日本語史研究用テキストデータ集

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浦里時次郎明烏後の正夢うらざとときじろう あけがらすのちのまさゆめ

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四編上

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浦里時次郎明烏後の正夢 四編上

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凡例
1.本文の行移りは原本にしたがった。
2.頁移りは、その丁の表および裏の冒頭において、丁数・表裏を括弧書きで示した。また、挿絵の丁には$を付した。
3.仮名は現行の平仮名・片仮名を用いた。
4.仮名のうち、平仮名・片仮名の区別の困難なものは、現行の平仮名に統一した。ただし、形容詞・副詞・感動詞・終助詞・促音・撥音・長音・引用のト等に用いられる片仮名については、原表記で示した場合がある。 〔例〕安イ、モシ、「ハイそれは」ト、意気だヨ、面白くツて、死ンで、それじやア
5.漢字は現行の字体によることを原則としたが、次のものについては原表記に近似の字体を用い、区別した。「云/言」「开/其」「㒵/貌」「匕/匙」「吊/弔」「咡/囁」「哥/歌」「壳/殻」「帒/袋」「无/無」「楳/梅」「皈/帰」「艸/草」「計/斗」「弐/二」「餘/余」
6.繰り返し符号は次のように統一した。ただし、漢字1文字の繰り返しは原本の表記にしたがい、「〻」と「々」を区別して示した。
 平仮名1文字の繰り返し 〔例〕またゝく、たゞ
 片仮名1文字の繰り返し 〔例〕アヽ
 複数文字の繰り返し 〔例〕つら〳〵、ひと〴〵
7.「さ」「つ」「ツ」に付く半濁点符は「さ゜」「つ゜」「ツ゜」として示した。
8.Unicodeで表現できない文字は〓を用いた。
9.句点は原本の位置に付すことを原則としたが、文末に補った場合がある。
10.合字は〔 〕で囲んで示した。 〔例〕殊{〔こと〕}に、なに〔ごと〕、かねて〔より〕
11.傍記・振り仮名は{ }で囲んで示した。 〔例〕人生{じんせい}
12.左側の傍記・振り仮名の場合は、冒頭に#を付けた。 〔例〕めへにち{#毎日}
13.傍記・振り仮名が付く位置の紛らわしい場合、文字列の始まりに|を付けた。 〔例〕十六|歳{さい}
14.原本に会話を示す鉤括弧が付いていない場合も、これを補い示した。また庵点は〽で示した。
15.原本にある話者名は【 】で示した。 〔例〕【はる】
16.割注・角書および長音符「引」「合」は[ ]で囲んで示した。
17.不明字は■で示した。
18.原本の表記に関する注記は*で行末に記入した。 〔例〕〓{たど}りて*〓は「漂+りっとう」
19.花押は〈花押〉、印は〈印〉として示した。
20.画中文字の開始位置に〈画中〉、広告の開始位置に〈広告〉と記入した。

本文の修正
1.翻字本文を修正した場合には、修正履歴を末尾に示す。
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(口1オ)
明烏{あけからす}四編{しへん}序{じよ}
柯{か}を伐{きり}柯{か}を伐{きる}斧{おの}にあらざれば克{よく}せず。
餅{もち}は餅屋{もちや}の世{よ}の譬{たとへ}戯作{げさく}は戯作{げさく}の
楚満人{そまびと}が其{その}鉞{おの}の柄{え}にすがりつゝ初山踏{うひやまぶみ}の
小子{やつかれ}も元{もと}はやつぱり遯{のが}れぬ中{なか}海{うみ}と山{やま}
とは代{かは}れども同{おな}じ流{ながれ}の漁{すなどり}が今歳{ことし}はちつ
と新{あたら}しく商売{しやうばい}がへの作者{さくしや}の雛鳥{ひよつこ}

(口1ウ)
何{なん}ぞかかう〳〵かと口譁{くちかしま}しく囀{さへづ}れば
幸{さいは}ひ稿{かう}を脱{だつ}したる此{この}明烏{あけがらす}の四編目{しへんめ}の
序文{じよぶん}をかけよといはれてもまた漸{やう〳〵}と巣立{すだち}
して觜{くちばし}青{あを}き柳{やなぎ}の若葉{わかば}芽{め}ばえの
筆{ふで}にはおぼつかなけれど大{おほ}おそ鳥{どり}の
名{な}にしおふ南仙笑{なんせんしやう}が驥尾{きび}につき毫{ふんで}の
鞭{むち}をおつとつて後{のち}の正夢{まさゆめ}まさなくも

(口2オ)
寝言{ね〔ごと〕}のやうな浪話{たは〔こと〕}をまづその|巻
首{はじめ}にしるすにこそ。
文政七年甲申の孟陬
柳漁庵のあるじ
駅亭駒人識

(口2ウ)
[絵入よみ本発兌の告条]
山東京山翁著
歌川豊国挿画
[をしへぐさ]女房{にようばう}かた気{ぎ}
全部二十五編揃の内を区別{くべつ}して読切{よみきり}目録{もくろく}左{さ}の如し。
但し壱編{ひとふくろ}中本二冊入
貞操{ていそう}於律{おりつ}の美譚{びだん} [此|初輯{じよまく}の読切{よみきり}は初篇二編と都合{つがふ}四さつ]
妬{やきもち}上手{じやうず}於兼{おかね}の伝{でん} [此|二輯{にだんめ}の読切は三べんより六へんまで]
[善悪{ぜんあく}孝心{かうしん}の権妻{ごんさい} 表裏{ひようり}嫉妬{しつと}の本妻{ほんさい}] [此|三輯{みまくめ}の読切は七篇より十五編に続{つゞ}く]
[嫁{よめ}いびりの悪姑{しうとめ} 孝女{かうじよ}於花{おはな}の仇討{あだうち}] [此|四輯{よたてめ}の読切は十六編より二十編にいたる]
毒婦{どくふ}おてこの談{はなし} [此|五輯{おほづめ}の読切は二十一編にはじまり廿五編ニ終る]
尤{もつと}も御|携{たづさ}へ向{む}き合本{がふほん}及{およ}び貸本用{かしほんよう}綴分{とぢわ}け上仕立{じやうしたて}も御坐候。

(1オ)
[浦里{■■■■}時次郎{ときじろう}]明烏{あけがらす}後正夢{のちのまさゆめ}巻之十
江戸[南仙笑楚満人 滝亭鯉丈]合作
第十七回
【説経節{さいもんのふし}】「爰{こゝ}に哀{あわ}れをとゞめしは対王{つしわう}安寿{あんじゆ}の兄弟{きやうだい}なり。扇{あふぎ}の
橋{はし}の別{わか}れよりかの山岡{やまおか}にいざなはれ。丹後国{たんごのくに}由良{ゆら}の湊{みなと}に
名{な}も高{たか}き三庄太夫{さんしやうだゆふ}に売渡{うりわた}され。十荷{じつか}の柴{しば}に十荷{じつか}の
汐{しほ}。日毎{ひ〔ごと〕}〳〵の勤{つとめ}にて苦界{くがい}となれば是非{ぜひ}なや。」ト[うたふはすなはち三べんめ

