごと〕、かねて〔より〕
11.傍記・振り仮名は{ }で囲んで示した。 〔例〕人生{じんせい}
12.左側の傍記・振り仮名の場合は、冒頭に#を付けた。 〔例〕めへにち{#毎日}
13.傍記・振り仮名が付く位置の紛らわしい場合、文字列の始まりに|を付けた。 〔例〕十六|歳{さい}
14.原本に会話を示す鉤括弧が付いていない場合も、これを補い示した。また庵点は〽で示した。
15.原本にある話者名は【 】で示した。 〔例〕【はる】
16.割注・角書および長音符「引」「合」は[ ]で囲んで示した。
17.不明字は■で示した。
18.原本の表記に関する注記は*で行末に記入した。 〔例〕〓{たど}りて*〓は「漂+りっとう」
19.花押は〈花押〉、印は〈印〉として示した。
20.画中文字の開始位置に〈画中〉、広告の開始位置に〈広告〉と記入した。

本文の修正
1.翻字本文を修正した場合には、修正履歴を末尾に示す。
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(1オ)
[浦里{うらざと}時次郎{ときじろう}]明烏{あけからす}後正夢{のちのまさゆめ}巻之十一
江戸[南仙笑楚満人 滝亭鯉丈]合作
第十九回
爰{こゝ}に又{また}彼{かの}浦里{うらざと}は千葉家{ちばけ}なる二見{ふたみ}十左エ門{じうざゑもん}が屋敷{やしき}
にありけるが。兎角{とかく}目{め}にたつ風俗{ふうぞく}にいつまで隠{かく}し
果{はつ}べきにあらねば。一旦{ひとまづ}花形村{はながたむら}の卒次{そつじ}が方{かた}へ預{あづけ}んと。
蜜{ひそか}に轎{かご}を雇{やと}い。送{おく}らんといふに。浦里{うらざと}はひさ〴〵の

(1ウ)
願{ねが}ひなればこの序{ついで}。木下川{きげがは}の薬師{やくし}へ参詣{さんけい}せんとて。
駕籠{かご}を急{はや}め来{き}かゝる田甫{たんぼ}の一筋道{ひとすじみち}。向{むか}ふより来{く}る
酔人{なまゑい}の並歩{つながりあふ}て二三人。浪〻{よろめき}ながら来{き}かゝりて。こなたの
轎{かご}に突当{つきあた}り。やにはに轎{かご}の棒鼻{ぼうばな}とらへ【牛太{ぎうた}】「アイタヽヽヽヽ。
ヤイ眼玉{まなこだま}をおつ開{ひれ}いて通{とを}ツたがゑい。アゼ私{うら}がふたいへ
ひたゝかに轎{かご}の棒{ぼう}サ突当{つきあて}たんだ。いてへぞ〳〵。了
簡{りやうけん}がなんねへぞ〳〵。」[浦里{うらざと}を乗{のせ}たる轎{かご}の者{もの}。生酔{なまえい}と見たるゆへ。此{この}者{もの}どもが前{まへ}に手{て}をつかへ]【駕かき】「ハイ〳〵
暑{あつ}いで道{みち}を急{いそい}だゆゑ。つい目{め}もくらんでそゝうを

(2オ)
いたしました。どうぞ御了簡{ごりやうけん}なされて下{くだ}さりまし。」
【牛太】「アニこの分{ぶん}じやア了簡{りやうけん}がならねへぞ〳〵。」【今一人の門十郎】「そうだ
〳〵。兄{せな}アりやうけんさつしやるな〳〵。」【牛太】「ヤレハア勘太{かんた}
そけいらを見{み}てくれさつせヱ。今{いま}の痛{いた}さで眼玉{まなこだま}のウ
飛出{とびで}たよふだが。落{おち}ちやアいねへか。さがしてくれさつせへ。」
[今{いま}一人{ひとり}の勘太{かんた}といふ男{おとこ}そこらをさがし見て]【勘太】「どつこにも落{おち}ちやアねへが。モシ家{うち}へ
忘{わす}れてござらツしやりアしねへかへ。」【牛太】「アニ浪言{たアこと}なア。そこ
らの草莽{くさはら}のなかをよツく見{み}てくれさつせヱ。」【勘太】「どこを

