日本語史研究用テキストデータ集

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浦里時次郎明烏後の正夢うらざとときじろう あけがらすのちのまさゆめ

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三編下

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浦里時次郎明烏後の正夢 三編下

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凡例
1.本文の行移りは原本にしたがった。
2.頁移りは、その丁の表および裏の冒頭において、丁数・表裏を括弧書きで示した。また、挿絵の丁には$を付した。
3.仮名は現行の平仮名・片仮名を用いた。
4.仮名のうち、平仮名・片仮名の区別の困難なものは、現行の平仮名に統一した。ただし、形容詞・副詞・感動詞・終助詞・促音・撥音・長音・引用のト等に用いられる片仮名については、原表記で示した場合がある。 〔例〕安イ、モシ、「ハイそれは」ト、意気だヨ、面白くツて、死ンで、それじやア
5.漢字は現行の字体によることを原則としたが、次のものについては原表記に近似の字体を用い、区別した。「云/言」「开/其」「㒵/貌」「匕/匙」「吊/弔」「咡/囁」「哥/歌」「壳/殻」「帒/袋」「无/無」「楳/梅」「皈/帰」「艸/草」「計/斗」「弐/二」「餘/余」
6.繰り返し符号は次のように統一した。ただし、漢字1文字の繰り返しは原本の表記にしたがい、「〻」と「々」を区別して示した。
 平仮名1文字の繰り返し 〔例〕またゝく、たゞ
 片仮名1文字の繰り返し 〔例〕アヽ
 複数文字の繰り返し 〔例〕つら〳〵、ひと〴〵
7.「さ」「つ」「ツ」に付く半濁点符は「さ゜」「つ゜」「ツ゜」として示した。
8.Unicodeで表現できない文字は〓を用いた。
9.句点は原本の位置に付すことを原則としたが、文末に補った場合がある。
10.合字は〔 〕で囲んで示した。 〔例〕殊{〔こと〕}に、なに〔ごと〕、かねて〔より〕
11.傍記・振り仮名は{ }で囲んで示した。 〔例〕人生{じんせい}
12.左側の傍記・振り仮名の場合は、冒頭に#を付けた。 〔例〕めへにち{#毎日}
13.傍記・振り仮名が付く位置の紛らわしい場合、文字列の始まりに|を付けた。 〔例〕十六|歳{さい}
14.原本に会話を示す鉤括弧が付いていない場合も、これを補い示した。また庵点は〽で示した。
15.原本にある話者名は【 】で示した。 〔例〕【はる】
16.割注・角書および長音符「引」「合」は[ ]で囲んで示した。
17.不明字は■で示した。
18.原本の表記に関する注記は*で行末に記入した。 〔例〕〓{たど}りて*〓は「漂+りっとう」
19.花押は〈花押〉、印は〈印〉として示した。
20.画中文字の開始位置に〈画中〉、広告の開始位置に〈広告〉と記入した。

本文の修正
1.翻字本文を修正した場合には、修正履歴を末尾に示す。
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(1オ)
客者評判記{きやくしやひやうばんき} 式亭三馬戯編
|串戯二日酔{じやうだんふつかゑひ} 十返舎一九戯述
[勧善{くわんぜん}]津祢世物語{つねよものがたり} 曲亭主人著
[こつけい]田舎草紙{いなかそうし} 十返舎一九作
右の草紙{そうし}は久〻{ひさ〴〵}世{よ}に絶{たへ}候を此度|不残{のこらず}再販{さいはん}仕候。 青林堂

$(1ウ)
[浦里時次郎]明烏{あけからす}後正夢{のちのまさゆめ}巻之九
江戸 [南仙笑楚満人 滝亭鯉丈]合作
〈画中〉成田道
〈画中〉舟橋宿

(2オ)
第十六回
渡{わた}すべき川{かは}さへなきを舟橋{ふなばし}の。駅{ゑき}とし呼{よぶ}は房総{ぼうそう}の。
両頭{ふたつ}にわかる駅路{むまやじ}にて。古{ふる}き宮居{みやゐ}は天照{あまてらす}。大神宮{だいしんくう}の
曲{まが}れるを直{すぐ}にと守{まもり}給へども。道{みち}にそむける人心{ひとごゝろ}。すねて
生{はへ}たる神垣{かみがき}の松{まつ}を手本{てほん}と見{み}るものから。根{ね}には正直
正路{せうじきせうろ}のある心{こゝろ}をしらぬぞあさましき。爰{こゝ}にしるしの傍
爾{ほうじ}の石{いし}。上総海道{かづさかいどう}成田道{なりたみち}と鐫{ゑり}たるさへも見{み}へわかぬ。宵
闇{よいやみ}の星明{ほしあか}りに。竹輿{かご}と蒲団{ふとん}と後前{あとさき}へ一ツ荷{いつか}にかつぐ

(2ウ)
戻{もど}りかご。其{その}棒組{ぼうぐみ}は嗅杖{いきづへ}を二本{にほん}かたげてこゑはり揚{あ}げ
「酒{さけ}とナア肴{さかな}でナンアヱ六百|出{だ}しや気{き}まゝヱヽ[引]八兵衛
どふした馬{むま}でものんだか。」[向{むか}ふよりくるもどりかごおなじなりにて来{きた}り声{こゑ}をかける]「おそかつた
ナ。どこ迄{まで}いつたヱ。」[こちらのかごかき泥蔵{どろそう}]「爰{こゝ}が泊{とま}りヨ。さつき行{いつ}ていま
帰{けへ}るのか。」「ヲヽ検見川{けみがは}までヨ。」「[泥蔵の棒{ぼう}ぐみとび助]「金{かね}のおき所{どころ}に*割書の直前に開括弧
こまるなヱ。いゝかげんによくはればいゝのに。」「おたげへの
〔こと〕だ。五帰{いつけへ}りもかついだろうナ。こんふとら{#此人等}アナア棒組{ぼうくみ}イ。」
[むかふのぼうくみ]「泥蔵{どろぞう}や飛助{とびすけ}らが真似{まね}は出来ねへサ。」【とび】「馬鹿{ばか}ア

(3オ)
言{いへ}ヱ。」【泥】「今日{けふ}ナア銭{ぜに}になつたろうが。」「あに{#何}げへにも取{とら}ねへが
四里{より}の丁場{てうば}ア八百ヨ。すれ{#夫}だがあの旦那{だんな}ア江戸{ゑど}でも大
家{だいじん}の子旦那{こだんな}とと見{み}へて馬加{むまくは}へて[宿の名]過{すき}た時{とき}酒手{さかて}ヱ一本{いつほん}{#四百文}
つん出{だ}したアサ。そりから口{くち}せんはこつちで二文はづん
だのヨ。」「人{ふと}を追{をつ}かけるのか逃{ぬげ}るのか。げへにいそいだが。五井{ごい}
か姉{あね}が崎{さき}|ゆんて{#近所}へ行{ゆく}たげな。」【泥】「そりやアいゝ鳥{とり}に引{ひつ}かゝ
つたのだナア。」【とび】「爰{こゝ}でわかれだア。おらア跡{あと}からいかア。先{さき}へ
いつて呑{の}んで居{ゐ}るがいゝぜ。」「ヲヽサ八兵衛でも見{み}てたの