(1ウ)
中の巻にしるしたる手枕{たまくら}のおつゆが千葉家{ちばけ}おもの見{み}したにてせつきやうのところなり。そのおものみのとなり浦里の居どころ]苦界{くがい}はおなじ
浦里{うらざと}も身{み}にしむ昔物語{むかしものがたり}。継〻{まゝ}しき母{はゝ}のさがなさに。
義理{きり}ある姉{あね}の梅ケ谷{うめがや}も。同{おな}じ屋敷{やしき}に住{すみ}ながら。我{わが}
子{こ}のお松{まつ}が身{み}の|■難{さいなん}。聞{きく}につらさもいとゞさへ余所
目{よそめ}しのぶにわすれ草{ぐさ}。諷{うた}ふ唱哥{しやうが}も情{なさけ}なや。物{もの}おもふ
身{み}のありぞとも。しらであわれの物{もの}がたり。【おつゆさいもんぶし】〽いたわ
しや兄弟{きやうだい}は別{わか}れの辻{つぢ}にたゝずみて姉上{あねうへ}浜{はま}へおわすかや。弟{おとゝ}
不便{ふびん}とおぼすなら。波{なみ}に怪我{けが}ばしし給ふな。夫{それ}はそなたも

(2オ)
おなじ事{こと}姉{あね}を大事{だいじ}とわすれずは。いかなるうき目{め}にあふ
とても心{こゝろ}みじかく山{やま}にても木{こ}の根{ね}岩角{いわかど}気{き}を付{つけ}よ。兄弟{きやうだい}が
身{み}は大切{たいせつ}ぞ。余所{よそ}にまします母上{はゝうへ}に。めぐりあわんを楽{たのし}
みに。憂世{うきよ}をしのぶわすれ草{ぐさ}。これが岩城{いわき}の判官{はんぐわん}のわすれ
筐{がたみ}の兄弟{きやうだい}が身{み}のなり行{ゆき}かと同胞{はらから}が。手{て}に手{て}をとつてやゝ
暫{はゝ}し。【土平かけ合】〽またも涙{なみだ}にくれ給ふ。三男{さんなん}の三郎{さふろう}はるかに見{み}て。*「暫{はゝ}し」(ママ)
いかにしぶとき女郎{めろう}かな。目{め}に物{もの}見{み}せんと立{たち}かゝる。」〽詮義{せんぎ}も
荒川{あらかは}一{ひ}ト間{ま}に入{いり}【淵右】「手{て}ぬるくござる十左{じうざ}どの。

(2ウ)
年{とし}こそゆかねそな小{こ}めろ甘{あま}イ詞{〔こと〕ば}に白状{はくじやう}なぞ。
存{ぞんじ}もよらぬ横着{わうちやく}もの。引{ひ}ツくゝして刀{かたな}の襠{こぢり}づめ。
栲問{ごうもん}いたすのきめされ。」と。お松{まつ}がゑり髪{かみ}引{ひ}ツ
つかむを【十左】「イヤ荒川{あらかは}どのまづ暫{しばら}く。アレお聞{きゝ}
あれ。お物見下{ものみした}に。女{おんな}の諷{うた}ふ哥祭文{うたさいもん}。人{ひと}も知{しつ}たる
丹後国{たんごのくに}強欲非道{ごうよくひだう}の山椒太夫{さんしよだゆふ}。しかも今{いま}のは三
男{さんなん}の三郎{さふろう}。せめさいなまんと立{たち}かゝる。安寿{あんじゆ}の姫{ひめ}は
このお松{まつ}。」【淵右】「いかにもさやふ安寿{あんじゆ}の姫{ひめ}を折檻{せつかん}

(3オ)
いたす。三男{さんなん}の三郎|拙者{せつしや}でござる。誰{たれ}に見{み}せてもこ
りやなるほどお見立{みたて}の通{とを}り。しかし拙者{せつしや}は役目{やくめ}で
ござる。イヤサむごい手料理{てりやうり}いたしたうはなけれど。
大切{たいせつ}なるお家{いゑ}の宝{たから}紛失{ふんじつ}させし時次郎{ときじろう}めがゆくゑ
詮義{せんぎ}いたすが役目{やくめ}でござる。」【十左】「イヤお役{やく}めをさゝへは
いたさぬ。御勝手{ごかつて}しだいと申たけれど。昨夜{さくや}より預{あづか}る
拙者{せつしや}も役目{やくめ}。申さばたよはき女{をんな}わらべ手{て}ひどき栲問{ごうもん}
怪我{けが}あやまち。貴{き}でんの役目{やくめ}は立{たつ}にもいたせ。預{あづか}り

(3ウ)
主{ぬし}の拙者{せつしや}。うか〳〵と手{て}を束{つか}ねて見物{けんぶつ}いたしにくい。
コリヤおまつそちも定{さだ}めて只今{たゞいま}の安寿{あんじゆ}の姫{ひめ}が弟{おとゝ}へ
異見{ゐけん}身{み}を大切{たいせつ}に母{はゝ}なる者{もの}へ。巡{めぐ}りあわんを楽{たの}しみ
とは。餘所事{よそごと}ならぬそちへの異見{ゐけん}。」【お松】「アイかゝさまに
どふぞして。」【淵右】「ハテ逢{あい}たくば有{あり}よふに時{とき}次郎が行{ゆく}ゑ
ぬかしおろう。」ぬかせ〳〵と扇{あふぎ}の笞{むち}。仁田山{にたやま}見{み}かねて
【仁田山】「イヤ待{また}れよ。役目{やくめ}はやくめ壁一重{かべひとゑ}。お物見{ものみ}への遠慮{ゑんりよ}
打{うち}たゝかば声山{こゑやま}立{たて}て。たま〳〵に御遊興{ごゆうきやう}の妨{さまた}け。荒川氏{あらかはうぢ}

(4オ)
理{り}のこふじたは非{ひ}に落{おつ}る。後日{ごにち}のお咎{とが}めまづ暫{しば}らく。」
【淵右】「猶予{ゆうよ}いたすでなけれども。妨{さまた}げとあれば是悲{ぜひ}が
ない。ヱヽよいかげんに哥祭文{うたさいもん}。ほざきしまへ。」と窓{まど}より
ふつと顔{かほ}見合{みあは}せて荒川{あらかは}は。思{おも}はず恟{びつ}りおとろく色{いろ}め。*「恟{びつ}り」は「恟{びつく}り」の脱字か
おつゆもふしぎ立{たち}ながらわざと扇{あふぎ}の手拍子{てびやうし}打{うち}【おつゆさいもん】〽それは
さておき母上{はゝうへ}も佐渡{さど}がしまへと売渡{うりわた}され。安寿{あんじゆ}恋{こひ}しや対
王{つしわう}と明{あけ}くれ涙{なみだ}に眼{め}も盲{しい}て。雨{あめ}もたまらぬあばらの小家{こや}
に。杖{つえ}をちからに只{たゞ}ひとり。粟{あは}の鳥{とり}追{お}ふ鳴子{なるこ}の綱手{つなで}。」【おつゆ土平かけ合】〽あわ