(2ウ)
さがしても見{み}へやしねヱが。マアいしの眼{まなこ}を見せさつせへ。」
ト[勘太よく〳〵見て]「あにハアそんねへにさわぐ事{こん}でねへ。眼玉{まなこだま}ア豆
息才{まめそくさい}でいさつしやらア。」【牛太】「そんだらゑいが。今{いま}まで
二{ふた}ツ有{あり}つけた眼玉{まなこだま}が一{ふと}ツになつたら不自由{ふじゆう}であんべい
と思{おも}ツて。ヱラかなしかつた。」【かごかき】「それはお目出度{めでたう}ござり
ます。どふぞ御了簡{ごりやうけん}なされてくだされまし。」【牛】「まんだ
了簡{りやうけん}がなんねへぞ〳〵。」【門十郎】「そふしてかごの中{なか}の人{ふと}は
アゼ此{この}停{くれい}そふどふにつんでゝ己等達{うらたち}にゑへさつをし

(3オ)
ねへのだ。」【勘太】「爰{こゝ}へふきずり出{だ}せ〳〵。」ト[口〳〵にわめきちらすゆゑ。浦里はせんかた
なくふるへ〳〵駕より出て]【浦里】「ハイ轎{かご}に乗{の}ツておりましたは。わたくしで
ござりますが。木下川{きげがは}の薬師{やくし}さまへ参りますもの。
どふぞ御堪忍{ごかんにん}なされて下{くだ}さりまし。」【牛太】「ヤアヽコリヤアハア
了簡{りやうけん}せざアなるめへ。こんなヱラ美{うつく}しい姉{あね}イの言{いふ}こん
だアものを。ナア。勘太{かんた}門十{もんじう}。」【浦】「ハイそれは有{あり}がたふござり
ます。」【門】「イヤそんでヱに私{わし}ども今{いま}も仲直{なかなを}りに一ツ呑{のん}
べいといふたが。太義{たいぎ}ながら|いし{#主}酌{しやく}ノウしてくれさつせへ。」

$(3ウ)
【浦】「ハイお安{やす}い御用{ごよう}でござり
ますが。道{みち}をいそぎますもの。
どふぞおゆるし被成{なされ}て此{この}儘{まゝ}に
御{ご}りやうけんなされて下{くだ}さり
まし。」【牛】「酌{しやく}のふせる事{こと}がいや
なら。|うら{#吾等}も了簡{りやうけん}ノウする事{〔こと〕}は
やダア。そこが魚心{うをごゝろ}あれば水
心{みづごゝろ}だア。」【勘】「そふだ〳〵。あんでも

$(4オ)
〈画中〉きね川堤 大■

ふきずつて行{ゆけ}〳〵。」ト[なきゐる浦里を
引立んとする所へ折よく来{き}かゝる旅{たび}の者{もの}此中へは入り三人の者をなだめ浦里と顔
見合するに浦里はびつくりし]【浦】「ヤアおまへは兄{あに}
さん。」といふを打{うち}けし【旅人】「イヤサ
見{みす}しらずの通{とを}りかゝりの旅{たび}
の者{もの}。ナントお前方{まへがた}女{をんな}をとらへ
てとやかふいふたとてつまらぬ
詮義{せんぎ}。何{なに}はともあれ此{この}一件{いつけん}は

(4ウ)
さらりとわしに下{くだ}すつて。あすこの酒屋{さかや}で一盃{いつぱい}祝{いわい}に
やらかそふじやアござりやせぬか。」【牛太】「いかさま事{こと}を分{わけ}た
いしの詞{〔こと〕ば}にめんじで。ずいぶんりやうけんノウします
べいヨ。」【旅人】「それは何{なに}より有{あり}がたふござりやす。サア駕{かご}
籠の衆{しゆう}もともにお女中{ぢよちう}。サア参{まい}りませう。」ト[みな〳〵をともないかしこの
酒{さか}やへ入りみな〳〵に酒{さけ}をふるまいければ百姓どもはじめかごかきども前後もしらずゑいふしたるすきを見合旅人はやにはに浦里にさるぐつわはめうらの
切戸{きりど}よりそつと抜{ぬけ}いで一丁ばかりにげ来{きた}りとある庚申塚のかたわらにどつかとおろし]【釣舟清次】「ヤレ〳〵汝{うぬ}を引払{ひつぱら}ふ
にすてきと骨{ほね}をおらせやアがつた。コレヤイ浦里{うらざと}よく