(3ウ)
しむべヱわサ。」「そんだらしづかにきせへヱ。」【泥】「今{いま}追付{おつつか}ア。」ト
[たがいゆきすぎる。この泥蔵とび助|等{ら}は身{み}の置所{をきどころ}なきまゝにわづかなしるべにたよりきてこのかいどうをはいかいし流れ渡りにかごかきなり。検見{けみ}
川迄ゆきたりと言{いふ}かごかきはこの国人{くにびと}なるべし。思{をも}ふにかれがけみ川迄いそぎのだんなと言しは時次なるべきかしらず]「[どろ蔵あたりをみまはして]*割書の直前に開括弧
【泥】「今夜{こんや}泊{とまつ}た旅烏{たびがらす}寝{ね}ぐらのしれたしろ物{もの}ゆへ。どふやら
むめへ金{かね}のつるにイヤサ仏檀{ぶつだん}のしよく台{だい}じやアねへが。
コレなるぞヨ〳〵。」【とび】「ヲヽサたゝけば直{ね}の出{で}る金{かね}。細工{さいく}はコレ
流〻{りう〳〵}仕上{しあ}ゲをやつて見{み}よふか。」【泥】「あのおやじめをどふかして
あまめをくゝして引{ひつ}ぱらい。爰{こゝ}を更{ふけ}たら夜通{よどを}しに

(4オ)
「煮焼{にやき}をするやや江戸{ゑど}よりたひだ。それはともあれさつ
きの道連{みちづれ}。」【とび】「面{つら}はあんまり見{み}しらぬが。たしかにあいつ
もごまの蠅{は■}。」【泥】「そうして見{み}りやアあの親父{おやぢ}が荷{に}もつの
中{なか}には。」【とび】「金{かね}もあるかヱ。」【泥】「どふやらそれと見{み}てとつたが。あい
つが仕事{しごと}をする気{き}なら。」【とひ】「その手{て}を喰{くは}ぬまへびろに。
ア■油屋{あぶらや}のおくの間{ま}ヱ。」【泥】「椽{えん}がはづたいに湯殿{ゆどの}の水口{みづぐち}。」
【とび】「外{そと}からあくのを見{み}ておいた。」【泥】「かごは木小屋{きごや}のかたへに
おき。」【とび】「廿日{はつか}亥中{いなか}の月代{つきしろ}に勝手{かつて}のしれた脊戸{せど}づたい。」

(4ウ)
【泥】「足元{あしもと}の闇{くらい}うち道{みち}をいそいでちつとも早{はや}く。」【とび】「首尾{しゆび}
よく売{うつ}たら見掛{みか}けた山分{やまわけ}。」【と】「八わたしらずの藪{やぶ}から棒{ぼう}。
なんだか気{き}になるあの道連{みちづれ}。」【とび】「きづかいしやるナ定宿{ちやうやど}
だ。相宿{あいやど}させぬあしよはづれナ。すつぱりいきやア濡
手{ぬれて}で粟{あは}。」【泥】「きみよくやつて前祝{まへいわ}ひにマア一|合{ごう}ヅヽやら
かすべい。」【とび】「この一ト仕事{しごと}が運{うん}さだめ。」【泥】「コリヤア一{ひ}トもとで
にありつきそふだわヱ。」「時のかね「ゴヲン〳〵。【二人】「モウ初夜{しよや}だ■。」
[なみのおとドウ〳〵〳〵〳〵〳〵〳〵。ドウ〳〵〳〵〳〵。たゞものすごき松風のおとははるかに聞へけり]扨{さて}も正右衛門{せうゑもん}は由兵へ{よしへゑ}

(5オ)
に隅田堤{すみだづゝみ}をわかれしより。むかしかた気{ぎ}の正直{せうじき}一チ図{づ}
春日屋{かすがや}にいたり。由{よし}兵へが母{はゝ}妙貞{みやうてい}に事{こと}の|頭尾{しゞう}を物語{ものがた}り
おてるに離縁{りえん}のゆへよしをきかせ。直{たゞち}に旅仕{たびし}たくさせ
てともなひ出{いで}しほどに。お照{てる}は夢{ゆめ}にもしらぬ日{ひ}の
明暮{あけくれ}おつと{#夫}時{とき}次郎が身{み}のうへのみに女気{をんなぎ}の心{こゝろ}の
たけをつくしがた其{その}おりからに正右衛門が故郷{こきやう}へとも
ない|得往{いゆき}にければ。只{たゞ}せきあへぬ涙{なんだ}はあふれ。かはく暇{ひま}
なき両袖{もろそで}の。ぬるゝは秋{あき}の雨{あめ}ならで。女〻{めゝ}しき心{こゝろ}のつね

(5ウ)
なりけり。はや行徳{ぎやうとく}の引舟{ひきふね}もぼとなくつきて駕{かご}に*「ぼとなく」の濁点位置ママ
のみ。ゆられながらにこしかたを。思{おも}へばいとゞむねつぶれ
涙{なみだ}はぬぐひあへなきは。あわで別{わか}れの夫婦{ふうふ}のゑん。かく
浅{あさ}ましき契{ちぎ}りこそと。はなうちかみて。急{い■■}のみ。正右衛門は
おくれはせじと。駕{かご}につき添{そい}走{はし}る程{ほど}に。堤{つゝみ}にかゝるおりに
はや日{ひ}は暮{くれ}たれど舟{ふな}ばしの。宿{やど}りとおもひ定{さだ}めに
ければ。急{いそ}ぐ旅{たび}にはあらねども。夜{よ}の戌{いぬ}の刻{こく}斗{ばかり}にして
舟橋{ふなばし}の駅{ゑき}にいたり。油屋{あぶらや}灯四郎{ともしろう}とて往来{ゆきゝ}には此{この}家{や}に

(6オ)
宿{やど}りをもとめける程{ほど}に。こよいも爰{こゝ}に旅寝{たびね}せり。お照{てる}
は只{たゞ}うちしほれていたりければ。正右衛門は濡手拭{ぬれてぬぐひ}を
絞{しぼ}りつゝ【正】「サアお照{てる}湯{ゆ}に|這入{はいつ}てきやれ。格別{かくべつ}にくた
びれがぬくぞへ。」【てる】「アイわたしは駕{かご}にのりつめたゆゑ
くたびれはいたしませぬ。それに気{き}をもんだゆゑか。
とふも目{め}がわるくて。」【正】「そりやア大病{たいびやう}やんだあがりに
あんまり気{き}をもむからじや。モウ気{き}をおちつけて
居{ゐ}るがヱイぞや。やれ〳〵くたびれた。昼{ひる}はせきこんで