(4ウ)
れといふもなか〳〵に。焼{やけ}のゝ雉子{きゞす}夜{よる}の鶴{つる}。」「子{こ}ゆゑのやみは*地の文の開始位置に開括弧
梅{うめ}ケ谷{や}も泣{なく}も泣{なか}れず浦里{うらざと}も。姉{あね}の心{こゝろ}をおもひやり。間
毎{ま〔ごと〕}〳〵に隔{べだて}ども。兄弟{きやうだい}母子{おやこ}これほどに昔{むかし}のなげき身{み}*「隔{べだて}」の濁点ママ
につまされ【おつゆさいもん】〽いわねど胸{むね}に満潮{みちしほ}の。時{とき}こそうつれと是
悲{ぜひ}なくも。」【土平】「別{わか}れが辻{つぢ}を右左{みぎひだ}り弟{おとゝ}は山{やま}へ。」【おつゆ】「姉上{あねうへ}はなく〳〵
浜辺{はまべ}におり立{たち}てならはぬ業{わざ}のなさけなや。潮{しほ}にとられし
桶{おけ}柄杓{ひしやく}。せんかたなみだ安寿{あんじゆ}のひめ。共{とも}に水屑{みくづ}とならは
やと。幾度{いくたび}波{なみ}に袖{そで}ぬらす。なげきのうちにわすれたり。嘸{さぞ}や

(5オ)
弟{おとゝ}のわすれ草{ぐさ}。対王丸{つしわうまる}の山{やま}にても。十荷{じつか}の柴{しば}はいかにしてかり
初{そめ}ならぬ仇敵{あだがたき}身{み}には願{ねが}ひのあればこそ。昔{むかし}にも似{に}ぬ我{わが}姿{すがた}
人{ひと}はなにともいわゞいへ。思{おも}ふ念力{ねんりき}岩城{いわき}の姫{ひめ}のかたきは誰{たれ}と
しら波{なみ}にとられし柄杓{ひしやく}桶{おけ}もろとも。人{ひと}の情{なさけ}にやふ〳〵と
しがをくろめてもどらるゞ。」「くろめかねたるうき涙{なみだ}。梅{うめ}が*「もどらるゞ」の濁点ママ、地の文の開始位置に開括弧
谷{や}おもわずはら〳〵と。口{くち}をしなみだにむせゐるを。心{こゝろ}
しらねば女中達{ぢよちうたち}。うた祭文{さいもん}のあわれさに。涙{なみだ}もろさよ
おかしさよ。但{たゞ}しは酒{さけ}のくせやらん。泣上戸{なきじやうご}には猶{なを}しいて

(5ウ)
もらひ泣{なき}こそ一{ひ}トしほに御慰{おなぐさみ}よととりはやす。人{ひと}こそ
つらや夫{それ}とても知{し}らぬに科{とが}は泣{なく}目{め}を拭{ぬぐ}ひ【梅ケ谷】「ヱヽ
はづかしや我{われ}しらず。安寿{あんじゆ}の姫{ひめ}の心根{こゝろね}を思{おも}ひやられて
うつかりと。前後{ぜんご}わすれてつい涙{なみだ}。さゝの曲{くせ}ではない程{ほど}に。
御前{ごぜん}へおわびお執成{とりなし}。お恥{はづ}かしやと打{うち}につこり。無理{むり}に
笑{ゑ}がほの泣{なく}よりは。いとゞ不便{ふびん}と奥方{おくがた}も。人目{ひとめ}紛{まぎ}らす
餘所事{よそ〔ごと〕}に【奥がた】「イヤのふ昔{むかし}のものがたり。あわれをしら
ぬも心{こゝろ}なし。世{よ}は浮沈{うきしづみ}といひながら。五十四|郡{ぐん}に名{な}も

(6オ)
高{たか}き岩城{いわき}の判官{はんぐわん}何某{なにが■}と云{いわ}れし人{ひと}もやみ〳〵と。討{うた}れし
敵{かたき}は何{なに}ものとも。知{し}らずそのまゝ落{おち}ぶれて。親子兄弟{おやこきやうだい}
知らぬ国{くに}。殊{〔こと〕}に無慈悲{むじひ}の山椒太夫{さんしよだゆふ}。」【大はし】「ほんにさやふに
おつしやれば。安寿{あんじゆ}の姫{ひめ}を責遣{せめつか}ふ。」【局】「アヽ夫{それ}今{いま}の三男{さんなん}の
三郎とやらいふ憎{にく}いやつ。」【狭山】「それ〳〵てふど荒川{あらかは}どの。」
【長雄】「ま〔こと〕にそふじや舟虫{ふなむし}どの。」【三人】「コリヤもふそのまゝ
生{いき}うつし。」【みな〳〵】「似{に}たとも〳〵コリヤたまらぬ舟虫{ふなむし}どの
じやヲホヽヽヽヽへヽヽヽヽハヽヽヽヽ。」としどもなく。笑{わら}ひそしりの

(6ウ)
かしましさ。隣{となり}へ筒{つゝ}ぬけ淵右エ門{ふちゑもん}。無念{むねん}とおもへど
女中{ぢよちう}を相手{あいて}。当{あた}り眼{まなこ}の手{て}ひとくも。そこらじろ〳〵
ねめ廻{まは}し【淵右】「十左エ門どの見{み}さつしやれ。年{と■}に似
合{にあは}ぬ悪根性{わるこんじやう}。泣{ない}ておどせばおてまへはじめ。仁田山{にたやま}
どのも涙{なみだ}もろい。そこへ附{つけ}こみめろ〳〵と泣{ない}てもほへ
てもゆるしはせぬ。彼{かの}三|男{なん}の三郎に身{み}どもがよふ似{に}て
おろうがや。」【おつゆさいもん】「ひとの情{なさけ}に兄弟{きやうだい}は。十荷{じつか}の塩柴{しほしば}泣{なく}〳〵も
運{はこ}びつかぬる庭{には}のおも。」【土平】「山椒太夫{さんせうだゆふ}三|男{なん}の三郎ともに