(5オ)
聞{き}ケよ。うぬはマア此{この}けつこうなお兄{あに}いさまに。いろ〳〵と
世話{せわ}をやかせ。折角{せつかく}うまく法{ほう}をかき。荒川様{あらかはさま}へやつて
おけば。其{その}屋敷{やしき}をも欠落{かけおち}したと。聞{きい}たなれどもどふやら
に怪{あや}しいゆゑに犬{いぬ}をいれて。さがしてみれば二見{ふたみ}とやらが
屋敷{やしき}にかくまいおくよし聞{きい}た上{うへ}。今日{けふ}爰{こゝ}へ来{く}る事{〔こと〕}
までもかぎ付{つけ}た。それゆゑに村{むら}の悪漢{わるもの}かたらつて。
喧嘩{けんくわ}させしも皆{みな}おれが。先{さき}へまわつて作{かい}た狂言{きやうげん}。うま
くまいつた此{この}始末{しまつ}。これから汝{うぬ}を売{うり}こくり。ずつしり

(5ウ)
おれがあたゝまる。サアうせおれ。」と荒{あら}けなく此{この}所{ところ}をぞ走{はせ}
去{さり}ける。◯川竹{かはたけ}に一節{ひとふし}足{た}らぬ憂{うき}勤{つと}め。仇{あだ}し仇浪{あだなみ}定{さだ}
めなき。身{み}は婦多川{ふたがは}に流{なが}れ来{き}て。芸子{げいこ}づとめの波吉{なみきち}と
丈夫{ますらを}の名{な}に呼{よば}るゝも。よしや世{よ}わたるたつきかや。在{ありし}昔{むかし}は
山名屋{やまなや}の浦里{うらざと}が妹{いもふと}と。かりによびなす里{さと}の癖{くせ}。今{いま}は
自前{じまへ}の気楽{きらく}さは。一人{ひとり}の母{はゝ}へ孝行{こう〳〵}を尽{つく}すかいなき
女{をんな}の手業{てわざ}。三筋{みすじ}の糸{いと}に朝夕{あさゆふ}の。煙{けむ}りも細{ほそ}きかせ
世帯{ぜたい}。さわり文句{もんく}の仇{あだ}つきに。袖{そで}ひく人{ひと}は有{あり}ながら。

(6オ)
ふつと契{ちぎ}りし彼{かの}人{ひと}へ操{みさほ}もかたき樫棹{かしざほ}の。いまの
辛桑胴{しんくわどう}なりと末{すゑ}を頼{たのみ}にとにかくに。富貴{ふうき}は天柱{てんじゆ}に
打{うち}まかせ。隙{ひま}行{ゆく}駒{こま}の月日{つきひ}をも。只{たゞ}徒{いたづら}にすごしける。[此浦
浪は廓にありし頃も。時次郎が事をばしんせつに世話しければ。浦里も実の妹のごとくいつくしみけるが。ふと長五郎をくるわへともない。此浦波にあはせければ。
浦なみは長五郎がいやみなき男ぶりといゝ。かつは実あるこゝろざしに。勤{つとめ}はなれてかたらいしが浦里廓を出しのちは長五郎が世話にて。此ふた川へ来り芸者となり。
ひとりの母{はゝ}へ孝行を尽{つく}しける]◯[折しも昼時分{ひるじぶん}波{なみ}吉は風呂よりかへりしと見へて鏡台{きやうだい}にむかひ顔をして居{い}る。母は茶釜の下へ薪をくべながら火吹竹にてふき
つけていながら]【母】「ヱヽモウ此{この}薪{まき}は生{なま}だとみへてさつぱりもゑ
やアしねへ。モウ〳〵じれつたくツてならねへ。フウ[引]〳〵。

(6ウ)
お波{なみ}や[波吉といふ名なれども母はよびにくきゆへお波〳〵とよぶ也]さぞけむかろう。モウちつと
しんぼうしな。今{いま}にもへ付{つく}よ。」【波吉】「ナアニそんなに煙{けむ}くは
ないよ。」ト[めをふさぎけむきをこらゆるも母の詞にさからはぬ孝行ものとしられたり]【母】「モウおまへがおしまい
をしてしまつたらお昼{ひる}にしよふぜ。さつき八幡{はちまん}がねの
九ツが鳴{なつ}たに。けふはいつもの金時屋{きんときや}さんがでいぶ
遅{おそ}い。モウ来{く}る時{じ}ぶんだが。」【波】「ホンニおつかさんモウくる
時分{じぶん}といへば。アノ長{てう}さんは今日{けふ}らア来{き}なさりそふな
ものだネ。この間{あいだ}の事{こと}に付{つい}ていろ〳〵と噺{はなし}も有{あ}るに。