(6ウ)
よふ〳〵埓{らち}があいたらばがつかりした。」【おてる】「おまへさまも
あんまりごくろふなさらずに。あすはしづかにおいで
なさりませ。」【正】「ヲヽそふじやとも翌日{あす}の道{みち}は馬加{まくは}へ検見
川{けみがは}。登渡{のぶと}。寒川{かんがは}。曽我野{そがの}。浜{はま}の村{むら}。八幡{やわた}。それから五井{ごゐ}じや。
江戸{ゑど}からは十四里十八丁とは言{いへ}十五里じや。ほんに道連{みちづれ}に
なつた若{わか}い衆{しゆ}も爰{こゝ}の家{うち}へ泊{とま}りじやとて。風呂{ふろ}で逢{あつ}た
わい。」【おてる】「わづかなたびでも道{みち}づれと。わたしの世話{せは}をよふ
して下{くだ}さんした。」【正】「煙草{たばこ}の火{ひ}からなれやすく。つい爰{こゝ}迄{まで}

(7オ)
一ツ所{しよ}に来{き}たが。大{おゝ}きな声{こゑ}では言{いは}れぬが旅{たび}の道{みち}づれ
程{ほど}こわいものはない。」ト[はなしの内におもてのかたへあはたゝしく。いりきたる四五人づれの村やくにん]
「コリヤ灯{あか}四郎殿は居{お}られるか。刻限付{こくげんづけ}のおふれ{#触}がこざ
るて。年{とし}の頃{ころ}は二十五六。色{いろ}の白{しろ}イ中脊{ちうぜい}な町人{てうにん}名{な}は時{とき}
次郎と言{いふ}者{もの}じやげな。同国{どうこく}の御領主{ごりやうしゆ}よりきびしい
せんぎ。もちろん表向{おもてむき}ではなけれど。彼{かれ}めが居{お}らねば
大切{たいせつ}な御道具{をとうぐ}の行衛{ゆくゑ}がしれぬとか言{いふ}よふなこと。申
訳{もふしわけ}がないかして。今日{けふ}五百崎{いをざき}を出奔{しゆつほん}したとて。千葉家{ちばけ}の役

$(7ウ)
〈画中〉房州■道 上総領
泥蔵

$(8オ)
悪漢等{わるものら}利欲{りよく}に逼{せまつ}て
浅智{あさはか}の謀計{もくろみ}す
とび助

(8ウ)
人衆{やくにんしゆ}が御詮儀{こせんぎ}最中{さいちう}。心当{こゝろあた}りがござるなら。早速{さつそく}会所{くはいしよ}へ
知{し}らされヨ。隠{かく}し置{おか}は同罪{どうざい}との〔こと〕。今宵中{こよいぢう}には泊屋{とまりや}を
自身{じしん}に御詮義{ごせんぎ}。よふすによれば荷物{にもつ}まで改{あらため}て手掛{てかゞり}を
さがし出{だ}すと。きつと申|付{つけ}られた。そふ思{おも}ふて旅人衆{たひゞとしゆ}へ心{こゝろ}
を付{つけ}さつしやれ。灯{あか}四郎どの。」【灯】「かしこまりました。ソレはとん
だ事{〔こと〕}。どなたも御苦労{ごくろふ}でござります。」【村役】「イヤほんに翌日{あす}は寄
合{よりあい}早{はや}ふきて下{くだ}され。」【灯】「ハイかしこまりました。」【村役】「ヤレ〳〵いそがしい。」
ト[はかまのこしに羽{は}をりすそ引かけながら三四人|庄役{せうやく}ぶりのいかめしげに言捨{いゝすて}てこそ走{はし}り行{ゆく}。正右衛門は奥の間より斯と聞より小首{こくび}をかたふけ

(9オ)
たしかにそれとしれねどもどふやらよそのうはささへ心にかゝる時{とき}次郎]【正】「お照{てる}聞{きゝ}やつたか。今{いま}の噂{うはさ}名{な}から
年{とし}から人相{にんそう}迄{まで}。よくマア似{に}た者{もの}が有{ある}ものじやないか。去{さり}ながら
あのよふな義理{ぎり}も法{ほふ}もしらぬ由{よし}兵へ殿{どの}。めつそふな事{こと}仕
出{しだ}しはせぬか。子{こ}を見{み}る事{こと}は親{おや}には不及{しかず}と昔{むかし}から言{いふ}けれ共{ども}
そこが凡夫{ぼんふ}のあさましさ。憎{にく}い子{こ}程{ほど}可愛{かあいゝ}と子{こ}故{ゆへ}のやみに
迷{まよ}ふがならひ。世{よ}の中{なか}にたへて子{こ}のなきものならば。親{おや}の心{こゝろ}は
のどけからましと言{いふ}が。名言{めいごん}。おりやお主{ぬし}がつれ添{そふ}夫{おとこ}じやと思{おも}
へばこそ。大まいの金{かね}いれ揚{あげ}たも子{こ}が可愛{かあいゝ}と思{おも}ふばつかり。

(9ウ)
夫{それ}といふもあの時{とき}次郎が人{ひと}でなし。現在{げんざい}言号{いゝなづけ}のわぬし{#お主}を
置{おい}て廓通{くるはかよひ}契情{けいせい}めにうつゝぬかし。親{おや}に勘当{かんどふ}受{うけ}ながら五百
崎{いをさぎ}に佗{わひ}ずまひも。たれが蔭{かげ}じやと思{おも}ふやら。その契情{けいせい}めも*「五百崎{いをさぎ}」の濁点位置ママ
おのれが女房{にやうぼう}のそちにうけ出{だ}させ。小女子{こあま}迄{まで}がかんなん辛
苦{しんく}。人{ひと}でなしのおやの眼{め}にさへ叶{かな}はぬ奴{やつ}へ金{かね}入揚{いれあげ}ておりやモウ
恩{おん}には着{き}せぬが義理人情{ぎりにんじやう}をしるならば。あのよふなざまには
よふなるまい。其{その}人面獣心{にんめんじうしん}のやろふめにそいながら今日{けふ}迄{まで}も
貞女{ていじよ}を立{たて}るわぬしがふ便{ひん}さ。「あツア」おもへば〳〵契情{けいせい}遊女{ゆうじよ}に*「あツア」の括弧は原本ママ

(10オ)
情立{しやうだて}して親{おや}を捨{すて}家{いゑ}を捨{すて}。世{よ}の大切{たいせつ}な金銀{きんぎん}をつかいすてる
放蕩{ほうとう}もの。ナゼ天道{てんとう}さまは人間{にんげん}に生{むま}せて苦労{くろう}をさせ給ふ。いき
ながらの畜生道{ちくしやうとう}へ落{おち}たも同前{どうぜん}。トは言{いふ}ものゝ親{おや}の仕癖{しくせ}かわるい
から因果{いんぐわ}はみな子{こ}に報{むく}ふと思{おも}ふては気{き}をとり直{なを}しモシヤお
ぬしが気{き}やみでもしてひよんな〔こと〕でもあつてはと。こらへ〳〵て
居るおれが心{こゝろ}もしらず。由{よし}兵へどの今日{けふ}牛嶌{うしじま}で逢{あ}ふたればうつて
かはつた言葉{ことば}のやうす。モはらが立{たつ}まいか義理{きり}にもいわれぬ
言葉{ことば}のだん〳〵。くやしくつて喰{くい}しばる歯{は}はこのやうにない故{ゆへ}に。