(7上オ)
立出{たちいで}て。御覧{ごらん}なされや親人{おやびと}さま。姉{あね}めは桶{おけ}を潮{しほ}にとられ
誰{た}れがこしやくに十荷{じつか}の汐{しほ}肩{かた}をたすけし不届{ふとゞき}なり。その
名{な}をぬかせと。責{せめ}らるゝ。山椒太夫{さしやうだゆふ}も柴{しば}とり上{あ}ゲ。わすれ草{ぐさ}めも*「山椒太夫{さしやうだゆふ}」は「山椒太夫{さんしやうだゆふ}」の脱字か
心得{こゝろえ}ぬ。コリヤこの柴{しば}のそろへ口{ぐち}。なか〳〵お身{み}が手{て}ぎわで
ない。何{なに}やつなれば太夫{たゆふ}が詞{〔こと〕ば}。そむいて渠等{かれら}を介抱{かいほう}なす。左
程{さほど}に思{おも}はゞわれらにも十荷{じつか}の柴{しば}に十{じう}ばいまし。百荷{ひやくか}の
柴{しば}を苅{か}らせんと。」【おつゆ】「われ鐘声{がねごゑ}も兄弟{きやうだい}が身{み}にしみ〴〵と
悲{かな}しくて。己{おのれ}やれとはおもへども。願{ねが}ひある身{み}はいつかまた

(7上ウ)
敵{かたき}に廻{めぐ}りあふまでの。恥{はぢ}もちじよくも何{なに}ならず。やよ我{われ}〳〵
もいつかさて。」【土平】「お主{しゆう}のかたき。」【おつゆ】「兄{あに}のあだ。」【両人】「神{みち}も道{みち}びき
給へやと要之助{かなめのすけ}やうわ竹{たけ}が身{み}によそへたるかこちぐさ。」
「そしりはしりを聞{きく}度{たび}に胸{むね}に覚{おぼ}への淵右エ門{ふちゑもん}。扨{さて}こそ*地の文の開始位置に開括弧
辛崎{からさき}甚{じん}三郎|妹{いもと}下{しも}阝にありけるな。折{をり}こそ悪{わる}るしと*「辛崎{からさき}」(ママ)、「悪{わる}るし」の「る」は衍字
思案{しあん}して【淵右】「コリヤ〳〵お松{まつ}しかりはせぬ。もふ攻{せ}めも
せぬ。爰{こゝ}へ来{こ}よ。されどもせん義{ぎ}はゆるされぬ。役{やく}めの
大事{だいじ}有{あり}よふに申さば褒美{ほうび}とらせんず。聊爾{りやうじ}はあらじ

(7下オ)
安堵{あんど}せよ。」【土平さいもん】「しのぶよ爰{こゝ}へうせおろう。」【おつゆ】「わすれぐさ
には三郎がから年{とし}とらす柴部屋{しばへや}へなく〳〵ひかれ
別{わか}れゆく。」【土平】「山椒太夫{さんせうたゆふ}は繁銅{はんど}の火鉢{ひばち}。慰{ぜう}になるまで
切炭{きりすみ}のおこりきつたる顔色{がんしよく}にて。しのぶよわれに問{と}ふ
事{こと}あり。今のわつぱは対王丸{つしわうまる}。姉{あね}の安寿{あんじゆ}であるべしと。」【おつゆ】「星{ほし}を
さゝれて答{こた}へなく。涙{なみだ}にくれておわします。側{そば}に見{み}るめもいた
わしき。」【淵】〽さて〳〵しぶとき女郎{めらう}よな。ぬかさぬとても
そのまゝに用捨{ようしや}はならぬ。かく云{い}はゞそこらあたりに

$(7下ウ)
おまつをか
せにして
荒川{あらかは}
うめがやを
いどむ

$(8オ)

(8ウ)
さぞ憎{にく}かろ。身{み}ども生得{しやうとく}泪{なみだ}がきらひ。手{て}ぬるい事{〔こと〕}
が大{だい}不|得手{えて}。きり〳〵有よふいふて仕{し}まへ。」【土平さいもん】「ぬかさにや
額{ひたい}へ焼火{やけひ}ばし。鉄火{てつくわ}は焦熱{しやうねつ}大紅連{だいぐれん}。地獄{ぢごく}の呵責{かしやく}目{ま}のあたり。」
「ワアツ。」とお松{まつ}が叫{さけ}ぶ声{こゑ}。肝{きも}に焼{やき}がね梅{うめ}が谷{や}が。さしこむ
積{しやく}も奥方{おくがた}の。御前{ごぜん}をかねししのひ泣{なき}。せゝらわらつて
淵{ふち}右エ門【淵右】「イヤサもだへるな〳〵。何{なに}仰山{ぎやうさん}に。今の
火箸{ひばし}は山椒{さんせう}太夫|祭文{さいもん}とやら耳{みゝ}やかましい文句{もんく}て
こそあれ。とれどこに。額{ひたい}にあてたは扇{あふぎ}の骨{ほね}。夫{それ}見{み}よ

(9オ)
知{し}らぬと心{こゝろ}の偽{いつわ}り。臑{すね}にきづ持{もつ}たとへのとをり。
餘所{よそ}の鉄火{てつくわ}も身{み}にこたゆる。扇{あふぎ}の骨{ほね}さへ今{いま}の通{とを}り。
ぬかさにや誠{ま〔こと〕}の焼火箸{やけひばし}。」火鉢{ひばち}に打{うち}くべ烈{れつ}〳〵と。
あふぎ立{たつ}たる我慢{がまん}のふるまひ。おどしとおもへど十|
左エ門{ざゑもん}。浦里{うらざと}お弓{ゆみ}十次郎。一{ひ}ト間{ま}に冷{ひや}あせ出{で}られも
せず。【おつゆさいもん】「かゝる時{とき}しも橋立太郎{はしだてたらう}。成合寺{なりあいでら}のお聖{ひじり}を伴{ともな}ひ
出{いで}て父{ちゝ}の前{まへ}。」【土平】「稚{おさな}き人の罪科{つみとが}は。愚僧{ぐそう}にゆるし給はれと。」【おつゆ】「法{のり}
の衣{ころも}をかけらるゝ。」【おつゆ土平】「由良{ゆら}の湊{みなと}の物{もの}がたり。祟{たゝ}りをなす

(9ウ)
なよ守護{しゆご}の御祈念{ごきねん}。」「語{かた}りおわりてそれ〳〵と。お露{つゆ}が*地の文の開始位置に開括弧
差図{さしづ}に下部{しもべ}の土平{どへい}。狭箱{はさみばこ}より札守{ふだまもり}。白木{しらき}の台{だい}に
恭{うや}〳〵しく。お物見{ものみ}のまどへさし上{あぐ}るを。お局{つぼね}の取
次{とりつぎ}そのまゝに。奥方{おくがた}へ捧{さゝ}げたてまつる。取{とり}上{あ}ゲ給へば
こはいかに。守{まも}りにあらぬ願{ねが}ひの一札{いつさつ}。ふしぎと直{すぐ}に
押{おし}ひらき。くりかへし見{み}給ふ。仮名書{かながき}の。女筆{によひつ}にはあ
れど事{こと}あざやかに。兄{あに}の敵{かたき}を討{うち}たきねがひ。幸崎{かうさき}
甚{じん}三郎が妹{いもと}にて。この鎌倉{かまくら}には甚{じん}三郎が忍{しの}び妻{づま}