(7オ)
人{ひと}でもあげよふかしらん。」ト[うわさをすれば影とやらかうし戸{ど}をぐわらりとあけてかの長五郎]
【長】「おつかア此{この}間{あいだ}は。」【母】「ヲヤ長五郎さんよくお出{いで}だ。今{いま}も
アノ子{こ}が噂{うはさ}をして人{ひと}でも上{あ}ゲよふかといつていた所{とこ}へ。よく
お出{いで}なすつた。」【波】「長{てう}さん此{この}間{あいだ}ちよつと噺{はな}したことで
お前{まへ}にはなしが有{あ}るよ。」【長】「ムヽマアそれも聞{きこ}ふが火向{ひなた}
をあるいて来{き}たらめつほう暑{あつ}い。水{みづ}を一杯{いつぱい}くれねへか。」
【母】「ヲヤ〳〵水{みづ}はよしなせへ。お茶{ちや}が今{いま}にわかア。」【長】「ナアニ水{みづ}が
いゝよ。」ト[いひながら二三杯のむ]【母】「ホンニ直{なを}しのもらつたがあつたつけ。

(7ウ)
おあがん被成{なさん}ねへか。」【長】「そいつはよふござりやせう。」【母】「いま
てふどお肴{さかな}が出来{でき}るから。一ツおあがんなせへ。」ト[にこ〳〵してお波がてうあし
のぜんの上へいろ〳〵な肴をのせかんどくりをそへて出ス]【長】「かゝさん一{ひと}ツ呑{のみ}なさらねへか。」【母】「イヱ〳〵
わたしやアおまんまの方{はう}がよふござります。マアおまへ
おあがんなさい。」【長】「そんなら。」ト[一ツのみお波へさす。此酒のうち母はめしをくいしまい。さし合なる
咄もあらんと粋をとふして湯へ出て行。跡に二人は顔つきあわせ]【長】「誠{ま〔こと〕}に縁{えん}といふものはあじな
もので。若旦那{わかだんな}時次郎様のお迎{むかひ}に行{いつ}たが縁{えん}となり
一度{いちど}が二度{にど}と行{ゆく}にしたがい。心{こゝろ}もしれ。見得{みえ}も糸瓜{へちま}も

(8オ)
いらばこそてめへも段〻{だん〳〵}うちあけて。身{み}の上{うへ}の事{こと}親{おや}の
事{こと}。噺{はな}すに付ても。ヤレ孝行{かう〳〵}な女{おんな}じやと思{おも}つたゆへに。
チツト時代{じでへ}な演説{せりふ}だが。末{すゑ}のすゑまでいゝかわし。それ
からおいらんがあつちを出{で}さしつてから。あすこに居{いる}も
いやだといふから。幸{さいわひ}おれが手{て}でこつちへよこし。お袋{ふくろ}と
二人{ふたり}暮{くら}させるとはいふものゝ。女房{にようぼう}にでも持{もつ}事{〔こと〕}か。どぶ
されいのかなしさは。廓{くるは}の勤{つとめ}はのがれても。苦海{くがい}は同{おな}じ
芸者{げいしや}の身{み}の上{うへ}。いやな座敷{ざしき}やむり酒{ざけ}に。不養生{ふやうぜう}

(8ウ)
してコレ必{かならず}煩{わづら}わぬやうにしてくりや。」ト[しんみの詞に波吉もそゞろなみだをおさへ]
【波】「イヱ〳〵どのよふなかなしい事が有{あら}ふとも。お前{まへ}と
天下{てんか}晴{は}れてあはれるとは。此{この}よふな嬉{うれ}しい事{こと}はござり
ませぬ。それに引{ひき}かへおいらんは。どこにどふしてござん
すやら。お行{ゆく}ゑもしれず殊{〔こと〕}に又{また}時次郎様も一軸{いちゞく}の
盗賊{とうぞく}とお疑{うたか}ひかゝり。田舎{いなか}へお出{いで}なされたとのお前{まへ}の
はなし。どふぞ一チ日{いちにち}もはやく。浦里{うらざと}さんの在家{ありか}も知{し}れ。
次郎〔さま〕{じらうさ}ンの御勘当{ごかんだう}もゆり。世間{せけん}晴{はれ}て御夫婦{ごふうふ}にお