(10ウ)
たつた二枚{にまい}の此{この}前歯{まへば}でおりやはぎしり喰{く}ふてわかれて直{すく}に
妙貞{みやうてい}どのへ咄{はな}しして埓{らち}明{あけ}てつれて来{き}た。おりやおゝかたあの
契情{けいせい}めにだまされて。すつほりおぬしを家出{いへで}させ本妻{ほんさい}に
いれる気{き}であらふと思{おも}ふている。ア由兵へどのが牛嶌{うしじま}のあたりう
ろつくわけはないが。てつきり時{とき}次郎めとくるの仕事{し〔こと〕}じや
あろふ■い。コレもふ〳〵すつはりおもひきるがヨイ。なんの泣{なく}事{〔こと〕}か
有{ある}ものか。おりやわぬしかふ便{びん}と思{おも}ふてみりやちつともかなしく
ないはづじや。」ト[言{いゝ}つゝほろり一トしづく落{おつ}るなみだは親{おや}のぢひむすめのこゝろくみわけてもそれとはみせぬ手拭{てぬぐひ}にそしらぬ顔{かを}をぬぐひつゝ]

(11オ)
「くよ〳〵思{おも}ふな。いつそあんなやつは今のお触{ふれ}のやうな身{み}の上{うへ}に
ならずは畳{たゝみ}の上{うへ}では死{し}なれまい。縁{えん}切{きつ}てみりやあかの他人{たにん}くよ〳〵
思{おも}ふな。病{やみ}あがり気をもんでさへ目かわるいと言{いふ}てはないか。又|煩{わつら}ひ
てもしてくれるなヨ。」ト[ほつと溜臭{ためいき}つきながら]「もふ今日{けふ}からは親{おや}がついて由{よし}兵へ*「溜臭」(ママ)
どのゝ面{つら}あてにもみん〔ごと〕かたづけて安楽{あんらく}に暮{くら}させる。心がけが
悪{わる}いゆへ春日屋{かすがや}の家{いゑ}も永持{なかもち}はない。由{よし}兵衛どのゝ女房{にようぼう}も非業{ひごう}の
死{しに}ざまするといふも。禍福{くはふく}は人のまねくところ。親{おや}子|共{とも}に人情{にんじやう}
しらずじやゆゑ。神{かみ}は見|通{どを}ししや。」[おてるはしゞうはなうちかみたゞせきあへぬ涙{なみだ}のみとゞめもあえず]

(11ウ)
【おてる】「そのよふに父{とゝ}さん言{いふ}ものてはござりません。道{みち}に背{そむく}と一{ひ}ト口に
言{いふ}てみりやもつともでもござりませうが。たとへ夫{をつと}はどふなりと
つれそふ心{こゝろ}は二ツ{ふたつ}はない。縁{えん}あればこそ夫婦{めうと}となり苦労{くろう}するのも
前世{さきのよ}からよく〳〵深{ふか}い約束{やくそく}〔ごと〕。今日{けふ}此|様{よふ}に来{く}るとても夫{をつと}の
手から去{さ}られたなら。これ程{ほど}かなしい〔こと〕はない。しうと同士{とうし}の離
縁{りえん}とは餘{あんま}りむごひ慈悲{じひ}しらず。せめて爰{こゝ}迄{まで}くる内うちにたつた一{い}ツ
へん逢{あい}たかつたわいナア。」ト[むねにこらへしなみだのせきはふり落{おと}して止{とゝ}めゑずわつとばかりになき出す。正右衛門は目{め}をしば
だゝき]【正】「今{いま}さら言{いふ}ても詮{せん}ない事{こと}。モウ思{おも}ひきつてなきやるナ。」ト[口{くち}にはいへど

(12オ)
心にはおやの心を子はしらず子の心おばくみわけてなくな〳〵といふ声{こゑ}もともにくもりてはら〳〵とたゞ涙{なみだ}のみ先{さき}だちけり]【おてる】「たとへわたしは
うちへ行{いつ}ても外{ほか}に夫{をつと}は夢{ゆめ}にも持{もち}ませぬ。」ト[おてるはしゞうせき上る泪{なみだ}をしぼるはながみの神{かみ}のおしへ
か心づきふろしきづゝみさぐりよりかた手{て}になみだおさへつゝ]【おてる】「ほんにとゝさんこの包{つゝみ}の中{なか}にひよつと
時{とき}次郎さんの名前{なまへ}でもあつて。御詮義{ごせんぎ}の手{て}がゝりとやら。人{ひと}
たがへでもかゝり合{あい}。おなじ名{な}なれば埓{らち}明{あく}まで。かて■くわへて
苦労{くろう}する程{ほど}に。よふあらためて下{くだ}さりまし。わたしは目{め}が
どふもはつきりせぬゆゑに。ちやつと見{み}ておいてくださりまし。」
【正】「ヲヽよく気{き}が付{つい}た。時{とき}次郎と聞{きい}てはおなじ名{な}である故{ゆへ}そうじや

(12ウ)
〳〵。」ト[ふろしきづゝみとく〳〵とおや子がともにあんどうをかき立{たて}てみる手{て}ばこのうち]【おてる】「ア■モウもしや時{とき}次郎さんか
おみの上{うへ}にむしつの罪{つみ}でもありやせまいかいナア。」【正】「なんであろふと
かまいはせぬ。モウよいかげんにおもいきりやれ。」【おてる】「ほんにさつき
おばゞさんが。さむさにむかつて風{かせ}でもひきやんな。ぢびやうが
起{おこ}つたならあい薬{ぐすり}のまきや薬{ぐすり}。手{て}ばこへ入{いれ}ておく程{ほど}に気{き}を
つけて呑{のむ}がよいとおつしやつたが。」【正】「ヲヽその実母散{じつぼさん}はこれて
あろふ。だいぶ包紙{つゝみがみ}がしめつて居{ゐ}るわい。大{おゝ}かたわかれの涙{なみだ}でか。」ト
[あと言{いゝ}さして正右衛門がおもはずほろりと一トしづく]【おてる】「おばゝさまのなみだ。ヱヽモウもつたいない。」ト[むせかへり

(13オ)
そでにかほをおしあてゝ]「わたしがながい病気{びやうき}のうちも。あのマアお年{とし}よりが。
夜{よ}のめもろく〳〵およらずに。よとぎなさるおいとしさ。マアどふ
してあのよふに看病{かんびやう}して下さるお方{かた}がござりませう。介抱{かいほう}
するはあちらこちら。それにマア病身{びやうしん}のわたしが御苦労{ごくろう}掛{かけ}て
逆{さか}さまなおせ話{わ}になりしのみならず。御恩{ごをん}もおくらず此{この}よふに
おわかれ申。お年{とし}のうへで御苦労{ごくろう}をなさると思{おも}へばおいとしい。思{おも}へ
ば〳〵かなしふござります。」ト[しゞうなみだはかはく間{ま}なし]【正】「コレ灸{きう}が入{いれ}てある。こんな
ものいれておかずとおけばよいに。」【おてる】「サそれもやつはりおばゞさま。