(10オ)
わすれ筐{がたみ}の娘{むすめ}一人{ひとり}。ある事{こと}。敵{かたき}もいまだしれざる
ゆゑ。浪{ろう}〳〵の身{み}を歎{なげ}きて。千葉家{ちばけ}は古主{こしゆう}の奥方{おくがた}
へ細〻{こま〴〵}との願{ねが}ひなりければ。心{こゝろ}に深{ふか}く感{かん}じたまひ
局{つぼね}をめして何{なに}やらん仰事{あふせ〔ごと〕}ありて。今{いま}の願{ねが}ひ書{がき}。
懐{ふところ}に納{おさ}め姫君{ひめぎみ}ともなひ御殿{ごてん}へ帰{かへ}り入{い}らせ給ふ。
狭山{さやま}。大橋{おゝはし}。長雄{ながを}をはじめ。奥女中{おくぢよちう}のいづれもお供{とも}
なし。心{こゝろ}のこれど梅{うめ}ゲ谷{や}も。此{この}中{なか}に交{まじ}りて立出{たちいづ}るを。
御用{ごよう}ありと局{つぼね}の差図{さしづ}にてお物見{ものみ}にのこり歌

(10ウ)
祭文{うたさいもん}のお露{つゆ}主従{しゆう〴〵}。目録{もくろく}にそへて品{しな}多{おゝ}く賜{たま}はり。
願{ねが}ひの事{こと}明{めう}日|御沙汰{ごさた}あるべし。二見{ふたみ}十{じう}左エ門|宅{たく}へ
来{きた}るべしとて。お暇{いとま}給はりければ。おつゆ主従{しゆう〴〵}有{あり}がた
涙{なみだ}。身{み}に余{あま}り。明日{めうにち}を約{やく}して旅宿{りよしゆく}へ皈{かへ}りける。局{つぼね}
はすぐに梅{うめ}ゲ谷{や}に。あらまし奥方{おくがた}の仰{あふせ}を伝{つた}へしが。
淵{ふち}右エ門は当{あた}り眼{まなこ}。泣入{なきい}るお松{まつ}を引居{ひきす}へて支{さゝ}へる
新吾{しんご}十{じう}左エ門を突退{つきの}けて。燃立{もへたつ}ばかりの焼火
箸{やけひばし}に手拭{てぬぐひ}引巻{ひきまき}。すでに斯{かう}よと見{み}へたるところへ。

(11オ)
奥方{おくがた}の御意{ぎよゐ}ありて。長岡{ながおか}の局{つぼね}中老{ちうろう}梅{うめ}ケ谷{や}参{まい}ら
れしと告{つぐ}るに淵{ふち}右エ門|驚{おどろ}きうろたへて焼火箸{やけひばし}を
袴{はかま}の裾{すそ}に押隠{おしかく}し。何気{なにげ}なき風情{ふぜい}。局{つぼね}梅{うめ}ゲ谷{や}坐{ざ}に
つきて。「紛失{ふんじつ}の一軸{いちじく}詮義手筋{せんぎてすじ}。御心{おこゝろ}つかれし事{〔こと〕}
あれば。時{とき}次郎がゆくゑ詮義{せんぎ}に不及{およばず}。お松{まつ}は御免{ごめん}
なさるゝ間{あいだ}。十左衛門|勝手{かつて}に取斗{とりはか}らへとの御意{ぎよゐ}。」【淵右】「イヤ
夫{それ}にては昨日{きのふ}より二見氏{ふたみうぢ}の骨折{ほねをり}拙者{せつしや}迚{とて}も。」
と差出{さしで}るうちに。袴{はかま}のひだより煙立{けむりたち}。おのれと熱{あつ}き

(11ウ)
に堪{こら}へかね。払{はら}ひ除{のけ}たる焼火{やけひ}ばし。側{そば}に並{なら}びし
仁田山{にたやま}が。膝{ひざ}へ飛散{とびち}る傷火{やけど}の相伴{しやうばん}。十左衛門はその
儘{まゝ}に花生{はない}ケの水{みづ}を二人{ふたり}がひざへ打{うち}かけられて二
度{にど}恟{びつく}り。狼狽廻{うろたへまは}りて理屈{りくつ}もこねず。不首尾{ふしゆび}たら
だら仁田山{にたやま}荒川{あらかは}。刀{かたな}を提{さげ}て手持{てもち}なく【淵新】「御両
所{ごりやうしよ}これに。」と目礼{もくれい}し。ふせう〴〵に立{たち}かへる。跡{あと}は笑{わらい}
も長梅雨{ながつゆ}に。しめりかへりし正中{たゞなか}へ。雷{かみなり}一ツ{ひとつ}夕栄{ゆふばへ}の。
虹{にじ}の吹{ふき}たる如{〔ごと〕}くなり。

(12オ)
○かく奥方{おくがた}の仁心{じんしん}はありといへども千葉家{ちばけ}の
親{しん}ぞく大膳{だいぜん}の悪工{わるだく}み。内〻{ない〳〵}国家{こつか}のうれいも
あれば。たやすく荒川{あらかは}淵{ふち}右エ門に咎{とが}めを掛{かけ}る
事{こと}なりがたく。折{おり}を見合{みあはせ}何{なに}となく日数{ひかず}を重{かさぬ}
ることゝはなりぬ。
第十八回
軒端{のきば}〳〵の行灯{あんどう}に識{しる}す家名{いゑな}の女文字{おうなもじ}尋{たづね}て

(12ウ)
爰{こゝ}へくる人{ひと}の。印{しるし}と三輪{みわ}の杉{すぎ}ならで。客{きやく}待{まつ}宵{よい}に
蜘蛛{さゝがに}の糸{いと}なまめきし女房{にやうぼう}が舟{ふね}歟{か}〳〵と端居{はしゐ}
して。呼上{よびあぐ}る音{ね}に小男鹿{さをしか}の。しかつべらしき二人連{ふたりづれ}。
まづお先{さき}へと全六{ぜんろく}が。けんもんがてら荒川{あらかは}を誘{ともな}ひ
爰{こゝ}に入来{いりきた}る。[舟宿の女房これを見て]【女房】「ヲヤだれだとおもつたら
全六{ぜんろく}さん。きついお見限{みかぎり}だね。これは旦那{だんな}よふ入{い}らつ
しやりました。モフ今日{こんにち}はけしからずお暑{あつ}うござり
ます。ホンニ全六{ぜんろく}さんあつちからお文{ふみ}が度{たひ}〳〵参{まい}ツて