(9オ)
なりなされ。私{わたし}もはやふ身{み}まゝになり。お前{まへ}と二人{ふた}り
連立{つれだつ}て。お店{たな}へお節句{せつく}にでも行{いつ}たなら。どのよふ
に嬉{うれ}しかろふねへ。」【長】「ナンノそんなにきな〳〵思{おも}ふ
事{〔こと〕}が有{あ}るものか。世中{よのなか}はまわり持{もち}だ。ア。人間{にんげん}の栄枯{ゑいこ}
は糾{あざなへ}る縄{なは}の〔ごと〕く。水上{すいじやう}の泡{あわ}に似{に}たりだ。」【波】「ヲヤおめへ
どこでそんなむづかしい事{〔こと〕}を覚{おぼ}へて来{き}た。」【長】「ヘンこれか
|こんぢう{#此間}寄{よせ}で宮常{みやつね}が新内{しんない}ぶしてこんな事{〔こと〕}を語{かたつ}
たつけ。それはそうと彼{かの}お方{かた}は。此{この}間{あいだ}はどうなされた。」

(9ウ)
【波】「アイずいぶんお達者{たつしや}でござります。」【長】「ムヽそれは
マアよい。ソシテアノお玉{たま}さんと。」【波】「それはモウちん〳〵鴨{かも}の
うまいお中{なか}。ほんにうら山{やま}しいよふでござります。」【長】「そ
れに付{つけ}ても菅家{くわんけ}の一軸{いちゞく}。尋出{たづねいだ}す工夫{くふう}が肝心{かんじん}。この間{あいだ}
ちよつと噺{はなし}た客{きやく}は。イヨ〳〵アノ胸悪{むねわる}の番頭{ばんとう}。全六{ぜんろく}めに
ちがいはないか。」【波】「アイそふでござんす。それでお玉{たま}さん
とも言合{いゝあわせ}。私{わたし}もわざとなれ〳〵しくいへば。いつそ|己〓{うぬぼれ}を*〓は「月(偏)+忽」
出{だ}しきつて。私等{わたしら}がほれでもしたよふに思{おも}ふて胸{むね}の

(10オ)
わるい事{こと}ばつかりなれどお前{まへ}の為{ため}彼{かの}お方{かた}の為{ため}と
思{おも}ふて。じつと辛抱{しんぼう}していやんしたが。それに此{この}間{あいだ}アノ
全六{ぜんろく}が一座{いちざ}に。お武士{さむらい}さんを連{つれ}てお出{いで}なさんしたが。
其{その}名{な}はたしか川{かは}さんとやら。」【長】「ムヽそれもたしか噂{うはさ}に
聞{きい}た荒川{あらかは}淵{ふち}右エ門とやら。菅家{くわんけ}の一軸{いちゞく}紛失{ふんじつ}もきやつ
等{ら}が仕業{しわざ}とおもふたゆゑ。」【波】「アノ船頭{せんどう}の市{いち}どのが全{ぜん}
六さんとお侍{さむらい}が。咡{さゝや}きあふた噺{はなし}のうち。菅家{くわんけ}とやら
一軸{いちゞく}とやら。たしかに聞{きい}たとわたしへ噺{はなし}。」【長】「さてこそ宝{たから}の

$(10ウ)
全{ぜん}六
ひそかに
浪{なみ}吉を
うかゞふ
〈画中〉あみうち清次
〈画中〉浪吉

$(11オ)

(11ウ)
盗賊{とうぞく}は荒川{あらかは}全六{ぜんろく}二人の者{もの}。かくあらんとは兼{かね}て
より。悟{さと}ツたゆゑにそなたにも。必{かならず}教{をしへ}た計略{けいりやく}を。」【波】「お前{まへ}
の言付{いゝつけ}夫{それ}ゆゑに。お玉{たま}さんとも言合{いゝあは}せ。芝居{しばゐ}のかくで
全六{ぜんろく}をだましすかして菅家{くわんけ}の一軸{いちゞく}。」【長】「とりかへすのは
そなたの役{やく}。さしづめ祝{いわい}磐四郎{はんしろう}。イヨ大和屋{やまとや}[引]。」
【波】「トはきがつかなんだネ。」【長】「おきやアがれ。」ト[折{をり}しも裏{うら}の明地{あきち}にしごとをして
いる職人{しよくにん}へ飯{めし}のしらせの]拍子木 チヨン〳〵。此{この}道具{どうぐ}廻ル{まわる}。*「拍子木」に四角囲、「チヨン〳〵」の下に拍子木の絵