(13ウ)
小網町{こあみてう}のはあつくないから。是{これ}迄{まで}のよふにうちへいつても毎|月{げつ}
すゑて貰{もら}ふがよいと火鉢{ひばち}の引出{ひきだ}しからお出{だ}しなさつたが。目{め}に
みへるよふでヱヽもふかなしい〔こと〕ばつかり。」今宵{こよひ}はさぞおさむしふ*「かなしい〔こと〕ばつかり」は原本に閉括弧あり
ござりませう。今{いま}じぶんはお床{とこ}を敷{しい}て夜着{よぎ}を掛{かけ}て上{あげ}ると廻{まは}りを
よくマア押付{をしつけ}て猫{ねこ}の|這入{はいら}ぬよふにしてお枕{まくら}もとへ煙草{たばこ}のお火{ひ}
いれて上{あげ}る人{ひと}もない。さだめし泣{ない}てばつかりお出{いで}なさりやう。煙草
盆{たばこぼん}斗{ばかり}じやない。うち中{ぢう}火{ひ}のきえてあるよふなが。みらるゝやうで
おいとしい。」ト[ぐちなおんなの一筋{ひとすじ}におやおつとをのみ大切{たいせつ}と思ふ心のいやまさるまごゝろみへて哀{あは}れ也]【正】「コリヤ正右衛門|殿{どの}へ

(14オ)
由{よし}兵へ。」【おてる】「そりや手紙でござんすか。」【正】「それのみか。ヲヽヽヽ爰{こゝ}に
包{つゝみ}はこりや何{なに}やらコリヤこれ正|金{きん}小粒{こつぶ}で百両。」ト[言口へ手をあてゝ]「是{これ}は
したり何{なに}か子細{しさい}の有{あり}さふな。」【おてる】「ヱヽそんならそのマア手紙を
みて下{くだ}さりまし。ヱヽマアおりわるいこよいは眼{め}が不自由{ふじゆう}でモウ
心{こゝろ}がせく。はやふよんで下{くだ}さりまし。」ト[さぐるおてるに正右衛門があきれはてゝも心ならす封をし切{きり}て]
【正】「ナニ〳〵。以手紙申入候。悴{せかれ}時{とき}次郎|義{ぎ}言語同断{ごんごどうだん}の不届{ふとゞき}ニ付
勘当{かんだう}いたし候処御|厚情{こうせい}御世話{をんせは}|被成下{なしくだされ}候よし。誠{ま〔こと〕}ニ難有{ありがたき}仕
合{しあはせに}奉存候。是{これ}とても世間{せけん}外聞{くはいぶん}旁{かた〴〵}亦{また}当人{たうにん}懲{こら}しめの為{ため}と

(14ウ)
大体{たいていに}仕候。且{かつ}おてる儀も日にまし全|快{くはい}仕|此{この}節{せつ}は丈夫{せうぶ}に
相成{あいなり}申候間御安|慮{りよ}|可被下{くたさるべく}候。然{しか}る処{ところ}拙者{せつしや}見{み}世にて千葉
家{ちはけ}より内〻{ない〳〵}預{あづか}り置{をき}候|一{い}チ軸{ぢく}御座{こざ}候を手代ども役人{やくにん}と
同意{どうゐ}にてひそかに盗{ぬす}み出{いだ}し。難題{なんだい}申|掛{かけ}候には。時{とき}次郎
放蕩{ほうとふ}ゆゑ盗出{ぬすみいだ}し候様にも風聞{ふうぶん}是{これ}ある間{あいだ}。彼{かれ}を召捕{めしとらへ}
急度{きつと}詮儀{せんぎ}いたすへき段{だん}。申され候。愚案{ぐあん}には私{わたくし}の意恨{いこん}
にても|可有之{これあるへく}よふにも相聞{あいきこへ}候。兎{と}も角{かく}もさし掛{かゝ}り時{とき}次郎
難渋{なんじう}にも相掛{あいかゝり}候間たとへ勘当{かんだう}いたし置{をき}候とも不便{ふびん}に存{ぞんし}

(15オ)
其|御許{をんもと}へつかはし候。もつともおてる儀{き}も送{をく}り遣{つかはし}候間
御預{をんあづか}り置{をき}|可被下{くださるべく}候。左{さ}候へば拙者{せつしや}一存{いちぞん}にて相済{あいすま}せ|可申{もふすへく}と
奉存候。右{みぎ}一件{いつけん}片付{かたづき}次第{しだい}早〻{そう〳〵}迎{むかひ}|可差上{さしあぐべく}候。其{その}御地{をんち}は
千葉家{ちばけ}御領分{ごりやうぶん}間近{まぢか}に候間|灯台{とうたい}却{かへつ}てもとくらき
たとへにて。わづかの間{あいだ}のかくれ家{が}と奉存候間|然{しか}るべく
御取斗{をんとりはからひ}なんぶん〳〵|奉希上{こいねがいあげたてまつり}候。すなはち金子{きんす}百両{ひやくりやう}は
彼等{かれら}二人|当時{とふぶん}の入用{いりよう}に御遣{をんつか}イ|可被下{くださるべく}候。極印{ごくいん}は春日{かすが}と
しるし御座{ござ}候。いさゐは跡{あと}よりくはしく可申入候。先{まづ}者{は}

(15ウ)
右{みぎ}之{の}段{だん}御|頼{たの}み申上度|早〻{さう〳〵}如此{かくのことく}御座候。謹言{きんげん}。」【正】「さては由
兵衛{よしべゑ}どのはかねて二人{ふたり}を送{をく}らせて預{あづけ}る心{こゝろ}で有{あつ}たか。|今日{けふ}
牛嶌{うしじま}で逢{あは}ずは直{なを}二人に道{みち}で行違{ゆきちが}ふ。くわきうの密
事{みつじ}ゆゑにわざとあかさぬ心{こゝろ}のそこ。あいそのつきた
一チ言{ごん}は人めもあれば餘所{よそ}ながら二人をたのむと言{いふ}当
言{あて〔こと〕}。そふいふ訳{わけ}であつたよな。」ト[おもはず小{こ}ひざをはたとうちおや子はかほを見合てしばしあきれて
いたりけり]【おてる】「そんならそふいふお心{こゝろ}では。なを〳〵わたしが身{み}が
立{たち}ませぬ。夫{をつと}を他国{たこく}へ落{をと}しても。跡{あと}に残{のこ}りておふたりの

(16オ)
介抱{かいほう}するが女房{にやうぼ}の役{やく}。どれ程{ほど}なんぎがかゝるとも子{こ}の身{み}
でおやに御難儀{ごなんぎ}かけこふしてどふして居{ゐ}らりやふぞヱ。
コリヤマアどふせう。どふしたらよかろふぞへ。」ト[うろ〳〵ととにもかくにも先{さき}だつは
なみだよりほかなかりけり]【正】「コリヤもの音{をと}高{たか}し。かべに耳{みゝ}あり垣{かき}に目{め}あり。
其{その}くり言{こと}はいまさらに百{もゝ}たび言{いふ}ともかへらぬ事{〔こと〕}。それと
しらねば逆{さか}うらみ。人{ひと}の娘{むすめ}に苦労{くろう}もさせじ。わが子{こ}も不
便{ふびん}と思{おも}ふゆゑ。身{み}ぬけをさする今日{けふ}のしぎ。大方{おゝかた}こふいふ
事{こと}でもあろふと思{おも}ひつかぬがこつちのあさはか。去{さり}とて