(13オ)
おりましたつけ。ソシテアノ波吉{なみきつ}さんの所{とこ}からも文{ふみ}が
別{べつ}に来{き}ておりますよ。モウ色男{いろおとこ}はうるさいね。」ト[しか
み火鉢に
かけたる広島薬鑵{ひろしまやくわん}より茶{ちや}を汲{くん}で出{だ}し]「サアお一ツおあがりなされまし。」【全六】「ヤア
お家{ゑ}さん何{なに}いふてかいナ。今日{けふ}はいかふ暑{あつ}いさかいでナ。
旦那{だんな}を連{つれ}て涼{すゞ}みがてら。的{てき}めが所{とこ}へしかきやふと思{おも}ふ
て。色〻{いろ〳〵}と内方{うちかた}の首尾{しゆび}とりつくろい。漸{やふ〳〵}のことて
こつそりとぬけて来{き}たじや。イヤモ誰{たれ}有{あろ}ふ春日屋{かすがや}の
店{みせ}をもあづかり。頭蔵職{ばんとうしよく}をも勤{つとむ}るこの全六{ぜんろく}種々{しゆ〴〵}の

(13ウ)
偽{いつわ}りいふて出{で}て来{く}るといふも。アノ女子{をなご}が艶{やさ}しい心
底{こゝろざし}といゝ。又{また}芸子{げいこ}の浪吉{なみきち}まてが。わしが行{ゆく}とあじイナ
目{め}つきしくさつて。老実{まじめ}な番頭{ばんとう}さまの魂{たましゐ}をくるは
すじや。是{これ}を思{おも}へば昔{むかし}の人{ひと}のいふておいた通{とを}り恋{こひ}の
山{やま}には孔子{こうし}も倒{たを}れるとやら。アヽ色{いろ}は思案{しあん}の外{ほか}
じやナア。」【淵右】「ヤイ〳〵全六{ぜんろく}身{み}どもが前{まへ}をも憚{はゞか}らず。
何{なに}をのろけおる。ソレ見{み}やれ涎{よだれ}が襟{ゑり}を伝{つた}ふは。ハヽヽヽヽヽ。
時{とき}に御内宝{ごないほう}。拙者{せつしや}今日{こんにち}は始{はじめ}てこれへ参{まいつ}たがこれから

(14オ)
又{また}節〻{せつ〳〵}まいるでござろふ。今日{けふ}はほんの全六{ぜんろく}への付
合{つきあい}。餘{あま}り彼{かの}女子{をなご}の事{〔こと〕}をのろけおるからどのよふに
美{うつく}しいか同伴{どうばん}いたして拝見{はいけん}いたそふとおもふて。」【全】」「イヤ
旦那{だんな}何{なに}阿房{あほう}いわんすのじや。今宵{こよひ}合浦楼{がつぽろう}へ行{い}ん
だら。アノ女子{をなご}始{はじ}め。波吉{なみきち}めも。このほど間{あい}があつた
さかい。わしを捕{とらへ}て愚痴{ぐち}いふて。ぼやきおるて有{あろ}ふナ。
こないな事{こと}いふてゐる間{ま}も。胸{むね}がどき〳〵してならん。
モウいのろふかい。」【女房】「ヲホヽヽヽヽヽ。きつい床急{とこいそ}ぎてござり

(14ウ)
ますね。まだお早{はや}ふござります。もふ少{すこ}しすぎて
いらツしやりまし。マア一{ひと}ツめし上{あが}りませんか。」【淵】「イヤ〳〵
こういたそふ。全六{ぜんろく}内〻{ない〳〵}その方{はう}へ噺{はなさ}ねばならぬ事{〔こと〕}も
あれば。涼{すゞ}みがてら舟{ふね}の中{うち}で一盃{いつぱい}傾{かたむ}けながら。ぶら
ぶら出{で}かきやふではないか。」【全】「左{さ}よふいたしませふか。そん
ならお家{ゑ}さん夷庵{ゑびすあん}へなと何{なん}ぞ呑{のめ}る物{もの}そふいつて
やりんか。又{また}呑{のめ}るものといふたとて。前歯{まゆば}の欠{かけ}た足
駄{あしだ}などはわるいぞや。」【女房】「アレ又{また}悪口{わるくち}ばつかり。いつそんな

(15オ)
物を上ましたヱ。そんな物はこゝらにはござりませんよ。」
ト[二階{にかい}の方{かた}へ向{むか}ひ大きな声{こゑ}して]「市{いち}どん婦多川{ふたがは}まで舟{ふね}が一{い}ツぱい出{で}るよ。」
ト[呼{よ}へば二かいにて寝{ね}ぼけたるよふな声にてアイといゝながらおりてくるは爰の舟頭なるべし]【舟頭市】「これは全六{ぜんろく}さんよく
お出{いで}なさりやした。ハイあなたよふ御出被成ました。」ト[ぶきやうに
おじぎをして]「モシめつほうお暑{あつ}うござりやす。モシいつもの所へ
かね。」【女房】「そふよ。今{いま}夷庵{ゑびすあん}から御酒{ごしゆ}や佳肴{おさかな}が来{く}るから。
こんたア河岸{かし}へ行{いつ}て舟を拵{こしら}へておかつせヱ。」【市】「アイ。」ト
[艫{ろ}をかつぎ火縄筥{ひなはばこ}をさげて河岸へ出て行。此内酒肴も来るゆへ二人も船へのりうつる]【女房】「左よふなら御機嫌{ごきげん}

(15ウ)
よふ。明朝{めうあさ}おかへりにおよりなされて。一盃{いつぱい}めしあがり
まし。市どんいつて来{き}さつせヱ。」ト[舟のみよしをつき出す]○建続{たちつゞ}く
河岸倉{かしぐら}の白壁{しらかべ}は時しらぬ富士{ふじ}が根{ね}とあやまたれ
金城{きんじやう}の落日{らくじつ}に映{ゑい}ずる光景{ありさま}は。仏{ほとけ}の国{くに}に有といふ。
乾闥婆城{けんたつばぜう}に|彷彿{さもに}たり。行{ゆく}を送{おく}り帰{かへ}るを迎{むか}ふ。出船{でふね}
入船{いりふね}交〻{こう〳〵}たる。この夕風の涼{すゞ}しさに。暫{しばし}は夏{なつ}を萱草{わすれぐさ}。
莨{たばこ}くゆらす舟頭{せんどう}か浴衣{ゆかた}をぬいで棹{さほ}とり直{なを}しつき
出{いだ}したる川の面{おも}。[向ふからはこれもふた川へ片道でかへる舟とみへて]【市】「ヤアイ[引]次郎{しろう}へ