(12オ)
◯本舞台{ほんぶたい}三間{さんげん}ならぬ紙上{■■やう}の拘襴{こうらん}。九尺{くしやく}二間{にけん}の棟
割{むねわり}は。彼{かの}波吉{なみきち}が相借屋{あいしやくや}。釣舟{つりぶね}清次{せいじ}が女房{にようぼう}は。夫{おつと}の
留守{るす}に洗濯{せんたく}の糊{のり}もおこわな単物{ひとへもの}。前垂帯{まへだれおび}に引
結{ひきむす}び。味噌{みそ}こし提{さげ}て豆腐屋{とうふや}へ急{いそ}ぐ路次口{ろじぐち}入来{いりきた}る。
荒川{あらかは}全六{ぜんろく}。お強{こは}は見付{みつけ}【おこわ】「旦那{だんな}じやアござりませ
んか。」【淵】「ヲヽおこわ久{ひさ}しくあはぬの。」【こわ】「誠{ま〔こと〕}におめづら
しうござります。マア何{なん}にしろうちへお出{いで}なされまし。」
ト[二人ともない家へかへれば淵右衛門は久しぶりの事なれば一角はづみおこわに云付酒肴をとりにやり呑みながら]【淵】「イヤ何{なに}おこわ

(12ウ)
定{さだ}めて噂{うはさ}で聞{きい}たでも有{あら}ふが。この仁{じん}が則{すなはち}かの春日屋{かすがや}
番頭{ばんとう}全{ぜん}六といふ者{もの}。すいぶん悪{わる}い事{〔こと〕}なら人{ひと}なみ相
応{そうおう}には出来{でき}る男{おとこ}。その方{はう}が亭主{ていしゆ}清二{せいじ}にもまけぬ
邪{よこしま}な生{うま}れ。ナントたのもしい男{おとこ}ではないか。それはそふと
今日{こんにち}其{その}方{はう}が宅{たく}へ参{まいつ}た訳{わけ}と。いふは。外{ほか}の事{〔こと〕}でもないが
芸者{げいしや}の波吉{なみきち}といふやつ。たしか爰{こゝ}の長家{ながや}だといふ事
いよ〳〵左{さ}やうか。」【こわ】「ハイアノ奥{おく}の格子戸{こうしど}の建{たつ}たうちが
そでござります。」【全】「ウムシテその波吉{なみきち}めが素性{すじやう}。こなんは

(13オ)
とつくり知{しつ}てかいの。」【こわ】「アイサむかふじやアさつぱり知{し}ら
ずにいるから。こつちでも猫{ねこ}ばゞてゐやすが。アノあま
が事{こと}はわたしが根{ね}こそげ知{しつ}ていやす。わな。ぜんてい
ありやア花街{てう}の山名屋{やまなや}の先{せ}ンの浦里{うらざと}さんの禿{かむろ}で
みどりといゝやしたやつさ。それから近頃{ちかごろ}出{で}たアノ浦里{うらさと}が
番新{ばんしん}をしていやしたつけが。どふいふ訳{わけ}か近頃{ちかごろ}こつ
ちへ来{き}て芸者{げいしや}になりやしたが。時{とき}〴〵くる若{わか}イ侠
気{こいきみな}野郎{やろう}が。たしか亭主{ていしゆ}だといふ噂{うはさ}でござりやす。」ト

(13ウ)
[聞て全六横手を打]【全】「それでさつぱりよめた。その若{わか}イ男{おとこ}
といふは。内方{うちかた}のかゝへの蝶{てう}五郎。スリヤ時次郎{ときじろう}め
もこの辺{あた}りに。しやつかゞんで居{ゐ}よふもしれぬわへ。
此{この}あいだからお玉{たま}めがもてなしといゝ。且{かつ}は波吉{なみきち}が
そぶり。どふも合点{がてん}が行{ゆか}ぬと思{おも}ふたが。わしを春
日屋{かすがや}の全六{ぜんろく}としつたゆゑ。アノ蝶{てう}五郎めがさし
金{がね}つかい。菅家{くわんけ}の一軸{いちゞく}うま〳〵と。あつちへ巻{まき}
あげふといふ工{たく}みのだん〴〵。コリヤあいつらが計

(14オ)
略{けいりやく}の裏{うら}をいんで嘘物{にせもの}わたしそれをおとり
に時次郎が在家{ありか}をさがすよい手{て}がゝり。」【淵】「まん
まと時次郎めを宝{たから}のとうぞくに落{おと}し。おつ
かたづけてしまへば。此{この}方{はう}の寝{ね}さめが安{やす}い。その
上{うへ}にて。この淵{ふち}右エ門が手{て}より詮義{せんぎ}仕出{しだ}せしと
披露{ひろう}して。一軸{いちゞく}をお上{かみ}へさし上{あぐ}れば立身出世{りつしんしゆつせ}は
こゝろのまゝ。」【全】「その時{とき}こそはわたくしめも。さし
づめ春日屋{かすかや}の若{わか}だんな。お照{てる}は女房{にようぼう}お玉{たま}は妾{めかけ}。」