(16ウ)
子{こ}として親{おや}をすて難儀{なんぎ}を掛{かけ}るは道{みち}でなし。只{たゞ}是{これ}おやの
情欲{じやうよく}のみ。親{おや}の難義{なんぎ}に子{こ}のかわるは是{これ}世{よ}の人{ひと}の常{つね}なるに。
おや子{こ}の愛情{あいじやう}なればとて。時{とき}次郎めが動{うご}かずに事{こと}のあかし{#証}
の立{たつ}までは。おやに替{かは}つて居{ゐ}ればよし。もし五井{ごゐ}までもくる
ならば途中{とちう}で縄目{なはめ}に逢{あ}ふならん。うへなき親子{おやこ}の恥辱{ちじよく}也。
そんなら最前{さいぜん}のお触{ふれ}はまさしく時{とき}次郎が。心{こゝろ}ならぬわい。
コリヤどふもむねがわく〳〵としてヱヽこよいこの宿{しゆく}にでも
うか〳〵と泊{とま}りはせまいか。」【おてる】「サイナもしやこよい此{この}へんに

(17オ)
こふいふきびしい御詮儀{ごせんぎ}としらずに泊{とまつ}て捕{とら}へられさし
やんしても。ひとめお顔{かほ}を見{み}る事{こと}さへもならぬ此とり眼{め}。どふ
したらよからふぞい。」ト[おてるがむねのとつおいつ正右衛門がむねもどき〳〵立{たつ}つ居{い}つ。にわかに心{こゝろ}おどりたつおや子がむねの
うちとの手|前{まへ}こゑさへ立{たて}ぬひそ〳〵ばなしむざんといふもおろかなり]【正】「今宵{こよい}夜{よ}のあけるのが待{まち}
どをしい。はやふ夜{よ}が明{あけ}ればよい。」【おてる】「わたしもむねが落付{おちつ}かぬ。
お祖師{そし}さま大師{だいし}さま。どふぞこよいのうち夫{おつと}の身{み}のうへ
つゝがなくおまもりなされて下{くだ}さりまし。それにまア眼{め}の
不自由{ふじゆう}。てんとふさまお月{つき}さま。はやふ夜{よ}をあけて噂{うはさ}が

(17ウ)
聞{きゝ}たい便{たより}が。」と[人にはつげのさしぐしも。みだれておつるびんの髪{かみ}結{むすふ}のえんは浅{あさ}からぬ夜深{よふか}になれば。あたりもしづまり正右衛門は
おてるをなだめ]【正】「てつきりよふすの有{あ}る〔こと〕とは。思{おも}ふては居{ゐ}たけれど。
是{これ}程{ほど}までの事{〔こと〕}であろふとは思{おも}ひよらぬ。夜{よ}のあけるが
待{まち}どしい。去{さり}とてもはや丑{うし}みつ頃{ごろ}。夜{よ}明{あく}るまではもふ二時{ふたとき}の
しんぼうじや。マヽ爰{こゝ}へしばしは寝{ね}ころはいて。とても寝ら
れぬとはいふても。みなこれ|傍辺{あたり}へ憚{はゞかり}有{あり}。旅{たひ}の宿{やど}りは殊更{〔こと〕さら}
に。よしなき事{こと}をも言{いは}ぬめり。しばしの夢{ゆめ}はむすばずとも。
一ト先{ひとまづ}爰{こゝ}へ。」とおや子|連{づれ}ひそまる頃{ころ}は八ツの鐘{かね}。コウ〳〵として

(18オ)
響{ひゞ}きにける。しらねば心にかゝらねども今{いま}さらしつて
気{き}にかゝる。金{かね}を財布{さいふ}に押{をし}くるみ。正右衛門が首{くひ}に掛{か}けてぞ
うちふしぬ。此{この}時{とき}すでにあんどふの油{あぶら}は尽{つき}てともし火{び}は。
さつと吹入{ふきゐ}る北向{きたむき}のまどの風{かぜ}にて消{きえ}たりける。「斯{かく}て夜{よ}は早{はや}*「斯て」の前に、開括弧のような記号
|八ツ満{うしみつ}の鐘{かね}交〻{かう〳〵}と更{ふけ}ゆけば。|あたり{#近辺}は物音{ものをと}暫{しばらく}絶{た}へて。
おも屋{や}の方{かた}にグワラ〳〵と鼠{ねづみ}の走{はし}る音{をと}の聞{きこ}へていびき
の声{こゑ}のみ高{たか}かりける。折{をり}こそよしとや思{おも}ひにけん。彼{かの}正
右衛門とおてるが臥{ふし}たる座舗{でゐ}の障子{しやうじ}をそと押明{をしあけ}しのひ

(18ウ)
足{あし}して入来{いりく}る音{をと}。枕{まくら}にひゞきて聞{きこ}へしかば正右衛門はとつ
おいつ。うち案事{あんじ}つゝ寝{ね}もやらで咳{しはぶき}しつゝすかし見{み}るに。
一個{ひとり}の男{をとこ}枕{まくら}べに氷{こほり}のごとき白刃{しらは}を引提{ひつさげ}立{たつ}たるは。昼{ひる}行徳{ぎやうとく}
より道{みち}づれにて。此{この}家{や}へ泊{とま}りし旅人{たびゞと}なり。抑{そも}こはいかにと
驚{おどろ}きてやをら起{をき}んとする程{ほど}に。行灯{あんどふ}の油{あぶら}は尽{つき}て土器{かはらけ}へ
灯心{とうしん}半{なかば}もへ入ければ。明{あか}るくなりては闇{くら}くなり。すでに消{きゆ}
べき折{をり}なりけん。正右衛門が身{み}を起{をこ}し。脇差{わきざし}取{と}らんとする
程{ほど}に其{その}響{ひゞき}にやゆれたりけん。あかしは消{きえ}て鵜羽玉{うばたま}の

(19オ)
間路{あいろ}もしれぬ闇{やみ}とはなりぬ。彼{かの}くせものは声{こへ}ひくゝして
「コリヤ旅{たびゞよ}の人{ひと}。声{こへ}ふし立{たて}ればたつた一ト打{ひとうち}。足{あし}よはつれた年
寄{としより}の旅{たび}は道連{みちづれ}世{よ}は情{なさけ}。今日{けふ}行徳{ぎやうとく}の堤{つゝみ}から。駕{かご}に付{つけ}たる
風呂敷{ふろしき}の中{なか}にはたしかに正金{せうきん}で七八十|両{りやう}有{あり}と言{いふ}。重{おも}み
を見{み}たから付込{つけこ}んで。今宵{こよい}泊{とま}りの一{ひ}ト仕事{し〔ごと〕}。どふぞわしに
貸{かし}て下{くだ}せへ。イヤサいやといつたら気{き}の毒{どく}だがこなたの命{いのち}
は此{この}行灯{あんどふ}てうどなくなる油屋{あぶらや}の燃残{もへのこ}りたる灯心{とうしん}より
細{ほそ}いのど首{くび}ぐつすりと。畳{たゝみ}へかけてお暇{いとま}ごい。娘{むすめ}をつれて