(16オ)
昨夜{よんべ}ナ。てめへチのいくナ。吾妻屋{あづまや}へいつたらナ。てめへの
女{をんな}がナ。よこしてくれろと言伝{ことづて}をいつたア。今夜{こんや}行{いつ}て
やりやナ。」【向ふの舟頭】「ヱヽこの野郎{やろう}はよくいろ〳〵な事{こと}をいやア
がる。|こないだ{#此程}ア野郎{やろう}いき{#息}だナ。めつほう腰{こし}のまわりが
赤{あか}イナ。得手吉{ててきち}が疱瘡{ほうそう}でもするかへ。」ト[いふ緋縮緬{ひぢりめん}のふんどしのことをいふなるべし]
【市】「馬鹿{ばか}アいやな。」ト[行過る。又向ふより〓油樽を積たる茶舟来るに声かけ]「ヤイ〳〵一本{いつぽん}*〓は「将(冠)+衣」

させ〳〵。ヱヽべらぼうめ。ソレ当{あた}るは〳〵おも楫{かぢ}〳〵。」ト
[これも行過る。これに引かへ全六淵右エ門か舟の中はたゞ寂莫{せきばく}としてたゞ二人りさいつさゝれつ膝{ひざ}つき合せてのわるだくみ。かてゝ加{くわ}へたのろけ咄{はなし}。咡合{さゝやきあ}ふぞひそかなる]

(16ウ)
【淵】「時{とき}に全六{ぜんろく}身{み}どもを無理{むり}にすゝめて連{つれ}てまいつたが。
身{み}ども芦原{あしはら}へは度〻{たび〳〵}同役共{どうやくども}とも同伴{どうばん}で参{まい}つたが。
おみがいふその婦多川{ふたがは}とやら印地{ゐんち}とやらは始{はじ}めて
じやが。どふいふ風俗{ふうぞく}の所{ところ}じや。」【全】「マアいんでごろうじ
ませ。イヤ又{また}芦原{あしはら}とはとつとちがふて暑{あつ}い時{じ}ぶんや
などは水辺{すいへん}じやさかい。きがはれて一向{いつこ}ゑいじや。座敷{ざしき}
もナ見通{みとを}しといふてナ。広{ひろ}い座敷{ざしき}のナ。障子{しやうじ}ひらけば
遥{はる}ウか向{むか}ふに見{み}ゆるのは。佃嶌{つくたじま}から品川沖{しながはおき}本牧{ほんもく}の

(17オ)
端{はた}には。上総{かづさ}房州{ぼうしう}四国{しこく}西国{さいこく}阿蘭陀{おらんだ}蛮国{だつたん}。蝦
夷{ゑぞ}。筥立{はこだて}。朝鮮{てうせん}の釜山海{ふさんかい}。そんな所{とこ}は見へんがナ。それ
ばかりじやない。女{をんな}の風俗{ふうぞく}。髪{かみ}の結{ゆい}よふから|衣〓{きるもの}迄{まで}が*〓は「将(冠)+衣」
ゑろふ意気{ゐき}じや。そこでわしがなじんでいくお玉と
いふ女子{をなご}。脊{せい}は|やつしやり{#痩容}として色{いろ}はまつしろもみ
あげがズウイとあごの下{した}まで。ゑり足{あし}のなかい事{〔こと〕}は
踵{きびす}迄{まて}とゞいて。足{あし}が鉄{てつ}きう手が金火箸{かなひばし}。ヲツトそれじや
化{ばけ}ものじやが。ハヽヽヽヽ。いやもふ|李園戯子{かぶきやくしや}でいはふなら

$(17ウ)
旧悪{きうあく}自{おのつから}
胸{むね}を責{せめ}て
全六{ぜんろく}鬼怪{きくわい}
を看{み}る

$(18オ)

(18ウ)
芦幸{ろかう}に都雀{としやく}震舎{しんしや}に梅雅{ばいが}を紅{べに}と白粉{をしろい}であへ
ものにしたよふな上代物{じやうしろもの}。それのみならずそこにナ
波吉{なみきち}といふてゑらう美{うつく}しい芸子{げいこ}があるがナ。その芸
子{げいこ}が内方{うちかた}のお照{てる}さんに。目{め}もとなり口{くち}もとなり。似{に}た
よふな奴{やつ}かナ。わしが行{ゆく}度{たび}毎{〔ごと〕}に何{なん}じややら。あじイな
そぶり。こいつも末{すゑ}〴〵はたゞは通{とを}さぬ奴{やつ}。両方{りやうはう}の手{て}に
美味{うま}いものゝ喰飽{くいあき}。これがほんの福徳{ふくとく}の三年{さんねん}め
とやらでけつかる。」と[夢中{むちう}になりてさかづきの中{なか}へ手{て}をつき酒{さけ}をこぼし「ヤアヽ大へん〳〵。」と立{たち}さわぐ]【淵】「イヤ

(19オ)
全六{ぜんろく}そのよふに夢中{むちう}になつてどふいたしたものじや。
シテ其{その}方{はう}はそこへ久{ひさ}しく馴染{なじん}でまいるのか。」【全】「イヤまだ
そのよふに久{ひさ}しいなじみと申でもござりませぬ。此間
から四五{しご}かへり。モウまいる度{たび}毎{〔ごと〕}にまんのわるさ。あや
にくと客{きやく}が落遇{おちあ}ふて。まだろく〳〵噺{はなし}さへいたし
ませぬが。モウ的{てき}めが事{〔こと〕}はとつと寝{ね}た間{ま}もわすれは
いたしませぬ。ゆふべも夕{ゆふべ}とて。店{みせ}で帳合{てうあい}しながら翌
日{あした}いんだらこふいふてアヽいふて。こふしてアヽしてと思ひ

(19ウ)
ながら帳合{てうあい}したらナ。同{おな}じ所{ところ}へ仕切判{しきりばん}。三ツ{みつ}迄{まで}おし
ました。」【淵】「イヤそれはきつい浮{うか}れよふじや。それはそふと
うちのよふすはどふじや〳〵。」【全】「何{なに}も変{かは}りました事も
ござりませぬが。此{この}間{あいだ}もお照{てる}さんの親子{おやご}。庄{しやう}右エ門|殿{どの}が
わせられて。やつサもつサ。とふ〳〵お照{てる}さまをば国{くに}へ
連{つれ}ていんでしまいおつたによつて。わしはモウ手{て}の中{うち}の
物{もの}をとられたよふに心細{こゝろほそ}ふて泣{ない}てばつかりおりまし
たが。ヱヽ此{この}様{よふ}に気{き}を腐{くさ}らしてはいかんさかい。酒{さゝ}など

(20オ)
呑{のん}で気{き}を晴{はら}らそと。夷庵{ゑびすあん}へこつそりいんで。一盃{いつぱい}*「晴{はら}らそ」の「ら」は衍字
呑{のん}だが縁{えん}のはしこゝのうちから船拵{ふなごしら}へさせ。はじめて
いんだ印地{ゐんち}の合浦楼{がつぽろう}。お玉{たま}といふ女子{をなご}よんで見た
所{とこ}が。誠{ま〔こと〕}に玉{たま}のよふなお姿{すがた}心もうき〳〵して芸{げい}子が
無{の}ふては座敷{ざしき}が淋{さみ}しい。芸子{げいこ}をよんでおくれんかと
いふたら。浪吉{なみきち}といふナげいこがきてじやが。その芸子が
いんまもいふたとふり。お照{てる}さまにいきうつし。此{この}全六{ぜんろく}に
心{こゝろ}ありげなよふす。とつとお的{てき}が事を思{おも}ひ出{だ}すともふ