$(14ウ)
めいたい橋{はし}

全六{せんろく}
命{めい}を
おとす

(15オ)
【おこわ】「わつちもそん時{とき}にやア。御{ご}ほうびのおすそ分{わけ}
を。」【全】「いかにもずつしりお糞器{かは}の蓋{ふた}。」【淵】「あけて
いわれぬ蜜事{みつじ}はさま〴〵。」【全】「本読{ほんよみ}通{どを}りすつ
ぱりとおさまりさへすりやこの身{み}のさいわひ。
筆{ふで}とりいらずの作者{さくしや}は全六{ぜんろく}。」【淵】「そんなら
今{いま}からまた印地{いんち}へ。いつた先{さき}ではかう〳〵。」と咡{さゝやき}
うなづき両人{りやうにん}は合浦楼{がつぽろう}へと
いそぎ行{ゆく}。

(15ウ)
○其{その}夜{よ}も既{すで}に更{こう}たけて。人{ひと}しづまりし丑満
時{うしみつどき}。いきせき来{きた}る謎岱橋{めいたいばし}。たがいに夫{それ}とすかし
見{み}て【淵】「全六{ぜんろく}か。」【全】「淵右エ門{ふちゑもん}さま。」【淵】「コリヤ味{うま}ふ
まいつた今夜{こんや}の狂言{きやうげん}。シテまことの御{み}たからは。」
【全】「ヘヽすなはち爰{こゝ}におわしますじや。」と懐{ふところ}より。
出{いだ}して見{み}せる間{ま}もあらせず。追欠{おつかけ}きたる一人{ひとり}
の若{わか}もの。かくと見{み}るより逃{にげ}んとする。ふたりが
裳{もすそ}をしつかととらへ「ヤア児女{おんなこども}とあなどりて。

(16オ)
偽物{にせもの}わたしにげふとは。古風{こふう}な姦計{たくみの}の大盗人{おゝぬすびと}。*「姦計{たくみの}の」の「の」は衍字
まことの品{しな}をきり〳〵わたせ。」【全】「何{なに}をこしやく
な。そこはなせ。」と。ふり切{き}るはづみ雲{くも}晴{はれ}て。出{で}る月
影{つきかげ}に顔{かほ}見合{みあわ}せ。「ヤア我{わ}りやア蝶{てう}五郎と思{おもひ}の外{ほか}。
又{また}もや儀{ぎ}七が幽霊{ゆうれい}か。南無三{なむさん}ゆるせ。」と逃出{にげだす}を
しつかととらへ【儀七】「いかにも先年{せんねん}悪者{わるもの}が非
道{ひどう}の刃{やいば}に世{よ}を去{さ}りし。儀{ぎ}七は思{おも}わず蝶{てう}五
郎が厚{あつき}情{なさけ}の介抱{かいほう}に。ふたゝび蘇生{そせい}なしたれど

(16ウ)
わざと姿{すかた}を隠{かく}せしも。我等{わいら}が工{たくみ}を見出{みだ}そふ
ばつかり。かの合浦屋{がつぽや}のお玉{たま}といふも二世{にせ}とかは
せしおれが女房{にようぼう}。それゆゑお波{なみ}といゝ合{あは}せ汝等{うぬら}
をだまして一軸{いちゞく}を。せつかくこつちへとり戻{もど}せど。
又{また}その品{しな}も吹{ふき}かへの偽{にせ}ものわたして荒川{あらかは}全六{ぜんろく}
実{ま〔こと〕}の宝{たから}はうぬらが懐中{くわいちう}。とつとゝわたしてしま
やれサ。」【全】「イヽヤしらねへ。覚{おぼ}へはない。モウこうなつ
たらいふて聞{きか}そ。われをだまして百両{ひやくりやう}の金{かね}を