(19ウ)
冥土{めいど}の旅立{たびだち}。相宿{あいやど}なしの|二ア人{ふたあり}もこふ言{いふ}ときは又{また}はなせる。
どふでもそつちの了簡{りやうけん}だ。性根{しやうね}を極{きは}めて返答{へんとふ}しやれサ。」
ト[いへば正右衛門さすがに老人ちつともさはがす]【正】「ヲヽ貸{かし}てしんぜませう。命{いのち}有{あつ}ての世{よ}の
中{なか}に首{くび}を元金{もとで}のあらかせぎ。見掛{みかけ}て無心{むしん}言{いは}れちやアわしも
いやとは言{いゝ}ますめへが。闇{くら}さはくらし手{て}さぐりに。」【どろぼう】「風呂敷
包{ふろしきづゝみ}を取{とる}うちは刃{やいば}を引{ひけ}と言{いふ}〔こと〕か。」【正】「いかにもその手{て}を。」ト[いひながら
たばこぼんの火入{ひいれ}をさいぜんより引{ひき}よせて声{こへ}をしるべにうち付{つけ}る。此{この}間{ま}ニおてるは外{と}のかたへさぐり出{いづ}れば正右衛門は胴{どう}まき引{ひき}さげ椽{えん}がわへのがれ出{いで}ん
とするおりしも。かのくせものは一トつかみの灰{はい}めつぶしにうたれにければ思{おも}ひがけざるくらまぎれに。立{たち}ろぎながら切掛{きりかゝ}るを。身{み}をひるがへす正右衛門が持{もつ}たる

(20オ)
胴{とう}まきなかばより切ておとせばばら〴〵と目にはみへねど山吹{やまふき}の花{はな}吹{ふき}ちらす〔ごと〕くにや。以前{いぜん}の黄金{こがね}は蒔{まき}ちらせり。おりからさつと村雨{むらさめ}のかゝるべきとは露{つゆ}しらで。
かの泥蔵{どろぞう}と飛助{とびすけ}は。宵{よひ}のまぎれに脊戸口{せどぐち}より忍{しの}び入{いつ}たることなればうかごふ折{をり}に此{この}ものおとあわて逃{にげ}んとする程{ほど}に。かのくせものは泥蔵を正右衛門とや思{おも}ひけん。
つとさし出{いだ}すきつさきに。びつくりしてやのけさまに。雨戸{あまど}へたをれかゝりにけん。戸{と}は表{おもて}へぞおちたりけり。おてるは庭{には}にまろび出{いで}。にげんとするをとび助は。手{て}ばやく
とらへのしかゝりて。ものないわせず手拭{てぬぐひ}もて。さるぐつわとか言{いふ}如{〔ごと〕}く。口{くち}をふさぎてよふゐの縄{なわ}。さとおしのばしてむざんにも。おてるをたか手{て}こてにいましめ。よこさまに
いだきてゆかんとするところを。泥蔵ゑたりとおいゆきて。かの旅{たび}かごにやにはにのせ。うみべをはるかにはしりさる]「月{つき}は出{いで}ても道{みち}*「月は出ても」の前に開括弧のような記号
くらく。雲{くも}あしはやき空のかぜ。暫{しばら}くおゝふむらくもに
行{ゆく}さきさへも朧{おぼろ}にて見{み}へわかぬをも物{もの}ともせず。いきつき
あへずあへぎ〳〵泥蔵{どろぞう}どび助|二個{ふたり}の破落{わるもの}。宿{しゆく}はづれ迄{まで}

(20ウ)
走{は}しりにければ【泥】「とび助むまくいつたぜ。」【とび】「いめへましい
雨{あめ}だ。すべつておへねへ。もふ追かけても大丈夫{だいぜうぶ}だ。」【泥】「案{あん}にたがはぬ
ごまのはい。てふど仕事{し〔ごと〕}をする処{ところ}を。あやふくやつたがこつ
ちのさいわい。」【とび】「あのどさくさでこの女{あま}の行衛{ゆくゑ}をたづねる
気{き}はまだ付{つく}めへ。」【泥】「此{この}間{ま}にいそいで。」【とび】「がつてんだ。」ト[ゆかふとしたるおりこそよ
けれかごの棒{ぼう}ばな突掛{つきかけ}るをしつかりおさへてたび人が]【旅】「こいつらア目{め}をあいて通{とを}りやア
がれ。このひろい往還{みちなか}をたつた|一ト人{ひとり}の旅人{たびゞと}へなぜ突掛{つきかけ}て
だまつて行{ゆく}のだ。」【泥】「いそいで行{ゆく}で突{つき}かけた。了簡{りやうけん}するが

(21オ)
いゝじやアねへか。」【たび人】「いゝじやアねへかたアなんのこつた。」「何
のこつたもすさまじい。」【たび】「うぬ多話事{たは〔こと〕}を。」ト[どろぞうがむなくらをと■]
【泥】「こりやアおれをどふするのだ。この街道{かいどう}て名{な}のしれた
青天井{あをてんぜう}の沼田{ぬまた}の泥蔵{どろぞう}。三千世界{さんぜんせかい}を宿{やど}にして。風次第{かぜしだい}で
ゆく雲助{くもすけ}。だ。口{くち}かずたゝけばはり付{つけ}るぞ。」【とび】「これさ泥蔵{どろぞう}。
いそぎの駕{かご}だ。あやまつて早{はや}くゆくのがこつちの勝
手{かつて}た。せうはいにまけてはやくやれ。モシだんなわたし共{ども}
はいそぎのもの。それゆゑ向{むか}ふ見{み}ずについあたりました。

$(21ウ)
おてる
親子{おやこ}
はたごやに
きなんに
あふところ
正右エ門
泥蔵

$(22オ)
とび助
おてる

(22ウ)
とかく当{あた}るはゑんぎもよし。どうぞ御了簡{ごりやうけん}なさつて
下{くだ}さりまし。泥蔵{どろぞう}はやくお侘{わび}申シヤ。」【泥】「ヲヽそふだ。手間
取{てまとつ}ていられねへ。お客{きやく}をのせております。ついうり言葉{ことば}にかい
言葉{ことば}。モシ旦那{だんな}お気{き}に当{あた}りましたら。御勘弁{ごかんべん}なさつて
下{くだ}さりまし。」【たび】「そふいやアりやうけんも出来{でき}るがそつち
も急{いそ}げばこつちもいそぐ。ちつとも手間{てま}はとられねへか。
駕{かこ}の中{なか}に乗{のつ}て居{ゐ}るやつも奴{やつ}だ。ナセそれ程{ほど}の急{いそぎ}なら。
そのよふに一ト言{ひとこと}なんとか挨拶{あいさつ}しねへ。おしかつんぼか病