(20ウ)
こたへられぬ。」【淵】「此{この}男{おとこ}は又{また}してもそのよふな事{〔こと〕}を申
|聞{きけ}る。如何{いかゞ}いたしたものだ。身{み}どもは兎角{とかく}彼{かの}梅ケ谷{うめがや}
この間{あいだ}も折角{せつかく}お松{まつ}をとらへ。これをかせに梅{うめ}が谷{や}を
口説{くどき}落{おと}さんと思{おも}ふところへ。奥様{おくさま}の御意{ぎよい}故{ゆへ}。詮{せん}かた
なくゆるしてつかはしたが。イヤ又{また}偽{いつわ}りがちな遊里{ゆうり}の
女{をんな}とはちがふて。お館{やかた}の女中達{ぢよちうたち}は。いやみがなふてよい
じやテ。」【全】「イヱ〳〵それは淵{ふち}右エ門さまのお詞{〔こと〕ば}ではござ
りますれど。それも人{ひと}によりけりで。私{わたくし}が馴染{なじん}でおる。

(21オ)
お玉{たま}などが信実{しんじつ}と申はお聞{きゝ}なされませ。この間{あいだ}私{わたくし}が
まいりましたはてうど初夜{しよや}すぎ。お玉{たま}めがまいりまして
モウシ全六{ぜんろく}さん。わたしやいつそお前{まへ}がおいでたさかい。
嬉{うれ}しふて〳〵早{はや}ふ爰{こゝ}へ来{き}たけれど。今宵{こよひ}は折{おり}あしう
むづかしい客人{きやくじん}が来{き}てじやさかい。ちつとの間{ま}辛抱{しんぼう}して
独{ひと}り寝{ね}ていて下{くだ}さんせ。いつきに走{はし}ツてくるといひ
おつていんだが。待{まて}ど暮{くら}せどその客{きやく}めが。放{はな}しおらぬと
見{み}へてお玉{たま}めは来{こ}ず。次第{しだい}に夜{よ}は更{ふけ}る腹{はら}はへる小便{せうべん}には

(21ウ)
行{ゆき}たふなる煙草{たばこ}はなふなる蚊{か}ははいる。わしやモウ〳〵
づゝのふて〳〵ならんが。私{わし}がづゝないより。さぞかしお玉{たま}
めがづゝなかろふと思{おも}やかなしうて〳〵熱{あつ}い涙{なんだ}がホロリ〳〵
こぼれましたわいの。」【淵】「これは又{また}めんよふナ。何{なに}それか
かなしかろふ。それは向{むか}ふの客{きやく}が色男{いろおとこ}で。其{その}方{はう}はふられ
たと申ではないか。左{さ}よふな時{とき}などは身{み}どもなら若{わか}イ
者{もの}を呼{よび}つけて。手{て}ひどくしかつてつかはすじや。」【全】「ナンノ
私{わたくし}がふられませふ。そないな事{〔こと〕}をおつしやりますから。

(22オ)
彼{かの}里{さと}では兎角{■かく}野暮{■ぼ}と申ます。よふ考{かん■■}てごろふじ
ませ。可愛{かあいゝ}私{わたくし}といふおきせんをほつたらかしておいて。
否{いや}な男{おとこ}の傍{そば}へ行{いん}でいるお玉{たま}めが。心{こゝろ}の底{そこ}を押{おし}はかつて
御覧{ごらう}じませ。これがお前{まへ}さまかなしうなふて何{な}ンと
いたしませふ。ホヲイ〳〵。」【淵】「イヤ其{その}方{はう}は泣上戸{なきじやうご}と見{み}へる。
ハヽヽヽヽヽ。それはそふと噺{はな}さにやならぬ訳{わけ}といふは。先
達{せんだつ}ての彼{かの}一品{ひとしな}。」【全】「スリヤアノ菅家{くわんけ}の一軸{いちゞく}を。」ト[大きな声{こゑ}をするゆへ]
【淵】「コレ。」トあたりを見{み}まわす折{おり}から。隣{となり}の船{ふね}に弾出{ひきいだ}ス

(22ウ)
誰{たが}手{て}づさみか三味線{さみせん}の。いとしめやかなる合{あい}かたも。
時{とき}にとつての鳴物{なりもの}と。二人{ふたり}蜜{ひそか}に耳{みゝ}に口{くち}。私語合{さゝやきあ}ふ
たる後{うしろ}の方{かた}。ガラリと明{あけ}て船頭{せんどう}が【市】「モシ火縄{ひなわ}を少{すこし}
おかし被成{なすつ}て下{くだ}さいまし。」【全】「サア付{つけ}なされ。とつと忘{わすれ}
ていた。舟頭{せんどう}さん一{ひと}ツ呑{のみ}んか。」【市】「ハイ有難{ありがたふ}ござります。」
【全】「イヤゑろう盃{さかづき}がねばつてきた。ドレ此{この}川水{かはみづ}で
一寸{ちよつと}すゝいで。」と[簾{すだれ}をあげ]何{なに}ごゝろなく見{み}おろす水面{すいめん}。
雲間{くもま}の月{つき}も朦朧{もうろう}と。薄{うす}どろ〴〵と波{なみ}の音{おと}。遥{はるか}に

(23オ)
聞{きこ}ゆる折{おり}しもあれ。うつる姿{すがた}は陽炎{かげろふ}のそれあらぬか
さいつ頃{ころ}。うせし儀{ぎ}七が面影{おもかげ}の。色{いろ}青{あを}ざめたるあり様{さま}
に。思{おも}はずワツトとり落{おと}す。我{わが}手{て}に持{もち}し盃{さかづき}とともにバツタリ
音{おと}するは。向{むか}ひの船{ふね}の青簾{あをすだれ}[全六ふるへ声にて]【全】「ヤレたすけ船{ぶね}〳〵。」
トいふ声{こゑ}霞{かす}む佃節{つくだぶし}【唄】「篠{しの}をたばねてつくよな雨{あめ}に濡{ぬれ}
にぞ急{いそ}く棚{たな}なし小船{をぶね}。」右{みぎ}と左{ひだり}へ漕去{こぎさ}りけり。
[浦里時次郎]明烏{あけがらす}後正夢{のちのまさゆめ}巻之十終


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底本:東京大学文学部国語研究室蔵本(4L:95:4)
翻字担当者:金美眞、矢澤由紀、島田遼、銭谷真人
更新履歴:
2017年7月26日公開

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