(17オ)
わたして先{さき}へまわり。篠塚{しのづか}ばゞと言{いゝ}あわせ。ころ
した者{もの}はこの全六{ぜんろく}。今日{けふ}までしんだと思{おも}ふた儀{ぎ}
七。此{この}世{よ}にいきてゐればこそ。迷岱橋{めいたいばし}の船{ふね}の中{なか}。
夢{ゆめ}かうつゝかまぼろしに。姿{すがた}あらはす幽霊{ゆうれい}と思{おもふ}た
ものは正真正銘{せうじんせうめい}。やつぱりうぬで。」【儀七】「いかにもおれだ。
我等{わいら}が工{たくみ}のわなにかゝり。建河通{たてかはどをり}でころされた。
まだ其{その}時{とき}は店者{たなもの}の。十露磐{そろばん}よりほかおもひ物{もの}。
もつたる事{〔こと〕}もなかりしが。それからこのかた流浪{るらう}して。

(17ウ)
ちつとは腕{うで}に覚{おぼ}への儀七{ぎしち}。うまれかはつて前生{ぜんじやう}の
おのれの仇{あだ}をおのれと討{うつ}。古今{こゝん}まれなる敵{かたき}うち。
うらみの刃{やいば}うけて見{み}ろ。」【全】「そふぬかしやア返{けへ}り
討{うち}。お玉{たま}が情人{いろ}といふからは。恋{こひ}のいしゆある死{しに}ぞこ
ないめ。時{とき}次郎が有家{ありか}もうぬが知{しつ}てゞ有{あら}ふ。早{はや}く
ぬかしてしまやアがれ。」【儀】「それよりはまアその一軸{いちゞく}。」と
懐{ふところ}へ手{て}を掛{かけ}るのをふりはらひ。荒川{あらかは}全六{ぜんろく}左右{さゆう}より
たゝんでしまへと切{きり}こむ刀{かたな}。かいくゞつて飛{とび}しさり此方{こなた}

(18オ)
も心得{こゝろへ}抜{ぬき}はなし。てう〳〵はつしと切結{きりむす}ぶ。折{おり}から
欠来{かけく}る蝶{てう}五郎。白刃{しらは}の音{おと}にいとゞなを。心{こゝろ}もとなく
韋駄天{いだてん}ばしり。それと見るより淵{ふち}右エ門は。儀七{ぎしち}を
すてゝわたり合{あ}ひ。戦{たゝかひ}ながらにげて行{ゆく}。いづく迄{まで}もと
蝶{てう}五郎。あとをしとふて行{ゆく}あとに。なをも儀{ぎ}七と全{ぜん}
六が。爰{こゝ}をせんどゝ切{きり}むすぶ。折{をり}から又{また}もや雲{くも}に入{い}る。
月{つき}にあいろも見{み}へざれば。たがひにさぐるめつた打{うち}。
あり合{あ}ふ石{いし}につまづきて。思{おも}はずこける全{ぜん}六がかた

(18ウ)
への茶店{ちやみせ}に立{たて}かけし。葭責{よしず}の影{かげ}よりひらめかす。
刀{かたな}にぐつとつらぬかれ。アツト玉{たま}ぎる一声{ひとこゑ}に。おのれが
かたなにて切{き}りしとこゝろへさぐり寄{よ}る。かの曲者{くせもの}は
小{こ}かげより。あらはれ出{いで}て全六{ぜんろく}が死骸{しがい}の懐中{くわいちう}さが
してとり出{だ}す一軸{いちゞく}をおしいたゞきて我{わが}ふところ。しつ
かとおさめ抜足{ぬきあし}さし足{あし}。行{ゆき}かゝる向{むか}ふへ荒川{あらかは}。見失{みうしな}ひ
て取{とつ}て返{かへ}せし蝶{てう}五郎。それとしらねばすり違{ちが}ひ。
来{き}かゝり思{おも}わずつき当{あた}り。【長】「ヤア儀七{ぎしち}さまか。」【儀】「蝶{てう}

(19オ)
五郎どのか。よん所{ところ}なく全六{ぜんろく}を。手{て}にかけたりし甲
斐{かひ}もなふ。宝{たから}はきやつが懐中{くわいちう}には。」【長】「ないのはやつ
ぱり荒川{あらかは}が。所持{しよぢ}して行{いつ}たか。跡{あと}ぼつかけて今{いま}一詮
義{ひとせんぎ}。ヲヽそふじや。」トかけ出{だ}す折{をり}しも
八幡{はちまん}がね。
ボヲン〳〵〳〵〳〵〳〵。
[浦里時次郎]明烏{あけがらす}後正夢{のちのまさゆめ}巻之十一了


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底本:東京大学文学部国語研究室蔵本(4L:95:4)
翻字担当者:金美眞、矢澤由紀、島田遼、銭谷真人
更新履歴:
2017年7月26日公開

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