(23オ)
人{びやうにん}か。アヽ聞{きこ}へた。此{この}近辺{きんへん}の水{みづ}のみ百姓{びやくしやう}ゆふべ死{しん}での吊{とむら}ひが
むづかしいから夜{よ}のうちに。寺{てら}へやる気{き}の向{むか}ひかご。そん
なら施主{せしゆ}がおくれたのか。」ト[かのたび人はちやうちんをさし出{だ}して。みる四ツでかご某{たれ}の下{した}より見覚{みおぼへ}の
小袖の褄{つま}はたしかに女と。つか〳〵よつておしあけるをそうはさせじとふたりのかごかき。引とゞむるをおしへだて。引まくつてちやうちんの
あかりにみれば。いたましくもくゝしあげたるおんなのありさま。たび人はびつくりして]【旅】「たしかにあなたは
おてるさま。」ト[いわれておてるは目をひらきかほと顔{かほ}とはあはすれどものは言{いは}れぬさるぐつは]【たび人】「ヱヽこいつ
らアし〔ごと〕をする気{き}でこのよふに。」ト[やにはに泥蔵ねじたおしふみのめさんとする所を
とび助いき杖{づえ}ふりあげて【とび】「おいらが仕㕝{し〔ごと〕}の邪广{じやま}する旅人{たびゞと}。」【泥】「たゝんで

(23ウ)
しまへ。」ト二人ともうつてかゝるを身{み}をかはせば。うち込いきづえ両方より。あいうちになる泥蔵とび助。かの旅{たび}人はうでくびをとらへてまへに
おしふせて。また立{たち}かゝる壱人を。向{むか}ふの深田{ふかだ}へなげこんだり。この間{ま}に下{した}の泥蔵がねぢられながらたび人を。押{をし}かへさんとするはづみに。もんどり打{うつ}
てわれながらあをむけさまに田{た}の中{なか}へまつさかさまに落{おち}たりけり。たび人はおてるが口のてぬぐひといましめられしなわをとき。かごより出せばいきつき
あへず【おてる】「そなたはたしか長五郎どの。よいところへきて下{くだ}さん
した。」【長】「おてるさまはどふして爰{こゝ}へ。」【おてる】「きのふおもはずとゝさまが。」
【長】「其{その}よふすはのこらずぞんじております。夫{それ}ゆへ夜{よ}どをし
私{わたくし}が追欠{おつかけ}て来{く}るは若旦那{わかだんな}の行衛{ゆくゑ}も心{こゝろ}もとないゆゑ。
それのみならずおまへさまの御安否{ごあんひ}を、聞{きか}ふと思{おも}つて

(24オ)
此{この}宿{しゆく}に泊{とまり}ましたが。斯{かう}ゆふわけでござるのは。ゆふべの泊{とまり}をつけ
こんであのかごかきめらが。ヱヽにつくいやつ。」【おてる】「サアとまると
わたしはとりめとやら。今{いま}迄{ゝで}見{み}へずにいたゆへにたしかとゝ
さんは跡{あと}にのこつておいでなさんすが。とふぞくめにたばか
られすでにあやうい。くら紛{まぎ}れ。さぐりながら庭{には}へ出{で}ると
思{おも}ふと其{その}儘{まゝ}あのふたりが。」【長】「そんなら正右衛門さまはその
旅籠屋{はたごや}にか。ヱヽ心{こゝろ}もとない。ちつとも早{はや}く。サアおてる〔さま〕。」ト
[ゆかんとすれば向{むか}ふよりいきつきあへず。正右衛門はしり来{きた}りて二{ふ}タ人{り}をみて]【正】「おてるか。」【おてる】「とゝさんけがばし

(24ウ)
さんせでつゝがなく。」【長】「さいわいわつちが来{き}かゝつておまへ〔さま〕
のお身{み}のうへ案{あん}じられたりや。」【正】「聞{きい}て下{くだ}され。マヽ娘{むすめ}が身{み}
ぶんに怪我{けが}ばしなくば。」【おてる】「わたしはおりよく長五郎どのに。」【正】「行{ゆき}あふたればもふあんど。あの泥坊{どろぼう}めはさわぎに紛{まぎ}れ
落{おち}ちつてある金{かね}をつかんで行方{ゆきがた}しれず。油屋{あぶらや}の内{うち}は
うへをしたへと大忩{おゝそう}どふ。」【長】「そんなら金{かね}をのこりなく。」【正】「いゝ
や半分{はんぶん}斗{ばかり}は手{て}にのこつた。」【おてる】「とられさんした五十両。」【正】「春日{かすが}
と極印{こくいん}うつてあれば。」【長】「せんぎの手づるはありなから。」【おてる】「かく

(25オ)
まいたいは時{とき}次郎さま。」【正】「それさへせけんはゞかる身{み}の上{うへ}。」
【長】「そんなら金{かね}の盗{とう}ぞくを詮義{せんぎ}だて。」【おてる】「する日{ひ}になればやつ
ぱりこつちも。」【正】「身{み}から出{で}たさび。」【長】「きられぬ縁{えん}。」【正】「ひと先{まづ}
爰{こゝ}を。」【おてる】「早{はや}ふ往{ゐ}て。」【長】「若{わか}だんなを忍{しの}ばせ申{もふ}し。」【三人】「そうじや。」ト
三人{さんにん}立上{たちあが}るを。泥蔵{どろぞう}とび助|左右{ひだりみぎ}。【泥】「最前{さいぜん}からよふすは
のこらず。」【とび】「かつち゜やがんで聞{きい}て居{ゐ}た。」【泥】「お尋{たづね}ものゝ時次郎に
ゆかりのやつらア引{ひつ}くゝり。」【とび】「千葉{ちば}の役所{やくしよ}へ引{ひい}てゆく。」ト
[かゝるを手{て}ばやく長五郎二タ人を見事{み〔ごと〕}になげのけて]【長】「爰{こゝ}かまはずとちつとも早{はや}く。」【正てる】「あの

(25ウ)
油屋{あぶらや}まで。」【長】「いそいでごんせ。」【あけのかね】「ゴウン。」【にはとりのこへ】「コケツコウ[引]。」
彼{かの}盗賊{とうぞく}と時{とき}次郎が畢竟{ひつきやう}ゆくすへいかにかならん。且{かつ}下
回{かくはい}の文{ぶん}解に聞{きく}べし。
○今年{ことし}は去年{こぞ}に数{かず}そひて拙|作{さく}の草紙{そうし}多{おゝ}きゆへ反古{ほご}に
しるせし稿本{したがき}を浄書{ひつかうかき}の人{ひと}にゆだねしが二巻{にさつ}ならんと思{おも}ひし
文段{もんだん}はからず三冊{みとぢ}に満{みて}しかばやむ〔こと〕を得{ゑ}ず出販{うりだし}候。
下回{かくわい}は追加{つひが}に御覧{ごらん}にいれ候。
明烏{あけがらす}後正夢{のちのまさゆめ}三編{さんべん}下{け}之巻終


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底本:東京大学文学部国語研究室蔵本(4L:95:3)
23丁表~24丁裏は原本落丁のため、早稲田大学所蔵の別本(ヘ13 02909 0004)により補った。
翻字担当者:梁誠允、矢澤由紀、島田遼、銭谷真人
更新履歴:
2017年7月26日公開

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